2021年06月12日

「保健医療従事者は、党の革命戦士となれ」60年のこんにちについて

チュチェ50・1961年6月7日、キム・イルソン同志におかれては全国保健医療部門活動者会議において「保健医療従事者は、党の革命戦士となれ」という演説をなさいました。それから60年。世界的な新型コロナウィルス禍に見舞われている今日、首領様の指摘が時代をこえて輝いています
http://kcyosaku.web.fc2.com/ki1961060700.html
 保健医療従事者にとって最も重要なのは、党と人民にたいする限りない忠実さ、そして人間にたいする熱烈な愛と患者にたいするこのうえない真心であります。我々の経験は、医師が患者を自分の骨肉のようにいたわり愛し、治療に最善をつくすなら、不治の病というものはないということを示しています。社会主義社会の保健医療制度の優位性は、党と国家の人民的な保健医療施策とともに、保健医療従事者が人民に限りなく忠実で、患者の治療に自己の知恵と真心をつくし、資本主義社会では治療不可能とされている病気までも残らず全治させるという、まさにその点にあります。

 資本主義社会では、人間にたいする配慮や偽りのない真心など考えることすらできません。そこでは、ただ金持ちだけが人間らしい待遇を受け病気も治すことができるのであり、貧しい労働者、農民は人間以下の待遇や取り扱いを受け、重病にかかっても病院の門前にさえ寄りつけず、薬の一服も思うように服用することができません。こんにちの南朝鮮の現実がまさにそのことを示しています。現在南朝鮮の人民は、アメリカ帝国主義者とその手先の搾取と抑圧のもとに苦しんでいるばかりか、全社会に蔓延している各種の疾病のためにひどく苦しめられています。かれらは刻一刻と生命を脅かす重病にかかっても、治療の恩恵はおろか1回の診察も満足に受けられない悲惨な状態におかれています。

 黄金がすべてを支配し、黄金しか眼中にない資本主義社会では、医学が人民の健康増進に奉仕するのではなく営利の手段に利用されており、医師は人民のためではなく金もうけのために働いています。資本主義社会の医師は、患者の胸部よりも先に聴診器を財布にあて、患者に金がいくらあるかということから「診察」します。患者が金持ちであれば治療に誠意をつくし、貧乏人はいくら重病であっても診察してくれず、瀕死の状態に陥っても背を向けます。結局、資本主義社会の医師は、金に目がくらんで人命には無関心であり、人が病気にかかり死のうともなんの道義的責任も、良心の呵責も感じません。患者が入院して死んでも、これはもともと不治の病だの、手遅れだのと文書を作成すればそれまでのことです。

 したがって、医師が人民の健康増進に奉仕せず、人命に責任を負わない資本主義社会では、医学がいくら発達しても治せない病気が多く、人民の健康増進にはこれといって寄与することがありません。医学のある分野では資本主義諸国の方が我が国より進歩しているものもありますが、それらの国ではまだ治せない病気が多く、人民は広く医学の恩恵に浴していません。

 しかしこんにち、我が国では医師が人民の健康にたいして全的に責任を負っており、人民はすべて医学の恩恵を受けています。現在、我が国では保健医療従事者の献身的努力によって、盲人が開眼し、足の立たない人が立ち上がり、資本主義社会では不治の病とされていた多くの病気が相次いで治癒されています
開業医団体としての日本医師会幹部の態度といかに対照的であるか! 新型コロナウィルス禍においては、公立病院、済生会系病院、そして民医連系病院の活躍ばかりが目立つところです。もちろん、志と物質的基盤のある民間病院も奮闘していますが、一部にとどまります。ただ発熱症状があるだけで門前払い――子どもが急に発熱するなど、ごくごく有り触れたことですが、もっとも酷い時期はそんなことさえザラにありました。

新型コロナ対策の志はあっても物質的基盤に欠ける民間病院は、選挙のたびにあれだけ熱心に医師会組織内候補の当選に努力しているのだから、その調子で自民党政府に対して新型コロナ対策の物質的支援の要請運動を展開すればよいところ、そのような動きは見られません。

首領様におかれては、同演説で次のようにも指摘されています。
 経験が示しているように、患者にたいする医師や看護婦の肉親的な配慮と真心は、治療において重要な作用をします。医療従事者が患者を肉親の気持ちで愛するとき、自己の知恵や技術を治療につくすようになるのはいうまでもなく、この誠意ある態度が患者の精神状態に及ぼす影響も極めて大きいものです。医師や看護婦が真心をこめて治療し看護すれば、患者の気持ちはいっそう明るくなり、闘病生活にも積極的になり、薬や治療の効果もさらに高まります。保健医療従事者は、人民に忠誠をつくし患者の治療に最善をつくす共産主義的思想を身につけるためにたえず努力し、保健医療部門において思想改造運動をひきつづき強力におし進めなければなりません。
こういった指摘に対しては「感情労働」が何だかんだという「反論」が出てくるものと思われます。しかし、昨今問題視されている感情労働における多くのケースは、病院が組織的に毅然として対応すれば解消ないしは軽減し得るものです。どこかのコンビニ店員が、喚き散らす「お客さま」に対して「私は奴隷ではない」と応じたそうですが、こういう姿勢が大切です

共産主義の本質は「お互いさま」であり、誰かが一方的に奉仕し誰かが一方的に受益するというものではありません。「お客さま」に対して絶対に下手に出なければならないという「教義」の存在は、資本主義市場経済というシステムがいかに中途半端であるか、資本主義市場経済がいかに封建的身分制の残滓を引きずっているのかを明白に示すものであると言わざるを得ません。中央集権的計画経済がソ連や東欧において失敗したからといって、資本主義市場経済の中途半端さが解消されるはずもありません。集団主義的・社会主義的競争の旗の下、責任管理制と担当責任制を通して分権的社会主義の模索が必要であります。

かつて「尊王攘夷」が「文明開化」に転向したように、軍国少年・軍国少女;日本軍国主義の後継者候補たちが、敗戦を機に180度転向して熱心な社会党・共産党支持者として戦後民主主義体制の核心に転向したように、日本の社会意識は何かの拍子に180度転向する可能性があるものです。

いままで「やり過ぎ」の観さえあった日本のサービス労働が、何かの拍子に180度転向しないでしょうか・・・新型コロナ禍で燃え尽きてしまった保健医療従事者たちが、あらぬ方向に走らないでしょうか・・・

安っぽい「日本スゲー」の風潮に乗っかるつもりはありませんが、良くも悪くも日本の社会意識は、ムラ社会的意識の影響もあって比較的律されていると思われるところです。協同社会としての社会主義社会を目指すにあたっては、このような社会意識は貴重な「資源」であります。こうした「資源」を「お互いさま」の原理に則って再編成することが必要なのです

しかし昨今、社会全体を覆いつつある近年の「不公平感」の憎悪は、日本の社会意識を「やーめた、自分だけバカバカしい。もう勝手にさせてもらいます!」に転向させかねないほどに深刻化しています。この新型コロナ禍を経て危険水準に達しているというべきです。近年の「不公平感」が人々をして一気にブルジョア個人主義・利己主義に追いやりかねない状態になりつつあります。何よりも人類愛・同胞愛が必要な分野が危機的な状況にあり、社会的な集団意識が瓦解・崩壊の危機にあります。心配でなりません。
posted by s19171107 at 20:17| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2021年06月06日

「競争を通じた共産主義の実現」を目指す朝鮮労働党の新展開

当ブログでは「集団主義と競争原理の両立」に取り組んでいらっしゃるキム・ジョンウン同志と朝鮮労働党の動向について数年来注目してきましたが、この件について最近少し動きがあったように思われるので、取り上げてみたいと思います。

■社会主義勢力が定式化に苦しんできた「競争」の概念を我がものとした朝鮮労働党
キム・ジョンウン同志は就任以来、「集団主義と競争原理の両立」に取り組まれてきました。朝鮮労働党第7回党大会に先立つチュチェ105(2016)年3月19日づけ『労働新聞』が「集団主義的競争の熱風を激しく巻き起こし、より高く、より早く飛躍しよう」という社説を掲載(当方による全訳はこちら)し、その後、毎年の「新年の辞」でも言及されてきました。「互いに成功を学びあい、助け合い、切磋琢磨してゆく」タイプの競争を集団主義的競争・社会主義的競争とし、「弱肉強食の生存競争」としての資本主義的競争との違いを定義した点において、伝統的に難題だった「集団主義と競争原理の両立」に解答を与えたのです。

この取り組みは、チュチェ108(2019)年1月29日づけ「集団的革新・社会主義的競争の旗の下に前進する社会主義朝鮮」で指摘したとおり、おととしの時点でキム・イルソン同志の時代そしてキム・ジョンイル同志の時代の政策と現在の「集団主義的競争・社会主義的競争」との連続性を定式化したことによってイデオロギー的に安定した地位を獲得し、確立されたものと言えます。歴史上、社会主義勢力が定式化に苦しんできた「競争」の概念を朝鮮労働党は我がものとしたのです。

また、単なるイデオロギーの枠内に留まるのではなく、責任管理性(社会主義企業責任管理制)と担当責任制(圃田責任担当制など)といった経済管理方法と結びつけることで実際の政策として推進されてきました。たとえばチュチェ108年11月29日づけ「「個人の能力と努力に対する評価」が積極的に位置づけられ始めた朝鮮民主主義人民共和国――こんにちの社会主義企業責任管理制と集団主義的競争・社会主義的競争の定着・発展について」で取り上げたとおり、いま共和国では「個人の能力と努力に対する評価」が積極的に位置づけられています。従来、社会主義においてどうしても切り離しがたかった「分配における悪平等」を清算する取り組みが現実的・実践的に行われているのです。

■共産主義の発展的な復活の兆候が見られている
上掲記事で私は、「キム・ジョンウン委員長におかれては、これからも、新しい方法論を慎重に試しながら社会主義そのものを進化させて行かれることでしょう」と書きましたが、ここ最近の共和国メディアでは、その進化の兆候が見えてきています。「共産主義の発展的な復活」です。

チュチェ90年代(チュチェ90年=西暦2001年)から共和国では段階的に「共産主義」の看板が降ろされつつありました。憲法や党規約といった重要文書から「共産主義」の文言が削除され、革命歌謡の歌詞――たとえば≪천리마 달린다≫(千里馬走る)など――が変更され、キム・イルソン広場からマルクスとレーニンの肖像画が撤去されるといった具合でした。共産主義という単語が出てこない以上、それについて言及されることがほぼなくなっていました。

しかし、今年5月の1カ月間だけでも、4日、10日、11日、14日、17日、27日そして30日の各日において「共産主義」という単語が登場しています(見落としたのもあるかも知れないので、もっとあるかも)。それも、「競争」との関連で言及されているケースが複数見られます。いくつか取り上げて邦訳してみましょう。
http://www.kcna.co.jp/calendar/2021/05/05-04/2021-0504-005.html
오늘 우리 당은 사회주의건설을 새로운 단계로 이행시키기 위한 총진군길에서 《하나는 전체를 위하여, 전체는 하나를 위하여!》라는 공산주의적구호를 더욱 높이 추켜들고 투쟁해나갈것을 요구하고있다.
今日、我が党は、社会主義建設を新たな段階へと移行させるための総進軍の道で「一人はみんなのために、みんなは一人のために!」という共産主義的スローガンをさらに高く掲げ、闘争していくことを求めている。
http://www.kcna.co.jp/calendar/2021/05/05-17/2021-0517-007.html
모든 사람들이 기쁨과 슬픔을 함께 나누는 공산주의미덕, 공산주의미풍이 차넘치는 인민의 리상사회인 공산주의사회를 건설하는것은 우리 인민이 내세우고있는 일관한 투쟁목표이다.
すべての人が喜びと悲しみを分かち合う共産主義美徳、共産主義美風があふれる人民の理想社会的な共産主義社会を建設することは、朝鮮人民が掲げている一貫した闘争目標である。
http://www.kcna.co.jp/calendar/2021/05/05-10/2021-0510-006.html
따라앞서기, 따라배우기, 경험교환운동은 전체 인민을 열렬한 애국자, 공산주의적인간으로 키우는데서도 커다란 의의를 가진다.

따라앞서기, 따라배우기, 경험교환운동을 활발히 벌릴데 대한 당의 방침은 사상, 기술, 문화의 3대혁명을 힘있게 다그칠데 대한 로선과 함께 사회주의건설에서 튼튼히 틀어쥐고나가야 할 중요한 방침이다.

전사회적으로 따라앞서기, 따라배우기, 경험교환운동을 활발히 벌리면서 경쟁열풍을 세차게 일으켜야 모든 부문, 모든 단위가 침체와 답보, 자만을 모르고 더 높은 목표를 향하여 힘차게 전진해나갈수 있다.

追いかけ、見習い、経験を交換する運動は、全人民を熱烈な愛国者、共産主義的人間に育てる上でも大きな意義を持つ。

追いかけ、見習い、経験を交換する運動を活発に広げることに対する党の方針は、思想・技術・文化の三大革命を力強く展開することに対する路線と共に、社会主義建設で堅持すべき重要な方針である。

全社会的に基づいて追いかけ、見習い、経験を交換する運動を活発に広げながら競争熱風を激しく作り出せば、すべての生産部門、すべての生産単位が低迷と足踏み、自惚れを知らず、より高い目標に向かって力強く前進していくことができる。
http://www.kcna.co.jp/calendar/2021/05/05-30/2021-0530-002.html
그들은 로동계급과 직맹원들이 《하나는 전체를 위하여, 전체는 하나를 위하여!》라는 공산주의적구호를 들고 서로 돕고 이끌면서 전후복구건설시기와 천리마대고조시기의 투쟁정신을 높이 발휘할데 대하여 언급하였다.

전민과학기술인재화의 요구에 맞게 현대과학기술을 열심히 배워 직맹원들 누구나가 쟁쟁한 로동자발명가, 창의고안명수가 되며 군중문화예술과 대중체육활동을 활발히 벌려 대고조전역마다에 랑만과 정서, 전투적기상과 희열이 차넘치게 할것이라고 그들은 강조하였다.

그들은 모든 부문, 모든 단위에서 사회주의경쟁과 26호모범기대창조운동, 대중적기술혁신운동을 비롯한 대중운동을 실속있게 벌려 일터마다 새 기준, 새 기록창조로 들끓게 하고 집단적경쟁열풍을 끊임없이 고조시켜나갈데 대하여 언급하였다.

彼らは労働者階級と職業同盟員が「一人はみんなのために、みんなは一人のために!」という共産主義的スローガンを掲げ、互いに助け導きながら、戦後復興建設期と千里馬大高揚期の闘争精神を高く発揮することについて言及した。

全人民を科学技術人材化する要求に合わせて、現代の科学技術を熱心に学んび、職業同盟員の誰もが、そうそうたる労働者発明家、創意工夫の名手となり、群衆文化芸術と大衆体育活動を活発に展開し、大高潮の全域にロマンと情操、戦闘的気性と喜びがあふれるようにするのだと、彼らは強調した。

彼らはすべての生産部門、すべての生産単位で、社会主義競争と26号模範機械大創造運動、大衆的技術革新運動をはじめ大衆運動を着実に広げて職場ごとに新しい基準、新しい記録創造に沸き、集団的競争熱風を絶えず高めて行くことについて言及した。
ここで注目すべきは、特に5月10日づけ及び5月30日づけ記事です。「追いかけ、見習い、経験を交換する運動は、全人民を熱烈な愛国者、共産主義的人間に育てる上でも大きな意義を持つ」とする5月10日づけ記事ですが、この「追いかけ、見習い、経験を交換する運動」はまさに集団主義的競争・社会主義的競争そのものです。30日づけ記事の「すべての生産部門、すべての生産単位で、社会主義競争と26号模範機械大創造運動、大衆的技術革新運動をはじめ大衆運動を着実に広げ」にいたっては、はっきりと「社会主義競争」と言っています。

すなわち、これらの記事は「集団主義的競争・社会主義的競争を通して共産主義社会の実現を目指す」という宣言であり、また、朝鮮労働党は「社会主義における競争」の定式化にとどまらず「共産主義における競争」の定式化にも乗り出したということを意味しています。

ちなみに、これと関連しているか正確なところは分かりませんが、キム・ジョンウン同志の時代になってから≪인터나쇼날≫(インターナショナル)の演奏回数が増え、音源も新しくなったように思います。第8回党大会でも第6回党細胞大会でも新音源で演奏(少なくとも第8回党大会では確実に生演奏)されています。ちなみに、朝鮮音楽趣味者の間では筆頭格的な位置にいらっしゃる「朝鮮労働党万歳」様の「党細胞書記大会と合唱「インターナショナル」」では、音楽政治の観点から近年の≪인터나쇼날≫の扱いの変化について論じられています。

■「20世紀の共産主義」との違いはあるのか?
それはさておき、もちろん、「20世紀の共産主義」の時代において「競争」がまったく目指されていなかったわけではありません。たとえば1970年代には≪3대혁명붉은기쟁취운동≫(三大革命赤旗争取運動)という「競争」がありました。「一人はみんなのために、みんなは一人のために!」は昔ながらのスローガンであり、これが今になって再登板することは、見方によっては「改革の後退」とも考え得るものです。過去の競争と今回の競争との実質的違いが重要です。

その点、4月30日の最高人民会議常任委員会第14期第14回全員会議(総会)は、興味深い決定を下しています。「ソフトウェア保護法」の制定です。次のように報道されています。
http://www.kcna.co.jp/calendar/2021/05/05-02/2021-0502-002.html
쏘프트웨어보호법에는 쏘프트웨어의 등록과 리용에서 제도와 질서를 철저히 세워 쏘프트웨어저작권을 보호하며 쏘프트웨어의 개발을 장려하고 투자를 늘이도록 할데 대한 문제들과 쏘프트웨어보호사업에 대한 지도통제를 비롯하여 해당 법의 준수와 리행에서 나서는 실무적문제들이 밝혀져있다.
ソフトウェア保護法には、ソフトウェアの登録と利用において、制度と秩序を徹底的に立て、ソフトウェア著作権を保護して、ソフトウェアの開発を奨励し、投資を増やすことに対する問題と、ソフトウェア保護事業の指導統制をはじめとする、適用法の遵守と履行において生じる実務的問題が明らかにされている。
「著作権」という概念は基本的に、それを思いついた個人や企業の個別的な利益を保護するための制度であり、いうならば「ブルジョア的権利」というべきものです。中国やベトナムのように開放路線にかじを切った国々は、まずこの分野の法的権利保障の整備から着手したものでした。「20世紀の共産主義」と「著作権」は相容れないものです。

つまり、共和国は共産主義を復活させつつ、同時に個人や企業の個別的な利益を保護する制度の整備にも着手し始めたわけです。このことは、過去の競争と今回の競争との実質的違いであり、「20世紀の共産主義」の復活;改革の後退ではなく、共産主義の発展的な復活と言ってよいでしょう。

これが実践的な取り組みとして継続し得るかが重要になるわけですが、先ほども取り上げたチュチェ108年11月29日づけ「「個人の能力と努力に対する評価」が積極的に位置づけられ始めた朝鮮民主主義人民共和国――こんにちの社会主義企業責任管理制と集団主義的競争・社会主義的競争の定着・発展について」で論じたとおり、いま共和国では「個人の能力と努力に対する評価」が積極的に位置づけられています。すでに実践されている「社会主義における個人の能力と努力に対する評価」の延長線上として位置付けた場合、「共産主義における個人の能力と努力に対する評価」の展望は、それほど悲観する必要はないものと思われます。

■総括
個人や企業の個別的な利益を保護する法制度を整備しつつ、同時的に共産主義の旗印を再度掲げ始めた共和国。社会主義企業責任管理制をはじめとする近年の経済的制度改革の実践例を見るに、これは「20世紀の共産主義」の復活;改革の後退ではなさそうに見受けられます。非常に興味深いことが今まさに起こりつつあります。今後も共和国本国発の情報を注意深く見守る必要があると言えます。
posted by s19171107 at 20:08| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2021年06月04日

「朝鮮労働党中央委員会第一書記」職が設置された意味と「赤化統一」の行方について

https://news.yahoo.co.jp/articles/abba7ad5ee67012c06cd3e37061ffc6b9997e541
北朝鮮 ナンバー2の「第1書記」ポスト新設=金正恩氏最側近が就任か
6/1(火) 13:54配信
聯合ニュース

【ソウル聯合ニュース】北朝鮮の朝鮮労働党が、金正恩(キム・ジョンウン)国務委員長(朝鮮労働党総書記)に次ぐポストとして「第1書記」を新設したことが、1日分かった。北朝鮮ではこれまで複数の人物がナンバー2と呼ばれたが、正式に党内にナンバー2のポストを設けたのは異例だ。

 対北朝鮮消息筋によると、北朝鮮は1月に朝鮮労働党の第8回党大会で党規約を改正し、「党中央委員会全員会議は(中略)第1書記、書記を選挙する」との内容を追加した。

 これは総書記の下に第1書記を新設するもので、7人の党書記の中で名実ともにナンバー2となるポストを正式に設けたものといえる。

(中略)
 党第1書記には、このうち金委員長の最側近とされる趙氏が就任する可能性が高いとみられる。

 趙氏は先月7日、党の末端組織「細胞」の幹部が参加する「細胞書記大会」の2日目の会議を別の書記とともに指導した。

 党第1書記は、金委員長が2012〜16年に務めたポストでもある。金委員長は12年に父の故・金正日(キム・ジョンイル)総書記を「永遠の総書記」として推戴し、自身は新設した同ポストに就いた。

 16年には「書記制」を「委員長制」に転換したが、今年初めに元に戻して祖父の金日成(キム・イルソン)主席、金正日総書記に続いて総書記の座に就いた。

 このほか、党規約の序文は党員の義務について「祖国統一を早めるために積極的に闘争しなければならない」という部分を削除し、「南朝鮮(韓国)から米帝の侵略武力を追い出し、あらゆる外国勢力の支配と干渉を終わらせ、日本軍国主義の再侵略策動を叩き潰して」という内容を「南朝鮮に対する米国の政治、軍事的支配を終局的に清算し、あらゆる外国勢力の干渉を徹底的に排撃し」に変更した。

 これは、北朝鮮が赤化(共産主義化)統一を事実上放棄したものと受け止められる。一部では、北朝鮮が統一を諦めて二つの国家形態を目指すのではないかとの見方も出ている。
■「第一書記」職が設置された意味と、透けて見える現在の権力構造
あくまでも現時点では韓「国」側情報でしかなく、共和国側の公式発表ではない点を十分に承知する必要があります。

そのことを承知した上で、まず、「第一書記」職の設置について見てみたいと思います。念のため朝鮮労働党最高指導部の編成の歴史的変遷を振り返ると、委員長・副委員長制度(結党当初)→総書記(総秘書)・書記(秘書)制度(1966年)→委員長・副委員長制度(2012年)→総書記・第一書記・書記制度(2021年)となっています。

さて、今年1月の党大会で委員長制が再び総書記制に戻ったことについては、1月30日づけ「朝鮮労働党第8回党大会について」において、鐸木(2014)の見解を引いて分析しました。すなわち、1966年のときと同様、委員長・副委員長制度では委員長の他にも副委員長の権威が容認され得、そこに分派(宗派)の芽が生じうるので、総書記職を唯一無二の存在として同職を再設置したという見立てです。

しかし、「第一書記」が実は設置されていたとなると、「委員長・副委員長制度では委員長の他にも副委員長の権威が容認され得、そこに分派(宗派)の芽が生じうるから」という見立ては必ずしも正しくはなかったと言えるでしょう。実際のところ、制度上は同格同輩である書記局員を効果的に御するために局内筆頭格を敢えて制度化し、おそらく政治的野心に乏しい人物を据えることで書記局の序列を固めつつ最高指導者の補佐役を置いたと見るべきでしょう。

第一書記という職名にしたことは興味深いことです。この職名からは、総書記の意を体する役割が強く期待されていることを感じ取れます。

もともと第一書記職は、故キム・ジョンイル同志を「永遠の総書記」として高く奉り、その遺訓を徹底的に守り抜く;遺訓統治を貫徹する決意を込めて、キム・ジョンウン同志が名乗った職です。歴史的経緯を踏まえると、第一書記とは、総書記の意を体する職なのです。共和国はこういう歴史的経緯を非常に重視するお国柄です。

「副委員長の権威」云々という意味では、第一書記にもそれなりの権威が生じ得、その点では委員長・副委員長制度と実質的に変わりはないように見えます。しかし、このような歴史的意味合いを踏まえて考えると、委員長・副委員長制度と総書記・第一書記制度の差は大きく、職名変更には意味合いを見出せるでしょう。

第一書記にもそれなりの権威が生じ得るなかで敢えてそのような職を置けるということは、権力の安定性を示すものです。立場が不安定な権力者は、部下たちが何かの旗印を掲げて団結して反抗してくることを最も恐れます。それゆえに、部下たちを敢えて常に競争状態にあるように置くものです。

かつて、「事実上のナンバー2」だったチャン・ソンテクに対して「期待」が集まり過ぎ、党の指導体系への挑戦の芽が生じたことがありました。「事実上のナンバー2」でああなったのだから、「制度上のナンバー2」ならますます危険性は高まるはずです。しかし、それでも敢えて第一書記の職を置いたということは、統治に自信があるということに他ならないでしょう。

では誰が第一書記に就任したのか――dprknow様によると近頃、チョ・ヨンウォン同志格別なる恩徳と厚遇を受けていると言います(5月6日づけ「「金正恩同志、朝鮮人民軍軍人家族芸術小組公演を観覧」:チョ・ヨンウォン座ったまま、軍人は立って (2021年5月6日 「朝鮮中央TV」)」)。これで「実は第一書記はチェ・リョンヘ同志でした」ってことはないでしょう。第一書記は、チョ・ヨンウォン同志として見て問題ないように思われます。

なお、『ハンギョレ』の「【独自】北朝鮮、後継構図を念頭に「金正恩代理人」新設」では、キム・ジョンウン同志の生物学的血縁関係者――たとえば、キム・ヨジョン同志の可能性を取り上げていますが、例によって「白頭血統」という意味を生物学的な意味での血縁・血統として捉えることによってのみ成り立つ見立てです。私は以前から繰り返してきたとおり、そもそも「白頭血統」という意味は、儒教文化をベースとした社会政治的生命体論に基づく疑似的な血縁関係であるので、この筋は違うのではないかなと考えています。

キム・ジョンウン同志がキム・ヨジョン同志を政治的に強く信任されていることは明々白々なので、その意味で将来的に第一書記として登用することはあり得るでしょう。しかしそれは、「血統」ゆえではなく、そしてまた、今年1月に「第1副部長」から「副部長」に降格していることが判明しているので「今」でもないと思っています。

所謂「三重苦」と呼ばれる困難な時期に、序列を固めつつ最高指導者の補佐役を置くことは、革命の勝利のために欠かせないことであります。

■赤化統一を諦めたのか?
次に「これは、北朝鮮が赤化(共産主義化)統一を事実上放棄したものと受け止められる」というくだりについて考えてみたいと思います。党規約の文面が変更されたことには当然重大な意味が込められているはずですが、これは建国以来の国是に関わる問題なので、この報道だけでは確定しえないことです。

私は革命歌≪수령이시여 명령만 내리시라≫(「首領よ、命令のみ下されよ」)の歌詞変更を思い出しました。日本語歌詞は「革命音楽館」様の当該ページで紹介されています。もともとこの曲は1967年に作曲された曲で、青瓦台襲撃未遂事件(1968年)の時代背景のもとで創作された曲です。リンク先ページに掲載されている歌詞を見れば一目瞭然、武力赤化統一を前面に押し出した曲であります。しかし、私が覚えている限りもう10年以上前から、武力赤化統一色が薄まり祖国防衛色の強い歌詞に変更されています。

正直私も、1990年代から2000年代の経済状態では1967年のオリジナル歌詞は浮世離れしているので、歌詞の修正は現実的に致し方ないことと思っていました。しかしそれでも共和国は祖国統一・赤化統一の旗は決して降ろさず、経済状況が好転した2010年代以降、また統一に向けた活動を再開しました。

こういう例があるので、より強調すべき事柄に対して相対的に順位が下がったり、当座の課題達成のために強調すべきポイントに微修正を加えたりし可能性はあったとしても、「赤化統一を諦めた」というのは早計であると考えます。これは私の感覚ですが、上掲記事で書かれている党規約の修正点及び修正後の文言と、≪수령이시여 명령만 내리시라≫での歌詞書き換えが同じような部分を同じように書き換えているように見えます。

党規約と一歌謡の歌詞の重要性はもちろん異なります。しかし、それをいうなら党規約は党の基本文書であり、そして本件は建国以来の国是に関わる問題です。そのほかすべての文書は、党規約文書の思想を反映しているはずです。「赤化統一を諦めた」と断言できるほど、そのほかの文書に当該思想が現れているのでしょうか?

■“個人”から“システム”へ
『ハンギョレ』の興味深い分析についてもメモ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/dd7079593622040f5bb9a41ef189af27c14ad87d
【独自】新しい朝鮮労働党規約から金日成・金正日・金正恩の名前が消えた
6/2(水) 10:09配信
ハンギョレ新聞

主語のほとんどが「労働党」…名前が言及されない「3代」 “個人による統治”から“制度による統治”へと移行 
 1月9日の朝鮮労働党第8回大会で改正された新たな党規約には、金日成(キム・イルソン)や金正日(キム・ジョンイル)の個人名が一度も登場せず、序文では朝鮮労働党が主語になった内容が増えた。“個人による統治”から“党中心の制度による統治”へと重心が移動していることを示すものとみられる。

 「朝鮮労働党は偉大なる金日成-金正日主義党だ」で始まる党規約は、5年前の第7回党大会で採択(2016年5月9日)された党規約の冒頭と同じだ。しかし、その次の部分は明確に異なる。これまでの党規約では、「偉大なる金日成同志は」と「偉大なる金正恩同志は」で始まる内容が続く一方、今回改正された規約では、「金日成・金正日主義」で始まる2文目を除き、7文目まで主語がすべて「朝鮮労働党」だ。党規約の総論に当たる序文の前半の主語が金日成・金正日から朝鮮労働党に替わったのだ。第8回党大会以降、金正恩(キム・ジョンウン)労働党総書記時代の統治基調が、“個人”から“システム”へと重心を移す流れを加速化させるという宣言とみられる。

(中略)
 しかし、新しい党規約で“人”としての金日成、金正日、金正恩の名前の削除が「金日成-金正日主義」の格下げを意味するわけではない。新しい党規約は「金日成-金正日主義」を「革命と建設の永遠の旗印」だと規定した。「朝鮮労働党が革命と建設を指導する上で指導的指針」という従来の党規約規定より、むしろその意味が強化された。

 変化の核心は“人治”から“党中心の制度による統治”への重心移動だ。金正恩総書記は「首領の神格化」を警戒する発言と政策を示してきた。「首領の革命活動と風貌を神秘化すれば、真実が見えなくなる」という「第2回全国党初級宣伝員大会の参加者に送った書簡」(2019年3月6日)や「簡単に観光地を提供して得をしようとした前任者たちの誤った政策」を批判し、金正日総書記の“遺訓事業”である金剛山観光地区の南側施設物の撤去を指示(「労働新聞」2019年10月23日付1面)した事例がある。以前の党規約に15回登場した「首領」という表現が、新しい規約では8回に減り、一度も明記されたことのない「党中央」という表現が新しい規約には16回も登場するという変化も、このような脈絡から理解できる。

 党大会と道・市・郡党代表会、党細胞書記大会、初級党初期大会を「5年に1度ずつ召集」するよう明文化し、「労働党総書記の委任によって党中央委政治局常務委員会委員は政治局会議を主宰することができる」という条項(28条)を新設したことなども、「党中心の制度による統治の強化」に向けた布石と言える。
記事中にもあるとおり、「首領の神格化」を警戒する発言と政策の一環として理解可能です。

もともと抗日パルチザンでの疑似血縁共同体的な人間関係を一国レベルに拡張したのが共和国特有の「社会政治的生命体」論ですが、長年の実践の中で直面したさまざまな困難を解決しようとする意欲をキム・ジョンウン同志はお持ちだと思われます。「“個人”から“システム”へと重心を移す流れを加速化させるという宣言」という見方を私も共有するものです。
ラベル:共和国
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2021年05月30日

新型コロナ禍と世相;「目的意識性の欠如」及び「認識の発展・理解の深化という観念の欠如」

https://news.yahoo.co.jp/articles/d9ff29194ace6fcc010998bc9514b5100f4aa052
加藤浩次、医師会会長の釈明に疑問「我々も感染症対策をしてたらいいのかって話」
5/13(木) 11:15配信
デイリースポーツ

 極楽とんぼの加藤浩次が13日、日本テレビ系「スッキリ」で、日本医師会の中川俊男会長が自民党の自見英子議員の政治資金パーティーに出席していた問題に「我々も感染対策をしていたらいいのか?って話になる」との思いを語った。

(中略)
 これに加藤は「感染症対策、しっかりしてましたって言ったら、我々も感染症対策してたらいいのか?って話になってしまう」と、コメント。感染対策を徹底しながらも営業自粛などを求められている分野が多数あることから、納得いかない表情。

 医師会会員で、日本感染症学指導医でもある水野泰孝氏も「これをいってしまえば、いろんな行事やイベントを中止してきた方はどうしたらいいのかってことになる。学校や子ども達、行事を我慢してきたのを懸念している。これなら卒業式、入学式もできた。感染対策すればこういったイベントはすべてできるという認識になる」と語っていた。
実に日本人的な「目的意識性の欠如」というべき発想。「何のためにやっているのか」という原点に照らして考えず、具体的な行為それ自体が目的化しているわけです。

我々も感染症対策をしてたらいいのかって話」――そのとおりです。そもそも感染拡大防止のために行っているのが今の「我慢大会」。感染症対策をしていれば問題ありません。念のために言っておくと「オレは嗽はしないけど、喉を酒のアルコールで消毒してるぜ」的な「自称感染症対策」では意味がなく、科学的・医学的根拠のある感染症対策である必要があります。

その点、自らの身を守ることにかけては医学的にも政治的にも天才的な才能をお持ちである、開業医団体としての日本医師会会長大センセイのことですから、抜かりがあるはずがありません(半分嫌味だが半分本当)。

アメリカではワクチンの接種が完了した人はマスクの着用が不要という見解が出されています(『ワクチン接種完了した人はマスクの着用不要−米CDCが指針変更』5/14(金) 4:33配信 Bloomberg)。今後、多くの国では規制緩和が進み日常生活が正常化してゆくことでしょう。「我々も感染症対策をしてたらいいのかって話」などというバカげた主張がニュースになる日本の日常生活が正常化するのは一体いつのことでしょうか。。。

まあ、一事が万事「空気」で決まる国です。ワクチンについても、ついこの間まで「様子見」だったのに、今や「供給が足りないぞ、政府は何をやっているんだ」になっています。ある時を境に堰を切ったようになし崩し的になるとは思いますが。

目的意識性の欠如に関連して、こんなニュースも出てきています。
https://news.yahoo.co.jp/articles/3ddd1c6472caca76a67af2d2de23934d83381881
東京五輪・パラ選手村で「酒類持ち込み可能と判明」報道に、怒りの飲食店店主「このニュース見て酒を出すことを決めた」
5/29(土) 15:06配信
中日スポーツ

 東京五輪・パラリンピック大会の選手村で、アルコール類の持ち込みが可能になるという一部報道に対し、SNS上では29日、報道を機に酒類の提供を決めた飲食店経営者など怒りのコメントが寄せられた。

 一部報道によると、選手村内での酒類の提供や販売は行わないが、最低限の選手同士の交流を尊重するのが理由でアルコールの持ち込みは可能で、組織委担当者の「節度を持って行動してくれるはず」とのコメントも掲載された。

 ツイッターでは、記事の見出し「可能と判明」が一時トレンドワードになり、横浜の飲食店経営者は「このニュース見て、6月1日から通常営業する事にしました。酒も出しますし、20時以降も営業します。もう政府に対して何の協力も必要ないと思います。自分たちで出来るだけの感染予防をして営業します」とコメントした。

(以下略)
一般の飲食店での酒類提供自粛要請には、「誰が感染しているのか分からない」状況下において人々が入れ交ぜになるとクラスターが発生しかねないという点に要請理由があります。これに対してオリンピック選手村では毎日検査が行われており、また、選手の村外への外出は基本的に禁止されています。選手村は「コロナ清浄区域」であり、いうならば、厳格な出入国管理によって「患者ゼロ」を維持しているという点において「プチ北朝鮮」というべき特殊な区域なのです。

そうであれば、おそらく飲酒可能としたところでクラスターが発生する可能性は低いと考えられます。もちろん「ゼロ」ではありませんが、そもそも「ゼロリスク」を本気で信奉しているのは日本人くらいのものです(BSE騒動の時に、統計科学的にまったく無意味で世界的にも稀有な「全頭検査」を敢行した国ですからね・・・)。

一般飲食店とオリンピック選手村の環境は、何から何まで根本的に異なるのです。その要請の狙い・目的に照らせば、この「違い」は容易に理解可能であります。根本的に状況が違うのだから、取り扱いだって違うに決まっています。にもかかわらず、「酒類提供の可否」という表面的事象にこだわって不公平だなんだと騒ぎ立てる言説が少なくありません。目的意識性の欠如と言う他ありません。

記事中の横浜の飲食店経営者氏がいう「自分たちで出来るだけの感染予防をして」は、いったいどんな感染予防なんでしょうか? おそらくオリンピック選手村では、豊富な資金力を背景に米CDCの基準などに沿った科学的防疫が施行されるものと思われますが、市井の飲食店が採算ベースでできることは限られているような。これでクラスターを起こして吊るし上げされたら、それこそご自分の首を絞めることになると思いますけどね。。。

上掲『デイリースポーツ』記事に戻りましょう。水野泰孝氏の「これをいってしまえば、いろんな行事やイベントを中止してきた方はどうしたらいいのかってことになる。(中略)これなら卒業式、入学式もできた」という言説。これも実に日本人的な発想です。認識の発展・理解の深化という観念がないのです。

これをいってしまえば、いろんな行事やイベントを中止してきた方はどうしたらいいのかってことになる」といいますが、そもそも間違った認識によって不必要に過剰な対策をしていたのだから、今後は科学的・医学的に正しい方法で行事・イベントを開催するように改めればよいだけでしょう。医師会中川センセイに範を示していただいたと思えばよいのです。卒業式や入学式は、科学的見地から言えばやってよかったのです。実際、科学的な感染対策を講じた上で挙行し、何事もなかったところもあるのですから。当時はまだリスクの程度が不明確でしたが、今振り返れば(←ここ重要)、中止する必要はまったくなかったのです。「当時は分からな方から仕方ないが、もう分かっているこれからは改めよう」でよいのです。

それでも「これをいってしまえば、いろんな行事やイベントを中止してきた方はどうしたらいいのかってことになる。(中略)これなら卒業式、入学式もできた」と言い張る水野氏。振り返れば今までの努力が無意味だった、徒労だったことを認めたくがないために、新しい認識や理解の受容を拒否して古い考えに固執しているように見受けられます

昔のことをいつまでも根に持つ陰湿な国民性を見るに、日本人は「時間の観念」はしっかりと持っているはずです。しかし、時の経過とともに情勢も変化し、それによって「正しさ」も変化し得るということを考えないあたりは、日本的発想の特徴と言えるでしょう。認識の発展・理解の深化という観念が日本的発想に欠けているのです。

思えば日本人は、「筋を通す」ことを重視するあまり、しばしば情勢の変化に伴う持論の修正をも「筋が通っていない」と非難する悪癖があります。最新の見地に則れば荒唐無稽と言う他なくても従来からの主張を維持することを是とする向きがあるのです。これもまた、認識の発展・理解の深化という観念が欠けていることに他なりません。

新型コロナウィルス禍を通して、さまざまな世相が見えてきていますが、「目的意識性の欠如」及び「認識の発展・理解の深化という観念の欠如」という世相が見えてきました

ところでチュチェ思想は、人間存在について「自主性、創造性、意識性によって人間は世界で最もすぐれた有力な存在となり、宿命的にではなく革命的に、受動的にではなく能動的に世界に対応し、盲目的ではなく目的意識的に世界を改造する」と指摘しています(『チュチェ思想について』)。上述のとおり、日本人には「目的意識性の欠如」があると言わざるを得ないところですが、このことはすなわち、日本社会の自主化にあたっては、まず何よりも目的意識性を涵養しなければならないという重大な課題が存在していることを示すものであると言えるでしょう。いやあ、道のりは長い。。。
posted by s19171107 at 18:40| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2021年05月29日

日本人ほど合理主義的設計主義・計画経済主義が国民性的に合う国は珍しい・・・精神のペレストロイカはいつになることやら

https://news.yahoo.co.jp/articles/276f6046f96f5af371d1f7e048d8ef8e7d927095
余ったワクチンは自ら接種します…公表した43歳市長「責任者として業務遂行のため」
5/28(金) 17:48配信
読売新聞オンライン

 新型コロナウイルスワクチンの集団接種会場で出た余剰ワクチンについて、兵庫県川西市の越田謙治郎市長(43)は27日、自身も投与を受ける考えを明らかにした。感染リスク低減により、「市全体の責任者として業務を遂行するため」と説明。急なキャンセルなどによる余剰分の使途に各自治体が腐心する中、注目を集めそうだ。
(中略)
 余剰分は、市内2会場で1日最大10人分と想定し、越田市長は「市民への接種も考えたが、当日にならないと余りが出るか分からない」と強調。自身は優先的な接種の進む高齢者ではないが、基準を明確にした上で、市のトップとして投与を受ける考えを示した。

 ワクチンの接種を巡っては、優先接種の医療従事者用が余った際、各地の首長が注射を受けていたことが相次いで発覚し、住民に対して説明不足だなどと批判が噴出していた。
実に日本的な発想。予約客が来ないのは「予定外の事態」に他ならないのに、予定外の事態の発生について「現場判断による柔軟な対応に理解を求める」のではなく「事前に基準を明確に示す」で対応したわけです。

事前に緻密な計画を立案してその計画どおりに実施することが「正しいこと」であり、そのようにできる人が「優秀な人」とされる日本。例外的事態への備えが「現場が臨機応変に対応できるように行動の自由を付与する」ことではなく「さらに緻密に事前計画を立てること」として捉えられている日本。そうした日本的発想の結晶というべき対応と言う他ありません。

4月18日づけ「ワクチン接種の混乱が斯くも問題になるのは、「事前の緻密な計画」及び「計画の忠実な執行」にこだわる日本の教育制度・受験制度・就活慣習のため」でも触れましたが、日本人ほど合理主義的設計主義・計画経済主義が国民性的に合う国は珍しいかもしれません。日本人が見下す「北朝鮮」でさえ計画経済の不可能性が公式に認められ、社会主義企業責任管理制や圃田担当責任制の導入よって現場の臨機応変の対応が認められるようになったというのに・・・

もちろん、奇形的に肥大化した消費者意識によって「ないものねだり」や「口を開けた雛鳥」と化した一億総クレーマーと化した日本人の要求を、合理主義的設計主義・計画経済主義が満たせるはずがありません。強大な生産力と市場経済の豊かさを知らず、また割と忍耐力が強かったソ連人もついには計画経済に耐えきれませんでした。日本人がソ連人ほどの忍耐力があるとは到底思えません。

しかし、子どものころから刷り込まれた「正しさ」から脱却することは容易ではありません。合理主義的設計主義・計画経済主義には現実的なオペレーション可能性のない「夢想」とはいえ、それを受け容れる心の準備が整うのには、勇気と時間を要します。いましばらく、要求と現実との間の葛藤が続くでしょう・・・精神のペレストロイカはいつになることやら
posted by s19171107 at 20:12| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2021年05月25日

新型コロナウィルス禍と自立経済の重要性の再提起

https://news.yahoo.co.jp/articles/65ca3265e1dbbff0f75235fb688e54cfababe774
ワクチンの75%は10か国に集中、テドロス氏「恥ずべき不公平だ」
5/24(月) 22:04配信
読売新聞オンライン

 【ジュネーブ=杉野謙太郎】世界保健機関(WHO)の年次総会が24日、オンライン形式で始まった。テドロス・アダノム事務局長は演説で、新型コロナウイルスのパンデミック(世界的な大流行)で、「世界は依然として非常に危険な状態にある」と述べ、一部の先進国にワクチンが集中している現状の是正を訴えた。

 テドロス氏は、今年の感染者が既に昨年1年間の合計を上回っており、死者数も今後3週間のうちに昨年1年間を超えるだろうと指摘した。世界のワクチン接種の75%が、わずか10か国に集中している点を挙げ、「恥ずべき不公平だ。ワクチンを手にした少数の国々が、世界のその他の命運を左右している」と批判した。

 これまで接種されたワクチンを合わせれば、世界の医療従事者や高齢者に接種するのに十分な量だったとし、「公平に分配されていれば、我々はもっとよい状況にいられたはずだ」とも語った。

(以下略)
新型コロナウィルス禍は、グローバル化の時代において自立経済の重要性を再提起しました。キム・ジョンイル総書記が不朽の古典的労作;『チュチェ思想について』において指摘なさった「経済は社会生活の物質的基礎であります。(中略)経済における自立の原則を貫くためには、自立的民族経済を建設しなければなりません。自立的民族経済を建設するというのは、他国に従属せず独り立ちできる経済、自国人民に奉仕し、自国の資源と人民の力によって発展する経済を建設することを意味します」が再浮上したわけです。

「恥ずべき不公平」と説教したところで始まらないのは、アメリカ帝国主義による対共和国封鎖に最も顕著に表れているように、歴史的に明白なことです。それゆえ、まさに共和国がそうしているように、≪제힘을 믿고 떨쳐 나서면 천리도 눈앞에 지척,남의 힘 믿고 바라다보면 지척도 아득한 만리≫(≪신심높이 가리라≫)の心構え、自力更生・自力自強で≪짓밟혀 천대받은자,모든것의 주인이 되리!≫(≪인터나쇼날≫)を目指すほかありません

その点、今井佐緒里氏のオーサーコメント「まるで人権宣言を読んでいるかのようなものだ。人間の健康の平等と連帯を訴えている。このような主張が欧州発というのは、実に土地柄にあっている(中略)日本はまだワクチン投与が進んでいないので、あまり余裕がないのは事実だ。でも、同じ人間として、他国の人の健康を気遣う気持ちだけは忘れないでいたい」は実に優等生的作文風で無邪気だというほかありません(これぞ良くも悪くもリベラリストというべきでしょうか)。欧州が説教ならアジアは自力更生ってことになりますね。ならば、21世紀は「脱欧入亜」というべきですね。

ちなみに、インターナショナルは朝鮮語版の≪제힘을 믿고 떨쳐 나서면 천리도 눈앞에 지척,남의 힘 믿고 바라다보면 지척도 아득한 만리≫も良いが、ロシア語版の"Мы наш, мы новый мир построим―Кто был ничем, тот станет всем"も良いですよね。日本語版は文語調で労働者的ではないので個人的にはあまり好きではありません。。。
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2021年05月23日

自力更生・自力自強が欠け、苦手から逃げ他人に代行してもらうことが社会的に許容される国・ニッポン

https://news.yahoo.co.jp/articles/82bbaccb4198ca8339199a98cb4c5e8d7fd16481
“不慣れ”高齢者のワクチン代行予約 埼玉・松伏町
5/19(水) 15:26配信

テレビ朝日系(ANN)

 新型コロナワクチンを巡ってインターネットでの予約が不慣れな高齢者のために埼玉県松伏町で高齢者への代行予約が始まりました。

 松伏町では19日朝からワクチンの代行予約が始まり、多くの高齢者が訪れました。

 町などによりますと、65歳以上の高齢者で、予約の電話が窓口につながらない人やスマートフォンを持っていない人などを対象に役場や社会福祉協議会の職員が代行します。

(以下略)
「高齢者は不慣れ」とはいえ、最期まで自己の運命の主人として生きるのが人間たる証しであり、「代行」はそれを損ねるものです。また、「操作サポート」ではなく「昭和的な窓口・電話での対応」では社会のIT化は進みません「遅れれば技術の奴隷」(≪돌파하라 최첨단을≫)どころか「技術から疎外」されることになります。

代行は善意・優しさであるように見えて、実は、自主性が生命である人間性を損ねる結果に繋がります。もちろん、新技術の習得には時間がかかるものです。それゆえ、過渡期的に昭和的な方法の併用も必要ですが、あくまでも新技術習得、少なくともメモを取る為の操作サポートに主眼を置くべきでしょう。仮に他人からの支援を受けることがあっても、あくまでも自力を基礎として自己の運命問題を開拓することこそが人間が人間たる証しなのです。

「老い先が短い老人に教育するのは非効率」という指摘もあるでしょうが、平均寿命が延びている現状においては、そうは言えないでしょう。だいたい「覚えられないからメモを取る」のが老若男女問わず基本的姿勢であるはず。難しくとも諦めず、自力自強を実現する新方法を編み出す事が当人のためであり社会のためでもあるのです。安易に代行することはその場しのぎの術であります。

最近は若い世代も「自分に必要」なスキル以上は習得したがらない(スマホ依存でPC使いこなせないらしいよ)から、もしかするとITリテラシーの問題は今後もっと深刻化するかも知れません。ますます、効率的で万人に通用する操作サポート方法を開発する必要があるとい得ます。

もっとも、ワクチン接種の遅れを非難されたくない、事なかれ主義の役人たちが、文句を言われる確率の高い「操作サポート」に積極的に取り組むとは思えません。その点で、上述の事業を進める主体は現代日本ではなかなか現れにくいのも事実でしょう。

ところで、新技術への無知とその習熟への無意欲;苦手から逃げて自分の現在水準から成長しないことが社会的に許容されていています。自力更生・自力自強が欠けているのです。本件に限らず往々にして「分からないなら教えるから覚えて」というと「無理」と拒絶したり、甚だしくは「不親切」「弱者切り捨て」扱いになるのが現代日本であります。記憶できないならメモ取ろうよ。

「自分は文系だから」といって理系科目を学ぼうともしない高校生は少なくありませんが、「自分は文系だから」の言い訳がカリキュラム的に(主に大学入試科目的に)許されてしまうあたりから、苦手から逃げること;無知と無意欲の自己正当化が始まるように思います。同時に、「甘やかし」と「優しさ」が混同されがちな現代日本ですが、この結果、単に自分から苦手から逃げ出すことが正当化されるだけでなく、他人が苦手から逃げているのを許すことまでもが積極的に是認されるされるようになるのではないかと考えます。そしてそれゆえに、その対極にある自力更生・自力自強を求めることが「不親切」や「弱者切り捨て」扱いになるのではないでしょうか?

たしかに苦手克服のための努力は厳しく辛いものではあります。しかしそれから逃げることが果たして「優しさ」なのでしょうか? 甚だ疑問ですが、近視眼的な「優しさ」;目先の安穏を提供することこそが「優しさの証し」などと考えるの感性の持ち主にとっては、一種の「甘やかし」というべき対応が「優しさ」になるのでしょうね。

この社会が最近は「脱成長」と言い始ました。恐ろしいことになりそうです。
posted by s19171107 at 20:03| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2021年05月15日

コロナ禍においてこそ真の意味での「民間の知恵の活用」、知恵を出し合う公民協働・協同が求められている

https://news.yahoo.co.jp/articles/f685e99288b8f6ea7e426a1db67aaab644861d93
長嶋一茂が河野太郎ワクチン担当相を猛批判 回線パンクに「なんで想定できないのか不思議」
5/14(金) 10:33配信
東スポWeb

(中略)
「交通整理が全くできていないですね。一日の接種キャパシティーはリサーチすればわかること。それをやらずに予約してください≠カゃ、パンクするに決まってる。なんでこんなことが想定できないのか不思議です。これは平等性とかの問題じゃない。河野さん、大問題、大責任だと思いますよ。国が各自治体に責任を押しつけてるとしかボクには見えない」 

 お年寄りが一日も早くワクチンを打って安心したいのは当然。国も自治体も、もう少し知恵を出せないものか。
おそらく、ある程度「想定」はできていたが、それでも突入せざるを得なかったものと思われます。

「先着順」は典型的なお役所仕事であり、いつも住民は程度の差こそあれ、待たされているところです。お役人とて、待たせていることについて問題には思っていないとしても、気が付いてはいるはずです。

しかし、いままでずっと住民を待たせる仕事の仕方をしてきたお役人たちが、急に効率的な受付方法を思いつくはずがありません。中には個人的に効率的な方法を思いついた職員もいるかもしれませんが、硬直化した行政組織の中で新方式を直ちには実践できないでしょう。

また、「国が各自治体に責任を押しつけてるとしかボクには見えない」といいますが、「一日の接種キャパシティー」を国が正確に把握しているとでも? 長嶋一茂氏が「普通のお仕事」をご存じだとは思いませんので、これが「彼の限界」なのでしょうが、本当に素人さんの思いつきは「中央集権的計画経済」と親和的なのだな改めて思ったところです。

長嶋一茂氏のような言説もまた、近頃当ブログで指摘している「実現可能性を考慮しない、お子ちゃまの駄々」と通底するところがあるものです。

政策目標の実現可能性を考えるにあたっては「所与の条件」に対する分析が必要ですが、これは、物量などだけではなく、それを制御・利用する主体としての人間、担当者の能力も含まれます。上述のとおり、いままで住民を待たせる仕事の仕方をしてきたお役人たちが一朝一夕に効率化するはすがありません。スピーディーにワクチン接種を推進するという政策目標においては、その所与の条件が整ってはいないのです。

ステレオタイプ的な理解かもしれませんが、お役人たちは平時の定型的な業務の遂行においては有能ですが、例外的事態への対応は苦手とされています。まさに例外的事態と言うべき新型コロナウィルス禍への対応が苦手で、どうしてよいのか手探りであるのは無理もないことでしょう。

そもそも、難しい試験(公務員試験)を突破した優秀な人々といっても所詮は生身の人間。その知性・知能には限界があります。お役人といえども全知全能ではありません総力戦が求められているコロナ禍においてこそ、「民間の知恵の活用」が必要されているはずですが、まったくその機運は高まっていません。「国は何をやっているんだ」「国はxxすべきだ」なとど、国民・住民はまるで「口を開けた雛鳥たち」のようです

ほんの少し前まで大流行で、ついに大阪市営地下鉄を売り飛ばすに至った原動力たる「民間の知恵の活用」云々は一体どこへ行ってしまったのでしょうか? 公の財産を営利企業に切り売りすることだけが「民間の知恵の活用」ではないはずです。

いまこそ公民協働・協同で知恵を出し合い、総力戦でコロナ禍を乗り越えるべきときであります。口を開けた雛鳥たちのように誰かが何かしてれるのを待っている段階ではありません。真の意味での「民間の知恵の活用」、知恵を出し合う公民協働・協同が必要されています。

もちろん、社会的分業の高度専門化により専門外の人々には「他人の仕事」の内容が見えにくくなっている現代においては、なかなか思うように「知恵を出し合う」に至らないのは理解可能です。ならばせめて、一方的な物言いは控えてほしい。消費者意識の奇形的肥大化が進む日本、この点における意識改革こそが公民協働・協同の前提であるといえるでしょう。そして、この意識改革はゆくゆくは社会全体の協同化の前提でもあります。新しい協同社会の時代を開拓するにあたっては必ず実現する必要があると言えるでしょう。
posted by s19171107 at 20:58| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2021年05月09日

協同社会としての社会主義社会における表現の自由と「ムラ社会」

https://news.yahoo.co.jp/articles/7ff51ad92245c0a714069f3074f146510daa66e3
トランプ前大統領、ひとりでツイートのような投稿をするWebサイトを開設
5/5(水) 16:57配信
ITmedia NEWS

 前米大統領ドナルド・トランプ氏の公式Webサイト「SAVE AMERICA」の一角に5月4日(現地時間)、トランプ氏がツイートのように短い投稿を続けるコーナー「FROM THE DESK OF DONALD J. TRUMP」が開設された。

(中略)
 4日の投稿はサイトを紹介する動画で、「沈黙と嘘の時代に自由の指標が生まれる。ドナルド・トランプのデスクから直接提供する自由かつ安全に話し合える場だ」と表示される。途中で映る邸宅は、トランプ氏が1985年に購入したフロリダ州パームビーチのマー・ア・ラゴだ。ここからトランプ氏が発信しているということなのだろう。

 トランプ氏は在任中、個人の公式Twitterアカウントで政治的な発言をツイートすることで知られていたが、度重なる問題ツイートの結果、アカウントを永久凍結された。Facebookの個人アカウントやYouTubeのチャンネルも閉鎖されている(FacebookのTeam Trumpページは存続している)。

(以下略)
ふと、キム・ジョンイル総書記の不朽の労作『チュチェ思想について』における次のくだりを思い出しました。
経済は社会生活の物質的基礎です。経済的に自立してこそ、国の独立を強固にして自主的に生活し、思想における主体、政治における自主、国防における自衛をゆるぎなく保障し、人民に豊かな物質・文化生活を享受させることができます
インターネット上の発信プラットフォームは、表現の自由・言論の自由の物質的基礎であると言えます。キム・ジョンイル総書記が指摘されたように、この物質的基礎を自らの管理下に置くことは、思想における主体・政治における自主を担保する条件であると言えるでしょう。

ただ、本件は一般人にはあまり参考にはならないでしょう。なぜならば、トランプ氏は富豪だからこそ自前でプラットフォームを開設できたからです。一般の人民大衆には、なかなかマネできないことです。一般の人民大衆は、表現の自由・言論の自由の物質的基礎としてのプラットフォームを他人の管理に任せるのではなく、自分「たち」で協同的に運営する必要があるし、それ以外に方法はないのです。トランプ氏は発言機会を「個人」として獲得しましたが、人民大衆は「集団的・協同的」に獲得することになるのです。

ところで、以前から指摘しているとおり、社会主義社会の特徴は協同性にあります。この点において、人民大衆が発信プラットフォームを協同的に運営するということは、社会主義と親和的な方向性であるといえます。私は協同社会としての社会主義社会に人類社会の未来像を見出していますが、しかし、協同社会は一歩間違えると「ムラ社会」に転落しかねないものです。

社会主義社会において人々が「個人」として発言機会を獲得すること、言い換えれば、社会主義における表現の自由の問題は、政治的な側面における「独裁体制」だけが問題ではありません。もちろん、独裁の問題は極めて重大な問題であり、これを相対化して矮小化するつもりは全くありません。しかし、独裁の問題は、たとえば権力分立制を採用するといった対処方法が既に歴史的に編み出されています。他方、「ムラ社会」に対する対処方法は未だ必ずしも十分に編み出されているとは言えません問題意識としてさえも十分に提起され浸透しているとは言い難いところであります。

とりわけ日本においてはそうであると言わざるを得ないでしょう。日本の権力分立制も必ずしも十全に機能しているとは言い難いところですが、それなりに機能しています。しかし、「ムラ社会」的メンタリティへの対応に関しては、相当遅れていると言わざるを得ないのです。

自由な発言は生きることそのものであると言っても過言ではないと思われます。協同社会としての社会主義社会において人々が「個人」として発言機会を獲得すること、社会主義における表現の自由の問題は、すなわち、協同社会としての社会主義社会において人々が「生きる」ということに他なりません。それゆえ、協同社会としての社会主義社会を構想するにあたっては、「ムラ社会」的メンタリティの問題にも十分に配慮する必要があります。
ラベル:チュチェ思想
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2021年05月05日

新型コロナウィルス禍を巡って炙り出された世相について@コロナ禍2年目春

https://news.yahoo.co.jp/articles/bffb80e8f0b2b6ad6dec31b00e1e8863f062398a
「コロナ危機」に乗じた改憲を許すな
5/3(月) 18:28配信
ニューズウィーク日本版

<政府コロナ危機を口実に、憲法に私権を制限する緊急事態条項を明記しようとしているが、ロックダウンは現行憲法の下でも可能だった。やる気がなかっただけだ>

新型コロナウイルス感染者数が首都圏や京阪神地域で急増していることにともない、4月26日から東京都や大阪府で三回目の緊急事態宣言が発令されている。二回目の緊急事態宣言解除後から行うとされた政府の蔓延防止政策はあっさり失敗した。今や大阪府は事実上の医療崩壊状態となり、東京都も後に続くだろうといわれている。【藤崎剛人(ブロガー、ドイツ思想史)】

<コロナ対応の失敗>
コロナ封じ込めに成功している国も多い東アジア・太平洋地域において、日本では感染者・死者数が拡大している。日本はいわゆる変異型ウイルスの上陸を許してしまっており、かなり凶悪とされるインド株も見つかっている。

新型コロナウイルスに対する政府の失策は明らかだが、GW明けに国民投票法の強行採決を予定している与党自民党はここにきて、有効なコロナ対応が打てなかった原因を、憲法に緊急事態条項が明記されていなかったことに押し付け始めた。緊急事態条項さえあれば、私権の制限を伴う強制力が高いコロナ対応ができたというのだ。

しかし、以前の記事でも触れたのだが、そもそも日本政府は緊急事態宣言を無駄打ちしている。この1年の日本政府のコロナ政策を振り返ってみても、日本政府のコロナ対応は欧米諸国と比べた時の感染者数の少なさを別としても、まったくやる気のみられないものだった。

<対策の丸投げ>
昨年春の学校の休校措置および一回目の緊急事態宣言によって、日本は新型コロナ第一波を比較的少ない被害で抑えることができた。しかし、休校措置に伴うカリキュラムの組みなおしやオンライン化についての方針決定は、すべて現場に丸投げされた。たとえば大学があのスピードでオンライン授業に移行できたのは、ひとえに現場の教員や職員の努力の賜物に他ならない。政府は何もせず、むしろ感染者数が徐々に増加し、大学でクラスターも発生しているにもかかわらず対面授業を要求して、大学の足を引っ張っている。

(中略)
<憲法改正よりもコロナ対策を>
一方で、憲法に仮に緊急事態条項が書き込まれていたとしても、補償への拒否感と利権団体への忖度によって、現行の軽い緊急事態宣言ですら出し渋る政府に、私権の制限を強く伴うロックダウン政策を使いこなせたとは思えない。二回目の緊急事態宣言は、感染者が十分減少したからではなく、聖火リレーのスケジュールに合わせて解除されたのだ。

日本政府は「不要不急の外出」をするなと言いながら、利権団体の突き上げによって、内心では人々に外出してもらいたがっている。オリンピック開催のために、現状が「非常事態」であることを認めず、なるべく危機感を強めない方向に進めたがっている。市民もそれを知っているから、緊急事態宣言下でも外出は減らない。「経済を回す」という自己欺瞞によって感染症対策は疎かにされ、政府はその欺瞞を否定しない。与党政治家自身が支援者との繋がりのため、パーティや会食をやめることができていない。

有効なコロナ政策は、法の支配を強め、オリンピック利権を含めた、利権政治をやめることからしか生まれない。改憲によって政府に強い執行権を与えることは、むしろそれに逆行することになる。強い執行権をもつ政府は、恣意的な利権分配も可能だからだ。

ワクチン接種の進展が政府の無能によって当分見込まれない中で、我々は政府や自治体の首長に対して、今一度コロナ対策への本気さを確かめなければいけない。オリンピックの中止に踏み切れるかどうかも一つの試金石だ。もしそれができないのなら、我々は生き残るために、政権担当者を入れ替えるしかないだろう。
日々垂れ流される昼間のワイドショー系情報番組をひとつひとつ追ってはいられない労働者階級としては、政府批判のトレンドを自らよく整理してくれているので、とてもありがたい記事です。批判しやすい記事です。ざっくりと4点指摘したいと思います。

第一に、具体的な実現可能性を踏まえたビジョン、段取りレベルの政府批判でないことです。

やる気がなかっただけだ」と連呼している筆者の藤崎剛人氏ですが、日本において強力な措置を現実的に取り得たのかという分析、「事実から出発する」ことを貫徹した分析はいっさい見られません。当ブログでも繰り返し指摘してきた昨今の「お気楽政府批判」の典型例というべきものです。

第二に、中央集権的計画経済の発想に染まっている点です。

藤崎氏は「休校措置に伴うカリキュラムの組みなおしやオンライン化についての方針決定は、すべて現場に丸投げされた」ともいいます。国が、霞が関の官僚が、全国津々浦々の個別的な段取りにまで口出しをすべきだったのでしょうか? まさしくソ連顔負けの中央集権的計画経済の発想です。

もちろん、一人一律10万円給付金や持続化給付金、医療従事者慰労金といった「補助金行政」的な振り込みが大幅に遅れたのは事実です。分権的な自由経済においては、機動的な補助金支給が必要なので、この不手際は批判されて然るべきです。しかし上述のとおり、国津々浦々の個別的な段取りにまで中央官僚の口出しを要求するような言説は、不適当いうべきでしょう。

第三に、陰謀論的発想についてです。

藤崎氏は「利権団体への忖度」についても言及しています。ならば、その黒幕の暴露と吊るし上げにまで斬り込むのが批判者の勤めではないのでしょうか? 「利権団体」の連中が具体的にどのように暗躍して政策形成を歪めてきたのか証明せずに、漠然と抽象的に「利権団体への忖度」を指摘するのは、思い通りにいかない不都合な事実の展開を「陰謀」のせいにする「Qアノン」の発想といったい何が違うのでしょうか?

そして最後。青臭い革命至上主義というべき政治観についてです。

政権担当者を入れ替えるしかないだろう」――そうしたところで、新しい政権担当者はいままでの「しがらみ」から完全にフリーだとでも言うのでしょうか? 世の中の複雑性、利権関係の根深さをまったく理解していないようです。

2年目春における新型コロナウィルス禍を巡って炙り出された世相はこのような具合であります。
posted by s19171107 at 21:30| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする