2019年08月22日

「いいとこ取り」をヨシとしない日本世論の「風向き」が変わりかねない際どい事態

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190822-00000165-kyodonews-bus_all
セブン大阪時短店が日曜定休通告 本部は慰留、導入すれば異例
8/22(木) 20:15配信
共同通信

 自主的に24時間営業を短縮したセブン―イレブン東大阪南上小阪店(大阪府東大阪市)のオーナー、松本実敏さん(57)が9月から日曜日を定休日にするとセブン―イレブン・ジャパン本部に通告したことが22日、分かった。人手不足を理由としている。本部側は慰留した。セブン加盟店は年中無休が前提で、定休日を導入すれば異例となる。

 松本さんによると通告は22日。本部側は契約違反だと指摘し、人員を派遣すると提案した。松本さんは、派遣にかかる金銭的負担を理由に断った。


(以下略)
日本世論は、妬みの感情もあると思いますが、「いいとこ取り」をヨシとしない傾向にあります。万事自分に都合の良い「旨い話」など、そうそうはありえない、そんなことは許せない・・・といった感覚です。コメント欄でも以下のとおり指摘されています。
そうであれば自分で個人商店を立ち上げて自由に営業時間を設定したらいいのでは。本部の営業に関する指示には従わない、でもオリジナル商品やブランドの恩恵を受ける、は成立しないでしょう。
好き勝手に定休日作りたいのならフランチャイズに加盟するべきでは無いと思う。
フランチャイズシステムの、オイシイとこだけ欲しいというのが認められるのなら、
好き勝手やった者だけが得をする社会になってしまう。
さすがに自分の勝手放題に営業したいなら
フランチャイズでセブンのブランドを利用せずにやればいいのに
それが成功すればあらたな小売業のFC元になるかもしれない
まさにそれが先行事例じゃないかな
ブランドは利用したいけどとにかく自分のやりたいようにやりたいでは
身勝手というか都合良すぎじゃないかな
今回、セブン・イレブンのFC殿様商売システムに風穴を開けることができたのは、なによりも「評判経済」たる現代資本主義市場経済における「世論」に他なりません。世論がFCオーナー側に同情的で、そうした状況を機敏に察知したセブン・イレブン本社側が、自社の評判に傷がつくことを恐れるからこそ契約条件の譲歩を決断したわけです。

その「世論」が眉をひそめるような挙に出た東大阪南上小阪店オーナー氏。本部側の人員派遣申し出の詳細が分からないので断定的なことは言えませんが、コメント欄で店舗経営コンサルタントの佐藤昌司氏が「あまり度が過ぎると世論の風向きが変わるリスクもあります。同情から「わがまま」と見られるということになりかねません」と指摘しているように、これは「風向き」が変わりかねない際どい事態です。。。「本部側もいままで相当、やりたい放題してきたんだからお互い様」といった具合のフォローも出てきていますが、いささか苦しいようです。「本部の横暴を糺す」という錦の御旗を掲げているときに「そっちこそどうなんだ主義」は、あまりウケがよくないように見受けられます。

例によって藤田孝典氏がコメントを寄せています。本件に関する彼の主張については、3月12日づけ「「少数派は多数派に合わせろ」と言うに等しい暴論が労働界隈・社会政策界隈の人権闘士から出てきた驚きの展開――ブルジョア的「お客様」論に接近する異常事態」で既に批判していますが、今度は「正直なところ、日曜日にコンビニが閉まっていても問題ありません」と言い始めました。そのまま読むと、「本部側の人員派遣申し出がお話にならないくらいショボい以上は、日曜定休はやむを得ない(=本部が更に譲歩すべき)」ではなくて、本当に日曜定休でいいと思っているように読めます。

そりゃまあ、無ければ無いでみんな仕方ないから環境に合わせるでしょうが、だからといって「そらみろ、本当はなくてもよいんだ!」という話にはならないでしょう。そのうちお役所みたいな営業時間を提唱したり、ついには「コンビニなんて無くても構わない」とか言い出すんでしょうか? まさかなあ。。。でもなあ。。。

全国的に、商店街の個人営業の小商店が大型スーパーに淘汰された経緯を見るに、消費者の求めるものは「いつでも開いている店」であることは間違いないでしょう。しかし、それが働く側にとって問題が発生するのであれば、「綱引き」の要領で元に戻すのではなく、双方の要求を両立させるべく方法を考えるというのが正道だと思うのですが(社会政策界隈では「綱引き」的発想によく遭遇するものです)。

ライフスタイルやワークスタイルの多様化している「多様性の時代」だからこそ、消費者運動と労働運動が連携して「組織としては年中無休:24時間・365日営業であるが、労働者個人としては十分な休暇・休養を取ることが出来る」ようにすべく企業・資本側に要求を展開してゆくことが必要なのではないのでしょうか。それこそ市民団体や労働組合の出番なのではないでしょうか。

「無いなら無いで私は困らないから構わない」論法で年中無休・24時間営業の中止に賛同する言説は、「全体から見れば少数かも知れないが、そのタイミングでそれを必要とする人・せざるを得ない人が社会には存在する」ということを無視した粗雑な議論であり、多数派の都合によって少数派の必要を無視する暴論ではないのでしょうか。

そもそも、「深夜閉店」なら「多数派にとっては無問題」と言えるでしょうが、「日曜定休」はそうと言えるのでしょうか。。。藤田氏の言説は「ぼくの かんがえた りそうの しゃかい」を出発点としているようにしか読めない主張が決して少なくありませんが、これはまさにそのド真ん中といえそうです。

本件ニュース及びさらに原理主義化した藤田氏の言説を目の当たりにして、改めて疑問に思います。

ちなみに私は、「本部側の人員派遣申し出がお話にならないくらいショボい以上は、日曜定休はやむを得ない」というのであれば、「それなら致し方ない」という点において決断を理解します。これは、「組織としては年中無休:24時間・365日営業であるが、労働者個人としては十分な休暇・休養を取ることが出来る」ようにすべく企業・資本側に要求を展開してゆくことが必要という立場ゆえのことです。原則として「年中無休:24時間・365日営業」を支持するものです。他方、「そこまでしてセブン・イレブンのFC加盟店でなければならないのか?」という疑問も浮かんできます(きっと何か理由があるんでしょうけど)。どちらが先に袂を分かとうとするでしょうか。
posted by s19171107 at 23:54| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2019年08月18日

むしろ憂慮・問題視すべきは「勧善懲悪の設定」

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190818-00000007-tospoweb-ent
ヒロミ アンパンチ論争ピシャリ「それを教えるのは親」
8/18(日) 13:31配信
東スポWeb

 18日放送のフジテレビ系「ワイドナショー」で、ネット上で起こった「アンパンチ論争」などを特集。ダウンタウン・松本人志(55)やヒロミ(54)らが意見を述べた。

 人気アニメ「それ行け!アンパンマン」の主人公・アンパンマンのアンパンチは暴力的で、子供に悪影響を与えるのではという論争について、ヒロミは「それを教えるのは親だからね」とアンパンマンに責任はないと指摘。さらに自身の幼少期を振り返りながら「ヒーローってのはそういうもの。そのまねをね、仮面ライダーとか(ごっこを)やったけど、そんなにひどい犯罪者になってないでしょ」と話した。

 一方、松本は「僕は(アンパンチ論争に)関わりたくない」と前置きした上で「本気で思ってる人はいないんじゃないか。不完全なボケに我々が乗っからないといけない面倒くささみたいなものを感じる。でも本当に思っている人がいるとしたら、これはなかなかすごい」と続け、論争になっていることが信じられない様子だった。


(以下略)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190814-00000107-spnannex-ent
福田萌 アンパンチで幼児が暴力的問題に「どう使うか、教えることも親ができること」
8/14(水) 11:29配信
スポニチアネックス


(中略)

 福田は「うちの2歳半の息子もしょっちゅう私やお友達にアンパンチ炸裂してた。でも、『お友達にはアンパンチしちゃダメだよ』と根気よく話し続けてたら、最近は『アンパンチ、だめよ』と控えるように」と自身の体験を告白。「暴力に限らず、どんな力もそれを持った時にどう使うのか、それを教えることも親ができることと思う」と記した。
■「伝統的」な議論
昔ながらの暴力表現問題。「伝統的」な議論なので今更、特に驚きもしないことです。今回は「アンパンマン」が吊るしあげを食らいましたか。前々から何度か「被害」にあっていたと思いますがね。

さて、「アンパンチ」つまり「暴力での問題解決の描写」の問題については、すでに多くの人が正しく見解を述べているところです。「親がちゃんと教育的に補足すればいい」

もちろん、たとえば、以前から指摘してきたように、いわゆる粗雑な「自己責任論」の背景に「アリとキリギリス」の世界観がそのまま息づいていることを考えるに、アニメ作品等の描写にも気を配り「アンパンチが子どもを暴力的にしないだろうか・・・」という心配をすること自体は大切なことです。何もしないでいると「悪党相手なら暴力をふるっていいんだ」と勘違いする子どもに育ちかねないという懸念は理解可能です。アンパンマンが唯一の直接的原因にはなり得ないでしょうが、成長過程で見聞きする経験や諸作品から少しずつ影響をうけて歪んだ人格に育ってしまう(その一因がアンパンマン)というのは、否定しきれないことでしょう。だからこそ親の積極的な役割発揮が大切だと言えます。これに尽きるでしょう。

■むしろ憂慮・問題視すべきは「勧善懲悪の設定」
むしろ、以前から述べてきたことですが、こういった作品の描写で憂慮すべきは、「勧善懲悪の設定」というべきです。親もまた勧善懲悪の設定にドップリと浸かっているので「親の教育的補足」は期待できません

「勧善懲悪の設定」に則っている作品に共通して指摘できることとして、時代劇が際立って特徴的ですが、善と悪がクッキリ分かれていて善人は文句なしの聖人君子であり悪党は生まれながらの悪党として描かれていることが挙げられます。つまり、悪党がダークサイトに走った理由や経緯が描かれることはまずありません

また、作品中では悪党に冤罪はあり得ず、正義の主人公側が掴んでいる証拠は完璧なものとして描かれています。もっといえば、そのこと自明の前提なので、証拠を吟味・検討するシーンが描かれていないことさえあります。

だからこそ、悪党の弁解といえば「言い逃れ」と相場が決まっており、そもそも編集上の関係で弁解シーンの省略さえあります。当然、正義の側が暴走するシーンなど期待できようはずがありません

さらに、「悪は穢れ」という意識も相まって、徹底的に排斥することを是とする描写も見られます。「悪党は悪いことをするから、やっつけられても文句はいえない」という一種の因果応報論と合わさったとき、「それは流石にやりすぎでは・・・」という心理的ストッパーを抑制します。

この描写は、まさに巷の刑事事件・刑事裁判の見方そのままといえます。「逮捕=有罪」と言わんばかりの見立て。悪党がなぜ悪党に育ったのかについて一顧だにしない。検察側証拠は疑いのないものであり、それを基に起訴した検察は完璧。「悪党」の弁解といえば言い逃れに決まっている(だから大悪党が小悪党や無実の人に罪を擦り付けて逃げる事案を見逃すわけです――無実の人を収監している間に公訴時効が来てしまった足利事件とか)。「それでもボクはやってない」などあり得ない。悪の成敗に「やり過ぎ」はなく、どんな微罪でも徹底的に罰して永久に社会から追放することが大切・・・「たかがフィクション作品」とは言えないのではないでしょうか。

とくに、モノの程度が分からない人たちが「悪党は生まれながらの悪党」「正義の側は常に正しく間違うはずがない」「悪党の弁解は言い逃れに決まっている」「元はと言えば悪党が悪い。因果応報」「悪は穢れだから徹底的にやるべし」といった「勧善懲悪の設定」そのままに行動するとき、道徳的にそれが「正しい」とされている以上は、「これで本当に大丈夫だろうか」という慎重さに欠き、歯止めが利かなくなることでしょう

「暴力での問題解決の描写」を問題視する人は多いのに対して、上述の「勧善懲悪の設定」は日本社会に広く根付いているといえそうです。親もまた勧善懲悪の設定にドップリと浸かっているので「親の教育的補足」は期待できませんこのことこそ憂慮し問題視とすべきでしょう

■ここまで罵倒するのは酷では?
ところで、「アンパンチ論争」って、「だからアンパンチの描写を中止せよ!」ってな運動にまで発展しているのでしょうか? 落語家の立川志らく師匠は「親がおかしくなってる」と、タレントの土田晃之氏は「「教育する能力がない人が作品のせいにする」」などと罵倒しています(この人たちいつも他人様に噛み付いて罵倒しているよね)が、単に「大丈夫かな・・・?」くらいの素朴な懸念を表明しただけだったとしたら・・・『北斗の拳』で育っただけあるということ?(逆説的に)

また、仮に本気でそう言っていたとしても、単に考えが甘いだけなのだから、ここまで罵倒するのは酷に思えるところです(素でボケている人を相手に声を荒げることが如何にムダなのか分かっていない人生経験の浅い人が多い多い・・・)。本当に攻撃的な世の中です。ヤフコメのような匿名掲示板が攻撃的論調なのは2ちゃんねるの頃から変わっていませんが、顔出しの芸能人がヤフコメのような調子で攻撃的なのは最近の特徴と言えるかも知れません。

「アンパンチ論争」ごときで斯くも攻撃的な「反論」が出てくるのを見ると、立川志らく師匠の言葉を借りれば、「相当前から、親がおかしくなってる」と言えそうです。
posted by s19171107 at 17:45| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2019年08月17日

同じポピュリズムでもトランプ現象より手強いN国党

ほぼ1か月経ちますが、参議院選挙の結果について。支持する・しないは別として、「NHKから国民を守る党」(N国党)の躍進は注目せざるを得ないでしょう(ちなみに私は、同党および同党支持者の皆さんを尊重しますが、支持者ではありません)。

■スクランブル放送化のシングルイシュー政党ではないN国党
さて、N国党の躍進については様々な反応が出てきていますが、同党の政策・主張および同党支持者の問題意識・要求が正確に把握されていないケースが少なくありません。たとえば、ジャーナリストの堤未果氏は「優れた公共放送が国家にとっての社会的共通資本」などとする記事を公開しています。同様の主張は、あちこちで目に・耳にすることができます。コメ欄で「そういう問題ではないんだよ」と突っ込まれています。

たしかに堤氏の主張は、N国党の政策・主張および同党支持者の問題意識・要求に応答しているとは言い得ない内容です。8月13日の会見で立花党首は、私は公共放送が必要ないとは一言も言ってないとか「NHKの改革をしたいのならば受信料問題1点に絞ってやるほうがいいということで当時の仲間であったNHKの顧問弁護士から言われたので、受信料問題1点に絞って今ここまで来ましたけども、決して私は受信料払いたくない人を単純にお守りするということではなく、公共放送が正しく機能する、いわゆるNHKがちゃんと公共放送の役割・使命を果たしてもらうためにこのようなスクランブル放送の実現を目指すという政党を立ち上げてここまで来たという次第」と述べています

さらに、これは重要な発言を引き出したと言えますが、直接民主主義というのがわれわれのワンイシューであって、その中にNHKのスクランブル放送が含まれているという考えです」とも立花党首は言っています

堤氏を筆頭に、N国党の主張を正面から受け止めるのではなく、伝え聞いた断片的情報を中途半端に継ぎ接ぎして「理解したつもり」になっている人たちが相当に多いことが推察できます。

■「庶民の鬱屈」と「選択の自由の回復」を原動力とするN国党
直接民主主義というのがわれわれのワンイシューであって、その中にNHKのスクランブル放送が含まれているという考えです」という立花党首の説明は、彼らの自己規定であり、N国党はそういう自己規定のもとに意識的に活動している政党であると言えます。N国党分析は、この事実から出発する必要があります。そしてまた、同党をもっとよく理解するためには、この事実を掘り下げる努力も必要でしょう。その点、私は下記記事に注目しました。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190803-00295714-toyo-bus_all&p=1
N国党躍進を茶化す人が見落とす「庶民の鬱屈」
8/3(土) 15:20配信
東洋経済オンライン

 「NHKから国民を守る党」(N国党)が参院選で1議席を獲得し、政党要件を満たしたことが世間に衝撃を与えている。7月29日に、日本維新の会から除名され、現在無所属の丸山穂高・衆院議員が入党して2人に増え、翌30日には旧みんなの党代表で無所属の渡辺喜美氏と会派「みんなの党」を結成するなど、話題性だけでなくその党勢も着実に伸ばしつつある。

 この現象に対して世間ではテレビ番組の識者のコメントをはじめとして、「茶化したり」「単なるネタ扱い」に終始していたりしている論調があまりにも多いが、それでは本質を見誤る。受信料を支払う人だけがNHKを視聴できる「スクランブル放送」の実施を掲げ、比例代表で98万票超を獲得した事実は重い。

■「優先的地位」の既得権益層に対する敵意
 この100万人近い人々の「民意」。深層に、自分たちの存在など歯牙にもかけない現状の政治体制に対する絶望や、自分たちの生活実感とかけ離れた「優越的な地位」の既得権益層に対する敵意があるに違いない。

 ただし、それは「NHK」という事業体そのものの改革の是非というよりかは、NHKは分かりやすい的(まと)≠ノされているに過ぎない。「NHK」に象徴される「巨大な既得権益」への反発であり、自分たちのお金を強制的に吸い上げる一方で、自分たちの生き死に対しては一切関心を示さない、目には見えない力に対する拒絶のサインである。無意識に潜むメッセージを一言で言えば、「もう自分たちは黙ってはいないぞ」「混乱の種を国会に送り込んでやる」ということを象徴しているのだ。


(中略)

■「上級国民」騒動が示す圧倒的不均衡への憤り
 今年4月、東京・東池袋で車が暴走し、歩行者10人を次々とはね、母子2人が死亡する事件が発生した。ネット上では、加害者が逮捕されないことから、元官僚という経歴が理由ではないかとの憶測が飛び交い、ニュースに取り上げられるほどの「炎上」騒動に発展した。また、そのような特権的な地位にある者を「上級国民」というスラングで揶揄(やゆ)した。

 ここで表面化したのは、「持つ者」と「持たざる者」の圧倒的不均衡への激しい憤りである。それがある種のデマをきっかけに大爆発を起こしたのである。先の男性の嘆きを借りれば、なぜいつも「わしらみたいな庶民」が泣き寝入りしなければならないのか、ということなのだ。ここに今回の参院選で「N国党」を支持した人々の心理を解き明かすヒントがある。

 そもそも、「N国党」は、NHKの「強引な集金人」などへの対応といった、非常にピンポイントな分野ではあるけれども、国民の身近な困り事に寄り添う活動とイメージ戦略で地歩を固めてきた。このような一般の人々の直接的な不安とリンクした形の草の根運動は、これまで既存の政党が見過ごしてきた問題を拾い上げる印象を与えると同時に、「NHKという権力」と「NHKという権力に新興政党が挑む、エンターテイメント性」が対峙するエンターテイメント性の高い闘争のドラマを提供してきた。

 N国党代表の立花孝志氏がユーチューバーであることなどがクローズアップされやすいが、地方から草の根運動で少しずつ支持を伸ばしてきたことを忘れてはならない。2019年4月の統一地方選で「N国党」は大躍進を遂げている。東京23区や関西を中心に47人中26人が当選し、所属議員が一挙に30人を超えたのだ。異論はあるかもしれないが何度も繰り返して強調したいのは、泡沫候補に面白半分≠ナ投票した者がほとんどと考えるのは大間違いだと思う。そこには「庶民」の鬱屈(うっくつ)が反映されている。一定の合理性があると結論づけるのが妥当なのだ。


(中略)

■「無党派だが不安や不満を抱えた層」を取り込んだ
 実のところ、「N国党」は、既存の政党がアプローチできていなかった「無党派だが何らかの不安や不満を抱えた層」を掘り起こすことに成功していた、と素直に考えるのが正しいように思われる。それは山本太郎代表が率いる「れいわ新鮮組」も同様だろう。

 与党を含む他の政党は、このことの重大性についてもっと自覚したほうが良いかもしれない。もしこれらの階層に潜在している怨嗟(えんさ)を上手く手当てすることができなければ、「N国党」でなくとも別の新興勢力のようなものが、数百万人は存在するであろう「怨嗟の票田」を得て急伸するだけである。想定外の事態へと突き進むポテンシャルがあることに、果たしてどれだけの人々が気付いているだろうか。


(中略)

真鍋 厚 :評論家、著述家
自分たちの存在など歯牙にもかけない現状の政治体制に対する絶望や、自分たちの生活実感とかけ離れた「優越的な地位」の既得権益層に対する敵意があるに違いないとする真鍋氏の分析。立花党首の「強み」である「雲上人感ゼロ」な言動・行動・雰囲気とも合っているし、「直接民主主義というのがわれわれのワンイシューであって、その中にNHKのスクランブル放送が含まれているという考えです」という主張とも通じるところがあり、説得力のある見立てとして成り立っています。

また、この記事では言及されていませんが、「スクランブル放送化」とはすなわち、視聴者・消費者の選択の自由を保障するということとイコールです。N国党旋風は、単なる「庶民の鬱屈」だけが原動力ではなく、「自分自身の選択の自由」を奪われた各階層の人々の不満をも原動力にしていると言えるでしょう。

さらに、本当に単なる人気取りであれば絶対言わないようなネガティブなことでさえも自分から正直に言ってのけるあたりも、支持者にはウケているようです。たしかにこれは、いままでの政治家にはなく、また、いわゆる「ポピュリスト政治家」とも異なる立花党首の特徴的側面と言えます。

もう一歩踏み込んでいえば、「上級国民」なる概念を信じていないような人もまた、N国党支持に回っている可能性さえあるでしょう。つまり、現代社会の閉塞感の原因を特定の階層(特権階級等)が仕組んだものとするのではなく、利害関係が複雑に錯綜しているがために従来の利害調整型政治システムでは対処しきれず麻痺状態に陥っていると見なす人もまた、いわゆる「しがらみ」のないN国党に「岩盤突破」を期待して支持するという構図です。

いずれにせよ、決してバカにしたり軽視したりできるような事態ではありません。

■同じポピュリズムでもトランプ現象より手強い
N国党幹事長になった上杉隆氏は、13日の会見で、N国党の躍進をトランプ現象などと関連付けて位置付けました。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190813-00010005-wordleaf-pol
トランプ現象は、権利行使者への一般大衆の一揆

上杉:そのトランプ現象というのは、皆さんのようなMSM、メインストリームメディアの人も含めて、既存のいわゆる権利を行使する人たちへの一般大衆のいわゆる一揆。こういうのが3年前に起こっているわけですよ。それをぜひ認識してほしい。

 それは、もう本当に世界は変わっています。トランプ現象のあとにフィリピンではドゥテルテ大統領が誕生しました。そして今年になってイギリスではボリス・ジョンソンが誕生しました。皆同じ構図です。左ではなく保守のほうからの革命というのが起こっている。しかも右も左もないんですよね。

 日本だったら例えば大きな大企業、経団連だけではなくて、連合などもディープステートに入っています。党もそうです、政党も。自民党や公明党だけではなく、共産党も社民党も立憲民主党も、これは実は大きな組織に寄った選挙をやっています。そういう選挙とは違うアプローチでやったのが立花孝志で、私自身はこのトランプ現象の日本での発出っていうのを、この立花孝志に見ていると。
いよいよ日本においても、政治から置き去りにされてきた人たち、既存の「政治の話」が響かない境遇にある人たちを代表する党・政治家が出現したというわけです。本当にそうかどうかは分かりませんが、そういうイメージを創り上げたことが勝因だとはいえるでしょう。
 
ここで是非とも注目しておかなければならないことは、トランプ現象やBrexitと違い、N国党旋風は、党首の言動に賛否はあれども、党の政策・主張は、ある程度「まとも」だということです。

非科学的な主張や「今どきそこまで言うの?」と驚きを禁じ得ないゴリゴリの人種差別的発言を辞さないトランプ大統領は言うに及ばず、Brexitも経済政策としては慎重に評価せざるを得ないものです。担ぎ上げた御輿があまりに「アレ」過ぎるために、英米両国の庶民が蓄積している鬱屈・怒りまでもが一緒くたにコケにされ、「反知性主義」などというレッテルさえ貼られてしまっています。庶民生活という「究極のリアル」から自然発生的に湧き上がってきた怒りが軽視・無視され、難解な数学的な理論予測や優等生の作文のような理想論ばかりが幅を利かせてしまっています。

これに対して、N国党が掲げる「NHKのスクランブル放送化」や「直接民主主義」は、まともな政策と言えます。まじめな議論の対象として位置付けることができます。決して一笑に付して片づけられる勢力ではありません。その点、N国党旋風は、同じポピュリズムでもトランプ現象より手強いと言えるでしょう。

■甘く見てはいられない
「庶民の鬱屈」と「選択の自由の回復」を原動力とし、ポピュリズム的手法を駆使しつつも、諸外国のポピュリストたちがハチャメチャな政策を掲げているのと比べると、まともな政策を訴えているN国党。ハナからバカにすることはできず、腰を据えて「攻略」する必要がありそうです

政策がまともに見えるだけに、政治手法の問題が軽視されかねない危険があります。「コンプライアンス社会」と言われつつも、現代日本は何だかんだでプロセスが軽視されがちだからです。とりわけ、監視の目に息苦しささえ感じている人には、立花党首の型破りなスタイルはウケることでしょう。「NHKのスクランブル放送化は正しいんだから、多少のムチャ・ヤンチャは目をつぶろうよ」と。

私は、政敵を「叩き潰す」ことを是とする立花党首の方法がウケていることに危機感を感じるものです。小泉郵政解散劇場・橋下維新劇場・小池都議選劇場に続く不穏な空気と言えます。

※なお、政敵を「叩き潰す」ことを是とする立花党首の政治手法は、彼個人の資質の問題にとどまらずN国党の体質的問題であると私は考えます。以前にも述べましたが、下っ端のヒラ党員の個人的資質を党全体の体質と結び付けるのは失当ですが、党幹部の個人的資質は、そういう人物を党が組織的意思の下に登用した点において、単なる個人的資質の問題として片づけることはできないからです。

以前から申し述べているように、私は文革的手法を政治に持ち込むことには反対の立場です。かつて首領様は、中国での文革を念頭におきつつ階級闘争の展開方法について2通りあると指摘されました。
 社会主義革命を行うときの階級闘争は、ブルジョアジーを階級として一掃するための闘争であり、社会主義社会での階級闘争は、統一団結を目的とする闘争であって、それは決して社会の構成員を互いに反目し、憎みあうようにするための階級闘争ではありません。社会主義社会でも階級闘争を行うが、統一と団結を目的とし、協力の方法で階級闘争を行うのであります。こんにち、我々の行っている思想革命が階級闘争であるのはいうまでもないことであり、農民を労働者階級化するために農村を助けるのも階級闘争の一つの形式であります。なぜならば、労働者階級の国家が農民に機械をつくつて与え、化学肥料も供給し、水利化も行う目的は結局、農民を階級としてなくして完全に労働者階級化しようとするものであるからです。我々が階級闘争を行う目的は、農民を労働者階級化して階級としての農民をなくすだけではなく、かつてのインテリや都市小ブルジョアジーをはじめとする中産階層を革命化して労働者階級の姿に改造しようとするものであります。これが、我々の進めている階級闘争の主要な形式であります。

 また、我々の制度のもとでは、外部から反革命勢力の破壊的影響が入りこみ、内部では転覆された搾取階級の残存分子が策動するために、かれらの反革命的策動を鎮圧するための階級闘争が存在します。

 このように社会主義社会では、労働者、農民、勤労インテリの統一と団結を目的とし協力の方法でかれらを革命化し、改造する階級闘争の基本形式とともに、外部と内部の敵に対し独裁を実施する階級闘争の形式があるのです。

キム・イルソン『資本主義から社会主義への過渡期とプロレタリアート独裁の問題について――党の思想活動部門の活動家に行った演説』チュチェ56(1967)年5月25日

いくら「上級国民」への怨嗟があるといっても、彼らを階級として一掃するような闘争は正しいとは言えません。社会の構成員を互いに反目し、憎みあうようにする闘争を展開すべきではありません。まして、NHKのスクランブル放送を巡って憎悪を掻き立てる文革的手法を持ち出すのは「やりすぎ」です。また、「直接民主主義を実現させる」(その結果として上級国民との格差を是正する)というのであれば、数の力で暴力的に政敵を打倒する文革的手法はまったく相容れないものと言えます。首領様が「社会主義革命を行うときの階級闘争」として提唱された「統一と団結を目的とし、協力の方法」での闘争方法を採用すべきであります。

しかし、まともな政策をN国党が訴えているだけに、その政治手法を問題視し論点にするのには難儀しそうです。N国党の躍進を甘く見てはいられません。
ラベル:社会 政治
posted by s19171107 at 23:30| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2019年08月16日

ムン「大統領」の自力自強・自立的民族経済建設の路線宣言

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190815-00000020-asahi-int
文大統領、日本批判を抑えて協力呼びかけ 光復節の演説
8/15(木) 11:04配信
朝日新聞デジタル

 韓国の文在寅(ムンジェイン)大統領は15日午前、日本の植民地支配からの解放を記念する「光復節」の式典で演説した。日本の対韓輸出規制強化を念頭に「日本の不当な輸出規制に立ち向かう」と言及したが、歴史認識問題では直接的な日本批判を避け、「今からでも日本が対話と協力の道に出れば、我々も喜んで手を握る」と関係の改善を呼びかけた。

 韓国の歴代大統領は光復節演説で、歴史認識をめぐる日本政府の対応について批判的に言及してきたが、例年になく日本批判が少なかった。日韓関係の懸案となっている徴用工問題や慰安婦問題には触れなかった。


(以下略)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190815-00000578-san-pol
文在寅大統領演説 外務省幹部「明らかにトーンが変わった」
8/15(木) 18:37配信
産経新聞

 韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領が、日本の朝鮮半島統治からの解放記念日「光復節」の演説で対日批判を抑制したことについて、外務省幹部は「明らかにトーンが変わった」と指摘し、韓国側の対応を見極める考えを示した。今後は、韓国最高裁が日本企業に賠償を命じたいわゆる徴用工訴訟をめぐり、日本側が受け入れ可能な解決策を示すかどうかが焦点になる。


(以下略)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190815-00000020-yonh-kr
文大統領「日本が対話姿勢なら手を取る」=光復節演説
8/15(木) 10:55配信
聯合ニュース

【ソウル聯合ニュース】韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領は15日、光復節(日本による植民地支配からの解放記念日)74周年の記念式典の演説で、「私は本日、いかなる危機にも毅然として対処してきた国民を思いながら、われわれがつくりたい国、『誰も揺るがすことができない国』を、改めて誓う」と述べた。

 文大統領は、まだ韓国は十分に強くなく、分断状態にあるために「誰も揺るがすことができない国」を実現できずにいるとした。実現を誓うとの発言は、日本の対韓輸出規制の強化によって韓国経済が直面した危機を必ず乗り越えるという強い意志の表れといえる。
(以下略)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190816-00000008-cnippou-kr
文大統領「誰も揺るがすことができない国作ろう」(1)
8/16(金) 9:45配信
中央日報日本語版

究極の目標は誰も揺るがすことができない国。このために中間目標として責任ある経済強国と橋梁国家、そして平和経済。

文在寅(ムン・ジェイン)大統領の第74周年光復節祝辞はこの論理を骨子として肉付けがされていた。祝辞全体を貫く核心は経済で、青瓦台(チョンワデ、大統領府)は今回の8・15慶祝辞を「光復節(解放記念日)初の経済演説」と規定している。

解放直後、詩人の金起林(キム・ギリム)が書いた『新国頌』の中の「セメントと鉄と希望の上に揺るがすことができない新しい国建てていこう」という一節から取ってきた「揺るがすことができない国」は祝辞を貫く核心文面であり、文大統領が設定した究極の指向点だった。文大統領は「今、我々は堂々とした経済力を備えるに至った。国民所得3万ドル時代を切り開き、金九(キム・グ)先生が願っていた文化国家の夢もかなえつつある」としつつも「誰も揺るがすことができない国はまだ成し遂げられていない」と話した。「私たちが十分に強くないためであり、まだ我々が分断されているため」としながらだ。


(以下略)
ムン「大統領」の光復節演説。急に反日がトーンダウン。聯合ニュース記事にもあるとおり、「まだ韓国は十分に強くなく、分断状態にあるために「誰も揺るがすことができない国」を実現できずにいる」ためでしょう。

キム・ジョンイル総書記はかつて、次のように指摘されました。
経済は社会生活の物質的基礎です。経済的に自立してこそ、国の独立を強固にして自主的に生活し、思想における主体、政治における自主、国防における自衛をゆるぎなく保障し、人民に豊かな物質・文化生活を享受させることができます。

経済における自立の原則を貫くためには、自立的民族経済を建設しなければなりません。

自立的民族経済を建設するというのは、他国に従属せず独り立ちできる経済、自国人民に奉仕し、自国の資源と人民の力によって発展する経済を建設することを意味します。このような経済を建設すれば、国の天然資源を合理的かつ総合的に利用して生産力を急速に発展させ、人民生活のたえまない向上をはかり、社会主義の物質的・技術的基盤を強固にきずき、国の政治的・経済的・軍事的威力を強化することができます。また国際関係において政治的、経済的に完全な自主権と平等権を行使し、世界の反帝・自主勢力と社会主義勢力の強化に寄与することができます。

とくにかつて帝国主義の支配と略奪によって経済的、技術的に立ち後れていた国ぐににおける自立的民族経済の建設は、死活の問題として提起されます。これらの国では自立的民族経済を建設しなければ、帝国主義者の新植民地主義政策を退けてその支配と搾取から完全に脱することはできず、民族的不平等を一掃して社会主義に向けて力強く前進することもできません。

キム・ジョンイル『チュチェ思想について』外国文出版社(原著:1982年 上掲邦訳版:2002年)P.43

外勢(日本)依存の経済構造が、反日大舞台としての光復節演説が不気味なまでに抑制的にならざるを得なかった理由といえます。自立的民族経済が確立されていないから、ここぞという時にトーンダウンしたわけです

韓「国」の情けない現状を浮き彫りにしたムン「大統領」の光復節演説。しかしながら、「まだ韓国は十分に強くなく、分断状態にあるために「誰も揺るがすことができない国」を実現できずにいる」という事実を認めた演説であるとも言えます。事実に向き合うことから変革は始まります。外勢依存の韓「国」が、遅ればせながらも自力自強の道・自立的民族経済の建設を意識し始めたことは、とてもよいことです。
ラベル:チュチェ思想
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2019年08月01日

ブルジョア「個人」主義及びブルジョア「自由」主義が蔓延る日本では想像もできないこと

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190730-00050109-yom-int
就職難の韓国若者、不買運動に参加か…異例の長期化様相
7/30(火) 7:42配信
読売新聞オンライン

 【ソウル=豊浦潤一】韓国で、日本政府の対韓輸出管理厳格化に反発した日本製品の不買運動が広がっている。売り上げが激減したと報じられた商品もある。長続きしなかった過去の不買運動とは違い、異例の長期化の様相を帯びている。


(中略)

 今回はマスコミが連日、不買運動の広がりを報じている。日本の輸出管理の対象が、半導体という韓国の主力産業を直撃し、ただでさえ就職難に苦しむ若者が、一層の雇用減を恐れて運動に参加したとの見方がある。

 今年は、日本統治下の1919年3月1日、「朝鮮独立万歳」を叫ぶデモ行進が行われた「3・1独立運動」から100年というタイミングにあたり、反日感情が高まっていることも背景にありそうだ。「独立運動はできなかったが不買運動はする」が、運動の合言葉になっている。


(以下略)
毎日新聞が必死に、新大久保に出没する日本の若者を取り上げて「政治と文化は別」と発信しています(相当必死ですね、4ページもの大作ですよw)が、対する韓「国」の若者が挙って日本製品不買運動に参加しています。

※ちなみに、読売新聞編集部は上掲引用のとおり「ただでさえ就職難に苦しむ若者が、一層の雇用減を恐れて運動に参加したとの見方がある」などと出典不明の「見方」を報じていますが、後述のとおり、朝鮮民族の儒教道徳に照らせば、不勉強も甚だしい主張であります。

韓「国」人が斯くも「国民としての立場」を貫徹している根底には、儒教道徳の存在を指摘できるでしょう。東アジア哲学の専門家であり、特に朝鮮哲学に造詣が深い小倉紀蔵氏の著作『北朝鮮とは何か――思想的考察』は、「北朝鮮」に限らず韓「国」を含めた朝鮮半島の哲学的原理に根差した論考が展開されている興味深い著作ですが、そこにおいては、朝鮮民族の発想が次のように解説されています。

このような「歴史問題を道徳問題として把握する」というメンタリティは、あきらかに儒教的な伝統に淵源する。

(中略)

儒教的な世界観においては、人間は愛の同心円を自己の心から身体へ、身体から家へ、家から国へ、国から天下へと拡大してゆかねばならない。(中略)(その拡大の原理が「愛之理」としての仁である)。(中略)どんなに離れた場所にいる民衆であろうが、その感じる痛みを自分の痛みとして感じることが儒教的士大夫はできなくてはならないのである。

(中略)

儒教的な道徳意識は、「痛み」という感覚にきわめて敏感である。

(中略)

韓国人ならばすべからくこの巨大な点の激痛を自分の身体の直接的な痛みのように感じなくてはならない、とされる。なぜならそのことによって韓国という近代「国民国家=主権国家」の立派で道徳的な一員として認められるからである。(中略)その痛みを感じられない国民は、「不仁」つまり感覚が麻痺している状態なのである。そのような人間はこの共同体の正しいメンバーとはいえない。なぜなら大韓民国とは一個の愛の生命体であって、その生命の根本は道徳である。個々の人間も、この大韓民国という生命体が生き生きと機能していればこそ生きていけるのであって、国家という生命体が愛の共同体として機能しなくなったら、それはそこに所属している国民ひとりひとりの死を意味するのである。

(中略)

ここにおいては、自我の存在は国家の存在なしではありえないという認識が、島(注:竹島)や慰安婦という収斂点への痛みの感覚を伴って増幅する。

(中略)

しかしこの「痛み」は、いったい何に関する感覚なのだろうか。(中略)自己の所属する国家と自己とが一体化した感覚である。
小倉紀蔵『北朝鮮とは何か――思想的考察』藤原書店、2015年(p44〜p48)

日本と韓「国」の差異が顕著にあらわれた例としては、防弾少年団の所謂「原爆Tシャツ」騒動が挙げられるでしょう。他人の痛み・苦しみに少しばかりでも想像力が働くのであれば、日本人はあれを決して許してはならないことでした。しかし、あの騒動の結果、防弾少年団はテレビ朝日系列「ミュージックステーション」への出演が急遽見送られましたが、このことについて「政治と文化は別」などと主張する日本の「若者」たちが文句をたれていたのは記憶に残るところです。原爆投下を揶揄するような外道の手合いの悪辣な所業を目にしても「政治と文化は別」とは、ブルジョア「個人」主義及びブルジョア「自由」主義の極致と言わざるを得ません。

対する韓「国」人。「自分自身」とは無関係のことに斯くも本気で怒ることが出来るわけです。今回の韓「国」人の挙国的な反日活動については、動機の面においては「いかがなものか」という念は禁じ得ませんが、しかし、こうした国vs国の対立において私事を措いて国民としての立場から、同胞の苦しみに対して本気で怒り行動できるというのは、ブルジョア「個人」主義及びブルジョア「自由」主義が蔓延り、防弾少年団の所謂「原爆Tシャツ」をスルーした日本では想像もできないことだと言ってよいでしょう。

なお、チュチェ哲学の観点から申せば、自分自身と、民族集団等その所属する社会集団の自主的で文化的な生活こそが政治の任務であり目的なので、「政治と文化は別」という主張は失当であると言わざるを得ません。民族的文化生活および民族の矜持を守るためにこそ政治があります。政治は文化生活の下僕です。チュチェ哲学の立場から申せば、日本社会はブルジョア「個人」主義及びブルジョア「自由」主義が蔓延っている社会であると同時に、哲学的にも貧困なる社会と言えます。
posted by s19171107 at 21:53| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2019年07月28日

ムラ社会とブルジョア「自由主義」社会とのハイブリッドである日本社会の現状

「新聞社の社会的責任」と「ケチ・イチャモンつけ」が限りなく接近している昨今。とくに毎日新聞記事の粗探しっぷりは読んでいるこっちが不愉快になることが多々ありますが、しかし、下記の毎日新聞批判については、疑問符をつけざるを得ないものです。なぜか毎日新聞が京アニの責任を追及していることになっています。理解に苦しむ見立てですが、これこそが標記の「ムラ社会とブルジョア「自由主義」社会とのハイブリッドである日本社会の現状」を示すものと言えそうです。以下、論じます。

■本当に「京アニの責任」を問うているのか?
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190723-00029403-president-soci&p=1
放火殺人で京アニの責任を問う毎日の驕り
7/23(火) 17:30配信
プレジデントオンライン


(中略)

 死者数が多いだけでなく、日本アニメの象徴への放火という事件性から、さまざまなメディアが大きく取り上げた。この連載で読み比べている新聞社説も例外ではない。なかでも毎日新聞は発生翌日の19日付社説で書いている。他紙に先駆ける報道だったが、社説は早ければいいというわけではない。

 社説を19日付の新聞に載せるためには、事件の発生と同時進行で書かなければならない。京都市消防局に通報があったのが午前10時35分で、火災の鎮圧が宣言されたのが午後3時19分だった。一方、翌日の新聞に社説を載せるためには、一般的には午後6時ごろまでに論説委員が原稿を書き上げる必要がある。つまり事件の方向性がよく分からないうちに、筆をおかなければいけない。かなりリスクの高い行為だ。

■歌舞伎町の火災と京アニの火災を比較する見当違い
 案の定、7月19日付の毎日社説は、最後にこう書いていた。

 「一方で、たとえガソリンによる放火でも、あっという間にビル全体が炎と猛煙に包まれてしまったのは不可解だ。2001年に発生した東京・歌舞伎町の雑居ビル火災では44人が亡くなったが、防火扉が固定されていた不備が明らかになった」
「今回の火災で、防火扉の設置や作動状況はどうだったのか。消火設備は備わっていたかなど、詳しい検証が待たれる。多くの人が出入りする場所では、不測の事態にも備えるべく防火策の再点検を進めたい」

 防火扉の固定が問題にされた歌舞伎町の火災と京アニの火災を比較して、消火設備の不備の可能性を指摘するのは見当違いだ。京アニの第1スタジオのような鉄骨3階建ての建物には、防火扉の設置義務はない。法令で定められた消火器と非常警報設備は備えられており、京アニに法令違反はなかった。このことは同じ毎日新聞の20日付朝刊の解説記事「クローズアップ」でも指摘していることだ。

 毎日の論説委員は、見立てに自信がないのなら、自社の記者の解説記事を待つべきだった。それをせずに、あやふやな知識で社説を書くから、こういうことになるのだ。


(以下略)

ジャーナリスト 沙鴎 一歩
記事中でも触れられていますが、翌朝の朝刊に掲載するためには前日の午後6時ごろには社説原稿を書き上げないと間に合わない計算になります。本件毎日新聞社説について言えば、錯綜する情報を収集し、理解・総合した上で急いで社説にまとめたという事情を踏まえれば、「7月18日午後6時までの情報を基にすれば、こんなもんだろうな」と言えるでしょう。その点、「よく分からないことを無理に論じるな」というのであれば理解可能ではありますが、京アニの責任を問う毎日の驕り」というのは、少々イチャモンつけが過ぎるのではないでしょうか

筆者の沙鴎氏は、毎日新聞社説の「詳しい検証が待たれる」というくだりに非常に反応しています。「法令で定められた消火器と非常警報設備は備えられており、京アニに法令違反はなかった」と強調しています。沙鴎氏には、「詳しい検証が待たれる」という毎日新聞社説のくだりが京アニの責任を追及していると読めるようです。

本件では「ガソリンを撒かれて火をつけられたのだから、どうしようもない(だから京アニに非はない)」という論調が圧倒的ですが、沙鴎氏もまたその一人と言えるでしょう。たしかに「善悪」の基準で行けばそのとおりでしょう。京アニに法令違反はなく、よって落ち度があったとは言えません。

しかし、果たして毎日新聞社説の狙いは「落ち度さがし」だったのでしょうか? 「京アニの責任」を追及しているのでしょうか? 「多くの人が出入りする場所では、不測の事態にも備えるべく防火策の再点検を進めたい」というくだりを素直に読めば、粗探しの上で落ち度を見つけ出して京アニの責任を追及するというよりも、教訓を得ようとする姿勢を読み取ることが出来ます。少なくとも、沙鴎氏が社説本文から引用した範囲内からは、京アニの責任を追及する意図を読み取ることは困難です。

毎日新聞は、他人の粗探し・責任追及に熱心な割に、何事も言いっぱなしで具体的なプランニングは完全に他力本願なので、その普段からの姿・論調を思い起こせば、「どーせまた毎日新聞のことだから・・・」と言いたくなる気持ちはよく分かりますw しかし、今回ばかりは失当な見方と言うべきでしょう。

教訓を得るという観点において、マンション管理コンサルタントの土屋輝之氏は次のように述べています。
https://diamond.jp/articles/-/209374
京アニ放火事件で関心高まる「防火設備」、学ぶべき教訓は何か
土屋輝之:株式会社さくら事務所 マンション管理コンサルタント
2019.7.22 5:27


(中略)

 もちろん、犯人がガソリンを撒いて火をつけるという暴挙に出たわけだから、通常の火災とは訳が違う。おそらく爆風が事務所内を駆け巡り、通常の火災以上に、中にいた人たちはパニックに陥ったはずだ。

 しかし、この特殊要因を考慮に入れても、鉄筋コンクリートの建物で各フロアがあれほどの勢いで全焼するというのは、かなり考えにくい。本稿執筆時点(7月19日)での情報を見る限り、その一番大きな理由は、すでに多くのメディアで指摘されているように、1階から3階までを貫く、らせん階段があったこと、そして「区画」されていなかったため、と考えられる。

 オフィスビルであれマンションであれ、防火シャッターや防火扉によってスペースを区切り、火の手が急激に広がらないような対策をするが、具体的な基準は「建物の用途」や「床面積」によって異なる。

 オフィスビルの場合、不特定多数の人が訪れる場所ではなく社員たちは建物の中をよく知っているから、避難にはさほど手間取らないと考えられる。かつ、危険物を扱うような業務内容ではないだろうし、ごく小規模なビルである。これらを考えると、緩めの基準が適用されたはずで、吹き抜けた形状のらせん階段もOKが出たのだろう。もしもっと大きなビルであったり、用途が異なる場合であれば、こうした形状のらせん階段はNGだった可能性が高い。

 そして、らせん階段部分に防火扉や防火シャッターがあって区画されていればまだしも、それがなかったとなると、らせん階段が炎や爆風の通り道となって、建物の内部全体があっという間に炎と煙に包まれても不思議ではない。


(中略)

 もちろん、条件さえ満たしていれば、区画されないらせん階段を設置することは法令で認められている。しかし、「法令で認められているから絶対に安心」ではないのだ。ここに防火の難しさがある。

(中略)

 京アニのケースのように、ガソリンを撒かれるという事態は、そうそう起きるものではない。しかし、火災の危険性はどんな建物でも少なからずある。「あのケースは特殊だった」で終わらせず、この事件から得るべき教訓を得ていただきたいと願う。
 
京アニに法令違反はなかった」と強調するのに終始する沙鴎氏に対して「法令で認められているから絶対に安心」ではないのだ。ここに防火の難しさがあると指摘し、その上で「あのケースは特殊だった」で終わらせず、この事件から得るべき教訓を得ていただきたいする土屋氏。対照的です

■「粗探し批判」の異様な増殖
京都市役所は、類似した構造の建造物について調査に乗りだすようです。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190719-00000084-asahi-soci
京アニ放火 階段の吹き抜け構造、火のまわり早めたか
7/19(金) 20:19配信
朝日新聞デジタル

 京都市伏見区のアニメ制作会社「京都アニメーション」の第1スタジオが爆発炎上し、34人が死亡した事件で、京都市消防局によると、第1スタジオは1階から3階までつなぐらせん階段が設置され、吹き抜けになっていた。この吹き抜け構造が火のまわりを早めた可能性があり、京都市は19日に緊急検証対策チームを設置。同消防局などと連携して今後同様の建物を調査する方針だ。


(中略)

 今回の火災を踏まえ、対策チームが調査対象とするのは、第1スタジオのように防火や準防火の指定がない地域にあり、収容人数が30人以上で3階建て以上の建物。らせん階段や吹き抜け構造について調査するという。

最終更新:7/19(金) 23:14
朝日新聞デジタル
こうした調査を積み重ねることで一人でも多くの被害者を減らすための防火体制を構築することが肝要です。京アニの事件はそれはそれとして対応しつつも、この事件そのものとは一線を画しつつも事件を教訓とする取り組みを展開してゆく必要があります。

京アニの件とは直接的には関係のない「教訓を得る」に属する話であるにもかかわらず、この記事にも「今回の放火は防ぎようがない、京アニに落ち度はない」というコメントが書き込まれています。記事の主題・属性を無視してまで「京アニに落ち度はない」という弁護が執拗に展開されるのは、かなり異様であると言わざるを得ません。誰も責めていないのに、勝手に弁護・弁解しているわけです。

以前から指摘してきたことですが、日本社会では「事実関係の究明」と「責任追及」が混同される傾向があります。このことが、この手の妙な弁護が執拗に展開されている原因であると考えられます。興味深い記事を見つけました。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190719-00000004-zdn_mkt-bus_all&p=3
結婚式場のメルパルク炎上に見る、日本企業特有の「根深い欠陥」とは
7/19(金) 7:00配信
ITmedia ビジネスオンライン


(中略)

 日本社会は、基本的に陰湿であり、かつ目的意識が希薄という特徴がある。このため、何かトラブルが発生しても、解決が最優先されず、スケープゴート探しに血道を上げてしまう。このため、問題の当事者となった人は、状況のいかんに関わらず「自分は悪くない」と声高に主張するケースが多いのだ。非を認めて謝れば済むところを問題がこじれてしまうのは、こうした土壌が存在しているからである。

(中略)

加谷珪一(かや けいいち/経済評論家)
ITmedia ビジネスオンライン

最終更新:7/19(金) 7:00
つまり、日本人・日本文化は「犯人捜し」を再優先する国民性・文化性ゆえに、「何か問題が発生している状況下で特定個人に声がかかる」ということを「その人の責任が追及されている」と受け止めるのです。だから、事件・事故の被害者に事実関係の確認をすることを「粗探しして被害者の落ち度をあげつらおうとしている」と見なすわけです。

これは、もっと言ってしまえば、自分が普段から他人の粗探しばかりしているから、「毎日新聞は京アニの粗探しをしているに違いない(他人も自分と同じように粗探しをしているに違いない)」と思い込んでしまうとも言えるでしょう。

思い起こせば、5月に滋賀県大津市で発生した保育園児死傷右直事故のときもそうでした。「マスコミは保育園側の過失を追及しているように見える」という批判が沸騰しました。

たしかに、保育園側が開いた会見とはいえ、事故から数時間しか経っておらず思考が混乱したままであろう段階においては、すこしハードルの高い質問だったといえますし、警察でも裁判所でもない「マスコミ」が出過ぎた真似をしているとも言えるかもしれません。歩道で普通に信号待ちしていた歩行者に右直事故の責任があるわけがないのは常識で分かることです。

しかし、「教訓を得る」という点においては、事故の瞬間を克明に描き出す必要があるので、責任追及とはまったく別問題として、常識的に考えれば当たり前のことであったとしても、事実関係を洗い出さなければならないのです。京都新聞が見解を述べています。決して粗探しなどではないのです。

■日本社会の現状を象徴する一幕
こうした思い込みは、ムラ社会以来の日本の「伝統的」なメンタリティーと言えるでしょうが、チュチェ105(2016)年1月26日づけ「木村草太氏こそ何かの冗談ではないのか?――ブルジョア「憲法学」者の正体みたり」でも述べたとおり、最近は、原因・責任・賠償といった「他人に如何に責任を負わせるか」という敵対的利己主義社会の発想が「自由主義」の名の下に推奨されてもいます。

スケープゴートを探し出して吊るしあげてイジメ抜くというムラ社会の色彩は色濃く残りながらも、同時に、責任の擦り付け合いで「個人」として生き延びるブルジョア「自由主義」社会の色彩も強まりつつあるわけです。

文脈を無視してまで「京アニに落ち度はない」という弁護が執拗に展開される異様な風景。誰も責めていないのに、勝手に弁護・弁解が展開されている現実。ムラ社会とブルジョア「自由主義」社会とのハイブリッドである日本社会の現状を象徴する一幕です。
ラベル:社会
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2019年07月22日

評判経済たる現代資本主義市場経済を象徴する吉本興業社長の釈明会見

みんな選挙結果なんかよりもこっちの方に興味があるようでw投票率48%じゃ仕方ないにしても、選挙翌日とは思えないような世論状況ですが、私も選挙結果と同じくらいこっちの方にも興味があるのは否めないですw
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190721-00293303-toyo-soci&p=2
宮迫と亮の「不本意な告発」が起こした巨大衝撃
7/21(日) 13:30配信
東洋経済オンライン


(中略)

■笑いを届ける企業とは思えない冷酷さ

 繰り返し嘆願したことで「会見を開かせてやる」という承諾は得たものの、「期限はこっちで決める。それはこっちの権限だ」と言われた宮迫さんは、「あの空気感、あの感じ……『ひと月、ふた月引き延ばされて、結果うやむやにされるのではないか』という不信感が拭い切れなかったので、僕たちは自分たちに弁護士をつけることを選択しました」。

 この選択が両者の対立を決定づけ、2人はさらに追い込まれていくことになります。宮迫さんは、「2日前、僕たちの弁護士さんのところに書面で、『僕と亮くん2人の引退会見、もしくは、2人との契約解除。どちらかを選んでください』という書面が突然送られてきました。意味がわかりませんでした。引退ということもなく、謝罪会見をさせてもらえると思っていた僕たちはどうしたらいいのかわからなくなりました」。

 このあたりは弁護士同士のやり取りだけに法的な問題は考えにくく、吉本興業には書面を正当化する裏付けがあるのでしょう。ただ、そこに一切の温情はなく、笑いを届ける企業とは思えない冷酷さを世間の人々に感じさせてしまいました。


(以下略)
■評判経済たる現代資本主義市場経済を象徴する一コマ
6月7日づけ「カネカは初動に失敗してしまった――評判経済たる現代資本主義市場経済での自殺行為」で私は、「これからの時代、労務でもめたときは弁護士に相談するのではなく、広告代理店に相談した方が良いかもしれません。」と書きました。今回の吉本興業の対応は、法律的には恐らく何とかなるのでしょう。しかし、「そこに一切の温情はなく、笑いを届ける企業とは思えない冷酷さを世間の人々に感じさせてしまいました」と評されてしまいました。これは痛い

さすが世の中の流れに敏感な吉本興業だけあって、早々に釈明会見。むしろ逆効果だったようですが、たった数日で形勢逆転、大芸能事務所が掌を反すように慌てて対応を始めるとは、評判経済たる現代資本主義市場経済を象徴する一コマと言ってよいでしょう。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190722-00000126-dal-ent
吉本芸人 社長会見に不満噴出 トレエン斎藤「情けない」 たむけん「言い訳」
7/22(月) 16:54配信
デイリースポーツ

 吉本興業の岡本昭彦社長が22日、都内で会見を開いた。反社会的勢力の会合に所属芸人が出演し金銭を受け取った問題で、吉本興業側が正式な会見を開くのは初めて。この会見は午後2時から弁護士が経緯を説明、2時半ごろから岡本社長が登場して会見を行った。謝罪はしたものの、回りくどい“釈明”に終始した印象のぬぐえない会見内容に、吉本芸人たちはテレビの生放送やSNSで次々と批判や不満を表明している。
 
 トレンディエンジェルの斎藤司は生出演したフジテレビ系「直撃LIVE グッディ!」で「僕はこの会社なんだ、と情けない」とあきれた。「なんでこんなに、一企業の社長として、なんでこんなに回りくどいことばっかり言って…」「YES、NOの札を最初に渡しておくべきだった」と質問にストレートに答えない姿勢を批判し、「(社長には)覚悟がなかった、という感じがして。ほんとに皆さんに申し訳ない」と詫びた。


(以下略)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190722-00000218-spnannex-ent
吉本社長会見中に所属芸人からツッコミ続出「悲しいわ…血の通った発言を聞きたいんです」
7/22(月) 16:29配信
スポニチアネックス


(中略)

 また、「とろサーモン」久保田かずのぶ(39)は、社長の会見についてとは明言していないが、会見と同時間帯に「悲しいわ。知り合いの芸人、先輩後輩同期、皆同じ事を思ってる。頼むから汗の書いた文字が欲しいんです。生きてる言葉をください血の通った発言を聞きたいんです。どう変わるんですか?」と訴えている。
私、このニュースを最初に見たとき、「相変わらず芸能界・芸能事務所は腐っているなー」という感想が出て来ました。SMAP解散問題の時にも述べましたが、芸能界という世界は、中世のような人間関係が色濃く残っている特殊世界です。「継続的な憤り」は感じつつも「突発的な驚き」は感じませんでした。

ただ、最近の人は違うようですね。「笑いを届ける企業とは思えない冷酷さ」を感じたそうで。そういう人たち一人ひとりの感覚の変化が今回の事実を「驚き」として受け止め、そして驚きであるがゆえに話題として発破し、一人ひとりのミクロ的・個人的驚きがあたかもベクトルの合成ように増幅されてマクロ的・社会的なうねりになったのでしょう。そうした状況に主に商売的動機から危機感を感じた会社側が掌を反すように慌てて対応を始めたというわけです。

まさしく、評判経済たる現代資本主義市場経済を象徴する一コマと言ってよいでしょう。

■一人ひとりの意識の変化が「市場メカニズムによって」社会的うねりに増幅された
ちなみに、最近、リベラリズムを観念論として批判している立場から申し述べておくと、今回のような社会的変動の端緒は確かに「一人ひとりの意識の変化」です。その点はリベラリズムと認識は同じでしょう。しかし、一人ひとりの意識の変化「自体」が今回の現象を引き起こしたわけではありません。一人ひとりの意識の変化が「市場における消費者行動の変化」を予兆させるようになり、それゆえに主に商売的動機から危機感を感じた会社側が慌てて対応を始めたわけです。つまり、「市場における消費者行動の変化の予兆」すなわち「市場メカニズム」が重要な要素になります。

改めて重点的に述べたいと思っていますが、リベラリズムは、人間が意識を変え行動を変えることによって、具体的にどのような経路をたどって社会システムが変わってゆくのかを描き切れていないと言えます。そうした詳しい説明抜きに「人間が意識を変え行動を変えれば社会システムが変わる」などとするから根拠薄弱な観念論になってしまうわけです。

■また労組結成のススメ?
ところで、吉本闇営業問題では例によって「さる筋」が労働組合結成がどーのこーのと端っこの方で主張しています。うーん。。。宮迫さん及びロンブー亮さん並びに世間一般は、会社側の対応に「一切の温情はなく、笑いを届ける企業とは思えない冷酷さ」を感じ取ったから、というのが大きな要素のはず。何よりも本人たちが組合活動のような形で対決姿勢を取りたいとは思っていないのではないでしょうか。。。

すごく違和感を感じるんですよね。「さる筋」の労組運動が「血の通った発言」を求める人たちの要求を満たせるのだろうかと。

■余談
トレエン斎藤さんの「情けない」及びたむけんさんの「言い訳」発言について。所属芸人が自社社長の会見に対して斯くも「自由」に論評できるとは、社会主義国における権力闘争ウォッチを普段からやっている身からすると、彼らは会社側の報復を恐れず捨て身で正論を展開しているのか、それとも社内政治の点において岡本社長の「先」が長くないと見越してなのか、といったあたりにも興味がわいてきます。こういう「空気の変化」が気になってくるのです。
ラベル:社会
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2019年07月19日

いくら大切な話だといっても話題を切り出すタイミングというものがある

https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20190719-00000136-nnn-soci
京アニ火災 確保の男、数回騒音トラブルも
7/19(金) 11:54配信
日テレNEWS24

京都市のアニメ制作会社「京都アニメーション」のスタジオで33人が死亡した火災で身柄を確保された男は、近隣住民との間でたびたびトラブルになっていたことがわかった。

捜査関係者などによると身柄を確保された41歳の男は、3年前からさいたま市のアパートで暮らしていたが、去年8月以降、近隣住民との間で数回騒音トラブルがあったという。


(以下略)
過酷な労働環境で有名なアニメ業界(京アニはホワイトですけどね)に関する強い怨みの動機を推察できる事件だけに、藤田孝典氏あたりが例によって、(京アニが業界でも有名なホワイトであることを無視して)事実から出発するのではなく類型からの「そうに違いない」論法でトンでもないことを口走っていないだろうかと思っていた矢先の下記コメント。斜め上を行きすぎていました。。。
藤田孝典
NPOほっとプラス代表理事 聖学院大学人間福祉学部客員准教授

重大事件が起こるたびに騒音トラブルに触れる報道がされます。
そもそも、1人暮らし用のワンルームや低廉な家賃の民間賃貸住宅では、隣室との壁も薄く、中には電話の話し声や独り言、いびき等がそのまま丸聞こえという場合もあります。
もちろん、足音や生活音が聞こえることも珍しくありません。
これらの生活音は意図せずとも、相手に不快な思いをさせてトラブルに繋がる事例が散見されます。
生活困窮者や低所得状態にある方の住宅への入居支援を行っている場合には、このように近隣トラブルや騒音トラブルがしばしば起こります。
その際には常に問題当事者の人格や行動が問われるのですが、そもそも住環境自体にトラブルが起きやすい構造的問題がないか、民間賃貸住宅の建設時に見直してほしいと思います。
高所得者、中所得者などは、持ち家、隣室との厚い壁に覆われたマンションなどに居住しているので、実態が見えにくいとも思います。
「本件犯人が住んでいたアパートは、そうだったの?」「一般論として、それは問題だとは思うけど、今言う話?」という疑問しか浮かんでこないコメントです。

やはり早速批判の声がTwitter上で展開されていますが、藤田氏は「殺人は罪。厳罰に処すべき。その次はどうしますか?何度繰り返せば痛ましい事件は終わりますか?」などと「反論」しています。うん。。。住事情が事件の原因だったと判明したの?? 身柄を確保された犯人は重篤な容体で取り調べできる状態ではないらしいけど?? よく分からないなら下手に決めつけない方がいいですよ。

社会が崩壊していることに起因する大量殺傷事件の数々。その背景に目を向けることがない限り、残念ながら何度も何度も罪なき人々が殺されてゆく。繰り返し繰り返し。いつかは気づいて止められるようになってほしいな。」とも言っています。報道されている範囲で述べれば、身柄確保の時点で犯人は「自分の作品を盗まれたから」と述べたそうです。「意味不明」と言わざるを得ず何か秘められた動機がありそうですが、前述のとおり今現在は容体は重篤で受け答えできる状況にありません。少なくともまだ動機解明に役立つような追加発言は報じられていません。繰り返しになりますが、分からないことについては、個人的事情に起因することなのか社会的原因があるのかについてさえも決めてかかるような論評を控えるべきだと思いますが。。。例によって藤田氏は、事実から出発するのではなく類型からの「そうに違いない」論法を展開していると言わざるを得ません

5月28日に発生した川崎市での通り魔殺傷事件の時とは異なり、今回はさすがにちょっと。。。川崎殺傷事件のとき中川淳一郎氏が「犯人にまつわる背景も不明な今、やるべきは被害者に対する哀悼の意表明だけだろ。お前がやってる「弱者救済」商売に繋がることを憶測で即座に書く神経を軽蔑する」とTwitterで批判していましたが、今回についてはその批判が当てはまると言えるでしょう。

余談ですが、藤田氏のTwitterを見ていたら、反社相手の闇営業問題で善後処置をし損ねて絶体絶命の状況にある宮迫博之さんの件について「地位保全を求める労働組合運動に参加してほしい」と述べていました。宮迫さんのマネジメント契約って、実態として労働者性が認められるんでしょうかね? 労働者性が認められるとして、労働者は会社を通さない闇営業をしても問題ないのでしょうか(そこは就業規則の定めに依るだろうけど)自ら労組運動をライフワークとし、二言目には労組という単語が出てくる藤田氏。さすがに労働者性を認めるのは苦しく現行法では公正取引委員会が動くべきコンビニFC店の問題でも労組を持ち出していた藤田氏。ここまで来ると「商売」という批判も「見当はずれ甚だしい」とは言えなくなってきますね。。。

住環境問題は重大な問題でありいち早い対策・解決が必要だと私も思いますが、いくら大切な話だといっても話題を切り出すタイミングというものがあります。この藤田コメントは、ピアノ騒音殺人事件(1974年)のようなケースなら理解可能ですが、今回については放火大量殺人をダシにして直接的には関係のないアジテーションを展開しているようにしか読めません。あるいは、もはや手の施しようのない「類型からの『そうに違いない』論法」と言うべきでしょうか(どっちもありそうだなー)。

川崎殺傷事件のときは、5月28日づけ記事でも述べたとおり、「刑事政策を考える」という点において「「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしい」という彼の主張は、事件の評価とは直接的には無関係ながらも理解可能でありましたが、今回は厳しい。京都市の門川大作市長が事件当日夜の参院選応援演説で「大変な火事が起こっております。火事は3分、10分が大事。選挙は最後の1日、2日で逆転できる。そのことも含めてよろしくお願いします」などと人間性を疑う大暴言を吐きましたが、藤田コメントも負けず劣らずの酷さです。

私は、住環境問題の解決が単なる個人の問題ではなく社会的問題だと思うからこそ、藤田氏の本件主張について批判を申し述べる次第です。世間の皆様、住環境問題を重視する立場の人間は、決して藤田氏と同じ考え・発想ではございませんので一緒にしないでくださるようお願い申し上げます。
ラベル:社会
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2019年07月17日

「合理的推理」の「理」は、「当事者にとっての理」も含まれる

https://www.excite.co.jp/news/article/Jiji_20190716X320/
処刑説の金革哲氏生存=米朝実務協議担当―韓国情報機関
時事通信社
2019年7月16日 20:31

 【ソウル時事】韓国の情報機関、国家情報院の徐薫院長は16日、国会の情報委員会で、処刑説が出ていた北朝鮮の金革哲・国務委員会米国担当特別代表について「生きているとみている」と報告した。


(以下略)
キム・ヒョクチョル氏「銃殺」説。「キム・ヨンチョル粛清・キム・ヨジョン謹慎」説の「付属品」として5月下旬から6月上旬にかけて話題になった件です。「キム・ヨンチョル粛清・キム・ヨジョン謹慎」説は早々にガセネタと判明しましたが、いよいよキム・ヒョクチョル氏「銃殺」説の旗色も悪くなってきたようです。この間の騒動は、いよいよ何の根拠のない「創作」である可能性が高まってきました

私は基本的に、予測を外した人について後になってからアレコレ言わないようにしています。とりわけ朝鮮半島情勢は、共和国の秘密主義的体質に加え、各国の利害が複雑に絡み合っているために予測が困難であり、事後論評は「後出しジャンケン」の様相を呈してしまうからです。また私自身は、国際政治に明るくないと自覚しているので、論評しかねる(よく分からない)という事情もあります。

ただ、以下にあげる記事については、例外的に事後論評を試みたいと思います。コリア国際研究所所長のパク・トゥジン(朴斗鎮)氏による「キム・ヨンチョル粛清・キム・ヨジョン謹慎」説にかかる自己弁護です。「パク・トゥジン」という筆者名を見ただけで記事の結論とそれを読む価値の無さが一目瞭然だし、その上に1ヵ月も前の記事になりますが、典型的な要素があり「素材」としては「使いやすい」ので、我慢してお付き合いくださいw
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190616-00010001-jindepth-int&p=1
権威回復目論む金正恩の狡猾
6/16(日) 19:01配信
Japan In-depth


(中略)

■ 権威回復の手始めは責任転嫁

ハノイ米朝首脳会談失敗の責任転嫁のために、金正恩が党副委員長の金英哲を労役に、妹の金与正(キム・ヨジョン)を謹慎に、そして統一戦線部室長の金聖恵(キム・ソンヘ)と通訳を強制収容所送りとし、対米交渉特別代表だった金赫哲(キム・ヒョッチョル)を処刑したと朝鮮日報が報道した(5月31日)。ポンペオ米国務長官は、この報道に対して否定も肯定もせず「確認中」という答弁だけを出した。

だがこの報道に対して、金正恩は異例の速さで反応した。重要行事に金英哲と金与正を登場させて「粛清報道」が「誤報」であると印象付ける世論操作を行った。それだけこの報道の拡散が怖かったと見られる。

いまだに姿を現さない金聖恵の処遇や、特には金赫哲の処刑説については未確認ではあるが、健在ぶりを示すために出てきた金英哲が統一戦線部長を解任され幹部席の末席に座らされたことや、慈江道(チャガンド)視察に金与正が同行しなかった(玄松月が同行)ことを見ても、対米交渉関係者に処罰が下されたことは明白だ。また金正恩時代になって処罰から粛清という話もよくあることだ。

労働新聞は5月30日付で「良心は人間の道徳的風貌を規制する尺度」との個人論評を掲載し、北朝鮮で一連の粛清があったことを示唆した。そこには「首領(金正恩)に対する忠実性は、義務である前に良心であり、実践でなければならない。革命の道では、首領の崇高な道徳義理を身につけ価値の高い生活の頂点に上がる人もいれば、一方で首領への忠実性を言葉だけで覚え、甚だしくは大勢に応じて変化する背信者、変節者も現れる。忠実性は決して闘争年限や経歴から出てくるものではない」「首領の構想と意図を実現するために、自身の血と汗、命までも躊躇なく投げ打つ良心を持つ人間、義理の人間が真の道徳の強者、真の革命家である」と綴られ、今回の処罰・粛清がどのような名目のもとで行われたかが暗示された。


(中略)

だが、親金正恩の「ハンギョレ新聞(韓国)」は、情報の深い分析もしないまま、金英哲と金与正が姿を現しただけで、いち早く朝鮮日報報道を「誤報」と決めつけた。金正恩の意中を忖度したとしか思えない対応だ。このハンギョレ新聞報道に合わせて日本で「誤報」との主張を行ったのがコリアレポートの辺真一氏だった。

■ 「クロスチェック」と「合理的推理」で金正恩のウソを見抜け


(中略)

しかし、そうだからと言って、韓国発情報をすべて疑っていては朝鮮半島情報の分析が成り立たない。情報の中からデマでないものを選び出すのが情報分析の第一歩なのだ。そのためには複数の情報源をもって「クロスチェック」する必要があるが、それとともに必要なのが「合理的推理」だ。金正恩のウソを見抜き閉鎖的な北朝鮮を分析するにはこの二つの作業は必須となる。

北朝鮮情勢に対する合理的推理は、北朝鮮が首領絶対制システムであることの理解が土台となる。


(中略)

こうしたことから、「対米交渉担当者たちが処罰されるだろう」というのは北朝鮮専門家であれば誰もが到達する「合理的推理」である。誰を最も重罪にするかはその時の政治状況と金正恩の裁量によって決まる。したがって対象人物が映像に登場したからといって「粛清は誤報」とするのは「即断」すぎる。

(中略)

金正恩は未熟だが狡猾だ。金英哲が映像に登場したからと言って彼に対する処罰や対米交渉関係者に対する粛清がなかったと判断するのは早計だ。北朝鮮状況を誤判しかねないだけでなく金正恩の計略にはまる可能性がある。
■党や国家の最高幹部としての肩書を維持しつつの「粛清」・「謹慎」は、可能性としてあり得るだろうか?――ブーメランが突き刺さるパク・トゥジン氏
閉鎖的な北朝鮮を分析するには」、「複数の情報源をもって「クロスチェック」」することと「合理的推理」が必要だという指摘自体は極めてまっとうなものです。私も、しばしば「共和国分析においてこそクレムリノロジー的分析が有効だ」と述べているとおり、極めて秘密主義的ではあるが、正統を重視する儒教文化圏に位置し、科学を標榜する社会主義を掲げている共和国情勢を分析するにあたっては、複数の情報源からのクロスチェックと合理的推理によって断片的な情報をジグソーパズルのように組み立て、ストーリーを構築して理解することが必要だという立場です。

その点、パク・トゥジン氏にはブーメランになってしまいますが、彼こそ「党や国家の最高幹部としての肩書を維持しつつの『粛清』・『謹慎』は、可能性としてあり得るだろうか?」という問いを立て、複数の情報源からのクロスチェックと合理的推理を展開すべきでした

ハノイ会談から粛清・謹慎説が出回るまでの間にあった幾つもの政治イベント――最高人民会議第14期代議員選挙、朝鮮労働党中央委員会第7期第4回全員会議および最高人民会議第14期第1回会議――でキム・ヨンチョル氏とキム・ヨジョン氏はともに最高幹部として名を連ねていたという厳然たる事実から出発すべきです。

このことについては、当ブログでは、3月23日づけ「最高人民会議第14期代議員選挙結果を読む」、4月13日づけ「朝鮮労働党中央委員会第7期第4回全員会議と最高人民会議第14期第1回会議から読み取る布陣と確固たる意志」および6月6日づけ「「キム・ヨンチョル粛清・キム・ヨジョン謹慎説」を振り返る――『労働新聞』に照らして読めばこそ最初から明らかだった『朝鮮日報』誤報」などで繰り返し書いてきました。特に6月6日づけ記事では「党の最高幹部の肩書を維持しつつの「粛清」・「謹慎」は、共和国の政治史においてはかなり異例のこと。絶無とまでは言いませんが、「かなり可能性が低い」と言わざるを得ないストーリーでした」と述べたとおりです。

パク・トゥジン氏も『朝鮮日報』のガセネタと同じく『労働新聞』5月30日づけ「良心は人間の道徳的風貌を規制する尺度」論評を、粛清断行を示唆する間接証拠として挙げていますが、まさに6月6日づけ記事でも書いたとおり、ちょうどこの時期に実施されていた、キム・ジョンウン委員長によるチャガン(慈江)道現地指導における、近年で最強クラスのご立腹ぶりと関連させたほうがストーリーとして合理的であると言わざるを得ません。

■傷口を自らひろげるパク・トゥジン氏
パク・トゥジン氏は「「対米交渉担当者たちが処罰されるだろう」というのは北朝鮮専門家であれば誰もが到達する「合理的推理」である」と言い張ります。しかし、ハノイ会談から粛清・謹慎説が出回るまでの間にあった幾つもの政治イベントでキム・ヨンチョル氏とキム・ヨジョン氏がともに最高幹部として名を連ねていたという厳然たる事実を見落としたのは、あまりにも痛い彼は、いったん決めてかかった見立てに引きずられて、それの修正を迫る新しい事実に直面しても合理的に考え方を変えることはできなかったわけです。

粛清されて強制労働を課されているはずのキム・ヨンチョル氏が健在だという事実を突きつけられたときの言い訳もすごい。「重要行事に金英哲と金与正を登場させて「粛清報道」が「誤報」であると印象付ける世論操作を行った。それだけこの報道の拡散が怖かったと見られる」とのこと。キム・ヨンチョル氏が粛清されたことが暗黙の前提になっている論理構成はこの際は脇において(そのことこそが問題なんですけどね・・・)、なぜキム・ジョンウン委員長が、このことにだけ「怖がる」のかについてまったく説明されていません

パク・トゥジン氏が、キム・ヨンチョル氏らが処罰をうけたとあくまでも言い張る理由は、次のくだりが該当するでしょうか。すなわち、「金英哲が統一戦線部長を解任され幹部席の末席に座らされたことや、チャガン(慈江)道視察に金与正が同行しなかった(玄松月が同行)ことを見ても、対米交渉関係者に処罰が下されたことは明白だ」。このことについては、私も繰り返し述べているとおり、共和国は遊びで対米交渉しているわけではないのだから、交渉担当者の党内序列が低下するくらいは当然でしょう。それに、そもそも、単なる序列低下と「粛清・謹慎」説および「銃殺・収監」説はまったく別物です。キム・ヨンチョル氏が末席に座ったこと、キム・ヨジョン氏が現地指導に同行しなかったことは、序列低下に留まるものです。もっといえば、キム・ヨジョン氏がチャガン道という、まあまあ田舎の地方現地指導に同行しなかったことなど、単に本人あるいは家族の体調不良の可能性だってあるでしょう。キム・ヨジョン氏はまだ幼子を育てる母親です。現地指導(地方視察)に同行しなかったくらいで、ここまで書き立てられるとは・・・

「そもそも北朝鮮情勢の分析自体は難しいものだけど、ぼくちゃんこれだけ頑張って考えたんだもん!」という心の叫びは痛いほどに伝わってきますが、「党や国家の最高幹部としての肩書を維持しつつの「粛清」・「謹慎」は、可能性としてあり得るだろうか?」という重要論点の見落としを取り繕ろうとアレコレ言い訳を展開してむしろ傷口をひろげているように思えてなりません・・・

■一度決めてかかった認識を改める契機がないパク・トゥジン理論
そして最後の捨て台詞。「金正恩は未熟」というのは、パク・トゥジン氏としてはどうしても言わずにはいられない・我慢できないお決まりの台詞なのでスルーするとして、「金英哲が映像に登場したからと言って彼に対する処罰や対米交渉関係者に対する粛清がなかったと判断するのは早計だ」もすごい。悪魔の証明的の発想。普通は、「ある」と主張する側に立証責任があって十分な材料を提示できないときは「ない」とするのが、それこそ合理的推理の掟。パク・トゥジン理論でいくと、一度決めてかかった認識を改める契機がありません。どんなに推理と異なる事実が発生しても持論に固執できることになります。

「疑いをもって判断を保留すること」と「事実だとして主張すること」との間には根本的な違いがあります。パク・トゥジン氏は、そこを混同しています。

仮に一連の粛清・謹慎説および銃殺・収監説が事実だとしましょう。キム・ヨンチョル氏に強制労働が科されていて、キム・ヒョクチョル氏が刑死していて、キム・ソンヘ氏とシン・ヘヨン氏が収監されているとしましょう。死んでしまったキム・ヒョクチョル氏は生きて登場できないとしても、キム・ソンヘ氏とシン・ヘヨン氏がいまだ消息不明なのはなぜなのでしょうか? 本当に怖がっているのならば、何かテキトウなタイミングで朝鮮中央テレビのワンシーンや『労働新聞』の掲載写真の端っこの方に顔の半分でも写し込めばいいものを。キム・ソンヘ氏とシン・ヘヨン氏の消息不明には、何か別の理由があると考えることも可能でしょう。

■「合理的推理」の「理」は、当事者にとっての「理」も含む
ちなみに僭越ながらお勧め申し上げると、「合理的推理」の「理」は、「第三者的な理」だけではなく、「当事者にとっての理」も含まれると考えるべきでしょう。特に相手側陣営の内部事情を探るというのであれば、相手陣営内部を司る論理や力学に注目すべきです。つまり、「朝鮮労働党や共和国政府のいつもの主張や動向、またはチュチェ思想の原則からその思考回路を推測すれば、こういう理屈でこういう結論に至るだろう」という視点を交えることも大切だということです。

側近たちの肩書は、無秩序につけられているわけではなく幹部同士の忠誠競争・相互牽制の分かりやすいシンボルとして重要なものです。部外者が思っている以上に、ヒエラルキー的構造の社会主義体制内部においては肩書は重要です。相手陣営内部(朝鮮労働党の組織内)を司る論理や力学に注目し、「党や国家の最高幹部としての肩書を維持しつつの「粛清」・「謹慎」は、可能性としてあり得るだろうか?」という問いが必要になるのです。

この視点に立脚して「今回の粛清・謹慎」説を見たとき、最高人民会議第14期代議員選挙や党中央委員会第7期第4回全員会議、最高人民会議第14期第1回会議でキム・ヨンチョル氏とキム・ヨジョン氏がともに最高幹部として名を連ねていたという厳然たる事実を踏まえればこそ、本件は当初からかなり胡散臭い情報だということが見抜けたはずです。
ラベル:メディア 共和国
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2019年07月15日

主観主義的社会歴史観と「個人」主義的人生観に打ち克ち、「我々」意識に基づく社会の集団的・共同体的結束を再興するために

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190708-00000001-withnews-soci&p=2
貧しいのは本人のせい? エリート階級に広がる「自己責任論」、乗り越えるには 格差問題の専門家に聞く
7/10(水) 7:02配信
withnews

生活が苦しい人のための政策を考えるとき、必ずと言っていいほどネックになるのが「自己責任論」です。“貧しいのは本人の責任”、“努力しなかった本人が悪い”。日本に広く行き渡ってしまった考え方ですが、格差問題に詳しい社会学者の橋本健二・早稲田大学教授によると、特に高学歴・高収入の人はこう考える傾向が強いそうです。どうすれば自己責任論を乗り越え、本格的な貧困対策に取り組めるのか。橋本さんに聞きました。(朝日新聞記者・牧内昇平)


(中略)

階級別にみていくと、企業の経営者や役員などの「資本家階級」や、会社の専門職や上級事務職など、わたしが「新中間階級」と呼ぶ人々のあいだで、「貧困になったのは努力しなかったからだ」と考える人の割合が多かったのです。

――資本家階級に自己責任論が広がるのはうなずけますが、新中間階級の人びとにも同じ傾向があるのですね。そもそも新中間階級とはどのような人たちですか。

企業などで働く専門職、管理職、上級事務職。学歴が高く、情報機器を使いこなし、高い収入を得ている、つまり恵まれた豊かな生活を送っている人たちです。

2000年代に入ってその傾向は強まった
――この層の人々に自己責任論が広がっているのですか。

新中間階級に自己責任論の傾向が強まっていったのは、ここ20年のことだと思います。先ほどとは別の調査によると、1995年まではかろうじて、新中間階級はリベラルだった。不公平がこの世の中にあることをはっきり認識していた人が多くて、富裕層から貧しい人にお金を回す「所得再分配」にも割と好意的でした。

ところが2005年からアレっという結果が出るようになりました。

――なぜ、2000年代から新中間階級に自己責任論者が増えてきたのでしょうか?

戦後民主主義の成果と言えるのか分からないですが、これまでは弱者との連帯、弱者への共感という心性があったのかもしれません。そうしたものの見方が、高学歴な高所得者から急激に失われてきたと感じています。

なぜ自己責任論が容認されるのか?

――資本家階級に自己責任論が広がっているのはうなずけますが、なぜ新中間階級で目立つのでしょうか?

自己責任論には表と裏、プラスとマイナスのふたつの側面があります。プラスは「自分が恵まれているのは自分のおかげだ」、「自分が努力し、能力があったからだ」という側面です。これがマイナスにはたらくと、「自分が貧乏なのは自分のせいだ」となります。これは表裏一体の関係です。

新中間階級はこれまで勉強や仕事で成功してきた人たちです。この人たちはまず、自身の成功をプラスの側面で考える。「自分の地位や財産は自分で築いたものだ」という見方です。

そしてこの層の人々は論理的にものを考えますから、必然的に「貧しいのは本人の責任だ」となる。そうしておかないと論理整合性がとれないのです。こうして、強固な自己責任論が成り立ちます。

自己責任論から脱却するには

――「論理」を大事にする人々に自己責任論から脱却し、貧困対策に積極的になってもらうには、どうすればいいですか?

正義感とか倫理観だけで多くの人が一斉に動くとは考えられない。わたしは「自分の利益にもなりますよ」と伝えることが必要だと思っています。

いまは恵まれた新中間階級でも、子どもがアンダークラスに入る可能性は十分あります。大学を出てもいい仕事に就けるとは限りません。だとしたら、アンダークラスが生まれないような社会の方がいいし、仮にアンダークラスになったとしても、最低賃金で1500円もらえる社会の方がいいわけですよね。1500円だったら子どもがフリーターになってもそんなに絶望する必要はない。

また、子どもだけでなく、いま新中間階級の人たち自身が老後に転落する可能性もあります。退職金は減っているし、年金の水準も下がっていきます。よほどの大企業に定年まで勤めた人でなければアンダークラスに転落する可能性があります。いくらか貯金があっても大きな病気をしたら1千万円くらい簡単になくなります。


(以下略)
「階級」という概念の使い方が正確でないのが少し気になりますが、企業の経営者や役員などの資本家階級のみならず、会社の専門職や上級事務職といった高所得労働者階級の間にも「貧困になったのは努力しなかったからだ」と考える人の割合が増えている点について着目し、その原因について論考している興味深い記事です。

偶然、当ブログでも7月4日づけ「こき使われている勤務医が「自己研鑽」のインチキ理論に毒されているのは何故か、知識労働者を核心とした自主化運動・抵抗運動の展望はどこにあるのか」においてチュチェ思想の観点から、知識労働者たちが雇い主たちのインチキ理論を受容してしまい自ら進んで搾取されている事実について構造的に分析したところです。

今回は、その延長線上で、チュチェ思想的な観点から橋本教授の言説について考えてみたいと思います。

■新中間階級が資本家的な思想傾向にある原因は、知識労働者のプチブル化
橋本教授曰く、会社の専門職や上級事務職に就き、学歴が高く、情報機器を使いこなし、高い収入を得ている、つまり恵まれた豊かな生活を送っている「新中間階級」という人々(これ正確には「階層」だよね)に、2000年代以降、「自己責任論」への支持と「所得再分配」への否定的評価が広まってくるようになったといいます。

この原因について橋本教授は、二点あげています。一点目が戦後民主主義的リベラリズム以来の「弱者との連帯、弱者への共感」という心性の急速な消失。もう一点が「自分の地位や財産は自分で築いたものだ」という見方から論理的・必然的に導出される「貧しいのは本人の責任だ」という理屈だといいます。

そして、自己責任論からの脱却の展望として、自己責任論からの脱却は正義感や倫理観の連呼だけではなく「自分の利益にもなる」ということを訴えかけるだとします。

橋本教授がいう「新中間階級」は、私の前掲過去ログ上でいう「インテリ・知識労働者」に該当すると考えられます。念のために再言及しておくと、キム・ジョンイル総書記は『反帝闘争の旗を高くかかげ、社会主義・共産主義の道を力強く前進しよう』(チュチェ76・1987年9月25日)において、知識労働化に伴う現代資本主義社会の階級構成変化について次のように指摘されました。ちなみに、橋本教授が「2000年代」とする変化について総書記が1987年の段階で察知していたことは特筆的だと思います。
 第2次世界大戦後、資本主義諸国では社会的・階級的構成に大きな変化が起こりました。発達した資本主義諸国では技術が発達し、生産の機械化、オートメ化が推進されるにしたがって、肉体労働に従事する勤労者の数が著しく減り、技術労働と精神労働に従事する勤労者の隊伍が急激にふえ、勤労者の隊伍において彼らは数的に圧倒的比重を占めるようになりました。

 社会の発展に伴って勤労者の技術、文化水準が高まり、知識人の隊伍がふえるのは合法則的現象だといえます。

 もちろん、知識人の隊伍が急速に拡大すれば、勤労者のあいだで小ブルジョア思想の影響が増大するのは確かです。特に、革命的教育を系統的にうけることのできない資本主義制度のもとで、多数の知識人がブルジョア思想と小ブルジョア思想に毒されるのは避けがたいことです。それゆえ、彼らを革命の側に獲得することは困難な問題となります。
その上で私は、知識労働の最たるものとして医療労働、とりわけ勤務医の階級意識について次のように述べました。
この見解を現代日本の医療界に当てはめてみましょう。医師は知識労働の最たるものです。医師は、長い時間と努力によって血肉化した知識をもとに、主治医として治療の中心人物として、雇われの身なので全体的には雇い主の指揮命令下にありながらも、自分自身の判断で仕事を進める場面も多いものです。それゆえ、病院等に雇われて組織的に働く看護師などと比べると、ひとり親方・個人事業主的傾向が強いといえます。総書記が指摘されるように、ブルジョア思想・プチブル思想に汚染されている恐れが大きいと考えられるのです。

雇われの身でありながらも個人事業主のような働き方をしている勤務医がプチブル思想に毒されて自己の労働者性を忘却している場合、個人事業主の感覚のまま病院経営者になってしまった大ブルジョアの誤った労務感覚に共感し、健全な自主性・自主的要求が麻痺してしまう恐れがあるわけです。勤務医が「自己研鑽」などというインチキにコロッと騙されている背景には、知識労働者のプチブル化が考えられるのです。
新中間階級の自己肯定感の源泉を「自分の地位や財産は自分で築いたものだ」という認識におく橋本教授の見立ては、私が勤務医について述べた「長い時間と努力によって血肉化した知識をもとに、主治医として治療の中心人物として、雇われの身なので全体的には雇い主の指揮命令下にありながらも、自分自身の判断で仕事を進める場面も多い」ために「ひとり親方・個人事業主的傾向が強」く、よって「ブルジョア思想・プチブル思想に汚染されて」しまうという見立てと共通点が多いといえるでしょう。

つまり、産業構造の変化に伴い労働者階級はインテリ化・知識労働者化します。すなわち、全体的には雇い主の指揮命令下にありながらも、長い時間と努力によって血肉化した知識をもとに自分自身の判断で仕事を進める場面が多い知識労働者は、ひとり親方・個人事業主的傾向を強め「我々」意識が弱まり、「自分の地位や財産は自分で築いたものだ」と考えるようになり、プチブル化して行くわけです。

■元凶としての「個人」主義
新中間階級あるいは知識労働者の「自分の地位や財産は自分で築いたものだ」という認識は、「自分の成功は自分の努力にのみ拠るものだ」という点において主観主義的というべきです。物事を個人レベルに還元し過ぎています。そして、こうした主観主義的社会観(社会歴史観)は、「個人」主義的人生観と通底するものです。

朝鮮大学校校長で最高人民会議代議員(総聯選出)のハン・ドンソン(韓東成)先生は、著書『哲学への主体的アプローチ Q&Aチュチェ思想の世界観・社会歴史観・人生観』(2007年、白峰社)において、社会歴史観と人生観の発展経緯について次のように指摘しています(p88-89)。
観念論は、大きく客観的観念論と主観的観念論に分かれます。多くの哲学者が、(中略)個人の主観的な意志や感覚によって社会歴史が左右されるとする主観観念論的な社会歴史観を主張してきました。
また、ハン先生は人生観(チュチェ思想において重要な論点)に関して、次のように論じています(p164-165)。
このような見地から人生観を扱った人々は、人間を孤立した個人的存在と見なし、人間の生命を個人的な面からとらえながら、個人の自由で平等な生活が、人間の自然的本性にあった生活だと主張しました。そのなかには、個人の生命、自由、私有財産を保存しようとする志向が人間の本性であり、それにあった生活に幸福があるとする見解や、肉体的欲求の充足、肉体的快楽に最高の幸福を見いだす見解もありました。

このような個人主義的人生観は、社会歴史に対する主観主義的観点にもとづいていました。それは、人々の生活や社会的運動が客観的な物質的条件に制約される面があることを見ずに、理性の要求と力に依拠して行動することによって、人間は、歴史と自らの運命を開拓することができるとしました。
(中略)人間の本性にあった幸福な生活をおくる方途を、啓蒙に求めました。
こうしたチュチェ思想・チュチェ哲学の指摘を前提に私は、チュチェ104(2015)年5月1日づけ「「私の努力」の実態は「主客の相互作用の賜物」――受験勉強は所詮「子どもの戦い」」で、「学歴は努力の証明書」などと述べて炎上したタレントの福田萌さんの件について次のように述べました。
自分自身の努力も勿論尊く重要な位置を占めているものの、周囲環境や協力もまた大きな位置を占めており、実相は「主客の相互作用」であるにも関わらず、努力至上主義者たちは「本人の努力のみがその果実をもたらした」などという視野の狭い主張をドヤ顔で述べているわけです。

本件、あまりにも典型的過ぎます。もちろん、受験勉強は「自分との戦い」という要素が大きく、難関校合格者はその戦いの勝者です。自信を持ってよいと思います。しかし、受験勉強は「子どもの戦い」でもあります。そこには親のバックアップがあり、国家・社会の支えがあるものです。受験勉強もまた「主客の相互作用」の賜物です。
「自分の成功は自分の努力にのみ拠るものだ」という主張は、人間存在を社会集団から孤立した存在と見なしている点において主観観念論的な社会歴史観に根差していると言えます。また、人間存在を社会集団から孤立した存在と見なすことは、人間の存在・人間の生命を個人的な側面からのみ捉える一種の「個人」主義と通底するものです。「個人」主義にはどうしても、人間を孤立した個人的存在と見なし、人間の生命を個人的な面からのみ捉える傾向があります。

実際のところ人間は、客観的な物質的条件にも制約され、また、集団をなして生活しています。いわゆる「個人」は社会システムの不可分な要素として組み込まれています。その点、「個人」主義は、社会の実相と異なる「観念」に過ぎないと言えます。

■小括――新中間階級・労働者階級の「変化」と社会的結束の分解過程
いま述べてきたことをまとめましょう。(1)産業構造の変化に伴い労働者階級はインテリ化・知識労働者化します。全体的には雇い主の指揮命令下にありながらも、長い時間と努力によって血肉化した知識をもとに自分自身の判断で仕事を進める場面が多い知識労働者は、職務経験を積み成功体験を重ねるにつれて、ひとり親方・個人事業主的傾向を強めるようになります。

また、(2)ひとり親方・個人事業主的傾向を強める過程で、人間存在を社会集団から孤立した存在と見なすようになり、「他人は他人、自分は自分」という観念・「彼我の断絶」という思い込みが増長され、「我々」意識が弱まって行きます

(3)結果的に知識労働者は、「自分の地位や財産は自分で築いたものだ」とか「自分の成功は自分の努力にのみ拠るものだ」などと考えるようになり、プチブル化して行きます。「我々」意識に欠ける人々が増えるにつれて社会の集団的・共同体的結束が分解して行くわけです。

労働者階級のインテリ化・知識労働者化→ひとり親方・個人事業主的傾向の深化及び「我々」意識の衰退→社会の集団的・共同体的結束の分解、という図式です。

■戦後民主主義的リベラリズムは「共犯者」ではないのか
このように考えると、橋本教授の「戦後民主主義の成果と言えるのか分からないですが、これまでは弱者との連帯、弱者への共感という心性があったのかもしれません。そうしたものの見方が、高学歴な高所得者から急激に失われてきたと感じています。」という見立てには疑問を感じざるを得ません

日本人には、戦後民主主義とは無関係に昔からの共同体意識や「お互い様」精神に基づく共助・相互扶助が成り立っていました。会社共同体、隣近所共同体、そして創価学会のような信仰共同体等の共助体系が果たしてきた役割は大きいといえます。日本の公助体系・社会政策の整備が後手後手に回りながらも、ある程度の社会的結束が保たれてきたのは、昔ながらの共助・相互扶助のお陰だと言えるでしょう。

戦後民主主義についていえば、産業構造の変化に伴う労働者階級のインテリ化・知識労働者化、そして彼らのプチブル化による「我々」意識の衰退、社会の集団的・共同体的結束が分解してゆく現実に対して十分に対処しきたのかということを問わねばならないでしょう。もっと言ってしまえば、「個人」を重視する戦後民主主義的リベラリズムは、むしろ「我々」意識の衰退を歓迎さえしていたのではないのか、ということを問わねばならないでしょう。

人間を社会集団共同体の一員として見なさず、あくまでも「個人」として見なそうとする言説は、たとえば卑近なところでは、スポーツにおけるナショナルチームに対するリベラル派の見解・言説によく現れています。昨年のピョンチャン・オリンピックにおける日本代表選手の活躍には、多くの自然発生的な賞賛が寄せられましたが、江川紹子氏を筆頭とするリベラル派は、「日本人の活躍ではなく選手個人の活躍だ」なとど強弁し、物議を醸しました。

たしかにオリンピックで世界レベルの優秀な成績をおさめたのは、「選手個人」です。しかし、その選手個人の育成には国家的なサポートがあります。もちろん、諸外国と比べて十分な援助を受けられておらず手弁当主体の不遇な競技種目があることは私も承知しています。しかし、その場合でも「みんなの応援」という大きなサポートがあります。

「みんなの応援」というものは、人間にとって大きな力になるものです。「我々」意識をベースとする「我が共同体の仲間たちの応援を背に、共に闘っているんだ!」という認識は、「個人」として孤立している哀れな人間には理解できないのかもしれませんが、類的存在としての人間においては、その意欲に火をつけ、持っている能力を十二分に発揮しますキム・ジョンイル総書記は「車はエンジンをかけなければ走らないように、人間も思想にエンジンがかからなければ目的を遂げることはできない。」と仰いましたが、そのエンジンに点火させるのが「みんなの応援」なのです。

先の大戦の反省から官製ナショナリズムに対して警戒するのは当然のことでしょう。オリンピック等のスポーツ大会が政治利用されてきた歴史的事実を見逃すことはできません。しかし、スポーツ選手・アスリートに対する自然発生的な「我々」意識に基づく応援にまで「選手個人の活躍だ」と強弁することは、結果的に「個人」を社会から切り離して孤立した存在に追いやるものです。

オリンピック等におけるナショナルチームに対してさえこの調子なのだから、他は推して知るべし。人間を、社会と切り離され孤立した「個人」として位置付ける言説が、まさにリベラルの手によって戦後70年間にわたって幅をきかせてきました。

「個人」を社会から切り離して孤立した存在に追いやる発想が大手を振って罷り通ることを許し、むしろ推奨するのが「戦後民主主義」だというのであれば、「戦後民主主義」こそが、折からの産業構造の変化による労働者階級のプチブル化及び「我々」意識の衰退による社会的結束の分解をアシストしてきた「共犯者」として指弾しなければならないでしょう。

■「自分の利益にもなりますよ」はあくまで過渡期の戦術的対策に留まる――利己主義者を甘く見てはならない
「個人」主義に打ち克ち、社会をシステムとして共同体として再構築する必要、いわゆる「個人」を社会集団システムの不可分な一員として組織化する必要があります。「我々」意識を再興する必要があります。しかし、「個人」主義的な社会歴史観・人生観は強固です。遠大な理想を掲げつつも段階的で現実的なプランを実行する必要があります。

その点、橋本教授の「正義感とか倫理観だけで多くの人が一斉に動くとは考えられない。わたしは「自分の利益にもなりますよ」と伝えることが必要だと思っています。」という指摘は、段階的で現実的なワン・ステップとして過渡期的な戦術としてであれば、有効でしょう。

私も前掲7月4日づけ記事において「必ずしも皆が皆、心を入れ替えて博愛主義者に転向するとは私も考えてはいません。(中略)しかし、仕事を進める上で組織行動が不可欠になる時代においては、利己主義者であればこそ、あくまでも上っ面に過ぎなくても、戦略的に団結・連帯の道を歩む人たちが増えてゆくものと考えられます。組織生活不適合者は職業人として淘汰されてゆく運命にあります。」と述べたところです。前掲記事で私が述べたことは職場:労働局面での連帯に主眼を置いたものですが、分配局面でも同様に通用するでしょう。

しかし、これはあくまでも「過渡期の戦術的対策」にとどめるべきです。「個人」主義の極致たる利己主義においては、「他人に厳しく・自分に甘く」が原理原則です。自分が「勝ち組」であるときには弱者に対して厳しいが、いざ何かの拍子に自分が弱者になろうものなら、今までの経緯などお構いなしに自己の権利を声高に主張するのが利己主義者の生態であります。しかし、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の言葉どおりに、一息つけばまた元に戻るのも利己主義者の生態であります。奴らを甘く見てはなりません

■社会的分業の進展に伴う有機的連帯の深化が社会の集団的・共同体的結束を再興する道
やはり、社会のシステム・共同体としての再構築、「我々」意識の再興を主眼とする対策を打つ必要があります。

フランスの社会学者E.デュルケム(1858〜1917 つまりチュチェ思想とは無関係)によると、社会的分業の進展によって各部分が相互に補完的な機能を受け持ち、社会連帯の形式が有機的連帯になってゆくといいます。個性を持つ個人が社会的役割を担い、相互補完的に依存し合うように社会が変化してゆくといいます(ひとり親方・個人事業主が活躍してゆく余地は縮小してゆくものと考えられます)。デュルケムは、社会は、有機的連帯による組織的社会に発展すると説いているのです。

社会の産業構造の変化は、一人ひとりの労働者たちをプチブル化しつつも、同時に一人ひとりの労働者たちを組織化してお互いの関係を有機的連帯に改変してゆくわけです。社会をシステム・共同体として再構築する展望はここにあると言えます。

そして、この機を生かして積極的に思想工作、すなわち対人活動としての組織化を推進し、崩壊寸前の「我々」意識を再興すべきでしょう。

かつてマルクス主義は、機械制大工業の進展は労働過程の協業的性格を必然とするので、それまで職人気質だった労働者は団結を知るようになって行くとし、これが新しい社会を切り拓く条件になるとしました。マルクス主義は「存在が意識を規定する」という教義ゆえに、このことが大きな流れとしては自然に起こるものと楽観的に見なし、積極的な思想工作を展開して来ませんでした。このことについて、キム・ジョンイル総書記は『社会主義建設の歴史的教訓とわが党の総路線』(チュチェ81・1992年)で次のように指摘されています。
ところが一部の国では、国家主権と生産手段を掌握して経済建設さえ進めれば社会主義が建設できると考え、人びとの思想・意識水準と文化水準をすみやかに高め、人民大衆を革命と建設の主体にしっかり準備させる人間改造事業に第一義的な力をそそぎませんでした。その結果、社会主義社会の主人である人民大衆が主人としての役割を果たせなくなり、結局は経済建設も順調にいかず、社会のすべての分野が停滞状態に陥るようになったのです。
キム・ジョンイル総書記の上述指摘のほかにも、たとえばW.F.オグバーンの「文化的遅滞」(Cultural lag)も指摘していることですが、社会制度の変化がそのまま直ちに人々の思想意識を変化させるわけではありません。自生的・自然発生的な変化を無視するわけではありませんが、人為的で積極的な活動は不可欠と言えるでしょう。

いままで当ブログでは散発的にこうしたテーマについて論じてきましたが、中間報告的に述べれば、何か新しい理屈を拵える必要はないと言えます。たとえば、人事評価を「組織的成績に対する『個人』の貢献」に切り替えることなどが考えられるでしょう。

昨今「効率よく仕事を進めて一足早く帰宅する」という画が持て囃されていますが、大抵のプロジェクトは複数人が役割分担し、全員の仕事が出揃って初めて納品物になります。その点、「効率よく仕事を進めて一足早く帰宅する」というのは、「納品物本位」ではなく「ノルマ本位」と言わざるを得ません。自分のノルマさえ達成できれば全体の納品など関係ないという点において、「まるでソ連のやる気ゼロ労働者のようだ」と言わざるを得ません。こういう人物は、「個人」としては仕事が早くて優秀なのかもしれませんが、納品物に対する意識が欠落しているようでは組織人として評価はできません。

このとき、たとえば「効率よく仕事を進め、自分のノルマを達成したあとに30分から1時間程度、少し遅れ気味の部分を手伝う」といった具合に働く人がいるとすれば、こういう人を納品物本位である点において積極的に評価するべきでしょう。人間は、評価されればますますその評価基準に沿うように自ら考えるようになります。また、心根は利己主義的であったとしても、利己主義であるからこそ評価体系が納品物本位・組織本位であると分かれば、それに沿って動くようになります。そうしているうちに、組織生活が徐々に体質化されてゆくことでしょう。

「組織的成績に対する『個人』の貢献」だなんて「言うは易く行うは難し」だ、というご指摘もあるでしょうが、そもそも人事評価など定量的にはやりにくいものです。ここで大切なのは、定量的・厳密的に人事評価を実施することよりも、そういう観点で人事評価を実施するとアナウンスすることです。評価者がアナウンスすることによって被評価者たる労働者たちが行動を改める、このことが主たる狙いなのです。

■まとめ――主観主義的社会歴史観と「個人」主義的人生観に打ち克とう
一人ひとりの労働者たちが「我々」意識を取り戻すにあたっての障害物は、主観主義的社会歴史観と「個人」主義的人生観です。人々の有機的連帯の深化・社会全体の組織化において毒素と言うべきものです。

社会的分業の進展に伴う組織的社会への発展は、社会の集団的・共同体的結束を強める客観的条件を作り出すものと言えますが、客観的条件がそのまま直ちに主体の行動を変化させるわけではありません積極的な思想工作、すなわち対人活動としての組織化を推進し、崩壊寸前の「我々」意識を再興する必要があります。

そうした思想工作を展開するにあたっては、「我々」意識の衰退を歓迎さえすることがある「個人」主義の動向に対して厳重に警戒する必要があると言えます。上述してきたように、「個人」主義にはどうしても、人間を孤立した個人的存在と見なし、人間の生命を個人的な面からのみ捉える傾向があるからなのです。

7月8日は、チュチェ思想創始者たるキム・イルソン主席の逝去25年、本日7月15日は、社会政治的生命体論を定式化されたキム・ジョンイル総書記の労作『チュチェ思想教育において提起される若干の問題について』発表33年です。
posted by s19171107 at 22:03| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする