2015年08月31日

安保法制反対大規模デモ;「日本人は釣られた」

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150830-00000023-mai-soci&pos=2
>> <安保法案抗議集会>国会議事堂取り囲み「戦争法案反対!」

毎日新聞 8月30日(日)15時52分配信

 参院で審議中の安全保障関連法案に反対する市民らの大規模な抗議集会が30日、東京・永田町の国会議事堂周辺であった。学生や子連れの親、戦争を知る高齢者など、世代や立場を超え危機感を持つ人々が正午過ぎから国会を取り囲み、「戦争法案反対」を訴えた。

 市民団体「戦争をさせない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」の主催する「国会10万人・全国100万人大行動」の一環。同団体の呼び掛けで29、30の両日、抗議の集会やデモが全国47都道府県の計300カ所以上で開かれた。同法案を巡る抗議集会としては過去最大規模とみられる。【樋岡徹也】
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毎日新聞は人数を報じていませんが、主催者発表の12万人だろうが、警察発表の3万人だろうが、少なくとも「普段よりは多い」と言うことはできるでしょう。「日本人は立ち上がった」というのも、あながち間違いではありません。しかし、私は「日本人は釣られた」と言うべきだと見ています。

安保法制については、私は当ブログでは一切触れてきませんでした。ヘイトスピーチまがいの安倍首相に対する罵倒など日に日にヤバい思考回路が明々白々になっており、ウォッチャー的には一言も二言も言いたくなる事態が展開されています。また、個人的な左翼経験談も交えて色々語りたい事態であります。国防が「国家・国民全体に関わる重要な問題」であり、喫緊の問題であるということも重々承知しております。しかし、福祉や労働といった「生身の人間の今日・明日の生活に関わる国内問題」についての主張の執筆を優先させたかったのです。

安保法制反対の主要な主張として「アメリカとともに海外で戦争をする国になる」や「徴兵制につながる」といったものがありますが、現実を見据えれば、少なくとも半年や一年では「戦争国家化」は間に合いません。戦争を遂行するためには「銃後の守り」が必要ですが、まったく戦時向けの社会体制ではありません。また、「後方かく乱」への備えにいたっては、もう惨憺たる状態です。

一方、福祉や労働といった「生身の人間の今日・明日の生活に関わる問題」は、待ったなしの問題です。安保法案反対の大規模デモも決して悪いわけではありませんが、福祉・労働問題といった重要な国内問題をまったくスルーしてしまって良いのだろうかと思うのであります。

安保法制の陰で着々と進んでいる派遣法改定は、連合動員の国会デモに780人が集まったそうです(http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/news/CK2015082902000126.html)。12万人vs780人。あまりに温度差が激しいですね。

安保法制の陰で川内原発は早速、海水漏出トラブルを起こしているようです(http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/news/CK2015082702000239.html)。再稼動ありきで急いだ結果、「機器が劣化している恐れも」。おいおい。

「外国の脅威」や「国防問題」が国内の社会矛盾から目を背けさせる道具として使われてきたのは、古今東西、枚挙に暇がありません。まんまと釣られてしまった構図に見えます。

安倍政権としては、今後、何か国民の視線を逸らしたい不都合な事態が起こった場合には、安保ネタを使っていけばよいのではないでしょうか。たとえば「徴兵制」。いまの時代、素人集団の召集兵など自衛隊の方がお断りですが、どうも本気で徴兵制がしかれると思っている人も少なくないようです。

「ちょっと匂わせる」、それだけでまた大規模な抗議活動が展開され、その裏で色々とコッソリ進めることができるでしょう。徴兵制なんて施行しないほうが国防のためですから、テキトウなタイミングで撤回すればよい。たぶん、白紙撤回を表明すればしばらくお祭り騒ぎでしょうから、ちょうどいいガス抜きにもなるでしょう。
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2015年08月15日

安保法制における「法的安定性」と光市事件

安保法制を巡る「法的安定性」の問題は、メディアが大きく取り上げた関係で、件の発言を問題視する「世論」が盛り上がりました。当然のことです。

しかし、数年前に遡れば、「世論」こそが法的安定性を否定する大きなうねりを持っていたことが思い起こされます。光市事件でした。

光市事件の差し戻し控訴審が世論を沸騰させていた頃、判例を踏襲による死刑回避を批判する「世論」は、「判例が何だ! 時代の感覚が大切なんじゃないか!」と血気盛んに吠えていたものです。論ずるまでも無く、判例の踏襲は法的安定性の第一歩です。法令解釈の統一だけが法的安定性ではありません。この「時代の感覚」なる言説は、そのまま裁判員制度にも通ずるものがあります。

「時代の感覚」――安倍内閣が言う「安保環境の変化」と何が違うと言うのでしょうか。いや、安倍内閣の主張の方が、まだ客観的根拠に基づいていますが、光市事件の世論は、完全に感覚・感情のシロモノでした。

私のような漸進主義者にとっては、安倍内閣の主張も光市事件における世論の主張も、いずれも急進的な主張であり、同じ穴の狢であり、同意しかねるものです。果たして「世論」は、数年前の光市事件での革命的要求と、安倍内閣による法解釈の急転回をどう整合的に認識しているのでしょうか?
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2015年08月11日

機械との競争における自主的人間の立ち位置

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150809-00907607-sspa-soci
クリエイティブな仕事は人工知能に奪われる!? 2045年問題の行方

中略

◆クリエイティブな仕事が人工知能に奪われる!?

――人工知能には、期待と脅威という相反する感情が高まっています。ターミネーターのような人工知能搭載ロボットと人類が対峙することはありえるのでしょうか?

栗原:今の人工知能には自我がありません。「生きたい」とか「種を残したい」という生物の根源的な目的ですね。もし人の脳全体の仕組みが解明されれば、人工知能にもそうした自我を持たせられるのかも。そうなると、ターミネーターやチャッピーのような話が現実味を帯びてくる。

清水:確かにホーキング博士やビル・ゲイツが危惧するのもわからなくはない。でも、自我が搭載されないなら、いくら人工知能が進化しても、人が負けるわけがない。

栗原:あと忘れてはいけないのが、数十年かけて進化するのは人工知能だけじゃなく、人も同じ。人工知能が進化したとしても、きっと上手に適応できるはずです。

――ではシンギュラリティは、人類にとって脅威ではない?

清水:影響があるといっても、これまでの技術進化がもたらしたものと一緒。貧富の差が広がって、モテる奴はよりモテるし……。身近な脅威といえば、本や雑誌を書いたり作ったり、僕らのように“芸”を生業にしているような職業が減っていくってことかな。

栗原:クリエイティブな仕事からなくなっていくってことですか?

清水:そうだと思います。人工知能は“ツボ”を押さえて最適化するのに適している。

栗原:面白い考えですね。一般的には、定型的な仕事をしている人は駆逐されて、クリエイティブな仕事をしている人は残ると言われていますが、逆なんですね。

清水:真逆だと思います。ディープラーニングによって人工知能が学習しやすいのは、本質ではなくて“ツボ”なんです。例えば女の口説き方とか映画での感動のさせ方とか、ブログでのアフィリエイトのクリックのさせ方とか。“ツボ”を恐ろしいほどの勢いで最適化できるようになるんですよ。だから中途半端なクリエイターっていうのは、秒速でいなくなる。

栗原:ある程度、抽象度が高いところでの判断には適しているっていう考えですね。

清水:そう思います。だから具体的な文章を書かせるのはまだ難しいけど、映像とか漫画なら、早い段階で人工知能が活躍する可能性が高い。だから、そうなる前に人工知能を使いこなせる側に回れ、ということです。
「自我」に触れているのが興味深いですね。機械との競争論です。

機械の驚異的な処理能力に対する懸念は古今東西のものですが、この議論には「人間と機械の質的差異」が見逃されています。結論から言えば、機械はあくまでも「道具」「手段」の一種でしかなく、それ自体が「目的」とはなりえません。私が信奉するチュチェ哲学の観点に立って考えると、機械を含めた人間の創造的行動は、人間の自主的要求を、その発揚の要因としています。換言すれば、「目的なき手段は空虚」なのです

自主的要求は、ただ人間だけが持っているものです。そうである限り、いくつかの種類の職業は機械に取って替わられるかも知れませんが、人間が機械の主人であり続けるでしょう。

所謂「ビッグデータ」を筆頭とする統計的分析能力の驚異的な進歩も注目すべきではあります。しかしこれも、あくまで分析ツールの域を出ず、それ自体は目的ではありません。統計分析ソフト自体は分析することに利益を見いだしません。統計的にヒット商品だと算出しても、統計分析ソフトには利益はありません。そもそも、統計分析ソフトに利潤追求という目的は内生的にはなく、人間が外部注入的にプログラミングして初めてそう分析するようになります。

また、優秀な分析ツールではありますが、個々の自主的人間のミクロ的なベクトルの合成の結果をマクロ的に集計した結果であり、生身の個々の生活者が考えている事柄そのものではありません。もちろん、人間が機械に与える「目的」は、個々の自主的人間のミクロ的なベクトルです。その意味で、真の目的に合った分析をしているとも正確には言いがたいでしょう。

さらに言えば、分析ツールが示すマクロレベルでの分析結果は、先にも述べた通り「個々のベクトルの合成」ですが、それは極めて複雑に絡み合った結果であり、(本来的な意味で)カオス的なシステムにおける大雑把な分析であると言えます。統計的処理のように、過去の人間思考・世界構造が今日も続いているという前提に立ち、過去のデータを基に将来を予測する手法では、こうした複雑に絡み合ったカオス的な構造を分析する、ましてや将来予想をするのには原理的な困難があるでしょう。

歴史の主体である個々の人間が繰り広げる自主的・創造的・意識的活動が生み出すベクトル、それが複雑に
絡み合ったカオス的なシステムである現実世界を、機械が得意とする統計的な方法で探ることには、ある程度の限界があると見るべきです。可能なのは、個々の人間が設定する目的に合わせて、道具としての分析ツールを人間が主人としての立場から操ることによって、カオス的なシステムである現実世界の短期的な展望を予測することだけです。

機械との競争の激化は、「機械との役割分担を進める」と見るべきです。人間は、機械に対して「目的」を与える役割を担って行くことになるでしょう。分かりやすくシステム業界にたとえれば、PGではなくSE、BEにならねばならないでしょう。
ラベル:チュチェ思想
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2015年08月08日

労働問題の分析における財市場・対消費者関係分析の必須性

「働きすぎは心も体も壊す」 月227時間の残業で「過労自殺」した青年の母親が訴え
弁護士ドットコム 8月5日(水)18時52分配信


中略

●なぜ「長時間労働」がまかり通っているのか?

「全国過労死を考える家族の会」の顧問をつとめる玉木弁護士は「なぜ長時間労働をすることになるのか?」と問いかけ、残業代を支払わない事業所が、過労死を生み出していると指摘した。

「残業手当が支払われている事業所であれば、経営者はコストを減らすために、長時間労働を減らそう、そのためには仕事を減らそうという考えにつながるでしょう。ところが日本では、長時間労働をいくらしても、残業代が支払われないことも多く、コストに跳ね返りません。そのため、経営者が長時間労働を減らそうという発想がないんです。

いくら仕事をさせてもいいんだということで、どんどん仕事が与えられる。そうすると、責任感のある労働者の方は長時間労働をし、過労死につながっていきます」

玉木弁護士は「まずは、会社にきちんと法律を守らせる、こういうところから過労死を防止させていきたい」と話していた。

弁護士ドットコムニュース編集部
弁護士らしい、「歯切れの良い論理的」かつ、「狭い範囲のデータを帰納し、そこから演繹的にモノをいっている」ことがよく分かる説明です。

もちろん、私は玉木弁護士の説明を全否定する訳ではありません。ただ、「まずは」とはいうものの、あたかもそれが特効薬であるかと言わんばかりの論理構成に著しい懸念をもつのであります。

経済学のモデルによると、利潤極大化の条件は、「労働の限界生産力の価値=賃金率」です。分かりやすく言えば、労働時間を追加で1時間延長させることによる収益と追加で1時間残業させるコストがトントンになるとき、これ以上働かせても利益が上がらないとき、終業させることが利潤を極大化させるのです。

教科書に載っている経済学のモデルどおりに考察すれば、残業代を払わなくて済むのならば、どんどん労働時間を延長させられるように見えるでしょう。しかし、過労はなによりもまず製品の質に表れます(ちなみに経済学のモデルでは商品の質は捨象されがちです)。お粗末なミスに始まり、信じられないようなミスがつづくものです。つまり、長時間労働が原因で粗悪品が生産されることによって「収益」どころか「損失」が生じるのです。

経済学の教科書にでてくる労働需要のグラフは大抵、限界生産力の曲線を限界生産力逓減の法則に従って書き、横軸に対して平行になった辺りで描画をやめます(無理関数のグラフのように見える)。しかし、正確には、過労ラインを超えると逓減的増加から加速度的減少になる、つまり負の二次関数グラフのような形状になっていると言うべきなのです。

商品経済における生産行為は、他人のための使用価値の生産であり、財市場での交換を目的としています。よって、労働市場・労働環境は、財市場の事情に強く制約されます。過労状態での粗悪な生産物の市場価値は当然低いと言うべきです。いくら残業代未払いでも、売れない粗悪品では収益にはなりません。つまり、「長時間労働の歯止め」は、「残業代」というコスト面だけではなく、「商品の質」という収益面があるのです。

引用元記事の構成では、こうした部分には触れられていません。労働問題を労働市場・労使関係でしか分析しておらず、財市場・対消費者関係を捨象しています。そのような分析に基づく提言は危険です。労働問題を労使関係でしか見ないと、炭労(階級闘争しているうちに業界が消滅)や国労(乗客ブチギレ大暴動)のような失敗をおかすことに繋がるでしょう。

私は、「経済はシステムである」と言うべきと考えています。システムとは、複数の要素が相互作用しながら全体として機能を果たしている集合体のことですが、システム解析は、そのシステムが全体としてどう機能しているのかを解明することです。システムとしての商品経済における生産行為は、他人のための使用価値の生産であり、財市場での交換を目的としているという認識が何よりも重要です(なお、システムは要素の単純な集合体ではないので、要素還元主義的に考察すべきではないとも申し添えておきます)。
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2015年08月02日

70年後の「敗戦」(ただしサッカー)の報道

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150802-00000164-nksports-socc
>> 北朝鮮監督「団結心、闘争心で上回った」笑顔の会見
日刊スポーツ 8月2日(日)22時52分配信

北朝鮮監督「団結心、闘争心で上回った」笑顔の会見

<東アジア杯:日本1−2北朝鮮>◇2日◇中国・武漢

 前回王者の日本が、初戦で逆転負けを喫した。開始3分で代表デビューのFW武藤雄樹(浦和)が先制弾を決めながら、後半に2失点した。

 北朝鮮のキム・チャンボク監督は試合後、「(背番20の長身FWパク・ヒョンイルを投入したのは)日本はそれほど空中戦に強くないと思ったので。この大会のためにフィジカルのトレーニングを積んできたが、そのアドバンテージよりも団結心、闘争心で上回った」と笑顔で胸を張った。

最終更新:8月2日(日)22時59分
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試合前のニュース番組で、誰だか忘れましたが日本選手が「個のパワーで圧倒するぜ(ドヤァ」と言ったような発言をしていました。

「『隊伍は千万、心臓は一つ!』の国を相手にサッカーをするとき、そういう『個人本位』丸出しにすると負けるぞー」と思っていましたが、案の定・・・それも、日本はかなり酷い負け方。共和国の大勝利でした。

フジテレビ系「Mr.サンデー」が、敗戦を一言伝えただけで、なぜか中国の国家的サッカー養成プロジェクトの特集を始める・・・正直、日本のサッカー技量は、公平に見ても「○○ジャパン」などと騒いでいるほどのモノではないのだから、「あの北朝鮮」(←標準的日本語ママ)に負けた(普段、あらゆる角度から共和国を見下しているだけに相当心理的に悔しいのでは?)のだから、もう少し現実に向き合った方がいいんじゃないかと思います。

思い起こせば、日本が他国にサッカーで敗戦したとき、あまり詳しく報じませんが、こと共和国相手だとそれも更に顕著になるように思います。大本営発表のような嘘を言わない分まともですが、70年前からあまり変化ありませんねぇ・・・
ラベル:社会
posted by 管理者 at 23:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする