2013年03月30日

先入観を持たないではいられない

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130328-00000835-yom-sci
>>> 「催眠術に…」立川断層の誤り、おわびの教授

読売新聞 3月28日(木)16時51分配信

 「混乱を与えて申し訳ない」。人工物を岩石と取り違えるなどのミスが明らかになった立川断層帯の掘削調査。

 28日の記者会見で研究者はおわびの言葉を繰り返した。地元自治体は冷静に受け止めつつ、「市民は引き続き警戒を」と呼びかけている。

 「一種の催眠術にかかっていた」

 立川断層帯の地質構造を見誤った佐藤比呂志・東京大学地震研究所教授は、会見で謝罪の言葉を重ねた。佐藤教授とともに現場で調査にあたった石山達也同研究所助教も、「住民、社会に混乱を与えたことを申し訳なく思う」と頭を下げた。

 誤りの原因について、佐藤教授は「断層を予想していた場所に人工物があった」とした上で、「バイアス(先入観)があったと思う」と厳しい表情を浮かべた。

 佐藤教授は東北電力東通原子力発電所の敷地内の断層調査にもかかわっており、調査チームは今年2月、「活断層の可能性が高い」との報告書をまとめている。辞任の意向を問われ、佐藤教授は「資質がないので辞めろというなら職を辞したいと思うが、引き受けた限り、研究者として責任は全うしたい」と述べた。
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最終更新:3月28日(木)16時51分
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「先入観があった」とのことです。では「先入観を排して、中立的に調査・研究すべきだ!」というべきかといえば、これほど言うは易く行うは難きことはありません。それどころか、以下で述べるように、むしろそこにこそ、恐ろしい事態を引き起こす罠が潜んでいるのではないかと思います。

人間の科学は、まったく何もない所から調査・研究を通じて結論をこしらえるのではなく、何らかの前提や仮説を想定(先入観が入り込む余地!)して調査・研究をするモノです。一般的には、帰納と演繹を繰り返すことによって前提や仮説も含めて事実性を徐々に検証し、理論を構築してゆくものですが、多くの場合、人間の科学的能力に比して自然界の「奥深さ」が計り知れない以上、理論が「完成」するケースは、そうざらにあるものではないと思います。それゆえは、「多くの理論は、永遠に検証途上の仮説」と言わざるを得ず、それはつまり、「多くの理論には、先入観がまぎれている可能性が常にあり、それを克服するのは困難である」ということになるでしょう。仮に人間の科学的能力が「完成」に到達できるほどのものであったとしても、到達するまでの間は、やはり検証途上の仮説であり、先入観がまぎれている可能性が常に付きまといます。事実として多くの科学分野において未だ人間は「探求中」です。それゆえ、もっとも楽観的な進歩主義的立場に立ったとしても、「先入観を徹底的に排するほど人間は進歩しておらず、現状においては、多くの理論には、先入観がまぎれている可能性があり、それを克服するのは、当面、困難である」と認めざるを得ないと思います。

また、自然科学の世界ではあまり問題にならない(本当は問題にしたほうが良いんですけど)ことですが、これが社会科学の世界になると、ここに観点と立場の問題、すなわち、事物対象を調査・研究するに当たっての「立ち位置」ないしは「視座」の問題が生じます。自然科学の世界では、ほとんどの場合、視座は「人間」になると思いますが、社会科学の場合は、広く「人間」という視座がとられることはそれほど多くなく、むしろ階層(一昔前なら階級)単位で把握されることが多いのではないでしょうか。当然のことながら、同じ事物対象を調査・研究するとしても、視座が異なれば見えてくる性質も少しずつ異なってきます。視座の差異は結論の差異につながるのです。

以前の記事でも述べたように、特定の観点・立場に固定化するのは問題です。しかし他方で、人間が事物対象を調査・研究するに当たっては特定の観点・立場から出発するしかないのも事実です。「事物対象をトータルに把握するためには、上空から見るが如く観察すべきだ」という、もっともらしいご意見もあるかと思いますが、それもまた「上空」という特定の観点・立場です。偵察衛星は地下壕の中までは見通せません。つまり、「先入観は持つべきではないが、先入観を持たないではいられない」わけです。さて困りました。

ここで大切だと思われるのは、「先入観を排して、中立的に調査・研究すべきだ!」と出来もしないことに血道をあげるのではなく、むしろ開き直って、「私の見解には、私独自の先入観があるかもしれません」と正直に告白することであると思います。その上で、多様な先入観を持った多くの人々が調査・研究のフィールドに参入し、見解を発表しあうことによって、「もっともそれっぽい」ものを形成するしかないと思うのであります。「定説」が難しいなら、「通説」でしのぐしかないのではないかと思うのです。ちょうど、モノの価値が市場の情報集計機能によって測られるように。限界効用価値説、労働価値説を問わず、モノの価値は市場によって相場が決められます。特に限界効用価値説の方が分かりやすいと思いますが、ある商品に対してAさんが、その価値観に照らして「高価値」だと判断し、力説したとしても、他の人々が押しなべて「それほどでもない」と評価すれば、その商品の価値は「それほどでもない」と判定されます。もちろん、科学的見解を否定するものでは決してありませんし、多数決が正しいだなんて言うつもりもありません(むしろ普段は「民主主義」に懐疑的なコメントすらしていることを忘れないであげてください)。しかし、科学的見解の限界を見据え、それを絶対視せずに、次善の策を講じておく必要があると思うのです。

そうした方法の最大の脅威は、「特定の観点・立場に固定化すること」ではなく、「特定の観点・立場以外を知らない、知ろうとしない」こと、つまり、「特定の観点・立場に絶対視すること」です。具体的には、たとえば一つには、「私は、中立的で先入観を排した調査・研究を行っている。それゆえに私の結論は科学的に正しいはずだ」という思い込み、すなわち「先入観を排して、中立的に調査・研究すべきだ!」の陥りがちな罠が挙げられるでしょう。なお、あくまで「罠」であって「必然的帰結」ではありません。既に述べたように、科学的見解を一概に否定するものではありません。

歴史的実例としては、教条的なマルクス・レーニン主義者がこういう態度をとっていたのが有名でしょう。「マルクス・レーニン主義の世界観は科学的に正しく、その結論は物質世界の普遍的法則として成立している。だから、マルクス・レーニン主義をベースに構築した我が理論は正しくないはずがない! 反対者は非科学な観念論者か反革命イデオローグだ!」という調子ですね。で、その結果がルイセンコ事件でした。

幸いにしてルイセンコ説はもはや相手にされておらず、教条的なマルクス・レーニン主義者も今やほとんど生き残っていません。しかし、「特定の観点・立場に絶対視すること」は未だにあちこちで発生しています。たとえば本件の「断層の存在」(地震学や地質学になるのかな?)についても、それについて疑義を呈せば、問答無用で「原子力ムラの御用学者だ」といった罵声を浴びせかけられる場合があります。そうした罵声の背後には、「断層はあるに違いないのに、それを否定するのは原子力ムラの関係者だからだ! あんな奴らのいうことは絶対に信用ならない」という思考があるでしょう。これはある種の「絶対視」です。あるいは、当ブログにおいて以前より何度も取り上げてきた、いわゆる「感情屋」もまたそうした性質を強く持っていると思います。「被害者の感情」を取り上げることは大切なことだと思いますが、それを絶対視してそれのみを主張するのは現実的ではありません。もちろん、「人権屋」が「加害者の人権」を取り上げることも大切ですが、やはり絶対視してそれのみを主張するのは現実的ではありません(※ちなみに、「感情屋」というのは私の(センスのない)造語ですが、もともと「人権屋」との対比で設定したものです。すなわち、「人権屋」が「加害者の人権」を絶対視してそれのみを主張するのと好対照をなすように、「被害者の感情」を絶対視してそれのみを主張するのが「感情屋」なのです。そういう意味で、両者は主張内容は真逆ですが、似たもの同士なのです)。

そう考えると、昨今の地震学や地質学をめぐる情勢は危うい道に入り始めているのかもしれません。幸いにして地震学や地質学で感情むき出し・イデオロギー丸出しにする人は、そう多くはありませんが、構造的に見て、感情屋問題や教条的なマルクス・レーニン主義者の問題といった、まことに恐ろしい現象と類似したところがあるのです。そしてそれはつまるところ、「特定の観点・立場に絶対視すること」に起因しており、「先入観を排して、中立的に調査・研究すべきだ!」という良くありがちな主張の陥りがちな罠なのです。

ちなみに、当ブログで最近、特に更新再開後に「左翼批判」に力を入れているのは、過去ログをご覧いただければ一目瞭然かと思います。なぜ、約2年の空白があったにしても、取り上げるテーマがガラっと変わったのか。実はガラッとは変わっていません。感情屋研究と批判のために、よく似た行動様式を持っている左翼を取り上げているのです(実は更新停止前から構想はしていました)。いくらかの「転向」はあるにはあり、そうした見解があちこちに散りばめられているのは事実ですし、ときに「左翼研究・批判のための左翼関係記事」も書いていく予定ですが、今のところ主たる目的は「感情屋研究・批判のための左翼関係記事」です。その点をご了解いただければと思います。
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2013年03月28日

官民協働の供給

最近、取り上げる話題がタイムリーさに欠けていています、申し訳ありません。
以下、いつものように引用部分における太字化処理は当方によります。
http://www.asahi.com/national/update/0315/TKY201303150456.html
>>>中学校給食、突然中止に 東京・狛江市、契約更新できず

 【平山亜理】東京都狛江市のすべての市立中学校の給食が4月から中止されることが15日、分かった。市教育委員会と契約していた民間業者が2013年度の契約を更新しないためだ。市教委によると、4月までに代わりの業者が見つからず、中止せざるを得ないと判断した。文部科学省によると、きわめて珍しいケースだという。

 給食が中止されるのは、市立の四つの中学校。生徒と教職員計約1500人の7割が食べている。同市の小学校は自校で調理しているが、中学校は、市教委の栄養士が献立を考え、民間会社の「三鷹給食センター」(三鷹市)が調理し、各校に届けている。

 同センターの松山賢司社長が、市に契約を更新しないと伝えたのは、2月27日。市の担当者は「あまりに急なことで、対応できない。せめて、半年前には言って欲しかった」などと頭を抱える。学校給食は調理から2時間以内に配食するよう、学校給食法による基準で決まっている。市内や周辺では条件に合う業者がなく、新たに別業者を探すことが難しいという。
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関連して、狛江市関係者は以下のように述べています。
http://www.city.komae.tokyo.jp/index.cfm/11,43152,83,1573,html
>>>○パネリストの発表

(小泉委員長)

 始めに中学校給食の課題についてだが、衛生管理が課題としてある。先ほど事務局報告でもあったとおり、中学校給食では異物混入等の課題があった。現在においては、市栄養士の毎日の派遣や衛生管理指導の徹底等の改善に努めた結果、件数は減少したものの、コスト重視の民間企業による民設民営の調理委託では安全安心な給食に限界があることがわかった
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「コスト重視の民間企業による民設民営の調理委託では安全安心な給食に限界がある」そうです。一理あると思います。はてブでも指摘されていますが、給食のように、その目的と性質からいって、質の高いもの――本来ならそれ相応の価格設定が必要となります――を、どうしても安価に提供しなければならないとなると、その結末は「価格統制」としてあらわれます。となれば、慈善事業でないのですから、どうしてもどこかで帳尻をあわせる必要が生じます。普通であれば支払うべき水準の対価を払わないで買おうとすれば、どこかで手を抜いている売り手しか居ないのは当然であり、別に「民設民営の調理」がケシカランというわけではなく、当たり前すぎることです。我々が普段食べている様々な食料品のほとんどは「民設民営の調理」のものです――というか公設公営の調理品ってパッと思い浮かばない。日本にコルホーズ・ソフホーズなんてあったっけ?――が、安いものは安いなりのクオリティと安全性しかないのは、生活感覚からも良く分かるかと思います。

そういう「教訓」をうけて狛江市は以上のような見識に至ったようで、それを元に以下のような展望を描いています。この展望が今回のテーマです。前掲ページの続き。
>>>質疑:今回の将来的な計画によると、給食センターを市で建てることによって新規の栄養職員2名の採用枠ができると考えられるが、そういった増員は考えているのか。

回答:現在は民設民営で行っているが、給食センターが建てば、公設民営を予定している。運営に関しては財政事情もあり、業者委託の予定だが、給食の実施主体者として教育委員会が積極的に関わっていく。また、職員配置の増員等については、東京都や市長部局と調整する。
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「民設民営」は前掲の理由から難しいので、「公設民営」にするとのことです。ここで注目したいのは、「民設民営がダメ⇒公設『公営』にする!」という発想ではなく、「公設『民営』にする」という正しい選択に至った点です。

当ブログでも以前から触れているように、どうも現在の日本は、「官か民か」という単純な二分法がまかり通っているように思います。それに対して私は以前――たとえば2月9日づけ『発送電分離問題と「官か民か」の不毛な二分法』――より、そうした単純な二分法ではなく、公共部門の要素と民営部門の要素を混合したような官民合作形態もあるのではないかと述べてきました。それゆえ、今回の「公設民営」という展望はとても評価できるものです。

たしかに、前掲の理由から給食事業はコスト重視の体質にはそぐわず、冒頭でご紹介した朝日新聞記事のように、民間の事業者のほうから撤退を申し出てしまうような不採算事業でしょう。民間事業者による供給がない以上、公共部門の関与は不可欠だと思います。しかし、それがそのまま「公設公営」の事業形態になるかといえば、そんなことはないと思います。役所・公務員に限らないことですが、いままで全く経験のない人たちが必要に迫られたからといって急に新事業に手を出して上手く良くかといえば、そんなことはないでしょう。「餅は餅屋」といいますが、まさにそのとおり。無理に「公設公営」にこだわらなくても、設置主体は「公」であったとしても、実際の実行主体は、熟練した「民」という方法はあってよいと思います。

そもそも、アダム・スミスの昔から公共事業を是認する論拠は、「社会資本として必要な財・サービスだが、民間部門による供給がなされない場合は、公共部門が税金を使って供給すべし」ですが、この主張は徹頭徹尾、公共部門が財・サービスを供給するように要求しているわけではありません。補助金の支出などで不足分を補填し、供給を実現させるというのは、別に目新しくも何ともないことです。

今述べたように、こんな大演説を打つほどの話でもないのですが、どうも昨今の二分法を見ていると一言のべておきたくなってしまいました。「餅は餅屋」、何も目新しい話ではありません。妙な二分法にとらわれるのではなく、手段や実行主体に固執するのでもなく、手持ちの資源を柔軟に活用して目的に沿う最善のプランを選択すべきでしょう。その上で大切なのは、前掲2月9日づけ記事の末尾にも書いたように、「新しいものは、二者択一の片方ではなく二者択一の融合体から生まれることの方が多い」という認識だと思います。
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2013年03月26日

庭師のように

全教・共産党のいう「子どもや教職員、保護者の思いや意見を反映させること」とはこういうことだった!
http://mainichi.jp/area/hyogo/news/20130323ddlk28040442000c.html
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体罰隠し:隠ぺい問題で高砂市教委、内部調査に課題 体罰、小中学校で33件 /兵庫

毎日新聞 2013年03月23日 地方版


 文科省の公立学校体罰実態調査に対する野球部父母会の隠ぺい工作問題で、高砂市10+件教委は22日、内部調査について三つの課題を挙げ学校側を指導。同調査で市内の小中学校の体罰は計33件(2月末現在)と明らかにした。

 市教委は22日の記者会見で、校長に対して、校内での父母会会長(52)や監督(33)への事情聴取(2月21日)に関し(1)会長の動機をつかんでいなかった(2)聴取対象の監督を会長への連絡係にした(3)詳細な聴取が必要との認識が欠けていた、と指導したとした。

 指導を受けた校長はこの日、会長に動機の説明を求め、会長は「数人の(父母会)役員と話をし(実行し)た」と答えたという。

 会見と並行して開かれた市議会文教厚生常任委では、監督の教育態度が問題視された。「興奮しすぐたたく」など、生徒の声が紹介された。市教委はすでに県に事実関係を報告。毎日新聞取材に「監督らの処分が必要と考え意見を付けた」とした。【高橋一隆】

〔播磨・姫路版〕
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http://www.sponichi.co.jp/society/news/2013/03/22/kiji/K20130322005452850.html
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高砂市教育長、口止め影響認める…「体罰あり」実際は7件


 兵庫県高砂市の体罰に関するアンケートに対し、市立中学校の野球部の父母会役員が、体罰はなかったと回答するよう保護者に口止めを働き掛けていたことが22日、市教育委員会への取材で分かった。問題発覚後に、学校が再調査したところ「体罰があった」とする回答は当初の1件から7件に増えた。

 円尾喜世司教育長は同日の記者会見で、口止めの影響があったとの認識を示した上で「あってはならないことで遺憾」と述べた。

 市教委によると、アンケートは文部科学省の通知に基づき実施。2月中旬に市内約15の小中学校の保護者らにアンケート用紙を配布したが、兵庫県教委に匿名で口止めについての情報提供があり、市教委が聞き取りを進めていた。

 口止めは父母会役員らが発案し、他の保護者に電話やメールで「監督やほかの顧問の関与はなかった」と回答するよう要請。部の監督を務める教諭らは関与していないとするが、校長は一部の保護者からのクレームで問題に気付いていた。

 市教委によると、7件の体罰のうち4件は監督の教諭、残り3件は部顧問の教諭1人と臨時講師2人によるもの。頬をたたいたり、脚を蹴ったりしたなどの内容で、生徒にけがはなかった。

 また、1度目の調査で体罰があったと答えた保護者を父母会役員が把握し「体罰のあった時期をアンケートが対象とする期間から外してほしい」と求めていたことも判明。アンケートは昨年4月以降の体罰の有無を尋ねていた。

 円尾教育長は「学校側からは(回答内容は)漏れてない。生徒同士の話から知られた可能性がある」と述べた。

[ 2013年3月22日 18:51 ]
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これぞムラ! これほど分かりやすい例は他にないでしょう。

「こんなトンでもない集団、いますぐにでも権力的に叩き潰さねばならぬ」というご意見の方もいらっしゃるかもしれません。その気持ちは良く分かります。しかし、そんなに息巻く必要もないでしょう。なぜならば、3月4日付『「棲み分け」と「見えざる手」』でも触れましたが、被害者の人権を守るためには、「退路」を確保する必要があります。しかし、「退路を確保する」ということは、すなわち、「参入と退出の自由化をすすめる」ということです。「参入と退出」が自由であるかぎり、長期的には「完全競争市場」と同様に「見えざる手」が働くと考えられます。

もちろんケインズが指摘したように、「長期的には我々は皆死んでいる」。それゆえ、まったくの自然淘汰に任せるべきではないとも思います。しかし、自然淘汰の力も軽視することはないでしょう。また、世の中には変わった人たちが居るもので、シゴキ・シバキが大好きな 変態さん 人たちもいるわけです。そういう人たちに対して「強制的な思想改造」を出来ない以上は、そういう人たち「隔離」する必要があります。その点では、この手のトンでもない集団の存在意義は依然としてあると思います。

また、今でこそこの手の集団は「トンデモ」扱いですが、人々の価値観の動向次第では、将来的には、この手のトンでもない集団のほうが主流派になることもあるかもしれません。しかし、もし今の価値観を基に権力的な秩序形成が執行されたらどうなるのか。権力的に形成された秩序は、現実に生きる人々の志向から離れて「一人歩き」しやすい上に、往々にして変更に時間がかかります。つまり、将来の新しい価値観に対応した新しい秩序形成が権力の「干渉」によってスムーズに行かないかもしれない、「今は良くても将来困る」かもしれないのです。人々の価値観の動向にあわせてスムーズに社会秩序は変化してゆくべきだと思います。硬直的で「一人歩き」しやすい権力的な秩序形成は可能な限り避けるべきであり、同様の効果がありながらも、より柔軟で、現実に生きる人々に密着した方法があるのならば、そうした方法をとるべきだと思います。

その点では、間違えて「魔境」に入り込まないように正確な情報を広報すること(「この学校ではシゴキ・シバキが横行していて、それに耐えられない人にはお勧めできない」など)や、一度は方法に賛同して「参入」したものの、やっぱり「退出」したい人と思った人がスムーズに「退出」できるようにすることといった「人為的」な「手入れ」は不可欠ですが、逆に言えば、そういった「手入れ」さえあれば、あとは放置しておいて大丈夫だし、放置した方が良いのではないかとも思います。

「見えざる手」が正常に作用するように「庭師」のように「手入れ」をする。「棲み分けの原則」「柔軟で現実的な秩序形成」という視点にたてば、それで十分だと思います。
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2013年03月20日

「21世紀の社会主義」?

チャベス氏はルーラ氏になれず、ベネズエラはブラジルにはなれませんでした。
http://jp.reuters.com/article/marketsNews/idJPTK835242120130319
>>> ベネズエラ大統領選、チャベス氏後継のマドゥロ暫定大統領が大幅リード=世論調査
2013年 03月 19日 13:26 JST

[カラカス 18日 ロイター] ベネズエラのチャベス前大統領の死去後初めて発表された世論調査によると、4月14日に行われる大統領選で、出馬を表明しているマドゥロ暫定大統領(50)の支持率が、野党のカプリレス・ミランダ州知事(40)を14%ポイントリードしている。

 この日、バークレイズ銀行のリサーチノートに掲載されたDatanalisisの調査では、得票率はマドゥロ氏が49.2%、カプリレス氏が34.8%となる見通し。

 以前の調査でも、マドゥロ氏の着実なリードが示されている。

 マドゥロ氏は元バス運転手という経歴の持ち主。ビジネスに対する厳しい規制と手厚い社会保障プログラムによる国家主導経済というチャベス路線の継続を表明している。

 バークレイズは「選挙期間が短いことを考慮すると、チャベス氏の死去を受けた同情効果、報道規制、(大統領選と地方選で野党が敗北したことによる)野党の求心力低下を背景に、依然マドゥロ氏が優位に立っている」と述べた。

 昨年は、大統領選でカプリレス氏がチャベス氏に敗北したほか、州知事選でも23州中20州で与党候補が当選した。
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チャベス氏の「方法」を私なりに整理すると、3点挙げられると思います。すなわち、(1)せっかくの天然資源を単に費消するだけで後に残るような使い方――つまり産業振興――をしていない典型的な後進資源国の方法、(2)ビジネスに対する厳しい規制が、イデオロギー的なレベルにまで染み付いている典型的な後進社会主義国の方法、そして(3)民衆のための独裁、です。「21世紀の社会主義」などと称していますが、あまり「21世紀」の要素が感じられないのが正直な感想です。

念のために言っておきますが、チャベス氏の「志」と「動機」は大変結構なものだと思っています。たしかにチャベス以前の中南米は押しなべて格差と貧困が蔓延していたのは事実であり、チャベス流のヒューマニズムは立派なものだと思います。そして、チャベス氏の政策によって「ある程度」の格差是正・貧困削減が進んたのも事実です。その功績を私は正しく評価すべきだと思います。

しかし、チャベス氏の成果は「ある程度」でしかありませんでした。そして、「今後の持続性」も危惧されます。なぜならば、冒頭に述べた「特徴」のためです。こうした特徴をもっているベネズエラ経済は、あれだけ豊かな資源がある割には低いパフォーマンスに留まっていますし、チャベス路線の方法は、天然資源情勢が少しでも変われば、すぐに行き詰るでしょう。つまり、「チャベス氏の志と動機を生かし、彼の功績を発展させるためには、抜本的な方法論的転回が必要だ」ということなのです。

まずは「典型的な後進資源国の方法」から脱する必要があるでしょう。石油依存経済からの脱却が必要です。必ずしも「工業化」が正しいとは限りませんが、国家の経済的自主性を確立するのに必要なだけの技術力は不可欠であり、それを養うためには工業化が手っ取り早い方法です。天の創造力(天然資源)に依存するのではなく、自らの創造力(科学技術力)に依拠した主体的な経済的建設が必要です。いまでこそ石油資源をネタに、先進工業国に対して一定の発言力を持っているベネズエラですが、エネルギー情勢が変われば一気に従属国に逆戻りするでしょう。

そして、そうした工業化・自立化のためにも、「典型的な後進社会主義国の方法」からの完全な脱却が必要です。残念ながら、自力更生にもとづく工業化には相当な困難があることが既に歴史的に判明しています。外資導入は避けられないでしょう。しかし、それは外資に対して白旗をあげて応援を要請することとは異なります。「典型的な後進社会主義国の方法」の信奉者は、そのイデオロギーゆえに現実を「階級的視点」にたって認識し、その結果、「外資導入はすなわちブルジョワジーに対する降参である」と断じ、「革命の推進」を理由に、よりによって外資導入を厳しく「規制」してしまいます。

たしかに階級的視点というのもある面においては大切なものかもしれません。一切放棄せよというつもりはありません。しかし、たとえはキムジョンイル総書記は、『民族主義にたいする正しい認識をもつために』(2002,p1)において次のように指摘しています(太字化は当方による)。
>>> 人々は各階級、各階層の構成員であると同時に、その民族の構成員でもあり、したがって階級性とともに民族性を有しています。階級性と民族性、階級的要求と民族的要求は、不可分の関係にあります。もちろん、民族を構成する各階級、各階層はかれらの相異なる社会的経済的地位からして、階級的要求と利害関係が異なります。しかし、各階級、各階層の利害を超越して民族の自主性と民族性を固守し、民族の隆盛と発展を遂げることに関しては民族の構成員全体が共通の利害関係をもっています。それは、民族の運命はすなわち民族構成員の運命であり、民族の運命そのものに個人の運命があるからです。 <<<
つまり、ブルジョワジーに対しては「呉越同舟」の立場で臨まねばならぬということです。ちなみに、日本ではあまり報じられていませんが、共和国では、なんだかんだ言いながら外資導入が進みつつあります(ただし現時点ではピョンヤン市内に限る)。韓国資本はもちろん、それ以外の外国資本も徐々に入り込みつつあります。外国資本はもちろん、前掲論文の「民族性」や「民族主義」とは関係ありませんが、おなじ領域内で経済活動しあう仲という点においては、「擬似民族」といってよいのではないかと思います。

「典型的な後進社会主義国の方法」は、こうした「呉越同舟」の視点が欠けてしまいがちという欠点があります。もちろんチャベス路線が「外資の否定」まではしていなかったことは認めます。しかし、もう少し「警戒」を緩めても良いのではないか。決してそれは「ブルジョワジーに国富を売り渡す」というわけではなく「(不本意ながらも、目的達成のために)ブルジョワジーとともに歩む(お互い利用しあう?)」ということなのです。

また、たとえ「階級的視点」にたったとしても、実際の方法が「規制」しかないわけではないでしょう。北欧では「階級」を意識しながらも、「規制」ではなく「調整」と「誘導」によって望ましい経済システムをデザインしています。そういった方法論は大いに参考にすべきです。

次に「民衆のための独裁」について考えてみたいと思います。チャベス氏関連の日本語ニュースのコメント欄を見ていると、チャベス氏の「民衆のための独裁」を評価するコメントをしばしば目撃します。ベネズエラ本国においてもチャベス氏の強引な政権運営手法に対する懸念や批判は年々、強まりながらも、最後までチャベス人気は衰えることはありませんでした。

こうした「独裁」ないしは「強権」の容認は、どういうことなのでしょうか? 「スターリンや毛沢東の強権・独裁は、国民生活の水準を低下させ貧困を蔓延させるので認められない強権・独裁だが、チャベス氏の強権・独裁は国民生活の水準を向上させ貧困を削減するので認められる強権・独裁だ」ということなのでしょう。たとえば以下のページはそうした心情を正直に告白しています(太字化は当方による)。
http://www.jca.apc.org/stopUSwar/Bushwar/venezuela_coup.htm
>>>  この映像を見終わって、もう一度考えてみる。チャベス政権は、はたして「独裁政権」なのだろうかと。憲法があり、大統領は選挙で選ばれ、議会や裁判所があり、オンブズマン制度があっても、そして、かつてなく多くのベネズエラ国民の政治的関心を目覚めさせたとしても、アメリカと特権層の利害に反する政策を採る限り、チャベス政権は「独裁政権」であるとして、その転覆が画策され続けるであろう。しかし、そうした策動は、きっと今回のように、チャベス政権に結集した人々とそれを支持する軍の連帯によって打ち砕かれ、富の公正な分配を目指す運動が進展していくであろう。そう、たしかにチャベス政権はベネズエラの貧しい民衆達の「独裁政権」である。ただし、それは一握りの富める人々に対する圧倒的多数の貧しい人々の人民の「独裁」なのである <<<
こういうことを言っているのがまだ居るというのが私には誠に恐ろしいことであります。まず何よりも、独裁はどんな大義名分をかけたとしても、独裁以外の何者でもなく、独裁は例外なく認めるべきではありません。権力に例外を認めるとロクなことにならないのは、歴史において枚挙に暇がありません。

また、「民衆の権力」とか「民主主義」に過剰な期待をかけるべきでもありません。参加人数が多ければ正しい決定がなされるといった保障はないし、そもそも「民主主義」は「ムラの寄り合い」に転化しやすいからです。民主主義の不完全性、不安定性に対する認識がどうも甘いような気がしてなりません。

さらに、こういう思考は「前衛主義」――エリートが庶民の利益になるように正しく導いてやるから黙って付いて来い――とも親和的です。しかし、人間にとって最も大切なのは「自主性」、つまり「自己決定」です。たとえば、(すこし別の話題による例示になってしまいますが)障害者福祉が、「保護的処遇」から「ノーマライゼーション」にパラダイム・シフトしたことは、人間にとって「正しい路線を歩んで利益を得ること」と同等かそれ以上に大切なこととして「自己決定」が位置づけられていることを明らかにしていると思います。もっとも、ベネズエラの場合は「直接参加」が柱になっているので、前衛主義とは一線を画していると思いますが、日本国内のチャベス信奉者のなかには、結構、前衛主義との「掛け持ち」をしている人がいるので、一応指摘しておこうと思います。

まあいずれにせよ、こうした「民衆のための独裁」をよしとする思考がベネズエラのような新興国のみならず、日本のような先進国においても見られるというのは、悩ましいことです。橋下文化大革命を支持する思考も、この系列に列せられるものかもしれませんね。

果たして次期大統領はどういう路線を歩むのか。チャベス路線の「継続」を表明しているとは言いますが、どの程度なのか。
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2013年03月12日

そこじゃないよ民主党、何を言っている社民党

だいぶ遅くなりましたが、民主党綱領について。本当は3月1日には出来ていた(それでも遅いけど)んですが、校正中に眠くなって下書きにしたまま放置してしまいました。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130224/stt13022423560006-n1.htm
>>> 民主党大会 綱領決定も理念あいまい、空虚な総括…
2013.2.24 23:55

 民主党は24日、野党転落後初の党大会を都内のホテルで開き、「平成25年を改革・創生元年とする」とした25年度活動方針を決定、綱領や党改革創生本部報告も採択し、党再建への一歩を踏み出した。しかし、約3年3カ月の政権運営失敗の教訓は生かされず、綱領の理念はあいまいなまま。参院選へ向けた戦略も描ききれず、「政権奪還」のかけ声は空虚に響く。

 「7月の参院選は党の存亡を賭けた戦いになる。ひとつでも多くの議席を獲得し、自民、公明両党の過半数獲得を許さない」

 海江田万里代表は党大会でこう強調し、参院選に向けて野党共闘を進めるとともに(1)綱領の理念と基本政策の実現のため結束する(2)対話と行脚を徹底する「靴底減らし運動」を行う−ことを呼びかけた。

 ただ、綱領には、結党時の「私たちの基本理念」に明記され、自民党などの保守政党と一線を画すための「民主中道」の文字はなかった。憲法へのスタンスも護憲をにじませつつ「未来志向の憲法を構想する」と改憲にも含みを残す。依然として「寄り合い所帯」で理念が明確化できない印象はぬぐい切れない。

 しかも、党大会前に参院議員2人が離党届を提出、野党共闘をめぐる執行部の路線対立も表面化した。

 細野豪志幹事長が22日のBS朝日番組の収録で、生活の党との連携は困難との姿勢を示した翌日、輿石東(こしいし・あずま)参院議員会長は民放番組で「(生活代表の)小沢一郎氏は昨日まで同志だった。共闘していかなければいけない」とひっくり返した。

 党改革創生本部の「重要な局面での幹部のバラバラな行動や発言も大きなダメージとなった」との総括は輿石氏らには何の教訓にもならなかったようだ。

 もはや他の野党も冷ややかな視線を送る。民主党の日教組など特定労組への依存体質を牽制(けんせい)してきた日本維新の会やみんなの党が、さらに「分断」を仕掛けるのは必至だ。

 党大会に出席したある前議員は「このままだと自滅する雰囲気だ。きょうが最後の党大会になるかも…」とつぶやいた。
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党としてバラバラだというのも問題だとは思いますが、それ以上に問題なのが、政権政党のくせに闘争路線を採っていることだと思います。

正直言って民主党がここ数年に掲げたプランは、「稚拙」か「拙速」かのどちらかであったことが多かったと思います。すなわち、みずからの力量を知らずして理想に向かって闘争を繰り広げたのが民主党政権だったのです。国民は、民主党の政党としての「結束」のみならず、民主党の「センス」を見抜いた、その結果があの選挙結果だったのではないのでしょうか。にもかかわらず、「バラバラな行動や発言」の方にばかり注目が行くというのは、「鉄の結束で今度こそ敵を打倒するぞ! 変革するぞ!」ということなんでしょうか? 

もちろん、理想を掲げてそのために変革すること自体は結構なことだと思います。むしろ、必要であるとすら言えるでしょう。問題はその内容とその方法です。特に民主党において問題となるのは、その方法です。1億数千万人のメンバーが四方八方にネットワークを張り巡らせている集団における力学は複雑怪奇であり、カオスじゃありませんけど「初期値鋭敏性」があるのではないでしょうか。そのようなシステムを急激に変えようとしたらどうなるのか。そして、急進的大改革を実行できるほどのオツムがあるのか。我々は社会システムの巨大さ、複雑さに比してあまりに小さく無力な存在です。となれば、慎重な調整こそが唯一の活路であり、間違っても「闘争」ではないでしょう。「たとえ『革命の動機』が正しくとも、『革命自体』はすべきではない」、強くそう思うのです。

続いて社民党についても。
http://www.asahi.com/politics/update/0228/TKY201302280364.html
>>> 「首相は弱者切り捨ての新自由主義」 福島・社民党党首

■福島瑞穂・社民党党首

 安倍首相の施政方針演説は、弱肉強食、弱者切り捨ての新自由主義と、軍事大国化の二つをオブラートに包み、時にオブラートに包まず言った空疎な自己満足の作文だ。

 新自由主義がものすごく出ているなと思ったのは、「共助や公助の精神は単にかわいそうな人を救うことではありません」と「懸命に生きる人たちに復興を加速する」というところ。非常に上から目線で、共助・公助がものすごく後退した。政治の役割を放棄して、がんばる人は救おうとするけれども、そうでない人の切り捨てだ。(国会で記者団に)
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がんばる人は救おうとするけれども、そうでない人の切り捨て」なんだそうです。社民党に限らず、陰に陽に現れる昨今の左翼的社会政策を裏打ちする考え方であると同時に、左翼が一般国民からなかなか受け入れられない大きなポイントであると言えるでしょう。案の定、はてブでもdisられていますし。

なぜ左翼はこういう考え方をし、なぜ世の中に受け入れられないのか。端的に言ってしまうと、「考え方が根底から違う」ことに他なりません。すなわち、左翼にとっての政治・政策とは、福島氏が端的に述べているように、「どんな人であれ家父長的に守ってやる」であるのに対して、一般国民にとっての政治・政策とは、「自助を大前提として、それで足りない部分は、共助や公助によって補完される」なのです。言い換えれば、左翼は前近代的な、「モラル・エコノミー」とも言い得るような価値観に基づいて政治・政策を考えているのに対して、一般国民は近代以降の価値観に基づいて考えているのです。だから一般国民と価値観を共有できず、結果として勢力が伸び悩んでいるのです。

それだけでも十分、致命的で悩ましい話ですが、さらに悩ましいのは、そうした一般国民との価値観の乖離に「気がついていない」のではなく、「我々こそが正しい」と思い込んでいるところです。これは、社民党のようなフニャフニャな集団よりも、共産党のような主張が強い集団のほうが強烈です。私の知り合いにも「原理主義者」と言い得るような強烈なマルクス・レーニン主義者(天然記念物レベル!)がいるのですが、一般国民との価値観の乖離を十分に認識したうえで、「一般国民は支配階層のイデオロギーに毒されている」とマジメな顔をして主張しているのです。もはやカルト宗教レベルですよね。

もっとも、「一般国民は支配階層のイデオロギーに毒されている」というのも、ある意味においては正しいのかもしれません。もちろん、その発言を聞いたとき私は「いや、むしろアンタが変な『宗教』に引っかかっているだけでしょう」と思いましたし、今でもそう思います。私は左翼と価値観を共有できません。しかし、そういう価値観があってもいいでしょうし、そういう価値観にもとづく政治を執っている国が、どこか遠くに1カ国くらいあってもいいと思います[注1]。どの価値観が正しいのかという問いに答えを出すのは極めて困難であり、いまでこそバカの代表格である社民党の思想も、遠い将来ないしはどこか遠くの地においては、主流派になるかもしれません。

しかし、少なくともそういう「理想郷」を作る条件は現在の日本には存在しません。現在の日本において社民党は「バカバカしい」を超えて「バカそのもの」です。たしかに、我々一般国民は「支配階層のイデオロギーに毒されている」のかもしれません。でも、「だったら何なんだ」。良くも悪くもそれが我々の現状、出発点なのです。

もし、左翼がどうしても自分たちの理想にマッチする社会を作ろうとするのならば、一般国民の現状(つまり客観的条件)を直視した上で、漸進的な「思想改造」のロードマップを立てる必要があるでしょう。そして、自らの力量(主体的条件)の限界を認識した上で、実行に移すべきです。もっとも、主体・客体双方に対する正しい認識が確立されれば、左翼であり続けることはできないでしょうけどねwwそういう意味では、左翼が出発点よりも到達点ばかり見ている限り、一般国民をリードできる日は決して来ないし、左翼が出発点を直視すれば、もはや本来的な意味での「左翼」では居られないでしょうね。

[注1]とは言えども、左翼のこうした価値観は、同時に、自発的交換よりも権力的配分を重視する政策論:反市場主義的で集産主義的な政策論をも根拠づけていると思われます。集産主義は既に多くの失敗例を見せている以上、やったとしても上手くいかないと思いますけどね。
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2013年03月07日

共産主義なんてきょうび流行んねーんだよ

タイトルは、吉野家コピペ風に。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130306-00000607-san-pol
>>> 「あしき共産主義だ」橋下市長、地下鉄民営化問題で共産市議にかみつく

産経新聞 3月6日(水)23時13分配信

 「あしき共産主義の考え方だ」。大阪市営地下鉄の民営化を目指す橋下徹市長が6日の市議会本会議で、異議を唱える共産市議を批判し、議場がざわめく一幕があった。

 市長はこれまで民営化のメリットとしてサービス向上や、地下鉄新会社からの納税などを挙げているが、共産市議はこの日の代表質問で「公営のままでも、よいサービスを提供できる」「今でも地方公営企業法に基づき、納付金を(市の)一般会計に入れることが可能」と指摘した。 

 これに対して、橋下市長は強い口調で「公営でもできるじゃないかというが、料金値下げなど全然できていないじゃないですか。(今月23日に実施される)終電延長ぐらい、とっくの昔にやってくださいよ」とまくし立てた。

 さらに共産市議が指摘した納付金についても「政治や行政の恣意(しい)的な裁量の範囲で金をよこせとかはダメ。『地方公営企業法の規定で地下鉄から巻き上げたらいいじゃないか』というのは、あしき共産主義の考え方。はやく(交通事業を)資本主義の世界に戻さないといけない」と批判した。

 共産市議の代表質問では、地下鉄民営化以外の市政改革についても批判的な質問が出たが、橋下市長は答弁に「反対するのは良識がないとしか思えない」「いつもながらの場当たり的な質問」と過激なフレーズをちりばめた。共産市議も「ひどい答弁」「私の質問を聞かず、自分の言いたいことだけを言っている」などと応酬していた。

 橋下市長は開会中の市議会に地下鉄民営化に向けた条例案を提出しているが、自らが率いる与党会派「大阪維新の会」を除く全会派が慎重や反対の姿勢を見せており、継続審議の公算が大きくなっている。
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要するに公営主義者のことをいいたいんだと理解しています。わからないこともないんですが、「あしき共産主義の考え方だ」というのは、ちょっと古すぎるんじゃないかと。

リーマンショック直後の非正規労働者問題のときにも出てきましたが、こういう文脈で「共産主義」という単語を使ってしまう人が少なくないように思います。しかし、共産主義なんてきょうび流行んねーんだよ。もはや「絶滅危惧種」というべき共産主義者が、批判者のなかに果たして何人居るというのでしょうか。あまりにも古風すぎる批判文句を使うと、一般人から「アホか」と思われるんではないでしょうか。「共産主義wwwwwいまも共産主義者なんて生きているの?wwww市長大丈夫?wwwwwww」みたいな感じで。
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2013年03月04日

「棲み分け」と「見えざる手」

やや旧聞に属する話ですが。。。以下、引用部分の太字化処理は当方によります。http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130206/plc13020614510014-n1.htm
>>> 市が文科省に報告書 背景に「教員の多忙化」など
2013.2.6 14:50

 大津市で平成23年10月、市立中学2年の男子生徒=当時(13)=が自殺した問題で、越直美市長は5日、文部科学省を6日に訪れ、自身が設置した第三者調査委員会がいじめ防止に向けた提言などをまとめた報告書を提出することを決めた。

 報告書では、いじめを防止できなかった一因として「教員の多忙化」を指摘しており、子供たちの相談相手として弁護士を活用すべきだとも提言している。越市長は男子生徒の自殺の真相究明をめぐり自ら直面したとする教育委員会制度の問題点なども踏まえ、報告書の内容に基づいて今後のいじめ対策について文科省に要望するとみられる。

 また越市長は、6日の訪問とは別に、遺族とともに文科省を訪問し、報告書の内容などを提言する機会についても調整している。
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教員が多忙で生徒と向きあう時間がないというのはよく聞く話ですが、いい大人なら手に余る仕事が降りかかってきたときは、即刻、救援要請しなさいよ。取り返しの付かない事態になってから「実は忙しくて…」だなんて、言い逃れの意図がミエミエ、さもなくば超ド級の無能ですね。

でもまあ、たとえ言い逃れだとしても、「弁護士を活用すべき」という言質を取れたのは一歩前進だと思いました。しかし、そうしたら今度は共産党(=全教)がこんなことを言い始めました。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2013-02-20/2013022015_01_1.html
>>> 大津市議会 いじめ防止条例可決
共産党反対 子ども追いつめる

 2011年10月に大津市で市立中学2年の男子生徒が自殺した問題を受け「子どものいじめの防止に関する条例」が19日、同市議会で日本共産党以外の賛成多数で可決、成立しました。4月1日に施行されます。

 条例は、子どもをいじめから守るために市が「必要な施策を総合的に講じ、必要な体制を整備」することを責務とするとともに、子どもに対し、いじめを受けたり、発見したりした場合は、家族や学校や関係機関などに「相談することができる」など子どもの役割を明記。保護者にも「いじめが許されない行為であることを子どもに十分理解させる」などの責務を負わせています。

 日本共産党の塚本正弘市議団長は反対討論にたち、「内心にかかわることを条例で規定することはなじまない。子どもを追い詰める」と批判。「子どもや教職員、保護者の思いや意見を反映させることに時間をかけ、努力すべきだ」と述べました。

 昨年、市議会が行ったパブリックコメント(意見募集)では拙速な条例化に反対する意見が多数寄せられました。全教滋賀教職員組合は13日、「子どもや保護者をしばるような条例制定には反対します。子どもが意見を表明できるような環境整備に力を注ぐことが議会や行政に求められている」と市議会に申し入れていました。

 条例はこのほか、市長の付属機関として「大津の子どもをいじめから守る委員会」の設置を規定しています。
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『赤旗』の記事じゃ何で反対なのかサッパリ分からないし、全教滋賀のページを見ても分からない(というか、関連のpdfファイルが壊れているみたい)。「子どもや教職員、保護者の思いや意見を反映させることに時間をかけ、努力すべきだ」というものの、では、ところ変わって「子どもや教職員、保護者の思い」が高らかに主張されている桜宮高校はどうなっているのか。関係者が束になって自殺した男子生徒をdisるがごとき言動を繰り返し、国民の顰蹙を買っているわけです。

もはや「ムラ」の自浄作用に期待できる時期ではありません。しかし、じゃあ第三者を介入させれば万事解決かといえば、そういうわけでもありません。「狂泉」の話ではありませんが、介入してくる第三者が正しいかといえば、そうとも限らないからです。わけのわからない連中がエラそうに「指導」してくるほうが問題が複雑化する危険性すらあります。「現場任せ」はムラを形成し自己保身に走るリスクがる一方で、「中央任せ」は現実から乖離した観念的な指導が横行するリスクがあるのです。

私は、「退路」の確保が何よりも大切だと思います。人生、大抵のことはその場から退散すれば解決します。私もそう思いますし、年寄りも口をそろえてそういうので、そうなんでしょうww無理に「共存」なんてしなくていい、「棲み分け」が一番です。他人同士の集団なんて所詮、人間が必要に応じて同意に基づいて形成しているにすぎないのですから、本当にとんでもない集団であれば、いずれ需給法則と同じく「見えざる手」が働いて消滅するでしょう。消滅しないのであれば、信じがたいことかもしれませんが、一定の共感者がいることになります。しかし、悲観する必要はありません。むしろトンデモ集団が存在することによって、そういう価値観に共感する人たちを隔離することができるのです。もちろん、トンデモさんたちが仲間を増やそうとして積極的にオルグをはじめると厄介なんですけどね。そういうときはもちろん、「介入」が必要になるでしょう。でも、自然淘汰の力も軽視することはないと思います。

「棲み分け」は「逃げ」ではありません。「お互いの幸せのために袂を分かつ」ないしは「あんな奴らこっちが願い下げだ!」くらいのもんですよ。私の知る某政党関係者なんて、「今日日、流行らねーよ」といわざるを得ないレベルの勧誘トークをする端から逃げられているのに、いまだに「あいつは我々の理想のすばらしさが理解できない可哀想なやつだ」みたいなことを言って踏ん反り返っているもんですから、まわりの人たちからは「バカの標本」扱いされていますからね。

某政党関係者の話はさておき「棲み分け」の話ですが、左翼は「共存」にロマンを感じているのか、あまり「棲み分け」をヨシとしないんですよね。でも、「共存」するならするで、その分、指導部には調整力が必要なんですが、左翼ほど調整力(というか包容力だよね)に欠ける連中は居ません。『インターナショナル』を歌って理想社会建設に燃えるのはいいんですが、自分たちの力量にあわせた段階を踏んでほしいものです。千里の道も一歩から。
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