2013年06月30日

「自己責任論」は「助け方の拙さ」に由来する

http://bylines.news.yahoo.co.jp/yahagikunihiko/20130629-00026065/
>> 辛坊治郎さん遭難で、イラク人質事件の今井紀明氏がコメント <<
本文については、今回は直接的には言及しないので引用を省略させていただきます。画面下方にあるフェイスブックにおけるコメントについて取り上げます(ブラウザ環境によっては表示されないかも)。

まずは関係する書き込みを引っ張ってきましょう。
>> 寺田 雅彦 ・ トップコメント投稿者 ・ 勤務先: 大和製衡株式会社

誰かを守るためのカネであって、それを非難することはできなおはず。でなければ、遭難しても事故を起こして瀕死になっても助けてもらえない。なぜそこまで極論にこだわるのか。日本は助け合いの精神ではなかったのか。それが失われたら、日本は日本でなくなる。
<<
>> 内田 宙大 ・ 長崎大学

「助け合い」ではないですよね。助ける側はいつも助ける側ですし、助けられる側はいつも助けられる側です。助け合いの名の下に真面目に頑張る人間が搾取されている、という現実を誰一人理解していない…税金なんて国主導の振り込め詐欺みたいなものです。
生活保護なんて、その真骨頂ですよね。彼らは私たちの税金で生かされていますが、社会に何一つとして貢献していない。
<<
>> 寺田 雅彦 ・ トップコメント投稿者 ・ 勤務先: 大和製衡株式会社

助けられる側と助ける側がいてはじめて助け合いではないかな。

バカなのかもしれないが、自分が人の力になれればよいと思っている。自己犠牲とか、そんなのバカバカしいとかあるだろうが、33年生きてきてそう思っています。

自分のカネを自分の思い通りにしたきゃそれこそ日本から出ていって米国にでもって話にしかならない。

自助努力がいらないとは言わないけれども、少なくとも頑張る奴に手を差し伸べたら良い。

日本国民の義務と生活保護を全てとは俺は思わない。彼らが生きる意味が無いと思えるほど、出来た人間ではないしね
<<
>> 内田 宙大 ・ 長崎大学

そういう善人の思いを踏み躙るのが、弱者面してぶら下がり続けているクズどもです。そういう連中に努力とか頑張るとかいった概念は存在せず、如何に楽して生きるかしか頭にないのですから。
何らかの形で社会に貢献していない限り、その人間に存在意義なんてないですよ。ただの穀潰しです。
<<
両者とも、それなりに納得できる意見をお持ちだと思います。昨今のこの手の議論における代表的な論理を体現していると思います。

内田宙大さんの「何らかの形で社会に貢献していない限り、その人間に存在意義なんてないですよ」はちょっと極端な発言だとは思いますが、「「助け合い」ではないですよね。助ける側はいつも助ける側ですし、助けられる側はいつも助けられる側です。」というのは、少なくない自己責任論者が陰に陽に表明する不満です。私は、旧ブログの頃から一貫して自己責任論には組しない立場をとっていますが、こういう不満感については、一定の理解をしているつもりです。

それでは、寺田雅彦さんと内田宙大さんの両者が代表的に表明している、これら2つの対立する考え方をどう中和してゆくべきでしょうか? いままでどおりの路線を維持して「正直者が馬鹿を見る」といった状態を放置すべきか、それとも自己責任論を貫徹し、「殺伐とした社会」にすべきか。おそらく、どちらを実行してもいずれは行き詰るでしょうし、それ以前に、いずれの方向性をとるにしても、「社会の主体」である国民同士の間で民主的なコンセンサスをとることは難しい点(それだけ国論は分断されていると思います)、実行すらできないでしょう。

旧ブログの頃から述べてきたことですが、結局「助け方」の問題なのではないかと思います。つまり、日本の「支援」「救済」は、「対象者を助ける」ということばかりに注目しているために、被支援者が社会に恩返しする機会を積極的に設定することも無いし、恩返ししたのか否かのチェックすらしていないのではないでしょうか。たとえば、生活保護は支給したらそれっきり。積極的に雇用を創出するわけでもなければ、パチンコに注ぎ込んでいるのか如何かすらもチェックしない。それが、「「助け合い」ではない」とか「助ける側はいつも助ける側ですし、助けられる側はいつも助けられる側」「そういう善人の思いを踏み躙るのが、弱者面してぶら下がり続けているクズどもです。そういう連中に努力とか頑張るとかいった概念は存在せず、如何に楽して生きるかしか頭にないのですから。」という不満を抱かせる原因になっているのではないでしょうか。

「社会的な助け合い」が比較的上手く行っている国々は、「助け方」について熟慮に熟慮を重ねています。たとえば「北欧では社会福祉が手厚い」とよく言われますが、その代わり「自立」が徹底的に要求され、そのために必要な諸訓練を強制的に受けさせられます。だからこそ「税金は高いけど、払った分はかえってくる」という満足感を持たせ、制度に対する主体的支持を獲得できているのです(北欧の福祉国家は、決して国民同士の「同胞愛」の賜物なんかじゃないですよ)。

「助け方」をもっとよく設計する必要があると思います。その点、上掲のお二方のやりあいにコメントを寄せたShoichiro Tomiyamaさんの意見に近いところがあると思います。
>> 未来の自分が直面する可能性が高い危機、例えば年金問題など。
そういうことには「助け」がない気がします。
予算をちゃんと割り振って、
ある条件に該当して、且つこのくらいの人数なら、日本国民として助け合えるけど、これ以上は
頑張ってるひとの公平な権利を奪うからお金出せません。
それでも出さなきゃいけない場合、どこの予算を削るか。

そこらへんの基準が明確にあれば
話し合いの余地が生まれる気がします。

とか、何か今よりいいやり方か
あればいいんですが。
<<
もちろん、4月7日づけ『「メカニズム・デザイン」と「前衛党指導型経済システム」』においても書きましたが、はたしてそういう「設計」が上手くできるのか、「前衛党指導型」と同じ末路を辿らないかという問題は厳然として存在すると思います。

思うに、「前衛党指導型」の失敗は、理性と科学を過信する余り、「すべて」を「最初から最後まで」、「マクロレベル」で「一気」に設計しようとしたところにあると思います。我々の理性・科学は、それほど大したものではないので、津々浦々の将来にわたる全現象を鳥瞰的に見渡すことはできませんし、それを一気に改変させることはできません。しかし、「特定の部分」を「短期的なスパンで」「ミクロレベル」で「様子を見ながら」形成してゆくこと、これは必ずしも不可能ではないでしょう。

「助け方の設計」が、「マクロレベルでの急進的設計」ではなく、「ミクロレベルでの漸進的形成」であるならば、私はこれは可能性があると思います。今後も折に触れてこの問題は取り上げてゆこうと思いますが、基本的にこの立場から考えてゆく所存です。

ちなみに、最後になってしまいましたが、辛坊氏の件そのものについて私は、「どんなにご立派な自己責任論を展開していたとしても、いざ自分が危機に陥れば、藁でも救助でも生活保護でも何でも掴むものだ」ということが改めて分かったのではないかと考えています。もちろん、誰しも自分が一番かわいいですから、それは仕方ないことだと思います。であるからこそ、「助け方の設計」は一層大切になるでしょう。予算は無尽蔵にあるわけではないのですから、うまく調整する必要が出てきます。
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2013年06月24日

都議選結果に見る反政権派の「末期的閉塞状況」

都議選について。地方選とはいえ首都決戦ですから、やはり注目の選挙ですよね。大雑把に見ます。

自民党。圧勝、完勝。小泉旋風のときだってこんなには勝ちませんでした。
公明党は組織票だから論評略。投票率が低くてよかったね。

予想されていたことだから、もう少し気の利いたコメントをしたかったのですが、特に。。。アベノミクスが幾らかは関係している株価の乱高下については、「まあ、ケインズも指摘しているが、もともと金融市場なんてそんなもんだし、実体経済に影響してくる『中・長期のトレンド』はだいたいある程度の範囲内に収まるはずだから、騒ぐほどのことではない」くらいの感想しかないので、ケチをつけることも賞賛することも出来ず。

成長戦略があまり大胆なものではなかったとも思いますが、漸進改良主義者としては、急激な大改革はむしろ反対ですから、「まあ、こんなところから少しずつ始めてゆくしかないかな」としか言えず。その点では、争点的な意味で本当につまらない選挙でした。

民主党、惨敗というか壊滅では? まあ、政権喪失後の責任擦り付け大会など、見苦しいザマをズルズルと引きずっていたのは大いに影響しているでしょう。

ところで、かつてメディアでは「自民・民主の二大政党制時代」といわれていましたが、いったい何処へ行ったのやら。「二大政党制」を軌道に乗せるためには、下野してからも継続的に注目しなければならないはず。

もっとも、民主党のあのザマを報道しなかったのは、メディアの最大限の「やさしさ」だったのかもしれません。

民主党の壊滅的敗北は正直、予想以上でしたが、ああいう文革風の政党は大嫌いなので、「よかったよかった」と言ったところです。

「大阪文革」の全国版たる維新の敗北も同様。橋下氏の失言の影響を挙げる声もあるかもしれませんが、石原慎太郎なんてもっと「スゴイ」ことを平気で言っても勝ち続けていたんだから、失言自体がそれほど影響を与えたのかは「?」だと思います。なによりも、「自民党には改革はできない!」といいつつも、党としてなんだか良く分からない状態にあった=「お前らのほうがよっぽど無理だろ」状態にあったこと、これが最大の要因でしょう。

みんなの党は、以前から余り関心のない勢力だったので、何もコメントを用意してなかったww「市場活用」というお題目だけを見れば私と似ている部分も少なくありませんが、内実は。。。維新と票を食い合ってしまいましたが、数字を見ると獲得議席数ほど悪くも無いみたいなので、そのうち取り上げるべき日も来るかもしれません。

共産党。党中央の正式な声明は、選挙翌々日に発表されることが多いのですが、赤旗の速報や一般紙における幹部の発言を見るに、大喜びの様子。

しかし、選挙結果の数字を見ると、得票率の伸びも小さいし、得票数にいたっては減少している始末。如何から如何見ても敵失による漁夫の利が大きいと思われます。もちろん、共産党の主体的努力は並々ならぬものがあり、それがプラスに働いたことは否定できないとは思います。あれだけ毎回の選挙で大負けを続けているのに、メゲずに活動を続けている共産党員の皆さんには、率直に敬意を表する次第です。しかし、だからといって急に倍増するわけがありません。ちょうど社会党崩壊直後数回の選挙みたいな感じじゃないでしょうか。

いやね、先の衆院選で大勝した自民党が謙虚な姿勢を崩さなかったのと同じように、今回、共産党が同様の姿勢を見せてくれれば、私も共産党に対する評価を変えたでしょうが、うーん、これじゃあ。。。似たような事態が過去にもあったのに、まるで主体(「しゅたい」。今回は「チュチェ」とは読まないよww)的に勝ったかのような調子なのは如何なものか。うれしいのは分かるけどさあ。

また、これは旧ブログの頃(このころの私は、まだ、かなり共産党に好意的でした)からも述べていることですが、まさに「大局的」に見ると、物事は段階的に進むとはいえ、「多数者革命」を目指している党がこの程度の勝利で大喜びしていていいのかと思ったり。

やっぱりね、「要求」型の政治は所詮「お代官様、おねげえしますだ」と大差ないと思うんですよ。もちろん、少しずつでも改良していければいいとは思いますが、所詮は体制内での陳情ですから限界もある。体制の枠を突破することを志向するのであれば、人民権力を握ってこそナンボのもの。いまでこそ「漸進改良主義」を称し、「急進左翼」から基本的に転向した私ですが、長期的には体制の枠は突破したいですし、そのためには権力を握らなきゃいかんと思います。本当に「革命」を起こすべきだとは思いませんが、「革命の動機」は大切にすべきです。人民権力を握るべきです。抗日闘争20年を戦い抜いたキムイルソン主席のように!

諸派は、みんなの党以上に関心が無いのでカット。何も申し上げることがありません。注目もしていませんでした。それよりいつの間にか社民党が都議会から消滅していたんだね。ちょっと考えて「ああ、そういえば藤田十四三氏の引退が最後あたりだったっけ」と、やっと思い出したレベルでした。うーん。

今後の展望は、たとえば朝日新聞が次のように述べています。
http://www.asahi.com/politics/update/0624/TKY201306230289.html
>> 反アベノミクス票、民主から共産へ 都議選出口調査

 自公完勝の中、少数派とはいえ安倍首相の経済政策に批判的な人はどんな投票をしたのか。参院選を前に都議選で注目されたのはその点だ。朝日新聞社が10選挙区で実施した出口調査では、批判票を取り込んだのは共産党で、長らく「反自民」の受け皿だった民主党はすっかり影が薄くなっていた。

 首相の経済政策は概して評価が高く、「大いに」「ある程度」を合わせて73%が「評価する」と回答。投票先は自民、公明候補に集中した。一方、「全く評価しない」と答えた人の52%が共産に投票し、民主は21%にとどまった。「あまり評価しない」人は共産29%、民主23%だった。

 無党派層の票は散らばった。自民20%、共産19%、みんな19%、民主16%、公明10%、維新9%。前回、民主が無党派層の48%を集め、共産と自民が各13%だったのと比べ、大きく様変わりした。

 年代別では自民がすべての年代で30%を超えた。共産は60代の19%がピークで若年層に弱く、維新は30代の14%がピークで高齢層に弱い。民主は全世代で10%台前半だった。

 今回の結果が必ずしも参院選に直結するわけではない。だが、政権批判票を投じたい人にとって、選択肢を見つけるのが難しい様子が見て取れる。維新とみんなの選挙協力が実現していれば、単純計算で民主や共産をはるかに上回る得票率が見込まれた選挙区が数多い。反自民票の行方が全く違う方向になっていた可能性もあった。(編集委員・峰久和哲)
 <<
そう、共産党の大量得票の大部分は「反政権批判票」であることは間違いないでしょう。しかし、反政権批判票の受け皿が共産党しかないというのは、反政権の立場の人たちにとっては、「末期的な閉塞状態」でしかありません(幾らなんでも共産党に「突破力」があるわけないのは、当人たちだってわかっている…はず)。

維新とみんなの選挙協力が実現していれば、単純計算で民主や共産をはるかに上回る得票率が見込まれた選挙区が数多い」という指摘が参議院選挙までに如何、生かされるのか。それが何よりもの鍵になるのではないかと思います。両党とも、あまり強固なイデオロギー的背景がない分、比較的やりやすいのかも。

もっとも、自公圧勝はもう目に見えていることですから、「大局的」には余り面白い選挙とはいえないと思いますけどね。残った批判票がどう流れるか。今回の共産票は、「警告」なのか、「ホンモノ」なのか。そして、ホンモノだった場合、共産党はそれを生かせるか。前者はハコを開けてみないと正確なところはわかりません(都議選ほど順調でもないという情報がありますが、まだ1ヶ月ありますしね)が、後者は何となく見えていたり。

【追記:チュチェ102年6月24日21時53分】
共産党衆議院議員の佐々木憲昭氏は冷静だった。
https://twitter.com/sasakikensho/status/349121473765576704
>> 都議選の得票数は61万6721票、前回は70万7602票。得票率は今回は13.61%、前回は12.56%でした。有権者比では今回5.9%、前回6.8%です。議席は倍増でしたが、現実は甘くはありません。これを直視し、参院選でさらに奮闘したいと思います。 <<
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2013年06月17日

「子供の視点」は「子供の視点」なのか

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130617-00000507-san-soci
>> 「待機児童ゼロ」横浜方式は全国に通用するか 現場の声を聞く
産経新聞 6月17日(月)8時30分配信

 かつて全国最多だった待機児童数をゼロにした横浜市の取り組みが注目を集めている。株式会社参入を積極的に促して受け入れ枠を増やし、働く保護者らの相談にのる「保育コンシェルジュ」を創設。安倍晋三首相は成長戦略で「横浜方式を全国展開したい」と平成29年度までの待機児ゼロを目指す方針を打ち出す一方、保育現場からは質を懸念する声もあがる。横浜市の林文子市長と、保育の現場を知る東京都八王子市の共励(きょうれい)保育園理事長、長田安司氏に聞いた。(清水麻子)

 ■林文子氏「民間活用でスピード感」

 −−待機児童ゼロを達成した感想は

 「約3年半で144カ所、1万人以上の定員を拡大し、多くの方から認可保育所に入りやすくなったと喜びの声をいただいた。印象深かったのは、認可保育所の不承諾通知が届き途方にくれていた保護者の方から届いた声。『保育コンシェルジュから一緒に探しましょうといわれ心強かった』と。民間企業経営者の経験から『おもてなしの行政』を目指してきたが、確実に保護者の皆さまに届いていることを実感した」

 −−横浜市の具体的手法は

 「まずは、どの地域に待機児童がいるのか、どこに保育所が必要か徹底的にニーズ分析を行った。認可保育所の新設はもとより、横浜保育室の新設、幼稚園での預かり保育やNPO型家庭的保育など、ありとあらゆる手段を講じて、保護者の皆さまとそれらの保育サービスをつなぐ役割である保育コンシェルジュを導入した。保育所新設のための市有地がなければ、土地を貸し出してくださる土地所有者を探した。区役所では課を超えたプロジェクトチームメンバーが猛暑の中、住宅地図を片手に土地を探し歩き、駐車場の看板に書いてある問い合わせ先に電話をすることもあった。そして見つかった土地で保育所を運営できる法人とマッチング。株式会社には既存建物の内装改修費を援助するなど環境を整え、手を挙げてくださるところが増えた」

 −−横浜方式は全国に通用するか

 「積極的に株式会社のご協力を得なければ、全国の待機児童にスピード感を持って対応できないのではないかと思う。ただ同じ待機児童を抱える自治体であっても実情はさまざま。互いに情報を交換し、知恵を出し合い、待機児童をなくしていく必要がある」

 −−営利追求の株式会社は保育所になじまないとの声もある

 「横浜市では、株式会社を認可保育所の運営事業者にする場合、経営診断を実施するなど厳しい基準を設け、そうした懸念にも対応できるよう努めている。実感としても、どの企業も働く保護者や子供のことを真剣に考え努力を重ねている。大切なのは、企業に丸投げせず、行政が一緒に保育の質を高めていく視点。横浜市では保育士の質の確保に欠かせない研修を積極的に行うこととあわせ、保育士が定着するよう待遇改善の補助金も出している」

 −−横浜方式のもう一つの核は、認可外だが保育士数や床面積などの基準を市が定めて認定する横浜保育室だ

 「通勤途中に子供を預けられる駅前保育所へのニーズは非常に高く、横浜保育室は待機児童対策の要といえる。都市部の特殊事情から園庭がない所はあるものの、近くの公園を使う手立てを整えている。保育士たちも非常に熱心。保育料も認可保育所と差が生じないよう助成を拡大するなど、安心してご利用いただけるよう工夫した」

 ■長田安司氏「子供の視点を失わずに」

 −−横浜方式全国展開をどう思うか

 「国はもちろん他の自治体も『横浜に続け』という雰囲気だが、保育の現場に長年、身を置く者として、非常に不安を感じる。保育所に市場主義が導入されると、運営主体や園長の意識がよほど確かでない限り、お客さんである親の都合にあわせたサービスを優先させ、子供の発達や教育の視点は置き去りにされる可能性が高い。保育所で早朝から深夜まで長時間過ごし、病気のときも滞在する…。そんな親にとって便利な保育所で育つ子供が、健全に育つのだろうか」

 −−民間活用以外の待機児童対策はあるか

 「保育所を安易に増やすのではなく、子供が3歳までは母親に育児休業を十分とってもらい、その間、無理に働かなくても良い仕組みを作ることだ。具体的には『育児休業3年』+『未就学児対象の子育て広場』+『児童手当』で解決は目指せる。児童手当は、待機児童が集中する0〜2歳だけに特化すれば、月額7万円は支給できる」

 −−担保すべき保育の質を具体的に

 「強烈な自我が芽生える1歳半から3歳頃までは、一番信頼できる人に依存し、反抗しながら自我を形成していく。これが子供の社会性の基盤となる。この年齢の子供たちを集団で保育するとなれば、配慮しなければならない点が多く出てくる。保育の質を担保するには保育士数や環境の整備だけでなく、経験ある保育士の存在と、子供の発達を理解する施設ぐるみの継続的な内部研修が必要だ」

 −−横浜保育室はどうか

 「国の基準は、乳児室は1人当たり1・65平方メートル、ハイハイをする『ほふく室』は3・3平方メートルで、探求心や運動機能を高める観点から計約5平方メートル確保せよとなっている。しかし、横浜保育室の0歳児保育室は半分の約2・5平方メートル。園庭すらなく、有資格の保育士数も国基準の3分の2。国基準ですら保育士は余裕を持って接することができないのに、待機児童がたくさんいるから狭くしても仕方がない、預かるのが先決、という方針では、子供も保育士もストレスを抱え、トラブルが多く発生する。このまま全国展開することに疑問を感じる」

 −−経済的に働かざるを得ない母親も増え、保育所需要は高まるばかりだ

 「市民の要望に応えるのが首長や行政の使命。しかし預かるだけの保育所を増やすだけでは子供はどうなるのかということだ。ハーバード白熱教室で有名なマイケル・サンデル教授は、その著書『それをお金で買いますか』で、あるものを商品にしたとき、何か大事なものが失われることがあると指摘した。安倍政権は子供の最善の利益という視点を失わずに待機児童問題に向き合ってほしい」

 【プロフィル】林文子(はやし・ふみこ) 昭和21年、東京都生まれ。67歳。東京都立青山高校卒業後、BMW東京事業部(現・BMW東京)などに勤務。手腕を買われ、平成17年、ダイエー会長兼CEO。21年8月から現職。

 【プロフィル】長田安司(おさだ・やすじ) 昭和24年、東京都生まれ。64歳。中央大学文学部卒。東京都八王子市の共励第3保育園園長を経て、平成11年より共励第1保育園など3つの保育園を経営する社会福祉法人同志舎理事長。
<<
今話題の「横浜方式」に関する関係者へのインタビュー記事です。くわしく見てゆきたいと思いますが、今回のブログ記事を通して主張したいことの関係上、原文とは逆に長田安司氏⇒林文子市長の順に取り上げさせていただきたいと思います。

さて、長田氏の主張を見るに、「横浜方式」に疑念があるようです。その主張の核心は「子供の視点」だと思いますが、果たして長田氏の主張は「子供の視点」を守るために必要かつ十分な主張でしょうか? 

私は以前より障害者福祉に関心を持ってきたのですが、どうも長田氏の主張は、現代の障害者福祉を支える「ノーマライゼーション」という理念によって退場させられた旧時代の福祉思想である「保護的処遇観」の残滓と共通する発想が見え隠れしているように思います。

幼児・児童福祉と知的障害者・障害者福祉を同じ土俵で語るのは余りに乱暴な議論であることは百も承知です。両者は「実際」においてかなり違うからです。しかし、世間的に、両者とも「健常者と比較して、十分な判断力が無い」と見なされている点を共通項とすることによって、児童福祉にノーマライゼーション運動の「発想」一部、参考にすることは、決して無意味ではないでしょう。以下、あえて「ノーマライゼーション」を参考にしつつ、長田氏の主張について検討し、本日の結論を導出したいと思います。ちなみに、「インフォームド・コンセント」も(だいぶ強引な議論になりますが)参考になるような気もするんですが、歴史的経緯についてそこまで詳しくない上に書き出すと長くなりすぎるので、今回はノーマライゼーションのみにしたいと思います。

ノーマライゼーションとは、1950年代に北欧で始まった障害者(主に知的障害者)運動を支えた理念のことです。ノーマライゼーション以前の北欧における(知的)障害者福祉は、おもに「入所型施設における保護(隔離)」が主体でした。そうした現状に異を唱え、いわゆる「健常者」たちと地域社会のなかで共生してゆける社会を構築すべきだとする(知的)障害者とその家族・支援者たちが、ノーマライゼーション理念に基づく運動(ノーマライゼーション運動)を推進しました。

当初のノーマライゼーション運動は、前述のような「入所施設閉鎖・地域社会での共生」が旗印だったのですが、1960年代後半以降、「障害者の自己選択権・自己決定権」という主張がクローズアップされるようになり、運動に新たな展開が生まれるようになりました。というのも、ノーマライゼーション運動の高まりの結果、1950年代以降、福祉サービス改革が行われ、障害者と健常者との「地域社会での共生」ができる方向に社会が変化していったのは確かだったのですが、福祉サービスが依然として「行政処分」として執行され、障害者の自己決定権が必ずしも十分に反映されなかったことにありました。また、福祉サービスの供給を行政が独占していたために、サービス内容の多様性が不足していたことも運動の契機でした。

そうした原因は、やはり「障害者は健常者から保護されるべき存在」とか「健常者が障害者の利益を代表し、合理的なサービスを支給するのが最上のはず」という、「入所型施設における保護」がメインだった時代の思想的残滓、「保護的処遇観」の残滓があったのだと思います。北欧の障害者・障害者家族・支援者は、そうした「保護的処遇観」に基づく旧式の福祉サービスのあり方に異を唱え、「障害者の自己選択権・自己決定権」を中心とする福祉サービスのあり方を求め、運動を展開してゆきました。当局側もそうした障害者・障害者家族・支援者の声に応えるかたちで、サービス内容の決定にあたっては本人の意向を基本とすることや、福祉サービスの供給主体の多様化のために参入規制緩和を行いました

「『障害者の自己選択権・自己決定権』を中心とする福祉サービス」という理念に対しては、不安ないしは批判も少なくないと思います。「自分で自分の身の振る舞いを選択することが出来ない人間に『自己決定権』『選択の自由』とは何だ!」という批判は、当然あるでしょうし、私も一理あると思います。しかし、ノーマライゼーション運動はそうした「一理」の部分についても検討を加えた上でなお、「行政処分から自己決定権尊重へ」や「サービス供給主体の多様化」を主張しています

さて、ノーマライゼーション運動はどうして、「一理」の部分についても検討を加えた上でなお、あのような結論に至ったのでしょうか。それはすなわち、「行政が専制するのではなく、障害者本人や民間のサービス供給主体に丸投げするのでもなく、三者が協同して意見を出し合う」という発想によります。たとえばスウェーデンでは、障害者と一緒に福祉サービスのプランを立てる相談員が充実しており、そうした体制の下で、障害者自身の自己決定権を尊重するサービスが決定されているのです。こうした仕組みがあるからこそ、「行政の一方的な処分」でもなく、「判断力が不足している知的障害者」に全てを任せる「放任」でもない、適切なバランスを確保することが出来、「自己決定権尊重」を意味のあるものに出来ているのです。

もちろん、北欧だって万事が上手く言っているわけではなく、むしろ課題は山積しているというべきでしょう。しかし、今のノーマライゼーションをはじめとする現行の北欧の福祉制度は、過去の批判の上、それも主に「当事者(障害者福祉なら障害者)自身からの異議申し立て」の上に構築されているものである以上、いくらかのチューニングあるにしても、理念レベルでの方向性が変わることは無いでしょう。

最初にも述べましたが、ノーマライゼーション運動はあくまで(知的)障害者福祉の世界の話なので、児童福祉に直接的には応用できないかもしれません。しかし、その歴史を参考にすることは大きな意味があると思います。以上の前提知識を踏まえた上で改めて記事を読み返すと、長田氏の言説が目に留まることでしょう。すなわち、長田氏の主張は、「子供の視点」なるものを持ち出し、「しかるべき人物のみが責任ある処分を執行することが出来る」という結論を導出しています。しかし、そうした「保護的処遇観」が硬直的で専制的な「行政処分としての福祉」の温床となり、「自己決定権」を抑圧するものとなり、1960年代に北欧の障害者・障害者家族・支援者たちの手によって乗り越えられてきたものではなかったのでしょうか

もちろん、長田氏がバリバリの保護的処遇観に立つ方だとレッテルを貼るつもりはありませんし、私としても氏の意見を全否定するつもりはありません。既に述べたように、「自分で自分の身の振る舞いを選択することが出来ない人間に『自己決定権』『選択の自由』とは何だ!」という批判は、私も一理あると思うからです。ですから、普通の商取引(スーパーでの買い物)のように、まるまる当事者に放任すべきだとは思いませんが、かといって「行政処分としての福祉」の温床となるような手法に組するべきでもなく、北欧発のノーマライゼーションの理念と実績を参考とし、「行政が専制するのではなく、当事者や民間のサービス供給主体に丸投げするのでもなく、三者が協同して意見を出し合う」というモデルを志向すべきだと考えるのです。

また、「民間経営=営利・子どもの利益を損ねる、公営・社会福祉法人経営=非営利・子どもの利益を保護する」という単純な二分法が見え隠れする点、長田氏のような主張はむしろ危険であるとすら言えるかもしれません。以前からたびたび指摘しているように、公営組織も手抜きやコストカットをしますし、「社会福祉法人」と言いながら営利企業のような経営スタイルをとっている所は幾らでもあります。逆に、民間経営にも志高くマジメな仕事をする所は幾らでもあります。優良保育施設と不良保育施設を見極め、判定する公的な仕組みは不可欠だと思いますが、逆に言えば、それさえキチンと機能していれば、民間経営を否定する必要はないでしょう。先ほど、北欧では「サービスの多様化」のために参入規制緩和が行われたとご紹介しましたが、当然、合理的に必要な設置基準は設けられています

ついでに言えば、まるで「世の親たちが子どもたちの利益を理解できず、自分勝手な保育サービスばかりを選ぶ」とでも言わんばかりの長田氏の主張には、少なくない親たちから反感を買うのではないかとも思います。もちろん、昨今は自分勝手な親だって少なくありませんが、基本的に親というものは子どもの利益を最大限果たそうと本気で努力しているものです。私は、「しかるべき人物のみが責任ある処分を執行することが出来る」という長田氏の主張から、「前衛意識」に近いものを感じ取ったのですが、前衛意識は一般人を小馬鹿にしているのと表裏一体です。ものは言いようだと思いますし、どんなにオブラートに包んだ言い方をしたとしても、最終的には前述の「三者協同」の方向性を押し留めることは出来ないと思います。

前後してしまいましたが、林市長の主張に移りたいと思います。市長が記事中で「大切なのは、企業に丸投げせず、行政が一緒に保育の質を高めていく視点」と述べている点は私もまったく同感です。「実際に、どの程度まで実行されるのか」というのが最も重要であることは、もちろんであり、「途中段階」で判断を下すべきだとは思いません。しかし、こういう方針が正しく遂行され、質の面でも改善が見られれば、「横浜方式」は新しい時代の児童福祉の形となるのではないかと思うのであります。

長田氏のような懸念は、林市長もある程度、予測しており、対策を講じていると思われます。「現実こそが厳粛な審判者」ですので、あとは現実の動向を見守ろうと思いますが、「自己決定権尊重」というのは、それを「自主性の擁護」と言い換えれば容易にチュチェ思想と親和性の高い議論になります。現状では「横浜方式」のほうが「自主性の擁護」の点において、頭一つ抜き出ていると思います。より「自主性の擁護」に資する方法論が伸びることを期待していますし、おそらくその方向の方法論しか生き残らないでしょう

福祉にも自主性・自己決定権・選択の自由が求められる時代になっているのです。福祉においても、いや、福祉だからこそ、「チュチェ時代」を迎えているのだと思います。単に「合理的」「科学的」であるだけなら、専門家や「前衛」に丸投げするという手もあるかもしれません(もちろん、既に何度も述べているように、「前衛の指導」は「理性に対する過信」であり、私は懐疑的な立場を取っています)。しかし、今やそれ以上に「自主的」であることも求められる時代なのです。また、「自主的」であることと「放任」は必ずしもイコールではなく、さまざまな人が意見交換をするなかで最終的に当事者が決断することこそが求められている時代なのです
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2013年06月13日

反独占闘争の行く末;「共産党の指導」は要らなくなる

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-06-12/2013061204_03_1.html
>> 発送電独占の打破を
塩川氏 再生エネ普及すすまず
衆院経産委

 日本共産党の塩川鉄也議員は5日の衆院経済産業委員会で、九つの電力会社の発電と送電一体の独占支配を打ち破る改革が必要だと主張しました。

 塩川氏は、民営の発電送電一貫の地域独占体制は主要国でも例がなく、2002年の電気事業制度改革以降、新規事業者がほとんど参入できていないと指摘。電気事業連合会の要望を反映した「発送電一貫体制」堅持の方針にふれ、「発送電一貫体制を中心とした地域独占の枠組みを断ち切ることなしに、再生エネルギーの普及や需要家(使用者)の選択肢の拡大はすすまない」と批判しました。

 塩川氏は茂木敏充経産相が5月31日の答弁で、電力会社の広域系統運用を拡大した後に送電部門の中立化を図ると答弁したことにふれ、「発送電の分離が行われてこそ、事業者参入の自由化が促され、小売りの自由化にもつながる」と強調。茂木氏は「電力システム改革は2018年の発送電分離で終わるわけではない」と説明したのに対し、塩川氏は「国が前面に出て発送電分離体制を整備し、ガリバーのように巨人化した電力会社の地域支配を打ち破る電力改革の取り組みが必要だ」と主張しました。
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http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-06-13/2013061302_01_1.html
>> 電力独占の規制こそ
電気事業法改定案可決 塩川議員が反対討論

 電力供給体制の見直しなどを盛り込んだ電気事業法改定案が衆院経済産業委員会で12日、自民、公明、民主、維新の賛成多数で可決されました。日本共産党とみどりは反対しました。

 反対討論に立った日本共産党の塩川鉄也議員は、「日米原発利益共同体」の市場確保を最優先に、原発の再稼働と輸出が一体となった「成長戦略」の柱だと指摘。(1)破たんが明らかな原子力損害賠償スキームを温存したまま電力改革だけを切り離してすすめる(2)付則に盛り込まれた小売料金の自由化などは、米国で停電などを招いた規制緩和の危険性をぬぐえない(3)電気事業連合会が求める「規制なき独占」にならない保証がない―と批判しました。戦後60年にわたる地域独占、民営の発電・送電一貫体制という「ガリバー支配」を改革することが必要だと強調。原子力賠償の仕組みの見直し、大規模集中電源から小規模分散電源への移行、「発送電分離」によって東電と送電網を特別な公的管理化に置き、電力独占への民主的規制と国民的監視による「原発ゼロ」に向けた電力民主化を進めるべきだと主張しました。
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「大規模集中」から「小規模分散」へ。その方向性は正しいと思うのですが、組織が小規模化し、機能が分散すればするほど、共産党的な意味における「民主的規制」だとか「国民的監視」はどんどん難しくなってゆくと思いますよ

電力問題に限らず、共産党の反独占組織政策は、つまるところ「独占的組織を打倒し、中小規模組織の連合体による社会を樹立する」というビジョン(反独占資本&中小企業政策がその典型)であると思います。マルクスのアソシエーション論から引っ張ってきているんでしょう。そして、その連合体の要所要所を自分たちの息のかかった勢力で占めて、マクロレベルであれこれ「指導」することを「民主的規制」だとか「国民的監視」というつもりなんでしょう。

しかし、むしろ独占の重しが外れるからこそ、多様なベクトルが一気に解放されるのではないでしょうか。かつてシュンペーターは、一国一城の主たらんとする企業家(多くの場合は中小企業体の経営者)は、イノベーションの担い手であると同時に私有財産制度の担い手であると指摘しました。正しい指摘だと思います。企業家は、マルクスがいうほど単純な動機で動いているわけではなく、「自分自身の手持ちのアイディア」、チュチェ思想的に言い換えれば「自分自身の自主性・創造性」を発揮することそれ自体を目的にしているのです。

そして、昨日付け『主体的な自由経済』を初めとして何度も繰り返しているように、これからの時代は、人民大衆の自主的意識がますます多様化してゆき、創造的能力が飛躍的に向上してゆく「チュチェ時代」になってゆくでしょう。それはすなわち、多様なベクトルが一気に解放される時代であり、決して、共産党的な意味における「民主的規制」だとか「国民的監視」、すなわち「マクロ的な指導」の手に負えるレベルではなくなる時代になるでしょう。

かつてソビエト共産党は、「恐怖政治」という強力な暴力装置を持ち、あれだけ経済が停滞していたにも関わらず、ついにマトモに統制できませんでした。ソビエトの指導型経済が制御不能に陥った理由については、以前から何度も繰り返しているので、いい加減、今回は割愛しますが、いわんや活力のあるチュチェ時代における民主国家の経済をや。推して知るべきでしょう。

つまり、共産党員が考えているようには「連合体」が形成されることはなく、おそらく「小連合」が乱立することになると思われるが、そこでもし、一つ一つの小連合に影響力を及ぼそうとすると、「KGBに学ぶ」ことになるが、たとえKGBに学んだとしても、マクロ的にはコントロールはできないだろうということです。

もっとも、以前から繰り返していますが、健全な競争的市場の存在によって選択の自由が実質的に保障されるようになれば、需要側と供給側の地位が対等になり、片方の一方的な行為・横暴は防げるかもしれません。それはある意味における「民主的規制」「国民的監視」といえるでしょう。しかし、それはまさに、アダム・スミスの想定。いつから共産党はスミス主義者になったのでしょうか?

また、ゲーム的な視点に立てば、継続的な商取引は需要側と供給側を「擬似的な運命共同体」にします。一歩踏み込んで、協同組合「風」に進化するかもしれません。その場合、「民主的規制」「国民的監視」っぽい作用は期待できるでしょう。しかしそれは、あくまで「ミクロの積み重ね・寄せ集め」であり、共産党が普段から陰に陽に見せている「指導」とはまた別タイプの事態です。

こうやって考えると、これからの時代、「民主的規制」や「国民的監視」が死に絶えることはなく、むしろ、多様なベクトルが一気に解放されるチュチェ時代においては、「ミクロの積み重ね・寄せ集め」の結果として形成される「民主的規制・国民的監視っぽいモノ」の出番は増えてゆくと思います。しかし、共産党がアイデンティティとしている「前衛党によるマクロレベルにおける指導」が手に負える場面は、ますます少なくなってゆくのではないかと思います。

まあ、たしか毛沢東の教えだったと思いますが、共産党員は自己の役割を終えるために闘争しているそうなので、こうした「自爆劇」も彼らのビジョンのひとつなのかもしれません。でも実際問題、幹部や専従党員は党組織がなくなったら大変だろうなあ。。。
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2013年06月12日

主体的な自由経済

http://mainichi.jp/select/news/20130612k0000m010142000c.html
>> 規制改革原案:「混合診療」今秋に拡大 まず抗がん剤

毎日新聞 2013年06月12日 02時30分


 政府が14日に閣議決定する「規制改革実施計画」の原案が明らかになった。治療行為の一部に例外的に保険外診療を認める「保険外併用療養費制度」を拡大するよう厚生労働省に要求。新技術が同制度の対象になる「先進医療」かどうかの審査を迅速化するため、外部機関などによる専門評価体制の創設も打ち出した。現行制度の対象拡大で保険診療と保険外診療を組み合わせた「混合診療」の将来的な全面解禁につなげる狙いがある。

 計画は「本年秋をめどにまず抗がん剤から開始する」と実施時期も明記した。

 日本では公的保険外の自由診療と保険診療の併用(混合診療)を禁じており、併用を認めるのは例外という位置付けだ。認定の際は、技術の有効性や安全性の証明を医療機関が担い、年間の審査件数は約40件。期間も1件に6〜7カ月かかり、これまでに認められたのは約100技術にとどまっている。

 これに対し、外部の評価機関を活用すれば審査の迅速化、効率化が見込める。計画は「最先端医療迅速評価制度(先進医療ハイウエー構想)」(仮称)を掲げる。抗がん剤は次々と新薬が出るため、自由診療の併用が迅速に認められるようになれば、抗がん剤の新薬を使いやすくなる。

 計画は規制改革を「経済再生の阻害要因を除去し、民需主導の経済成長を実現するために不可欠」と位置付け、規制改革会議が5日に安倍晋三首相に答申した項目をすべて採用したうえで、「先進医療の大幅拡大」などを追加した。内閣府は各項目の実施状況を年度末ごとに点検し、結果を規制改革会議に報告するとともに、公表する。

 ただ、首相が「全面解禁」方針を打ち出した一般用医薬品のインターネット販売は、副作用リスクの高い一部の市販薬の扱いを巡って調整が続いており、実施計画の最終案が固まっていない。【宮島寛】

 ◇解説 所得で不平等生む恐れ

 日本では公的保険の利かない自由診療と保険診療の併用(混合診療)を禁じ、併用すると医療費は保険診療分も含めて全額自己負担となる。国民負担が伴う保険医療は、有効性や安全性がより厳密に確立されている必要があるためだ。ただし、専門家でつくる厚生労働省の「先進医療会議」の審査を条件に、例外的に事実上の混合診療を認める「保険外併用療養費制度」がある。

 保険診療と自由診療が併用できれば、保険診療分は1〜3割の負担で済み、まだ保険が適用されない先進的な医療も受けやすくなる。とはいえ、利益を受けるのは自由診療分を全額自己負担できる人に限られる。

 このため、現行制度ではいったん保険診療との併用を認めた自由診療の技術も、あらためて保険適用を検討する。「混合」は一時的なもので、いずれは保険適用し、国民等しく受けられるようにするという原則だ。

 ただ、保険適用の対象になれば国が薬価などの公定価格を決める。製薬企業にすれば自由に価格を設定できる自由診療対象のまま保険診療と併用できるほうが利益が出る。すると本来保険が利くはずの薬も自由診療対象のまま残り、保険診療しか受けられない低所得の人は服用できなくなる恐れがある。【佐藤丈一】
<<
3月の社説においては毎日新聞は「安全性」と「医療格差」の2つを根拠に混合診療に異を唱えていました。ただ、今回の原案では「外部の評価機関の活用」を掲げている点、ちょっとそういった理由で異論を唱えるのは難しいと思ったのか、「医療格差」に論点を絞ったようです。もっとも、記事中でも触れられているように、事実上の混合診療である「保険外併用療養費制度」が既に機能している以上、「安全性」を根拠にした異論は少し妥当性に欠いているかなとも思います。

さて、「医療格差」。いいたいことは分かるんですが、それを根拠に「混合診療反対」とまで行くんでしょうか? すくなくとも、毎日新聞の掲げる論拠で「混合診療反対」まで導けるのか。どうも、インセンティブの問題を適切に解決すれば、「混合診療反対」まで言わなくても良いように思えます。

毎日新聞は3月の社説で以下のように述べていました。
>> 高齢化や医療技術の革新に伴って公的医療費は年々増えている。医療費抑制への圧力が強まる中で混合診療を解禁したら、患者負担の自由診療が広がるのは目に見えている。毎日多数の患者を診察して疲弊している現場の医師にとっても高収益の自由診療は魅力的なはずだ。今でさえ医師不足や医療崩壊が叫ばれているのだ。保険診療しか受けられない患者は医師探しに苦労することになりはしないだろうか。 <<
そして今回はこういっています。
>> ただ、保険適用の対象になれば国が薬価などの公定価格を決める。製薬企業にすれば自由に価格を設定できる自由診療対象のまま保険診療と併用できるほうが利益が出る。すると本来保険が利くはずの薬も自由診療対象のまま残り、保険診療しか受けられない低所得の人は服用できなくなる恐れがある。 <<
表現の仕方や角度は違うものの、要するに同じ事を言っています。すなわち、混合診療を禁止する理由を「医療費抑制のための価格統制をするため」と言っているのです。

ムチャクチャですよね。そんなことしているから、ますます医師不足・医療崩壊になるってのに。価格統制がどういう経済的効果をもたらすのか。供給インセンティブが失われて需要過多になるのは、それこそ「目に見えている」はずです。

混合診療に反対なら反対で、それはそれで主張として大切にすべきです。しかし、毎日新聞の記事を読む限りでは、結局、「供給側のインセンティブをどう刺激するか」という話しか見え来ず、その問題さえ解決できれば、混合診療を解禁しても大きな問題は生じないのではないかというメッセージしか読み取れませんでした。なんなの、実はその程度の問題なんですか?

ちなみに私としては、保険診療は、単なる「副作用の有無」程度ではない、いっそう厳重な薬効審査が必要だと思います。公のお金を使うわけですから、ホイホイと何にでも公金を出すべきではないでしょう。他方で、だからといって禁止することもないと思います。新しい薬を使ってみたいと思う患者、新しい薬を世に問いたいと思っている製薬界、そういった人々の要求にも応じるべきでしょう。

ここ最近、私が民間企業活動を重視する立場をとっているのも、類似の理由です。公共部門の活動は、公のお金を使う以上、慎重に慎重を期する必要が生じます。他方で、一定の社会的条件の下での自己決定は、そこまでの厳重さは求めらず、比較的、高い自由度を確保することができます。人民大衆の自主的意識がますます多様化してゆき、創造的能力が飛躍的に向上してゆくであろう、これからの「主体的な時代」においては、「小回りのきく対応」「自由自在に変化・変形してゆける組織」の重要性がますます上昇してゆくことでしょう。となれば、どうしても慎重に慎重を期する必要がある公共部門の活動よりは、民間企業活動のほうが何かと対応できる機会が多いのかなと思うのであります。

とはいっても、公共部門の活動がまったく無意味になるとも思っていません。こうした民間企業の活動に援護射撃を加えてゆくという重要な役回りが科せられていると思います。つまり、公共部門が「前衛部隊」になる時代は終わり、民間企業という突撃部隊を後方から支援する(十分なインセンティブが得られるような政策的補助)「補給部隊」だったり、あるいは突撃部隊の前に立ちはだかる障害物を粉砕する(規制緩和)「砲兵隊」のような立ち位置になっていくのが、これからの時代なのではないかと思います。

また、そうした個々の組織の活動をネットワーク化してゆく役割も、政府は担っているでしょう。もちろん、この「ネットワーク化」は、計画経済的な利用を目的としたものではなく(繰り返すように、計画経済は不可能です)、情報網的な位置づけを想定しています。

以上、チュチェ思想と自由経済を「混合」した反革命的主張でした。
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2013年06月10日

競争の強制法則

遅ればせながら。。。
http://jp.ibtimes.com/articles/45104/20130606/562404.htm
>>> ブラック企業の考えをそのまま掲載した物流専門紙の記事に批判集中

 物流業界の専門紙に掲載された記事に、ネットで批判が集まっている。

 記事は物流や輸送の業界紙「物流ウィークリー」の6月3日、「残業代未払い求めるドライバー『人間不信に陥る』」で、都内で運送会社を経営している社長の体験を織り交ぜながら掲載されたものには、信頼していたドライバーから有給休暇を求められたり、ドライバーが未払い残業代を要求するために荷主に駆け込んだりしたことが書かれている。

 結局、有給休暇は買い取り対応となり、労働調停となった残業代は500万円を250万円にする妥協案で解決したとある。さらに荷主からは台数制限の措置を受けたことなどに社長は、「平気で会社を裏切るドライバーや、臭いものにフタをする荷主の姿勢に、人間不信に陥った」としている。

 この記事にネットの掲示板では、「結局この社長、自分の事しか考えとらんがな」「残業代払えないじゃ済まないだろ。ここの社長はいったい何を考えてるんだか」「恐ろしいな日本の経営者っつーのは 無自覚で搾取してるんだな」などのように、社長への批判が相次いだ。

 ネットユーザーは記事を掲載した同紙に対しても、「こんな記事書いて公開しちゃう新聞社もそーとーやばい」「ここまで被害者と加害者が入れ替わってる話も珍しい ずい分異様な記事だな」と批判が多い。さらに記事中の表現「確信犯」「諭す」の使い方が間違っているとした指摘もあった。

 業界事情を察したネットユーザーからは、「物流ウィークリーって業界紙だから雇用側の視点でしか書かないのか」「読者は運送経営者だから読者寄りの記事にしないと干上がる」と推測したものもあり、推測に合わせたように「個人事業主の道を選ぶ 運送現場の本音と建て前」の記事では、法人化の抜け道を実現する法律すれすれの裏ワザが、運輸OBの口を借りる形で掲載されている。

 そうした記事がある一方で「逆転の発想で生き残る 『高い運賃支払い』『週休2日制』」の記事では、埼玉県の企業が他所より高い運賃提示でリスクを低くしている事例や、千葉県の企業が仕事を取捨選択したことで労働時間の削減を実現した事例を紹介している。

 そこでは経営者の言葉として「安い運賃だから協力会社へも安い運賃でやってもらうということでは、いい関係は築けない」「ドライバーの質は、うちの自慢だと思えるまでになった」のように、取引先やドライバーとの信頼関係を示したものがみられた。

 【一部修正】
指摘を受けまして、記事の内容や表現を一部修正いたしました。
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原文読みましたが、まあたしかに「ブラック企業の言い分だな」とは思いました。その点、批判的な意見が寄せられるのも仕方ないと思います。他方で、昨今の「ブラック企業批判」あるいは「労働問題」に共通することですが、「競争の強制法則」という視点が乏しいとも思います。

「競争の強制法則」は、資本主義批判の急先鋒たるマルクス主義の得意分野ですが、この視点を欠いている限り、どんなに「労働者側」を自称したとしても、大した政策的提言はできないでしょう。「競争の強制法則」が貫徹している以上、この問題は、個別の「ブラック企業」を叩くといった「ミクロ的な対応」でどうにかなる問題ではないのです。いやまあ、フラストレーションを発散するための「左翼ゴッコ」「革命ゴッコ」をやる分にはいいのかもしれませんが。

かといって、ではマルクスに回帰して、マクロ的に社会を設計すればいいのかといえば、それもまた否です。以前から繰り返しているように、我々が暮らしているこの社会はマクロレベルの設計主義を実行するには余りに大きすぎるのです。ただし、最初から遠大な外部設計をたてて、合理的に内部設計を詰め、それに向けて計画的に社会を構築すること(住宅を設計・建設するような感じ)こそ無理であっても、多様で漸進的な試行錯誤を積み重ねた末に「なんとなくそれっぽいもの」を作ることはできるかもしれません。急進的で包括的な社会変革は不可能でも、漸進的な社会変革の積み重ね・寄せ集めによる結果としての変革は可能だと思います。

矛盾を感じた方もいらっしゃるかもしれません。ミクロ的にブラック企業を叩くことでは解決しないとしつつも、結局は「多様で漸進的な試行錯誤」というミクロ風の結論に至る。しかし、これもまた何度も繰り返していることですが、社会というのは円環的な因果関係が張り巡らされた一つのシステムです。マクロの環境はミクロの行動を制約してますが、他方でマクロの環境はミクロの行動の結果として形成されるものなのです。それゆえ、本件を本気で何とかしたいと思っているのならば、場当たり的に「ブラック企業」吊るし上げて文革ゴッコするのでもなく、マルクスの口車に乗せられてマクロ的な急進革命運動に加担するのでもない、「『漸進的』な『社会変革の積み重ね・寄せ集め』による結果としての変革」という方法論が必要になるでしょう。

それにしても、「競争の強制法則」という視点と「搾取」や「階級闘争」という考え方ってなかなか共存が難しいですよね。「搾取」や「階級闘争」というキーワードを使おうとすると、どうしても「我々と奴ら」という「溝」を作ってしまいます。しかし、「競争の強制法則」に代表される「社会とはシステムである」という視点(そして事実)は、そういう「溝」をよしとしません。ちなみに私は、「社会有機体説」を掲げるチュチェ思想(주체사상)の影響を大いに受けているので、あまりそういった先鋭的な発想にはならなかったりします。旧ブログの時代から、基本的に私は、どちらか片方を悪人認定したり、原因を単一の誰か・何かに断定したり、はたまた特定の解決策に走ることはせず、むしろ、物事の多面性に目を向けるべきだと述べてきたつもりです。キムイルソン主席のご指導のお陰ですw

ちょうど弁護士云々の話がてできたので、ついでに書くと、法律系の人たちの対応は極めてミクロ的です。何年か前からYahooニュースなりで法律相談の啓蒙が増えてきたように思いますが、そのわりに「階級闘争」があまり盛り上がらないのは、法律系の人たちの余りにもミクロ的な対応策には、一般の庶民感覚ですら受けられらないということでしょう。そりゃそうですよ。私も労働者階級の一人ですが、まさに「会社は、それ自体が一つの有機体」なんですから。規模が小さくなればなるほど、渾然一体(혼연일체)の度合いは高まります。そんなところで「階級闘争」なんてできますかって話ですよ。

「社畜乙」? 法律系の記事で何度も書いていますが、社畜だ何だと言っていて何か解決するんですか? 私は、この問題を真に忌々しき問題だと思うからこそ事実から出発しているのです。

「意識を変える必要があるだろう!」? もちろん、意識を変えることは必要です。「人間があらゆるものの主人でありすべてを決定する」というチュチェ思想の哲学的テーゼは、「人間は自主性・創造性・意識性をもった社会的存在である」という人間の本質的特性に裏打ちされています。その点、意識革命・思想革命は死活的に重要です。しかし、意識革命・思想革命だけでは単なる観念論になってしまいます。それは必ず、客観世界との相互関係(←ここは極めて重要。どちらかがどちらかを一方的に規定すると考えるべきではない)のなかで考察せねばならないのです。いま、客観世界は上に述べたような理由で急進的で包括的な社会変革は困難な情勢にあります。現実に立つべきです。

参考:キムジョンイル『チュチェ思想教育における若干の問題について 朝鮮労働党中央委員会の責任幹部との談話』
http://kcyosaku.web.fc2.com/kj1986071500.html
>>> (前略)

チュチェ思想が人間解放の道を最も科学的に解明する革命学説となるのは、なによりもそれが人間中心の世界観にもとづいているからです。金日成同志は、歴史上はじめて、人間を世界の主人の地位にすえて、世界の本質とその変化発展の合法則性を明らかにする、人間中心の哲学的世界観を確立しました。

 チュチェ思想は人間中心の世界観であるというと、一部の人は、それがあたかも客観的世界を無視し、人間の主観的欲求や念願を一方的におしたてているかのように考えていますが、それは大きな誤りです。我々は人間を中心にして世界を考察すべきだといっているのであって、人間のみを考察せよといったことは一度もありません。

 ではなぜ、人間を中心にして世界を考察しなければならないのでしょうか。それは、人間が最も発達した物質的存在として、世界において主人の地位をしめ、世界の発展と人間の運命開拓で決定的な役割を果たすからです。

 人間も、自然の長い進化発展の過程で発生した、生命をもつ物質的存在であるという点では、ほかの生命物質と共通の基礎をもっていますが、その発展水準においては質的な差があります。したがって、世界における人間の地位と役割も、ほかの物質的存在とは根本的に異なっています。

 物質世界において主人の地位をしめるのは自然ではなく、人間です。物質世界において、人間は唯一の自主的な存在です。動物は自然に順応する方法でのみ生存できるので、自己の運命の主人とはいえません。動物は自然の変化発展の法則によってその運命が決定される自然の一部分ですが、人間は自然の変化発展の法則を科学的に認識し、それにもとづいて自然を自己の要求に即して改造し、それを自分に奉仕するようにしていく、世界の有力な主人です。人間は自然の変化発展の法則に服従して、自然と運命をともにする存在なのではなく、人間社会に固有の社会的運動法則に従って、自己の運命を自主的に、創造的に開拓していく社会的存在なのです。自然を改造する人間の創造的役割が大きくなるほど、世界の主人としての人間の地位はさらに高まり、人間の外にある物質世界はいっそう人間に奉仕する世界に変えられていくのです。

 人間は世界を自己の要求に即して目的意識的に改造していく唯一の創造的存在であるため、世界において主人の地位をしめるばかりでなく、世界を改造し発展させるうえでも決定的な役割を果たします。

 人間が世界において主人の地位をしめ、世界の発展において決定的役割を果たすというのは、人間が生きているこんにちの世界にたいする主体的な見解です。世界がどの程度に発展しており、今後どの方向にどう発展していくかということは、世界における人間の主人としての地位と、世界を改造する人間の創造的役割をぬきにしては理解できません。


(後略)<<<
最後に。6月3日づけ『ワタミは「ブラック」というより「急進左翼」』にも書きましたが、「理想を掲げること」と「急進主義」は全く異なります。遠大な理想を掲げつつも、「チュチェ(主体)の能力の限界」を見据え、足元を漸進的に固めてゆくべきなのです。キムイルソン主席は、父から「志遠」の思想を受け継ぎ、祖国解放の高い志をもち抗日闘争を戦いましたが、アンジュングンのようには早まることは決してありませんでした。
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2013年06月03日

ワタミは「ブラック」というより「急進左翼」

http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1306/03/news102.html
>>> ワタミ会長、「ブラック企業」と呼ばれることに反論数字を挙げて反論しているが、納得していないネットユーザーも多いよう。
[ねとらぼ]

 ワタミ8 件グループが世間でブラック企業と呼ばれていることに対し、創業者かつ取締役会長である渡邉美樹氏が自身の公式サイトで「到底、受け入れられるものではありません」と反論を述べている。

公式サイトの「『ブラック企業』と呼ばれることについて」

 ワタミ8 件グループは「ブラック企業大賞2012」で、Web投票2万111票のうちほぼ半数を得て市民賞を受賞。2008年に26歳の女性社員が入社わずか2カ月で自殺したことや、渡邉会長の「『無理』というのはですね、嘘吐きの言葉なんです」などの発言によって、ネット上ではブラック企業のイメージが強い。

 こうしたイメージについて渡邉会長は、「一度きちんと皆様にお話させて頂きたいと思っていました」と反論。ブラック企業の基準として、離職率、年収、時間外労働時間、メンタルヘルス不調による休業・退職の人数などを挙げ、ワタミ8 件のそれらは平均値よりもよいことを数字で示し、「一部の情報だけをもって、一方的にワタミ8 件グループをブラック企業と呼ぶことは、到底、受け入れられるものではありません」と訴えている。

 また自身の目の届かないところで問題が起きることがあると認めつつも、「私が事実を知った瞬間からは、早急かつ厳格に対応をして参りました」と主張している。

 この反論に対しネットでは、数字に出ないサービス残業もあるだろうという指摘や、「過労自殺を出して遺族に謝罪せず、労務管理も反省せず『一部の情報』と切り捨てることこそ、到底受け入れられない」という意見もあり、今のところ多くの人が納得していないようだ。

 渡邉会長は7月の参議院選挙に自民党から出馬する予定。自民党はブラック企業の社名を公表する動きを進めており、同氏はこれに「大賛成」としている。
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ワタミというと「ブラック企業」、そして渡邉美樹氏といえば「ブラック企業を率いる悪徳ブルジョワ」といった評判が広まっている昨今です。

正直、私もあまりワタミでは働きたいとは思いません。しかし、それは「ブラック企業だから」という理由ではなく、「急進左翼的な集団だから」という理由によります。どういうことか。渡邉美樹語録を見る限り、渡邉氏の思考と方法は、「現状」ではなく「理想」に立脚しており、それゆえに急進的に現実を理想に近づけようとする「急進左翼(共産主義)の思考・方法」とオーバーラップしてしまうからです。

「理想なんて掲げるべきではない」などと言うつもりはサラサラないのは、勘違いしないで頂きたいと思います。以前にもご紹介した『승리의 길』『신심드높이 가리라』は、私の大好きな革命歌謡です。しかし、「理想を掲げること」と「急進主義」は全く異なります遠大な理想を掲げつつも、足元を漸進的に固めてゆく。たとえばキムイルソン主席は、父から「志遠」の思想を受け継ぎ、祖国解放の高い志をもち抗日闘争を戦いましたが、決してアンジュングンのようには早まらなかった。「革命の主体は人民大衆である」というチュチェ(主体)の原理を見抜き、人民大衆の力量水準を見極めながら戦略を練ったのでした。何か理想を実現するにあたっては、こうした主席のような心構えが必要だと思うのです。

翻って渡邉美樹氏はどうか。「『無理』というのはですね、嘘吐きの言葉なんです」というのは立派な哲学ですし、おそらく渡邉氏ご自身は、大抵のことは意志の力で乗り越えることのできる超人なんでしょう。しかし、残念ながら部下はそうではない。ワタミという企業のチュチェは誰なのか。渡邉氏が何から何まで一人で成し遂げる個人経営の居酒屋なら、「大将の哲学」ということでいいでしょう。しかし、ワタミのような巨大企業になれば、そのチュチェは、(朝鮮革命のチュチェが「首領・党・人民大衆の統一体」であるように)「渡邉氏・幹部社員・一般社員の統一体」です。決して「超人;渡邉美樹」の事情だけでは済まないのです。

おそらく、「いやなら辞めればいいじゃん」という反論があるでしょう。正直、私も、民間企業のような「ミクロ的組織」の場合、辞めるのが一番だと思います。これは、たとえば桜宮高校事件について取り上げた3月4日づけ『「棲み分け」と「見えざる手」 』においても書いたとおりです。しかし、他方で3月26日づけ『庭師のように』でも触れましたが、かつてケインズが正しく指摘したように、「長期的には我々は皆死んでいる」のであり、まったくの自然淘汰に任せるべきではないとも思います

更に言えば、今まさに私の同僚がそのスパイラルに陥りつつあり、同僚としてどうしたものかと日々苦慮しているのですが、「義務感・責任感のある人ほど、自分の能力以上に働いて消耗し切ってもやめようとしない」んですよね。もっとも、自分の能力以上に働くという時点で、その人も現実よりも理想優先の急進左翼的要素の強い人なわけですが、だからといって放置して本当に死なせるわけには行きません。「一回の戦いで玉砕する」よりも「生き残って何度も出撃する」ほうが多分、その手の人たちの利益にもなると思うので、やはり救援の用意をしたほうが良いのではないかと思います(ただし、当人の自己決定権を最大限尊重するために適切な方法と順序をとるべきであり、決して「前衛党的な指導」であってはならないと思います)。

渡邉氏にはぜひ、チュチェの原理を生かしていたただきたい。以前からさまざまな場面で繰り返し述べていますが、重要なのは、「我々の活動のチュチェは何処の誰なのか」「チュチェは今、どういう状態にあるのか」という視点だと思います。

ところで、自民党が次期参議院選挙で渡邉氏を擁立するようです。私に言わせれば、「保守政党が急進左翼マインドを擁立させんなよww」といったところです。
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