2015年10月30日

大卒新卒者の約3分の1が3年以内に離職している事実を「ブラック企業が市場原理を通して淘汰される」吉兆とすべし

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151030-00000118-jij-bus_all
>> 32%が3年以内に離職=12年春の大卒者―厚労省
時事通信 10月30日(金)17時1分配信

 厚生労働省は30日、2012年3月に大学を卒業した就労者の離職状況調査を公表した。新卒から3年以内に就職先を辞めた人の割合(離職率)は32.3%だった。前年調査から0.1ポイント低下したが、3年連続で30%を超えた。
 3年以内の離職率は、リーマン・ショック後の09年に30%を下回ったが、その後、上昇した。景気回復で求人が増加する中、希望の仕事を求め、転職するケースが増えているためとみられる。
 離職時期は、1年目が13.1%と最も高く、2年目が10.3%、3年目が8.9%。企業規模別では、5人未満の企業で59.6%が3年以内に離職するのに対し、1000人以上の企業は22.8%にとどまる。企業規模が大きいほど離職率は低い傾向だ。
<<
コメント欄。
>> 嶋崎量 | 2015/10/30 19:58
弁護士(ブラック企業対策プロジェクト事務局長)

若者の早期離職が30%を超える原因を、「若者の側」に押し付けている限りは、状況は改善しない。若者のおかれた労働実態をきちんと直視しなければならない。
若者の早期離職は、本人はもちろん、社会的にも損失。社会的な取り組みが必要です。
<<
■統計上で若年離職者が増えているのは「ブラック企業」のせいなのか?――景気回復の波に乗った「夢の追求」ではないのか?
「若者の側」に押し付けている限りは、状況は改善しない。若者のおかれた労働実態をきちんと直視しなければならない。」だそうですw何から何まで「ブラック企業」に結び付けている限りは、ひろく自主権の問題としての労働問題は解決はおろか、その本質も把握できないと思いますがww

嶋崎氏は、@事象を労働実態すなわちブラック企業問題に結びつける「視点」からコメントを寄せています。その背後には、A大卒新卒者の約3分の1が3年以内に離職すること自体を問題視する「価値判断」が見え隠れします。この「価値判断」と「視点」の要否を検討する必要があります。まず「視点」について検討しましょう。

時事通信によると、「景気回復で求人が増加する中、希望の仕事を求め、転職するケースが増えているためとみられる」と分析しています。つまり本件は、必ずしもブラック企業問題と繋がるわけではないでしょう。特に2012年春の新卒者はまだ不景気だった頃に就職活動をしていた世代です。まずは内定を獲得できた企業で少し働き、景気回復に従って「本当にやりたかった仕事」を目指しているのではないでしょうか? 「人はパンのみにて生くるにあらず」。必ずしも「ブラック企業」が原因ではないでしょう。

■ブラック企業は、法的に対応できる「確信犯的な犯罪的企業」だけとは限らない――マルクスを学習せよ! 人民の中に分け入り、社会通念を学習せよ!
また、仮にブラック企業問題が影響していたとしても、「企業規模が大きいほど離職率は低い傾向」という点は無視できません。以前にも述べましたが、昨今の「ブラック企業批判」あるいは「労働問題」には「競争の強制法則」という視点が本当に乏しい。「若者のおかれた労働実態」も大切ですが、「競争の強制法則(マルクス主義用語です)」という視点も大切です。ブラック企業と階級闘争の真似事をしている人たちは、そういう視点がどうも不足しているようです。

ブラック企業には、「確信犯的な犯罪的企業」や「モーレツ社員世代/起業当初の不眠不休に慣れきってしまった、自覚の無いブラック経営者」のケースもありますが、それとともに「経営センスが無くて仕方なく万年炎上状態」「競争の強制法則に強いられて仕方なく」のケースがあります。そうしたケースについては、単に取り締まればいいというものではありません。単純な階級闘争的な思考回路の人たちには理解できないかもしれませんが、マルクスを学習しなおしたほうがよいでしょう。

■そもそも、若年労働者が離職することは悪いことなのか?
次に「価値判断」について。10月8日づけ「「日本の労働組合活動の復権は始まっている」のか?――労組活動は労働者階級の立場を逆に弱め得る」をはじめとして以前から繰り返し主張しているとおり、私は「嫌だから辞める」路線は、労働者個人の自主化に資する大変有効な方法であるとともに、企業の労働需要独占者としての強い立場を切り崩すための労働市場の活性化の上でも、大変のぞましいものであると見ています。

若者の早期離職は、本人はもちろん、社会的にも損失」というのも一理はあるとは思います。労働者においては時間の無駄ですし、社会においては援護費用が必要になります。企業においても教育コストがパーになるわけです。

しかし他方で、企業の労働需要独占者としての強い立場を切り崩すためには、労働市場は常に流動性のある活発なものでなければなりません。労働市場が需要独占的であれば、企業の立場は否応無しに強くなってしまいます。また、産業構造は不断にますます加速度的に変化しており、転職労働市場の充実の要求は日に日に大きくなっています

更に言えば、学生の身分ではどうしても実際の仕事内容は「想像の産物」とならざるを得ず、「やってみないとわからない」という部分は否定できません。かつて、若年労働者の離職率が低かった時代においては、労働者たちは仕事内容を事前によく把握し、就職後は「まさに天職!」と思えるような充実した職業生活をエンジョイし、十分に自己実現したと満足感に満ちた心境で日々をすごしていたのでしょうか? そんなことはないでしょう。就職数ヶ月で早くも「あ、違う」と思ったとしても、転職が一般的でなかった時代だからこそ、ある種の「諦め」の下、職場に適応していった人も決して少なくないでしょう。いや、いまだってそういう若年労働者は多いと思います。

■若年離職者が増えている事実は「ブラック企業が市場原理を通して淘汰される方向に社会が向かいつつある」ことを示す
私は、「労働者においては時間の無駄」「社会においては援護費用が嵩む」という事情と、「企業の労働需要独占者としての強い立場を切り崩す必要」「産業構造は不断にますます加速度的に変化しており、転職労働市場の充実の要求は日に日に大きくなっている」「結局やってみないとわからない」という事情を比較考量するに、必ずしも嶋崎氏の立場には帰結しないと考えます。むしろ、その逆の事象として、大卒新卒者の約3分の1が3年以内に離職している事実は、大きな流れとして「ブラック企業が市場原理を通して淘汰される方向に社会が向かいつつある」ことを示す吉兆と見ることもできます。

もちろん、この労働市場の流動性が単なる「産業予備軍の増加」にすぎないのであれば、それは労働者階級にとっては福音でもなんでもありません。その点、事象を諸手を挙げて歓迎し、事態の推移を座して見守るのは不適切です。より多くの労働者が労働市場に参入し、労働市場の流動性が高まることが、企業の労働需要独占者としての立場が掘り崩される方向に進むよう、監視・管理してゆくべきです。その意味では、「ユニオンが転職支援する大きな意味――「鉄の団結」は必要ない」をはじめとして繰り返し述べているように、一定の緩い連携は不可欠だと思います。

日本では新卒労働市場と転職労働市場が連動しつつも原則として分離しています。これ自体は私は問題とは思いません。新卒求職者と中途求職者が同じ土俵で競争するのは、すこし違う気がするからです。今回述べているのは、主に中途求職者に関する転職労働市場についてですが、転職労働市場での「企業の評判」は、新卒労働市場でも通用する情報です。転職労働市場の活性化は、新卒労働市場の活性化にもつながり、結果として新卒求職者がより正確な情報で活動できることになるでしょう。そうすれば、「若年労働者にとっての時間の無駄」「社会的援護費用が嵩む」「企業においては教育投資の損失」が抑えられるようになるでしょう。
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2015年10月26日

学校教育がブラック経営者・ブラック資本家を人格的に準備する;教育カリキュラムとしての、軍隊社会としての「ブラック部活」

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151026-00000010-sasahi-soci
>> 子どもに理不尽強いる「ブラック部活」の実情 丸刈りや白飯2杯ノルマも当たり前〈AERA〉
dot. 10月26日(月)13時8分配信

根性論で健康を害するほどの練習を強いられ、絶対権力者の顧問に意見もできない。そんなブラック部活慣れした子どもたちが、将来ブラック企業に狙われる?(ライター・島沢優子)


(中略)

 スポーツ法学に詳しい国士舘大学法学部教授の入澤充さんはこう言う。

「自分より能力の高い下級生への嫉妬があるのかもしれない。加えて、顧問から責められる、試合に出られないといった“圧”がかかると、非行に走るか、いじめに走るかのどちらかになる」

 本来はスポーツをすることで人間的な成長が望めるはず。それなのに、理不尽なことを押しつけられて思考停止に陥るような部活では子どもにマイナスだ。前出の内田さんは指摘する。

「理不尽を強いられても我慢するのが、いまだに部活の美徳になっている。そんなブラックな部活に染まってしまった従順な高校生たちが、ブラックバイト、ブラック企業に狙われるのではないか」


(以下略)<<
■「理不尽を他人に強いることに慣れてしまった傲慢な高校生」にこそ、より深い注目を寄せるべき
重要な指摘です。最近話題の「ブラック企業」の印象に引き摺られると、「ブラック部活」というネーミングには違和感を覚えるかもしれません。しかし、ブラック企業を含めた「ブラック○○」の本質を「自主権の問題」と捉えれば、「ブラック部活」は、まさに「ブラック」の王道であると言えるでしょう。ブラック部活は、自主の対極に位置する現象ですです。正しい指摘です。

他方、「そんなブラック部活慣れした子どもたちが、将来ブラック企業に狙われる」は、これも極めて重要な指摘ですが、「理不尽を強いられても我慢するのが、いまだに部活の美徳になっている。そんなブラックな部活に染まってしまった従順な高校生たちが、ブラックバイト、ブラック企業に狙われるのではないか」という指摘の方法には重大な問題を感じます。

もちろん、「理不尽を強いられても我慢する・・・ブラックな部活に染まってしまった従順な高校生」というブラック部活の作用も無視すべきではありません。しかしそれ以上に、「理不尽を他人に強いることに慣れてしまった、ブラックな部活に染まってしまった傲慢な高校生」にこそ、より深い注目を寄せるべきです。「ブラック○○」は、加害者と被害者が居る問題ですから、片方だけを考えればよいものではありません。そして、同じ「ブラック部活」という客観的環境から、奴隷的労働者(被害者)とブラック経営者・ブラック資本家(加害者)という2つのグループが生じていることについても、「本当に彼らは人格的に異なる存在なのか? 機会次第で入れ替わり得るのではないか?」という問題意識を持ちつつ、注目すべきです。

今日は、「ブラック部活」の作用について、「教育カリキュラムとしての側面」そして、「軍隊社会としての側面」から検討したいと思います。まず前者。

■教育カリキュラムがブラック企業問題を生む――人格の根底においては加害者も被害者も同じ
現代日本においては、人格形成に多大な影響を与えるとされる前期中等教育段階までは義務教育によって行われています。前期中等教育においては、教育社会学でいうところの「統合」を軸としたカリキュラムを基本としており、基本的に全国一律の内容です。すくなくとも、いま企業の経営をしている世代は、そうしたカリキュラムの教育を受けていた世代です。そうした同質の教育を受けて人格形成してきた人たちが、ある人々はブラック経営者・ブラック資本家になり、ある人々は奴隷的労働者になる。それを個人的な性格の問題に全面的に帰するべきてばありません(少なくとも左翼の世界観では、それを個人的性格の問題に帰することは出来ません)。となれば、現代日本の教育課程・学校社会段階にこそ、企業社会段階におけるブラック経営者・ブラック資本家を人格的に準備する要素があると言わざるを得ず、それはすなわち、いまブラック企業において奴隷的労働に就かされている人物も、いざ事情が変われば、ブラック経営者・ブラック資本家のような搾取階級になり得るといわざるを得ないでしょう。

事実として、たとえばいわゆる「ブラック社員」という存在がありますが、これは、「社会集団の責任ある主人としての自主」に反するという意味で、本質においてブラック経営者・ブラック資本家と同類であり、やはり現代日本の教育課程にこそ「ブラック○○」を人格的に準備する要素があると言える実証であります。

「ブラック○○」の本質は「自主権の問題」です。「自主」の対極は「自己中心・自己絶対」であり、「支配」であり「隷属」です。ブラック部活で培った自己中心・自己絶対の意識は、学校社会においては「下級生いじめ」という形で支配・隷属を当然視するようになり、そしてゆくゆくは企業社会において「搾取」という形で支配・隷属を正当化するようになるのです。学校教育がブラック経営者・ブラック資本家を準備しているのです。

■ブラック部活のルーツには「軍隊社会」がある
少し見方を変えましょう。ブラック部活は、「スポ根」「体育会系」とも言い換えることが出来ます。体育会系の源流は「軍隊社会」にあります。軍隊社会の本質は「絶対的な上意下達」であり、「兵は駒」です。たしかに、ブラック○○の問題を自主権の問題として捉えれば、その対極の行き着く先が「軍隊社会」であると言うのは容易に理解していただけることでしょう。こう考えると、「ブラック○○」の本質が極めて明瞭に見えてくるものと思われます。

もちろん、組織である以上は一定の統制は必要であり、特に軍隊社会においては超強度の統制が必要なのは当然です。兵が本質的に駒であるのも当然ですし、志願兵であれば自身が祖国の駒となることを承知の上で銃を取っているはずです。軍隊社会で「自主権」などと言っていては戦争になりません。しかし、そうした軍隊社会の論理を、自主権の追求を目的とする一般社会にまで持ち込むことは根本的に間違いです。であれば、軍隊社会のコピーである体育会系社会も、一般社会の論理に照らせば間違いであるという謗りは免れ得ないでしょう。つまり、「一般社会」を形成・維持する主体を育てるべき学校教育が、「体育会系式の部活動指導」を通して、一般社会の論理に相反する「軍隊社会」の人格形成をしているのです。学校教育の本分を果たしているとは到底いえません。

■ブラック企業問題の根底には、企業の主体である「人間」の人格形成=教育の問題がある
以上、2つの角度から「ブラック部活」の作用を、「ブラック企業」と結び付けて考えると、重要なポイントが見えてきます。「ブラック企業根絶」という意味では、労働法によるマクロ的規制や労組の要求実現闘争は勿論、「嫌だから辞める」路線も、根本的な解決策にはならないのです。「自主権の問題としてのブラック○○」の問題を解決するためには、主体的には自主的な人格教育、制度的には自主的な行為を支える仕組みが、一個人の幼少期から必要になると言えるでしょう。
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2015年10月20日

インドネシア高速鉄道を受注できなかった恨み言;日本人にあるまじき暴言

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151018-00000504-san-pol
>> インドネシア高速鉄道 敗因は中国の札束外交…資金繰りも工法もリスクだらけ

産経新聞 10月18日(日)8時57分配信

 インドネシア・ジャワ島の高速鉄道計画をめぐる日本と中国の受注合戦は、土壇場で中国案の採用が決定し、日本の敗北で幕を閉じた。高速鉄道計画を白紙にするという発表から間もないインドネシアの変節。日本が非難したところで、既に後の祭り。今回の顛末は信義も捨て去る国際社会の現実を示した形だが、中国案の実現性は怪しく、数年後に第2幕が上がる可能性がある。


(以下略)<<<
「信義」も何も国益だろうに・・・いつにない産経の主張に少し困惑していますww

しかしコメ欄がまた秀逸。恨みがましさ全開です。すさまじい暴言です。
>> inv*****
| 2015/10/18 09:08
これで良かったと思う。後悔してください。
<<
>>
mat*****
| 2015/10/18 09:08
大きな事故が起きるまで、放っておきましょう。
<<
私は本件について日本が受注できなかったことは残念だとは思いますが、発展途上国としてのインドネシアの事情も十分に汲むべきだと思っています。その点、今回の顛末は致し方ないと考えています。他方で、たぶん中国案は失敗すると私も思います。少なくとも間違いなく「炎上」はするでしょう。そのときにこそ日本は「温かく迎え入れる」べきではないのか。「母」「友人」の心構えでインドネシアと接するべき出来はないのかと思うのです。

自分の思い通りにいかないからといって、あんなみっとみない恨み言を臆面もなく言ってしまうその子どもじみた精神構造。「わざわざ日本様がインドネシアのためにやってやっているんだ!」という意識が垣間見えます。他人様のために何かするとき―-商行為=他人のための使用価値の生産にしても、無償援助にしても――においては、こういう心構えは最も避けるべきです。あくまで「お手伝いさせていただいている」という心構えがであるべきです。それこそが「日本人の心」ではありませんでしたか?

こういう暴言を聞いていると、誰も頼んでいないのに高圧的な「指導」をかましてきて人民が拒否しようものなら「非科学的」だの「無知蒙昧」だのと中傷してくる中国共産党的な恩着せがましさや、どこかの南半分傀儡政権の人たちのような「恨」すら感じます。日本人にあるまじき暴言です。
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2015年10月15日

周囲の助けを借りつつ「嫌だから辞める」「無理だから辞める」べき

http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20151014-00000006-jnn-soci
>> 365日連続勤務でうつ病発症、会社と社長を提訴

TBS系(JNN) 10月14日(水)0時44分配信

 365日連続で勤務させられ、うつ病を発症したとして、神奈川県に住む男性が勤めていた会社と社長を相手に慰謝料などおよそ1150万円の支払いを求める裁判を起こしました。


(中略)

 訴状などによりますと、男性は2006年に入社しましたが、会社の社員数が減り業務が増えたことなどから、2013年にはほとんど自宅に帰ることができなくなり、1日の休みもなく365日連続で勤務を続けたということです。

(中略)

 「だんだん、考える時間もなく精神的におかしくなっていったのかなと思う。許せないという気持ちが一番強く、こういう事例が、僕みたいな人を1人でも減らせればという気持ちで訴訟をしようと決断しました」(裁判を起こした男性)

 担当弁護士によりますと、男性は今年2月に労災の認定を受けているということです。一方、会社側は取材に対して、「代表が不在で、コメントできない」としています。(13日18:50).

最終更新:10月14日(水)14時4分
<<
だんだん、考える時間もなく精神的におかしくなっていったのかなと思う」という発言には注目すべきでしょう。

チュチェ103(2014)年8月3日づけ「ユニオンが転職支援する大きな意味――「鉄の団結」は必要ない」やチュチェ104(2015)年6月5日づけ「派遣労働問題の本質は自己決定権行使・自主権行使の問題」などで述べてきたように、ブラック企業に勤める個々の労働者は「嫌だから辞める」「無理だからやめる」路線を基本とすべきですが、それは、必ずしも「本当に自分ひとり」でそうするべきではなく、周囲の助けを借りて行うべきです。

「嫌だから辞める」「無理だから辞める」路線に対するよくある批判としては、「一人で如何にかなる問題じゃないだろう! 社会構造的な問題だ!」というものがあると思います。ごもっともです。だからこそ、周囲の助けを借りつつ「辞める」べきなのです。労働問題専門弁護士や労働組合の本分は、要求実現型闘争などではなく、このためにこそあると言っても良いでしょう。社会構造的な問題だからこそ連携・連帯して対応し、個人に降りかかる悪影響を緩和すべきです。そうした対応を展開しているうちに、社会の主体としての個々の労働者のミクロ的な対応こそが、ひいてはベクトルの合成のような形で社会構造自体を変化させてゆくことにもなります。

「嫌だから辞める」「無理だから辞める」路線の重要性は何度強調しても強調しすぎることはないというのが私の立場ですが、「周囲の助けを借りつつ行うべき」という条件を必ずセットにしなければ効果は半分以下になってしまうというのも、あわせて強調したいと思います。

個別労働者が、企業側に足許を見られず自主的立場を維持しつつ実利を得るためには、悪い環境で働かせる個別資本家に対して待遇改善を要求して勤め続けるよりも、周囲の人々からの支援を受けつつ良い環境を提供する個別資本家に乗り換えるべきです。「辞める」という選択肢を持つことで、資本家の「労働需要独占者」としての立場を掘り崩すのです。「資本家の利潤極大化・費用極小化行為が、労働市場で個別労働者同士を競争させ淘汰(産業予備軍化)してゆく」というマルクスの指摘を応用し「労働者の効用極大化行為が、労働市場で個別資本家同士を競争させ淘汰してゆく」流れにもってゆくのです。

「連携・連帯」は重要ですが意識的に「スクラム」を組む必要は必ずしもありません。労働者の個別的な乗り換えベクトルが社会全体レベルで合成ベクトルを形成したとき、ワタミやすき家の例を遥かに越えるインパクトで、世の中が大きく変わることでしょう。
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2015年10月10日

労働環境の自主化のためには、勤労人民大衆は「実力」を持たねばならない;党創建70年記念

今日は10月10日、朝鮮労働党創建記念日です!

朝鮮労働党は、自主性を擁護する思想であるチュチェ思想を基礎に朝鮮民主主義人民共和国の政権を担っています。「自主」は私の思考の原点であり、その意味で朝鮮労働党は私の師であるといえます。では、「師匠」は自主性の実現のためにどうするべきかと教えておられるのでしょうか? 党創建記念日を記念して、キムイルソン主席がチュチェ66(1977)年12月15日に行った「인민정권을 더욱 강화하자」をご紹介します。
http://www.uriminzokkiri.com/index.php?ptype=rozak&no=199
>> 김 일 성
인민정권을 더욱 강화하자

조선민주주의인민공화국 최고인민회의
제6기 제1차회의에서 한 연설
1977년 12월 15일


(中略)

근로인민대중은 력사무대에 등장한 때로부터 력사의 주체로서 모든 사회적운동의 중심에 서있지만 어느 사회에서나 그의 지위와 역할이 같은것은 아닙니다. 사회가 계급으로 갈라지고 국가가 생겨난 다음부터 사람들의 지위와 역할은 국가주권을 쥐였는가 못 쥐였는가 하는데 따라 결정되였습니다.

국가주권은 정치적지배권이며 사람들의 지위와 역할을 규정하는 기본요인입니다. 착취사회에서는 국가주권을 쥔 착취계급만이 지배권을 가지고 모든 권리를 행사하며 국가주권을 쥐지 못한 근로인민대중은 아무런 자유와 권리도 못 가지고 오직 착취와 억압의 대상으로만 됩니다. 근로인민대중은 주권을 자기 손에 틀어쥔 사회주의사회에서 비로소 국가와 사회의 참다운 주인으로 됩니다. 사회주의사회에서는 근로인민대중의 자주적권리가 완전히 보장되고 그들의 창조적위력이 남김없이 발양되며 사회의 모든것이 근로인민대중을 위하여 복무합니다.

혁명은 자주성을 위한 투쟁이며 자주성은 국가주권에 의하여 보장됩니다. 사람들의 자주적권리는 국가주권에서 집중적으로 표현되며 따라서 근로인민대중이 자주성을 완전히 실현하려면 무엇보다도 정권의 주인으로 되여야 합니다. 근로인민대중이 자기 손에 주권을 쥐고 국가와 사회의 참다운 주인으로 되여야 혁명과 건설에서 나서는 모든 문제를 성과적으로 풀어나갈수 있습니다. 혁명에서 주권에 관한 문제가 기본문제로 되는 리유가 바로 여기에 있는것입니다.

(以下略) <<
拙訳は以下。
キムイルソン
人民政権をいっそう強化しよう

朝鮮民主主義人民共和国 最高人民会議 第6期第1次会議において行った演説
1977年12月15日

勤労人民大衆は、歴史の舞台に登場したときから歴史の主体としてすべての社会的運動の中心にいましたが、どんな社会でもその地位と役割が同じというわけではありません。社会が階級に分かれ、国家が生まれてから人々の地位と役割は国家主権を握っているか否かということによって決定されました。

国家主権は政治的支配権であり、人々の地位と役割を規定する基本要因であります。搾取社会においては国家主権を握った搾取階級だけが支配権を持ってすべての権利を行使し、国家主権を握ることができない勤労人民大衆は、いかなる自由と権利も持つことができず、ただ搾取と抑圧の対象となるだけです。勤労人民大衆は、主権を自らの手におさめた社会主義社会において初めて、国家と社会の真の主人となります。社会主義社会においては、勤労人民大衆の自主的権利が完全に保障され、創造的な力が余すところなく発揚され、社会のすべてが勤労人民大衆のために服務します。

革命は自主性のための闘争であり、自主性は国家主権によって保障されます。人々の自主的権利は国家主権において集中的に(端的に)表現され、ゆえに勤労人民大衆が自主性を完全に実現させるには、何よりも政権の主人にならなければなりません。勤労人民大衆が自らの手に主権を握り、国家と社会の真の主人になれば、革命と建設において生ずるあらゆる問題を成功裏に解決してゆくことができます。革命において主権の問題が基本問題となる理由は、まさにここにあるのです。
最近、当ブログでは、「自主権の問題としての労働問題」という基本原則にもとづき、労働問題に関する記事を公開していますが、上記の主席の見解は、労働問題においても示唆に富んでいるといえるでしょう。

以前にも述べましたが、日本における労働運動は、結局は「お代官様への請願」の域を脱していないと言えます。それは、運動の目的が「要求実現」のレベルに留まっており、資本家の所有権・分配権・指揮命令権を意識していない点にあります。それどころか、「要求実現の方途」さえも資本家側に丸投げにしているケースもあります。こんなことでは、永遠に資本家の都合に振り回されることになります。

勤労人民大衆は、真の意味で自主的になるために特定の勤め先に対する依存度を下げると同時に、現在の勤め先において力を持たねばなりません。それは、所有権・分配権・指揮命令権といった典型的な「権力」とともに技術力、統率力、ノウハウといった「実力」も持たなければなりません。実力のある社員には誰もが一目おきますよね。朝鮮民主主義人民共和国においても、人民政権の強化とともに技術的実力の強化に努めています。

このようにチュチェ思想の立場から現代日本の労働問題を考えると、既存労働組合の「闘争スタイル」の「他力本願」っぷりが目立ちます。特に「実力」が話題になることがほとんどありません。本気でやる気あるのかな?
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2015年10月09日

「多様化する消費者の自主的要求への対応の如何」がますます大きな意味を持つ時代

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151009-00000010-asahi-bus_all
>> コンビニ上位3社、過去最高の営業益 沈む総合スーパー

朝日新聞デジタル 10月9日(金)5時12分配信

 総合スーパー(GMS)が沈み、コンビニ頼みを強める小売業界――。流通各社の2015年8月中間決算が8日に出そろい、そんな傾向がより鮮明になった。コンビニ上位3社が過去最高の営業利益をたたき出す一方、収益力の低いGMSは閉店や業態転換を迫られている。

■イトーヨーカ堂、地方で苦戦


(中略)

 従来の本部主導を改め、各店に仕入れを任せて品ぞろえを多様化する構造改革を進めており、通期では黒字を見込む。だが特に地方の店が厳しく、不採算の40店は収益が改善しなければ5年で閉める。百貨店についても同様の方針で、この日も、前身から30年の歴史がある西武春日部店(埼玉県春日部市)を来年2月末に閉めると発表した。

(以下略)<<
日本共産党や社民党を筆頭とする産業保護主義の立場によると、「大型店舗は特に地方の小売業界を席巻しており、そのために地方の小売商店が大変な苦戦を強いられている」「富める者・強い者がますます幅を利かせている」ので、「大型店舗に対する『民主的規制』によって対抗しなければならない」と30年以上言われてきましたが、どうも違うようです。

時代の変化に伴い人民大衆の自主的要求は多様化しています
。今回の現象もその一つであると言えますし、セブン&アイ・ホールディングスの「従来の本部主導を改め、各店に仕入れを任せて品ぞろえを多様化する構造改革」は、そうした現実を正しく認識した上での対応であると言えます。

依然として「規模・勢力の大小」も大きな意味を持っているとは思いますが、やはり「多様化する自主的要求への対応の如何」がますます大きな意味を持つ時代、主体的な時代になっていること、そしてそれが留まることを知らない時代になっていることは否定できなくなっています。

1989年から1991年にかけて、計画経済の硬直化に対して市場経済が現実に柔軟に対応し生きながらえたことが明々白々の事実として現れ、今やその事実は左翼でさえ否定する者は少数になってきている常識です。しかし、この事実に対する認識はいまだ十分であるとはいえないと思います。計画経済に対する市場経済の優位性は、単に「競争の有無」だとか「インセンティブの存否」、「経営効率性」といったショボいレベルではなく、「『規模・勢力の大小』ではなく『多様化する自主的要求への対応の如何』こそが重要」であることを証明している点にあると思います。

中央集権的計画経済体制は、独占的市場経済における企業体の指揮権を暴力革命によって奪取し成立するものです。それゆえ、計画経済は本質的には「巨大企業の経済」です。それが現実に対応しきれずに崩壊した。とくに貧困撲滅・重工業化段階ではなくある程度豊かになってからの消費社会化段階で崩壊した。このことは、「巨大企業の経済」が「多様性」に対応することは難しいということを示しています。

実はもう25年近く前に既にこうなる流れであることはハッキリしていたものですが、ついに現象形態として我々の眼前に現れてきたということでしょう。

こうした認識の立場に立つと、「大型店舗規制」を周回遅れで主張し続けている左翼は、いまだに計画経済を総括しきれていないと言えるでしょう。そんなので「市場経済を通じた社会主義」など、馬鹿馬鹿しいにもほどがあります。選挙目当てのソフト路線であることは明白です。
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2015年10月08日

「日本の労働組合活動の復権は始まっている」のか?;労組活動は労働者階級の立場を逆に弱め得る

>> 「何をぬかしとるんや、コラァ!」 アリさん引越社幹部の「恫喝」が物議
J-CASTニュース
10月5日(月)20時6分配信
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コメント欄に、NPOほっとプラス代表理事で聖学院大学客員准教授の藤田孝典氏のコメントが寄せられています。今回は、この言説について考えてみたいと思います。まずは例によって引用から。
>> 藤田孝典 | 2015/10/05 23:13
NPOほっとプラス代表理事 聖学院大学客員准教授

日本全体で労働組合の活動が弱まっているため、団体交渉、労使交渉の経験がないか、未熟な経営者が多いのだと思います。

日本の労働組合活動の復権は、今回の派遣ユニオンのように、すでに始まっており、労働者を無視した企業や業界の理不尽な経営体制からの転換を促しています。そして下手な対応をすれば大損害になります。

ワタミ、すき家などとの組合交渉はあまりにも有名な話ですが、他にも個別に解決や和解、労働協約の締結まで成果が出始めています。

このような劣悪な企業対応は一部ではなく、他にも多く存在しています。
ぜひ労働者はユニオンなどの新興の労働組合と一緒に困ったら団体交渉や問題解決を始めてほしいと思っています。

われわれブラック企業対策プロジェクトでも、総合サポートユニオンを結成しました。気軽に相談にお越しいただきたいと思っています。
おかしな企業体質を放置せずに責任をとっていただきたいと思います。
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■「いやなら辞めればいいじゃん」路線と「ブラック企業」という悪評が決定打
さて、藤田氏がいうように、「日本の労働組合活動の復権は始まっている」のでしょうか? 藤田氏は「ワタミ、すき家などとの組合交渉はあまりにも有名な話」としていますが、チュチェ103(2014)年10月6日づけ「最後の決定的な部分は下から積み上げてゆくこと」でも触れたように、ワタミ、すき家のケースにおいては「いやなら辞めればいいじゃん」路線と「ブラック企業」という悪評が最終的な決定打になっています。これは、ワタミやすき家の労働環境を告発したという点では労働組合の作用は大きかったことは認めますが、「あんなところで働きたくないよ」とか「もうイヤだから辞める!」という、労働者ひとりひとりの個人的判断が、あたかもベクトルの合成のような形で社会的なうねりとなったのです。少なくとも、ワタミやすき家のケースにおいては、決して労働組合が団体交渉したから企業側が折れて労働環境を改善したのではなく、ブラック企業という悪評が立ってしまい人材が集まらなくなったので、企業側が労働環境の改善に取り組むようになったのです。事態の本質を見誤ってはなりません。

※後述するように、労働組合等がまったく無意味だというわけではなく、たとえば過労状態等で判断力が低下している労働者が迅速に安全に退職できるための支援者としての役割として、労働組合等の存在意義はあると考えています。

■市場経済と評判、インセンティブ
市場経済における「評判」は決定的な作用をもたらします。財市場での品質・会社体質の「評判」は、「あんな商品は買いたくないなあ・・・」という消費者心理を喚起し、結果的に「売り上げ(需要)減」につながります。それは行く行くは「経営危機」をもたらしますが、まともな商売人であれば危機感を感じるので、品質改善に取り組むものです。それが競争的市場の基本原理であり、実証的事例は枚挙に暇がありませんが、これは財市場に限らず、労働市場にも当てはまるでしょう。すなわち、労働市場におけるブラック企業という「評判」が、「あんな会社では働きたくないよ」という労働者心理を喚起し、結果的に「求人応募(供給)減」につながるのです。そうすれば、人材が集まらなくなった企業においては「経営危機」が発生します。まともな商売人であれば危機感を感じるので、それがインセンティブとなって、労働環境の改善に取り組むものです。ワタミやすき家のケースはその教科書的事例です。

■「嫌だから辞める」路線こそが社会変動の核、「評判」という形で広報されることこそが後代の為
そうした事実を踏まえると、藤田氏の「おかしな企業体質を放置せずに責任をとっていただきたいと思います」というキメ台詞に違和感を感じることでしょう。藤田氏は、労働組合とともに団体交渉をすることこそが、おかしな企業体質に立ち向かうことであり、私のような「嫌だから辞める」路線は「放置」であり「責任をとって」いない、と言うのでしょう。しかし、「嫌だから辞める」路線は「放置」になるのでしょうか? 社会的害悪なのでしょうか? 「嫌だから辞める」路線こそが昨今の社会的うねりの主動力である現実を見据えれば、これこそが最終兵器であるといえると思います。そして、そうした一人ひとりの行動が「評判」という形で広報されることこそが、後代の為にもなるのです。

■労組運動の危険性――企業側への依存度を下げ、企業側の労働需要独占の立場を掘り崩さなければならない
団体交渉と労働協約についてさらに考えてみたいと思います。後述するように、私はこれらを全面的に否定するものではなく、意義のある部分もあると考えていますが、労働組合関係者がしばしば見逃す致命的危険性については、重ねて指摘しなければならないと考えています。すなわち、チュチェ103(2014)年8月3日づけ「「ブラックバイトユニオン」は逆効果――やればやるほど資本家への依存を高める」やチュチェ104(2015)年9月23日づけ「「ブラックバイト」の域を超えているのに「団体交渉」を申し込むブラックバイトユニオンの愚」などで何度も指摘してきたように、団体交渉・労働協約は、労働者の自主化にとって逆効果になり得るのです。

労働者が真の意味で自主的になるためには、企業側に足許を見られないために特定の勤め先に対する依存度を下げることが必要です。なぜ電力会社が一般電力消費者に対して殿様商売ができる(できていた)のかといえば、他に売り手がいないからです。なぜ、自動車メーカーが下請け工場の部品をふざけた値段にまで値切ることができるのかといえば、他に買い手がいないからです。他に売り手/買い手相手が居ないとき、買い手/売り手は、売り手/買い手に対して依存的立場・弱い立場に置かれます。前述の競争市場の基本原理に対して独占市場の基本原理です。

労働者は同時に一企業でしか働けないのに対して、企業は同時に複数の労働者を雇用し得ます。いくら労働者が束になったところで、労働者が「できればその企業で勤め続けたい」という願いを前提として団体交渉に臨んでいる限り、最終的には企業側の掌の上に居続けます。企業は需要独占者の立場に居続けます。ミクロ経済学における「価格弾力性」を思い浮かべてください。ミクロ経済学によれば、需要者に対して供給者の価格弾力性が硬直的であった場合、たとえそれがマーシャリアン・クロスが成り立つ非独占・非寡占の市場であっても、取引の主導権は需要者側にあるといいます。分かりやすくいえば、「生活必需品でない商品は買わなくても消費者は困らないが、それしか商材のない生産者は何とかして売り切らなければならないので、結果的に値切り交渉・在庫処分安売りセールが起こりやすい」と言えばよいでしょう。これと同様に、「できればその企業で勤め続けたい」という労働者(労働供給者)の願いは、ミクロ経済学的には「需要者に対して供給者の価格弾力性が硬直的」と解釈できます。これはすなわち、こうした前提で臨む限り、団体交渉における労働者の立場は弱いということを示します。

■「代わり」の存在こそが依存度を下げる――辞職・転職カードが重要
価格弾力性の決定要因は「代わり」の存在の有無です。「代わり」があればその取引にこだわる必要は無いので、価格弾力性は弾力的になります。「代わり」がなければ何としてでも取引を成立させなければならないので、価格弾力性は硬直的になります。

ミクロ経済学的考察に基づけば、労働者の立場と為すべきことも見えてくるでしょう。真に交渉力を持つためには、「辞めるよ?」という脅しが必要なのです。「辞めるよ?」と言える立場は、「代わり」を確保している立場です。「辞めるよ?」と言えない立場で、団体交渉等によって企業側から「譲歩」を勝ち取りその利権を自らの生活に組み込むことは、特定の勤め先に対する依存度を上げることに繋がります。労働者階級が自主的であるためには、労働需要者としての企業を競争的な立場にしなければならないのに、「辞めるよ?」と言えない立場で、団体交渉等に臨むというのは、労働者階級自らが企業の「労働需要独占者」としての地位をさらに強化させていると言っても過言ではありません。自分から労働市場を独占化させてどうするんですか。

■補助的な役割としての団体交渉の意義はある
もちろん、「パンがなければケーキを食べればよい」という言葉があるように、現実的にはそう都合よく「代わり」が現れるとは限りません。マクロ経済学の祖であるケインズが正しく指摘したように、「長期的には我々は皆死んでいる」のです。そういう意味で、補助的な役割としての団体交渉の意義は十分にあると私も認めます。しかし、それはあくまで補助的な役割以上のものにはならないと思います。

■そもそも、いくら要求運動を展開してもブラック企業が改心するはずがない
率直に言って、ブラック企業が改心するはずがありません。そうした企業は経営センスが無いか、他人を踏み台にすることを厭わない社風かのどちらかです。これはそう簡単に治るような病ではありません。団体交渉等で譲歩を勝ち取ったとしても、ブラック企業は巻き返しを耽々と狙っており、労働者が一時期の利権を自身の生活に組み込み、企業に対する依存度を上げたとき、企業の「労働需要独占者」としての立場がさらに強固になったタイミングを狙って逆襲しようとするでしょう。そうしたブラック企業に対してはやはり、労働者一人ひとりの「嫌だから辞める」を前提にし、依存度を下げ、「労働需要独占者」としての立場を切り崩すことを基本に据える必要があります。それを基本し、それを援護する範囲においてのみ、労働組合の存在意義はあるでしょう。

■関連過去ログ
そうした意味での労働組合の役割については、以下で論じました。
・チュチェ103(2014)年8月3日づけ「ユニオンが転職支援する大きな意味――「鉄の団結」は必要ない
・チュチェ104(2015)年6月5日づけ「派遣労働問題の本質は自己決定権行使・自主権行使の問題
・チュチェ104(2015)年9月23日づけ「「ブラックバイト」の域を超えているのに「団体交渉」を申し込むブラックバイトユニオンの愚」の後半部
において論じました

下記では、判断力が低下した過労状態等の労働者が迅速に安全に退職できるための支援者としての役割として、労働組合等の存在意義について論じました。
・チュチェ104(2015)年10月15日づけ「周囲の助けを借りつつ「嫌だから辞める」「無理だから辞める」べき

本稿では労働市場が「売り手市場」である状況を前提に論じましたが、下記では逆に、「買い手市場」における労働者階級の自主化闘争について論じました。社会主義を志向したものであると自負しています。
・チュチェ109(2020)年6月28日づけ「コロナ禍に始まる不況下の「買い手市場」における労働者階級の自主化闘争について
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2015年10月05日

図書館指定管理者制度の本旨は「多様性」

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151004-00000013-it_nlab-sci
>> 旧約聖書「出エジプト記」が旅行ガイド? 海老名市立図書館の配架がちぐはぐすぎて不安視する声

ねとらぼ 10月4日(日)15時33分配信

 佐賀県武雄市に続くいわゆる“TSUTAYA図書館”として、10月1日にリニューアルした神奈川県の海老名市立中央図書館の蔵書検索で「出エジプト記」を調べるとなぜか「旅行/海外旅行/アフリカ/エジプト」に分類される謎現象が。そのほかの書籍でもおかしな分類があるとネットで話題です。


(中略)

 このカオスな状況を生み出したのは、図書館の書架分類で利用される日本十進分類法ではなく書籍のタイトルを機械的に判別したからではないかと推測されています。<<
「TSUTAYA図書館」の運営の拙さは最近、報道量が増えてきています。多くは「商業主義」に焦点を当てた批判ですが、今回は単純に「管理能力の欠如」です。

レンタルショップにおける商品分類・陳列のおかしさは、いまに始まったことではありません。正直、レンタルショップの在庫理能力は高いほうではないと思います。とくに、専門的教育を受けてきている従来からの図書館司書とは比べるべくもないでしょう。

では、「TSUTAYA図書館」は不必要、すくなくとも時期尚早でしょうか? 私はそうは思いません。民営化・市場化の効用としてよく取り上げられる「効率性」という観点では、「時期尚早」と言いうるかもしれません。しかし、チュチェ102(2013)年12月22日づけ「市場競争の効用は「効率性」よりも「多様性」」でも書きましたが、私は、民営化・市場化の真の効用は「効率性」ではなく「多様性」にあると見ています。

図書館運営を直営ではなく民間等に委託する例は、それほど珍しい話ではなく、また、外部委託したからといって必然的に武雄・海老名両市のようなになるわけでもありません。たとえば東京都千代田区では、サービスの充実に寄与している実例があります(武雄市図書館で是非 なぜ東京・千代田区で「民間委託」が機能したか?)。やはり、直営運営時代では思いもつかなかった発想が、外部委託によって導入できたということに他なりません。

上記「武雄市図書館で是非・・・」の記事では、重要なキーフレーズが登場しています。「図書館も出版文化を担う施設ですから、経営効率を求めるものではない」と「指定管理者制度は経営効率性ばかりが強調されますが、千代田区の場合はサービスの充実に寄与しています」です。つまり、東京都千代田区の民間委託は、まさに民間委託の「財・サービスの多様性の充実」という側面を上手く実現させていると言えるのです。

以上の立場から、以下のようなコメント欄の見解について検討してみましょう。
>> mom***** | 2015/10/04 17:36

図書館のような公の施設は、採算が合わないからこそ行政が行ってきたはず。
割に合わない仕事を十分時間をかけて行政サービスとしてやってきたものを営利企業に任せた時点で、こうなるのは分かりきっていることです。(図書館に限らないと思うのですが・・・)
利用する市民の方には申し訳ないのですが、本来の行政サービスがなんなのか、考えるいいきっかけと思うしかないんでしょうね。
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市当局が、営利企業としてのTSUTAYAに幾ら払ったかにもよる話で、短絡的にこうは言えないとは思いますが、それを別としても、結局これも「効率性」の土俵から考えている言説です。民間委託の本旨は「多様性」です。

民間委託の本旨は「多様性」であれば、あるべき運営の姿は、役所直営の独占体制ではなく、民間丸投げでもありません。管理能力が高い直営時代からの図書館司書と、民間企業のノウハウを掛け合わせる形で「多様性」を探究してゆくことにあるでしょう。「多様性」という文脈においては、公共部門も民間部門もそれぞれ異質の文化を持っており、新しい文化の重要なベースを提供し得るという点において立場は対等です(効率性の文脈では、やはり公共部門が民間部門に打ち勝つことは難しく、どうしても「民間部門信仰」のようなものができてしまいます)。

最後に。「効率性」の土俵に敢えて上がるとすれば、「餅は餅屋」の原則に立つべきであり、公営・私営の「属性二分法」に立つべきではありません。その意味では、依然としてコメント欄のような見方は誤りであると言わざるを得ません。

また、公営であろうと私営であろうと、結局「監視の欠如」があっては末路は同じです。今回問題になっている海老名市や武雄市の「TSUTAYA図書館」の例は、「委託元である市当局の監視不届き」という要素は決して小さくないでしょう。役所でも私企業でも、業務委託先の仕事っぷりをキチンとチェックしていなければ、ロクでもないシロモノを掴まされるものです。

関連記事
チュチェ102(2013)年12月22日づけ「市場競争の効用は「効率性」よりも「多様性」」
http://rsmp.seesaa.net/article/383328398.html
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2015年10月01日

利己主義者たちの統治・矯正を利己主義原理で行おうとする橋下主義の愚

チュチェ104(2015)年10月1日19時50分に、集団主義化に関して少し加筆しました。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150930-00000033-mbsnewsv-soci
>> 「能力不足」2人を分限免職 大阪市が職員条例初適用

毎日放送 9月30日(水)11時45分配信


 大阪市は、職員基本条例に基づき5段階評価で2年連続最低ランクとなった職員2人を免職処分としました。

能力不足を理由した免職処分は初めてです。

 「1年以上かけて指導してきたが、公務員として通常要求される勤務実績や適格性が欠けていると判断し、免職処分とした」(人事室・大田幸子連絡調整担当課長)

 30日付で免職処分されたのは、都市整備局の40代の男性職員と、港湾局の30代の男性職員の2人です。

 2012年に成立した職員基本条例は、職員を5段階で評価し最低ランクが2年以上続き、研修でも改善が見られなければ免職処分にすると定められていて、今回が初めての適用です。

 能力不足を理由した免職は異例です。
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コメント欄が秀逸でした。「能力なくてクビって、民間でもできるようになるのか?」。「民間では・・・」を決め台詞のように繰り返す橋下市長と「類似品」たちですが、実際の「民間」においては、彼らが言うほどは広範で採用されているわけではありませんし、採用している企業においても、彼らが誇るほどは大々的には行ってはいません。類似した制度として一時期流行した「スタック・ランキング」がありますが、マイクロソフトが結局廃止したように、この手の制度は「民間」においては、かなり微妙なシロモノと位置づけられている例が多いようです。個人本位の評価は必要であるにしても、それを殊更に前面に出すのには弊害も大きいということに他ならないのです。

私は基本的に市場主義者であり、官僚主義やムラ社会、ぬるま湯体質の組織には反対の論陣を張ってきました。滋賀県大津市のいじめ自殺事件に関連した全教(全日本教職員組合)所属の公務員教師たちの官僚主義・ムラ社会的振る舞い、ぬるま湯に首まで浸かっているとしか言い様のない発言には、多くの国民とともに怒りました。あのときに考えたことを振り返ってみると、結局この手の連中は「公平な観察眼」がないという点に尽きるでしょう。自分自身の利益、身内共同体の利益を最優先するために、それ以外の社会構成員の利益を軽視・無視するという点に諸悪の根源があるのです。連中は、「社会」というシステムにおいてその責任ある一員としての振る舞いをしていない「単なる利己主義者」なのです。

そうした利己主義者、身内共同体主義者の横暴から社会システムを防衛し、システムとしての正常な運営を実現させるためには、連中に対して集団主義的に対峙する必要があります。にもかかわらず、インセンティブをぶら下げたり、免職や降格といった脅しで対応しようとする橋下氏とその「類似品」。彼らの手法も結局は「単なる利己主義」の延長線上のものでしかありません。仮に上手くいったとしても、単に「バラバラに動いている諸要素が、偶然にバランスを取っている」に過ぎず、それ以上のパフォーマンスを実現することはできません(資本主義社会はそういう社会なので、その点を考慮すれば、ある程度は実用に耐え得るのは事実だとは思いますが、資本主義の無政府的弊害に枚挙に暇が無いのも事実です)。

もちろん、「滅私奉公は続かない」というのは、私も以前から繰り返しているとおりです。しかし、この文脈での「集団主義」は、「社会集団の一員・責任ある主人」を求める立場であり、自他共存の方法論です。自らの利益を追求することはなんら非難されるべきではありませんが、「自己利益追求にも限度がある、他人のことも考えなさい」「みんなお互い様」という至極常識的(現代資本主義社会ではどうも上手く回っていないのが残念です)な立場にすぎません。

前掲「スタック・ランキング」を初めとして一時期に流行った評価手法を廃止した企業の中には、「集団に対する貢献」を評価パラメーターとして導入し直した企業も少なくないようです。橋下氏とその「類似品」が錦の御旗のように掲げる「民間企業」は、いまや彼らが周回遅れで信奉している方法論、彼らが依拠する利己主義的方法論を捨てつつあるといってよい情勢になりつつあります。

集団主義化においては、いわゆる「フォローアップ研修」型の対策は望ましくありません。そうした方法には「強制力」が足りないからです。社会集団の一員として自他の利益を調整するよう仕向けるには、隔離して個別的に研修を受けさせても意味がなく、たとえば「白眼視」のような圧力が必要です。「ムラ社会」的方法論ではありますが、長い歴史を通して人々を強力に統制してきた手法は一部、見習うべきでしょう。

別記事によると、本件も市当局なりのフォローアップをしていたようですが、個別隔離的な指導に終始したようです。これでは、利己主義者を集団主義化にすることはできません。まずは強制力を以て「社会集団」というものを意識するように仕向けさせ、半ば強引にでも同化を推進するべきです。他方、その過程で徐々に教育的な要素も織り交ぜ、最終的には程度の差こそあれ、「お互い様」の行動を定着させるべきです。

なぜ「民間では・・・」を決め台詞のように繰り返すのに、そうした時代の変化への対応が遅れているのでしょうか? 結局、橋下氏とその「類似品」たちは、観念論者かブラッキーな確信犯のどちらかでしょう。たしかに、いわゆる「ブラック企業」では、そうしたアメとムチ的な利己主義に根ざした統治術が今も全盛期ですね。
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