2015年05月23日

維新の党は21世紀の前衛党――生活と人間知性の限界に基づく大規模急進的改革批判

先週末の「大阪都構想」に関する住民投票否決の結果について、論評が続々と出てきています。
支持者も、「維新」の核心政策が僅差とはいえ否決された衝撃から一段落したのか、言い訳・・・じゃなくて分析を始めました。「維新」支持者の思考回路がよくわかる内容です。見ていきましょう。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150522-00043438-gendaibiz-pol&p=1
>> 政治家・橋下徹はいずれ復活する。維新よりも民主党が党分裂にふさわしい

(略)

はっきり言うが、住民投票で負けたのは「主張が正しくなかった」からではない。正しい政策を受け入れるだけ、大阪市民の理解と決意が十分に熟していなかった。市民の揺れ動く気持ちを見極め損なって「5月17日に民意を問う」と決めた、橋下市長以下の「政治判断が間違っていた」のである。

(略)

大阪都構想は市と府を廃止して、新しい都と特別区に編成し直す。その過程で市と府が握っていた権限の一部を特別区に移す、という大胆な統治機構の見直し案である。市にも府にも職員と議会議員、それに補助金その他で利権にぶらさがっている企業や団体がある。

 そんな既得権益勢力は市民の目に見えにくい。都構想実現のような大改革を成し遂げるには、既得権益をあぶりだして議員や政党はもちろん関係業界、マスコミを含めて幅広い支持を集める必要がある。その先に初めて、肝心の主役である市民の支持が期待できる。

そういう広い意味の政治運営で、橋下氏がどうだったかといえば、きわめて強い発信力があった半面、慰安婦問題に関する発言などで無用な反発を招いていたのはたしかだ。そこは本人も認めているとおりだ。自分に対する反発を自覚するなら、もっと慎重、ていねいであっても良かった。

つまり政策は正しかった。だが、肝心の大阪市民が正しく理解して受け入れるほど機は熟していなかった。そこを見誤った。失敗の原因はここである。政治の世界に「イフ」はないが、もしも勝負の時をもう少し遅らせて市民の理解が進むのを待っていたら、成功したかもしれない。


(略)<<
「政策は正しかったが、情勢が悪かった」「市民が構想を理解できなかった」――20世紀を通して完膚なきまでに叩き潰された典型的な前衛意識です。

そもそも、政治とは「生活の道具」であり、前回の記事(http://rsmp.seesaa.net/article/419188843.html)でも指摘したように、間接民主主義は「社会的分業」の一種である以上、「投票で否決された=お客さまに選ばれなかった」のです。

むろん、だからと言って現在の生活ことだけを考えれば良いわけではありません。しかし、ここで忘れてはならないのが、「人間社会は諸個人の行為の合成である」こと、そして、「未来は、どんな天才であっても設計し、約束することはできない」ことです。

今までの歴史を振り返ってみれば、国家・社会のしくみは、生活者としての人民大衆が「究極の現実」である日々の生活行為の合成として自生的に形成してきた秩序であり、長い時間をかけて生活の場で動作確認されてきたものです。「国家百年の計」などと称して、一部のエリートが頭のなかで紡ぎ出したものではありませんし、頭のなかで設計することなどできません。むしろ、そういうエリートの企画物は、現実の生活に照らし合わせたとき、合理性を欠く場合が少なくありません。うまくいったエリートの企画物にしても、生活の実態に根差しており、その時代の人民大衆の支持を取り付けていたからこそ成功したのです。あくまで、理念世界の国家ではなく、現実の生活者としての人民大衆こそが「リトマス紙」なのです。

その点、人民大衆の支持が受けられていない段階での「政策は正しい」は、根拠がありません。そして、その段階ですべきことは、「市民に説明する」ことではなく、市民に「吉田松陰マインド」を持たせることでも当然なく(「共産主義思想改造」と何処が違うんでしょうか? あまりにも馬鹿馬鹿しい内容で笑えないレベルでしたが、気になる方は検索してください)、「人民大衆に受け入れられる規模の政策にスケールダウンし、段階的に構想を実現してゆく」ことです。

人間知性の限界を踏まえたとき、人間の政治においては、小規模の構想を1つずつ「お客さま」としての人民大衆に提案し、その承認を得て漸進的に有効性を実証してゆく他にありません。その過程では、思いもよらぬ副作用を呈する場合もあるでしょう。しかし、小規模の改革であれば悪影響の及ぶ範囲は狭く、生活に及ぼすダメージも小さく済みます。改善のための措置も迅速に展開できます。このことは、「生活の道具としての政治」の本分に合致します。大規模急進的改革に対する小規模漸進的改革の絶対的優位性です。

維新の党支持者の姿勢は、私の目には、設計とプログラミングしかしていないシステムを、十分なテストフェーズを経ずに一気に完全に置き換えるようはものに見えます。まともなシステムは、小規模なテストを積み上げ、徐々にアプリケーション結合を大規模化してゆくものですし、移行本番で不測の事態が生じてシステムダウンした場合でも業務執行自体には影響が及ばないように、当該新システム以外の別経路(場合によっては旧システムの緊急稼働・新旧併用)を確保するものです。
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2015年05月18日

大阪文化大革命終了・・・?

大阪都構想が僅差ながら否決されました。橋下市長は敗北を認め、政界引退を表明しました。

私は、橋下氏が弁護士を本業とすしていた頃から一貫してアンチで、政治家に転身して以降は、その文革路線には反対の立場を一貫していました。今回の投票も、漸進主義の立場から急進的構想には反対していました。その点、今回の投票の結果は、「ギリギリうまくいった」というのが正直な感想です。小泉文化大革命以来の文革路線ブームも一服して、漸進主義的改良の時代が近づきつつあるのでしょうか。橋下市長引退も歓迎です。本人の自覚しているように、ああいう闘争型政治家は害悪です。

他方、今回の橋下氏の敗戦の弁は、初めて橋下氏の発言に感心しました。曰く「負けたと言うことは、まちがっていたということ」。同感です。

私は、間接民主主義政治も「社会的分業」の一種である考えています。社会的分業といえば、市場が代表ですが、どうも政治の世界では、そう考えない勢力が強い感が否定できません。その典型例が「前衛党」ですが、保守陣営でも「国家百年の計」と称して、「指導―被指導」の関係が前提であるようです。しかし、たとえば、社会的分業の世界・市場経済において、専門知識をもつ生産者が消費者に「指導」するでしょうか? また、商品が売れなかったとしたら、それは「商品が顧客に必要とされなかった」と考えるのが通常で、一般的な政治家敗戦の弁のように、「説明不足」とか「ネガティブキャンペーンのせい」にすることは、少なくとも建前・発言においては、少ないと思います。

その点、橋下氏は、自分の構想の間違いを認めました。会見中、「説明不足」を述べたシーンもありましたが、自民党や共産党だったら、まず言いそうもないことを発言したのには、感心しました。なかなか珍しい光景でした。橋下氏の文革路線は決して賛同できませんが、彼の感覚は生活者よりだったのかなと思います。少なくとも前衛党よりは。

もっとも、商売人はちょっとやそっと自信作が売れなかったとしても売れるまで改良する点、橋下氏は完全な商売人根性ではないようでした。

橋下氏は、政界引退を述べました。しかし、そもそも「2万%出馬しない」といいつつ知事選にでたかれの発言は信用できません。「政治家は必要なときだけ、不要なら使い捨てであるべき」という発言は、見方を変えれば、「続投待望論に応える」で政治生命延命もあり得そうです。現に、テレビ朝日系列「報道ステーション」は続投待望論を展開しました。

大阪都構想自体も画期的提案でしたが、その住民投票も画期的出来事だったと思います。

関連記事
チュチェ104(2015)年5月23日づけ『維新の党は21世紀の前衛党――生活と人間知性の限界に基づく大規模急進的改革批判』
http://rsmp.seesaa.net/article/419463384.html
posted by s19171107 at 23:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2015年05月02日

「世界一安全な日本の鉄道」に最近事故が多いのは「安全神話の油断」ではない

http://news.livedoor.com/article/detail/10073178/
>> 世界一安全な日本の鉄道になぜ最近事故が多いのか?
2015年5月2日 16時10分
ハーバービジネスオンライン

(前略)
◆なぜ最近事故が頻発しているのか?

 だが、同時に最近の鉄道業界の動きを見ると、一概に“安全は守られている”とは言えないのも事実。山手線の支柱倒壊で犠牲者が出なかったのはまさに偶然以外何物でもないし、昨年冬の大雪時に東急線で起きた衝突事故もラッシュ時ならば大惨事になっていただろう。原因究明は運輸安全委員会の調査・報告を待つ必要があるが、いずれの事故も技術面・システム面の問題よりもそれを運用する側に問題があったとする見方が濃厚だ。

「ハッキリ言えば、いくらシステムを追及しても人が正しくそれを運用しなければ事故は防げません。JR北海道の事故と不祥事の続発などを見ても、そのあたりの意識が希薄になっているのは間違いないでしょう」(前出のコンサルタント)

 こうした状況を鉄道事業者はどのように捉えているのだろうか。ある大手私鉄の関係者は「“安全神話”が油断を生んでいる」と話す。

「新幹線が事故を起こしていないことや東日本大震災で鉄道利用者に犠牲が出なかったことを受けて、“鉄道は絶対に安全な乗り物だ”という安全神話が生まれてしまった。確かに、安全性を高める技術開発は飛躍的に進歩していますし、海外の鉄道と比べれば事故の数も遥かに少ない。ですが、それでも鉄道は人が動かしているもの。いくら努力をしても100%事故ゼロを実現するのは難しいことです。ただ、“安全神話”のおかげで利用者も事業者も『事故は起こらないだろう』と無条件に思い込むようになっていると感じます。過去の事故事例などを踏まえた社員教育はしていますが、どこかで自分とは関係ないと思っているような印象もある。山手線の支柱倒壊で構造計算をしていなかったというのも、『これくらい大丈夫』という根拠のない油断が現場に蔓延していたからではないでしょうか」
<<
いくらシステムを追及しても人が正しくそれを運用しなければ事故は防げません」というくだりを読むと、手動制御・監視を推進しているように読める一方で、「ですが、それでも鉄道は人が動かしているもの。いくら努力をしても100%事故ゼロを実現するのは難しい」というくだりは、自動制御・監視を推進する言説に親和的です。どちらともとれる言説を取り上げた末に「『これくらい大丈夫』という根拠のない油断が現場に蔓延していたからではないでしょうか」・・・うーん。

根拠のない油断」も問題ですが、「それでも鉄道は人が動かしているもの。いくら努力をしても100%事故ゼロを実現するのは難しい」のであれば、「油断」がなく「根拠」があっても事故は起こるわけで、「油断」の有無を別とする包括的な対応が求められるでしょう。結局「現場の人間がケシカラン、ちゃんとやれ」と言っているにすぎません。しかし、「ちゃんとやれ」こそが問題の本質なのです。本質的に人間が「ちゃんと」なんて出来ないのです。

人間が直接制御にするにしても、機械が自動制御するにしても、根本的には人間に行き着きます。機械は人間が設計して製造するものです。ここで大切なのは、「いくら努力をしても100%事故ゼロを実現するのは難しい」を捉えなおすところにあるでしょう。「自動制御による安全担保」は、その自動制御装置を設計・製造するのがそもそも人間なのだから本質的な解決策とは言えず、また、人間ごときの知能・能力で認識できる「根拠」など、それほどのものではないという事実に基づく立場です。人間が無知・無力であるという認識、そしてその人間が創造する機械類に対する本質的限界性にたいする正しい認識。排すべきは「安全神話」ではなく「人間神話」「科学技術神話」に対する疑いの目です。

その上で、人間とその人間の創造物が、あまりに大きな仕事を一括して担わないようにすべきです。一つの集団ないしは一つのシステムが担う仕事の範囲を分割・限定し、その影響範囲を限定すべきです。一個体が何らかの障害を発生させたとしても、その担当範囲が限定的であれば、影響範囲も限定的になりますし、そもそも限定担当範囲であれば人間自身が想定・制御である可能性も高まるので、障害が発生するリスクも少なくなるはずです。人間の知能・能力では、漸進的・試行錯誤的な開発・対応しか出来ないのですから、それにあった階層的な構造にすべきです。

人間とその人間の創造物の限界に対する正しい認識に基づく、適切な仕事規模の選択。いわゆる計画経済の破綻は、結局は人間の知能と経済計画手法に対して一国経済の規模が大きすぎたことにあります。経済を優先させようとすれば計画経済原則を放棄せざるを得ませんし、計画経済原則を固守しようとすれば経済規模は限定されざるを得ません。この方法論は、歴史的事実にも裏打ちされていると思います。
posted by s19171107 at 23:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2015年05月01日

「私の努力」の実態は「主客の相互作用の賜物」――受験勉強は所詮「子どもの戦い」

ご無沙汰しております。久しぶりに。
http://news.nicovideo.jp/watch/nw1572864
>> 「学歴は努力の証明書」で福田萌が炎上 ネットは「安っぽい自慢」「親のおかげと気づけ」と批判
2015/5/1(金)16:29 キャリコネ


キャリコネ

タレントの福田萌さん(29)が、28日放送のバラエティ番組「解決!ナイナイアンサー」(日本テレビ系)で「高学歴の利点」について語り、ネットで炎上する事態となった。

福田さんは横浜国立大学経営学部卒。2012年にはお笑いコンビ、オリエンタルラジオの中田敦彦さん(32)と結婚した。中田さんも慶応義塾大学卒という経歴の持ち主で、芸能界では「高学歴夫婦」として知られている。
「親の用意した道を歩んできたのではない」と豪語
この日の放送のテーマは、まさに「学歴」。子どもに高学歴を希望する芸能人代表として出演した福田さんは「私達夫婦は、親の用意してきた道を歩んできたのではなく、学歴をつかみとってきたという誇りがある。努力の証明書として学歴がある」と発言。

さらに、夫の中田さんについて、「『学歴高いからいいな』って思った?」と聞かれると、こう答えた。


「芸人さんって色々不安定だけど、慶應に入るだけの努力をしてきたから、もし何か合った時も頑張る馬力があるはず」

学歴があることで、その人の能力やポテンシャルが保障される、という考えのようだ。

一方で、高学歴だと初対面でも「この人はこれくらいできるはず」と最初からプラス評価になるので、「人柄が伴っていなかったときのマイナスのダメージがすごく大きい」とも指摘。「学歴があるんだったらあるなりの人間力がないと太刀打ちできない。学歴プラス人間力が大事」と語った。

ある意味正論と思えるようなコメントだが、この一連の発言がスポーツ紙などで報じられ、ネット上で物議を醸すことになった。2ちゃんねるやツイッターでは、「学歴は努力の証明書」という部分に対する反論が相次いだ。
「コツコツ頑張ったものは評価されて然るべき」と擁護も
いい大学に入るには本人の努力だけでなく、親が教育熱心かどうかということも影響する。塾や予備校に通わせるとなると、親の経済力も無視できない。福田さんは「親の用意した道を歩んできたのではない」と語っていたが、


「いや親が用意してくれてるんですよ。この当たり前の事実に気付ける程度には成長して欲しいもんです」

という書き込みが寄せられていた。ほかにも「高学歴のみを努力の結果だと思うのは違うと思う」「努力せずにいい大学に入れる奴はどうなる」といった声が出る。

一方で、「裏口入学でもない限り、親の力だけで高学歴にはなれないよ」と、福田さんの考えに同意する人もいた。お金をかけて教育すれば、子どもが必ずしも東大や京大に合格できるわけではない、というのだ。

AO入試などは別にしても、ペーパーテストの結果のみで決まる大学受験は「万人に等しく与えられた一番無難で高確率に幸福を掴むチャンス」だとし、「それを若いうちから理解してコツコツ頑張ったものは評価されて然るべき」としている。
1歳の娘に「知育教室」など3つの習い事
福田さんの考え方が正しいか否かはさておき、やはりテレビで自慢気に語るのはいただけない、という声も多い。「高学歴の人が高学歴について語っちゃう行為が。野暮というか、人間性を安っぽく見せちゃうんだよね」というのだ。

ほかにも、将来の選択肢が広がる、という利点はあるものの、高学歴は「あくまで手段」だとし、「その手段を自慢している時点で痛すぎる」という声が出ていた。

ちなみに番組によると、子どもにも学歴を期待する福田さんは、1歳の娘に知育教室など早くも3つの習い事をさせている、ということだ。
<<
もともとの話題については、私は、たしか電車の中か何処かで呼んだのですが、いい歳して高校生みたいなこと言っているのに思わず噴出しそうになったものです。

当ブログでは旧ブログの時代より、「努力至上主義」者の視野の狭さを色々な角度から取り上げてまいりました。要するに、自分自身の努力も勿論尊く重要な位置を占めているものの、周囲環境や協力もまた大きな位置を占めており、実相は「主客の相互作用」であるにも関わらず、努力至上主義者たちは「本人の努力のみがその果実をもたらした」などという視野の狭い主張をドヤ顔で述べているわけです。

本件、あまりにも典型的過ぎます。もちろん、受験勉強は「自分との戦い」という要素が大きく、難関校合格者はその戦いの勝者です。自信を持ってよいと思います。しかし、受験勉強は「子どもの戦い」でもあります。そこには親のバックアップがあり、国家・社会の支えがあるものです。受験勉強もまた「主客の相互作用」の賜物です。

ちなみに私自身も受験勉強を成功裏に経験しましたが、ひとつの良い記憶になっています。同時に、当時からキムイルソン主席を仰ぎ、キムイルソン主席の教示に励まされて受験勉強していたので、自分の成功は自分だけの成功ではないとも思っています。

私の特殊な思い出話は別にして、こんなこと、社会の制度的仕組みを学んでいれば、まあ遅くとも大学2年生(2回生)くらいまでに気がつくものですが、意外と気がつかないもんなんですね。そして、「学歴」と「社会構造への理解」はリンクしないものなのですね。

また、「親のおかげと気づけ」という声が取り上げられているものの、より大きく「システムとしての国家・社会のおかげ」という指摘が取り上げられていないのは・・・個人的な努力至上主義には与さないものの、狭い家族主義で終わってしまい人も少なくない時代です。「システムとしての国家・社会のおかげ」という認識は、「成功者であればあるほど、その利益を私的に独占することなく、報国的に活用すべき」という、一種の社会貢献・高額納税の論拠になるものです。編集者があえて触れていないのか、そうした意識を編集者が持っていないので漏れているのか、それともそもそも世論として存在していないのか・・・
posted by s19171107 at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする