2017年05月24日

「危険な油断」と「禁欲的闘争への妙な自信」に繋がりかねない「シュレッダー係事件」の電撃和解

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170524-00006131-bengocom-soci
>> アリさん「引越社」と「シュレッダー係」に配転された社員、東京地裁で和解成立
弁護士ドットコム 5/24(水) 14:10配信

アリさんマークで知られる引越社のグループ会社「引越社関東」で営業職だった男性社員(35)が、シュレッダー係に配置転換させられたのは不当だとして、地位確認などを求めていた訴訟は5月24日、東京地裁で和解が成立した。

主な和解内容は、会社は(1)6月1日付で、男性を営業職として復職させる、(2)営業車両の使用を認める、(3)配転前の労働条件に戻す、(4)解決金を支払う、(5)シュレッダー係に配置転換したこと・罪状ペーパーを貼り出したことについて謝罪する――など。なお、解決金の額は明らかにされていない。

この日の和解成立の知らせを受けて、男性は「実感はまだないが、一区切りつけた」「営業職に戻れるのはうれしい」とコメントした。男性が加入する労働組合プレカリアートユニオンの清水直子・執行委員長は「大勝利的な和解だ」と話している。


(中略)

●男性「未払い残業の問題など、まだまだ課題は山積みだ」

この日の和解成立後、男性の代理人と労働組合が、東京・霞が関の厚生労働省記者クラブで会見をおこなった。男性は勤務日だったことから、その場に姿を見せなかったが、昼休みに電話を通じて報道陣の質問に答えた。

男性は、和解成立について「まだ実感がありません。和解条項がどういうものかしっかり読めておらず、『ああ、そうなのか』という感じです。ただ、これで一区切り付けたのは間違いありません。未払い残業代の問題など、まだまだ課題は山積みです」と感想を述べた。

懲戒解雇されたことが、一番印象に残っているという。「人生で初めて。経験したことがなかったので。頭が真っ白になりました。二度と経験したくありません。あのときは、そういう状況に追い込まれて何もできない自分に情けなくて、涙を流しました」と振り返った。

男性は「会社で働いている人だけでなく、社会全体にこの戦いを知ってもらいたいという思いがありました。同じように困っている人がいたら、アドバイスできることがたくさんあるので、そういう人の役に立ちたいと思っています」と語っていた。

弁護士ドットコムニュース編集部
最終更新:5/24(水) 18:34
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■大はしゃぎしている場合ではない
営業職に戻れたということは、労働問題を「自主権の問題」として捉えている私としても、たいへんよかったと思います。他方、プレカリアートユニオンの清水委員長が「大勝利的な和解だ」と大はしゃぎしている点からは、2つの点において大きな懸念を持たざるを得ません。おそらく今後1週間程度の間に、労組活動家のノーテンキな言説が幾つか出てくると思いますが、先に述べておきたいと思います。

■ブラック企業は改心しない――営業職復帰は「罠」である可能性
第一の懸念。「引越社関東」が真に心を入れ替えて反省するはずがないということ。従業員を生身の人間としてではなく「日本語を喋る道具」程度にしか見ていない、他人を踏み台くらいにしか思っていないような人間が、ヤクザそのものという他ない恫喝を平気で繰り広げる人間が、裁判所からの和解勧告程度で心を入れ替えるはずがありません。そんな「人間的」な心を持っているのならば、そもそも最初からこんなことはしないでしょう。チュチェ104(2015)年9月23日づけ「「ブラックバイト」の域を超えているのに「団体交渉」を申し込むブラックバイトユニオンの愚」を筆頭に繰り返しているように、ブラック経営者・資本家の改心に期待しているのであれば、労組としては余りにも甘い労働者階級の立場・階級闘争の視点が抜け落ちているといわざるを得ません。

このことは、既にコメ欄でも指摘されています。引用しましょう。
>> ore***** | 2017/05/24 14:34

自ら望んだとはいえ、営業職に復職ってのは「見せしめ」に近い。
当然厳しいノルマが課されて、達成しなければリストラ対象の最上位。
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今回の「引越社関東」による原告男性への一連の恫喝行為は、世のブラック企業群のなかでも特異的なくらい「雑」な事例でした。「ふつう」のブラック企業であれば、もう少しスマートな方法でグレーゾーンを攻めてくるはずです。

これはあくまで想像ですが、「引越社関東」は、お抱えの弁護士か社労士に入れ知恵されて「戦略的撤退」を行ったに過ぎないのではないでしょうか。単に、「標準」的な手法を駆使するブラック企業になっただけではないでしょうか。その可能性は疑ってかかるべきです。少なくとも、あのようなヤクザ的恫喝を堂々と展開していたような連中が本気で改心する可能性よりも、戦略的撤退である可能性のほうが高いでしょう。

珍しくヤフコメが正しいことを言っているように、営業職への復帰は罠が仕掛けられていると見るべきです。人事評価などは結局のところ評価者次第というのが大きい。本件に関して以前から指摘しているように、企業側は一時的な譲歩を長期的視野で回収しようと虎視眈々と狙っていることでしょう。 「すき家」のゼンショーが急にホワイト化し始めた時にも述べましたが、おそらくこの「電撃和解」は、昨今の労働市場における著しい人手不足の影響を受けているものと思われます。これ以上、「ブラック」の悪評が立てば、人員募集に対する応募者が減ってしまうので、それを避けるために、象徴的な本件において「ソフト路線」を打ち出しているに過ぎないと考えられます。よって、今後の景気動向によって労働市場における人手不足感の緩和や、あるいは人員過剰化に伴い、原告男性は真っ先に危うい立場に立たされることでしょう。景気後退に伴う営業成績悪化は、その格好の口実になることでしょう。そこで運悪くクレームの一つでも入れば、行く末は確実的です。それらしい理由なんて幾らでも作れるものです。

大勝利的な和解だ」などと、はしゃいでいる場合ではありませんし、原告男性についても「ただ、これで一区切り付けたのは間違いありません。未払い残業代の問題など、まだまだ課題は山積みです」などと油断している場合ではありません。「一区切り」などにはまったくなっていないと警戒すべきです。相手が相手なのだから、課題は「山積み」ではなく、一つも片付いていないとみるべきです。

■真に目指すべき道――ブルジョア博愛主義を乗り越えよ!
3月14日づけ「労働市場を活用した労働者階級の偉大な勝利――ゼンショー社で「勤務間インターバル規制」が実験的導入」でも述べたとおり、労働者階級の自主化のためには、今回のような「労働運動・法廷闘争による直接的勝利」ではなく、「世論喚起を経由した労働市場を活用する間接的勝利」を第一に据えるべきです。そしてまた、SMAP解散問題のときにも述べました(下記リンク)が、最終的には労働者自主管理・協同経営を目指す他ないでしょう。ブルジョアの譲歩に期待をかけ、連中の「博愛」主義に幻想を持つ甘っちょろい労組運動を乗り越え、断固たる階級的立場で人民の国へ! 
チュチェ105(2016)年1月19日づけ「テンプレの域に達しつつある「労働組合結成の勧め」――中世的芸能界の近代革命のために必要な組織とは?
チュチェ105(2016)年1月20日づけ「「オーナーの私有財産としての芸能事務所」という事実に切り込まずして「ジャニーズの民主化」を語る認識の混乱

■労組活動家が妙な自信を持つ恐れ――振り返れば限りなく失敗に近かった方法論
第二の懸念。この和解を以って、労組活動家たちが今までの闘いの全過程が正しかったと誤解している恐れについてです。「結果よければ全てよし」などでは決してありません。なんとか要求が満たされた(ように今のところ見える)から遡及的に「思い出話」のようになっている様子ですが、この要求実現型の労働運動は、なによりもクライアント自身にとっては方法論としては最悪の部類。限りなく失敗に近い戦い方で過ごしてきた長期戦でした(ナチスに勝ちはしたが2000万人が戦死したソ連みたいなもの?)。

チュチェ105(2016)年12月16日づけ「自主的かつスマートなブラック企業訴訟の実績――辞めた上で法的責任を問う方法論」でまさに触れたとおり、原告男性はシュレッダー係時代、「自分にとって、仕事は達成感や社会貢献が含まれるが、今はお金を稼ぐだけの労働だ。ほとんど無の境地でシュレッダーをやってい(た)」そうです。このことについて私は次のように述べました。再掲します。
>> しかし、それはそれとしても、「ほとんど無の境地でシュレッダーをやっている」というのは、男性従業員氏の生涯全般を見渡したとき、本当によい選択と言えるのでしょうか? 戦うこと自体は正しい選択だとは思いますが、もっとスマートな方法論があったのではないかと疑問に思わざるを得ません

先に「周囲の助けを借り」ることの必要性に触れました。弁護士や労組などがそれに当たるでしょう。しかし、この男性従業員氏を「支援」している代理人の大久保弁護士やユニオンの清水委員長のコメントを見るに、一人の生身の労働者にとっての利益を第一に考えているのか疑問に思わざるを得ない主張を展開しています。

シュレッダー係に異動する人事や、従業員に弁償金を支払わせることはあってはならないこと」というのは、法的には正しい指摘です。しかし、代理人弁護士が「会社の違法な部分」を追及しつづける傍らで、クライアントの男性従業員氏は「無の境地」で、30代半ばという働き盛りかつ転職ギリギリの年代を過ごしています。40代や50代といった今後の人生を考えたとき、どう評価すべきなのでしょうか?

その部分も含めて改めさせて、引越業界全体に変化をもたらしたい」というユニオン委員長の構想は遠大です。私もこれが突破口になればいいと思います。しかし、あくまで生身の人間、男性従業員氏が救われることが最優先・先決であるはずです。それが達成できないのであれば、たとえ「引越業界全体に変化」をもたらせそうもない方向であったとしても、戦術を変えなければなりません。その意味で、もはや男性従業員氏を支援するという本旨ではなく、単なる「階級闘争のモデルケース」になってしまっていないでしょうか?
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元来、労組活動家というものは、遠大な理想を持ちがちで、そしてその理想像にこそ軸を据えます。「未来の理想」のためには「今日の苦境」を厭わない考え方を持っています。ここでは重大なギャップが生じています。理想はすぐには実現しないが、生活というものは今日も明日も連綿と続くものです。いくら「未来の理想」のためとはいえ、人生の大切な時期を「ほとんど無の境地でシュレッダーをやっている」と過ごしてよかったのか。人生80余年のうちの2年を、とりわけ酷い部類の過ごし方をしてよかったのか。ここまで大きな犠牲を払う必要があるほど、今回の「未来の理想」は大切だったのかは、疑問に思わざるを得ません

■「未来のための禁欲的闘争」は、一般生活者には魅力的には映らない
もちろん、何に価値を置くのかは人それぞれであり、それこそ私が大切にする「生き方の哲学」です。わたくしは、どっかの誰かさんみたいに、他人様に生き方の「指導」を行うつもりは決してありません。しかし、もっとスマートな闘い方がなければ、一般論として、「ちょっと闘ってみようかな」とは思えないでしょう。理想主義者にとっては、未来のための禁欲的闘争は美徳でしょうが、一般生活者にとってはそうではないというのは、歴史を振り返ってみても言えることです。

本件は見方を変えれば、「ブラック企業を相手にするということは、こんなにも苦労しなければならず、また、それでもまだ『巻き返される』リスクが完全には摘み取りきられていない」とも言えます。「泣き寝入り的であったとしても辞めたほうが早いんじゃないか? 人生楽しいんじゃないか?」と思ったとしても、それは無理ありません。

理想主義的労組活動家が、今回の電撃和解をうけて妙な方向に自信を持たないか懸念します。「大勝利的な和解だ」と、はしゃぐ清水委員長の言葉に強い懸念を持つものです。
posted by s19171107 at 19:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月22日

日本共産党議員の質問に見られるソ連・東欧型放漫経営の保険・損失補填理論

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-05-19/2017051904_01_1.html
>> 保険使わぬよう誘導
自動車事故時 大門氏が指摘

 日本共産党の大門実紀史議員は18日の参院財政金融委員会で、事故が発生しても自動車保険を使わないよう誘導する仕組みが作られているとして、「本当に顧客のニーズに沿っているのか」とただしました。

 大門氏が取り上げたのは、自動車保険の「事故あり等級制度」という仕組みです。事故を起こして保険金を受け取ると、その後の保険料が無事故の人に比べ割高になるため、損害額によっては保険を使わない方が有利に働くよう設計されています。

 大門氏は、十数万円の損害の場合、保険を使わずに自己負担で直した方が安くなるケースがあることを指摘。保険会社と契約者全体の関係でみれば、保険が使われなかった分だけ保険会社の利益になるとして、「『事故のない人』『事故を起こした人』を対立させながら結局、もうけたのは保険会社ではないか」と提起しました。


(以下略) <<
保険理論的なツッコミどころが満載の言説ですが、共産主義に関連する論点に絞るとすれば、「こんなこと言っているようでは、『日本共産党政権』の経済運営は、ソ連・東欧の二の舞になるぞ」と言えるでしょう。

自動車保険が保険である限りは、事故発生時に「使える」ものでなければならないのは当然です。しかし、いつも易々と損失を補填していては、いわゆるモラルハザードを引き起こします。保険というものは、個々人がそれに胡坐をかき、自主的な注意を怠ることがないように設計しなければなりません。みんながみんな「保険」にもたれ掛かり、注意力散漫になってしまっては、保険支払いは際限がなくなってしまうことでしょう。ソ連・東欧経済における放漫経営は、まさに「いつも易々と損失を補填してしまった」ことが一因であると指摘されています。

このことは、かつてであれば、「自己責任論だ!」と脊髄反射的な罵声が浴びせかけられたものですが、最近は左翼陣営にも少しずつ浸透しつつあるようです。たとえば、マルクス経済学者の松尾匡氏は、この厳然たる歴史的事実を認めた上で、新しい社会主義社会像・アソシエーション社会像においては、「リスク・決定・責任のバランスが重要」「リスクがかかる責任に応じた意思決定参加が必要」と指摘しています。

もっとも、内部留保論のときもそうでしたが、おそらく共産党側は、「保険のイロハ、経済の基本も分かっていない素人染みた言い分」という批判が高まれば、「保険料に『差をつけること自体』を批判しているのではなく、『差をつけすぎ』だといっているのだ」などと慌てて「程度の問題」に論点を修正することでしょう。

しかし、まさに内部留保論のときもそうだったように、「程度の問題」であるというのならば、具体的な数値を指摘する必要があります。内部留保論のときのような「たった1パーセント」といった言い分は、具体的な根拠のある数値ではないので通用しません。政策の専門家結社であるべき共産党は、「1パーセントなんて少ない! もっと巻き上げられるはずだ!」という革命的労働者階級の主張に対して、科学的根拠を与えるべきです。その点において、「たった1パーセント」などという根拠薄弱なる見積もりは、貧困に苦しむ人民大衆に対して無責任極まる「イイカゲンな仕事」であるという他ありません。

具体的な数値として指摘するにあたっては、保険数理的な分析に基づく政策提言が必要になります。まさしく「政権担当能力」。内部留保論を巡っては「たった1パーセント」といった曖昧な主張に逃げた共産党は、自動車保険料については、果たして具体的にどういった保険料設定を想定しているのでしょうか。ソ連・東欧型放漫経営に至るような「安易な損失補填」に過ぎないのではないかという疑いが拭いきれません

ちなみに、保険数理はあまりにも難解なので私には分かりません。現行の保険料設定について私は科学的根拠に基づく異議申し立てを行うことはできません。保険設計に係る「担当能力」は私にはありません。収入に対する保険料額については、自動車保険に限らず、年金保険や健康保険などについても少々思うところはありますが、保険料額はリスクに対して設定されているものだし、私にはオルタナティブを提案できない以上は、現行の保険料額を受け入れるほかないと思っています。一応動作しているシステムを素人考えでイジクるようなことはすべきではありません。
posted by s19171107 at 22:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月16日

実践の拠り所になる規則・型のない所に「何が適切なのかを考え、行動する力」は育たない

http://www.asahi.com/articles/ASK596T58K59UTIL04Z.html
>> 地毛証明書、必要か 生徒のため?プライバシー侵害?
土居新平、峯俊一平

2017年5月15日07時35分

 「地毛証明書」は生徒のためか、プライバシーの侵害か――。東京の都立高の約6割が導入しているこの制度について、都立高を所管する東京都教育委員会の堀川勝史・主任指導主事(生活指導担当)と、批判的な山梨学院大の荒牧重人教授(子ども法)に話を聞いた。(土居新平、峯俊一平)


(以下略) <<
■十分に練られた都教委主任指導主事のコメント
地毛証明書の件です。都教委の堀川主任指導主事のコメントの詳細は紙面・記事をご確認いただくとして、要旨としては、「調査はあくまで依頼のものであり、回答は任意」「『黒髪直毛』を指導の基準としているのではなく、『生まれながら頭髪』で高校生活を送れるようにするための措置」といったところです。さすが東京都の役人だけあって「十分に練られているな」という感想です。

■悪い意味で教育専門家的な、妥協点を知らない愚劣極まる「理想主義」
他方で山梨学院大の荒牧重人教授のコメント。聞き手(朝日新聞記者)の「学校側は誤った指導を防ぐための措置と説明している」「都教委は規範意識を前面に出した生活指導を実施している」といった質問に対する応答は、5月6日づけ「「不合理なルールを変えて多様性を実現する」を単なる「何でもあり」にしないために」での弁護士センセーのコメントと大差ないレベルで「目新しさ」に乏しいものでしたが、「染めているのに『地毛だ』と言い張る生徒・保護者もおり、『ウソをついたもの勝ちになる』という指摘がある」という質問(擁護志向の甘めな質問を想定していましたが意外と突っ込んでいますね)への回答が見所。悪い意味で「教育専門家だなあ」と言わざるを得ない言説でした。引用しましょう。
>> ―-染めているのに地毛と言い張る生徒や保護者もいて、証明書が無ければ「ウソをついたもの勝ちになる」という声もある
「現場の状況は重々承知している。ただ、現実が厳しいからといって、本来の教育を放棄していいのか。証明書を要求して子どもを管理するのではなく、生徒自身が何が適切なのかを考え、行動する力を身につけさせる指導が必要だ。
(以下略) <<
遥か昔、お左翼連中と繰り広げた教育論議を思い出します・・・自分が思い描く「理想像」を絶対視するものの、理想的教育論の非現実的性を突きつけられるや否や「本来の教育」なるものを持ち出して観念世界に逃げ込む・・・「教育専門家」に限らず、ある種の「理想」を掲げる人たちの悪い癖です。

「理想を掲げるな」などというつもりは毛頭ありません(私のチュチェ思想支持の立場なんて荒牧教授以上の夢想家ですよねw)。しかし、理想は明日明後日に実現するものではないが、日々の生活は連綿と続くものです。「生徒自身が何が適切なのかを考え、行動する力を身につけさせる指導」というのは崇高なる理想的な教育のあり方だと私も思いますが、一朝一夕に実現されるものではありません。「今日の現実」と「明日の理想」との妥協点を探り、双方の立場に配慮しながら、折り合いをつけながら社会は運営してゆくものです。その点、都教委の指導は、以前にも述べましたが、私は、地毛証明書は「時代の進歩」を示していると見ています。都教委はギリギリの妥協点を探り当てたと言えます。「本来の教育」などという判然としないものを持ち出すのではなく、ギリギリの妥協点を積み重ねることによって時代を前進させているのです。

現実との妥協点・折り合いをつけようとしない方法論は、工夫次第で実現できないこともない領域までも殺してしまう愚劣極まる方法論です。そしてそれが実現され得ないことが見えてくるや否や「本来の教育」なる観念論に逃げ込んでいるのです。

■都教委は妥協点を探り当てた
そもそも、都教委は決して「本来の教育を放棄」してなどいません。「ぼくの かんがえた りそうの がっこう」しか最早アタマにない荒牧教授には見えてこないのかもしれませんが、都教委が「黒髪直毛」信者あるいは、単なる事なかれ主義者であれば、「地毛証明書」を制度化するはずがありません。通知の起案、決裁、生活指導教官への指示文書、依頼状の生徒・保護者への送付、生徒・保護者からの回収(時に催促)、機密管理・・・ちょっと考えただけで面倒くさい仕事であることが分かります。

「生活指導ちゃんとやってます!」というアリバイ作りに過ぎないのであれば、黒髪直毛を押し付けた方が遥かに楽です。しかし、実際には、面倒くさいことこの上ない地毛証明書の任意提出を求めている
のです。なんて生徒思いなのでしょう!

■「考える」ための最低限の材料・枠組みもない人たちへの過度な期待
荒牧教授は「証明書を要求して子どもを管理するのではなく、生徒自身が何が適切なのかを考え、行動する力を身につけさせる指導が必要」などとしますが、2点において質問に答えていません。第一に「染めているのに地毛と言い張る」のは生徒だけではなく保護者にもいるというのが聞き手の質問です。「生徒自身が」などと巧妙に応答内容を摩り替えています。

第二に、「生徒自身が何が適切なのかを考え、行動する力」というときの判断基準・行動基準はいったい何なのでしょうか。しばしば、伝統的な価値観に反対する手合いは、代々受け継がれてきた価値観を棄却する代替案として「自分の頭で考える」ということを掲げます。しかし、人間は思考の枠組みが何もないところで思索をめぐらせることは出来ません。そもそも、「考える」という行為は、頭の中にストックしてある知識や知恵を操作する行為であり、「考える」以前に、既存の思考のための枠組みを「知っている」ことが必要です。それは、たとえば科学知識であり、特に社会生活においては、約束事・規則です。

規則のないところに「何が適切なのかを考え、行動する力」は育ちません。「適切」という概念は、「不適切」という領域があり、それと対比することによって浮かびあがってくるものです。まず所与のものとして、適切と不適切との区別がなければならないのです。

「考える」ための最低限の材料・枠組みもない人たちに「自ら考えることによって善悪を判断させる」ことを期待するのは、実際には、「なんでもあり」をもたらすだけでしょう。

■毛主席に学べ!
まずは「型」を習得し、そしてそれを日々の生活の中で実践するようにすべきです。実践の中で特段の矛盾がなければ、それは「型」が客観的な法則に則ったものであると言いえるので、「型」の科学的正しさが証明されたといえます。他方で、実践の中で矛盾に突き当たるのであれば、それは「型」がもはや時代の法則に合致しないことが証明されたといえます。そのとき初めて、次の時代に合致した「型」を探るときなのです。

最後に、毛主席語録から引用したいと思います。観念論的な自称「教育専門家」は学習せよ!
>> 人的正确思想是从那里来的?是从天上掉下来的吗?不是。是自己头脑里固有的吗?不是。人的正确思想,只能从社会实践中来,只能从社会的生产斗争、阶级斗争和科学实验这三项实践中来。
  《人的正确思想是从那里来的?》(一九六三年五月),人民出版社版第一页

人間の正しい思想はどこからくるのか。天からふってくるのか。そうではない。もともと自分の頭のなかにあるのか。そうではない。人間の正しい思想は、社会的実践のなかからのみくるのであり、社会の生産闘争、階級闘争、科学実験というこの3つの実践のなかからのみくるのである。
「人間の正しい思想はどこからくるのか」(1963年5月)
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2017年05月14日

日本左翼のEU崇拝・EU幻想を崩したフランス大統領選挙での左翼票動向

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170510-00127274-diamond-int
>> マクロン勝利でフランスのポピュリズムは本当に失速するか
ダイヤモンド・オンライン 5/10(水) 6:00配信


(中略)

 ルペン候補の敗退は ポピュリズムの失速か?

 開票直後、速やかに敗北宣言したルペン候補は、最大野党の党首として活動することと、国民戦線の躍進を誓った。そのルペン候補に対し、欧州ポピュリズム政党の代表らは続々とエールを送っている。

 3月のオランダの議会選でポピュリズム政党である自由党が第一党の座を逃したことに続き、今回のフランス大統領選決選投票でもルペン候補が敗退したことを受け、ポピュリズム政党の失速と見る向きもある。しかし第1回投票では、グローバル化に反対するルペン候補、メランション候補だけでなく、反資本主義・共産主義のアルトー候補、ブトー候補、EU懐疑派であるデュポン・エニャン候補らの得票率を合わせると、ポピュリズム政党の得票率は全体の半数近くにまで達した。

 EUやドイツをはじめとする加盟国で今回の大統領選の結果が歓迎されていることには違いないが、有権者の約半分が反EU・反グローバル化を標榜する候補者に票を投じたことは、今後の懸念材料を改めて浮き彫りにした。

 このため、ポピュリズム政党に対する警戒感を弱めることは時期尚早と言っても過言ではない。特に英国のEU加盟継続の是非を巡る国民投票と比較すると、反EUを掲げるルペン候補に若年層(18歳〜24歳)からの支持が多かった点で明確な違いがあることは、重要な事実として認識すべきだろう。長期にわたる経済低迷や若年層の失業率が高止まりしていることによる鬱積した不満が、従来左派寄りの若年層を極右にシフトさせた原因と言われている。


(以下略) <<
日本の「お左翼」連中のEU崇拝は度が過ぎたものがあります。EUなど所詮は、資本の利益を代表するための枠組みに過ぎないにもかかわらず、あたかも今のEUを守ってゆくことが、「多様性の保障」や「共生の世界」といった理念を生み出す母体であるかのように見なしています。

そんな馬鹿馬鹿しい幻想から、すべてのEU懐疑論を一緒くたにして「極右の思想」「開かれた社会・多様性の敵」といったレッテル貼ってきた「お左翼」連中。たまたまトランプ氏のような「アレ」な人が当然したアメリカ大統領選挙や、イギリスのように社会全体が成熟化しており左右対決があまり鮮明ではない国での国民投票のような「例外的ケース」が続いていたからこそ、馬脚が現れることはなかなかありませんでしたが、今回のフランス大統領選挙ではついに化けの皮が剥がれてしまいました

フランス共和国は、フランス革命を通じて近代民主主義の「第一人者」となり、そしてパリ・コミューンを筆頭に、さまざまな社会主義運動の牙城です。今も尚、右翼・左翼がハッキリしています。そんな「先進的」な国で、メランション氏を筆頭としたガチ左翼の候補者たちが、資本の利益を代表しているに過ぎない現在のEUの正体を見破り、そのあり方へのノンを主張し、そうした主張に労働者階級等から一定の支持が寄せられたのが、この大統領選挙でした。

アメリカ大統領選挙の民主党候補者指名レースで、「サンダース旋風」なるものを実態以上にフレームアップしていた――たしかにアメリカで自称社会主義者が生き残るのは画期的ではあります――ときと異なり、今回のフランス大統領選挙での「EU懐疑論の立場から左翼が伸びている」という画期的な出来事は、サンダース旋風をあれだけ持ち上げたのだから報じてもいいものですが、いわゆる「リベラル」の論調ではあまり報じられていません。EU懐疑論=極右の思想=多様性の敵という従来のストーリーを突き崩すファクトだからでしょうか? ダイヤモンドのような論調(もっとも、ここの論調は元来、記事・記者によって千差万別で統一性に欠けていますが)が、「ポピュリズム」というレッテルを貼っているくらいのものです。

敗れたとはいえ、EUの正体を見破り、その認識を一定の範囲に広めることに成功したことを証明したフランスの左翼諸氏、馬鹿馬鹿しい幻想が崩された日本の「お左翼」連中。フランス大統領選挙から明らかになりました。
posted by s19171107 at 22:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月08日

朝中両国が「血の同盟」だったなどというのは、いまだかつて一度もない

デタラメの極みという他ありません。
https://news.yahoo.co.jp/feature/597
>> 緊迫の朝鮮半島 中国は何を考えているのか

5/8(月) 10:34 配信

北朝鮮情勢が緊迫度を増している。米国・トランプ政権は、米空母や原潜を半島近海に送り込みながら、北朝鮮に対する中国の「影響力」に期待をかける。だが、中国が本当に北朝鮮に「圧力」をかけるのかどうか、疑う見方もある。中国にとって北朝鮮はどのような存在で、両国の関係は本当のところ、どうなっているのか。中国出身の専門家の話から、中国が今後どう行動するのかを占った。
(ジャーナリスト・野嶋剛/Yahoo!ニュース 特集編集部)

中朝「血の同盟」という神話は終わった
沈志華・華東師範大学終身教授

いま中国で最も注目される北朝鮮専門家の沈志華氏に、親密にも見える中国と北朝鮮の関係が実は対立や敵意に満ちている実情を語ってもらった。

北朝鮮と中国との間に、朝鮮戦争で共に戦ったことで「血で結ばれた同盟(血盟)」という呼び方がありますが、この種の親密な中朝関係が現在まで続いている、というのは事実ではありません。

しかし、中国の指導部や中国社会では、人々の脳裏にそうしたイメージが存在し、いまも「血盟」があると思い込んでいるのです。私の著書『最後の〜』の執筆目的はこの「神話」の解体であり、「血盟」と形容されるような中朝関係は冷戦の終結でとっくに終わっていることを証明するためでした。

中国の毛沢東時代、北朝鮮の指導者・金日成(キム・イルソン)との関係は良好でしたが、中国の人々が想像しているほどではありません。毛沢東は、中国の中央王朝が朝鮮を管理する「天朝」的な考え方を持っていました。望むものは何でも与えよう、人が欲しいなら人を、土地が欲しいなら土地を与える。だが、お前は私の臣下だ、というものです。

金日成は内心、独立と自主を望んでいましたが、現実は中国の支援に依存するしかなく、北朝鮮は抑え込まれていました。1970年代に金日成が韓国に攻め込む計画を立てた時も、毛沢東は同意しませんでした。

しかし、中ソ対立の時代になり、北朝鮮には中ソと距離をとりながら付き合う外交手段が生まれ、中国の力を借りてソ連に対抗したり、ソ連の力を借りて中国に対抗したりしました。毛沢東の死後、中朝関係は一気に弱まりました。


(以下略) <<
■朝中両国が「血の同盟」だったなどというのは、いまだかつて一度もない
中朝「血の同盟」という神話は終わった」――もともとの中国共産党学者への取材メモの全容が分からないので正確・断定的なことは言えませんが、ヤフーニュース編集部の「取材メモ切り・貼り」のイイカゲンさの「賜物」かと思われます。朝鮮労働党の視点から朝中関係を振り返れば、朝中両国が「血の同盟」だったなどというのは「乾杯の挨拶」程度のリップサービス。そんなことは、いまだかつて一度もありませんでした。

記事中、「金日成は内心、独立と自主を望んでいましたが、現実は中国の支援に依存するしかなく、北朝鮮は抑え込まれていました。」というくだりがありますが、とんでもないデタラメです。たとえば八月宗派事件(1956年)朝鮮国内で要職に就いていた「毛沢東のお気に入り」(いわゆる「延安派」=中国共産党内での活動経験があり、第二次大戦後に朝鮮に帰国した朝鮮人共産主義者)のほとんどが逮捕・投獄され、主たる面々――毛沢東個人とも面識があったことでしょう――が処刑ないしは「消息不明」になった一幕がありました。

■毛沢東のお気に入りを逮捕・投獄・処刑し尽くした朝鮮政府
八月宗派事件は、ウィキペディアでも概略が記載されているほど基本的な歴史的事実です。1956年2月のフルシチョフの「スターリン批判」以降、朝鮮では、この機に乗じてキムイルソン首相(当時。1972年以降は主席)を追い落とそうとする動きが展開されました。中国共産党のバックアップをうけた延安派や、ソ連共産党のバックアップをうけたソ連派(ソ連共産党員として活動経験があり、第二次大戦後に朝鮮に帰国した朝鮮人共産主義者。一部は1950年代になっても朝ソの二重国籍だった者もいた)といった人々によるものです。1956年8月の党会議を舞台に展開された陰謀は、結果的に完全に失敗し、延安派・ソ連派が逆に失脚したのですが、このとき、ウィキペディア「8月宗派事件」の項の「延安派で駐ソ大使の李相朝がソ連共産党中央委員会に全体会議の顛末を報告し、金日成の個人崇拝を断罪するよう求めたため、ソ連・中国が共同して異例の内政干渉を行うこととなった。翌月、ソ連の第一副首相アナスタス・ミコヤンと中国の国防部長彭徳懐が朝鮮民主主義人民共和国を訪問し、再度全体会議を開催させ、8月の全体会議で党籍を剥奪されたソ連派・延安派の除名処分を撤回させた。」というくだりにもあるように、中ソ両国が政治的に介入してきたのです。

このウィキペディアの記述についてもう少し詳細に解説すれば、八月宗派事件に際する延安派粛清について毛沢東は殊のほか立腹し、キムイルソン首相を解任すべきだと声高に主張した(他国の最高指導者に対して何と言う物言い! 何様のつもりなのか?)そうです。それを受けて訪朝したミコヤン・彭一行(中ソ合同の内政干渉グループ)でしたが、ピョンヤンにつくなり、キムイルソン首相が朝鮮の党と政府を完全に掌握しており、代替となり得る実力者が不在であるという事実を突きつけられ、やむなく「除名した延安派・ソ連派の復帰」を要請するしかなかったのです。

この要請に対して、キムイルソン首相は、朝中ソの外交関係を慎重に勘案した結果、これを受け入れることにしました。しかし、その後の中ソ両国の政治環境の変化、具体的には「スターリン批判」がハンガリー(ハンガリー事件)やポーランド(ポズナン暴動)で反ソ反共運動に発展したことを受けての「軌道修正」(ハンガリー事件は1956年10月、ポズナン暴動の収拾の一環としてポーランドの党第一書記にゴムウカが復帰したのも1956年10月)に基づく両国の姿勢の変化を機敏に捉え、改めての粛清を敢行。朝鮮国内で要職に就いていた延安派・ソ連派のほとんどが逮捕・投獄され、主たる面々が「消息不明」になったのでした。

■チュチェ思想の「チュチェ」の意味は「反中国・反ソビエト」
そして、中ソ両国の直接的影響下にある反対派を粛清したキムイルソン首相は、1960年までに、いまもなお国是である「チュチェ思想」を提唱したのでした。チュチェ思想はもともと1930年以来、首相が暖め続けてきた思想体系ですが、この時期に行われたチュチェ思想を体系的思想として提唱する最初期の演説は、「ソ連式でも中国式でもない、我々式をつくる時期にきた」とまで述べていらっしゃいます。チュチェ思想の「チュチェ」は漢字で書くと「主体」ですが、まさしく「反中国・反ソビエト」という意味での「主体」なのです。

果たして、朝鮮戦争を経て「血の同盟」を結んだというのであれば、朝中両国が停戦からたった数年で、こんな緊張感あるやりとりをするでしょうか?

■最高尊厳を罵倒した紅衛兵――血盟同士ならこんなことはあり得ない
1960年代、中国では文化大革命の嵐が吹き荒れましたが、このときも朝中両国は緊張関係になりました。ことの発端は、紅衛兵の大字報(壁新聞)。キムイルソン首相の出自を持ち出して、ブルジョア修正主義者であると言わんばかりの罵詈雑言を浴びせかけました。果たして、朝鮮戦争を経て「血の同盟」を結んだというのであれば、「正統」を何よりも重視する「東アジア儒教文化圏に位置する、科学的に正しく間違っているはずがない社会主義の党」同士が、このような論調を展開するでしょうか

■日本世論が「思い込みの塊」であることが明々白々になった
以前から指摘していることですが、「イメージ」とは決定的に異なり、朝中関係は「血盟」だったことなどありませんあくまでドライな独立国同士の関係です。日本人は、日米関係、あるいはソ連−東欧諸国間における「親分・子分関係」が、朝中間においても横たわっていると「思い込んでいる」のではないでしょうか? 自分たちがアメリカに頭が上がらない属国だからと言って、また、東欧諸国がソ連に対してまったく頭が上がらない関係性にあったからといって、朝鮮−中国関係においても同じ構造だという保障は何処にもないのです。

※なお蛇足的ですが、中国共産党が国際共産主義運動で「親分」だったケースは、実はほとんどありません。カンボジアのポル・ポト政権と、アルバニアのエンヴェル・ホッジャ政権くらいしかシンパと言えるような国はなく、ほかには、センデロ・ルミノソのような共産主義標榜テロ集団や、西側の怪しげなヒッピー集団くらいにしか影響力はありませんでした。国際共産主義運動において中国共産党は「親分」としての度量はなかったのです。

おそらくヤフーニュース編集部は、「キムジョンウン政権の暴走に加えて、トランプ政権の強硬策を受けて、ついに中国指導部は北朝鮮を斬り捨てる動きを鮮明にさせた。北朝鮮の孤立化が進んでいる!!」という、日本人好みの「北朝鮮孤立」のストーリーの一環として、この記事を書きたてたのでしょう。しかし、朝中関係はいまだかつて一度も「血盟」(蜜月)だったことなどないのです。それでもなお、朝鮮労働党政権はまったくをもって磐石なのです。

トランプ政権の「圧力」を筆頭とする昨今の情勢など、1950年代の朝鮮政府の立ち位置に比べれば何てことありません。アメリカと戦火を交えたのはたった数年前、中・ソという「社会主義陣営の雄」を両方とも敵に回しても生き残ったのです。いまの朝鮮を巡る状況は、まもなく南に「親北派」政権が生まれる公算が大きく、ロシアも擁護の姿勢を示しています。そして何よりも、アメリカでさえ水面下で朝鮮政府と交渉を展開しつつあるのです。

「米朝協議といっても、アメリカ側はあくまで『元政府高官の民間人』に過ぎない!」と強弁するかもしれません。しかし、つい先週頃まで、まことしやかに「斬首作戦」が取り沙汰されていたのに比べれば、まったくをもっての「急展開」です。「斬首」が本当に展開されると思い込んでいた日本世論にとっては衝撃的な一報だったことでしょう(本件記事は、取材してしまった手前、急には引っ込められなかったのでしょうか?笑)。

もっとも、「アメリカは本気で政権転覆を目指していない」というのは以前から指摘されていましたし、米政府関係者も「体制転換など目指していない」と言明していました。それでもなお、まことしやかに「斬首作戦」を語っていた日本世論が、いかに軽薄、いかに妄想に満ちていたのかが白日の下に晒されています。

およそあらゆる分析が、ことごとく的を外しているのが、日本の「朝鮮半島情勢分析」なのです。
posted by s19171107 at 21:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月06日

「不合理なルールを変えて多様性を実現する」を単なる「何でもあり」にしないために

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170430-00000058-asahi-soci
>> 「地毛証明書」、都立高の6割で 幼児期の写真を要求も

朝日新聞デジタル 4/30(日) 21:39配信


(中略)

 東京の都立高校の約6割が、生徒が髪の毛を染めたりパーマをかけたりしていないか、生まれつきの髪かを見分けるため、一部の生徒から入学時に「地毛証明書」を提出させていることがわかった。勘違いによる指導を防ぐ狙いがあるが、裏付けのために幼児期の写真を出させる例もあり、専門家から疑問視する声もある。

(中略)

 「地毛証明書」「頭髪についての申請書」など呼び方や書式は各校で違うが、多くは保護者が「髪の色が栗毛色」「縮れ毛である」などと記入、押印する形。保護者も参加する入学前の説明会で染色やパーマが疑われる生徒に声をかけ、用紙を渡す例もある。1校当たり年間数人から数十人が提出している。今年度から導入する学校もある。

 多くの都立高は校則で髪の染色やパーマを禁止する。世田谷区の都立高の担当教諭は「染めているのに地毛だと言い張る生徒もいる。保護者の責任で証明してもらう」と話す。背景には、生徒とのトラブルを防ぐほか、私立高との競争が激しく、生活指導をきちんとしていることを保護者や生徒にアピールするねらいもある。

 東京都教育委員会の堀川勝史主任指導主事(生活指導担当)は証明書について「間違って指導し、生徒に嫌な思いをさせないための方法としてはあり得る」とする一方、写真については「学校長の判断だが、写真は個人情報であり人権上の配慮がより必要だ」と語る。


最終更新:5/1(月) 13:24 <<
■ルールと多様性を両立しようとする歴史の進歩
昔であれば「明るい色の髪の毛」は、問答無用で指導の対象だったものですが、きちんとした手続きを踏んで「地毛証明書」を発行してもらえれば、指導の対象から外れる時代になったようです。昔は、生まれつき茶髪の子は、誰の責任でもないのに頭ごなしに否定されて可哀想なものでしたが、頭ごなしの統制の時代から本人の事情を汲む時代へ。進歩です。

この一件、私なんかは「ルールと多様性を両立しようとする歴史の進歩の一例」と好意的にみたのですが、弁護士センセーは事件にしたいようです。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170506-00006057-bengocom-soci
>> 都立高の6割で「地毛証明書」提出させる…弁護士「不合理な差別を助長している」

弁護士ドットコム 5/6(土) 9:09配信

東京の都立高校の約6割が、髪を染めたり、パーマをかけていないかを調べるため、一部の生徒から入学時に「地毛証明書」を提出させていることが朝日新聞で報じられ、ネット大きな話題になった。


(中略)

このニュースに対して、ネットでは、「人権侵害ではないか」などの声が噴出している。これまでも、地毛が茶色い学生や、天然パーマの学生が、学校の指導で不快な思いをしたという体験談は数多く聞かれる

地毛証明書を提出させることに、どんな問題があると考えられるのか。高島惇弁護士に聞いた。

●茶髪や縮毛を問題視する風潮自体に合理的な理由がない


(中略)

なぜ地毛証明書の提出を求めるようになったのか。

「服装や毛髪の乱れは問題行動に繋がる傾向があるとして、入学時から規制していきたいという生徒指導側の強い要望があります。

また、判例上も、生徒の服装や毛髪を規律する校則については、教育を目的として定められたものであって、社会通念上の合理性を有している場合には適法と判断される傾向があるため、毛髪等に関する規制はほぼ無条件に許容されるという誤った考えが、現場で浸透していった側面も否定できません。

しかし、生まれつき栗毛や縮毛の生徒はどの地域にも一定数存在するものであって、そのような生徒に対して黒髪を強要することは、不合理な差別であると言わざるを得ません」

そうであれば、地毛証明書の提出を一律に促すことは、違法といえるのか。

「学校が、『黒髪直毛以外の生徒は学校の秩序を乱すおそれがある』という偏見に基づいている疑いを否定できず、不合理な差別を助長するとして、違法と評価される可能性は十分あります。

毛髪の問題は、日本人の髪がほぼ黒一色という事情から出てくるのかもしれません。

しかし、本来生徒の服装や髪型は、個人のライフスタイルに関わるものであって、茶髪や縮毛を問題視する風潮自体、そこまで合理的な理由がないでしょう。

一昔前に問題視されていた丸刈りについても、今では丸刈り校則を維持する学校がほとんどなくなったように、いずれは茶髪や縮毛に関する規律も緩やかになっていくのではないでしょうか」

最終更新:5/6(土) 10:16
<<
■自由市場擁護論に現れている多様性を極めて尊重する私の立場
この問題は、「多様性」という最近話題の論点に発展しやすいと思われるので、まず最初に私の立場を鮮明にしておきたいと思います。

私は「多様性」を極めて尊重する立場です。たとえば私は以前から「ライフスタイルの自主性・多様性」という観点から、自由な市場経済の本旨を「個人の選択肢の多様性」であると定義し、それを積極的に擁護してきました。

すこし詳しく理屈を述べておきましょう。人間は、財貨の消費活動によって多様な人格を開花させ、自己実現を図ります(絵の具を使って絵を描いたり、楽器を使って音楽活動を展開したり、新鮮な食材をつかって食生活を豊かにしたり・・・)。個性に豊んだ方法で自己実現を果たすためには、消費手段としての財貨の種類は豊富であるべきだし、多様な消費手段を消費者が自由に買い付け、利用できる状態にする必要があります。市場は人々が消費手段としての財貨を入手する主要な経路です。そうである以上は、多様な人格を開花させ、自己実現を図るにあたっては「消費活動の自由」、すなわち「買い付けの自由」が必要です。それは換言すれば「品揃えの豊かさ」であり、つまるところ「供給の自由」が必要になります。

そうした立場から私は、代表的には以下の記事を公開してきました。
チュチェ102(2013)年12月22日づけ「市場競争の効用は「効率性」よりも「多様性」
チュチェ104(2015)年10月5日づけ「図書館指定管理者制度の本旨は「多様性」
チュチェ105(2016)年12月5日づけ「小うるさい「職人」と棲み分けできる市場経済で本当に良かった!

■多様性は「何でもあり」ではない
他方で、多様性は「何でもあり」とも異なります。その視点から規制のあり方についても述べています。私は可能な限り多様性の余地を確保したいので、以下の通り、「棲み分け」という方法論を展開していますが、これは取りも直さず、一つの空間であまりにも価値観が混在しすぎている「何でもあり」状態では、本当の意味での多様性は実現されないということです。多様性は一定の枠組み、ルールがあってこそ成り立つものなのです。枠組みなき「多様性」は無政府状態です。
チュチェ105(2016)年7月31日づけ「棲み分け原理と価値観の多様性――自由主義的な人間関係の基礎
チュチェ105(2016)年1月15日づけ「「生産過程における厳格な規制」と「流通過程における最小限の規制」――自由交換経済の真の優越性を踏まえた規制

■事件にしたい弁護士センセーの誤読?
さて、私の基本的立場――多様性は最大限認めるべきだが、一定の枠組みが大前提――を述べた上で、『弁護士ドットコム』の記事に目を移しましょう。朝日新聞報道と照らすに、『弁護士ドットコム』の記事は全体的に事実認識が誤っており、それを前提として論じているような気がしてなりません。

高島弁護士は、「生まれつき栗毛や縮毛の生徒はどの地域にも一定数存在するものであって、そのような生徒に対して黒髪を強要することは、不合理な差別であると言わざるを得ません」といいますが、朝日記事では、世田谷区内に立地する都立高校教諭のインタビューの背景として「生徒とのトラブルを防ぐ」と指摘しています。また、都教委の堀川氏の「間違って指導し、生徒に嫌な思いをさせないための方法としてはあり得る」というコメントを掲載しています。つまり、多くの都立高校で行われている「地毛証明書」は、「生まれつき栗毛や縮毛の生徒はどの地域にも一定数存在する」からこそ、校則違反の染髪と区別し、生まれつき明るい髪色をしている生徒を守るために行っているのです。高島センセーは、いったい何を勘違いしているのでしょうか?

■「禁則を敢えて破ってくるその人格」こそが問題視されている
また、「学校が、『黒髪直毛以外の生徒は学校の秩序を乱すおそれがある』という偏見に基づいている疑い」といいますが、これはまた表層的な分析です。染髪に関する校則の問題は、単に髪の毛の色が黒色か茶色かという表面的な問題ではなく、その核心は「禁則を敢えて破ってくるその人格」なのです。

※追記
ちなみに、「黒髪の生徒には『地毛証明書』の提出を求めず、明るい髪色の生徒だけを『狙い撃ち』的に『染髪容疑』を掛けるのは先入観であり差別だ!」「生まれつきでは茶髪なのに、ファッションとして黒髪に染めている生徒もいるだろう!」という意見もあるでしょう(びっくりするほど美しい黒髪の人っていますよねー 真似したくなりますよねー)。理想を言えば、全生徒に提出を要求したほうがよいでしょう。その意味では「地毛証明書提出制度は、徹底されていない」といえます(もっとやれーー)。しかし、これ以上、教育現場の負担を増やせないという現実的事情・事務省力化の切迫した必要性を踏まえれば、明るい髪色の生徒を「狙い撃ち」にして証明書提出を求めるのは、残念ながら現状では致し方ないとも思います。

■非合理なルールだからといって、一般には直ちに破ってよいわけではない
もちろん、「本来生徒の服装や髪型は、個人のライフスタイルに関わるものであって、茶髪や縮毛を問題視する風潮自体、そこまで合理的な理由がないでしょう。」という指摘は、たしかにその通りです。もっと踏み込んでいえば、高校生がタトゥー(刺青)を入れていようと「合理的」な反対理由はありません。タトゥーをしているからと言って必ずしも不良とは限らないでしょう。しかし、「こんなのには合理性はない」と思えたからといって、皆がそれを行動計画の前提的枠組みとして活用しているルールを勝手に破ってはいけません。それは「多様性」という言葉では正当化されないのです。

多様性は一定の枠組みがあって初めて成り立つものであり、枠組みのない多様性は無政府状態自己判断で勝手にルールを破ってはならないのです。その観点で以下の記事について考えてみたいと思います。
http://www.excite.co.jp/News/smadan/20170502/E1493691272331.html?_p=2
>> 『地毛証明書』が教育的に間違っている3つの理由【勝部元気のウェブ時評】

(中略)

■ 頭髪指導は教育ではなく大人による管理
そもそも、日本社会で発生する犯罪の中で、染毛している犯罪者はどれほどいるでしょうか? オレオレ詐欺をするグループも、痴漢の加害者も、会社のお金を横領する人も、政治資金規正法に違反する政治家も、児童買春する人も、皆染毛している人が多数派でしょうか? そんなことはありません。その多くが黒髪です。

本当に必要なことは、子供たちのために彼等が犯罪や社会悪に走るのを防ごうという視点であり、それを防止するための実践的な教育や倫理観の育成のはずです。ですが、生徒指導というのは、本質的なところには切り込まず、単に見た目ジャッジをして善か悪かを峻別しているだけ。

それは、結局のところ、「子供たちのことを考えていない」ということの表れのように思うのです。つまり、あくまで大人が描くあるべき高校生像を強要しているだけ。もはや「教育」ではなく、「管理」という表現が的確でしょう。


(中略)

■ ウワベの頭髪指導はブラック企業にも通じる
一方で、生徒指導を受けてルールを守った子供たちは何を学ぶのでしょうか? 彼等は決して、「非行に走らないこと」を学ぶわけではありません。あくまで「取り繕うことの重要性」「とりあえずパフォーマンスをしておけば良いというウワベを重視する社会に迎合すること」を学ぶのです。

これでは、空気は読むことや長い物には巻かれることに長けるだけで、適切な倫理観が習得できていないため、善悪の判断がつかないままです。「社会に出れば染毛は良くないことだから、高校生のうちから学ぶ必要があると思う」という反論を言う人もいると思いますが、それこそ「とにかくルールだから守らなければならない」という思考停止状態です。

このような思考停止に皆が陥ると、たとえトップが悪かろうが、「これがルールだから」という論理がまかり通ってしまうので、組織全体が毒されるということに繋がります。電通の過労死事件に見られるようなブラック企業の体質が日本でこれほど蔓延るのも、そのような「人権的に間違っているか否かよりもコミュニティ内のルールに従っているか否かが大事」という日本的秩序観が生んだ悲劇ではないでしょうか?


(以下略) <<
あくまで大人が描くあるべき高校生像を強要しているだけ。もはや「教育」ではなく、「管理」という表現が的確でしょう」というのはまったく正しい本質を突いた指摘です。しかし、「ウワベの頭髪指導はブラック企業にも通じる」などと、話の流れをブラック企業問題に接続させることは誤りです。「管理の受容・容認」は「思考停止状態」ではないし、ましてその対極は、「自己判断にもとづくプロセスを踏まないルール破り」ではありません「このルールはおかしい」という合理的思考は尊重すべきですが、「だから破っても良い」には必ずしも直結しません

■急迫なる生命の危険を巡る「緊急避難的ルール破り」と、髪色を巡る「校則破り」が同列であるわけがない
ブラック企業問題を筆頭とする労働問題を「自主権の問題」と位置づけ、その解決を目指して労働者階級の立場から論考してきた私からすると極めて不満が残る論理構成です。過労死問題と髪色指導問題を同列に語るとは、物事の「程度の差」というものが分かっていないと言わざるを得ません。

ブラック企業問題を筆頭とする労働問題は、資本家階級と労働者階級の力関係の問題であり、そして、資本家階級が一方的に押し付けてきた「規則」を巡る問題であるという点では、「大人による管理」と構造は類似していることは認めます。しかし、生命に関する急迫なる危険を避けるための「緊急避難的なルール破り」と、髪色を巡る「校則破り」ごときが同列であるわけがありません。また、そこまで酷くはないケースについても、明らかな違法状態であれば、「法律>就業規則」なのだから従う必要はありません(それこそ「法律という名のルールだから」で済む話です)が、企業の裁量に委ねられている部分については、いくら「資本家階級が一方的に押し付けてきた」といっても、はじめから破るのではなく、労使交渉・団体交渉といったプロセスを踏むべきです。

■およそあらゆるルールを「自己判断」で破ってもよいことになる理屈
緊急避難的なルール破りを基準に、それ以外の一般的規制を議論を展開するようでは、およそあらゆるルールは「自己判断」を理由に破ってもよいことになり、あっという間に無政府状態に陥ることでしょう。こんな理屈がまかり通るようになれば、それこそブラック企業問題においても「わが社の経営上、こんな『岩盤規制』は非合理だ」といったような理屈で何でもありになってしまうでしょう。

繰り返しになりますが、多様性は一定のルールがあってこそのものであり、ルールなき「多様性」は無政府状態に過ぎません。そして、「このルールはおかしい」という合理的思考は尊重すべきですが、「だから破っても良い」には必ずしも直結しないのです。


■髪色を巡っては、いまはまだ社会的コンセンサスが取れていない
『弁護士ドットコム』の記事に戻れば、「一昔前に問題視されていた丸刈りについても、今では丸刈り校則を維持する学校がほとんどなくなったように、いずれは茶髪や縮毛に関する規律も緩やかになっていくのではないでしょうか」といいますが、それはまさに社会的議論がまとまり、コンセンサスが取れてこその話。いまはまだ取れていません。社会的議論の場は作ってゆくべきで、人々の自主性を侵害するような「おかしな規制」は緩和してゆくべきですが、自己判断で勝手に破るべきではないのです。

■「不合理なルールを変えて多様性を実現する」を単なる「何でもあり」にしないために
最近、「多様性」という言葉を以って、さまざまなルール・常識を問い直そうとする動きが活発になってきました(朝日新聞や毎日新聞、東京新聞あたりはかなり積極的ですよね)。このこと自体は私は、社会の自主化を志向したものであり、好ましいものであると見ていますが、他方で、「多様性」ではなく「何でもあり」でしかない言説も増えつつあるように思います。そしてそうした言説は、往々にして「自分には規制の合理的理由付けが思いつかないから」レベルの短絡的な言い分に過ぎなかったりします。少し危険な臭いもします。

「自分には思いつかないから/理解できないから」と述べる人は「自分が馬鹿だから思いつかない/理解できない」という可能性には思いが至らないのでしょうか? 4月21日づけ「「一代限りの生前退位特例法」から見える漸進主義としての保守主義」で述べた「漸進主義としての保守主義」の観点は、ルールの改変に当たって持つべき心構えです。社会的議論は漸進主義的なプロセスの踏み方です。
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2017年05月04日

インチキ・ヨタ話には引っかからないような自立的判断力をつけさせることこそ重要

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170502-00000002-mai-soci
>> <「妊娠菌」付き米>ネットで高額売買 医学的根拠なし
毎日新聞 5/2(火) 7:30配信

 「女性が妊娠しやすくなる『妊娠菌』がついている」と称した白米がインターネットで売買されていることが分かった。「妊娠米」と名付けられて1合当たり最高1500円で出回るが、毎日新聞の取材で、出品者に妊娠経験がなかったり、購入者にサプリメントのカタログが送られたりする事例が確認された。「妊娠菌感染」に医学的根拠はなく、専門家は「不妊に悩む女性を冒とくする詐欺行為だ」と憤っている。【鳴海崇】


(中略)

◇悪質な商売、許せない

 吉村泰典・慶応大名誉教授(元日本産科婦人科学会理事長)の話 妊娠菌に科学的、医学的な効果があるはずもないし、少額でも詐欺と言っていいほど悪質な商売だ。不妊症や不育症に悩む女性は、わらをもつかむ思いで「妊娠や出産に良いことなら何でもやりたい」と考えがちだが、そうした人の弱みにつけ込む行為で絶対に許せない。崇高な妊娠について「菌が感染する」という表現をすること自体が非常に不謹慎。妊娠米は不衛生に扱われた恐れがあり、絶対口にすべきではない。

最終更新:5/2(火) 14:12
<<
本件、『週刊新潮』が既に2月に報じている内容ですが、ようやく全国紙でも取り上げられました。しかし、どうも詰めが甘い・・・

■それをいうなら「子宝神社」のほうが重大詐欺案件
藁をも掴む思いの人が、常人であればまず引っかからないようなトンデモを真に受けるというのは、決して珍しい話ではありません。それをビジネスチャンスとして、効用のないものを売りつけるのは、たしかに悪質です。「絶対に許せない」という怒りの声も理解できます。

しかしそれをいうなら、多くの人心を有史以来、ながく翻弄してきた「子宝神社」のほうが被害者数の点において遥かに悪質です。「子宝に恵まれるお守り」などという単なる紙切れ・板切れと「妊娠菌」なるものが着いているとされるコメとの間には、いったいどんな違いがあるというのでしょうか。「妊娠菌に科学的、医学的な効果があるはずもないし、少額でも詐欺と言っていいほど悪質な商売だ」という吉村名誉教授の指摘にピッタリ当てはまる「常習詐欺師」こそが、ほかでもない「子宝神社」なのであります。

「宗教法人格を持っている神社等が説く現世利益論」を相手にするのは骨が折れて面倒くさいから、とりあえず「新興ビジネス」を手っ取り早く標的にしたといったところでしょうか? まあ、"Мы раздуваем пожар мировой, Церкви и тюрьмы сравняем с землёй."と息巻いていたボリシェビキもついにそれを達成させることはできなかったのだから、大変なことであるのは間違いのないことです。しかし、そこに切り込まずして「不妊に悩む女性を冒とくする詐欺行為だ」というのは、詰めが甘いという他ありません

■インチキ・ヨタ話には引っかからないような自立的判断力をつけさせることこそ重要
「詐欺」とまで言った吉村名誉教授、そしてそれを記事の中核に据えた毎日新聞編集部。この文脈でいけば、「規制」という方向に話が進むのは必然的でしょう。薬事法に抵触する恐れがあるため、フリマサイトから削除され始めたそうです。

インチキ商品を規制するのは当然だとは思いますが、「消費者保護のための規制」だけで終わらせてはなりません。藁をも掴む思いの人であれば、「妊娠菌」でなくとも似たようなヨタ話に引っかかるからです。もしかすると、今回「妊娠菌つきコメ」を買い込んだ人物の中には、既に怪しい御札やら壺やらを買い込んだことのある人も居るかもしれません。「妊娠菌」を排除したところで、こういうものに引っかかる人は、すぐに似たような別のものに引っかかることでしょう。そのたびに「保護のための規制」をするというのであれば、その人の一挙手一投足を常に見守る必要が生じ、現実的ではありません

「藁をも掴む思い」の境遇だからと言って、インチキ・ヨタ話には引っかからないような判断力をつけさせる方向での支援、換言すれば、自立的に判断できる力を養う支援こそが、「インチキな出品を規制することによる消費者保護」以上に重要です。

詐欺的商売への対策では、「インチキな出品を規制することによる消費者保護」ばかりに目がいき、どうしてインチキ・ヨタ話に飛びつく消費者自身を変えようとしないのでしょうか? 「保護」を声高に主張する人たちは、もしかすると対象者を子ども扱いしているのかもしれません。「聡明な我々が科学的根拠に基づき、悪徳業者の魔の手から一般市民を守ってやる」といった「保護者意識」(いわゆる「前衛意識」と親和的です)が、何処かにあるのかもしれません。

私も実体験がありますが、「保護者意識」の高い人の中には、「自立とは『切り捨て』を体よく言い換えたに過ぎず、当人が被害にあっても『我関せず』といわんばかりの冷たい人間」と短絡的にレッテルを貼る人がいます。しかし、どんなケースでも漏らすことなく迅速・確実に「悪徳の芽」を摘むことなどできるはずもなく、実際の「保護者」は腰が重く、しばしば専門家でさえ判断を誤ることがあるのが実態この手の「保護者意識」は、ほかでもない「保護者」自身の無能さのせいで、当人の願望に反して実際には保護対象者を危険に晒しているのです。

悪徳の芽を摘んで一般市民を保護してやることも大切ですが、一般市民自身が真実を見極める目を持つことのほうが一層重要なことです。

「自立」は論点の多いテーマです。「他人からあれこれ指図・干渉されたくない」「自分の判断で決めたい」「いつまでも子ども扱いされたくない」といった自主的要求に基づく人間の自然な感情・欲求にも関わるし、「対象者の一挙手一投足を常に見守るなんて到底できこっない」という現実的な事情にも関わります。今後も考えを深めてゆく所存です。
タグ:社会
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2017年05月02日

産経の馬鹿っぽい中途半端な「保守論調」

http://www.sankei.com/column/news/170429/clm1704290002-n2.html
>> 2017.4.29 05:03更新
【主張】昭和の日 元号あればこその歴史だ


(中略)

 そのような新聞でさえ、事あるごとに「明治の…」「昭和の…」などと書いて時代の諸相に触れたりするのは、元号が利便性や合理性を超えて国民の日常に密着しているからにほかならない。

 日本の元号は西暦645年の「大化」に始まる。701年に「大宝」と改元されて後は、中断もなく現在まで継承されてきた。もともと中国由来の元号制度ではあるが、特筆すべきは、中国の威に屈する形で中国の元号を遵奉(じゅんぽう)し、自らの元号をほとんど建てられなかった周辺の多くの国とは異なり、わが国では独自の元号を使い続けてきた事実である。

 中国では既に失われ、今や日本にのみ存続している元号は、いわば国家独立の象徴でもあり、今後も大切に守っていきたい。

 天皇陛下の譲位を可能にする特例法の制定に向けて、議論もいよいよ大詰めの段階に入る。次の元号へ国民の関心もおのずと高まってこようか。元号とともに刻まれたこれまでの歴史を振り返り、併せて、まだ見ぬ元号と時代に思いをはせてみるのも意義あることに違いない。
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産経らしい、馬鹿っぽい論調です。

元号が利便性や合理性を超えて国民の日常に密着しているからにほかなら」ず、「今や日本にのみ存続している元号は、いわば国家独立の象徴でもあり、今後も大切に守っていきたい」というなら、いっそ皇紀表記にしてほしいものです。昭和と平成が入り混じり、もう間もなく次の元号が出てくるとなると、時系列の整理がしにくくて仕方ないわけです。

また、「国民の日常に密着している」とはいうものの、この手のモノは「皆が使っているから自分も使う」といった類のものですから、「せーのっ」で切り替えれば、わりとスムーズに替わるかもしれません。なんといっても、現代のデファクト・スタンダードたる「西暦」だって、つい150年前までは、ほとんど知られていなかったわけですから。

元号は、いわば国家独立の象徴」というのは、言われてみればそうかもしれません。もっとも、こんな使いにくい暦が長いことデファクト・スタンダードとして生き残ってきたのは「他の暦を知らなかった」だけであり、つまり「国家独立」というよりも「国家孤立」に過ぎないと思いますが。それゆえ、こんな「擁護」論は馬鹿丸出し。褒め殺しなんじゃないかと疑うレベルです。
posted by s19171107 at 23:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月30日

アメリカのミニットマン3発射実験こそが挑発行為

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170427-00000532-san-n_ame
>> トランプ政権 ICBM発射実験 太平洋へ約6800キロ飛行

産経新聞 4/27(木) 18:22配信

 【ワシントン支局】米国内の大陸間弾道ミサイル(ICBM)や戦略爆撃機などを一元管理・運用している米空軍グローバル攻撃司令部は26日未明、カリフォルニア州のバンデンバーグ空軍基地でICBM「ミニットマン3」の発射実験を実施した。司令部はホームページで「ミニットマン3の正確性と信頼性を確認した」としている。


(中略)

 核・ミサイル開発を続け、挑発行為を繰り返す北朝鮮に対し、弾道ミサイルの攻撃能力を示すことにより圧力を加える狙いがあるとみられる。

最終更新:4/27(木) 18:22
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弾道ミサイルの攻撃能力を示すことにより圧力を加える狙い」――ちょっとオカシイと思いませんか? 「アメリカが、そこまでしなければならない相手」なのでしょうか?

朝鮮は、空爆やミサイル攻撃に対しては50年以上にわたって備えを万全にしてきました。4大軍事路線における「全国要塞化」のプランにもとづき、空からの核攻撃を想定して主要な軍事施設を地下化し、それらを坑道で繋ぎました。地下要塞で万全の備えを固めている国に対して、弾道ミサイルをチラつかせるのは「圧力」になるのでしょうか?

朝鮮政府が恐れているのは、海軍力と協同した空軍力であり、そして地上軍の投入です。だからこそ、空母「カール・ビンソン」の接近に反応し、ソウルや在韓米軍基地を標的としていると思われる大規模火力演習を展開したのです。空母群をもう一群派遣するのであれば、それは「圧力」であるといえますが、弾道ミサイル発射実験ではそうは言えません

ではいったい、弾道ミサイル発射にはどういう意味があるのでしょうか?

第一に考えられるのは、「そもそも朝鮮半島情勢とは関係がない」ということです。すべてが単一のストーリーに従って展開されているわけではありません。別件でのミサイル発射が偶然重なったということも十分にあり得ます。

第二に考えられるのは、「アメリカこそが挑発している」ということです。「オレは弾道ミサイルでも核実験でも何でもOKだけど、オマエは、朝鮮人だからダメ」ということを見せ付けるために、わざとこのタイミングで、対朝鮮牽制としては必要性に乏しい弾道ミサイルをこれ見よがしに発射したという見立てです。「のび太のくせに生意気な!」の域を脱しない、極めて侮辱的・極めて挑発的な所業です。

もしそうであれば、「核実験あるいはICBM発射実験をしたらシリアのときみたいに攻撃するからな!」「攻撃してきたらソウルを火の海にするからな!」の「口先の合戦」で何となく膠着状態にあった朝鮮半島情勢に「燃料」を追加投入しているのが誰なのかが見えてくるでしょう。

こうしたアメリカの挑発に朝鮮は乗りませんでした。昨日発射したミサイルは、まだ分析途上(さすがに日米軍事当局者は解析を完了させているとは思いますが、少なくともまだ確定的には公表・報道されてはいないようです)のようですが、対艦ミサイルあるいは中距離弾道ミサイルだったようです。少なくともICBMではないようです。それも、朝鮮領内で落下しました。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170429-00000061-asahi-int
>> 新型の対艦ミサイルか 北朝鮮、米空母を牽制した可能性
朝日新聞デジタル 4/29(土) 21:08配信

 北朝鮮が29日午前5時半ごろ、西部の平安南道北倉(ピョンアンナムドプクチャン)付近から北東方向に弾道ミサイル1発を発射したものの、失敗したとみられると韓国軍合同参謀本部が発表した。ミサイルは数分間飛行して北朝鮮内に落下。最大高度は71キロで、空中で爆発したとの見方もある。

 ミサイルの種類や性能などははっきり確認されておらず、米韓などが分析している。米CNNなどは、空母など艦艇を狙う新型の対艦弾道ミサイル「KN17」と推定されると伝えた。15日の北朝鮮の軍事パレードの際もKN17とみられる機体が披露された。朝鮮半島近海に入った米原子力空母カールビンソン率いる空母打撃群を牽制(けんせい)し、米国の圧力に屈しないという意志を示した可能性もある。発射は、国連安全保障理事会が北朝鮮情勢について閣僚級会合を開いた直後だった。


(中略)

 弾道ミサイルに関し、米太平洋軍は「北朝鮮領域を出ていない」と分析。北米航空宇宙防衛司令部(NORAD)も「北朝鮮から発射されたミサイルは北米の脅威にはならない」との声明を出した。

最終更新:4/30(日) 0:24
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侮辱的なアメリカの挑発行為に直面しながらも、あくまで「自国防衛」「体制維持」、もっといえば「自分自身の生存」という至上目的に少しのブレのない朝鮮政府の原則論が貫かれたようです。キムジョンウン委員長の状況を読む眼はなかなかのものです。対するトランプ米大統領は・・・そういえばシリアに約60発の巡航ミサイルを撃ってから何かありましたっけ? まさか軍事行動も思いつき・・・?

だれが朝鮮半島の情勢緊迫化をあおっているのか・・・内政が思うようにいっていないトランプ政権の「困ったときの外患頼み」という見方が少しずつ広まりつつありますが、いい線行っているのかもしれません。
posted by s19171107 at 18:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月28日

ポプラ事件(板門店事件)が「北朝鮮の完敗」に見える産経新聞の表層的分析――戦略的目標を達成したのは誰だったのか

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170426-00000072-san-kr
>> 正恩氏、米のレッドライン読みあぐねる 本格挑発に踏み切らず

産経新聞 4/26(水) 7:55配信


(中略)

 北朝鮮は米国からの攻撃の危機にさらされたことがある。南北軍事境界線の板門店(パンムンジョム)で1976年8月、ポプラの木を勝手に伐採しようとした米将校2人を北朝鮮兵がおので殺害した「ポプラ事件」をめぐってだ。米軍は、戦略爆撃機や朝鮮半島沖に空母ミッドウェイを展開する臨戦態勢を取って伐採をやり遂げる。金日成(イルソン)主席は米側に「遺憾の意」を伝達。北朝鮮の“完敗”だった。「米国民の生命が脅かされれば、米国は軍事行動を辞さない」。これが北朝鮮が肝に銘じた教訓だったといわれる。

(以下略) <<
「左の『しんぶん赤旗』、右の『産経新聞』」。産経新聞のイイカゲンさは全方面的規模ですが、ことに国際情勢に関しては輪を掛けるものがあります。まあ、要するに「願望が強すぎ、現実を都合のよく歪めて解釈している」のが原因なんですけどね。

さて、引用部分。ポプラ事件(板門店事件)を取り上げています。曰く「北朝鮮の“完敗”だった」としています。ところがどっこい、つい先日の朝鮮中央通信は、まさに板門店事件を振り返り、これを勝利と位置づけています。
http://www.uriminzokkiri.com/index.php?ptype=igisa1&no=1132549
>>  우리 공화국은 보총과 원자탄의 대결이던 지난 1950년대 조선전쟁에서는 물론 1960년대 《푸에블로》호사건, 《EC-121》대형간첩비행기사건, 1970년대 판문점사건 그리고 조미핵대결전을 비롯하여 세기와 년대를 이어오며 자기의 힘으로 사회주의조국을 지키고 미국에 참패만을 안긴 영웅조선이다.

 최근년간에도 미국이 사상최악의 초강도위협과 야만적인 제재봉쇄책동에 매달렸지만 실패를 거듭하고 지친것은 제국주의자들이였으며 온갖 도전을 박차고 승리한것은 사회주의 우리 국가였다.

(拙訳;わが共和国は小銃と原子爆弾の対決であった、去る1950年代の朝鮮戦争ではもちろん、1960年代の「プエブロ」号事件、「EC−121」大型スパイ飛行機事件、1970年代の板門店事件、そして朝米核対決戦をはじめとして、世紀と年代を経て、自力で社会主義祖国を守り、米国に惨敗をもたらした英雄的な朝鮮である。近年においても、アメリカは史上最悪の超強度威嚇と野蛮な制裁・封鎖策動に執着したが、失敗を重ねて疲れたのは帝国主義者どもであり、あらゆる挑戦を退けて勝利したのは社会主義のわが国であった) <<
中学生レベルのメンタルであれば、板門店事件は「完敗」と映るのかもしれません。しかし、そもそも朝鮮側が何故、たかだか幾ばくかの本数の木々程度にこだわり、そしてそれを今も尚、勝利とみなしてたのでしょうか?

ウィキペディア程度の初歩的な情報量であっても、このことは見えてきます。あの事件の発端となったポプラの木は、もともと朝鮮側が植えたものでした。事件に関する朝鮮側の言い分としては「他人が植えたものを勝手に切るなよ!」であり、さらに突き詰めれば、真意レベルにおいては「そもそも非武装地帯で交戦国兵士どうしが入り混じっていることは異常だし、そこで通告なしに活動しないでくれ!」といったところでした。

そして、ウィキペディアにもあるとおり、「両陣営間で行われた会議によって、北朝鮮側の提案で、共同警備区域内にも軍事境界線を引いて両者の人員を隔離する事を決定した」・・・、いま振り返れば、ポプラの木自体は切り倒されてしまったものの、それはあくまでも、どうでもいい表層的な部分に過ぎず、朝鮮側の真意であった「念願の対米交渉のテーブルにアメリカ側を引きずり出す」という戦略的目標を達成したのに留まらず、真意レベルでの事件の動機を満たすことに成功したわけです。

たしかにキムイルソン主席は米軍の示威行動に対して「遺憾の意」を示しました。全力で肩入れした南ベトナムが北ベトナムに併合された上に、カンボジアやラオスまでもが共産化し、恐れていた「ドミノ理論」が現実のものになったばかりの「1976年8月18日」というタイミングで、人が死んだとはいえ軍事戦略的には「この程度の小競り合い」で、アメリカがこれほどまでの反応を示すのは少し過剰であり異常です。キムイルソン主席としては、「いくら東南アジアで負け続きとはいえ、こんなに過敏に反応するだなんてアメリカは頭がおかしくなったんじゃないか・・・」と思ったのではないでしょうか。そうであれば、そもそも体制維持こそが至上目的である朝鮮としては、「インパール作戦の国・日本」とは違って、戦略的に「遺憾の意」くらいは出すでしょう(ちなみに、「遺憾の意」に謝罪は含まれて居ません)。13日の記事でも書いたとおり、たしかにキムイルソン主席は情勢を見極めて「遺憾の意」を提示し戦争への発展を回避しましたが、錯乱状態といっても過言ではないアメリカの過剰・異常な振る舞いを見てのことだったのではないでしょうか。

中学生程度のメンタルだと「常勝・完勝」でなければ気がすまないものですが、大人の世界ではそんなことは二の次、泥臭かろうと目的を達成することこそが重要なのですよ。
posted by s19171107 at 21:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする