2013年07月25日

努力至上主義と新自由主義との違い

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130725-00000000-jij-bus_all
>> 日本郵政、米アフラックと提携強化=がん保険、直営全郵便局で販売
時事通信 7月25日(木)0時0分配信

 日本郵政が、米保険大手アメリカンファミリー生命保険(アフラック)との業務提携を抜本的に強化することが24日、明らかになった。傘下のかんぽ生命保険がアフラックと代理店契約を締結。同社のがん保険販売を、同じ郵政傘下の日本郵便が直営する約2万カ所の全郵便局に拡大する。アフラックは2014年秋に日本郵政グループ専用のがん保険を供給する。26日にも基本合意し、両社トップが記者会見して発表する。
 米政府は長年、日本の保険市場の閉鎖性を指摘し、日本郵政の郵便局ネットワークをかんぽ生命以外の民間保険会社にも全面開放するよう求めてきた。今回の提携強化は、環太平洋連携協定(TPP)交渉と並行して行われる保険分野などの日米2国間協議にも影響を与えそうだ。
<<
コメント欄、行ってみましょうか。
>> 2013年7月25日 0時17分 12300000(k00...)さん
私もそう思う2,352点 私はそう思わない64点

労せずして販売網を手に入れるか。
自らは努力せず、自由化障壁と言い張ってね。
<<
日本においては「努力」という言葉がとても好まれるのは、皆様もよくご存知かと思います。かつてはこのワードが、いわゆる「新自由主義」的な思想と共鳴し、人口に膾炙していたことから、「努力」という言葉を新自由主義のキーワードであるかのように捉えるむきも多かったし、今も根強い捉え方だと思います。「努力」というワードは「自らの能力を遺憾なく発揮し、勝利を獲得すべきだ」という彼らの基本原則を端的に言い表すものである点、それは強ち間違いではないと思います。

ところで、世間ではよく誤解されていることですが、新自由主義は、政府介入を全く否定するリバタリアニズムとは異なります。以下の記事が端的に指摘されていたので、引用してご紹介します。
http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20100409/1270799822
>> (前略)
新自由主義が「秩序と成長」のために「自由」を求めるのに対し、一方のリバタリアニズムは、あくまでも「原理的な自由」を求める立場なのだ。新自由主義は福祉国家を容認し、市場が活性化するのであれば、政府支出が多くなることもかまわないとする場合もある.対して本来のリバタリアニズムは、たとえ経済システムが衰退しようとも個人の自由を擁護する社会を望む.
(後略)<<
このように、新自由主義の思想は、秩序と成長、公正で活発な競争がその核心をなしており、それゆえ、たとえばビジネス・インフラの整備を政府の任務とすることは否定しません。それどころか、それが公正で活発な競争を促進するのであれば、自ら要求するのです。世間一般では、新自由主義というと規制緩和とか小さな政府とか、そういった部分ばかりが目にいくと思いますが、それだけでは決してないのです。

その点、世間一般で行われている「新自由主義批判」の少なくない部分は、正確には、リバタリアニズム批判と言ったほうが良いかもしれません、また、たとえば昨今話題の発送電分離も、送電事業の自由化が電力供給の不安定化をもたらす可能性が高いと思われるのであれば、その点についは公有を続けるというのも新自由主義的発想であると言えます。

それゆえ、日本郵政とアフラックとの提携強化は、新自由主義の哲学と矛盾するものではないと言えます。新自由主義の哲学によれば、日本郵政が持つ郵便局ネットワークは、まさにビジネス・インフラであり、それを市場開放することは、公正で活発な競争を促進する手段であると位置づけることが出来るからです。

さて、翻って我らがYahooニュースのコメント欄。どうもアフラックが日本郵政のネットワークを利用することが気に食わないようです。「努力が足りない」そうです。冒頭でも触れましたが、「努力」という言葉を新自由主義のキーワードであるかのように捉えるむきが世の中では多かったですし、いまでも根強い捉え方だと思います。しかし、このコメントを見る限り、「努力」を信奉(信仰?)する努力至上主義的な昨今の世論と、本来的な意味での新自由主義は、重なる部分はあるとはいえ、同一のものであるとは言えないと思います。「努力」という言葉を新自由主義のキーワードとするのには限界があるのです。努力至上主義は新自由主義以上に過激な思想なのです。

もっとも、前掲コメントは、「努力」とか「公正で活発な競争」と言いつつ、実際には自分の都合に合わせて二枚舌を使っているアメリカ資本への皮肉・不満とみることも十分に可能です。そういう考えの下、あのコメントに賛同している方については、私もある程度の共感をいたします。ただ、この記事の主題とは異なるので、最後の補足として述べたいと思います。
posted by s19171107 at 22:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月24日

CSSの変更と過去ログへの加筆のご報告

(1)Seesaaからデフォルトで提供されたCSS(カスケード・スタイル・シート)だと文字が小さかったので、少しいじりました。旧ブログで使っていたCSSが残っていたので、復活させました。文字が少しだけ大きく、濃く表示されるようになりました。

(2)日本共産党の内部留保活用論について疑問を呈した2月18日づけ「いやいや全然違うから共産党さんw」を数日間かけて加筆しました。おもに北欧の話の部分を増やしました。

なぜ今回、2月の記事に新たなエピソードを加筆しようと思ったのかと申しますと、先の選挙期間中、共産党の内部留保活用論をキーワードにご訪問いただいた方が少なからずいらっしゃったからです(ちなみに、ちょっとした加筆――語句の補足や強調、表現の改善――程度なら実は、報告なしで日常的にやっていますw)。そうしたキーワードで訪問される方は今まで少なかったので、ちょっと記憶に残り、ここ最近、久しぶりに内部留保問題について考えたり、ネット上を巡回したりしていました。

ネット上を巡回しているときに強く思ったのですが、あいかわらず不毛な議論が展開されているなと思いました。「キャッシュとしての内部留保なんて存在しない。260兆円全部キャッシュである訳ないだろ」「誰も260兆円全額がキャッシュだとは言っていないが、労働者階級の生活を維持する必要な分のキャッシュは十分にある」「いやそんなことはないし、たとえ有ったとしても、私有財産なんだから収奪できる根拠がない」「とにかく企業は社会的責任を果たすべきだ」「共産党を名乗るなら『資本主義の枠内での改革』なんて言ってないで、革命を起こして収奪者を収奪しろ日和見分子!」といった、しょうもないやり取りが続いているんです。何年やっているんだろうね。

そもそも、共産党に対して「キャッシュとしての内部留保なんて存在しない」などと反論することは無意味です。相手は共産主義者なんですから、無かったら搾り出しても収奪しますって。他方、「革命」だなんて悠長なことを言っているヒマもありません。こうしている間にも事態は深刻化しているんですから。

当該記事中の追加部分でも書きましたが、「企業の社会的責任を問う」というのは大切な視点だと思います。「たとえ異なる『階級』に属していても、それ以前に『同胞』であり、運命共同体である」というキムジョンイル総書記の民族主義観を信奉している私としては、とても納得できる方向性です。しかし、実際の方法論的なレベルにおいては諸手段あるはず。内部留保を原始ケインズ主義的な方法論で活用する日本共産党の方法論に対しては疑問符をつけざるを得ず、「おなじ『収奪者を収奪する』でも、殖産興業に励みつつ、同時に所得政策にも手をつけるべきである」「どうしてもストックを原資に賃上げをし、以って個人消費の拡大を図りたいのならば、中間処理としてストックを恒常的なフローに転化させるべきであり、そのためには企業の投資・生産活動の実行とそれを支える成長戦略が必要である」というのが当該記事の論旨でした。その具体的根拠として、当該記事では北欧諸国における「経済と福祉の好循環」を投稿当初から触れていましたが、今回あらためて加筆することにしました。

主たる加筆点は、()「福祉のための負担を受け入れてもらう為に企業インセンティブに配慮した綿密な環境整備・制度設計(政策的誘導)に注力すべき」と、()「殖産興業が相当に重要な意味合いを持っており、生活水準・福祉水準のためにこそ殖産興業・成長戦略が必要である」ということを示す本当に短いエピソードです。

(B)は既に述べていることを更に実例で補足しただけです。生活水準を持続的に高いものにするためには、殖産興業が相当に重要な意味合いを持っているわけです。(A)は、「私有財産なんだから収奪できる根拠がない」と「とにかく企業は社会的責任を果たすべきだ」との不毛な闘争を見ての補足です。前者も後者もどちらも危険な発想です。なんとかして両者を取り持つ方法論が必要です。そこで行き着いた(思い出した)のが「企業インセンティブに配慮した綿密な環境整備・制度設計(政策的誘導)」です。

活用論者も反対論者も、結局は階級闘争を繰り広げているわけです。しかし、何度も述べているように、「「鶏が先か卵が先か」が経済である」、諸要素が相互作用的に絡み合っているわけです。「搾取」や「階級闘争」というキーワードを使おうとすると、どうしても「我々と奴ら」という「溝」を作ってしまいますが、諸要素が相互作用的に絡み合っている我々の社会に対して、かかる視点や態度は好ましいとはいえません。「綿密な環境整備・制度設計(政策的誘導)」の必要性は本当に重要なものだといえます。単に経済政策をどうすれば良いのかという問題に留まらず、社会観・世界観にも及ぶテーマです。

もちろん、加筆部分にも書きましたが、完璧な環境・制度を「設計」することなど出来ません。理性への過信です。しかし、修正を加えながら「それらしいもの」を形成していく努力は怠るべきではないと思います。

当該記事を更に加筆するか如何かはさておき、今後も折を見て、この話題について触れて参りたいと思います。また、チュチェの社会観・世界観についての記事も、機会があれば書いてゆきたいと思っています。
posted by s19171107 at 21:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 運営連絡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月22日

左翼票と公明票が減っている

参議院選挙について。

得票数などのデータが出揃い始めました。眺めていると、今回の共産党の得票数は「勝利」といいうるものであったと思います。神奈川や愛知も狙い目だったので、実はもう少し行くかなと思っていた(非改選含めて13〜15くらい行くと思っていた)んですが、まあ選挙前勢力が3だったのを見ると「大躍進」といえるでしょう。既に述べているように、私は共産党を支持しない人間ですが、率直に敬意を表したいと思いますし、共産党の参加によって国会論戦が厚みのあるものになることを祈念してやみません。闊達な議論がよりよい社会を生むはずです(ただし上手くいっても与党の手柄になるけど)。

たぶん共産党関係者は、幹部から支部員まで大喜びだと思います。私の経験上からも、そう言い切れますwwwただ、水を差すわけではないんですが、左翼票自体は減っているんだなあという感想を持ちました。以下は、NHKサイト上にある比例代表得票数の集計からの抜粋です。
http://www3.nhk.or.jp/senkyo/#hsm
党派改選今回得票得票率
自民党121818,460,40434.7
公明党777,568,08014.2
民主党1677,134,21513.4
日本維新の会166,355,29911.9
共産党355,154,0559.7
みんなの党044,755,1608.9
社民党211,255,2352.4
生活の党30943,8361.8
(それ以外の党・政治団体等は、当方の判断で割愛しましたので、直接NHKのページをご参照ください)
どこまでを「左翼票」と見るかは難しいところです(民主党を如何評価するのかにも関わります)が、共産票と社民票を「左翼票」とするのは、一部の極左さんたちを除けば、大方の同意を得られるものと思います。今回の選挙での両党の合計得票数は、640万票あまり、相対得票率は12パーセント程度、絶対得票率で6パーセント台前半でした(気になる人は検算してね。間違っていてもそれはわざとではなく、本当に計算間違い――エクセルの操作間違い――なので、ご連絡ください。そのときは訂正します)。

しかしこれが15年前の1998年(旧社会党崩壊後最初の参議院選挙)はどうだったでしょうか? Wikipediaによると、社民党だけで435万票超、共産党にいたっては単独で820万票あまりを獲得していました。相対得票率では両党で20パーセント超え、絶対得票率でも10パーセント台前半を記録していました。

かつての左翼票が、「死んでしまった」のか、保守化したのか、維新の会の文革路線に感化されたのか、それとも必死で民主党を支えていたのかは私には分析できませんが、老舗の左翼は縮小しているのかもなあと感じました。

つぎに公明票について。公明党がジワジワと得票を減らしていますね
Wikipediaに掲載されていた1998年以降の参議院選挙の比例代表選出結果をはじめとして、各種報道等で掲載されている数値をいじってみたら、こんなことになりました。
得票数相対率絶対率全有権者数投票率
19987,748,30113.88.1158578595,471,12858.8
20018,187,80414.968.081956236101,309,68056.4
20048,621,26515.418.410372717102,507,52656.54
20077,765,329.1213.187.72793503710048388258.63
20107,639,432.7413.077.569717051100920981.457.92
20137,568,08014.27.479985365101177738.152.61
ちなみに、整数値であるはずの「全有権者数」に小数点があることから分かるように、これは投票総数を投票率で割っただけのシロモノです。そして、四捨五入すらしていない絶対(得票)率は、得票数を全有権者数で割っただけのシロモノです。正確な学術的な目的のために作ったわけではなく、「大雑把に分かればいいや、ケンチャナヨ!」くらいのものですから、あまり正式な使い方はしないでください。

どういうことなんでしょうかね? 創価学会・公明党については「幸いにして」、まったくご縁がないので良く分かりません。信心が足らんということなんでしょうか? 修行するぞ〜(違)
posted by s19171107 at 21:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

藤井裕久氏の民主党自己批判――民主党の惨敗劇の原因

参議院選挙について。

まずは、口隹一ネ申又吉イエスが最下位でなかったことを喜びをもって申し述べたいと思います。ところで、先日、2chを見ていたところ、口隹一ネ申又吉イエスを知らないという書き込みが以前より目立ちました。時代の変化を感じました。で、あいかわらず口隹一ネ申又吉イエスの動向を注視している私は時間が止まっているのであります。。。

それはさておき、私自身とまったく接点のない選挙区を含めて、全国の各選挙区の情勢を見ていると、みんなの党が予想以上に健闘していることに気がつきました。改選議席もそれなりに獲得していますし、当選に至らなかった選挙区についても、そこそこの得票率を記録しているようです。立党当初、ネーミングからして既に怪しげで、たぶんすぐに消滅するだろうなと思っていましたが、ジワジワと伸びてきていますね。公明党につぐ勢力になりそうです。すこし研究する必要があるかもしれません。

逆に退潮が顕著なのは、やはり民主党でした。東京選挙区については、今現在のNHKの開票速報(ウェブ版)を見る限り、公認候補の鈴木氏と公認を取り消された大河原氏の得票数を単純合算すると第3位に食い込み、もし上手く調整できていたとすれば、最下位当選(当確)を果たした自民党の武見氏が押し出された形になったかもしれません。まあ、鈴木氏と大河原氏は、なんだかんだで結構違う筋の人らしいので単純合算できるものではないのかもしれませんが、「また民主党系は自爆したのか」といったところです。

さて、こうした民主党の惨敗劇の原因について、藤井裕久・民主党最高顧問はテレビ東京系選挙特番において、政権時代の問題点として3点を挙げました。ひとつは、「『革命』をやるつもりでいたこと。『革命』なんてありえないし、『革命』と『改革』は違う」、ふたつめは「議論ばかりして決めなかったこと」、そして三つ目が「官僚を『使う』べきところで『戦ってしまった』ところ」だったそうです。

この3点については、私も3月12日づけ「そこじゃないよ民主党、何を言っている社民党」で述べたとおりであり、大先生と同じ見解に至れたことに安心というのかなんというのかといった心境なんですが、政界とは全く関係のない私がいうのと藤井氏が言うのは全然意味が違うんですよね。だって藤井さん、これあなたの党のやったことですよ。「なぜ藤井氏ともあろう方が、自党の闘争路線をとめられなかったのか」、そこを上手く総括できるか否かが次の選挙の命運を決めるわけです。それが無かったのは残念でした。

ところで、テレビ東京系選挙特番は池上彰氏が司会者だったのですが、公明党への質問があいかわらず容赦なかったですね。神奈川選挙区当確の佐々木さやか氏に対して「公明党に投票すると功徳があるって本当ですか?」と聞く。佐々木さやか氏は「創価学会が支持団体であることは事実ですが、それに対して現在の私の立場(公明党候補者)として申し上げることはありません」(要旨)と上手く返答した(一応、公明党と創価学会は別団体ですからね)のですが、池上氏は引き下がらない。「あなたは創価学会員じゃないんですか?」とまで聞く。さらにその後、政教分離問題についても質問する。いつか「祝電」送られるぞwwww

Youtubeに早速アップされていたので、リンク張っておきます。削除される前にご覧くださいwww


さて、対自民党的な意味での今後。野党の足並みがそろっていない中、当面は公明党の位置づけが相対的に浮上しそうです。しかし、中期的には、維新の会やみんなの党に対して自民党がどう懐柔していくかによって、すこしまた情勢にも変化が生まれるでしょう。共産・社民については、既に述べたように、何議席あっても、物事の進捗速度には影響はあるかもしれませんが、方向性的な意味での大勢には影響のない存在です。
ラベル:政治
posted by s19171107 at 01:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月20日

企業こそ「自己責任」のもと「努力」せよ

http://wedge.ismedia.jp/articles/-/2989?page=1
>> 参院選後のアベノミクス本丸
法人税を引き下げよ

2013年07月17日(Wed)  原田 泰 (早稲田大学政治経済学部教授・東京財団上席研究員)
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法人税は引き下げるべきである。日本の法人税率(国地方合計)35.64%に対して、アメリカ(カリフォルニア州)40.75%、フランス33.33%、ドイツ29.55%、イギリス24.00%(2015年4月に20.00%に引き下げることが確定)、韓国24.20%、シンガポール17.00%で、日本の法人税はアメリカを除けば主要国の中でもっとも高い(財務省ホームページ「法人所得課税の実効税率の国際比較」2013年1月現在)。
<<
むしろ注目すべきは、アメリカが主要国平均より抜き出て高いのに、世界経済の中心として君臨できているところではないかと思ったり。つまり、「法人税の税率は本当に企業活動を阻害する主要因なのか」ということです。

利益を追求する企業は、収入と費用を勘定して生産・投資の意思決定を下します。法人税率が費用として意思決定に影響を及ぼす要素になることは言うまでもありませんが、しかし、うまみのある(期待収益率が高い)市場であれば、多少、税率が高くとも、それほど問題にはならないはずです。

アメリカは確かに法人税率が高いかもしれません。しかし、その分、マーケットとしての魅力が高く、それゆえに高い競争力を獲得しているのではないでしょうか。そして、その理由はやはり、徹底した自由市場であるというところにあると思います。つまり、経済振興政策をとしては、必ずしも「法人税率」にこだわる必要はなく、むしろ「規制緩和」「競争政策」でも良いといえるでしょう。

どうも昨今の「日本の法人税は高い!」という議論を聞いていると、「企業の経営努力」というものを意図的に回避して、安易に儲ける道を提供しようとしているのように思えてなりません。一般国民には「努力」だとか「甘えるな」とか言うくせに。

たしかに「規制緩和」や「競争政策」というのは、既得権を持っている企業にとっては「脅威」ですし、新規参入企業にとっても、「チャンス」であると同時に、下手すれば失敗するかもしれない「諸刃の剣」でもある点、手放しで歓迎できる施策ではないかもしれません。それに対して、「法人税減税」は手っ取り早く確実に利益を増やせるのです。「楽したい」と思う企業家の気持ちは分からないでもありません(ちなみに、「法人税の減税」よりも「社会保険料企業負担分の減額」のほうが「もっと楽に稼げる」と思うんですがね、そこんところは斬り込まないんでしょうか?)。

しかし、日ごろから「努力」だとか「甘えるな」などと言われている一般国民は、「諸刃の剣」すら提供されずに放置されているわけです。「規制緩和」や「競争政策」を提供してもらえるだけ、恵まれていると思いなさいといいたいところですし、「親方日の丸」に間接的とはいえ、養ってもらうことは、長期的に見て企業の競争力を殺ぐことになるでしょう。

ところで、企業の利益を代弁する立場の人たちが法人税減税にこだわる一方で、「収奪者を収奪」したい人たちが「日本の法人税は決して高くない! 高かったとしても他の国は立派にやっている!」というのは面白い現象です。前者は、本質的ではない法人税問題にこだわる余り、掲げている旗印を十分に生かせていないどころか、むしろ安易な保護政策によって長期的な企業の競争力を殺ぐようなことを主張しています。後者にいたっては「そう! アメリカはむしろ日本よりも税率が高い! その分、規制緩和・競争経済だから高いパフォーマンスを維持できているんだ! 日本も法人税減税なんかよりも規制緩和・競争促進だ!」という、その手の人たちにとっては最悪の政策への道を自ら掃き清めているんですから。

旧ブログ時代に書いた記事で、いくらかの反響を頂戴したものに「企業自己責任」というものがありました。要点は、「ふだん一般国民に対して浴びせかけられている『自己責任論』を企業に適用させるとどうなるか」という思考実験であり、結果として「『最低賃金1000円だなんて倒産ちゃう><』なんてのは、『甘え』に過ぎず、バブル期に内部留保を貯めておかなかった自己責任だ」という結論に至りました。もちろん、私は当時から一貫して「自己責任論」には組しない立場を取っていますから、今も昔もそんなことを本気で言ったりはしませんが、当該記事末尾にも書いたように、「守るべきは個人・生活であり、法人の存続や雇用のイスそのものではない」とも思っています(ちなみに、これは、スウェーデンの労働政策・経済政策の基本的考え方でもあります;http://diamond.jp/articles/print/10654)。

そういう政策的立場から述べると、昨今の議論には「なんだかなぁ」という思いを強くします。アベノミクスも目新しさを感じませんし、対抗馬にいたっては、いろんな意味で「社会党Part2」状態の民主党と、「原始ケインズ主義政党」の共産党ですからねorz

先日、城繁幸氏のブログに筆者が「日本の弱者はとても可哀想だ」と思うワケという記事が掲載されました。城氏はその中で「筆者は日本の弱者には一つ、心から同情すべき点があると考えている。それは、彼らの側に立って主張するのが、上記のようなもはや政策にすらなっていない政策を、どれだけ誤りを指摘されても選挙のたびに臆面もなく繰り出してくるグループしかいないという現実だ」と仰っています。まったくそのとおりだと思います。ついでに言えば、「企業側」を自称する人たちの中にも、既に述べたように、長期的に見て自分で自分の首を絞めるような主張を提言しているのが居る点、もっと広く「日本人って階級・階層を問わず、可哀想だな」と思う次第です。

「可哀想だな」とか「orz」とか言っていても仕方ないので、ぼちぼちと色々考えて行きたいと思っています。たぶん明日の選挙では、自民党・公明党が完勝し、民主党が「社会党Part2」の地位を確固たるものにし、共産党が躍進(といっても、伸びても10議席台)するでしょう。つまり、議会勢力的な意味で自民党体制が磐石になるのはもちろんのこと、共産党という「ガス抜き器」の存在によって、思想的な意味でも自民党体制が磐石になるでしょう。ここからどういう風に対応してゆくべきか。。。
posted by s19171107 at 20:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月18日

過剰反応

http://blog.livedoor.jp/soemon/archives/54547860.html
言わんとしていることは理解できるし、私も思っていることなんですが、理由付けを見ていると、ちょっと「悲観的」かなと思いますし、それ以上に、ちょっと危ない戦略を構想されているように見受けられました。

今回、日共が浮上したのは、ひとえに民主党が大陥没し、維新の会が失速しただけに過ぎません。一般大衆の多くが、コミュニズムに覚醒して、日共を強く支持した訳ではなく、ワタミやユニクロが嫌いなのでそれらブラック企業を指弾している日共に何となくシンパシーを感じている、といったぐらいの代物です」とのことですが、たとえば都議選における議席倍増の大部分は、数値を見る限り、「日共に何となくシンパシーを感じている、といったぐらいの代物」ですらなく、徹頭徹尾、「民主党が大陥没し、維新の会が失速しただけに過ぎ」ません。なんたって、共産党衆議院議員の佐々木憲昭氏も認めているように、有権者全体比の得票率(絶対得票率)は、2009年都議選に対して1パーセント近く減って(相対得票率は1パーセント増=全体投票数が激減して相対的に共産組織票が浮上しただけ)いましたし、獲得議席の「内訳」を見ても、普段だった到底、当選ラインには届かないような得票数でギリギリ滑り込んでいた選挙区が幾つもあったのですから。

ちなみに、旧社会党が崩壊したあとの1997年の都議選では、共産党の得票率は、相対得票率・絶対得票率ともに上昇しました。このときは「共産党の支持が拡大した」と言えたと思います。しかし、今述べた理由から今回の都議選は、とてもそうは言えるような状況ではなく、まさに「組織票が生きた」といわざるを得ない結果だっと思います。

また、「原発にしても、護憲にしても、あくまで自分たちの勢力拡大のための方便であって、その正体はマキャベリズムとポピュリズムのキメラのようなもの」というのも、全くその通りなんですが、一般国民の多くにとって「脱原発」は二の次、三の次くらいのテーマでしかありません。この前の総選挙では、反原発を錦の御旗にしていた「日本未来の党」が見事に壊滅し、「脱原発」を掲げなかった自民党が圧勝・完勝したじゃないですか。「そもそも護憲・脱原発票なんて存在しない」というべきでしょう。

ついでにいえば、どんなに議席数がふえたって、共産党的には『しんぶん赤旗』が増えなきゃ財政的な意味で破綻してしまうんですよね。現在、必死に値上げ、合理化、そして何よりも販路拡大を推進しているようですが、それでもまだまだ苦しい台所事情。かつてのように特定政党を継続的に支持する時代ではなく、そのときの政治状況に合わせて投票先を選択する有権者が増えている時代です。また、紙媒体の新聞自体が後退している時代でもあります。そんな時代に「紙媒体の機関紙」の購読者数が増えるでしょうか? 私は、共産党は抜本的に「ビジネス・スタイル」を転換し、電子新聞を導入する時期だと考えていますが、共産党にとって機関紙は、単に「党の見解を広めるための手段」ではなく、「配達や集金の際に直接対話をすることによって支持を堅固にするための手段」という意味合いがあるそうです。ですから、改革は遅々として進んでこなかったし、これからも変化は鈍いと思います。実は、ブログ主さんがまったくタッチされていない部分においてこそ、危機的な状況があるのです。

共産党のことを買いかぶりすぎ、反共的な意味において「悲観的」過ぎるんじゃないかと思いますww共産党の実態は、ご想像以上にヤバいんですよ。

そんなことよりも懸念すべきは、「地方議会での日共の封じ込めをなるべく腐心するべきであって、場合によっては「敵の敵は味方」ということで、創価学会・公明党をも引っ張り込んで日共潰しを行うべきだと思う」という部分。消えかけのロウソクが最後の輝きを増している状態の共産党、おそらく昨今の「躍進」で慢心し、いつも以上に自己改革しないであろう共産党に対抗するために「創価学会・公明党をも引っ張り込んで日共潰しを行う」というのは、コルニーロフの反乱を恐れるあまり、ボリシェヴィキに武器を与えたケレンスキー並みの愚挙ではないでしょうか。

共産党も実態はかなり「宗教的(間近での目撃談)」だと思いますが、創価学会・公明党は「ホンモノの宗教」です。よく、「共産党は用法用量を守って、、、」とジョークで言われたりしますが、創価学会・公明党は共産党以上に「用法用量を守」らねばならないと思います。え、「創価学会・公明党は医薬品じゃなくてただの毒薬だろ!」って? あー、私はそこまでは思わないんですよね。かなりヤバいところだとは思いますが、「必要悪というか何というか」で捉えています。創価学会・公明党と共産党に対しては、「日中戦争期における中国共産党の立ち位置」をキープすべきでしょう。つまり、両者の潰しあいを見物し、ごく稀に、味方ヅラして茶々を入れる程度であるべきです

いやそもそも、コルニーロフは侮りがたい存在でしたが、いまや共産党は脅威ですらありません。1970年代の勢いはありませんし、「農村から都市を包囲する」といった時代でもありません。共産党が比較的、得意としている生活闘争で権力を握ることは出来ないというのは、共産党の歴史が何よりも多くを物語っています。権力闘争は、要求型の生活闘争とは質的にまったく異なる闘争であり、要求型の生活闘争を積み重ねても権力には到達しません。だって、権力を握るということは、今まで要求して獲得してきたこと、言い換えれば「実現の方途を権力者に丸投げしてきたこと」を、今度からは自分たちで実現させなきゃならないわけですから。いじめ問題をめぐる全教と共産党文教担当部門の対応をご覧になってください。「与党能力」なんて皆無ですよ。その点、共産党の地方における勢力に対するブログ主さんの懸念は、「過剰反応」とまでいえるかもしれません。

ちなみに、これは安倍総理をはじめとする自民党幹部層にも一部、言えることです。さすがに自民党幹部層は、共産党に政権担当能力が無いことは分かっていると思いますが、「共産党の調査力」については、これを恐れているフシがあります。しかし、いまや昔のような調査力と気骨のある共産党ではありません。『しんぶん赤旗』は「左の聖教新聞」の道を進んでいます。「赤旗のスクープ」だって、昔は本当に感心させられたものですが、いまや放っておけばそのうち東京新聞あたりが嗅ぎ付けそうなレベルのことしか発見できなくなってきています(ところで最近、東京新聞が左翼新聞路線を驀進し、サンケイ新聞と「好一対」を成しているのが笑えますwww脱線終わり)。

「地方議会で共産党が勢力を保てているということは、それだけ地域の党組織が強く、それはすなわち、カクダイ等で非党員に迷惑をかけていることを意味する。決して『過剰反応』ではなく、共産党を甘く見ないでほしい」という声もあるでしょう。私も「諸般の体験」から、そのお気持ちはよく分かります。しかし、だからといって創価学会・公明党を引き込むのは違うと思いますし、地方議会の共産党は決して全否定するほどでも無いと思うんですよね。結構、仕事している方だと思いますよ。いろいろな「しがらみ」で何となく議員やっている「地元の名士」なんかよりはずーっとね。

社会党・社民党が未だに完全には消滅していないのを見ると、伝統的に強固な組織力を誇る共産党が地方レベルでも完全に壊滅するのは、かなり先のことになると思います。今回の都議選のような「漁夫の利」が重なれば尚更です。もし本当に共産党の存在を忌々しく思うのであれば(私はそこまでは思わないんですけどね。支持は止めましたが、「即刻、潰れて消えろ」とまでは思いません)、「共産党が必要とされない世の中」にすることでしょう。共産党の支持者を取り込みつくすような新勢力を伸ばすか、あるいは、共産党が見向きもされないような活気ある世の中にするか。

敵が自ら消滅することはありえない。中国の反動派にせよ、中国におけるアメリカ帝国主義の侵略勢力にせよ、自分からすすんで歴史の舞台をひきさがることはありえない。――毛沢東(「革命を最後まで遂行せよ」1948年12月30日、『毛沢東選集』第4巻、『毛主席語録』第2章)
ラベル:社会 日本共産党
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2013年07月16日

銃規制とチュチェの視点

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130716-00010000-newsweek-int
>> 全米を揺るがせたジマーマン無罪判決の意味
ニューズウィーク日本版 7月16日(火)16時55分配信

 2012年2月に、フロリダ州サンフォード町で発生した銃撃事件は、発生直後から全国的に大きく取り上げられてきました。被害者はトレイボン・マーティン君という17歳の黒人の少年で、銃撃したのはジョージ・ジマーマンという現在29歳の若者です。このジマーマンという青年は、住宅地の「自警ボランティア」をしていました。

 事件は午後7時過ぎに、フードをかぶって歩いていたマーティン君に対して、ジマーマンがおそらくは「コイツは怪しい」と思った、あるいは自警ボランティアの「職務に忠実であろうとした」ために、マーティンに対して「つきまとい」的な行動をしたようです。

 そのジマーマンの行動をおそらくは不快に思ったマーティン君と、ジマーマンはやがて「取っ組み合いのケンカ」に至り、ジマーマンは武装していなかったマーティン君を射殺してしまいました。こうした事件の場合には、フロリダ州では「正当防衛法(スタンド・オン・ユア・グラウンド・ロー)」が適用されます。

(中略)

 では、ジマーマンがマーティン君を殺したのは「仕方がなかった」のかというと、そんなことはないわけで、基本的に警察でも何でもない「自警ボランティア」が銃で武装できるという銃規制の問題が根本にはあるのです。無茶苦茶な「正当防衛法」も、単に「取っ組み合いになった場合の正当防衛」ではなく、「そこに銃がある」ために「命のやり取りになってしまう」そのことが異常なのであり、また問題にしていかなくてはならないのです。ですが、アメリカ社会は、問題が「銃」にあるということから、今回も目を背けています。

 今回はフロリダの刑法による刑事法廷での判決となったわけですが、連邦の検察としては「ヘイトクライム」による「公民権侵害」事犯として刑事訴追できないかを検討中のようです。但し、この訴追に関してはテクニカルに相当難しいと言われています。その次には、亡くなったマーティン君の家族の側が、ジマーマンを民事で訴えることになり、O・J・シンプソン事件のように「刑事は無罪でも民事では多額の賠償責任」という「裁き」になる可能性はあります。

 ちなみに、これだけメディアの露出がされれば、90年代であればもっと激しい騒ぎになったかもしれないと思うと、今回の「判決抗議デモ」には、これでも相当な自制が感じられます。その点に関しては、やや救いを感じる部分もあるのですが、問題の根っこにある「銃」の問題に向き合えないということには、やはり激しい失望感を感じざるを得ません。
<<
アメリカ社会は、問題が「銃」にあるということから、今回も目を背けています」とのこと。最近はやり(?)の「銃社会批判」です。他人の国のことなのに、こんなに関心を寄せるとは、日本人は暇なんですね。

「銃があるから悪い」というのは、逆に言えば「銃がなければ大丈夫!」ということを意味しています。本当でしょうか? たしかに銃が無ければ死亡者数は減るでしょう。人間って結構、丈夫にできていますから、そう簡単には死なないものです。しかし、事態はそんなに簡単な話なのでしょうか?

たとえアメリカに日本並みの厳しい銃規制があったとしても、ゴルフクラブやバットなどで撲殺したのではないでしょうか。「事件は午後7時過ぎに、フードをかぶって歩いていたマーティン君に対して、ジマーマンがおそらくは「コイツは怪しい」と思った、あるいは自警ボランティアの「職務に忠実であろうとした」ために、マーティンに対して「つきまとい」的な行動をしたようです。そのジマーマンの行動をおそらくは不快に思ったマーティン君と、ジマーマンはやがて「取っ組み合いのケンカ」に至り、ジマーマンは武装していなかったマーティン君を射殺してしまいました。」という部分を読む限り、ジマーマン被告はそれだけ思い込みが激しいか、あるいは粗暴な人間であるように見受けられます。つまり、銃規制は当然ではあるが、それだけで済む話ではないのにも関わらず、どうも昨今の銃社会批判・銃規制推進論は、「銃」にばかり注目していると思うのです。

以前から私はチュチェ思想の立場に立っていることを言明していますが、この問題をチュチェ思想的に考えると、「殺人を犯すという≪自主的要求≫をもつ『人間』という主体」と「殺人を犯そうと観念する人間に≪創造的能力≫を与える『銃』という客観的条件」の2つの要素が浮上してきます(チュチェ思想は物事を主体と客体の相互作用としてみます)。その点では、昨今の流行の「銃社会批判」はもちろん正しいですが、他方で、全米ライフル協会の「銃が人を殺すのではない、人が人を殺すのだ」というのも、決して間違いではありません。大切なのは、「銃が悪いのか、人間が悪いのか」ではなく、「どちらも同じくらい悪い」という視点、物質世界における諸運動を「主体と客体の相互作用」としてみるチュチェの視点なのです。

もっとも、あえて言えば、「人間」の要素をより重視すべきだと思います。物質世界に生きている限り、人間は「主体と客体の相互作用」から逃れることはできません(できると言い張るのであれば、それは主観的観念論であるといわざるを得ないと思います)。しかし他方で、人間には「創造的能力」があります。自らの「自主的要求」を満たすべく、目的意識的に「手段」を創造する能力があるのです。その点、もしアメリカで日本なみの厳しい銃規制が執行されたとしても、きっと「悪人」連中は、その抜け道を探し出し、やはり犯罪を犯すでしょう。そのうち「持っているだけでは直ちに検挙することができない手段(凶器)」が開発され、手口は陰湿・巧妙になってゆくでしょう。そうした「手段」に対して、あくまで「手段の撲滅」という方法のみで臨もうとしても限界がありますし、下手をすれば「大きな不便」「強すぎる統制」をもたらすことだってあるでしょう。ファシズムは多くの場合、「安心・安全・秩序」を装って近づいてくることを忘れるべきではありません。本当に犯罪をなくすのであれば、「手段の撲滅」は大前提(私は銃規制賛成です)としても、それ以上に「動機の撲滅」が大切になるでしょう。

はたして昨今の「銃規制」の議論にそうした視点はあるのでしょうか。チュチェの視点からみると、昨今の銃社会批判は、「客観的条件」にばかり目が行ってしまっており、中途半端な批判にとどまっているのではないか、本当に「銃規制」という「客観的条件」の整備だけで十分なのだろうか、「主体的条件」について考えなくて良いのだろうかと思うのであります。

さらにいえば、「「コイツは怪しい」と思った、あるいは自警ボランティアの「職務に忠実であろうとした」ために、マーティンに対して「つきまとい」的な行動をしたようです。そのジマーマンの行動をおそらくは不快に思ったマーティン君と、ジマーマンはやがて「取っ組み合いのケンカ」に至り、ジマーマンは武装していなかったマーティン君を射殺してしまいました。」というのは、アメリカが「正義」の名の下に国を挙げていつもやっていること、「代表的なアメリカ人の発想と行動」に過ぎないのではないでしょうか。その点、「銃社会批判」では不十分であることはもちろん、「ジマーマン批判」ですら、「トカゲの尻尾きり」に過ぎず、不十分なのかもしれません。私は、ジマーマン被告を批判するアメリカ人は、同時に自国に対しても批判しなければ筋が通らないと思います。しかし、アメリカ国民がそこまでできるでしょうか。ヒーロー気取りはアメリカ人の骨の髄にまで染みた観念ですから、なかなか難しいのではないかと思うのです。その点では、「たしかに『銃が人を殺すのではない、人が人を殺すのだ』というのは、その通りだけど、アメリカ人ってそういう粗暴な国民性をもっているから、銃規制は最低限、必要だね(銃規制だけじゃ不十分、思想改造も必要だけど)。」といえるかもしれません(そろそろ差別的な意味でヤバいラインに到達しつつあるので、この辺にしておきます・・・あくまで思考実験だよ!)。

誤解を恐れずに言い切るとすれば、銃犯罪をめぐるアメリカの病理は、「銃社会という『客観的条件』」、そして「銃を手にする人間という『主体的条件』」の2点、主客双方における問題であるといわざるを得ないと思います。そして、その点においては、全米ライフル協会を筆頭とする銃規制反対派も、従来型の銃規制推進派も、いずれも中途半端な主張に留まっていると思います。「物質世界は主体と客体の相互作用によって運動する」「人間は自己の欲求を実現するために創造的能力を発揮する」というチュチェの視点から見るべきです。
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2013年07月10日

アベノミクスと規制改革

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130704-00000139-jij-pol
>> 法人税引き下げ「大胆に判断」=設備投資減税を優先―安倍首相
時事通信 7月4日(木)20時5分配信

 安倍晋三首相は4日夜、NHKの報道番組で、国際的に見て高い水準にある法人実効税率について「日本が(世界の)トップランナーになっていくように大胆な判断をしていきたい」と述べ、引き下げに強い意欲を示した。国際競争力強化のため、日本企業の税負担軽減に向けて一歩踏み込んだ格好だ。
 首相はまず、設備投資を促す減税措置を優先的に講じると指摘。その上で「国際競争に勝ち残るための法人税(率)がどれくらいか議論していきたい」と語り、諸外国の水準を踏まえて税率引き下げを検討する考えだ。
 また、消費税率引き上げの最終判断に当たっては「(デフレ脱却への)最初で最後のチャンスを絶対に逃したくない」として、増税が景気に与える影響を十分配慮することを重ねて強調した。
<<
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130710-00000090-jij-bus_all
>> ソフトも投資減税対象に=成長戦略第2弾で―経団連提言
時事通信 7月10日(水)17時1分配信

 経団連は10日、政府が今秋に成長戦略第2弾で打ち出す設備投資減税に関する提言を発表した。安倍晋三首相が唱えている「産業の新陳代謝」を促すため、生産設備に限らず、ソフトウエアも含めた事業用資産全般を特例として減税対象にするように訴えている。非製造業も含め、2013年度から適用が受けられるよう求めた。
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経済政策について。1月15日づけ『サプライサイド・エコノミクス』や2月18日づけ『いやいや全然違うから共産党さんw』においても述べましたが、私は、いわゆる「アベノミクス」については、「まったくの間違った政策ではないとは思うが、『サプライ・サイドへのテコ入れ』の面、そして『政府が《期待》を《指導》できるのか』という2つの点において疑問が残る」と考えています。

繰り返しになりますがもう一度述べます。すなわち、国民経済を伸ばすには個人消費を伸ばすことが必要であることは論を待たないと思いますが、個人消費は『恒常的なフローに対する期待』に規定されると考えられます。ここでいう「期待」とは「経済の先行き予想」のことです。期待が明るければ、財布の紐は緩くなりますし、逆に暗くなったとすれば、将来に備えて貯蓄に励むので、財布の紐は固くなると考えられます。特に、人間は生活水準の急激な低下を嫌い、一生を通じておおむね一定程度・「恒常的」と考えられる生活水準を維持しようとすると考えられます。それゆえ、消費支出の水準は恒常的に入ってくると期待できる収入水準に見合ったものになると考えられるのです。反対に、ストックの切り崩しのような一時的な収入は、とくに不況期のような期待が低迷している時期には、よっぽど困窮している人でもない限り、大部分が貯蓄に回ると考えられます。事実、麻生内閣は「定額給付金」と称して「霞ヶ関の埋蔵金」を切り崩してバラ撒きましたが、ストックの切り崩しに過ぎないことは余りにも明白だったために、政権関係者が期待したほどの効果は見られませんでした。

このように、個人消費を伸ばすためには、ただ単に個人所得を増やせば良いのではなく、恒常的なフローとして増やす必要があります。個人所得の多くは給与です。このことはすなわち、個人所得を恒常的なフローとして増やすためには、企業業績を恒常的に改善する必要があります。ここに、「サプライ・サイドのへのテコ入れ」が必要になる理由があるのです。

さて、企業は投資をする際に何を考えているのでしょうか? 利潤最大化を意図している営利企業であれば、収入と支出とを比較していることでしょう。具体的には、現在から未来にかけての期待収益率(収入)と、利子率や税率(費用)を比較・計算して意思決定をしています。

その点では、首相や経団連の「投資減税」という政策は全くの間違いとはいえず、成長戦略のメニューに盛り込むことは否定しません。しかし、いくら利子率や税率を下げたからといって、期待収益率がどうしようもなく低ければ、やはり投資する気にはならないでしょう。マーケットとしての日本の魅力を向上させる必要があります。たとえば新たなビジネス・チャンスを提供することは、一つの方法であり、そのためには、実際にやるか・やるべきかは別(必要ないかもしれない)として、規制改革の検討は避けては通れません。しかし、アベノミクスは規制改革に及び腰です。たまたま政権が転がりこんで来てしまって本人たちも準備不足だったというのならまだしも、「野党・自民党」の時代は決して短くは無かったはずです。それでもなお、ビジョンすらどこかおぼろげ、出てくる政策案といえばどこかで聞いたことのあるような古い話ばかりとなると、やはり改革に及び腰なのではないかと考えざるを得ません。「サプライ・サイドへのテコ入れ」において疑問が残ってしまうのです。

さらに言えば、設備投資に当たっては、最終的には「主観的な思い切り」、ケインズの言うところの「アニマル・スピリット」が影響する部分はかなり大きいと考えられます。設備を償却しきるほどの遠い未来のことなど誰も正確にはわからないので、最終的には「計算」というよりは「感性」に頼らざるを得ないからです。こうした「主観的な思い切り」は決して「政府による指導」の対象にはならないでしょう(エリート主義者であるケインズは、政府による予見と政策誘導が可能だと考えていたようですが、私は、それは理性への過信だと思います)。

アベノミクスは、「当局が期待を完全にコントロールできるものではない」と認めてはいるのは私も存じ上げています。しかし、それは裏を返せば「そこそこならば、いけるんじゃないか」と言っているのに等しいと思います。繰り返しになりますが、設備投資は最終的には「主観的な思い切り」であり、ロゴスではありません。「主観的な思い切りを政策的にサポートする」というのならば、それは大賛成ですが、それは必然的に、実際にやるか・やるべきかは別として、規制改革の検討へと行き着きます。しかし、既に述べたように、やはりアベノミクスは規制改革に及び腰であると言わざるを得ず、果たして何処まで有効なのだろうかと疑問が残ってしまうのです。

だからといって、みんなの党や維新の会のように「既得権益と戦う」といって文革路線・階級闘争路線をとるべきだとも思いません。文革路線・階級闘争路線は野党の手法であって、政府・与党がやる手法ではありません。与党はむしろ、そうした文革路線・階級闘争路線を調整する役割があると思います。政府・与党の役割については、話がずれてきてしまうので、またいつか面白い報道記事があったときのネタにしたいと思います。
ラベル:経済 経済学 政治
posted by s19171107 at 22:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月07日

ミクロとマクロの相互補完とは何か

http://sankei.jp.msn.com/world/news/130707/chn13070718470004-n1.htm
>> 刃物で観光客を脅迫 長城ツアーのガイド
2013.7.7 18:46

 北京郊外の万里の長城観光スポット、八達嶺などを見物するツアーの大型バス内で3日、男性ガイドが小型のナイフのようなものを振り上げて「殺すぞ」と乗客を脅迫する事件があった。中国メディアが7日、伝えた。被害に遭った乗客に外国人が含まれていたかどうかは不明。

(中略)

 北京では、市の正式な許可を受けていないツアーも横行。インターネット上では「政府の取り締まりに頼るだけでなく、観光客も安さを求めて、かえって大損することがないようにしないといけない」と注意を呼び掛ける声も紹介されている。(共同)
<<
(太字化処理は当方による)
違法・脱法行為に対して当局が手入れ・取締りを行うことは当然です。それが当局の存在意義なのですから。しかし、中国のような警察国家・監視国家でも今や「市の正式な許可を受けていないツアーも横行」とのこと。一般国民の諸活動を「見守る」ことの難しさがここにも現れていると思います。

ここ最近、私は「マクロからミクロに影響を及ぼすタイプの対応(マクロ的対応)の限界」と「ミクロにおける自発的な対応(ミクロ的対応)の強化の必要性」について説いておりますが、その理由は、本件と類似した理由によります。たしかに当局の規制や指導といった「マクロ的対応」は必要不可欠であるが、他方において、すべてに目を光らせることは実現不可能であるという事情がある。となれば、個々人による「ミクロ的対応」による補完もまた不可欠であり、ミクロとマクロが相互補完しあうことで、何とか望ましい状態を達成・維持するほかにないと思うからなのです。

治安問題の限らず、たとえば労働問題もそうです。行政や司法による監視・指導は不可欠なのはたしかですし、労働法制がザルというのもそのとおりですし、労基署の人員が足りなさ過ぎるのは問題だというのもそのとおりです。しかし仮に、「企業側のインセンティブ」への十分な配慮もなされている夢のような強力な労働法制が出来、さらに国家予算が労基署に対して最優先に振り分けられるような「労働者の国」が出来たとして、問題は解決するでしょうか? 本当にあらゆる部署やグループに常時、一人ずつ監督官を配置する(正に工場のラインオペレーターみたいに)するならまだしも(それでも難しいとは思いますが)、それは幾らなんでも非現実的すぎるでしょう。

繰り返しになりますが、「マクロ的対応」の整備は必要不可欠だとは思いますが、どうしても「盲点」が生じてしまう。そして、中国の例を見る限り、「盲点」は案外、広範に分布しているようです。となれば、そうした盲点を突く「ミクロ的対応」の出番は、思ったより多いのではないかと思うのです。

「ミクロ的対応」を主張する私の言説を、「マクロの責任放棄」と見る方もいらっしゃるかもしれません。しかし、私は既に述べているように、「マクロ的対応」の意義と必要性は認めています。私が主張しているのは、「マクロ的対応」には原理的に限界があるのだから、「ミクロ的対応」をも用いることによって総合的に望ましい状態を達成・維持すべきだといっているのであって、「マクロ的対応」を完全に否定したり、「マクロの責任放棄」を促すつもりはありません。不可能なことをやろうとしたり、あるいは、出来もしないのに「自分たちの責務だから、部外者が触れることは禁止する」として結果的に時間を浪費し、無法状態を放置するほうが、よほど無責任だと思うのです。

どうしても「マクロ的対応」の出番を増やしたいのならば、これも以前から述べていることですが、「斬込隊」や「前衛部隊」としてではなく、「補給部隊」か「砲兵隊」のような立ち居地で、前線(ミクロ)からの要請に応じて「ミクロ的対応」を強力にバックアップするといった手ならあると思います。
posted by s19171107 at 19:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする