2013年02月28日

観点・立場

唯物弁証法って「相互関連性と変化」を教義にしていませんでしたっけ?
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2013-02-27/2013022706_01_1.html
>>> デフレの要因 わずか19品目
パソコン・ビデオレコーダー・家庭用ゲーム機…


 物価の持続的下落である「デフレ」がわずか19品目によって引き起こされていることが日本銀行の調査でわかりました。日本共産党の大門実紀史議員が20日の参院予算委員会で取り上げました。

 2011年度の消費者物価指数(生鮮食品を除く総合)は前年度比0・0%と横ばいでした。ただ09年度と10年度、2年連続で下落したために、低い水準にとどまっています。日銀の試算は、消費者物価指数が前年度比0・0%となるにあたってどの品目がどれくらいの影響を与えたのか(寄与度)を調べたものです。

 生鮮食品を除く総合指数の調査対象となる524品目のうち、消費者物価が前年度比10%以上下落したのは19品目でした。

 最も下落したのはパソコン(デスクトップ型)で前年度比39・0%の下落。以下、ビデオレコーダー、家庭用ゲーム機(携帯型)、電気洗濯機(洗濯乾燥機)、電気冷蔵庫、テレビなどが並びます。化粧品のファンデーション(高級品)など3品目以外はすべて家電やIT(情報通信)機器です。

 これらの中には高額な品目も含まれますが、すべての世帯が毎年買い替えるというものではありません。そのため消費者物価指数に占める割合(ウエート)は低くなります。ウエート合計1万のうちパソコンは10、ビデオレコーダーは14、テレビでも101で、19品目合計でも255にすぎません。それにもかかわらず、下落率が高いために19品目合計で消費者物価指数を0・6%押し下げました。

 下落率の高い19品目以外では、261品目が10%未満の下落です。58品目が前年度並み、186品目が上昇しました。品目数が多いため、ウエートは9745を占めます。これらの505品目によって消費者物価指数が0・6%押し上げられました。

 一部の家電やIT機器によって消費者物価が下落していることが「デフレ」の要因です。日常生活に身近な品目は、価格は下がっておらず、むしろ上がっているものもたくさんあります。

 物価上昇は国民生活を直撃します。このようなときだからこそ、政府は「物価上昇目標」ではなく「賃上げ目標」を持つことが必要です。なによりも消費税増税を中止することが求められています。
<<<.
たしかに家電やIT機器は尋常ならざる下げ幅ですが、しかし、自ら述べているように、問題の19品目を除外しても僅かに+0.6%じゃないですか。CPIは少しインフレ気味に値を出す傾向にあるので、まだ「デフレ脱却」と断じることができるか微妙でしょう。また、そもそもデフレの議論に際して単年度の資料だけでは不足です。統計資料を数年単位で見ると、2011年度のような例外的な年もあるにせよ幅広い品目において傾向として価格が下がりつづけており、物価水準の足を引っ張っているのです。感情屋のように都合のいい情報に飛びつくべきではありません。まあ、これは政府の2月の月例経済報告にも言えることですが。

さらに言えば、統計数値だけを見ると特定の19品目だけがデフレの原因のように見えるかもしれませんが、諸産業は連関しているのですから、「コレさえなければ。。。」という話にはならないでしょう。記事中、槍玉に挙げられている19品目以外にも、261品目が下げていることを自ら指摘していますが、それら261品目も19品目を「アシスト」する形でデフレ化の一因になっている可能性はありますし、価格が上がった186品目ですら、デフレに作用していることもありうるでしょう。たとえば燃料等の価格の上昇がある種の財への需要を減らし、価格の低下をもたらすといったように。デフレは総合的・構造的なものであり、一部の家電やIT機器によって消費者物価が下落していることが「デフレ」の要因という書き方はミスリードを誘います

でも、そんなことよりも重大なのは、下げている品目が軒並み、日本経済にとって重要なものばかりであるにもかかわらず、その辺にあまり触れられておらず、無邪気に賃上げを主張しているところです。苦戦している本当に如何でもいい産業で、主要産業は好調だというのならまだしも、これからの日本を引っ張って行こうかという「稼ぎ頭」が苦戦しているのです。おもな要因は陳腐化だと思いますけど、陳腐化ということは環境の変化が激しいということです。そんななかで、「生活必需品の価格はむしろ上昇している! だから賃上げせよ!」などとデマンド・サイドへのテコ入れを主張されても、一面においては正しい主張ですが、経済が円環状の因果関係をもつ相互依存システムである以上、それを支えるサプライ・サイドのテコ入れもまた同時並行的に必要とされます。しかし、それについては例によって触れられていません。純粋な消費者の観点・立場から見れば正しいんでしょうけど、総合的には難しい注文です。価格上昇品目についても「コストプッシュ・インフレ」である推定されるものが多く、やはり難しい注文です。

いや、SAABを「見殺し」にしたスウェーデン(参考)のように、ドライな立場に転向したというのなら、それはそれで結構な話(それくらいのサプライ・サイド政策も必要かもしれません)ですし、製造業をあきらめて金融立国にするというのなら、まあそれも選択肢の一つかと思いますが、普段の発言を総合するに、そんなことはなさそうです。労働価値説を有難がっている人たちが「金融立国」はないでしょう。

共産党は数多ある政党の中でも観点・立場を明確にしている政党であると認識しています。しかし、経済というものは以前から繰り返し述べているように、円環状の因果関係が張り巡らされている相互依存システムです。参議院ウェブページにアップされている大門氏の質問ムービーを見る限り、「賃上げ⇒デフレ脱却(=インフレ)」で思考回路が固定化されているようでしたが、実態は「相互作用」なのです。それゆえ、特定の観点・立場に固定化するのは、どんなんなのかと思う次第です。

その点、安倍首相の認識は共産党よりは少しはマシかなと思います。大門氏の「賃上げ」質問に対して「CPIの約50%のウェイトを占めるのはサービスの価格だ。日本においては横ばいor下降傾向。物価安定目標を2〜3%にするには、サービス労働の価格をあげ、賃金アップに資するようにしてゆくことが望ましいのではないかと思う」(要旨)と答えました。でもこれ何故か、『赤旗』記事では何故かバッサリとカットされているんですよね。大門氏も「サービス業は労働集約的だから、その価格を上げることは賃上げであり、その点では首相と一致がある」(要旨)みたいなこと言っていたのに。
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2013年02月24日

「感情屋」に対する保守主義的アプローチ

昨日の記事に関連して。

ここ最近、法律・司法関係の話題を、世論と結びつけながら考えなおしています。およそ3年ぶりの営みなので、「リハビリ」も兼ねて。その過程で、昔よく読んでいたウェブページを再巡回しているんですが、良くも悪くも「昔のまま」ですね。「〜法xx条では…と定義されているので、この事件に死刑は適用できませんよ」みたいな。

私も昔よくやりました。やったからこその自己批判という視点から一言申し上げれば、「たしかにそのとおりだけれども、「じゃあ法律を変えるべきだ!」という展開になったらどうするんだろう?」と思うのであります。

昨今のいわゆる「世論」、甚だしくは「感情屋」の主張は、現行法の基本的枠組みを飛び越えたモノであることが少なくありません。それゆえ、裁判の運営ルール上の問題として、そういった内容に沿った判決を出すことは不可能です。罪刑法定主義である限りは。しかし、その主張が司法府ではなく立法府に提起された場合、話は変わってきます。新しい法律を作るかどうかという段階において、いつものように「〜法xx条では…と定義されているので、この事件に死刑は適用できませんよ」といったところで、じゃあ「〜法xx条も変えようじゃないか」と言われてしまったら、もう返す言葉がないからです。

天賦人権という概念を持ち出す人もいるかもしれません。現に、そういう場面における「最後の砦」として天賦人権は多用されています。しかし、「世論」や「感情屋」はこうした従来の法律の前提そのものに対しても批判的な「急進過激派」の立場に立っており、もはや半ば「宗教戦争」みたいな状態になりつつあるのではないかとすら思います。

往々にして急進過激派は少数派です。刑事裁判における急進過激派も、かつては人数においても少数派であり、無視できる勢力でした。また、権威も、圧倒的に人権派(というと色々語弊があるけど)の側にありました。それゆえ、「〜法xx条では…と定義されているので、この事件に死刑は適用できませんよ」という程度で済んでいたのであります。

しかし、当ブログでも以前から継続してヲチしつづけてきたように、その急進過激派が「被害者感情」としてある種の権威を持ち始め、さらに、人数においても無視できない勢力にそだちつつあります。いまや一方的に人権派が指導的地位を占めていられる時代ではなくなってきており、急進過激派の挑戦をうけるようになってきています。にもかかわらず、いままでどおりのやり方を続けていていいのでしょうか。「宗教戦争の戦場」で「聖書」を朗読していて何の役に立つというのでしょうか。

ではどうすれば良いのか。「宗教戦争」すなわち価値観どうしのぶつかり合いですから、なかなか決着をつけるのは難しいと思います。ここで私は、「急進過激派」の「急進」というところに注目したいと思います。要するに彼らは、自分たちの理想像を一気に実現しようとしているのです。

思うに、どんなにすばらしい理想であっても、急進的に実現させるべきではないのではないでしょうか。社会システムのスケール・複雑さに比べて、人間のスケール・知性なんてタカが知れているからです。人間が社会システムの全てを知り尽くし、合理的に設計できるだなんて思い上がりも大概にしておいたほうが良いでしょう。その点において私は最近、保守的な立場に魅力を感じており、急進的な立場には否定的です。この問題においても、その立場を貫きたいと思います。百歩譲って「過激」な理想を掲げるのはヨシとしても、それを実現させるためには、思いつきレベルの正義感そのままでは実用に耐えうるものにはなりませんし、各方面に根ざした既存の諸システムとの調整(たとえば、判例との整合性)と慎重なシミュレーションが必要であり、一気に社会を切り替えることは難しいでしょう。それに対して現行体制は、問題はもちろんあるものの、数世代にわたってシステムとして作用してきたという「稼動実績」があり、その点において、何の稼動実績もない新しいシステムに対して決定的な優位性を持っています。であれば、理想まっしぐらな急進的な立場なんてとてもではありませんが取れるものではなく、稼動実績のある既存のシステムを前提としつつ、慎重に冷静に改善(問題が起こったらすぐに後戻りできる程度の小規模改善の積み重ね)してゆく必要が生まれてきます。

幸いといっていいのか、現代に住む我々は、歴史上のさまざまな場面において、急進主義の末路を見い出すことができます。いずれも、本末転倒の悲惨な結果に終わりました。そこから汲み取れる教訓は余りあると思います。

ここで大切なのは、戦いのフィールドを「価値観のぶつけ合い」から「社会システムの安定性」に移すことにあります。幸いにして彼らも、社会の秩序を破壊し、混乱に陥れることはヨシとはしていないはずです。その点において、「社会システムの安定性」という観点にたつ保守主義的アプローチは、従来のような「価値観のぶつけ合い」よりはまだ有用なんじゃないかと思います。

もっとも、保守主義的な立場に基づく「宗教戦争」への対応は、現実的な匙加減において、なかなか難しいものがあります。先に「小規模改善の積み重ね」と述べましたが、伝統的に形成されてきた現行体制から踏み出しすぎると「急進的」になりますし、踏み出さなすぎるとただの「守旧」でしかなくなってしまうからです。実際にどの程度まで認めるのかというのについては、私も構想を描ききれていません。しかし、先に述べた理由から、ある程度は有用なのではないかと思います。もちろん、「カルト信者」レベルの狂信家は、もうどうしようもなく、そういう人たちが増殖していったら、「文化大革命」は避けられなくなるとは思いますけどね。。。そのときはもう終わりか。
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2013年02月23日

解決策は「国家の主人として相応しい水準になる」こと

久しぶりに法律・司法系の話。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130222/trl13022203240002-n1.htm
>>> 【主張】明石事故判決 検審否定に結びつけるな
2013.2.22 03:22

 兵庫県明石市で平成13年、花火大会の見物客11人が死亡した歩道橋事故で、神戸地裁は、業務上過失致死傷罪で強制起訴された明石署元副署長に免訴を言い渡した。

 公訴時効(5年)の成立を理由としたもので、事実上の無罪判決といえる。平成21年に創設された強制起訴制度で起訴された被告の1審判決は4件目だ。有罪判決はこれまで、科料9千円が言い渡された徳島県の暴行事件があるのみである。

 この事実だけをもって、検察審査会(検審)による強制起訴制度を否定すべきではない。

 強制起訴制度は、検察が独占してきた起訴権限に民意を反映させることを目的に導入された。検察が不起訴とした事件について、国民から選ばれた検審が2度、「起訴すべきだ」との結論を出せば強制的に起訴される。

 元副署長の議決で検審は「審査会の立場は検察官と同じではなく、公開の裁判で事実関係や責任の所在を明らかにし、事故の再発防止を望む」と言及した。

 その公判を通じて、警備計画のずさんさも明らかになった。判決後、裁判長は元副署長に「事故を風化させないよう伝えていく道義的責任がある」と説諭した。

 生活の党代表の小沢一郎氏が強制起訴された政治資金規正法違反事件でも無罪が確定したが、公判は、政治家本人の罪を問うことが極めて難しい規正法の不備をえぐり出した。

 いずれも、検察官による不起訴で終わっていれば浮き彫りにはならなかった。被告にかかる過重な負担や、審査会に対する法的助言のあり方など、克服すべき課題は多い。それでも強制起訴の意味合いは認められるべきだろう。

 検察官が起訴した被告の有罪率は99%を超す。これに対し、小沢氏を強制起訴した起訴議決は「検察官だけの判断で有罪となる高度の見込みがないと思って起訴しないのは不当」とした。強制起訴は「検察官が起訴を躊躇(ちゅうちょ)した場合、いわば国民の責任において刑事裁判の法廷で黒白をつける制度である」とも述べた。

 多少乱暴ながら、民意を反映させるということの本質を表している。有罪率に差が出るのは当然であり、起訴に異なる基準ができることになる。社会はこれを受容すると同時に、法の不備は正していかねばなるまい。
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まったくそのとおりだと思います。

旧ブログの頃から私の主張をごらんくださっている方のなかには、私が再三、「庶民感覚」の怪しさ、いい加減さ、危険性を指摘してきた点から、強制起訴制度(あるいは裁判員制度)といった国民の声を反映させてゆく諸制度に対して否定的な考えをもっているとお考えになるかもしれません。しかし、今一度、過去ログを慎重に読み返していただきたいと思いますが、実は制度そのものについては、「同業者ムラ」に風穴を開けるという点において結構なことであると考えています。問題は、いくら「同業者ムラ」に風穴を開けるといっても業界のことを何も知らないド素人が、思いつきレベルの正義感で介入してくるのは困るし、「被害者感情万能」の風潮では、同業者ムラを牽制することはできてもド素人の側を牽制できる勢力が皆無であるがゆえに危険であるということを申し上げたかったのでありました。それゆえ私は、「中学・高校教育段階において基本的な法律的な考え方を身につけさせる」ことや「被害者の声を絶対視しない」ことを主張して来、それが出来ないなら強制起訴制度や裁判員制度はやらないほうがマシだ、としてきたのであります。あくまで「それが出来ないなら」です。

たしかに被告人の負担が大きいという問題点については、早急に対応が必要だと思います。しかし、「被告人の負担が大きい」からといって「じゃあ廃止」とすべきかといえば、それは「善悪二元論思考」的であると言わざるを得ません。

では現状は如何なのか。強制起訴制度について申し上げれば、まだ裁判例が少ないので何とも言いがたく、もう数年待つ必要があると思います。類似した主旨の制度である裁判員制度については、良い変化も見られていると思いますが、昨年7月の「社会秩序の維持」を名目にアスペルガー症候群の被告人に対して下されたトンでもない厳罰判決(大阪地裁、判決に関する産経新聞報道)を見る限り、「ああやっぱりダメなんじゃないかな」とも思っているところであります。あの1件だけで全てを決めてしまうのはどうかと思いますので、もう少し情勢を見守りたいと思いますが。。。

私は決して「エリートに任せれば社会は上手く回ってゆく」とは考えません。いくらエリートといっても「情報」が無ければ正確な判断は出来ませんが、計画経済の失敗が明らかにしているように一部のエリートと言えども意思決定に必要な情報を全て集めることは出来ません。また、エリートもまた普通の人間ですから、「同業者ムラ」を形成してしまうリスクは十分にあります。その点、私は「反エリート主義」の立場に立っていますが、ド素人に任せて国が崩壊するくらいなら、まだエリートに任せたほうがマシなんじゃないかとも思います。その点において、まことに苦しい選択を迫られており、「国民がもう少し賢くなる」「国家の主人として相応しい水準になる」という方法を以って、この問題を発展的に解消したいところです。
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2013年02月21日

「鶏が先か卵が先か」が経済である

いや、どっちも正しいと思うんですけどね。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/maeyatsuyoshi/20130220-00023558/
>>> 「賃上げ」騒ぎはデフレ脱却にはつながらない
前屋 毅 | フリージャーナリスト
2013年2月20日 16時13分

■だいじょうぶか?米倉会長

違和感がある・・・。2月19日、公明党の山口那津男代表らが経団連(日本経済団体連合会)の米倉弘昌会長らと政策対話を行った。報道によれば、井上義久公明党幹事長が「国民生活を向上させるために可処分所得を増やし、労働分配率を高めていくことが大事だ」と述べて、「デフレ脱却のために賃上げが必要との考えを示した」(msn産経ニュース)そうだ。これに対して米倉会長は、「デフレから脱却すればそういうことになる」と応えたという。

デフレ脱却の施策として賃上げを求められたのに「デフレが終われば賃上げする」と、なんともとんちんかんな答えをしたことになる。その前から安倍晋三首相も賃上げを求める発言をしているので、井上幹事長の言わんとするところを米倉会長が理解できなかったはずはない。

わかって、とんちんかんな答えをしたのだ。ことあるごとにデフレ脱却を政府に求める発言をしていながら、自ら協力するつもりは米倉会長にはないらしい。自分では何もしないで、ただ欲しい、欲しいと騒ぐ駄々っ子とかわりがない。こういう人が日本を代表する経済団体の長をしているのだから、日本経済がふらふらしているのも無理はない。

違和感をおぼえざるをえない米倉会長の発言、といわざるをえない。しかし、ほんとうの違和感は別のところにある。

■ずれてる論点

2月5日、安倍首相は経済財政諮問会議の場で、「業績が改善している企業には、賃金の引き上げを通じて所得の増加につながるよう協力をお願いしていく」と述べて、賃金引き上げを求めた。これに応えるように2月7日、政府の経済成長戦略を策定する産業競争力会議のメンバーでもある新浪剛史が社長を務めるローソンは、「デフレ脱却を目指して!」と銘打って、消費意欲の高い世代(20代後半〜40代)の社員の年収を平均3%アップすると発表した。

ローソンでは「新浪社長のもともとの持論に基づく」として安倍首相の要請に応えたわけではないと説明するものの、絶妙すぎるタイミングで、「出来レース」と受け取られても仕方ないだろう。さらに2月8日の衆議院予算委員会で、ローソンの例をあげて「3ヶ月前に考えられたか。われわれの政策が経済を変えていく」と安倍首相が胸をはってみせたのだから、シナリオ臭くなる。

問題なのは、ローソンの「賃上げ」が正社員だけを対象にしているということだ。正社員とアルバイトなど非正規雇用者とを合わせると、ローソングループでは約20万人が働いている。しかし今回の「賃上げ」の対象となるのは、約3300人の正社員だけである。約18万5000人の非正規雇用者は対象外なのだ。

賃金を上げることで消費を活発化させてデフレ脱却につなげるには、3000人の社員を対象にするより18万人の非正規雇用者を対象にするほうが効果が大きいことは誰が考えてもわかる。そこを無視して、「デフレ脱却のための賃上げ」と誇れるのだろうか。「われわれの政策の成果」と胸をはるにいたっては、あきれるしかない。

ローソンにつづいて作業服店チェーンのワークマンも賃金を引き上げることが2月19日になって明らかになったが、こちらも対象は正社員である。とんちんかんな米倉会長発言となった公明党と経団連の政策対話でも、前提になっているのは「正社員の賃上げ」で、「非正規雇用者の賃上げ」はふくまれていない。それでデフレ脱却が狙いというのは、論点がずれすぎているというしかない。

■ここを無視してデフレ脱却にはつながらない

労働力調査によれば、非農林業雇用をのぞいた雇用における全雇用に占める非正規雇用者の比率は、2012年で35.1%となっている。1990年が20%なので、急速に増えてきているわけだ。

その背景には、企業が人件費を削減するために正社員を減らし、その分だけ非正規雇用を増やしたことがある。それに拍車をかけたのが、小泉純一郎政権による人材派遣の規制緩和だった。

そして収入の少ない非正規雇用者が激増し、デフレ傾向にも拍車がかかってきたのだ。だからこそ、「賃上げによるデフレ脱却」を謳うのであれば、非正規雇用者の賃上げこそ優先させなければならない。そこを改善しなければ、ほんとうの消費拡大につながっていくはずがない。

そこを無視し、正社員だけ賃上げして「デフレ脱却のための賃上げ」と叫んでいるのは、どうにも納得できない。違和感をおぼえざるをえないのだ。
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経済の難しいところは、原因と結果が円環状になっているところにあると思います。「鶏が先か卵が先か」みたいなもんですよ。昨今の情勢にカギって言えば、賃上げしなければデフレは脱却できませんが、しかし、デフレを脱却できなければ賃上げだって難しい。両者が円環状に絡み合っているのです。

いわゆるアベノミクスは、その両方に同時並行的に取り組もうとする野心的な経済政策であると認識しています。今までの経済政策は、「賃上げが先だ!」「いや景気回復が先だ!」といったふうに、私に言わせれば「どっちも大切でしょ?」といわざるを得ない不毛な論議で時間を浪費してきました。いまやっと、曲がりなりにも総合的な経済政策がとられようとしているところで、また振り出しに戻るようなことを言わないで頂きたいと思うのです。

良くも悪くも経済はシステムとして変動しています。そして、その相互依存関係は円環状に絡み合っており、複雑です。それが経済の正体だと思うんですが、どうも「『変動の中心』というものが何処かにあって、それが経済を支配している」という考えが根強いように思います。ちょうど、「身体の不調は、体内の何処かにある病巣のせいだ!」みたいな感じで。しかし、「病巣」が身体のバランスの崩れのなかから発生してくるように、経済の「変動の中心」と思われているものもまた、経済システム全体のバランスのなかから発生してくるものです。諸法無我なのです(ちょっと意味が違うか?)。

ちょっと上手く表現しにくいんですが、経済政策を西洋医学みたいに「病巣を切除すれば病気は治る」みたいな発想ではなく、東洋医学のように「病気は結局のところ身体のバランスの崩れだから、トータルに体質改善してゆく」といった発想でやったほうがいいんじゃないかと思います。ちなみに、医学は完全に専門外なので、ステレオタイプ的に言ってしまいましたが、言いたいことのエッセンスを汲み取っていただけたならば、あまり怒らないであげてください…もちろん間違いの御指摘は大歓迎です。

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チュチェ105(2016)年4月26日づけ「「最低賃金大幅引き上げキャンペーン」の世界観的誤りと危険性――円環的相互作用システムの立場から
ラベル:政治 経済 経済学
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2013年02月18日

いやいや全然違うから共産党さんw

一部分だけ切り取って騒ぎ立てる典型例ですね。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2013-02-18/2013021801_04_1.html
>>> 内部留保活用で賃上げ可能
党主張にメディア関心広がる
“大企業はまず一歩先に出て”

 内部留保のほんの一部を給与にまわせば、ほとんどの大企業で賃上げが実現する―。日本共産党が主張してきた政策にメディアの関心が広がっています。折しも日本共産党は“賃上げ・雇用アピール”を発表。国会論戦を通じて政治を動かしつつあります。

 「賃上げ春闘 追い風 首相異例の要請」―「読売」15日付夕刊は社会面でこう報じました。日本共産党の笠井亮衆院議員が求め、安倍晋三首相がそれにこたえて財界トップに賃上げを要請したことをとりあげたのです。笠井氏は、連結内部留保500億円以上を持っている企業グループ約700社を調べ、内部留保の1%を活用するだけで8割の企業で月1万円以上の賃上げが可能だと迫りました。

 「実は内部留保に着目をずっとしてきたのは共産党なんですよ。共産党の主張と麻生(太郎)さん(=財務相)の言っていることがほぼ似てきてしまったというのは、非常に面白い現象でね」。1月30日放送のテレビ朝日系「モーニングバード!」ではコメンテーターの萩谷順氏(ジャーナリスト)がこう紹介。「内部留保をもっている大企業はまず一歩先に出てほしい。政府と大企業の役割・任務というのは非常に大きな時代になってきた」と主張しました。

 朝日新聞社が発行する現代用語事典『知恵蔵』(2013年版)は「内部留保」の項目でこう書きます。「当初は共産党や労組が主張していたが、雇用不安が深刻になった08年末〜09年にかけて、政府閣僚からも同調する声が相次ぎ、雇用維持の財源として論じられるようになった」

 昨年末のフジテレビ系「新報道2001」では、その09年の笠井氏と麻生氏(当時首相)の質疑の模様を流し、内部留保の活用を特集しました。いまでは、内部留保活用論は立場の違いを超え、多くのエコノミストも指摘するようになりました。

 日本経済研究センターの前田昌孝主任研究員は「日経電子版」(13日付)のコラムで、一時金で対応するとした日本経団連の米倉弘昌会長の発言を「やや腰が引けた感じが否めない」と批判。内部留保と賃金の相関グラフも示し、「産業界は発想を切り替え、賃上げを基点にして景気の好循環を引き起こすぐらいの戦略性をもってもいいのではないか」と提起しています。
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旧ブログの記事においても少し触れましたが、共産党の主張と、いわゆる「アベノミクス」は、共産党が「ストックを原資とし、それを切り崩すことによる賃上げ」を主張している(ついでに言えば、「大企業は決して経営危機ではない!」とまで言ってのけましたね、さすがにパナソニックが火の車になったときには黙りましたが)のに対して、アベノミクスは「業績が回復したら」、すなわち「恒常的なフローを原資にした賃上げ」を主張している点において、まったく違います

そして、恒常的なフローを原資とするアベノミクスの賃上げ論には、「期待」(=経済の先行き予想)という面からその有効性が推察できますが、ストックを原資にする共産党の賃上げ論の有効性に対してはは疑問符をつけざるを得ません。なぜならば、賃上げしたところで、その原資がいつかは枯れ果てると「期待」される「ストック」に依存している限り、消費者の財布の紐は固いままだからです。賃上げ分が恒常的に入ってくる「恒常フロー」であると「期待」できるようになって初めて、消費者の財布の紐は緩むのです。「所得が増えれば消費も増える」なんてのは、原始的なケインズ主義の教義にすぎません。その間に「期待」が重要なファクターとして存在するのです。そのためには、恒常的に給与が入ってくるための体制づくり、確信を持って期待を形成できる体制作り、すなわち「成長戦略」が必要になるわけです。

私は決して、需要さえ増えればサイクルが好転するだなんて楽観的な見通しをもてません。人口減少がそろそろ手遅れになってきている昨今においては、サプライ・サイドへのテコ入れが必要だと思います。結論を先取りして言ってしまえば、「内部留保はそのまま分配するのではなく、今一度、生産的投資に回してから分配すべきであり、そのためには企業の投資・生産活動の実行とそれを支える成長戦略が必要」なのです。そして、そうした方策を採るのであれば、政府が直接、収奪に「乗り出す」のべきではなく、投資環境の整備というカタチで「政策誘導」するので十分だし、そうするべきです。

内部留保が全額キャッシュではないのは承知しております。また、共産党自身が、内部留保260兆円が全額キャッシュだなんて言っていないことも承知しています。ここでいう内部留保は、過剰な流動性としての内部留保、内部留保全体のうち、キャッシュとして手元に残っているごく一部について述べています。この記事の目的は、巷でよく繰り広げられている「キャッシュとしての内部留保があるかないか」「その内部留保は分配に耐えうるものなのか」といった論争ではなく、「キャッシュとしての内部留保があり、分配できるとして、それを単純に切り崩して分配するだけで良いのか」という点にあります。

ケインズ本人の名誉のために述べておくと、『一般理論』は決して「期待」を軽視していません。むしろ、ケインズほど「期待」の重要性に着目した経済学者は珍しいと思います。問題は、「ケインズ主義」つまり「教科書のマクロ経済学」です。ここには「期待」は影もありません。

にもかかわらず、共産党は、アベノミクスが「期待」の改善に取り組む姿勢を示していることに対して「国民の気持ちのせいにし、反省のない姿勢」(『赤旗』2月6日づけ)などというトンチンカンな批判を展開しています。繰り返しになりますが、「期待」というのは「経済の先行き予想」です。その期待が低迷したら、当然、財布の紐は固くなります。アベノミクスの言わんとしていることは「明るい未来をデザインしてやろう」ということであって、「国民の気持ちのせい」なんかにはしていない、それどころか前衛意識すら見え隠れする、ある種、傲慢な政策なんですよ(その点、私はアベノミクスに少々懐疑的なところがあります。おいおい、述べてゆきたいと思います)。

そのあたりの大きな違いに気づかない赤旗編集部ですが、相当嬉しかったんでしょう。「共産党の主張と麻生(太郎)さん(=財務相)の言っていることがほぼ似てきてしまったというのは、非常に面白い現象」という萩谷氏のコメントを嬉々として掲載しています。でも、これきっと、からかいあるいは新手の自民党に対するネガキャンですよ。だって、麻生氏が首相だった頃、彼は「定額給付金」などと称して「霞ヶ関の内部留保」をバラまきましたが、何とも評価しがたい中途半端な結果(まったく効果が無かったわけではないが、言うほどの効果でもなかった)だったじゃないですか。あまりレッテル貼りみたいなことはやりたくないのですが、麻生氏は原始的なケインズ主義に近いお考えだと見受けられます。原始ケインズ主義仲間で意気投合していてどうするんですか

また、安倍政権の支持率は高水準をキープしています。マスコミ的には気に食わないところでしょう。「ほらほら国民の皆さん、自民党は公共事業型の『古い政治』に戻そうとしている上に、ついに共産党みたいなことを言い始めましたよ、次の参議院選挙では民主党へ!」といった魂胆なんじゃないですか? あんなにメディアの反共攻撃だとか大騒ぎしていたのは、わずか2ヶ月前ですよ? この2ヶ月でメディアが容共派に転向したとでも言うんですか? むしろ共産党を利用しての自民党に対するネガキャンと考え方が自然なんじゃないですか?

ところで、最近になって「内部留保活用」を指摘する声が以前よりは増えたことは事実です。しかしそれは、リーマン・ショック以来の不景気が少し緩和されたからに他なりません。つまり、状況が変わった。共産党のように、「何があってもカネよこせ」ではないのです。一緒にされるエコノミストの皆さんにしてみれば、いい迷惑でしょう。私だって後述するように、使途によっては内部留保活用もまた有効な一策だと思っていますが、共産党の言うような原始ケインズ主義的な方法は採るべきではないと思っています。一緒にしないでくださいね。

さて、どうしても大企業の内部留保を収奪したいのならば、これも前掲記事の末尾にも書きましたが、収奪した資金をもとに殖産興業に励み、恒常的なフローに転化させて初めて、持続可能な経済政策と言い得るものになります。アベノミクスが「成長戦略」を掲げるのは、単にストック(内部留保)を切り崩して分配するだけでは持続可能な賃上げにならないことが分かっているからです。もちろん、成長戦略だけで万事上手くいくというわけでもありません。「マーシャルの鋏」というように、デマンド・サイド(所得政策)、サプライ・サイド(成長戦略)へのテコ入れが同時に執行され、お互いが相互作用的に影響を与え合うことが必要なのです。アベノミクスは曲りなりにも相互作用関係を理解しており、その過程で、件の「要請」を出したのです。これは正しいと思います。それに対して共産党にその理解があるのか、はなはだ疑問です。

ことあるごとに引っ張り出してきて恐縮ですし、決して「信者」だとは思わないで頂きたいのですが、左翼が憧れて止まない北欧の福祉国家は、手厚い福祉の反面、彼らが泡を吹いて卒倒するような「新自由主義的な経済政策」を採っています。その取り組みを全て列挙するわけには行きませんが、簡単に言ってしまうと「デマンド・サイドとサプライ・サイドへのテコ入れを同時に、お互いが相互作用的に影響を与え合うように執行されているがゆえに、経済と福祉の好循環が生じている」と言えます。また、福祉のための負担を受け入れてもらう為に企業インセンティブに配慮した「綿密な環境整備・制度設計(政策的誘導)」を行っています。ストックの切り崩しのような単純で「原始ケインズ主義的な給付中心の福祉政策」だったら、社会的責務の名の下に個別企業のインセンティブを飛び越える階級闘争的な「雑な制度設計」だったら、これほどまでに持続的で安定的な好循環は生み出せなかったでしょう。

興味深いことに、1990年代初頭に済危機に見舞われたスウェーデンでは、福祉水準よりも経済再建を一時的に優先させたという経緯があります。もちろん、「経済再建」の目標は、どこかの島国と違って「福祉水準」のためですけど。このことは、殖産興業が国民の生活水準・福祉水準にとっても、相当に重要な意味合いを持っていることを示していると思います。

また、「福祉のための負担を受け入れてもらう為に企業インセンティブに配慮した綿密な環境整備・制度設計(政策的誘導)」についても大いに注目すべきです。この記事における私の主張は、端的に言ってしまえば、「内部留保はそのまま分配するのではなく、今一度、生産的投資に回してから分配すべき」ということです。論ずるまでも無く、投資・生産の主体は民間企業です。民間企業の投資と生産がストックを恒常的なフローに変換させる以上は、彼らの投資と生産を促進させる必要がありますが、それは決して収奪では実現しませんし、する必要もありません。なぜならば、恒常的なフローの産出に成功するような企業があった場合、政府がどこかの黒字主体から収奪して資金供給せずとも、その黒字主体が自らの意志で投資するはずだからです。恒常的フローを産出しうる資金需要の関する情報、端的に言ってしまえば「儲かる話」というのは、政府よりも商売屋の方が敏感であるはずです。政府は環境整備・制度設計に注力し、収奪の実行・暴力装置の発動ではなく、政策的誘導による投資・生産促進を行うべきです。政府は動き始めました。1月25日づけ日経新聞は、「「眠れる資産」活用促す 企業の内部留保を投資へ」という記事で2013年度予算案について報じています。もちろん、完璧な環境・制度を「設計」することなど出来ません。理性への過信です。しかし、修正を加えながら「それらしいもの」を形成していく努力は怠るべきではないと思います。

このように、「企業の社会的責任を問う」といっても、実際の方法論的なレベルにおいて、日本共産党の掲げる政策とかなり違う方法を取らねばならないと言わざるを得ません。ちなみに、以前にも申し上げましたが、私の知る共産党関係者が、やたら北欧をマンセーするもんですから「現実」を幾つか教えて差し上げたところ、それ以来、ピタッとマンセーを止めてしまわれましたww

それはさておき、「殖産興業のための内部留保活用」のためには、どの程度の内部留保まで取り崩してよいのかという定量的な問題があります。「内部留保の1%」というのは、定量的にどの程度のプラス・マイナスの効果があるのか。前掲旧ブログ記事にも少し書きましたが、かつて新日本出版社の『経済』は、ある程度の計算じみたものを掲載していましたが、「2000年代前半」という「牧歌的資本主義」の時代を基準にしていて閉口した覚えがあります。

以上のように、「内部留保活用」論が出てきたとはいえ、共産党の「手柄」とは到底いえない状況にあるわけです。関係者の皆さんにおかれましては、決して喜んでいる場合ではないと思います。「企業の社会的責任を問う」という哲学は、私としてもとても納得いくものです。しかし、哲学と方法は直結しないと思うのです。

しかしついに共産党も、事実上の原始ケインズ主義政党になったかあ〜
まあ、財源論になると「収奪者がたちが収奪される」路線になるけど、それって「ゴネているだけ」とも言えるし。。。

【編集情報】
チュチェ102(2013)年2月18日 初版
チュチェ102年7月21日〜24日 ちょこちょこ加筆

【関連(総括)記事】
チュチェ102年7月10日『アベノミクスと規制改革
チュチェ102年7月24日『CSSの変更と過去ログへの加筆のご報告
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2013年02月14日

受け手次第

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130214-OYT1T01230.htm
>>> 桜宮高元顧問の寛大処分求め、1100人嘆願書

 大阪市立桜宮高校バスケットボール部の体罰問題で懲戒免職処分となった同部元顧問の小村基・元教諭(47)について、部員や卒業生、保護者ら約1100人が「寛大な処分」を求める嘆願書を市教委に提出していたことが分かった。

 嘆願書の署名は2月8日から4日間で集められ、元教諭の処分決定前の12日朝に提出された。署名したバスケ部員の父親(45)は元顧問について、「熱心に指導してもらった。彼を慕って入学した生徒や保護者の意見も聞いてもらいたかった」と話した。

 市教委は「嘆願書は受け取ったが、外部監察チームの報告書で認定された事実を基に処分を決めた」としている。

(2013年2月14日20時06分 読売新聞)
<<<
「寛大な処分」の嘆願だそうです。学校関係者は、「あの程度で自殺するほうが特殊。ヤワすぎる。どうかしている」というのがホンネなんでしょう。少なくない国民にもそういう考えの人はいると思います。大声ではとても言えないでしょうけどね。たぶんこの状況で、かかる主張を堂々とできるのは、戸塚宏氏くらいでしょう。

誤解を恐れずに言えば、たしかに「特殊」だったかもしれません。なぜならば、ああいうシゴキは日本中、津々浦々で長年行われてきましたが、だからといってシゴキを受けた生徒がガンガン自殺していたかといえば、決してそんなことはなかったからです。人ひとりの死を「統計数値」として見ることに対して批判的な方も多いかと思いますが、やはり、そういわざるを得ないことも事実です。

しかし、ここで重要なのは、「深刻さの度合いは『受け手』次第である」ということです。本件における元教諭擁護者において決定的に欠如しているのは、そこでしょう。たしかに、「世間平均」からみれば「特殊」かもしれませんが、こういう問題は本質的に「深刻さの度合いは『受け手』次第である」なわけです。「ヤワすぎる」とかいったとしても、そもそもそんな主張は無意味なのです。

もちろん「スポーツマンたるもの、あの程度で音を上げるようではダメだ。もっと根性をすえるべきだ」というのは、まあそれもそれで一つの意見、理想像かもしれません。しかし、あなたの理想像だけで物事を語られてしまっては困ります。「現実がオカシイんだ、理想社会に向けて革命だ!」といって、急進的に社会を改造しようとして大失敗した「共産主義の思考・方法」となんら変わるところがありません。

もし、「スポーツマンたるもの、あの程度で音を上げるようではダメだ。もっと根性をすえるべきだ」というのであれば、それ自体は結構ですから、せめて現実、スタートラインを見据えてください。その上で、理想を実現するための方法を考えてください。「現実がオカシイ!」というのは、そうかもしれません。しかし、良くも悪くもそれが「現実」なんです。2月4日の記事で、「重要なのは、「我々の主体(チュチェ)は何処の誰なのか」「主体はどういう状態にあるのか」という視点だと思います。「到達点」と「参考資料」はその次に持って来るべきものでしょう。観点と立場が定まらないうちから「到達点」も「参考資料」もあったもんじゃありません。」と書きましたが、改めてそう申し上げたいと思うのであります。

その点では、「指導か暴力かの基準づくり」というのも、少し危ない考えかもしれません。おそらくそれは、何らかの「世間平均」の設定になることでしょう。しかし、繰り返すように、そもそもこの問題は画一的にどうこうすべき問題ではないのです。画一的な基準を設定している限り、「世間平均」からの「外れ値」が問題になる可能性はあり続けるでしょうね。
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2013年02月12日

核開発という「投資」

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130212-00000025-mai-kr
>>> <北朝鮮>核実験か 人工の地震波観測…韓国報道

毎日新聞 2月12日(火)12時18分配信

 【ソウル澤田克己、北京・米村耕一】韓国の聯合ニュースなどによると、北朝鮮北東部の咸鏡北道(ハムギョンプクド)吉州郡(キルジュグン)で12日午前11時57分(日本時間同)に、人工の地震波が観測されたと速報した。地震波の規模はマグニチュード5.2。吉州郡には豊渓里(プンゲリ)核実験場があり、北朝鮮が3回目の核実験を実施した可能性が高い。菅義偉官房長官は同日午後、首相官邸で記者会見し、「過去の事例からすると、核実験の可能性があると考えている」と述べ、安全保障会議を開き情報の精査を進めている。

 北朝鮮が金正恩(キム・ジョンウン)第1書記による新指導体制に移行した後、核実験は初めて。北朝鮮は長距離弾道ミサイルに搭載するため核兵器の小型化を目指しているとされ、今回の実験もそれが目的の可能性が高い。北朝鮮が国際社会の自制要求を無視して核実験に踏み切った可能性が高まったことで、日米韓のみならず、北朝鮮の最大の支援国・中国が厳しい対応に出るのは必至で、朝鮮半島情勢をめぐる緊張感が急速に高まっている。

 核実験全面禁止条約機関(CTBTO)によると、前回、前々回の核実験実施場所である咸鏡北道吉州郡豊渓里付近で、人工とみられる地震が確認された。

 1回目の核実験は、爆発の規模がトリニトロトルエン(TNT)火薬換算で1キロトン未満と推定され、2回目は「数キロトン」と推定されるなど、北朝鮮の核兵器は実験のたびに能力の向上がみられる。核実験と確認されれば国連安全保障理事会は速やかに制裁措置などの議論に入るとみられる。ただ、06年、09年にも安保理の制裁決議が出されたが、北朝鮮が繰り返す核実験の阻止に至らなかったことになり、国際社会には手詰まり感も出ている。

 北朝鮮にとって核兵器の保有は、米国などの圧力に対する「自衛的核抑止力」とされ、今回の実験も「その強化」と位置づけているとみられる。

 昨年12月の長距離弾道ミサイル発射に対し、国連安全保障理事会は強く非難し、北朝鮮への制裁を強化する決議を全会一致で採択した。北朝鮮側は、安保理決議違反と主張した日米韓を非難し、今後もミサイル発射を続ける立場を強調する一方で、3回目の核実験の準備も進めてきた。
<<<
共和国が核実験をしました。党機関紙『労働新聞』に「수령이시여 명령만 내리시라」(YouTube動画)の歌詞と楽譜が意味深に掲載されてから約10ヶ月(2012年4月23日づけ2面)。「首領の命令」は漸く「下された」わけです。

旧ブログでは「Keep9」とか言っていた私ですが、最近そうでもなくなってきたので、その線での意見は特にありません。軍事的手段を考えることは悪くないと思います(まあ、旧ブログの頃から「非武装平和」には一貫して反対してきましたけどね)。しかしながら、あれだけ日本海側に原子力発電所を林立させておいて、今さら「北の脅威」はないですし、そんなことよりも国内に潜伏する破壊工作員や、あるいはネットワーク・セキュリティの脆弱性ほうがはるかに致命的な弱点ですので、「核攻撃よりもヤバいリスクがあるぞ!」と申し上げたいところであります。

それよりも私としては、核兵器の技術力向上が、これからの共和国にどういう影響を与えるのかという点に注目したいです。ご存知のとおり、朝鮮人民軍は、通常戦力の弱さを人海戦術で穴埋めしている(生産適齢人口の多くを徴兵している経済的負担は極めて大きい)ところを近年になって、潜入破壊活動やNBC兵器、サイバー攻撃に代替しようとしています。核兵器の技術力向上は、果たして人員を軍隊から産業に振り替えることに繋がるのでしょうか。

うまく行くかは分かりません(知識がないもんで。。。)が、核兵器の技術力向上によって戦力の効率化に成功すれば、これもある種の「投資」になるでしょう。いくら「先軍革命」すなわち「建設も国防も軍が一手に引き受ける」といって軍人が訓練の合間にイモ作りに精を出しているといっても、完全な非軍人労働力に比べれば劣るものがあると思います。中途半端にアレコレ手を出すよりも、強力な兵器を開発(国防を疎かにするわけには行かないでしょう)して、労働力は産業に特化させたほうが良いのではないかと思うわけです。

もっとも、核兵器の維持コストって高いですからねえ。。。さて、どうなることやら。
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2013年02月10日

「科学真理教」

http://twitter.com/inosenaoki/status/299210245509632000
>>> 天気予報は科学なのに責任に対する心理に支配され歪んでいる。成人の日に外れたので過剰に積雪量を2度も見積もった。多めに先読みすれば責任逃れができるとする姿勢がもし3度目にあったら責任を追及します。狼少年は許さない。気象庁の自己保身のためにどれだけの組織、人が迷惑を与えられたか。 <<<

http://mainichi.jp/select/news/20130209k0000m040066000c.html
>>> 猪瀬知事:気象庁を批判 6日の「大雪」予報が外れ

毎日新聞 2013年02月08日 20時39分(最終更新 02月08日 23時03分)

 6日に首都圏が大雪になるとした気象庁の予報について、東京都の猪瀬直樹知事は8日の定例記者会見で「(気象庁は積雪を)多めに言ったと思っている」と述べ、大雪になった成人の日(1月14日)の予報を外したため、その後は積雪を過剰に見積もったとの見方を示した。都心部では、成人の日に8センチの積雪を記録したが、気象庁が雪になると予報した先月28日と今月6日は積雪がゼロだった。

 会見で猪瀬知事は「2度も続けて外れるのはおかしい。(予報官が)心理的にぶれたと思う」と指摘。過剰な予測の根拠として「個人的だが(前日の)深夜に空を見ても雪が降る気配が全くなかった。気温も下がらなかった」と述べた。

 猪瀬知事は30万人以上のフォロワー(閲覧者)がいるツイッターでも天気予報を「歪(ゆが)んでいる」「気象庁の自己保身」などと非難している。

 これに対し、気象庁の横山博予報課長は「前回外れたから今回こうしよう、というのはない」と断言し、「科学的根拠に基づいている」と心理的影響も否定。もし成人の日に大雪が降らなかったとしても、6日の予報は全く変わらなかったという。【清水健二、池田知広】
<<<
「天気予報は科学なのに大ハズレだった! これは予報官が心理的にためらったからだ!」だそうです。よくある科学主義、私に言わせれば「科学真理教」の域に達しつつある言説だといえるでしょう。

むしろ、天気予報は「人間の科学」だからこそ、予報に揺らぎが生じると捉えるべきなんじゃないかと思います。キーワードは「科学の限界」。人間の情報収集能力と情報分析能力は有限(たとえば、どんなスーパー・コンピューターでも演算可能な桁数は有限)ですが、天気を司る一連のメカニズムは、決定論的ではあるものの、無限の相互連関をしており、わずかな違いにも敏感に反応します。ですから、そもそも観測の主体が人間である限りにおいては「ブレる」のが原理的に当たり前。逆に、確率を使って「ブレさせる」からこそ、結果的に正確性が増すくらいです。

かつて、某左翼政党関係者の相手をしてきた頃から思っていたことですが、やっぱり未だに19世紀レベルというか、古典的な科学信仰って根強いんですねえ。たしかに科学の進歩によって明らかになったてことは沢山ありますし、我々の今日の生活が科学文明の上に成り立っていることは決して否定できるものではありません。しかし、科学が進歩したからこそ、科学の限界が見えてきているのが20世紀以降の今日なんじゃないでしょうか。いろいろと無理難題を吹っかけられても、科学にだって出来ることとできないこと、分かることとわからないことがあるんですよ。

こういうナイーブな科学信仰を見ていると、もしかするとまた何十年かすると、「原発神話」みたいなものが復活したり、あるいは甚だしくは「計画経済」を復活させる動きが出てくるかもしれないと少々恐ろしくも感じています。原発のことは専門外過ぎるので良く分かりませんが、計画経済について少しコメントすれば、計画経済が失敗した大きな理由は、ハイエクが「経済計算論争」で指摘したように、人間の情報収集能力と情報分析能力が、本質的に客観的な把握に馴染まないプライベートな情報によって構成されており、かつそれらの情報が複雑に絡み合っているという現実の経済システムに対応できなかったところにあります。簡単に言うと、まさに「科学の限界」。「官僚と軍部の腐敗」とか「インセンティブの不足」というのももちろん大きな要素としてあるとは思いますが、そもそも経済の動向を科学的に予測すること、それ自体に本質的で重大な困難性があるわけです。

ちなみに、いまや「市場社会主義」を主張している某左翼政党ですが、知り合いの党関係者に、そのあたりについて意見交換してみると、さすがに計画経済こそ主張しませんでしたが、その「経済活動への政府の介入」については、「科学信仰」に裏打ちされたプランを想定しているのかなという感想を持たざるを得ませんでした。「経済活動への政府の介入」というのも、経済動学的に見ると、タイミングを誤れば(そして、まさに「科学の限界」ゆえに、誤りやすい)、むしろ経済を不安定化させる効果があります。平成バブルの生成と崩壊をめぐる政府の財政・金融政策は、そういう見方もできると思います。そういう意味では、やっぱり左翼は計画経済、そしてその背後に潜む「科学信仰」から完全に脱却しきれていないのかなと思いましたが、何のことはない、左翼以外にも結構、そういう考え方に親和的な人たちっているんだと今回、思い知らされました。むしろ左翼的な科学信仰・理性信仰が大衆レベルにまで浸透していると見るべきか?

ところで、ちょっと検索してみると、カオス理論を根拠に猪瀬氏を批判するコメントが見受けられます。たしかに、カオス理論の説明で用いられる「バタフライ効果」は、まさに「気象条件におけるカオス」でありますが、「バタフライ効果」が示しているものは、正確には「長期予報の困難性」です。

たとえば、カオスを発生させる関数系として有名なロジスティック写像(差分方程式モデル)をつかって、係数が3.9のものと3.90001のものを、50期にわたって比較してみましょう。エクセルを使いました。
chaos.jpg
グラフから明らかなように、カオスの代表的な特徴(ちなみに、カオスの厳密な定義って無いんですけどね)である「初期値鋭敏性」は、短期的には大きな影響を与えないことが分かります。それゆえ、猪瀬批判としてカオス理論を持ち出すのは、ちょっとズレているのかなと思います。一般に、天気予報でカオスの影響が懸念されるのは10日から2週間程度、先からの話(台風の進路みたいにもう少しピンポイントな話だと4日くらい先かな?)です。

ただ、両者がまったく無関係というわけではないでしょう。短期的予測の失敗と長期予報におけるカオス発生の原因を「科学の限界」に見い出せば、両者は同じ原因をもとにしているといえるのではないかと思います。そもそも、長期予報においてカオスを発生させる原因である「初期値鋭敏性」だって、人間が「神通力」を持っていれば、何の不自由も無く予測できるはずなんですから。でも人間は神ではないのです。

編集後記
今回も「主体としての人間」にスポットライトを当てた記事で、例によって「チュチェ思想」のタグをつけようかと思ったんですが、「そういえばチュチェ思想ほど理性信仰な思想は無かったなあ」と思って、どうしようかと考えている次第ですwww結局つけたけど。チュチェ思想の理性信仰な所は、ちょっと付いて行けないんだよなあ。。。
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2013年02月09日

発送電分離問題と「官か民か」の不毛な二分法

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130208-00000104-mai-bus_all
>>> <発送電分離>2018〜20年に実施 小売り自由化16年

毎日新聞 2月8日(金)21時29分配信

 経済産業省の有識者会議「電力システム改革専門委員会」(委員長・伊藤元重東大教授)は8日、電力制度改革の報告書をまとめた。大手電力会社の発電部門と送配電部門を分社化する「発送電分離」については、5〜7年後の18〜20年に実施する。家庭が自由に電力会社を選べる電力小売り全面自由化も16年に実施。電力大手による「地域独占」を解消し、競争を活性化させて電気料金引き下げを促す。経産省は、改革の実施時期を盛り込んだ電気事業法改正案を今国会に提出する。

 改革は3段階で進める。まず15年をめどに、電力大手の営業エリアを超えて電力需給を調整する機能を持つ「広域系統運用機関」を設立。電力が余っている地域から不足している地域に送配電するよう電力会社間の調整を図るほか、全国的な送配電網の整備計画を作る。自由化の進展に伴い電力不足などが生じないようにする。

 16年には、これまで大手しか販売できなかった一般家庭やコンビニなどへの電力販売を自由化する。一般家庭でも、他地域の大手電力や、既に法人向けに参入している「新電力」などから、自由に電力会社を選べるようになる。今まで事業規模などに応じて電力会社ごとに与えていた免許制度も、発電、送配電、販売など事業別に与えるよう改める。

 ただ、家庭向け料金では、発電に必要なコストを積み上げる「総括原価方式」を当面維持する。値下げに向けた競争環境が整ったと判断した時点で、料金規制も撤廃する。

 最終段階では、電力会社の発電部門と送配電部門を別会社にする。大手が保有する送配電網を別の電力会社が自由に使えるようにし、発電分野で新規参入を促す狙いだ。具体的には、送配電部門を分社化する「法的分離」方式を採用。現在も、新規事業者は大手の送配電網を借りられるが、「大手が自社の安定供給を理由に、競合する新規事業者への送配電網の利用を制限していないか」などの不満があった。分離して送配電会社に中立性を持たせ、親会社と新規事業者を公平に扱うようにする。

 政府は当初、17〜19年をめどに発送電分離を実施する方向で調整していた。しかし、システム構築に時間がかかることなど大手電力の事情を配慮し、1年先延ばしした。【小倉祥徳】

 ◇電力業界は難色 改革後退の可能性も

 経済産業省の有識者会議「電力システム改革専門委員会」が8日、報告書をまとめ、電力制度改革の道筋を示した。小売りの全面自由化が実現すれば、一般家庭が大手電力会社、特定規模電力事業者(新電力)から自由に契約先を選ぶことができるようになる。しかし、改革のカギを握る発送電分離には電力業界が難色を示しており、改革が順調に進むかは予断を許さない状況だ。

 電力小売り全面自由化により、新電力は一般家庭にも電力を販売できるようになり、顧客獲得のチャンスが生まれる。報告書案には、余った電力を取引する「卸電力取引所」の活性化策も盛り込まれた。大手電力などに、電力需要に対する供給余力が前日で8%、当日は3〜5%を超える場合、超過分を原則すべて取引所に売るよう求め、新電力が電力を調達しやすくする狙いだ。

 すでに00年から大口の事業所などに順次小売りは自由化されているが、大手電力が保有する送電網を使うには、新規事業者が高いと主張する使用料を払う必要があり、結果として新電力の市場シェアはわずか3.5%。競争を促すため、送電網を大手電力から切り離す発送電分離の議論が進んだ。

 分離形態は、大手電力の送電部門を分社化する「法的分離」を採用する。本体と送配電会社には資本関係が残るため、送配電会社には、本体からの人事異動を制限する▽意思決定へ本体の影響力を行使することを禁じる▽新電力を差別的に扱うことを禁じる−−などの制限を設ける方針だ。

 しかし、発送電分離は電力各社にとって「業界秩序を揺るがしかねない劇薬」(西日本の大手電力幹部)。電気事業連合会は小売り完全自由化などで譲歩の姿勢を示す一方、発送電分離には抵抗感を示している。「エネルギー政策や原子力リスクが不透明な中で組織形態の見直しを判断するのは経営に多大な影響があり、安定供給にも影響が及び得る」。電事連は8日、専門委に発送電分離に的を絞った意見書を提出した。組織変更に伴う不測の事態を防ぐため、原発再稼働などで供給力が回復するまで待つべきだとの主張だ。法的分離を認めれば、将来的に資本関係まで断ち切る「所有分離」に道を開きかねず、各社は今夏の参院選後の巻き返しを見据え、与党議員の説得活動に入っている。

 それでも政府が電力改革に踏み切るのは、参院選を控えて「電力会社寄り」との印象を持たれるのを避けたい思惑もある。政府は原子力規制委員会が安全性を確認した原発は速やかに再稼働を進める方針だけに、経産省首脳は「システム改革も緩め、再稼働も進める『両取り』はできない」と、改革断行の意思を強調する。

 今通常国会での提出を目指す改正電気事業法案には、発送電分離を進める税制上の優遇措置の構築など、必要な事務作業が間に合わず、自由化や発送電分離の実施時期は付則に記載するにとどめる。必要な法改正は来年以降に順次行う必要があるが、自民党内の「電力族」には、発送電分離などに慎重論が根強い。今後業界と一体となって巻き返しを図れば、法案提出が妨げられたり、改革内容が後退する可能性も依然残っている。【丸山進、宮島寛、和田憲二】

 ◇電気料金とは

 電気料金は既に自由化され電力会社が顧客と個別に交渉して決める「企業向け」と、国の規制のもと電力会社が管内に一律適用する「家庭向け」に分かれる。家庭向けは、電力会社が燃料費や人件費など電気事業に必要な「原価」を積み上げ、一定の利益を加えた額をもとに算出する「総括原価方式」で決まる。値上げには経済産業相の認可が必要で、東京電力は昨年、原発停止を補う火力発電の燃料費増を理由に32年ぶりの値上げを申請した。総括原価方式を巡っては、過大な広告宣伝費や社員専用の飲食施設の維持管理費なども「原価」に含まれていることが判明し、これらを原価から減額したうえで認可された。現在、関西電力と九州電力も値上げ審査を受けている。
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話題の発送電分離です。地域独占を打破し、電気市場を競争的にすること自体は、大変結構なことだと思います。ただ、その方法が「発送電分離」というのは、一定の条件が必要でしょう。というのも送電部門は、インフラ保守産業に共通することですが、「顧客の目」が「仕事の内容」にまで届きにくい上に、座っていてもカネが入ってくるので、手抜きしやすいという構造的な問題を抱えているからです。

近年、特にここ最近、インフラの保守・点検業務のイイカゲンさを身にしみて感じる事態が多いかと思いますが、それと構造的には同じです。通常の産業は、仕事(サービス)の内容に対する「顧客の目」が光っているので、各社は顧客に逃げられないよう日々、努力を重ねています。さらに、自分から積極的に営業に打って出ないと、いずれ顧客は他社に流れてしまいます。そして当たり前ですが、生産活動をやめたら(ラインを止めるとか)直ちに売り上げがなくなります。

しかし、インフラ保守産業の保守・点検業務は、顧客からすればサービスの内容は目に見えては分かりませんし、インフラだけあって、そう簡単に顧客は他社を選択することはできません。また、たとえば週3回の点検を週2回に減らしたところで、直ちに施設が壊れて収入が途絶えるということはないでしょう(もちろんモノにもよると思いますよ)。それゆえ、手を抜いたところで直ちに売り上げに影響しにくく、次第に手抜きが激化してゆく危険性があるのです。

また、発電部門と比べて収益を上げにくいという点もあります。発電部門は発電すればするだけ売り上げが伸びますが、送電部門は保守をがんばったところで、そんなに劇的に売り上げが伸びるわけではありません。むしろ、より多くの送電線使用料を手に入れるためには新規投資が必要ですが、その結果、手に入った送電線使用料の増加分の大部分は、その新規投資を回収するために消えることでしょう。もちろん、全く新しい送電ネットワークを作ったというのならば話は別(そういうインセンティブを付与するというメリットはあるかもしれない――お役所企業には、そんなことするインセンティブは乏しい――ので、発送電分離を一概に否定するつもりはありません)ですが、おそらく費用も膨大になるので、そう簡単にできるものではないでしょう。

さらに、発電と送電を分離することは、果たして電力供給システムを不必要に分断することにならないかという問題もあるでしょう。なんでも細分化すればよいというものではなく、ある程度のまとまりがあったほうが、システムとして円滑に動作するということもあります

かつてイギリス国鉄が、鉄道システムを「列車運行部門」と「線路保守部門」とに分離したがゆえに、線路使用料にあぐらをかい線路保守部門が保守・点検業務をおざなりにし、その結果として大事故を起こした教訓は、産業は違えども、電力業界に対しても示唆に富んでいると思います。

イギリス国鉄分割の失敗に関する書物『折れたレール〜イギリス国鉄民営化の失敗』に対する、ある方の書評を、勝手ながらご紹介させていただきたいと思います。
http://www.geocities.jp/aichi200410/broken_rails.html

とても参考になる内容なので是非ともご一読を薦めたいと思いますが、若干の意見を付け加えるとすれば、単純に「『公営ならいい』というわけでもない」という点については述べておきたいと思います。既に述べたように、インフラ保守産業は構造的に「手抜き」しやすい産業であるという点は決して見逃すべきではありません。「手抜き」は、官民を問わないのです

まとめたいと思います。先ほど少し触れましたが、「全く新しい送電ネットワークを作る」というインセンティブを付与するという点においては、発送電分離には一つの可能性があると思います。他方で、既に述べてきたように、デメリットもある。最大のデメリットは、「手抜きしやすい」ことであり、これは官民を問わない致命的な問題です。それゆえ、この問題は、「官か民か」のような旧式な二分法で考えることは不適当であり、危険であるとすらいえると思います。

手抜きさせないためには、「顧客の目」が何よりも大切でしょう。私はここで敢えて「国民の目」と「顧客の目」を区別したいと思います。区別の基準は「政治」と「経済」です。「国民の目」(政治的パワー)は、必ずしも企業に影響を与えられるとは限りません。東京電力をはじめとして、多くの巨大企業に対する国民の「無力さ」を見れば明らかだと思いますし、政治的に何らかの義務を課されたとしても、利益追求の抜け道はいくらでもあります。それに対して、「顧客の目」(経済的パワー)は、競争的な市場である限り、巨大な企業であっても致命的に作用することがあります。利益追求にダイレクトに、そしてスピーディ(政治の場合は意見集約に加えて民主的な討議と議決が必要だが、個々人の経済行動に議決は不要)ぶつかるからです。政治的パワーに比べて経済的パワーの方が発動させやすいのです。

ちょっと脱線するかもしれませんが、そもそも、市場メカニズムはある種の「投票行為」であります。通常の(政治的な)投票が「一人一票」の平等な影響力であるのに対して、「市場における投票」は、財力に比例した影響力である点は大きく異なりますが、自らの選好(好みや価値観)にあわせて自由に「候補者」(売り手)を選択でき、選択されなかった「候補者」は、市場から「落選」(淘汰)されるという点においては、類似していると思います。

なお、このあたりの詳しいことについて取り急ぎ知りたい方は、「経済計算論争」に始まる市場経済体制の計画経済体制に対する優位性なども、ご参考のひとつにしてください。だいぶ大きなレベルの話なので、語りつくそうと思うと大脱線してしまうので。もちろん、機会があれば取り上げたいと思います。

そういう意味では、ついさっき「「官か民か」のような旧式な二分法で考えることは不適当」といったばかりですが、どちらかというと、いわゆる「民」のほうが何かと動かしやすいのかな、とも思います。もちろん、繰り返しになりますが、「手抜き」は、官民を問わないので、安心はできません。また、冒頭にも述べたように、「顧客の目」がインフラ保守産業の仕事内容にまで届きにくい現在の構造を改善しなくてはならず、そのためには、官の監督が必要だとも思います。つまり、この問題は官民を問わない問題が根底に横たわっており、そして、その解決のためには従来型の官民の区別を乗り越えた方法で取り組まなければならないのではないかということなのです。その点、そこらへんの民営化論者と一緒にしないでいただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

ところで、少し変わって「発電」の話になりますが、「発送電分離によって発電が市場に委ねられるようになるので、供給が不安定化する恐れがある!」という意見をしばしば聞きます。なんとなく分からないでもない主張ですが、電力以外の我々の生活必需品(そのほとんどは市場に供給を委ねています)の供給は、言うほど不安定化しているでしょうか?

もちろん、個別企業レベルでは、供給がストップしたりすることはあるかもしれません。しかし、その場合、我々は他の会社から購入しています。現状の電力システムがどういう風になっているのか詳しくは存じ上げませんが、テクノロジーの組み合わせ次第では、主契約のA社からの発電がストップしたとしても、予備契約のB社からの電力に自動切換えできるのではないかと思います。

むしろ私なんかは、一つの発電会社に全てを任せるという方が、危なっかしい気がする次第です。独占企業なんてやりたい放題じゃないですか。それに対する政治的パワーの弱弱しいこと、弱弱しいこと。前掲のような主張を聞くたびに、「民間はアテにならないけど、御国は頼りになる」といったような意識が見え隠れします。しかし、我々の生活の大部分を支えているのは、実は「アテにならない」と言われている「民間」であります。もちろん、先にも述べたように官の適切な監督は不可欠ですが、「我々の生活の大部分を支えているのは『民』である」というのは、ゆめゆめ忘れてはいけないと思います。

昨今は、「官か民か」という選択を迫られることが多いように思います。しかし、この問題をはじめとして、「官でも民でも同様の問題がある」という場合もあるのではないでしょうか。また、伝統的な「官民選択」は、「産業間の二分法的な棲み分け」を暗黙の前提としており、「この産業は官営であるべきだ」「いや民営でいけるはず」といったような議論が延々と繰り広げられていたように思います。しかし果たしてそういう二分法的な棲み分けでいいのか。公共部門の要素と民営部門の要素を混合したような官民合作形態もあるのではないか。どうも、「世論」を見ていると、そういう風に思えて仕方ないのであります。旧ブログの頃から色々な場面で述べてきたことですが、二者択一的な選択は、その設問自体が誤っていると思います。新しいものは、二者択一の片方ではなく二者択一の融合体から生まれることの方が多いと思う次第です
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2013年02月04日

「ヨーロッパでは、、、」

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130203-00000050-mai-pol
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<本社世論調査>体罰認めず53% 一定の範囲で容認42%

毎日新聞 2月3日(日)21時50分配信

 毎日新聞が2、3両日に実施した全国世論調査で、大阪市立桜宮高校で男子生徒が体罰を受けた翌日に自殺した問題を踏まえ、体罰についてどう思うかを聞いた。「一切認めるべきでない」との回答が53%と半数を超える半面、「一定の範囲で認めてもよい」との容認派も42%を占めた。

 男女別にみると、男性の「認めてもよい」は54%で、「認めるべきでない」(43%)を上回った。一方、女性の「認めるべきでない」は62%。「認めてもよい」(32%)を大きく上回り、男女で顕著な差が出た。年代別では20代と30代で「認めてもよい」が、「認めるべきでない」より多かった。

 大阪市の橋下徹市長が同校の来年度の入学試験(体育系2科)を中止するよう求めたことに対しては、「支持しない」(53%)が、「支持する」(40%)を上回った。【中田卓二】
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体罰に対しては、メディア報道を見る限り、かなり風当たりが強い昨今ですが、「体罰認めず53% 一定の範囲で容認42%」だそうです。なにかコトが起きると一気に一方向に傾きやすい日本の世論の割には、今回は拮抗していますね。いや、相当のもんですよ、これは。やはり、根強い支持があるんでしょう。

一定の範囲で容認する方々の多くはやはり、生活指導における体罰を念頭に「時と場合によっては必要だ」と考えておられるのでしょう(スポーツにおける体罰的指導をも認めている方もいらっしゃるんだと思いますが)。我らが風見鶏;橋下市長は世論の敏感な変化を見事に「代弁」しておられます(以下、引用記事第3段落太字部分――太字処理はブログ管理者による)。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130201-00000513-san-soci
>>> 生活指導「体罰認めるか、出席停止を」 橋下氏が発言 桜宮高2自殺

産経新聞 2月1日(金)9時0分配信

 大阪市立桜宮高の体罰問題に絡み、橋下徹市長は31日の定例会見で、生活指導の現場での体罰について、「ある程度の有形力の行使を認めるか、それとも一切禁止の代わりに生徒を出席停止とするのか、どちらかの大きな方向性に行かないといけない」と述べた。

 橋下市長はスポーツ指導での体罰は絶対禁止とする一方、全市立学校の調査を行い実態解明が終わるまでは生活指導での体罰について判断を保留しているが、具体的な方策を例示したのは初めて。

 橋下市長は生活指導での体罰の必要性について「何が許されて何がだめなのかは、正直、僕もわからない」と述べた。ただ、桜宮高の体罰問題が発覚して以降、「小中学校の生徒が調子に乗って(何かあったら)『体罰だ』『体罰だ』と言っており、クラス運営で先生が相当悩んでいる」とも指摘。実態調査を踏まえ、学校現場で教員をサポートするためのガイドラインを提示する意向を示した。

 体罰を一切認めない場合には「出席停止やクラスから放り出すような措置をやったらいいじゃないか」と話した。

 橋下市長は過去にいじめ対策として加害者の出席停止や特別施設での更正の必要性に言及したことがある。
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良くも悪くもこれが現実なんですよね。少なくない国民が支持している。この事実は大きいです。しかし、こうした現実を朝日新聞は、「愛のムチ信仰」などと称して、体罰容認派の発言こそ収録するものの、その発想の根底に迫ろうとはしない記事を配信しています。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130203-00000032-asahi-soci
>>> 体罰は根絶できるのか? 根深い「愛のムチ信仰」

朝日新聞デジタル 2月3日(日)21時3分配信

 運動部の厳しい指導はどこまで許されるのか。大阪市立桜宮(さくらのみや)高校で体罰を受けた男子生徒(17)が自殺した問題が、学校現場に重い課題を突きつけている。文部科学省は、しごきや過度の反復練習なども体罰にあたる可能性があるとして基準づくりに取りかかる方針だが、根強い「愛のムチ信仰」が立ちはだかる。

 桜宮高校の体罰が明らかになって以降、全国で部活動顧問の日常的な体罰が相次ぎ発覚している。愛知県立豊川工業高校や京都市立花山(かさん)中学校では、生徒にけがをさせ、注意されても繰り返す悪質な体罰が判明。豊川工業高では教育委員会に報告もしていなかった。

 さらに、アマチュア競技の頂点を争う柔道女子日本代表監督の暴力まで明るみに。五輪招致の障害になりかねないと、下村博文文科相は日本オリンピック委員会に、日本のスポーツ界全体の問題として再発防止策を早急に検討するよう要請した。スポーツ指導の体罰を長く容認してきた実態が改めて批判をあびている。

 だが関西の私立高で陸上部顧問をつとめる男性教諭は今も「体罰と受け取られるかどうかは生徒との信頼関係による」と断言する。

 生徒ごとにやる気や素養を見極め、接し方や言葉を変えている。後に日本代表になった生徒が練習に身が入っていなかった時は、「お前は皆の手本になる選手だ」と他の部員の前で頬をたたいた。この選手も「先生のビンタで目が覚めました」と振り返る。「服従させたりうっぷんを晴らしたりする体罰はだめだが、一律に線引きされれば指導者の個性も発揮しづらくなる」と教諭。
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「信仰」という単語を使って論敵を「彼岸」に押しやり、自らを「良識」を前衛に位置づけてしまうのは、左翼系のいつもの悪い癖ですよね。朝日の平常運転だといってしまえば、それまでですが。

事実として、体罰容認の意見が少なくなく、そしてそういう意見を構成要素として世論は形成されているわけです。おそらく時の経過とともに、橋下市長が懸念しているように、クラス運営で相当悩む先生が出てくるでしょう。現に、小田原の中学校では、昨今の体罰問題とは少し問題の所在が異なる事態(少なくとも世論はそう見ている)が発生しており、これに関しては、平手打ち擁護論とスポーツ指導における体罰と混同するマスコミの報道姿勢に対する懸念が少なからず見られます。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130202-00000089-mai-soci
>>> <体罰>「ハゲ」と言われ生徒16人平手打ち 神奈川の教諭

毎日新聞 2月2日(土)22時34分配信

 神奈川県小田原市教育委員会は2日、市立中学校で50代の男性数学教諭が、2年生の男子生徒16人の頬を平手打ちする体罰を加えていたと発表した。生徒にけがはなかったとしている。教諭は複数の男子生徒から暴言を受けて立腹し、発言者が誰かを問いただしても名乗り出なかったことから、教室内にいた男子生徒全員をたたいたという。【澤晴夫】

 市教委によると、1日午後2時15分ごろ、6時限目の授業開始に遅れた男子生徒に対し、教諭が教室出入り口で「なぜ、遅れたのか」と注意していたところ、教室内にいた複数の男子生徒から「ハゲ」「バカ」「死ね」などの暴言があった。教諭は男子生徒に「誰が言ったのか」と聞いたが、誰も答えなかったため、遅れて入室した生徒を除く教室内にいた男子生徒16人を廊下で正座をさせた。再度発言者を問いただしたが、名乗り出なかったことから全員の頬を平手で1回ずつたたいたという。

 教諭は授業終了後、校長に体罰をしたことを報告。理由について「許せなかった。正々堂々と名乗ってほしかった」などと話したという。学校側は体罰を受けた生徒全員から聞き取りをした上で、校長が市教委に報告した。2日午前、体罰を受けた生徒と保護者を学校に呼び経緯を説明した後、教諭や校長らが謝罪した。

 市教委は「駄目なことは駄目という、一本気で情熱的な教諭」と評価するものの、県教委の処分が決まるまで授業をさせない方針で、「どんな理由があっても、体罰は暴力であることを徹底したい」と話している。
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ことによれば、賛否が更に拮抗することもありえ、逆転もあるかもしれません。そうしたリスクは考えないのでしょうか?

もっとも、「ヨーロッパでは、、、」などと言い出す人物も出てくるのに比べれば、前衛気取りしている分には、まだカワイイもんでしょう。会員記事ながら日経新聞電子版が以下のような記事を配信しました。無料会員でも読めるようなので、関心のある方はログインしてご覧ください。
http://www.nikkei.com/article/DGXZZO51253450R00C13A2000000/
体罰とは無縁…欧米の「選手優先」のコーチ哲学

もちろん、資料として参照する分には構わないと思います。むしろ、大いに参照して自己を相対化すべきでしょう。問題は、日本では「ヨーロッパでの成功事例」を根拠に、そのままアイディアを持ち込み、実践しようとする傾向が今も昔も根強いところにあります。

本件に限らず、日本人は「ヨーロッパ信仰」があるのか(あると思いますけど)、何かと「ヨーロッパでは、、、」というセリフが好きです。「"先進""文明"国」への無邪気な憧れなのか、それともそうした国々の事情を知っているとインテリっぽく見えるからなのかは知りませんが(マルクス主義業界なんて凄いですよね、日本のマルクス主義研究は世界屈指でしたが、それは恐らく欧米コンプレックスの裏返しなんでしょう)。

「ヨーロッパでの成功事例」は、ヨーロッパの文化的風土があってこそ成り立つものです。人々の考え方、価値観がヨーロピアン・スタンダードの範囲内におおむね収まっているからこそ、システムとして成り立つのです。哲学の表面だけ急に持ってきたって、前掲のような世論調査結果が歴然として聳え立っている日本、悪ガキには平手打ちくらいして当然と考える人も少なくない日本において、果たして根付くのでしょうか?

日経記事は、私はログインして読みましたが、言っていることは分からなくもないが、すごく時間のかかる話だろうなあという感想が正直なところです。記事の最後のパラグラフの題名は「監督の腕の見せどころ」なんですが、「ああ、やっぱりそこになるのね」という、若干のガッカリ感を伴うものでした。

私は、物事の変化において「飛躍」はないと考えています。仮に「飛躍」な変化があったとしても、それは通常の変化のスピードが目まぐるしく早いだけで、なにか近道やジャンプしているわけではないと考えています。我々の現実、スタートラインは、冒頭に挙げた世論調査結果であります。どんなに急いだって急に「ヨーロッパでは、、、」の境地に到達することはできません。

その点、文科相発言は一番現実的だと思います。これが我々の第一歩なのです。それを「情けないほどの後進性」と見るか「これで十分」と見るかは、人によるでしょうが。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130124-OYT1T01095.htm
>>> 体罰か懲戒か、線引きを改めて明確に…文科相

 下村文部科学相は24日の衆院文部科学委員会の閉会中審査で、学校教育法で禁じられている児童、生徒らに対する「体罰」について、「(同法で認められている)懲戒との明確な区分について、改めて明確にする」と述べ、曖昧とされてきた体罰と懲戒の違いを明確に定義づける考えを示した。

 文科省は今後、体罰と懲戒の厳密な定義付けを検討し、各都道府県教育委員会などに対して、詳細な具体例などを明示した通知を出す。

 閉会中審査は、大阪市立桜宮高校の2年男子生徒が体罰を受け自殺した問題などを受けて行われた。

 同省は2007年2月、体罰と懲戒の線引きに関する通知を出し、「殴る」「蹴る」「正座」などについて体罰と規定した。ただ、通知では体罰か懲戒かを「機械的に判定することが困難」として、判断を現場の教師に事実上委ねている部分もあり、「教育現場を混乱させている」との指摘が出ていた。

(2013年1月24日20時47分 読売新聞)
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朝日のような理想郷志向の前衛気取り、日経のような欧米信仰は、事態の改善にはほとんど役に立たないのではないかと思います。重要なのは、「我々の主体(チュチェ)は何処の誰なのか」「主体はどういう状態にあるのか」という視点だと思います。「到達点」と「参考資料」はその次に持って来るべきものでしょう。観点と立場が定まらないうちから「到達点」も「参考資料」もあったもんじゃありません。

もっとも、「アホな大衆をヨーロピアン・スタンダードで導いてやる」という、前衛というか、宣教師というか、、、みたいな考え方、つまり「主体は文明の伝道者たるわたし!」なのかもしれませんけどね。知り合いに新聞社の社員がいるんですが、どうも徐々に「わたしが導いているのよ!」的な考え方になっているようで。。。
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2013年02月01日

「オレのカネ」

「駆け込み退職」問題について、報道を引用しつつ少々。なお、以下引用記事中の太字処理、下線処理は当方によります。

タイムリミットは昨日までだったので、人数が出揃ったようです。
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG3105Q_R00C13A2CC0000/
>>> 埼玉、駆け込み退職153人 県教委は100人臨時採用
2013/2/1 11:46

 地方公務員らの「駆け込み退職」問題で、埼玉県教育委員会とさいたま市教委などは1日までに、2月の退職手当引き下げを前に、教員ら153人が1月31日付で退職したと発表した。

 退職者の内訳は養護教諭を含めた教員が104人(教頭3人、学級担任30人)、県職員33人、学校職員16人。1月下旬に問題が発覚した後、6人が退職を撤回した。県立高教頭や小学校教諭らで「子供たちのために最後まで勤務したい」などと話したという。

 県教委などは、授業などに支障がないよう約100人を臨時採用し、2月1日から各校に順次配置する。任期は3月末まで。県教委は「必要な教員はほぼ確保した。大きな混乱は起きないと考えている」としている。

 改正条例は、国家公務員の退職手当を減額する法改正を受け、昨年12月の県議会で可決、成立した。勤続35年以上の職員が3月末まで勤務すると現行制度より手当は約150万円少なくなる。年度末まで勤務した場合、2カ月分の給与を考慮しても約70万円少ない。〔共同〕
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結局153人が「駆け込み退職」したそうです。しかし、今年度の県の定年退職者は、およそ1300人だということなので、1割程度でしかありませんね。

こうなったこと自体は、制度設計から見て、目に見えたことでした(思ったより少なかったけど)。人間なんてこんなもんですよ。カネ、カネ、カネ。しかし、教員が圧倒的な人数を誇っているのが気になるところです。「人間なんてこんなもん」とは言っても、庁舎でデスクワークに従事している一般職員ならまだしも、ふだんは子供たちを相手にお花畑みたいなことを言っている教員が、いざ自分のカネになると急に超現実主義者になってガツガツしはじめるってのは、笑うに笑えませんね。

当事者は次のように述べています。
http://mainichi.jp/select/news/20130201k0000e040219000c.html
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駆け込み退職:唐突な制度改革に怒り…教諭が心情

毎日新聞 2013年02月01日 14時31分(最終更新 02月01日 18時26分)

 ◇「働いた方が損をする。こんな失礼な話はない」

 退職手当の引き下げ前に教員が退職を希望した「駆け込み退職」問題。早期退職を決断した埼玉県立高の男性教諭(60)は1月31日、教員人生を締めくくる最後の授業に臨んだ。「一生をささげた仕事。生徒を思っていなければ60歳まで続けられるわけがない。最後をこんな形で終えるのは悔しく、残念でならない」。毎日新聞の取材に、苦渋の決断を下した胸の内を明かした。

 教諭は英語を担当し、2年生の副担任を務めた。2月からの退職金減額については昨年12月中旬、校長から説明があった。試算表を見ると差額は約150万円。3月末まで勤めた場合の給与を考慮しても、70万円の減額になる。

 1人暮らしでローンの返済はない。生活が切迫しているとは言えなかった。だが、唐突な制度改正に怒りがこみ上げた。「身を削り働いてきたのに、働いた方が損をする。こんな失礼な話はない。『要らない』と言われたようだった」

 2年前から肺の病気などを患い、体力の限界を感じてもいたが、生徒の顔を見るたびに心は揺れた。何と言えばいいのか。年度途中で仕事を投げ出し、同僚にも迷惑をかける。始業式のあった1月8日に「早く決めなければ後任が探せず、迷惑をかける」と早期退職を決断した。同僚も「こんな不条理な制度を我慢して受け入れないで。1月末で辞める選択をしてもいい」と背中を押してくれた。

 「教員が途中で辞めるのは無責任」「生徒がかわいそう」「制度が悪い」。早期退職を巡る批判や擁護が報じられる中、自分も1月で辞める教員だ、と生徒に説明した。

 最後の授業。「今回の件で、人にはいろいろな立場や思いがあることを知ってほしい。嫌な辞め方だったけど、君たちと過ごせたことは最高の思い出です」。そう締めくくると、生徒たちは「ありがとうございました」と感謝の言葉を返してくれたという。【林奈緒美】
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擁護できるポイントがなかなか見つからなかったというのが正直な感想です。生活が苦しいというのならば、仕方ありませんが、そういうわけでもない。

しいて言えば、「働いた方が損をする。こんな失礼な話はない」というのは、そのとおりなんですが、それをいうなら以下の記事の第4段落の太字部分のほうが説得的です。
http://www.saitama-np.co.jp/news02/01/08.html
>>> 「駆け込み退職」に苦言や制度批判272件、退職金削減に賛成も

 退職手当が2月1日から引き下げられるのを前に県教職員の「駆け込み退職」が相次いだ問題で、県にメールやファクス、電話などで寄せられた意見は31日現在で計272件(県教育局で受けた146件を含む)に上った。県に苦言を呈したり、退職する教員や制度を批判する内容が大半を占めた。

 件数は早期退職が報じられてからの累計。上田清司知事は1月22日の定例記者会見で「担任が辞めるのは不快。無責任のそしりを受けてもやむを得ない」などの考えを述べていた。

 県広聴広報課によると、県に対する主な反対意見は「無責任なんて言えるのか。早期退職すれば得するような退職金に設定したのは、そもそも県ではないか」(女性)、「4月1日からにすれば、寂しいことにならなかった」(男性)、「あなた方の制度設計の間違いが一番の原因。意図的に職員に踏み絵を踏ませたのかと、勘繰りたくなる」(男性)など。

 一方、退職金削減について「本当に素晴らしいと思う。赤字なのに職員が民間より多くの退職金をもらい、それで足りないから交付税を受けるなんて、おかしいので」(女性)との賛成意見も。

 退職する教員に対しては「金のために担任まで生徒を放り出し、最後まで職を全うしないのは、まさに責任放棄と言われても仕方ない。早期退職を認めないか、何らかの処分の対象にしてもいい」(男性)との厳しい指摘や、「子を持つ親としては、今どきの教員なんてそんなもんかという気分」(女性)という嘆きもあった。

 また、中には「経済的な損失を考えて退職する教員もいるだろうが、今回の減額措置に対して、抗議の意味合いで退職する教員もいると思う」(男性)と、教員のやりきれない思いに同情する声もあった。
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結局、太字処理した部分が全てだと思います。たしかに急に退職金を引き下げられるのは不満だというのは、とても良く分かるんですが、「そもそも、以前の金額は財政力から考えて妥当なのか」という視点は何処に行ったのか。退職金は「給与の後払い」であるわけですが、であればこそ、「全体の業績」次第で減額だって十分あり得る話です。どうも、「全体のことよりもオレのカネ」といった「自己都合中心」の懸念が拭えないんですよね。。。

下線部分は、「自己都合中心」を見抜いた見解であると言えると思います。当事者は色々と言い訳していますが、すればするほど自分で自分を貶めているように見えてなりません。

良くも悪くも日本人は、とても「世間を見据えた視野」を持った人たちです。ギリシャのデモに対する日本人の冷ややかな、あきれて半ば無視しているような反応を見れば分かると思います。そういう人たちに共感してもらえるような「世間を見据えた視野」をも含めた主張をしないと、「結局、いろいろ言っているけど自分のカネなんでしょ?」と思われるだけでしょうね。

予想外に9割近くの人たちが、損をしてでも職務を全うしようとしているのも、「世間を見据えた視野」があるからなのかもしれません。
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