「2024年を振り返る」の第2弾です。
■主体的・朝鮮式共産主義の核心探究をテーマとして優先的に取り上げてきた2024年
2024年も朝鮮民主主義人民共和国(共和国)では、キム・ジョンウン同志の指導下、大きく躍動しました。「地方発展20×10政策」を筆頭とする人民生活向上のための国内政策、水害対策に見られた人民的な施政、「包括的戦略パートナーシップ条約」が示す歴史的な朝ロ接近、国歌の歌詞までも改訂した北南関係の根本的転換・・・これらはいずれも共和国の十年二十年先を見通すにあたって一つとして外すことのできないテーマです。
しかし今年当ブログは、それらはそこそこに、主体的・朝鮮式共産主義の核心を探究すべく、このテーマを取り上げてきました。北南関係の根本的転換があったとはいえ、依然として共和国が共和国である最も重要な要素は、チュチェ思想を基礎として社会主義・共産主義を展望するところにあると考えるからです。社会主義・共産主義を国是・ビジョンとして掲げるからこそ人民大衆を組織化し国家的に動員することができます。キム・ジョンウン同志が最高指導者に就いてから共和国では、社会主義企業責任管理制と甫田担当責任制が導入され、従来の大安の事業体系と青山里方法は取りやめになりました。これはかなり大きな転換です。これらの新しい政策が如何なる意図により行われており、そして如何なる効果をもたらすのかを考えるには、これら具体的政策の根本にあるはずの国是・ビジョンをしっかりと把握する必要があると考えます。
また、以前から申し述べているとおり、共和国は当ブログ管理者にとって掛け替えのない存在ですが生活の本拠は日本にあるので、当ブログの主たる関心と目的は、「日本の自主化」にあります。チュチェ思想に基づく社会主義・共産主義運動は、日本の自主化を目指すにあたって指針として大いに参考になるものと考えています。かつてキム・ジョンイル同志が「車はエンジンをかけなければ走らないように、人間も思想にエンジンがかからなければ目的を遂げることはできない」と仰いましたが、社会主義・共産主義運動は高度に目的意識的な運動なので、その思想的本質を正確に把握することは極めて重要なのです。
前述のとおり、今年の出来事は共和国の十年二十年先を見通すにあたって一つとして外すことのできないテーマです。本来であればすべてについて等しく取り上げるべきでしたが、残念ながら事情より満足に記事編集できない日が続いてしまいました。乏しい編集余力を何に優先的に割くべきか考えたとき、上述のとおり、具体的政策の根本にあるはずの国是・ビジョンをしっかりと把握する必要性、及び日本の自主化を目指すにあたって指針を思想的に把握することが優先的であると考えたため、主体的・朝鮮式共産主義の核心探究をしてきたわけです。
■社会主義そのものの変革
2月7日づけ「共和国の経済人事と社会主義そのものの革新について」は、朝鮮労働党中央委員会総会及び最高人民会議で決定された組織問題(人事異動)を取り上げつつ共和国の経済政策の布陣について推察する記事でしたが、この中で社会主義社会について「競争の結果にかかわらず等しく分け与える悪平等の制度と見做すのは間違い」と断言する朝鮮総聯機関紙『朝鮮新報』のコラム≪메아리≫(1月17日づけ)を取り上げました。また、「全国の均衡的同時発展が画一化を意味しない」とする2月1日づけ同コラムも取り上げました。
当該記事でも書いたとおり、朝鮮総聯が朝鮮民主主義人民共和国と朝鮮式社会主義を支持していることは、彼ら自身がアイデンティティとして言明しているとおり一寸の疑いもないことです。そうした組織の機関紙が、おそらく本国の承認があってしたためたと思われる当該コラムは、朝鮮民主主義人民共和国政府の立場であると言ってよいでしょう。すなわち、ともに手を取りつつ競う集団主義的競争を社会主義建設の有力な推進力としつつ、分権制というと語弊があるが中央集権一辺倒とも異なる革命的大衆路線の現代的形態が展開されているわけです。朝鮮民主主義人民共和国において社会主義そのものの革新が続いていると言えるだろうと書きました。
では、このような社会主義そのものの変革は、さらに思想的に追究したとき、どのような本質に基づいているものなのでしょうか? 当ブログでは6月14日づけ記事及び7月8日づけ記事を通して考えました。
■ついに自らを現代共産主義運動の指導者であると宣言なさったキム・ジョンウン同志
6月14日づけ「元帥様が自らを現代共産主義運動の指導者であると宣言なさった朝鮮労働党中央幹部学校の開校式」では、朝鮮労働党中央幹部学校の開校式において、マルクスとレーニンの肖像画を背景にしたキム・ジョンウン同志の現地指導の様子を写真に収めた朝鮮中央通信配信記事、及び「式は、歌「インターナショナル」の奏楽で終わった」と明記した同記事を取り上げました。
記事を成立させるためには、何もマルクス・レーニンの肖像画を写真に写り込ませる必要はなく、そもそもマルクス・レーニンの肖像画を朝鮮労働党中央幹部学校に掲示する必要も絶対的ではありません。意味があるから掲示しており、意図があるから写真に写り込ませているわけです。「インターナショナル」も絶対に演奏しなければならない曲ではありません。たしかに諸々の中央報告大会などでは「インターナショナル」が演奏されることは多々ありましたが、共産党党歌であったソ連とは異なり絶対欠かせないというほどの曲ではありません。まして、言及しなければ記事が成立しないほどのことではありません。これも意味と意図があっての演奏・記載です。
6月14日づけ記事では、キム・ジョンウン同志の肖像画がキム・イルソン同志及びキム・ジョンイル同志の肖像画と並んで掲示されるようになったことに言及しつつ「先代首領たちに元帥様が並ばれたことに今回の朝鮮労働党中央幹部学校の開校式を関連づけるとすれば、マルクスとレーニンの肖像画を党中央幹部学校の校舎に掲げたことを内外に示し開校式を「インターナショナル」の奏楽で終わらせたことは、元帥様は、マルクスやレーニンという共産主義運動におけるビッグネームの系譜に自らを位置づけつつ、自らを現代共産主義運動の指導者であると宣言なさったと言ってよいと考えます」としました。そして、「元帥様がいよいよイデオロギー解釈権を確固たるものにした」ともしました。つまり、キム・ジョンウン同志はついに自らを現代共産主義運動の指導者であると宣言なさったわけです。
■キム・ジョンウン同志の共産主義ビジョンを政論《공산주의로 가자!》から読み解く
それでは、現代共産主義運動の指導者となられたキム・ジョンウン同志はいったいどのような共産主義のビジョンとプランを提示なさっているのでしょうか? そのことについては7月8日づけ「キム・イルソン同志逝去30年と政論《공산주의로 가자!》について」で考えました。
7月8日づけ記事は、6月27日づけ朝鮮労働党機関紙『労働新聞』1面に掲載された『共産主義へ行こう! 偉大な党中央がくださったスローガンとともに、互いに助け合い導く共産主義の美風が一層高く発揮されている我が祖国の激動的な現実を抱いて』という政論に学ぶ形の記事です。
当該政論は「共産主義への第一歩は何から始まるのか」という問いを立てる形で始まります(当該政論中の具体的な記述は上掲リンクから7月8日づけ当ブログ記事をご覧ください。この年末総括記事では要点だけを振り返ることにします)。政論によると、共産主義社会とは、すべての人々が喜びと悲しみを共に分かち合う社会であり、それは人間が望むことができる最高の理想社会であるといいます。それゆえ、共産主義社会を建設する上では、経済発展や物質的満足を論じる前にまず人間に注目し人間の思想意識と道徳的格式を何よりも重視しなければならないといいます。その上で政論は、共産主義における徳と情の重要性を強調しています。
これは、社会政治的生命体論の系譜に位置するキム・ジョンウン時代の朝鮮式社会主義の宣言であると言って然るべきでしょう。一般に共産主義は富の分配方法に関する一つの原則とし見なされがちですが、本来は単なる分配論に留まるものではありません。キム・ジョンウン時代の朝鮮式社会主義は、共産主義運動の正統な系譜に位置していると当ブログは考えます。
政論はまた、困難が共産主義に対する確信を深めると指摘します。ここには、「厳しい闘争を通じて自らを共産主義的に改造してゆく」という伝統的な共産主義的思想闘争の考え方が非常によく現れていると言えるでしょう。共和国では、共産主義に対する確信と、徳と情とが車輪の両輪となって相互作用しながら朝鮮式社会主義を前進させているといいます。そして政論は、人間を育てること自体を一つの革命であると見做すキム・ジョンウン同志こそが共産主義に最も早く進むことができる近道を明確にしてくださったと称えています。自己の偉業の勝利を信じて、偉大な首領に続いて共産主義の未来に向かって最後まで進もうとする絶対不変の信念がすべて人民の信条となるとき、徳と情が全社会の国風・民心の潮流になり、共産主義建設が早まることになるのです。
政論は結論部分において、共産主義は決して遥か遠くのものではなく共産主義者になれるのはごく一部の人だけではないとします。「自分自身の胸の中に社会と集団のための献身の心が宿るとき、隣人と同志に対する愛の感情が溢れるとき、毎日満開になる徳と情の大きな花園に一輪の花として咲く場所を探すとき」に「共産主義に向かって力強く進んだと堂々と誇れる」とします。その上で、「喜びと悲しみを分かち合い、祖国と人民のために献身する真の人間、立派な美風の持ち主になろう。互いに助け合って導く共産主義の美風が、我々の社会の国風としてさらに高く発揮されるようにしよう」と呼びかけ、「我々が望み我々の後世代が福楽を享受することになるこの世で一番美しくて立派な社会主義・共産主義は、夢や理想ではなく生きた現実として、我が祖国の地に輝かしく広がることだろう」と締めくくっています。
■共産主義思想の歴史における正統な系譜に位置するキム・ジョンウン同志の共産主義ビジョン・プラン
7月8日づけ記事においても書きましたが、全世界がほぼ資本主義で一色化され、共産主義は過去のものと見なされている今日です。左派と言っても社会民主主義がせいぜいのところであり、結局は修正資本主義でしかなく、よって本質的には個人主義社会以外の何者でもないものが幅を利かせている今日において、ここまで共産主義を理想社会として雄弁に語る政論は貴重なものです。
首領様逝去30年の節目の年に、名実ともに朝鮮式の社会主義建設のリーダーであり現代共産主義運動の首領になったと宣言なさったキム・ジョンウン同志は、「すべての人々が喜びと悲しみを共に分かち合う社会」を共産主義社会像として掲げ、人間の思想意識と道徳的格式の問題を重視しつつ、困難を乗り越えることを通して自らを革命化することで共産主義建設を進めようとする道筋を提示なさいました。通俗的な共産主義理解すなわち経済的分配論に留まるものではなく人間どうしの関係を再構築することを共産主義運動の主たる目的として正しく据えているこのビジョンとプランは、チュチェ思想に基づく社会政治的生命体論をまっとうに継承しており、また、まさしく人類の歴史とほぼ同じくらい古い共産主義思想の歴史における正統な系譜に位置しているとも言えるものです。
■普通の人たちがつくる社会主義運動の流れ
当ブログが注目したいのは、「共産主義は決して遥か遠くのものではなく共産主義者になれるのはごく一部の人だけではない」というくだり。共産主義者というと禁欲的で無私の人間、聖人君子のような人間でなければ成ることができないという漠然としたイメージを持ちがちですが、「自分自身の胸の中に社会と集団のための献身の心が宿るとき、隣人と同志に対する愛の感情が溢れるとき、毎日満開になる徳と情の大きな花園に一輪の花として咲く場所を探すとき」に「共産主義に向かって力強く進んだと堂々と誇れる」とする政論の指摘を踏まえると、完璧な人間・立派な人間でなくとも、人間としてごく自然な道徳感情を大切にしていれば、共産主義者の端くれくらいにはなれそうな気がしてきます。
2021年7月17日づけ「「革命家の経済」から「普通の人の経済」への移行期、「超人的な人たちがつくる社会主義」ではなく「普通の人たちがつくる社会主義」への移行期としてのキム・ジョンウン総書記の時代」で「キム・ジョンウン同志の時代とは、「革命家の経済」から「普通の人の経済」への移行期、「超人的な人たちがつくる社会主義」ではなく「普通の人たちがつくる社会主義」への移行期であると言える」とか「チュチェ110年の共和国は、共産主義を発展的に復活させるスタートラインについたと言えるかもしれません」などと書きましたが、今般の政論における上掲部分もまた、「普通の人たちがつくる社会主義運動」を示唆するものと考えます。
■『社会主義は科学である』から学ぶ主体的社会主義
12月31日づけ「2024年を振り返る」第1弾としての「2024年を振り返る(1):『社会主義は科学である』発表30年――正しい人間観、そしてそれに基づく世界観、社会歴史観、さらに人生観そして死生観に基づいた社会主義理論を日本の自主化においてどのように参考にするか」についても、早くも総括しておきたいと思います。
当該記事は、キム・ジョンイル同志が1994年11月1日に労作:『社会主義は科学である』を発表なさってから30周年となるのを記念して、当ブログなりに『社会主義は科学である』の内容を読み解いたものになります。当該記事でも書いたとおり、かねてより当ブログでは社会主義・共産主義の何たるかを追究してきたところですが、キム・ジョンイル同志の『社会主義は科学である』は非常に内容豊富で学び甲斐のある労作であると考えます。それは、世界と人間の関係そして集団と個人の関係を追究したことにより得られた、正しい人間観と豊かな人生観に基づいた社会主義理論を展開されているからです。
※かなり長い記事になったので、本稿では要点のなかの要点だけを取り出します。なお、当該記事を基に『社会主義は科学である』の内容を手っ取り早く知りたいという読者の方は「おさらい」をお読みください。
『社会主義は科学である』は、第1節において社会主義運動の正統系譜として、集団主義と個人主義との対立軸を設定したうえで、チュチェ思想に基づく社会主義が何を問題視して何を解決しようとして運動を展開しているのかを冒頭に明確になさっています。そして、正しい人間観に立脚してこなかった社会主義の従前理論の限界を説いたうえで、チュチェ思想によって社会主義は新たな科学的土台のうえに引き上げられ、人民大衆中心の社会主義となったと指摘なさいます。
第2節でキム・ジョンイル同志は、人間の本質を捉えることは何故重要なのかをまず解説なさいます。人間は社会的存在であるという意味、そして人間の生命の本質と生の価値を主体的に解明します。ここでキム・ジョンイル同志は「チュチェ思想は史上はじめて、人間は肉体的生命とともに社会的・政治的生命をもって生きる存在であることを明らかにした」として、社会的・政治的生命(社会政治的生命)という概念を提示なさいます。この社会的・政治的生命論を柱として、「人間のもっとも誉れ高く甲斐ある生き方は、自己の運命を社会的集団の運命と結びつけ、社会的集団に献身的に奉仕し、社会的集団に愛され信頼されながら、自主的で創造的な生活を営むことである」と定式化。チュチェ思想として人生観の問題に解答を与えました。
第3節では、前節の最後に「集団主義社会としての社会主義社会でのみ、価値のある生を送ることができる」と指摘したのをさらに掘り下げる形で、「人民大衆はもっぱら国家主権と生産手段が人民のものとなっている社会主義社会でのみ、社会のあらゆるものの真の主人となる」とか「革命と建設において主観主義を避け、紆余曲折をまぬかれる唯一の道は、人民大衆のなかに入り、かれらの意思と要求を聞き取ることである」などと指摘し、その上で、人民大衆が社会のあらゆるものの主人としての地位を占め権利を行使するには、自主意識を高めて責任と役割を果たしつつ創造的能力を養う必要があるとしました。さらに、第2節の内容を繰り返す形で「人民大衆の誉れ高い幸せな生活において本質的内容をなすのは、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし、尊厳ある生を営むことである」と再言及したうえで「社会主義社会では、愛情と信頼が社会的集団とその構成員間、社会の個々の構成員間に生まれ、全社会が一つの社会的・政治的生命体となり、社会の全構成員が社会的・政治的生命を限りなく輝かしていく、もっとも強固で生命力のある社会となる」とすることで、社会有機体論の一種としてのいわゆる社会的・政治的生命体論(社会政治的生命体論)を展開なさいました。
資本主義がカネと権力を社会の紐帯としているとすれば、全社会が一つの社会的・政治的生命体となった主体的社会主義社会では愛情と信頼が社会の紐帯となるわけです。そしてそうした社会であるからこそ、社会の全構成員が社会的・政治的生命を限りなく輝かす最も貴く美しい生が実現した強固で生命力のある社会が実現するのです。チュチェ思想に基づく社会主義・共産主義運動とは社会的・政治的生命体を形成するための運動であるということが、『社会主義は科学である』において示されていると言えます。
さらに当該記事では、『社会主義は科学である』においては直接的には言及されてはいないものの、チュチェ思想学習においては一つの論点となっている主体的な死生観の問題についても論を展開し、集団主義と個人主義との対立軸は、個人として生き肉体の死滅とともに終わる生命の見方と、集団とともに生き社会的・政治的に永生する生命の見方との対立軸にも発展するものであると補足的に述べたところであります。
当該記事の結論部分において述べたとおり、『社会主義は科学である』は、人間観の再定立に始まり、人間は肉体的生命と社会的・政治的生命の二つを持っていることを指摘したうえで、より重要な社会的・政治的生命すなわち自主性:自主的本性を輝かしうる生活の在り方、すなわち主体的な人生観と、それを実現し得るのは集団主義に基づく社会主義社会であることを論証しているものと言えます。
集団主義か個人主義かの対立軸は社会主義と資本主義との社会体制における対立軸であり、それはつまり、人間を社会的存在であるとする人間観と人間をたんなる自然的・生物学的存在とみなす人間観との人間観における対立軸であり、愛と信頼を紐帯とする社会的・政治的生命を基本とする人生観とカネと権力を紐帯として肉体的生命を基本とする人生観との人生観における対立軸でもあり、そして個人として生き肉体の死滅とともに終わる生命の見方と、集団とともに生き社会的・政治的に永生する生命の見方との死生観上の対立軸として設定できます。
人生観そして死生観にも踏み込んでいる点において、当ブログは、人間中心の社会主義運動、つまり「人間は、互いに社会的関係を結んで自主性、創造性、意識性をもって生き活動する社会的存在である」という人間観、そしてそれに基づく世界観、社会歴史観、さらに人生観そして死生観に基づいて社会的・政治的生命体を構築することを目指す主体的な社会主義運動は、単に労働者階級の生活水準を向上させ経済的利益を実現するといった水準にとどまる問題ではなく、人間が本来的に持つ人間性を取り戻すことであると言ってよいと考えます。
人間性の本質は、その自主性にあります。愛とはお互いの自主性の尊重です。人間が自主的な生を送るためには、自然・社会・自分自身の主人、政治・経済・思想文化の各生活分野の主人となり、人々が愛と信頼に基づいた道徳義理的な一心団結をなす必要があります。そしてそのためには、修正資本主義的対応では足りず社会的・政治的生命体の形成を目指す社会主義・共産主義運動が必要だと考えます。
■現代日本の問題に引き付けて
当該記事でも何度も強調したとおり現代日本社会は、人間の人格的価値が交換価値にかえられ、それが金銭と財物によって評価される社会、つまり、人間を「自分にとって使えるか否か」という商品選びの水準で評価し交際する人間関係が当然化してしまっています。日本の自主化を目指す当ブログとしては、日本人を変革の主体であると考えるので、正しい人間観に立脚し、社会的人間の属性が如何にして形成されるのかを踏まえた上で情勢分析する必要があると考えますが、まず、現状が異常であることを理解することから始める必要があります。より広い視野で言えば、そもそも社会のサブシステムに過ぎないはずの経済生活が、逆に社会全体を呑み込んでいるという現代社会が異常であるという自覚が必要です。
温故知新という言葉があるように、自主性を生命とする人民大衆が代を継いで創造してきた人類史、とりわけ愛情と信頼に関する蓄積を振り返り、人間の生の本質とその価値を見つめ直し、如何なる生活が真の意味で誉れ高い幸せな生活であるのかを今一度考え直すことが必要だと考えます。古今東西の古典的文学作品をよく読み、それを自分自身の自主性を照らし合わせ、現状が極めて異常であることを自覚することから始める必要があるのです。そして、そうした営みを通じて体得した自主的思想意識と創造的能力、目的意識性を組織的力量に具体的に転換することが肝要になるでしょう。
ものすごく時間がかかることではありますが、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし尊厳ある生を営む道は地道なものにならざるを得ないでしょう。人間が本来的に持つ人間性を取り戻すためには、人類が代を継いで積み重ねてきたものを再発見し再評価することから始めるべき地道なものであり、そこで培った「人間は、互いに社会的関係を結んで自主性、創造性、意識性をもって生き活動する社会的存在である」という人間観、そしてそれに基づく世界観、社会歴史観、さらに人生観そして死生観に基づいて具体的な組織的力量を形成してゆく運動を展開する必要があります。チュチェ思想に基づく社会主義・共産主義運動とはすなわち、社会的・政治的生命体を形成する運動であると当ブログは考えます。
■総括
振り返れば、「主体的・朝鮮式共産主義の核心探究をテーマとして優先的に取り上げてきた」と言いつつ、たった4本の記事しか書いていませんでした。とはいえ、ほとんど記事を書いていなかった2024年において、いずれの記事もそれなりに長文だった点において、内容の出来はさておき、力を入れて執筆したことは感じていただけるのではないでしょうか。
当ブログとしては、世界と人間の関係そして集団と個人の関係を追究したことにより得られた、正しい人間観と豊かな人生観に基づいた運動指針を理論的に提示している点にこそチュチェ思想に基づく社会主義・共産主義運動の特長があると考えます。そうした特長を、自分自身の学びも兼ねて文章化することに努めてきたつもりです。
そしてそうした運動を日本社会で展開するためには、上掲のとおり、まず、現状が異常であることを理解することから始める必要があります。そもそも社会のサブシステムに過ぎないはずの経済生活が、逆に社会全体を呑み込んでいるという現代社会が異常であるという自覚が必要だと考えます。
死生観の問題については、特に12月31日づけ年末総括第1弾でかなり突っ込んで論じました。チュチェ思想の重要論点の一つではあるが最近はあまり積極的には言及されていない(否定もされていない)論点に傾注したのは当ブログ管理者の関心ゆえのものです。現在共和国では「革命の世代継承」は特に問題になっていないので、死生観の問題を敢えて取り上げる必要がなく、それゆえこの問題がそれほどクローズアップされていないのだと理解していますが、当ブログ管理者には重大な関心事であります。
共産主義運動というものは生涯をかけ、さらに代を継いで続けなければならないものです。そんなに簡単に成就するものではありません。
政論《공산주의로 가자!》で定式化された「すべての人々が喜びと悲しみを共に分かち合う社会」という共産主義の定義が、同時代的な「空間的共産主義論」であるとすれば、死生観の問題は「時間的共産主義論」と言えます。老いた者は当然、時間的共産主義論を意識しなければなりませんが、若い人も「生涯をかける必要がある」がゆえに時間的共産主義論を意識する必要があると考えます。日本社会は現時点で資本主義社会であり、それゆえ共産主義運動には格別な目的意識性をもって自発的に参加する必要があります。自分から動かなければ資本主義社会の歯車の一つにしかなり得ません。資本主義日本において共産主義運動に身を投じる決意を固めるにあたっては、自らの一生の送り方と絡めて考える必要が特にありますが、死ぬまでに何を成し遂げるかを考えることは、死生観の問題を考えることと密接な関係にあります。
主体的な死生観においては、全社会が一つの社会的・政治的生命体になり、個々人はその中で有機的に結びついているがゆえに、個々人は、生物学的な意味での死によって肉体的生命を終えたとしてもその社会的・政治的生命は、一つの社会的・政治的生命体の中で永生するとされます。朝鮮大学校学長のハン・ドンソン氏は2007年の著書で「崇高な精神をもって人民大衆のために生涯をささげた人々は、社会的集団と、愛と信頼の絆で結ばれて」おり、「このような人々は、たとえ肉体的生命が途絶えたとしても、その思想と業績は、社会的集団が続く限りそのなかで引き継がれ、かれらにたいする愛と信頼は、世代を越えて人々の心のなかに残」るので、「人民大衆の運命を開拓する偉業にすべてを尽くして献身するとき、肉体的には死んでも、社会政治的には永遠に生き続ける」としています(ハン・ドンソン、2007、p169)。
また、ハン氏は、社会的・政治的生命の永生は「歴史の流れとともに限りなく引き継がれ、歴史的価値をもち続け」るとも言います。「個人の一生には限りがありますが、社会と集団は限りなく存在し発展」するので、「人々は、社会と集団の未来の創造に寄与することによって、人間の生の大きな歴史的流れに合流することにな」るからです。これに対して「自分のためだけに生きる生活は、個人の一生で終わる生活で」であり「そのような生活は歴史に残りません」(ハン・ドンソン、2007、p185)。
資本主義社会で、ほどほどの生活を送る選択肢もある中で、敢えて生涯をかけ代を継いで続けなければならない共産主義運動に身を投じるにあたっては、共産主義運動に参加することによって個々人が人間の生の大きな歴史的流れに合流できるという考え方は大きなポイントになるでしょう。主体的な死生観を持てばこそ敢えて共産主義運動に身を投じる決意が固まるものと考えます。このような理由で当ブログは、特に日本が資本主義社会であるからこそ、その自主化を目指すにあたっては主体的な死生観の問題が重要になると考えています。
他方、政論《공산주의로 가자!》でも指摘されていたように、完璧な人間・立派な人間でなくとも人間としてごく自然な道徳感情を大切にしていれば、共産主義者の端くれくらいにはなれそうなものであるのも事実です。偉業に身を捧げる革命的ロマンも大切ですが、今を生きる生身の人間の生活もまた大切です。とりわけキム・ジョンウン同志はそうお考えでいらっしゃるとお見受けするものです。あまり堅苦しいことをいうのもキム・ジョンウン時代の共産主義者としては不適切なのでしょう。その点、こうしてこの1年間書いてきた記事を総括すると、当ブログ管理者は些か古いタイプの共産主義者である気がしてきました。キム・ジョンウン時代の共産主義者たらねばならぬと思いを新たにしたところです。
2025年以降も、正しい人間観と豊かな人生観に基づいた運動指針を理論的に提示しているという点にチュチェ思想に基づく社会主義・共産主義運動の特長を見い出しつつ、あまり堅苦しいことを言い過ぎず、キム・ジョンウン時代の共産主義者として日本社会の自主化を目指す道筋を引き続き考えたいと考えています。
2024年を振り返る(1):『社会主義は科学である』発表30年――正しい人間観、そしてそれに基づく世界観、社会歴史観、さらに人生観そして死生観に基づいた社会主義理論を日本の自主化においてどのように参考にするか
2024年も終わろうとしています。朝鮮総聯機関紙『朝鮮新報』が11月1日づけ≪《사회주의는 과학이다》발표 30돐, 사회과학부문 연구토론회 진행≫で報じているとおり、2024年は1994年11月1日にキム・ジョンイル総書記が『社会主義は科学である』を発表なさってから30年になる節目の年です。ソ連・東欧社会主義圏が軒並み崩壊し中国が大きく変質する中、1980年代後半以降、「人間は、互いに社会的関係を結んで自主性、創造性、意識性をもって生き活動する社会的存在である」という人間観、そしてそれに基づく世界観、社会歴史観、さらに人生観そして死生観に基づいた理論を刷新してきた朝鮮労働党ですが、その新しい社会主義像がまとめられたのが当該労作であると言えます。
かねてより当ブログでは社会主義・共産主義の何たるかを追究してきたところですが、キム・ジョンイル総書記の『社会主義は科学である』は非常に内容豊富で学び甲斐のある労作であると考えます。それは、世界と人間の関係そして集団と個人の関係を追究したことにより得られた、正しい人間観と豊かな人生観に基づいた社会主義理論を展開されているからです。
本来であれば11月1日づけで発表すべきところ、内容の調整に時間が掛かり遡って11月1日づけにするのも憚られるくらい遅くなってしまったので、年末総括記事として今回、『社会主義は科学である』に学びたいと思います。労作の内容を引用しつつ当ブログなりに理解した内容をしたため、日本の現状に引き寄せ・照らして考えを述べました。文法的、論理的、そして何よりも思想的に正しく読み込んだつもりではありますが、解釈が適切ではない場合は是非ともご指摘ください。なお本稿では、共和国の外国文出版社が発行した日本語版小冊子を使用しました。共和国政府が公式に運営している「朝鮮の出版物」(http://www.korean-books.com.kp/ja/)で読むことができます。HTML版(ページ数は反映し得ない)であれば、小林吉男様が運営なさっている「小林よしおの研究室」(http://tabakusoru.web.fc2.com/)で読むことができます。
かなり長くなってしまったので、目次をつけておきます。
○第1節・・・社会主義が何を問題視して何を解決しようとして運動を展開しているのか――集団主義と個人主義の対立軸
○正しい人間観に立脚してこなかった社会主義の従前理論
○チュチェ思想によって社会主義は新たな科学的土台のうえに引き上げられ、人民大衆中心の社会主義となった
○「社会主義を成功裏に建設するためには社会主義・共産主義の二つの要塞、思想的要塞と物質的要塞を占領するたたかいを力強く展開し、わけても思想的要塞を占領するたたかいを確固と優先させるべき」
○生産力の問題にかかるチュチェ思想の見解――人間にとって生命である自主性を回復する主体的社会主義の必要性
○第2節・・・人間の本質を捉えることは何故重要なのか――主体的人間観
○人間は社会的存在であるという意味
○自主性・創造性・意識性が「商品」的な性質を帯びざるを得なくなってゆく日本人
○客観的条件の位置づけと社会発展史の本質
○人間の生命の本質と生の価値
○「人間のもっとも誉れ高く甲斐ある生き方は、自己の運命を社会的集団の運命と結びつけ、社会的集団に献身的に奉仕し、社会的集団に愛され信頼されながら、自主的で創造的な生活を営むことである」――人生観の問題に解答を与えるチュチェ思想
○集団主義社会としての社会主義社会でのみ、価値のある生を送ることができる
○第3節・・・正しい人間観と人生観に立つ朝鮮式社会主義の優位性
○「人民大衆はもっぱら国家主権と生産手段が人民のものとなっている社会主義社会でのみ、社会のあらゆるものの真の主人となる」
○「革命と建設において主観主義を避け、紆余曲折をまぬかれる唯一の道は、人民大衆のなかに入り、かれらの意思と要求を聞き取ることである」
○帝国主義者の干渉を斥けることの重要性
○社会のあらゆるものの主人としての地位を占め権利を行使するには、自主意識を高めて責任と役割を果たす必要がある
○社会のあらゆるものの主人としての地位を占め権利を行使するには、人民大衆の創造的能力を養う必要がある
○「人民大衆の誉れ高い幸せな生活において本質的内容をなすのは、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし、尊厳ある生を営むことである」
○「社会主義社会では、愛情と信頼が社会的集団とその構成員間、社会の個々の構成員間に生まれ…全社会が一つの社会的・政治的生命体となり、社会の全構成員が社会的・政治的生命を限りなく輝かしていく…もっとも強固で生命力のある社会となる」――主体的人生観に基づく社会的・政治的生命体論
○チュチェ思想は人生観を持っているがゆえに死生観も持っている
○仁徳政治論が社会主義・共産主義党の性質を理論的に転換した
○人民に忠実に奉仕する幹部と党員を育成するために
○人民大衆の社会的・政治的生命を輝かす党と領袖の仁徳政治
○仁徳政治と後代愛
○仁徳政治は抗日武装闘争以来の伝統的政治方式であり、広幅政治でもある
○民族の優れた品性が社会主義において全面的に開花した
○朝鮮式社会主義は必勝不敗である
○おさらい
○「人間は、互いに社会的関係を結んで自主性、創造性、意識性をもって生き活動する社会的存在である」という人間観、そしてそれに基づく世界観、社会歴史観、さらに人生観そして死生観を日本の自主化においてどのように参考にするか
■第1節・・・社会主義が何を問題視して何を解決しようとして運動を展開しているのか――集団主義と個人主義の対立軸
キム・ジョンイル総書記は労作の冒頭で「社会主義は科学である。多くの国で社会主義は挫折したが、科学としての社会主義は依然として諸国人民の心のなかに生きている」とし、「多くの国での社会主義の崩壊は、科学としての社会主義の失敗ではなく、社会主義を変質させた日和見主義の破算を意味する」とし、「社会主義は日和見主義によって一時的に心痛にたえない曲折をへてはいるが、その科学性、真理性によって必ず再生し、最終的勝利を達成するであろう」と確言なさります(p1)。
第1節冒頭では、人類史について「人民大衆は歴史的に長いあいだ、自主性の実現をめざして力強くたたかいつづけ、その過程で階級社会の交替がなされ、自主性をめざす人民大衆のたたかいが発展してきた(中略)しかし、敵対的階級社会の交替は、人民大衆の自主性を抑圧する形態上の変化をもたらしただけで、人民大衆は社会的・政治的従属から解放されなかった」(p1-2)と、その理由として「いずれも個人主義にもとづく社会であったから」と指摘なさいました(p2)。「私的所有とそれによって生まれる個人主義にもとづく社会は、必然的に社会を敵対する階級に分裂させ、階級的対立と社会的不平等を生みだし、人民大衆にたいする少数支配階級の搾取と抑圧を随伴するようになる」からです(p2)。
その上で「資本主義は個人主義をごく少数の資本家の際限ない貪欲にかえ、個人主義にもとづく社会の敵対的矛盾をその極にいたらしめた」としつつ「一方、自主性をめざす人民大衆のたたかいは新たな発展段階に入っている」とし「個人主義にもとづく社会の集団主義にもとづく社会への移行が歴史発展の必然的要求となっている」と現状を分析なさいます。端的に現代を「自主性の時代」であると定義なさっています(p2)。その根拠としてキム・ジョンイル総書記は「集団主義は人間本然の要求である」からだとされます(p2)。「人間は個別的にではなく社会構成員の集団的協力によってのみ自然と社会を改造し、自主的要求を実現することができ」るものです。
キム・ジョンイル総書記は「人間が社会的集団をなして生きていくためには、集団の自主的要求と個人の自主的要求を実現していかなければならない」とした上で「集団主義のみが集団の団結と協力を強め、集団の全構成員の創造的熱意を高め、集団の自主的要求と個人の自主的要求を正しく結合し、ともに満足に実現していけるようにする」と指摘なさいました(p3)。なお、ここでいう集団の自主的要求とは「社会的集団の生存と発展のための社会構成員の共通の要求」であり、個人の自主的要求とは「社会的集団の平等な構成員としての要求であり、社会的集団への寄与により集団から当然、保障されるべき要求」と定義されます。「集団主義を離れた個人の要求は個人主義的貪欲にかわり、そうなれば集団の他の構成員の自主的要求を侵害し、集団の団結と協力を阻害するようになる」と仰います(p3)。人間が自主的要求を実現させるためには集団主義の道を歩むほかないわけです。
そして、「社会的集団をなして活動するのが人間の生存方式であり、人間の自主的要求が集団主義によってのみりっぱに実現するのであるから、集団主義にもとづく社会、社会主義・共産主義社会は、人間の自主的本性にかなったもっとも先進的な社会である」とし、社会主義こそが人間の自主的本性にかなったものであると位置づけていらっしゃいます(p3)。克服すべき個人主義に対して集団主義を提唱なさっています。人間の自主的本性に適っているからこそ集団主義に基づく主体的社会主義理論は科学となり、その真理性によって必ず再生し、最終的勝利を達成するのです。
近代社会主義運動の歴史を振り返るに、対立軸を集団主義と個人主義とに設定するご指摘は正統かつ正確なものであると僭越ながら申し上げたいと思います。各種流派の近代社会主義運動は、労働者階級が個人主義に基づく当時の世相・社会構造から自分たちの身を守るために模索したものが源流にあります。労働組合や消費者協同組合・生産者協同組合のようなミクロレベルの社会主義的結社もマクロレベルで組織化された社会主義国家も元を辿ればここに行きつきます。
社会主義の立場が何を問題視して何を解決しようとして運動を展開しているのかを正確に捉える必要があります。個人主義がもたらす害悪を問題視し、人々の自主的要求を実現させることを目指している点にこそ核心があるのです。社会主義運動とは、敵対的階級社会の根本にある個人主義とたたかって、集団主義にもとづく社会を打ち立てようとする人民大衆の自主的要求を実現させるための運動であると言えます。社会主義・共産主義社会を「集団主義にもとづく社会」と表現する点を鑑みるに、朝鮮式社会主義は社会主義諸潮流の正統に位置していると僭越ながら評価したいと思います。
■正しい人間観に立脚してこなかった社会主義の従前理論
キム・ジョンイル総書記は、人民大衆の自主的要求を実現させる集団主義社会としての社会主義社会実現のためには、正しい人間観に立脚することが必要だと説かれます。人間を中心に据えた見解並びに観点及び立場に基づいて集団主義と社会主義について筆を進められます。
「社会主義を実現するには、それを担当して遂行する革命勢力が準備され、正しい闘争方法が講じられなくてはならない」(p4)と指摘なさるキム・ジョンイル総書記は、いわゆる空想的社会主義について「貪欲を階級的本性とする搾取階級に「善意」を期待するのは、非科学的な幻想」と指摘なさいます。科学的社会主義を創始したマルクス主義についても「社会主義は空想から科学となり、人類解放闘争史には革命的転換がもたらされるようにな」り、「人類解放闘争史には革命的転換がもたらされるようになった」としながらも「唯物史観にもとづく従前の社会主義学説は、歴史的制約をまぬかれえなかった」と評価なさいます。「従前の理論は、社会的・歴史的運動をその主体である人民大衆の主動的な作用と役割によって生成発展する主体の運動ではなく、主に物質的・経済的要因によって変化、発展する自然史的過程とみなした」点において「革命の主体の強化とその役割の向上を革命の根本方途として提起することはできなかった」ところに大きな問題があったと指摘なさっているのです(p5-6)。
「革命闘争において客観的条件が重要な作用をするのはいうまでもない」としつつ「しかし、革命の勝敗を左右する決定的要因は客観的条件にあるのではなく、革命の主体をいかに強化し、その役割をいかに高めるかにある」と強調なさるキム・ジョンイル総書記。「歴史的実例は、資本主義の発達した国ぐにではなく、相対的に立ち後れた国ぐにで社会主義が先に勝利したことを示している」とした上で「チュチェ思想の旗のもとに前進してきた朝鮮革命の経験は、革命の主体を強化し、その役割を高めるなら、所与の客観的条件を正しく利用できるだけでなく、不利な客観的条件をも有利にかえ、逆境を順境に、禍を福にかえて革命の勝利を保障することができるということを立証している」と仰いました(p6)。
また、キム・ジョンイル総書記は次のように指摘なさいます。一般的に社会の発展にともなって人民大衆の自主意識と創造的能力が高まることから、社会が発展すればするほど社会的運動の主体である人民大衆の役割はいっそう高まるものである。だからこそ、高い思想・意識を身に着けて一つに統一団結した人民大衆の創造力によって発展する社会としての社会主義社会においては、人間改造、思想改造が物質的・経済的条件を構築する事業よりもなお重要かつ一義的な課題となり、人間改造を優先させてこそ革命の主体を強化し、その役割を高めて社会主義を成功裏に建設することができるはずである。しかし、一部の社会主義国では、経済建設にのみ汲々とし人民大衆の思想改造を二次的なものとし、革命の主体を強化しその役割を高めることを疎かにしたため、社会主義建設を正しく進めることができず、しまいには経済建設の停滞をも招いてしまった、と。また、これらの国々では正しい人間観に則っていなかったため、「改革」と称して資本主義的人間観に基づく政策を展開した結果、社会主義経済体制そのものを崩壊させる物質至上主義・経済万能主義的な反革命的行為に手を染めるに至ったとも糾弾なさいます(p7-8要旨)。
キム・ジョンイル総書記は「かつてマルクス主義の創始者たちが物質的・経済的条件を基本にして社会主義学説を展開したのは、神秘主義と宿命論を主張して資本主義を神聖化し、その「永久性」を説くブルジョア反動理論を打破することが重要な歴史的課題となっていた事情と関連している」としつつ「ところがこんにち、社会主義の背信者たちは資本主義に幻想をいだき、それを復活させるために物質至上主義、経済万能主義を提唱した」と指摘なさいます(p7-8)。とうの昔に打倒されたはずの資本主義が社会主義国家において亡霊のように現れるに至った背景には、マルクス主義の物質的・経済的条件重視の姿勢が教条主義的に解釈される思想的風土があったと指摘しておられるわけです。
このようにキム・ジョンイル総書記は、社会主義の従前理論は正しい人間観に立脚してこなかったと指摘されています。正しい人間観に立脚してこなかったから従前理論に依拠した国々では社会主義建設を正しく進めることができず、そればかりか、事もあろうに資本主義的要素を導入するに至り、遂にすべてが崩壊してしまったわけです。
■チュチェ思想によって社会主義は新たな科学的土台のうえに引き上げられ、人民大衆中心の社会主義となった
キム・ジョンイル総書記は「社会主義を新たな科学的土台のうえに引き上げることは、従前の社会主義学説の歴史的制約を克服するためばかりでなく、あらゆる日和見主義者の歪曲と帝国主義者の攻撃から社会主義を固守するためにも非常に切実な課題」であると問題提起なさいます。そして「社会主義を新たな科学的土台のうえに引き上げる歴史的課題は、偉大な領袖金日成同志がチュチェ思想を創始し、それにもとづいて社会主義理論を独創的に展開することによってりっぱに解決された」と宣言なさいます(p8)。キム・イルソン主席が「人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定するという」哲学的原理、つまり世界における人間の地位(世界において自らの意志と要求に応じて周囲世界を奉仕させる存在は誰かということ)と役割(世界を実際に変化・発展させる力はどこにあるのかということ)にかかる哲学的原理を発見し、主体の運動としての社会的運動の合法則性を新たに解明なさったことにより社会主義は新たな科学的土台のうえに引き上げられたのです。そして、それによって科学的に体系化された社会主義は、人間本位の社会主義、人民大衆中心の社会主義であると言えるのです。
「人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定するという」哲学的原理に立脚することが如何なる意味で正しいのかについては、第2節で詳述されます。また、この世界観に基づいてチュチェ思想は人生観を説いていますが、この主体的人生観とそれを実現させる条件としての主体的社会主義論こそがチュチェ思想の核心です。これは、第3節で詳述されています。
人間に対する正しい理解から出発することをチュチェ思想は一貫して説いています。そして当ブログが社会主義・共産主義思想としてのチュチェ思想を一貫して支持している理由は、まさにこの点にあります。当ブログは左翼の立場に立つブログですが、いわゆるマルクス主義はあまりにも経済主義的であり、率直に言って当ブログ編集者の眼には「人間性を軽視し過ぎている」と映ります。他方、最近流行りのリベラリズムについては、繰り返しその主観観念論的な世界観・社会歴史観を強く批判してきたとおり、中学校・高等学校の優等生や生徒会委員などが好んで口にする「ひとり一人が正しい行いに目覚めて行動を改めれば、世界は必ず変わる!」といったレベルの言説と大差ない、あまりにも物質的条件・経済的条件を軽視した程度の低い言説しか紡ぎ出せていないと言わざるを得ません。経済主義的過ぎるマルクス主義も主観的過ぎるリベラリズムも現実の変革の指針とするには不十分であると言わざるを得ず、チュチェ思想の立場が現実を正しく反映していると考えています。
■「社会主義を成功裏に建設するためには社会主義・共産主義の二つの要塞、思想的要塞と物質的要塞を占領するたたかいを力強く展開し、わけても思想的要塞を占領するたたかいを確固と優先させるべき」
キム・ジョンイル総書記は、「われわれの社会主義は、人民大衆があらゆるものの主人となり、すべてが人民大衆に奉仕し、人民大衆の団結した力によって発展する社会主義である」とした上で、チュチェの社会主義理論について「社会主義を成功裏に建設するためには社会主義・共産主義の二つの要塞、思想的要塞と物質的要塞を占領するたたかいを力強く展開し、わけても思想的要塞を占領するたたかいを確固と優先させるべきであることを明らかにした」ものであると、その特徴を端的にまとめられています(p8)。「要塞」というのは共和国独特の語法ですが、一般的な日本語の語感でいうところの「重要な目標」といった意味合いです。
そして「チュチェの社会主義理論の科学性、真理性は、朝鮮革命の実践的経験によって実証された」とし、その理由を「朝鮮人民は、立ち後れた植民地半封建社会の状態で社会主義をめざすたたかいを開始し、人一倍困難な状況のもとで革命と建設を遂行せざるをえなかった」が「わが党はチュチェ思想の要求どおり、つねに人民大衆を党と領袖のまわりに組織的、思想的にかたく結集して革命の主体を強化し、その役割を高めることを基本とし、それを堅持することにより社会主義の道を成功裏に切り開くことができた」と指摘なさいます(p9)。
つまり、朝鮮労働党は「社会主義建設において人間改造、思想改造をすべての活動に確固と優先させ」たので、「朝鮮革命の政治的・思想的威力をあらゆる面から強化すると同時に、自立的民族経済と自衛的軍事力を強固にすることによって、こんにちの複雑な情勢のもとでも微動だにせず、革命と建設を力強くおし進めて」おり、「実践的経験は、チュチェ思想を具現したわが国の社会主義がもっとも科学的で生命力のある社会主義であることを如実に示している」のです(p9)。人間中心のチュチェ思想を指針にしたとき、社会主義建設において人間改造と思想改造を優先することは論理的帰結となります。とりわけ、物質至上主義に堕した従前理論に基づく社会主義建設の教訓を踏まえれば、人間改造と思想改造を優先するチュチェ思想の指針は、正当であるともいえるでしょう。
■生産力の問題にかかるチュチェ思想の見解――人間にとって生命である自主性を回復する主体的社会主義の必要性
また、キム・ジョンイル総書記は、マルクス主義があれほど重視した生産力の問題についても、その捉え方に不十分さがあったと指摘なさいます。大きく2点、「資本主義社会での生産力の発展は、「富益富、貧益貧」の両極分化を深め、階級的矛盾を激化させるとともに、独占資本家に独占的高率利潤の一部を階級的矛盾の解消に利用させる可能性も増大させる」という指摘、及び「農民をはじめ小ブルジョアジーを分化させ、産業労働者階級の隊伍を拡大すると同時に、生産部門の精神労働と技術労働に従事する勤労者と、非生産部門の勤労者の比重を高める結果をもまねく」と指摘なさっています(p6)。
この論題については、『反帝闘争の旗をさらに高くかかげ、社会主義・共産主義の道を力強く前進しよう』(以下「前進しよう」論文といいます)においてより詳細に論じられているので、少し脱線してそちらを参照してみたいと思います。今回は特に、後者指摘について注目したいと思います。
キム・ジョンイル総書記は「前進しよう」論文において「革命勢力を強化するには、社会的・階級的構成における変化について正しく分析、評価しなければなりません」と問題提起し「第2次世界大戦後、資本主義諸国では社会的・階級的構成に大きな変化が生じました」と指摘なさいます。すなわち、「発達した資本主義諸国では技術が発達し、生産の機械化、オートメ化が推進されるにつれて、肉体労働に従事する勤労者の数がいちじるしく減り、技術労働と精神労働に従事する勤労者の隊伍が急増し、勤労者の隊伍においてかれらは数的に圧倒的比重を占めるようにな」ったのです(『金正日選集』第9巻、外国文出版社、1997、p34)。
「インテリの隊伍が急速に拡大すれば、勤労者のあいだで小ブルジョア思想の影響が増大するのは確か」であると指摘なさるキム・ジョンイル総書記は、「革命的教育を系統的に受けることのできない資本主義制度のもとで、多数のインテリがブルジョア思想と小ブルジョア思想に毒されるのは避けがたいこと」であり「かれらを革命の側に獲得することは困難な問題」であると率直に指摘なさいます。しかしながら「社会的・階級的構成におけるこうした変化が、共産党、労働者党の社会的・階級的基盤の弱化を意味したり、社会主義革命に不利な条件になるとみなすことはでき」ないとも仰います。その理由についてキム・ジョンイル総書記は「技術労働にたずさわる勤労者であれ、精神労働にたずさわる勤労者であれ、かれらはいずれも生産手段の所有者ではありません」としておられます(同p34-35)。
ここにおいて問題は、「社会的・階級的構成の変化した現実に即応して、共産党、労働者党が広範な勤労者大衆を革命化し、獲得する政治活動をいかにおこなうかにあ」るとキム・ジョンイル総書記は新たに論点を設定なさいます。「現代の労働者階級は、かつてのような無産階級であるとばかりみなすことはでき」ず、発達した資本主義諸国の労働者階級は「マルクス主義の創始者たちが、失うものは鉄鎖のみであるといった、以前の無産者とは異な」るからです(同p36)。
「革命に参加できるかどうかは、無産者か有産者かということのみにかかっているのではありません」。これはチュチェ思想の意識性論からの必然的結論です。「発達した資本主義諸国で、技術労働や精神労働にたずさわる勤労者の生活水準が向上したとはいえ、かれらは依然として資本主義的搾取と抑圧のもとにある」ことには変わりありません。キム・ジョンイル総書記は、彼らは「資本主義制度にたいして反感をいだいており、資本の支配から解放されて自主的に生きることを要求してい」ると指摘なさいます(同p36)。
「自主的に生きることを要求するということは、すなわち社会主義を志向することを意味します」。実際問題として「資本主義国のインテリで、一時的であれ社会主義に共鳴しない人はほとんどい」ないと仰るキム・ジョンイル総書記。それゆえ、「かれらがひきつづき社会主義をめざしてたたかっていけないのは、社会的・階級的立場の制約というよりは、むしろかれらを思想的に正しく教育し導いていない事情と関連してい」るとなさいます(同p37)。
「勤労者大衆を革命化し獲得するうえで、主体はあくまでも労働者階級の党で」す。「党を強化するためには、なによりもまず、思想と指導の唯一性を保障する原則で党を建設しなければならず、党がインテリを含めた広範な大衆のなかに根をおろし、かれらを革命へと導く新しい指導思想、指導理論をもたなければなりません」。「人民大衆の自主的地位と決定的役割にかんする原理にもとづいて、変化した現実に即して革命理論を発展させ、党活動の方法を不断に改善していかなければなりません」。「このようにすれば、各階層の広範な大衆を革命化し、獲得し、革命を新たな高揚へと導くことができる」のです(同p37)。
鐸木昌之は『北朝鮮 首領制の形成と変容 金日成、金正日から金正恩へ』(明石書店、2014年)で、「前進しよう」論文について「労働者の物質的経済的生活が改善されたとしても、その思想文化生活においては自主性が達成されず、精神生活においては貧困化している。したがって、発展した資本主義国における革命は、古典的マルクス・レーニン主義のいう「失うものは鉄鎖以外にないという過去の無産者」階級のそれではなく、精神的に踏みにじられたインテリ・技術労働者達の自主性の回復になる。(中略)これは主体思想による先進資本主義革命論なのである」と指摘しています(p227)が、非常に端的に要約していると言えるでしょう。
このように考えたとき、マルクス主義は、生産力を重視しているといいながら実はそれさえも十分には貫徹できていないと言えます。
キム・ジョンイル総書記が「前進しよう」論文において指摘された、資本主義諸国での社会的・階級的構成の変化は極めて重要な指摘です。当ブログでも2019年7月4日づけ「こき使われている勤務医が「自己研鑽」のインチキ理論に毒されているのは何故か、知識労働者を核心とした自主化運動・抵抗運動の展望はどこにあるのか」や、2019年7月15日づけ「主観主義的社会歴史観と「個人」主義的人生観に打ち克ち、「我々」意識に基づく社会の集団的・共同体的結束を再興するために」などで論じてきたところです。
「発達した資本主義諸国で、技術労働や精神労働にたずさわる勤労者の生活水準が向上したとはいえ、かれらは依然として資本主義的搾取と抑圧のもとにある」点にこそ、人類史が資本主義で終わるのではなく社会主義、それも人間にとって生命である自主性を回復する主体的な社会主義が必要になることを示しています。後述しますが、人間中心の主体的な社会主義運動は、単に労働者階級の生活水準を向上させ経済的利益を実現するといった水準にとどまる問題ではなく、人間が本来的に持つ人間性を取り戻すことであると言ってよいと考えます。そして、主体的社会主義は、人生観の問題にしっかりとした解答を与えている点において、独自の社会主義路線であると言えるでしょう。
■第2節・・・人間の本質を捉えることは何故重要なのか――主体的人間観
第2節では、人間にたいする主体的な見解並びに観点及び立場についてより詳しい説明が展開されます。「人間は、互いに社会的関係を結んで自主性、創造性、意識性をもって生き活動する社会的存在である」という人間観、そしてそれに基づく世界観と社会歴史観の問題に触れ、さらに人生観が展開されます。
「人間にたいする観点と立場の問題は、社会発展、革命発展にいかなる観点と立場で対応し、それをどう理解するかということにおいて基礎的な問題」です。キム・ジョンイル総書記は「チュチェ思想は史上はじめて、人間の本質について科学的な解明を与えた」とされます(p10)。
「人間の本質をどうとらえるかということはたんなる学術上の問題ではなく、階級的利害関係を反映した社会的・政治的問題で」す(p10)。たとえば「人間を純然たる精神的存在とみなす宗教的・観念論的見解によれば、人間はある超自然的な神秘的存在の産物であり、人間の運命もそれによって決定されることにな」り、「反動的な支配階級とその代弁者たちは、人間にたいする宗教的・観念論的見解から、勤労人民大衆が搾取され抑圧される不幸な境遇は避けがたい宿命的なものであり、したがって定められた運命に従順であるべきだと説」きました。あるいは、「人間をたんなる自然的・生物学的存在とみなす見解は、意識の調節、統制のもとに目的意識的に活動する人間と、本能によって支配される生物学的存在との質的差異を区別できなく」し、「反動的な支配階級とその代弁者たちはこうした見解を、弱肉強食の法則が支配する資本主義社会の弁護に利用し」ました。「社会主義の背信者たちがブルジョア自由化と資本主義市場経済を導入して資本主義を復活させているのも、人間にたいする反動的な観点と立場に根ざしてい」ます(p10-11)。
一部社会主義国で「改革」と称して展開された政策は、資本主義的人間観に基づく物質至上主義・経済万能主義的な反革命的行為でしたが、結局これはその人間観に由来する「改革」であったといえるでしょう。キム・ジョンイル総書記は「社会主義の背信者たちが資本主義を復活させ、失業と貧困を競争意欲と労働の強度を高める強圧手段とみなして、社会主義がもたらしたあらゆる人民的施策を抹殺しているのも、自国人民の力に頼らず、西側資本主義諸国の「援助」と「協力」に期待をかけて帝国主義者に阿諛追従しているのも、人間にたいする反動的なブルジョア的観点のためである」と糾弾なさいます(p14)。
正しい人間観を持つことがいかに重要であるのかが理解できるでしょう。
■人間は社会的存在であるという意味
キム・ジョンイル総書記は「人間は純然たる精神的存在でもなければ、たんなる生物学的存在でもない。人間は社会的関係を結んで生き活動する社会的存在である」とし「社会的存在であるというところに、他の生物学的存在と区別される人間の重要な特性がある」と言明なさいます(p11)。マルクス主義は人間の本質を社会関係の総体であると定義づけましたが、キム・ジョンイル総書記はこれだけでは「人間そのものの本質的特性についての全面的な解明とはなりえ」ず、「それによっては人間と世界との関係、世界における人間の地位と役割が正しく示されない」と指摘なさいます(p11)。
「人間は自主性、創造性、意識性をもつ社会的存在である」(p11)という格言は、チュチェ思想の文脈で必ず聞いたことがあるものでしょう。自主性は、世界と自己の運命の主人として、なにものにも従属したり束縛されることなく自主的に生き発展しようとする社会的人間の属性です。創造性は、自己の要求に即して目的意識的に世界を改造し自己の運命を開いていく社会的人間の属性です。意識性は、世界と自分自身を把握し改造するすべての活動を規制する社会的人間の属性です。そして、これら人間の自主性・創造性・意識性は、人間が社会関係を結んで活動する過程で形成され発展する属性であります。人間が活動する過程はその自主性、創造性、意識性が発現する過程です。自主的・創造的・意識的活動は人間の存在方式ですが、人間が人間たりえるのは社会関係を結んで活動するからこそなのです(p12要旨)。
「人間が自主性、創造性、意識性をもつ社会的存在になりえるのは、発達した有機体、とくにもっとも発達した頭脳をもっていることをぬきにしては考えられ」ないことは、キム・ジョンイル総書記も認めるところです。「人間の発達した有機体は、自主性、創造性、意識性をもちうる生物学的基礎とな」ります。しかし、発達した人体そのものが自ずと自主性、創造性、意識性を生むのではありません。「人間の自主性、創造性、意識性は、人間が社会関係を結んで活動する社会的・歴史的過程で形成され発展する社会的属性で」す(p12)。
自主性、創造性、意識性を形成する社会的・歴史的過程とは、具体的には社会的教育と社会的実践を言います。朝鮮大学校のハン・ドンソン学長は、政治経済学部長時代の2007年に上梓した『哲学への主体的アプローチ - Q&Aチュチェ思想の世界観・社会歴史観・人生観』(白峰社)において、小説『ロビンソン・クルーソー』を取り上げ、ロビンソン・クルーソーが無人島で逞しく生き延びている描写について「彼がそれまでの社会生活を通じて、人間らしく生きようとする意欲と、それを実現することのできる知識と技術、技能を蓄積したからこそ可能であった」とし「すなわち、主人公が、社会的教育と実践を通じて、社会的存在としての自主性、創造性、意識性をある程度培っていたということ」としています(ハン・ドンソン、2007、p67)。
人間が何かをなすためには、そのための知識を得ることと実践してみることが必要だというのは、ほとんどの方が同意するものと思われます。この知識獲得と実践は、仮に非常に個人的で狭い範囲であったしても社会的な性質を帯びざるを得ません。人間は、親など先達から教えられた知識を活用します。この知識は、もっとも素朴な場合は「この場合、こうすると上手くいく」という形態を取りますが、これは代を継いで実践されてきた社会的な結果にほかなりません。それゆえ、知識は社会性を帯びざるを得ません。また、人間は集団の中で生きるので、「個人」的な実践であっても集団への影響は避けられません。さらに、物質世界において個人が自分自身の運命を開拓とようとすれば、一個人ではあまりにも非力であるので、通常は他者と協力する必要が生じます。それゆえ、実践もまた社会性を帯びざるを得ないと言えます。
先に、集団主義か個人主義かの対立はすなわち社会主義と資本主義との社会体制上の対立であると指摘しましたが、集団主義・社会主義と個人主義・資本主義の対立は、つまるところ人間観の対立に行きつきます。すなわち、人間は、互いに社会的関係を結んで自主性、創造性、意識性をもって生き活動する社会的存在であるとする人間観と人間をたんなる自然的・生物学的存在とみなす見解・人間を本能によって支配される単なる生物学的存在とする人間観との対立軸が設定できます。
人間が人間たりえるのは社会関係を結んで活動するからこそであり生物としての進化の結果ではないというのは、主体的人間観の柱です。「人間の自主性、創造性、意識性は、人間が社会関係を結んで活動する社会的・歴史的過程で形成され発展する社会的属性である」という一文は、いくら強調しても、し過ぎることはないでしょう。
■自主性・創造性・意識性が「商品」的な性質を帯びざるを得なくなってゆく日本人
人間が人間たりえるのは社会関係を結んで活動するからこそという見解並びに観点及び立場は、人間関係がいよいよ全面的に「商品化」しつつある日本社会においては、日本人の自主性・創造性・意識性が「商品」的な性質を帯びざるを得なくなってゆく近未来の現実を示すと考えます。
人間関係が全面的に「商品化」しつつあるとはどういうことかご説明しましょう。商品とは「他人にとっての使用価値」ですが、商品生産・交換経済が高度に発展すると商品は「何人もの中間卸売り業者や加工業者を経た先にいる(と言われている)会ったこともない赤の他人にとっての使用価値」になります。会ったこともない抽象的な「他人」である消費者のことを生産者は親身になって考えることはないし、消費者としてもその銘柄の商品をどうしても買わなければならない訳ではなく、代替品は幾つかあるのが大抵なので、生産者の事情を真剣に考えることはありません。最近、一部小売店の野菜・青果売り場で「私が作りました」という生産者の顔写真付きポップが掲示されていることがありますが、裏を返せば、そういったものが目を引く販促小道具になるくらい通常の商品取引においては取引相手のことを具体的に想像する契機に欠けているのが現実です。
「自分にとって得か損か」のみが判断基準になってゆくのが商品生産・交換経済であり、そして経済人類学者のカール・ポランニーが指摘するように、現代社会は経済の論理が社会全体を取り込んでしまっている社会です。前近代社会は、経済活動は社会のサブシステムに過ぎませんでしたが、今やそれが逆転しているわけです。その結果として、2022年の年末総括記事の末尾部分でも論じましたが、人間同士の関係までもが経済生活の編成様式、つまり市場的な人間関係、「自分の役に立つサービスを提供する存在」として取り扱う関係に成り下がり、人間を「自分にとって使えるか否か」という商品選びの水準で評価し交際する関係が当然視する思考回路が形成されつつあるのではないかと非常なる危惧を覚えるところです。
また、そのような思考回路が形成されてしまっているからこそ、自分自身の命の問題についてさえ、2022年5月31日づけ「掛け金を払えなければ医療費を工面できないアメリカ社会への疑問・異議が見られず、個人の自衛手段としての民間保険への加入の重要性ばかりが強調される日本世論の徹底的な「個人」主義化の現状」で論じたように、保険に入るとか入らないといった次元で語られるようになってしまっているのではないかと考えます。「金の沙汰が命の沙汰」であることへの違和感や拒否感が弱まってしまっています。
日本の自主化を目指す当ブログとしては、日本人を変革の主体であると考えるので、正しい人間観に立脚し、社会的人間の属性が如何にして形成されるのかを踏まえた上で情勢分析する必要があると考えます。その際には、チュチェ思想の人間観は非常に重要な見解並びに観点及び立場を提供するものと考えています。このことについては、本稿後半で、第3節の内容に触れながら再論します。具体的には、小見出し「■「人民大衆の誉れ高い幸せな生活において本質的内容をなすのは、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし、尊厳ある生を営むことである」」の部分で論じます。
■客観的条件の位置づけと社会発展史の本質
社会関係の中で展開される活動過程で形成される自主性・創造性・意識性をもつ唯一の存在であるがゆえに、ただ人間だけが、自己の運命を自分の力で開いていけます。人間は客観世界を自己の要求に即して改造しつつ自己の運命を自分の力で開いていく世界の主人・世界の改造者という唯一無二の地位と役割を獲得するのです。そして、人間の自主性・創造性・意識性が発展すればするほど、世界の主人・世界の改造者としての人間の地位と役割は高まります(p12-13要旨)。
もちろん、「歴史発展においてすべての世代は、前の世代が創造した社会的冨と社会関係、すなわち所与の客観的条件から出発し、それを利用」します。しかし、客観的条件は「人間の自主的・創造的・意識的活動の歴史的創造物であり、それを利用しさらに発展させるのも人間であ」ります。「所与の客観的条件が有利であっても、それを利用し発展させる人間の自主性、創造性、意識性が低く、十分に発揮されなければ、社会はすみやかに発展することができ」ず、「客観的条件が不利であっても、人間の自主性、創造性、意識性が高く、それが正しく発揮されれば、社会は急速に発展するものであ」ります。要するに、「社会発展の歴史的過程が人間の自主性、創造性、意識性の発展水準とその発揮程度によって決定されることを意味す」るわけで、「社会発展の歴史はつまるところ、人間の自主性、創造性、意識性の発展の歴史だといえ」るのです(p13)。
マルクス主義の権威が低下して来、教条主義的なマルクス主義者と議論する機会が乏しくなってきている昨今においては論点にならなくなってきましたが、ひと昔前は非常に重要な論点でした。教条主義的なマルクス主義者には「意識」という単語を持ち出すだけで「観念論だ!」とよく言われたものです。人間の意識は客観世界の反映であり、客観世界の土台は生産力と生産関係によって規定されるものだからだと力説されたものでした。しかし、チュチェ思想の原理を理解するうえで重要なのは、人間の自主性・創造性・意識性を三位一体の関係で位置づけているところにあります。生産力云々については、創造性がしっかりと包含しています。意識性だけを強調しているわけではないのです。
下部構造としての土台の上に建てられる政治や文化などは上部構造であるというマルクスの見解を墨守している教条的なマルクス主義者は「経済的土台」という言葉を愛用します。たしかに物質代謝としての経済活動は人間存在の根本を支えるものです。「土台」という表現は言い得て妙です。「土台」であればこそ「土台からの作用」だけではなく「土台への反作用」についても考える必要があります。「土台の上に建てられる」ものといえば住宅ですが、人間は自らの要求と技術力に依拠して建てたい家に合わせて土地を整備します。軟弱地盤であれば建てたい家に合わせて必要なレベルの補強工事を施行します。かつてエンゲルスは『フォイエルバッハ論』で、不可知論に対して「あらゆる哲学上の妄想に対する最も説得力を持った反駁は実践、すなわち実験と産業」と言いましたが、まさしく産業の現実から考えるに「土台から人間への作用」だけではなく「人間から土台への作用」にも注目する必要があるはずだと考えます。
現代社会の深刻な環境危機などを踏まえると、いまや人間が蒙る「土台からの作用」だけではなく「土台への作用」を思想的にしっかりと位置づける必要があります。人間存在が世界を大きく改造し得る有力な存在となってきたからこそ主体的な人間観が求められると考えます。
キム・ジョンイル総書記は「人間本位の社会主義は、人間にたいする主体的観点と立場から出発して、すべてのものを人間に奉仕させ、すべての問題を人間の創造的役割を高めて解決するもっとも科学的な社会主義である」と宣言なさいます(p14)。つまり、人間の利益から出発し、人間の活動を基本とするのが人間本位の主体的社会主義です。ハン・ドンソン氏の前掲書によると「人間との関係で見るとき、世界の変化発展の法則性は、世界が人間の積極的な活動によって人間に奉仕する方向で、人間の発展とともにより速やかに発展するというところにあ」るといいます(ハン・ドンソン、2007、p24)。教条主義的なマルクス主義に依拠した国々がことごとく社会主義建設に失敗して崩壊するか資本主義に変節するかの中で、いまも変わらず赤旗を掲げ続けていられる朝鮮民主主義人民共和国の今日の姿を見るに、この宣言に根拠がないとは言えないでしょう。
■人間の生命の本質と生の価値
続いてキム・ジョンイル総書記は「チュチェ思想は、人間の生命の本質と生の価値についても新たに解明した」と論題設定なさいます。「チュチェ思想は史上はじめて、人間は肉体的生命とともに社会的・政治的生命をもって生きる存在であることを明らかにした」と宣言なさいます(p15)。
人間が社会的・政治的生命(社会政治的生命)を持つというのは、他の生物から人間を区別する特徴としての自主性・創造性・意識性が、生物としての進化の結果として自然に獲得されたものではなく人間が社会的関係を取り結ぶ中で形成されたものであることに基づきます。自然環境が人間に肉体的生命を付与し、社会環境が人間に社会的・政治的生命を付与するわけです。
「人間にとって自主性は生命であ」るとキム・ジョンイル総書記は強調なさいます。「人間は自主的な社会的存在として、なにものにも従属したり、束縛されることなく自主的に生きることを求め」るからです。「人間が自主的に生きるということは、世界の主人、自己の運命の主人としての地位を守り、権利を行使して生きることを意味」します。それゆえ、「人間が自主性を失い、他人に従属しているなら、命はあっても社会的、政治的には屍にひとしい」のです(p16)。ハン・ドンソン氏は前掲書において、「このような意味で社会政治的自主性を、社会的存在としての人間の生命、社会政治的生命と言い」(ハン・ドンソン、2007、p167)、「社会政治的生命をもってこそ、人々は、社会的集団とともに、世界と自らの運命の共同の主人となり、自主的で創造的に生き発展することがで」きると解説しています(同p171)。社会に背を向け放蕩する人は、社会的・政治的生命を得ることができず、社会的集団とともに世界と自らの運命の共同の主人になることができないので、まさに資本主義国の人間のように個人的努力の範囲やカネと権力で解決できる範囲で多少のことはできたとしても、自主的で創造的に生き発展することができません。
人間にとって自主性は生命であるので、「人間にとって肉体的生命も大切であるが、より大切なのは社会的・政治的生命」になります(p15)。肉体的生命が生物有機体としての人間の生命であるとすれば、社会的・政治的生命は社会的存在としての人間の生命であると言えるからです。たしかに「安定した健全な物質生活は、人間の肉体的生命の要求を十分に保障するばかりでなく、社会的・政治的生命を維持し、輝かす物質的裏付けとなる」ものですが、「社会的・政治的生命の要求をぬきにして肉体的生命の要求のみを追求するならば、いくら豊かな物質生活を営むとしても、それは決して有意義な生活とはいえず、そうした物質生活は人間の本性に反する動物の生活にひとしい奇形的で変態的な生活になりさがってしま」います(p15-16)。
■「人間のもっとも誉れ高く甲斐ある生き方は、自己の運命を社会的集団の運命と結びつけ、社会的集団に献身的に奉仕し、社会的集団に愛され信頼されながら、自主的で創造的な生活を営むことである」――人生観の問題に解答を与えるチュチェ思想
このような人間の生命の本質ゆえに、チュチェ思想は、生の価値として「人間の誉れ高い生き方は社会的・政治的生命を持し、それを輝かしながら生きることである」と定義します(p16)。そして、人間は社会的・政治的生命を社会的集団から授けられるがゆえに、「人間の生が価値あるものかどうかは、人間が社会的集団とどう結合するかにかかっている」ということになります(p16)。「人間の生は社会的集団に愛され信頼されれば価値あるものとなり、社会的集団から見捨てられれば価値のないものとなる」のです。つまり、「人間のもっとも誉れ高く甲斐ある生き方は、自己の運命を社会的集団の運命と結びつけ、社会的集団に献身的に奉仕し、社会的集団に愛され信頼されながら、自主的で創造的な生活を営むこと」なのです(p17)。
共同体と共に生きることや、愛や信頼を人生の価値として説く主張は古来から数多ありますが、人間の本質とその本質に合致した自然かつ当然な生き方は、ここにあるものだと当ブログも考えます。チュチェ思想は、そうした古来からの思想潮流の堂々たる一員でありながら、世界観の問題と人生観の問題とを論理的に密接に結び付けており、非常に説得力のある学説であると言えます。チュチェ思想の人生観は、人類の叡智の集大成であり、まことに内容豊富な思想であると考えます。
この論点はチュチェ思想にもとづく社会主義運動が実現目標点としていると考えられます。第3節でも再論されるので、本稿でも詳しくは後述したいと思います。
■集団主義社会としての社会主義社会でのみ、価値のある生を送ることができる
キム・ジョンイル総書記は、このような生は、敵対的階級社会を必然的にもたらす個人主義を克服した集団主義社会としての社会主義社会でのみりっぱに実現することができると仰います。「社会主義社会では、人びとがあらゆる搾取と抑圧、支配と従属から解放され」るので、「社会・政治生活をはじめすべての分野で自主的で創造的な生活が営めるようになる」のです(p17)。
具体的に社会主義社会の如何なる特徴がかかる効果を生むのかについては、第3節で詳述されます。
そして、社会主義社会で人びとが社会の主人としての高い自覚と能力をもって自主的で創造的な生活を営めるようになるためには、人々に「組織・思想生活と文化生活を正しくおこなわせ」る必要があると指摘なさいます。「人間は革命的な組織・思想生活と健全で豊かな文化生活を通して自主的な思想・意識で武装し、全面的に発達した創造的能力をそなえてこそ、社会と集団のため積極的に寄与し、社会と集団のりっぱな構成員として誉れ高く生きていくことができる」からです(p17-18)。
これに対して「ブルジョア反動派と社会主義の背信者たちが人間による人間の搾取と支配を正常なこととみなし、人間を個人の物質的欲求のみを追求する低俗な存在とみなす」ことについてキム・ジョンイル総書記は、「人間の生命の本質と生の価値にたいするブルジョア的観点と立場の反動性を示す明白な表現の一つ」であると糾弾なさいます(p17)。現代資本主義に対する非常に痛烈な批判であると言えるでしょう。
■第3節・・・正しい人間観と人生観に立つ朝鮮式社会主義の優位性
「われわれの社会主義は人民大衆にたいする主体的観点と立場にもとづいている」という書き出しで始まる第3節でキム・ジョンイル総書記は、「社会主義の真理性と優位性は、それにたいする人民大衆の支持と信頼にあらわれる」とし「われわれの社会主義は人民大衆にたいする主体的観点と立場にもとづいているので、人民大衆から絶対的に支持され信頼される、もっともすぐれた威力ある社会主義となる」と指摘なさいます(p18)。第3節は、前節の最後で「すべての人がもっとも大切な社会的・政治的生命を輝かし、肉体的生命の要求をも充足させる真の人間生活は、集団主義にもとづく社会主義社会でのみりっぱに実現することができる」としたキム・ジョンイル総書記が主体的社会主義の正当性について更に踏み込んで言及する節であると位置づけられるでしょう。ここでは、「人間は、互いに社会的関係を結んで自主性、創造性、意識性をもって生き活動する社会的存在である」という人間観、そしてそれに基づく世界観と社会歴史観の議論を人生観の問題に深めていらっしゃいます。さらに、本労作ではあまり言及されていない死生観の問題も基礎づけています。
まず、キム・ジョンイル総書記は「人民大衆」というキーワードについてより詳細を説明なさいます。すなわち、「人民大衆は働く人びとを基本に、自主的要求と創造的活動の共通性によって結合された社会的集団であ」ります(p18)。その上で、「人民大衆という言葉は、階級社会では階級的性格をおびる」と指摘なさいます。同時に「人民大衆の階級的構成は固定不変のものではなく、社会、歴史の発展過程でかわる」としつつ「人民大衆という言葉は、社会的・階級的関係を反映しているが、それは純然たる階級的概念ではない」ともします。これは、「もともと、人民大衆は相異なる階級と階層からなっている」事情、及び「人間の思想と行動は社会的・階級的立場の影響のみを受けるのではな」く「人間は革命的影響を受け、先進思想を身につければ、社会的・階級的立場はどうであれ、人民大衆に奉仕することができる」という事情に基づいているからです。
キム・ジョンイル総書記は「人民大衆の構成員かどうかを判別するには社会的・階級的立場をみなければならないが、それを絶対視してはならない」と警鐘を鳴らされます。「人民大衆の構成員かどうかを判別する基本的尺度は、その社会的・階級的土台がどうであるかにあるのではなく、どのような思想をもっているかにある」のです(p19)。
キム・ジョンイル総書記がこのように指摘なさった動機は、おそらく「祖国と人民と民族を愛する愛国、愛民、愛族の思想をもっていれば、誰でも人民に奉仕することができ、したがって人民大衆の構成員になることができる」と指摘なさっている点を鑑みるに、古典的なマルクス・レーニン主義の教義では強く排斥されてきた「民族主義」の再評価を意図してのものであると考えられますが、階級至上主義を脱する思想的突破口を開いたことは非常に大きな功績であったと僭越ながら申し上げたいと思います。階級にばかり拘泥することは20世紀社会主義の一つの問題点でしたが、20世紀末にキム・ジョンイル総書記がこれを乗り越える新しい社会主義路線を提唱なさったわけです。
この論文でも触れられており、また、前述のとおり「前進しよう」論文においても詳細に語られているとおり、知識労働中心の経済社会に移行したことにより労働者階級がプチブル化しつつある今日、労働者階級であるという属性だけでは社会主義運動を盛り立てることは難しくなってきており、この見解は現在の状況に合った新しく正しい見解であると考えます。「人民大衆の構成員かどうかを判別する基本的尺度は、その社会的・階級的土台がどうであるかにあるのではなく、どのような思想をもっているかにある」というキム・ジョンイル総書記の指摘を十分に体質化する必要があると考えます。
■「人民大衆はもっぱら国家主権と生産手段が人民のものとなっている社会主義社会でのみ、社会のあらゆるものの真の主人となる」
キム・ジョンイル総書記は人民大衆の底知れぬ力量について筆を進められます。「個々の人の力と知恵には限界があるが、人民大衆の力と知恵には限界が」ありません。「この世に全知全能の存在があるとすれば、それはほかならぬ人民大衆であ」ると指摘なさいます(p21)。「人民大衆は自然を改造し、生産力を発展させ、物質的富を創造する」し「人民大衆は思想的・文化的財貨を創造する」し「人民大衆は社会を改造」します。そして「人民大衆はもっぱら国家主権と生産手段が人民のものとなっている社会主義社会でのみ、社会のあらゆるものの真の主人となる」と確言なさいます(p21)。集団主義と個人主義との対立における集団主義の優位性をより具体化して、国家主権と生産手段の所有問題について言及なさっているわけです。
人民大衆の自主的要求を実現させるためには、敵対的階級社会に必然的に行きつく個人主義原理に基づく社会ではなく集団主義原理に基づく社会の道を歩まなくてはなりませんが、それはつまり、国家主権と生産手段とを人民大衆が自ら所有する社会主義の道を歩む必要があるということなのです。
もしかすると、「敵対的階級社会に必然的に行きつく個人主義を乗り越える必要性は分かる。そうした個人主義の逆を『集団主義』と定義したのは分かった。しかし、そこから何故社会主義に行きつくのか? 社会主義に限定せずとも集団主義は実現できるのではないか? 冒頭から『社会主義でのみ人民大衆の自主性は実現する』といったくだりが何回も出てきているが、何故社会主義でなければならないのか?」という疑問を持つ方もいらっしゃるかも知れません。しかし、集団主義を具体化・具現化させようとしたとき、つまり、個人と社会との自主的要求を調整しつつ共に実現させようとしたとき、すべての人々が自然と社会と自分自身の主人となるためには国家主権と生産手段とを共同で管理する道を歩まざるを得なくなると当ブログは考えます。キム・ジョンイル総書記が本労作冒頭で「社会的集団をなして活動するのが人間の生存方式であり、人間の自主的要求が集団主義によってのみりっぱに実現するのであるから、集団主義にもとづく社会、社会主義・共産主義社会は、人間の自主的本性にかなったもっとも先進的な社会である」と仰ったのは、そういう意味であると解釈できるでしょう。
なお、ここにおいて主語が「人民大衆」であることに注意しておく必要があると考えます。つまり、チュチェの世界観原理の段階では主語は主に「人間」でしたが、チュチェの社会歴史観原理においては、完全に統一されているわけではありませんが主語は主に「人民大衆」になっています。
ブルジョア社会たる日本社会で日常生活を送っていると「人間」という言葉を無意識的に「個人」と解釈してしまいがちです。この取り違いは最終的に主観観念論的な言説に行きつきます。社会というものは非常に巨大なシステムであり、一個人や小集団の意志や行動でどうにかできるものではありません。あまりにも規模が違い過ぎます。この点を無視して「決心すれば社会は変わる!」などと絵空事をスローガン化しているのが最近のリベラリストであるというのは、当ブログが再三指摘してきたところです。非常に巨大なシステムである社会を変革するためには、「人間」も個人がバラバラになっているのではなく組織的に大きくそして固く結集する必要があります。人民大衆として団結する必要があります。主語が「人民大衆」になっていることについては、そういった意味で注意を払う必要があると考えます。
■「革命と建設において主観主義を避け、紆余曲折をまぬかれる唯一の道は、人民大衆のなかに入り、かれらの意思と要求を聞き取ることである」
キム・ジョンイル総書記は「人民大衆は社会のあらゆるものの主人としてその地位を占め、権利を行使すべきである」とします。「自主的地位と権利は、人民大衆の運命を左右する基本的条件である」からです(p22)。政治、経済、文化などの社会生活の各分野で主人としてその地位を占め権利を行使する必要があります。他人に丸投げするのではなく人民大衆が自らが主人となる必要がある理由はここにあります。
その上でキム・ジョンイル総書記は「人民大衆の自主性をしっかり擁護し実現するためには、人民大衆の自主的要求を反映してすべての路線と政策を作成し、人民大衆の力に依拠してそれを貫徹しなければならない」という主体的な政治綱領を提示なさいます。そして「人民大衆の自主的要求は、路線と政策の正否を弁別する基準であ」り「革命と建設において主観主義を避け、紆余曲折をまぬかれる唯一の道は、人民大衆のなかに入り、かれらの意思と要求を聞き取ることである」と指摘なさいます(p22)。革命的大衆路線です。このことは、革命歌謡≪우리의 김정일동지≫(『我らのキム・ジョンイル同志』)においても歌われているところです。
社会主義とは単に国家主権と生産手段を共同管理にすることではないとキム・ジョンイル総書記は、幾度となく指摘なさってきました。これは、ソ連・東欧社会主義諸国が短期間で軒並み瓦解したことを受けての歴史的教訓です。それゆえ「人民大衆の自主的な意思と要求を集大成し体系化すれば、思想になり、路線と政策になる」という指摘は非常に重要なものであると考えます。自主的な思想や路線・政策は、空想的社会主義者がそうでしたが、どこかの天才が自己の思索の世界で紡ぎ出すわけではありません。現実の生活場面で生き暮らしている人民大衆の自主的な意思と要求を集大成し体系化することによってのみ生まれるものなのです。「わが国の社会主義がささいな偏向や曲折も経ることなく、もっとも科学的な道にそって勝利のうちに前進してきた秘訣はここにある」とキム・ジョンイル総書記は強調されています(p23)。
社会主義とは単に国家主権と生産手段を共同管理にすることではなく革命的大衆路線を歩むべきという意味で「革命と建設において主観主義を避け、紆余曲折をまぬかれる唯一の道は、人民大衆のなかに入り、かれらの意思と要求を聞き取ることである」という一文は注目すべき重要な部分であると考えます。
■帝国主義者の干渉を斥けることの重要性
キム・ジョンイル総書記は「人民大衆の自主性を擁護し実現するためには、国家と民族の自主性を確固と守らなければならない」とし「政治における自主、経済における自立、国防における自衛を実現するのは、わが党が終始一貫、堅持している革命的原則である」とされます(p23)。不朽の古典的労作である『チュチェ思想について』で指摘されたチュチェの根本原則ですが、キム・ジョンイル総書記は帝国主義勢力の「人権」を口実にした内政干渉について「外部勢力に支配される国の人民には決して、人権が保障されない」として「人権は、国家と民族の自主権と切り離しては考えられない」と指摘なさいます。これは、人権とは本来的に「政治、経済、思想・文化など社会生活の各分野で人民が行使すべき自主的権利であ」るからです(p23)。
帝国主義者たちが口実として用いる「人権」は、つまるところ「金さえあればなんでもできる有産階級の特権」に過ぎず、その証拠に「帝国主義者は失業者の労働の権利、身寄りのない人や孤児の生活の権利などは人権として認めていない」と強調なさるキム・ジョンイル総書記(p23)。「勤労者に初歩的な生存の権利さえ与えず、反人民的な政策と人種的・民族的差別政策、植民地主義政策を実施する帝国主義者には、人権について論ずる資格もな」いのです。このことは、ブルジョア「人権」論の虚偽性・偽善性を鋭く突くご指摘です。キム・ジョンイル総書記が強調されるとおり、「人権の第一の敵は、人民の自主権を踏みにじり、「人権擁護」の看板のもとに他国の内政に干渉する帝国主義者であ」ります(p24)。
ところで、前掲の『朝鮮新報』記事では≪또한 장군님께서는 군사를 국사중의 제일국사로 내세우시고 사회주의조선을 굳건히 수호하심으로써 사회주의의 강용성을 만방에 힘있게 떨치시였다.≫とか≪제국주의자들의 반혁명적공세로부터 사회주의를 고수하는것이 조국과 민족의 천만년미래를 결정짓는 중대한 력사적과제로 제기된 고난의 시기에 강력한 군력을 기반으로 하는 사회주의기본정치방식을 정립하시고 강국건설의 만년토대를 다져주신 장군님의 정력적인 령도에 의하여 주체의 사회주의의 과학성과 진리성은 빛나는 현실로 더욱 뚜렷이 립증되였다.≫としていますが、この労作において軍事について語っているとすれば、ここくらいのもの。共和国は建国2年目に勃発した祖国解放戦争以来ずっと戦時体制なので軍事を軽視したことは一度たりともありませんが、かといって当該労作が取り立てて軍事について論じているとも言い難いところです。とりわけ、この労作の発表(1994年11月)以後である1995年元旦を以って「先軍政治」が始まったとされています(パク・ボンソン『北朝鮮「先軍政治」の真実:金正日政権10年の回顧』)。≪강력한 군력을 기반으로 하는 사회주의기본정치방식≫という記述においては「先軍政治」という単語こそ出てきてはいないものの、そう言っているに等しいもの。「先軍政治」のスタートが2か月繰り上げられ、朝鮮式社会主義の不可欠な要素に改めて組み込まれたに等しいことが意味するところについては、今後の動向を慎重に見極める必要があると思います。
■社会のあらゆるものの主人としての地位を占め権利を行使するには、自主意識を高めて責任と役割を果たす必要がある
キム・ジョンイル総書記は「人民大衆は社会のあらゆるものの主人として、その責任と役割を果たさなければならない」として人民大衆が持つべき自覚と果たすべき責任そして役割の水準を要求なさいます(p24)。第1節でも強調されていたとおり、「社会主義を成功裏に建設するためには社会主義・共産主義の二つの要塞、思想的要塞と物質的要塞を占領するたたかいを力強く展開し、わけても思想的要塞を占領するたたかいを確固と優先させるべき」だというのが主体的な社会主義建設路線です。革命と建設は人民大衆のための事業であり人民大衆自身の事業なのだから、そこで提起されるすべての問題を自分自身が責任をもって自分の力で解決することこそ主人たるに相応しい態度です。また、人間が唯一の自主的かつ創造的存在であるからこそ人間が世界の主人としての地位と役割を得られるというのがチュチェ思想の人間観なので、自主意識を高めて責任と役割を果たすことはその意味でも当然の結論になります。
キム・ジョンイル総書記は、そのためには「主人としての自覚を高めなければならず、そのためには思想改造、政治活動を優先させなければならない」と指摘なさいます。「社会主義社会での社会発展の基本的推進力は、自主的な思想・意識で武装し、党と領袖のまわりにかたく団結した人民大衆の高い革命的熱意と創造的積極性」であるからです(p24)。「思想改造、政治活動をすべての活動に優先させるのは、社会主義社会本来の要求であ」ります(p24)。
自主とは文字どおり「自分自身の主人となる」ことを意味します。この意味での主人とは責任と役割を果たす人間のことを言います。無責任で利己主義的な人物は決して主人とは言えません。高い自覚と責任感を持ち、自らの役割を十分に果たす者のみが主人を名乗ることできます。その意味では、個人主義社会としての資本主義社会は、社会に主人が存在しておらず無秩序な社会であるという見方ができるでしょう。
ここにおいてインセンティブに依拠する方法は資本主義的な方法であり「人びとの革命的熱意と創造的積極性を高めることができないばかりか、社会主義制度そのものを変質させて危険におちいらせる結果をまねくようになる」とキム・ジョンイル総書記は警鐘を鳴らします(p25)。カネで動くのは主人としての振る舞いとは言い難いものです。共同体の主人として集団主義原則に基づいて生きる社会主義社会は、「金で人びとを動かす資本主義的方法」によっては運営し得ないものです。
インセンティブに依拠する資本主義的動員方法は、資本主義においてもあまり上手くいくものではないとも指摘しておきたいと思います。2023年5月8日づけ「災い転じて福となすべく「民間にできることは民間に」を換骨奪胎しよう」で取り上げましたが、いま日本では「大して成果を上げていないのに国会議員が多すぎる、政治家の報酬が高すぎる」という言説が罷り通っているのが典型的・代表的ですが、期待どおりの仕事をしない人に対しては本来的には監督・指導を強化して報酬に見合うだけ働かせるのが正道であるところ、それに先行してクビだの減給だのといった話がありとあらゆる場面で大手を振っています。さしづめ、他人の仕事を監督するというのは非常に面倒くさく即物的な成果が出にくいので、手っ取り早く楽をするために「働きが十分ではない人を指導して働かせる」よりも「働きが十分ではない人をクビにして取り換える」のを選んでいるのでしょう。これは、解雇をはじめとする不利益な取り扱いをチラつかせるというのは最も簡単な古典的労務管理手法ですが、そうした方法論が惨劇として現れたのが当該記事でも取れたとおり、JR福知山線脱線事故でした。
なお、カネで人を動かす方法に「依拠」してはならず思想改造、政治活動を「優先」させるべきだとしており、インセンティブを全面的に否定・排撃するものではないと申し添えておきたいと思います。もしもインセンティブの方法論を全面排撃しているとすると現行の社会主義企業責任管理制と衝突を起こすことになりますが、『社会主義は科学である』発表30周年記念大会が先般大々的に開かれた点を鑑みるに、このあたりの思想的折り合いはついていると言え、少なくとも現時点での『社会主義は科学である』の公式解釈においては、当該くだりはインセンティブの方法論を全面排撃するものと解釈されてはいないでしょう。
また、ここでいう政治活動の優先には、目下キム・ジョンウン総書記が取り組まれていらっしゃる、自己の生産単位・職場の単位特殊化・本位主義への反対も含まれるものと解釈すべきでしょう。チュチェ思想国際研究所の尾上健一事務局長は『自主・平和の思想―民衆主体の社会主義を史上はじめてきずく朝鮮とその思想を研究し実践に適用するための日本と世界における活動―』(白峰社、2015年)において「政権を奪取するまえの労働者たちの闘争課題は、賃金を上げることを中心とする労働条件の改善でした。労働者たちは政権につくまえは、社会主義思想を身につけていたわけでもなく、国家全体のことを考えたこともありませんでした。主に個人の要求を実現するためにたたかってきたため、運動の過程で民衆のことを思う気持ちは十分に形成されませんでした」と指摘しています(同書p8)が、単なる労働運動・待遇向上運動の延長線上では、労働者は往々にして自分たちの利益拡大にのみ関心を示し、社会全体の利益を考えることはしないものです。社会の主人であるべき人民大衆は、個人主義者等であってはならないのは当然ですが自己の生産単位・職場の本位主義者であってもならないはずです。
かつてアダム・スミスは「神の見えざる手」が働く前提として「公平な観察者」という概念を打ち出しました。自由市場と「公平な観察者」とを両立させるスミスの理想は、制度設計の問題として実現可能性が疑わしいと言わざるを得ませんが、「公平な観察者」は社会主義社会において必要とされるでしょう。
■社会のあらゆるものの主人としての地位を占め権利を行使するには、人民大衆の創造的能力を養う必要がある
続いてキム・ジョンイル総書記は、「人民大衆の創造的能力を培養」すべきだとします(p25)。人民大衆は社会のあらゆるものの創造者なので、革命と建設の成果は、人民大衆の自主的意識と創造的能力を高める活動をいかに進めるかにかかっているからです。人民大衆の自主意識とともに創造的能力を高める必要があるのです。このことは、人間が唯一の自主的かつ創造的存在であるからこそ人間が世界の主人としての地位と役割を得られるというのがチュチェ思想の人間観なので、自主意識を高めて責任と役割を果たすこと(前項)と並んで、人民大衆の創造的能力を養うことは当然の結論になります。
生産力の問題については本稿でも先に触れましたが、従前の社会主義理論が結局のところ生産力至上主義に陥り、それが更に「社会主義政権下では生産力を向上させさえすれば、社会主義建設は推進・強化され、ゆくゆくは共産主義社会が実現する」という荒唐無稽な展望に変質した歴史的教訓を踏まえたとき、キム・ジョンイル総書記が、生産力向上の論点を含めつつそれを「人民大衆の創造的能力を培養すべき」という形で取りまとめたことは画期的なことであると言えるでしょう。マルクス主義の理論を下敷きにしつつ歴史的教訓をも踏まえて、人間を中心に据える世界観・社会歴史観を貫徹することで説得力のある理論を構築さなっているわけです。
資本主義社会では人民大衆の自主的意識と創造的能力は十分には高まらないとキム・ジョンイル総書記は指摘なさいます。なぜならば、資本主義社会の主人である資本家は、自らに従順で剰余価値を生みだす奴僕を必要としており自主意識に目覚め多方面にわたって発達した自主的で創造的な人間は必要としていないからです。確かに日本においてもかつて、作家の三浦朱門がそのようなことを口走っていたとされています(http://www.labornetjp.org/news/2010/1265641187674JohnnyH/)。「帝国主義者と資本家は、勤労者大衆を資本の奴隷にするために手段と方法を選ばず、大衆を思想的に堕落させ、かれらの創造的能力を奇形化してい」るのです(p26)。
資本主義的生産様式に基づく資本主義経済は、確かに人類史全体を見たとき生産力を飛躍的に拡大させ物質的生活を豊富にしました。私たちはいま、100年前・200年前とは比べ物にならないほど物質に溢れた生活を送ることができています。しかし、資本主義経済における個々の生産者は、人々の需要を満たして生活を豊かにすること自体は目的とはしておらず、商品を販売して利益を得ること自体、つまり価値増殖を生産活動・経済活動の目的としています。需要充足自体ではなく利潤獲得を経済活動の目的としている以上は、すべてはどうしてもその目的に従属する形を取らざるを得ません。人民大衆の自主的意識と創造的能力は、利潤獲得に有用ないしはそれを妨害しない程度で許されるに留まるものであり、それ自体が目的にはなり難いのです。
特に資本主義経済は営利経済であると同時に競争経済でもあり「停滞とはすなわち後退」となるので、不断に利潤を上げ続けざるを得ません。それゆえ、特に衣食住が基本的に充足されている現代資本主義社会では、コマーシャル・メッセージ(CM)などを駆使して流行を人為的に創出し、存在しなくても生きていく上では問題はないような需要を半ば強引に作り出してまで商品を売り込もうとするケースも頻繁に目にすることができます。この点についてキム・ジョンイル総書記は先に「前進しよう」論文において「資本家は、商品の販路がしだいにとざされていくにつれ、非人間的な需要を人為的につくりだし、人びとの物質生活を奇形化する方向に進んでいます。資本家によって奢侈と腐敗堕落した生活が助長され、人間の肉体と精神を麻痺させる各種の手段がつくりだされた結果、麻薬常習者やアルコール中毒者、変態的欲望を追い求める堕落分子が日を追って急増しており、人びとは精神的・肉体的障害者に変わりつつあります(中略)資本家は、勤労者大衆の自主的な思想・意識を麻痺させ、人びとを資本主義的な搾取制度に従順にしたがわせるため、反動的で反人民的な思想と文化、腐りきったブルジョア的生活様式をヒステリックにまき散らしています」(『金正日選集』第9巻、p31)と指摘されています。
これに対して国家権力と生産手段が人民大衆のものとなっている社会主義社会は、切磋琢磨という意味での社会主義的競争は存在しますが、生産活動・経済活動の目的は自分たちの需要を満たして生活を豊かにすること自体です。党と国家の指導の下、無秩序な競争は廃除されます。もちろん、資本主義社会から社会主義社会に体制移行したとしても、一定期間は人々の頭の中には資本主義的な思想の残滓があるので、資本主義時代のCMが持て囃していたブルジョア的生活様式すなわち物質偏重志向の発想や、価値増殖志向の発想が現れることもあるでしょう。キム・ジョンイル総書記が第2節において「人間は革命的な組織・思想生活と健全で豊かな文化生活を通して自主的な思想・意識で武装し、全面的に発達した創造的能力をそなえてこそ、社会と集団のため積極的に寄与し、社会と集団のりっぱな構成員として誉れ高く生きていくことができる」(p17-18)と指摘なさったことの重要性、特に健全で豊かな文化生活の重要性は、この点においても重要性を持つと考えます。
■「人民大衆の誉れ高い幸せな生活において本質的内容をなすのは、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし、尊厳ある生を営むことである」
キム・ジョンイル総書記は「人民大衆は、社会のあらゆるものの主人として誉れ高い幸せな生活を享受しなければならない」と言明なさいます(p26)。そして、「人民大衆の誉れ高い幸せな生活において、物質生活は重要な位置を占める」とした上で「人民大衆の誉れ高い幸せな生活において本質的内容をなすのは、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし、尊厳ある生を営むことである」と指摘なさいます(p27)。社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かすことこそが人間が人間たる証なのです。
これは、第2節p17で肉体的生命と社会的・政治的生命との関係に関連して「人間のもっとも誉れ高く甲斐ある生き方は、自己の運命を社会的集団の運命と結びつけ、社会的集団に献身的に奉仕し、社会的集団に愛され信頼されながら、自主的で創造的な生活を営むこと」と確言されていたことの繰り返しでしょう。決して長くはない論文の中で同趣旨のお言葉が繰り返される点を鑑みるに、この点こそがチュチェ思想にもとづく社会主義運動が最も重視していることであり、最終的目標であると見做せるでしょう。
そして、後述されるように、すべての人々が自己の社会的・政治的生命を輝かせる社会は、その社会そのものが一つの社会的・政治的生命体と化します。つまり、チュチェ思想に基づく社会主義・共産主義運動とはすなわち、社会的・政治的生命体を形成するための運動であると言えるでしょう。
キム・ジョンイル総書記は「人民は元来、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かして生きていくことを求めるが、搾取社会ではそれが実現されない」と指摘なさいます。その理由は、「人間による人間の搾取と抑圧は、人民への愛情と信頼とは決して両立しえず、搾取者と被搾取者のあいだには真の愛情と信頼はありえない」からです。「人間の人格的価値が交換価値にかえられ、それが金銭と財物によって評価される資本主義社会では、人民大衆への愛情と信頼について論ずることはできない」のです(p27)。
このご指摘は当ブログがチュチェ思想・主体的社会主義を支持する根本的なところを指摘なさっているくだりです。世界観・社会歴史観だけでなく人生観の問題にも解答を与えているからです。当ブログは、このような見解に共感・理解するからこそ、その実現方途としての主体的社会主義の運動を支持しています。
ブルジョア社会・資本主義社会における人間関係は、端的に言ってしまえば「カネの切れ目が縁の切れ目」であります。本来、人間社会における経済活動は社会的存在としての人間にとって手段に過ぎず、経済生活は社会生活全体の一部分に過ぎない・経済の論理は社会の論理に隷属するはずです。しかし、近代社会・資本主義社会においては部分に過ぎなかったはずの経済分野が社会全体を呑み込んでしまい、社会が経済に隷属する逆転現象が起こってしまっています。その結果として、人間同士の関係までもが経済生活の編成様式、つまり市場的な人間関係、相手を生身の人間としてではなく「自分の役に立つサービスを提供する存在」として取り扱う関係に成り下がっています。人間を「自分にとって使えるか否か」という商品選びの水準で評価し交際する関係が当然化しています。
当ブログか特に危機感を感じるきっかけになったのが、今般の新型コロナウイルス禍でした。当ブログでもかなり力を入れて世相について取り上げました(たとえば、2021年9月9日づけ「「とにかく政府はコロナ禍を今すぐ何とかしろ!」はどのように誤っているのか・・・朝鮮民主主義人民共和国の先進性との比較」)が、新型コロナウイルス禍における日本世論の政府に対する諸々の要求内容が悉く、消費者意識の奇形的肥大化による無い物ねだりの駄々っ子的クレーマーのそれであったと言わざるを得ませんでした。自分たちの共同体であるという意識がまったく欠落しており、未知の病原体に対して本来であれば全国民が知恵を出し合って突破口を見出すべきところ、「とにかく政府はコロナ禍を今すぐ何とかしろ! 方法は分からん! それを考えるのが政治家や役人の仕事だろう! 「国民は税金を払っているんだぞ!」と言わんばかりでした。政治空間に商品取引の感覚を持ち込むことに何の問題意識も働かなくなったわけです。いよいよ人間が全面的に「商品化」しつつあります。
資本主義社会が搾取社会であることは間違いのないことであり、搾取の問題は重大な問題であることは論を俟ちません。しかし、より重大なのは「人間の人格的価値が交換価値にかえられ、それが金銭と財物によって評価され」る点にあると当ブログは考えます。酷使や搾取の問題も重大ですが、人間が人間として見做されない・扱われないということは、それよりも遥かに重大な問題・異常な状況であると考えます。資本主義社会の行きつく先は、社会的存在としての人間の本質に反する異常な社会にならざるを得ないのではないかと危惧するものです。
■「社会主義社会では、愛情と信頼が社会的集団とその構成員間、社会の個々の構成員間に生まれ…全社会が一つの社会的・政治的生命体となり、社会の全構成員が社会的・政治的生命を限りなく輝かしていく…もっとも強固で生命力のある社会となる」――主体的人生観に基づく社会的・政治的生命体論
キム・ジョンイル総書記は「従前の労働者階級の理論はブルジョア反動派の偽善的な超階級的愛情の反動性を暴露し、階級社会では愛情も階級的性格をおびることを明らかにした」と指摘なさいます。ブルジョア連中がが愛用する「国民」談義は虚偽のものであります。しかしながら同時に、「愛情が階級的性格をおびるというのは、愛情と信頼は社会的・階級的立場が同じ人たちのあいだでのみ交わせることを意味するのではない」とし、「社会的・階級的立場は異なっても、人民大衆の自主性を擁護してともにたたかい、創造的活動を共同で進める人たちのあいだには、愛情と信頼を交わす関係が生まれえる」とします(p28)。
その上でキム・ジョンイル総書記は、「社会主義制度が樹立すれば階級的対立は一掃され、人びとの関係は対立と不信の関係から愛情と信頼の関係にかわる」とされます(p28)。社会主義制度においては人々は、互いに愛し合い信頼し合いながら自主的に生きることができます。つまり、第1節でも触れられていたように、世界の主人、自己の運命の主人としての地位を守り、権利を行使して生きられるのです。
社会主義社会では、「愛情と信頼が社会的集団とその構成員間、社会の個々の構成員間に生まれ、それは領袖と戦士のあいだでもっとも崇高な発現をみ」ます。「領袖と戦士、党と人民が愛情と信頼によって結びつき、全社会が一つの社会的・政治的生命体とな」るのです。「社会の全構成員が社会的・政治的生命を限りなく輝かしていく生がもっとも貴く美しい生」の送り方であると言えますが、人々が愛と信頼で結びつき全社会が一つの社会的・政治的生命体となった社会は、「もっとも強固で生命力のある社会とな」ります。社会そのものが一つの生命体になるという意味において、社会的・政治的生命体論(社会政治的生命体論)は社会有機体論の一種であると言えます。
このように、資本主義がカネと権力を社会の紐帯としているとすれば、全社会が一つの社会的・政治的生命体となった主体的社会主義社会では愛情と信頼が社会の紐帯となるわけです。そしてそうした社会であるからこそ、社会の全構成員が社会的・政治的生命を限りなく輝かす最も貴く美しい生が実現した強固で生命力のある社会が実現するのです。この点はまさに、社会的・政治的生命体論の核心部分であります。先にも触れましたが、チュチェ思想に基づく社会主義・共産主義運動とは要するに、社会的・政治的生命体を形成するための運動であると言えるでしょう。
第2節p17で、ここと同じ趣旨で「人間のもっとも誉れ高く甲斐ある生き方は、自己の運命を社会的集団の運命と結びつけ、社会的集団に献身的に奉仕し、社会的集団に愛され信頼されながら、自主的で創造的な生活を営むこと」とキム・ジョンイル総書記が指摘なさっているとおり、社会的集団に献身的に奉仕するから社会的集団に愛され信頼され、それゆえに自主的で創造的な生活を営むことができます。カネの関係や権力の関係では、愛と信頼を得ることはできません。
社会的集団のために献身する生活について、ハン・ドンソン氏の前掲書では次のように詳しく解説しています。すなわち、「自らの運命を集団の運命と一つに結び付けて、集団の要求と利益を、そのまま自分自身の要求の利益と見なし」、「社会と集団の共同の主人になって自主的に生き活動」することです(ハン・ドンソン、2007、p179)。「人間が個人的存在であるとともに集団的存在であ」ることから「人びとの生活にも、個人的な側面と集団的な側面があ」るので、「人びとの生活において、個人的な側面を重視し、個人主義的に生きるのか、あるいは集団的な側面を重視し、集団主義的に生きるのかという問題が提起され」るといいます(同)。
集団主義か個人主義かの対立は、社会主義と資本主義との社会体制上の対立であり、それはつまり、人間を社会的存在であるとする人間観と人間をたんなる自然的・生物学的存在とみなす人間観との対立に行きつくと先に述べましたが、この対立はまた、愛と信頼を紐帯とする社会的・政治的生命を基本とする人生観とカネと権力を紐帯として肉体的生命を基本とする人生観との対立であるとも設定できるでしょう。
また、社会的集団のために献身する生活の創造的な側面についてハン・ドンソン氏の前掲書では、「集団のために寄与することを人生の目的とする人々は、創造的活動も積極的に行うことができ」るとされます。「自己発展の動機を、人民大衆の運命開拓という崇高な事業に寄与することに見いだすとき、創造的情熱は尽き」ないからです。個人的な動機に基づく創造活動は、個人的な能力の限界に達したり個人的に満足したりしてしまえばそれで終わりですが、集団的創造的活動は「個人的なものに自己発展の動機を見いだすときには想像もできない創造力を発揮して、人民大衆の限りない発展のために意義ある貢献をすることができ」るのです(いずれも同書p180)。
結局、社会的集団のために献身する人々の生活は「自主的で創造的に生き発展しようとする自らの要求が実現される喜びと、集団の運命を担って開拓していく誇りに満ちた、充実した生活」となります。これに対して「自分自身の安楽だけを追求する人間は、結局、無為徒食し腐敗堕落した生活をおくることにな」るので、「このような生活に、真の生きがいと幸せはありません」(いずれも同書p180)。
なお、「個人が自らの肉体的生命と社会政治的生命を維持し発展させようとすること自体が、個人主義や利己主義ではありません」。「個人主義と利己主義の誤りは、個人では、世界と自己の運命の主人として自主的で創造的に生き発展することができないにもかかわらず」、「個人の欲望と名誉だけを追求するところにあ」るといいます。特に個人主義については、他人の利益を損ねてでも自己利益を追求する利己主義とは違い個人の自由と平等を主張してはいるものの、「それは、集団を尊重するからではなくて、そうすることが個人の利益を実現するのに有利だから」に過ぎません。
「集団の利益を優先するというのは、個人の要求を放棄するとか、他人のために一方的に犠牲になるという意味では」ないとも言います。「人間はあくまでも自主的存在であって、他人のための手段では」ないので、「人間は、他人のための手段となってはなりません」。ではなぜ、個人が集団のために自らの利益を犠牲にするケースがあるのかというと、「集団の利益のなかに個人の利益があ」るので「より大きい利益のために、小さい利益を犠牲にする」からです(いずれも同書p181)。これがチュチェ思想の集団主義における集団と個人の関係であると言えるでしょう。
なぜ、社会的・政治的生命体において愛情と信頼が社会の紐帯になるのか依然としてピンと来ない方もいらっしゃるかも知れません。本労作で「愛情と信頼」とされているものは、同志愛と革命的信義(革命的義理)という表現になりますが、『チュチェ思想教育における若干の問題について』(1986年7月15日、以下「7・15談話」といいます)においてかなり詳細に言及されています。鐸木昌之氏は前掲書で社会的・政治的生命体論の源流について、7・15談話の内容を分析した上で「社会政治的生命体は、金日成が朝鮮解放前に満洲で展開した抗日パルチザングループを模範にした。この戦闘集団は、指導者と戦士の間の個人的感情で結びつけられ、抗日という目的のために自己の生命までも犠牲にして戦うものであった。また、この遊撃隊は人民の海のなかを泳ぐ魚であり、人民と遊撃隊との関係は切っても切れないものであった。すなわち、抗日遊撃隊の指導者、戦士達、そしてそれを支持する大衆の間で成立した運命共同体を北朝鮮社会全体に敷衍しようとしたのである」(p155-156)と述べていますが、これは非常に分かりやすい上に、各種政治宣伝との整合性を考えるに論理的に説得力があると考えます。光復という理想を目指した抗日パルチザンがそうしたように、共産主義社会という理想を目指す朝鮮民主主義人民共和国もこのように結束すべきだというわけです。
この人間関係は、「自由と平等」を前提としつつもそれよりも一段高みにある関係性であると言えます。7・15談話でキム・ジョンイル総書記は「品物を売る人と買う人は平等な関係にあるとはいえても、彼らが必ずしも同志的に愛しあう関係にあるとはいえません。自由と平等の関係を革命的信義と同志愛の関係と対立させるのも正しくありませんが、どちらかの一方を他のものに溶解させようとするのも誤りです」(同名日本語版小冊子、外国文出版社、2022年、p20)と指摘なさっています。
また、「個人がその生命の母体である領袖、党、大衆に忠誠を尽くすのは、誰かの指図によってではなく、自分自身がもっている社会的・政治的生命の根本要求から生まれ出るものです。それは他人のためではなく、自分自身のためです」(同p23)とも仰っています。
同志愛と革命的信義を現代において如何なる方法で実践すべきかについて、7・15談話でキム・ジョンイル総書記は次のように指摘されています。
当ブログは、先に述べたこととも重なりますが、社会的・政治的生命体論は、本質的に社会的存在としての人間が幸福に生きる人生観を基礎付けるものであると確信するものです。人間中心の社会主義運動は、単に労働者階級の生活水準を向上させ経済的利益を実現するといった水準にとどまる問題ではなく、人間が本来的に持つ人間性を取り戻すことであると言ってよいと考えます。
人間性の本質は、その自主性にあります。愛とはお互いの自主性の尊重です。人間が自主的な生を送るためには、自然・社会・自分自身の主人、政治・経済・思想文化の各生活分野の主人となり、人々が愛と信頼に基づいた道徳義理的な一心団結をなす必要があります。そしてそのためには、修正資本主義的対応では足りず社会的・政治的生命体の形成を目指す社会主義・共産主義運動が必要になると考えます。ここにおいて、人類史が資本主義で終わるのではなく社会主義、それも人間にとって生命である自主性を回復する主体的な社会主義に進んで行くものと考えます。
■チュチェ思想は人生観を持っているがゆえに死生観も持っている
この労作では深く言及されてはいませんが、全社会が一つの社会的・政治的生命体になり人民大衆がその中で有機的に結びつくということは、生物としての人間が死亡して肉体的生命を終えたとしてもその社会的・政治的生命は、一つの社会的・政治的生命体の中で永生することを意味します。
ハン・ドンソン氏の前掲書によると「崇高な精神をもって人民大衆のために生涯をささげた人々は、社会的集団と、愛と信頼の絆で結ばれてい」るので、「このような人々は、たとえ肉体的生命が途絶えたとしても、その思想と業績は、社会的集団が続く限りそのなかで引き継がれ、かれらにたいする愛と信頼は、世代を越えて人々の心のなかに残ります」。それゆえ「人民大衆の運命を開拓する偉業にすべてを尽くして献身するとき、肉体的には死んでも、社会政治的には永遠に生き続ける」のです(ハン・ドンソン、2007、p169)。
また、ハン・ドンソン氏はより遠大な見解から、社会的・政治的生命の永生は「歴史の流れとともに限りなく引き継がれ、歴史的価値をもち続け」るとも言います。「個人の一生には限りがありますが、社会と集団は限りなく存在し発展」するので、「人々は、社会と集団の未来の創造に寄与することによって、人間の生の大きな歴史的流れに合流することにな」るからです。「人民大衆と生死苦楽をともにしながら自主的で創造的に生きた人生は、代を継いで人々の尊敬と愛を受け、その名は歴史に残ることにな」るのです。これに対して「自分のためだけに生きる生活は、個人の一生で終わる生活で」であり「そのような生活は歴史に残りません」(ハン・ドンソン、2007、p185)。ここには儒教文化の死生観の影響が非常に色濃く現れていると言えるでしょう。
意味が分からないという感想をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。そこでまたしても鐸木昌之氏の前掲書から引用したいと思います。
加地伸行氏の儒教における死生観を引用しつつ社会的・政治的生命体論の死生観の論理構造の類似性を指摘する上掲引用部分からは、ほとんどの人が儒教的死生観を持っていない日本人には理解困難かも知れません。「自己の生命とは、実は父の生命」というのは日本文化の文脈では馴染みの薄い考え方でしょう。しかし、朝鮮文化の文脈に照らしたとき、社会的・政治的生命体論の死生観が決して突拍子のないことを言い出しているわけではないということだけはお分かりいただけるのではないでしょうか。
なお、鐸木氏は引用範囲の最終段落で「それゆえ主体の血統の創始者である金日成と金正日親子の実際の血縁関係もそのなかに含意されているのはいうまでもない」として、朝日新聞の牧野愛博氏が一時期、ナントカのひとつ覚えのように連呼していた所謂「白頭の血統」論に通ずる主張を展開していますが、王の息子が君主制主義者であるとは限らないように革命家の息子が革命家になるとは限りません。鐸木氏が取り上げている「代々多くの愛国者を輩出した稀有の革命的家系」というくだりを当ブログは、そのような家系に育ったからこそ、つまり、最も立派な革命家一族であるキム・イルソン一家に生まれ育ったというその思想的生育環境が、キム・ジョンイル総書記をして生まれながらの革命家としての英才教育を受ける機会を獲得でき、立派な革命家せしめたと解釈すべきではないかと考えます。
それはさておき、このような死生観を持っているからこそチュチェ思想において最も恐れるべきことは、社会集団から見放されること、そして、人々から忘れられることになるでしょう。チュチェ思想は独自の人生観を持っているがゆえに死生観も持っているわけです。
キム・ジョンイル総書記が逝去なさったときの公告≪전체 당원들과 인민군장병들과 인민들에게 고함≫(すべての党員と人民軍将兵、人民に告ぐ)では、最後に≪위대한 령도자 김정일동지의 심장은 비록 고동을 멈추었으나 경애하는 장군님의 거룩한 존함과 자애로운 영상은 우리 군대와 인민의 마음속에 영원히 간직되여있을것이며 장군님의 성스러운 혁명실록과 불멸의 혁명업적은 조국청사에 길이 빛날것이다.≫(偉大な領導者である金正日同志の心臓は、たとえ鼓動を止めたとしても、敬愛する将軍様の神聖なる尊名と慈愛に満ちた御姿は我が軍隊と人民の心の中に永遠に残り続けるであろうし、将軍様の聖なる革命実録と不滅の革命業績は祖国の青史に永遠に輝き続けるだろう)という一文がありましたが、これはチュチェの死生観が非常によく表現されているものであると言えます。キム・ジョンイル総書記は今もなお生き続けておられるのです。
ディズニー映画に『リメンバー・ミー』という映画があります。大きくヒットし、テレビでも何度か放送されているので見たことがある方もいらっしゃるでしょう。死後の世界が存在するという世界観の下、メキシコ人の少年が死者の国に渡るというアニメ映画ですが、その中で「生者の国において皆から忘れられると死者の国からも消滅してしまう」という「二度目の死」なる設定があります。(筋書はウィキペディアにあるので読んでみてください)。
ディズニー映画なので社会的・政治的生命体論に則っていないのは勿論で、儒教の死生観を踏まえているとも考えにくいものですが「生きている人たち皆から忘れられると完全に消滅する」という「二度目の死」なる設定には、当該映画は家族愛(生物学的な血縁関係の間柄での愛)の物語に留まってい点には注意が必要ですが、チュチェ思想の死生観にも繋がるものがあるように思えます。そして、そのような映画が西側世界で大きくヒットしたことは、西側世界においてもチュチェ思想の死生観にまったく可能性がないとは言えないことを示しているのではないかと考えます。
このような死生観は、個人主義に基づく社会・資本主義社会では勿論、実現不可能なものです。資本主義社会がいかに高度な生産力を誇っていたとしても実現できるのは個人の肉体的生命の保証にとどまります。資本主義社会では「自由と平等」の関係は実現され得ても、愛と信頼の関係性が紐帯として実現されることはありません。いま資本主義社会では盛んに「社会的包摂」というキャンペーンが展開されていますが、極めて難航しています。社会的包摂もできないのだから、社会的・政治的生命の永生など到底不可能です。
集団主義か個人主義かの対立は社会体制の対立であり、それはつまり人間観の対立であり、人生観の対立でもあると先に述べましたが、これはそのまま死生観の対立になるわけです。個人として生き肉体の死滅とともに終わる生命の見方と、集団とともに生き社会的・政治的に永生する生命の見方との対立です。
■仁徳政治論が社会主義・共産主義党の性質を理論的に転換した
キム・ジョンイル総書記は、「人民大衆中心の社会主義は社会生活のすべての分野に同志的団結と協力、愛情と信頼の関係をもっともりっぱに具現し、政治も愛情と信頼の政治にかえる」として社会主義政治の本質的特徴を端的に指摘なさいつつ「愛情と信頼、これは人民大衆が政治の対象から政治の主人となった社会主義社会において政治の本質をなしている」として「われわれは愛情と信頼の政治を仁徳政治と称している」と宣言なさいます。そして「社会主義社会で真の仁徳政治を実現するためには、人民にたいする限りない愛情を体現した政治指導者をおしたてなければならない」となさいます。「仁徳に欠けていれば人民に背いて社会主義を滅ぼす結果をもまねきかねない」からです(p28-29)。
「社会主義社会で愛情と信頼の政治をほどこすためには、社会主義政権党を母なる党に建設しなければならない」とキム・ジョンイル総書記は仰います(p29)。「労働者階級の党は社会の指導的政治組織であ」るので、「社会主義社会で国家機関とすべての組織が人民にいかに奉仕するかということは結局、党をいかに建設するかということと関連している」からです。
「党を母なる党に建設するというのは、母が子をこのうえなく愛し、あたたかく見守るように、党を、人民大衆の運命を責任をもってこまかに見守る真の人民の導き手に、保護者にすることを意味」します。キム・ジョンイル総書記は、「以前は党を主に階級闘争の武器とみなした」としつつ「労働者階級の党は階級闘争も展開すべきであるが、党のすべての活動はあくまでも人民への限りない愛情と信頼から出発しなければならない」(p29)として社会主義・共産主義党の性質の理論的転換を図られました。「党は人民大衆の利益を擁護することを第一とし、人民大衆の利益を侵害する者とたたかわなければならない」のです。党は確かに階級闘争の武器ではあるが、それは結局のところ人民への限りない愛情と信頼から出発しているわけです。当ブログはこの政治観に全面的に賛同するものです。
本稿では先に「革命と建設において主観主義を避け、紆余曲折をまぬかれる唯一の道は、人民大衆のなかに入り、かれらの意思と要求を聞き取ることである」という一文に関連して、このことを革命的大衆路線として位置づけました。大衆路線というと毛沢東・中国主席の政治姿勢として非常に有名なものです。キム・ジョンイル総書記の政治姿勢も毛沢東主席の政治姿勢と通ずるところは確かにありますが、「母なる党を建設すべきだ」とする仁徳政治論はキム・ジョンイル総書記の専売特許であると言うべきでしょう。
愛情と信頼が全社会が一つの社会的・政治的生命体となった主体的社会主義社会の紐帯であるわけです。朝鮮労働党の革命的大衆路線は、単に党員が人民の輪の中に自ら入って行き意思と要求を聞き取ることではなく、人民への限りない愛情と信頼から出発し、母が子をこのうえなく愛してあたたかく見守るように接することなのです。
■人民に忠実に奉仕する幹部と党員を育成するために
キム・ジョンイル総書記は、「社会主義政権党を母なる党に建設するためには、すべての幹部と党員を人民を限りなく愛し、人民に忠実に奉仕する精神で教育しなければならない」と強調なさいます。「革命家が労働者階級の党に加わるのは、私利と功名、権勢のためではなく、人民によりよく奉仕するためであ」り「苦労は人に先がけ、楽は後にまわし、困難な仕事はすすんで引き受け、成果は譲る人が真の共産主義者であり、労働者階級の党の党員である」と仰います。そして「党員をこのように育てるためには、かれらのあいだで人民に献身的に奉仕する思想教育活動を強化しなければならない」とも仰います(p29-30)。
欲まみれの俗物には、なかなか達しえない高い党性・思想性を必要とする水準です。だからこそ社会主義・共産主義党の党員はエリート中のエリート、選良の中の選良であるわけです。党は常に人民大衆と渾然一体の関係にあらねばならぬが、かといって誰彼構わず党員にするわけにも行かないと考えます。単なる出世機会主義者などは慎重に排除しなければなりません。キム・ジョンイル総書記は「少なからぬ党が人民大衆の支持と信頼を失い、結局、その存在を終えるようになったのは、党を、人民の運命を責任をもってあたたかく見守る母なる党に建設するのでなく、権勢を振るい、権力を乱用する官僚的党に転落させた結果である」と警鐘を鳴らされています(p29)。
キム・ジョンイル総書記は「社会主義社会で仁徳政治の実現を阻む主な要素は、幹部のあいだにあらわれる権柄と官僚主義、不正腐敗である」と仰います。社会主義はあらゆる特権に反対しているのにも関わらず汚職が発生するというのは、反社会主義現象以外の何物でもありません。
キム・ジョンイル総書記は「国家主権と生産手段が人民の手に掌握されているかぎり、社会主義社会で新たに特権階級が生まれることはない」が、「党と国家のすべての政策は幹部を通じて実行されるので、党と国家がいくらりっぱな政治をほどこしても幹部が権柄と官僚主義に走ると、それは正しく具現されない」と指摘なさいます(p30)。そして、そのためにキム・ジョンイル総書記は「幹部を徹底的に革命化」しつつ「かれらのあいだで権柄と官僚主義、不正腐敗に反対する闘争を積極的にくりひろげる」こと、「幹部のあいだで権柄と官僚主義、不正腐敗の傾向を根絶するための教育活動と思想闘争をひきつづきねばり強くくりひろげなければならない」と強調なさいます。
これは非常に重要な指摘です。「大衆から支持されない党はその存在を維持することができない。歴史的教訓が示しているように、社会主義政権党が幹部の権柄と官僚主義、不正腐敗を許容するのは、みずから墓穴を掘るようなものである」と指摘なさっているのは全面的に正しいと考えます。しかし、このことについて、当ブログの関心に沿って日本の状況に引き付けると、「革命家が労働者階級の党に加わるのは、私利と功名、権勢のためではなく、人民によりよく奉仕するためであ」り「苦労は人に先がけ、楽は後にまわし、困難な仕事はすすんで引き受け、成果は譲る人が真の共産主義者であり、労働者階級の党の党員であ」るところ、そのような人材は日本には非常に稀有であると言わざるを得ません。
キム・ジョンイル総書記は「鍛練の足りない一部の幹部は思想的に変質し、人民から遊離して特殊階層化しかねない」と仰いますが、日本ではむしろ「鍛練の足りない幹部」が多数派になるでしょう。それゆえ、キム・ジョンイル総書記の指摘を日本において実践するとなると、当ブログは、教育活動と思想闘争はもちろん積極的に展開させなければならないが、仮借なき汚職排撃闘争及び、いわゆる「不正のトライアングル」理論に基づく仕組み作りも前面に押し出す必要があると考えます。
全体の文脈から考えて、ここでの教育活動及び思想闘争重視のくだりは、「社会主義社会は高い思想・意識で武装し、一つに統一団結した人民大衆の創造力によって発展する社会であ」り「人間改造を優先させてこそ革命の主体を強化し、その役割を高めて社会主義を成功裏に建設することができる」という命題に対応しているものと思われます。損得勘定で人を動かす方法論がブルジョア的であることは論を俟ちませんが、日本はまさにブルジョア社会であるからこそ、教育活動及び思想闘争にプラスして幹部当人の損得勘定に訴えるべく汚職排撃闘争も展開せざるを得ないものと考えます。
また、キム・ジョンイル総書記が権柄と官僚主義、不正腐敗の問題を「われわれの内部に古い思想を扶植しようとする帝国主義の思想的・文化的浸透策動がつづいている状況」と結び付けて反汚職闘争を論じている点に注目すべきであると考えます。
ほんのわずかな体制の綻びを突いて全体を瓦解させようとするのが帝国主義者の手口です。特に不正腐敗は、「あいつばかり地位を利用して美味しい思いをしやがって、オレだって・・・」「みんなやっているから・・・」といった具合に他人に「伝染」してゆくものです。それは社会主義体制を内部から衰弱させるだけではなく、そうした思想的荒廃が外部勢力に付け入る隙を与えることになります。特に帝国主義者は本質的に個人主義、個人の私的利益の徹底的な追求を是とする思想的基盤に立っているので不正腐敗と思想的に親和的です。社会主義政権党幹部の権柄と官僚主義、不正腐敗は、帝国主義者の足掛かりになりかねないのです。キム・ジョンイル総書記の指摘を全面的に支持するものです。
■人民大衆の社会的・政治的生命を輝かす党と領袖の仁徳政治
キム・ジョンイル総書記は、党と領袖の仁徳政治によって朝鮮人民は社会的・政治的生命を輝かしており、誉れ高く尊厳ある生を営んでいると指摘なさいます。「社会の全構成員が互いに信頼し愛し、助け合いながらむつまじい大家庭をなし、ともに生きがいと幸せを享受しているのがわれわれの社会の真の姿であ」り、それゆえに「わが国では全人民が領袖を実の父と仰ぎ、党のふところを母のふところと信じて慕い、領袖、党、大衆が生死、運命をともにする一つの社会的・政治的生命体をなしている」と指摘なさいます(p31)。
既にふれてきたとおり、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし尊厳ある生を営むことが社会のあらゆるものの主人としての誉れ高い幸せな生活であり、社会主義体制においてこそ全社会は一つの社会的・政治的生命体となるので社会の全構成員が社会的・政治的生命を限りなく輝かしていけるようになるわけですが、より具体的には、党と領袖の仁徳政治を執り行うことが必要であるというわけです。
また、精神的・道徳的風格だけでなく物質や文化面においても健全かつ平等な生活が現れていると指摘し、無料義務教育制や無料治療制について言及していらっしゃいます(p32)。翻って日本では、たとえば社会保険料については「給付水準と負担水準」のバランスの話ばかりが取り沙汰され、そもそもの制度理念などについては顧みられることさえありません。日本における仁徳政治など夢のまた夢であると言わざるを得ないでしょう。
■仁徳政治と後代愛
キム・ジョンイル総書記は「わが党の仁徳政治の恩恵は、育ちゆく新しい世代にいっそうこまやかにほどこされている」として後代愛について筆を進められます。「革命の前途と、国家と民族の興亡盛衰は新しい世代をいかに育てるかにかかっている」ため「新しい世代の育成問題は親だけに責任を負わせることではない」と言明されます(p32)。
「新しい世代の将来が親の財力によって左右される資本主義社会では、かれらが社会的不平等と社会悪の餌食になるのは避けられない」が、これに対して「仁徳政治が実施されているわれわれの社会主義社会では、すべての新しい世代を国家が引き受けて育てている」とします(p33)。日本では昨今「親ガチャ」という言葉が頻繁に取り沙汰されます。「親ガチャ」は必ずしも教育の話に限ったものではありませんが、親の経済力と子への教育水準の関係で語られることが多いものです。ここ10年ほどで「質のよい教育はカネを出して買うものだ」という観念がだいぶ薄れてきたものの、依然として日本国家の腰は重いと言わざるを得ません。ブルジョア社会の支配階級は有産階級であり、有産階級は子弟に対する良質な教育にかけるべき資金等に困っていないので、ブルジョア社会では新しい世代の育成問題の優先度は高くはないのです。やはり、日本における仁徳政治など夢のまた夢であると言わざるを得ないでしょう。
■仁徳政治は抗日武装闘争以来の伝統的政治方式であり、広幅政治でもある
キム・ジョンイル総書記は、「仁徳政治は、偉大な領袖金日成同志が早くも抗日革命の日びにその歴史的根源を築き、革命と建設の進展にともなってさらに深化発展させてきた伝統的な政治方式である」と指摘なさいます(p33)。「社会的・政治的生命体論の根源は抗日パルチザンにある」とよく外部からも指摘されることですが、それらの指摘はまったく見当違いというわけではないことが、このくだりから判定できるでしょう。
「人民を限りなく愛する気高い徳性をそなえた敬愛する金日成同志を領袖に仰いだがゆえに、わが国では真の人民の政治、仁徳政治の誇らしい歴史が開かれるようになった」(p33-34)と指摘なさるキム・ジョンイル総書記。たしかに、『キム・イルソン将軍の歌』に歌われているように、キム・イルソン主席は満州広野の吹雪をかき分け密林で夜を明かしてこられました。建国後も『忠誠の歌』で歌われているように、夜明けの早い時間から農場や工場を訪ねては精力的に現地指導なさいました。これらすべては人民に対する限りない愛情がなければ不可能なことです。
キム・ジョンイル総書記は「わが党の仁徳政治は、各階層の人民に差別なく愛情と信頼を与える大いなる愛情と信頼の政治である。そういう意味で、われわれはわが党の仁徳政治を幅広い政治といっている」と宣言なさいます(p34)。文献によっては「広幅政治」と表記されることもあります。「わが党は過ちを犯した人であっても見放さず、教育改造して正しい道に導き、社会的・政治的生命を最後まで輝かしていけるよう見守っている」がゆえに幅が広い政治だというわけです。
このことは「北朝鮮」文学の研究分野ではかねてより指摘されてきたことです。古典的な社会主義リアリズムでは決して表象化されないような人物を敢えて取り上げ、そうした人物がどのような葛藤を経て改心してゆくのかや、あるいは、周囲の人々が初めのうちは「あんな勝手なことをしてきておいて、何を今更・・・」と思いつつ、次第に変化する当人を見て過去を許して受け入れるべきかどうか葛藤するのかを題材にしたテーマが少なくありません。広幅政治については、このくだりだけをみるとキレイゴトのプロパガンダだと言いたくなる気持ちも分からなくはありません。しかし、文学論壇での動向を鑑みるに大真面目な課題として取り組まれているものです。
■民族の優れた品性が社会主義において全面的に開花した
キム・ジョンイル総書記は「朝鮮人民にたいする党と領袖の気高い愛情と信頼は、人民のあいだに党と領袖への限りない忠誠を呼び起こして」おり、「朝鮮人民のすぐれた品性は、現代にいたって新たな精神的・道徳的基礎のうえに全面的に開花発展している」と指摘なさいます(p34)。「朝鮮人民は党と領袖の仁徳政治のありがたさを深く感じており、その恩徳に忠誠をもって報いるために身も心もささげてたたかっている」のです。
個人的な思いですが、ロシア語版『インターナショナル』の≪Мы наш, мы новый мир построим,Кто был никем − тот станет всем!≫`という歌詞にうたわれるようなソ連流の社会主義・共産主義のビジョンも好きですが、≪우리 자랑 이만저만 아니라오≫の≪민족문화 혁명전통 체계있게 가르치며 조국앞날 지고나갈 학생들이 자랍니다.≫にうたわれるように、민족문화(民族文化)と혁명전통(革命伝統)とを等しく取り扱う共和国流のの社会主義・共産主義のビジョンのほうが魅力的に感じるところです。なお、この点は、本稿最終節の温故知新論に繋がります。
■朝鮮式社会主義は必勝不敗である
キム・ジョンイル総書記は「わが党の仁徳政治は領袖、党、大衆の一心団結の源となっている。愛情と忠誠にもとづく領袖、党、大衆の一心団結はもっとも強固な団結であり、このような一心団結に根ざしている朝鮮式の社会主義は必勝不敗である」と確言なさいます(p35)。国家主権と生産手段が人民のものとなることで個人主義が克服されて集団主義化されており、また、党と領袖の仁徳政治が執行されている朝鮮民主主義人民共和国においては、社会は一つの社会的・政治的生命体となり社会の全構成員が社会的・政治的生命を限りなく輝かしていけるようになっているが、このような領袖、党、大衆の一心団結はもっとも強固な団結であるので、朝鮮式社会主義は必勝不敗なのです。
これに対して先にも述べたとおり、人間関係がいよいよ全面的に「商品化」しつつある日本では、仮に党と首領が人民に対して限りない愛に基づく政治を施したとしても「税金を払っているのだから当然」としか考えないでしょう。
キム・ジョンイル総書記は労作の最後に「人民大衆が国家と社会の主人としての地位を守って権利を行使し、主人としての責任と役割を果たし、主人としての誉れ高い幸せな生活を享受しているところに、人民大衆中心の朝鮮式社会主義が人民大衆の絶対的な支持と信頼を受ける不抜の社会主義となる根拠がある」としつつ「わが党はつねに、社会のあらゆるものの主人である人民大衆を絶対的な存在とし、人民に限りない愛情と信頼をほどこす真の人民の政治、仁徳政治をあくまで実施していくであろう」、そして「人間本位の社会主義、人民大衆中心の社会主義は、もっとも科学的ですぐれた有力な社会主義である。社会主義はその科学性と真理性により必ず勝利する」と確言なさって労作を締めくくられます。
■おさらい
労作の内容を、本文の順序とは若干入れ替えつつ内容を振り返りたいと思います。
チュチェ思想においては人間は社会的存在であるとされます。ここでいう社会的存在とは、人間が人間たりえるのは社会関係を結んで活動するからこそであるという意味です。人間を特徴づける自主性・創造性・意識性は生物としての進化の結果として自然に獲得したものではなく人間が社会的関係を取り結ぶ中で形成されるものです。
社会は、人間を単なる生物体ではない特殊な存在とする決定的な要素です。自然環境が人間に肉体的生命を付与し、社会環境が人間に社会的・政治的生命を付与します。人間は、肉体的生命と社会的・政治的生命の二つを持っています。
肉体的生命は人間以外の動物も持っていますが、社会的・政治的生命は人間だけが持つものです。それゆえ、社会的・政治的生命の所有こそが人間が人間たる特徴・根拠になります。人間にとって自主性は生命です。人間は自主的な社会的存在として、なにものにも従属したり束縛されることなく自主的に生きることを求めます。そしてそのために目的意識性を持って創造的能力を発揮します。人間以外の動物にはそれができないので本能に基づいて行動するほかなく、また、客観的条件に生殺与奪を握られます。
社会的・政治的生命をもってこそ、人々は、社会的集団とともに、世界と自らの運命の共同の主人となり、自主的で創造的に生き発展することができます。社会に背を向け放蕩する人は、社会的・政治的生命を得ることができず、社会的集団とともに世界と自らの運命の共同の主人になることができないので、まさに資本主義国の人間のように個人的努力の範囲やカネと権力で解決できる範囲で多少のことはできたとしても、自主的で創造的に生き発展することができません。
人間にとっての自主性は生命であるからこそ肉体的生命よりも社会的・政治的生命が重要になります。このような人間の生命の本質ゆえに、チュチェ思想は生の価値、すなわち人生観として「人間のもっとも誉れ高く甲斐ある生き方は、自己の運命を社会的集団の運命と結びつけ、社会的集団に献身的に奉仕し、社会的集団に愛され信頼されながら、自主的で創造的な生活を営むこと」と定義します。社会的・政治的生命は社会環境から付与されるものであるからこそ人間の生の価値は、人間が社会的集団とどう結合するかにかかっています。社会的・政治的生命を輝かし尊厳ある生を営むことこそが人間の自主的要求を満たすことであり、それはすなわち人間の自主的本性に適うことになるのです。
こうした生は、人民大衆が国家主権と生産手段が人民のものとなっている社会主義社会でのみ実現可能です。国家主権と生産手段とを人民大衆が自ら所有する社会主義社会は集団主義に基づいているからです。人間が社会的集団をなして生きていくためには、集団の自主的要求と個人の自主的要求を実現していかなければなりませんが、それは集団主義においてのみ立派に実現されます。個人主義に基づく敵対的階級社会では決して実現され得ません。階級的対立と社会的不平等を生みだし人民大衆にたいする少数支配階級の搾取と抑圧を随伴するようになるからです。
このことをキム・ジョンイル総書記は端的に「社会的集団をなして活動するのが人間の生存方式であり、人間の自主的要求が集団主義によってのみりっぱに実現するのであるから、集団主義にもとづく社会、社会主義・共産主義社会は、人間の自主的本性にかなったもっとも先進的な社会である」と表現なさいました。
社会主義制度が樹立すれば階級的対立は一掃され、人びとの関係は対立と不信の関係から愛情と信頼の関係にかわります。人民大衆の自主性を擁護してともにたたかい、創造的活動を共同で進める人たちのあいだには、愛情と信頼を交わす関係が生まれえるからです。資本主義がカネと権力を社会の紐帯としているとすれば、全社会が一つの社会的・政治的生命体となった主体的社会主義社会では愛情と信頼が社会の紐帯となるわけです。
社会主義社会の紐帯である愛情と信頼は、領袖と戦士のあいだでもっとも崇高な発現をみます。領袖と戦士、党と人民が愛情と信頼によって結びつき、全社会が一つの社会的・政治的生命体となります。社会の全構成員が社会的・政治的生命を限りなく輝かしていく生が最も貴く美しい生であり、それを実現した社会がもっとも強固で生命力のある社会です。社会的集団に献身的に奉仕するから社会的集団に愛され信頼され、それゆえに自主的で創造的な生活を営むことができます。
なお、個人が自らの肉体的生命と社会的・政治的生命を維持し発展させることに関心を寄せることは、ただちに個人主義や利己主義になるわけではありません。また、集団の利益を優先するというのは、個人の要求を放棄するとか他人のために一方的に犠牲になるという意味ではありません。個人が集団のために自らの利益を犠牲にするケースについては、集団の利益のなかに個人の利益があるので、より大きい利益のために小さな利益を犠牲にするものです。
このように、チュチェ思想に基づく社会主義・共産主義運動とはすなわち、社会的・政治的生命体を形成するための運動であると言えるでしょう。チュチェ思想によって、正しい人間観に基づく豊かな人生観と社会主義理論とが結びついたわけです。
このような生を送る人は、社会的集団と愛と信頼の絆で結ばれているので、たとえ肉体的生命が尽きたとしても、その思想と業績は、社会的集団が続く限りそのなかで引き継がれ、そうした生を送った人に対する愛と信頼は、世代を越えて人々の心のなかに残ります。それゆえ、そうした人は、社会政治的には永遠に生き続けることになります。資本主義社会がいかに高度な生産力を誇っていたとしても実現できるのは個人の肉体的生命の保証にとどまるので、このような死生観は、個人主義に基づく社会・資本主義社会では勿論、実現不可能なものです。
集団主義か個人主義かの対立軸は社会主義と資本主義との社会体制上の対立軸であり、それはつまり、人間を社会的存在であるとする人間観と人間をたんなる自然的・生物学的存在とみなす人間観との対立軸であり、愛と信頼を紐帯とする社会的・政治的生命を基本とする人生観とカネと権力を紐帯として肉体的生命を基本とする人生観との対立軸でもあり、そして個人として生き肉体の死滅とともに終わる生命の見方と、集団とともに生き社会的・政治的に永生する生命の見方との死生観上の対立軸として設定できます。
人生観そして死生観にも踏み込んでいる点において、当ブログは、人間中心の社会主義運動、つまり「人間は、互いに社会的関係を結んで自主性、創造性、意識性をもって生き活動する社会的存在である」という人間観、そしてそれに基づく世界観、社会歴史観、さらに人生観そして死生観に基づいて社会的・政治的生命体を構築することを目指す主体的な社会主義運動は、単に労働者階級の生活水準を向上させ経済的利益を実現するといった水準にとどまる問題ではなく、人間が本来的に持つ人間性を取り戻すことであると言ってよいと考えます。
人間性の本質は、その自主性にあります。愛とはお互いの自主性の尊重です。人間が自主的な生を送るためには、自然・社会・自分自身の主人、政治・経済・思想文化の各生活分野の主人となり、人々が愛と信頼に基づいた道徳義理的な一心団結をなす必要があります。そしてそのためには、修正資本主義的対応では足りず社会的・政治的生命体の形成を目指す社会主義・共産主義運動が必要だと考えます。
社会主義の従前理論は正しい人間観に立脚してこなかったため人民大衆の自主化の道筋を正しく解明することができませんでした。「人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定するという」哲学的原理に基づく、正しい人間観に立脚しているチュチェ思想によって社会主義は新たな科学的土台のうえに引き上げられ、人民大衆中心の社会主義となりました。
社会的・政治的生命体を構築することを目指す人民大衆中心の社会主義は、正しい人間観に立脚するが故に人間改造・思想改造をすべての活動に優先させつつ自立的民族経済と自衛的軍事力を強固にすることを要求します。そして人民大衆中心の社会主義は、正しい人間観に立脚しているからこそ豊かな人生観を展開でき、それゆえに人間の自主的本性に適う社会主義像を提唱し仁徳政治論を展開することができました。
社会的・政治的生命体を構築することを目指す人民大衆中心の社会主義は社会生活のすべての分野に同志的団結と協力、愛情と信頼の関係を具現するので、その政治も当然、愛情と信頼の政治になります。そうした政治を仁徳政治というわけですが、仁徳政治論は、社会主義政権党を母なる党に建設することを求めます。
党を母なる党に建設するというのは、母が子をこのうえなく愛し、あたたかく見守るように、党を、人民大衆の運命を責任をもってこまかに見守る真の人民の導き手に、保護者にすることを意味します。全社会が一つの社会的・政治的生命体となった主体的社会主義社会の紐帯が愛情と信頼である以上、党がこのように建設されるべきなのは当然でしょう。
仁徳政治論は、人民に忠実に奉仕する幹部と党員を育成することを求めます。また、育ちゆく新しい世代にいっそうこまやかにほどこされています。そして、各階層の人民に差別なく愛情と信頼を与えており、その意味で広幅政治でもあります。広幅政治は決して宣伝上の文句ではなく、文学論壇での動向を鑑みるに大真面目な課題として取り組まれているものであると言えます。
朝鮮人民は党と領袖の仁徳政治のありがたさを深く感じており、その恩徳に忠誠をもって報いるために身も心もささげてたたかっています。党と領袖の朝鮮人民にたいする愛情と信頼は、人民のあいだに党と領袖への限りない忠誠を呼び起こしているのです。朝鮮人民のすぐれた品性は、現代にいたって新たな精神的・道徳的基礎のうえに全面的に開花発展しています。
朝鮮労働党の仁徳政治は領袖、党、大衆の一心団結の源となっています。社会を組織化し統一的に始動する政治が愛情と信頼に基づいたリーダーシップを発揮しており、これに対して忠誠に基づくフォロワーシップが展開されています。リーダーシップとしての愛情、そしてフォロワーシップとしての忠誠にもとづく領袖、党、大衆の一心団結は、すべての人々の社会的・政治的生命を輝かせる最も強固な団結です。このようなリーダーシップとフォロワーシップによる一心団結に根ざしている朝鮮式社会主義は、人間本位の社会主義・人民大衆中心の社会主義であり、最も科学的で優れた有力な社会主義です。それゆえ、社会主義はその科学性と真理性により必ず勝利するのであります。
本稿冒頭でも述べたとおり、本労作は世界と人間の関係そして集団と個人の関係を追究したことにより得られた、正しい人間観と豊かな人生観に基づいた社会主義理論を展開されていると考えます。
■「人間は、互いに社会的関係を結んで自主性、創造性、意識性をもって生き活動する社会的存在である」という人間観、そしてそれに基づく世界観、社会歴史観、さらに人生観そして死生観を日本の自主化においてどのように参考にするか
上に見てきたとおり、本労作は、人間観の再定立に始まり、人間は肉体的生命と社会的・政治的生命の二つを持っていることを指摘したうえで、より重要な社会的・政治的生命すなわち自主性:自主的本性を輝かしうる生活の在り方、すなわち主体的な人生観と、それを実現し得るのは集団主義に基づく社会主義社会であることを論証していると言えます。
このような社会主義社会では、愛情と信頼が社会的集団とその構成員間、社会の個々の構成員間に生まれ、全社会が一つの社会的・政治的生命体となります。愛情と信頼が社会の紐帯となります。そしてそうであるがゆえに、社会的・政治的生命を持つ個人は、その生命の母体である社会的集団に献身することによって永生することになります。
繰り返しになりますが、この意味において、チュチェ思想に基づく社会主義・共産主義運動とはすなわち、社会的・政治的生命体を形成するための運動であると言えるでしょう。
さて、ブルジョア社会としての日本社会を人間の自主的本性に適うような社会に改造するためには、どのようにキム・ジョンイル総書記の労作を指針化すればよいでしょうか?
終局的には集団主義社会としての社会主義社会を目指す必要がありますが、このことは世代を継いで継続的に取り組まざるを得ない歴史的課業にならざるを得ません。商品生産・交換経済が社会全体を侵食し支配している現状を転換することは非常に困難な課業になるでしょう。
キム・ジョンイル総書記はこの労作において、個人主義に基づく資本主義社会は「人間の人格的価値が交換価値にかえられ、それが金銭と財物によって評価される社会」であると指摘なさいました。当ブログはこの指摘に全面的に賛同するものです。個人主義に基づく資本主義社会があまりにも奇形化しており、社会のすべて、本来は人権の問題として考えるべきテーマについても金儲けの文脈で語ることに憚ることがなくなっています。つまり、人々は他人を「商品」つまりモノ扱いするに至っているとさえ考えます。事態は非常に深刻であると考えます。
たとえば先般、選択的夫婦別姓問題に関して日本経済団体連合会(経団連)が「ビジネス上のリスク」になるという趣旨で導入推進を要望しました。「選択肢のある社会の実現を目指して〜 女性活躍に対する制度の壁を乗り越える〜」において、「一人ひとりの姓名は、性別にかかわらず、その人格を示すもの」としつつ「職業人にとっては、これまで築いてきた社内外の実績や信用、人脈などが紐づく、キャリアそのもの」としている点、本心・魂胆は人格云々の問題ではなく「キャリア」の問題であると告白していると言わざるを得ません。別紙として添付されている「旧姓の通称使用によるトラブルの事例」も、すべてカネ儲け上の話です。もちろん、経済団体である経団連なのだからカネ儲けの話を持ち出すのは「自然」なことです。しかしそもそも、本来、選択的夫婦別姓の是非を巡る問題は、個人の生き方・アイデンティティの問題であり、経済団体である経団連が口を出す問題ではありません。
かつてフランス革命のときブルジョアジーは、「自由・平等・博愛」という「普遍」的な理念を持ち出し、アンシャン・レジームを打倒して自分たちの経済的覇権を確固たるものにしたいという本心を巧妙に隠蔽し、小農民をはじめとする非ブルジョア階級の利益をも代表する素振りを演じたことで革命を成就させました。これと比較するに、今般の現代ブルジョアジーの露骨さは、連中がビジネスを引き合いに出せば強い説得力を持つと考えている、つまりそれだけ現代日本人が経済活動のことしか考えておらず、それについて疑問にも思っていないことを示していると考えます。「選択的」夫婦別姓と言いつつ「社員のキャリア形成のために」といった大義名分を掲げて別姓とすることを「自発的」に「選択」するよう会社・上司から要求されることが非常に懸念されます。
経団連がこんな調子なのだから、知識労働社会化によって労働者階級もプチ・ブルジョアジー化している現代社会、人間の人格的価値が交換価値にかえられ、それが金銭と財物によって評価される社会、つまり、人間を「自分にとって使えるか否か」という商品選びの水準で評価し交際する関係が当然化している社会において、人間性を復興させてその自主的本性に適うような社会にすることは困難を極めることでしょう。
経団連が本来、カネ儲けの文脈で語るべきではない問題に口を出していることに誰も何の疑問も感じていないことは重大ながらもあくまでも一例ですが、このような事態を踏まえるに、まず、現状が異常であることを理解することから始める必要があると考えます。現代日本が人間の人格的価値が交換価値にかえられ、それが金銭と財物によって評価される社会であることに対して「異常だ」という自覚がないのです。
より広い視野で言えば、そもそも社会のサブシステムに過ぎないはずの経済生活が、逆に社会全体を呑み込んでいるという現代社会が異常であるという自覚が必要です。人類史の大部分は経済は社会のサブシステムでした。つまり、人類が代を継いで積み重ねてきた人智は、社会の論理に経済の論理を従属させることを前提としてきたものです。
朝鮮民族の伝統的な優れた品性が朝鮮労働党指導下の主体的社会主義社会において全面的に開花したように、過去の人智の中から社会主義の立場に立って有用な見解を復興させることはできないでしょうか? 温故知新という言葉があるように、自主性を生命とする人民大衆が代を継いで創造してきた人類史、とりわけ愛情と信頼に関する蓄積を振り返り、人間の生の本質とその価値を見つめ直し、如何なる生活が真の意味で誉れ高い幸せな生活であるのかを今一度考え直すことが必要だと考えます。
そして、人間の生の本質とその価値を見つめ直し、如何なる生活が真の意味で誉れ高い幸せな生活であるのかを今一度考え直すことによって、論理的必然として「人民大衆の誉れ高い幸せな生活において本質的内容をなすのは、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし、尊厳ある生を営むことであ」り、「社会的集団をなして活動するのが人間の生存方式であり、人間の自主的要求が集団主義によってのみりっぱに実現するのであるから、集団主義にもとづく社会、社会主義・共産主義社会は、人間の自主的本性にかなったもっとも先進的な社会である」、そして「人民大衆はもっぱら国家主権と生産手段が人民のものとなっている社会主義社会でのみ、社会のあらゆるものの真の主人となる」という本労作の要点に議論が移って行くものと考えます。
もちろん、資本家は、自らに従順で剰余価値を生みだす奴僕を必要としており自主意識に目覚め多方面にわたって発達した自主的で創造的な人間は必要としていません。健全な文化生活を阻害・妨害する要素は現代日本社会にはあまりにも溢れかえっています。しかし、資本家はそこまで厳格に統制を展開して愚民化政策を展開すべく下らないエンターテイメントばかりを量産させているわけではありません。より正確に申せば、資本家たちは人民大衆の文化生活の状況にそれほど関心を寄せてはおらず、「放し飼い」にしているように見受けられます。糸口はあると考えます。
古今東西の古典的文学作品をよく読み、それを自分自身の自主性を照らし合わせ、現状が極めて異常であることを自覚することから始める必要があると考えます。そして、そうした営みを通じて体得した自主的思想意識と創造的能力、目的意識性を組織的力量に具体的に転換することが肝要であると考えます。
2022年11月20日づけ「ロシア革命によって切り拓かれた社会主義・共産主義運動を、社会政治的生命体の形成を目指す社会主義・共産主義運動に転換しつつ前進させる道について」で論じましたが、日本の現状に即した集団主義的な社会原理を具体的に模索する必要があると考えます。当該記事では、「集団主義を、「公平性」と「お互い様精神」に基づいて社会を協同的・自主管理的に運営することで、自主・対等・協同の社会関係――個人の意思決定と選択の自由が実現しつつ、人間同士の協同的な関係が実現したもの――を実現するものと定義すれば、ここに社会政治的生命体形成の初期段階を構想することができ」るとし、「自主・対等・協同の社会関係を革命的な同志愛と義理心に発展させることで社会政治的生命体を形成させる」という持論を展開しました。さらに、「労働運動を核心・突破口として、さらに社会政治的生命体の形成に繋げてゆくべき」として「第一段階としての自由化、第二段階としての自主化・協同化、そして最終段階として革命的な同志愛と義理心に基づく社会政治的生命体を形成という段階を踏むべき」としました。
具体的に如何なる形で主体的な社会主義運動を構築してゆくのかは、それぞれの国の現状に依存するものです。自主的思想意識と創造的能力、目的意識性を組織的力量に具体的に転換するにあたっては、キム・ジョンイル総書記が「前進しよう」論文などで展開なさった資本主義諸国での社会的・階級的構成の変化に応じた対応が必要になるでしょう。人間を中心に据えることの重要性がここにあらわれます。
キム・ジョンイル総書記は「人民大衆の自主性を擁護してともにたたかい、創造的活動を共同で進める人たちのあいだには、愛情と信頼を交わす関係が生まれえる」と明るい展望を示しておられますが、この愛情と信頼の関係が人民大衆の組織力を強化し、自然と社会そして自分自身を改造する自主的・創造的・意識的な諸活動によって客観世界が人民大衆の自主的要求が実現する新しい世界、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし尊厳ある生を営める世界になって行くのです。つまり、自主的思想意識と創造的能力、目的意識性を組織的力量に具体的に転換すること自体が社会主義・共産主義社会の部分的成立になるのです。
ものすごく時間がかかることではありますが、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし尊厳ある生を営む道は地道なものだと考えます。人間が本来的に持つ人間性を取り戻すためには、人類が代を継いで積み重ねてきたものを再発見し再評価することから始めるべき地道なものであり、そこで培った「人間は、互いに社会的関係を結んで自主性、創造性、意識性をもって生き活動する社会的存在である」という人間観、そしてそれに基づく世界観、社会歴史観、さらに人生観そして死生観に基づいて具体的な組織的力量を形成してゆく運動を展開する必要があると考えます。チュチェ思想に基づく社会主義・共産主義運動とはすなわち、【社会的・政治的生命体を形成する運動】であると考えます。
かねてより当ブログでは社会主義・共産主義の何たるかを追究してきたところですが、キム・ジョンイル総書記の『社会主義は科学である』は非常に内容豊富で学び甲斐のある労作であると考えます。それは、世界と人間の関係そして集団と個人の関係を追究したことにより得られた、正しい人間観と豊かな人生観に基づいた社会主義理論を展開されているからです。
本来であれば11月1日づけで発表すべきところ、内容の調整に時間が掛かり遡って11月1日づけにするのも憚られるくらい遅くなってしまったので、年末総括記事として今回、『社会主義は科学である』に学びたいと思います。労作の内容を引用しつつ当ブログなりに理解した内容をしたため、日本の現状に引き寄せ・照らして考えを述べました。文法的、論理的、そして何よりも思想的に正しく読み込んだつもりではありますが、解釈が適切ではない場合は是非ともご指摘ください。なお本稿では、共和国の外国文出版社が発行した日本語版小冊子を使用しました。共和国政府が公式に運営している「朝鮮の出版物」(http://www.korean-books.com.kp/ja/)で読むことができます。HTML版(ページ数は反映し得ない)であれば、小林吉男様が運営なさっている「小林よしおの研究室」(http://tabakusoru.web.fc2.com/)で読むことができます。
かなり長くなってしまったので、目次をつけておきます。
○第1節・・・社会主義が何を問題視して何を解決しようとして運動を展開しているのか――集団主義と個人主義の対立軸
○正しい人間観に立脚してこなかった社会主義の従前理論
○チュチェ思想によって社会主義は新たな科学的土台のうえに引き上げられ、人民大衆中心の社会主義となった
○「社会主義を成功裏に建設するためには社会主義・共産主義の二つの要塞、思想的要塞と物質的要塞を占領するたたかいを力強く展開し、わけても思想的要塞を占領するたたかいを確固と優先させるべき」
○生産力の問題にかかるチュチェ思想の見解――人間にとって生命である自主性を回復する主体的社会主義の必要性
○第2節・・・人間の本質を捉えることは何故重要なのか――主体的人間観
○人間は社会的存在であるという意味
○自主性・創造性・意識性が「商品」的な性質を帯びざるを得なくなってゆく日本人
○客観的条件の位置づけと社会発展史の本質
○人間の生命の本質と生の価値
○「人間のもっとも誉れ高く甲斐ある生き方は、自己の運命を社会的集団の運命と結びつけ、社会的集団に献身的に奉仕し、社会的集団に愛され信頼されながら、自主的で創造的な生活を営むことである」――人生観の問題に解答を与えるチュチェ思想
○集団主義社会としての社会主義社会でのみ、価値のある生を送ることができる
○第3節・・・正しい人間観と人生観に立つ朝鮮式社会主義の優位性
○「人民大衆はもっぱら国家主権と生産手段が人民のものとなっている社会主義社会でのみ、社会のあらゆるものの真の主人となる」
○「革命と建設において主観主義を避け、紆余曲折をまぬかれる唯一の道は、人民大衆のなかに入り、かれらの意思と要求を聞き取ることである」
○帝国主義者の干渉を斥けることの重要性
○社会のあらゆるものの主人としての地位を占め権利を行使するには、自主意識を高めて責任と役割を果たす必要がある
○社会のあらゆるものの主人としての地位を占め権利を行使するには、人民大衆の創造的能力を養う必要がある
○「人民大衆の誉れ高い幸せな生活において本質的内容をなすのは、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし、尊厳ある生を営むことである」
○「社会主義社会では、愛情と信頼が社会的集団とその構成員間、社会の個々の構成員間に生まれ…全社会が一つの社会的・政治的生命体となり、社会の全構成員が社会的・政治的生命を限りなく輝かしていく…もっとも強固で生命力のある社会となる」――主体的人生観に基づく社会的・政治的生命体論
○チュチェ思想は人生観を持っているがゆえに死生観も持っている
○仁徳政治論が社会主義・共産主義党の性質を理論的に転換した
○人民に忠実に奉仕する幹部と党員を育成するために
○人民大衆の社会的・政治的生命を輝かす党と領袖の仁徳政治
○仁徳政治と後代愛
○仁徳政治は抗日武装闘争以来の伝統的政治方式であり、広幅政治でもある
○民族の優れた品性が社会主義において全面的に開花した
○朝鮮式社会主義は必勝不敗である
○おさらい
○「人間は、互いに社会的関係を結んで自主性、創造性、意識性をもって生き活動する社会的存在である」という人間観、そしてそれに基づく世界観、社会歴史観、さらに人生観そして死生観を日本の自主化においてどのように参考にするか
■第1節・・・社会主義が何を問題視して何を解決しようとして運動を展開しているのか――集団主義と個人主義の対立軸
キム・ジョンイル総書記は労作の冒頭で「社会主義は科学である。多くの国で社会主義は挫折したが、科学としての社会主義は依然として諸国人民の心のなかに生きている」とし、「多くの国での社会主義の崩壊は、科学としての社会主義の失敗ではなく、社会主義を変質させた日和見主義の破算を意味する」とし、「社会主義は日和見主義によって一時的に心痛にたえない曲折をへてはいるが、その科学性、真理性によって必ず再生し、最終的勝利を達成するであろう」と確言なさります(p1)。
第1節冒頭では、人類史について「人民大衆は歴史的に長いあいだ、自主性の実現をめざして力強くたたかいつづけ、その過程で階級社会の交替がなされ、自主性をめざす人民大衆のたたかいが発展してきた(中略)しかし、敵対的階級社会の交替は、人民大衆の自主性を抑圧する形態上の変化をもたらしただけで、人民大衆は社会的・政治的従属から解放されなかった」(p1-2)と、その理由として「いずれも個人主義にもとづく社会であったから」と指摘なさいました(p2)。「私的所有とそれによって生まれる個人主義にもとづく社会は、必然的に社会を敵対する階級に分裂させ、階級的対立と社会的不平等を生みだし、人民大衆にたいする少数支配階級の搾取と抑圧を随伴するようになる」からです(p2)。
その上で「資本主義は個人主義をごく少数の資本家の際限ない貪欲にかえ、個人主義にもとづく社会の敵対的矛盾をその極にいたらしめた」としつつ「一方、自主性をめざす人民大衆のたたかいは新たな発展段階に入っている」とし「個人主義にもとづく社会の集団主義にもとづく社会への移行が歴史発展の必然的要求となっている」と現状を分析なさいます。端的に現代を「自主性の時代」であると定義なさっています(p2)。その根拠としてキム・ジョンイル総書記は「集団主義は人間本然の要求である」からだとされます(p2)。「人間は個別的にではなく社会構成員の集団的協力によってのみ自然と社会を改造し、自主的要求を実現することができ」るものです。
キム・ジョンイル総書記は「人間が社会的集団をなして生きていくためには、集団の自主的要求と個人の自主的要求を実現していかなければならない」とした上で「集団主義のみが集団の団結と協力を強め、集団の全構成員の創造的熱意を高め、集団の自主的要求と個人の自主的要求を正しく結合し、ともに満足に実現していけるようにする」と指摘なさいました(p3)。なお、ここでいう集団の自主的要求とは「社会的集団の生存と発展のための社会構成員の共通の要求」であり、個人の自主的要求とは「社会的集団の平等な構成員としての要求であり、社会的集団への寄与により集団から当然、保障されるべき要求」と定義されます。「集団主義を離れた個人の要求は個人主義的貪欲にかわり、そうなれば集団の他の構成員の自主的要求を侵害し、集団の団結と協力を阻害するようになる」と仰います(p3)。人間が自主的要求を実現させるためには集団主義の道を歩むほかないわけです。
そして、「社会的集団をなして活動するのが人間の生存方式であり、人間の自主的要求が集団主義によってのみりっぱに実現するのであるから、集団主義にもとづく社会、社会主義・共産主義社会は、人間の自主的本性にかなったもっとも先進的な社会である」とし、社会主義こそが人間の自主的本性にかなったものであると位置づけていらっしゃいます(p3)。克服すべき個人主義に対して集団主義を提唱なさっています。人間の自主的本性に適っているからこそ集団主義に基づく主体的社会主義理論は科学となり、その真理性によって必ず再生し、最終的勝利を達成するのです。
近代社会主義運動の歴史を振り返るに、対立軸を集団主義と個人主義とに設定するご指摘は正統かつ正確なものであると僭越ながら申し上げたいと思います。各種流派の近代社会主義運動は、労働者階級が個人主義に基づく当時の世相・社会構造から自分たちの身を守るために模索したものが源流にあります。労働組合や消費者協同組合・生産者協同組合のようなミクロレベルの社会主義的結社もマクロレベルで組織化された社会主義国家も元を辿ればここに行きつきます。
社会主義の立場が何を問題視して何を解決しようとして運動を展開しているのかを正確に捉える必要があります。個人主義がもたらす害悪を問題視し、人々の自主的要求を実現させることを目指している点にこそ核心があるのです。社会主義運動とは、敵対的階級社会の根本にある個人主義とたたかって、集団主義にもとづく社会を打ち立てようとする人民大衆の自主的要求を実現させるための運動であると言えます。社会主義・共産主義社会を「集団主義にもとづく社会」と表現する点を鑑みるに、朝鮮式社会主義は社会主義諸潮流の正統に位置していると僭越ながら評価したいと思います。
■正しい人間観に立脚してこなかった社会主義の従前理論
キム・ジョンイル総書記は、人民大衆の自主的要求を実現させる集団主義社会としての社会主義社会実現のためには、正しい人間観に立脚することが必要だと説かれます。人間を中心に据えた見解並びに観点及び立場に基づいて集団主義と社会主義について筆を進められます。
「社会主義を実現するには、それを担当して遂行する革命勢力が準備され、正しい闘争方法が講じられなくてはならない」(p4)と指摘なさるキム・ジョンイル総書記は、いわゆる空想的社会主義について「貪欲を階級的本性とする搾取階級に「善意」を期待するのは、非科学的な幻想」と指摘なさいます。科学的社会主義を創始したマルクス主義についても「社会主義は空想から科学となり、人類解放闘争史には革命的転換がもたらされるようにな」り、「人類解放闘争史には革命的転換がもたらされるようになった」としながらも「唯物史観にもとづく従前の社会主義学説は、歴史的制約をまぬかれえなかった」と評価なさいます。「従前の理論は、社会的・歴史的運動をその主体である人民大衆の主動的な作用と役割によって生成発展する主体の運動ではなく、主に物質的・経済的要因によって変化、発展する自然史的過程とみなした」点において「革命の主体の強化とその役割の向上を革命の根本方途として提起することはできなかった」ところに大きな問題があったと指摘なさっているのです(p5-6)。
「革命闘争において客観的条件が重要な作用をするのはいうまでもない」としつつ「しかし、革命の勝敗を左右する決定的要因は客観的条件にあるのではなく、革命の主体をいかに強化し、その役割をいかに高めるかにある」と強調なさるキム・ジョンイル総書記。「歴史的実例は、資本主義の発達した国ぐにではなく、相対的に立ち後れた国ぐにで社会主義が先に勝利したことを示している」とした上で「チュチェ思想の旗のもとに前進してきた朝鮮革命の経験は、革命の主体を強化し、その役割を高めるなら、所与の客観的条件を正しく利用できるだけでなく、不利な客観的条件をも有利にかえ、逆境を順境に、禍を福にかえて革命の勝利を保障することができるということを立証している」と仰いました(p6)。
また、キム・ジョンイル総書記は次のように指摘なさいます。一般的に社会の発展にともなって人民大衆の自主意識と創造的能力が高まることから、社会が発展すればするほど社会的運動の主体である人民大衆の役割はいっそう高まるものである。だからこそ、高い思想・意識を身に着けて一つに統一団結した人民大衆の創造力によって発展する社会としての社会主義社会においては、人間改造、思想改造が物質的・経済的条件を構築する事業よりもなお重要かつ一義的な課題となり、人間改造を優先させてこそ革命の主体を強化し、その役割を高めて社会主義を成功裏に建設することができるはずである。しかし、一部の社会主義国では、経済建設にのみ汲々とし人民大衆の思想改造を二次的なものとし、革命の主体を強化しその役割を高めることを疎かにしたため、社会主義建設を正しく進めることができず、しまいには経済建設の停滞をも招いてしまった、と。また、これらの国々では正しい人間観に則っていなかったため、「改革」と称して資本主義的人間観に基づく政策を展開した結果、社会主義経済体制そのものを崩壊させる物質至上主義・経済万能主義的な反革命的行為に手を染めるに至ったとも糾弾なさいます(p7-8要旨)。
キム・ジョンイル総書記は「かつてマルクス主義の創始者たちが物質的・経済的条件を基本にして社会主義学説を展開したのは、神秘主義と宿命論を主張して資本主義を神聖化し、その「永久性」を説くブルジョア反動理論を打破することが重要な歴史的課題となっていた事情と関連している」としつつ「ところがこんにち、社会主義の背信者たちは資本主義に幻想をいだき、それを復活させるために物質至上主義、経済万能主義を提唱した」と指摘なさいます(p7-8)。とうの昔に打倒されたはずの資本主義が社会主義国家において亡霊のように現れるに至った背景には、マルクス主義の物質的・経済的条件重視の姿勢が教条主義的に解釈される思想的風土があったと指摘しておられるわけです。
このようにキム・ジョンイル総書記は、社会主義の従前理論は正しい人間観に立脚してこなかったと指摘されています。正しい人間観に立脚してこなかったから従前理論に依拠した国々では社会主義建設を正しく進めることができず、そればかりか、事もあろうに資本主義的要素を導入するに至り、遂にすべてが崩壊してしまったわけです。
■チュチェ思想によって社会主義は新たな科学的土台のうえに引き上げられ、人民大衆中心の社会主義となった
キム・ジョンイル総書記は「社会主義を新たな科学的土台のうえに引き上げることは、従前の社会主義学説の歴史的制約を克服するためばかりでなく、あらゆる日和見主義者の歪曲と帝国主義者の攻撃から社会主義を固守するためにも非常に切実な課題」であると問題提起なさいます。そして「社会主義を新たな科学的土台のうえに引き上げる歴史的課題は、偉大な領袖金日成同志がチュチェ思想を創始し、それにもとづいて社会主義理論を独創的に展開することによってりっぱに解決された」と宣言なさいます(p8)。キム・イルソン主席が「人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定するという」哲学的原理、つまり世界における人間の地位(世界において自らの意志と要求に応じて周囲世界を奉仕させる存在は誰かということ)と役割(世界を実際に変化・発展させる力はどこにあるのかということ)にかかる哲学的原理を発見し、主体の運動としての社会的運動の合法則性を新たに解明なさったことにより社会主義は新たな科学的土台のうえに引き上げられたのです。そして、それによって科学的に体系化された社会主義は、人間本位の社会主義、人民大衆中心の社会主義であると言えるのです。
「人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定するという」哲学的原理に立脚することが如何なる意味で正しいのかについては、第2節で詳述されます。また、この世界観に基づいてチュチェ思想は人生観を説いていますが、この主体的人生観とそれを実現させる条件としての主体的社会主義論こそがチュチェ思想の核心です。これは、第3節で詳述されています。
人間に対する正しい理解から出発することをチュチェ思想は一貫して説いています。そして当ブログが社会主義・共産主義思想としてのチュチェ思想を一貫して支持している理由は、まさにこの点にあります。当ブログは左翼の立場に立つブログですが、いわゆるマルクス主義はあまりにも経済主義的であり、率直に言って当ブログ編集者の眼には「人間性を軽視し過ぎている」と映ります。他方、最近流行りのリベラリズムについては、繰り返しその主観観念論的な世界観・社会歴史観を強く批判してきたとおり、中学校・高等学校の優等生や生徒会委員などが好んで口にする「ひとり一人が正しい行いに目覚めて行動を改めれば、世界は必ず変わる!」といったレベルの言説と大差ない、あまりにも物質的条件・経済的条件を軽視した程度の低い言説しか紡ぎ出せていないと言わざるを得ません。経済主義的過ぎるマルクス主義も主観的過ぎるリベラリズムも現実の変革の指針とするには不十分であると言わざるを得ず、チュチェ思想の立場が現実を正しく反映していると考えています。
■「社会主義を成功裏に建設するためには社会主義・共産主義の二つの要塞、思想的要塞と物質的要塞を占領するたたかいを力強く展開し、わけても思想的要塞を占領するたたかいを確固と優先させるべき」
キム・ジョンイル総書記は、「われわれの社会主義は、人民大衆があらゆるものの主人となり、すべてが人民大衆に奉仕し、人民大衆の団結した力によって発展する社会主義である」とした上で、チュチェの社会主義理論について「社会主義を成功裏に建設するためには社会主義・共産主義の二つの要塞、思想的要塞と物質的要塞を占領するたたかいを力強く展開し、わけても思想的要塞を占領するたたかいを確固と優先させるべきであることを明らかにした」ものであると、その特徴を端的にまとめられています(p8)。「要塞」というのは共和国独特の語法ですが、一般的な日本語の語感でいうところの「重要な目標」といった意味合いです。
そして「チュチェの社会主義理論の科学性、真理性は、朝鮮革命の実践的経験によって実証された」とし、その理由を「朝鮮人民は、立ち後れた植民地半封建社会の状態で社会主義をめざすたたかいを開始し、人一倍困難な状況のもとで革命と建設を遂行せざるをえなかった」が「わが党はチュチェ思想の要求どおり、つねに人民大衆を党と領袖のまわりに組織的、思想的にかたく結集して革命の主体を強化し、その役割を高めることを基本とし、それを堅持することにより社会主義の道を成功裏に切り開くことができた」と指摘なさいます(p9)。
つまり、朝鮮労働党は「社会主義建設において人間改造、思想改造をすべての活動に確固と優先させ」たので、「朝鮮革命の政治的・思想的威力をあらゆる面から強化すると同時に、自立的民族経済と自衛的軍事力を強固にすることによって、こんにちの複雑な情勢のもとでも微動だにせず、革命と建設を力強くおし進めて」おり、「実践的経験は、チュチェ思想を具現したわが国の社会主義がもっとも科学的で生命力のある社会主義であることを如実に示している」のです(p9)。人間中心のチュチェ思想を指針にしたとき、社会主義建設において人間改造と思想改造を優先することは論理的帰結となります。とりわけ、物質至上主義に堕した従前理論に基づく社会主義建設の教訓を踏まえれば、人間改造と思想改造を優先するチュチェ思想の指針は、正当であるともいえるでしょう。
■生産力の問題にかかるチュチェ思想の見解――人間にとって生命である自主性を回復する主体的社会主義の必要性
また、キム・ジョンイル総書記は、マルクス主義があれほど重視した生産力の問題についても、その捉え方に不十分さがあったと指摘なさいます。大きく2点、「資本主義社会での生産力の発展は、「富益富、貧益貧」の両極分化を深め、階級的矛盾を激化させるとともに、独占資本家に独占的高率利潤の一部を階級的矛盾の解消に利用させる可能性も増大させる」という指摘、及び「農民をはじめ小ブルジョアジーを分化させ、産業労働者階級の隊伍を拡大すると同時に、生産部門の精神労働と技術労働に従事する勤労者と、非生産部門の勤労者の比重を高める結果をもまねく」と指摘なさっています(p6)。
この論題については、『反帝闘争の旗をさらに高くかかげ、社会主義・共産主義の道を力強く前進しよう』(以下「前進しよう」論文といいます)においてより詳細に論じられているので、少し脱線してそちらを参照してみたいと思います。今回は特に、後者指摘について注目したいと思います。
キム・ジョンイル総書記は「前進しよう」論文において「革命勢力を強化するには、社会的・階級的構成における変化について正しく分析、評価しなければなりません」と問題提起し「第2次世界大戦後、資本主義諸国では社会的・階級的構成に大きな変化が生じました」と指摘なさいます。すなわち、「発達した資本主義諸国では技術が発達し、生産の機械化、オートメ化が推進されるにつれて、肉体労働に従事する勤労者の数がいちじるしく減り、技術労働と精神労働に従事する勤労者の隊伍が急増し、勤労者の隊伍においてかれらは数的に圧倒的比重を占めるようにな」ったのです(『金正日選集』第9巻、外国文出版社、1997、p34)。
「インテリの隊伍が急速に拡大すれば、勤労者のあいだで小ブルジョア思想の影響が増大するのは確か」であると指摘なさるキム・ジョンイル総書記は、「革命的教育を系統的に受けることのできない資本主義制度のもとで、多数のインテリがブルジョア思想と小ブルジョア思想に毒されるのは避けがたいこと」であり「かれらを革命の側に獲得することは困難な問題」であると率直に指摘なさいます。しかしながら「社会的・階級的構成におけるこうした変化が、共産党、労働者党の社会的・階級的基盤の弱化を意味したり、社会主義革命に不利な条件になるとみなすことはでき」ないとも仰います。その理由についてキム・ジョンイル総書記は「技術労働にたずさわる勤労者であれ、精神労働にたずさわる勤労者であれ、かれらはいずれも生産手段の所有者ではありません」としておられます(同p34-35)。
ここにおいて問題は、「社会的・階級的構成の変化した現実に即応して、共産党、労働者党が広範な勤労者大衆を革命化し、獲得する政治活動をいかにおこなうかにあ」るとキム・ジョンイル総書記は新たに論点を設定なさいます。「現代の労働者階級は、かつてのような無産階級であるとばかりみなすことはでき」ず、発達した資本主義諸国の労働者階級は「マルクス主義の創始者たちが、失うものは鉄鎖のみであるといった、以前の無産者とは異な」るからです(同p36)。
「革命に参加できるかどうかは、無産者か有産者かということのみにかかっているのではありません」。これはチュチェ思想の意識性論からの必然的結論です。「発達した資本主義諸国で、技術労働や精神労働にたずさわる勤労者の生活水準が向上したとはいえ、かれらは依然として資本主義的搾取と抑圧のもとにある」ことには変わりありません。キム・ジョンイル総書記は、彼らは「資本主義制度にたいして反感をいだいており、資本の支配から解放されて自主的に生きることを要求してい」ると指摘なさいます(同p36)。
「自主的に生きることを要求するということは、すなわち社会主義を志向することを意味します」。実際問題として「資本主義国のインテリで、一時的であれ社会主義に共鳴しない人はほとんどい」ないと仰るキム・ジョンイル総書記。それゆえ、「かれらがひきつづき社会主義をめざしてたたかっていけないのは、社会的・階級的立場の制約というよりは、むしろかれらを思想的に正しく教育し導いていない事情と関連してい」るとなさいます(同p37)。
「勤労者大衆を革命化し獲得するうえで、主体はあくまでも労働者階級の党で」す。「党を強化するためには、なによりもまず、思想と指導の唯一性を保障する原則で党を建設しなければならず、党がインテリを含めた広範な大衆のなかに根をおろし、かれらを革命へと導く新しい指導思想、指導理論をもたなければなりません」。「人民大衆の自主的地位と決定的役割にかんする原理にもとづいて、変化した現実に即して革命理論を発展させ、党活動の方法を不断に改善していかなければなりません」。「このようにすれば、各階層の広範な大衆を革命化し、獲得し、革命を新たな高揚へと導くことができる」のです(同p37)。
鐸木昌之は『北朝鮮 首領制の形成と変容 金日成、金正日から金正恩へ』(明石書店、2014年)で、「前進しよう」論文について「労働者の物質的経済的生活が改善されたとしても、その思想文化生活においては自主性が達成されず、精神生活においては貧困化している。したがって、発展した資本主義国における革命は、古典的マルクス・レーニン主義のいう「失うものは鉄鎖以外にないという過去の無産者」階級のそれではなく、精神的に踏みにじられたインテリ・技術労働者達の自主性の回復になる。(中略)これは主体思想による先進資本主義革命論なのである」と指摘しています(p227)が、非常に端的に要約していると言えるでしょう。
このように考えたとき、マルクス主義は、生産力を重視しているといいながら実はそれさえも十分には貫徹できていないと言えます。
キム・ジョンイル総書記が「前進しよう」論文において指摘された、資本主義諸国での社会的・階級的構成の変化は極めて重要な指摘です。当ブログでも2019年7月4日づけ「こき使われている勤務医が「自己研鑽」のインチキ理論に毒されているのは何故か、知識労働者を核心とした自主化運動・抵抗運動の展望はどこにあるのか」や、2019年7月15日づけ「主観主義的社会歴史観と「個人」主義的人生観に打ち克ち、「我々」意識に基づく社会の集団的・共同体的結束を再興するために」などで論じてきたところです。
「発達した資本主義諸国で、技術労働や精神労働にたずさわる勤労者の生活水準が向上したとはいえ、かれらは依然として資本主義的搾取と抑圧のもとにある」点にこそ、人類史が資本主義で終わるのではなく社会主義、それも人間にとって生命である自主性を回復する主体的な社会主義が必要になることを示しています。後述しますが、人間中心の主体的な社会主義運動は、単に労働者階級の生活水準を向上させ経済的利益を実現するといった水準にとどまる問題ではなく、人間が本来的に持つ人間性を取り戻すことであると言ってよいと考えます。そして、主体的社会主義は、人生観の問題にしっかりとした解答を与えている点において、独自の社会主義路線であると言えるでしょう。
■第2節・・・人間の本質を捉えることは何故重要なのか――主体的人間観
第2節では、人間にたいする主体的な見解並びに観点及び立場についてより詳しい説明が展開されます。「人間は、互いに社会的関係を結んで自主性、創造性、意識性をもって生き活動する社会的存在である」という人間観、そしてそれに基づく世界観と社会歴史観の問題に触れ、さらに人生観が展開されます。
「人間にたいする観点と立場の問題は、社会発展、革命発展にいかなる観点と立場で対応し、それをどう理解するかということにおいて基礎的な問題」です。キム・ジョンイル総書記は「チュチェ思想は史上はじめて、人間の本質について科学的な解明を与えた」とされます(p10)。
「人間の本質をどうとらえるかということはたんなる学術上の問題ではなく、階級的利害関係を反映した社会的・政治的問題で」す(p10)。たとえば「人間を純然たる精神的存在とみなす宗教的・観念論的見解によれば、人間はある超自然的な神秘的存在の産物であり、人間の運命もそれによって決定されることにな」り、「反動的な支配階級とその代弁者たちは、人間にたいする宗教的・観念論的見解から、勤労人民大衆が搾取され抑圧される不幸な境遇は避けがたい宿命的なものであり、したがって定められた運命に従順であるべきだと説」きました。あるいは、「人間をたんなる自然的・生物学的存在とみなす見解は、意識の調節、統制のもとに目的意識的に活動する人間と、本能によって支配される生物学的存在との質的差異を区別できなく」し、「反動的な支配階級とその代弁者たちはこうした見解を、弱肉強食の法則が支配する資本主義社会の弁護に利用し」ました。「社会主義の背信者たちがブルジョア自由化と資本主義市場経済を導入して資本主義を復活させているのも、人間にたいする反動的な観点と立場に根ざしてい」ます(p10-11)。
一部社会主義国で「改革」と称して展開された政策は、資本主義的人間観に基づく物質至上主義・経済万能主義的な反革命的行為でしたが、結局これはその人間観に由来する「改革」であったといえるでしょう。キム・ジョンイル総書記は「社会主義の背信者たちが資本主義を復活させ、失業と貧困を競争意欲と労働の強度を高める強圧手段とみなして、社会主義がもたらしたあらゆる人民的施策を抹殺しているのも、自国人民の力に頼らず、西側資本主義諸国の「援助」と「協力」に期待をかけて帝国主義者に阿諛追従しているのも、人間にたいする反動的なブルジョア的観点のためである」と糾弾なさいます(p14)。
正しい人間観を持つことがいかに重要であるのかが理解できるでしょう。
■人間は社会的存在であるという意味
キム・ジョンイル総書記は「人間は純然たる精神的存在でもなければ、たんなる生物学的存在でもない。人間は社会的関係を結んで生き活動する社会的存在である」とし「社会的存在であるというところに、他の生物学的存在と区別される人間の重要な特性がある」と言明なさいます(p11)。マルクス主義は人間の本質を社会関係の総体であると定義づけましたが、キム・ジョンイル総書記はこれだけでは「人間そのものの本質的特性についての全面的な解明とはなりえ」ず、「それによっては人間と世界との関係、世界における人間の地位と役割が正しく示されない」と指摘なさいます(p11)。
「人間は自主性、創造性、意識性をもつ社会的存在である」(p11)という格言は、チュチェ思想の文脈で必ず聞いたことがあるものでしょう。自主性は、世界と自己の運命の主人として、なにものにも従属したり束縛されることなく自主的に生き発展しようとする社会的人間の属性です。創造性は、自己の要求に即して目的意識的に世界を改造し自己の運命を開いていく社会的人間の属性です。意識性は、世界と自分自身を把握し改造するすべての活動を規制する社会的人間の属性です。そして、これら人間の自主性・創造性・意識性は、人間が社会関係を結んで活動する過程で形成され発展する属性であります。人間が活動する過程はその自主性、創造性、意識性が発現する過程です。自主的・創造的・意識的活動は人間の存在方式ですが、人間が人間たりえるのは社会関係を結んで活動するからこそなのです(p12要旨)。
「人間が自主性、創造性、意識性をもつ社会的存在になりえるのは、発達した有機体、とくにもっとも発達した頭脳をもっていることをぬきにしては考えられ」ないことは、キム・ジョンイル総書記も認めるところです。「人間の発達した有機体は、自主性、創造性、意識性をもちうる生物学的基礎とな」ります。しかし、発達した人体そのものが自ずと自主性、創造性、意識性を生むのではありません。「人間の自主性、創造性、意識性は、人間が社会関係を結んで活動する社会的・歴史的過程で形成され発展する社会的属性で」す(p12)。
自主性、創造性、意識性を形成する社会的・歴史的過程とは、具体的には社会的教育と社会的実践を言います。朝鮮大学校のハン・ドンソン学長は、政治経済学部長時代の2007年に上梓した『哲学への主体的アプローチ - Q&Aチュチェ思想の世界観・社会歴史観・人生観』(白峰社)において、小説『ロビンソン・クルーソー』を取り上げ、ロビンソン・クルーソーが無人島で逞しく生き延びている描写について「彼がそれまでの社会生活を通じて、人間らしく生きようとする意欲と、それを実現することのできる知識と技術、技能を蓄積したからこそ可能であった」とし「すなわち、主人公が、社会的教育と実践を通じて、社会的存在としての自主性、創造性、意識性をある程度培っていたということ」としています(ハン・ドンソン、2007、p67)。
人間が何かをなすためには、そのための知識を得ることと実践してみることが必要だというのは、ほとんどの方が同意するものと思われます。この知識獲得と実践は、仮に非常に個人的で狭い範囲であったしても社会的な性質を帯びざるを得ません。人間は、親など先達から教えられた知識を活用します。この知識は、もっとも素朴な場合は「この場合、こうすると上手くいく」という形態を取りますが、これは代を継いで実践されてきた社会的な結果にほかなりません。それゆえ、知識は社会性を帯びざるを得ません。また、人間は集団の中で生きるので、「個人」的な実践であっても集団への影響は避けられません。さらに、物質世界において個人が自分自身の運命を開拓とようとすれば、一個人ではあまりにも非力であるので、通常は他者と協力する必要が生じます。それゆえ、実践もまた社会性を帯びざるを得ないと言えます。
先に、集団主義か個人主義かの対立はすなわち社会主義と資本主義との社会体制上の対立であると指摘しましたが、集団主義・社会主義と個人主義・資本主義の対立は、つまるところ人間観の対立に行きつきます。すなわち、人間は、互いに社会的関係を結んで自主性、創造性、意識性をもって生き活動する社会的存在であるとする人間観と人間をたんなる自然的・生物学的存在とみなす見解・人間を本能によって支配される単なる生物学的存在とする人間観との対立軸が設定できます。
人間が人間たりえるのは社会関係を結んで活動するからこそであり生物としての進化の結果ではないというのは、主体的人間観の柱です。「人間の自主性、創造性、意識性は、人間が社会関係を結んで活動する社会的・歴史的過程で形成され発展する社会的属性である」という一文は、いくら強調しても、し過ぎることはないでしょう。
■自主性・創造性・意識性が「商品」的な性質を帯びざるを得なくなってゆく日本人
人間が人間たりえるのは社会関係を結んで活動するからこそという見解並びに観点及び立場は、人間関係がいよいよ全面的に「商品化」しつつある日本社会においては、日本人の自主性・創造性・意識性が「商品」的な性質を帯びざるを得なくなってゆく近未来の現実を示すと考えます。
人間関係が全面的に「商品化」しつつあるとはどういうことかご説明しましょう。商品とは「他人にとっての使用価値」ですが、商品生産・交換経済が高度に発展すると商品は「何人もの中間卸売り業者や加工業者を経た先にいる(と言われている)会ったこともない赤の他人にとっての使用価値」になります。会ったこともない抽象的な「他人」である消費者のことを生産者は親身になって考えることはないし、消費者としてもその銘柄の商品をどうしても買わなければならない訳ではなく、代替品は幾つかあるのが大抵なので、生産者の事情を真剣に考えることはありません。最近、一部小売店の野菜・青果売り場で「私が作りました」という生産者の顔写真付きポップが掲示されていることがありますが、裏を返せば、そういったものが目を引く販促小道具になるくらい通常の商品取引においては取引相手のことを具体的に想像する契機に欠けているのが現実です。
「自分にとって得か損か」のみが判断基準になってゆくのが商品生産・交換経済であり、そして経済人類学者のカール・ポランニーが指摘するように、現代社会は経済の論理が社会全体を取り込んでしまっている社会です。前近代社会は、経済活動は社会のサブシステムに過ぎませんでしたが、今やそれが逆転しているわけです。その結果として、2022年の年末総括記事の末尾部分でも論じましたが、人間同士の関係までもが経済生活の編成様式、つまり市場的な人間関係、「自分の役に立つサービスを提供する存在」として取り扱う関係に成り下がり、人間を「自分にとって使えるか否か」という商品選びの水準で評価し交際する関係が当然視する思考回路が形成されつつあるのではないかと非常なる危惧を覚えるところです。
また、そのような思考回路が形成されてしまっているからこそ、自分自身の命の問題についてさえ、2022年5月31日づけ「掛け金を払えなければ医療費を工面できないアメリカ社会への疑問・異議が見られず、個人の自衛手段としての民間保険への加入の重要性ばかりが強調される日本世論の徹底的な「個人」主義化の現状」で論じたように、保険に入るとか入らないといった次元で語られるようになってしまっているのではないかと考えます。「金の沙汰が命の沙汰」であることへの違和感や拒否感が弱まってしまっています。
日本の自主化を目指す当ブログとしては、日本人を変革の主体であると考えるので、正しい人間観に立脚し、社会的人間の属性が如何にして形成されるのかを踏まえた上で情勢分析する必要があると考えます。その際には、チュチェ思想の人間観は非常に重要な見解並びに観点及び立場を提供するものと考えています。このことについては、本稿後半で、第3節の内容に触れながら再論します。具体的には、小見出し「■「人民大衆の誉れ高い幸せな生活において本質的内容をなすのは、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし、尊厳ある生を営むことである」」の部分で論じます。
■客観的条件の位置づけと社会発展史の本質
社会関係の中で展開される活動過程で形成される自主性・創造性・意識性をもつ唯一の存在であるがゆえに、ただ人間だけが、自己の運命を自分の力で開いていけます。人間は客観世界を自己の要求に即して改造しつつ自己の運命を自分の力で開いていく世界の主人・世界の改造者という唯一無二の地位と役割を獲得するのです。そして、人間の自主性・創造性・意識性が発展すればするほど、世界の主人・世界の改造者としての人間の地位と役割は高まります(p12-13要旨)。
もちろん、「歴史発展においてすべての世代は、前の世代が創造した社会的冨と社会関係、すなわち所与の客観的条件から出発し、それを利用」します。しかし、客観的条件は「人間の自主的・創造的・意識的活動の歴史的創造物であり、それを利用しさらに発展させるのも人間であ」ります。「所与の客観的条件が有利であっても、それを利用し発展させる人間の自主性、創造性、意識性が低く、十分に発揮されなければ、社会はすみやかに発展することができ」ず、「客観的条件が不利であっても、人間の自主性、創造性、意識性が高く、それが正しく発揮されれば、社会は急速に発展するものであ」ります。要するに、「社会発展の歴史的過程が人間の自主性、創造性、意識性の発展水準とその発揮程度によって決定されることを意味す」るわけで、「社会発展の歴史はつまるところ、人間の自主性、創造性、意識性の発展の歴史だといえ」るのです(p13)。
マルクス主義の権威が低下して来、教条主義的なマルクス主義者と議論する機会が乏しくなってきている昨今においては論点にならなくなってきましたが、ひと昔前は非常に重要な論点でした。教条主義的なマルクス主義者には「意識」という単語を持ち出すだけで「観念論だ!」とよく言われたものです。人間の意識は客観世界の反映であり、客観世界の土台は生産力と生産関係によって規定されるものだからだと力説されたものでした。しかし、チュチェ思想の原理を理解するうえで重要なのは、人間の自主性・創造性・意識性を三位一体の関係で位置づけているところにあります。生産力云々については、創造性がしっかりと包含しています。意識性だけを強調しているわけではないのです。
下部構造としての土台の上に建てられる政治や文化などは上部構造であるというマルクスの見解を墨守している教条的なマルクス主義者は「経済的土台」という言葉を愛用します。たしかに物質代謝としての経済活動は人間存在の根本を支えるものです。「土台」という表現は言い得て妙です。「土台」であればこそ「土台からの作用」だけではなく「土台への反作用」についても考える必要があります。「土台の上に建てられる」ものといえば住宅ですが、人間は自らの要求と技術力に依拠して建てたい家に合わせて土地を整備します。軟弱地盤であれば建てたい家に合わせて必要なレベルの補強工事を施行します。かつてエンゲルスは『フォイエルバッハ論』で、不可知論に対して「あらゆる哲学上の妄想に対する最も説得力を持った反駁は実践、すなわち実験と産業」と言いましたが、まさしく産業の現実から考えるに「土台から人間への作用」だけではなく「人間から土台への作用」にも注目する必要があるはずだと考えます。
現代社会の深刻な環境危機などを踏まえると、いまや人間が蒙る「土台からの作用」だけではなく「土台への作用」を思想的にしっかりと位置づける必要があります。人間存在が世界を大きく改造し得る有力な存在となってきたからこそ主体的な人間観が求められると考えます。
キム・ジョンイル総書記は「人間本位の社会主義は、人間にたいする主体的観点と立場から出発して、すべてのものを人間に奉仕させ、すべての問題を人間の創造的役割を高めて解決するもっとも科学的な社会主義である」と宣言なさいます(p14)。つまり、人間の利益から出発し、人間の活動を基本とするのが人間本位の主体的社会主義です。ハン・ドンソン氏の前掲書によると「人間との関係で見るとき、世界の変化発展の法則性は、世界が人間の積極的な活動によって人間に奉仕する方向で、人間の発展とともにより速やかに発展するというところにあ」るといいます(ハン・ドンソン、2007、p24)。教条主義的なマルクス主義に依拠した国々がことごとく社会主義建設に失敗して崩壊するか資本主義に変節するかの中で、いまも変わらず赤旗を掲げ続けていられる朝鮮民主主義人民共和国の今日の姿を見るに、この宣言に根拠がないとは言えないでしょう。
■人間の生命の本質と生の価値
続いてキム・ジョンイル総書記は「チュチェ思想は、人間の生命の本質と生の価値についても新たに解明した」と論題設定なさいます。「チュチェ思想は史上はじめて、人間は肉体的生命とともに社会的・政治的生命をもって生きる存在であることを明らかにした」と宣言なさいます(p15)。
人間が社会的・政治的生命(社会政治的生命)を持つというのは、他の生物から人間を区別する特徴としての自主性・創造性・意識性が、生物としての進化の結果として自然に獲得されたものではなく人間が社会的関係を取り結ぶ中で形成されたものであることに基づきます。自然環境が人間に肉体的生命を付与し、社会環境が人間に社会的・政治的生命を付与するわけです。
「人間にとって自主性は生命であ」るとキム・ジョンイル総書記は強調なさいます。「人間は自主的な社会的存在として、なにものにも従属したり、束縛されることなく自主的に生きることを求め」るからです。「人間が自主的に生きるということは、世界の主人、自己の運命の主人としての地位を守り、権利を行使して生きることを意味」します。それゆえ、「人間が自主性を失い、他人に従属しているなら、命はあっても社会的、政治的には屍にひとしい」のです(p16)。ハン・ドンソン氏は前掲書において、「このような意味で社会政治的自主性を、社会的存在としての人間の生命、社会政治的生命と言い」(ハン・ドンソン、2007、p167)、「社会政治的生命をもってこそ、人々は、社会的集団とともに、世界と自らの運命の共同の主人となり、自主的で創造的に生き発展することがで」きると解説しています(同p171)。社会に背を向け放蕩する人は、社会的・政治的生命を得ることができず、社会的集団とともに世界と自らの運命の共同の主人になることができないので、まさに資本主義国の人間のように個人的努力の範囲やカネと権力で解決できる範囲で多少のことはできたとしても、自主的で創造的に生き発展することができません。
人間にとって自主性は生命であるので、「人間にとって肉体的生命も大切であるが、より大切なのは社会的・政治的生命」になります(p15)。肉体的生命が生物有機体としての人間の生命であるとすれば、社会的・政治的生命は社会的存在としての人間の生命であると言えるからです。たしかに「安定した健全な物質生活は、人間の肉体的生命の要求を十分に保障するばかりでなく、社会的・政治的生命を維持し、輝かす物質的裏付けとなる」ものですが、「社会的・政治的生命の要求をぬきにして肉体的生命の要求のみを追求するならば、いくら豊かな物質生活を営むとしても、それは決して有意義な生活とはいえず、そうした物質生活は人間の本性に反する動物の生活にひとしい奇形的で変態的な生活になりさがってしま」います(p15-16)。
■「人間のもっとも誉れ高く甲斐ある生き方は、自己の運命を社会的集団の運命と結びつけ、社会的集団に献身的に奉仕し、社会的集団に愛され信頼されながら、自主的で創造的な生活を営むことである」――人生観の問題に解答を与えるチュチェ思想
このような人間の生命の本質ゆえに、チュチェ思想は、生の価値として「人間の誉れ高い生き方は社会的・政治的生命を持し、それを輝かしながら生きることである」と定義します(p16)。そして、人間は社会的・政治的生命を社会的集団から授けられるがゆえに、「人間の生が価値あるものかどうかは、人間が社会的集団とどう結合するかにかかっている」ということになります(p16)。「人間の生は社会的集団に愛され信頼されれば価値あるものとなり、社会的集団から見捨てられれば価値のないものとなる」のです。つまり、「人間のもっとも誉れ高く甲斐ある生き方は、自己の運命を社会的集団の運命と結びつけ、社会的集団に献身的に奉仕し、社会的集団に愛され信頼されながら、自主的で創造的な生活を営むこと」なのです(p17)。
共同体と共に生きることや、愛や信頼を人生の価値として説く主張は古来から数多ありますが、人間の本質とその本質に合致した自然かつ当然な生き方は、ここにあるものだと当ブログも考えます。チュチェ思想は、そうした古来からの思想潮流の堂々たる一員でありながら、世界観の問題と人生観の問題とを論理的に密接に結び付けており、非常に説得力のある学説であると言えます。チュチェ思想の人生観は、人類の叡智の集大成であり、まことに内容豊富な思想であると考えます。
この論点はチュチェ思想にもとづく社会主義運動が実現目標点としていると考えられます。第3節でも再論されるので、本稿でも詳しくは後述したいと思います。
■集団主義社会としての社会主義社会でのみ、価値のある生を送ることができる
キム・ジョンイル総書記は、このような生は、敵対的階級社会を必然的にもたらす個人主義を克服した集団主義社会としての社会主義社会でのみりっぱに実現することができると仰います。「社会主義社会では、人びとがあらゆる搾取と抑圧、支配と従属から解放され」るので、「社会・政治生活をはじめすべての分野で自主的で創造的な生活が営めるようになる」のです(p17)。
具体的に社会主義社会の如何なる特徴がかかる効果を生むのかについては、第3節で詳述されます。
そして、社会主義社会で人びとが社会の主人としての高い自覚と能力をもって自主的で創造的な生活を営めるようになるためには、人々に「組織・思想生活と文化生活を正しくおこなわせ」る必要があると指摘なさいます。「人間は革命的な組織・思想生活と健全で豊かな文化生活を通して自主的な思想・意識で武装し、全面的に発達した創造的能力をそなえてこそ、社会と集団のため積極的に寄与し、社会と集団のりっぱな構成員として誉れ高く生きていくことができる」からです(p17-18)。
これに対して「ブルジョア反動派と社会主義の背信者たちが人間による人間の搾取と支配を正常なこととみなし、人間を個人の物質的欲求のみを追求する低俗な存在とみなす」ことについてキム・ジョンイル総書記は、「人間の生命の本質と生の価値にたいするブルジョア的観点と立場の反動性を示す明白な表現の一つ」であると糾弾なさいます(p17)。現代資本主義に対する非常に痛烈な批判であると言えるでしょう。
■第3節・・・正しい人間観と人生観に立つ朝鮮式社会主義の優位性
「われわれの社会主義は人民大衆にたいする主体的観点と立場にもとづいている」という書き出しで始まる第3節でキム・ジョンイル総書記は、「社会主義の真理性と優位性は、それにたいする人民大衆の支持と信頼にあらわれる」とし「われわれの社会主義は人民大衆にたいする主体的観点と立場にもとづいているので、人民大衆から絶対的に支持され信頼される、もっともすぐれた威力ある社会主義となる」と指摘なさいます(p18)。第3節は、前節の最後で「すべての人がもっとも大切な社会的・政治的生命を輝かし、肉体的生命の要求をも充足させる真の人間生活は、集団主義にもとづく社会主義社会でのみりっぱに実現することができる」としたキム・ジョンイル総書記が主体的社会主義の正当性について更に踏み込んで言及する節であると位置づけられるでしょう。ここでは、「人間は、互いに社会的関係を結んで自主性、創造性、意識性をもって生き活動する社会的存在である」という人間観、そしてそれに基づく世界観と社会歴史観の議論を人生観の問題に深めていらっしゃいます。さらに、本労作ではあまり言及されていない死生観の問題も基礎づけています。
まず、キム・ジョンイル総書記は「人民大衆」というキーワードについてより詳細を説明なさいます。すなわち、「人民大衆は働く人びとを基本に、自主的要求と創造的活動の共通性によって結合された社会的集団であ」ります(p18)。その上で、「人民大衆という言葉は、階級社会では階級的性格をおびる」と指摘なさいます。同時に「人民大衆の階級的構成は固定不変のものではなく、社会、歴史の発展過程でかわる」としつつ「人民大衆という言葉は、社会的・階級的関係を反映しているが、それは純然たる階級的概念ではない」ともします。これは、「もともと、人民大衆は相異なる階級と階層からなっている」事情、及び「人間の思想と行動は社会的・階級的立場の影響のみを受けるのではな」く「人間は革命的影響を受け、先進思想を身につければ、社会的・階級的立場はどうであれ、人民大衆に奉仕することができる」という事情に基づいているからです。
キム・ジョンイル総書記は「人民大衆の構成員かどうかを判別するには社会的・階級的立場をみなければならないが、それを絶対視してはならない」と警鐘を鳴らされます。「人民大衆の構成員かどうかを判別する基本的尺度は、その社会的・階級的土台がどうであるかにあるのではなく、どのような思想をもっているかにある」のです(p19)。
キム・ジョンイル総書記がこのように指摘なさった動機は、おそらく「祖国と人民と民族を愛する愛国、愛民、愛族の思想をもっていれば、誰でも人民に奉仕することができ、したがって人民大衆の構成員になることができる」と指摘なさっている点を鑑みるに、古典的なマルクス・レーニン主義の教義では強く排斥されてきた「民族主義」の再評価を意図してのものであると考えられますが、階級至上主義を脱する思想的突破口を開いたことは非常に大きな功績であったと僭越ながら申し上げたいと思います。階級にばかり拘泥することは20世紀社会主義の一つの問題点でしたが、20世紀末にキム・ジョンイル総書記がこれを乗り越える新しい社会主義路線を提唱なさったわけです。
この論文でも触れられており、また、前述のとおり「前進しよう」論文においても詳細に語られているとおり、知識労働中心の経済社会に移行したことにより労働者階級がプチブル化しつつある今日、労働者階級であるという属性だけでは社会主義運動を盛り立てることは難しくなってきており、この見解は現在の状況に合った新しく正しい見解であると考えます。「人民大衆の構成員かどうかを判別する基本的尺度は、その社会的・階級的土台がどうであるかにあるのではなく、どのような思想をもっているかにある」というキム・ジョンイル総書記の指摘を十分に体質化する必要があると考えます。
■「人民大衆はもっぱら国家主権と生産手段が人民のものとなっている社会主義社会でのみ、社会のあらゆるものの真の主人となる」
キム・ジョンイル総書記は人民大衆の底知れぬ力量について筆を進められます。「個々の人の力と知恵には限界があるが、人民大衆の力と知恵には限界が」ありません。「この世に全知全能の存在があるとすれば、それはほかならぬ人民大衆であ」ると指摘なさいます(p21)。「人民大衆は自然を改造し、生産力を発展させ、物質的富を創造する」し「人民大衆は思想的・文化的財貨を創造する」し「人民大衆は社会を改造」します。そして「人民大衆はもっぱら国家主権と生産手段が人民のものとなっている社会主義社会でのみ、社会のあらゆるものの真の主人となる」と確言なさいます(p21)。集団主義と個人主義との対立における集団主義の優位性をより具体化して、国家主権と生産手段の所有問題について言及なさっているわけです。
人民大衆の自主的要求を実現させるためには、敵対的階級社会に必然的に行きつく個人主義原理に基づく社会ではなく集団主義原理に基づく社会の道を歩まなくてはなりませんが、それはつまり、国家主権と生産手段とを人民大衆が自ら所有する社会主義の道を歩む必要があるということなのです。
もしかすると、「敵対的階級社会に必然的に行きつく個人主義を乗り越える必要性は分かる。そうした個人主義の逆を『集団主義』と定義したのは分かった。しかし、そこから何故社会主義に行きつくのか? 社会主義に限定せずとも集団主義は実現できるのではないか? 冒頭から『社会主義でのみ人民大衆の自主性は実現する』といったくだりが何回も出てきているが、何故社会主義でなければならないのか?」という疑問を持つ方もいらっしゃるかも知れません。しかし、集団主義を具体化・具現化させようとしたとき、つまり、個人と社会との自主的要求を調整しつつ共に実現させようとしたとき、すべての人々が自然と社会と自分自身の主人となるためには国家主権と生産手段とを共同で管理する道を歩まざるを得なくなると当ブログは考えます。キム・ジョンイル総書記が本労作冒頭で「社会的集団をなして活動するのが人間の生存方式であり、人間の自主的要求が集団主義によってのみりっぱに実現するのであるから、集団主義にもとづく社会、社会主義・共産主義社会は、人間の自主的本性にかなったもっとも先進的な社会である」と仰ったのは、そういう意味であると解釈できるでしょう。
なお、ここにおいて主語が「人民大衆」であることに注意しておく必要があると考えます。つまり、チュチェの世界観原理の段階では主語は主に「人間」でしたが、チュチェの社会歴史観原理においては、完全に統一されているわけではありませんが主語は主に「人民大衆」になっています。
ブルジョア社会たる日本社会で日常生活を送っていると「人間」という言葉を無意識的に「個人」と解釈してしまいがちです。この取り違いは最終的に主観観念論的な言説に行きつきます。社会というものは非常に巨大なシステムであり、一個人や小集団の意志や行動でどうにかできるものではありません。あまりにも規模が違い過ぎます。この点を無視して「決心すれば社会は変わる!」などと絵空事をスローガン化しているのが最近のリベラリストであるというのは、当ブログが再三指摘してきたところです。非常に巨大なシステムである社会を変革するためには、「人間」も個人がバラバラになっているのではなく組織的に大きくそして固く結集する必要があります。人民大衆として団結する必要があります。主語が「人民大衆」になっていることについては、そういった意味で注意を払う必要があると考えます。
■「革命と建設において主観主義を避け、紆余曲折をまぬかれる唯一の道は、人民大衆のなかに入り、かれらの意思と要求を聞き取ることである」
キム・ジョンイル総書記は「人民大衆は社会のあらゆるものの主人としてその地位を占め、権利を行使すべきである」とします。「自主的地位と権利は、人民大衆の運命を左右する基本的条件である」からです(p22)。政治、経済、文化などの社会生活の各分野で主人としてその地位を占め権利を行使する必要があります。他人に丸投げするのではなく人民大衆が自らが主人となる必要がある理由はここにあります。
その上でキム・ジョンイル総書記は「人民大衆の自主性をしっかり擁護し実現するためには、人民大衆の自主的要求を反映してすべての路線と政策を作成し、人民大衆の力に依拠してそれを貫徹しなければならない」という主体的な政治綱領を提示なさいます。そして「人民大衆の自主的要求は、路線と政策の正否を弁別する基準であ」り「革命と建設において主観主義を避け、紆余曲折をまぬかれる唯一の道は、人民大衆のなかに入り、かれらの意思と要求を聞き取ることである」と指摘なさいます(p22)。革命的大衆路線です。このことは、革命歌謡≪우리의 김정일동지≫(『我らのキム・ジョンイル同志』)においても歌われているところです。
社会主義とは単に国家主権と生産手段を共同管理にすることではないとキム・ジョンイル総書記は、幾度となく指摘なさってきました。これは、ソ連・東欧社会主義諸国が短期間で軒並み瓦解したことを受けての歴史的教訓です。それゆえ「人民大衆の自主的な意思と要求を集大成し体系化すれば、思想になり、路線と政策になる」という指摘は非常に重要なものであると考えます。自主的な思想や路線・政策は、空想的社会主義者がそうでしたが、どこかの天才が自己の思索の世界で紡ぎ出すわけではありません。現実の生活場面で生き暮らしている人民大衆の自主的な意思と要求を集大成し体系化することによってのみ生まれるものなのです。「わが国の社会主義がささいな偏向や曲折も経ることなく、もっとも科学的な道にそって勝利のうちに前進してきた秘訣はここにある」とキム・ジョンイル総書記は強調されています(p23)。
社会主義とは単に国家主権と生産手段を共同管理にすることではなく革命的大衆路線を歩むべきという意味で「革命と建設において主観主義を避け、紆余曲折をまぬかれる唯一の道は、人民大衆のなかに入り、かれらの意思と要求を聞き取ることである」という一文は注目すべき重要な部分であると考えます。
■帝国主義者の干渉を斥けることの重要性
キム・ジョンイル総書記は「人民大衆の自主性を擁護し実現するためには、国家と民族の自主性を確固と守らなければならない」とし「政治における自主、経済における自立、国防における自衛を実現するのは、わが党が終始一貫、堅持している革命的原則である」とされます(p23)。不朽の古典的労作である『チュチェ思想について』で指摘されたチュチェの根本原則ですが、キム・ジョンイル総書記は帝国主義勢力の「人権」を口実にした内政干渉について「外部勢力に支配される国の人民には決して、人権が保障されない」として「人権は、国家と民族の自主権と切り離しては考えられない」と指摘なさいます。これは、人権とは本来的に「政治、経済、思想・文化など社会生活の各分野で人民が行使すべき自主的権利であ」るからです(p23)。
帝国主義者たちが口実として用いる「人権」は、つまるところ「金さえあればなんでもできる有産階級の特権」に過ぎず、その証拠に「帝国主義者は失業者の労働の権利、身寄りのない人や孤児の生活の権利などは人権として認めていない」と強調なさるキム・ジョンイル総書記(p23)。「勤労者に初歩的な生存の権利さえ与えず、反人民的な政策と人種的・民族的差別政策、植民地主義政策を実施する帝国主義者には、人権について論ずる資格もな」いのです。このことは、ブルジョア「人権」論の虚偽性・偽善性を鋭く突くご指摘です。キム・ジョンイル総書記が強調されるとおり、「人権の第一の敵は、人民の自主権を踏みにじり、「人権擁護」の看板のもとに他国の内政に干渉する帝国主義者であ」ります(p24)。
ところで、前掲の『朝鮮新報』記事では≪또한 장군님께서는 군사를 국사중의 제일국사로 내세우시고 사회주의조선을 굳건히 수호하심으로써 사회주의의 강용성을 만방에 힘있게 떨치시였다.≫とか≪제국주의자들의 반혁명적공세로부터 사회주의를 고수하는것이 조국과 민족의 천만년미래를 결정짓는 중대한 력사적과제로 제기된 고난의 시기에 강력한 군력을 기반으로 하는 사회주의기본정치방식을 정립하시고 강국건설의 만년토대를 다져주신 장군님의 정력적인 령도에 의하여 주체의 사회주의의 과학성과 진리성은 빛나는 현실로 더욱 뚜렷이 립증되였다.≫としていますが、この労作において軍事について語っているとすれば、ここくらいのもの。共和国は建国2年目に勃発した祖国解放戦争以来ずっと戦時体制なので軍事を軽視したことは一度たりともありませんが、かといって当該労作が取り立てて軍事について論じているとも言い難いところです。とりわけ、この労作の発表(1994年11月)以後である1995年元旦を以って「先軍政治」が始まったとされています(パク・ボンソン『北朝鮮「先軍政治」の真実:金正日政権10年の回顧』)。≪강력한 군력을 기반으로 하는 사회주의기본정치방식≫という記述においては「先軍政治」という単語こそ出てきてはいないものの、そう言っているに等しいもの。「先軍政治」のスタートが2か月繰り上げられ、朝鮮式社会主義の不可欠な要素に改めて組み込まれたに等しいことが意味するところについては、今後の動向を慎重に見極める必要があると思います。
■社会のあらゆるものの主人としての地位を占め権利を行使するには、自主意識を高めて責任と役割を果たす必要がある
キム・ジョンイル総書記は「人民大衆は社会のあらゆるものの主人として、その責任と役割を果たさなければならない」として人民大衆が持つべき自覚と果たすべき責任そして役割の水準を要求なさいます(p24)。第1節でも強調されていたとおり、「社会主義を成功裏に建設するためには社会主義・共産主義の二つの要塞、思想的要塞と物質的要塞を占領するたたかいを力強く展開し、わけても思想的要塞を占領するたたかいを確固と優先させるべき」だというのが主体的な社会主義建設路線です。革命と建設は人民大衆のための事業であり人民大衆自身の事業なのだから、そこで提起されるすべての問題を自分自身が責任をもって自分の力で解決することこそ主人たるに相応しい態度です。また、人間が唯一の自主的かつ創造的存在であるからこそ人間が世界の主人としての地位と役割を得られるというのがチュチェ思想の人間観なので、自主意識を高めて責任と役割を果たすことはその意味でも当然の結論になります。
キム・ジョンイル総書記は、そのためには「主人としての自覚を高めなければならず、そのためには思想改造、政治活動を優先させなければならない」と指摘なさいます。「社会主義社会での社会発展の基本的推進力は、自主的な思想・意識で武装し、党と領袖のまわりにかたく団結した人民大衆の高い革命的熱意と創造的積極性」であるからです(p24)。「思想改造、政治活動をすべての活動に優先させるのは、社会主義社会本来の要求であ」ります(p24)。
自主とは文字どおり「自分自身の主人となる」ことを意味します。この意味での主人とは責任と役割を果たす人間のことを言います。無責任で利己主義的な人物は決して主人とは言えません。高い自覚と責任感を持ち、自らの役割を十分に果たす者のみが主人を名乗ることできます。その意味では、個人主義社会としての資本主義社会は、社会に主人が存在しておらず無秩序な社会であるという見方ができるでしょう。
ここにおいてインセンティブに依拠する方法は資本主義的な方法であり「人びとの革命的熱意と創造的積極性を高めることができないばかりか、社会主義制度そのものを変質させて危険におちいらせる結果をまねくようになる」とキム・ジョンイル総書記は警鐘を鳴らします(p25)。カネで動くのは主人としての振る舞いとは言い難いものです。共同体の主人として集団主義原則に基づいて生きる社会主義社会は、「金で人びとを動かす資本主義的方法」によっては運営し得ないものです。
インセンティブに依拠する資本主義的動員方法は、資本主義においてもあまり上手くいくものではないとも指摘しておきたいと思います。2023年5月8日づけ「災い転じて福となすべく「民間にできることは民間に」を換骨奪胎しよう」で取り上げましたが、いま日本では「大して成果を上げていないのに国会議員が多すぎる、政治家の報酬が高すぎる」という言説が罷り通っているのが典型的・代表的ですが、期待どおりの仕事をしない人に対しては本来的には監督・指導を強化して報酬に見合うだけ働かせるのが正道であるところ、それに先行してクビだの減給だのといった話がありとあらゆる場面で大手を振っています。さしづめ、他人の仕事を監督するというのは非常に面倒くさく即物的な成果が出にくいので、手っ取り早く楽をするために「働きが十分ではない人を指導して働かせる」よりも「働きが十分ではない人をクビにして取り換える」のを選んでいるのでしょう。これは、解雇をはじめとする不利益な取り扱いをチラつかせるというのは最も簡単な古典的労務管理手法ですが、そうした方法論が惨劇として現れたのが当該記事でも取れたとおり、JR福知山線脱線事故でした。
なお、カネで人を動かす方法に「依拠」してはならず思想改造、政治活動を「優先」させるべきだとしており、インセンティブを全面的に否定・排撃するものではないと申し添えておきたいと思います。もしもインセンティブの方法論を全面排撃しているとすると現行の社会主義企業責任管理制と衝突を起こすことになりますが、『社会主義は科学である』発表30周年記念大会が先般大々的に開かれた点を鑑みるに、このあたりの思想的折り合いはついていると言え、少なくとも現時点での『社会主義は科学である』の公式解釈においては、当該くだりはインセンティブの方法論を全面排撃するものと解釈されてはいないでしょう。
また、ここでいう政治活動の優先には、目下キム・ジョンウン総書記が取り組まれていらっしゃる、自己の生産単位・職場の単位特殊化・本位主義への反対も含まれるものと解釈すべきでしょう。チュチェ思想国際研究所の尾上健一事務局長は『自主・平和の思想―民衆主体の社会主義を史上はじめてきずく朝鮮とその思想を研究し実践に適用するための日本と世界における活動―』(白峰社、2015年)において「政権を奪取するまえの労働者たちの闘争課題は、賃金を上げることを中心とする労働条件の改善でした。労働者たちは政権につくまえは、社会主義思想を身につけていたわけでもなく、国家全体のことを考えたこともありませんでした。主に個人の要求を実現するためにたたかってきたため、運動の過程で民衆のことを思う気持ちは十分に形成されませんでした」と指摘しています(同書p8)が、単なる労働運動・待遇向上運動の延長線上では、労働者は往々にして自分たちの利益拡大にのみ関心を示し、社会全体の利益を考えることはしないものです。社会の主人であるべき人民大衆は、個人主義者等であってはならないのは当然ですが自己の生産単位・職場の本位主義者であってもならないはずです。
かつてアダム・スミスは「神の見えざる手」が働く前提として「公平な観察者」という概念を打ち出しました。自由市場と「公平な観察者」とを両立させるスミスの理想は、制度設計の問題として実現可能性が疑わしいと言わざるを得ませんが、「公平な観察者」は社会主義社会において必要とされるでしょう。
■社会のあらゆるものの主人としての地位を占め権利を行使するには、人民大衆の創造的能力を養う必要がある
続いてキム・ジョンイル総書記は、「人民大衆の創造的能力を培養」すべきだとします(p25)。人民大衆は社会のあらゆるものの創造者なので、革命と建設の成果は、人民大衆の自主的意識と創造的能力を高める活動をいかに進めるかにかかっているからです。人民大衆の自主意識とともに創造的能力を高める必要があるのです。このことは、人間が唯一の自主的かつ創造的存在であるからこそ人間が世界の主人としての地位と役割を得られるというのがチュチェ思想の人間観なので、自主意識を高めて責任と役割を果たすこと(前項)と並んで、人民大衆の創造的能力を養うことは当然の結論になります。
生産力の問題については本稿でも先に触れましたが、従前の社会主義理論が結局のところ生産力至上主義に陥り、それが更に「社会主義政権下では生産力を向上させさえすれば、社会主義建設は推進・強化され、ゆくゆくは共産主義社会が実現する」という荒唐無稽な展望に変質した歴史的教訓を踏まえたとき、キム・ジョンイル総書記が、生産力向上の論点を含めつつそれを「人民大衆の創造的能力を培養すべき」という形で取りまとめたことは画期的なことであると言えるでしょう。マルクス主義の理論を下敷きにしつつ歴史的教訓をも踏まえて、人間を中心に据える世界観・社会歴史観を貫徹することで説得力のある理論を構築さなっているわけです。
資本主義社会では人民大衆の自主的意識と創造的能力は十分には高まらないとキム・ジョンイル総書記は指摘なさいます。なぜならば、資本主義社会の主人である資本家は、自らに従順で剰余価値を生みだす奴僕を必要としており自主意識に目覚め多方面にわたって発達した自主的で創造的な人間は必要としていないからです。確かに日本においてもかつて、作家の三浦朱門がそのようなことを口走っていたとされています(http://www.labornetjp.org/news/2010/1265641187674JohnnyH/)。「帝国主義者と資本家は、勤労者大衆を資本の奴隷にするために手段と方法を選ばず、大衆を思想的に堕落させ、かれらの創造的能力を奇形化してい」るのです(p26)。
資本主義的生産様式に基づく資本主義経済は、確かに人類史全体を見たとき生産力を飛躍的に拡大させ物質的生活を豊富にしました。私たちはいま、100年前・200年前とは比べ物にならないほど物質に溢れた生活を送ることができています。しかし、資本主義経済における個々の生産者は、人々の需要を満たして生活を豊かにすること自体は目的とはしておらず、商品を販売して利益を得ること自体、つまり価値増殖を生産活動・経済活動の目的としています。需要充足自体ではなく利潤獲得を経済活動の目的としている以上は、すべてはどうしてもその目的に従属する形を取らざるを得ません。人民大衆の自主的意識と創造的能力は、利潤獲得に有用ないしはそれを妨害しない程度で許されるに留まるものであり、それ自体が目的にはなり難いのです。
特に資本主義経済は営利経済であると同時に競争経済でもあり「停滞とはすなわち後退」となるので、不断に利潤を上げ続けざるを得ません。それゆえ、特に衣食住が基本的に充足されている現代資本主義社会では、コマーシャル・メッセージ(CM)などを駆使して流行を人為的に創出し、存在しなくても生きていく上では問題はないような需要を半ば強引に作り出してまで商品を売り込もうとするケースも頻繁に目にすることができます。この点についてキム・ジョンイル総書記は先に「前進しよう」論文において「資本家は、商品の販路がしだいにとざされていくにつれ、非人間的な需要を人為的につくりだし、人びとの物質生活を奇形化する方向に進んでいます。資本家によって奢侈と腐敗堕落した生活が助長され、人間の肉体と精神を麻痺させる各種の手段がつくりだされた結果、麻薬常習者やアルコール中毒者、変態的欲望を追い求める堕落分子が日を追って急増しており、人びとは精神的・肉体的障害者に変わりつつあります(中略)資本家は、勤労者大衆の自主的な思想・意識を麻痺させ、人びとを資本主義的な搾取制度に従順にしたがわせるため、反動的で反人民的な思想と文化、腐りきったブルジョア的生活様式をヒステリックにまき散らしています」(『金正日選集』第9巻、p31)と指摘されています。
これに対して国家権力と生産手段が人民大衆のものとなっている社会主義社会は、切磋琢磨という意味での社会主義的競争は存在しますが、生産活動・経済活動の目的は自分たちの需要を満たして生活を豊かにすること自体です。党と国家の指導の下、無秩序な競争は廃除されます。もちろん、資本主義社会から社会主義社会に体制移行したとしても、一定期間は人々の頭の中には資本主義的な思想の残滓があるので、資本主義時代のCMが持て囃していたブルジョア的生活様式すなわち物質偏重志向の発想や、価値増殖志向の発想が現れることもあるでしょう。キム・ジョンイル総書記が第2節において「人間は革命的な組織・思想生活と健全で豊かな文化生活を通して自主的な思想・意識で武装し、全面的に発達した創造的能力をそなえてこそ、社会と集団のため積極的に寄与し、社会と集団のりっぱな構成員として誉れ高く生きていくことができる」(p17-18)と指摘なさったことの重要性、特に健全で豊かな文化生活の重要性は、この点においても重要性を持つと考えます。
■「人民大衆の誉れ高い幸せな生活において本質的内容をなすのは、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし、尊厳ある生を営むことである」
キム・ジョンイル総書記は「人民大衆は、社会のあらゆるものの主人として誉れ高い幸せな生活を享受しなければならない」と言明なさいます(p26)。そして、「人民大衆の誉れ高い幸せな生活において、物質生活は重要な位置を占める」とした上で「人民大衆の誉れ高い幸せな生活において本質的内容をなすのは、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし、尊厳ある生を営むことである」と指摘なさいます(p27)。社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かすことこそが人間が人間たる証なのです。
これは、第2節p17で肉体的生命と社会的・政治的生命との関係に関連して「人間のもっとも誉れ高く甲斐ある生き方は、自己の運命を社会的集団の運命と結びつけ、社会的集団に献身的に奉仕し、社会的集団に愛され信頼されながら、自主的で創造的な生活を営むこと」と確言されていたことの繰り返しでしょう。決して長くはない論文の中で同趣旨のお言葉が繰り返される点を鑑みるに、この点こそがチュチェ思想にもとづく社会主義運動が最も重視していることであり、最終的目標であると見做せるでしょう。
そして、後述されるように、すべての人々が自己の社会的・政治的生命を輝かせる社会は、その社会そのものが一つの社会的・政治的生命体と化します。つまり、チュチェ思想に基づく社会主義・共産主義運動とはすなわち、社会的・政治的生命体を形成するための運動であると言えるでしょう。
キム・ジョンイル総書記は「人民は元来、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かして生きていくことを求めるが、搾取社会ではそれが実現されない」と指摘なさいます。その理由は、「人間による人間の搾取と抑圧は、人民への愛情と信頼とは決して両立しえず、搾取者と被搾取者のあいだには真の愛情と信頼はありえない」からです。「人間の人格的価値が交換価値にかえられ、それが金銭と財物によって評価される資本主義社会では、人民大衆への愛情と信頼について論ずることはできない」のです(p27)。
このご指摘は当ブログがチュチェ思想・主体的社会主義を支持する根本的なところを指摘なさっているくだりです。世界観・社会歴史観だけでなく人生観の問題にも解答を与えているからです。当ブログは、このような見解に共感・理解するからこそ、その実現方途としての主体的社会主義の運動を支持しています。
ブルジョア社会・資本主義社会における人間関係は、端的に言ってしまえば「カネの切れ目が縁の切れ目」であります。本来、人間社会における経済活動は社会的存在としての人間にとって手段に過ぎず、経済生活は社会生活全体の一部分に過ぎない・経済の論理は社会の論理に隷属するはずです。しかし、近代社会・資本主義社会においては部分に過ぎなかったはずの経済分野が社会全体を呑み込んでしまい、社会が経済に隷属する逆転現象が起こってしまっています。その結果として、人間同士の関係までもが経済生活の編成様式、つまり市場的な人間関係、相手を生身の人間としてではなく「自分の役に立つサービスを提供する存在」として取り扱う関係に成り下がっています。人間を「自分にとって使えるか否か」という商品選びの水準で評価し交際する関係が当然化しています。
当ブログか特に危機感を感じるきっかけになったのが、今般の新型コロナウイルス禍でした。当ブログでもかなり力を入れて世相について取り上げました(たとえば、2021年9月9日づけ「「とにかく政府はコロナ禍を今すぐ何とかしろ!」はどのように誤っているのか・・・朝鮮民主主義人民共和国の先進性との比較」)が、新型コロナウイルス禍における日本世論の政府に対する諸々の要求内容が悉く、消費者意識の奇形的肥大化による無い物ねだりの駄々っ子的クレーマーのそれであったと言わざるを得ませんでした。自分たちの共同体であるという意識がまったく欠落しており、未知の病原体に対して本来であれば全国民が知恵を出し合って突破口を見出すべきところ、「とにかく政府はコロナ禍を今すぐ何とかしろ! 方法は分からん! それを考えるのが政治家や役人の仕事だろう! 「国民は税金を払っているんだぞ!」と言わんばかりでした。政治空間に商品取引の感覚を持ち込むことに何の問題意識も働かなくなったわけです。いよいよ人間が全面的に「商品化」しつつあります。
資本主義社会が搾取社会であることは間違いのないことであり、搾取の問題は重大な問題であることは論を俟ちません。しかし、より重大なのは「人間の人格的価値が交換価値にかえられ、それが金銭と財物によって評価され」る点にあると当ブログは考えます。酷使や搾取の問題も重大ですが、人間が人間として見做されない・扱われないということは、それよりも遥かに重大な問題・異常な状況であると考えます。資本主義社会の行きつく先は、社会的存在としての人間の本質に反する異常な社会にならざるを得ないのではないかと危惧するものです。
■「社会主義社会では、愛情と信頼が社会的集団とその構成員間、社会の個々の構成員間に生まれ…全社会が一つの社会的・政治的生命体となり、社会の全構成員が社会的・政治的生命を限りなく輝かしていく…もっとも強固で生命力のある社会となる」――主体的人生観に基づく社会的・政治的生命体論
キム・ジョンイル総書記は「従前の労働者階級の理論はブルジョア反動派の偽善的な超階級的愛情の反動性を暴露し、階級社会では愛情も階級的性格をおびることを明らかにした」と指摘なさいます。ブルジョア連中がが愛用する「国民」談義は虚偽のものであります。しかしながら同時に、「愛情が階級的性格をおびるというのは、愛情と信頼は社会的・階級的立場が同じ人たちのあいだでのみ交わせることを意味するのではない」とし、「社会的・階級的立場は異なっても、人民大衆の自主性を擁護してともにたたかい、創造的活動を共同で進める人たちのあいだには、愛情と信頼を交わす関係が生まれえる」とします(p28)。
その上でキム・ジョンイル総書記は、「社会主義制度が樹立すれば階級的対立は一掃され、人びとの関係は対立と不信の関係から愛情と信頼の関係にかわる」とされます(p28)。社会主義制度においては人々は、互いに愛し合い信頼し合いながら自主的に生きることができます。つまり、第1節でも触れられていたように、世界の主人、自己の運命の主人としての地位を守り、権利を行使して生きられるのです。
社会主義社会では、「愛情と信頼が社会的集団とその構成員間、社会の個々の構成員間に生まれ、それは領袖と戦士のあいだでもっとも崇高な発現をみ」ます。「領袖と戦士、党と人民が愛情と信頼によって結びつき、全社会が一つの社会的・政治的生命体とな」るのです。「社会の全構成員が社会的・政治的生命を限りなく輝かしていく生がもっとも貴く美しい生」の送り方であると言えますが、人々が愛と信頼で結びつき全社会が一つの社会的・政治的生命体となった社会は、「もっとも強固で生命力のある社会とな」ります。社会そのものが一つの生命体になるという意味において、社会的・政治的生命体論(社会政治的生命体論)は社会有機体論の一種であると言えます。
このように、資本主義がカネと権力を社会の紐帯としているとすれば、全社会が一つの社会的・政治的生命体となった主体的社会主義社会では愛情と信頼が社会の紐帯となるわけです。そしてそうした社会であるからこそ、社会の全構成員が社会的・政治的生命を限りなく輝かす最も貴く美しい生が実現した強固で生命力のある社会が実現するのです。この点はまさに、社会的・政治的生命体論の核心部分であります。先にも触れましたが、チュチェ思想に基づく社会主義・共産主義運動とは要するに、社会的・政治的生命体を形成するための運動であると言えるでしょう。
第2節p17で、ここと同じ趣旨で「人間のもっとも誉れ高く甲斐ある生き方は、自己の運命を社会的集団の運命と結びつけ、社会的集団に献身的に奉仕し、社会的集団に愛され信頼されながら、自主的で創造的な生活を営むこと」とキム・ジョンイル総書記が指摘なさっているとおり、社会的集団に献身的に奉仕するから社会的集団に愛され信頼され、それゆえに自主的で創造的な生活を営むことができます。カネの関係や権力の関係では、愛と信頼を得ることはできません。
社会的集団のために献身する生活について、ハン・ドンソン氏の前掲書では次のように詳しく解説しています。すなわち、「自らの運命を集団の運命と一つに結び付けて、集団の要求と利益を、そのまま自分自身の要求の利益と見なし」、「社会と集団の共同の主人になって自主的に生き活動」することです(ハン・ドンソン、2007、p179)。「人間が個人的存在であるとともに集団的存在であ」ることから「人びとの生活にも、個人的な側面と集団的な側面があ」るので、「人びとの生活において、個人的な側面を重視し、個人主義的に生きるのか、あるいは集団的な側面を重視し、集団主義的に生きるのかという問題が提起され」るといいます(同)。
集団主義か個人主義かの対立は、社会主義と資本主義との社会体制上の対立であり、それはつまり、人間を社会的存在であるとする人間観と人間をたんなる自然的・生物学的存在とみなす人間観との対立に行きつくと先に述べましたが、この対立はまた、愛と信頼を紐帯とする社会的・政治的生命を基本とする人生観とカネと権力を紐帯として肉体的生命を基本とする人生観との対立であるとも設定できるでしょう。
また、社会的集団のために献身する生活の創造的な側面についてハン・ドンソン氏の前掲書では、「集団のために寄与することを人生の目的とする人々は、創造的活動も積極的に行うことができ」るとされます。「自己発展の動機を、人民大衆の運命開拓という崇高な事業に寄与することに見いだすとき、創造的情熱は尽き」ないからです。個人的な動機に基づく創造活動は、個人的な能力の限界に達したり個人的に満足したりしてしまえばそれで終わりですが、集団的創造的活動は「個人的なものに自己発展の動機を見いだすときには想像もできない創造力を発揮して、人民大衆の限りない発展のために意義ある貢献をすることができ」るのです(いずれも同書p180)。
結局、社会的集団のために献身する人々の生活は「自主的で創造的に生き発展しようとする自らの要求が実現される喜びと、集団の運命を担って開拓していく誇りに満ちた、充実した生活」となります。これに対して「自分自身の安楽だけを追求する人間は、結局、無為徒食し腐敗堕落した生活をおくることにな」るので、「このような生活に、真の生きがいと幸せはありません」(いずれも同書p180)。
なお、「個人が自らの肉体的生命と社会政治的生命を維持し発展させようとすること自体が、個人主義や利己主義ではありません」。「個人主義と利己主義の誤りは、個人では、世界と自己の運命の主人として自主的で創造的に生き発展することができないにもかかわらず」、「個人の欲望と名誉だけを追求するところにあ」るといいます。特に個人主義については、他人の利益を損ねてでも自己利益を追求する利己主義とは違い個人の自由と平等を主張してはいるものの、「それは、集団を尊重するからではなくて、そうすることが個人の利益を実現するのに有利だから」に過ぎません。
「集団の利益を優先するというのは、個人の要求を放棄するとか、他人のために一方的に犠牲になるという意味では」ないとも言います。「人間はあくまでも自主的存在であって、他人のための手段では」ないので、「人間は、他人のための手段となってはなりません」。ではなぜ、個人が集団のために自らの利益を犠牲にするケースがあるのかというと、「集団の利益のなかに個人の利益があ」るので「より大きい利益のために、小さい利益を犠牲にする」からです(いずれも同書p181)。これがチュチェ思想の集団主義における集団と個人の関係であると言えるでしょう。
なぜ、社会的・政治的生命体において愛情と信頼が社会の紐帯になるのか依然としてピンと来ない方もいらっしゃるかも知れません。本労作で「愛情と信頼」とされているものは、同志愛と革命的信義(革命的義理)という表現になりますが、『チュチェ思想教育における若干の問題について』(1986年7月15日、以下「7・15談話」といいます)においてかなり詳細に言及されています。鐸木昌之氏は前掲書で社会的・政治的生命体論の源流について、7・15談話の内容を分析した上で「社会政治的生命体は、金日成が朝鮮解放前に満洲で展開した抗日パルチザングループを模範にした。この戦闘集団は、指導者と戦士の間の個人的感情で結びつけられ、抗日という目的のために自己の生命までも犠牲にして戦うものであった。また、この遊撃隊は人民の海のなかを泳ぐ魚であり、人民と遊撃隊との関係は切っても切れないものであった。すなわち、抗日遊撃隊の指導者、戦士達、そしてそれを支持する大衆の間で成立した運命共同体を北朝鮮社会全体に敷衍しようとしたのである」(p155-156)と述べていますが、これは非常に分かりやすい上に、各種政治宣伝との整合性を考えるに論理的に説得力があると考えます。光復という理想を目指した抗日パルチザンがそうしたように、共産主義社会という理想を目指す朝鮮民主主義人民共和国もこのように結束すべきだというわけです。
この人間関係は、「自由と平等」を前提としつつもそれよりも一段高みにある関係性であると言えます。7・15談話でキム・ジョンイル総書記は「品物を売る人と買う人は平等な関係にあるとはいえても、彼らが必ずしも同志的に愛しあう関係にあるとはいえません。自由と平等の関係を革命的信義と同志愛の関係と対立させるのも正しくありませんが、どちらかの一方を他のものに溶解させようとするのも誤りです」(同名日本語版小冊子、外国文出版社、2022年、p20)と指摘なさっています。
また、「個人がその生命の母体である領袖、党、大衆に忠誠を尽くすのは、誰かの指図によってではなく、自分自身がもっている社会的・政治的生命の根本要求から生まれ出るものです。それは他人のためではなく、自分自身のためです」(同p23)とも仰っています。
同志愛と革命的信義を現代において如何なる方法で実践すべきかについて、7・15談話でキム・ジョンイル総書記は次のように指摘されています。
もともと革命的信義と同志愛は、環境や条件によってあれこれ変わるものではありません。子どもが父母を愛し尊敬するのは、自分の父母が必ずしも他人の父母よりまさっているとか、父母から恩恵をうけられるからではなく、まさに自分を生み育ててくれた生命の恩人であるからです。革命的信義を守る人であれば、有利なときも不利なときも変わることなく、ひとえに自分の生命の母体である領袖、党、大衆と生死運命をともにするものです。もし、自国が立ち後れているといって失望し、祖国をいとわしく思ったり、祖国が危機に瀕したとき、自分を育ててくれた母なる祖国を裏切ってわが身のみを救おうとする人がいるなら、どの国の人民をとわず、そうした人間を良心のある人間とはみなさないでしょう。革命的信義を守る人であれば、いかなる風が吹き荒れようとも、事大主義に走ったり、自分の領袖、自分の党、自分の祖国を裏切るようなことはないでしょう。(同p25-26)
われわれは何よりも、他の国の偉人ではなく、まさしく金日成同志が、日本帝国主義支配の暗たんたる時期に、あらゆる艱難辛苦に耐えて奪われた祖国を取り戻し、この大地に繁栄する社会主義祖国を建設してくれたということを知るべきです。日本帝国主義とアメリカ帝国主義を打ち破り、チョンリマ(千里馬)朝鮮の栄誉を轟かせるよう人民を導いてくれたのも金日成同志であり、今日世界反動の元凶であるアメリカ帝国主義と直接対峙している困難な状況のもとでも、社会主義建設と祖国の自主的統一をめざす朝鮮人民の革命偉業を勝利の道に導いているのも、ほかならぬ金日成同志です。朝鮮の全ての共産主義的革命家は、父なる金日成同志から不滅の政治的生命を授かり、その愛と配慮のもとで育ってきたのです。実に、金日成同志はわれわれ全ての偉大な教師であり、政治的生命の父であります。それゆえ、金日成同志に対するわが党員と勤労者の忠実性は一点のくもりもない純潔なものであり、絶対的かつ無条件的なものなのです。
当ブログは、先に述べたこととも重なりますが、社会的・政治的生命体論は、本質的に社会的存在としての人間が幸福に生きる人生観を基礎付けるものであると確信するものです。人間中心の社会主義運動は、単に労働者階級の生活水準を向上させ経済的利益を実現するといった水準にとどまる問題ではなく、人間が本来的に持つ人間性を取り戻すことであると言ってよいと考えます。
人間性の本質は、その自主性にあります。愛とはお互いの自主性の尊重です。人間が自主的な生を送るためには、自然・社会・自分自身の主人、政治・経済・思想文化の各生活分野の主人となり、人々が愛と信頼に基づいた道徳義理的な一心団結をなす必要があります。そしてそのためには、修正資本主義的対応では足りず社会的・政治的生命体の形成を目指す社会主義・共産主義運動が必要になると考えます。ここにおいて、人類史が資本主義で終わるのではなく社会主義、それも人間にとって生命である自主性を回復する主体的な社会主義に進んで行くものと考えます。
■チュチェ思想は人生観を持っているがゆえに死生観も持っている
この労作では深く言及されてはいませんが、全社会が一つの社会的・政治的生命体になり人民大衆がその中で有機的に結びつくということは、生物としての人間が死亡して肉体的生命を終えたとしてもその社会的・政治的生命は、一つの社会的・政治的生命体の中で永生することを意味します。
ハン・ドンソン氏の前掲書によると「崇高な精神をもって人民大衆のために生涯をささげた人々は、社会的集団と、愛と信頼の絆で結ばれてい」るので、「このような人々は、たとえ肉体的生命が途絶えたとしても、その思想と業績は、社会的集団が続く限りそのなかで引き継がれ、かれらにたいする愛と信頼は、世代を越えて人々の心のなかに残ります」。それゆえ「人民大衆の運命を開拓する偉業にすべてを尽くして献身するとき、肉体的には死んでも、社会政治的には永遠に生き続ける」のです(ハン・ドンソン、2007、p169)。
また、ハン・ドンソン氏はより遠大な見解から、社会的・政治的生命の永生は「歴史の流れとともに限りなく引き継がれ、歴史的価値をもち続け」るとも言います。「個人の一生には限りがありますが、社会と集団は限りなく存在し発展」するので、「人々は、社会と集団の未来の創造に寄与することによって、人間の生の大きな歴史的流れに合流することにな」るからです。「人民大衆と生死苦楽をともにしながら自主的で創造的に生きた人生は、代を継いで人々の尊敬と愛を受け、その名は歴史に残ることにな」るのです。これに対して「自分のためだけに生きる生活は、個人の一生で終わる生活で」であり「そのような生活は歴史に残りません」(ハン・ドンソン、2007、p185)。ここには儒教文化の死生観の影響が非常に色濃く現れていると言えるでしょう。
意味が分からないという感想をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。そこでまたしても鐸木昌之氏の前掲書から引用したいと思います。
社会政治的生命体あるいは革命的首領論を検討してもわかるように、革命的義理、忠誠、孝誠、忠臣、孝子、奸臣、不孝子などそこで用いられている用語は、伝統的思惟体系のそれである。(p175-177 ブログ記事として読み易いように改行は編集しました)
(中略)
儒教学者加地伸行は儒教における孝について次のように語っている。「自己の生命とは、実は父の生命であり、祖父の生命であり、さらに、実は遠くの祖先の生命ということになり、家系をずっと辿ることができるようになる。すると、いまここに自己があるということは、実は、百年前、確かに自分は生きていたことでもある。百年はおろか、千年前、一万年前、十万年前にも、ひいては生命のもとであったところまで遡って自己は確かに存在していたことになるのだ。それは<血脈>あるいは<血の鎖>と言っていい。それと対照的に、一方では子孫・一族があり、百年先、千年先、一万年先と、もし子孫・一族が続けば、自己は個体として死ぬとしても、肉体の死後も子孫の生命との連続において生き続けることができることになる。つまり、孝の行いを通じて、自己の生命が永遠であることの可能性に触れ得るのである」
これが北朝鮮の「社会政治的生命体」論と構造的に極めて類似しているのはいうまでもない。儒教は血縁共同体内において孝を中心に置いて個人に永遠の生命を保障するものであった。他方、「社会政治的生命体」論は、その中心に首領に対する忠誠を置いて個人の生命の永生を考えているのである。しかしそれは、祖先につながる血縁共同体ではなく、首領に連なる北朝鮮社会、すなわち朝鮮民族にまで拡大していた。
またその連続性を保障する血の鎖は、社会政治的生命体では首領の創始した革命伝統の継承として、すなわち主体の血統として代を継いでいくものであった。個人は社会政治的生命体に一体化してその存在を確認し、革命伝統のなかに自己の永生を見いだす。個人は革命の血統のなかに溶解し、永遠に生きるのである。
革命伝統、すなわち主体の血統は、首領金日成そして金正日に象徴化されていた。またその家系は「代々多くの愛国者を輩出した稀有の革命的家系」であった。それゆえ主体の血統の創始者である金日成と金正日親子の実際の血縁関係もそのなかに含意されているのはいうまでもない。
加地伸行氏の儒教における死生観を引用しつつ社会的・政治的生命体論の死生観の論理構造の類似性を指摘する上掲引用部分からは、ほとんどの人が儒教的死生観を持っていない日本人には理解困難かも知れません。「自己の生命とは、実は父の生命」というのは日本文化の文脈では馴染みの薄い考え方でしょう。しかし、朝鮮文化の文脈に照らしたとき、社会的・政治的生命体論の死生観が決して突拍子のないことを言い出しているわけではないということだけはお分かりいただけるのではないでしょうか。
なお、鐸木氏は引用範囲の最終段落で「それゆえ主体の血統の創始者である金日成と金正日親子の実際の血縁関係もそのなかに含意されているのはいうまでもない」として、朝日新聞の牧野愛博氏が一時期、ナントカのひとつ覚えのように連呼していた所謂「白頭の血統」論に通ずる主張を展開していますが、王の息子が君主制主義者であるとは限らないように革命家の息子が革命家になるとは限りません。鐸木氏が取り上げている「代々多くの愛国者を輩出した稀有の革命的家系」というくだりを当ブログは、そのような家系に育ったからこそ、つまり、最も立派な革命家一族であるキム・イルソン一家に生まれ育ったというその思想的生育環境が、キム・ジョンイル総書記をして生まれながらの革命家としての英才教育を受ける機会を獲得でき、立派な革命家せしめたと解釈すべきではないかと考えます。
それはさておき、このような死生観を持っているからこそチュチェ思想において最も恐れるべきことは、社会集団から見放されること、そして、人々から忘れられることになるでしょう。チュチェ思想は独自の人生観を持っているがゆえに死生観も持っているわけです。
キム・ジョンイル総書記が逝去なさったときの公告≪전체 당원들과 인민군장병들과 인민들에게 고함≫(すべての党員と人民軍将兵、人民に告ぐ)では、最後に≪위대한 령도자 김정일동지의 심장은 비록 고동을 멈추었으나 경애하는 장군님의 거룩한 존함과 자애로운 영상은 우리 군대와 인민의 마음속에 영원히 간직되여있을것이며 장군님의 성스러운 혁명실록과 불멸의 혁명업적은 조국청사에 길이 빛날것이다.≫(偉大な領導者である金正日同志の心臓は、たとえ鼓動を止めたとしても、敬愛する将軍様の神聖なる尊名と慈愛に満ちた御姿は我が軍隊と人民の心の中に永遠に残り続けるであろうし、将軍様の聖なる革命実録と不滅の革命業績は祖国の青史に永遠に輝き続けるだろう)という一文がありましたが、これはチュチェの死生観が非常によく表現されているものであると言えます。キム・ジョンイル総書記は今もなお生き続けておられるのです。
ディズニー映画に『リメンバー・ミー』という映画があります。大きくヒットし、テレビでも何度か放送されているので見たことがある方もいらっしゃるでしょう。死後の世界が存在するという世界観の下、メキシコ人の少年が死者の国に渡るというアニメ映画ですが、その中で「生者の国において皆から忘れられると死者の国からも消滅してしまう」という「二度目の死」なる設定があります。(筋書はウィキペディアにあるので読んでみてください)。
ディズニー映画なので社会的・政治的生命体論に則っていないのは勿論で、儒教の死生観を踏まえているとも考えにくいものですが「生きている人たち皆から忘れられると完全に消滅する」という「二度目の死」なる設定には、当該映画は家族愛(生物学的な血縁関係の間柄での愛)の物語に留まってい点には注意が必要ですが、チュチェ思想の死生観にも繋がるものがあるように思えます。そして、そのような映画が西側世界で大きくヒットしたことは、西側世界においてもチュチェ思想の死生観にまったく可能性がないとは言えないことを示しているのではないかと考えます。
このような死生観は、個人主義に基づく社会・資本主義社会では勿論、実現不可能なものです。資本主義社会がいかに高度な生産力を誇っていたとしても実現できるのは個人の肉体的生命の保証にとどまります。資本主義社会では「自由と平等」の関係は実現され得ても、愛と信頼の関係性が紐帯として実現されることはありません。いま資本主義社会では盛んに「社会的包摂」というキャンペーンが展開されていますが、極めて難航しています。社会的包摂もできないのだから、社会的・政治的生命の永生など到底不可能です。
集団主義か個人主義かの対立は社会体制の対立であり、それはつまり人間観の対立であり、人生観の対立でもあると先に述べましたが、これはそのまま死生観の対立になるわけです。個人として生き肉体の死滅とともに終わる生命の見方と、集団とともに生き社会的・政治的に永生する生命の見方との対立です。
■仁徳政治論が社会主義・共産主義党の性質を理論的に転換した
キム・ジョンイル総書記は、「人民大衆中心の社会主義は社会生活のすべての分野に同志的団結と協力、愛情と信頼の関係をもっともりっぱに具現し、政治も愛情と信頼の政治にかえる」として社会主義政治の本質的特徴を端的に指摘なさいつつ「愛情と信頼、これは人民大衆が政治の対象から政治の主人となった社会主義社会において政治の本質をなしている」として「われわれは愛情と信頼の政治を仁徳政治と称している」と宣言なさいます。そして「社会主義社会で真の仁徳政治を実現するためには、人民にたいする限りない愛情を体現した政治指導者をおしたてなければならない」となさいます。「仁徳に欠けていれば人民に背いて社会主義を滅ぼす結果をもまねきかねない」からです(p28-29)。
「社会主義社会で愛情と信頼の政治をほどこすためには、社会主義政権党を母なる党に建設しなければならない」とキム・ジョンイル総書記は仰います(p29)。「労働者階級の党は社会の指導的政治組織であ」るので、「社会主義社会で国家機関とすべての組織が人民にいかに奉仕するかということは結局、党をいかに建設するかということと関連している」からです。
「党を母なる党に建設するというのは、母が子をこのうえなく愛し、あたたかく見守るように、党を、人民大衆の運命を責任をもってこまかに見守る真の人民の導き手に、保護者にすることを意味」します。キム・ジョンイル総書記は、「以前は党を主に階級闘争の武器とみなした」としつつ「労働者階級の党は階級闘争も展開すべきであるが、党のすべての活動はあくまでも人民への限りない愛情と信頼から出発しなければならない」(p29)として社会主義・共産主義党の性質の理論的転換を図られました。「党は人民大衆の利益を擁護することを第一とし、人民大衆の利益を侵害する者とたたかわなければならない」のです。党は確かに階級闘争の武器ではあるが、それは結局のところ人民への限りない愛情と信頼から出発しているわけです。当ブログはこの政治観に全面的に賛同するものです。
本稿では先に「革命と建設において主観主義を避け、紆余曲折をまぬかれる唯一の道は、人民大衆のなかに入り、かれらの意思と要求を聞き取ることである」という一文に関連して、このことを革命的大衆路線として位置づけました。大衆路線というと毛沢東・中国主席の政治姿勢として非常に有名なものです。キム・ジョンイル総書記の政治姿勢も毛沢東主席の政治姿勢と通ずるところは確かにありますが、「母なる党を建設すべきだ」とする仁徳政治論はキム・ジョンイル総書記の専売特許であると言うべきでしょう。
愛情と信頼が全社会が一つの社会的・政治的生命体となった主体的社会主義社会の紐帯であるわけです。朝鮮労働党の革命的大衆路線は、単に党員が人民の輪の中に自ら入って行き意思と要求を聞き取ることではなく、人民への限りない愛情と信頼から出発し、母が子をこのうえなく愛してあたたかく見守るように接することなのです。
■人民に忠実に奉仕する幹部と党員を育成するために
キム・ジョンイル総書記は、「社会主義政権党を母なる党に建設するためには、すべての幹部と党員を人民を限りなく愛し、人民に忠実に奉仕する精神で教育しなければならない」と強調なさいます。「革命家が労働者階級の党に加わるのは、私利と功名、権勢のためではなく、人民によりよく奉仕するためであ」り「苦労は人に先がけ、楽は後にまわし、困難な仕事はすすんで引き受け、成果は譲る人が真の共産主義者であり、労働者階級の党の党員である」と仰います。そして「党員をこのように育てるためには、かれらのあいだで人民に献身的に奉仕する思想教育活動を強化しなければならない」とも仰います(p29-30)。
欲まみれの俗物には、なかなか達しえない高い党性・思想性を必要とする水準です。だからこそ社会主義・共産主義党の党員はエリート中のエリート、選良の中の選良であるわけです。党は常に人民大衆と渾然一体の関係にあらねばならぬが、かといって誰彼構わず党員にするわけにも行かないと考えます。単なる出世機会主義者などは慎重に排除しなければなりません。キム・ジョンイル総書記は「少なからぬ党が人民大衆の支持と信頼を失い、結局、その存在を終えるようになったのは、党を、人民の運命を責任をもってあたたかく見守る母なる党に建設するのでなく、権勢を振るい、権力を乱用する官僚的党に転落させた結果である」と警鐘を鳴らされています(p29)。
キム・ジョンイル総書記は「社会主義社会で仁徳政治の実現を阻む主な要素は、幹部のあいだにあらわれる権柄と官僚主義、不正腐敗である」と仰います。社会主義はあらゆる特権に反対しているのにも関わらず汚職が発生するというのは、反社会主義現象以外の何物でもありません。
キム・ジョンイル総書記は「国家主権と生産手段が人民の手に掌握されているかぎり、社会主義社会で新たに特権階級が生まれることはない」が、「党と国家のすべての政策は幹部を通じて実行されるので、党と国家がいくらりっぱな政治をほどこしても幹部が権柄と官僚主義に走ると、それは正しく具現されない」と指摘なさいます(p30)。そして、そのためにキム・ジョンイル総書記は「幹部を徹底的に革命化」しつつ「かれらのあいだで権柄と官僚主義、不正腐敗に反対する闘争を積極的にくりひろげる」こと、「幹部のあいだで権柄と官僚主義、不正腐敗の傾向を根絶するための教育活動と思想闘争をひきつづきねばり強くくりひろげなければならない」と強調なさいます。
これは非常に重要な指摘です。「大衆から支持されない党はその存在を維持することができない。歴史的教訓が示しているように、社会主義政権党が幹部の権柄と官僚主義、不正腐敗を許容するのは、みずから墓穴を掘るようなものである」と指摘なさっているのは全面的に正しいと考えます。しかし、このことについて、当ブログの関心に沿って日本の状況に引き付けると、「革命家が労働者階級の党に加わるのは、私利と功名、権勢のためではなく、人民によりよく奉仕するためであ」り「苦労は人に先がけ、楽は後にまわし、困難な仕事はすすんで引き受け、成果は譲る人が真の共産主義者であり、労働者階級の党の党員であ」るところ、そのような人材は日本には非常に稀有であると言わざるを得ません。
キム・ジョンイル総書記は「鍛練の足りない一部の幹部は思想的に変質し、人民から遊離して特殊階層化しかねない」と仰いますが、日本ではむしろ「鍛練の足りない幹部」が多数派になるでしょう。それゆえ、キム・ジョンイル総書記の指摘を日本において実践するとなると、当ブログは、教育活動と思想闘争はもちろん積極的に展開させなければならないが、仮借なき汚職排撃闘争及び、いわゆる「不正のトライアングル」理論に基づく仕組み作りも前面に押し出す必要があると考えます。
全体の文脈から考えて、ここでの教育活動及び思想闘争重視のくだりは、「社会主義社会は高い思想・意識で武装し、一つに統一団結した人民大衆の創造力によって発展する社会であ」り「人間改造を優先させてこそ革命の主体を強化し、その役割を高めて社会主義を成功裏に建設することができる」という命題に対応しているものと思われます。損得勘定で人を動かす方法論がブルジョア的であることは論を俟ちませんが、日本はまさにブルジョア社会であるからこそ、教育活動及び思想闘争にプラスして幹部当人の損得勘定に訴えるべく汚職排撃闘争も展開せざるを得ないものと考えます。
また、キム・ジョンイル総書記が権柄と官僚主義、不正腐敗の問題を「われわれの内部に古い思想を扶植しようとする帝国主義の思想的・文化的浸透策動がつづいている状況」と結び付けて反汚職闘争を論じている点に注目すべきであると考えます。
ほんのわずかな体制の綻びを突いて全体を瓦解させようとするのが帝国主義者の手口です。特に不正腐敗は、「あいつばかり地位を利用して美味しい思いをしやがって、オレだって・・・」「みんなやっているから・・・」といった具合に他人に「伝染」してゆくものです。それは社会主義体制を内部から衰弱させるだけではなく、そうした思想的荒廃が外部勢力に付け入る隙を与えることになります。特に帝国主義者は本質的に個人主義、個人の私的利益の徹底的な追求を是とする思想的基盤に立っているので不正腐敗と思想的に親和的です。社会主義政権党幹部の権柄と官僚主義、不正腐敗は、帝国主義者の足掛かりになりかねないのです。キム・ジョンイル総書記の指摘を全面的に支持するものです。
■人民大衆の社会的・政治的生命を輝かす党と領袖の仁徳政治
キム・ジョンイル総書記は、党と領袖の仁徳政治によって朝鮮人民は社会的・政治的生命を輝かしており、誉れ高く尊厳ある生を営んでいると指摘なさいます。「社会の全構成員が互いに信頼し愛し、助け合いながらむつまじい大家庭をなし、ともに生きがいと幸せを享受しているのがわれわれの社会の真の姿であ」り、それゆえに「わが国では全人民が領袖を実の父と仰ぎ、党のふところを母のふところと信じて慕い、領袖、党、大衆が生死、運命をともにする一つの社会的・政治的生命体をなしている」と指摘なさいます(p31)。
既にふれてきたとおり、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし尊厳ある生を営むことが社会のあらゆるものの主人としての誉れ高い幸せな生活であり、社会主義体制においてこそ全社会は一つの社会的・政治的生命体となるので社会の全構成員が社会的・政治的生命を限りなく輝かしていけるようになるわけですが、より具体的には、党と領袖の仁徳政治を執り行うことが必要であるというわけです。
また、精神的・道徳的風格だけでなく物質や文化面においても健全かつ平等な生活が現れていると指摘し、無料義務教育制や無料治療制について言及していらっしゃいます(p32)。翻って日本では、たとえば社会保険料については「給付水準と負担水準」のバランスの話ばかりが取り沙汰され、そもそもの制度理念などについては顧みられることさえありません。日本における仁徳政治など夢のまた夢であると言わざるを得ないでしょう。
■仁徳政治と後代愛
キム・ジョンイル総書記は「わが党の仁徳政治の恩恵は、育ちゆく新しい世代にいっそうこまやかにほどこされている」として後代愛について筆を進められます。「革命の前途と、国家と民族の興亡盛衰は新しい世代をいかに育てるかにかかっている」ため「新しい世代の育成問題は親だけに責任を負わせることではない」と言明されます(p32)。
「新しい世代の将来が親の財力によって左右される資本主義社会では、かれらが社会的不平等と社会悪の餌食になるのは避けられない」が、これに対して「仁徳政治が実施されているわれわれの社会主義社会では、すべての新しい世代を国家が引き受けて育てている」とします(p33)。日本では昨今「親ガチャ」という言葉が頻繁に取り沙汰されます。「親ガチャ」は必ずしも教育の話に限ったものではありませんが、親の経済力と子への教育水準の関係で語られることが多いものです。ここ10年ほどで「質のよい教育はカネを出して買うものだ」という観念がだいぶ薄れてきたものの、依然として日本国家の腰は重いと言わざるを得ません。ブルジョア社会の支配階級は有産階級であり、有産階級は子弟に対する良質な教育にかけるべき資金等に困っていないので、ブルジョア社会では新しい世代の育成問題の優先度は高くはないのです。やはり、日本における仁徳政治など夢のまた夢であると言わざるを得ないでしょう。
■仁徳政治は抗日武装闘争以来の伝統的政治方式であり、広幅政治でもある
キム・ジョンイル総書記は、「仁徳政治は、偉大な領袖金日成同志が早くも抗日革命の日びにその歴史的根源を築き、革命と建設の進展にともなってさらに深化発展させてきた伝統的な政治方式である」と指摘なさいます(p33)。「社会的・政治的生命体論の根源は抗日パルチザンにある」とよく外部からも指摘されることですが、それらの指摘はまったく見当違いというわけではないことが、このくだりから判定できるでしょう。
「人民を限りなく愛する気高い徳性をそなえた敬愛する金日成同志を領袖に仰いだがゆえに、わが国では真の人民の政治、仁徳政治の誇らしい歴史が開かれるようになった」(p33-34)と指摘なさるキム・ジョンイル総書記。たしかに、『キム・イルソン将軍の歌』に歌われているように、キム・イルソン主席は満州広野の吹雪をかき分け密林で夜を明かしてこられました。建国後も『忠誠の歌』で歌われているように、夜明けの早い時間から農場や工場を訪ねては精力的に現地指導なさいました。これらすべては人民に対する限りない愛情がなければ不可能なことです。
キム・ジョンイル総書記は「わが党の仁徳政治は、各階層の人民に差別なく愛情と信頼を与える大いなる愛情と信頼の政治である。そういう意味で、われわれはわが党の仁徳政治を幅広い政治といっている」と宣言なさいます(p34)。文献によっては「広幅政治」と表記されることもあります。「わが党は過ちを犯した人であっても見放さず、教育改造して正しい道に導き、社会的・政治的生命を最後まで輝かしていけるよう見守っている」がゆえに幅が広い政治だというわけです。
このことは「北朝鮮」文学の研究分野ではかねてより指摘されてきたことです。古典的な社会主義リアリズムでは決して表象化されないような人物を敢えて取り上げ、そうした人物がどのような葛藤を経て改心してゆくのかや、あるいは、周囲の人々が初めのうちは「あんな勝手なことをしてきておいて、何を今更・・・」と思いつつ、次第に変化する当人を見て過去を許して受け入れるべきかどうか葛藤するのかを題材にしたテーマが少なくありません。広幅政治については、このくだりだけをみるとキレイゴトのプロパガンダだと言いたくなる気持ちも分からなくはありません。しかし、文学論壇での動向を鑑みるに大真面目な課題として取り組まれているものです。
■民族の優れた品性が社会主義において全面的に開花した
キム・ジョンイル総書記は「朝鮮人民にたいする党と領袖の気高い愛情と信頼は、人民のあいだに党と領袖への限りない忠誠を呼び起こして」おり、「朝鮮人民のすぐれた品性は、現代にいたって新たな精神的・道徳的基礎のうえに全面的に開花発展している」と指摘なさいます(p34)。「朝鮮人民は党と領袖の仁徳政治のありがたさを深く感じており、その恩徳に忠誠をもって報いるために身も心もささげてたたかっている」のです。
個人的な思いですが、ロシア語版『インターナショナル』の≪Мы наш, мы новый мир построим,Кто был никем − тот станет всем!≫`という歌詞にうたわれるようなソ連流の社会主義・共産主義のビジョンも好きですが、≪우리 자랑 이만저만 아니라오≫の≪민족문화 혁명전통 체계있게 가르치며 조국앞날 지고나갈 학생들이 자랍니다.≫にうたわれるように、민족문화(民族文化)と혁명전통(革命伝統)とを等しく取り扱う共和国流のの社会主義・共産主義のビジョンのほうが魅力的に感じるところです。なお、この点は、本稿最終節の温故知新論に繋がります。
■朝鮮式社会主義は必勝不敗である
キム・ジョンイル総書記は「わが党の仁徳政治は領袖、党、大衆の一心団結の源となっている。愛情と忠誠にもとづく領袖、党、大衆の一心団結はもっとも強固な団結であり、このような一心団結に根ざしている朝鮮式の社会主義は必勝不敗である」と確言なさいます(p35)。国家主権と生産手段が人民のものとなることで個人主義が克服されて集団主義化されており、また、党と領袖の仁徳政治が執行されている朝鮮民主主義人民共和国においては、社会は一つの社会的・政治的生命体となり社会の全構成員が社会的・政治的生命を限りなく輝かしていけるようになっているが、このような領袖、党、大衆の一心団結はもっとも強固な団結であるので、朝鮮式社会主義は必勝不敗なのです。
これに対して先にも述べたとおり、人間関係がいよいよ全面的に「商品化」しつつある日本では、仮に党と首領が人民に対して限りない愛に基づく政治を施したとしても「税金を払っているのだから当然」としか考えないでしょう。
キム・ジョンイル総書記は労作の最後に「人民大衆が国家と社会の主人としての地位を守って権利を行使し、主人としての責任と役割を果たし、主人としての誉れ高い幸せな生活を享受しているところに、人民大衆中心の朝鮮式社会主義が人民大衆の絶対的な支持と信頼を受ける不抜の社会主義となる根拠がある」としつつ「わが党はつねに、社会のあらゆるものの主人である人民大衆を絶対的な存在とし、人民に限りない愛情と信頼をほどこす真の人民の政治、仁徳政治をあくまで実施していくであろう」、そして「人間本位の社会主義、人民大衆中心の社会主義は、もっとも科学的ですぐれた有力な社会主義である。社会主義はその科学性と真理性により必ず勝利する」と確言なさって労作を締めくくられます。
■おさらい
労作の内容を、本文の順序とは若干入れ替えつつ内容を振り返りたいと思います。
チュチェ思想においては人間は社会的存在であるとされます。ここでいう社会的存在とは、人間が人間たりえるのは社会関係を結んで活動するからこそであるという意味です。人間を特徴づける自主性・創造性・意識性は生物としての進化の結果として自然に獲得したものではなく人間が社会的関係を取り結ぶ中で形成されるものです。
社会は、人間を単なる生物体ではない特殊な存在とする決定的な要素です。自然環境が人間に肉体的生命を付与し、社会環境が人間に社会的・政治的生命を付与します。人間は、肉体的生命と社会的・政治的生命の二つを持っています。
肉体的生命は人間以外の動物も持っていますが、社会的・政治的生命は人間だけが持つものです。それゆえ、社会的・政治的生命の所有こそが人間が人間たる特徴・根拠になります。人間にとって自主性は生命です。人間は自主的な社会的存在として、なにものにも従属したり束縛されることなく自主的に生きることを求めます。そしてそのために目的意識性を持って創造的能力を発揮します。人間以外の動物にはそれができないので本能に基づいて行動するほかなく、また、客観的条件に生殺与奪を握られます。
社会的・政治的生命をもってこそ、人々は、社会的集団とともに、世界と自らの運命の共同の主人となり、自主的で創造的に生き発展することができます。社会に背を向け放蕩する人は、社会的・政治的生命を得ることができず、社会的集団とともに世界と自らの運命の共同の主人になることができないので、まさに資本主義国の人間のように個人的努力の範囲やカネと権力で解決できる範囲で多少のことはできたとしても、自主的で創造的に生き発展することができません。
人間にとっての自主性は生命であるからこそ肉体的生命よりも社会的・政治的生命が重要になります。このような人間の生命の本質ゆえに、チュチェ思想は生の価値、すなわち人生観として「人間のもっとも誉れ高く甲斐ある生き方は、自己の運命を社会的集団の運命と結びつけ、社会的集団に献身的に奉仕し、社会的集団に愛され信頼されながら、自主的で創造的な生活を営むこと」と定義します。社会的・政治的生命は社会環境から付与されるものであるからこそ人間の生の価値は、人間が社会的集団とどう結合するかにかかっています。社会的・政治的生命を輝かし尊厳ある生を営むことこそが人間の自主的要求を満たすことであり、それはすなわち人間の自主的本性に適うことになるのです。
こうした生は、人民大衆が国家主権と生産手段が人民のものとなっている社会主義社会でのみ実現可能です。国家主権と生産手段とを人民大衆が自ら所有する社会主義社会は集団主義に基づいているからです。人間が社会的集団をなして生きていくためには、集団の自主的要求と個人の自主的要求を実現していかなければなりませんが、それは集団主義においてのみ立派に実現されます。個人主義に基づく敵対的階級社会では決して実現され得ません。階級的対立と社会的不平等を生みだし人民大衆にたいする少数支配階級の搾取と抑圧を随伴するようになるからです。
このことをキム・ジョンイル総書記は端的に「社会的集団をなして活動するのが人間の生存方式であり、人間の自主的要求が集団主義によってのみりっぱに実現するのであるから、集団主義にもとづく社会、社会主義・共産主義社会は、人間の自主的本性にかなったもっとも先進的な社会である」と表現なさいました。
社会主義制度が樹立すれば階級的対立は一掃され、人びとの関係は対立と不信の関係から愛情と信頼の関係にかわります。人民大衆の自主性を擁護してともにたたかい、創造的活動を共同で進める人たちのあいだには、愛情と信頼を交わす関係が生まれえるからです。資本主義がカネと権力を社会の紐帯としているとすれば、全社会が一つの社会的・政治的生命体となった主体的社会主義社会では愛情と信頼が社会の紐帯となるわけです。
社会主義社会の紐帯である愛情と信頼は、領袖と戦士のあいだでもっとも崇高な発現をみます。領袖と戦士、党と人民が愛情と信頼によって結びつき、全社会が一つの社会的・政治的生命体となります。社会の全構成員が社会的・政治的生命を限りなく輝かしていく生が最も貴く美しい生であり、それを実現した社会がもっとも強固で生命力のある社会です。社会的集団に献身的に奉仕するから社会的集団に愛され信頼され、それゆえに自主的で創造的な生活を営むことができます。
なお、個人が自らの肉体的生命と社会的・政治的生命を維持し発展させることに関心を寄せることは、ただちに個人主義や利己主義になるわけではありません。また、集団の利益を優先するというのは、個人の要求を放棄するとか他人のために一方的に犠牲になるという意味ではありません。個人が集団のために自らの利益を犠牲にするケースについては、集団の利益のなかに個人の利益があるので、より大きい利益のために小さな利益を犠牲にするものです。
このように、チュチェ思想に基づく社会主義・共産主義運動とはすなわち、社会的・政治的生命体を形成するための運動であると言えるでしょう。チュチェ思想によって、正しい人間観に基づく豊かな人生観と社会主義理論とが結びついたわけです。
このような生を送る人は、社会的集団と愛と信頼の絆で結ばれているので、たとえ肉体的生命が尽きたとしても、その思想と業績は、社会的集団が続く限りそのなかで引き継がれ、そうした生を送った人に対する愛と信頼は、世代を越えて人々の心のなかに残ります。それゆえ、そうした人は、社会政治的には永遠に生き続けることになります。資本主義社会がいかに高度な生産力を誇っていたとしても実現できるのは個人の肉体的生命の保証にとどまるので、このような死生観は、個人主義に基づく社会・資本主義社会では勿論、実現不可能なものです。
集団主義か個人主義かの対立軸は社会主義と資本主義との社会体制上の対立軸であり、それはつまり、人間を社会的存在であるとする人間観と人間をたんなる自然的・生物学的存在とみなす人間観との対立軸であり、愛と信頼を紐帯とする社会的・政治的生命を基本とする人生観とカネと権力を紐帯として肉体的生命を基本とする人生観との対立軸でもあり、そして個人として生き肉体の死滅とともに終わる生命の見方と、集団とともに生き社会的・政治的に永生する生命の見方との死生観上の対立軸として設定できます。
人生観そして死生観にも踏み込んでいる点において、当ブログは、人間中心の社会主義運動、つまり「人間は、互いに社会的関係を結んで自主性、創造性、意識性をもって生き活動する社会的存在である」という人間観、そしてそれに基づく世界観、社会歴史観、さらに人生観そして死生観に基づいて社会的・政治的生命体を構築することを目指す主体的な社会主義運動は、単に労働者階級の生活水準を向上させ経済的利益を実現するといった水準にとどまる問題ではなく、人間が本来的に持つ人間性を取り戻すことであると言ってよいと考えます。
人間性の本質は、その自主性にあります。愛とはお互いの自主性の尊重です。人間が自主的な生を送るためには、自然・社会・自分自身の主人、政治・経済・思想文化の各生活分野の主人となり、人々が愛と信頼に基づいた道徳義理的な一心団結をなす必要があります。そしてそのためには、修正資本主義的対応では足りず社会的・政治的生命体の形成を目指す社会主義・共産主義運動が必要だと考えます。
社会主義の従前理論は正しい人間観に立脚してこなかったため人民大衆の自主化の道筋を正しく解明することができませんでした。「人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定するという」哲学的原理に基づく、正しい人間観に立脚しているチュチェ思想によって社会主義は新たな科学的土台のうえに引き上げられ、人民大衆中心の社会主義となりました。
社会的・政治的生命体を構築することを目指す人民大衆中心の社会主義は、正しい人間観に立脚するが故に人間改造・思想改造をすべての活動に優先させつつ自立的民族経済と自衛的軍事力を強固にすることを要求します。そして人民大衆中心の社会主義は、正しい人間観に立脚しているからこそ豊かな人生観を展開でき、それゆえに人間の自主的本性に適う社会主義像を提唱し仁徳政治論を展開することができました。
社会的・政治的生命体を構築することを目指す人民大衆中心の社会主義は社会生活のすべての分野に同志的団結と協力、愛情と信頼の関係を具現するので、その政治も当然、愛情と信頼の政治になります。そうした政治を仁徳政治というわけですが、仁徳政治論は、社会主義政権党を母なる党に建設することを求めます。
党を母なる党に建設するというのは、母が子をこのうえなく愛し、あたたかく見守るように、党を、人民大衆の運命を責任をもってこまかに見守る真の人民の導き手に、保護者にすることを意味します。全社会が一つの社会的・政治的生命体となった主体的社会主義社会の紐帯が愛情と信頼である以上、党がこのように建設されるべきなのは当然でしょう。
仁徳政治論は、人民に忠実に奉仕する幹部と党員を育成することを求めます。また、育ちゆく新しい世代にいっそうこまやかにほどこされています。そして、各階層の人民に差別なく愛情と信頼を与えており、その意味で広幅政治でもあります。広幅政治は決して宣伝上の文句ではなく、文学論壇での動向を鑑みるに大真面目な課題として取り組まれているものであると言えます。
朝鮮人民は党と領袖の仁徳政治のありがたさを深く感じており、その恩徳に忠誠をもって報いるために身も心もささげてたたかっています。党と領袖の朝鮮人民にたいする愛情と信頼は、人民のあいだに党と領袖への限りない忠誠を呼び起こしているのです。朝鮮人民のすぐれた品性は、現代にいたって新たな精神的・道徳的基礎のうえに全面的に開花発展しています。
朝鮮労働党の仁徳政治は領袖、党、大衆の一心団結の源となっています。社会を組織化し統一的に始動する政治が愛情と信頼に基づいたリーダーシップを発揮しており、これに対して忠誠に基づくフォロワーシップが展開されています。リーダーシップとしての愛情、そしてフォロワーシップとしての忠誠にもとづく領袖、党、大衆の一心団結は、すべての人々の社会的・政治的生命を輝かせる最も強固な団結です。このようなリーダーシップとフォロワーシップによる一心団結に根ざしている朝鮮式社会主義は、人間本位の社会主義・人民大衆中心の社会主義であり、最も科学的で優れた有力な社会主義です。それゆえ、社会主義はその科学性と真理性により必ず勝利するのであります。
本稿冒頭でも述べたとおり、本労作は世界と人間の関係そして集団と個人の関係を追究したことにより得られた、正しい人間観と豊かな人生観に基づいた社会主義理論を展開されていると考えます。
■「人間は、互いに社会的関係を結んで自主性、創造性、意識性をもって生き活動する社会的存在である」という人間観、そしてそれに基づく世界観、社会歴史観、さらに人生観そして死生観を日本の自主化においてどのように参考にするか
上に見てきたとおり、本労作は、人間観の再定立に始まり、人間は肉体的生命と社会的・政治的生命の二つを持っていることを指摘したうえで、より重要な社会的・政治的生命すなわち自主性:自主的本性を輝かしうる生活の在り方、すなわち主体的な人生観と、それを実現し得るのは集団主義に基づく社会主義社会であることを論証していると言えます。
このような社会主義社会では、愛情と信頼が社会的集団とその構成員間、社会の個々の構成員間に生まれ、全社会が一つの社会的・政治的生命体となります。愛情と信頼が社会の紐帯となります。そしてそうであるがゆえに、社会的・政治的生命を持つ個人は、その生命の母体である社会的集団に献身することによって永生することになります。
繰り返しになりますが、この意味において、チュチェ思想に基づく社会主義・共産主義運動とはすなわち、社会的・政治的生命体を形成するための運動であると言えるでしょう。
さて、ブルジョア社会としての日本社会を人間の自主的本性に適うような社会に改造するためには、どのようにキム・ジョンイル総書記の労作を指針化すればよいでしょうか?
終局的には集団主義社会としての社会主義社会を目指す必要がありますが、このことは世代を継いで継続的に取り組まざるを得ない歴史的課業にならざるを得ません。商品生産・交換経済が社会全体を侵食し支配している現状を転換することは非常に困難な課業になるでしょう。
キム・ジョンイル総書記はこの労作において、個人主義に基づく資本主義社会は「人間の人格的価値が交換価値にかえられ、それが金銭と財物によって評価される社会」であると指摘なさいました。当ブログはこの指摘に全面的に賛同するものです。個人主義に基づく資本主義社会があまりにも奇形化しており、社会のすべて、本来は人権の問題として考えるべきテーマについても金儲けの文脈で語ることに憚ることがなくなっています。つまり、人々は他人を「商品」つまりモノ扱いするに至っているとさえ考えます。事態は非常に深刻であると考えます。
たとえば先般、選択的夫婦別姓問題に関して日本経済団体連合会(経団連)が「ビジネス上のリスク」になるという趣旨で導入推進を要望しました。「選択肢のある社会の実現を目指して〜 女性活躍に対する制度の壁を乗り越える〜」において、「一人ひとりの姓名は、性別にかかわらず、その人格を示すもの」としつつ「職業人にとっては、これまで築いてきた社内外の実績や信用、人脈などが紐づく、キャリアそのもの」としている点、本心・魂胆は人格云々の問題ではなく「キャリア」の問題であると告白していると言わざるを得ません。別紙として添付されている「旧姓の通称使用によるトラブルの事例」も、すべてカネ儲け上の話です。もちろん、経済団体である経団連なのだからカネ儲けの話を持ち出すのは「自然」なことです。しかしそもそも、本来、選択的夫婦別姓の是非を巡る問題は、個人の生き方・アイデンティティの問題であり、経済団体である経団連が口を出す問題ではありません。
かつてフランス革命のときブルジョアジーは、「自由・平等・博愛」という「普遍」的な理念を持ち出し、アンシャン・レジームを打倒して自分たちの経済的覇権を確固たるものにしたいという本心を巧妙に隠蔽し、小農民をはじめとする非ブルジョア階級の利益をも代表する素振りを演じたことで革命を成就させました。これと比較するに、今般の現代ブルジョアジーの露骨さは、連中がビジネスを引き合いに出せば強い説得力を持つと考えている、つまりそれだけ現代日本人が経済活動のことしか考えておらず、それについて疑問にも思っていないことを示していると考えます。「選択的」夫婦別姓と言いつつ「社員のキャリア形成のために」といった大義名分を掲げて別姓とすることを「自発的」に「選択」するよう会社・上司から要求されることが非常に懸念されます。
経団連がこんな調子なのだから、知識労働社会化によって労働者階級もプチ・ブルジョアジー化している現代社会、人間の人格的価値が交換価値にかえられ、それが金銭と財物によって評価される社会、つまり、人間を「自分にとって使えるか否か」という商品選びの水準で評価し交際する関係が当然化している社会において、人間性を復興させてその自主的本性に適うような社会にすることは困難を極めることでしょう。
経団連が本来、カネ儲けの文脈で語るべきではない問題に口を出していることに誰も何の疑問も感じていないことは重大ながらもあくまでも一例ですが、このような事態を踏まえるに、まず、現状が異常であることを理解することから始める必要があると考えます。現代日本が人間の人格的価値が交換価値にかえられ、それが金銭と財物によって評価される社会であることに対して「異常だ」という自覚がないのです。
より広い視野で言えば、そもそも社会のサブシステムに過ぎないはずの経済生活が、逆に社会全体を呑み込んでいるという現代社会が異常であるという自覚が必要です。人類史の大部分は経済は社会のサブシステムでした。つまり、人類が代を継いで積み重ねてきた人智は、社会の論理に経済の論理を従属させることを前提としてきたものです。
朝鮮民族の伝統的な優れた品性が朝鮮労働党指導下の主体的社会主義社会において全面的に開花したように、過去の人智の中から社会主義の立場に立って有用な見解を復興させることはできないでしょうか? 温故知新という言葉があるように、自主性を生命とする人民大衆が代を継いで創造してきた人類史、とりわけ愛情と信頼に関する蓄積を振り返り、人間の生の本質とその価値を見つめ直し、如何なる生活が真の意味で誉れ高い幸せな生活であるのかを今一度考え直すことが必要だと考えます。
そして、人間の生の本質とその価値を見つめ直し、如何なる生活が真の意味で誉れ高い幸せな生活であるのかを今一度考え直すことによって、論理的必然として「人民大衆の誉れ高い幸せな生活において本質的内容をなすのは、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし、尊厳ある生を営むことであ」り、「社会的集団をなして活動するのが人間の生存方式であり、人間の自主的要求が集団主義によってのみりっぱに実現するのであるから、集団主義にもとづく社会、社会主義・共産主義社会は、人間の自主的本性にかなったもっとも先進的な社会である」、そして「人民大衆はもっぱら国家主権と生産手段が人民のものとなっている社会主義社会でのみ、社会のあらゆるものの真の主人となる」という本労作の要点に議論が移って行くものと考えます。
もちろん、資本家は、自らに従順で剰余価値を生みだす奴僕を必要としており自主意識に目覚め多方面にわたって発達した自主的で創造的な人間は必要としていません。健全な文化生活を阻害・妨害する要素は現代日本社会にはあまりにも溢れかえっています。しかし、資本家はそこまで厳格に統制を展開して愚民化政策を展開すべく下らないエンターテイメントばかりを量産させているわけではありません。より正確に申せば、資本家たちは人民大衆の文化生活の状況にそれほど関心を寄せてはおらず、「放し飼い」にしているように見受けられます。糸口はあると考えます。
古今東西の古典的文学作品をよく読み、それを自分自身の自主性を照らし合わせ、現状が極めて異常であることを自覚することから始める必要があると考えます。そして、そうした営みを通じて体得した自主的思想意識と創造的能力、目的意識性を組織的力量に具体的に転換することが肝要であると考えます。
2022年11月20日づけ「ロシア革命によって切り拓かれた社会主義・共産主義運動を、社会政治的生命体の形成を目指す社会主義・共産主義運動に転換しつつ前進させる道について」で論じましたが、日本の現状に即した集団主義的な社会原理を具体的に模索する必要があると考えます。当該記事では、「集団主義を、「公平性」と「お互い様精神」に基づいて社会を協同的・自主管理的に運営することで、自主・対等・協同の社会関係――個人の意思決定と選択の自由が実現しつつ、人間同士の協同的な関係が実現したもの――を実現するものと定義すれば、ここに社会政治的生命体形成の初期段階を構想することができ」るとし、「自主・対等・協同の社会関係を革命的な同志愛と義理心に発展させることで社会政治的生命体を形成させる」という持論を展開しました。さらに、「労働運動を核心・突破口として、さらに社会政治的生命体の形成に繋げてゆくべき」として「第一段階としての自由化、第二段階としての自主化・協同化、そして最終段階として革命的な同志愛と義理心に基づく社会政治的生命体を形成という段階を踏むべき」としました。
具体的に如何なる形で主体的な社会主義運動を構築してゆくのかは、それぞれの国の現状に依存するものです。自主的思想意識と創造的能力、目的意識性を組織的力量に具体的に転換するにあたっては、キム・ジョンイル総書記が「前進しよう」論文などで展開なさった資本主義諸国での社会的・階級的構成の変化に応じた対応が必要になるでしょう。人間を中心に据えることの重要性がここにあらわれます。
キム・ジョンイル総書記は「人民大衆の自主性を擁護してともにたたかい、創造的活動を共同で進める人たちのあいだには、愛情と信頼を交わす関係が生まれえる」と明るい展望を示しておられますが、この愛情と信頼の関係が人民大衆の組織力を強化し、自然と社会そして自分自身を改造する自主的・創造的・意識的な諸活動によって客観世界が人民大衆の自主的要求が実現する新しい世界、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし尊厳ある生を営める世界になって行くのです。つまり、自主的思想意識と創造的能力、目的意識性を組織的力量に具体的に転換すること自体が社会主義・共産主義社会の部分的成立になるのです。
ものすごく時間がかかることではありますが、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし尊厳ある生を営む道は地道なものだと考えます。人間が本来的に持つ人間性を取り戻すためには、人類が代を継いで積み重ねてきたものを再発見し再評価することから始めるべき地道なものであり、そこで培った「人間は、互いに社会的関係を結んで自主性、創造性、意識性をもって生き活動する社会的存在である」という人間観、そしてそれに基づく世界観、社会歴史観、さらに人生観そして死生観に基づいて具体的な組織的力量を形成してゆく運動を展開する必要があると考えます。チュチェ思想に基づく社会主義・共産主義運動とはすなわち、【社会的・政治的生命体を形成する運動】であると考えます。
2024年09月20日
いただいたコメントに返信しました
コメントをいただいておいて返信が非常に遅くなってしまっており申し訳ありません。
言い訳はしません。
本当に失礼しました。
いただいたコメントに返信しましたのでご確認いただければ幸いです。
漏れがあれば「見解を質す」としてご指摘ください。
よろしくお願いします。
記事の新規投稿についても鋭意努力して準備してまいります。
引き続き当ブログをよろしくお願いいたします。
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2024年09月12日
ベラルーシについて
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240723/k10014519671000.html
少し前のニュースになりますが、ベラルーシの外相が共和国を訪問しました。
編集のキャパシティが小さい当ブログでは、まったく取り上げて来られませんでしたが、ベラルーシは、西側帝国主義諸国との対決において一定の存在感を示してきた反帝自主の国です。西側諸国が事あるごとにルカシェンコ政権に対して独裁だのなんだのとケチをつけていることが何よりもの証拠です。自分たちに都合の良い独裁政権・強権政権・腐敗政権にはダンマリであるにも関わらず!
■ロシアに対しても自主的な対応を貫くベラルーシ
ベラルーシはまた、西側帝国主義諸国との対決のみならず、隣の大国であるロシアに対しても自主的な立場を堅持してきた国であります。共和国が中国と共に西側帝国主義諸国と鋭く対決しつつ、かと言って北京の指揮棒に従ってはいないのと同様、ベラルーシはロシアと共に西側帝国主義諸国と鋭く対決しつつも、決してモスクワに全面的に服従はしていません。
たとえば、ロシアのウクライナ侵攻への対応。ベラルーシは自国領土を侵攻の出撃拠点として使わせているがゆえに、ロシアの「共犯」として扱われています。しかし、その代わりに再三の参戦要請・派兵要請だけは断ることには成功しています。
正直私は、ルカシェンコ大統領がプーチン大統領に対して「自国領土は使わせない・参戦もしない」のゼロ回答をすることは、ロシアの隣国としてのベラルーシが置かれた立場を考えると現実問題として不可能に近い困難があると考えています。
非常に苦しい客観的条件の下でも国の独立と自主権をギリギリのラインで守っているのがルカシェンコ大統領率いるベラルーシ共和国の姿であると考えます。
そもそも、最近になってニュース等を通してベラルーシについて注目するようになった大多数の日本人はおそらく、ベラルーシとロシアは昔から足並みを揃えてきた最も親密な同盟国であると思っているようですが、実際のところ、30年来の長期政権を維持しているルカシェンコ大統領とプーチン・メドベージェフ両ロシア大統領は、特にロシア経済が復活してきた2000年代中盤以降、基本的に仲がよくありません。それはたとえばWikipediaのルカシェンコ大統領の項目で非常にザックリとではありますが、わかるとおりです。
ベラルーシは決してモスクワの指揮棒に従うだけの存在ではありません。
■反帝自主勢力としてあるべき姿
反帝自主運動とは、帝国主義との対決であると同時に自主・平和・親善の原則に基づく新しい国際秩序の構築でもあります。帝国主義との対決において反帝自主勢力は高度に結束する必要があるのは言うまでもないことですが、その内部において大国主義・覇権主義的な動きがあってはなりません。
言うべきことはしっかり言い、守るべき立場はしっかり守ることが必要です。その点、ベラルーシは現実的な対応をしていると僭越ながら評価できると考えます。
■興味深い試み
さらに、「日本の自主化」という当ブログの究極的テーマに関連した関心の範疇になりますが、ベラルーシは、ソビエト崩壊後の混沌において慎重な国家運営を展開したことで、ロシアやウクライナとは異なりオリガルヒの専横を排しながら社会経済を「軟着陸」させました。また、昨今は、西側帝国主義諸国から経済的に圧迫されている中でも積極的な国家関与・国家介入、端的に言えば補助金投入によって国民生活を概ね安定させることに成功しています。これらは、教科書的に模倣するということではなく「知識の引き出しに入れておく」という意味で注目すべきだと考えます。
かつてキム・ジョンイル同志が『チュチェ思想について』で指摘されたとおり、「経済的に自立してこそ、国の独立を強固にして自主的に生活し、思想における主体、政治における自主、国防における自衛をゆるぎなく保障し、人民に豊かな物質・文化生活を享受させることができ」るものです。
もちろん、ある程度の不満は蓄積されているでしょう。しかし、政権の危機というほどまでには至っていないのが事実です。ベラルーシの反体制運動は西側メディアでは定期的に報じられていますが、「政権崩壊間近」とは、とても言えません。それが客観的事実です。
「それはルカシェンコが警察力で押さえつけているからだ!」という反論もあるのかもしれませんが、以前から指摘してきたとおり「力」だけで政権を維持することはできません。本気で怒り猛るときの人民大衆の革命的エネルギーの方がずっと大きいからです。
人民大衆は、さまざまな立場の個々人の集合体ですが、その共通の利害は、何と言っても日々の生活です。ルカシェンコ政権に対する革命的反抗が見られないということは、ルカシェンコ政権が国民に「まあまあ」の日常生活を提供できていることを間接的に示してます。
もともと約30年前にポピュリズム的な公約で当選したルカシェンコ大統領。ある意味において「充実」している補助金経済は、人民大衆が政権に反抗する動機を上手く摘んでいるものと考えられます。
■教科書的な模倣対象ではないという意味
もちろんベラルーシは、ソビエト連邦の雰囲気を色濃く残す国とはいえ主体的社会主義の立場からは模倣することはできません。特に、7月8日づけ記事でも取り上げたとおり最近、共和国では人間関係論・人生論に根ざした共産主義を目指す方向性を打ち出していますが、ベラルーシにそういった方向性はありません。これは主体的社会主義としてはまったく不満足なことです。
また、ソビエト経済の悪いところ、すなわち、補助金等の投入が経営上の損失を安易に補填してしまうという傾向からベラルーシは依然として脱しきれていないと考えます。企業がじゅうぶんには「自力更生」していないのです。これは非常に問題のあることだとは思います。
以前にも指摘しましたが、アジアの社会主義諸国が程度の差こそあれ「自力更生」という概念を体質化したのに対して東欧の社会主義諸国にそういった考え方をする流れ・風潮が総じて薄かったことは、前者が今も赤旗を掲げ続けているのに対して後者が軒並み瓦解してしまった一つの要因になったのではないかと当ブログは考えます。
たとえば中国では、「自力更生」を上手く概念操作できたからこそ鉄飯碗と形容された人民公社体制から今日の競争的な経済社会にスムーズに移行できたものと考えられます。あるいは共和国では、配給制が事実上崩壊し中央集権的な社会主義経済が麻痺状態になった「苦難の行軍」の時期、まさに「自力更生」という概念の下、地方の住民がそれぞれの実情に合わせた創意工夫を展開することが奨励された結果、危機を乗り越えたものでした(「カンゲ(江界)精神」が奨励されてもう四半世紀になるのか・・・)。
上述のような問題点がベラルーシにはあるものの、後述のとおり、自民党総裁選不出馬を以ってまもなく終焉を迎える見込みの岸田文雄内閣と比較するに、一つの研究対象にはなるでしょう。
■お断り
以前から申し述べていることですが、当ブログは、共和国における社会主義建設は非常に重要なことであり大きな関心を持ってはいますが、根本的には、日本の自主化の道を探ることをテーマとしています。その有力な道筋としてチュチェ思想に注目しています。
私にとって共和国は特に思想意識的に替え難い重要な存在ですが、実生活の拠点は日本にあります。それゆえ、朝鮮革命の主人は朝鮮労働党の領導下で現地において日々の暮らしを営む共和国公民であり、私にはその資格はないと考えています。それゆえ、自主・平和・親善の原則の下で国際主義的な立場から朝鮮革命と連帯しつつも日本の自主化に取り組むことこそ私の当為であり当ブログのテーマであります。
是非とも誤解がないようにお願いしたいのですが、私のベラルーシに関する関心は、ベラルーシの方法を以って共和国情勢の展望を見通したり、共和国はベラルーシの方法を取るべきだなどと評論家的説教を垂れようとするためのものではありません。そんな資格は私にはないのです。
ベラルーシの経験を共和国に適用させることは、事情が違いすぎて出来ないとも考えます。
1991年以降のベラルーシは、ソビエト連邦が崩壊し、また、計画経済システムが再起不能レベルで損傷してしまっていた以上、次善の策として、ベースとしての資本主義制度に社会主義的な要素を加味する形で「軟着陸」する他ありませんでした。しかし、共和国はそのような状況にはなく、社会主義の正道を歩みうる状況にあると考えます。「苦難の行軍」の時期、非常に厳しい国家財政状況においても社会主義経済基盤に対する投資が続けられて来た結果、それが実を結び、今日、社会主義制度の復元が本格化しています。
今日の共和国経済においては、たしかに資本主義諸国でも見られるような要素は一部にはあるものの、ベースは社会主義以外の何者でもありません。その意味で共和国とベラルーシは決定的に異なっており、両国の事情は大きく異なっています。共和国は、共和国に固有かつ特有な社会主義を建設できると考えます。
このように、ベラルーシの経験は共和国の展望を見通す参考にならないし、そもそも、共和国のこれからを如何するかは党の領導下に共和国で暮らしている共和国公民が決めることであり、部外者が勝手に「参考事例」なるものを持ってきてアレコレと口を挟むべきことではないのです。
繰り返しになりますが、朝鮮革命はもちろん非常に重要なことだとは思いますが、当ブログは朝鮮革命の展望を見通すことを目的としている訳ではなく、ましてや朝鮮革命に意見するつもりは毛頭もありません。当ブログのテーマは、日本の自主化です。
日本は完全なる資本主義国でありアメリカの属国でもあります。日本の自主化の道を探るにおいてはまず社会制度の大きな転換が必要になります。すでに自主的な独立国となっており、いまや社会主義建設に打ち込むのみである朝鮮革命の経験だけでは、日本の自主化の参考資料としては決定的に不足すると言わざるを得ません。
それゆえ、今回のように共和国の社会主義革命(朝鮮革命)とは基本的に無関係であるベラルーシの情勢に関心を持つこともありますし、このブログで記事化できたことはありませんが、旧ユーゴスラヴィアの自主管理社会主義にも関心があります。ひとつよろしくお願いいたします。
※ここのセクション、内容の調整にものすごく時間が掛かりました・・・ベラルーシ外相の訪朝ニュース自体については7月中には原稿素案が出来上がっていたのですが、ベラルーシ共和国の評価については何度も書き直しになりました。社会主義的政策を展開しているとはいえ本質においては資本主義国であるベラルーシ共和国を評価する匙加減が難しかったのです。「本質的に資本主義国たるベラルーシ共和国の政策が、今後、朝鮮民主主義人民共和国が歩むべき道だと主張しているように誤解されかねない」という懸念が浮上したのです。
上述の断り書きは、しかし、議論を通じて当ブログとしての立場を固めることができたし、私個人の理解を深めることもできました。
■祖国解放戦争戦勝記念式典には参加しない意味
話をベラルーシ外相の訪朝に戻しましょう。
流石と言うべきでしょうか、共和国の祖国解放戦争戦勝記念日を翌日に控えた26日には離朝したといいます。反帝自主の軍事的記念日である7月27日の祝典には参加しないということが意味することは大でしょう。
一つの解釈は、ベラルーシが心底、西側帝国主義諸国との対立の激化・新冷戦の激化を嫌がっており、ますます対決構図を深める朝ロ両国とは一線を画すつもりであるという解釈が可能です。「私たちは、そこまで対決するつもりはありません」というメッセージです。
そのメッセージが西側帝国主義者どもに伝わり、連中を改心させられるかは私は非常に疑わしいと思っていますが、しかし、ベラルーシの意思と立場を尊重する必要があると考えます。同時に、あくまでも自主的であろうとするその姿勢を僭越ながら評価できると考えます。
別の解釈も可能でしょう。こっちの方があり得そうですが、最近ベラルーシ軍がポーランドとの国境地帯で中国人民解放軍と合同の軍事演習を展開したというニュースがあります。近年ベラルーシは中国との関係を強化しています。
伝統的に関係が深い中国に加えてロシアとの関係を急速に深めることで中国一辺倒ではない中ロ両国との等距離外交を明示的に展開している共和国ですが、それと対照的に、伝統的に関係が深いロシアに加えて中国との関係を深めるべく、間違いなく朝ロの結束を誇示する形になるであろう祖国解放戦争戦勝記念行事に欠席することで、ベラルーシなりに「ロシア一辺倒で行くつもりはない」という意思を示そうとしている・等距離外交を展開しようとしているという見方ができると思います。もしそうだとすれば、このことにもまた僭越ながら評価できると考えます。
■総括
それぞれの国がそれぞれの形で反帝自主の取り組みを広げている自主時代が始まっています。
これに対して、今春には訪米してまで対米追従を誓った日本国内閣総理大臣である岸田文雄。かねて指摘しているとおり、いよいよ西側帝国主義諸国は落ち目となっているところ。国際社会の流れに逆流する日本国家であると言わざるを得ないでしょう。
また、「新しい資本主義」なる大風呂敷を広げておいて、結局資本主義は何ら新しくなることなく、物価高を放置したまま岸田文雄氏は「自民党総裁選不出馬」つまり不戦敗という形で総理大臣の座から去ることになります。前述の理由から、ルカシェンコ政権下のベラルーシ経済を手放しで称賛することは難しいものの、国民の生活を守ろうという意欲・それが大統領の仕事だという理解は感じられます。岸田内閣・日本国家とは大違いです。
麻生太郎氏や故・安倍晋三氏のように、いつまでも重鎮として君臨し続け、現職の自民党総裁・内閣総理大臣よりも力のある人物もいますが、普通、総理大臣になるということは政治家としての集大成であり、ここに頂点を持ってくるべきものであるはず。そうしないのは政治家としての素質に欠けています。その意味において、近く総理を辞任する岸田文雄氏とは一体何だったのでしょうか?
「国民生活のプラスになるようなレガシーが何もない」という意味では宇野宗佑元総理の右に出る者はいないでしょうが、2ヶ月ちょっとで終わった宇野内閣と異なり岸田内閣は歴代内閣の中でも長く続いている方。それでもレガシーを残せていない岸田総理であります。
なお、電気・ガス代支援は「やって当たり前」のこと。もちろん、もらえる物には「ありがとう」とは言いますが、為政者側から恩着せがましく言われる筋合いはまったくありません。そもそも、本来はそのような対処療法ではなく根本対処が求められるものですが、そこまでには、まったく至っていません。そして、結局は復活したものの一時期、当該政策は打ち切られました。あのセンスのなさ・庶民感覚のなさには本当に驚きました。
「前代未聞の物価高騰と財政規律のバランスが難しかったんだ。クレーマーみたいに言いたいことだけ言いやがって。雛鳥みたいに口を開けて待ちやがって」というのなら、全国民的議論を喚起すればいいのに、そのようなことは一切やらなかった自公連立内閣。国民生活が単なる政争の具に成り下がった全責任を総理大臣以下与党に被せるのはフェアではないとは思いますが、しかし、やはり国家の組織指導者としての総理大臣が果たすべき役割は非常に大きいと言わざるを得ません。新型コロナウィルス禍ほど世論は、無い物ねだりのクレーマーと化していたとは言い難いものがあります。その点において、「聞く力」を誇っていたはずの岸田文雄氏自ら、そんな能力がないことを自ら行動で示したわけです。
こんな人物を比較的長期にわたって戴いていた日本政治とは何なのでしょうか? 国民が政治家を選んでいます。以前から指摘していることですが、「使えない奴」にいつまでも重責を担わせるわけには行かないのはそのとおりですが、「使えない奴」をクビにすることが根本的な解決策になるわけではありません。その丸投げ精神を革める必要があるはずです。
岸田文雄氏が辞めれば解決するわけではありません。これを機に根本的に考える必要があると思います。そのためには、世界各国のさまざまな経験を正しい世界観に基づいた科学的な方法で分析する必要があります。私はチュチェ思想を哲学的な中核に据えつつ、資本主義国でありアメリカの属国でもある日本の現状に合致する世界各国の経験を総合してこそ道筋が見えてくると考えます。
ロシアという隣人と絶妙な関係を保ちつつ自主的な立場を堅持するベラルーシ。ベースは資本主義制度とせざるを得ないものの社会主義的な要素を加味することで、ある程度の国民も生活水準を維持しているベラルーシ。教科書的模倣の対象としてではなく、参考・研究対象として非常に興味深い国の一つであると考えます。
始まった世界的な自主時代の流れに日本もしっかり追いつく必要があります。
ベラルーシ外相が北朝鮮初訪問へ 対米連携強化ねらいか■反帝自主の国・ベラルーシ
2024年7月23日 0時56分
北朝鮮はベラルーシのルイジェンコフ外相が23日から北朝鮮を訪問すると発表しました。北朝鮮としてはロシアの同盟国とも関係を深め、アメリカへの対抗で連携を強化したいねらいがあるとみられます。
北朝鮮は、ベラルーシのルイジェンコフ外相が北朝鮮外務省の招きにより、23日から26日までの4日間、北朝鮮を訪問すると、国営通信を通じて22日、発表しました。
(以下略)
少し前のニュースになりますが、ベラルーシの外相が共和国を訪問しました。
編集のキャパシティが小さい当ブログでは、まったく取り上げて来られませんでしたが、ベラルーシは、西側帝国主義諸国との対決において一定の存在感を示してきた反帝自主の国です。西側諸国が事あるごとにルカシェンコ政権に対して独裁だのなんだのとケチをつけていることが何よりもの証拠です。自分たちに都合の良い独裁政権・強権政権・腐敗政権にはダンマリであるにも関わらず!
■ロシアに対しても自主的な対応を貫くベラルーシ
ベラルーシはまた、西側帝国主義諸国との対決のみならず、隣の大国であるロシアに対しても自主的な立場を堅持してきた国であります。共和国が中国と共に西側帝国主義諸国と鋭く対決しつつ、かと言って北京の指揮棒に従ってはいないのと同様、ベラルーシはロシアと共に西側帝国主義諸国と鋭く対決しつつも、決してモスクワに全面的に服従はしていません。
たとえば、ロシアのウクライナ侵攻への対応。ベラルーシは自国領土を侵攻の出撃拠点として使わせているがゆえに、ロシアの「共犯」として扱われています。しかし、その代わりに再三の参戦要請・派兵要請だけは断ることには成功しています。
正直私は、ルカシェンコ大統領がプーチン大統領に対して「自国領土は使わせない・参戦もしない」のゼロ回答をすることは、ロシアの隣国としてのベラルーシが置かれた立場を考えると現実問題として不可能に近い困難があると考えています。
非常に苦しい客観的条件の下でも国の独立と自主権をギリギリのラインで守っているのがルカシェンコ大統領率いるベラルーシ共和国の姿であると考えます。
そもそも、最近になってニュース等を通してベラルーシについて注目するようになった大多数の日本人はおそらく、ベラルーシとロシアは昔から足並みを揃えてきた最も親密な同盟国であると思っているようですが、実際のところ、30年来の長期政権を維持しているルカシェンコ大統領とプーチン・メドベージェフ両ロシア大統領は、特にロシア経済が復活してきた2000年代中盤以降、基本的に仲がよくありません。それはたとえばWikipediaのルカシェンコ大統領の項目で非常にザックリとではありますが、わかるとおりです。
ベラルーシは決してモスクワの指揮棒に従うだけの存在ではありません。
■反帝自主勢力としてあるべき姿
反帝自主運動とは、帝国主義との対決であると同時に自主・平和・親善の原則に基づく新しい国際秩序の構築でもあります。帝国主義との対決において反帝自主勢力は高度に結束する必要があるのは言うまでもないことですが、その内部において大国主義・覇権主義的な動きがあってはなりません。
言うべきことはしっかり言い、守るべき立場はしっかり守ることが必要です。その点、ベラルーシは現実的な対応をしていると僭越ながら評価できると考えます。
■興味深い試み
さらに、「日本の自主化」という当ブログの究極的テーマに関連した関心の範疇になりますが、ベラルーシは、ソビエト崩壊後の混沌において慎重な国家運営を展開したことで、ロシアやウクライナとは異なりオリガルヒの専横を排しながら社会経済を「軟着陸」させました。また、昨今は、西側帝国主義諸国から経済的に圧迫されている中でも積極的な国家関与・国家介入、端的に言えば補助金投入によって国民生活を概ね安定させることに成功しています。これらは、教科書的に模倣するということではなく「知識の引き出しに入れておく」という意味で注目すべきだと考えます。
かつてキム・ジョンイル同志が『チュチェ思想について』で指摘されたとおり、「経済的に自立してこそ、国の独立を強固にして自主的に生活し、思想における主体、政治における自主、国防における自衛をゆるぎなく保障し、人民に豊かな物質・文化生活を享受させることができ」るものです。
もちろん、ある程度の不満は蓄積されているでしょう。しかし、政権の危機というほどまでには至っていないのが事実です。ベラルーシの反体制運動は西側メディアでは定期的に報じられていますが、「政権崩壊間近」とは、とても言えません。それが客観的事実です。
「それはルカシェンコが警察力で押さえつけているからだ!」という反論もあるのかもしれませんが、以前から指摘してきたとおり「力」だけで政権を維持することはできません。本気で怒り猛るときの人民大衆の革命的エネルギーの方がずっと大きいからです。
人民大衆は、さまざまな立場の個々人の集合体ですが、その共通の利害は、何と言っても日々の生活です。ルカシェンコ政権に対する革命的反抗が見られないということは、ルカシェンコ政権が国民に「まあまあ」の日常生活を提供できていることを間接的に示してます。
もともと約30年前にポピュリズム的な公約で当選したルカシェンコ大統領。ある意味において「充実」している補助金経済は、人民大衆が政権に反抗する動機を上手く摘んでいるものと考えられます。
■教科書的な模倣対象ではないという意味
もちろんベラルーシは、ソビエト連邦の雰囲気を色濃く残す国とはいえ主体的社会主義の立場からは模倣することはできません。特に、7月8日づけ記事でも取り上げたとおり最近、共和国では人間関係論・人生論に根ざした共産主義を目指す方向性を打ち出していますが、ベラルーシにそういった方向性はありません。これは主体的社会主義としてはまったく不満足なことです。
また、ソビエト経済の悪いところ、すなわち、補助金等の投入が経営上の損失を安易に補填してしまうという傾向からベラルーシは依然として脱しきれていないと考えます。企業がじゅうぶんには「自力更生」していないのです。これは非常に問題のあることだとは思います。
以前にも指摘しましたが、アジアの社会主義諸国が程度の差こそあれ「自力更生」という概念を体質化したのに対して東欧の社会主義諸国にそういった考え方をする流れ・風潮が総じて薄かったことは、前者が今も赤旗を掲げ続けているのに対して後者が軒並み瓦解してしまった一つの要因になったのではないかと当ブログは考えます。
たとえば中国では、「自力更生」を上手く概念操作できたからこそ鉄飯碗と形容された人民公社体制から今日の競争的な経済社会にスムーズに移行できたものと考えられます。あるいは共和国では、配給制が事実上崩壊し中央集権的な社会主義経済が麻痺状態になった「苦難の行軍」の時期、まさに「自力更生」という概念の下、地方の住民がそれぞれの実情に合わせた創意工夫を展開することが奨励された結果、危機を乗り越えたものでした(「カンゲ(江界)精神」が奨励されてもう四半世紀になるのか・・・)。
上述のような問題点がベラルーシにはあるものの、後述のとおり、自民党総裁選不出馬を以ってまもなく終焉を迎える見込みの岸田文雄内閣と比較するに、一つの研究対象にはなるでしょう。
■お断り
以前から申し述べていることですが、当ブログは、共和国における社会主義建設は非常に重要なことであり大きな関心を持ってはいますが、根本的には、日本の自主化の道を探ることをテーマとしています。その有力な道筋としてチュチェ思想に注目しています。
私にとって共和国は特に思想意識的に替え難い重要な存在ですが、実生活の拠点は日本にあります。それゆえ、朝鮮革命の主人は朝鮮労働党の領導下で現地において日々の暮らしを営む共和国公民であり、私にはその資格はないと考えています。それゆえ、自主・平和・親善の原則の下で国際主義的な立場から朝鮮革命と連帯しつつも日本の自主化に取り組むことこそ私の当為であり当ブログのテーマであります。
是非とも誤解がないようにお願いしたいのですが、私のベラルーシに関する関心は、ベラルーシの方法を以って共和国情勢の展望を見通したり、共和国はベラルーシの方法を取るべきだなどと評論家的説教を垂れようとするためのものではありません。そんな資格は私にはないのです。
ベラルーシの経験を共和国に適用させることは、事情が違いすぎて出来ないとも考えます。
1991年以降のベラルーシは、ソビエト連邦が崩壊し、また、計画経済システムが再起不能レベルで損傷してしまっていた以上、次善の策として、ベースとしての資本主義制度に社会主義的な要素を加味する形で「軟着陸」する他ありませんでした。しかし、共和国はそのような状況にはなく、社会主義の正道を歩みうる状況にあると考えます。「苦難の行軍」の時期、非常に厳しい国家財政状況においても社会主義経済基盤に対する投資が続けられて来た結果、それが実を結び、今日、社会主義制度の復元が本格化しています。
今日の共和国経済においては、たしかに資本主義諸国でも見られるような要素は一部にはあるものの、ベースは社会主義以外の何者でもありません。その意味で共和国とベラルーシは決定的に異なっており、両国の事情は大きく異なっています。共和国は、共和国に固有かつ特有な社会主義を建設できると考えます。
このように、ベラルーシの経験は共和国の展望を見通す参考にならないし、そもそも、共和国のこれからを如何するかは党の領導下に共和国で暮らしている共和国公民が決めることであり、部外者が勝手に「参考事例」なるものを持ってきてアレコレと口を挟むべきことではないのです。
繰り返しになりますが、朝鮮革命はもちろん非常に重要なことだとは思いますが、当ブログは朝鮮革命の展望を見通すことを目的としている訳ではなく、ましてや朝鮮革命に意見するつもりは毛頭もありません。当ブログのテーマは、日本の自主化です。
日本は完全なる資本主義国でありアメリカの属国でもあります。日本の自主化の道を探るにおいてはまず社会制度の大きな転換が必要になります。すでに自主的な独立国となっており、いまや社会主義建設に打ち込むのみである朝鮮革命の経験だけでは、日本の自主化の参考資料としては決定的に不足すると言わざるを得ません。
それゆえ、今回のように共和国の社会主義革命(朝鮮革命)とは基本的に無関係であるベラルーシの情勢に関心を持つこともありますし、このブログで記事化できたことはありませんが、旧ユーゴスラヴィアの自主管理社会主義にも関心があります。ひとつよろしくお願いいたします。
※ここのセクション、内容の調整にものすごく時間が掛かりました・・・ベラルーシ外相の訪朝ニュース自体については7月中には原稿素案が出来上がっていたのですが、ベラルーシ共和国の評価については何度も書き直しになりました。社会主義的政策を展開しているとはいえ本質においては資本主義国であるベラルーシ共和国を評価する匙加減が難しかったのです。「本質的に資本主義国たるベラルーシ共和国の政策が、今後、朝鮮民主主義人民共和国が歩むべき道だと主張しているように誤解されかねない」という懸念が浮上したのです。
上述の断り書きは、しかし、議論を通じて当ブログとしての立場を固めることができたし、私個人の理解を深めることもできました。
■祖国解放戦争戦勝記念式典には参加しない意味
話をベラルーシ外相の訪朝に戻しましょう。
流石と言うべきでしょうか、共和国の祖国解放戦争戦勝記念日を翌日に控えた26日には離朝したといいます。反帝自主の軍事的記念日である7月27日の祝典には参加しないということが意味することは大でしょう。
一つの解釈は、ベラルーシが心底、西側帝国主義諸国との対立の激化・新冷戦の激化を嫌がっており、ますます対決構図を深める朝ロ両国とは一線を画すつもりであるという解釈が可能です。「私たちは、そこまで対決するつもりはありません」というメッセージです。
そのメッセージが西側帝国主義者どもに伝わり、連中を改心させられるかは私は非常に疑わしいと思っていますが、しかし、ベラルーシの意思と立場を尊重する必要があると考えます。同時に、あくまでも自主的であろうとするその姿勢を僭越ながら評価できると考えます。
別の解釈も可能でしょう。こっちの方があり得そうですが、最近ベラルーシ軍がポーランドとの国境地帯で中国人民解放軍と合同の軍事演習を展開したというニュースがあります。近年ベラルーシは中国との関係を強化しています。
伝統的に関係が深い中国に加えてロシアとの関係を急速に深めることで中国一辺倒ではない中ロ両国との等距離外交を明示的に展開している共和国ですが、それと対照的に、伝統的に関係が深いロシアに加えて中国との関係を深めるべく、間違いなく朝ロの結束を誇示する形になるであろう祖国解放戦争戦勝記念行事に欠席することで、ベラルーシなりに「ロシア一辺倒で行くつもりはない」という意思を示そうとしている・等距離外交を展開しようとしているという見方ができると思います。もしそうだとすれば、このことにもまた僭越ながら評価できると考えます。
■総括
それぞれの国がそれぞれの形で反帝自主の取り組みを広げている自主時代が始まっています。
これに対して、今春には訪米してまで対米追従を誓った日本国内閣総理大臣である岸田文雄。かねて指摘しているとおり、いよいよ西側帝国主義諸国は落ち目となっているところ。国際社会の流れに逆流する日本国家であると言わざるを得ないでしょう。
また、「新しい資本主義」なる大風呂敷を広げておいて、結局資本主義は何ら新しくなることなく、物価高を放置したまま岸田文雄氏は「自民党総裁選不出馬」つまり不戦敗という形で総理大臣の座から去ることになります。前述の理由から、ルカシェンコ政権下のベラルーシ経済を手放しで称賛することは難しいものの、国民の生活を守ろうという意欲・それが大統領の仕事だという理解は感じられます。岸田内閣・日本国家とは大違いです。
麻生太郎氏や故・安倍晋三氏のように、いつまでも重鎮として君臨し続け、現職の自民党総裁・内閣総理大臣よりも力のある人物もいますが、普通、総理大臣になるということは政治家としての集大成であり、ここに頂点を持ってくるべきものであるはず。そうしないのは政治家としての素質に欠けています。その意味において、近く総理を辞任する岸田文雄氏とは一体何だったのでしょうか?
「国民生活のプラスになるようなレガシーが何もない」という意味では宇野宗佑元総理の右に出る者はいないでしょうが、2ヶ月ちょっとで終わった宇野内閣と異なり岸田内閣は歴代内閣の中でも長く続いている方。それでもレガシーを残せていない岸田総理であります。
なお、電気・ガス代支援は「やって当たり前」のこと。もちろん、もらえる物には「ありがとう」とは言いますが、為政者側から恩着せがましく言われる筋合いはまったくありません。そもそも、本来はそのような対処療法ではなく根本対処が求められるものですが、そこまでには、まったく至っていません。そして、結局は復活したものの一時期、当該政策は打ち切られました。あのセンスのなさ・庶民感覚のなさには本当に驚きました。
「前代未聞の物価高騰と財政規律のバランスが難しかったんだ。クレーマーみたいに言いたいことだけ言いやがって。雛鳥みたいに口を開けて待ちやがって」というのなら、全国民的議論を喚起すればいいのに、そのようなことは一切やらなかった自公連立内閣。国民生活が単なる政争の具に成り下がった全責任を総理大臣以下与党に被せるのはフェアではないとは思いますが、しかし、やはり国家の組織指導者としての総理大臣が果たすべき役割は非常に大きいと言わざるを得ません。新型コロナウィルス禍ほど世論は、無い物ねだりのクレーマーと化していたとは言い難いものがあります。その点において、「聞く力」を誇っていたはずの岸田文雄氏自ら、そんな能力がないことを自ら行動で示したわけです。
こんな人物を比較的長期にわたって戴いていた日本政治とは何なのでしょうか? 国民が政治家を選んでいます。以前から指摘していることですが、「使えない奴」にいつまでも重責を担わせるわけには行かないのはそのとおりですが、「使えない奴」をクビにすることが根本的な解決策になるわけではありません。その丸投げ精神を革める必要があるはずです。
岸田文雄氏が辞めれば解決するわけではありません。これを機に根本的に考える必要があると思います。そのためには、世界各国のさまざまな経験を正しい世界観に基づいた科学的な方法で分析する必要があります。私はチュチェ思想を哲学的な中核に据えつつ、資本主義国でありアメリカの属国でもある日本の現状に合致する世界各国の経験を総合してこそ道筋が見えてくると考えます。
ロシアという隣人と絶妙な関係を保ちつつ自主的な立場を堅持するベラルーシ。ベースは資本主義制度とせざるを得ないものの社会主義的な要素を加味することで、ある程度の国民も生活水準を維持しているベラルーシ。教科書的模倣の対象としてではなく、参考・研究対象として非常に興味深い国の一つであると考えます。
始まった世界的な自主時代の流れに日本もしっかり追いつく必要があります。
2024年08月22日
カマラ・ハリスが共産主義者ですって?
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240819/k10014552371000.html
人民の需要を満たせない商品を高値で転売する現象を取り締まりで根本的になくすことはできない、根本的解決のためには供給量を増やすほかにないと指摘なさる偉大な共産主義者である我が首領様。完全に正しい指摘です。
ハリス氏がどこまで具体的に詰めてから公約として口にしたのかは判然としません(まさか口から出任せ?)が、ハリス氏は決して共産主義者ではなく、「転売ヤー」叩きの言説の如き点において「ヤフコメレベル」というべきでしょう。
ハリス副大統領 民主党大会を前に激戦ペンシルベニア州で演説トランプ氏がいう「ハリス氏は社会主義的な価格統制を行うと発表した」というのは、「米 ハリス副大統領 新たな政策発表 “物価引き下げ 最優先に”」(2024年8月17日 8時16分)の「また食品をめぐっては、価格をつり上げて不当な利益をあげた企業に罰則を科すことを盛り込んだ、初めての連邦法を制定するとしています」を指しているものと思われますが、「ハリス氏は完全な共産主義者になった」というのは、とんでもない見当違いです! 偉大な共産主義者であるキム・イルソン同志は次のように指摘なさっています。
2024年8月19日 7時07分
(中略)
激戦州のペンシルベニア州では、返り咲きを目指すトランプ前大統領も前日の17日、集会を開きました。
このなかで、16日にハリス副大統領が発表した、住宅や食品などの価格引き下げに向けた新たな政策について「ハリス氏は大統領になった初日に価格を下げると言ったが、彼女の初日は3年半前だ。なぜそのときやらなかったのか。いますぐにもできるはずだ」と述べ、いまの政権で副大統領の立場にいるのに政策を実行していないと批判しました。
そのうえで「破滅的なインフレを引き起こしたあと、ハリス氏は社会主義的な価格統制を行うと発表した。ハリス氏は完全な共産主義者になった。私たちの国を破壊したがっている。あと4年、ハリス氏が政権を担ったら国の財政は2度と回復しない。悪化するだけだ」と訴えました。
人民の需要をみたせない商品は、たとえ国家が唯一的に価格を制定したとしても、闇取引されたり、農民市場で又売りされるということを忘れてはなりません。商店の品物を買いだめしておいて、他人が急に必要になって求めるときに高値で売りつけるような現象があらわれるようになるのです。たまごの販売の問題を例にとってみましょう。現在、平壌をはじめ、各地に養鶏工場を建設してたまごを生産していますが、まだ人民に十分供給できるほどではありません。そういうわけで、たまごも国定価格と農民市場価格とのあいだに差が生ずることになるのですが、これを悪用して又売りする現象があらわれています。もちろん、だからといって、たまごをいくつか又売りした人を罪人扱いにして教化所に送るわけにもいかず、ほかの方法で統制するとしても、販売量を調節するといったようないくつかの実務的対策を立てること以外に方法はありません。もちろん、こうした対策もとらなければなりませんが、そんな対策では商品が一部の人たちに集中する現象をある程度調整できるだけで、それが農民市場で又売りされたり、闇取引される現象を根本的になくすことは決してできません。この問題を解決するためには、品物を多く生産しなければなりません。産卵養鶏工場をより多く建設し、人民の需要をみたすほど大量に生産するならば、たまごの闇取引はなくなるであろうし、農民市場で売買されることもおのずとなくなるようになるでしょう。キム・イルソン「社会主義経済のいくつかの理論的問題について」、『金日成著作集』第23巻、外国文出版社(朝鮮)、1985年、p488〜489。
人民の需要を満たせない商品を高値で転売する現象を取り締まりで根本的になくすことはできない、根本的解決のためには供給量を増やすほかにないと指摘なさる偉大な共産主義者である我が首領様。完全に正しい指摘です。
ハリス氏がどこまで具体的に詰めてから公約として口にしたのかは判然としません(まさか口から出任せ?)が、ハリス氏は決して共産主義者ではなく、「転売ヤー」叩きの言説の如き点において「ヤフコメレベル」というべきでしょう。
2024年08月08日
今や落ち目の西欧諸国6か国だけ
https://www3.nhk.or.jp/lnews/nagasaki/20240807/5030021552.html
https://www.asahi.com/articles/ASS8815JNS88DIFI013M.html
https://news.yahoo.co.jp/articles/628a81c08c433e73f0c97e432240ee2b3cf19905
その線で考えると、駐日大使の式典参加を取りやめたのは、アメリカ・イギリス・ドイツ・フランス・イタリア・カナダといった西欧のわずか6か国。今回式典に招待された約100か国のうち、大使級人士が出席する予定になっている国はそれほど多くはないものの、イスラエルの式典招待問題で何らかのアクションを取ると言明しそれが報じられた国は、この6か国だけ。いずれも今や落ち目の西欧諸国。
当ブログは、「イスラエルの式典招待問題で何らかのアクションを取ると言明しそれが報じられた国は、いずれも今や落ち目の西欧諸国6か国だけ」という点を強調したいと思います。
日本を除くG7各国とEUの大使ら 長崎市長に懸念の書簡「イスラエルを式典に招かれていないロシアやベラルーシのような国と同列に扱うことにな」る。そのとおり。そうだからこそ、米欧諸国としては、自分たちが描き上げてきた構図と不整合が生ずるので何とかしてイスラエル不招待を止めさせたい、さもなければ「こちらから願い下げ」とばかりに欠席するぞと脅かすしかないのでしょう。
08月07日 17時23分
9日の長崎原爆の日に行われる平和祈念式典に長崎市が、イスラエルを招かないことについて、日本を除くG7各国とEUの大使らが連名で懸念を示す書簡を市長に送っていたことが明らかになりました。
書簡は先月19日付けで、G7=主要7か国のうち、日本を除くアメリカやイギリスなど6か国とEU=ヨーロッパ連合の東京に駐在する大使らの連名で長崎市の鈴木市長に送られました。
それによりますと大使らは、長崎市から平和祈念式典への招待を受けたとしたうえで「イスラエルを式典に招待しないことは、イスラエルを式典に招かれていないロシアやベラルーシのような国と同列に扱うことになり、不幸で誤解を招く」として、懸念を示しています。
(以下略)
https://www.asahi.com/articles/ASS8815JNS88DIFI013M.html
ドイツ献花、イタリアは欠席 長崎市に電話「賛同が多い」厳密な世論調査の結果ではないので参考程度に留める必要がありますが、「賛同する声の方が多い」とのこと。
社会タイムライン
2024年8月8日 21時43分
(中略)
市役所に励ましや批判の電話多数
長崎市で9日に行われる平和祈念式典にイスラエルが招待されなかったことを受け、米英の駐日大使らが式典の欠席を決めたことについて、長崎市役所に、応援する声や批判する声などが電話やメールで多数寄せられている。
市原爆被爆対策部調査課によると、7日夕、主要6カ国と欧州連合(EU)が長崎市に対し、イスラエルを招待国から除外したら「我々もハイレベル(高官)の参加が難しくなる」と書簡を送っていたことなどが報じられると、市役所に電話やメールが殺到。8日も電話が鳴りやまない状態となっている。
内容としては、「市の決定にお礼を言いたい」「負けないでほしい」といった応援や励ましの声と、「なぜイスラエルをロシアと同列に扱い招待しないのか」という批判の声があるという。件数は数えていないが、担当者は「体感としては賛同する声の方が多い」と話す。
(以下略)
https://news.yahoo.co.jp/articles/628a81c08c433e73f0c97e432240ee2b3cf19905
長崎市での平和祈念式典、6か国の駐日大使が出席見合わせへ…イスラエルの不招待理由に当ブログは「多数派だから正しい」とか「少数派だから間違っている」などとは必ずしも言えないと考えますが、ロシアのウクライナ侵攻を巡るここ2年半あまりの報道によると「志と行動を同じくする国の数」が正統性にとって重要な要素になるそうです。「ロシアを非難する決議にxxカ国が賛成! ロシアの国際社会での孤立が際立っている!!」というセリフを何度聞かされてきたことか・・・
8/8(木) 1:00配信
読売新聞オンライン
長崎原爆の日(9日)の平和祈念式典を巡り、先進7か国(G7)のうち、日本を除く米英独仏伊とカナダの6か国の駐日大使が式典への出席を見合わせることがわかった。長崎市はイスラエルの不招待を決めており、6か国は読売新聞の取材に、いずれもイスラエルの不招待を理由に挙げた。参事官や領事などが出席するという。
(以下略)
その線で考えると、駐日大使の式典参加を取りやめたのは、アメリカ・イギリス・ドイツ・フランス・イタリア・カナダといった西欧のわずか6か国。今回式典に招待された約100か国のうち、大使級人士が出席する予定になっている国はそれほど多くはないものの、イスラエルの式典招待問題で何らかのアクションを取ると言明しそれが報じられた国は、この6か国だけ。いずれも今や落ち目の西欧諸国。
当ブログは、「イスラエルの式典招待問題で何らかのアクションを取ると言明しそれが報じられた国は、いずれも今や落ち目の西欧諸国6か国だけ」という点を強調したいと思います。
ラベル:国際「秩序」
2024年07月08日
キム・イルソン同志逝去30年と政論《공산주의로 가자!》について
今日は7月8日、偉大な首領:キム・イルソン同志の逝去から30年となる節目の日です。
一生涯を祖国における朝鮮式社会主義の建設に捧げられた首領様。朝鮮式社会主義とは、すなわち社会政治的生命体の構築に他なりませんが、首領様逝去から30年たった今日、キム・ジョンウン同志の領導の下で「共産主義へ行こう!」のスローガンが掲げられ、徳と情によって全人民が結びつく社会が着実に作り上げられています。
去る6月27日、党機関紙『労働新聞』は1面に『共産主義へ行こう! 偉大な党中央がくださったスローガンとともに、互いに助け合い導く共産主義の美風が一層高く発揮されている我が祖国の激動的な現実を抱いて』という政論を掲載しました(http://www.rodong.rep.kp/ko/index.php?OEAyMDI0LTA2LTI3LU4wMDFAMkBAQDFAMQ==)。今回は、同政論について取り上げたいと思います。
《공산주의로 가자!》というスローガンについて《세여보면 불과 일곱글자, 하건만 이 구호에 담겨진 무게는 실로 거대하다》(「数えてみればわずか7文字、しかしこのスローガンの重みは実に大きい」)としつつ、《공산주의로 가는 첫걸음은 무엇으로부터 시작되는가》(「共産主義への第一歩は何から始まるのか」)と問いを立てた政論。まず、《사회주의건설투쟁에서 애로와 난관이 많을수록 서로 돕고 이끌어주는 공산주의적인 기풍이 더 높이 발휘되여야 하며 덕과 정으로 우리식 사회주의를 완성해나가야 한다는것이 우리 당의 뜻이고 리상입니다》(「社会主義建設闘争で困難と難関が多いほど、互いに助け合って導きあう共産主義的な気風が高く発揮されなければならず、徳と情によって我々式社会主義を完成していかなければならないというのが我が党の意思であり理想です」)という元帥様のお言葉を引用します。
その上で、元帥様の《우리가 리상하는 강국, 공산주의사회는 모든 인민들이 무탈하여 편안하고 화목하게 살아가는 사회라》(「我々が理想とする強国:共産主義社会は、すべての人民が健やかに安らかで睦まじく暮らしてゆく社会」)というお言葉を引用しつつ、共産主義社会について《모든 사람들이 기쁨과 슬픔을 함께 나누는 사회》(「すべての人々が喜びと悲しみを共に分かち合う社会」)であると位置づけました。また、《인민의 리상사회, 공산주의사회를 건설하는데서 그 어떤 경제발전이나 물질적만족을 론하기 전에 인간을 먼저 보고 인간의 사상의식과 도덕적인격을 무엇보다 중시해야 한다는 귀중한 가르치심이다》(人民の理想社会である共産主義社会を建設する上では、経済発展や物質的満足を論じる前に、まず人間に注目し人間の思想意識と道徳的格式を何よりも重視しなければならないという貴重な教えである」)とも指摘しました。
さらに、《기쁨과 슬픔은 매 인간에게 있어서 가장 깊은 감정이다.그것을 너와 나 모두가 함께 나눈다는 말속에는 인간과 사회에 대한 심오한 진리가 함축되여있다.사상의식의 높이, 행복의 참된 가치, 고상한 인격이 모두 여기에 내재되여있다》(「喜びと悲しみは、すべての人間にとって最も深い感情である。それを、あなたと私、みなが分かち合うという言葉には、人間と社会に対する深奥なる真理が含まれている。思想意識の高さ、幸福の真の価値、高尚な人格がすべてここに内在している」)とも指摘。《기쁨과 슬픔을 함께 하는것, 사람들에게 있어서 이보다 더 행복하고 아름다운 인간관계는 없고 사회제도라고 할 때 이보다 더 화목하고 리상적인 사회제도는 없다.인간이 바랄수 있는 더없는 리상, 인민이 그려보는 사회의 가장 높은 경지가 여기에 있다》(「喜びと悲しみを共にすること、人々にとってこれより幸福で美しい人間関係はなく、社会制度においてこれより睦まじく理想的な社会制度はない。人間が望むことができる最高の理想、人民が描く社会の最も高い境地がここにある」)としています。
共産主義社会とは、すべての人々が喜びと悲しみを共に分かち合う社会であり、それは人間が望むことができる最高の理想社会である。共産主義社会を建設する上では、経済発展や物質的満足を論じる前に、まず人間に注目し人間の思想意識と道徳的格式を何よりも重視しなければならないというわけです。
続いて政論は、共産主義における徳と情の重要性を強調します。
《공산주의를 하나의 건축물에 비유한다면 덕과 정은 그 기초라고 말할수 있다.때문에 덕과 정이 결여된 사회는 공산주의사회라고 말할수 없다.》(「共産主義を一つの建築物にたとえるなら、徳と情はその基礎だと言える。徳と情が欠如した社会は、共産主義社会とは言えない」)や《피는 물보다 진하다고 했지만 피보다 더 진한것이 바로 정이다.피줄은 한가정의 울타리, 혈육관계를 벗어나지 못하지만 정은 그것을 훨씬 초월한 무한한 인간관계를 포괄하고있다.무성한 천연수림속으로 비쳐드는 한줄기 빛과도 같이, 얼어든 대지도 한순간에 스르르 녹아버리게 하는 열과도 같이, 칠칠야밤에 앞길을 비쳐주는 등불과도 같이 강렬한 감정을 자아낸다.물리적힘에는 한계가 있지만 정은 한계가 없는 힘이다.정은 넋을 심어주고 불굴의 힘을 발휘하게 한다.》(「血は水より濃いというが、血よりもっと濃いのがまさしく情である。血筋は、家庭の垣根や血縁関係から抜け出せないが、情はそれらをはるかに超越した無限の人間関係を包括している。生い茂る天然樹林の中に映る一筋の光のように、凍てついた大地をも一瞬で溶かしてしまう熱のように、漆黒の闇夜に前途を照らす灯りのように強烈な感情を醸し出す。物理的な力には限界があるが情には限界がない。情は魂の基礎となり不屈の力を発揮させる」)と指摘しています。
徳と情の重視――これらのくだりは、まさに社会政治的生命体論の系譜に位置する元帥様時代の朝鮮式社会主義の宣言であると言って然るべきでしょう。
一般に共産主義とは、マルクスの『ゴータ綱領批判』にある「各人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という富の分配方法に関する一つの立場とし見なされがちですが、本来共産主義とは、その程度の領域に限られた「狭い」思想、単なる分配論ではありません。たとえば的場昭弘氏は、『ネオ共産主義論』(光文社新書、2006)において「そもそも共産主義思想にの淵源には、人間が地球上に放り出されたときに失ったものを取り戻そうとする本源的欲望があります。それは、この世界で豊かに、知性を持って暮らすことです」(p25)と指摘しています。
それゆえ、元帥様時代の朝鮮式社会主義は、共産主義運動の正統な系譜に位置しているとも言えると考えます。
先般、元帥様は大韓民国を「もはや同族ではない」と突き放しましたが、このとき大韓民国の世相について「ヤンキー文化で混濁している」と指摘なさいました。このことを踏まえつつ、すべての人々が喜びと悲しみを共に分かち合う社会を作り上げようとしている共和国と大韓民国を比較したとき、その対立軸は、本質的には政治や経済の制度的な違いではなく、如何なる人間関係の在り方を目指しているのか、もっと言えば、如何なる人生観に立脚して生涯を送ろうとしているのかという点にこそ求めるべきであると当ブログは主張したいと思います。
日本について考えてみたいと思います。政治は勿論、社会生活において徳もなければ情もありません。リーマン・ショックの頃に吹き荒れた「自己責任」論が非常に象徴的ですが、社会的存在たる人間であるにもかかわらず、個人が個人としてバラバラに生きています。最近の資産運用ブームや転職ブームもそうした「個人が個人としてバラバラに生きている」世相と密接に関わっていると考えます。古典的文学作品等を通して人生観の問題を考えている人は決して少なくはないが、そういった問題をしっかり考えようという社会的な風潮は貧弱であると言わざるを得ず、何かのきっかけで個人的に考えるに留まっています。
いま日本では社会的な閉塞感が漂っているとしばしば指摘されていますが、当ブログは、その一因として、そもそも人生観が確立していないから何となく漠然とした閉塞感があるのではないかと考えています。このことについては、今後思索を深めて行きたいと考えています。
政論の文脈に戻りましょう。つづいて、困難が共産主義に対する確信を深めると指摘します。
《좋은 때보다 어려운 때 발휘하는 미풍에는 뜻과 의지가 있고 강렬한 지향과 목적이 있다.그것이 바로 공산주의에 대한 사랑이고 믿음이다.비록 아직은 많은것이 부족하고 넘고 헤쳐야 할 난관도 중중첩첩이지만 우리 인민모두가 신심에 넘쳐있고 정과 사랑이 더욱 뜨겁게 분출하는것은 바로 이 확신이 있기때문이다》(「よいときより困難なときに発揮する美風には、志と意志があり強烈な指向と目的がある。それは、まさに共産主義に対する愛であり信頼である。いまだ不足が多く乗り越えなければならない難関が幾重にも重なっているが、我が人民みなが信心に溢れ情と愛がさらに熱く噴き出しているのは、まさにこの確信があるからだ」)というくだりからは、「厳しい闘争を通じて自らを共産主義的に改造してゆく」という伝統的な共産主義的思想闘争の考え方が非常によく現れています。
この点においても、元帥様時代の朝鮮式社会主義は共産主義の正統な系譜だと言えると考えます。
政論は、共産主義に対する確信が今日の世相の根底にあるといいます。
《어려울수록 따뜻이 위해주는 마음과 마음, 힘겨울수록 더 굳게 맞잡는 손과 손에 떠받들려 모든 고난을 이겨내고 보다 아름다운 래일을 창조해가는 우리의 생활기풍은 단순히 조상전래의 미풍량속이나 인정세태에만 그 뿌리를 두고있는것이 아니다.덕과 정의 대화원에 계절의 바뀜이 없이 언제나 아름다운 꽃들이 만발한것은, 덕과 정의 분화구에 그 열원이 끝없는것은 바로 눈앞의 현실이 아니라 더 휘황할 미래를 보는 사상과 신념이 굳건하기때문이다.》(「困難であればあるほど温かくしてくれる心と心、力が強ければ強いほどさらに固く結ばれる手と手に支えられて、すべての苦難を乗り越えてより美しい明日を創造していく我々の生活気風は、単に先祖伝来の美風良俗や人情だけにその根があるのではない。徳と情の大いなる花園にいつも美しい花々が満開しているのは、徳と情の噴火口にその熱源が尽きないのは、目の前の現実ではなく煌めく未来を見据える思想と信念が堅固があるためだ」)や《덕이 덕을 낳고 정이 정을 낳고 미가 미를 낳는 이야기들이 매일, 매 시각 남녀로소 각계각층 누구에게서나, 도시와 벌방, 산촌 그 어디서나 꽃펴난다.그 덕과 정이 그 무엇으로써도 막을수 없는 전체 인민의 지향으로, 사회의 국풍으로 된 이 자랑찬 화폭에는 공산주의로 가는 조선의 참모습이 생동하게 어려있다.》(「徳が徳を生み、情が情を生み、美が美を生む話が毎日毎時刻、老若男女・各界各層から、都市と農村・山村のどこからでも花咲いている。その徳と情は、何を以ってしても阻むことができないすべて人民の指向として、社会の国風になったこの誇らしい画幅には共産主義へと向かう朝鮮の真の姿が生き生きとしている)と指摘する政論。
共産主義に対する確信と、徳と情とが車輪の両輪となって相互作用しながら朝鮮式社会主義を前進させていることが分かります。未来への確信もなく徳も情もないニッポンとは比較にもなりません。
政論は、人間を育てること自体を一つの革命であると見做す元帥様こそが共産主義に最も早く進むことができる近道を明確にしてくださったと称えます。
《혁명을 사랑하고 공산주의를 그처럼 사랑하시는분, 인류의 리상을 실현하고 창당의 리념, 건국의 리념을 끝까지 고수하며 주체혁명위업을 기어이 완성하시려는 성스러운 사명감을 안으신 위대한 령도자이시기에 우리의 총비서동지께서는 공산주의기치를 높이 드시고 공산주의에로 가장 빨리 갈수 있는 지름길을 환히 밝혀주신것이다.》(「革命を愛し共産主義を愛するお方、人類の理想を実現して創党の理念、建国の理念を最後まで守りチュチェ革命偉業を完成させようとする聖なる使命感を抱いた偉大な領導者であるから、我が総書記同志は共産主義の旗印を高く掲げて共産主義に最も早く進むことができる近道を明確にしてくださった」)や《덕과 정이 한두사람이 아니라 한 시대에 줄기차게 흐르는 주도적감정으로, 국풍으로 되자면 위대한 수령의 품이 있어야 한다.한것은 미덕과 미풍 그자체는 인간의 아름다운 정신세계의 발현이지만 그것이 저절로 발휘되는것은 아니며 누구나 지향하고 실천하게 되는것은 아니기때문이다.미덕, 미풍이 아름다운 꽃이라면 그 꽃이 그윽한 향기를 풍기도록 하는것은 걸출한 수령의 손길이다.인민들의 가슴마다에 공산주의사상을 뿌리깊이 심어주는 위대한 공산주의자, 위대한 혁명가만이 하나하나의 미덕, 미풍의 싹들을 거목으로 자래워 공산주의미덕의 화원을 만발하게 할수 있는것이다.》(「徳と情が一人や二人ではなく、一時代に絶えず流れる主導的感情に、国風になるためには偉大な首領の懐がなければならない。美徳と美風は人間の美しい精神世界の発露だが、それは自然に発揮されるものではなく、誰でも志向し実践できるものではない。美徳・美風を美しい花だとすれば、その花が奥ゆかしい香りを漂わせるのは傑出した首領の手による。人民一人ひとりに共産主義思想を根付かせる偉大な共産主義者、偉大な革命家だけが、一つひとつの美徳・美風の芽を巨木に育て、共産主義的美徳の花園を満開させることができるのだ」)と指摘しています。
首領様逝去30年の節目の年、元帥様の肖像徽章が公式行事でも確認されたこのタイミングで、このようなくだりを含む政論が出てきた意味合いは非常に大であると言えるでしょう。元帥様が名実ともに朝鮮式の社会主義建設のリーダーであり現代共産主義運動の首領になったという宣言であると考えます。
政論は最後に次のように指摘します。
首領様がこの世を去って30年。将軍様そして元帥様へと革命偉業は受け継がれてき、それゆえに今もなお、斯くも雄弁なる理想社会としての共産主義論が語られている朝鮮民主主義人民共和国。完全なるブルジョア社会である日本は、共和国の足元にも及ばないので、共和国における闘争と建設、そしてその成果を踏まえつつ日本は日本の状況に応じて日本式の共産主義を探究するしかありません。
偉大な首領:キム・イルソン同志は共産主義運動の歴史において永生なさっています。
一生涯を祖国における朝鮮式社会主義の建設に捧げられた首領様。朝鮮式社会主義とは、すなわち社会政治的生命体の構築に他なりませんが、首領様逝去から30年たった今日、キム・ジョンウン同志の領導の下で「共産主義へ行こう!」のスローガンが掲げられ、徳と情によって全人民が結びつく社会が着実に作り上げられています。
去る6月27日、党機関紙『労働新聞』は1面に『共産主義へ行こう! 偉大な党中央がくださったスローガンとともに、互いに助け合い導く共産主義の美風が一層高く発揮されている我が祖国の激動的な現実を抱いて』という政論を掲載しました(http://www.rodong.rep.kp/ko/index.php?OEAyMDI0LTA2LTI3LU4wMDFAMkBAQDFAMQ==)。今回は、同政論について取り上げたいと思います。
《공산주의로 가자!》というスローガンについて《세여보면 불과 일곱글자, 하건만 이 구호에 담겨진 무게는 실로 거대하다》(「数えてみればわずか7文字、しかしこのスローガンの重みは実に大きい」)としつつ、《공산주의로 가는 첫걸음은 무엇으로부터 시작되는가》(「共産主義への第一歩は何から始まるのか」)と問いを立てた政論。まず、《사회주의건설투쟁에서 애로와 난관이 많을수록 서로 돕고 이끌어주는 공산주의적인 기풍이 더 높이 발휘되여야 하며 덕과 정으로 우리식 사회주의를 완성해나가야 한다는것이 우리 당의 뜻이고 리상입니다》(「社会主義建設闘争で困難と難関が多いほど、互いに助け合って導きあう共産主義的な気風が高く発揮されなければならず、徳と情によって我々式社会主義を完成していかなければならないというのが我が党の意思であり理想です」)という元帥様のお言葉を引用します。
その上で、元帥様の《우리가 리상하는 강국, 공산주의사회는 모든 인민들이 무탈하여 편안하고 화목하게 살아가는 사회라》(「我々が理想とする強国:共産主義社会は、すべての人民が健やかに安らかで睦まじく暮らしてゆく社会」)というお言葉を引用しつつ、共産主義社会について《모든 사람들이 기쁨과 슬픔을 함께 나누는 사회》(「すべての人々が喜びと悲しみを共に分かち合う社会」)であると位置づけました。また、《인민의 리상사회, 공산주의사회를 건설하는데서 그 어떤 경제발전이나 물질적만족을 론하기 전에 인간을 먼저 보고 인간의 사상의식과 도덕적인격을 무엇보다 중시해야 한다는 귀중한 가르치심이다》(人民の理想社会である共産主義社会を建設する上では、経済発展や物質的満足を論じる前に、まず人間に注目し人間の思想意識と道徳的格式を何よりも重視しなければならないという貴重な教えである」)とも指摘しました。
さらに、《기쁨과 슬픔은 매 인간에게 있어서 가장 깊은 감정이다.그것을 너와 나 모두가 함께 나눈다는 말속에는 인간과 사회에 대한 심오한 진리가 함축되여있다.사상의식의 높이, 행복의 참된 가치, 고상한 인격이 모두 여기에 내재되여있다》(「喜びと悲しみは、すべての人間にとって最も深い感情である。それを、あなたと私、みなが分かち合うという言葉には、人間と社会に対する深奥なる真理が含まれている。思想意識の高さ、幸福の真の価値、高尚な人格がすべてここに内在している」)とも指摘。《기쁨과 슬픔을 함께 하는것, 사람들에게 있어서 이보다 더 행복하고 아름다운 인간관계는 없고 사회제도라고 할 때 이보다 더 화목하고 리상적인 사회제도는 없다.인간이 바랄수 있는 더없는 리상, 인민이 그려보는 사회의 가장 높은 경지가 여기에 있다》(「喜びと悲しみを共にすること、人々にとってこれより幸福で美しい人間関係はなく、社会制度においてこれより睦まじく理想的な社会制度はない。人間が望むことができる最高の理想、人民が描く社会の最も高い境地がここにある」)としています。
共産主義社会とは、すべての人々が喜びと悲しみを共に分かち合う社会であり、それは人間が望むことができる最高の理想社会である。共産主義社会を建設する上では、経済発展や物質的満足を論じる前に、まず人間に注目し人間の思想意識と道徳的格式を何よりも重視しなければならないというわけです。
続いて政論は、共産主義における徳と情の重要性を強調します。
《공산주의를 하나의 건축물에 비유한다면 덕과 정은 그 기초라고 말할수 있다.때문에 덕과 정이 결여된 사회는 공산주의사회라고 말할수 없다.》(「共産主義を一つの建築物にたとえるなら、徳と情はその基礎だと言える。徳と情が欠如した社会は、共産主義社会とは言えない」)や《피는 물보다 진하다고 했지만 피보다 더 진한것이 바로 정이다.피줄은 한가정의 울타리, 혈육관계를 벗어나지 못하지만 정은 그것을 훨씬 초월한 무한한 인간관계를 포괄하고있다.무성한 천연수림속으로 비쳐드는 한줄기 빛과도 같이, 얼어든 대지도 한순간에 스르르 녹아버리게 하는 열과도 같이, 칠칠야밤에 앞길을 비쳐주는 등불과도 같이 강렬한 감정을 자아낸다.물리적힘에는 한계가 있지만 정은 한계가 없는 힘이다.정은 넋을 심어주고 불굴의 힘을 발휘하게 한다.》(「血は水より濃いというが、血よりもっと濃いのがまさしく情である。血筋は、家庭の垣根や血縁関係から抜け出せないが、情はそれらをはるかに超越した無限の人間関係を包括している。生い茂る天然樹林の中に映る一筋の光のように、凍てついた大地をも一瞬で溶かしてしまう熱のように、漆黒の闇夜に前途を照らす灯りのように強烈な感情を醸し出す。物理的な力には限界があるが情には限界がない。情は魂の基礎となり不屈の力を発揮させる」)と指摘しています。
徳と情の重視――これらのくだりは、まさに社会政治的生命体論の系譜に位置する元帥様時代の朝鮮式社会主義の宣言であると言って然るべきでしょう。
一般に共産主義とは、マルクスの『ゴータ綱領批判』にある「各人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という富の分配方法に関する一つの立場とし見なされがちですが、本来共産主義とは、その程度の領域に限られた「狭い」思想、単なる分配論ではありません。たとえば的場昭弘氏は、『ネオ共産主義論』(光文社新書、2006)において「そもそも共産主義思想にの淵源には、人間が地球上に放り出されたときに失ったものを取り戻そうとする本源的欲望があります。それは、この世界で豊かに、知性を持って暮らすことです」(p25)と指摘しています。
それゆえ、元帥様時代の朝鮮式社会主義は、共産主義運動の正統な系譜に位置しているとも言えると考えます。
先般、元帥様は大韓民国を「もはや同族ではない」と突き放しましたが、このとき大韓民国の世相について「ヤンキー文化で混濁している」と指摘なさいました。このことを踏まえつつ、すべての人々が喜びと悲しみを共に分かち合う社会を作り上げようとしている共和国と大韓民国を比較したとき、その対立軸は、本質的には政治や経済の制度的な違いではなく、如何なる人間関係の在り方を目指しているのか、もっと言えば、如何なる人生観に立脚して生涯を送ろうとしているのかという点にこそ求めるべきであると当ブログは主張したいと思います。
日本について考えてみたいと思います。政治は勿論、社会生活において徳もなければ情もありません。リーマン・ショックの頃に吹き荒れた「自己責任」論が非常に象徴的ですが、社会的存在たる人間であるにもかかわらず、個人が個人としてバラバラに生きています。最近の資産運用ブームや転職ブームもそうした「個人が個人としてバラバラに生きている」世相と密接に関わっていると考えます。古典的文学作品等を通して人生観の問題を考えている人は決して少なくはないが、そういった問題をしっかり考えようという社会的な風潮は貧弱であると言わざるを得ず、何かのきっかけで個人的に考えるに留まっています。
いま日本では社会的な閉塞感が漂っているとしばしば指摘されていますが、当ブログは、その一因として、そもそも人生観が確立していないから何となく漠然とした閉塞感があるのではないかと考えています。このことについては、今後思索を深めて行きたいと考えています。
政論の文脈に戻りましょう。つづいて、困難が共産主義に対する確信を深めると指摘します。
《좋은 때보다 어려운 때 발휘하는 미풍에는 뜻과 의지가 있고 강렬한 지향과 목적이 있다.그것이 바로 공산주의에 대한 사랑이고 믿음이다.비록 아직은 많은것이 부족하고 넘고 헤쳐야 할 난관도 중중첩첩이지만 우리 인민모두가 신심에 넘쳐있고 정과 사랑이 더욱 뜨겁게 분출하는것은 바로 이 확신이 있기때문이다》(「よいときより困難なときに発揮する美風には、志と意志があり強烈な指向と目的がある。それは、まさに共産主義に対する愛であり信頼である。いまだ不足が多く乗り越えなければならない難関が幾重にも重なっているが、我が人民みなが信心に溢れ情と愛がさらに熱く噴き出しているのは、まさにこの確信があるからだ」)というくだりからは、「厳しい闘争を通じて自らを共産主義的に改造してゆく」という伝統的な共産主義的思想闘争の考え方が非常によく現れています。
この点においても、元帥様時代の朝鮮式社会主義は共産主義の正統な系譜だと言えると考えます。
政論は、共産主義に対する確信が今日の世相の根底にあるといいます。
《어려울수록 따뜻이 위해주는 마음과 마음, 힘겨울수록 더 굳게 맞잡는 손과 손에 떠받들려 모든 고난을 이겨내고 보다 아름다운 래일을 창조해가는 우리의 생활기풍은 단순히 조상전래의 미풍량속이나 인정세태에만 그 뿌리를 두고있는것이 아니다.덕과 정의 대화원에 계절의 바뀜이 없이 언제나 아름다운 꽃들이 만발한것은, 덕과 정의 분화구에 그 열원이 끝없는것은 바로 눈앞의 현실이 아니라 더 휘황할 미래를 보는 사상과 신념이 굳건하기때문이다.》(「困難であればあるほど温かくしてくれる心と心、力が強ければ強いほどさらに固く結ばれる手と手に支えられて、すべての苦難を乗り越えてより美しい明日を創造していく我々の生活気風は、単に先祖伝来の美風良俗や人情だけにその根があるのではない。徳と情の大いなる花園にいつも美しい花々が満開しているのは、徳と情の噴火口にその熱源が尽きないのは、目の前の現実ではなく煌めく未来を見据える思想と信念が堅固があるためだ」)や《덕이 덕을 낳고 정이 정을 낳고 미가 미를 낳는 이야기들이 매일, 매 시각 남녀로소 각계각층 누구에게서나, 도시와 벌방, 산촌 그 어디서나 꽃펴난다.그 덕과 정이 그 무엇으로써도 막을수 없는 전체 인민의 지향으로, 사회의 국풍으로 된 이 자랑찬 화폭에는 공산주의로 가는 조선의 참모습이 생동하게 어려있다.》(「徳が徳を生み、情が情を生み、美が美を生む話が毎日毎時刻、老若男女・各界各層から、都市と農村・山村のどこからでも花咲いている。その徳と情は、何を以ってしても阻むことができないすべて人民の指向として、社会の国風になったこの誇らしい画幅には共産主義へと向かう朝鮮の真の姿が生き生きとしている)と指摘する政論。
共産主義に対する確信と、徳と情とが車輪の両輪となって相互作用しながら朝鮮式社会主義を前進させていることが分かります。未来への確信もなく徳も情もないニッポンとは比較にもなりません。
政論は、人間を育てること自体を一つの革命であると見做す元帥様こそが共産主義に最も早く進むことができる近道を明確にしてくださったと称えます。
《혁명을 사랑하고 공산주의를 그처럼 사랑하시는분, 인류의 리상을 실현하고 창당의 리념, 건국의 리념을 끝까지 고수하며 주체혁명위업을 기어이 완성하시려는 성스러운 사명감을 안으신 위대한 령도자이시기에 우리의 총비서동지께서는 공산주의기치를 높이 드시고 공산주의에로 가장 빨리 갈수 있는 지름길을 환히 밝혀주신것이다.》(「革命を愛し共産主義を愛するお方、人類の理想を実現して創党の理念、建国の理念を最後まで守りチュチェ革命偉業を完成させようとする聖なる使命感を抱いた偉大な領導者であるから、我が総書記同志は共産主義の旗印を高く掲げて共産主義に最も早く進むことができる近道を明確にしてくださった」)や《덕과 정이 한두사람이 아니라 한 시대에 줄기차게 흐르는 주도적감정으로, 국풍으로 되자면 위대한 수령의 품이 있어야 한다.한것은 미덕과 미풍 그자체는 인간의 아름다운 정신세계의 발현이지만 그것이 저절로 발휘되는것은 아니며 누구나 지향하고 실천하게 되는것은 아니기때문이다.미덕, 미풍이 아름다운 꽃이라면 그 꽃이 그윽한 향기를 풍기도록 하는것은 걸출한 수령의 손길이다.인민들의 가슴마다에 공산주의사상을 뿌리깊이 심어주는 위대한 공산주의자, 위대한 혁명가만이 하나하나의 미덕, 미풍의 싹들을 거목으로 자래워 공산주의미덕의 화원을 만발하게 할수 있는것이다.》(「徳と情が一人や二人ではなく、一時代に絶えず流れる主導的感情に、国風になるためには偉大な首領の懐がなければならない。美徳と美風は人間の美しい精神世界の発露だが、それは自然に発揮されるものではなく、誰でも志向し実践できるものではない。美徳・美風を美しい花だとすれば、その花が奥ゆかしい香りを漂わせるのは傑出した首領の手による。人民一人ひとりに共産主義思想を根付かせる偉大な共産主義者、偉大な革命家だけが、一つひとつの美徳・美風の芽を巨木に育て、共産主義的美徳の花園を満開させることができるのだ」)と指摘しています。
首領様逝去30年の節目の年、元帥様の肖像徽章が公式行事でも確認されたこのタイミングで、このようなくだりを含む政論が出てきた意味合いは非常に大であると言えるでしょう。元帥様が名実ともに朝鮮式の社会主義建設のリーダーであり現代共産主義運動の首領になったという宣言であると考えます。
政論は最後に次のように指摘します。
공산주의를 지향하는 우리의 국풍은 투철한 사상과 확고한 신념을 기반으로 하고있다.全世界がほぼ資本主義で一色化され、共産主義は過去のものと見なされている今日。左派と言っても社会民主主義がせいぜいのところであり、結局は修正資本主義でしかなく、よって本質的には個人主義社会以外の何者でもないものが幅を利かせている今日において、ここまで共産主義を理想社会として雄弁に語る政論は稀に見るものであると言えるでしょう。とりわけ、通俗的な共産主義理解すなわち経済的分配論に留まるものではなく人間どうしの関係を再構築することを共産主義運動の主たる目的として正しく据えていることは、この政論が、まさしく人類の歴史とほぼ同じくらい古い共産主義思想の歴史における正統な系譜に位置していることを示していると考えます。
共産主義を目指す我が国風は、透徹した思想と確固たる信念を基盤としている。
사상과 신념이 흔들리면 사랑도 정도 헌신도 미덕도 모든것이 빛을 잃는다.그것은 가장 굳센 신념의 소유자만이 가장 아름다운 인간이 될수 있으며 가장 철저한 혁명사상의 신봉자들이 바로 가장 고결한 사랑과 헌신을 체질화할수 있기때문이다.
思想と信念が揺れれば、愛も情も、献身も美徳もすべてが光を失う。最も強い信念の持ち主だけが最も美しい人間になることができ、最も徹底した革命思想の信奉者たちが最も高潔な愛と献身を体質化できるからだ。
사상과 신념을 떠나 한두사람의 미담은 태여날수 있을지 몰라도 덕과 정이 온 사회의 국풍으로, 민심의 흐름으로는 될수 없다.자기 위업의 승리를 믿고 위대한 수령을 따라 공산주의미래를 향하여 끝까지 가려는 억척불변의 신념이 전체 인민의 신조로, 민심의 깊은 본질로 될 때 공산주의건설이 앞당겨지게 된다.
思想と信念から離れれば、一人や二人による美談は生まれるかも知れないが、徳と情が全社会の国風・民心の流れにはなり得ない。自己の偉業の勝利を信じて、偉大な首領に続いて共産主義の未来に向かって最後まで進もうとする絶対不変の信念がすべて人民の信条・民心深いところの本性となるとき、共産主義建設が早まることになる。
전체 인민모두가 공산주의사회로 다같이 나아가는것! 단 한사람도 빠짐없이 공산주의사상으로 묶어세우는것! 이것이 오늘날 우리 혁명, 우리 시대의 힘찬 호소이다.
すべての人民が共産主義社会に向かって進むこと! 一人残らず共産主義思想の下に結束すること! これが今日の我々の革命、我が時代の力強い呼びかけである。
공산주의를 사랑한다는것은 혁명을 사랑한다는것이며 누구나 진정한 혁명가가 된다는것을 의미한다.혁명을 사랑하고 나라를 사랑하는 참된 충신, 열렬한 애국자만이 공산주의를 열렬히 사랑할수 있다.
共産主義を愛するということは革命を愛するということであり、誰もが真の革命家になるということを意味する。革命を愛し国を愛する真の忠臣、熱烈な愛国者だけが共産主義を熱烈に愛することができる。
어제도 오늘도 우리의 리상과 포부는 공산주의이다.그 원대한 리상을 변함없이 간직하고 세대와 세대를 잇는 줄기찬 투쟁으로 공산주의를 향해 꿋꿋이 나아가는 인민은 이 행성에 우리 인민뿐이다.
昨日も今日も、我々の理想と抱負は共産主義だ。その遠大な理想を変わらずに保ち、世代と世代を繋ぐ弛みない闘争で共産主義に向かって真っすぐ進む人民は、この星に我が人民だけである。
이 땅에 사는 공민이라면 마땅히 덕과 정이 넘쳐나는 사회주의 우리 집에 대한 크나큰 긍지와 자부심을 가져야 하며 우리 생활을 더 밝게 하고 우리의 단합을 더 백배해주는 한줄기 빛이 되고 굳건한 뿌리가 되여야 한다.
この地に生きる公民であれば当然、徳と情が溢れる社会主義の我が家に対する大きな誇りと自負心を持つべきであり、我々の生活をさらに明るくして我々の団結を百倍化する一筋の光になり、堅固な根になるべきだ。
《공산주의로 가자!》, 우리의 눈앞에 이 구호가 눈부신 아침해살처럼 빛발쳐온다.
「共産主義へ行こう!」――我々の眼前にはこのスローガンが眩い朝日のように輝いている。
사람들이여, 숭엄한 마음을 안고 이 구호앞에 서보시라.
崇高な心を抱いてこのスローガンの前に立たれよ。
눈앞에 안겨오는것은 단순히 획과 부호만이 아니다.이 구호가 마치도 우리의 정신을 보다 승화시키고 우리의 리상을 더욱 아름답게 해주는 살아있는 생명체와도 같이 느껴진다.
眼前にあらわれるのは、単なる画・符号ではない。このスローガンは、まるで我々の精神を昇華させ我々の理想をより美しくしてくれる生きた生命体のようにも感じられるものだ。
공산주의는 결코 료원한것이 아니다.특정한 몇몇 사람들만이 공산주의자가 될수 있는것이 아니다.바로 나자신의 가슴속에 사회와 집단을 위한 헌신의 마음이 깃들 때, 이웃과 동지들에 대한 사랑의 감정이 넘칠 때, 나날이 만발해지는 덕과 정의 대화원에 한떨기 꽃이 되여 피여날 자리를 찾을 때 공산주의에로의 큰걸음을 내짚었다고, 공산주의를 향해 힘차게 나아간다고 당당히 자부하게 되리라.
共産主義は決して遥か遠くのものではない。共産主義者になれるのはごく一部の人だけではない。自分自身の胸の中に社会と集団のための献身の心が宿るとき、隣人と同志に対する愛の感情が溢れるとき、毎日満開になる徳と情の大きな花園に一輪の花として咲く場所を探すとき、共産主義への大きな一歩を踏み出した・共産主義に向かって力強く進んだと堂々と誇れるだろう。
모두다 위대한 당중앙이 안겨준 이 뜻깊은 구호를 가슴깊이 간직하고 기쁨과 슬픔을 함께 나누고 조국과 인민을 위해 헌신하는 참된 인간, 훌륭한 미풍의 소유자가 되자.서로 돕고 이끄는 공산주의미풍이 우리 사회의 국풍으로 더 높이 발휘되게 하자.그럴 때에 우리가 바라고 우리의 후대들이 복락을 누리게 될 이 세상 제일 아름답고 훌륭한 사회-공산주의는 꿈이나 리상이 아닌 산 현실로 내 조국땅우에 눈부시게 펼쳐지게 될것이다.
みなが偉大な党中央が下さったこの意味深いスローガンを胸に抱き、喜びと悲しみを分かち合い、祖国と人民のために献身する真の人間、立派な美風の持ち主になろう。互いに助け合って導く共産主義の美風が、我々の社会の国風としてさらに高く発揮されるようにしよう。そのとき、我々が望み我々の後世代が福楽を享受することになるこの世で一番美しくて立派な社会主義・共産主義は、夢や理想ではなく生きた現実として、我が祖国の地に輝かしく広がることだろう。
首領様がこの世を去って30年。将軍様そして元帥様へと革命偉業は受け継がれてき、それゆえに今もなお、斯くも雄弁なる理想社会としての共産主義論が語られている朝鮮民主主義人民共和国。完全なるブルジョア社会である日本は、共和国の足元にも及ばないので、共和国における闘争と建設、そしてその成果を踏まえつつ日本は日本の状況に応じて日本式の共産主義を探究するしかありません。
偉大な首領:キム・イルソン同志は共産主義運動の歴史において永生なさっています。
2024年06月30日
反帝自主闘争の歴史に新たな一ページ:歴史的な朝ロ包括的戦略的パートナーシップ条約の締結について
https://chosonsinbo.com/jp/2024/06/20sk-33/
ロシアのプーチン大統領がピョンヤンを訪問し、キム・ジョンウン同志と会談。歴史的な朝ロ包括的戦略的パートナーシップ条約が締結されました。反帝自主闘争の歴史に新たな一ページが刻まれた画期的出来事であると考えます。
プーチン大統領の訪朝に先立ち、6月18日づけ『労働新聞』は、1面上段掲載の社説(《《로동신문》사설 《로씨야련방 대통령 울라지미르 뿌찐동지를 열렬히 환영한다》》 2024년 06월 18일 09:14)で《조로인민의 선린우호관계는 공동의 원쑤를 격멸하는 투쟁과정에 전투적우의와 혈연의 뉴대로 굳게 맺어진 두 나라 혁명선렬들의 단결과 협조에 그 력사적뿌리를 두고있다.》としつつ《조로 두 나라는 주권적권리와 안전환경을 엄중히 위협하고 해치려는 미국과 그 추종세력들의 무분별한 책동에 대처하여 자위력강화에 힘을 넣으면서 협력과 의사소통, 전투적련대성을 강화하고있다.두 나라의 굳건한 단결력에 의해 세계제패를 노린 적대세력들의 악랄한 책동들은 강력히 억제당하고있다.》とした上で《두 나라 인민들사이의 깊어지는 친선과 동지적관계는 국제평화와 안전을 수호하고 다극화된 새 세계건설을 다그치는데서 믿음직한 전략적보루로, 견인기로 되고있다.》とか《우리 인민은 자주와 국제적정의를 수호하는 공동전선에서 로씨야인민과 같은 미더운 전우, 동지와 어깨겯고 싸우는것을 긍지로 여기고있다.》と指摘していました。
また1面下段ではプーチン大統領の談話が掲載(《로씨야와 조선:년대를 이어가는 친선과 협조의 전통/뿌찐대통령이 조선방문을 앞두고 글을 발표》 2024년 06월 18일 06:26)。ここでプーチン大統領は《또한 우리는 국제관계를 더욱 민주주의적이고 안정적인 관계로 만들기 위하여 밀접하게 협조할 용의가 있습니다.이를 위하여 우리는 서방의 통제를 받지 않는 무역 및 호상결제체계를 발전시키고 일방적인 비합법적제한조치들을 공동으로 반대해나갈것입니다.또한 이와 함께 유라시아에서 평등하고 불가분리적인 안전구조를 건설해나갈것입니다.》としています。共和国を持ち上げているのだとは思いますが、《우리는 조선민주주의인민공화국 인민들이 어떤 힘과 존엄,용감성을 지니고 자기의 자유와 자주권,민족적전통들을 지켜 싸우는가를 보고있습니다.》とも述べています。
ここで是非とも注目したいのはプーチン大統領の《서방의 통제를 받지 않는 무역 및 호상결제체계를 발전시키고 일방적인 비합법적제한조치들을 공동으로 반대해나갈것입니다.》(西側の統制を受けない貿易および相互決済システムを発展させ、一方的な非合法的な制限措置に共同で反対していきます)という発言です。
アメリカ帝国が世界最強でいられるのは、自国通貨であるドルが国際決済で広く使われている点に一つの要因があります。しかし、アメリカ一強体制は、自然発生的ながら確実に崩れつつあります。
たとえば、ひと昔前であればアメリカがその気になれば他国の経済基盤破壊など赤子の手を捻るが如きことだったのに、いまやロシア一国をも窒息させることはできていません。ロシアがウクライナに侵攻しアメリカを中心とする西側諸国が金融封鎖をした直後、日本メディアは「金融制裁によってロシアでインフレが止まらない! 庶民生活崩壊! ロシア経済崩壊!!」という画を撮ろうとロシア国内のスーパーマーケットなどを駆け回りましたが、結局、いい題材は見つからずじまい。いまも「アイツは死後きっと地獄に落ちるに違いない」と大して変わらないレベルの「長期的にはロシア経済は・・・」という「分析」が精々のものになっています(経済学的な意味での長期なんて、様々な要素が移ろい変わっていくんだから、今の時点では何とも言えないでしょうに)。
また先般、ウクライナのゼレンスキー大統領が提唱する「平和の公式」に沿った「平和サミット」がスイスで開催されましたが非常にお寒い結果に終わりました。共同声明の採択を優先するために内容を絞ったにもかかわらず、それでも共同声明を支持しない国が続出したからです。いわゆるグローバル・サウスの国々を中心に、米欧側でもなくロシア側でもない国が相当数あります。これらの国々は、豊かな天然資源や農業生産力、工業生産力を基盤とするロシアとの関係性も重視しているとされます。依然としてアメリカは国際金融の覇権を握っているが、それはかつてのような絶対的な強みではなくなっているのです。
プーチン大統領による今回の談話の当該部分は、アメリカ一強が自然発生的ながらも確実に崩れつつある中で、アメリカが持つ権力の源泉を突き崩さんとする目的意識的な宣言であると位置づけることができます。そしてそれは、豊かな天然資源や農業生産力そして工業生産力に依拠することで国際金融における覇権を握るアメリカの金融封鎖の中でも窒息していないロシアの現況を見るに、決して実現可能性のない願望ではありません。
今回、朝ロ両国が締結した画期的な条約は、安全保障上の協力だけでなく金融・経済上の協力についても盛り込まれています。アメリカの国際金融覇権を突き崩すことは一筋縄ではいかない難題であり過度な楽観視は厳に慎まなければなりませんが、しかしいま、世界は時代の転換点に来ていると言えると考えます。
このように考えたとき、今般の朝ロ両国の接近が西側帝国主義諸国という共通の敵との闘争構図の中に位置づけられるもの、つまり、反帝自主闘争の歴史の新たな一ページであることがよく分かるかと思います。正に《조로관계는 변화된 환경에 맞게 확실한 정치적, 법적담보를 가지고 새로운 발전궤도에 올라설수 있게 되였다.》というわけです。
■朝ロ接近の衝撃を何とか矮小化しようとしている?
朝ロ包括的戦略的パートナーシップ条約に関する反応を幾つか見ておきましょう。
分析と集約に時間が掛かってしまったので元記事が削除されてしまったのですが、朝鮮半島情勢について色々口をはさむ割には、あまり朝鮮のことを分かっていない山口亮・東京大学先端科学技術研究センター特任助教(防衛政策専門)の言説をまず取り上げましょう。彼のYahooの個人ページからアクセスしてください。
https://news.yahoo.co.jp/profile/commentator/yamaguchiryo
エマニュエル発言について当ブログは昨年12月8日づけ「日本「国」が精神的に独立した大人にならない限り、そして韓「国」が事大主義精神から脱しない限り、アメリカの思想的覇権が揺らぐことはないだろう」で批判したところです。すなわち、「対等な独立国家どうしなのだから当たり前」。むしろ、状況に合わせて合従連衡できるということは、それだけ自国が自主的であり独立的である証拠だとさえ言えると考えます。
「安全保障の面においても、朝露は相互を「支援」するとのことだが、実際にどこまで体を張ってお互いを「守る」かは不明」という主張については、元帥様がかつて言明されたとおり、共和国にとっての主敵は「特定の国家や勢力ではなく戦争そのもの」であります(「金正恩氏が演説「主敵は戦争そのもの」 国防力強化を正当化」2021年10月12日 13時30分)。今回の条約は、かつての朝ソ友好協力相互援助条約と似た条文だとされますが、山口氏が言うとおり実際の運用がどうなるのかはまだ分かりません。朝ソ条約のような強固な条約になるのか否かは現時点ではわかりません。しかし、いま申し上げた観点から言えば、西側諸国をして「内実はよく分からないが脅威になりうる、何だか不気味なもの」と思わしめるだけでも十分な効果があるのです。
山口氏のコメントからは、朝ロ接近の衝撃を何とか矮小化しようという意図を見て取ることができます。
■もっと反省が必要なのではないか――朝中ロ同盟の日も遠くない?
そんなことより、よりによってロシアと「北朝鮮」との接近を許してしまったことについて山口氏の立場からは猛省が必要なのではないでしょうか。
日本にとって朝ロ両国はいずれも仮想敵国ですが、それこそ山口氏が強調しているように必ずしも常に利害関係が一致している間柄ではありません。敵は必ず分割・分断して敵同士の連携を許さない――これは基本中の基本であるはず。朝ロ接近に楔を打つ程度にロシアとの独自の関係を築いておくべきだったところ、アメリカに盲従してロシアを完全なる敵としてしまった日本。グローバル・サウスの国々がいまそうしているように「ロシアのウクライナ侵攻自体は許容できず非難するが米欧諸国とも一線を画す」という独自のしたたかさが日本外交には必要でした。
いまガザ情勢を巡り国際社会の非難の声をよそにイスラエル全面支持の姿勢を鮮明にしているアメリカに対して、日本はそれとは一線を画す独自の立場を取っています。やればできるのです。ガザ情勢で発揮できた勇気をウクライナ情勢では発揮できなかったことが今日の事態を招いたわけです。
差し詰め、「今日のウクライナは、明日の台湾・沖縄」などとして対中国を念頭に置きすぎた、中国への対抗ばかりに気を取られていたがために朝ロ両国の接近を食い止めることができなかったのでしょう。「今日のウクライナは、明日の台湾・沖縄」というスローガンは、「ロシアのウクライナへの軍事的侵攻を許さない国際世論を醸成することが中国の台湾・沖縄への武力行使を防ぐためにも大切だ」という見立てに基づき、ロシアと徹底的に対決することで中国に対する「見せしめ」にすること意図していたのでしょうが、ロシアの国際的地位をナメていたと言わざるを得ません。
先般の「平和サミット」のお寒い結果が示しているとおり、国際社会は日本や米欧諸国の予想・期待に反する対応を見せています。日本や米欧諸国などがロシアを除け者にしても、それに追随する国は少数派であるわけです。こうした展開を先読みできなかったのがそもそもの間違いの発端でした。
そして、久しい以前からネット上ではロシアを「大きな北朝鮮」と揶揄する言説が散見されていますが、排除の論理で接すれば「大きな北朝鮮」と「小さな北朝鮮」が接近して「二つの北朝鮮」が生まれるのは容易に想像できるはずであるところ、外交の本番舞台で日本政府は、ネット世論のような対応をしてしまったわけです。
こうして日本政府は、ロシアの国際的地位をナメ、彼の国を「向こう側」に排除した結果、本来であれば分割・分断して連携させてはならない仮想敵国同士が強力なタッグを組むという最悪の展開を自ら引き起こしたわけです。
なお、「大きな北朝鮮」は中国を指すこともあります。このまま無反省であれば、「三つ目の北朝鮮」ができて日本が朝中ロ同盟に頭を抱える日もそう遠くはないかもしれません。
■朝ロ同盟はアメリカとその追随者たちによる自国侵略を防ぐための共同戦線
続いて大韓民国紙『中央日報』の記事から。アンドレイ・ランコフ氏の筆であるようです。
https://news.livedoor.com/article/detail/26654765/
プエブロ号事件発生当時、朝ソの温度差はあまりにも明らかでした。
当時、共和国は祖国統一を熱望し武力によることも辞さない覚悟を示していました。何といっても分断国家としての兄弟国であるベトナム民主共和国(北ベトナム)が、ますます激しくなるベトナム戦争において英雄的な戦いを展開していた時期。当時首領様は、「失うものは軍事分界線、得るものは統一」と仰っていました。
他方、ソ連にとっては当時はキューバ危機を辛くも回避してデタントの流れの真っ最中。ソ連にとっては偶発的に発生したプエブロ号事件がデタントの流れに水を差すことを望んではいませんでした。
これに対して現在、朝ロ両国とも戦争はまったく望んでいません。
共和国について言えば、上述のとおり「主敵は戦争そのもの」であります。今年に入ってからは、祖国統一に関連する語句を禁句化したり、「南朝鮮」ではなく「大韓民国」と呼称することで38度線以南を彼岸化したりすることで、赤化統一への無関心を表明しています。確かに先に元帥様は「朝鮮半島で戦争が起こる場合には、大韓民国を完全に占領、平定、収復し、共和国領域に編入させる」と仰っていました。しかしそれは、あくまでも「米国と南朝鮮の連中が、もしあくまでもわれわれとの軍事的対決をもくろもうとするなら、われわれの核戦争抑止力は躊躇(ちゅうちょ)せず重大な行動に移ると厳かに宣言する」という前提つきのもの(「朝鮮労働党中央委員会第8期第9回総会拡大会議に関する報道」2024年01月01日 08:29)。アメリカとその追随者たちが余計なことをしなければ現状が維持されるのです。
ロシアについて言えば、NATO加盟諸国との全面戦争に発展しないよう行動には細心の注意を払っています。もともと、今般のウクライナ侵攻の動機として彼は「NATOが軍備をさらに拡大し、ウクライナの領土を軍事的に開発し始めることは、私たちにとって受け入れがたい」と述べていたところ(「【演説全文】ウクライナ侵攻直前 プーチン大統領は何を語った?」2022年3月4日 18時25分)。「果たしてウクライナはロシアの縄張りなのか?」という根本的な問い(「特別軍事作戦」と称する今回の侵攻の正統性を根本から問うことになるので、ここでは論じません)は措いておくとして、これ以上の事態の拡大は望んでいないものと思われます。
このように、プエブロ号事件発生当時の朝ソ両国の事情と現代の朝ロ両国の事情には大きな違いがあります。現在、朝ロ両国は「アメリカは寄るな来るな」という点において思いは一緒です。記事は、「核保有国になった北朝鮮を攻撃できる国は世界にひとつもない」としていますが、ならばB1やB2といった戦略爆撃機まで動員したり「斬首作戦」に投入されると言われる特殊部隊をも動員したりする米韓合同軍事演習は、いったい誰を標的としているのでしょうか?
このように考えると、今回確立された朝ロ両国の同盟関係は、アメリカとその追随者たちによる自国侵略を防ぐための共同戦線であると言えるでしょう。
■世界は大韓民国中心に回っている?
記事は続いて次のように主張しています。
ウクライナ情勢において大韓民国は完全に脇役です。自分たち(大韓民国)中心で世界が回っているわけではありません。
■自分たちがブチ壊したのにこの言い草
記事のタイトルである「2018年「韓半島の春」のように忘れられるだろう」についても一言。
そもそも「韓半島の春」なるものは、過日にキム・ヨジョン同志が指摘したとおり、まったくそんなつもりのない大韓民国当局が「融和」を演出して共和国を油断させようとした非常に狡猾な謀略でした。自分たちがブチ壊したのに「2018年「韓半島の春」のように忘れられるだろう」という言い草には本当に驚きを禁じ得ません。
朝ロ間の包括的かつ戦略的なパートナーシップに関する条約■反帝自主闘争の歴史に新たな一ページが刻まれた
2024年06月20日 17:48
対外・国際
朝鮮中央通信によると、金正恩総書記とロシアのウラジーミル・V・プーチン大統領が6月19日、「朝鮮民主主義人民共和国とロシア連邦間の包括的かつ戦略的なパートナーシップに関する条約」にサインした。
条約によると、双方は、自国の法と国際的義務を考慮して、国家主権に対する相互尊重と領土の不可侵、内政不干渉、平等の原則、そして国家間の友好関係および協力に関連するその他の国際法的原則に基づいた包括的かつ戦略的なパートナーシップを恒久的に維持し、発展させる。
双方は、最高位級会談をはじめとする対話と協商を通じて二国間関係問題と相互関心事となる国際問題に対する意見を交換し、国際舞台で共同歩調と協力を強化する。
双方は、全地球的な戦略的安定と公正で平等な新しい国際秩序の樹立を志向し、互いに緊密な意思疎通を維持し、戦略的・戦術的協同を強化する。
双方のうち、一方に対する武力侵略行為が強行されうる直接的な脅威が生じる場合、双方は一方の要求に従って互いの立場を調律し、当面の脅威を除去することに協力を相互提供するための可能な実践的措置に対して合意する目的で二国間協商ルートを遅滞なく稼働させる。
双方のうち、一方が個別的な国家、または複数の国家から武力侵攻を受けて戦争状態に瀕する場合、他方は国連憲章第51条と朝鮮民主主義人民共和国とロシア連邦の法に準じて遅滞なく自国が保有している全ての手段で軍事的およびその他の援助を提供する。
(中略)
双方は、戦争を防止し、地域的および国際的平和と安全を保障するための防衛能力を強化する目的の下、共同措置を取るための制度を設ける。
双方は、相互貿易量を増やすために努力し、税関、財政・金融などの分野においての経済協力に有利な条件を整え、1996年11月28日に採択された朝鮮民主主義人民共和国政府とロシア連邦政府間の投資奨励および相互保護に関する協定に従って相互投資を奨励し、保護する。
双方は、朝鮮民主主義人民共和国とロシア連邦の特別、または自由経済地帯とそのような地帯に関与した団体に協力を提供する。
双方は、宇宙、生物、平和的原子力、人工知能、情報技術など各分野を含んで科学技術分野において交流と協力を発展させ、共同研究を積極的に奨励する。
双方は、総合的な二国間関係の拡大における特別な重要性から出発して相互関心事となる分野での地域間および辺境協力・発展を支持する。
双方は、朝鮮民主主義人民共和国とロシア連邦の地域間の直接的な連携の樹立に有利な条件を整え、企業フォーラム、討論会、展示会、商品展覧会をはじめとする地域間の共同行事を行う方法などで地域の経済および投資潜在力に対する相互理解を促進する。
双方は、農業、教育、保健、スポーツ、文化、観光などの分野における交流と協力を強化し、環境保護、自然災害防止および悪結果の除去分野で相互協力する。
(以下略)
ロシアのプーチン大統領がピョンヤンを訪問し、キム・ジョンウン同志と会談。歴史的な朝ロ包括的戦略的パートナーシップ条約が締結されました。反帝自主闘争の歴史に新たな一ページが刻まれた画期的出来事であると考えます。
プーチン大統領の訪朝に先立ち、6月18日づけ『労働新聞』は、1面上段掲載の社説(《《로동신문》사설 《로씨야련방 대통령 울라지미르 뿌찐동지를 열렬히 환영한다》》 2024년 06월 18일 09:14)で《조로인민의 선린우호관계는 공동의 원쑤를 격멸하는 투쟁과정에 전투적우의와 혈연의 뉴대로 굳게 맺어진 두 나라 혁명선렬들의 단결과 협조에 그 력사적뿌리를 두고있다.》としつつ《조로 두 나라는 주권적권리와 안전환경을 엄중히 위협하고 해치려는 미국과 그 추종세력들의 무분별한 책동에 대처하여 자위력강화에 힘을 넣으면서 협력과 의사소통, 전투적련대성을 강화하고있다.두 나라의 굳건한 단결력에 의해 세계제패를 노린 적대세력들의 악랄한 책동들은 강력히 억제당하고있다.》とした上で《두 나라 인민들사이의 깊어지는 친선과 동지적관계는 국제평화와 안전을 수호하고 다극화된 새 세계건설을 다그치는데서 믿음직한 전략적보루로, 견인기로 되고있다.》とか《우리 인민은 자주와 국제적정의를 수호하는 공동전선에서 로씨야인민과 같은 미더운 전우, 동지와 어깨겯고 싸우는것을 긍지로 여기고있다.》と指摘していました。
また1面下段ではプーチン大統領の談話が掲載(《로씨야와 조선:년대를 이어가는 친선과 협조의 전통/뿌찐대통령이 조선방문을 앞두고 글을 발표》 2024년 06월 18일 06:26)。ここでプーチン大統領は《또한 우리는 국제관계를 더욱 민주주의적이고 안정적인 관계로 만들기 위하여 밀접하게 협조할 용의가 있습니다.이를 위하여 우리는 서방의 통제를 받지 않는 무역 및 호상결제체계를 발전시키고 일방적인 비합법적제한조치들을 공동으로 반대해나갈것입니다.또한 이와 함께 유라시아에서 평등하고 불가분리적인 안전구조를 건설해나갈것입니다.》としています。共和国を持ち上げているのだとは思いますが、《우리는 조선민주주의인민공화국 인민들이 어떤 힘과 존엄,용감성을 지니고 자기의 자유와 자주권,민족적전통들을 지켜 싸우는가를 보고있습니다.》とも述べています。
ここで是非とも注目したいのはプーチン大統領の《서방의 통제를 받지 않는 무역 및 호상결제체계를 발전시키고 일방적인 비합법적제한조치들을 공동으로 반대해나갈것입니다.》(西側の統制を受けない貿易および相互決済システムを発展させ、一方的な非合法的な制限措置に共同で反対していきます)という発言です。
アメリカ帝国が世界最強でいられるのは、自国通貨であるドルが国際決済で広く使われている点に一つの要因があります。しかし、アメリカ一強体制は、自然発生的ながら確実に崩れつつあります。
たとえば、ひと昔前であればアメリカがその気になれば他国の経済基盤破壊など赤子の手を捻るが如きことだったのに、いまやロシア一国をも窒息させることはできていません。ロシアがウクライナに侵攻しアメリカを中心とする西側諸国が金融封鎖をした直後、日本メディアは「金融制裁によってロシアでインフレが止まらない! 庶民生活崩壊! ロシア経済崩壊!!」という画を撮ろうとロシア国内のスーパーマーケットなどを駆け回りましたが、結局、いい題材は見つからずじまい。いまも「アイツは死後きっと地獄に落ちるに違いない」と大して変わらないレベルの「長期的にはロシア経済は・・・」という「分析」が精々のものになっています(経済学的な意味での長期なんて、様々な要素が移ろい変わっていくんだから、今の時点では何とも言えないでしょうに)。
また先般、ウクライナのゼレンスキー大統領が提唱する「平和の公式」に沿った「平和サミット」がスイスで開催されましたが非常にお寒い結果に終わりました。共同声明の採択を優先するために内容を絞ったにもかかわらず、それでも共同声明を支持しない国が続出したからです。いわゆるグローバル・サウスの国々を中心に、米欧側でもなくロシア側でもない国が相当数あります。これらの国々は、豊かな天然資源や農業生産力、工業生産力を基盤とするロシアとの関係性も重視しているとされます。依然としてアメリカは国際金融の覇権を握っているが、それはかつてのような絶対的な強みではなくなっているのです。
プーチン大統領による今回の談話の当該部分は、アメリカ一強が自然発生的ながらも確実に崩れつつある中で、アメリカが持つ権力の源泉を突き崩さんとする目的意識的な宣言であると位置づけることができます。そしてそれは、豊かな天然資源や農業生産力そして工業生産力に依拠することで国際金融における覇権を握るアメリカの金融封鎖の中でも窒息していないロシアの現況を見るに、決して実現可能性のない願望ではありません。
今回、朝ロ両国が締結した画期的な条約は、安全保障上の協力だけでなく金融・経済上の協力についても盛り込まれています。アメリカの国際金融覇権を突き崩すことは一筋縄ではいかない難題であり過度な楽観視は厳に慎まなければなりませんが、しかしいま、世界は時代の転換点に来ていると言えると考えます。
このように考えたとき、今般の朝ロ両国の接近が西側帝国主義諸国という共通の敵との闘争構図の中に位置づけられるもの、つまり、反帝自主闘争の歴史の新たな一ページであることがよく分かるかと思います。正に《조로관계는 변화된 환경에 맞게 확실한 정치적, 법적담보를 가지고 새로운 발전궤도에 올라설수 있게 되였다.》というわけです。
■朝ロ接近の衝撃を何とか矮小化しようとしている?
朝ロ包括的戦略的パートナーシップ条約に関する反応を幾つか見ておきましょう。
分析と集約に時間が掛かってしまったので元記事が削除されてしまったのですが、朝鮮半島情勢について色々口をはさむ割には、あまり朝鮮のことを分かっていない山口亮・東京大学先端科学技術研究センター特任助教(防衛政策専門)の言説をまず取り上げましょう。彼のYahooの個人ページからアクセスしてください。
https://news.yahoo.co.jp/profile/commentator/yamaguchiryo
山口亮「この「包括的戦略パートナシップ」は同盟に近いものではあるが、日米・米韓同盟ほど深く密接したものではない」とする彼の言説は、おそらく駐日アメリカ大使こと日本総督であるラーム・エマニュエル氏が昨冬語った「お言葉」を踏まえてのものでしょう。彼は近頃、総督様の発言を踏まえて優等生っぷりをアピールしつつ、あちこちでこのような発言を繰り返して溜飲を下げているようですが、それだけ朝ロの接近を内心では苦々しく思っているのでしょう。
6/20(木) 7:28
補足
この「包括的戦略パートナシップ」は同盟に近いものではあるが、日米・米韓同盟ほど深く密接したものではない。安全保障の面においても、朝露は相互を「支援」するとのことだが、実際にどこまで体を張ってお互いを「守る」かは不明であり、軍事技術においても、本記事の通り「可能性」に留めている。このため、この「包括的戦略パートナーシップ」はどちらかというと、お互いを都合よく、打算的に利用する関係を約束したものである。
エマニュエル発言について当ブログは昨年12月8日づけ「日本「国」が精神的に独立した大人にならない限り、そして韓「国」が事大主義精神から脱しない限り、アメリカの思想的覇権が揺らぐことはないだろう」で批判したところです。すなわち、「対等な独立国家どうしなのだから当たり前」。むしろ、状況に合わせて合従連衡できるということは、それだけ自国が自主的であり独立的である証拠だとさえ言えると考えます。
「安全保障の面においても、朝露は相互を「支援」するとのことだが、実際にどこまで体を張ってお互いを「守る」かは不明」という主張については、元帥様がかつて言明されたとおり、共和国にとっての主敵は「特定の国家や勢力ではなく戦争そのもの」であります(「金正恩氏が演説「主敵は戦争そのもの」 国防力強化を正当化」2021年10月12日 13時30分)。今回の条約は、かつての朝ソ友好協力相互援助条約と似た条文だとされますが、山口氏が言うとおり実際の運用がどうなるのかはまだ分かりません。朝ソ条約のような強固な条約になるのか否かは現時点ではわかりません。しかし、いま申し上げた観点から言えば、西側諸国をして「内実はよく分からないが脅威になりうる、何だか不気味なもの」と思わしめるだけでも十分な効果があるのです。
山口氏のコメントからは、朝ロ接近の衝撃を何とか矮小化しようという意図を見て取ることができます。
■もっと反省が必要なのではないか――朝中ロ同盟の日も遠くない?
そんなことより、よりによってロシアと「北朝鮮」との接近を許してしまったことについて山口氏の立場からは猛省が必要なのではないでしょうか。
日本にとって朝ロ両国はいずれも仮想敵国ですが、それこそ山口氏が強調しているように必ずしも常に利害関係が一致している間柄ではありません。敵は必ず分割・分断して敵同士の連携を許さない――これは基本中の基本であるはず。朝ロ接近に楔を打つ程度にロシアとの独自の関係を築いておくべきだったところ、アメリカに盲従してロシアを完全なる敵としてしまった日本。グローバル・サウスの国々がいまそうしているように「ロシアのウクライナ侵攻自体は許容できず非難するが米欧諸国とも一線を画す」という独自のしたたかさが日本外交には必要でした。
いまガザ情勢を巡り国際社会の非難の声をよそにイスラエル全面支持の姿勢を鮮明にしているアメリカに対して、日本はそれとは一線を画す独自の立場を取っています。やればできるのです。ガザ情勢で発揮できた勇気をウクライナ情勢では発揮できなかったことが今日の事態を招いたわけです。
差し詰め、「今日のウクライナは、明日の台湾・沖縄」などとして対中国を念頭に置きすぎた、中国への対抗ばかりに気を取られていたがために朝ロ両国の接近を食い止めることができなかったのでしょう。「今日のウクライナは、明日の台湾・沖縄」というスローガンは、「ロシアのウクライナへの軍事的侵攻を許さない国際世論を醸成することが中国の台湾・沖縄への武力行使を防ぐためにも大切だ」という見立てに基づき、ロシアと徹底的に対決することで中国に対する「見せしめ」にすること意図していたのでしょうが、ロシアの国際的地位をナメていたと言わざるを得ません。
先般の「平和サミット」のお寒い結果が示しているとおり、国際社会は日本や米欧諸国の予想・期待に反する対応を見せています。日本や米欧諸国などがロシアを除け者にしても、それに追随する国は少数派であるわけです。こうした展開を先読みできなかったのがそもそもの間違いの発端でした。
そして、久しい以前からネット上ではロシアを「大きな北朝鮮」と揶揄する言説が散見されていますが、排除の論理で接すれば「大きな北朝鮮」と「小さな北朝鮮」が接近して「二つの北朝鮮」が生まれるのは容易に想像できるはずであるところ、外交の本番舞台で日本政府は、ネット世論のような対応をしてしまったわけです。
こうして日本政府は、ロシアの国際的地位をナメ、彼の国を「向こう側」に排除した結果、本来であれば分割・分断して連携させてはならない仮想敵国同士が強力なタッグを組むという最悪の展開を自ら引き起こしたわけです。
なお、「大きな北朝鮮」は中国を指すこともあります。このまま無反省であれば、「三つ目の北朝鮮」ができて日本が朝中ロ同盟に頭を抱える日もそう遠くはないかもしれません。
■朝ロ同盟はアメリカとその追随者たちによる自国侵略を防ぐための共同戦線
続いて大韓民国紙『中央日報』の記事から。アンドレイ・ランコフ氏の筆であるようです。
https://news.livedoor.com/article/detail/26654765/
プーチン訪朝が歴史の転換点? 2018年「韓半島の春」のように忘れられるだろうプエブロ号事件が発生した当時と現在とでは、まったく事情が異なるでしょう。
2024年6月23日 13時3分 中央日報
(中略)
筆者はこのような「画期的な変化」をもたらすと主張した事件を4〜5年ごとに1回ずつ見ているが、その中で長期的な結果を残した事件はひとつもない。最近の事例は2018年の「韓半島の春」(同年の南北首脳会談などの交流)だ。当時ソウルで韓半島はこれから永遠に違う道に進むという予測があふれた。しかしいま「韓半島の春」は忘れられてしまった。筆者が見るに、今回のプーチン氏の平壌(ピョンヤン)訪問も同様の事件、すなわちその時はとても騒がしいが数年以内に結果は特になく忘れられる事件だ。なぜそうなのか。
まず朝ロ双方は新しい条約で、侵略される場合に相互支援をするという条項を追加した。これは軍事同盟の復活だが特に新しいものではない。1961年に締結された朝ソ条約で同じ条項がすでにあったが、韓半島の状況に多くの影響を及ぼすことはできなかった。興味深いことに1968年のプエブロ号拉致事件当時、ソ連の外交官らは韓半島で戦争が勃発するならばソ連に参戦する義務はないという根拠を探した。外交官らはこの危機が北朝鮮の一方的行動のために起きたことを強調するならば危機に巻き込まれるのを回避できるという案を上部に報告した。
いまも似た状況ではないだろうか。核保有国になった北朝鮮を攻撃できる国は世界にひとつもない。反対に北朝鮮が隣国に対する侵略を敢行するならばロシアは状況によって支援することもでき支援できないこともある。北朝鮮を軍事的に支援する決定の有無は条約の内容と特に関係はない。こうした条項がなくてもロシアは自身の戦略のために北朝鮮が敢行する侵攻を支持すると決めるならば条約と関係なく北朝鮮を支援するためだ。
(以下略)
プエブロ号事件発生当時、朝ソの温度差はあまりにも明らかでした。
当時、共和国は祖国統一を熱望し武力によることも辞さない覚悟を示していました。何といっても分断国家としての兄弟国であるベトナム民主共和国(北ベトナム)が、ますます激しくなるベトナム戦争において英雄的な戦いを展開していた時期。当時首領様は、「失うものは軍事分界線、得るものは統一」と仰っていました。
他方、ソ連にとっては当時はキューバ危機を辛くも回避してデタントの流れの真っ最中。ソ連にとっては偶発的に発生したプエブロ号事件がデタントの流れに水を差すことを望んではいませんでした。
これに対して現在、朝ロ両国とも戦争はまったく望んでいません。
共和国について言えば、上述のとおり「主敵は戦争そのもの」であります。今年に入ってからは、祖国統一に関連する語句を禁句化したり、「南朝鮮」ではなく「大韓民国」と呼称することで38度線以南を彼岸化したりすることで、赤化統一への無関心を表明しています。確かに先に元帥様は「朝鮮半島で戦争が起こる場合には、大韓民国を完全に占領、平定、収復し、共和国領域に編入させる」と仰っていました。しかしそれは、あくまでも「米国と南朝鮮の連中が、もしあくまでもわれわれとの軍事的対決をもくろもうとするなら、われわれの核戦争抑止力は躊躇(ちゅうちょ)せず重大な行動に移ると厳かに宣言する」という前提つきのもの(「朝鮮労働党中央委員会第8期第9回総会拡大会議に関する報道」2024年01月01日 08:29)。アメリカとその追随者たちが余計なことをしなければ現状が維持されるのです。
ロシアについて言えば、NATO加盟諸国との全面戦争に発展しないよう行動には細心の注意を払っています。もともと、今般のウクライナ侵攻の動機として彼は「NATOが軍備をさらに拡大し、ウクライナの領土を軍事的に開発し始めることは、私たちにとって受け入れがたい」と述べていたところ(「【演説全文】ウクライナ侵攻直前 プーチン大統領は何を語った?」2022年3月4日 18時25分)。「果たしてウクライナはロシアの縄張りなのか?」という根本的な問い(「特別軍事作戦」と称する今回の侵攻の正統性を根本から問うことになるので、ここでは論じません)は措いておくとして、これ以上の事態の拡大は望んでいないものと思われます。
このように、プエブロ号事件発生当時の朝ソ両国の事情と現代の朝ロ両国の事情には大きな違いがあります。現在、朝ロ両国は「アメリカは寄るな来るな」という点において思いは一緒です。記事は、「核保有国になった北朝鮮を攻撃できる国は世界にひとつもない」としていますが、ならばB1やB2といった戦略爆撃機まで動員したり「斬首作戦」に投入されると言われる特殊部隊をも動員したりする米韓合同軍事演習は、いったい誰を標的としているのでしょうか?
このように考えると、今回確立された朝ロ両国の同盟関係は、アメリカとその追随者たちによる自国侵略を防ぐための共同戦線であると言えるでしょう。
■世界は大韓民国中心に回っている?
記事は続いて次のように主張しています。
2番目に繰り返される話はロシアが北朝鮮に軍事技術を移転することにより韓半島で戦略的なバランスを破壊しかねないという主張だ。ロシアが北朝鮮に最新軍事技術を移転するのは完全に不可能なことではないが、可能性はそれほど高くない。基本的な理由はロシアの国益だ。ボストチヌイ宇宙基地への元帥様招待に、大韓民国のウクライナへの兵器支援に対する牽制球としての意味合いは勿論あったでしょう。しかし、それは決して主たる目的だったとは言えないでしょう。両国とも公式には否定していますが、やはり、数百万発とも言われる大量の砲弾をロシアはどうしても欲しかったのが主たる動機でしょう。
(中略)
ロシアが昨年、金正恩(キム・ジョンウン)国務委員長を宇宙センターに招待しミサイル技術移転の可能性を暗示したのは事実だ。このようにした理由は何より韓国に対する外交圧力手段だった。当時ロシアは韓国が対ウクライナ殺傷武器支援を開始するならばロシアも報復措置としてミサイル技術を北朝鮮にわたすことを暗示した。しかし韓国がウクライナに殺傷武器支援をしないため、ロシアがこうした報復措置をする必要があるようにはみえない。
(以下略)
ウクライナ情勢において大韓民国は完全に脇役です。自分たち(大韓民国)中心で世界が回っているわけではありません。
■自分たちがブチ壊したのにこの言い草
記事のタイトルである「2018年「韓半島の春」のように忘れられるだろう」についても一言。
そもそも「韓半島の春」なるものは、過日にキム・ヨジョン同志が指摘したとおり、まったくそんなつもりのない大韓民国当局が「融和」を演出して共和国を油断させようとした非常に狡猾な謀略でした。自分たちがブチ壊したのに「2018年「韓半島の春」のように忘れられるだろう」という言い草には本当に驚きを禁じ得ません。
2024年06月14日
元帥様が自らを現代共産主義運動の指導者であると宣言なさった朝鮮労働党中央幹部学校の開校式
http://www.kcna.kp/jp/article/q/7cae33059835339d4d51fadf17095bc9.kcmsf
朝鮮総聯機関紙『朝鮮新報』は、電子版では6月7日・紙面版では6月10日づけコラムで「社会主義の歴史は革命を牽引する党の歴史といえる。ソ連・東欧諸国で社会主義崩壊をもたらした執権政党の変質は、かれらが革命の原則を捨て民心を裏切ることから始まった。学習は誰にとっても重要だが、特に社会主義政党の幹部は自らを絶えず修練しなければ、いつしか思想的に堕落することを肝に銘じなければならない」と指摘していますが、党中央幹部学校の重要な位置づけを非常に端的に表現しているといえるでしょう。
5月16日づけ記事は、ちょっと分かりづらいのですが、画面右上のカメラマークのアイコンをクリックすると写真のページに飛びます。全20枚の写真のうち、2枚目には、校舎に掲げられるマルクスとレーニンの肖像画が確認できます。キム・イルソン広場に掲げられていたマルクスとレーニンの肖像画が撤去されてから10年以上の歳月が過ぎましたが、久しぶりに共和国の公的施設においてマルクスとレーニンの肖像画が掲げられているのを見ました。
マルクスとレーニンの肖像画の撤去は、静かではあるが非常にインパクトのある出来事でした。
西暦1988年の建国40周年記念パレードにおいては、日本では「金日成のパレード 東欧の見た“赤い王朝”」として知られているポーランド人民共和国国営テレビ取材班作成の"Defilada"で収録されていたとおり、マルクスとレーニンの肖像画がパレードの隊列に掲げられていました。しかし、チュチェ思想のマルクス主義に対する独自性を強調するようになる西暦1990年代以降、共和国におけるマルクスやレーニンの立場は著しく低下し、彼らの肖像画が掲げられる機会は滅多になくなったものでした。数少ない例外的事象が、キム・イルソン広場のそれだったと言えるでしょう。
キム・イルソン広場のマルクスとレーニンの肖像画は、現在の対外経済省庁舎の壁に掲げられていたのですが、対外経済省庁舎はちょうど閲兵隊伍が辞去する方向に建っていたので、彼らの肖像画が映像に映り込む機会は非常に乏しいものがありました(勇ましい軍事パレードなのだから、歩兵や戦車の後ろ姿よりも銃剣や砲身を高く挙げて勇ましく進入してくるシーンを撮りたくなるのは当然でしょう)。しかし、首領様生誕100年記念閲兵式では慎重ではあるが明らかに意図的に、複数回にわたって「画にならないはず」の閲兵隊伍の辞去シーンが放映されたものでした。当時、当ブログ管理者周辺でもこのことが示す意味合いについて議論になったことを覚えています。明らかに、マルクスとレーニンの肖像画を撤去したことを内外に示す意図が込められていたものと考えられます。
それから12年が経ちました。ここにおいて、わざわざ写り込ませなくても十分に記事として成り立つはずであるところ、5月16日の記事が敢えてマルクスとレーニンの肖像画を背景に元帥様の現地指導の様子を写真に収めたことの意味合いを深く捉える必要があると考えます。また、6月2日づけ上掲引用記事が敢えて「校式は、歌「インターナショナル」の奏楽で終わった」と明記したことについても、その意味合いを深く捉える必要があるとも考えます。
先般、元帥様の肖像画が先代首領たちの肖像画と並んで掲揚されるようになったとの報道が出てきました(「北朝鮮 キム総書記の肖像画を祖父・父と並べ掲示 映像初公開」2024年5月22日 17時10分)。先代首領たちに元帥様が並ばれたわけです。
ここで重要なのが、「単なる先祖返りではない」ということです。平井久志氏は「【日本一詳しい北朝鮮分析】金正恩が「2つの朝鮮」を宣言した背景」なる長ったらしい文で「北朝鮮は、2019年2月のハノイでの米朝首脳会談の決裂以降、北朝鮮は社会主義への回帰を強め、「共産主義へ行こう!」というスローガンを叫び、住民統制を強めている」などと書き立てていますが、たとえば、長きにわたって朝鮮式社会主義の経済建設の特徴とされてきたテアンの事業体系が憲法条文から削除され、替わって社会主義企業責任管理制や社会主義的競争熱風が既定路線として定着し切っています。彼が宣う「住民統制」が具体的に何を指すのかのは明確ではありませんが、テアンの事業体系が憲法に謳われるほどの国是だった時代ではないことは、明々白々のことでありましょう。時代の要請に即した新たな政策は続いているわけです。
先代首領たちに元帥様が並ばれたことに今回の朝鮮労働党中央幹部学校の開校式を関連づけるとすれば、マルクスとレーニンの肖像画を党中央幹部学校の校舎に掲げたことを内外に示し開校式を「インターナショナル」の奏楽で終わらせたことは、元帥様は、マルクスやレーニンという共産主義運動におけるビッグネームの系譜に自らを位置づけつつ、自らを現代共産主義運動の指導者であると宣言なさったと言ってよいと考えます。このことはつまり、記事中に「(党中央幹部学校の学生たちは)偉大な金正恩総書記の革命思想でしっかり武装し、独創的な5大党建設理論と党活動の実務に精通し、赤旗と最後まで運命を共にする赤旗精神の体現者、わが党の栄光と未来をしっかり保証していくチュチェ革命の旗手となって、永遠に金日成・金正日主義偉業と党中央の指導に忠実に従うことを厳かに誓った」というくだりにも現れているとおり、元帥様がいよいよイデオロギー解釈権を確固たるものにしたことを示しているでしょう。
rodongshinmunwatching様は、5月22日づけ「2024年5月22日 党中央幹部学校の竣工式開催、金正恩の出席・演説を報道」で次のように指摘されています。
朝鮮労働党中央幹部学校の開校式が盛大に行われる朝鮮労働党中央幹部学校が大々的に開校式を迎えました。5月16日づけ「金正恩総書記が完工した朝鮮労働党中央幹部学校を現地指導」によると、最近校舎が完成したとのこと。23日づけ「金正恩総書記が朝鮮労働党中央幹部学校の建設と盛大な竣工行事を成功裏に保障した軍人建設者と設計士、芸能人と共に記念写真」によると、5月15日に続き22日にも元帥様は現地指導なさったとのこと。今回の開校式を含めると、短期間のうちに3回も訪問している点において、元帥様の党中央幹部学校に対する並々ならぬ思い入れを強く感じるところです。
金正恩総書記が意義深い記念の辞を述べ、初の講義を参観
【平壌6月2日発朝鮮中央通信】聖なる党創立理念と精神をしっかり継承してチュチェの偉業の洋々たる前途を頼もしく保証していくであろうわが党の中核幹部を育成する権威ある革命大学としての様相を最高の水準で備えた朝鮮労働党中央幹部学校が意義深い創立78周年を迎えて開校した。
朝鮮労働党中央幹部学校の開校式が6月1日、盛大に行われた。
開校式場は、党中央の大いなる信頼と全ての党員の大きな期待がこもっている世界一流の政治・思想学園で偉大な金正恩時代の党建設と党活動の真理を体得することになった学生の限りない誇りと栄誉、党の将来のための神聖な教壇を守っている教育者の崇高な使命感と感激で沸き返っていた。
朝鮮労働党総書記で朝鮮民主主義人民共和国国務委員長である敬愛する金正恩同志が、開校式に出席した。
(中略)
栄光に輝く朝鮮労働党旗の前で、李英植校長の先唱に従って全ての学生が宣誓を行った。
彼らは、偉大な金正恩総書記の革命思想でしっかり武装し、独創的な5大党建設理論と党活動の実務に精通し、赤旗と最後まで運命を共にする赤旗精神の体現者、わが党の栄光と未来をしっかり保証していくチュチェ革命の旗手となって、永遠に金日成・金正日主義偉業と党中央の指導に忠実に従うことを厳かに誓った。
開校式は、歌「インターナショナル」の奏楽で終わった。
(中略)
敬愛する金正恩総書記は、再教育講習に参加する党中央委員会政治局のメンバーに会った。
金正恩総書記は、最も正義で遠大な理想の実現へと革命を導くわが党の無比の指導力は他ならぬ党幹部陣容の能力と質的水準にかかっていると述べ、全ての幹部、特に党中央指導機関のメンバーから党性、革命性の鍛錬の溶鉱炉である党学校で定期的な再教育を受けて政治的・思想的に絶え間なく鍛錬、修養し、活動方法と作風を不断に革新していくのは全党の強化において非常に意義ある工程であると語った。
金正恩総書記は、党中央委員会政治局のメンバーが全校に革命的な学習気風、厳格な校風を立てる上でも手本となり、かがみとなるべきだと述べ、全党を闘う党に、活動する党にだけでなく学習する党にする時、朝鮮労働党は名実共に政治的に円熟であり、組織的に強固であり、思想的に純潔であり、規律において厳格であり、作風において健全である最も尊厳ある社会主義政権党の威容を引き続き力強く宣揚するであろうと述べた。
敬愛する金正恩総書記は、再教育講習を受ける学生の初の講義を参観した。
金正恩総書記は、講義の全過程を注意深く聴講し、史上類例のない困難で厳しい朝鮮革命の初期に誕生して強化され、その不滅の生命力を余すところなく発揮するチュチェの革命思想は、先行した理論の制約と未決課題を完璧(かんぺき)に解決した偉大な革命学説、永遠なる万能の革命大綱であると述べた。
金正恩総書記は、中央幹部学校の使命と任務、時代の要求に即して党性の鍛錬を基本にしながら原理教育と実践教育を円滑に行えるように教育の綱領を深化させて確実に実行し、全ての教育過程と日常生活が学生をして党活動、革命活動に必要な思想的・精神的糧を絶えず摂取し、共産主義者の品性を自分のものにしていく立派な講義になるようにしなければならないと述べた。
金正恩総書記は、社会政治学博士であり副教授である金日成・金正日主義基本講座の教員チュ・イルウンさんの講義水準がとても高い、われわれの党思想理論の代弁者としての実力を持っていると高く評価し、学校は全ての教員と研究士の水準を絶え間なく向上させるための旋風を巻き起こして高い教育者的水準と実力で学生を真の革命家、熱烈な愛国者、真の人間としての品格を完璧に備えるように教育する上で一大革命を起こさなければならないと強調した。
朝鮮総聯機関紙『朝鮮新報』は、電子版では6月7日・紙面版では6月10日づけコラムで「社会主義の歴史は革命を牽引する党の歴史といえる。ソ連・東欧諸国で社会主義崩壊をもたらした執権政党の変質は、かれらが革命の原則を捨て民心を裏切ることから始まった。学習は誰にとっても重要だが、特に社会主義政党の幹部は自らを絶えず修練しなければ、いつしか思想的に堕落することを肝に銘じなければならない」と指摘していますが、党中央幹部学校の重要な位置づけを非常に端的に表現しているといえるでしょう。
5月16日づけ記事は、ちょっと分かりづらいのですが、画面右上のカメラマークのアイコンをクリックすると写真のページに飛びます。全20枚の写真のうち、2枚目には、校舎に掲げられるマルクスとレーニンの肖像画が確認できます。キム・イルソン広場に掲げられていたマルクスとレーニンの肖像画が撤去されてから10年以上の歳月が過ぎましたが、久しぶりに共和国の公的施設においてマルクスとレーニンの肖像画が掲げられているのを見ました。
マルクスとレーニンの肖像画の撤去は、静かではあるが非常にインパクトのある出来事でした。
西暦1988年の建国40周年記念パレードにおいては、日本では「金日成のパレード 東欧の見た“赤い王朝”」として知られているポーランド人民共和国国営テレビ取材班作成の"Defilada"で収録されていたとおり、マルクスとレーニンの肖像画がパレードの隊列に掲げられていました。しかし、チュチェ思想のマルクス主義に対する独自性を強調するようになる西暦1990年代以降、共和国におけるマルクスやレーニンの立場は著しく低下し、彼らの肖像画が掲げられる機会は滅多になくなったものでした。数少ない例外的事象が、キム・イルソン広場のそれだったと言えるでしょう。
キム・イルソン広場のマルクスとレーニンの肖像画は、現在の対外経済省庁舎の壁に掲げられていたのですが、対外経済省庁舎はちょうど閲兵隊伍が辞去する方向に建っていたので、彼らの肖像画が映像に映り込む機会は非常に乏しいものがありました(勇ましい軍事パレードなのだから、歩兵や戦車の後ろ姿よりも銃剣や砲身を高く挙げて勇ましく進入してくるシーンを撮りたくなるのは当然でしょう)。しかし、首領様生誕100年記念閲兵式では慎重ではあるが明らかに意図的に、複数回にわたって「画にならないはず」の閲兵隊伍の辞去シーンが放映されたものでした。当時、当ブログ管理者周辺でもこのことが示す意味合いについて議論になったことを覚えています。明らかに、マルクスとレーニンの肖像画を撤去したことを内外に示す意図が込められていたものと考えられます。
それから12年が経ちました。ここにおいて、わざわざ写り込ませなくても十分に記事として成り立つはずであるところ、5月16日の記事が敢えてマルクスとレーニンの肖像画を背景に元帥様の現地指導の様子を写真に収めたことの意味合いを深く捉える必要があると考えます。また、6月2日づけ上掲引用記事が敢えて「校式は、歌「インターナショナル」の奏楽で終わった」と明記したことについても、その意味合いを深く捉える必要があるとも考えます。
先般、元帥様の肖像画が先代首領たちの肖像画と並んで掲揚されるようになったとの報道が出てきました(「北朝鮮 キム総書記の肖像画を祖父・父と並べ掲示 映像初公開」2024年5月22日 17時10分)。先代首領たちに元帥様が並ばれたわけです。
ここで重要なのが、「単なる先祖返りではない」ということです。平井久志氏は「【日本一詳しい北朝鮮分析】金正恩が「2つの朝鮮」を宣言した背景」なる長ったらしい文で「北朝鮮は、2019年2月のハノイでの米朝首脳会談の決裂以降、北朝鮮は社会主義への回帰を強め、「共産主義へ行こう!」というスローガンを叫び、住民統制を強めている」などと書き立てていますが、たとえば、長きにわたって朝鮮式社会主義の経済建設の特徴とされてきたテアンの事業体系が憲法条文から削除され、替わって社会主義企業責任管理制や社会主義的競争熱風が既定路線として定着し切っています。彼が宣う「住民統制」が具体的に何を指すのかのは明確ではありませんが、テアンの事業体系が憲法に謳われるほどの国是だった時代ではないことは、明々白々のことでありましょう。時代の要請に即した新たな政策は続いているわけです。
先代首領たちに元帥様が並ばれたことに今回の朝鮮労働党中央幹部学校の開校式を関連づけるとすれば、マルクスとレーニンの肖像画を党中央幹部学校の校舎に掲げたことを内外に示し開校式を「インターナショナル」の奏楽で終わらせたことは、元帥様は、マルクスやレーニンという共産主義運動におけるビッグネームの系譜に自らを位置づけつつ、自らを現代共産主義運動の指導者であると宣言なさったと言ってよいと考えます。このことはつまり、記事中に「(党中央幹部学校の学生たちは)偉大な金正恩総書記の革命思想でしっかり武装し、独創的な5大党建設理論と党活動の実務に精通し、赤旗と最後まで運命を共にする赤旗精神の体現者、わが党の栄光と未来をしっかり保証していくチュチェ革命の旗手となって、永遠に金日成・金正日主義偉業と党中央の指導に忠実に従うことを厳かに誓った」というくだりにも現れているとおり、元帥様がいよいよイデオロギー解釈権を確固たるものにしたことを示しているでしょう。
rodongshinmunwatching様は、5月22日づけ「2024年5月22日 党中央幹部学校の竣工式開催、金正恩の出席・演説を報道」で次のように指摘されています。
同校の新たな発足を契機として、自身を金日成・金正日のみならず、マルクス・レーニンの延長線上に、彼らと同等の存在として位置づけた上で、「新たな時代」の「環境・条件」が過去とは異なるものであることを強調し、それに即して自分が提示した路線(党建設5大方針など)を党活動の基調として徹底させていくことであろう。それは、要するに、党の「首領」としての自らの立場を確立することともいえよう同感です。
2024年06月12日
これで一体何回目?
https://news.yahoo.co.jp/articles/b8acbf38f794ed63213237a45efa35193763c80f
少し前の記事になりますが、興味深い記事があります。
https://news.yahoo.co.jp/articles/41001a207613b97639059ed5246a0d26df54f3dd
しかしながら、我らが国策報道機関・プロパガンダマシンであるNHKは本件を次のように報じています。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240612/k10014477991000.html
ベトナムは歴史的経緯もあって強固な反中国家。ベトナム人民軍の士官候補生が日本の防衛大学校に留学していることからも明らかであるとおり、日本にとってベトナムは対中同盟国という扱いであります。それゆえ、流石に朝露接近と同じ調子で、招請に応える形でのプーチン大統領のベトナム訪問について「ならず者どうしの接近・結託」とは書き立てられなかったのでしょう。
自分たちが描き上げた筋書に沿わない現実が発生するや否や頬かむりする――国策報道機関・プロパガンダマシンとしてのNHKが、ロシアのウクライナ侵攻に際して繰り返してきた取り繕いが再び展開されたわけです。これで一体何回目?
プーチン大統領、数週間内に訪朝へ 19日にベトナム訪問観測プーチン大統領の共和国訪問は、最近の朝露関係深化の一環として位置づけることができますが、ではベトナム訪問に象徴される越露関係の現在位置は一体どういった状況にあると考えられるでしょうか?
6/10(月) 14:53配信
ロイター
[モスクワ/ハノイ 10日 ロイター] - ロシア紙ベドモスチは10日、プーチン大統領が数週間以内に北朝鮮とベトナムを訪問する予定だと報じた。当局者によると、ベトナム訪問は19−20日の予定だがまだ確認されていない。
ロシアのマツェゴラ駐北朝鮮大使が同紙に、プーチン氏訪朝の準備が進められていると述べた。
一方、ベトナムでは当局者がロイターに対し、訪問日程では合意がまとまったが、協議のテーマは調整中だと述べた。エネルギー、軍事協力、支払い決済、教育分野での合意などが主な議題になる見通しという。ベトナム外務省のコメントは得られていない。
(以下略)
少し前の記事になりますが、興味深い記事があります。
https://news.yahoo.co.jp/articles/41001a207613b97639059ed5246a0d26df54f3dd
プーチンに来訪を招請、ベトナムは「ロシアがウクライナに勝利」を確信かビングループの主席経済顧問が見抜いている事情を「今日のウクライナは明日の台湾・沖縄」と繰り返している手合いが見抜けていないはずがありません。ベトナムのグエン・フー・チョン書記長が3月の時点でプーチン大統領の訪越を要請し、この度、実現することの意味合いは非常に大であると言えます。
5/19(日) 12:02配信
JBpress
(川島 博之:ベトナム・ビングループ、Martial Research & Management 主席経済顧問)
2024年3月26日、ベトナムのグエン・フー・チョン書記長はロシアのプーチン大統領と電話会談して、ベトナム訪問を招請した。プーチンは喜んで応じると回答し、その時期は両国で調整することになった。
5月16日から17日にかけてプーチンが中国を訪問することが決まると、ベトナムでは中国訪問の後にハノイに立ち寄るのではないかとの観測が流れた。だが、今回は見送られた。ベトナム訪問は6月になると見られている。
■ 中世のイタリアで中立を決め込んだ国の末路とは
プーチンのベトナム訪問はベトナムの国際社会での立ち位置の変更につながるとともに、ロシア外交にとっては大きな成果になる。
ベトナムはロシアとウクライナの両国と良好な関係を築いていた。ベトナムは兵器の多くを旧ソ連の時代からロシアに依存している。ベトナム戦争に勝利できたのはソ連のおかげと言ってもよい。また、旧ソ連の一部であったことからウクライナに留学した人も多い。筆者が顧問をしているビングループのファム・ニャット・ブオン会長もウクライナに留学している。そのような事情もあって、ベトナムはウクライナ戦争に対して中立を決め込んできた。
そのベトナムがプーチンの訪越を招請した。それは立場の変更を意味する。
戦争が起きた時に、どちらに付くかは善悪や正義の問題ではない。勝つ方に付かなければならない。戦いが終わってから旗色を鮮明にしても、勝った国から冷たく扱われるだけだ。国益を大きく毀損する。マキャベリはそのような外交では身を滅ぼすと500年も前に警告している。中世のイタリアでは、中立だった国は勝った国に攻め滅ぼされてしまった。
全方位外交を標榜するベトナムは500年前のマキャベリの忠告に忠実に従った。ベトナムはウクライナ戦争がロシアの勝利で終わると確信したということだ。
(中略)
■ 「西側からの孤立」というリスクも
ベトナム戦争を戦い抜いたベトナム国防省は、世界のどの国よりも、この辺りの事情を身体感覚で分析することができる。この戦争はロシアの勝利で終わる。それならば、早い時期にロシア側に付くべきだ──。ベトナムがプーチンにハノイ訪問を要請した真の理由である。
プーチンはベトナムからの招請を喜んでいる。戦争犯罪者に指名されている身であり、不用意に他国を訪問することはできない。そのような状況下で、全方位外交を標榜している国がプーチンの訪問を要請したのである。プーチンがベトナムを訪問すれば、これまで中立を保ってきた多くの開発途上国はその外交姿勢を再検討することになるだろう。
ベトナムはいち早く勝ち馬に乗ることによって、今後のロシア外交を有利に運ぼうとしている。その一方で米国との関係は悪化する。ベトナムは半導体産業の分野で米国からの投資を強く望んでおり、それが昨年夏のバイデン訪越につながった。ベトナム戦争以来冷めていた米越関係を少しでも改善させようとしているが、そんな努力をプーチンのハノイ訪問は台無しにしてしまう。それは長期的に見た時、ベトナムの国益を大きく損なう。だが、ベトナムはそれでもよいと判断したようだ。
ベトナムはその歴史において何度も中国の侵略を受けてきた。その結果、ベトナム外交は経済よりも安全保障を重視している。少々米国の機嫌を損じても、中国の潜在的な敵であるロシアに近付くことは安全保障につながる。
ベトナムは、中国とロシアがいかに友好を演出しようと、本当は仲が悪いことを知っている。ベトナムがロシアと良好な関係を有している限り、中国はベトナムに手を出しにくい。
四方を海で囲まれて少々のことでは侵略されることのない日本と異なり、中国と陸路で接するベトナムは現実の脅威と戦っている。そんなベトナムは安全保障を重視していち早く勝ち馬に乗った。
しかし、その判断は「西側からの孤立」というリスクもはらんでいる。
プーチン訪越の要請が吉と出るか凶と出るかは、もう少し時間が経過してみなければ分からない。いずれにせよベトナムはウクライナ戦争後を見据えて大きく動き始めた。
しかしながら、我らが国策報道機関・プロパガンダマシンであるNHKは本件を次のように報じています。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240612/k10014477991000.html
“プーチン大統領 来週前半にも北朝鮮訪問へ調整” 外交関係者プーチン大統領の招請に基づくベトナム訪問を明らかに小さく扱っています。プーチン大統領の共和国訪問を「ならず者どうしが接近・結託した」と言わんばかりの筆致で書き立てておきながら!
2024年6月12日 0時58分
ロシアのプーチン大統領が来週前半にも北朝鮮を訪問する方向で調整が進められていると複数の外交関係者が明らかにしました。プーチン大統領が北朝鮮を訪問すれば24年ぶりとなり、ロシアとしてはウクライナ侵攻が長期化する中、軍事的な連携をいっそう強めたいねらいもあるとみられます。
(中略)
ロシアはウクライナへの軍事侵攻が長期化し、兵器不足に陥る中で北朝鮮から砲弾などを調達しているとされ、プーチン大統領は北朝鮮を訪問してキム総書記と会談するなどして軍事的な連携をいっそう強めたいねらいもあるとみられます。
一方、北朝鮮は先月27日に軍事偵察衛星の打ち上げに失敗したばかりで、ロシアから軍事や宇宙分野などで技術支援をさらに受けたいねらいもあるとみられます。
また、外交関係者は、プーチン大統領は来週後半を軸にベトナムを訪問する方向でも調整が進められていると明らかにし、プーチン大統領が北朝鮮とベトナムを相次いで訪問する可能性も出ています。
ベトナムは歴史的経緯もあって強固な反中国家。ベトナム人民軍の士官候補生が日本の防衛大学校に留学していることからも明らかであるとおり、日本にとってベトナムは対中同盟国という扱いであります。それゆえ、流石に朝露接近と同じ調子で、招請に応える形でのプーチン大統領のベトナム訪問について「ならず者どうしの接近・結託」とは書き立てられなかったのでしょう。
自分たちが描き上げた筋書に沿わない現実が発生するや否や頬かむりする――国策報道機関・プロパガンダマシンとしてのNHKが、ロシアのウクライナ侵攻に際して繰り返してきた取り繕いが再び展開されたわけです。これで一体何回目?
2024年05月21日
選挙軽視の日本精神・日本的世界観について
https://news.yahoo.co.jp/articles/b2b1e2aa2c695a8e4637050c602018304bd4e95f
これは、「たとえ戦時下でも選挙を行うべきだ」というほどに米欧諸国にとっては選挙が政治的な正統性の確保において重要なのだということに由来しているでしょう。王権神授説を社会契約説に転換することで成立した米欧諸国の現体制。選挙こそが政権の正統性の源泉です。とりわけ、「民主主義と権威主義との戦い」なる構図をロシアのウクライナ侵攻に当て嵌めている米欧諸国としては、先に大統領選挙を実施したロシアとの対立軸を鮮明化するためには、ウクライナにおいてもロシアでのそれを上回るレベルの「民主」的な選挙を行う必要があるわけです。
「よって、法制度上はゼレンスキー大統領が任期満了後も戒厳令が続く限り続投しても何も問題がありません。正当性論争はロシアが流した言い掛かりのプロパガンダに過ぎず、相手にする必要が無い」と言い放ったJSF氏。「法律でこうなっている」と言えばどんなに理不尽な規定でもスゴスゴと引き下がる日本人の典型的な、国際感覚からズレた反応のサンプルであるように思われます。
ところで、王権神授説から社会契約説への思想革命の意義は、政治権力の正統性の源泉を生身の人間に求めたところにあると言えます。社会契約に基づいて形成された秩序である法が人間同士の社会的関係を規定していますが、このことはすなわち、人間同士の社会的関係は、生身の人間自身によって規定されることを意味します。
山本栄二『北朝鮮外交回顧録』筑摩書房(2022)のp29によると、金丸訪朝団に対して首領様は「第十八富士丸の問題については、よくわかりました。法は人間が作るものです。協議すれば解決できると思う。お二人を満足させることができると思う」とおっしゃったとのこと。また、同書p23によると、キム・ヨンスン同志は、外交「慣例」を墨守せんとする日本外務省の姿勢について「国際法、法律は国と国との関係を発展させるためにある。法律に従属させられたら困る。とりあえず善意を見せる何らかが必要である」と述べたそうです。首領様が創始なさったチュチェ思想は「人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定する」という哲学的原理に立脚しています。なお、同書によると金丸氏は概ね共和国側の主張・立場に同感だったそう。「お利口さん」が増えた今日、金丸氏のような胆力のある政治家はもう日本には現れないでしょうね。
チュチェ思想の社会政治的生命体論と米欧流の社会契約説はもちろん大きく異なるものです。しかし、生身の人間が目下直面した課題を解決するために柔軟な対応を必要としているときに、過去に直面した必要性によって作り置きしておいたモノに過ぎない「法」を金科玉条のごとく守ることを要求し、結果として法によって生身の人間が苦しむという本末転倒を平気で行う日本精神との対比においては、チュチェ思想の社会政治的生命体論と米欧流の社会契約説は「生身の人間中心」という点において通ずるものがあるように思われます。
チュチェ思想派として当ブログは、生身の人間を中心にして世界に対応するという観点が日本精神には些か不足していると考えます。自然と人間を対立構図にせず一体的に把握する日本的世界観は、米欧的世界観と対比するに、ある局面においては有用なこともありますが、こういう場合には生身の人間を中心にすることを貫徹できない点において、著しい不足が顕わになると考えます。
ゼレンスキー氏、大統領任期が満了 選挙先送りで「正統性」論争もコメント欄。
5/19(日) 13:42配信
毎日新聞
ウクライナのゼレンスキー大統領は20日、2019年から5年間の任期の満了日を迎える。ロシアの侵攻が続く中で、今年3月に実施予定だった大統領選は先送りされ、実施のめどは立っていない。ゼレンスキー氏は暫定大統領として職務を続ける見通しだが、その「正統性」が論争となっている。
(以下略)
JSFなるほど。ウクライナ法の条文上は確かにそのとおりなのでしょう。ではなぜ、ウクライナのパトロンである米欧諸国は「ウクライナの民主主義を示すべき」として大統領選挙の実施を働きかけたのでしょうか?(「ゼレンスキー氏、来春の大統領選延期を示唆 「適切な時期ではない」」毎日新聞 2023/11/8 05:10)
軍事/生き物ライター
解説
ウクライナ法「戒厳令の法制度について」の第11条「戒厳令下のウクライナ大統領の活動」の3「戒厳令中にウクライナ大統領の任期が満了した場合、その権限は、戒厳令解除後に選出された新たなウクライナ大統領が就任するまで延長される。」
よって、法制度上はゼレンスキー大統領が任期満了後も戒厳令が続く限り続投しても何も問題がありません。正当性論争はロシアが流した言い掛かりのプロパガンダに過ぎず、相手にする必要が無いのです
これは、「たとえ戦時下でも選挙を行うべきだ」というほどに米欧諸国にとっては選挙が政治的な正統性の確保において重要なのだということに由来しているでしょう。王権神授説を社会契約説に転換することで成立した米欧諸国の現体制。選挙こそが政権の正統性の源泉です。とりわけ、「民主主義と権威主義との戦い」なる構図をロシアのウクライナ侵攻に当て嵌めている米欧諸国としては、先に大統領選挙を実施したロシアとの対立軸を鮮明化するためには、ウクライナにおいてもロシアでのそれを上回るレベルの「民主」的な選挙を行う必要があるわけです。
「よって、法制度上はゼレンスキー大統領が任期満了後も戒厳令が続く限り続投しても何も問題がありません。正当性論争はロシアが流した言い掛かりのプロパガンダに過ぎず、相手にする必要が無い」と言い放ったJSF氏。「法律でこうなっている」と言えばどんなに理不尽な規定でもスゴスゴと引き下がる日本人の典型的な、国際感覚からズレた反応のサンプルであるように思われます。
ところで、王権神授説から社会契約説への思想革命の意義は、政治権力の正統性の源泉を生身の人間に求めたところにあると言えます。社会契約に基づいて形成された秩序である法が人間同士の社会的関係を規定していますが、このことはすなわち、人間同士の社会的関係は、生身の人間自身によって規定されることを意味します。
山本栄二『北朝鮮外交回顧録』筑摩書房(2022)のp29によると、金丸訪朝団に対して首領様は「第十八富士丸の問題については、よくわかりました。法は人間が作るものです。協議すれば解決できると思う。お二人を満足させることができると思う」とおっしゃったとのこと。また、同書p23によると、キム・ヨンスン同志は、外交「慣例」を墨守せんとする日本外務省の姿勢について「国際法、法律は国と国との関係を発展させるためにある。法律に従属させられたら困る。とりあえず善意を見せる何らかが必要である」と述べたそうです。首領様が創始なさったチュチェ思想は「人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定する」という哲学的原理に立脚しています。なお、同書によると金丸氏は概ね共和国側の主張・立場に同感だったそう。「お利口さん」が増えた今日、金丸氏のような胆力のある政治家はもう日本には現れないでしょうね。
チュチェ思想の社会政治的生命体論と米欧流の社会契約説はもちろん大きく異なるものです。しかし、生身の人間が目下直面した課題を解決するために柔軟な対応を必要としているときに、過去に直面した必要性によって作り置きしておいたモノに過ぎない「法」を金科玉条のごとく守ることを要求し、結果として法によって生身の人間が苦しむという本末転倒を平気で行う日本精神との対比においては、チュチェ思想の社会政治的生命体論と米欧流の社会契約説は「生身の人間中心」という点において通ずるものがあるように思われます。
チュチェ思想派として当ブログは、生身の人間を中心にして世界に対応するという観点が日本精神には些か不足していると考えます。自然と人間を対立構図にせず一体的に把握する日本的世界観は、米欧的世界観と対比するに、ある局面においては有用なこともありますが、こういう場合には生身の人間を中心にすることを貫徹できない点において、著しい不足が顕わになると考えます。
2024年04月28日
「何をいまさら。個人ブログじゃないんだから・・・」と言わざるを得ない共同通信の「北朝鮮ネタ」記事から見えること、そしてこれから
https://news.yahoo.co.jp/articles/6c22f7f00232b61e41ca3ced622857b012570f2e
また、「ニュース番組では金氏に「同志」を付けて呼ぶのに対し、この歌は「金正恩」と異例の呼び捨てだ」と書き立てていますが、キム・ジョンイル同志を称える《친근한 이름》も《노래하자 김정일 우리의 지도자 자랑하자 김정일 친근한 이름》としていたので、異例でも何でもありません。うろ覚えですが、たしかアリラン祭か何かの人文字でも「キム・ジョンイル 社会主義の守護者」というのがあった記憶が・・・
共同通信編集部を敢えて弁護するなら、日本の一般大衆・日本世論は共和国情勢にそこまで興味がないので商業メディアとして注目していられないし、日本世論には「北朝鮮で指導者を呼び捨てにしたら、どんな事情があれ間違いなく死刑」という通念があるので「異例」と書いたといったところになるでしょうか。
たしかに、いわゆる「核・ミサイル問題」について日本の一般大衆・日本世論は「北朝鮮の技術力じゃ、どこに飛ぶか分からないから」といった理由で自分事として捉えているフシがありますが、それ以外の「北朝鮮ネタ」は、世論はそこまで関心事とはしておらず、メディアが執拗に取り上げるから辛うじて世論の関心が保たれているだけであるようにも思われます。ひと昔前と比べると、共和国に対するアレルギー反応は、無関心化という意味で薄れつつあるようにも思われます。
この上なく悪化している朝日関係は一旦リセットする必要があると当ブログは考えます。
先般、キム・ヨジョン同志は、岸田総理の淡い期待を打ち砕く談話において「私たちの核・ミサイル開発は、あなたたちには何の関係もないでしょ!」(=共和国の核・ミサイル開発は、アメリカへの対抗のためのもの)と言明しました。日本の一般大衆・日本世論にとっての懸案である「核・ミサイル問題」は、そもそも日本向けではありません(だいたい、最前線たる日本海側に原子力発電所を並べておいて何をいまさら・・・)。
今般の「関心の薄れ」をスタートラインとしてどのように策を講じてゆくべきかを考える時期に来ていると思います。
「金正恩」敬称付けず歌唱 北朝鮮テレビ、親しみ演出か日本大学の川口智彦氏は、既に17日の時点で日本語テロップまで付けてYouTube動画を公開しているところですが、まるで「ここ二・三日で初めて判明しました!」と言わんばかりの筆致。個人ブログじゃないんだから・・・
4/28(日) 15:13配信
共同通信
【北京共同】北朝鮮の国営テレビが今月、金正恩朝鮮労働党総書記の新しい歌の放映を始めた。ニュース番組では金氏に「同志」を付けて呼ぶのに対し、この歌は「金正恩」と異例の呼び捨てだ。北朝鮮に詳しい専門家は28日「親しみやすい国父」のように演出し、民衆の統率を図る狙いがあるとの見方を示した。
(以下略)
また、「ニュース番組では金氏に「同志」を付けて呼ぶのに対し、この歌は「金正恩」と異例の呼び捨てだ」と書き立てていますが、キム・ジョンイル同志を称える《친근한 이름》も《노래하자 김정일 우리의 지도자 자랑하자 김정일 친근한 이름》としていたので、異例でも何でもありません。うろ覚えですが、たしかアリラン祭か何かの人文字でも「キム・ジョンイル 社会主義の守護者」というのがあった記憶が・・・
共同通信編集部を敢えて弁護するなら、日本の一般大衆・日本世論は共和国情勢にそこまで興味がないので商業メディアとして注目していられないし、日本世論には「北朝鮮で指導者を呼び捨てにしたら、どんな事情があれ間違いなく死刑」という通念があるので「異例」と書いたといったところになるでしょうか。
たしかに、いわゆる「核・ミサイル問題」について日本の一般大衆・日本世論は「北朝鮮の技術力じゃ、どこに飛ぶか分からないから」といった理由で自分事として捉えているフシがありますが、それ以外の「北朝鮮ネタ」は、世論はそこまで関心事とはしておらず、メディアが執拗に取り上げるから辛うじて世論の関心が保たれているだけであるようにも思われます。ひと昔前と比べると、共和国に対するアレルギー反応は、無関心化という意味で薄れつつあるようにも思われます。
この上なく悪化している朝日関係は一旦リセットする必要があると当ブログは考えます。
先般、キム・ヨジョン同志は、岸田総理の淡い期待を打ち砕く談話において「私たちの核・ミサイル開発は、あなたたちには何の関係もないでしょ!」(=共和国の核・ミサイル開発は、アメリカへの対抗のためのもの)と言明しました。日本の一般大衆・日本世論にとっての懸案である「核・ミサイル問題」は、そもそも日本向けではありません(だいたい、最前線たる日本海側に原子力発電所を並べておいて何をいまさら・・・)。
今般の「関心の薄れ」をスタートラインとしてどのように策を講じてゆくべきかを考える時期に来ていると思います。
2024年04月15日
岸田従米内閣を乗り越えて自主独立の日本へ:キム・イルソン同志生誕記念
http://www.kcna.kp/jp/article/q/afd3fbcdfe899546778628a40c12ad3b.kcmsf
首領様の業績は数多ありますが、その最大級の業績のひとつとして偉大なチュチェ思想の創始があることは間違いのないことと考えます。上掲記事にもあるとおり、「朝鮮を自主、自立、自衛の社会主義国家に建設」なさったことは不滅の功績であります。冷戦期、朝鮮民主主義人民共和国は西側諸国との関係においてはソ連や中国などと概ね足並みをそろえてきましたが、しかし、東欧諸国がソ連に服従していたのとは決定的に異なり、朝鮮民主主義民主主義共和国は、東側陣営に属しつつも決して大国に平伏すことなく、あくまでも自主独立路線を歩んできました。
朝鮮民主主義人民共和国が今日も自主の旗印を高く掲げつづけられる確固たる思想的支柱を生涯をかけて構築なさった偉大な首領様。とりわけ、ご立派な理論に基づく演繹的方法で構築された思想ではなく、実践すなわち事実から出発することによる帰納的方法で構築された思想である点に当ブログは、チュチェ思想の生命力があると考えます。そしてその生命力は、米欧帝国主義諸国の覇権が日を追うごとに揺るぎつつある今日では、ますます輝いていると言えるでしょう。
翻って我らがニッポン。先般、岸田文雄総理大臣はアメリカ様を訪問し、恥も外聞もない媚び諂い:全面的隷属の姿を全世界に見せつけました。仮に日本がアメリカと「自由と民主主義」なる価値観を完全に共有しているとしても、日本は日本なりに自分自身の思索と責任において「自由と民主主義」を解釈し、己が信じる道に従って外交を展開する(場合によってはアメリカの解釈と異なることもあり得る)と宣言すべきところ、アメリカと完全に足並みを揃えると言明してしまいました。岸田文雄という人物の辞書には「自主」という言葉は収録されていないようです。
無理もないでしょう。自民党の政党支持率は依然として他党を引き離して高水準を維持していますが、岸田内閣の支持率は危険水準に達しています。総理大臣たることが政治家としての目的であると見なさざるを得ない岸田総理(※)が、自民党の政党支持率が依然として他党を引き離して高水準を維持しているからといって満足・安心はしないでしょう。そのわりに内閣支持率浮上のために施策を展開しているようには見えません。どうも岸田総理に危機感が感じられないのです。
※安倍元総理や菅前総理を見るに、彼らは曲がりなりにも「自分の内閣でやりたいこと」がありました。新型コロナウイルス禍で尻切れトンボになってしまいましたが、政権末期まで「やりたいこと」は一応掲げられていたものです。これに対して岸田総理は就任当初に「新しい資本主義」なる御題目を唱え、最近も「新しい資本主義実現会議」を開いてはいるようですが、まるで話題にならないし、自分から話題にしようという意欲も感じられません。総理大臣として何がしたいのかまったく不明なのが岸田文雄という人物であり、彼をカシラとする岸田内閣であると言わざるを得ません。
おそらく岸田総理は、アレコレ施策を展開する必要がないと考えているのでしょう。その理由は、アメリカの信任があるからに他ならないでしょう。防衛費総額43兆円支出という大盤振る舞いを打ち出せば、アメリカ様は評価なさるでしょう。アメリカ様の信任がある限りは、世論の歓心を買うための国内政策に奔走せずとも自分の地位は安泰だという目論見があるものと考えられます(定額減税なるケチ臭いことで世論の歓心を買えると思っているとは、いくら何でも考えにくいものです)。まさに「自分の、自分による、自分のための政治」――これが岸田政治であり、岸田従米内閣の本質であると考えます。従米姿勢は自分の地位保全のための戦略に過ぎないのです。
当ブログは、チュチェ思想を指針として日本の自主化を目指す立場を取っています。日本が当面の間、西側諸国に属し続けることは、政治的・経済的・軍事的・思想的な現実を鑑みるに致し方ないことであると言わざるを得ません。しかしながら、自主独立路線に少しでも近づくべく努力しなければならないと考えます。旧東側陣営の確固たる一員でありつつも自主独立路線を徹底したキム・イルソン同志の施政をいまこそ見習い、岸田従米内閣を乗り越えて自主独立の日本を一日も早く実現する必要があります。
自主と正義、人類の未来に関するチュチェ思想国際討論会今日は4月15日、偉大な首領:キム・イルソン同志の生誕記念日です!
【平壌4月15日発朝鮮中央通信】金日成主席の生誕112周年に際してチュチェ思想国際研究所と朝鮮社会科学者協会の共催によって自主と正義、人類の未来に関するチュチェ思想国際討論会が14日、朝鮮民主主義人民共和国の首都平壌で行われた。
(中略)
マッテオ・カルボネリ副理事長が基調報告を行った。
報告者は、一生、チュチェ思想を革命と建設にしっかり具現して朝鮮を自主、自立、自衛の社会主義国家に建設し、反帝・自主偉業の勝利的前進のために全てをささげた金日成主席と金正日国防委員長の不滅の業績を熱烈にたたえた。
また、偉大な金日成・金正日主義の本質を人民大衆第一主義に定式化し、全面的国家興隆の新時代を開き、国際的正義を実現するための進歩的人類の闘いを主導していく敬愛する金正恩総書記の偉人像を激賞した。
そして、最悪の逆境の中でも世人が驚嘆する奇跡を次々と生み出し、世界の唯一無二の一心団結の国、社会主義のとりで、名実相伴う強国として尊厳と地位を世界にとどろかしている朝鮮の姿は世界の革命的人民に大きな信念と勇気を与えていると強調した。
さらに、チュチェ思想に対する信奉熱気は世界的範囲で一層強烈になっていると述べ、偉大な時代思想が指し示す道に沿って反帝・自主勢力が団結した力をもって進む時、世界の自主化偉業の勝利は早められるであろうと確言した。
(中略)
各討論者は、自主だけが民族が生きる道であり、国が繁栄することのできる道であるということは歴史が証明した真理であると言い、自主性を堅持してこそ民族の真の尊厳も、次世代の幸せな未来も保証されると述べた。
また、自主と平和、友好の理念の下で正義を志向する全ての国との連帯を強化して国際舞台で米帝と反動層の強権と専横を制圧する闘争の雰囲気をさらに高調させていくのは反帝・自主勢力を強化するための重要な方途の一つであるということについて一致して肯定した。
各討論者は、チュチェ思想の研究・普及活動を全世界的範囲でより積極的に展開していくという意志を披歴した。
討論会では、敬愛する金正恩総書記に送る書簡が採択された。−−−
www.kcna.kp (チュチェ113.4.15.)
首領様の業績は数多ありますが、その最大級の業績のひとつとして偉大なチュチェ思想の創始があることは間違いのないことと考えます。上掲記事にもあるとおり、「朝鮮を自主、自立、自衛の社会主義国家に建設」なさったことは不滅の功績であります。冷戦期、朝鮮民主主義人民共和国は西側諸国との関係においてはソ連や中国などと概ね足並みをそろえてきましたが、しかし、東欧諸国がソ連に服従していたのとは決定的に異なり、朝鮮民主主義民主主義共和国は、東側陣営に属しつつも決して大国に平伏すことなく、あくまでも自主独立路線を歩んできました。
朝鮮民主主義人民共和国が今日も自主の旗印を高く掲げつづけられる確固たる思想的支柱を生涯をかけて構築なさった偉大な首領様。とりわけ、ご立派な理論に基づく演繹的方法で構築された思想ではなく、実践すなわち事実から出発することによる帰納的方法で構築された思想である点に当ブログは、チュチェ思想の生命力があると考えます。そしてその生命力は、米欧帝国主義諸国の覇権が日を追うごとに揺るぎつつある今日では、ますます輝いていると言えるでしょう。
翻って我らがニッポン。先般、岸田文雄総理大臣はアメリカ様を訪問し、恥も外聞もない媚び諂い:全面的隷属の姿を全世界に見せつけました。仮に日本がアメリカと「自由と民主主義」なる価値観を完全に共有しているとしても、日本は日本なりに自分自身の思索と責任において「自由と民主主義」を解釈し、己が信じる道に従って外交を展開する(場合によってはアメリカの解釈と異なることもあり得る)と宣言すべきところ、アメリカと完全に足並みを揃えると言明してしまいました。岸田文雄という人物の辞書には「自主」という言葉は収録されていないようです。
無理もないでしょう。自民党の政党支持率は依然として他党を引き離して高水準を維持していますが、岸田内閣の支持率は危険水準に達しています。総理大臣たることが政治家としての目的であると見なさざるを得ない岸田総理(※)が、自民党の政党支持率が依然として他党を引き離して高水準を維持しているからといって満足・安心はしないでしょう。そのわりに内閣支持率浮上のために施策を展開しているようには見えません。どうも岸田総理に危機感が感じられないのです。
※安倍元総理や菅前総理を見るに、彼らは曲がりなりにも「自分の内閣でやりたいこと」がありました。新型コロナウイルス禍で尻切れトンボになってしまいましたが、政権末期まで「やりたいこと」は一応掲げられていたものです。これに対して岸田総理は就任当初に「新しい資本主義」なる御題目を唱え、最近も「新しい資本主義実現会議」を開いてはいるようですが、まるで話題にならないし、自分から話題にしようという意欲も感じられません。総理大臣として何がしたいのかまったく不明なのが岸田文雄という人物であり、彼をカシラとする岸田内閣であると言わざるを得ません。
おそらく岸田総理は、アレコレ施策を展開する必要がないと考えているのでしょう。その理由は、アメリカの信任があるからに他ならないでしょう。防衛費総額43兆円支出という大盤振る舞いを打ち出せば、アメリカ様は評価なさるでしょう。アメリカ様の信任がある限りは、世論の歓心を買うための国内政策に奔走せずとも自分の地位は安泰だという目論見があるものと考えられます(定額減税なるケチ臭いことで世論の歓心を買えると思っているとは、いくら何でも考えにくいものです)。まさに「自分の、自分による、自分のための政治」――これが岸田政治であり、岸田従米内閣の本質であると考えます。従米姿勢は自分の地位保全のための戦略に過ぎないのです。
当ブログは、チュチェ思想を指針として日本の自主化を目指す立場を取っています。日本が当面の間、西側諸国に属し続けることは、政治的・経済的・軍事的・思想的な現実を鑑みるに致し方ないことであると言わざるを得ません。しかしながら、自主独立路線に少しでも近づくべく努力しなければならないと考えます。旧東側陣営の確固たる一員でありつつも自主独立路線を徹底したキム・イルソン同志の施政をいまこそ見習い、岸田従米内閣を乗り越えて自主独立の日本を一日も早く実現する必要があります。
2024年04月12日
ナワリヌイ氏を担ぎ上げた米欧諸国の手詰まり、日本メディアの深刻な手詰まり
4月8日づけ「中途半端な結果に終わった日本における反プーチンプロパガンダ」の関連として、引き続きロシア内政に関する日本メディアの報道について。
先般のロシア大統領選挙は現職であるプーチン氏の圧勝に終わりました。このことについては、西側諸国の「金魚のフン」として一緒になって反ロ・反プーチンプロパガンダを展開してきたNHKさえも「かなりの部分が(プーチン氏に対する)消極的な支持に向かったことが考えられる」と認めざるを得ない(「【詳報】ロシア大統領選 プーチン氏圧勝 “過去最高の得票率”」2024年3月19日 3時51分)ほどの結果でした。
反ロ・反プーチンプロパガンダといえば、先日のアレクセイ・ナワリヌイ氏の死を巡っても激しく展開されたものでした。今回は遅ればせながらナワリヌイ氏の死にかかる日本メディアの報道について取り上げたいと思います。
■36都市で計401人しか拘束されなかったのに「異例の広がり」と書き立てる時事通信
https://www.jiji.com/jc/article?k=2024021800336
その程度の出来事を「「抗議」異例の広がり」などとする時事通信。ソ連解体の道筋を決定づけた8月クーデター未遂直後の大衆行動と比べると、あまりにもショボい。こんなことしか書き立てられないということは、プーチン政権の盤石さを逆に示すものであるとも言えるでしょう。
■なんだかんだで世論に多様性がある米欧諸国、非常に一面的な日本メディア
https://news.yahoo.co.jp/articles/f1cf00f5e44d2ab59e714f30384e184139c12705
当時ビルマで権力を握っていたネ・ウィン政権は、ビルマ式社会主義の名のもとに「鎖国政策」といっても過言ではない政策を執っていました。とりわけ旧宗主国であるイギリスの影響については、その排除が徹底的に図られていました。また、ネ・ウィン政権の支持基盤は、軍部という高度に組織化された団体でした。つまり、米欧諸国はビルマ政治に付け入る機会を有していなかったわけです。
ビルマ建国の父であるアウンサン将軍の娘でありイギリス・オックスフォード大学への留学歴があるアウンサンスーチー氏の経歴は、米欧諸国にしてみればリーダーとして担ぎ上げるのに打ってつけだったのでしょうが、このことは裏を返せば、「当時、担ぎ上げられる人材が著しく不足していた」ことを示していると言えます。さすがに他に人材がいれば、いくらアウンサン将軍の娘だからといって政治経験ゼロの人物を一気にリーダーとして担ぎ上げはしなかったでしょう。
これと比するに今般のナワリヌイ氏の担ぎ上げは、アウンサンスーチー氏を担ぎ上げたとき以上に人材不足が顕著であると言わざるを得ないでしょう。「もしアメリカ人が同じような主張をしたら、たとえ過去の話でも一生批判を浴び続けるはず」である大妄言を口にした上に、「得票率5%がせいぜいの政治家」に過ぎない人物を担ぎあげたわけですから。ナワリヌイ氏のような人物を担ぎ上げざるを得ないほどに米欧諸国はロシアに付け入る隙を持てておらず、深刻な手詰まりに陥っているわけです。
他方、こういう記事が出てくることはポジティブに捉えてよいと思います。米欧諸国は、なんだかんだで世論に多様性があるわけです。これに対して日本メディアにおけるナワリヌイ氏の扱いは非常に一面的であります。
「日経スペシャル 60秒で学べるNews」という番組(テレビ東京系)がありました。「ありました」と言いますのは、今春の番組改編で3月6日を以って放送終了になったからです。他番組と比べて一足早く最終回を迎えた(打ち切り?)当該番組は、結局のところ、テレビ朝日系のいわゆる「池上解説」の真似事のような中途半端な番組だったというのが視聴者としての私の評価ですが、最終回の最後のネタがナワリヌイ氏の死についてでした。
番組は、アレクセイ・ナワリヌイという人物の人となりとその政治活動をおさらい的に紹介するところから話を始めたのですが、彼を「正義の反体制指導者」として描写。ナワリヌイ氏にインタビュー経験がある古川英治氏(日経新聞元記者)の「信念に基づいて正義・正論を語るナワリヌイのような人物は、プーチン氏からすれば虫唾が走るような存在だ」という発言が放映されました。
単純に、自分たちが私腹を肥やしている実態を暴こうとするナワリヌイ氏の存在がプーチン政権の権力者たちにとって都合が悪いだけなのでは・・・NHKの大河ドラマや各種時代劇でさえ経済的利権をめぐる権力者の腐敗が台本に盛り込まれているというのに、「ナワリヌイ氏はプーチン氏からすれば虫唾が走るような存在」という理由付けでは、まるで古代中国の英雄豪傑物語のレベルであると言わざるを得ません。
この番組は、ワールドビジネスサテライト(WBS)直前の放送枠を割り当てられており、かつ、「日経スペシャル」と前置きされている番組であるにもかかわらず「ガイアの夜明け」や「カンブリア宮殿」と比べるとあまりにも短命(1年半で終了)に終わりました。無理もないように思われます。WBS等の視聴者層は古代中国の英雄豪傑物語のような程度の低い解説で満足するわけがなく、英雄豪傑物語のレベルの解説で満足するような層がWBS等の経済番組を見ようとは思わないでしょう。
続いて番組は「彼の死はロシアにどんな影響を及ぼすのか」としつつ「ナワリヌイ氏が死んでもロシアは変わらないのか?」という問いを立て、番組の核心である「60秒解説」としてテレビ東京元モスクワ支局長である豊島晋作氏のそれを放映しました(この番組は、経緯や周辺知識のおさらいに10分以上掛けた上で核心部分の解説を60秒間で行うという構成であり、本当に話題のニュースを60秒だけで学べるわけではありません)。豊島氏の解説の要点は次のとおりです――「プーチン大統領は裏切りや反抗を許さない人物であり、それゆえ今まで暗殺疑惑が絶えなかった。今回、ナワリヌイ氏が死亡したことで反プーチンのカリスマはいなくなった。なぜ暗殺疑惑が絶えないのかというと、プーチン大統領は「すぐみんな忘れる」と思っているからだ。ロシアで反体制派が怪死しても国際社会の反応が弱過ぎるので、プーチン大統領に対する歯止めになっていないのだ。今回ナワリヌイ氏が死亡したことで、彼はプーチン氏が最も避けたがっていた「英雄」になった。20年後・30年後にもしロシアが民主国家になったときには、歴史の教科書はナワリヌイ氏を評価するかも知れない」。
ナワリヌイ氏を「正義の反体制指導者」として聖人化する点、古川英治氏のように現実の政治的出来事を個人的な好き嫌いの次元に還元して「解説」する極端な単純化(「池上解説」の真似事としての当該番組の本質をよくあらわしています)、合理的見通しに立脚しない「歴史への逃避」――典型的な手口が60秒間に詰め込まれています。
なお、「今回ナワリヌイ氏が死亡したことで、彼はプーチン氏が最も避けたがっていた「英雄」になった」という理解は、古川英治氏がナワリヌイ氏に「なぜあなたは殺されていないのか」とインタビューで質問したときに、ナワリヌイ氏が「プーチンは、オレが死んで英雄(殉教者?)になるのを嫌がっているから殺されていないのだ」と答えたことによるものだそうです。つまり、プーチン大統領が自らそう言ったり、そういう素振りを見せたり、あるいは側近が代弁したりしたわけではなく、ナワリヌイ氏が個人的にそう思っているに過ぎないものです。これではナワリヌイ氏が「なぜか生かされてきた」ことの理由・根拠にはならないでしょう。そもそも、またしてもニューズウィークの記事に戻りますが、「得票率5%がせいぜいの政治家」が死して英雄になり得るのか非常に疑問です。
ちなみに、ナワリヌイ氏の死がもし暗殺によるものだとすれば、大統領選挙直前に殺すことは正にナワリヌイ氏が殉教者と化し、反プーチン勢力の結束を高めることになるように思われます。彼の死が暗殺によるものなのか否かは私にはまったく分かりませんが、少なくとも「ナワリヌイ氏を殺すことで彼が殉教者と化することを懸念したプーチン大統領が敢えて生かしている」というナワリヌイ氏の自己理解は、彼のこのタイミングでの死を以って線として消えたのではないかと考えます。
合理的見通しに立脚しない「歴史への逃避」について説明しておきたいと思います。以前にも論じましたが、誰も未来のことを確定的に語ることはできないので、具体的な期日や期間の指定もなくただ漠然と「可能性」を述べるだけであれば、どんなことでもあり得るでしょう。己の願望に対して否定的な兆候・事実がどれだけ発生しようとも、漠然とした「未来」について語るのであれば、「これは一時的・例外的事象に過ぎない」などと、ひたすら言い逃れることが可能になります。また、豊島氏の「20年後・30年後にもしロシアが民主国家になったときには・・・」という仮定においては、いったいどういうキッカケがあればロシアが「民主国家」に転じ得るのか、それとナワリヌイ氏とがどのような関係があるのか、そもそもここでいう「民主国家」とは何を指すものなのかがまったく見えてきません。実現可能性の乏しい願望を「歴史」に託す豊島氏の姿勢は「歴史への逃避」と言わざるを得ないものです。
米欧諸国の深刻な手詰まりについては前述しましたが、日本は、とくにメディアがそれとは違う意味で深刻な手詰まりに陥っていると言わざるを得ないように思われます。
先般のロシア大統領選挙は現職であるプーチン氏の圧勝に終わりました。このことについては、西側諸国の「金魚のフン」として一緒になって反ロ・反プーチンプロパガンダを展開してきたNHKさえも「かなりの部分が(プーチン氏に対する)消極的な支持に向かったことが考えられる」と認めざるを得ない(「【詳報】ロシア大統領選 プーチン氏圧勝 “過去最高の得票率”」2024年3月19日 3時51分)ほどの結果でした。
反ロ・反プーチンプロパガンダといえば、先日のアレクセイ・ナワリヌイ氏の死を巡っても激しく展開されたものでした。今回は遅ればせながらナワリヌイ氏の死にかかる日本メディアの報道について取り上げたいと思います。
■36都市で計401人しか拘束されなかったのに「異例の広がり」と書き立てる時事通信
https://www.jiji.com/jc/article?k=2024021800336
ナワリヌイ氏追悼、拘束400人超 「抗議」異例の広がり―ロシア36都市で計401人ということは、算数の問題として、1都市あたり10人強ということになります。単純比較はできないでしょうが、日本において10人程度の政治イベントと言うと専ら、当事者と警備・誘導の警察官以外は誰一人として注目していないイベントです。騒ぎがあれば直ちに覚知できる程度の距離に交番等が配置されている場合、警察官も現地立ち合いはしていないことも十分にあり得るレベル。新聞の地方版に載るかどうかのレベルのイベントです。
2024年02月18日20時40分配信
獄死したロシアの反体制派指導者アレクセイ・ナワリヌイ氏を追悼する動きは18日も続き、人権団体OVDインフォによると、16日からの拘束者は36都市の計401人に上った。北西部サンクトペテルブルクでは、祈りをささげようとした正教会の神父が17日に拘束された。
(以下略)
その程度の出来事を「「抗議」異例の広がり」などとする時事通信。ソ連解体の道筋を決定づけた8月クーデター未遂直後の大衆行動と比べると、あまりにもショボい。こんなことしか書き立てられないということは、プーチン政権の盤石さを逆に示すものであるとも言えるでしょう。
■なんだかんだで世論に多様性がある米欧諸国、非常に一面的な日本メディア
https://news.yahoo.co.jp/articles/f1cf00f5e44d2ab59e714f30384e184139c12705
欧米はなぜもてはやすのか? 「ロシア反体制派のヒーロー」ナワリヌイの正体かつて米欧諸国は、ビルマ民主化運動のリーダーとしてアウンサンスーチー氏を担ぎ上げて大失敗しました。8888民主化運動の終盤に彗星の如く現れまではずっと国外に拠点を置いて主に学術研究していた彼女。帰国後は早々に軍事政権によって断続的に長期間にわたって自宅軟禁されてきたため、カリスマ性ばかりが先行して政治的組織指導力はまったく未知のものでしたが、いざ政治権力を掌握するや、とりわけロヒンギャ問題において驚くほどの指導力のなさを曝け出したものでした。
2/28(水) 16:50配信
ニューズウィーク日本版
<非ロシア人に対する人種差別的発言を繰り返したアレクセイ・ナワリヌイが、欧米で英雄視されるフシギ。もしアメリカ人が同じような主張をしたら一発アウトなはずなのに......>
私がモスクワ以外で最後に訪れたロシアの地域はヤマロ・ネネツ自治管区だった。あまりの寒さに鼻と口が凍り、息もできないほどだった。反体制派指導者アレクセイ・ナワリヌイが文字どおり息絶えたのもここだ。【サム・ポトリッキオ(米ジョージタウン大学教授)】
チャーチルはロシアを「謎の中の謎に包まれた謎」と呼んだ。それが本当なら、ナワリヌイは祖国を代表する人物だったことになる。私が教えている米ジョージタウン大学の昨年の卒業式で、ナワリヌイの娘が卒業スピーチの話者に選ばれたとき、ウクライナ人から激しい抗議があった。
ナワリヌイはロシアのクリミア併合を支持し、非ロシア人に対する人種差別的な発言を繰り返し、ロシア人とベラルーシ人、ウクライナ人は同じ民族だという反歴史的な偽りの主張もした。人種差別を理由にロシアのリベラル政党から追放されたこともある。
欧米の識者は「昔の話だ」のひと言で片付けるが、もしアメリカ人が同じような主張をしたら、たとえ過去の話でも一生批判を浴び続けるはずだ。人種差別的なナショナリズムを主張していた過去がありながら、欧米ではもてはやされる――。
この矛盾について私が数年前まで教えていたロシア国家経済・公共政策大統領アカデミーの教え子たちは、チャーチルと同様のロシアに対する無理解の典型だと言った。ロシアの平均的な有権者にナワリヌイについて尋ねれば、おそらく話すのも時間の無駄だと答えるはずだ。「得票率5%がせいぜいの政治家だろう?」と。
(以下略)
当時ビルマで権力を握っていたネ・ウィン政権は、ビルマ式社会主義の名のもとに「鎖国政策」といっても過言ではない政策を執っていました。とりわけ旧宗主国であるイギリスの影響については、その排除が徹底的に図られていました。また、ネ・ウィン政権の支持基盤は、軍部という高度に組織化された団体でした。つまり、米欧諸国はビルマ政治に付け入る機会を有していなかったわけです。
ビルマ建国の父であるアウンサン将軍の娘でありイギリス・オックスフォード大学への留学歴があるアウンサンスーチー氏の経歴は、米欧諸国にしてみればリーダーとして担ぎ上げるのに打ってつけだったのでしょうが、このことは裏を返せば、「当時、担ぎ上げられる人材が著しく不足していた」ことを示していると言えます。さすがに他に人材がいれば、いくらアウンサン将軍の娘だからといって政治経験ゼロの人物を一気にリーダーとして担ぎ上げはしなかったでしょう。
これと比するに今般のナワリヌイ氏の担ぎ上げは、アウンサンスーチー氏を担ぎ上げたとき以上に人材不足が顕著であると言わざるを得ないでしょう。「もしアメリカ人が同じような主張をしたら、たとえ過去の話でも一生批判を浴び続けるはず」である大妄言を口にした上に、「得票率5%がせいぜいの政治家」に過ぎない人物を担ぎあげたわけですから。ナワリヌイ氏のような人物を担ぎ上げざるを得ないほどに米欧諸国はロシアに付け入る隙を持てておらず、深刻な手詰まりに陥っているわけです。
他方、こういう記事が出てくることはポジティブに捉えてよいと思います。米欧諸国は、なんだかんだで世論に多様性があるわけです。これに対して日本メディアにおけるナワリヌイ氏の扱いは非常に一面的であります。
「日経スペシャル 60秒で学べるNews」という番組(テレビ東京系)がありました。「ありました」と言いますのは、今春の番組改編で3月6日を以って放送終了になったからです。他番組と比べて一足早く最終回を迎えた(打ち切り?)当該番組は、結局のところ、テレビ朝日系のいわゆる「池上解説」の真似事のような中途半端な番組だったというのが視聴者としての私の評価ですが、最終回の最後のネタがナワリヌイ氏の死についてでした。
番組は、アレクセイ・ナワリヌイという人物の人となりとその政治活動をおさらい的に紹介するところから話を始めたのですが、彼を「正義の反体制指導者」として描写。ナワリヌイ氏にインタビュー経験がある古川英治氏(日経新聞元記者)の「信念に基づいて正義・正論を語るナワリヌイのような人物は、プーチン氏からすれば虫唾が走るような存在だ」という発言が放映されました。
単純に、自分たちが私腹を肥やしている実態を暴こうとするナワリヌイ氏の存在がプーチン政権の権力者たちにとって都合が悪いだけなのでは・・・NHKの大河ドラマや各種時代劇でさえ経済的利権をめぐる権力者の腐敗が台本に盛り込まれているというのに、「ナワリヌイ氏はプーチン氏からすれば虫唾が走るような存在」という理由付けでは、まるで古代中国の英雄豪傑物語のレベルであると言わざるを得ません。
この番組は、ワールドビジネスサテライト(WBS)直前の放送枠を割り当てられており、かつ、「日経スペシャル」と前置きされている番組であるにもかかわらず「ガイアの夜明け」や「カンブリア宮殿」と比べるとあまりにも短命(1年半で終了)に終わりました。無理もないように思われます。WBS等の視聴者層は古代中国の英雄豪傑物語のような程度の低い解説で満足するわけがなく、英雄豪傑物語のレベルの解説で満足するような層がWBS等の経済番組を見ようとは思わないでしょう。
続いて番組は「彼の死はロシアにどんな影響を及ぼすのか」としつつ「ナワリヌイ氏が死んでもロシアは変わらないのか?」という問いを立て、番組の核心である「60秒解説」としてテレビ東京元モスクワ支局長である豊島晋作氏のそれを放映しました(この番組は、経緯や周辺知識のおさらいに10分以上掛けた上で核心部分の解説を60秒間で行うという構成であり、本当に話題のニュースを60秒だけで学べるわけではありません)。豊島氏の解説の要点は次のとおりです――「プーチン大統領は裏切りや反抗を許さない人物であり、それゆえ今まで暗殺疑惑が絶えなかった。今回、ナワリヌイ氏が死亡したことで反プーチンのカリスマはいなくなった。なぜ暗殺疑惑が絶えないのかというと、プーチン大統領は「すぐみんな忘れる」と思っているからだ。ロシアで反体制派が怪死しても国際社会の反応が弱過ぎるので、プーチン大統領に対する歯止めになっていないのだ。今回ナワリヌイ氏が死亡したことで、彼はプーチン氏が最も避けたがっていた「英雄」になった。20年後・30年後にもしロシアが民主国家になったときには、歴史の教科書はナワリヌイ氏を評価するかも知れない」。
ナワリヌイ氏を「正義の反体制指導者」として聖人化する点、古川英治氏のように現実の政治的出来事を個人的な好き嫌いの次元に還元して「解説」する極端な単純化(「池上解説」の真似事としての当該番組の本質をよくあらわしています)、合理的見通しに立脚しない「歴史への逃避」――典型的な手口が60秒間に詰め込まれています。
なお、「今回ナワリヌイ氏が死亡したことで、彼はプーチン氏が最も避けたがっていた「英雄」になった」という理解は、古川英治氏がナワリヌイ氏に「なぜあなたは殺されていないのか」とインタビューで質問したときに、ナワリヌイ氏が「プーチンは、オレが死んで英雄(殉教者?)になるのを嫌がっているから殺されていないのだ」と答えたことによるものだそうです。つまり、プーチン大統領が自らそう言ったり、そういう素振りを見せたり、あるいは側近が代弁したりしたわけではなく、ナワリヌイ氏が個人的にそう思っているに過ぎないものです。これではナワリヌイ氏が「なぜか生かされてきた」ことの理由・根拠にはならないでしょう。そもそも、またしてもニューズウィークの記事に戻りますが、「得票率5%がせいぜいの政治家」が死して英雄になり得るのか非常に疑問です。
ちなみに、ナワリヌイ氏の死がもし暗殺によるものだとすれば、大統領選挙直前に殺すことは正にナワリヌイ氏が殉教者と化し、反プーチン勢力の結束を高めることになるように思われます。彼の死が暗殺によるものなのか否かは私にはまったく分かりませんが、少なくとも「ナワリヌイ氏を殺すことで彼が殉教者と化することを懸念したプーチン大統領が敢えて生かしている」というナワリヌイ氏の自己理解は、彼のこのタイミングでの死を以って線として消えたのではないかと考えます。
合理的見通しに立脚しない「歴史への逃避」について説明しておきたいと思います。以前にも論じましたが、誰も未来のことを確定的に語ることはできないので、具体的な期日や期間の指定もなくただ漠然と「可能性」を述べるだけであれば、どんなことでもあり得るでしょう。己の願望に対して否定的な兆候・事実がどれだけ発生しようとも、漠然とした「未来」について語るのであれば、「これは一時的・例外的事象に過ぎない」などと、ひたすら言い逃れることが可能になります。また、豊島氏の「20年後・30年後にもしロシアが民主国家になったときには・・・」という仮定においては、いったいどういうキッカケがあればロシアが「民主国家」に転じ得るのか、それとナワリヌイ氏とがどのような関係があるのか、そもそもここでいう「民主国家」とは何を指すものなのかがまったく見えてきません。実現可能性の乏しい願望を「歴史」に託す豊島氏の姿勢は「歴史への逃避」と言わざるを得ないものです。
米欧諸国の深刻な手詰まりについては前述しましたが、日本は、とくにメディアがそれとは違う意味で深刻な手詰まりに陥っていると言わざるを得ないように思われます。
ラベル:メディア
2024年04月08日
中途半端な結果に終わった日本における反プーチンプロパガンダ
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240320/k10014396911000.html
「在外投票で異なる傾向が見られた背景には、ロシア国内で言論弾圧や情報の統制が強まる中、こうした制約が小さい国外に住むロシア人の有権者がプーチン政権への抗議の意思を示したこともある」などとするNHKですが、ロンドン、東京そしてローマの各都市でのプーチン氏の得票率がそれぞれあまりにも懸け離れていることは、「ロシア国外ではプーチン政権による言論弾圧・情報統制の制約の小さいから」では説明できないでしょう。
厳密に相関関係を測定したわけではありませんが、今回のロシア大統領選挙でのプーチン氏の得票率は、その国や地域におけるプロパガンダの強弱と関係があると仮説を立てることができそうです。
記事によると、プーチン氏の得票率は次のとおりということです。
イギリス・ロンドン:21.05%
中国・北京:67.35%
イタリア・ローマ:61.73%
日本・東京:44.1%
ここで注目したいのは、東京でのプーチン氏の得票率。イギリスは、ロシアの大地に存在する政権をその国是・体制に関わらず常に敵視してきたところですが、その首都であるロンドンにおける反露プロパガンダの激しさは前述のとおり非常に容易に想像できるもの。この点、当ブログでも継続的に取り上げてきたとおり、日本もNHKが一所懸命にプロパガンダを展開してきましたが、その割には44.1%という、ローマほどではないがロンドンには遥かに及ばない「中途半端」と言わざるを得ない結果に留まっています。50%割れに追い込んだのは、NHKにはせめてもの慰めになるのでしょうか?
ロシア大統領選 在外投票では異なる傾向 国外有権者抗議意思か少し古いニュースになりますが、ロシア大統領選挙でのプーチン氏の得票率についての記事。ロシア国内でのプーチン氏の得票率が87.28%にも上ることについては、「国営メディア等が垂れ流すプロパガンダの賜物」という説明が人口に膾炙していますが、そうだとすると、東京やローマと比べてもあまりにも低過ぎるイギリス・ロンドンにおけるプーチン氏の得票率(21.05%)についても、イギリスにおける反露プロパガンダの激しさを示すものであると言わざるを得ないでしょう。
2024年3月20日 15時14分
ロシアで行われた大統領選挙では、プーチン大統領が90%近い得票率で圧勝しましたが、ヨーロッパなど世界各地で行われた在外投票では異なる傾向が見られ、情報の統制がない国外に住むロシア人の有権者が、プーチン政権への抗議の意思を示したことも背景にあるとみられます。
今回のロシア大統領選挙で、プーチン大統領は87.28%の得票率で圧勝しましたが、ロシア政府によりますと、144の国と地域で行われた在外投票では得票率は72.3%でした。
このうちG7=主要7か国の首都で行われた在外投票に限ると、プーチン氏の得票率はより低くなっていて、イギリスのロンドンでは21.05%、東京では44.1%、イタリアのローマでは61.73%などとなりました。
一方、ロシアとの関係を強化している中国の北京では67.35%と西側諸国より高くなっています。
(中略)
在外投票で異なる傾向が見られた背景には、ロシア国内で言論弾圧や情報の統制が強まる中、こうした制約が小さい国外に住むロシア人の有権者がプーチン政権への抗議の意思を示したこともあるとみられます。
「在外投票で異なる傾向が見られた背景には、ロシア国内で言論弾圧や情報の統制が強まる中、こうした制約が小さい国外に住むロシア人の有権者がプーチン政権への抗議の意思を示したこともある」などとするNHKですが、ロンドン、東京そしてローマの各都市でのプーチン氏の得票率がそれぞれあまりにも懸け離れていることは、「ロシア国外ではプーチン政権による言論弾圧・情報統制の制約の小さいから」では説明できないでしょう。
厳密に相関関係を測定したわけではありませんが、今回のロシア大統領選挙でのプーチン氏の得票率は、その国や地域におけるプロパガンダの強弱と関係があると仮説を立てることができそうです。
記事によると、プーチン氏の得票率は次のとおりということです。
イギリス・ロンドン:21.05%
中国・北京:67.35%
イタリア・ローマ:61.73%
日本・東京:44.1%
ここで注目したいのは、東京でのプーチン氏の得票率。イギリスは、ロシアの大地に存在する政権をその国是・体制に関わらず常に敵視してきたところですが、その首都であるロンドンにおける反露プロパガンダの激しさは前述のとおり非常に容易に想像できるもの。この点、当ブログでも継続的に取り上げてきたとおり、日本もNHKが一所懸命にプロパガンダを展開してきましたが、その割には44.1%という、ローマほどではないがロンドンには遥かに及ばない「中途半端」と言わざるを得ない結果に留まっています。50%割れに追い込んだのは、NHKにはせめてもの慰めになるのでしょうか?
ラベル:メディア
2024年03月26日
キム・ヨジョン朝鮮労働党中央委員会副部長の談話から伺える朝日交渉における共和国の立場
http://www.kcna.kp/jp/article/q/573dbcfbcfd7792c99a4c7a470ad3626.kcmsf
それよりも注目すべきは「自分らと何の関係もないいわゆる核・ミサイルといった諸懸案」というくだり。かねてより指摘されてきたことですが、日本と対抗するためにICBMは必要ありません。ICBM開発はあくまでもアメリカとの対決のためのもの。それが改めて言明されたと言えます。
25日の談話を振り返りましょう。
http://www.kcna.kp/jp/article/q/99489171ee7534f918e2a69aabf0c68d.kcmsf
・拉致問題は解決済み
・主権的権利の行使に干渉するな
です。この談話では具体的に「主権的権利」が何であるかは述べられていません(いままでの経緯・経過を踏まえれば明白ですが・・・)。これに対して26日の談話は明確に「核・ミサイル」としています。
改めて共和国の立場をまとめると、
・拉致問題は解決済みだから朝日交渉の議題に取り上げるべきではない
・核・ミサイルは日本向けではないから朝日交渉の議題に取り上げるべきではない
ということになるでしょう。
金與正党副部長が談話発表「最近、数回にわたって周囲の耳目を集めた岸田首相の朝日首脳会談関連の発言は、自分の政治目的によるものであると見られる」――完全に見透かされていますね。
【平壌3月26日発朝鮮中央通信】朝鮮労働党中央委員会の金與正副部長が26日、次のような談話を発表した。
日本側は25日午後、内閣官房長官の記者会見で、拉致問題がすでに解決されたとの主張は全く受け入れられないという立場を明白にした。
また、自分らと何の関係もないいわゆる核・ミサイルといった諸懸案という表現を持ち出して、われわれの正当防衛に属する主権行使に干渉し、それを問題視しようとした。
日本は、歴史を変えて地域の平和と安定を図り、新たな朝日関係の第一歩を踏み出す勇気が全くない。
解決不可能で、また解決することもない不可克服の問題に執着している日本の態度が、これを物語っている。
最近、数回にわたって周囲の耳目を集めた岸田首相の朝日首脳会談関連の発言は、自分の政治目的によるものであると見られる。
史上、最低水準の支持率を意識している日本首相の政略的な打算に、朝日関係が利用されてはならない。
「前提条件なしの日朝首脳会談」を要請して先に戸を叩いたのは日本側であり、ただわれわれは日本が過去に縛られず、新しい出発をする姿勢を取っているのなら、歓迎するという立場を明らかにしただけである。
(以下略)
それよりも注目すべきは「自分らと何の関係もないいわゆる核・ミサイルといった諸懸案」というくだり。かねてより指摘されてきたことですが、日本と対抗するためにICBMは必要ありません。ICBM開発はあくまでもアメリカとの対決のためのもの。それが改めて言明されたと言えます。
25日の談話を振り返りましょう。
http://www.kcna.kp/jp/article/q/99489171ee7534f918e2a69aabf0c68d.kcmsf
金與正党副部長が談話発表この談話のポイントは、
【平壌3月25日発朝鮮中央通信】朝鮮労働党中央委員会の金與正副部長が25日、次のような談話を発表した。
先月、私は日本の岸田首相が国会で朝日首脳会談問題に意欲を示したことについて個人的な所見を述べたことがある。
最近も岸田首相は、異なるルートを通じて可能な限り早いうちに朝鮮民主主義人民共和国国務委員長に直接会いたいという意向をわれわれに伝えてきた。
先日にも言ったように、朝日関係改善の新しい活路を開く上で重要なのは日本の実際の政治的決断である。
単に首脳会談に乗り出すという心構えだけでは不信と誤解でいっぱいになった両国関係を解決することができないというのが、過ぎ去った朝日関係の歴史が与える教訓である。
日本が今のようにわれわれの主権的権利の行使に干渉しようとし、これ以上解決すべきことも、知るよしもない拉致問題に依然として没頭するなら首相の構想が人気取りにすぎないという評判を避けられなくなるであろう。
明白なのは、日本が朝鮮民主主義人民共和国をあくまでも敵視して主権的権利を侵害する際には、われわれの敵と見なされて標的に入るようになるだけであって、決して友人にはなれないということである。
心から日本が両国関係を解決し、われわれの親しい隣国になって地域の平和と安定を保障することに寄与したいなら、自国の全般利益に合致する戦略的選択をする政治的勇断を下すことが必要である。
公正で平等な姿勢でわれわれの主権的権利と安全利益を尊重するなら、朝鮮民主主義人民共和国の自衛力強化はいかなる場合にも日本にとって安保脅威にならないであろう。
・拉致問題は解決済み
・主権的権利の行使に干渉するな
です。この談話では具体的に「主権的権利」が何であるかは述べられていません(いままでの経緯・経過を踏まえれば明白ですが・・・)。これに対して26日の談話は明確に「核・ミサイル」としています。
改めて共和国の立場をまとめると、
・拉致問題は解決済みだから朝日交渉の議題に取り上げるべきではない
・核・ミサイルは日本向けではないから朝日交渉の議題に取り上げるべきではない
ということになるでしょう。
ラベル:共和国
2024年03月24日
共和国のウクライナ情勢認識
http://www.kcna.kp/jp/article/q/b9cc042ce362ca1802eab9288ee5545e.kcmsf
「数多くのウクライナ人が親米かいらい政権のヒステリックな反ロシア狂症のいけにえに、米国と西側の弾除けに駆り出されて無駄な血を流している」とした上で「キエフかいらい政権は、時代錯誤の崇米・事大と外部勢力依存によって国を滅ぼし、民族を滅びるようにする残酷な悲劇を招いた」とし、「米国と西側に対する幻想はすなわち、自滅であり、壊滅である」と結ぶ記事。かつて首領様は「歴史的経験が示しているように、事大主義に陥れば人は愚か者になり、民族は滅び、革命は失敗をまぬがれ」ないと仰いました(『青年は朝鮮革命の最終的勝利のために経済建設と国防建設のすべての分野で先鋒隊となろう』チュチェ57・1968年4月13日)が、その線で非常によくまとめられた共和国のウクライナ情勢認識であると言えるでしょう。
米国と西側に対する幻想はウクライナに何をもたらしたかウクライナで繰り広げられている事態の根本原因を、ロシア封殺の好機として利用しようとするアメリカの指揮棒に従ってきたゼレンスキー政権の崇米・事大、外部勢力依存政策とした朝鮮中央通信。また、アメリカ及び西側追随国がロシアに対して史上最大規模の制裁を実施したが、ロシア経済を破壊しロシア人民を窒息させることはできず、それどころかロシアに自給自足の機会を与えたともしています。共和国は、ロシアの姿と自国の反帝自主闘争の闘争史を重ねているのでしょう。
【平壌3月23日発朝鮮中央通信】自国の安保空間を甚だしく脅かす米国と西側に立ち向かってロシアが開始した対ウクライナ特殊軍事作戦が、3年目に入った。
(中略)
情勢アナリストらは、ウクライナで繰り広げられている悲劇の原因が米国の覇権政策とそれに寄生し、同国をロシアとの対決へ追い込んだ西側為政者らの無謀な対米追随政策にあると主張している。
しかし、それよりも重要な原因がある。
現ウクライナ政権の崇米・事大、外部勢力依存政策に根本原因があるというのがこんにち、より明白になった。
米国によって新ナチズムに手なずけられたゼレンスキーかいらい一味は、紛争が起きるやいなや、米国とNATO加盟国を訪れ続けて兵器と資金を支援してくれることを哀願した。
米国は、まるで好機にめぐり合ったかのように、NATOをはじめとする西側追随国をウクライナに対する全面的な支援に駆り出し、キエフ当局に軍事顧問を派遣し、莫大な戦争装備と資金を提供した。
一方、全方位にわたる対ロシア制裁と圧迫、封鎖を前例なく強めながら、ロシア経済を破壊し、同国人民を完全に窒息させようとした。
統計によると、米国と西側はこれまでの2年間、ロシアに史上最大規模の制裁を実施したが、2023年11月現在、制裁件数はおよそ1万7500件に及んだ。
しかし、制裁は戦場の形勢を変えられず、ロシアの経済を窒息させるどころか、国産化による自給自足の機会を与えた。
昨年、ロシアの国内総生産額成長率は3.6%で、世界的な平均指標に比べて高かったし、ウクライナは国家債務額が1453億2000万ドルに至って史上最高を記録した。
重なる敗戦で絶望に陥ったゼレンスキー一味は、米国と西側諸国を訪れ続けながら、資金やミサイル、戦車や砲弾をくれと哀願している。
数多くのウクライナ人が親米かいらい政権のヒステリックな反ロシア狂症のいけにえに、米国と西側の弾除けに駆り出されて無駄な血を流している。
(中略)
こんにちのウクライナ事態は、米国と西側に対する幻想がどんなに愚かで自滅的なものであるのかを明白に実証している。
キエフかいらい政権は、時代錯誤の崇米・事大と外部勢力依存によって国を滅ぼし、民族を滅びるようにする残酷な悲劇を招いた。
ウクライナ事態を巡って今一度、かみ締める真理がある。
米国と西側に対する幻想はすなわち、自滅であり、壊滅である。−−−
www.kcna.kp (チュチェ113.3.23.)
「数多くのウクライナ人が親米かいらい政権のヒステリックな反ロシア狂症のいけにえに、米国と西側の弾除けに駆り出されて無駄な血を流している」とした上で「キエフかいらい政権は、時代錯誤の崇米・事大と外部勢力依存によって国を滅ぼし、民族を滅びるようにする残酷な悲劇を招いた」とし、「米国と西側に対する幻想はすなわち、自滅であり、壊滅である」と結ぶ記事。かつて首領様は「歴史的経験が示しているように、事大主義に陥れば人は愚か者になり、民族は滅び、革命は失敗をまぬがれ」ないと仰いました(『青年は朝鮮革命の最終的勝利のために経済建設と国防建設のすべての分野で先鋒隊となろう』チュチェ57・1968年4月13日)が、その線で非常によくまとめられた共和国のウクライナ情勢認識であると言えるでしょう。
2024年03月23日
鳴りを潜めるようになってきた「ロシアは追い詰められている」の類のプロパガンダ
ロシアのウクライナ侵攻においては、米欧諸国のウクライナ支援が滞る中、戦場の主導権をロシアが掌握したという指摘も出てきています。先般のウクライナ軍の反転攻勢は失敗に終わり、前進・領土奪還どころか、ドンバス紛争開始以来ウクライナ軍が要塞化し前線の拠点としてきたアウディーイウカをロシア軍に奪われるという明白な後退・更なる領土喪失という事態に陥っています。
ロシアのウクライナ侵攻は米欧諸国とロシアとの戦いという構図になっていますが、戦場で思うようにロシアを圧倒できない米欧諸国。日本は米欧諸国の「金魚の糞」としてこの構図の片隅に位置していますが、以前から当ブログでも指摘してきたとおり、日本世論・日本メディアは、敵方が追い詰められているという構図を非常に好みます。より正確に言えば、「敵方が追い詰められていないと精神の安定が保てないのだろうか?」という疑念さえ生じるくらいに、事象の針小棒大な評価と強引な論理展開を非常に頻繁に目にします。
しかしながら、最近は少し事態が異なるように見受けられます。
たとえば、ロシア経済報道。国策報道機関であるNHKは3月15日に「ロシア経済 なぜへたらないのか?制裁が効かない真の理由」というWEB記事を公開しましたが、記事でNHKは「ロシア経済はいったんはマイナス成長に陥ったものの、今では足元で堅調に推移しています」と言明。その理由として「@ 欧州は今もロシア産原油を買い続けている」、「A ロシア産LNGは禁止されていない」「B 巨額の軍事支出とトリクルダウン」そして「C 住宅政策もプラスに寄与」などと解説しています。どういう風の吹き回しなのでしょうか?
ウクライナ産の農産物に対する支援にかかるEU域内での反発についても報じられるようになりました(「EUの農業政策に不満 農家の抗議活動 各地で相次ぐ」 2024年3月23日 17時13分)。「親ロシアブログ」などと罵倒されているミリタリー系個人ブログである「航空万能論GF」は、かねてより戦況分析と並行してこのことについて取り上げていらっしゃいます。ミリタリー系個人ブログが取り上げる話題を「みなさまの受信料」で運営されているNHKが回避してきたわけですが、いよいよNHKがこのことを報じるようになったことに注目する必要があるでしょう。
スウェーデンなどのNATO加盟については、引き続き「ロシアは『藪をつついて蛇を出した』。自業自得だ」という構図で描かれるのが主流ですが、やはりそれがプロパガンダ的な構図化であること見抜く人はいるようで、たとえば「【独自解説】200年の中立を捨てスウェーデンがNATOに加盟 バルト海を“封じられた”プーチン大統領 次なる一手は“核の脅し”⁉さらに、期待する「トランプ氏の再選」」(3/17(日) 12:00配信 読売テレビ)のコメント欄で軍事ブロガーのJSF氏は次のように指摘しています。
たしかに、チュチェ111(2022)年7月9日づけ「フランスF2とNHKとのウクライナ報道比較から浮き彫りになった日本世論の深刻な現状」で取り上げたとおり、プーチン大統領はスウェーデンなどのNATO加盟について「ウクライナと抱えているような問題はフィンランドとスウェーデンとはない。望むならご自由に。しかし軍の部隊やインフラが配備される場合は我々は鏡のように対応しなければならないことを明確に理解すべきだ」と言明していました。やはりプーチン大統領にとっては、単にNATOが東進してきたことが許せないのではなく、自分たちのテリトリーである(と思っている)ウクライナの地にNATO軍が入り込もうとしていることが許せないものと思われます。それゆえ、「ロシアは『藪をつついて蛇を出した』。自業自得だ」論は、「ロシアは追い詰められている」の類の強引な論理展開であるという他ありません。
依然として「ロシアは追い詰められている」の類のプロパガンダは根強く残ってはいるものの、以前と比べると鳴りを潜めるようになってきたと言えるでしょう。
ロシアのウクライナ侵攻は米欧諸国とロシアとの戦いという構図になっていますが、戦場で思うようにロシアを圧倒できない米欧諸国。日本は米欧諸国の「金魚の糞」としてこの構図の片隅に位置していますが、以前から当ブログでも指摘してきたとおり、日本世論・日本メディアは、敵方が追い詰められているという構図を非常に好みます。より正確に言えば、「敵方が追い詰められていないと精神の安定が保てないのだろうか?」という疑念さえ生じるくらいに、事象の針小棒大な評価と強引な論理展開を非常に頻繁に目にします。
しかしながら、最近は少し事態が異なるように見受けられます。
たとえば、ロシア経済報道。国策報道機関であるNHKは3月15日に「ロシア経済 なぜへたらないのか?制裁が効かない真の理由」というWEB記事を公開しましたが、記事でNHKは「ロシア経済はいったんはマイナス成長に陥ったものの、今では足元で堅調に推移しています」と言明。その理由として「@ 欧州は今もロシア産原油を買い続けている」、「A ロシア産LNGは禁止されていない」「B 巨額の軍事支出とトリクルダウン」そして「C 住宅政策もプラスに寄与」などと解説しています。どういう風の吹き回しなのでしょうか?
ウクライナ産の農産物に対する支援にかかるEU域内での反発についても報じられるようになりました(「EUの農業政策に不満 農家の抗議活動 各地で相次ぐ」 2024年3月23日 17時13分)。「親ロシアブログ」などと罵倒されているミリタリー系個人ブログである「航空万能論GF」は、かねてより戦況分析と並行してこのことについて取り上げていらっしゃいます。ミリタリー系個人ブログが取り上げる話題を「みなさまの受信料」で運営されているNHKが回避してきたわけですが、いよいよNHKがこのことを報じるようになったことに注目する必要があるでしょう。
スウェーデンなどのNATO加盟については、引き続き「ロシアは『藪をつついて蛇を出した』。自業自得だ」という構図で描かれるのが主流ですが、やはりそれがプロパガンダ的な構図化であること見抜く人はいるようで、たとえば「【独自解説】200年の中立を捨てスウェーデンがNATOに加盟 バルト海を“封じられた”プーチン大統領 次なる一手は“核の脅し”⁉さらに、期待する「トランプ氏の再選」」(3/17(日) 12:00配信 読売テレビ)のコメント欄で軍事ブロガーのJSF氏は次のように指摘しています。
ロシアはフィンランドとスウェーデンのNATO加盟に碌に反応を示さず許容しています。過去にもバルト三国NATO加盟でも行動を起こしていません。かつてロシアの首都でもあった第二都市サンクトペテルブルグの目の前に強大な敵が出現するにも関わらずです。この事からロシアは緩衝地帯を設ける戦略を取っていないことが明白です。核兵器がある現代では土地の距離という要素は其処まで重視していないのでしょう。当ブログでも、チュチェ111(2022)年6月29日づけ「ロシアにとっては「敵が改めて敵対的な姿勢を示した」くらいでしかないスウェーデン・フィンランドのNATO加盟をトルコが支持した事実が「朗報」扱いされる日本世論から見えるもの」で似たようなことを述べましたが、もっとわかりやすく整理されています。
一方でロシアはウクライナに侵攻し領土を併合すると宣言しました。併合したらそれはもう「緩衝地帯」ではありません。この侵略戦争は民族的に歴史的にロシアとウクライナは一体であると強く思い込んだプーチンの思想によるものです。ウクライナが独立国家として振る舞い西欧と自由に付き合うことが許せなかったのです。プーチンの思い描くあるべき世界ではウクライナはベラルーシのようにロシアの一部でなければなりませんでした。
たしかに、チュチェ111(2022)年7月9日づけ「フランスF2とNHKとのウクライナ報道比較から浮き彫りになった日本世論の深刻な現状」で取り上げたとおり、プーチン大統領はスウェーデンなどのNATO加盟について「ウクライナと抱えているような問題はフィンランドとスウェーデンとはない。望むならご自由に。しかし軍の部隊やインフラが配備される場合は我々は鏡のように対応しなければならないことを明確に理解すべきだ」と言明していました。やはりプーチン大統領にとっては、単にNATOが東進してきたことが許せないのではなく、自分たちのテリトリーである(と思っている)ウクライナの地にNATO軍が入り込もうとしていることが許せないものと思われます。それゆえ、「ロシアは『藪をつついて蛇を出した』。自業自得だ」論は、「ロシアは追い詰められている」の類の強引な論理展開であるという他ありません。
依然として「ロシアは追い詰められている」の類のプロパガンダは根強く残ってはいるものの、以前と比べると鳴りを潜めるようになってきたと言えるでしょう。
2024年03月18日
ついにローマ教皇までもが口にするようになった「戦争終結のための交渉を」:昨年11月末以降のNHKのウクライナ情勢報道を振り返る
https://news.yahoo.co.jp/articles/1c016a231f990c18b656dae241ea760746743423
クリスマスの日を1月7日から12月25日に変更してまで西欧諸国に擦り寄ったものの、当の西欧諸国の精神的支柱であるローマ教皇にこんなことを言われてしまったゼレンスキー政権。例によって全拒否するゼレンスキー氏ですが、ローマ教皇の発言の重みは、オルバン・ハンガリー首相は言うまでもなくトランプ・前アメリカ大統領や実業家のマスク氏が言うのとは質的にまったく意味合いが異なることに、いったいどこまで気が付いていることやら・・・
ついにローマ教皇までもが口にするようになった「戦争終結のための交渉を」。昨年末以来、当ブログでは久しくウクライナ情勢について取り上げて来ませんでしたが、この3〜4か月間は本当に事態が大きく動いたと言えます。今回のローマ教皇の発言は、その行きつく先だと言えるでしょう。
■昨年11月末以降のNHKのウクライナ情勢報道を振り返る
「今日のウクライナは明日の台湾・沖縄」をスローガンに戦時プロパガンダの予行演習に余念がなかったNHKをはじめとする日本メディアですが、昨年12月ごろから徐々にウクライナの苦境等を報じるようになったと当ブログは見ています。今回は、昨年11月末からのウクライナ情勢を巡る日本メディア(主にNHK)の報道を振り返りたいと思います。
■風向きを変えた米『ワシントンポスト』の報道
11月29日にNHKBSで放送された「国際報道2023」でドニプロ川東岸の狭いエリアに齧り付くウクライナ軍の存在を根拠に「ウクライナ軍が反転攻勢を続ける地域ではロシア軍の兵士の士気が低下し続けていると指摘されています」と報じたNHK。12月3日の「ニュース7」でも、ウクライナでの現地取材VTRの締め括りとして「嫌気や疲れが出ているのも事実」としつつも、「たとえ目立った成果がなくとも、いま戦いを止めるわけにはいかない、そんな人々の思いは変わっていないと感じます」とか「今は耐えるときだという声も聞かれました」といった具合に抗戦に重きを置く報道を展開してきました。12月頭まではそうだったのです。
風向きが急に変わったのは12月4日のことだったと考えます。米紙『ワシントンポスト』が「反転攻勢は失敗」と報じたのが転機でした。
https://www.fnn.jp/articles/-/625195
■葛藤?
とはいえ、この頃はまだ葛藤があったのだと思われます。12月5日の「ニュース7」は、ワシントンポスト紙の「反転攻勢は失敗」記事を報じはしたものの、スポーツコーナー直前の最終ニュースとして短く報じるに留まりました。また、12月6日の「キャッチ!世界のトップニュース」は、「苦しい状況になっているウクライナですが、それでも、反転攻勢をやめることも出来ません。期待された成果は出ていないものの、反転攻勢を続けているからこそ、ロシアからさらに多くの国土が奪われるのを防ぐことは出来ています」と強弁(「ウクライナ 行き詰まる反転攻勢」)しました。バフムト攻防戦や、のちのアウディーイウカ攻防戦を鑑みるに、本来は要所に集中しなければならなかった貴重なリソースを大して意味のない戦線に注ぎ込んだことで今日の事態に至っているのだから、むしろ、いわゆる「反転攻勢」こそが領土浸食をアシストしているように見えてならないところですが、かなり苦しい「解説」の展開を試みること自体が、戦況悪化という現実を印象の上では少しでも薄めたい・弱めたいという心境、報道機関として事実を報じざるを得ないがあまり積極的には報じたくないという葛藤を如実に示しているものと考えられます。いままで景気の良い戦時プロパガンダを展開してきたNHKとしては逆風が吹き始めたわけです。
ちなみに、今日の記事の冒頭にローマ教皇発言を取り上げた関係で触れておきたいのですが、ゼレンスキー政権下のウクライナは「ロシアとの決別」を強調するためにクリスマスの日程を1月7日から12月25日に変更しています。このことについて12月25日の「国際報道2023」は、クリスマスの日程変更に反対の立場を取るウクライナの聖職者のインタビューを放映しました。聖職者曰く「(政治的理由による宗教的行事の変更は)ソビエト時代のやり方が復活しているのだ」とのこと。加えて番組は、「国連人権高等弁務官事務所は、ウクライナでの信教の自由の尊重を呼びかけましたが、軍事侵攻の長期化とともに締め付けは強まっています」ともアナウンスしました。
他方、同日の「ニュース7」では、ほぼ同じ映像を使いつつウクライナ正教のクリスマスが正式に12月25日に日付変更されたとのみ報じ「多くの市民がこの変更を受けいれています」としつつ「誰もロシアと同じ日に祝いたくない ロシアから離れ私たちの伝統を築きたい」とインタビューに答えた女性の声のみ報じました(「ウクライナでクリスマス・イブの礼拝 ロシアに反発 暦を変更」2023年12月25日 20時08分)。両番組は非常に対照的です。
このことは「国際報道2023」編集チームと「ニュース7」編集チームは別々で十分に意思疎通ができていないことによるという見方も可能でしょう。当ブログでは、NHKの番組同士がバラバラにプロパガンダ展開したことで番組同士の報道内容が矛盾している・プロパガンダをお互いに打ち消し合っている様を何度も取り上げてきました。NHKでは番組同士の統制が取れていない可能性は引き続き十分に考えられます。
しかしながら、さすがに彼らもそのことにそろそろ気が付いていてしかるべきでしょう。視聴者層ごとに報道内容を分けている可能性についても考える必要があります。現に今回、この記事を書くために昨年11月末から撮りためていたNHKニュースを改めて視聴し直したのですが、以前ほど露骨な矛盾はなくなってきています。彼らも「番組ごとに報じていることがバラバラで、ときどき矛盾しているぞ」と気が付き始めているのでしょう。
そのように考えたとき、「国際報道2023」は、民放地上波がバラエティ番組や総合ニュース番組を放送している平日午後10時からNHKBSで、翌未明にNHK総合で放送される国際情勢に特化した番組である点において、その視聴者は国際情勢に世間平均以上の関心を持っている層であると考えられます。国際情勢に高い関心を持っている層にはそろそろマトモな情報を提供しないといけないが、そうでない層にはまだまだプロパガンダを展開しておきたいという心理が見て取れます。徐々に軌道修正し始めたと考えられるのです。
なお、ウクライナ正教のクリスマス日程の変更については当ブログも以前に取り上げたところです。改めて申しておけば、現在のロシア正教会とプーチン政権との関係の深さはかねてより指摘されていることですが、しかし、考えようによっては「モスクワ総主教キリルとその一味がプーチン政権とつるんでいるだけ」という見方も十分可能です。1000年以上の歴史を有するロシア正教そのものを排斥するのには疑問を感じざるを得ません。
■あの津屋尚解説委員までもが――ウクライナ支援予算成立の頓挫が決定打だったか
逆風をさらに強くしたのがアメリカ連邦議会での与野党対立によるウクライナ支援予算成立の頓挫であったと考えます。かねてより雲行きが怪しかったものでしたが、NHKは希望的観測に縋っていたのでしょう。12月8日の「国際報道2023」は、ウクライナ支援に消極的な共和党のジョンソン米下院議長について「ウクライナ支援に前向きになりつつある」とポジティブに報じました。
しかし、共和党はその後も決定的には態度を軟化させることはありませんでした。12月13日の「国際報道2023」は、「アメリカとウクライナ “新たな戦略”と“追加支援”は? (油井’s VIEW)」でWEB記事化されていますが、次のように報じていました。
結局12月21日、アメリカ議会はウクライナ支援予算の年内承認を断念しました(「米議会 ウクライナ支援継続の緊急予算 年内の承認を断念」2023年12月20日 15時18分)。ついにウクライナ支援が現実として滞る事態になったわけです。
この日以降、アメリカ様の明白なシグナルを受けてか、NHKは堰を切ったように今まで積極的には報じてこなかったウクライナ情勢の一側面について報じるようになったと当ブログは認識しています。12月21日の「国際報道2023」は、「【解説動画】揺れるウクライナ 国内結束 維持できるか」でWEB記事化されていますが、ゼレンスキー大統領とザルジニー総司令官(当時)との対立を詳報。WEB記事には収録されていませんが、放送では酒井美帆キャスターが「(ゼレンスキー大統領が前線の苦境についてザルジニー総司令官に)責任を押し付けているようにも聞こえます」とハッキリ述べ、油井秀樹・元NHKワシントン支局長も「そうですね」と応じる一幕がありました。開戦以来一貫して形成されてきた「ゼレンスキー大統領を中心として挙国一致・全国民が一丸となって侵略者と戦うウクライナ」像が崩れ始めた瞬間です。
12月28日には、調子のいい戦況「分析」を展開してきた(チュチェ111・2022年12月31日づけ「10月末から12月末までの約2か月間のウクライナ情勢まとめ(1)」参照)が先般の反転攻勢が失速・失敗してからというものの沈黙を守ってきた津屋尚解説委員が「厳しさ増す冬の戦い〜ウクライナは戦い続けられるか」という分析を開陳しました。
当該記事の冒頭で津屋解説委員は「不発に終わった反転攻勢」と言明。ザルジニー総司令官(当時)の論文を引用する形で現状を描き出しました。ゲームチェンジャーなどと持て囃されてきた西側戦車については「欧米の主力戦車などは、部隊が素早く移動しながら攻撃する“機動戦”でこそ威力を発揮しますが、動きが止まってしまっては、強みは失われてしまう」と軌道修正。反転攻勢が失速した具体的要因についても「広大な地雷原の存在」「制空権が取れなかったこと」そして「欧米からの軍事支援の遅れ」などと言及しました。
驚くべきことは、「戦争に終わりが見えない中で、ロシアに対する徹底抗戦を支えてきた兵士や国民の間には、“戦争疲れ”が見え始めています」「ウクライナ国内では、賄賂によって徴兵逃れをはかるケースや成人男性の国外逃亡も後を絶たず、ウクライナ軍は兵員の確保という課題にも直面しています」そして「ウクライナで今月行われた最新の世論調査によると、「戦争の長期化などにつながるとしても、決して領土を手放すべきではない」との回答が74%でした。国民の大半は依然として、クリミアを含め侵略された全ての領土の奪還まで戦い続けることを支持しています。しかし、過去1年の推移をみると、今年2月の87%をピークに徐々に減り続けています。「領土の一部放棄もありうる」との回答は1年前の2倍以上の19%と、交渉による解決を望む声が少しずつ増える傾向にあります。」などと言い始めたこと。昨秋のハルキウ方面でのウクライナ軍の大攻勢後、「武器も兵員も足りないロシアには、もはや立て直す余力はない」と言い切った(その直後に電力インフラへの大規模攻勢)彼がウクライナ国民の戦争疲れや兵役逃れ、領土の一部放棄を含む交渉による解決を望む声の増加に言及したわけです。
「世界の秩序に関わる問題」ともいう津屋解説委員。しかし、巻き返しの展望をまったく描けないまま記事は終わってしまっています。アメリカのウクライナ支援予算が成立しなかったことは、本当に大きな衝撃だったのでしょう。
■米『ポリティコ』の「ウクライナ領土奪還支援見直し検討」報道の頃から「ウクライナ世論の変化」が報じられるようになった
追い打ちをかけるように12月29日には、次のようなニュースが飛び込んできました。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231229/k10014303101000.html
年明け以降は「ウクライナ社会の疲れ」が繰り返し報じられました。たとえば1月7日の「ニュース7」。「国民の多くが徹底抗戦を続けるべきだと考えている現状に変わりはない」としつつも、「ロシアと決して妥協すべきではない」という世論調査への回答が一昨年5月から昨年12月の間に8パーセント低下していることを取り上げて「社会に疲労感」「世論が少しずつではあるものの変化している可能性」と報じました。1月10日には、ウクライナでは大学生は徴兵が猶予される制度であることを利用して30代以上の男性が大学に入学するケースが相次いでいるそうなのですが、当の30代大学生のインタビューが報じられました。30代大学生氏曰く、「私は人間です。なぜ家畜のように塹壕に追い込まれるのか。なぜ戦争に行くのかは理解しているが、それは別の話です」とのこと。これを受けてスタジオでは「大義と生きたいという願いとの強いジレンマ」とし、キーウで取材を続けるNHK記者も「世論は少しずつではあるものの変化してきている可能性があります」と述べたものでした。
1月22日には、NHKとしては異例的にウクライナ軍の攻撃によってドネツク人民共和国の民間人に死傷者が出たと報じました(「ロシア側の支配拠点 “ウクライナ軍の攻撃で市民27人が死亡”」 2024年1月22日 18時05分)ロシア軍の攻撃による民間人への被害はいままで盛んに報じられてきたものの、ウクライナ軍の攻撃による民間人への被害はほとんどと言ってよいほど報じられて来なかったところ。
アメリカに梯子を外されては堪らないという危機感が、ここまで報道姿勢の大転換をもたらしたのでしょう。
1月23日の「キャッチ!世界のトップニュース」は、フランスF2のアウディーイウカでの前線取材VTRを引用。キーウやリヴィウには記者を送るようになったNHKですが、相変わらず最前線には記者を送らず外電を引くことしかできないことについては、この際は措いておきましょう。F2は、あと数時間で前線に送られるウクライナ兵たちの祈りのシーンと、ギターでの弾き語り?シーンを捉えていたのですが、全員の顔がこれ以上ないまでに沈んでいました。「祖国防衛の士気が高いウクライナ軍」という開戦以来展開され刷り込まれてきたイメージとはまったく異なるものでした。「キャッチ!世界のトップニュース」はそれほど視聴率が高いとは言い難い番組ではあるものの、開戦以来展開され刷り込まれてきたイメージを突き崩す映像が放映された(百聞は一見に如かず!)ことの意味は非常に大であると考えます。
1月26日の「ニュース7」。「ロシアの物量攻撃を経験したウクライナ人の世論に変化」としつつ、ウクライナでの最新の世論調査について「欧米の支援が大きく減った場合について、58パーセントが『それでも戦闘を続けるべき』とした」が、「32パーセントが『戦闘の停止に踏み切った方がよい』と答えた」と報じました。その上で「支援を取り付け市民の安心を担保することができるか。ウクライナの最大の課題」であると付言しました。NHKを代表する午後7時のニュース番組においても、ここまで報じるようになったわけです。
■シルスキー氏をButcher呼ばわりするまでになったNHK――さすがに掌返しが酷くはないか?
ザルジニー総司令官の解任についてもNHKは割と正面から報じるようになりました。これ以上のプロパガンダ展開は苦しいと悟ったのでしょう。しかし、掌返しがさすがに酷い。
1月31日の「キャッチ!世界のトップニュース」は、「ウクライナ軍ザルジニー総司令官 解任の議論」でWEB記事化されていますが、「欧米の主要紙は、「ウクライナ軍のザルジニー総司令官の解任があるのかどうかという議論がウクライナ国内で高まっている」と、一斉に報じました」という切り出しで別府正一郎キャスターの解説を始めました。2月5日の同番組も「ゼレンスキー大統領 軍総司令官の解任検討 認める」というコーナーで、ウクライナ国民らの「ザルジニー氏は象徴的な存在で(解任は)国際的によくない印象を与える」とか「(ザルジニー氏は)幼い子どもでも知っていて(解任されたら)軍の暴動が起きると思う」といった声を報じました。当ブログに言わせれば「随分前から指摘されてきたことを何を新ネタのように・・・」といったところですが、NHKまでもが報じるようになったわけです。
2月9日の同番組は、ザルジニー氏の後任に任命されたシルスキー氏について取り上げたのですが、なんと彼をButcher(ブッチャー)呼ばわり。「人的損失を顧みないソビエト式の指揮官としても知られていて」とも言ってのけました。たしかにシルスキー氏はソビエトの士官学校を卒業していますが、軍の高級指揮官が40年近く前に学校で学んだことから何も進歩していないとでも言うのでしょうか? 印象操作が過ぎると言わざるを得ないでしょう。
いくらアメリカ様のシグナルが明白だからと言って、ついこの間まで「侵略者に対して祖国防衛の聖戦を展開するウクライナ軍」としてきたのに、その新しい総司令官に対して掌を反すかのように酷い印象操作を展開するNHKの報道姿勢に当ブログは強い憤りを覚えざるを得ません。
■まるで駆け込みのアリバイ作り
2月は、まるで駆け込みのアリバイ作りかのような勢いで、いままで決して報じられてこなかった米欧諸国やウクライナ国内での結束の乱れが相次いで報じられるようになりました。
2月19日づけ「大学生が20倍?ロシアと戦わない“徴兵逃れ”の実態は?」は、小見出しを拾うだけでも「大学生は徴兵対象外 30代の入学者数は侵攻前の20倍」とか「当初は軍に志願 気持ちが変わった理由とは」、「祖国も大事だが、家族も」といった字面が出てきています。堰を切ったかのようです。
2月24日づけ「【詳細】ウクライナへの軍事侵攻から2年 各地の動きは」は、次のように報じています。
2月21日づけ「ウクライナ侵攻2年 揺れるEU諸国 ロシアの隣国エストニアは」(2024年2月21日 18時27分)は、タイトルこそウクライナ支援に積極的なエストニアの国名が記載されていますが、支援疲れ著しいイタリアの状況について詳しく報じています。
NHK等の日本メディアの報道しか接していないと、あたかも最近になって国際社会が急に変質したように見えてしまいますが、もちろん突然こうなったわけではありません。以前から徐々に進行してきたことだがNHK等が報じてこなかっただけ。では、ここにきてなぜ急に報じるようになったのでしょうか。
NHK等にこのような急旋回を仕向けさせられるのは、アメリカを措いて他にはありません。昨年末のウクライナ支援予算成立が頓挫してしまったことに加え、ウクライナ支援の在り方に非常に批判的なトランプ前大統領が今年のアメリカ大統領選挙で返り咲く可能性が高まっていることを受けて、「これは本当にウクライナは梯子を外されるかもしれない」と認識し、大急ぎでアリバイ作りのように取り繕い始めたものと当ブログは考えます。このことは、NHKが国策報道機関に過ぎないことを示す一例であると考えます。
もちろん、「大急ぎで取り繕い始めた」というのは私の推測に過ぎませんが、「前々から現象化しており、本来はもっと早くから報じてくるべきだった事柄を最近になって急に報じるようになった」ことは間違いのないことです。少なくとも「NHKはマトモなマス・メディアとは言い難い」とは言えると考えます。
■NHKの心のうちは非常に苦しいのだろう
アメリカは言うに及ばず、EUでも特に西欧諸国で支援疲れが顕著になり足並みが乱れつつある、いわゆるグローバル・サウスの国々からは「ウクライナは領土を諦めてでも停戦したほうが良いのではないか」という声が徐々に広がって来、そして何よりもウクライナ国内でさえ結束が乱れている・・・NHKの心のうちは非常に苦しいのでしょう。たとえば1月25日の「キャッチ!世界のトップニュース」。「ロシア軍 軍用機墜落の波紋」でWEB記事化されていますが、ウクライナ人捕虜を乗せたロシア軍輸送機が墜落(ウクライナ軍のミサイルによる撃墜?)した件について、次のように主張しました。
このくだりからは、本心ではNHKは何も変わっていないが「国際社会」の動向の変化でしぶしぶ論調を変えているに過ぎないことが見て取れると考えます。しかし、逆張りの先陣を切れずこんな調子で単発的に抗うようにしか主張できないのは、ここにこそNHKの限界があるのでしょう。
■割とよくマトメられている大演説を何故かWEB記事化しない怪
2月15日の「キャッチ!世界のトップニュース」も、NHKの苦しい立場がよく現れていたと考えます。当該番組では、メインキャスターの別府正一郎氏が「侵攻 まもなく2年」という解説を展開。概要は次のようなものでした。
第一に、「一部のグローバル・サウスの国々からは、植民地政策を続けたヨーロッパがロシアを非難できるのかという不信感も根強くあります」などと言及しつつ、それへの反論を展開できていない点です。この戦争の性質は開戦以来、何ら変わっていないところ、最近は日を追うごとに「ウクライナは領土を諦めてでも停戦したほうが良いのではないか」という声がまさにグローバル・サウスの国々から上がってきています。筋論・原則論が通用しなくなってきているわけです。
急速に求心力を失いつつある筋論・原則論を相も変わらず繰り返すにとどまる別府キャスターの解説。いまいちど、いかにして国際世論を筋論・原則論に引き戻すのかを考えて必要に応じて持論をアップデートしなければならないはずのところ、まったくそれができていません。
当ブログが繰り返し指摘してきたとおり、開戦以来NHK等は一貫して筋論・原則論に則って報道を展開してきました。というよりも、橋下・グレンコ論争を鑑みるに筋論・原則論で思考を停止させていたというべきでしょう。この2年間の停滞を今から取り戻すのは非常に困難でしょう。この期に及んで未だに筋論・原則論を繰り返すことしかできない点に、NHKをはじめとする日本メディアの限界が顕著に現れていると考えます。
第二に、筋論・原則論としてよくマトメられた解説なので思考停止した日本国内向けとしては効果のある解説記事になると思われるところ、WEB記事化されていない点です。NHKのWEB事業はいま、民業圧迫云々を理由に規模縮小を余儀なくされているそうですが、そうはいっても似たような解説コンテンツはたいていがWEB記事化されています。その中でこれだけが例外的にWEB記事化されていないことに注目する必要があると考えます。
別府キャスターは「他国の領土を武力で奪う」と「民間人への攻撃」の2点からロシアのウクライナ侵攻を「世界的に確立されたルールに対する重大な挑戦」だと糾弾しますが、歴史を振り返るとその常習犯はアメリカであり、その現行犯はイスラエルであります(「ガザ地区、死者数3万人に迫る」2024年02月28日 14:07 朝鮮新報)。もちろん、「アメリカやイスラエルがやっているからロシアがやっても問題はない」とは言えません。しかし、いわゆる「そっちこそどうなんだ主義」(Whataboutism)に基づく論点逸らしの格好の口実になり得ます。
あくまでも推測ですが、NHKは、自分たちの言論活動が「そっちこそどうなんだ主義」の口実に利用され、話が制御不可能な方向に走り出すことを恐れているのではないでしょうか。日本の宗主国であるアメリカ様、そしてアメリカ様の主人であるイスラエル様に火の粉が掛からないようにすることはNHKにとって非常に重要なことでありましょう。つい先日、放送直前でタイトル変更が行われたようですが、当ブログでも何度かその露骨なプロパガンダ性を批判(チュチェ111・2022年6月5日づけ「日本社会の歴史を語る姿勢・歴史感覚はここまで退化しているのか」及び、同年12月30日づけ「単なる女性自衛官募集番組(それも程度の低い)になり下がった「映像の世紀 バタフライエフェクト」の「戦場の女たち」」参照)してきた「映像の世紀 バタフライエフェクト」は、「イスラエル 孤高と執念の国家」というタイトルで放映を試みた(最終的に「イスラエル」になった)ものでした。通常「孤高」というのは賞賛の意味を込めた言葉。今のイスラエルについて「孤高」という言葉を使うのは、控え目に言っても「非常に物議を醸す」と言わざるを得ません。
公安調査庁が「国際テロリズム要覧」で「アゾフ大隊はネオナチ」と書いて1年以上たってから大炎上したことを思い起こせば、アメリカ様やイスラエル様にもそのまま当てはまるロシア批判のWEB記事化を避けようとする心理が働くのは、理解できないことはありません。
この期に及んで未だに筋論・原則論を繰り返すことしかできず、しかしなぜかWEB記事化しない点に、NHKの苦しい立場がよく現れていると考えます。
■開戦以来何一つ変わっていない完全なる御題目をただ繰り返しているに過ぎない
2月21日の「キャッチ!世界のトップニュース」についても触れておきましょう。こちらはWEB記事化されています(「ウクライナ侵攻から2年 現状と今後は」)が、別府キャスターはまたしても次のように主張しました。
もっとも、おそらく彼も事態を打開するのは非常に困難であると分かってはいるのでしょう。2月28日の「キャッチ!世界のトップニュース」で報じられた「ウクライナへの軍事支援 “ジレンマのパターン”とは」では、次のように現状を認識しています。
NHKは相当行き詰っていると言わざるを得ないでしょう。
■TBS報道特集の大転向
いままでNHKの報道について取り上げてきましたが、TBS系「報道特集」について取り上げておきたいと思います。チュチェ111(2022)年4月10日づけ「TBSのジャーナリズムは今もまだ死んだまま:「ウクライナ国営放送日本語版」に成り下がったTBS『報道特集』と金平茂紀氏」で取り上げたとおり、開戦当初は市民らの勇ましい建前的発言だけを取り上げて戦時プロパガンダを垂れ流していたものの、今年2月24日の放送は、市民の本音を掘り起こすのに成功しています。
たとえば、「戦う意欲が高かった人たちは、去年までに亡くなってしまいました。もうそんな人たちはいません。政府が適切な行動をとらない限り、この戦争は負ける」というウクライナ国民の街頭インタビューを報じています。ウクライナ兵の動員ローテーションが正常に回っていないことは、かねてより指摘されてきたことですが、「夫の動員を解除せよ」というウクライナ人女性たちのデモ行進を取り上げることで、その問題にもキチンと触れています。さらに、NHK「映像の世紀 バタフライエフェクト」の「戦場の女たち」が典型的だったように、戦時プロパガンダがなかなか触れたがらない兵士たちの負傷(手足を失う)とリハビリシーンも放映。取り上げられた傷痍軍人は決して「前線に戻りたい」とは言わず「この体では役に立てない。福祉プロジェクトを立ち上げたい」と述べるに留まりました。彼の妻も「(負傷して)やっと一緒に暮らせると思った」というごくごく自然な人間の本音を口にしています。
特集は「一日も早く元の平和な暮らしを取り戻したい、人々の心からの願い」とか「戦争の見通しについてウクライナ提示案では集結できない、悲観的見通しを持つ(ウクライナの)人が、(侵攻)当初は2割程度だったが現在はおよそ半数にまで増えてきている…戦争終結のために外交交渉が必要と考える人は7割にまで増えてきている…国際社会は軍事支援一辺倒ではなくて、戦争終結への道筋を真剣に探るべき時期に来ている」と言明しました。ジャーナリズムの原点に立ち返り腹をくくったのでしょう。NHKとは大きな違いです。
■総括
昨年12月初旬に米紙『ワシントンポスト』が「反転攻勢は失敗」と報じたあたりから、葛藤を見せつつも渋々報道姿勢を変化させてきたNHK。ウクライナ支援予算のアメリカ議会での成立頓挫や米誌『ポリティコ』の「ウクライナ領土奪還支援見直し検討」報道の頃から、アメリカに梯子を外されては堪らないと危機感を覚えたのか、いままで積極的には報じてこなかったウクライナ情勢の一側面を慌てて取り繕うかのように報じるに至りました。開戦以来、日本メディアがせっせと形成してきた「ゼレンスキー大統領を中心として挙国一致・全国民が一丸となって侵略者と戦うウクライナ」像が、日本メディアの手によって突き崩されるようになったわけです。
かねてよりウクライナ支援の在り方に非常に批判的だったトランプ前大統領が、今年のアメリカ大統領選挙の共和党候補者指名獲得を確実にする情勢が固まった年明け以降は、さらにアリバイ作り的な取り繕いが加速。2月には、まるで駆け込みのアリバイ作りかのような勢いで、いままで決して報じられてこなかった米欧諸国やウクライナ国内での結束の乱れが相次いで報じられるようになりました。その過程で、新たにウクライナ軍総司令官に任命されたシルスキー氏をButcher呼ばわりするまでになったNHK。さすがに掌返しが酷いと言わざるを得ません。少なくとも「NHKはマトモなマス・メディアとは言い難い」とは言えると考えます。
アメリカは言うに及ばず、EUでも特に西欧諸国で支援疲れが顕著になり足並みが乱れつつある、いわゆるグローバル・サウスの国々からは「ウクライナは領土を諦めてでも停戦したほうが良いのではないか」という声が徐々に広がって来、そして何よりもウクライナ国内でさえ結束が乱れている・・・NHKの心のうちは非常に苦しいものと思われます。因果論として成立していない恥ずかしいロシア批判を展開したかと思えば、割とよくマトメられている解説コンテンツをWEB記事化しないといった奇妙な行動を展開しています。また、開戦以来の筋論・原則論が急速に求心力を失いつつあるのは明白であるところ、相も変らぬ主張を御題目のように展開することしかできないNHKをはじめとする日本メディアの行き詰まり・限界が顕著になっています。
最近はついに「在キーウ活動家が予測するゼレンスキー大統領の年内退任と、ザルジニー前軍総司令官の大統領就任」(3/16(土) 12:02配信 サンデー毎日×週刊エコノミストOnline)という記事が出るに至っています。かつては抵抗の象徴だったゼレンスキー大統領の凋落。今後、NHK等はどのように事実を加工して報じるのか。引き続きウォッチしてゆく必要があると考えています。
ゼレンスキー大統領、ローマ教皇の「白旗」提案一蹴 教会は「生きたいと願う人と滅ぼしたいと願う人を仲介する場ではない」■ローマ教皇の発言の重みに、いったいどこまで気が付いていることやら・・・
3/11(月) 10:50配信
ロイター
ウクライナのゼレンスキー大統領は10日、ローマ教皇フランシスコがロシアと戦争終結を交渉するよう呼びかけたことに対し、教皇による「事実上の仲介」だとして拒否した。
(以下略)
クリスマスの日を1月7日から12月25日に変更してまで西欧諸国に擦り寄ったものの、当の西欧諸国の精神的支柱であるローマ教皇にこんなことを言われてしまったゼレンスキー政権。例によって全拒否するゼレンスキー氏ですが、ローマ教皇の発言の重みは、オルバン・ハンガリー首相は言うまでもなくトランプ・前アメリカ大統領や実業家のマスク氏が言うのとは質的にまったく意味合いが異なることに、いったいどこまで気が付いていることやら・・・
ついにローマ教皇までもが口にするようになった「戦争終結のための交渉を」。昨年末以来、当ブログでは久しくウクライナ情勢について取り上げて来ませんでしたが、この3〜4か月間は本当に事態が大きく動いたと言えます。今回のローマ教皇の発言は、その行きつく先だと言えるでしょう。
■昨年11月末以降のNHKのウクライナ情勢報道を振り返る
「今日のウクライナは明日の台湾・沖縄」をスローガンに戦時プロパガンダの予行演習に余念がなかったNHKをはじめとする日本メディアですが、昨年12月ごろから徐々にウクライナの苦境等を報じるようになったと当ブログは見ています。今回は、昨年11月末からのウクライナ情勢を巡る日本メディア(主にNHK)の報道を振り返りたいと思います。
■風向きを変えた米『ワシントンポスト』の報道
11月29日にNHKBSで放送された「国際報道2023」でドニプロ川東岸の狭いエリアに齧り付くウクライナ軍の存在を根拠に「ウクライナ軍が反転攻勢を続ける地域ではロシア軍の兵士の士気が低下し続けていると指摘されています」と報じたNHK。12月3日の「ニュース7」でも、ウクライナでの現地取材VTRの締め括りとして「嫌気や疲れが出ているのも事実」としつつも、「たとえ目立った成果がなくとも、いま戦いを止めるわけにはいかない、そんな人々の思いは変わっていないと感じます」とか「今は耐えるときだという声も聞かれました」といった具合に抗戦に重きを置く報道を展開してきました。12月頭まではそうだったのです。
風向きが急に変わったのは12月4日のことだったと考えます。米紙『ワシントンポスト』が「反転攻勢は失敗」と報じたのが転機でした。
https://www.fnn.jp/articles/-/625195
米・ワシントンポスト“膠着状態となり失敗” 6月開始のウクライナの反転攻勢について分析同日の「国際報道2023」は「表面化するウクライナ国民の不満」という小見出しを擁する「ウクライナ “無人機戦略” と長期戦の課題 〜油井キャスター現地報告 A 〜」を公開。次のようにウクライナ社会の現状を報じました。
フジテレビ 国際取材部
2023年12月5日 火曜 午前10:35
アメリカのワシントンポストは4日、ウクライナがロシアに対して6月に始めた反転攻勢について、膠着状態となり失敗しているとの分析記事をまとめた。
ワシントンポストによると、ウクライナとアメリカ、イギリスの軍幹部が、反転攻勢に向けて8回にわたる机上演習を行い、進軍目標の一つ南部のアゾフ海に、早ければ2ヶ月から3ヶ月で到達し、ロシア軍を切り離せると分析していた。
しかし、実際には、半年で12マイルしか進まず、作戦は停止状態に陥ったとしている。
(以下略)
「兵士は(政府の)捕虜ではない」その上で次のように続けました。
この日、首都キーウ中心部では数百人の女性が集まり、抗議の声をあげていました。
「戦闘が長期化するなかで、夫や子どもたちに早く戦場から戻ってきてほしい。そう妻や母親たちが訴えています」
参加者たちが訴えていたのは、「18か月たった兵士には自由を」「疲れた兵士には交代が必要だ」など、戦地に動員された兵士たちの兵役期間を明確にすることでした。夫や子供たちが、“無期限”で戦地に派遣されているといいます。
こうしたなか、軍による強引な動員が指摘されています。
地元メディアが伝えたこちらの映像。男性が病院で健康診断を受けに来た際、軍の関係者に囲まれ、医師も見ているなかで連れ出される様子だとしています。
(中略)
さらに別のメディアは、道を歩いていた男性が、車に押し込まれ、連行されたとする様子を伝えました。こうした軍の行為は特に地方で深刻になっていると言われ、軍による兵士不足への“焦り”が出たものと受け止められています。
さらに、政府関係者が徴兵を逃れる人たちから賄賂を受け取る汚職も社会問題となっています。ウクライナ政府は、徴兵の対象者をトラックの中に隠し、国外に逃しているグループを摘発。「徴兵事務所」の責任者が現金を受け取る見返りに、徴兵を免除したり、外国へ出国できるよう偽の文書を作成したりするケースが頻発しているといいます。
酒井キャスター:侵攻から1年9か月が過ぎ、侵攻直後とは違う課題も出てきているのですね。開戦以来、継続的に垂れ流されてきた「ゼレンスキー大統領を中心として挙国一致・全国民が一丸となって侵略者と戦うウクライナ」像とは正反対の現状を、しれっと報じるNHK。かくも真反対に掌返しできるその面の皮の厚さには驚きを禁じ得ませんが、いよいよ現実を認めざるを得なくなったのでしょう。
油井キャスター:侵攻直後、ウクライナは愛国心が高まり、国民は結束していました。
しかし、 ここに来て、長期戦に伴う不満が表面化し始め、戒厳令が出されている戦時下にもかかわらず、異例の抗議デモが最近、行われるようになっているのです。こうしたデモは今のところ自由に行われていて、カで抑えつけているロシアとは対応が異なっています。
ただ、ゼレンスキー政権はこうした国民の声に真摯に向き合わなければ、不満はさらに広がり、国民の結束が瓦解する事態となりかねません。
■葛藤?
とはいえ、この頃はまだ葛藤があったのだと思われます。12月5日の「ニュース7」は、ワシントンポスト紙の「反転攻勢は失敗」記事を報じはしたものの、スポーツコーナー直前の最終ニュースとして短く報じるに留まりました。また、12月6日の「キャッチ!世界のトップニュース」は、「苦しい状況になっているウクライナですが、それでも、反転攻勢をやめることも出来ません。期待された成果は出ていないものの、反転攻勢を続けているからこそ、ロシアからさらに多くの国土が奪われるのを防ぐことは出来ています」と強弁(「ウクライナ 行き詰まる反転攻勢」)しました。バフムト攻防戦や、のちのアウディーイウカ攻防戦を鑑みるに、本来は要所に集中しなければならなかった貴重なリソースを大して意味のない戦線に注ぎ込んだことで今日の事態に至っているのだから、むしろ、いわゆる「反転攻勢」こそが領土浸食をアシストしているように見えてならないところですが、かなり苦しい「解説」の展開を試みること自体が、戦況悪化という現実を印象の上では少しでも薄めたい・弱めたいという心境、報道機関として事実を報じざるを得ないがあまり積極的には報じたくないという葛藤を如実に示しているものと考えられます。いままで景気の良い戦時プロパガンダを展開してきたNHKとしては逆風が吹き始めたわけです。
ちなみに、今日の記事の冒頭にローマ教皇発言を取り上げた関係で触れておきたいのですが、ゼレンスキー政権下のウクライナは「ロシアとの決別」を強調するためにクリスマスの日程を1月7日から12月25日に変更しています。このことについて12月25日の「国際報道2023」は、クリスマスの日程変更に反対の立場を取るウクライナの聖職者のインタビューを放映しました。聖職者曰く「(政治的理由による宗教的行事の変更は)ソビエト時代のやり方が復活しているのだ」とのこと。加えて番組は、「国連人権高等弁務官事務所は、ウクライナでの信教の自由の尊重を呼びかけましたが、軍事侵攻の長期化とともに締め付けは強まっています」ともアナウンスしました。
他方、同日の「ニュース7」では、ほぼ同じ映像を使いつつウクライナ正教のクリスマスが正式に12月25日に日付変更されたとのみ報じ「多くの市民がこの変更を受けいれています」としつつ「誰もロシアと同じ日に祝いたくない ロシアから離れ私たちの伝統を築きたい」とインタビューに答えた女性の声のみ報じました(「ウクライナでクリスマス・イブの礼拝 ロシアに反発 暦を変更」2023年12月25日 20時08分)。両番組は非常に対照的です。
このことは「国際報道2023」編集チームと「ニュース7」編集チームは別々で十分に意思疎通ができていないことによるという見方も可能でしょう。当ブログでは、NHKの番組同士がバラバラにプロパガンダ展開したことで番組同士の報道内容が矛盾している・プロパガンダをお互いに打ち消し合っている様を何度も取り上げてきました。NHKでは番組同士の統制が取れていない可能性は引き続き十分に考えられます。
しかしながら、さすがに彼らもそのことにそろそろ気が付いていてしかるべきでしょう。視聴者層ごとに報道内容を分けている可能性についても考える必要があります。現に今回、この記事を書くために昨年11月末から撮りためていたNHKニュースを改めて視聴し直したのですが、以前ほど露骨な矛盾はなくなってきています。彼らも「番組ごとに報じていることがバラバラで、ときどき矛盾しているぞ」と気が付き始めているのでしょう。
そのように考えたとき、「国際報道2023」は、民放地上波がバラエティ番組や総合ニュース番組を放送している平日午後10時からNHKBSで、翌未明にNHK総合で放送される国際情勢に特化した番組である点において、その視聴者は国際情勢に世間平均以上の関心を持っている層であると考えられます。国際情勢に高い関心を持っている層にはそろそろマトモな情報を提供しないといけないが、そうでない層にはまだまだプロパガンダを展開しておきたいという心理が見て取れます。徐々に軌道修正し始めたと考えられるのです。
なお、ウクライナ正教のクリスマス日程の変更については当ブログも以前に取り上げたところです。改めて申しておけば、現在のロシア正教会とプーチン政権との関係の深さはかねてより指摘されていることですが、しかし、考えようによっては「モスクワ総主教キリルとその一味がプーチン政権とつるんでいるだけ」という見方も十分可能です。1000年以上の歴史を有するロシア正教そのものを排斥するのには疑問を感じざるを得ません。
■あの津屋尚解説委員までもが――ウクライナ支援予算成立の頓挫が決定打だったか
逆風をさらに強くしたのがアメリカ連邦議会での与野党対立によるウクライナ支援予算成立の頓挫であったと考えます。かねてより雲行きが怪しかったものでしたが、NHKは希望的観測に縋っていたのでしょう。12月8日の「国際報道2023」は、ウクライナ支援に消極的な共和党のジョンソン米下院議長について「ウクライナ支援に前向きになりつつある」とポジティブに報じました。
しかし、共和党はその後も決定的には態度を軟化させることはありませんでした。12月13日の「国際報道2023」は、「アメリカとウクライナ “新たな戦略”と“追加支援”は? (油井’s VIEW)」でWEB記事化されていますが、次のように報じていました。
油井キャスター:「勝利の方程式」には欠かせない追加支援ですが、アメリカはウクライナへの支援を継続していけるのでしょうか。12月14日の「ニュースウオッチ9」もウクライナ情勢について「ウクライナ軍 こう着状態に アメリカの支援継続は不透明」というテロップを出しました。大学教授等の専門家をスタジオに呼んで展望の解説をさせるといったことをせず、事実を淡々と報じるにとどめた点を鑑みるに、NHKは固唾をのんで行方を見守っていたのでしょう。
渡辺公介記者:予断は許さない状況です。野党・共和党の下院議員の投票行動をまとめているグループの調査によりますと、ことし9月に採決が行われたウクライナ支援の緊急予算に反対した議員は100人を超え、 1年あまりで反対の議員は倍以上に増えています。
これまでは、ウクライナ支援をめぐる緊急予算のすべてに賛成票を投じてきた共和党議員に今週、話を聞きましたが、この議員は「バイデン政権の戦略が見えない。白紙の小切手を切る前に、議会に説明するべきだ」と述べ、反対する姿勢に転じています。
議会上院の共和党のトップ、マコネル院内総務は今月25日までに緊急予算が承認されることはないと強調しました。
アメリカ政府はこのままでは年内にウクライナ支援の予算は枯渇するとの見通しを示しています。
支援が滞れば、ウクライナの戦況にも影響を及ほすことは間違いなく、バイデン政権は難しい局面を迎えています。
結局12月21日、アメリカ議会はウクライナ支援予算の年内承認を断念しました(「米議会 ウクライナ支援継続の緊急予算 年内の承認を断念」2023年12月20日 15時18分)。ついにウクライナ支援が現実として滞る事態になったわけです。
この日以降、アメリカ様の明白なシグナルを受けてか、NHKは堰を切ったように今まで積極的には報じてこなかったウクライナ情勢の一側面について報じるようになったと当ブログは認識しています。12月21日の「国際報道2023」は、「【解説動画】揺れるウクライナ 国内結束 維持できるか」でWEB記事化されていますが、ゼレンスキー大統領とザルジニー総司令官(当時)との対立を詳報。WEB記事には収録されていませんが、放送では酒井美帆キャスターが「(ゼレンスキー大統領が前線の苦境についてザルジニー総司令官に)責任を押し付けているようにも聞こえます」とハッキリ述べ、油井秀樹・元NHKワシントン支局長も「そうですね」と応じる一幕がありました。開戦以来一貫して形成されてきた「ゼレンスキー大統領を中心として挙国一致・全国民が一丸となって侵略者と戦うウクライナ」像が崩れ始めた瞬間です。
12月28日には、調子のいい戦況「分析」を展開してきた(チュチェ111・2022年12月31日づけ「10月末から12月末までの約2か月間のウクライナ情勢まとめ(1)」参照)が先般の反転攻勢が失速・失敗してからというものの沈黙を守ってきた津屋尚解説委員が「厳しさ増す冬の戦い〜ウクライナは戦い続けられるか」という分析を開陳しました。
当該記事の冒頭で津屋解説委員は「不発に終わった反転攻勢」と言明。ザルジニー総司令官(当時)の論文を引用する形で現状を描き出しました。ゲームチェンジャーなどと持て囃されてきた西側戦車については「欧米の主力戦車などは、部隊が素早く移動しながら攻撃する“機動戦”でこそ威力を発揮しますが、動きが止まってしまっては、強みは失われてしまう」と軌道修正。反転攻勢が失速した具体的要因についても「広大な地雷原の存在」「制空権が取れなかったこと」そして「欧米からの軍事支援の遅れ」などと言及しました。
驚くべきことは、「戦争に終わりが見えない中で、ロシアに対する徹底抗戦を支えてきた兵士や国民の間には、“戦争疲れ”が見え始めています」「ウクライナ国内では、賄賂によって徴兵逃れをはかるケースや成人男性の国外逃亡も後を絶たず、ウクライナ軍は兵員の確保という課題にも直面しています」そして「ウクライナで今月行われた最新の世論調査によると、「戦争の長期化などにつながるとしても、決して領土を手放すべきではない」との回答が74%でした。国民の大半は依然として、クリミアを含め侵略された全ての領土の奪還まで戦い続けることを支持しています。しかし、過去1年の推移をみると、今年2月の87%をピークに徐々に減り続けています。「領土の一部放棄もありうる」との回答は1年前の2倍以上の19%と、交渉による解決を望む声が少しずつ増える傾向にあります。」などと言い始めたこと。昨秋のハルキウ方面でのウクライナ軍の大攻勢後、「武器も兵員も足りないロシアには、もはや立て直す余力はない」と言い切った(その直後に電力インフラへの大規模攻勢)彼がウクライナ国民の戦争疲れや兵役逃れ、領土の一部放棄を含む交渉による解決を望む声の増加に言及したわけです。
「世界の秩序に関わる問題」ともいう津屋解説委員。しかし、巻き返しの展望をまったく描けないまま記事は終わってしまっています。アメリカのウクライナ支援予算が成立しなかったことは、本当に大きな衝撃だったのでしょう。
■米『ポリティコ』の「ウクライナ領土奪還支援見直し検討」報道の頃から「ウクライナ世論の変化」が報じられるようになった
追い打ちをかけるように12月29日には、次のようなニュースが飛び込んできました。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231229/k10014303101000.html
“欧米当局者 ウクライナ領土奪還支援 見直し検討”米メディア「停戦交渉はロシアに領土の一部を割譲することを意味する」というのは、今日の記事の冒頭で取り上げたフランシスコ教皇の発言とも通ずるものがあります。結局、教皇の発言はかねてより政治家たちが模索してきた路線を宗教指導者が後押ししたようなもの(そして、この後押しの意味合いが非常に重い)。(政治的)権力も(宗教的)権威もこぞって停戦交渉を公然と口にするようになってきたわけです。
2023年12月29日 6時24分
ロシア軍が侵攻を続けるウクライナをめぐり、アメリカのメディアは、欧米の当局者がウクライナのすべての領土奪還を支援する戦略について、停戦交渉を念頭に見直す検討をしていると伝えました。
アメリカの政治専門サイト「ポリティコ」は27日、アメリカとヨーロッパの当局者の話として、ウクライナがロシアに占領されたすべての領土を奪還することを支援してきたこれまでの戦略について、見直す検討をしていると伝えました。
反転攻勢に参加しているウクライナの兵力を、ロシア軍による激しい攻撃が続く東部に配置し、防衛を強化することなどについて協議しているということで、当局者は将来の停戦交渉でウクライナを優位にすることを目指したものだとしています。
ポリティコは停戦交渉はロシアに領土の一部を割譲することを意味するとしていますが、「ロシアとの交渉は計画されていない」という当局者の話も伝えています。
(以下略)
年明け以降は「ウクライナ社会の疲れ」が繰り返し報じられました。たとえば1月7日の「ニュース7」。「国民の多くが徹底抗戦を続けるべきだと考えている現状に変わりはない」としつつも、「ロシアと決して妥協すべきではない」という世論調査への回答が一昨年5月から昨年12月の間に8パーセント低下していることを取り上げて「社会に疲労感」「世論が少しずつではあるものの変化している可能性」と報じました。1月10日には、ウクライナでは大学生は徴兵が猶予される制度であることを利用して30代以上の男性が大学に入学するケースが相次いでいるそうなのですが、当の30代大学生のインタビューが報じられました。30代大学生氏曰く、「私は人間です。なぜ家畜のように塹壕に追い込まれるのか。なぜ戦争に行くのかは理解しているが、それは別の話です」とのこと。これを受けてスタジオでは「大義と生きたいという願いとの強いジレンマ」とし、キーウで取材を続けるNHK記者も「世論は少しずつではあるものの変化してきている可能性があります」と述べたものでした。
1月22日には、NHKとしては異例的にウクライナ軍の攻撃によってドネツク人民共和国の民間人に死傷者が出たと報じました(「ロシア側の支配拠点 “ウクライナ軍の攻撃で市民27人が死亡”」 2024年1月22日 18時05分)ロシア軍の攻撃による民間人への被害はいままで盛んに報じられてきたものの、ウクライナ軍の攻撃による民間人への被害はほとんどと言ってよいほど報じられて来なかったところ。
アメリカに梯子を外されては堪らないという危機感が、ここまで報道姿勢の大転換をもたらしたのでしょう。
1月23日の「キャッチ!世界のトップニュース」は、フランスF2のアウディーイウカでの前線取材VTRを引用。キーウやリヴィウには記者を送るようになったNHKですが、相変わらず最前線には記者を送らず外電を引くことしかできないことについては、この際は措いておきましょう。F2は、あと数時間で前線に送られるウクライナ兵たちの祈りのシーンと、ギターでの弾き語り?シーンを捉えていたのですが、全員の顔がこれ以上ないまでに沈んでいました。「祖国防衛の士気が高いウクライナ軍」という開戦以来展開され刷り込まれてきたイメージとはまったく異なるものでした。「キャッチ!世界のトップニュース」はそれほど視聴率が高いとは言い難い番組ではあるものの、開戦以来展開され刷り込まれてきたイメージを突き崩す映像が放映された(百聞は一見に如かず!)ことの意味は非常に大であると考えます。
1月26日の「ニュース7」。「ロシアの物量攻撃を経験したウクライナ人の世論に変化」としつつ、ウクライナでの最新の世論調査について「欧米の支援が大きく減った場合について、58パーセントが『それでも戦闘を続けるべき』とした」が、「32パーセントが『戦闘の停止に踏み切った方がよい』と答えた」と報じました。その上で「支援を取り付け市民の安心を担保することができるか。ウクライナの最大の課題」であると付言しました。NHKを代表する午後7時のニュース番組においても、ここまで報じるようになったわけです。
■シルスキー氏をButcher呼ばわりするまでになったNHK――さすがに掌返しが酷くはないか?
ザルジニー総司令官の解任についてもNHKは割と正面から報じるようになりました。これ以上のプロパガンダ展開は苦しいと悟ったのでしょう。しかし、掌返しがさすがに酷い。
1月31日の「キャッチ!世界のトップニュース」は、「ウクライナ軍ザルジニー総司令官 解任の議論」でWEB記事化されていますが、「欧米の主要紙は、「ウクライナ軍のザルジニー総司令官の解任があるのかどうかという議論がウクライナ国内で高まっている」と、一斉に報じました」という切り出しで別府正一郎キャスターの解説を始めました。2月5日の同番組も「ゼレンスキー大統領 軍総司令官の解任検討 認める」というコーナーで、ウクライナ国民らの「ザルジニー氏は象徴的な存在で(解任は)国際的によくない印象を与える」とか「(ザルジニー氏は)幼い子どもでも知っていて(解任されたら)軍の暴動が起きると思う」といった声を報じました。当ブログに言わせれば「随分前から指摘されてきたことを何を新ネタのように・・・」といったところですが、NHKまでもが報じるようになったわけです。
2月9日の同番組は、ザルジニー氏の後任に任命されたシルスキー氏について取り上げたのですが、なんと彼をButcher(ブッチャー)呼ばわり。「人的損失を顧みないソビエト式の指揮官としても知られていて」とも言ってのけました。たしかにシルスキー氏はソビエトの士官学校を卒業していますが、軍の高級指揮官が40年近く前に学校で学んだことから何も進歩していないとでも言うのでしょうか? 印象操作が過ぎると言わざるを得ないでしょう。
いくらアメリカ様のシグナルが明白だからと言って、ついこの間まで「侵略者に対して祖国防衛の聖戦を展開するウクライナ軍」としてきたのに、その新しい総司令官に対して掌を反すかのように酷い印象操作を展開するNHKの報道姿勢に当ブログは強い憤りを覚えざるを得ません。
■まるで駆け込みのアリバイ作り
2月は、まるで駆け込みのアリバイ作りかのような勢いで、いままで決して報じられてこなかった米欧諸国やウクライナ国内での結束の乱れが相次いで報じられるようになりました。
2月19日づけ「大学生が20倍?ロシアと戦わない“徴兵逃れ”の実態は?」は、小見出しを拾うだけでも「大学生は徴兵対象外 30代の入学者数は侵攻前の20倍」とか「当初は軍に志願 気持ちが変わった理由とは」、「祖国も大事だが、家族も」といった字面が出てきています。堰を切ったかのようです。
2月24日づけ「【詳細】ウクライナへの軍事侵攻から2年 各地の動きは」は、次のように報じています。
NHKが現地調査機関と共同実施 意識調査結果は昨年末以来、少しずつ崩れていた「ゼレンスキー大統領を中心として挙国一致・全国民が一丸となって侵略者と戦うウクライナ」像が完全に崩壊した瞬間であるという他ありません。
ロシアによる軍事侵攻が始まって2年となるなか、ウクライナの国民の68%が「領土を奪還するまで徹底抗戦を続けるべきだ」と答えた一方で、「和平交渉を始めるべきだ」と回答した人が24%と、1年前に比べて2倍に増えたことがNHKがウクライナの首都キーウを拠点に活動する調査機関「レーティング」と共同で実施した意識調査で明らかになりました。
調査は、今月9日から3日間、ロシアが占領している東部の一部の地域と南部クリミアを除くウクライナ各地の18歳以上の市民を対象に電話で行い、1000人から回答を得ました。
(中略)
【戦況をどうみるか】
戦況をめぐって「勝利に近づいている」または「一歩一歩勝利に近づいている」と回答した人は、半数を超えて54%に上りました。一方、「停滞している」と回答した人は30%でした。「少しずつ後退している」か「後退している」とした人は12%で「停滞」または「後退」と回答した人はあわせて42%となりました。なかでも18歳から35歳までの若い世代では「停滞」または「後退」と回答した人の割合が53%にのぼり「勝利に近づいている」と回答した44%を上回っています。
【停滞・後退の理由は】
「停滞」または「後退」と回答した人に対してその理由を尋ねたところ、「ウクライナ政府の結束やリーダーシップの不足」と回答した人が42%と最も多く「欧米による兵器の支援不足」が30%、「国際社会によるロシアへの圧力不足や連携不足」が10%でした。
【「徹底抗戦」68%も「停戦し和平交渉」24%と去年比2倍に】
今後ウクライナ政府に何を期待するかについては、「クリミアを取り戻すなど旧ソビエトから独立した時点の状況になるまで戦闘を続ける」が55%、「軍事侵攻が始まる前のおととし2月23日の時点に戻るまで戦闘を続ける」が13%と、領土を奪還するまで徹底抗戦を続けるべきだと回答した人があわせて68%にのぼりました。一方で「停戦し和平交渉を始めるべきだ」と答えた人は24%と、1年前の12%から2倍に増えました。そう回答した人を年齢別に見ますと、51歳以上が去年から6ポイント増えて18%、36歳から50歳までが14ポイント増えて27%、18歳から35歳まででは20ポイント増えて31%となりました。国民の多くが徹底抗戦を続けるべきだと考えている一方で若い世代を中心に停戦を求める声も出ていることがわかります。
(中略)
軍事侵攻2年 ウクライナの市民の声は
18歳の男性
「戦争が長期化するなかで、人々は疲れているし、恐怖も感じています。しかし、もし降参すれば、敵は、再び攻撃を仕掛けてくるでしょう。私は戦う準備ができているし、戦い続けるべきだと思います」
18歳の女性
「去年はまだ、戦争が終結し、私たちが勝利するだろうという明るい兆しがありました。しかしいま、私たちは、道のりがとても長いものであることに気付いています。もちろん誰もが戦争の終結を望んでいて、これまでに失ったものを考えれば、戦争は終わらせたほうがいいと思います。しかし、2年後、3年後にプーチンが攻めてこないという保証はどこにもありません」
「多くの友人が死に、多くの親族が戦地にいます。もし自分の父親や恋人が動員されたらと考えない日はありません。平和で静かな日が訪れることを願っています」
60歳の男性
「ウクライナの人たちも前線の兵士たちもみな疲弊しきっています。また欧米側からの支援も不足し、ウクライナは厳しい状況にあります。私は戦い続けるのではなく、交渉し、選択肢を探す必要があると思います。しかし、交渉だけではウクライナに未来はありません。欧米側のパートナーから将来に対する何らかの保証が必要です」
2月21日づけ「ウクライナ侵攻2年 揺れるEU諸国 ロシアの隣国エストニアは」(2024年2月21日 18時27分)は、タイトルこそウクライナ支援に積極的なエストニアの国名が記載されていますが、支援疲れ著しいイタリアの状況について詳しく報じています。
まちの人からも「ウクライナは大変な状況なので支援するのは正しいと思うが、国内の現実に目を向けることも必要だ」とか「今回の侵攻の影響で生活が困窮しているイタリア人が国内にたくさんいる」など、ウクライナへの軍事支援よりもイタリアの人々の生活を守るために予算を使うべきだという声が聞かれました。同記事ではEU全体についても次のようにも報じています。
イタリアの連立与党「同盟」のロメオ上院議員によりますと、こうした世論を背景に与党内からも戦争を終わらせるための外交努力をするべきだという声が出ているといいます。
ロメオ上院議員は「こう着している戦況を、軍事的に解決することはできない。ヨーロッパだけでなく世界中で人々は戦争の影響を感じている。外交交渉を早く始めれば始めるほど、戦争を早く終わらせられる可能性がある」と話していました。
EUの世論調査からは、ウクライナへの軍事支援に対する支持は全体として時間がたつごとに下がる傾向にあり、国によって差があることが見てとれます。アメリカは言うに及ばず、EUでも特に西欧諸国で支援疲れが顕著になり足並みが乱れつつある、いわゆるグローバル・サウスの国々からは「ウクライナは領土を諦めてでも停戦したほうが良いのではないか」という声が徐々に広がって来、そして何よりもウクライナ国内でさえ結束が乱れている・・・NHKは盛んに「国際社会」という単語を使いますが、まさに国際社会の現状を鑑みるに、とてもこのまま戦争を続けられるような状況にはなくなってきているわけです。
侵攻が始まった2022年の6月から7月にかけて行われた調査では、EU全体でウクライナへの軍事支援を支持すると答えた人は68%、それが去年の1月から2月にかけて行われた調査では65%、去年の10月から11月にかけて行われた調査では60%でした。
(中略)
このうち、ことしのG7議長国でもあるイタリアは、おととしの6月から7月に比べて「支持する」と答えた人が57%から51%に減る一方で、「支持しない」と答えた人が37%から44%に増え、その差が縮まってきています。
NHK等の日本メディアの報道しか接していないと、あたかも最近になって国際社会が急に変質したように見えてしまいますが、もちろん突然こうなったわけではありません。以前から徐々に進行してきたことだがNHK等が報じてこなかっただけ。では、ここにきてなぜ急に報じるようになったのでしょうか。
NHK等にこのような急旋回を仕向けさせられるのは、アメリカを措いて他にはありません。昨年末のウクライナ支援予算成立が頓挫してしまったことに加え、ウクライナ支援の在り方に非常に批判的なトランプ前大統領が今年のアメリカ大統領選挙で返り咲く可能性が高まっていることを受けて、「これは本当にウクライナは梯子を外されるかもしれない」と認識し、大急ぎでアリバイ作りのように取り繕い始めたものと当ブログは考えます。このことは、NHKが国策報道機関に過ぎないことを示す一例であると考えます。
もちろん、「大急ぎで取り繕い始めた」というのは私の推測に過ぎませんが、「前々から現象化しており、本来はもっと早くから報じてくるべきだった事柄を最近になって急に報じるようになった」ことは間違いのないことです。少なくとも「NHKはマトモなマス・メディアとは言い難い」とは言えると考えます。
■NHKの心のうちは非常に苦しいのだろう
アメリカは言うに及ばず、EUでも特に西欧諸国で支援疲れが顕著になり足並みが乱れつつある、いわゆるグローバル・サウスの国々からは「ウクライナは領土を諦めてでも停戦したほうが良いのではないか」という声が徐々に広がって来、そして何よりもウクライナ国内でさえ結束が乱れている・・・NHKの心のうちは非常に苦しいのでしょう。たとえば1月25日の「キャッチ!世界のトップニュース」。「ロシア軍 軍用機墜落の波紋」でWEB記事化されていますが、ウクライナ人捕虜を乗せたロシア軍輸送機が墜落(ウクライナ軍のミサイルによる撃墜?)した件について、次のように主張しました。
ただ、忘れてはならないのは、そもそもウクライナへの侵攻はロシアが始めたものだということです。侵攻がなければウクライナ兵が捕虜として捕らえられることもなく、今回の交換も行わることはなかったでしょう苦しすぎる「もとはと言えば」理論。「ロシアがウクライナに侵攻したが最後、何をどう頑張っても当該輸送機が墜落し搭乗員らが死ぬしか他に道がなかった」のなら「ロシアのウクライナ侵攻のせい」と言えるでしょうが、そうではありません。原因と結果の関係が必然の関係になっておらず、因果論として成立していないのです。本気でこういうこと言っているとすれば、論理的思考力を疑わざるを得ません。
このくだりからは、本心ではNHKは何も変わっていないが「国際社会」の動向の変化でしぶしぶ論調を変えているに過ぎないことが見て取れると考えます。しかし、逆張りの先陣を切れずこんな調子で単発的に抗うようにしか主張できないのは、ここにこそNHKの限界があるのでしょう。
■割とよくマトメられている大演説を何故かWEB記事化しない怪
2月15日の「キャッチ!世界のトップニュース」も、NHKの苦しい立場がよく現れていたと考えます。当該番組では、メインキャスターの別府正一郎氏が「侵攻 まもなく2年」という解説を展開。概要は次のようなものでした。
武力で他国の領土を奪って国境線を変えようとする。言ってみれば、これだけはしてはならないという国際社会の根本的なルールを破ったロシアによるウクライナ侵攻から…2年になってしまいます。改めてこの侵攻の問題点を国際法の観点から考えて見たいと思います。筋論・原則論としては、よくマトメられた解説であると言えます。それ故に2点指摘できるでしょう。
(中略)
まず、「他国の領土を武力で奪う」という行動についてです。こうした行動は過去には横行していました。…戦争のたびに国境線が目まぐるしく変わりました…ヨーロッパの国々はアフリカや中東などを侵略し植民地政策の下で恣意的に境界線を引いて分割しました…こうした行動がもたらした犠牲と破壊のすさまじさは言葉では言い表せないものです。
しかし、こうした経験を経て国際社会は、第二次世界大戦後に国連を発足させ、国連憲章では武力による威嚇または武力の行使を禁じ領土の保全を掲げています。国連に加盟するということはこの原則を受け入れるということ…つまり、世界的に確立されたルールなのです。ロシアによるウクライナ侵攻は、このルールへの重大な挑戦になっています。
次に、「民間人への攻撃」についてです。ジュネーブ諸条約の根本的な原則の一つは「民間人と民間施設の保護」であり、意図的な攻撃は戦争犯罪とみなされています。これも世界的に確立されたルールになっています。ロシアが繰り返しているウクライナの都市部の民間住宅に対するミサイル攻撃…は、このルールについても重大な挑戦です。
もちろん、これについてはさまざまな反論が聞かれます。たとえば、ロシアは欧米がウクライナを支援していることを指してロシアがあたかも防衛の戦いをしていると主張しています。また、一部のグローバル・サウスの国々からは、植民地政策を続けたヨーロッパがロシアを非難できるのかという不信感も根強くあります。さらに、SNSではさまざまなナラティブが飛び交っていて、鵜呑みにしてしまう人もいないわけではありません。
こうした中でロシアのウクライナ侵攻から2年になるというタイミングで私たちに何ができるのかを考えてみると、いまいちど私たちが加盟している国連の基本文書等を目を通してみることで、改めて気付きが得られるかもしれません。
第一に、「一部のグローバル・サウスの国々からは、植民地政策を続けたヨーロッパがロシアを非難できるのかという不信感も根強くあります」などと言及しつつ、それへの反論を展開できていない点です。この戦争の性質は開戦以来、何ら変わっていないところ、最近は日を追うごとに「ウクライナは領土を諦めてでも停戦したほうが良いのではないか」という声がまさにグローバル・サウスの国々から上がってきています。筋論・原則論が通用しなくなってきているわけです。
急速に求心力を失いつつある筋論・原則論を相も変わらず繰り返すにとどまる別府キャスターの解説。いまいちど、いかにして国際世論を筋論・原則論に引き戻すのかを考えて必要に応じて持論をアップデートしなければならないはずのところ、まったくそれができていません。
当ブログが繰り返し指摘してきたとおり、開戦以来NHK等は一貫して筋論・原則論に則って報道を展開してきました。というよりも、橋下・グレンコ論争を鑑みるに筋論・原則論で思考を停止させていたというべきでしょう。この2年間の停滞を今から取り戻すのは非常に困難でしょう。この期に及んで未だに筋論・原則論を繰り返すことしかできない点に、NHKをはじめとする日本メディアの限界が顕著に現れていると考えます。
第二に、筋論・原則論としてよくマトメられた解説なので思考停止した日本国内向けとしては効果のある解説記事になると思われるところ、WEB記事化されていない点です。NHKのWEB事業はいま、民業圧迫云々を理由に規模縮小を余儀なくされているそうですが、そうはいっても似たような解説コンテンツはたいていがWEB記事化されています。その中でこれだけが例外的にWEB記事化されていないことに注目する必要があると考えます。
別府キャスターは「他国の領土を武力で奪う」と「民間人への攻撃」の2点からロシアのウクライナ侵攻を「世界的に確立されたルールに対する重大な挑戦」だと糾弾しますが、歴史を振り返るとその常習犯はアメリカであり、その現行犯はイスラエルであります(「ガザ地区、死者数3万人に迫る」2024年02月28日 14:07 朝鮮新報)。もちろん、「アメリカやイスラエルがやっているからロシアがやっても問題はない」とは言えません。しかし、いわゆる「そっちこそどうなんだ主義」(Whataboutism)に基づく論点逸らしの格好の口実になり得ます。
あくまでも推測ですが、NHKは、自分たちの言論活動が「そっちこそどうなんだ主義」の口実に利用され、話が制御不可能な方向に走り出すことを恐れているのではないでしょうか。日本の宗主国であるアメリカ様、そしてアメリカ様の主人であるイスラエル様に火の粉が掛からないようにすることはNHKにとって非常に重要なことでありましょう。つい先日、放送直前でタイトル変更が行われたようですが、当ブログでも何度かその露骨なプロパガンダ性を批判(チュチェ111・2022年6月5日づけ「日本社会の歴史を語る姿勢・歴史感覚はここまで退化しているのか」及び、同年12月30日づけ「単なる女性自衛官募集番組(それも程度の低い)になり下がった「映像の世紀 バタフライエフェクト」の「戦場の女たち」」参照)してきた「映像の世紀 バタフライエフェクト」は、「イスラエル 孤高と執念の国家」というタイトルで放映を試みた(最終的に「イスラエル」になった)ものでした。通常「孤高」というのは賞賛の意味を込めた言葉。今のイスラエルについて「孤高」という言葉を使うのは、控え目に言っても「非常に物議を醸す」と言わざるを得ません。
公安調査庁が「国際テロリズム要覧」で「アゾフ大隊はネオナチ」と書いて1年以上たってから大炎上したことを思い起こせば、アメリカ様やイスラエル様にもそのまま当てはまるロシア批判のWEB記事化を避けようとする心理が働くのは、理解できないことはありません。
この期に及んで未だに筋論・原則論を繰り返すことしかできず、しかしなぜかWEB記事化しない点に、NHKの苦しい立場がよく現れていると考えます。
■開戦以来何一つ変わっていない完全なる御題目をただ繰り返しているに過ぎない
2月21日の「キャッチ!世界のトップニュース」についても触れておきましょう。こちらはWEB記事化されています(「ウクライナ侵攻から2年 現状と今後は」)が、別府キャスターはまたしても次のように主張しました。
別府キャスター: 実は、私はウクライナでの取材のあとも、携帯にウクライナの空襲警報を知らせるアプリをずっと入れたままにしています。空襲警報が出るとアプリが連動して、地図の上にミサイルが着弾するおそれのある場所が赤くなるのですが、この2年間、このアプリが作動しなかった日は事実上なかったと思います。つまり、ウクライナの人々はこの2年間、絶えず「いつミサイルが撃ち込まれるかもしれない」という恐怖にさらされながら過ごしてきたということだと思います。「今目の前で犯罪行為が起きて被害を受けている人に対して、「我慢したらどうですか」「抵抗を止めて諦めたらどうですか」というのはおかしなことです。犯罪行為をしている方に「止めろ」というのが大切です」――アメリカもEU諸国もいわゆるグローバル・サウスの国々もそんなことは百も承知。にもかかわらず、開戦以来のこの手の筋論・原則論が急速に求心力を失いつつあるのは明白であります。どうしてもこの原則は譲れないというのならば、米欧諸国やグローバル・サウスの国々を説得させられるバージョンアップされた筋論・原則論を展開すべきところ、開戦以来何一つ変わっていない完全なる御題目をただ繰り返しているに過ぎないのが別府キャスターの主張です。繰り返しになりますが、まさにNHKをはじめとする日本メディアの限界であると言わざるを得ないでしょう。
(中略)
別府キャスター:さらに、いったん停戦で攻撃をやめても、また力を蓄えて攻撃するかもしれないという懸念も、ウクライナ側では強くされています。例えば、あえて犯罪に置き換えて考えてみると、今目の前で犯罪行為が起きて被害を受けている人に対して、「我慢したらどうですか」「抵抗を止めて諦めたらどうですか」というのはおかしなことです。犯罪行為をしている方に「止めろ」というのが大切です。
やはり、プーチン氏がこれ以上攻撃を続けるのをためらうような状況を作れるかどうかがカギと思いますが、それは、制裁や外交、そして抑止力でもあると思います。突き詰めれば、ウクライナへの国際的な連帯をどれだけ維持できるのか、国際社会の一層の努力が求められている。国際社会が試されている局面になっていると言えるのではないでしょうか。
もっとも、おそらく彼も事態を打開するのは非常に困難であると分かってはいるのでしょう。2月28日の「キャッチ!世界のトップニュース」で報じられた「ウクライナへの軍事支援 “ジレンマのパターン”とは」では、次のように現状を認識しています。
フランスのマクロン大統領がウクライナに欧米側が地上部隊を派遣する可能性について「排除されるべきではない」などと発言したことに対し、ヨーロッパやアメリカからは否定する発言が相次いでいます」「手の打ちようがないが、その事実を正面から認めたくないので、御題目を唱え続ける」といったところなのでしょう。
「こうした欧米の足並みの乱れを見ていて思うのは、ロシアの侵攻開始以降のこの2年間あこうしたことは何回も起きていることで、今や、“ひとつのパターン”になっていると言ってもいいような状況だということです。つまり、欧米は、「強大な軍事支援を行うべきだ」という考えと、それによって、ロシアが反発して核使用を含む「事態のエスカレーション(激化)を招きかねない」という懸念との間を、行ったり来たりしているのです
(中略)
ウクライナへの欧米側の地上部隊派遣の可能性をめぐる議論が改めてあぶり出しているのは、ウクライナへの軍事支援をどこまで行うかの難しい決断が、今後も、毎回毎回迫られることになりそうだということです。
NHKは相当行き詰っていると言わざるを得ないでしょう。
■TBS報道特集の大転向
いままでNHKの報道について取り上げてきましたが、TBS系「報道特集」について取り上げておきたいと思います。チュチェ111(2022)年4月10日づけ「TBSのジャーナリズムは今もまだ死んだまま:「ウクライナ国営放送日本語版」に成り下がったTBS『報道特集』と金平茂紀氏」で取り上げたとおり、開戦当初は市民らの勇ましい建前的発言だけを取り上げて戦時プロパガンダを垂れ流していたものの、今年2月24日の放送は、市民の本音を掘り起こすのに成功しています。
たとえば、「戦う意欲が高かった人たちは、去年までに亡くなってしまいました。もうそんな人たちはいません。政府が適切な行動をとらない限り、この戦争は負ける」というウクライナ国民の街頭インタビューを報じています。ウクライナ兵の動員ローテーションが正常に回っていないことは、かねてより指摘されてきたことですが、「夫の動員を解除せよ」というウクライナ人女性たちのデモ行進を取り上げることで、その問題にもキチンと触れています。さらに、NHK「映像の世紀 バタフライエフェクト」の「戦場の女たち」が典型的だったように、戦時プロパガンダがなかなか触れたがらない兵士たちの負傷(手足を失う)とリハビリシーンも放映。取り上げられた傷痍軍人は決して「前線に戻りたい」とは言わず「この体では役に立てない。福祉プロジェクトを立ち上げたい」と述べるに留まりました。彼の妻も「(負傷して)やっと一緒に暮らせると思った」というごくごく自然な人間の本音を口にしています。
特集は「一日も早く元の平和な暮らしを取り戻したい、人々の心からの願い」とか「戦争の見通しについてウクライナ提示案では集結できない、悲観的見通しを持つ(ウクライナの)人が、(侵攻)当初は2割程度だったが現在はおよそ半数にまで増えてきている…戦争終結のために外交交渉が必要と考える人は7割にまで増えてきている…国際社会は軍事支援一辺倒ではなくて、戦争終結への道筋を真剣に探るべき時期に来ている」と言明しました。ジャーナリズムの原点に立ち返り腹をくくったのでしょう。NHKとは大きな違いです。
■総括
昨年12月初旬に米紙『ワシントンポスト』が「反転攻勢は失敗」と報じたあたりから、葛藤を見せつつも渋々報道姿勢を変化させてきたNHK。ウクライナ支援予算のアメリカ議会での成立頓挫や米誌『ポリティコ』の「ウクライナ領土奪還支援見直し検討」報道の頃から、アメリカに梯子を外されては堪らないと危機感を覚えたのか、いままで積極的には報じてこなかったウクライナ情勢の一側面を慌てて取り繕うかのように報じるに至りました。開戦以来、日本メディアがせっせと形成してきた「ゼレンスキー大統領を中心として挙国一致・全国民が一丸となって侵略者と戦うウクライナ」像が、日本メディアの手によって突き崩されるようになったわけです。
かねてよりウクライナ支援の在り方に非常に批判的だったトランプ前大統領が、今年のアメリカ大統領選挙の共和党候補者指名獲得を確実にする情勢が固まった年明け以降は、さらにアリバイ作り的な取り繕いが加速。2月には、まるで駆け込みのアリバイ作りかのような勢いで、いままで決して報じられてこなかった米欧諸国やウクライナ国内での結束の乱れが相次いで報じられるようになりました。その過程で、新たにウクライナ軍総司令官に任命されたシルスキー氏をButcher呼ばわりするまでになったNHK。さすがに掌返しが酷いと言わざるを得ません。少なくとも「NHKはマトモなマス・メディアとは言い難い」とは言えると考えます。
アメリカは言うに及ばず、EUでも特に西欧諸国で支援疲れが顕著になり足並みが乱れつつある、いわゆるグローバル・サウスの国々からは「ウクライナは領土を諦めてでも停戦したほうが良いのではないか」という声が徐々に広がって来、そして何よりもウクライナ国内でさえ結束が乱れている・・・NHKの心のうちは非常に苦しいものと思われます。因果論として成立していない恥ずかしいロシア批判を展開したかと思えば、割とよくマトメられている解説コンテンツをWEB記事化しないといった奇妙な行動を展開しています。また、開戦以来の筋論・原則論が急速に求心力を失いつつあるのは明白であるところ、相も変らぬ主張を御題目のように展開することしかできないNHKをはじめとする日本メディアの行き詰まり・限界が顕著になっています。
最近はついに「在キーウ活動家が予測するゼレンスキー大統領の年内退任と、ザルジニー前軍総司令官の大統領就任」(3/16(土) 12:02配信 サンデー毎日×週刊エコノミストOnline)という記事が出るに至っています。かつては抵抗の象徴だったゼレンスキー大統領の凋落。今後、NHK等はどのように事実を加工して報じるのか。引き続きウォッチしてゆく必要があると考えています。
2024年03月08日
「なにげない一言」から見える深い日本世論の闇
https://news.yahoo.co.jp/articles/75f2bbdebe394a4b125e0be79da6711b2ad064d7
かつてキム・ジョンイル総書記は「なにげない一言に本音がある」と仰いましたが、濱家さんの思考回路が垣間見えます。濱家さんはそういう思考回路・行動原理の持ち主で、そうであるがゆえに他人もそうであるに違いないとお考えなのでしょう。当ブログのようにヤフコメをはじめとする「便所の落書き以下」を収集して分析していると、割とこのような「意地」を思考回路・行動原理の中心に据えている人が少なくないように見受けられます。要するに、常に誰かと張り合っているわけです。本当にご苦労なことです。
切磋琢磨という言葉があるように競争自体は決して否定されるべきことではありませんが、この域に達してくると空回りしている感が否めません。張り合いが思考回路・行動原理の中心になってくると、いつも誰かと戦っているような状態になります。しまいには、やたらと高いプライド・とても強い自己愛、そしてその裏返し的な他罰的な言動といった副作用の影響も無視しえなくなってくるように思われます。
その最たるものが「上級国民」談義だったと考えます。チュチェ110(2021)年9月26日づけ「日本人の良識・良心をこのまま守り抜けるかの正念場」においても書きましたが、「一般国民」呼ばわりされて腹を立てたのであれば、本来なら「一般」の対義語は「特殊」なので、「訳の分からない理屈・ジャーゴンを連発し、屁理屈を捏ね繰り回す特殊国民」と言って逆に嗤ってやるのが筋だったところ、何故か「上級国民」という言葉を産み出してしまった日本世論。その動機には、常日頃から抱える劣等感の影を強く推認せざるを得ません。自分たちが「下級」だという被害妄想的自認があるので「見下された!!」と思ったのでしょう。
濱家さんの「なにげない一言」からは、深い日本世論の闇の入口が見えるような気がします。
批判を受けて謝罪した濱家さんですが、この謝罪コメントもなかなか味わい深い仕上がりになっています。
https://news.yahoo.co.jp/articles/9f156df16bf94aba40066ec44f4d4d48109f9239
こうして見てみると、そもそも濱家さんには組織的に仕事をするという観念が根本的に欠如しており、根っからの個人事業主メンタリティなのかもしれません。
ところで、今回の騒動を見て思ったのは「歴史的経緯を知ることは大切」ということ。Wikipediaにもありますが、西洋における医薬分業の始まりは、医者による毒殺を恐れた神聖ローマ帝国のフリードリヒ2世が、病気を診断する者と薬を管理する者とを分けたことに由来すると言われています。非常に理解しやすい動機です。
「歴史を学んで何の意味がある、過去のことなんて知って何になる。今を知っていれば十分じゃないか」という学生諸君のボヤキをときどき耳にしますが、その一つの答えとして「経緯を知っていると現状の理解が定着しやすいから」と申し上げたい。
大人になるにつれて覚えなければならないことは飛躍的に増えてゆく一方で、記憶力は年々低下してゆくので、すべてを丸暗記するのではとても間に合わなくなります。複数の事柄が混ざって誤った記憶になることも増えてゆきます。このとき、経緯を知っていると忘れにくいし、経緯を知っていれば記憶が混合してしまったときに誤りに気付きやすくなります。
更に言うと、頭のいい人は何でも効率的に整理して覚えているので、そういう人たちと渡り合ってゆくためにも「知らないよりは知っていた方が断然お得」とも言い添えたいと思います。小中学生でも知っているような常識的な知識を覚えていない大人は、それを知らないからといって日常生活・労働生活で困ることはないとしても、軽く見られる・小馬鹿にされるものです。
かまいたち濱家「考えなしに失礼な事言ってしまいました」薬剤師とのやりとり“イライラ”を謝罪医薬分業の制度を知らないのにも驚きですが、「医者あこがれ」というのは、まったく思いもよらないナナメ上の発想。要するに「一応医療関係者である薬剤師にもプライドがあるから、医者に張り合ってやろう粗を探し出してやろうという意識がある」と言っているわけです。すごい発想ですね。
3/1(金) 18:00配信
日刊スポーツ
(中略)
相方の山内健司が、薬局での薬剤師とのやりとりを“イライラする瞬間”として挙げ、「処方箋を持って薬局に行ったとき、薬剤師の人がちょっとカウンセリングじゃないですけど『どうされたんですか、今日?お熱、あるんですか?』とか(聞いてくる)。いや、関係ないやん?それ(診察)はしてきた上で、その結果、これ(処方箋)をもらって渡してんねんから、さっさと薬を渡して。帰りたいのに。あれ、全然いらん時間やろって思っちゃって…」と訴えて笑いを誘った。
出演者のお笑い芸人、馬場園梓は「わかる!だって、そいつに言ったって(処方される)薬は変わらへんからな」と笑って同調。濱家は「薬剤師さんも医療に携わってるから一応、“医者あこがれ”みたいなのがある」とフォローを入れていたが、これらの発言に対し、SNS上では「これってお医者さんが処方したお薬と患者さんの症状がちゃんと合ってるかって確認してるから全然無駄な時間ちゃうねんって。こいつにイライラした」「本気で何を言ってるんか…薬剤師さんの重要性知らんのか」「その発言にイラツキます 薬剤師は出てる処方と患者さんの病状がきちんと合っているかチェックすることも仕事なのでムダなことではないです。医者憧れも違います」などといった批判の声があがっていた。
(以下略)
かつてキム・ジョンイル総書記は「なにげない一言に本音がある」と仰いましたが、濱家さんの思考回路が垣間見えます。濱家さんはそういう思考回路・行動原理の持ち主で、そうであるがゆえに他人もそうであるに違いないとお考えなのでしょう。当ブログのようにヤフコメをはじめとする「便所の落書き以下」を収集して分析していると、割とこのような「意地」を思考回路・行動原理の中心に据えている人が少なくないように見受けられます。要するに、常に誰かと張り合っているわけです。本当にご苦労なことです。
切磋琢磨という言葉があるように競争自体は決して否定されるべきことではありませんが、この域に達してくると空回りしている感が否めません。張り合いが思考回路・行動原理の中心になってくると、いつも誰かと戦っているような状態になります。しまいには、やたらと高いプライド・とても強い自己愛、そしてその裏返し的な他罰的な言動といった副作用の影響も無視しえなくなってくるように思われます。
その最たるものが「上級国民」談義だったと考えます。チュチェ110(2021)年9月26日づけ「日本人の良識・良心をこのまま守り抜けるかの正念場」においても書きましたが、「一般国民」呼ばわりされて腹を立てたのであれば、本来なら「一般」の対義語は「特殊」なので、「訳の分からない理屈・ジャーゴンを連発し、屁理屈を捏ね繰り回す特殊国民」と言って逆に嗤ってやるのが筋だったところ、何故か「上級国民」という言葉を産み出してしまった日本世論。その動機には、常日頃から抱える劣等感の影を強く推認せざるを得ません。自分たちが「下級」だという被害妄想的自認があるので「見下された!!」と思ったのでしょう。
濱家さんの「なにげない一言」からは、深い日本世論の闇の入口が見えるような気がします。
批判を受けて謝罪した濱家さんですが、この謝罪コメントもなかなか味わい深い仕上がりになっています。
https://news.yahoo.co.jp/articles/9f156df16bf94aba40066ec44f4d4d48109f9239
かまいたち濱家、薬剤師への不適切発言を謝罪「本当に申し訳ありませんでした」「無知から失礼な発言」「僕の意識の中に、会社で言うところの、医者→上司、薬剤師→部下みたいな会社内の上下のイメージがあったのだと思います」「“会社に勤めてるからには社長に憧れみたいなのがあるんちゃう?”的な発言でした」――会社員は意地を張って仕事しているわけじゃないんですけどね。濱家さんはそんな風に思っているんですか? これまたビックリ。上司だって人間でありミスをすることがありうるから「この資料のここの数字って・・・」という話になるわけです。よりよいものを世に送り出したいという気持ちがあるし、また、間違いがそのままになれば、回りまわって自分も困ることになるわけでもありますから(特に、ミスを挽回するための突撃戦作業は往々にして人海戦術的であり下っ端がやらされるから・・・)。
3/7(木) 13:08配信
スポニチアネックス
お笑いコンビ「かまいたち」濱家隆一(40)が7日、自身のX(旧ツイッター)を更新。2月28日に放送されたABCテレビ「これ余談なんですけど…」(水曜後11・17)内での医療に関する不適切な発言について改めて謝罪した。
「薬剤師の方々へ」と題し、文書を投稿。「薬剤師の方々へ。今回の件、本当に申し訳ありませんでした」と謝罪した。
番組内での発言について「“医療に携わってるから医者憧れみたいなのがあるんちゃう?”という発言は、僕の意識の中に、会社で言うところの、医者→上司、薬剤師→部下みたいな会社内の上下のイメージがあったのだと思います」と説明。「“会社に勤めてるからには社長に憧れみたいなのがあるんちゃう?”的な発言でした」とした。
「実際そこにそんな上下の事実はないのに、僕の無知から薬剤師さんにとても失礼な発言をしてしまいました」とつづった。
(以下略)
こうして見てみると、そもそも濱家さんには組織的に仕事をするという観念が根本的に欠如しており、根っからの個人事業主メンタリティなのかもしれません。
ところで、今回の騒動を見て思ったのは「歴史的経緯を知ることは大切」ということ。Wikipediaにもありますが、西洋における医薬分業の始まりは、医者による毒殺を恐れた神聖ローマ帝国のフリードリヒ2世が、病気を診断する者と薬を管理する者とを分けたことに由来すると言われています。非常に理解しやすい動機です。
「歴史を学んで何の意味がある、過去のことなんて知って何になる。今を知っていれば十分じゃないか」という学生諸君のボヤキをときどき耳にしますが、その一つの答えとして「経緯を知っていると現状の理解が定着しやすいから」と申し上げたい。
大人になるにつれて覚えなければならないことは飛躍的に増えてゆく一方で、記憶力は年々低下してゆくので、すべてを丸暗記するのではとても間に合わなくなります。複数の事柄が混ざって誤った記憶になることも増えてゆきます。このとき、経緯を知っていると忘れにくいし、経緯を知っていれば記憶が混合してしまったときに誤りに気付きやすくなります。
更に言うと、頭のいい人は何でも効率的に整理して覚えているので、そういう人たちと渡り合ってゆくためにも「知らないよりは知っていた方が断然お得」とも言い添えたいと思います。小中学生でも知っているような常識的な知識を覚えていない大人は、それを知らないからといって日常生活・労働生活で困ることはないとしても、軽く見られる・小馬鹿にされるものです。
ラベル:「世間」・「世論」