2013年12月30日

「もう決まってしまった」

こういうのが「科学的」だとか「現実主義的」などと考えているのだから、共産系には困ってしまいます。
http://mainichi.jp/select/news/20131229k0000m010013000c.html
>> 都知事選:宇都宮健児氏が出馬表明 前回は次点

毎日新聞 2013年12月28日 18時34分(最終更新 12月28日 22時58分)

 前日本弁護士連合会会長の宇都宮健児氏(67)が28日、東京都内で開かれた市民集会で講演し、都知事選(来年1月23日告示、2月9日投開票)への無所属での立候補を表明した。都知事選に名乗りを上げたのは宇都宮氏が初めて。「安倍政権の暴走にストップをかけ、東京から国政を変えていく」と意気込みを語った。

(中略)

 2020年東京五輪については「もう決まってしまったので、どういう五輪をするかが問われている」と語り、五輪にかける予算を抑え、東日本大震災の被災者支援や原発事故の収束を都としても進めるとした。「倍返し」をスローガンに、前回の約2倍の200万票を目指すという。

 共産党が支援する方針だが、宇都宮氏は「政治的立場を超えてどれだけ広がれるかだ」と述べ、主要政党や労組、市民団体に支援を呼び掛ける考えを示した。【竹内良和】
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あれだけ東京オリンピック開催反対を掲げていた宇都宮氏が、今回は一転して「もう決まってしまったので、どういう五輪をするかが問われている」などと言い始めました。

おそらく支持者は、「前提が変われば結論も変わるのが科学」だとか「与えられた条件で如何に最善を尽くすかが現実主義だ」と言って、この転向劇を正当化するでしょう。もっともな主張に聞こえます。しかし、問われるべきは「じゃあ、なんで最初からそれを掲げなかったの?」という点。前回選挙では、「コンパクトな五輪を!」ではなく「五輪開催反対」とまで言ってのけたわけですから、それなりの考えがあってのことだと思っていたのですが、実際は「コンパクトな五輪を!」で済む程度だったんですか。事後の対応は「現実主義的」で「科学的」かもしれませんが、過去の主張が「空想的」で「非科学的」であると言わざるを得ません。

また、転向の理由付けが最悪です。「もう決まってしまった」。いったん決まってしまったことであれば、信念を曲げてでも諦める、そう宣言したに等しいのではないでしょうか。たしか東京オリンピック開催は、「途方も無い税金の無駄」であり、「そんなカネがあったら福祉予算に回すべきだ」としていたはずです。「コンパクトな五輪を!」程度の信念だったわけですね。

もっと良い言い訳はなかったんでしょうかね。それ以前に、なんであんな主張を展開したんだか。東京オリンピックなんてあり得ないだろうとタカをくくっていたのか。
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2013年12月22日

市場競争の効用は「効率性」よりも「多様性」

http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/131222/waf13122212010006-n2.htm
>> (前略)
市場原理への不安

 橋下氏が市長に就任後、まず手がけた改革は、教育行政への首長の関与をうたった教育関連条例や、職員の評価や処分を厳格化する職員基本条例の制定、二重行政を仕分けする府市統合本部の立ち上げだった。市職員の労働組合の政治活動への批判や、ダブル選直後の「大阪を変える」という有権者の期待に応えた施策であり、維新への追い風を受け止める帆となった。

 しかし、否決された施策は、それらと性格を異にしている。共通するのは生活に関わりの深いインフラのあり方を変える施策であり、手段として、効率化とコスト削減という市場原理の手法が組み込まれている点だ。

 例えば、水道事業統合の場合、市側は「統合後の18年間で221億円の削減効果が見込まれる」と強調。幼稚園の廃園・民営化はトータルで、「年間25億円以上の削減効果がある」と説明していた。

 行政にとってコスト削減は重要な課題だが、従来、「公」が担ってきた役割を、効率化という尺度だけで測って良いのか。単純な市場原理になじまないからこそ、「公」がその事業を受け持ってきたのではないか−。そうした住民の不安を十分解消していないことが、この半年間の維新の停滞感の最大の要因ではないだろうか。

 幼稚園の廃園・民営化に対する「障害のある子供の受け入れは私立では難しい」という保護者の訴えはその典型だろう。今回の泉北高速鉄道をめぐる地元の声も同様の文脈にある。

 「市場競争そのものは、市場原理にのらない『社会』の安定性によって支えられなければならない。それが崩れてしまえば、市場経済それ自体が壊されてしまう、ということだ」

(中略)

 そこに求められるのは、単なる事務の効率化やコストの削減効果ではなく、都と特別区の組み合わせが、今までよりも安定した社会を生み出すことができるかどうかという一点にほかならない。だからこそ、今、「公」の意義をさらに見つめ直し何をもたらすのかを住民に発信する作業が欠かせない。
(後略)<<
いわゆる民営化の流れが、「効率性」という視点で語られることが多いのは、サッチャー政権やレーガン政権、そして小泉政権の印象が強すぎることもあり、当然といえば当然かもしれません。しかし、何度かご紹介しているように、たとえば「北欧の福祉国家」と呼ばれる国々における福祉サービスの公共部門独占体制から供給主体の多様化へのシフト(=民営化の拡大)は、もちろん効率性の追求という動機もありますが、「サービスの質の多様化」という動機が大きく、そしてそれは何よりも、福祉サービスの受益者の要求を反映してのものでした。

つまり、民営化には、コスト削減といった「効率性の向上」という側面と、さまざなま供給主体が参入することによる財・サービスの「多様性の拡大」という側面があるのです。この二つの側面は、同じ民営化ではあるものの、性質をかなり異にします。

生活に関わるインフラ分野を「効率性」という尺度で図ることに対して疑念を抱くのは当然の感覚でしょう。そこから民営化に懸念を感じることは、無理の無いことです。しかし、「多様性の拡大」という側面から民営化を捉えなおすとすれば、どうでしょうか? 私は、「多様性」にこそ自由経済の優位性があると考えています。

実は「効率性」という点においては、自由な経済よりも計画的な経済の方が優れている場合も少なくありません。西欧諸国が数百年かけて達成してきた工業化を、ソ連は数十年で達成しました。これはソ連共産党の独裁的な資源配分の賜物です。既に目標が単一ないしは少数に絞り込まれており、あとはそれを達成するだけという時は、複数の主体が競争的・並列的に事業展開するよりも、全ての資源を単一の主体に集中させたほうが「効率的」であることは少なくありません。

しかし、目標の探索からはじめなければならないとき、そしてその目標自体が、周囲環境の不断の変化によって断続的な変更を余儀なくされるとき、あるいは目標自体が多数にのぼるとき、「多様性」が重要になってきます。それぞれ異なるビジョンをもった沢山の主体が多種多様な選択肢を提示することによって、真に必要とされるものが提供される確率が高まるのです。

社会は常に変動しており人々の求めるものも常に変動しています。また、人々の求めているもの自体が多岐にわたります。それらの移ろいやすい多数の欲求を満たすためには、柔軟な供給体制が必要であり、それは単一/少数の主体による独占的な供給体制よりも、数多くの主体による多様な供給体制のほうが優れていると言えます。ソ連が基本的な工業化を達成し高い生産力を獲得したものの、消費生活分野では西側に遠く及ばなかった一因は、ここにあります。

市場競争の効用を、「効率化」とは別の角度から見るべきです。

関連記事
チュチェ104(2015)年10月5日づけ「図書館指定管理者制度の本旨は「多様性」」
http://rsmp.seesaa.net/article/427302876.html
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2013年12月08日

「メディアの扇動」と「大衆の素地」

秘密保護法案が成立しました。法案そのものについての論評は、いまさら私がするまでも無く、良質なものが溢れかえっていますので、今回は少し視点を変えて、「メディアが連日連夜、反対の論陣を張ってきたのに、ついに国民的『高まり』が起こらなかった」という点について見て見たいと思います。

秘密保護法案反対のメディアの論陣はすさまじいものがありました。たとえば、昨日の朝日新聞の一面トップの見出しは破格の文字サイズでしたし、同紙の12月2日朝刊「福島事故直後に「原子力再生」 経産省が機密文書」では、記事の本旨は「経産省が原発推進を核心的に位置づけている機密文書が発見された」ということであるのに、なぜか末尾に「特定秘密保護法案では原発にかかわる文書なども秘匿されかねない。国民がこれらの政策立案過程を検証できなくなる恐れもある。」という一文を挿入するという徹底さでした。にもかかわらず、ついに国民的な「高まり」は起こりませんでした。

当ブログでは、移転前の旧ブログの頃から、気の向くままに「メディア報道と世論の関係」について考えてきました。このテーマは人気のテーマで、他にも多くの方々が考察を深めており、私も大いに刺激をうけ勉強させていただいています。

しかし、このテーマを論じる方々の中には、「メディア報道と世論の関係」を、「メディア報道による世論形成・世論誘導」という側面に過度に注目し、「メディアがこんな報道をするからいけないんだ!」という結論、メディア悪玉論を声高に主張している方が少なくありません。特に、テレビメディアが、ともすれば情に訴えるような報道方法を取るために、そうした「感情的な部分」に世の中が左右されることをヨシとしない論理的・理性的な立場の方々が、そうした主張を展開することが多いように見受けられます。たとえば、司法報道――典型的には光市事件報道――では、法律的な原則を重視する方々がそうした主張を展開されていました。また、政治報道では、いわゆる「小泉改革」を快く思わない左派的な方々(民主党左派や共産党の支持者、あるいは共産党中央自身の「反共攻撃論」もその一種か)が、「小泉劇場」を例に挙げてそうした主張を展開されていました。

「メディア報道による世論形成・世論誘導」は、換言すれば「知識の外部注入」であります(レーニン的な外部注入論は、私はあまりマジメに勉強する気にならず――毛沢東の大衆路線の方がシックリきたからレーニンはほとんど覚えていない――そこまで詳しくは知らないので、とりあえずは「同音異義語」として考えてください)。「外部注入」ということは、すなわち、「注入する側」と「注入される側」がいる、「供給側」と「被供給(受益)側」がいるわけです。

「党の見解」や「世間様」への同調圧力が強い環境下であるならまだしも、そうでない場合、ある特定の見解を受け入れるかどうかは、「供給量の多寡」すなわち「注入する側」の事情ではなく、「その見解を受け入れるかどうか」という「注入される側」の都合に依ります。「注入される側」が納得する内容であれば受容(需要の誤変換じゃないよ!)されますし、そうでなければ受容されないのです。それどころか、光市事件のように、世論がメディア以上に加熱すると、普段の「注入する側」と「注入される側」の関係性が逆転するという事態すら起こりうるのです。このように、「注入する側のアクション」も重要な要素だとは思いますが、同じかそれ以上に、「注入される側の受容素地」も重要であり、事の真相は、注入側と被注入側の相互作用なのではないでしょうか。

今回の秘密保護法案を巡るメディアの加熱ぶりと世論の冷めっぷりは、「注入側と被注入側の相互作用」を事の真相とする私の見立てを補強するものであると思います。注入側は稀に見る大キャンペーンを張っていたのに、被注入側にとっては特に興味を掻き立てられる内容ではなく、結果としてついに国民的『高まり』が起きなかったのです。メディアがどんなに騒ぎ立てても、大衆の側に受け入れる素地が無ければ結実しない――それが如実に現れた一例でした。
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