http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130907-00000578-san-soci>> 堺市長選 「弱った維新にとどめ」 共産ノリノリ、竹山氏応援全開
産経新聞 9月7日(土)23時11分配信
(以下略)<<
おやおや、2007年都知事選の頃とはだいぶ言っていることが違いますね。たしかあの頃は、「我々のみが革新勢力であり、民主党をはじめとする他党は本質的に自民党体質であり、情勢は『オール与党vs共産党』だ!」「民主党などの他党との一点共闘は当然だが、それらが総じて自民党体質である現在においては、そういう情勢にない」とか何とかいって、「野党共闘」に水を差していたのに。今回なんて、「自民党体質」どころか当の自民党が竹山氏側にいるというのに。
党利党略セクト主義的ご都合主義、ここに極まる。
いや、まあ日本共産党のセクト主義的ご都合主義は、いまさら驚くべき話ではないんですけどね。ほんと、ひどいときは昨日と今日で言っていることが都合よく違いますからね。わたしも左翼・共産党対策の経験がありますから分かりますよ。
ひとつ笑えるのは、「
ただ、共産が「維新にとどめを」と活発に動くほど、同党と長年“不仲”とされ、勝敗のカギを握る公明票を遠ざける可能性もある」の部分。もともと創価学会・公明党と維新の会は仲が良いですしね。少なくとも、公明党・共産党関係よりはずーっと。創価学会・公明党なんてセクト主義的ご都合主義の典型例(ちなみに、先日また信濃町を訪問したところ、
例の「造花しきみ」がヒッソリと影のほうにおいてありましたwww)ですからね、
日本共産党は頑張らないほうがいいんじゃないかと思いますよ。
ところで日本共産党で思い出したのが、参議院選挙直後の東浩紀氏と紙屋高雪氏のやりとり(
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20130723/1374531295)。ザッと読んで色々思うところあったのですが、多忙な時期と重なり忘れてしまっていました。ちょっと今更感も漂っていますが、この機会に消化してしまいたいと思います。
ことの発端は、
東浩紀氏のツイッターにおける「共産党は日本の癌だ」発言でした。
>> 共産党は日本の癌だ。共産党の主張が悪いというのではない。絶対に為政者にはならないという安心感のもとに、為政者への不満だけを吸い上げる党という存在がある、その事実が日本の政治をひどく損ねている。共産党の批判は決してぶれないから、そこに不満が流れ込む。でもそれはなにも変えないのだ。 <<
これに対して熱心な日本共産党支持者である紙屋高雪氏が激怒。『
共産党は癌なのか』という記事をアップされました。
最初に述べておきますが、
私は「白頭の革命精神」を信奉しているがために、日本共産党は害悪だと思っています。その点、東氏の視点には結構共感できます。ただし、日本共産党が
ちっとも増殖しない(
繰り返しますが、先の参議院選挙ではもう少し増えると思っていました)点において、
「癌」という表現は違うと思いますwまた、前掲堺市長選挙を見ても分かるように、
党利党略のためには結構、ブレブレですwww
さて、東氏の発言に対して3+1点に分けて批判しています。わたくしもそれに倣って1点ずつ検討します。
まず1点目。
>> 政権の枠組みやそのための選挙協力をしていないということと、個別の政治課題を実現させるための協力が、別のものだという初歩的な理解がない。生活とつながった政治への関与をしていないので、マスコミで借りてきたみたいな杜撰な認識のまま、レベルの低い発言をしてしまうのである。 <<
うーん、たしかに「共産党は何でも反対」というのは事実に反します。それは私も認めます。しかし、それは党中央のビジョンに反しない範囲内でのこと(それ自体は当然のことです)。そしてここが重要なんですが、
共産党にとって、党中央のビジョンは人民大衆に対して提示し教育するものであり、人民大衆から党中央に対するレスポンスは多くの場合、無視されたり妄想全開の批判をされたり、酷い場合には発言者に対する人格攻撃がされるんですよね(今回の紙屋ブログのコメント欄にも、共産党支持者と見られるコメンテイターによる罵言雑言が書き連ねられています)。こうした唯我独尊体質は、よく指摘されているように、「我が党の見解は科学的なものである」という前提、そして「階級闘争」「我に仇するは反動分子」という思考回路が根底にあるんでしょう。私もその被害者の一人でした(´・ω・`)
そうした唯我独尊体質は、人民大衆から遊離した政策の温床になります。それゆえ、
不満の吸収剤しては有効であったとしても、人民大衆が真に求めるものとは異なる政策を提示してしまうがゆえに、「対案不在」になってしまうわけです。たとえば紙屋氏は、「
認可保育園をふやして、みたいな請願署名を国会にもっていって、紹介議員になってくれる会派を探して歩けば、一瞬でわかる」といいますが、いま国民の切実な要求は、「認可じゃなくてもいいから、とりあえず保育所がほしい」です。だからこそ「横浜方式」が、横浜市長自身が「いやまだまだ応急的なものです」と認めながらも、「いや、応急処置であっても、よくやった」「次は量から質だね、頑張れ」と言われているわけです。それに対して党は何を言いましたか?
日本共産党が唯我独尊路線をひた走ることによる
損失は、国民以上に、何よりも日本共産党自身がもっとも多くの部分をこうむっています。たとえば、本来であれば、共産党をはじめとする左翼勢力が支持基盤とすべきであった都市下層庶民の多くを創価学会・公明党に持っていかれてしまったこと。労働運動の主導権を社会党から奪取し、階級闘争の最前線に立ちたかった気持ちは分かるんですが、多くの下層庶民は、そもそも労組にすら疎外されていた。下層庶民にとっては、貧・病・争から一刻も早く決別したかった。日本共産党が下層庶民を苦しめる貧・病・争を無視したというつもりはありません。日本共産党「なりに」頑張ってきたと思っています。しかし、
その「科学的な階級闘争路線」による「人類の終局的解放」は、抜本的な解決策かも知れませんが、下層庶民にとっては二の次の要求だったのです。その他、部落問題などでもそうした減少は見られたと思います。
毛沢東主席は次のように指摘しています。
「
大衆こそ真の英雄であり、われわれ自身のほうが、とかくこっけいなほど幼稚である。この点を理解しなければ、最低の知識もえられない。」
「毛沢東は言っていることとやっていることが違う」という印象を受ける方も少なくないと思いますが、たとえ建前であったとしても、世界史の一時期において広範の支持者・信奉者を獲得した人物の発言だけあって、発言自体には真理性があると思います(ついでに言えば、中共政権樹立前の毛沢東と樹立後の毛沢東は別人だと思ったほうがいいくらい質的に格差があります。私も「毛主席の見解」としてご紹介するときは、なるべく1940年代の発言から選択するようにしています)。それに対して、日本共産党からはこういう姿勢を読み取れたことがありません。
日本共産党に対しては、しばしば「脳内お花畑」という批判がさなれますが、
私はそれ以上に「大衆路線に立ち切れていない」という問題点があると痛切に感じています。それどころか、「脳内お花畑」である理由も「唯我独尊」であるところに求められるでしょう。
真に大衆路線たっていれば、そもそも広範な国民から「脳内お花畑」と嘲笑されることなんてないはずです。
第二のポイントに話を移しましょう。
>> 第二に、「ヤバいことをスクープして追及する機能」は「癌」なのかということ。
(中略)
東は、国政なんかに抽象的にかかわらず、地方議会で切実な運動の一つでもやってみるといい。何かを実現させるために、それを実現させない現実の政治を「暴露」し、その障害を住民の前に引きずり出すという機能がいかに大事かが、すぐわかる。 <<
そういう階級闘争路線は、往々にしてむしろ話をややこしくします。橋下
元大阪府府知事・
現大阪市長や民主党政権が好例でしょう。進む話も進まない。同時期に、おなじタレント知事として一世を風靡した宮崎県の東国原
元知事が協調路線で物事を前進させたのにくらべて、
階級闘争路線・文革路線丸出しの橋下氏や民主党の方法は何も前進させることはできませんでした。
ついでに言えば、市民メディアが発達すれば別に日本共産党の専売特許ではなくなるような。。。むしろ
日本共産党は、いいかげん要求型の生活闘争路線じゃなくて、各方面と協調的に調整できる力量を備えたほうがいいですよ。権力を握るということは、今まで要求して獲得してきたこと、言い換えれば「実現の方途を権力者に丸投げしてきたこと」を、今度からは自分たちで実現させなきゃならないわけですから、こういう
調整能力は不可欠ですよ。人民権力を握ってナンボのもの! 白頭の革命精神(백두의 혁명정신)で!
東氏の「
共産党の批判は決してぶれないから、そこに不満が流れ込む。でもそれはなにも変えないのだ」というコメントが凄く共感できます。
三番目の点については、参議院選挙直後の「
日本の政治」って言ったら、
国政レベルの話だということは文脈的に分かるでしょう。何でわざわざ、東氏が特に言及していない地方政治の話を持ってくるんでしょうね?
「以下はもっと根本の話」について。
「
運動に深くかかわってきたがゆえに、部分にとらわれて、根本的な大義を見失ってしまったのが湯浅のこの間の行動」などといっていますが、「
根本的な大義」とは何なのでしょうか。
私にとっては、「根本的な大義」といえば、人民大衆の自主的要求です。いわゆる「横浜方式」について取り上げた6月17日づけ『
「子供の視点」は「子供の視点」なのか』で私は以下のように述べ、その方向性の正しさを支持しました。
>> 福祉にも自主性・自己決定権・選択の自由が求められる時代になっているのです。福祉においても、いや、福祉だからこそ、「チュチェ時代」を迎えているのだと思います。単に「合理的」「科学的」であるだけなら、専門家や「前衛」に丸投げするという手もあるかもしれません(もちろん、既に何度も述べているように、「前衛の指導」は「理性に対する過信」であり、私は懐疑的な立場を取っています)。しかし、今やそれ以上に「自主的」であることも求められる時代なのです。また、「自主的」であることと「放任」は必ずしもイコールではなく、さまざまな人が意見交換をするなかで最終的に当事者が決断することこそが求められている時代なのです。 <<
私が見るところ、既に述べたように、日本共産党は「人民大衆の自主的要求」よりも「ぼくの かんがえた みらいの しゃかい」を大切にしており、それを人民大衆に教化することに血道を上げているように思います。たしかに湯浅氏は一時期、迷走気味だったとも思います。しかし、
では日本共産党が、掲げ、守るべき「根本的な大義」を持っているのでしょうか? 甚だ疑問です。
紙屋氏が引用したスーザン・ソンタグの言葉がすげえブーメランですわなwww
「
それは複雑なものを単純化する傾向を必ず助長し、狂信的な態度はともかく、自分は絶対に正しいとする思い込みを誘いだしてしまうものである」
さて、人民大衆の自主的要求に依拠するために必要な姿勢として、毛沢東主席は以下のように指摘していますので、最後にご紹介します。
>> 大衆に結びつくためには、大衆の必要と自発的意志にしたがう必要がある。大衆のためのすべての工作は、たとえ善意であっても、いかなる個人的願望からも出発すべきではなくて、大衆の必要から出発すべきである。多くのばあい、大衆は、客観的にはある種の改革を必要としていても、主観的にはまだそのような自覚をもたず、決意がつかず、まだ改革の実行をのぞまないので、われわれは辛抱づよく待たなければならない。われわれの工作を通じて、大衆の多数が自覚をもち、決意がつき、みずから改革の実行をのぞむようになってからこのような改革を実行すべきであって、さもなければ、大衆から離れてしまうであろう。大衆の参加を必要とするすべての工作は、もし大衆の自覚と自発的意志がなければ、いたずらに形式に流れて失敗するであろう。……これには2つの原則がある。1つはわれわれの頭のなかの幻想からうまれた必要ではなく、大衆の実際の必要ということである。もう1つは、われわれが大衆にかわって決意することではなく、大衆の自発的意志にたより、大衆自身が決意することである。
「文化活動における統一戦線」(1944年10月30日)、『毛沢東選集』第3巻 <<
>> 大衆がまだ自覚していない時に、われわれが進撃にでるなら、それは冒険主義である。大衆がやりたがらないことをわれわれが無理に指導してやらせようとすれば、その結果はかならず失敗する。大衆が前進をもとめている時に、われわれが前進しないなら、それは右翼日和見主義である。
「晋綏日報の編集部の人たちにたいする談話」(1948年4月2日)、『毛沢東選集』第4巻 <<
>> 大衆のなかから集中し、ふたたび大衆のなかへもちこんで堅持させることによって、正しい指導の意見を形成すること、これは基本的な指導方法である。
「指導方法のいくつかの問題について」(1943年6月1日)、『毛沢東選集』第3巻<<
>> わが党のすべての実際工作において、およそ正しい指導は、大衆のなかから大衆のなかへ、でなければならない。それは、つまり大衆の意見(分散的な、系統だっていない意見)を集中し(研究をつうじて、集中した、系統だった意見にかえる)、これをふたたび大衆のなかへもちこんで宣伝、説明し、これを大衆の意見にし、これを大衆に堅持させて、行動にうつさせ、また大衆の行動のなかで、それらの意見が正しいかどうかを検証する。そして、その後、ふたたび大衆のなかから意見を集中し、ふたたび大衆のなかへもちこんで堅持させる。このように無限にくりかえして、1回ごとに、より正しい、よりいきいきとした、より豊かなものにしていくのである。これがマルクス主義の認識論である。
「指導方法のいくつかの問題について」(1943年6月1日)、『毛沢東選集』第3巻 <<
旧ブログの頃にやっていた『毛主席語録に学ぶ』、もう一回やろうかな。。。