2015年06月24日

「修行中の若手労働者」の労働環境を守るのは「よい師匠探し」。つまり「辞める」こと。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150603-00000005-bloom_st-bus_all
>>>ゴールドマン辞めれなかった若手バンカーの死−働き詰めの末
Bloomberg 6月3日(水)2時41分配信


(中略)

「ゴールドマンで1年間を勤め上げ、職業人としての生活について何かを学んでから決めることを私が望んだ」と父親は述懐している。「私から強制され息子は復職した」という。<<<
前回の記事で、いわゆる「ブラックバイト」に対して学生が「階級闘争」しない理由を手前勝手な理由づけで説明し、闘争のススメをカマす労組関係者の妄言を取り上げました。なんでも、従順になるように学校教育で飼いならされているそうです。学生の場合は、総じて「個別資本に対して階級闘争して権利を勝ち取るよりも、別の個別資本に移ったほうが早い」場合が多く、そのため「闘争」が盛り上がらないのではないかというのが私の見立てです。「イヤだから辞める」路線の最たるものです。

私は、個別資本家に対する個別労働者が持つカードは、「イヤだから辞める」「階級闘争・要求実現」「マクロ的一律的規制」の3つがあると考えています。もちろん私は以前から繰り返し述べてきたように、いずれも大切な切り札だとは思いますが、その中でも特に「イヤだから辞める」路線を主軸に据えています。上記、3つの方法論が手持ちカードであると認識した上で、今回の記事について考えて見ましょう。

さて、今回の記事の主人公は、若手労働者です。若手労働者の個別資本家への依存度は学生とは比にならないほど高いものです。特に引用部分のような意識を持っている(この記事の場合、そう要求したのは父親ですが、本人も受け入れた点、「本人も最終的に持っていた」とします)場合、何が何でも今の仕事にしがみつこうとする点、「イヤだから辞める」路線とは最も遠くに位置する人々だと言えるでしょう。

こうした人々の存在、つまり「イヤだから辞める」でもなく「階級闘争」をするわけでもなく、ただただ将来のキャリアのために耐えに耐える若者の存在について、「やはりマクロ的規制で一律に保護すべきだ」という意見も出てくるでしょう。もちろん私だって、マクロ的・一律的規制を一概に否定するつもりはありません。最低限はやはりあるべきだとは思います。しかし、それでもやはり私は、「イヤだから辞める」路線の威力は強調しても強調しすぎることはないと思っています。それどころか、やはり依然としてミクロレベルでの対応が主軸になると思っています。あくまでマクロ的・一律的規制は、そうした「イヤだから辞める」路線のミクロ的ダイナミズムを限定的に補完する役割しか果たしえないと考えています。

労働問題の本質は自主権の問題です。自主性はその人それぞれによって異なりますので、当然、その保障と実現はその人それぞれによって異なる形態を持ちます。一方、マクロ的規制はその一律的な性質からキメ細かさに欠くので、あくまで最低限を保障するに留まります

また、いくら立派なマクロ的規制があったとしても、その規制が活用される場面はあくまでミクロのフィールドです。ミクロレベルでの対応があって初めてマクロレベルの仕組みは役割を果たします。警察を呼ばなければ目の前の泥棒は捕まらないのと同じで、「住民の防犯協力」の如きミクロ的対応が不可欠です。

その点、今回のような「修行中の若手労働者」のケースでは、マクロ的な規制が十分に活用される可能性は、意外と小さいことがわかるのではないでしょうか。将来のキャリアのためにただただ耐え続けているわけですから、闘争なんて当然するわけがありませんし、マクロ的規制を援用しようとも思わないでしょう。周囲の「篤志家」が良かれと思って法律を活用することはあるかもしれませんが、本人がそれを望んでいない以上は、「取締り」は順調にはいかないでしょう。

さてどうするべきでしょうか。私は、「将来のキャリアのためにただただ耐え続けている」こうした人々であるからこそ、「良い師匠を選びましょう」という意味で、やはり「イヤだから辞める」路線を推奨します。だいたい「ブラック」といわれる組織体は、「経営センスが無い」か「焼畑的経営」モデルかのどちらかです。そんな組織体に何を学ぶというのでしょうか?

チュチェ103年(2014)年8月31日づけ「ユニオンが転職支援する大きな意味――「鉄の団結」は必要ない」でも述べたように、個別労働者は、自分の心の奥底から湧き出るであろう自主的で創造的な要求、主体的な要求に従い、ゆるく連携をとった周囲からの支援を受けつつ、悪い環境で働かせる個別資本家を捨てて良い環境を提供する個別資本家を選択してゆけばよいのです。そうした個別個別の自主的なベクトルが、階級レベルのベクトル合成を形成したとき、世の中は大きく変わるでしょう。よい師匠を見つけましょうよ。そして、よい師匠が見つかるように支援していくべきです。立法や闘争も大切ですが、これが一番大切です。
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2015年06月15日

「自主権の問題としての労働問題」と「法的解決」の相性

チュチェ104(2015)年6月17日23時42分に一部加筆・修正しました。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150614-00870935-sspa-soci
「ブラックバイト」で学生生活が破綻。それでも抵抗しない学生たち
引用はしません。要は、関西学生アルバイトユニオンやブラックバイト対策ユニオンでご活動中の弁護士センセイと労組関係者の「法廷闘争のススメ」です。

あの「すき家」が深夜営業を大規模に中止するに至った決定打は、決して労組・法曹系が推す「闘争」ではなく、彼らが否定的に評価を下していたひとりひとりの「イヤだからやめる」だったのは最早明白であることは、チュチェ103年10月6日づけ「最後の決定的な部分は下から積み上げてゆくこと」でも取り上げた通りですが、まだ観念論を展開しているのでしょうか?

また、「泣き寝入りするな!」と檄を飛ばしますが、そもそも何故、学生は声を上げないのでしょうか? 「権利教育が足りないからだ」といった、これもまた勝手な想像が展開されていますが、チュチェ103年8月3日づけ「「ブラックバイトユニオン」は逆効果――やればやるほど資本家への依存を高める」でも触れたように、「いちいち時間を掛けて闘争するほどでもない」という要素はあるでしょう。皆が皆、闘争でシロクロつけようだなんて思わないんですよ。「理を通せば必ず勝てます」とはいうものの、そこまでする必要性がなかったり、あるいは単純に面倒くさいという事情が捨象されています。

そして何よりも、「法的解決」にばかり頼っている点は、極めて問題のある姿勢です。チュチェ104年6月5日づけ「派遣労働問題の本質は自己決定権行使・自主権行使の問題」でも述べましたが、労働問題はすなわち自主権の問題です。個人個人の抱える事情は千差万別ですから、「ある種の社会的基準」にもとづく法的解決には限界があります。たとえば、その「社会的基準」によっては保護され得ない個別事情を持った個人は依って立つ所がありません。世間一般の基準では「ブラック企業」に当たらないとしても、個人的な如何ともし難い事情で困難を抱えてしまうことは十分にあり得る話ですが、法的保護は期待できません。

「ぼくの かんがえた りそうの ろうどうかんきょう」に満足するに留まる(=自分の脳内麻薬分泌、救済者としての自己陶酔が真の目的)ことなく、真にひとりひとりの自主権の尊重を目指す立場に立つとすれば、当人が自分自身の都合にあわせて離合自在に活動できることが一つの目的地となります。根本的な解決はより大きなマクロレベルでの対応になったとしても、まずは「その場から完全に離れる」「退路を確保する」というミクロレベルでの対応が不可欠の第一歩です。それどころか、前掲過去ログでも取り上げた「すき屋」の例が正に如実に語っているように、そうしたミクロ的な動きが、あたかもベクトルの合成のようにマクロ的に増幅され、根本的な解決に資することだってあるのです。

こうした視点は、はたして「法律」を持ち出す人たちにはあるでしょうか? 観念論全開な所をみるに、あまり期待できそうにありません。これでは解決するものも解決しません。
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2015年06月11日

良かれと思って

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150609-00000041-jij_afp-int
仏スーパー食品廃棄禁止法、署名運動は次に欧州へ
フランスで、スーパーマーケット等で余った食品の廃棄を禁じ、慈善団体に寄付せよという法案が成立したという話です。

いやあ、実にフランス人が考えそうな話です。要するに、「哀れな連中にゴミになる余りを恵んでやろう、どうだ、ありがたいだろう。きっと感謝するに違いない。」ということです。結局、困窮者「下」に見て、「上」にいる自分達が畏こくも恩恵をくれてやっている構図です。さすが、「啓蒙」の国。「自由・平等・博愛」と「ヒエラルキー」を思想において無意識に併存させる思考回路、他国に真似できない名人芸です。

障害者福祉に始まり今や福祉全般の指導思想の地位に昇り詰めつつある「ノーマライゼーション」は、対象者が「普通の人たち」と同じように生活できるように努め、結果、「過保護」にも反対する境地に至りましたが、爪の垢を煎じて飲んだ方が良いんじゃないでしょうかね。

良かれと思っているんでしょうが、ゴミを食わせて善行している気になって居ないで、そもそもゴミを恵んで貰わなくても良いように、困窮者が自立できるようにした方が良いんじゃないでしょうかね。
ラベル:福祉国家論
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2015年06月05日

派遣労働問題の本質は自己決定権行使・自主権行使の問題

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150603-00000003-jct-soci&p=1
>> 「正社員を望む」派遣をブチ切れさせた 東京新聞・長谷川氏コラムが話題

東京新聞・中日新聞論説副主幹の長谷川幸洋氏が派遣社員について書いたコラムが物議をかもしている。「みんな正社員を望んでいるはず」というイメージについて、総務省の調査をもとに、「実はそうでもない」と否定しているものだ。

 これに対し、法政大の教授が、数値の見方に間違いがあるとして「端的に誤り」と真っ向から反論。「正社員を望んでいる派遣」とみられる人からも、ネット上で反発の声が上がっている。


(略)
 上西氏は

  「非正規労働者の中でも派遣労働者の場合、他の非正規と比べて、正社員の仕事に就けなかったから、という理由の割合が高いのは、様々な調査結果からわかっていること」

とも指摘し、複数の調査結果を例示した。


(略)

 コラムに対し、ツイッターでは「1度自分が派遣社員になってみるがいい」などと、長谷川氏コラムへの反発が広がる。また、長谷川氏が首相の諮問機関「規制改革会議」の委員であることから、今国会で審議される労働者派遣法の改正案について、「安倍政権の側」「バックアップする論説」といった見方をする人まで出ている。長谷川氏は6月3日17時現在、反論などにツイッターで言及していない。 <<
統計の読み間違いは事実でしょう。政府関係者でもあるのだから、統計数値には敏感であるべきでした。

しかしそれと同時に、多様な働き方がどうのこうの言っているのであれば、2割だろうが4割だろうが、積極的で自主的選択の結果としてではなく消極的な選択の結果、派遣労働に従事している人が相当数に上っていることに問題意識を持つべきでしょう。

同様のことは、「派遣労働者側」を自称する人たちにも言えます。むしろ、こちらの方が肝に銘じるべきかもしれません。この手合いは、往々にしてマクロ的で一律・包括的な解決案を求めます。「1度自分が派遣社員になってみるがいい」などという言説は、「お前を含めた皆、派遣労働は嫌だというに決まっている! 百害あって一利なし!!」が行間に透けており、マクロ的で一律・包括的な解決案を求める強烈な動機と、それを当然と考える「観念上の類型化された被害者」を前提とした思考回路が見てとれます。

もちろん、現に苦しんでいる一人ひとりの派遣労働者のミクロ的対応の限界を痛感している以上は、賛同はできませんが当然の成り行きとも言えます。しかし、「派遣労働は強いられたモノ」論の核心は、積極的で自主的な選択が出来ていない点、つまり自己決定権・自主権の問題です。派遣労働者は「観念上の類型化された人間」ではなく「生身の個別的事情を持った人間」です

それゆえ、真に求められるのは、現に苦しんでいる一人ひとりの派遣労働者のミクロ的対応の限界を乗り越えるための「テコ入れ」です。あくまでもミクロレベルでの自己決定権行使を実現させるための個別事情に合わせた支援と環境整備であり、何か画一的な方法で無制限に開放するのでもなく、一律禁止するものでもありません。すべての人がまったく同じ思考回路をしているのであれば一律な対応もアリでしょうが、2割だか4割だかはさておき、少なくとも100%が積極的で自主的に派遣労働の道を選択したわけでないのであれば、自己決定権行使の問題として個別事情に合わせた対応を行うべきです。

これからの派遣労働者の労働環境に関する問題への対応は、自己決定権行使・自主権行使の問題として捉えるべきです。そして、推進派が言う「多様な働き方」を自己決定権行使・自主権行使の側面から定義しなおして乗っ取り、「多様な働き方を実現させるためにこその個別的事情に寄り添った支援・環境整備」という切り口から社会政策を展開してゆくべきでしょう。
posted by 管理者 at 22:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2015年06月04日

「唯物論」の人間的限界

http://bylines.news.yahoo.co.jp/inoueshin/20150417-00044916/
マクドナルドの時給1,500円で日本は滅ぶ? すでに30年実施してるオーストラリアは滅んでませんが?

筆者は国公労連の執行委員で、共産党雑誌の編集者でもあった人物です。要するに、共産党系です。

記事の内容は、オーストラリアの状況を取り上げて時給1500円運動を喧伝する内容です。
コメント欄にもありますが、そもそも社会構造の違う日本とオーストラリアについて、単純に時給金額だけを比較して何か意味があるのでしょうか?

共産党はマルクス・レーニン主義を未だに有り難がっている党ですから、「唯物論」を信奉しており、故に「事実」を重んじるとしています。しかし、実態においてはこのように、構造的差異を捨象して都合の良い事実だけをピックアップします。「事実の悪用」と言っても過言ではありません。

もっとも、本人たちはその自覚はないのでしょう。彼らはあくまでも「唯物論」にもとづき「科学的に」事実を分析しているつもりです。しかし、そもそも人間の認識能力が「唯物論」を徹底できるのでしょうか? 人間の科学が世界を完全に客観的に把握できるのでしょうか?

本当の意味で「唯物論」を徹底するのであれば、むしろ「科学」を捨てる場合もあるでしょう。人間ごときでは認識できない構造があるものです。それは、たとえばカオス理論ひとつ取っても分かるでしょう。

ちなみに個人的経験ですが、マルクスの『フォイエルバッハ論』の粗野で短絡的な19世紀レベルの「唯物論」を21世紀になっても有り難がっている(いまだにルイセンコ説を信じている疑惑)馬鹿な共産党員に、「唯物論の立場に立てばこそ、カオス理論の見地から、この世には『科学』で認識できないことが多く、この世は「不可知論」的であることが分かるだろう」と述べたところ、本当にビックリした顔をしていtのが何年たっても忘れられません。『フォイエルバッハ論』では、不可知論は無知蒙昧な宗教に通ずる思想で、科学によって克服されると考えられていますからね。
ラベル:「科学」 左翼
posted by 管理者 at 20:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記じゃない雑記 | 更新情報をチェックする