2015年12月28日

自称「残業せずに効率的に働こうとする人」が引き起こす新しい別問題――結局は底の浅い利己主義的方法論

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151228-00000006-asahi-soci
>> 仕事のために生きる? 長時間労働はなくせないのか

朝日新聞デジタル 12月28日(月)5時22分配信
<<
総論としては賛成なのですが、懸念ある表現が見受けられます。以下。
>>  読者のみなさんにいただいた反響のなかには、長時間労働をやめる決断をして働き方を変えたところ、責任ある仕事を任せてもらえなくなり、戸惑っている方の声もありました。長時間労働がまだまだ当たり前の日本の職場では、残業せずに効率的に働こうとする人への風当たりも強いようです。(津阪直樹) <<
「風当たり」――私としても理解できる内容ですが、私の身近でこれを「実践」している人を思い出すと、「自分の仕事は終わりました。チーム全体の進捗状況なんて知りません。チーム目標にも関心はありません。」という利己主義・官僚主義的な姿勢があふれ出ている人を思い出します。長時間労働文化から脱して効率的に働こうとする意気込みはよいのですが、自分本位の主観的な「効率性」に過ぎず、結果的に利己主義的な行動をとっている人物、自分自身の長時間労働問題は解決しているのかもしれませんが、別の新しい問題を引き起こしている人物です。

「自称・効率的に働こうとする人」は基本的能力が高いので、所定時間内の働きはもちろん素晴らしいものです。しかし、チームメンバーやチーム目標に対する関心がとぼしく自分自身の事情しか考えていないような人物は、「全体の進捗を見据えて調整・采配する」というリーダーに必要とされる資質を満たしているとはいえませんし、リーダー職が論外であるのは勿論、たとえヒラでもチームメンバーとしても一緒に働きたくないものです。弊社社内では、こうした「自称・効率的社員」に対する考え方は概ね一致していたようで、チームの視点で行動できる後輩社員が順調に昇進していくなかで、彼はまったく昇進できませんでした。もちろん、「馬鹿と鋏は使いよう」という言葉があるように、チーム編成が不要だが専門的知識が必要な「一人親方的作業」では重宝されていますし、新人なのに官僚主義的に仕事をする「人事部の失敗」社員の更生教材としては有効に活用されていました。先日、「自分の仕事はちゃんとやっているのに! とんでもないブラックだ!」などと言って辞めていきましたけど。

「利己主義かチーム主義か」という軸でこの問題を見直すと、決して「長時間労働がまだまだ当たり前の日本の職場では、残業せずに効率的に働こうとする人への風当たりも強い」などという短絡的な「新旧文化間の闘争」で片付く話ではないことが見えてくるでしょう。こういう人物は、長時間労働とは別の新しい問題を引き起こしている張本人なのです。職場の現状を自分本位の主観的視点でしか見ず、チームレベルで客観視できていないにも関わらず、「新しい職場文化を持ち込むんだ! 定着させるんだ!」などといって「イノベーターとしてのオレ」「ワタシの先取の気性」に酔っていると、結局は単なる「利己主義者・官僚主義者」でしかなくなることでしょう。そういう利己主義者・官僚主義者に重要な仕事が回ってこないのは当然です。また、そのような人物とシフトや作業の調整などを積極的にしようとは人間感情的に思わないものです。「情けは人のためならず」。

もちろん、だからといって際限のない長時間労働が自動的に容認されるものではありません。「利己主義かチーム主義か」という新機軸に立ち、「効率的な働き方を、個人レベルではなくチーム全体レベルで如何に達成してゆくか」ということを模索すべきです。このテーマで職場環境を思いおこすと、チーム体制の問題に帰着する部分が大きいことにまず気がつくのではないでしょうか。たとえ責任の重い仕事であっても、引き継ぎが十分な体制をとっていれば、チーム全体としての効率性を損ねることなく、一人ひとりの長時間労働問題は解決します。また、特定の人物が責任の重い仕事の担当者として長時間労働している事実は、見方を変えれば、その人物が仕事のボトルネックになっていることを意味します。これはリスクです。共和国でチュチェ51(1962)年に発表された4大軍事路線には、人民軍の「全軍幹部化」という目標があります。これは、たとえ隊長が戦死しても副隊長以下が引き続き戦闘指揮できるように全軍の戦闘能力を高めるという方針ですが、これは引き継ぎ体制を万全にするということを意味します。人民軍の全軍幹部化に学び「職場の全員熟練化」することは、全体効率性の向上による労働時間短縮化にとって必要不可欠でしょう。

引き継ぎ体制を確立させるためには、一人ひとりがチームメンバーとして行動することが必要不可欠です。個人レベルでの効率性を追求している人物をチームに置いておくわけにはいきません。また、前述したとおり「個人レベルでの効率的な働き方」は、同僚から嫌われる危険性が高く、いざというときには仕返し的に長時間労働を押し付けられる可能性があります。その意味では、真の意味での長時間労働打破には到底つながらない底の浅い方法論といえるでしょう。

「利己主義かチーム主義か」――個人の利益を目指すのは当然のことですが、それは果たして周囲・全体にどんな影響をもたらすのでしょうか。あなたが追求している利益は、自分自身の利益と集団の利益を調整し、集団の一員としての責任を果たした「自主的」なものでしょうか。それとも、自己利益のみの追求に終始している「放蕩」でしょうか。私は「自由」という言葉はあまり使わず、「自主」という言葉を使うように努めていますが、自分自身の行動を「自由」ではなく「自主」という言葉で説明しようとすれば、自分自身の行動の性質が見えてくるでしょう。
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2015年12月27日

結局、人材が集まらなくなる

http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/ann?a=20151224-00000000-ann-pol
>> 予想以上の冷たい反応…自民党議員「育休」宣言

テレビ朝日系(ANN) 12月24日(木)0時5分配信


(以下略)<<
自民党にも、よい意味で面白い人がいるもんだなと思っていましたが、逆風が吹いているようです。コメント欄最上位には、もっともらしい理由を並べて「子ども育てる予定があれば、立候補すべきじゃない」という声が寄せられています。岡田氏や蓮舫氏といった泥舟民主党議員までもが、ここぞとばかりに言わないほうがいいようなことを発信しています(民主党は本当にしばらく黙っていたほうがいい・・・全部逆効果だから)。

「○○という立場はxxだから、嫌なら就くな」という論理構造、今回が初めてではありません。たしかに正論ではあり、社会の側が応じる「義務」はありません。しかし、こういう論理を貫いていると、結局のところは多様な人材が集まらなくなるのではないでしょうか? 出産・育児というのは、どの人もだいたい同じくらいの年齢で経験するものです。「出産・育児したいなら、この仕事に就くな」などといっていては、おそらく多くの人は出産・育児のほうを優先するでしょうから、結果的にその年齢層がゴッソリと抜け落ちることに繋がりかねません。最近は「世代間格差」「高齢者優遇政治」が取り沙汰されています(Yahooニュースのコメント欄はその牙城でしょう)が、もしその論理でいくならば、こういう若者層の政治参加を遠ざけかねないことをやっているから、高齢者に有利な構造ができるのではないでしょうか?

どうも最近、世間一般でよく見られる「批判」は、「応じる義務はない⇒だからやらない」というレベルのシロモノばかりが目立ちます。しかし、「応じる義務はない」からといって「だからやらない」というのは短絡的で非生産的です。「義務は無くても、応じたほうが結果的に、長期的・全体的な利益になる」というケースは数多あり、本件などはその典型的な例でしょう。

たとえ長期的・全体的な利益になることは分かっていても、義務でもないこと他人のためにしてやりたくないという気持ちがあるのでしょうか? ちなみに私の身近には、「義務でないなら、直接自分の利益にならないなら、絶対にやらない」という超利己主義・官僚主義的な同僚がいます。そういうのが増殖しているんでしょうか?
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2015年12月20日

共産党員の振る舞いから見て取れる「前提とする人間関係」と「政策の身内共同体的性質」

http://www.sankei.com/west/news/151217/wst1512170077-n1.html
>> 橋下市長最後の議会 共産除く全会派から拍手

 18日の任期満了で退任する橋下徹大阪市長が17日、最後の市議会本会議に出席し、市議86人に別れのあいさつをした。「4年間ありがとうございました」と締めくくると、共産党を除く全会派と傍聴席に集まった市民らが拍手を送った。


(以下略)<<
さすが、共産党は安定の「ムラ社会的反応」。こういう場合、普段の政治的対立は脇において拍手で送り出すのが常識的な対応です。そういう対応ができないあたり、「是々非々の人物評価ができず人物評価を過度に一面化してしまうの思考回路」が見て取れます。

是々非々の人物評価ができず人物評価を過度に一面化してしまうの思考回路――旧ブログ時代から継続して分析を重ねてきた、いわゆる「感情屋」と重なる部分があります。こういう人たちは、他者との距離の取り方・接し方において、まるで家族のように濃密に接するか、あるいは、悪魔祓いのように全面排斥する、換言すれば、「強制的同一化か排斥か」という極端な関係性しか取れません。身内共同体としてのムラ社会ではそうした極端な人間関係の取り方は共同体維持のために必須的ですが、現代社会においては不適切です。

現代社会は、一人ひとりの自主性の追求が是認されています。そのため、現代的人間関係は、一人ひとりの自由意志と必要性に基づく離合自在な人間関係を前提としています(ムラ社会的人間関係・身内共同体原理との決定的違いです)。相手の人格の一部を切り出して同一化を強要したり、あるいはそれを理由に排斥することは決して容認されず、お互いを尊重し合い是々非々の姿勢で接しなければならないのです(はっきり言って私も橋下氏の前衛的発想・文革的方法論は大嫌いですが、今回、共産党が強行したような礼を失する行動は絶対にしません)。ときには「棲み分け」という形で袂を分かつこともありますが、それはあくまでお互いの考え・立場を尊重し合うからこその紳士的な対応です。

私が共産党の政策をどうしても受け入れることが出来ないのは、結局、彼らの思想の底流において、ムラ社会につながる人間関係が見え隠れしているからです。実際に一時期、末端の共産党組織・党関係者と交流を持っていた経験からその危険性を肌で知っていますし、理屈の上でも危ない人間関係を前提として政策を積み上げていると言わざるを得ないからです。表面的に見ると他党と大差の無い常識的な政策に見えても、底流には人間関係がムラ社会・身内共同体を志向する部分があり、「自主性の追求」を侵害しかねない危険な作用すら見られるのです。

たとえば、「国際貿易における保護主義」を初めとする各種の産業保護政策は、決して共産党の専売特許ではありませんが、他党の保護主義は「産業が競争力を持つまで、産業として自立できるまで」という開放的なものです(自民党の族議員共は別ですよ)が、共産党の保護主義は「ムラの和を守るため、産業を全国民の手で養い続けるため」という閉鎖的なものです。ここでは「選択の自主」は蚊帳の外です。これだけ「自己決定権」がクローズアップされる時代にあって、「選択の自主」を省みないのは、もはや「時代のゴミ」と言っても過言ではありません。

この点は、福祉政策ではさらに顕著です。共産党の福祉政策論はいまだに公共部門が独占的にサービスを供給することを「国家の責任」などと言っています。その結果、福祉受給者の生活・自己決定権は「国家の責任」なるもののために制限されてしまいます。他方で北欧、特にスウェーデンでは、福祉受給者自身が公共部門のサービス供給独占に対して異を唱えました。スウェーデンにおいては「福祉とは国が福祉受給者を養うことである」という前提がなく、むしろ「自立志向のノーマライゼーション」が国是だったこともあり、「福祉サービスの選択の自己決定権」が確立されてきました。

「共産党は身内共同体原理に基づく人間関係を前提として理想社会を構想している」――読者諸氏におかれては、ぜひともそういう視点で共産党の政策をレビューしてみていただきたいと思います。そしてその際には、弁証法の体得を自称しているはずなのに彼らの脳内には「個人の自由か全体の平等か」という直線的対立軸しか頭の中に無く、「個人の自由と全体の平等を接合する集団主義的新機軸」がないことも思い起こしていただきたい。表面的な政策の背後に潜む、我々の現代社会の人間関係論とは相当に異なる身内共同体的な性質が見て取れることと思います。

共産党については、今後とも以上の視点で、具体的な政策や事例をネタに、個人的体験も含めて、考えてまいります(今回は予告編・総論的な記事です)。
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2015年12月19日

今野晴貴氏の無邪気なユニオン論――ユニオンに「強制力」と「階級的矜持」はあるのか? ユニオンにも警戒せよ!

だいぶ前の記事になりますが、やっぱり触れておかなければならないので、突拍子も無く取り上げます。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/konnoharuki/20150221-00043235/
>> たかの友梨が「究極のホワイト企業」に変貌

今野晴貴 | NPO法人POSSE代表。雇用・労働政策研究者。 2015年2月21日 13時16分配信


(略)

実際に、すき屋では、わずか1年余りの間に20回以上も労基署から指導されている。要するに、いくら指導されても改善していないということだ。同様に、裁判を起こされたりマスコミから叩かれたりした企業は、「一時的に改善する」ことはあるものの、監視機関がないのをいいことに、またすぐにもとの体質に戻ってしまう。

これらと比べ、たかの友梨の新しさは、ユニオンとの労働協約によって改善したということだ。法律遵守の約束はもちろん、法律を上回る水準のルールを設けたうえ、今後会社が労働条件を悪化させないように、ユニオンがチェックと交渉を続けることができる。

これこそが、たかの友梨が「究極のホワイト企業」に転換していくと評価できるポイントだ。職場にユニオンができ、継続的に交渉していくのであれば、体質がもとに戻らないように監視することができる。また、継続的な改善を話し合いで進めていくことにもなるだろう。

もちろん、改善が実らない可能性がないわけではない。「究極のホワイト企業への変貌」はそういう意味では、筆者の希望的観測でもある。

だが、「本当に改善しているのか、外からは全然わからない」、「叩かれた一時的に対処するが、継続的な改善はしない」という従来のブラック企業に比べれば、「たかの友梨」は確実に「改善への道」を踏み出している。

「叩かれたから一時的に良くする」という対処療法とは、根本的に異なっているのだ。

こうした点から、ユニオンと会社の継続的な交渉の広がりは、「ブラック企業対策の決め手」であると私は思っている。今回の成果が世の中に広がり、ブラック企業が「ホワイト企業」に転換することも願っている。


(後略)<<
■本当にユニオンは「実効的」なのか?
他のブラック企業の改善ケースと異なり、「たかの友梨」の件においては、「ユニオンとの労働協約によって改善した」という点が「新し」く、「裁判を起こされたりマスコミから叩かれたりした企業は、「一時的に改善する」ことはあるものの、監視機関がないのをいいことに、またすぐにもとの体質に戻ってしまう」が、「職場にユニオンができ、継続的に交渉していくのであれば、体質がもとに戻らないように監視することができる」ので、「ブラック企業対策の決め手」になるそうです。「筆者の希望的観測でもある」などと予防線を張っていますが、「希望的観測」を超えて「事例を都合よく解釈して飛びついている」というべきレベルです。

もちろん、「裁判を起こされたりマスコミから叩かれたりした企業は、(中略)監視機関がないのをいいことに、またすぐにもとの体質に戻ってしまう」という今野氏の指摘はまったく正しい指摘です。しかし、問題はそこではありません。では、ユニオンに「強制力」はあるのでしょうか? また、ユニオンは「階級的矜持」を保持し続けられるのでしょうか?

チュチェ104(2015)年10月8日づけ「「日本の労働組合活動の復権は始まっている」のか?――労組活動は労働者階級の立場を逆に弱め得る」をはじめとして繰り返し指摘してきたように、労働者が真の意味で自主的になるためには、企業側に足許を見られないために特定の勤め先に対する依存度を下げる、企業の「労働需要独占者」としての地位を掘り崩す必要があります。そのためには、労働者階級は交渉力を持つべく「辞めるよ?」という牽制手段が必要なのです。

逆に、そうした牽制手段の無い中途半端な状態、企業に対して「辞めるよ?」と言えない立場で、団体交渉等によって特定の勤め先から「譲歩」を勝ち取り、その獲得物を自らの生活に組み込むことは、特定の勤め先に対する依存度を逆に上げることに繋がります。

率直に言って、ユニオン単独で企業の「労働需要独占者」としての地位を掘り崩す力はないと言うべきです。ユニオンは「無産階級の一部」が集まっただけである点、生産手段を持っておらず、「労働不売運動」を組織化することも容易ではありません。企業に対して労働市場を通した経済的影響力を持つことが出来ないのです。同時に、「商品不買運動」を単独で組織するほどの力もありません。企業に対して商品市場を通した経済的影響力を持つことも出来ないのです。労働需要独占者としての企業に対峙するには、ユニオン単独では圧倒的に不利な状況というべきです(だからこそ労働基準法のような、私法を補完する社会法が特別に立法されているのです)。

■労働法に基づいて権力行使する労基署でさえ無力なのに、被用者がどういう「力」を持っているのか?
そして、今野氏自身も「すき屋では、わずか1年余りの間に20回以上も労基署から指導されている。要するに、いくら指導されても改善していないということだ。」というくだりで認めているように、労働基準監督署、つまり労働法は無力です。特別司法警察の権限をもつ労働基準監督官が労働法を基に行政指導しているのにまるで影響力がないのなら、なんの権力も無いユニオンにどれだけの法的な力があるというのでしょうか? ユニオンの手持ちカードは、法的にも経済的にも不十分であり、要するにユニオンは単独では無力であると言わざるを得ないのです。そんな無力な方法論を「ブラック企業対策の決め手」などと無邪気に絶賛してしまう今野氏。普通に考えれば、事象は他の要素が作用した結果と見るべきであり、それを労組活動の成果などとコジツケるのは「都合のよい事象に飛びついている」というべきレベルです。

■企業の「労働需要独占者」としての地位を掘り崩すためには、労組的団結ではなく労働市場を活用すべき
事は経済です。企業の「労働需要独占者」としての地位を掘り崩すためには、「競争的市場の基本原理」を上手く最大限に活用するほかありません。前掲過去ログでも指摘しているように、市場経済における「評判」は決定的な作用をもたらします。「たかの友梨」の件は結局は、女性顧客相手の商売なのに女性従業員に対して社会通念的に不当な扱いをしたという事実が広く報道されてしまったので、商品市場・労働市場における自社の「評判」に悪影響を及ぼさないよう善処したと見るべきでしょう。お客さんに逃げられたら企業はお終いですし、今の従業員は使い潰せばいいとして、来年以降の新規求職者が集まらなければ、長期的には事業を継続し得ません。仮にユニオンが激烈な階級闘争を展開していたとしても、あのように報道されていなかったら、つまり、企業の評判に傷がつかなかったとしたならば、「たかの友梨」側は、法的にも経済的にもほとんど何の影響力もない弱小ユニオンなど完全に無視していたことでしょう。「たかの友梨」は、労組の圧力に根負けしたのではなく、自社のイメージを守るために戦略的に対応したというべきです。ワタミの件もすき家の件も、効果は一時的だったのかもしれません(そうは思いませんけど)が、一時期であっても絶大だった本質の部分は、そうでした。

■労組の役割は限定的
つまり、「たかの友梨」の件でユニオンが果たした役割は、実は「事実を世間に告発した」という点に限られるのです。もちろん、それ自体は重要不可欠なことであり、こうした「競争的市場の基本原理」を意識した活動をする限りにおいてのみ労働組合は不可欠であると思います。効果を一時的なものにしないために、継続して告発してゆくことは大切でしょう。

しかし、それは十分ではありません。かつて、「派遣村」を筆頭とする非正規労働者に対する救済に対して一般労働者からも苦言が呈されたように、日本社会が全体として救済に対して厳しい見解を持っている点、「世論の圧力」頼みの労働環境改善は不十分です。いまだに自己責任論は根強い支持を保っており、今後も当面は維持されるものと見られます。「たしかにブラック企業は問題かもしれないが、そういう企業に勤めているのは結局は自分の能力の問題だし、日本はそういう企業がのさばるレベルの国家に過ぎないんだ」と突き放す意見も、当否はさておき(私は否だと思いますけど)根強いものがあります。

その点、チュチェ103(2014)年8月31日づけ「ユニオンが転職支援する大きな意味――「鉄の団結」は必要ない」でも述べたように、「転職支援」という形で、無産階級なりに市場メカニズムを上手く活用して、企業の「労働需要独占者」としての地位を、ユニオン自身が主体的に掘り崩すべきだとも思います。労働者一人ひとりがそれぞれ行ってもよいのですが、現実的に考えて、ブラック企業の魔の手から逃れるための転職を自力更生で行うことは難しいので、労組が積極的に支援することは必要だと思います。こうした活動もまた、「競争的市場の基本原理」を意識している点において、労働組合の有用かつ不可欠な役割であると思います。上掲過去ログはまさに「たかの友梨」の件で、そして筆者はなんと今野氏その人なのですが、以前と比べてウェイトを置く場所が変わってしまっているようです。残念なことです。

ここまでは、今までの記事でも述べてきたことの、おさらいのようなものです。続けます。

■ブラック企業に「期待」をかける労組活動家の言説は、背信的・犯罪的でさえある
今野氏の言説の悪影響は、「無力」にとどまりません。ある程度社会的にも著名な労組活動家がこういう法的・経済学的裏づけの無い戦略性にかける稚拙な方法論を絶賛することの階級的不利益は、背信的・犯罪的ですらあります。

今野氏の言説を真に受けて実践した労働者が、企業側から「譲歩」を勝ち取ったとしても、それはあくまで政略的な「妥協」にすぎません。そんなものに無邪気に飛びついた彼・彼女は、その獲得物を自らの生活費に組み込み、それを基に将来の生活ビジョンを構想することでしょう。獲得物が大きければ大きいほど、夢は膨らみ費用も膨らむものです。なんとしてでも成果物を保衛し拡大しなければなりません。年齢を重ねるにつれて費用はドンドン増え、他方で再就職先も少なくなってきます。そして、いざ逃げられない状態になって初めて、立ち位置を思い知ることでしょう――なんとしてでもこの会社で勤め続けなければならない! 見事に会社の子分になり果てるでしょう。ユニオンとその構成員たちが特定企業と経済的に密接に関係しつつも「階級的矜持」を保持し続けるのは、当人たちの思想意識に関わらず、なかなか難しいと言わざるを得ないでしょう。

そもそも、労働者の人権・尊厳を踏みにじることに何の躊躇も感じないブラック経営者・ブラック資本家が、労働者・労組の訴えを受け入れ、心を入れ替えて真に、継続的な労働環境の改善、人権の尊重に踏み出すと本気で思っているのでしょうか? 笑ってしまうくらい安っぽいヒューマニズム物語です。間違いなく政略的な妥協です。私が言うのもアレですが、事は階級闘争だという認識を少しは持った方がよいでしょう。どうも最近のブラック企業問題においては、ブラック経営者・ブラック資本家に対する「甘さ」が見え隠れします

■ユニオンは労働貴族化しないのか?――ブラック企業も労働貴族も「利己主義精神」の点においては「同じ穴の狢」
あるいは、ユニオンが労働貴族のサロン・クラブと化することも十分にあり得るでしょう。労働貴族は搾取階級の共犯者であり、ブラック企業の手先です。以前の記事でも指摘したように、同質の教育を受けて人格形成してきた人たちが、ある人々はブラック経営者・ブラック資本家になり、ある人々は奴隷的労働者になる事実は、日本社会そのものに「ブラック○○」を人格的に準備する要素があるというべきですが、これはすなわち、日本社会そのものに労働貴族を人格的に準備する要素があるとも言えます。

どうも最近のブラック企業問題においては、前述の「甘さ」に加えて、労働貴族問題についての言及、積極的な労働運動が次第に変節し御用組合化していった歴史的経緯についての言及が弱いように思えてなりません。何か変な幻想でも持っているのでしょうか? 「共産党員は絶対に腐敗・変節しない!」みたいな(そんな人間、毛主席語録の中にしかいませんって)。歴史的にこうも多くの現実の労働組合員が変節し、貴族化していったところを見ると、「企業側からの譲歩」という甘い罠にかかってしまい渋々、企業に付き従っているわけではなく、労働貴族を自らの心の内で合理化する素地、ブラック経営者・ブラック資本家と結託する素地、非組織労働者やヒラの労働組合員よりも、労組幹部としての自分自身の出世・生活を優先して憚らない利己主義の精神があるといってよいでしょう。

事の本質が「利己主義精神」であるならば、ユニオンだけが例外とは言えません。既存労組と比較してユニオンだけを例外化できる要素は見当たりません。要求実現型労組運動の歴史的教訓から見るに、今話題のユニオンは、単に利権を獲得していないために失うものは何もなく、むしろタカればタカるほど利権を獲得できるから積極的に企業と闘争しているだけで、それなりの地位を占めるようになれば一気に保守化するというのは目に見えているというべきでしょう。やはり、ユニオンとその構成員たちが特定企業と経済的に密接に関係しつつも「階級的矜持」を保持し続けると見るには困難があります。

■ユニオンも競争淘汰されなければならない
ユニオンが「労働貴族の荘園」と化さないためには、ユニオンもまた個別労働者のチェックをうけなければならず、役に立たないユニオンは淘汰されなければなりません。 その点では、「労働不売運動の組織化」は現実的ではありません。そういう方法論を実現させるためには、「鉄の団結」が必要になってしまうからです。鉄の団結は腐敗の温床です。

一人ひとりの生活者の自主権の問題として労働問題の解決は、「競争的市場の基本原理」を意識しながら特定企業との癒着・依存を絶ち、自分自身の自主的立場を担保するパワーを確保すると同時に、「労組も所詮は欲のある人間の組織」という現実的な認識に立ち、「労組の階級的矜持」などという心許ないものに過度な期待を寄せず、単純な二分法に基づいて短絡的に労組に組するのではなく、特定労組との癒着についても警戒を持って、自主的・取捨選択的に対応しなければならないのです。自主的・取捨選択!
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2015年12月12日

「不当廉売」と同じように「破格の高給好待遇」は労働需要独占につながる――高給好待遇の話題に飛びついてはいないだろうか?

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151212-00000014-asahi-soci
>> ガソリン原価割れ販売、コストコを警告へ 公取委

朝日新聞デジタル 12月12日(土)9時44分配信

 愛知県常滑市のガソリンスタンド(GS)が安売り競争でガソリンを原価割れで販売し、周りの業者が営業を続けられない恐れがあったとして、公正取引委員会は11日、外資系量販店を運営するコストコホールセールジャパン(川崎市)など2社を独占禁止法違反(不当廉売)で警告する方針を固めた。


(以下略)<<
不当廉売がなぜ問題なのか、それは短期的には消費者の利益になっても長期的には資本力のある一部供給者の商品供給独占に至り、需要者(消費者)の利益を害することになるからです。いったん商品供給独占が成立してしまうと、それを打破する新企業を育成するのは難しく、市場は独占企業の意のままに操られることになり、販売価格が吊り上げられたとしても消費者はただ従うしかなくなります。

市場経済は競争経済であり、経営努力が要求されます。敗者は市場からの退出を求められます。しかし、そうはいっても「競争的な市場を破壊するほどの徹底的な競争」は、上述の長期的視野の点から肯定されません。「巨大な資本力を生かして長期的に企業利益を増大させる」という尤もらしいお題目を掲げようとも、市場は公器でありそれを破壊することは許されません。不当廉売は競争的市場経済を破壊しかねないルール違反であり、「市場経済において許容される経営努力」には当たらず、「消費者に価値ある商品を破格の安さで提供している」とは見なされないのです。

不当廉売禁止は商品供給独占を防ぐためのルールですが、独占は商品供給独占だけではありません。生産要素需要独占もまた独占であり、この場合は、商品の仕入れ値、あるいは労賃を買い叩かれることになりかねません。そうした視点から、またしてもコストコ社ですが、下記の記事を読んでみましょう。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151207-00000005-jct-bus_all&p=1
>> コストコバイト、地方で「時給1200円」 地域の最低賃金はるかに上回り、近隣店に衝撃

J-CASTニュース 12月7日(月)18時58分配信

 アメリカ発祥の会員制量販店「コストコ・ホールセール」(コストコ)は地方出店にあたり、その地域の最低賃金をはるかに上回る高い時給でアルバイト・パート従業員を雇用している。

 近隣店舗の時給と差が生まれている状況だが、ネットで「すばらしい」「外資系の方が日本経済に貢献している」と賞賛されている。

■最低賃金を400円上回る「好待遇」

 2015年11月20日、国内24店舗目となる岐阜羽島倉庫店が岐阜県羽島市にオープンした。時給はポジションによって分かれ、最低でも1200円。深夜、祝日勤務になると1500円〜1600円まで跳ね上がる。岐阜労働局が発表している県最低賃金は746円で、コストコの時給はその1.6倍という「好待遇」だ。

 これをうけてか、近隣に出店していたある大型チェーンストアが12月に時給を上げている。公式サイトの求人募集を見る限り、資材商品管理を担当するパート従業員の時給は11月末時点で780円、12月6日までに820円、7日に900円と徐々に上がった。岐阜県内の同一店舗で同じ業務に携わるパート従業員の時給としては、最も高くなった。日曜、祝日勤務はさらに100円上がる。県の最低賃金や市内にある他店の求人募集内容と比較すると、これでも十分高いと言えるが、コストコの時給には及ばない。

 こうした様子が12月5日頃、インターネット上で広まり、

  「コストコの時給が素敵すぎ」
  「すばらしい」

といった肯定的な声が多く寄せられた。中には「外資系の方が日本経済に貢献している」との指摘もあった。

 この「好待遇」ぶりは、地域に何らかの影響を及ぼしているのか。羽島市に実家があるという男性は、J-CASTニュースの取材に「羽島市に住む母から、コストコが周りの店舗の人手を奪っているという趣旨の話を聞いた」と明かす。一方で羽島商工会議所の担当者は取材に「あんまり人(手)が集まっていないと聞きますけどね」と話しており、真相は分からない。


(以下略)<<
この時代に相場より高い労賃を支払っていることを肯定的に捉える向きが多いようですが、これも行き過ぎると他の事業者が追随できないような「不当高給」となり、結局は、生産要素需要独占に至る可能性があります。不当廉売からの商品供給独占と同じ構図です。

生産要素需要独占まで行かなくとも、市場平均よりも相当によい破格の高給好待遇を提示している特定企業の納入業者・下請け業者・労働者募集に応じ、その好待遇を自己の生活に組み込むことは、以前の記事から繰り返し述べているように、その企業に対する依存度を高めることになり、みずから自主を放棄する道にもなりかねません。

チュチェ104(2015)年10月8日づけ「「日本の労働組合活動の復権は始まっている」のか?――労組活動は労働者階級の立場を逆に弱め得る」においても述べたように、人々が真の意味で自主的になるためには、相手に足許を見られないために相手に対する依存度を下げ、相互牽制的であることが必要です。経済活動においては、競争的な市場システムがそれに絶大な威力を発揮することが歴史的に示されています。今日の生活・今月の給料が大切なのは当然ですが、5年後10年後のことも考えると、他社が追随できないような破格の高給好待遇を提示してくる企業には注意しなればなりません

目の前の高給好待遇は、長期的には生産要素需要独占への道ではありませんか? それは結局、不当廉売と同じような経済的帰結をもたらしませんか? 昨今はブラック企業問題、派遣労働問題といった労働者にとっての受難の時代で、高給好待遇の話題に飛びつきたくなる気持ちも分かりますが、騙されてはなりません。

※コストコ社が労働(生産要素)需要独占をもくろんで不当高給を支払っていると言っているわけではありません。経済学的に分析したとき、そういう可能性があると言っているだけです。
posted by s19171107 at 19:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする