http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130617-00000507-san-soci>> 「待機児童ゼロ」横浜方式は全国に通用するか 現場の声を聞く
産経新聞 6月17日(月)8時30分配信
かつて全国最多だった待機児童数をゼロにした横浜市の取り組みが注目を集めている。株式会社参入を積極的に促して受け入れ枠を増やし、働く保護者らの相談にのる「保育コンシェルジュ」を創設。安倍晋三首相は成長戦略で「横浜方式を全国展開したい」と平成29年度までの待機児ゼロを目指す方針を打ち出す一方、保育現場からは質を懸念する声もあがる。横浜市の林文子市長と、保育の現場を知る東京都八王子市の共励(きょうれい)保育園理事長、長田安司氏に聞いた。(清水麻子)
■林文子氏「民間活用でスピード感」
−−待機児童ゼロを達成した感想は
「約3年半で144カ所、1万人以上の定員を拡大し、多くの方から認可保育所に入りやすくなったと喜びの声をいただいた。印象深かったのは、認可保育所の不承諾通知が届き途方にくれていた保護者の方から届いた声。『保育コンシェルジュから一緒に探しましょうといわれ心強かった』と。民間企業経営者の経験から『おもてなしの行政』を目指してきたが、確実に保護者の皆さまに届いていることを実感した」
−−横浜市の具体的手法は
「まずは、どの地域に待機児童がいるのか、どこに保育所が必要か徹底的にニーズ分析を行った。認可保育所の新設はもとより、横浜保育室の新設、幼稚園での預かり保育やNPO型家庭的保育など、ありとあらゆる手段を講じて、保護者の皆さまとそれらの保育サービスをつなぐ役割である保育コンシェルジュを導入した。保育所新設のための市有地がなければ、土地を貸し出してくださる土地所有者を探した。区役所では課を超えたプロジェクトチームメンバーが猛暑の中、住宅地図を片手に土地を探し歩き、駐車場の看板に書いてある問い合わせ先に電話をすることもあった。そして見つかった土地で保育所を運営できる法人とマッチング。株式会社には既存建物の内装改修費を援助するなど環境を整え、手を挙げてくださるところが増えた」
−−横浜方式は全国に通用するか
「積極的に株式会社のご協力を得なければ、全国の待機児童にスピード感を持って対応できないのではないかと思う。ただ同じ待機児童を抱える自治体であっても実情はさまざま。互いに情報を交換し、知恵を出し合い、待機児童をなくしていく必要がある」
−−営利追求の株式会社は保育所になじまないとの声もある
「横浜市では、株式会社を認可保育所の運営事業者にする場合、経営診断を実施するなど厳しい基準を設け、そうした懸念にも対応できるよう努めている。実感としても、どの企業も働く保護者や子供のことを真剣に考え努力を重ねている。大切なのは、企業に丸投げせず、行政が一緒に保育の質を高めていく視点。横浜市では保育士の質の確保に欠かせない研修を積極的に行うこととあわせ、保育士が定着するよう待遇改善の補助金も出している」
−−横浜方式のもう一つの核は、認可外だが保育士数や床面積などの基準を市が定めて認定する横浜保育室だ
「通勤途中に子供を預けられる駅前保育所へのニーズは非常に高く、横浜保育室は待機児童対策の要といえる。都市部の特殊事情から園庭がない所はあるものの、近くの公園を使う手立てを整えている。保育士たちも非常に熱心。保育料も認可保育所と差が生じないよう助成を拡大するなど、安心してご利用いただけるよう工夫した」
■長田安司氏「子供の視点を失わずに」
−−横浜方式全国展開をどう思うか
「国はもちろん他の自治体も『横浜に続け』という雰囲気だが、保育の現場に長年、身を置く者として、非常に不安を感じる。保育所に市場主義が導入されると、運営主体や園長の意識がよほど確かでない限り、お客さんである親の都合にあわせたサービスを優先させ、子供の発達や教育の視点は置き去りにされる可能性が高い。保育所で早朝から深夜まで長時間過ごし、病気のときも滞在する…。そんな親にとって便利な保育所で育つ子供が、健全に育つのだろうか」
−−民間活用以外の待機児童対策はあるか
「保育所を安易に増やすのではなく、子供が3歳までは母親に育児休業を十分とってもらい、その間、無理に働かなくても良い仕組みを作ることだ。具体的には『育児休業3年』+『未就学児対象の子育て広場』+『児童手当』で解決は目指せる。児童手当は、待機児童が集中する0〜2歳だけに特化すれば、月額7万円は支給できる」
−−担保すべき保育の質を具体的に
「強烈な自我が芽生える1歳半から3歳頃までは、一番信頼できる人に依存し、反抗しながら自我を形成していく。これが子供の社会性の基盤となる。この年齢の子供たちを集団で保育するとなれば、配慮しなければならない点が多く出てくる。保育の質を担保するには保育士数や環境の整備だけでなく、経験ある保育士の存在と、子供の発達を理解する施設ぐるみの継続的な内部研修が必要だ」
−−横浜保育室はどうか
「国の基準は、乳児室は1人当たり1・65平方メートル、ハイハイをする『ほふく室』は3・3平方メートルで、探求心や運動機能を高める観点から計約5平方メートル確保せよとなっている。しかし、横浜保育室の0歳児保育室は半分の約2・5平方メートル。園庭すらなく、有資格の保育士数も国基準の3分の2。国基準ですら保育士は余裕を持って接することができないのに、待機児童がたくさんいるから狭くしても仕方がない、預かるのが先決、という方針では、子供も保育士もストレスを抱え、トラブルが多く発生する。このまま全国展開することに疑問を感じる」
−−経済的に働かざるを得ない母親も増え、保育所需要は高まるばかりだ
「市民の要望に応えるのが首長や行政の使命。しかし預かるだけの保育所を増やすだけでは子供はどうなるのかということだ。ハーバード白熱教室で有名なマイケル・サンデル教授は、その著書『それをお金で買いますか』で、あるものを商品にしたとき、何か大事なものが失われることがあると指摘した。安倍政権は子供の最善の利益という視点を失わずに待機児童問題に向き合ってほしい」
【プロフィル】林文子(はやし・ふみこ) 昭和21年、東京都生まれ。67歳。東京都立青山高校卒業後、BMW東京事業部(現・BMW東京)などに勤務。手腕を買われ、平成17年、ダイエー会長兼CEO。21年8月から現職。
【プロフィル】長田安司(おさだ・やすじ) 昭和24年、東京都生まれ。64歳。中央大学文学部卒。東京都八王子市の共励第3保育園園長を経て、平成11年より共励第1保育園など3つの保育園を経営する社会福祉法人同志舎理事長。 <<
今話題の「横浜方式」に関する関係者へのインタビュー記事です。くわしく見てゆきたいと思いますが、今回のブログ記事を通して主張したいことの関係上、原文とは逆に長田安司氏⇒林文子市長の順に取り上げさせていただきたいと思います。
さて、長田氏の主張を見るに、「横浜方式」に疑念があるようです。その主張の核心は「子供の視点」だと思いますが、
果たして長田氏の主張は「子供の視点」を守るために必要かつ十分な主張でしょうか? 私は以前より障害者福祉に関心を持ってきたのですが、どうも
長田氏の主張は、現代の障害者福祉を支える「ノーマライゼーション」という理念によって退場させられた旧時代の福祉思想である「保護的処遇観」の残滓と共通する発想が見え隠れしているように思います。
幼児・児童福祉と知的障害者・障害者福祉を同じ土俵で語るのは
余りに乱暴な議論であることは百も承知です。
両者は「実際」においてかなり違うからです。しかし、世間的に、両者とも「健常者と比較して、十分な判断力が無い」と見なされている点を
共通項とすることによって、児童福祉にノーマライゼーション運動の
「発想」を
一部、参考にすることは、
決して無意味ではないでしょう。以下、あえて「ノーマライゼーション」を参考にしつつ、長田氏の主張について検討し、本日の結論を導出したいと思います。ちなみに、「インフォームド・コンセント」も(だいぶ強引な議論になりますが)参考になるような気もするんですが、歴史的経緯についてそこまで詳しくない上に書き出すと長くなりすぎるので、今回はノーマライゼーションのみにしたいと思います。
ノーマライゼーションとは、1950年代に北欧で始まった障害者(主に知的障害者)運動を支えた理念のことです。ノーマライゼーション以前の北欧における(知的)障害者福祉は、おもに「入所型施設における保護(隔離)」が主体でした。そうした現状に異を唱え、いわゆる「健常者」たちと地域社会のなかで共生してゆける社会を構築すべきだとする(知的)障害者とその家族・支援者たちが、ノーマライゼーション理念に基づく運動(ノーマライゼーション運動)を推進しました。
当初のノーマライゼーション運動は、前述のような「入所施設閉鎖・地域社会での共生」が旗印だったのですが、1960年代後半以降、
「障害者の自己選択権・自己決定権」という主張がクローズアップされるようになり、運動に新たな展開が生まれるようになりました。というのも、ノーマライゼーション運動の高まりの結果、1950年代以降、福祉サービス改革が行われ、障害者と健常者との「地域社会での共生」ができる方向に社会が変化していったのは確かだったのですが、
福祉サービスが依然として「行政処分」として執行され、障害者の自己決定権が必ずしも十分に反映されなかったことにありました。また、
福祉サービスの供給を行政が独占していたために、サービス内容の多様性が不足していたことも運動の契機でした。
そうした原因は、やはり「障害者は健常者から保護されるべき存在」とか「健常者が障害者の利益を代表し、合理的なサービスを支給するのが最上のはず」という、「入所型施設における保護」がメインだった時代の思想的残滓、
「保護的処遇観」の残滓があったのだと思います。北欧の障害者・障害者家族・支援者は、そうした「保護的処遇観」に基づく旧式の福祉サービスのあり方に異を唱え、「障害者の自己選択権・自己決定権」を中心とする福祉サービスのあり方を求め、運動を展開してゆきました。
当局側もそうした障害者・障害者家族・支援者の声に応えるかたちで、サービス内容の決定にあたっては本人の意向を基本とすることや、福祉サービスの供給主体の多様化のために参入規制緩和を行いました。
「『障害者の自己選択権・自己決定権』を中心とする福祉サービス」という理念に対しては、不安ないしは批判も少なくないと思います。「自分で自分の身の振る舞いを選択することが出来ない人間に『自己決定権』『選択の自由』とは何だ!」という批判は、当然あるでしょうし、私も一理あると思います。しかし、
ノーマライゼーション運動はそうした「一理」の部分についても検討を加えた上でなお、「行政処分から自己決定権尊重へ」や「サービス供給主体の多様化」を主張しています。
さて、ノーマライゼーション運動はどうして、「一理」の部分についても検討を加えた上でなお、あのような結論に至ったのでしょうか。それはすなわち、
「行政が専制するのではなく、障害者本人や民間のサービス供給主体に丸投げするのでもなく、三者が協同して意見を出し合う」という発想によります。たとえばスウェーデンでは、障害者と一緒に福祉サービスのプランを立てる相談員が充実しており、そうした体制の下で、障害者自身の自己決定権を尊重するサービスが決定されているのです。こうした仕組みがあるからこそ、
「行政の一方的な処分」でもなく、「判断力が不足している知的障害者」に全てを任せる「放任」でもない、適切なバランスを確保することが出来、「自己決定権尊重」を意味のあるものに出来ているのです。
もちろん、北欧だって万事が上手く言っているわけではなく、むしろ課題は山積しているというべきでしょう。しかし、今のノーマライゼーションをはじめとする現行の北欧の福祉制度は、過去の批判の上、それも主に「当事者(障害者福祉なら障害者)自身からの異議申し立て」の上に構築されているものである以上、いくらかのチューニングあるにしても、理念レベルでの方向性が変わることは無いでしょう。
最初にも述べましたが、ノーマライゼーション運動はあくまで(知的)障害者福祉の世界の話なので、児童福祉に直接的には応用できないかもしれません。しかし、その歴史を参考にすることは大きな意味があると思います。以上の前提知識を踏まえた上で改めて記事を読み返すと、長田氏の言説が目に留まることでしょう。すなわち、長田氏の主張は、「子供の視点」なるものを持ち出し、「しかるべき人物のみが責任ある処分を執行することが出来る」という結論を導出しています。しかし、
そうした「保護的処遇観」が硬直的で専制的な「行政処分としての福祉」の温床となり、「自己決定権」を抑圧するものとなり、1960年代に北欧の障害者・障害者家族・支援者たちの手によって乗り越えられてきたものではなかったのでしょうか。
もちろん、長田氏がバリバリの保護的処遇観に立つ方だとレッテルを貼るつもりはありませんし、私としても氏の意見を全否定するつもりはありません。既に述べたように、「自分で自分の身の振る舞いを選択することが出来ない人間に『自己決定権』『選択の自由』とは何だ!」という批判は、私も一理あると思うからです。ですから、普通の商取引(スーパーでの買い物)のように、
まるまる当事者に放任すべきだとは思いませんが、
かといって「行政処分としての福祉」の温床となるような手法に組するべきでもなく、北欧発の
ノーマライゼーションの理念と実績を参考とし、「行政が専制するのではなく、当事者や民間のサービス供給主体に丸投げするのでもなく、三者が協同して意見を出し合う」というモデルを志向すべきだと考えるのです。
また、「民間経営=営利・子どもの利益を損ねる、公営・社会福祉法人経営=非営利・子どもの利益を保護する」という
単純な二分法が見え隠れする点、
長田氏のような主張はむしろ危険であるとすら言えるかもしれません。以前からたびたび指摘しているように、公営組織も手抜きやコストカットをしますし、「社会福祉法人」と言いながら営利企業のような経営スタイルをとっている所は幾らでもあります。逆に、民間経営にも志高くマジメな仕事をする所は幾らでもあります。
優良保育施設と不良保育施設を見極め、判定する公的な仕組みは不可欠だと思いますが、逆に言えば、それさえキチンと機能していれば、民間経営を否定する必要はないでしょう。先ほど、
北欧では「サービスの多様化」のために参入規制緩和が行われたとご紹介しましたが、当然、合理的に必要な設置基準は設けられています。
ついでに言えば、まるで「世の親たちが子どもたちの利益を理解できず、自分勝手な保育サービスばかりを選ぶ」とでも言わんばかりの長田氏の主張には、
少なくない親たちから反感を買うのではないかとも思います。もちろん、昨今は自分勝手な親だって少なくありませんが、基本的に親というものは子どもの利益を最大限果たそうと本気で努力しているものです。私は、「しかるべき人物のみが責任ある処分を執行することが出来る」という長田氏の主張から、「前衛意識」に近いものを感じ取ったのですが、前衛意識は一般人を小馬鹿にしているのと表裏一体です。ものは言いようだと思いますし、どんなにオブラートに包んだ言い方をしたとしても、最終的には前述の「三者協同」の方向性を押し留めることは出来ないと思います。
前後してしまいましたが、林市長の主張に移りたいと思います。市長が記事中で「
大切なのは、企業に丸投げせず、行政が一緒に保育の質を高めていく視点」と述べている点は私もまったく同感です。「実際に、どの程度まで実行されるのか」というのが最も重要であることは、もちろんであり、「途中段階」で判断を下すべきだとは思いません。しかし、こういう方針が正しく遂行され、質の面でも改善が見られれば、「横浜方式」は新しい時代の児童福祉の形となるのではないかと思うのであります。
長田氏のような懸念は、林市長もある程度、予測しており、対策を講じていると思われます。「現実こそが厳粛な審判者」ですので、あとは現実の動向を見守ろうと思いますが、「自己決定権尊重」というのは、それを「自主性の擁護」と言い換えれば容易にチュチェ思想と親和性の高い議論になります。現状では「横浜方式」のほうが「自主性の擁護」の点において、頭一つ抜き出ていると思います。
より「自主性の擁護」に資する方法論が伸びることを期待していますし、おそらくその方向の方法論しか生き残らないでしょう。
福祉にも自主性・自己決定権・選択の自由が求められる時代になっているのです。福祉においても、いや、福祉だからこそ、「チュチェ時代」を迎えているのだと思います。
単に「合理的」「科学的」であるだけなら、専門家や「前衛」に丸投げするという手もあるかもしれません(もちろん、既に何度も述べているように、「前衛の指導」は「理性に対する過信」であり、私は懐疑的な立場を取っています)
。しかし、今やそれ以上に「自主的」であることも求められる時代なのです。また、「自主的」であることと「放任」は必ずしもイコールではなく、
さまざまな人が意見交換をするなかで最終的に当事者が決断することこそが求められている時代なのです。