>>> 「催眠術に…」立川断層の誤り、おわびの教授「先入観があった」とのことです。では「先入観を排して、中立的に調査・研究すべきだ!」というべきかといえば、これほど言うは易く行うは難きことはありません。それどころか、以下で述べるように、むしろそこにこそ、恐ろしい事態を引き起こす罠が潜んでいるのではないかと思います。
読売新聞 3月28日(木)16時51分配信
「混乱を与えて申し訳ない」。人工物を岩石と取り違えるなどのミスが明らかになった立川断層帯の掘削調査。
28日の記者会見で研究者はおわびの言葉を繰り返した。地元自治体は冷静に受け止めつつ、「市民は引き続き警戒を」と呼びかけている。
「一種の催眠術にかかっていた」
立川断層帯の地質構造を見誤った佐藤比呂志・東京大学地震研究所教授は、会見で謝罪の言葉を重ねた。佐藤教授とともに現場で調査にあたった石山達也同研究所助教も、「住民、社会に混乱を与えたことを申し訳なく思う」と頭を下げた。
誤りの原因について、佐藤教授は「断層を予想していた場所に人工物があった」とした上で、「バイアス(先入観)があったと思う」と厳しい表情を浮かべた。
佐藤教授は東北電力東通原子力発電所の敷地内の断層調査にもかかわっており、調査チームは今年2月、「活断層の可能性が高い」との報告書をまとめている。辞任の意向を問われ、佐藤教授は「資質がないので辞めろというなら職を辞したいと思うが、引き受けた限り、研究者として責任は全うしたい」と述べた。
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最終更新:3月28日(木)16時51分 <<<
人間の科学は、まったく何もない所から調査・研究を通じて結論をこしらえるのではなく、何らかの前提や仮説を想定(先入観が入り込む余地!)して調査・研究をするモノです。一般的には、帰納と演繹を繰り返すことによって前提や仮説も含めて事実性を徐々に検証し、理論を構築してゆくものですが、多くの場合、人間の科学的能力に比して自然界の「奥深さ」が計り知れない以上、理論が「完成」するケースは、そうざらにあるものではないと思います。それゆえは、「多くの理論は、永遠に検証途上の仮説」と言わざるを得ず、それはつまり、「多くの理論には、先入観がまぎれている可能性が常にあり、それを克服するのは困難である」ということになるでしょう。仮に人間の科学的能力が「完成」に到達できるほどのものであったとしても、到達するまでの間は、やはり検証途上の仮説であり、先入観がまぎれている可能性が常に付きまといます。事実として多くの科学分野において未だ人間は「探求中」です。それゆえ、もっとも楽観的な進歩主義的立場に立ったとしても、「先入観を徹底的に排するほど人間は進歩しておらず、現状においては、多くの理論には、先入観がまぎれている可能性があり、それを克服するのは、当面、困難である」と認めざるを得ないと思います。
また、自然科学の世界ではあまり問題にならない(本当は問題にしたほうが良いんですけど)ことですが、これが社会科学の世界になると、ここに観点と立場の問題、すなわち、事物対象を調査・研究するに当たっての「立ち位置」ないしは「視座」の問題が生じます。自然科学の世界では、ほとんどの場合、視座は「人間」になると思いますが、社会科学の場合は、広く「人間」という視座がとられることはそれほど多くなく、むしろ階層(一昔前なら階級)単位で把握されることが多いのではないでしょうか。当然のことながら、同じ事物対象を調査・研究するとしても、視座が異なれば見えてくる性質も少しずつ異なってきます。視座の差異は結論の差異につながるのです。
以前の記事でも述べたように、特定の観点・立場に固定化するのは問題です。しかし他方で、人間が事物対象を調査・研究するに当たっては特定の観点・立場から出発するしかないのも事実です。「事物対象をトータルに把握するためには、上空から見るが如く観察すべきだ」という、もっともらしいご意見もあるかと思いますが、それもまた「上空」という特定の観点・立場です。偵察衛星は地下壕の中までは見通せません。つまり、「先入観は持つべきではないが、先入観を持たないではいられない」わけです。さて困りました。
ここで大切だと思われるのは、「先入観を排して、中立的に調査・研究すべきだ!」と出来もしないことに血道をあげるのではなく、むしろ開き直って、「私の見解には、私独自の先入観があるかもしれません」と正直に告白することであると思います。その上で、多様な先入観を持った多くの人々が調査・研究のフィールドに参入し、見解を発表しあうことによって、「もっともそれっぽい」ものを形成するしかないと思うのであります。「定説」が難しいなら、「通説」でしのぐしかないのではないかと思うのです。ちょうど、モノの価値が市場の情報集計機能によって測られるように。限界効用価値説、労働価値説を問わず、モノの価値は市場によって相場が決められます。特に限界効用価値説の方が分かりやすいと思いますが、ある商品に対してAさんが、その価値観に照らして「高価値」だと判断し、力説したとしても、他の人々が押しなべて「それほどでもない」と評価すれば、その商品の価値は「それほどでもない」と判定されます。もちろん、科学的見解を否定するものでは決してありませんし、多数決が正しいだなんて言うつもりもありません(むしろ普段は「民主主義」に懐疑的なコメントすらしていることを忘れないであげてください)。しかし、科学的見解の限界を見据え、それを絶対視せずに、次善の策を講じておく必要があると思うのです。
そうした方法の最大の脅威は、「特定の観点・立場に固定化すること」ではなく、「特定の観点・立場以外を知らない、知ろうとしない」こと、つまり、「特定の観点・立場に絶対視すること」です。具体的には、たとえば一つには、「私は、中立的で先入観を排した調査・研究を行っている。それゆえに私の結論は科学的に正しいはずだ」という思い込み、すなわち「先入観を排して、中立的に調査・研究すべきだ!」の陥りがちな罠が挙げられるでしょう。なお、あくまで「罠」であって「必然的帰結」ではありません。既に述べたように、科学的見解を一概に否定するものではありません。
歴史的実例としては、教条的なマルクス・レーニン主義者がこういう態度をとっていたのが有名でしょう。「マルクス・レーニン主義の世界観は科学的に正しく、その結論は物質世界の普遍的法則として成立している。だから、マルクス・レーニン主義をベースに構築した我が理論は正しくないはずがない! 反対者は非科学な観念論者か反革命イデオローグだ!」という調子ですね。で、その結果がルイセンコ事件でした。
幸いにしてルイセンコ説はもはや相手にされておらず、教条的なマルクス・レーニン主義者も今やほとんど生き残っていません。しかし、「特定の観点・立場に絶対視すること」は未だにあちこちで発生しています。たとえば本件の「断層の存在」(地震学や地質学になるのかな?)についても、それについて疑義を呈せば、問答無用で「原子力ムラの御用学者だ」といった罵声を浴びせかけられる場合があります。そうした罵声の背後には、「断層はあるに違いないのに、それを否定するのは原子力ムラの関係者だからだ! あんな奴らのいうことは絶対に信用ならない」という思考があるでしょう。これはある種の「絶対視」です。あるいは、当ブログにおいて以前より何度も取り上げてきた、いわゆる「感情屋」もまたそうした性質を強く持っていると思います。「被害者の感情」を取り上げることは大切なことだと思いますが、それを絶対視してそれのみを主張するのは現実的ではありません。もちろん、「人権屋」が「加害者の人権」を取り上げることも大切ですが、やはり絶対視してそれのみを主張するのは現実的ではありません(※ちなみに、「感情屋」というのは私の(センスのない)造語ですが、もともと「人権屋」との対比で設定したものです。すなわち、「人権屋」が「加害者の人権」を絶対視してそれのみを主張するのと好対照をなすように、「被害者の感情」を絶対視してそれのみを主張するのが「感情屋」なのです。そういう意味で、両者は主張内容は真逆ですが、似たもの同士なのです)。
そう考えると、昨今の地震学や地質学をめぐる情勢は危うい道に入り始めているのかもしれません。幸いにして地震学や地質学で感情むき出し・イデオロギー丸出しにする人は、そう多くはありませんが、構造的に見て、感情屋問題や教条的なマルクス・レーニン主義者の問題といった、まことに恐ろしい現象と類似したところがあるのです。そしてそれはつまるところ、「特定の観点・立場に絶対視すること」に起因しており、「先入観を排して、中立的に調査・研究すべきだ!」という良くありがちな主張の陥りがちな罠なのです。
ちなみに、当ブログで最近、特に更新再開後に「左翼批判」に力を入れているのは、過去ログをご覧いただければ一目瞭然かと思います。なぜ、約2年の空白があったにしても、取り上げるテーマがガラっと変わったのか。実はガラッとは変わっていません。感情屋研究と批判のために、よく似た行動様式を持っている左翼を取り上げているのです(実は更新停止前から構想はしていました)。いくらかの「転向」はあるにはあり、そうした見解があちこちに散りばめられているのは事実ですし、ときに「左翼研究・批判のための左翼関係記事」も書いていく予定ですが、今のところ主たる目的は「感情屋研究・批判のための左翼関係記事」です。その点をご了解いただければと思います。