2015年02月05日

「報復の連鎖」を断つためには「根絶やし」にすること

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150204-00000024-jij_afp-int
>> ヨルダン、リシャウィ死刑囚ら2人の刑執行 操縦士殺害で報復
AFP=時事 2月4日(水)12時52分配信

【AFP=時事】(一部更新)ヨルダン当局は4日午前4時(日本時間同11時)、イスラム教スンニ派(Sunni)の過激派組織「イスラム国(Islamic State、IS)」による同国人パイロット、モアズ・カサスベ(Maaz al-Kassasbeh)中尉殺害への報復として、同組織が釈放を要求していたサジダ・リシャウィ(Sajida al-Rishawi)死刑囚(44)を含むイスラム過激派組織のメンバー2人の死刑を執行した。政府報道官が明らかにした。

ヨルダンの女死刑囚は「イスラム国の重要なシンボル」 専門家

 報道官がAFPに語ったところによると、リシャウィ死刑囚と共に刑が執行されたのは、イスラム国の前身に当たるイラクの過激派組織「イラク聖戦アルカイダ組織(Al-Qaeda in Iraq)」のメンバーだったジャド・カルボリ(Ziad al-Karboli)死刑囚。

 治安筋によると、刑は首都アンマン(Amman)南方のスワカ(Swaqa)刑務所で執行された。

 リシャウィ死刑囚は、2005年11月9日にアンマンでホテル3か所が標的となった同時爆破事件に関与したとして死刑判決を受けて収監されていた。

 イスラム国は人質にとっていた後藤健二(Kenji Goto)さんとリシャウィ死刑囚との交換を要求し、聞き入れられなければカサスベ中尉を殺害すると脅迫していた。【翻訳編集】 AFPBB News

最終更新:2月4日(水)14時28分
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本記事を受けて「報復の連鎖」という、まあある意味では「お上品」な言説が広く流布しています。もちろん正しい懸念ではありますが、こういう言説は大抵、何の代替案も出さない、ある意味「社会問題に興味のある優秀な中学生」でも言える、中身の無い「お上品」な言説に過ぎません。

誤解を恐れずに言えば、「報復の連鎖」を断ち切るためには、「敵の根絶やし」が絶対に必要です。「社会問題に興味のある優秀な中学生」が作文などで書くようなヌルい方法では絶対に不足です。ただし、こでいう「敵の根絶やし」は徹底的なものであるべきですが、軍事的とは限りません「モグラ叩き」的な観点ではなく「再生産の防止」という観点です。

キムジョンイル総書記は労作『社会主義建設の歴史的教訓と我が党の総路線』(1992年1月3日)において、社会体制は何よりも主体としての「人民大衆」の支持が不可欠であると教えています。「イスラム国」が恐怖で人民大衆を抑圧しても、それはもちろん真の支持ではありません。何か経済的利益分配を行ったとしても、それこそ総書記が「生産力発展の問題にしても、生産力の発展において主動的で能動的な役割を果たすのは生産の直接的担当者である勤労人民大衆であり、かれらの自発的熱意と創造的能力を高めることなしには、たとえ、社会主義的生産関係者を樹立したとしても、生産力をたえまなく急テンポで発展させることはできないのです。」と教えているように、核心的ではありません。

総書記はまた、反帝闘争の旗を高くかかげ、社会主義・共産主義の道を力強く前進しよう』(1987年9月25日)において、「人間は飢餓と貧困に耐えられないという理由のみで革命に参加するものとみなしてはなりません。自己の運命の主人として、国家と社会の主人として生きようとするのは、自主的人間の根本的要求です。金日成同志が教えているように、自主性が踏みにじられるところには抵抗があり、抵抗があるところには革命闘争がおこるものです。」と指摘していらっしゃいます。社会体制に対する人民大衆の支持の核心は、「自主的人間の根本的要求」を満たすものであり、「自主性が踏みにじられるところには抵抗があ」るのです。

その指摘こそが「敵の根絶やし」の重要なヒントです。「国家と社会の主人として生きようとする・・・自主的人間の根本的要求」に十分に応えきれるのは果たして何処の誰なのか。イスラム圏の人民大衆の自発的な心を掴めた者こそが、その敵対者を「根無し草」にさせることができ、「根絶やし」にできるのです。敵の人民的陣営・思想的陣営が溶解され、再生産が阻止されるのです。

軍事的方法によって圧力を加えつつ、他方で、非イスラム国構成員・渋々の構成員に対して思想工作を展開する。この方法により、「敵の根絶やし」にし「報復の連鎖」を実行する「敵方」の人間を、主に再生産の面で阻止するべきです。

なお、ここで強調しておきたいのは、前掲の総書記『総路線』論文にもあるし、また歴史も示しているように、単なる注入的な「自主」の宣伝であってはなりません。必ず、当地の人民大衆のそのときの要求に沿った形での自主性追求でなければなりません。たとえば、かつてのアフガニスタンの共産勢力が一つの例です。反宗教の共産主義そが人民解放に違いないという確信にもとづき、イスラム勢力に対して非妥協的に戦ってきたアフガンの共産勢力は、あまりに急進的過ぎたがゆえに、人民大衆の十分な支持を獲られませんでした。むしろ人民大衆をムジャヒディン側に付かせてしまいました。こうした「歴史的教訓」を十分に踏まえるべきです。

また、「自主」と言う言葉には「対等」という意味もこめられています。「自分自身と社会の運命に対する責任ある主人」である以上は、「放蕩」は決して許されず、その意味では誰かが「上」で誰かが「下」ということはありません。単に「我々」の価値観に同化することを要求するのではなく、「彼ら」の価値観も対等な意味で包摂してゆくことは、重要なことです。「彼ら」が変わる必要もありますが、「我々」も変わる必要があるのです。

どうしても「譲れない」ときは、「棲み分け」も必要
かもしれません。こういう議論においては、しばしば「仲良く共存」という、これもまた「優等生的」な思考が前提になっていますが、無理に「接触型の共存」を目指す必要も無く、お互いに相手の立場を尊重する意味で「非干渉・非接触型共存」もあると思います。

核心は「自己の運命の主人として、国家と社会の主人として生きようとするのは、自主的人間の根本的要求」という認識であり、それは観念世界のそれではなく現実に生きる生身の人民大衆の自主的要求です。自主・対等・棲み分け。
posted by 管理者 at 00:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする