2013年09月30日

最後は信心

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-09-30/2013093001_02_1.html
>> (前略)

 今回の勝利は、堺の市民の勝利であると同時に、「維新」がすすめる「都」構想の破綻を示すものです。また、「構造改革」の推進、憲法改悪など自民党よりさらに「右翼」的立場にたつ「維新」への都議選、参院選につづく審判でもあり、今回の結果はきわめて大きな意義をもつものです。

(以下略)<<
堺市長選挙。久々の「日本共産党のセクト主義的ご都合主義の全開」も特筆すべき事態でしたが、ヲチャー的にはこの総括がそれ以上に注目すべきものでした。

以前から何度か体験談を小出しにしているように、私は、日本共産党の末端組織・末端党員と近い関係にありました(あらざるを得ませんでした)。で、そのときに聞いた話なんですが、「革命は紆余曲折を経るものであって、一時期の敗北は決して大局的な結論を示してはいない」そうです。要するに、「最後は我々が勝つ」とのこと。もちろん、カール・ポパーを引き合いに出すまでも無く、そんなものは根拠薄弱の「信仰」以外の何物でもありません。「それは一時的事態に過ぎない」などという逃げ口上で持論を正当化できるのであれば、いくら反例を出したって論破できませんからね。

もっとも、キムジョンイル総書記が、「社会主義は人民大衆の自主性を実現する唯一のプランであり、人民大衆がその本質において自主性を追求する自主的・意識的・創造的存在である以上は、社会主義は紆余曲折を経て必ず実現するだろう」と指摘なさっているのは、「社会主義」の定義次第(計画経済型社会主義はちょっと。。。)、人間の自主性・創造性・意識性の伸びシロ次第ですが、私も信奉しています。人間社会は、少なくとも自主化(자주화)には向かっていると信じています(신심드높이 가리라!)。

しかし、当ブログでも何度か指摘しているように、日本共産党は客観的条件にばかり注目し、主体的条件にはそれほど注視しないマルクス・レーニン主義主義の政党であり、総書記の主体的な見解を我が物としている政党ではありません。つまり、拠って立つ主体がありません。また、以前から述べているように、「前衛の科学的指導」を最重視し、ことによっては当事者の自主的決定であったとしても、「科学的見地」なる「共産党員の思いつき」を指導・教化しようとしている点、「日本共産党の社会主義」が人民大衆の自主性を実現するものであるとは考えられません。その点において、日本共産党の「最後は我々が勝つ」というのは、ますます根拠の無い「信仰」に他ならないと考えています。


「革命は紆余曲折を減るものであって、一時期の敗北は決して大局的な結論を示してはいない」という日本共産党の教義に従えば、今回の維新の会の敗北もまた、「決して大局的な結論を示してはいない」にならないのでしょうか? 「「維新」がすすめる「都」構想の破綻を示すものです」などというのは、その教義に従って考えれば「時期尚早」ということになるでしょう。去る総選挙で維新の会が大きな支持を受けたことから分かるように、維新の会の思想には部分的であるにしても人民大衆の要求が反映されている部分があるわけです。「大阪都」だけが維新の会ではありません。また、維新の会は今回以前は大阪では連戦連勝でした。それゆえすくなくとも、いまやほとんどの人が見向きもしておらず、それゆえに自ら「当面は資本主義の枠内での改革に専念する」と言わざるを得ない状況に追い込まれているマルクス・レーニン主義の日本共産党、先の参議院選挙でやっと勝利したものの、それ以前の15年間は連戦連敗だった日本共産党よりは遥かに可能性があるでしょう。

結局、宗教でしかないんですね。

ちなみに私は、以前から述べているように、「反文革路線」という点において「反維新の会」ですし、橋下代表についても、彼が弁護士だった時代から一貫してアンチです。願わくは、このまま維新の会は没落して行ってくれることを期待しています。橋下氏の政界引退or大阪引きこもりも。

余談。創価学会・公明党維新の会援助に動かなかったようですね。まあ、創価学会・公明党は日本共産党以上にセクト主義的ご都合主義の集団ですからねw

余談2。もし今後、竹山市長が日本共産党にとって都合の悪い政策をぶち挙げたらどうするつもりなんでしょうか? もともと革新系の候補者ではないのですから、十分にあり得る話です。本当に「科学的」であれば、「前提条件が変われば結論も変わる」ということで反竹山に転向すべきなんですが、前衛党は「科学」である以上に「無謬」であらねばなりませんから、果たして。。。
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2013年09月28日

JR北はJR東から新型検測車を借りています;読売誤報

なんすかこれwww
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hokkaido/news/20130927-OYT8T00015.htm
>> JR北海道、レール検査車も老朽化

 JR北海道でレールの幅などに267の異常箇所が見つかった問題で、同社がレールの検査に使っている唯一の車両が、旧国鉄時代の1978年に製造されていたことが分かった。同型車両は87年の分割・民営化時、旧国鉄からJR6社に9台引き継がれたが、現在稼働しているのは北海道の1台を含めて2台だけ。専門家は「老朽化した1台だけで検査する態勢は不十分だ」とJR北海道の安全意識に疑問を呈している。

 この車両は「軌道検測車」と呼ばれており、レール上を走行しながら幅のほか、2本の高低差やゆがみなどをチェックする。JR北海道が保有する検測車を含め、旧国鉄から引き継がれた9台の車両は、60年代〜80年代前半に製造された。

 その後、老朽化が進んだとしてJR東海では98年に、JR東日本や西日本、四国も2003〜08年に順次、新型の検測車を導入し、旧国鉄から引き継いだ検測車の使用をやめた。現在、同型の検測車は、JR北海道以外ではJR九州で1台稼働しているだけだ。

 検測車には、レールの幅などをチェックする計測機器を搭載している。JR北海道では2004年に機器を更新しており「データは正しく計測、送信されており、検測車自体が古くても、測定には問題ない」としている。一方、技術評論家の桜井淳さんは「検査車両の進歩は速く、今は軽量で高性能。広い北海道を故障リスクの高い旧式車両だけでカバーするのは適切でない」と話している。

(2013年9月27日 読売新聞)
<<
桜井淳大センセイがご登場なさっている時点でアレなんですが、2点。

第一に、いくら「78年製の検測車」(マヤ34−2008)だって、これくらいの狂いは測定できますって。プロなら目視でも分かるレベルですし、乗り心地でも分かるレベルです。

第二に、「老朽化した1台だけで検査する態勢」というのは大嘘です。JR北海道は、JR東日本から新型の検測車を借りて測定しています。ちなみに鉄道会社が他社から検測車を借りて検測するのは珍しいことではありません。もともと、キチンとやったとしても、そんなに頻繁に行うものではありませんから借り物で十分です。

JR東日本キヤE193系検測車(ディーゼルカー)が北海道へ向かう姿(2013年6月)
http://www.youtube.com/watch?v=CkJFTzYaBrY
(ちなみに、動画の説明欄にもあるとおり、青函トンネル内では保安上、ディーゼルカーは自走できない規則になっているので、電気機関車に牽引されています)

『鉄道ファン』のHPもキヤE193系が北海道に渡ったことを報じています。
http://railf.jp/news/2013/06/03/170000.html

ちなみに全く同時期に、JR九州のマヤ34−2009(1978年製造)が豊肥本線を検測していますw
http://railf.jp/news/2013/06/03/150000.html

JR他社が「老朽化」を理由に、数ある選択肢から「置き換え」を選んだ理由のひとつには、マヤ車が機関車による牽引を必要とする事情があるでしょう。このご時勢、機関車は以前ほどの必要性はなく、JR各社は機関車の数を絞りつつあります(長く殆ど新造されず廃車超過の情勢です)。年に何度かしか使わないマヤ車のために機関車の運用に余裕をもたせたり、他の用途が特にない機関車を維持するのはあまり賢い選択ではないので、JR各社は「マヤ車の更新」ではなく、「自走検測車の導入」に踏み切ったものと思われます。

大切なのは、「古い検測車だけで全線を検測している」などという完全な誤報を書き立てるのではなく、「JR東日本から最新型の検測車を借りているのにもかかわらず、目視でも分かるレベルの異常を、「虎の子」の特急走行路線を含めて津々浦々で放置してきた管理体制」です。いよいよ、「予算不足のせいで。。。」なんて言えなくなってきましたね。

それにしても、なんでこういう記事が出てくるんでしょうかね? 共産党機関紙『しんぶん赤旗』が「JR北海道は保線をサボって特急列車の運転にうつつを抜かしている!」などという記事を書いてアホを晒していました(特急列車とそれに付随する鉄道観光事業は、鉄道会社の貴重な収入源なんですから、それを止めたらますます保線出来なくなるのに)が、ついに読売新聞まで。。。
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2013年09月26日

JR北海道の脱線事故問題を巡る諸報道まとめ+考察

JR北海道の脱線事故問題を巡る諸報道について、まとめます。
久々ですね、こういう「ニュースまとめ」は。原点回帰です。

なお、以下に引用する記事のすべてにおいて、太字化処理は当方によります。原文にはありません。

まず、私の基本的な認識は、すでに9月23日づけのブログ記事で述べているとおりです。その私が一番よかったと思った報道記事は、9月25日づけの毎日新聞東京本社版記事でした。
http://mainichi.jp/opinion/news/20130925ddm003040114000c.html
>> クローズアップ2013:JR北、異常放置 特異な企業体質、背景 補助金漬け、責任あいまい 採用抑制、中核世代少なく

毎日新聞 2013年09月25日 東京朝刊

 JR北海道がレール幅の拡大など多数の異常を放置した問題では、その後も次々と検査体制や記録の不備が発覚している。79人が負傷した石勝(せきしょう)線の特急脱線炎上事故(2011年5月)以降トラブルが絶えず、「安全軽視」と言える企業体質がなぜ生じたのか。その背景を探る。【遠藤修平、久野華代、伊藤直孝、松谷譲二】

(中略)

 旧国鉄が旅客6社・貨物1社に分割・民営化されたのは1987年。このうちJR北海道は他社に比べ過疎地域を走る路線が多く、除雪などに膨大な経費がかかり、経営基盤は弱い。このため、国は経営安定基金という「持参金」をもたせ、その運用益で赤字を穴埋めしてきた。

 ただ、その基金も近年の金利低下の影響を受け運用益が減少。一時は上場も目指したが果たせず、厳しい経営が続いていた。鉄道事業収入は96年度の800億円をピークに減少している。基金投入という第三セクター的な経営に慣れきって、責任の所在があいまいになっていると指摘する関係者もいる。ほぼ同じ営業キロ数のJR九州は営業黒字(2012年度末現在)を確保しており対照的だ。

 赤字経営は人材確保にも影響し、1980年代に採用を大幅に抑制。5月現在で社員約7000人のうち最も多い50代は37・7%。次いで民営化後に入社した20代が27・4%。現場の責任者になるべき40代は9・5%と極端に少ない状況が続いている。国土交通省関係者は「ベテランの職員がどんどん定年退職している。その一方で、採用すべき若手の人員は経営難で抑えているので、技術が伝承されにくい」とJR北海道の人材育成が行き届いていない現状を指摘する。

 だが、「いびつな年齢構成は北海道に限った話ではない。事故多発は別に固有の問題があるのではないか」(JR他社の幹部)との声もあり、「なぜ異常が放置されたのか」の答えはまだ見えてこない。JR北海道の豊田誠・鉄道事業本部長は24日の記者会見で、この問いに「いまだにお話しできるところまで状況がつかめていない」と述べることしかできなかった。

(中略)

 だが、ある関係者は「JR北海道は民営化後も安全軽視の企業風土の下、レールや枕木の老朽化を長年放置し、メンテナンスに十分な費用を充ててこなかった」といい、「北海道内唯一の鉄道会社であるため、過信、慢心があったことは否定できない」と批判する。そのうえで「問題があるのに見て見ぬふりをし、JR側に全て任せきりにしてきた国の責任も重い」と指摘した。


(以下略) <<
予算や人員の問題、事実上の「国鉄」である点に触れつつも、それだけには還元できない組織体質・企業風土・就業意識への言及もしています。注文を出すとすれば、もう少し体質的な部分に切り込んだほうが良かったようにも思います。

そうした点に毎日新聞よりも切り込んでいるのは、産経新聞でした。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130924-00000068-san-soci
>> JR北海道 線路97カ所異常放置 言い訳できぬ、安全意識まひ 厳しい自然で赤字 人手不足の逆境…

産経新聞 9月24日(火)7時55分配信

 JR北海道が多数のレール異常を放置していた問題は、鉄道事業者としての安全意識と責任感が希薄化していることを浮き彫りにした。識者らは「もはや鉄道事業者としての資質にもかかわる」と問題視する。JR北で今、何が起きているのか。

 ◆保守技術伝承できず

 JR北の鉄道路線計約2500キロのうち、半分の約1170キロがローカル線の「地方交通線」だ。幹線も人口密度の低い地域を走っており、大半が不採算の赤字路線とされる。「北海道の厳しい自然環境に対応するため、レールの保守にはかなりの手間がかかるが、赤字経営のJR北では限られた予算、人員で対応してきた」。こう語るのは、鉄道の安全性を研究している日大生産工学部の綱島均教授(54)=機械工学=だ。

 JRの構造的な問題は、ほかにもある。鉄道アナリストの川島令三(りょうぞう)氏(63)は「国鉄末期に採用を抑制し民営化後も人員を整理した結果、世代間の断絶が生じ、技術の伝承もできていない」と指摘する。

 ◆「感覚信じられぬ」

 だが、昨年10月の定期検査で異常を把握しながら、補修せずに1年近く放置していたJR北の対応は、これだけでは説明できない

 JR他社の関係者は「基準値を超えているのに、そのまま放っておいてもいいだろうという感覚が信じられない」と疑問視する。

 旧国鉄の保線区長やJR貨物の保全部長を歴任した北海学園大工学部の上浦正樹教授(63)=鉄道工学=は、「レールの保守に携わる人間は基準値を超えることが恐ろしく、早く直さなければいけないという気持ちになる。列車の運転を取りやめて補修するのが保線区の使命だ」と語る。

 脱線現場の枕木は、レール幅が広がりやすい木製だったが、レールを固定するくぎを打ち直せば比較的容易に補修できたとされる。

 脱線現場は列車の待避や追い越しなどに使われる「副本線」。異常を放置していた担当者は「本線より優先順位が後という意識があった」と話したというが、異常箇所は、特急列車が高速で通過する「本線」にも及び、北海道内全域に広がった。

 上浦教授によると、レールの異常が分かる「軌道検測チャート図」というデータが保線区から本社に報告される仕組みになっており、「本社も数値を見ればすぐに『これはまずい』と気付いたはず」だという。

 現場の保線区だけでなく、会社組織全体の問題が問われている事態に、上浦教授は「鉄道マンとしての安全意識が希薄としか思えない」と批判した。

最終更新:9月24日(火)8時20分
<<
「やはり」というべきなんでしょうか。何かと「客観的条件」の面にばかり注目しがちな日本のメディアのなかでは、組織体質・企業風土・就業意識といった主体的条件に切り込んでいる「産経らしい記事」ですが、いまひとつ切り込みが足りず、要するに「ケシカラン」で終わっている点においても「産経らしい記事」です。

主体的条件に言及するのはとても重要なことなんですが、ただ単に「鉄道マンとしての安全意識が希薄としか思えない」だけだと不足なんですよね。主体的条件と客観的条件は相互作用の関係にあるわけですから

そうして点については、9月25日づけの毎日新聞と、同日づけの朝日新聞がヒントとなる事実を報じています。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130925-00000010-mai-soci
>> <JR北海道>ベテラン保線作業員「資材来ず、人も不足」

毎日新聞 9月25日(水)7時29分配信

 ずさんなレール管理の実態が明らかになったJR北海道。保線業務を担当するベテラン社員は24日、毎日新聞の取材に「レール幅の異常は5ミリでも分かる。絶対に放置できないはずだ」と話した。同僚でさえ信じられない事態。安全運行の根幹ともいえる線路で、なぜ異常は放置されていたのか。国土交通省の特別保安監査で、どこまで解明されるかが焦点になる。

 この社員は、道東地方の保線部署に勤務し、今回明らかになった放置には関わっていない。レールの異常については「担当者なら軌間(レール幅)は目視で気づくはず」と言い切る。補修基準以下でも、現場で「異常」と判断すれば何らかの手を入れるのが通例だ。ところが、今回はJR函館線大沼駅で28ミリのレール幅拡大が発覚。97件の異常放置は、担当の大沼保線管理室など4部署に集中していた。「脱線しかねない非常事態。保線社員なら絶対に放置できないと分かっているはずだ」と首をかしげる。

 一方で、異常を認識し、本社に新たな設備投資を求めても要求通りに資材が投入されることはまれだという。現場では線路の砂利を敷き直すなど応急措置で乗り切るしかなく、「だましだまし補修しても、その後“予定通り”にレールが破断したこともあった」と証言した。

 レールの異常は車輪にもダメージを与え、乗客には振動や騒音などで乗り心地の悪さにもつながる。「目先の補修ばかりで、問題を先送りするだけ。現場には、どうせモノ(更新すべき資材)が来ないというあきらめムードが広がっている」と話す。

 一方、「現場はとにかく人が足りない」とも証言。JR北海道の社員数は、1987年に国鉄から分割民営化したときより約6000人少ない約7000人。野島誠社長は22日の記者会見で「必要な要員は配置している」と人員不足は否定したが、この社員は「ベテランの経験や技術でしのいできたが、限界もある」と話す。

 さらに、近年は北海道新幹線(2015年度末開業予定)の関連工事で、外注先に出向している社員も少なくない。外注業者も新幹線工事に追われており、この社員は「これまでなら外注に回していた仕事が、逆に本体に戻ってくるケースもある。人も金も新幹線工事に割かれ、在来線の仕事が手薄になっているのではないか」と話す。【森健太郎】

最終更新:9月25日(水)7時32分
<<

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130925-00000011-asahi-soci
>> JR北の責任者、レール補修把握できず 伝達体制なし

朝日新聞デジタル 9月25日(水)9時25分配信

 【五十嵐透】JR北海道がレールの異常を放置していた問題で、本社の保線管理部門のトップを含む責任者3人が、レールの補修結果はそもそも本社に報告される仕組みになっていないなど、レール管理のチェック体制を十分に把握していなかったことが分かった。トップの豊田誠・常務取締役鉄道事業本部長は24日に記者会見し、「知らなければいけないことだった。非常に反省している」と陳謝した。

 JR北海道は24日深夜、レールの異常が新たに9カ所で判明したと発表。レールの異常の放置は計106カ所になった。

 同社によると、レールの検査は、主に列車同士のすれ違いなどで利用される副線は現場の保線部署が、駅間を結ぶ本線は原則、本社が実施する。本線の点検結果は、本社から保線部署に送られ、補修は本線も副線も保線部署が担う。ただ、補修を終えたかどうかの結果は、本社に報告されない仕組みになっている

 しかし、本社の保線管理部門のナンバー2とナンバー3である工務部の笠島雅之取締役工務部長と工務部副部長(保線課長)は、補修結果は本社の担当部署に報告されると考えていたといい、現場をはじめ、本社でもダブルチェックされていると思い込んでいた

最終更新:9月25日(水)10時38分
<<
毎日・朝日両新聞の記事をまとめると、要するところ、「現場は『これではマズい』と分かっているのだが、本社がそのことを認識しておらず、それどころか、認識するためのシステムすら構築されていなかった」ということになるでしょう。

この点は、自画自賛っぽくなってしまいますが、私も9月23日づけのブログ記事で言及したとおりです。つまり、いくら予算が厳しいからと言って、ひとたび「手抜き」による不祥事を起こせば、事故の後始末や社会的非難といった「莫大なコスト」がかかり、むしろ「損」をしてしまうというのに、それにも関わらず「手抜き」をしてしまう要因には、「『削るところを間違えた』という失敗」という事情があり、それは突き詰めると「現場と本社の意思疎通不全」であり「会社の体質」であるということです。

ところで、JR北海道が事実上の「国鉄」であることは、前掲の毎日新聞記事でも触れられていたとおりですが、THE PAGEの記事がそれを更に詳しく掘り下げています。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130925-00000003-wordleaf-bus_all&p=1
>> 事故多発のJR北海道、なぜ大赤字でもつぶれない?

THE PAGE 9月25日(水)16時48分配信

(中略)

いまも事実上の「国鉄」

 つまりJR北海道は民間企業などではなく、形を変えた国鉄であり、しかも鉄道事業としてまともに継続できる状況にはないのだ。この状況を考慮せずに「民営化の弊害」と捉えると本質を見誤る可能性がある。

 最近は車両の軽量化が進み、保線頻度を下げることが可能となっているが、これが行き過ぎれば当然事故につながる。JR北海道のトラブルは、こうした技術的側面と、経営体質や企業体力という全体的な問題が相互に絡み合っている。単純な問題解決策が出てくるような話ではない。今後の公共交通機関のあり方をどうするのかといった大局的な議論の中で解決策を考えていく必要があるだろう。
<<
客観的条件・主体的条件の双方が複雑に絡み合っているという見解に同感します。

こういう複雑な事情が絡み合った事故が起こるたびに、客観的条件ばかりに注目する論調や、逆に主体的条件ばかりに注目する言説が展開されます。しかし、以前から述べていますし、今回も述べましたが、主体的条件と客観的条件は相互作用の関係にあります。主体的条件は客観的条件の影響をうけるのは厳然として事実ですが、他方において、客観的条件は主体の能動的活動によって創り変えられるのもまた事実です。

予算不足という客観的条件は、JR北海道の保線業務遂行にとって誠に不利な情勢です。しかし、その情勢下においても安全運行を維持する社内システムづくりを怠ったことは、現在報じられている範囲内で勘案するに、否定しきれるものではないようです。また、そうした「誠に不利な情勢」を創り変える主体は、他でもないJR北海道自身です。必ずしも「自力更生」にこだわる必要はないでしょう。すでに「事実上の国鉄」なわけですし。

この問題を解決するためには、「主体的条件と客観的条件は相互作用の関係にある」というチュチェの認識に立つことが第一歩でしょう。たとえ予算を数倍に増やした(客観的条件を整備した)ところで、現在のJR北海道の組織体質・企業風土・就業意識(主体的条件)では十分に活用できないでしょう。逆に、組織体質・企業風土・就業意識だけを高めても(主体的条件を鍛えても)、予算が足りない(客観的条件が不利である)以上はどうにもならないのです。もちろん、客観的条件は主体の能動的活動によって創り変えられる面があるわけですから、主体的条件の強化はより重要な要素ですが、それにだって限度は当然あります

今回の各社報道を見る限り、全体としてまだ客観的条件に注目する論調に偏っているようにも思いますが、以前に比べて主体的条件にも触れるようになってきているなと思います。また、産経新聞のような「異端児」が、珍しく客観的条件の事情についても比較的詳しく触れていたのには、少し意外な印象を持ちました。ちなみに、あまりにアレすぎて触れませんでした(一般紙ではなく政党機関紙という事情もあったので触れなかったんですけどね)が、共産党機関紙『しんぶん赤旗』はいつもどおりの「半共」でしたww
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2013年09月23日

再び「官民二分法」批判

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130922-00000063-mai-soci
>> <JR北海道>社長「管理上の責任」…現場ルール形骸化
毎日新聞 9月22日(日)23時39分配信

 安全輸送の根幹ともいえる保線作業を巡り、JR北海道は22日、新たに判明した88件を加え97件もの線路の異常放置を明らかにした。ルールは現場で形骸化し、それをチェックできない本社。野島誠社長は2時間半に及ぶ記者会見で「現場固有の問題ではなく、経営管理上の監督責任の問題と考えている」と陳謝したが、識者からは「命を守ることを無視している」と批判が出ている。【遠藤修平、円谷美晶、坂本太郎】

 JR北海道によると、保線作業は「線路技術心得(実施基準)」と呼ばれる内規に基づき行われる。本線は「軌道検測車」と呼ばれる検査車両が年4回通り、自動的にレール幅や高低を検査。主に待避線に使われる「副本線」は現場の保線担当者が計測機械を年2回、手動で使い計測する。ただし、検査を実施する時期は現場の判断に任されている。

 レール幅は規格(1067ミリ)から整備基準値(19ミリ)以上の広がりがあった場合、この内規だと15日以内に補修を行わなければいけないが、今回、多数の放置が見つかった。21日には脱線現場の函館線大沼駅(北海道七飯町)を含めて副本線9カ所でレール幅の異常を放置していたことが明らかになったが、このうち大沼駅を含む4カ所で約1年にわたり異常が放置されていた。

 内規では、軌道に異常があった場合は現場の保線管理室の所長代理まで報告が上がる決まりとなっている。だが同社によると、検査をした担当者が補修担当者に異常を連絡したままで、上司に報告しないケースがあった。検査担当者は聞き取りに「補修担当者が上司に報告していると思った」などと説明。ルールが骨抜きになっている実態が垣間見えた。

 さらに、笠島雅之・取締役工務部長は21日の会見で「本線は本社と保線現場でダブルチェックしている」と説明したが、22日の会見では本社側でチェックしていなかったことも判明。本線での49カ所もの異常放置が、国土交通省の指示を受けた深夜の検査記録点検で判明するというデタラメぶりを露呈した。

 笠島部長は「本線は軌道検測車できちんとやれているという思い込みがあり、詳細な調査までしていなかった。反省しないといけない」とうなだれた。

 ◇国交省が特別監査

 大沼駅脱線事故を受け、国土交通省の監査員4人は22日、鉄道事業法に基づきJR北海道函館支社(函館市)と大沼保線管理室の特別保安監査に入り、管理体制などを調べた。

最終更新:9月23日(月)13時9分
<<
さて、「手抜き」です。旧国鉄末期ほどではありませんが、かなり深刻な状態です。

鉄道に限らずインフラ産業の民営化・自由化が進む昨今は、この手の事件・事故が起きるたびに、その原因を民営化・自由化と絡めようとし、「やはりインフラは公営でなければならない」という結論を導き出すものが少なくありません。そうした風潮に対しては、私はたとえば2月9日づけ『発送電分離問題と「官か民か」の不毛な二分法』を始めとして異論を唱えてまいりました。つまり、「インフラ保守産業は構造的に「手抜き」しやすい産業であり、そして「手抜き」は、官民を問わない」という論点です。

今までの主張内容については前掲過去ログをご参照いただければと思いますが、今回もまたその思いを強くしました。すなわち、JR北海道は、あの破局的な状況でその最期を迎えた旧国鉄を民営化して誕生した組織ですが、それでも手抜きは起こる。ではJRを昔のように国鉄に戻せばいいかといえば、今回の記事を見る限り、どうも組織の官僚主義的体質に問題があり、民営か公営かというのは、主たる問題ではなさそうであるという理由によります(もっとも、公営の方が官僚主義はより深刻化するのではないかと思います。また、後述するように予算削減の問題も無視できない要素としてあるかもしれません)

公営だろうと民営だろうと、組織体が硬直化し、ルールが形骸化していてはどちらも同じです。そして、そもそも、民営化・自由化は、そうした硬直化した組織編成や形骸化したルールに渇を入れるために導入されるものです。その点、「公営か民営か」という二分法的問題設定はやはり誤っていると思いますし、また、「公営組織が硬直した官僚主義組織になりやすい」としても(私もそのリスクは大きいと思います)、「民営化すれば自動的に柔軟な組織になるとは限らない」というのは、改めて肝に銘じなくてはならないと思うのであります。民営化してからの硬直的官僚主義との闘争が何よりも大切です。


もちろん、予算削減の問題も無視できない要素としてあるかもしれません。しかし、これも官民共通ですが、ひとたび不祥事を起こせば、一切の言い訳は通用しません(特に日本では)。とくに「予算不足」ということがバレでもしたら、火に油を注ぐようなものです(何のために決して安くはない運賃を払っているのでしょうか? 私だってブチ切れですよ)。にもかかわらず、何故、よりにもよって一番マズいタイプの不祥事を起こしてしまうのか。それは、表現は悪いかもしれませんが「削るところを間違えた」ということになると思います。

以前から繰り返し述べていますが、我々の日常生活のほとんどの部分を直接的に支えているのは民営企業です。「民営企業は『予算削減』を要因とする『不祥事』を起こす」というのであれば、「我々の日常生活のほとんどの部分を直接的に支えているのは民営企業であるにもかかわらず、その割には言うほど不祥事は起きていない」という厳然たる事実を説明できません。鉄道に限らず『予算削減』を要因とする不祥事を起こした企業の事情を思い起こすと、確信犯的な悪質なケースを除けば、積極的な故意は無く、「見通しの甘さ」を共通項として括りだすことができます。経済関係法が確立している社会においては、不祥事の責任を個人に追及できるので、「安全運転」へのインセンティブが生じるのです(逆に、中共政権のように中途半端な市場社会・賄賂社会ですと、個人への責任追及が上手くできないので、いいかげんな取引が横行しやすくなってしまいます)。そうしたインセンティブがあっても尚、不祥事を起こしてしまうということは、「失敗」の要素が大きいのではないかと思います。つまり、「見通しの甘さ」ゆえに「削るところを間違えた」のではないでしょうか(なにやら軽い感じの言葉になってしまいましたが、決して許されるものではないことは当然です)

「見通し」とは何処から産出されるものでしょうか? 毛沢東主席は以下のように述べています。
>>  人間の正しい思想はどこからくるのか。天からふってくるのか。そうではない。もともと自分の頭のなかにあるのか。そうではない。人間の正しい思想は、社会的実践のなかからのみくるのであり、社会の生産闘争、階級闘争、科学実験というこの3つの実践のなかからのみくるのである。

「人間の正しい思想はどこからくるのか」(1963年5月)
<<
つまり、「見通し」は実践の中、現場から生まれてくるものです。毛沢東主席は正しくもこの真理を獲得したものの、中共政権は今も昔も極端な中央集権・官僚主義体制であり、今のところ、「人間の正しい思想」に基づく国家運営が行われては居ないようです。そう、ここでも結局、官僚主義との闘争が重要なのです

ちなみに余談ですが、「公営企業は『予算削減』を要因とする『不祥事』を起こさないのだ!」というのであれば、その真の要因は「財政的な基盤がしっかりしている」とか「公共交通機関としての使命感がゴニョゴニョ」というよりは、「予算を積極的に削減するインセンティブがないので、『不祥事』も起きないけれども無駄も減らない」というべき場合が多いのではないかと思います。
ラベル:経済学 経済 社会
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2013年09月22日

2020年東京オリンピックと左翼;左翼を辞めた社民共産、革命的朝鮮総連

2020年のオリンピック東京大会に関する左翼の反応について。

さる9月8日未明、IOCは2020年の夏季オリンピック大会を東京で開催することを決定したことは、皆様も既にご存知のことかと思います。多くの国民がこれを慶事として受け入れました。私もその一人です。

ところで、左翼陣営は、オリンピックの東京招致に継続して反対してきました。ここ何回かの東京都知事選挙や東京都議会議員選挙でも、「招致反対」を論点に設定しようと左翼陣営は努力(=人民大衆へ布教・・・じゃなくて教宣)を重ねてきました。

しかし、ついに左翼陣営の「教宣活動」が報われること無く、このたびのIOC決定を多くの国民は大いに歓迎しました。もちろん、歓迎していない国民・都民も無視できない一定数いることは確かですが、多数派としては、歓迎しています。

さて、教宣活動の失敗に対して左翼陣営はどういった反応を示したでしょうか? 社民党はもはや沖縄のことにしか興味がないらしく、HPをみても特に記述がありませんでした。

招致反対をかなり声高に主張してきた共産党は、市田書記局長の発言を機関紙(9月10日づけ)で以下のように伝えています。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-09-10/2013091001_02_1.html
>> OC総会の決定を尊重
市田書記局長が会見
首相の原発発言 根拠示し国際公約として責任果たせ

 日本共産党の市田忠義書記局長は9日、国会内で記者会見し、国際オリンピック委員会(IOC)が総会で2020年オリンピック・パラリンピックの東京開催を決めたことについて、「IOC総会の決定を尊重し、スポーツを通じて国際平和と友好を促進するというオリンピック精神の実現に努めることが重要だ。また、国民や都民の生活や環境と調和のとれた無理のない取り組みを進めることが求められる」と述べました。


(以下略)<<
あれだけ反対してきたトーンはいったい何処へ。オリンピックのために福祉がかなり圧迫されるんじゃなかったんですか? 韓国なんて「今からでも開催権を返上させるべく運動を展開しよう」と息巻いているのに、日本の左翼が時勢に怖気づいてトーンダウンしてどうするんですか。

一方、朝鮮総連系の月刊誌『月刊イオ』の編集部ブログは、9月11日づけの記事で以下のように述べています。
http://blog.goo.ne.jp/gekkan-io/e/2964e336084e289d9a6a1cf462fa89a9
>> (前略)

オリンピック招致に関し、日本のマスコミの報道を見ていると、「日本に住んでいる人たちみんなが東京オリンピックを期待している」という伝え方をしてきました。招致が決定した日曜日からの報道の喜びようは異常です。政党も同じです。しかし、私のツイッターのタイムラインに流れてくる意見を見ると、ほぼ100%、東京オリンピックに反対するものばかりでした。その落差に、「本当に同じ国に住んでいるのか」と思うほどです。まあ、私がそんな人たちばかりをフォローしているからなのでしょうが…。しかし、マスコミ報道ではそんな人間は一人もいないという感じです。東京オリンピックに真っ向から反対するコメンテーターをテレビで一人も見たことがありません。もし反対するようなことを言ったら、そのコメンテーターは2度とテレビに出演させてもらえないのではないでしょうか。

 オリンピックの是非は横においておくとしても、オリンピック歓迎の社会的空気が作られて、反対する意見はあるにもかかわらずかき消されてしまう。それが恐ろしいことだと思っています。「北朝鮮憎し」の社会的空気も強固にできあがり、それに反対する意見があるにも関わらず黙殺されているのと同じように。


(後略) <<
優れた考察だと思います。日本社会の典型的パターンとして、何か流れが生じるとそれに対する異論が、誰も権力的に規制しているわけでもないのに、なぜかパタッと途切れてしまう。『月刊イオ』編集部が指摘する「北朝鮮憎しの社会的空気」もそうでしたし、「光市事件」のときもそうでした。

本来、そうした「流れ」や「空気」を打破し、主張しつづけるのが「左翼」であるはずです。にもかかわらず、社・共両党のこのザマ。まあ、プライドというのか自己愛というのかが異様に強い連中ですので、なんだかんだいって「世間様」の評価が怖いんでしょうな

それに対する『月刊イオ』編集部の堂々たる主張。今更、怖いものなんてないってことでしょうwそれでこそ革命的だ!

関連記事;チュチェ102(2013)年10月29日づけ 「筋を通す共産党」の実態は「後から如何とでも解釈できるようなコトしか言わない」だけ
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2013年09月17日

民主党こそ率先して「首切り」を!

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130916-00000800-yom-pol
>> 民主、議員激減・党職員リストラ困難で経費節減

読売新聞 9月17日(火)7時43分配信

 民主党の海江田代表が党の経費節減に乗り出した。

 昨年12月の衆院選、今年7月の参院選で惨敗し、政党交付金が半減する見通しとなっているためだ。焦点となるのは約80人の党職員の処遇だが、選挙の時は連合など労働組合の支援を受けているだけに、リストラは容易ではない。

 民主党は、国会議員数が衆院選前の約3分の1に激減した。所属議員数と得票数に応じて配分される政党交付金は、2012年の約165億円から、今年は約78億円に半減する見込みで、執行部にとって経費節減は避けて通れない課題となっている。

 まず、海江田氏が節減対象として検討を指示したのは、党本部の縮小だ。現在、国会近くの10階建て民間ビルの4〜10階部分を賃借しているが、家賃と共益費で年間約2億円の費用がかかっているという。同党は、「会議室や役員の部屋を減らせば、フロア数の削減は可能」(党関係者)と見ている。

 難題は党職員の削減だ。人件費は年間約9億円にのぼるが、「雇用問題を重要政策に位置づける民主党が、職員のクビを切るなんてあり得ない」(党幹部)と慎重論が根強い。一方で、「国会議員が120人足らずの政党で、職員が80人もいるのはおかしい」(参院中堅)といった批判も高まっている。

最終更新:9月17日(火)7時43分
<<
労組の党、民主党。「雇用問題を重要政策に位置づける民主党が、職員のクビを切るなんてあり得ない」だそうです。

余力があるなら可能な限り、雇用は維持すべきでしょう。しかし、「あり得ない」と言い切るのはどうなのか。無い袖は振れないのですから、いつか決断しなければなりません。

私としては、むしろ民主党であるからこそ、率先して「首切り」の「手本」を見せるべきでしょう。「あり得ない」だなんて非現実的で馬鹿げた理想論を述べるのではなく、「我が党はこれだけ頑張った。しかし、残念ながらこれ以上の努力は不可能であり、組織の存続のために断腸の思いで首切りに踏み切る次第である」「ただし、解雇される職員の再就職先については、最後まで、徹底的に面倒を見てゆく」というふうにすべきではないでしょうか。

職員のクビを切るなんてあり得ない」というほうが、あり得ません。景気循環があるかぎり、首切りの可能性は常にあり得ます。そうであるならば、「雇用問題を重要政策に位置づける民主党」こそ、「あるべき解雇の仕方」を身を以って提示すべきでしょう。

どちらにせよ、しばらくの間、民主党にとってはかなり厳しい時期が続くと思います。もしかしたら、もうしぼむ一方かもしれません。社民党のように、どうしようもなくなってから解雇に乗り出して、世論から「やっぱり何だかんだ言ってww」と馬鹿にされないためにも、「予防線」は張っておいたほうがいいですよ。
ラベル:政治 経済 経済学
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2013年09月16日

5年たっても相変わらず【追記あり】

(チュチェ102年9月17日、本文の第11段落を新規追加)
リーマンショックから5年。相変わらずなのは、なによりも日本共産党だった。困ったものです。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-09-15/2013091502_03_1.html
>> 主張
リーマンから5年
危機生んだ新自由主義の復活

 リーマン・ショックをもたらした弱肉強食の新自由主義が、「破綻」のレッテルを貼られたにもかかわらず、安倍晋三政権のもとで全面復活への足取りを速めています。「アベノミクス」の命運がかかる「成長戦略」で、安倍首相自身がめざすとした「世界で一番企業が活動しやすい国」の目標がそれを示しています。格差と貧困を深刻にする新自由主義を打破する世論と運動が求められます。

資本主義のカジノ化

 世界経済を揺さぶる金融・経済危機の発端となった、米投資銀行リーマン・ブラザーズの破綻から15日で5年です。危機は、「カジノ資本主義」と呼ばれるように肥大し投機の場と化した金融が、自ら引き起こしたバブルの崩壊でした。そのつけは各地で国民に押しつけられ、震源地の米国でも飛び火した欧州でも、大手金融機関の救済に税金が投入されました。

 21世紀初の世界規模での危機を前に、主要国は20カ国・地域(G20)の枠組みをつくって協調を強めました。米国などが新自由主義の立場から金融規制を緩和してきたことが、危機を準備したとの認識が広がりました。規制強化が必要との声は強く、歩みは遅いものの、カジノ化の道具であるデリバティブ(金融派生商品)の規制などが論議されています。

 金融危機は実体経済に大打撃を与え、そのなかで世界経済の不均衡が露呈しました。米国での金融のカジノ化は、経済のグローバル化が進むなかで製造業が衰退し、輸入に頼るなかで進行しました。米IT企業アップルを創業した故ジョブズ氏が、同社の携帯電話を国内で製造できないかとオバマ大統領に聞かれ、「仕事が(中国から)帰ってくることはない」と答えたのは有名です。欧州の危機でも、ドイツと南欧との「輸出力」の差が問題になっています。

 危機のなか各国で失業率が跳ね上がるなど、以前から進行していた格差拡大と貧困化が耐え難いものになりました。日本では、賃金の低下が続くなか、「デフレ不況」が長期に続いています。国民の購買力が失われてきたことが、過剰生産恐慌につながっています。

 増税と歳出削減の両面で緊縮財政が強行された欧州では、貧困化が進みました。貧困をリーマン・ショック以前の水準に戻すだけでも、25年もかかるとの民間団体の報告が発表されています。

 グローバル化のなか企業の「コスト」削減を後押ししてきたのが新自由主義の政治です。その新自由主義が、危機の打開を口実にまたも頭をもたげていることは重大です。環太平洋連携協定(TPP)交渉は、米系多国籍企業の利益を拡大しようと米国が年内妥結をめざして主導しています。安倍政権が米国と一体で推進するTPPは、国民生活を長期にわたって悪化させるものです。

国民のたたかいで

 危機のなかで労働者を中心とする国民のたたかいが強まっています。米国で2年前、金融中心地ウォール街(ニューヨーク)で始まった「99%の声を聞け」の運動はそれを象徴しました。今日でも労働者らが賃上げとディーセント・ワーク(まともな仕事)を要求して成果をあげています。安倍政権の新自由主義を打破する日本国民のたたかいは、世界の流れに呼応する意義をもつものです。
<<
5点、論じたいと思います。

まずは第一段落。安倍首相の「世界で一番企業が活動しやすい国」の動機が、いわゆる「新自由主義」的なものであるというのは、まあいいとして、懸念すべきは「世界で一番企業が活動しやすい国=新自由主義」という観念が形成されることです。

私の知る範囲内の末端党組織レベルでは、小泉・竹中路線でやたら「イノベーション」という言葉が持て囃されたことに加えて、付け焼刃的なマルクス主義の理論を根拠に「イノベーションは新自由主義の主張である」と公言して憚らない馬鹿党員がいました。まあたしかに、そういう面が無いわけでありませんが、それこそが未来社会としての豊かな共産主義社会の物質的基盤をつくるもののはず。「イノベーションは新自由主義の主張である」なんて馬鹿なことを言っている暇があったら、生産力の向上は生産力の向上として歓迎して、そこから産出される恒常的なフローこそを収奪すべきでしょう。

日本左翼が憧れて止まない「北欧の福祉国家」は、経済政策においては、よっぽど新自由主義的です。そうした新自由主義的な経済政策によって生産力を高め、そこから産出される恒常的なフローを収奪することによって、高福祉を実現しているわけです。いいじゃないですか、新自由主義。リバタリアニズムは困るけど(ちなみに、相変わらず日本共産党は新自由主義とリバタリアニズムの違いが分かっているのか否か微妙な感じですね〜)そこから産出される恒常的フローをインターナショナリズム的な連帯によって収奪しましょうよ!

第三段落。デリバティブ商品に対する規制に関して。日本共産党がここ5年にわたって主張しつづけていることですが、一度たりとも具体的な方法論が見えてこない主張です。具体的にどうするつもりなんでしょうか? お得意の「科学」でしょうか? 「市場の無秩序」を「民主的・計画的に規制」することが日本共産党の信条ですからね。

しかし、デリバティブ商品は、かなり高度な確率論的方法を駆使して開発された「現代科学の塊」と言い得るものです。 昨今の混乱の大きな一因として、「リスクの確率計算が上手くできない」という事情が挙げられます。まさに、日本共産党が信奉して止まない「科学の限界」があるのです。

危惧すべきは、「なんて危ない商品なんだ! こんなもの廃止すべきだ!」という方向に話が進むことです。先物・デリバティブを廃止したらどうなるか、その結論は既に江戸時代に出ています。世界初の先物市場は、1730年(本居宣長が生まれた年!)に大阪の米市場(堂島米会所)で確立されました。ちょうど徳川吉宗の時代ですね。幕府は「米価を乱高下させる」として規制しようとしたわけですが、むしろ先物市場がないほうが価格変動が大きいことに気がつき、これを撤回しました。江戸時代ですら先物市場を廃絶できなかったわけです。

ちなみに付け加えておくと、幕末の騒然とした時期には、極端な投機が横行して空手形が横行し、堂島米会所の機能が麻痺する事態が起きました。その点、「空手形規制」のようなものは必要かもしれません。しかし、既に述べたように、「科学の限界」という事情がある。次にご紹介する第四段落のような経済センスしかない日本共産党の手に負えるものではないでしょうね。

さて第四段落。いつの話ですか? ここ最近、「アメリカ回帰」が取りざたされているわけです。いまだにルイセンコ学説みたいなことをいっている末端の馬鹿党員ほどじゃありませんが、「科学の党」であるにもかかわらず、時がとまっていますね。なにか色々言っても仕方ないような気がします。

第五段落について。「国民の購買力が失われてきたことが、過剰生産恐慌につながっています」とのこと。たしかにマルクスも言っていますが、ケインズも言っていますよね。もう、マルクス主義じゃなくてケインズ主義でいいんじゃないですか? 「資本主義の枠内での改革」なんて言っているうちは。ちなみにケインズは反共ですから、ケインズ主義をやっているうちはマルクス主義には至らないと思われます。特にイデオロギー的な面において連続性は保てないでしょう。

もしどうしてもマルクス主義でいきたいなら、「未来に対して命令しない」(だったっけ?)なんて言って煙に巻いていないで、今分かる範囲内で具体的なビジョンを提示すべきでしょう。「青写真主義はよくない」とはいうものの、ビジョンがないものを支持することはできません。もしビジョンが全く描けないのであれば、それは今の段階はマルクス主義の段階ではないということになるでしょう。段階が訪れるまでマルクス主義は冬眠させ、名実共にケインズ主義に衣替えしたらいかかですか? というか、すでに私は、日本共産党はマルクス主義政党ではなく、原始ケインズ主義政党だと認識しています。

最後に最終段落について。「「99%の声を聞け」」ってまた出てきましたね。でも、いつだかの(すみません。。。)朝日新聞だったと思いますが、「ああやって騒いでいるアメリカの労働者も、世界レベルで見れば十分に上流だろ」と書かれていました。日本の労働者だって、世界レベルで見れば十分に上流であり、日米で労働運動に精を出している人たちもまた「80%の声を聞け」といったふうに非難をうける可能性があるわけです。

そこへ行くと昨今の左翼運動はどうか。自国主義の保護貿易に走っている。「99%の声を聞け」と言って階級闘争に精を出していた人々が、次には「80%の声を聞け」と非難される日も遠くないかもしれませんね。
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2013年09月09日

共和国創建65年;朝鮮語と「韓国」語の違い

http://www.jiji.com/jc/zc?k=201309/2013090800191&g=int
>> 経済再建を強調=建国65周年、控えめに軍事パレード−北朝鮮


 【ソウル時事】北朝鮮は9日、建国65周年を迎え、平壌の金日成広場で、金正恩第1書記も出席し、予備役でつくる労農赤衛隊による軍事パレードが行われた。8日には中央報告大会も開かれ、演説した金永南最高人民会議常任委員長は「経済強国建設と人民生活向上のための軍民協働作戦」を強調した。朝鮮中央テレビが伝えた。
 7月27日の朝鮮戦争休戦60周年では、大陸間弾道ミサイルや無人航空機が登場し、大規模な軍事パレードを行ったが、今回は正規軍やミサイルなどの兵器は登場せず、控えめ。演説した朴奉珠首相は「片手にはマッチと鎌と筆を、もう一方の手には銃を持ち、自らと郷土を守らなければならない」と経済建設と国防の並進を訴えた。
 8日演説した金永南氏は、南北関係改善の方針を示し、「朝鮮半島と地域の平和と安定を守るために全ての努力を果たす」と主張。米国に対しては「時代錯誤的な敵対観念から脱するべきだ」と求めた。最近の対話路線を反映し、朴、金両氏とも核開発には言及しなかった。(2013/09/09-12:14)
 <<
朝鮮民主主義人民共和国が建国から65年を迎えました。축하합니다!

さて、時事通信の報道。「片手にはマッチと」って何ですか? まだ、ウリミンも朝鮮通信も更新していないので、パクボンジュ首相の正確な発言全体を見ていないのですが、共和国において「鎌」「筆」と来たら、まず間違いなく「ハンマー」ですよ。ハンマーと鎌と筆(ペン)は、朝鮮労働党旗にも刻み込まれている党のシンボルなんですから。労働者(ハンマー)、農民(鎌)、知識人(ペン)の団結をあらわしています。

おそらく、パクボンジュ首相の演説を翻訳した人は、「韓国」語(ソウル語)の使い手であり、朝鮮語(ピョンヤン語・文化語)には慣れ親しんでおらず、「마치(マチ)」を「マッチ」だと思い込んだのでしょう。南じゃ「ハンマー」は「망치(マンチ)」ですもんね。

分断国家になって65年。同じ民族なので北南で全く言葉が通じなくなる事態は、まずあり得ないと思いますが、単語レベルでは、こういうこともあるんでしょうかね。まあ日本人だって方言でしゃべられちゃ分からないけどね。とはいっても以前、かなり若い南側出身者(来日2年くらいだったかな? ごくごく普通の人)に「『동무(トンム)』って単語、如何思う?」って聞いたら(我ながらオイオイw)「北朝鮮ですね」って感想をもらったことがあるので、まだまだ通じると信じているのですが。。。

朝鮮語と「韓国」語の差異については、東京外大の趙義成先生のページが詳しいと思いますので、ご紹介しておきます。文化語の正書規定については、同じく趙義成先生のページが詳しいですが、それ自体がピョンヤン文化語で書かれているので、まずはソウル語を勉強して、それからNaver辞典(「韓国」語版)を使いながら読み進めるとよいと思います。なんとNaver辞典、국어사전であればピョンヤン文化語も「북한어(北韓語)」として掲載していてくれているのです! なんだよ、古本屋を巡り巡ってピョンヤン文化語辞典を探さなくても良かったじゃないか!(w

残念ながら、日本国内でピョンヤン文化語を直に勉強できる機会は、まずないと言ってもよいと思います。書店にある本のほとんど100%は、たとえ「朝鮮語」と書いてあってもソウル語です。あ、『旅の指さし会話帳42 北朝鮮』はピョンヤンの文化語だったかな。

私も、気が乗ったら、分かる範囲内でピョンヤン文化語について記事を書こうと思います。
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2013年09月08日

日本共産党は「癌」ではないが「害悪」ではある;毛沢東大衆路線から考える

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130907-00000578-san-soci
>> 堺市長選 「弱った維新にとどめ」 共産ノリノリ、竹山氏応援全開
産経新聞 9月7日(土)23時11分配信


(以下略)<<
おやおや、2007年都知事選の頃とはだいぶ言っていることが違いますね。たしかあの頃は、「我々のみが革新勢力であり、民主党をはじめとする他党は本質的に自民党体質であり、情勢は『オール与党vs共産党』だ!」「民主党などの他党との一点共闘は当然だが、それらが総じて自民党体質である現在においては、そういう情勢にない」とか何とかいって、「野党共闘」に水を差していたのに。今回なんて、「自民党体質」どころか当の自民党が竹山氏側にいるというのに。党利党略セクト主義的ご都合主義、ここに極まる

いや、まあ日本共産党のセクト主義的ご都合主義は、いまさら驚くべき話ではないんですけどね。ほんと、ひどいときは昨日と今日で言っていることが都合よく違いますからね。わたしも左翼・共産党対策の経験がありますから分かりますよ。

ひとつ笑えるのは、「ただ、共産が「維新にとどめを」と活発に動くほど、同党と長年“不仲”とされ、勝敗のカギを握る公明票を遠ざける可能性もある」の部分。もともと創価学会・公明党と維新の会は仲が良いですしね。少なくとも、公明党・共産党関係よりはずーっと。創価学会・公明党なんてセクト主義的ご都合主義の典型例(ちなみに、先日また信濃町を訪問したところ、例の「造花しきみ」がヒッソリと影のほうにおいてありましたwww)ですからね、日本共産党は頑張らないほうがいいんじゃないかと思いますよ。

ところで日本共産党で思い出したのが、参議院選挙直後の東浩紀氏と紙屋高雪氏のやりとり(http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20130723/1374531295)。ザッと読んで色々思うところあったのですが、多忙な時期と重なり忘れてしまっていました。ちょっと今更感も漂っていますが、この機会に消化してしまいたいと思います。

ことの発端は、東浩紀氏のツイッターにおける「共産党は日本の癌だ」発言でした。
>> 共産党は日本の癌だ。共産党の主張が悪いというのではない。絶対に為政者にはならないという安心感のもとに、為政者への不満だけを吸い上げる党という存在がある、その事実が日本の政治をひどく損ねている。共産党の批判は決してぶれないから、そこに不満が流れ込む。でもそれはなにも変えないのだ。 <<
これに対して熱心な日本共産党支持者である紙屋高雪氏が激怒。『共産党は癌なのか』という記事をアップされました。

最初に述べておきますが、私は「白頭の革命精神」を信奉しているがために、日本共産党は害悪だと思っています。その点、東氏の視点には結構共感できます。ただし、日本共産党がちっとも増殖しない繰り返しますが、先の参議院選挙ではもう少し増えると思っていました)点において、「癌」という表現は違うと思いますwまた、前掲堺市長選挙を見ても分かるように、党利党略のためには結構、ブレブレですwww

さて、東氏の発言に対して3+1点に分けて批判しています。わたくしもそれに倣って1点ずつ検討します。

まず1点目。
>> 政権の枠組みやそのための選挙協力をしていないということと、個別の政治課題を実現させるための協力が、別のものだという初歩的な理解がない。生活とつながった政治への関与をしていないので、マスコミで借りてきたみたいな杜撰な認識のまま、レベルの低い発言をしてしまうのである。 <<
うーん、たしかに「共産党は何でも反対」というのは事実に反します。それは私も認めます。しかし、それは党中央のビジョンに反しない範囲内でのこと(それ自体は当然のことです)。そしてここが重要なんですが、共産党にとって、党中央のビジョンは人民大衆に対して提示し教育するものであり、人民大衆から党中央に対するレスポンスは多くの場合、無視されたり妄想全開の批判をされたり、酷い場合には発言者に対する人格攻撃がされるんですよね(今回の紙屋ブログのコメント欄にも、共産党支持者と見られるコメンテイターによる罵言雑言が書き連ねられています)。こうした唯我独尊体質は、よく指摘されているように、「我が党の見解は科学的なものである」という前提、そして「階級闘争」「我に仇するは反動分子」という思考回路が根底にあるんでしょう。私もその被害者の一人でした(´・ω・`)

そうした唯我独尊体質は、人民大衆から遊離した政策の温床になります。それゆえ、不満の吸収剤しては有効であったとしても、人民大衆が真に求めるものとは異なる政策を提示してしまうがゆえに、「対案不在」になってしまうわけです。たとえば紙屋氏は、「認可保育園をふやして、みたいな請願署名を国会にもっていって、紹介議員になってくれる会派を探して歩けば、一瞬でわかる」といいますが、いま国民の切実な要求は、「認可じゃなくてもいいから、とりあえず保育所がほしい」です。だからこそ「横浜方式」が、横浜市長自身が「いやまだまだ応急的なものです」と認めながらも、「いや、応急処置であっても、よくやった」「次は量から質だね、頑張れ」と言われているわけです。それに対して党は何を言いましたか?

日本共産党が唯我独尊路線をひた走ることによる損失は、国民以上に、何よりも日本共産党自身がもっとも多くの部分をこうむっています。たとえば、本来であれば、共産党をはじめとする左翼勢力が支持基盤とすべきであった都市下層庶民の多くを創価学会・公明党に持っていかれてしまったこと。労働運動の主導権を社会党から奪取し、階級闘争の最前線に立ちたかった気持ちは分かるんですが、多くの下層庶民は、そもそも労組にすら疎外されていた。下層庶民にとっては、貧・病・争から一刻も早く決別したかった。日本共産党が下層庶民を苦しめる貧・病・争を無視したというつもりはありません。日本共産党「なりに」頑張ってきたと思っています。しかし、その「科学的な階級闘争路線」による「人類の終局的解放」は、抜本的な解決策かも知れませんが、下層庶民にとっては二の次の要求だったのです。その他、部落問題などでもそうした減少は見られたと思います。

毛沢東主席は次のように指摘しています。
大衆こそ真の英雄であり、われわれ自身のほうが、とかくこっけいなほど幼稚である。この点を理解しなければ、最低の知識もえられない。

「毛沢東は言っていることとやっていることが違う」という印象を受ける方も少なくないと思いますが、たとえ建前であったとしても、世界史の一時期において広範の支持者・信奉者を獲得した人物の発言だけあって、発言自体には真理性があると思います(ついでに言えば、中共政権樹立前の毛沢東と樹立後の毛沢東は別人だと思ったほうがいいくらい質的に格差があります。私も「毛主席の見解」としてご紹介するときは、なるべく1940年代の発言から選択するようにしています)。それに対して、日本共産党からはこういう姿勢を読み取れたことがありません。

日本共産党に対しては、しばしば「脳内お花畑」という批判がさなれますが、私はそれ以上に「大衆路線に立ち切れていない」という問題点があると痛切に感じています。それどころか、「脳内お花畑」である理由も「唯我独尊」であるところに求められるでしょう。真に大衆路線たっていれば、そもそも広範な国民から「脳内お花畑」と嘲笑されることなんてないはずです。

第二のポイントに話を移しましょう。
>> 第二に、「ヤバいことをスクープして追及する機能」は「癌」なのかということ。

(中略)

東は、国政なんかに抽象的にかかわらず、地方議会で切実な運動の一つでもやってみるといい。何かを実現させるために、それを実現させない現実の政治を「暴露」し、その障害を住民の前に引きずり出すという機能がいかに大事かが、すぐわかる。 <<
そういう階級闘争路線は、往々にしてむしろ話をややこしくします。橋下大阪府府知事・大阪市長や民主党政権が好例でしょう。進む話も進まない。同時期に、おなじタレント知事として一世を風靡した宮崎県の東国原知事が協調路線で物事を前進させたのにくらべて、階級闘争路線・文革路線丸出しの橋下氏や民主党の方法は何も前進させることはできませんでした

ついでに言えば、市民メディアが発達すれば別に日本共産党の専売特許ではなくなるような。。。むしろ日本共産党は、いいかげん要求型の生活闘争路線じゃなくて、各方面と協調的に調整できる力量を備えたほうがいいですよ。権力を握るということは、今まで要求して獲得してきたこと、言い換えれば「実現の方途を権力者に丸投げしてきたこと」を、今度からは自分たちで実現させなきゃならないわけですから、こういう調整能力は不可欠ですよ。人民権力を握ってナンボのもの! 白頭の革命精神(백두의 혁명정신)で!

東氏の「共産党の批判は決してぶれないから、そこに不満が流れ込む。でもそれはなにも変えないのだ」というコメントが凄く共感できます。

三番目の点については、参議院選挙直後の「日本の政治」って言ったら、国政レベルの話だということは文脈的に分かるでしょう。何でわざわざ、東氏が特に言及していない地方政治の話を持ってくるんでしょうね?

「以下はもっと根本の話」について。
運動に深くかかわってきたがゆえに、部分にとらわれて、根本的な大義を見失ってしまったのが湯浅のこの間の行動」などといっていますが、「根本的な大義」とは何なのでしょうか。私にとっては、「根本的な大義」といえば、人民大衆の自主的要求です。いわゆる「横浜方式」について取り上げた6月17日づけ『「子供の視点」は「子供の視点」なのか』で私は以下のように述べ、その方向性の正しさを支持しました。
>> 福祉にも自主性・自己決定権・選択の自由が求められる時代になっているのです。福祉においても、いや、福祉だからこそ、「チュチェ時代」を迎えているのだと思います。単に「合理的」「科学的」であるだけなら、専門家や「前衛」に丸投げするという手もあるかもしれません(もちろん、既に何度も述べているように、「前衛の指導」は「理性に対する過信」であり、私は懐疑的な立場を取っています)。しかし、今やそれ以上に「自主的」であることも求められる時代なのです。また、「自主的」であることと「放任」は必ずしもイコールではなく、さまざまな人が意見交換をするなかで最終的に当事者が決断することこそが求められている時代なのです <<
私が見るところ、既に述べたように、日本共産党は「人民大衆の自主的要求」よりも「ぼくの かんがえた みらいの しゃかい」を大切にしており、それを人民大衆に教化することに血道を上げているように思います。たしかに湯浅氏は一時期、迷走気味だったとも思います。しかし、では日本共産党が、掲げ、守るべき「根本的な大義」を持っているのでしょうか? 甚だ疑問です。

紙屋氏が引用したスーザン・ソンタグの言葉がすげえブーメランですわなwww
それは複雑なものを単純化する傾向を必ず助長し、狂信的な態度はともかく、自分は絶対に正しいとする思い込みを誘いだしてしまうものである

さて、人民大衆の自主的要求に依拠するために必要な姿勢として、毛沢東主席は以下のように指摘していますので、最後にご紹介します。
>>  大衆に結びつくためには、大衆の必要と自発的意志にしたがう必要がある。大衆のためのすべての工作は、たとえ善意であっても、いかなる個人的願望からも出発すべきではなくて、大衆の必要から出発すべきである。多くのばあい、大衆は、客観的にはある種の改革を必要としていても、主観的にはまだそのような自覚をもたず、決意がつかず、まだ改革の実行をのぞまないので、われわれは辛抱づよく待たなければならない。われわれの工作を通じて、大衆の多数が自覚をもち、決意がつき、みずから改革の実行をのぞむようになってからこのような改革を実行すべきであって、さもなければ、大衆から離れてしまうであろう。大衆の参加を必要とするすべての工作は、もし大衆の自覚と自発的意志がなければ、いたずらに形式に流れて失敗するであろう。……これには2つの原則がある。1つはわれわれの頭のなかの幻想からうまれた必要ではなく、大衆の実際の必要ということである。もう1つは、われわれが大衆にかわって決意することではなく、大衆の自発的意志にたより、大衆自身が決意することである。

「文化活動における統一戦線」(1944年10月30日)、『毛沢東選集』第3巻
<<

>>  大衆がまだ自覚していない時に、われわれが進撃にでるなら、それは冒険主義である。大衆がやりたがらないことをわれわれが無理に指導してやらせようとすれば、その結果はかならず失敗する。大衆が前進をもとめている時に、われわれが前進しないなら、それは右翼日和見主義である。

「晋綏日報の編集部の人たちにたいする談話」(1948年4月2日)、『毛沢東選集』第4巻
<<

>>  大衆のなかから集中し、ふたたび大衆のなかへもちこんで堅持させることによって、正しい指導の意見を形成すること、これは基本的な指導方法である。

「指導方法のいくつかの問題について」(1943年6月1日)、『毛沢東選集』第3巻
<<

>>  わが党のすべての実際工作において、およそ正しい指導は、大衆のなかから大衆のなかへ、でなければならない。それは、つまり大衆の意見(分散的な、系統だっていない意見)を集中し(研究をつうじて、集中した、系統だった意見にかえる)、これをふたたび大衆のなかへもちこんで宣伝、説明し、これを大衆の意見にし、これを大衆に堅持させて、行動にうつさせ、また大衆の行動のなかで、それらの意見が正しいかどうかを検証する。そして、その後、ふたたび大衆のなかから意見を集中し、ふたたび大衆のなかへもちこんで堅持させる。このように無限にくりかえして、1回ごとに、より正しい、よりいきいきとした、より豊かなものにしていくのである。これがマルクス主義の認識論である。

「指導方法のいくつかの問題について」(1943年6月1日)、『毛沢東選集』第3巻
<<
旧ブログの頃にやっていた『毛主席語録に学ぶ』、もう一回やろうかな。。。
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2013年09月03日

民主党に再生はない;『参院選総括案』より

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130903/stt13090314290002-n1.htm
>> 民主党参院選総括案ポイント バラバラ行動、発信力不足…
2013.9.3 14:24 [民主党]

 2日に行われた民主党の役員会で、海江田万里代表は人事について「全員が党運営に責任を持つ態勢にしたい」と説明。その上で参院選総括案もまとめた。総括案は「『拒否される政党』となっている」と明記した上で「政策体系の確立が必要」と強調。憲法改正について「改正条文を作成して国民に提示する」と記した。

 民主党の参院選総括案のポイントは次の通り。

 ・民主党への信頼は回復せず、「国民から拒否される政党」となっている

 ・前段階の東京都議選は自民、公明、共産各党の勝利ではなく民主党の敗北

 ・東京選挙区の候補一本化で、党本部の要請に従わなかった代表経験者の行動が「相変わらずのバラバラ行動」ととらえられた

 ・非自民勢力の連携強化を追求したが、野党結集の全国的構図ができなかった

 ・ネット選挙対策は総じて自民党に後れをとった

 ・財政健全化を見据えた年金、医療制度を具体的に示す

 ・バッシングを越える代表、幹事長の発信力が不足していた

 ・民主党の基本となる政策の柱を確立し、国会での野党共闘を模索していく
<<
結局、「鉄の団結」が足りなかったと、そういうふうに言いたいんでしょう。

私は、3月12日づけ『そこじゃないよ民主党、何を言っている社民党』や7月22日づけ『藤井裕久氏の民主党自己批判――民主党の惨敗劇の原因』においても触れたように、与党時代以降の民主党の最大の過ちは、「空想的急進主義」「文革路線」だったことにあると思います。稚拙な政策案を拙速に実現しようとした、その結果が、あのメチャクチャな政治だったのではないでしょうか。

それを除外してもイイカゲンな総括ですね。

東京選挙区の候補一本化で、党本部の要請に従わなかった代表経験者の行動が「相変わらずのバラバラ行動」ととらえられた」というのは、たしかにそういう印象を与えるものでした。では、あそこでスンナリと一本化できていたとしたら? 東京選挙区では議席は獲得できたかもしれませんが、それ以外の地域では地元組織を統制したって遥かに及ばない状態ではありませんでしたか? 頼みの労組ですら、「組織候補者」には協力しても「民主党候補者」には協力しないという現象が見られたくらいです。団結したところで、誰も相手にしていないんですよ。

非自民勢力の連携強化を追求したが、野党結集の全国的構図ができなかった」、たしかにこれもまあそうだと言えばそうですが、「誰が泥舟に乗るんだよ」。「野党結集ができなかったから党にとって悪い結果になった」んじゃなくて「党が悪いから野党結集ができなかった」わけですよね? 因果関係が逆ですよね?

ネット選挙対策は総じて自民党に後れをとった」。Google曰く、ネット選挙は空振りだったそうです

財政健全化を見据えた年金、医療制度を具体的に示す」。これは難しいところ。ある意味において「現実的漸進主義」に見えるものの、もともと選挙公約が「空想的急進主義」過ぎたがために、急に転向すると「マニフェスト違反」になるわけです。少なくない有権者は、民主党の「豹変振り」に不信感を感じ、支持をやめたのではないでしょうか。諸悪の根源はやはり「空想的急進主義」ですが、いくら「現実的漸進主義」がよいといっても、急な転向はそれ自体が「急進的」であり、これもこれで問題があります。

結局、民主党は、共産党に負けるという屈辱を受けてもなお、空想的急進主義の文革路線から現実的方法では脱せないということでしょうか。たしかに「空想的急進主義の文革路線」への需要は常に一定はありますが、今現在は、維新の会と共産党がその手の需要を引き受けていますし、そもそも、そういうポジションを狙ってどうするんですか。
ラベル:政治 左翼
posted by 管理者 at 20:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする