>>>ゴールドマン辞めれなかった若手バンカーの死−働き詰めの末前回の記事で、いわゆる「ブラックバイト」に対して学生が「階級闘争」しない理由を手前勝手な理由づけで説明し、闘争のススメをカマす労組関係者の妄言を取り上げました。なんでも、従順になるように学校教育で飼いならされているそうです。学生の場合は、総じて「個別資本に対して階級闘争して権利を勝ち取るよりも、別の個別資本に移ったほうが早い」場合が多く、そのため「闘争」が盛り上がらないのではないかというのが私の見立てです。「イヤだから辞める」路線の最たるものです。
Bloomberg 6月3日(水)2時41分配信
(中略)
「ゴールドマンで1年間を勤め上げ、職業人としての生活について何かを学んでから決めることを私が望んだ」と父親は述懐している。「私から強制され息子は復職した」という。<<<
私は、個別資本家に対する個別労働者が持つカードは、「イヤだから辞める」「階級闘争・要求実現」「マクロ的一律的規制」の3つがあると考えています。もちろん私は以前から繰り返し述べてきたように、いずれも大切な切り札だとは思いますが、その中でも特に「イヤだから辞める」路線を主軸に据えています。上記、3つの方法論が手持ちカードであると認識した上で、今回の記事について考えて見ましょう。
さて、今回の記事の主人公は、若手労働者です。若手労働者の個別資本家への依存度は学生とは比にならないほど高いものです。特に引用部分のような意識を持っている(この記事の場合、そう要求したのは父親ですが、本人も受け入れた点、「本人も最終的に持っていた」とします)場合、何が何でも今の仕事にしがみつこうとする点、「イヤだから辞める」路線とは最も遠くに位置する人々だと言えるでしょう。
こうした人々の存在、つまり「イヤだから辞める」でもなく「階級闘争」をするわけでもなく、ただただ将来のキャリアのために耐えに耐える若者の存在について、「やはりマクロ的規制で一律に保護すべきだ」という意見も出てくるでしょう。もちろん私だって、マクロ的・一律的規制を一概に否定するつもりはありません。最低限はやはりあるべきだとは思います。しかし、それでもやはり私は、「イヤだから辞める」路線の威力は強調しても強調しすぎることはないと思っています。それどころか、やはり依然としてミクロレベルでの対応が主軸になると思っています。あくまでマクロ的・一律的規制は、そうした「イヤだから辞める」路線のミクロ的ダイナミズムを限定的に補完する役割しか果たしえないと考えています。
労働問題の本質は自主権の問題です。自主性はその人それぞれによって異なりますので、当然、その保障と実現はその人それぞれによって異なる形態を持ちます。一方、マクロ的規制はその一律的な性質からキメ細かさに欠くので、あくまで最低限を保障するに留まります。
また、いくら立派なマクロ的規制があったとしても、その規制が活用される場面はあくまでミクロのフィールドです。ミクロレベルでの対応があって初めてマクロレベルの仕組みは役割を果たします。警察を呼ばなければ目の前の泥棒は捕まらないのと同じで、「住民の防犯協力」の如きミクロ的対応が不可欠です。
その点、今回のような「修行中の若手労働者」のケースでは、マクロ的な規制が十分に活用される可能性は、意外と小さいことがわかるのではないでしょうか。将来のキャリアのためにただただ耐え続けているわけですから、闘争なんて当然するわけがありませんし、マクロ的規制を援用しようとも思わないでしょう。周囲の「篤志家」が良かれと思って法律を活用することはあるかもしれませんが、本人がそれを望んでいない以上は、「取締り」は順調にはいかないでしょう。
さてどうするべきでしょうか。私は、「将来のキャリアのためにただただ耐え続けている」こうした人々であるからこそ、「良い師匠を選びましょう」という意味で、やはり「イヤだから辞める」路線を推奨します。だいたい「ブラック」といわれる組織体は、「経営センスが無い」か「焼畑的経営」モデルかのどちらかです。そんな組織体に何を学ぶというのでしょうか?
チュチェ103年(2014)年8月31日づけ「ユニオンが転職支援する大きな意味――「鉄の団結」は必要ない」でも述べたように、個別労働者は、自分の心の奥底から湧き出るであろう自主的で創造的な要求、主体的な要求に従い、ゆるく連携をとった周囲からの支援を受けつつ、悪い環境で働かせる個別資本家を捨てて良い環境を提供する個別資本家を選択してゆけばよいのです。そうした個別個別の自主的なベクトルが、階級レベルのベクトル合成を形成したとき、世の中は大きく変わるでしょう。よい師匠を見つけましょうよ。そして、よい師匠が見つかるように支援していくべきです。立法や闘争も大切ですが、これが一番大切です。