だいぶ前の記事になりますが、やっぱり触れておかなければならないので、突拍子も無く取り上げます。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/konnoharuki/20150221-00043235/>> たかの友梨が「究極のホワイト企業」に変貌
今野晴貴 | NPO法人POSSE代表。雇用・労働政策研究者。 2015年2月21日 13時16分配信
(略)
実際に、すき屋では、わずか1年余りの間に20回以上も労基署から指導されている。要するに、いくら指導されても改善していないということだ。同様に、裁判を起こされたりマスコミから叩かれたりした企業は、「一時的に改善する」ことはあるものの、監視機関がないのをいいことに、またすぐにもとの体質に戻ってしまう。
これらと比べ、たかの友梨の新しさは、ユニオンとの労働協約によって改善したということだ。法律遵守の約束はもちろん、法律を上回る水準のルールを設けたうえ、今後会社が労働条件を悪化させないように、ユニオンがチェックと交渉を続けることができる。
これこそが、たかの友梨が「究極のホワイト企業」に転換していくと評価できるポイントだ。職場にユニオンができ、継続的に交渉していくのであれば、体質がもとに戻らないように監視することができる。また、継続的な改善を話し合いで進めていくことにもなるだろう。
もちろん、改善が実らない可能性がないわけではない。「究極のホワイト企業への変貌」はそういう意味では、筆者の希望的観測でもある。
だが、「本当に改善しているのか、外からは全然わからない」、「叩かれた一時的に対処するが、継続的な改善はしない」という従来のブラック企業に比べれば、「たかの友梨」は確実に「改善への道」を踏み出している。
「叩かれたから一時的に良くする」という対処療法とは、根本的に異なっているのだ。
こうした点から、ユニオンと会社の継続的な交渉の広がりは、「ブラック企業対策の決め手」であると私は思っている。今回の成果が世の中に広がり、ブラック企業が「ホワイト企業」に転換することも願っている。
(後略)<<
■本当にユニオンは「実効的」なのか?
他のブラック企業の改善ケースと異なり、「たかの友梨」の件においては、「
ユニオンとの労働協約によって改善した」という点が「
新し」く、「
裁判を起こされたりマスコミから叩かれたりした企業は、「一時的に改善する」ことはあるものの、監視機関がないのをいいことに、またすぐにもとの体質に戻ってしまう」が、「
職場にユニオンができ、継続的に交渉していくのであれば、体質がもとに戻らないように監視することができる」ので、「
ブラック企業対策の決め手」になるそうです。「
筆者の希望的観測でもある」などと予防線を張っていますが、「希望的観測」を超えて「事例を都合よく解釈して飛びついている」というべきレベルです。
もちろん、「
裁判を起こされたりマスコミから叩かれたりした企業は、(中略)
監視機関がないのをいいことに、またすぐにもとの体質に戻ってしまう」という今野氏の指摘はまったく正しい指摘です。しかし、問題はそこではありません。
では、ユニオンに「強制力」はあるのでしょうか? また、
ユニオンは「階級的矜持」を保持し続けられるのでしょうか?チュチェ104(2015)年10月8日づけ「
「日本の労働組合活動の復権は始まっている」のか?――労組活動は労働者階級の立場を逆に弱め得る」をはじめとして繰り返し指摘してきたように、労働者が真の意味で自主的になるためには、企業側に足許を見られないために特定の勤め先に対する依存度を下げる、
企業の「労働需要独占者」としての地位を掘り崩す必要があります。そのためには、労働者階級は交渉力を持つべく
「辞めるよ?」という牽制手段が必要なのです。
逆に、そうした牽制手段の無い中途半端な状態、企業に対して「辞めるよ?」と言えない立場で、団体交渉等によって特定の勤め先から「譲歩」を勝ち取り、その獲得物を自らの生活に組み込むことは、特定の勤め先に対する依存度を逆に上げることに繋がります。
率直に言って、ユニオン単独で企業の「労働需要独占者」としての地位を掘り崩す力はないと言うべきです。ユニオンは「無産階級の一部」が集まっただけである点、生産手段を持っておらず、「労働不売運動」を組織化することも容易ではありません。企業に対して労働市場を通した経済的影響力を持つことが出来ないのです。同時に、「商品不買運動」を単独で組織するほどの力もありません。企業に対して商品市場を通した経済的影響力を持つことも出来ないのです。
労働需要独占者としての企業に対峙するには、ユニオン単独では圧倒的に不利な状況というべきです(だからこそ労働基準法のような、私法を補完する社会法が特別に立法されているのです)。
■労働法に基づいて権力行使する労基署でさえ無力なのに、被用者がどういう「力」を持っているのか?
そして、今野氏自身も「
すき屋では、わずか1年余りの間に20回以上も労基署から指導されている。要するに、いくら指導されても改善していないということだ。」というくだりで認めているように、
労働基準監督署、つまり労働法は無力です。特別司法警察の権限をもつ労働基準監督官が労働法を基に行政指導しているのにまるで影響力がないのなら、なんの権力も無いユニオンにどれだけの法的な力があるというのでしょうか? ユニオンの手持ちカードは、法的にも経済的にも不十分であり、
要するにユニオンは単独では無力であると言わざるを得ないのです。そんな無力な方法論を「
ブラック企業対策の決め手」などと無邪気に絶賛してしまう今野氏。普通に考えれば、事象は他の要素が作用した結果と見るべきであり、それを労組活動の成果などとコジツケるのは「都合のよい事象に飛びついている」というべきレベルです。
■企業の「労働需要独占者」としての地位を掘り崩すためには、労組的団結ではなく労働市場を活用すべき
事は経済です。企業の「労働需要独占者」としての地位を掘り崩すためには、
「競争的市場の基本原理」を上手く最大限に活用するほかありません。前掲過去ログでも指摘しているように、
市場経済における「評判」は決定的な作用をもたらします。「たかの友梨」の件は結局は、女性顧客相手の商売なのに女性従業員に対して社会通念的に不当な扱いをしたという事実が広く報道されてしまったので、商品市場・労働市場における自社の
「評判」に悪影響を及ぼさないよう善処したと見るべきでしょう。
お客さんに逃げられたら企業はお終いですし、今の従業員は使い潰せばいいとして、来年以降の新規求職者が集まらなければ、長期的には事業を継続し得ません。仮にユニオンが激烈な階級闘争を展開していたとしても、
あのように報道されていなかったら、つまり、企業の評判に傷がつかなかったとしたならば、「たかの友梨」側は、法的にも経済的にもほとんど何の影響力もない弱小ユニオンなど完全に無視していたことでしょう。「たかの友梨」は、労組の圧力に根負けしたのではなく、自社のイメージを守るために戦略的に対応したというべきです。ワタミの件もすき家の件も、効果は一時的だったのかもしれません(そうは思いませんけど)が、一時期であっても絶大だった本質の部分は、そうでした。
■労組の役割は限定的
つまり、
「たかの友梨」の件でユニオンが果たした役割は、実は「事実を世間に告発した」という点に限られるのです。もちろん、それ自体は重要不可欠なことであり、こうした「競争的市場の基本原理」を意識した活動をする限りにおいてのみ労働組合は不可欠であると思います。
効果を一時的なものにしないために、継続して告発してゆくことは大切でしょう。
しかし、それは十分ではありません。かつて、「派遣村」を筆頭とする非正規労働者に対する救済に対して一般労働者からも苦言が呈されたように、
日本社会が全体として救済に対して厳しい見解を持っている点、「世論の圧力」頼みの労働環境改善は不十分です。いまだに自己責任論は根強い支持を保っており、今後も当面は維持されるものと見られます。「たしかにブラック企業は問題かもしれないが、そういう企業に勤めているのは結局は自分の能力の問題だし、日本はそういう企業がのさばるレベルの国家に過ぎないんだ」と突き放す意見も、当否はさておき(私は否だと思いますけど)根強いものがあります。
その点、チュチェ103(2014)年8月31日づけ「
ユニオンが転職支援する大きな意味――「鉄の団結」は必要ない」でも述べたように、
「転職支援」という形で、無産階級なりに市場メカニズムを上手く活用して、企業の「労働需要独占者」としての地位を、ユニオン自身が主体的に掘り崩すべきだとも思います。労働者一人ひとりがそれぞれ行ってもよいのですが、現実的に考えて、ブラック企業の魔の手から逃れるための転職を自力更生で行うことは難しいので、労組が積極的に支援することは必要だと思います。こうした活動もまた、「競争的市場の基本原理」を意識している点において、労働組合の有用かつ不可欠な役割であると思います。上掲過去ログはまさに「たかの友梨」の件で、そして筆者はなんと今野氏その人なのですが、以前と比べてウェイトを置く場所が変わってしまっているようです。残念なことです。
ここまでは、今までの記事でも述べてきたことの、おさらいのようなものです。続けます。
■ブラック企業に「期待」をかける労組活動家の言説は、背信的・犯罪的でさえある
今野氏の言説の悪影響は、「無力」にとどまりません。ある程度社会的にも著名な労組活動家がこういう法的・経済学的裏づけの無い戦略性にかける稚拙な方法論を絶賛することの
階級的不利益は、背信的・犯罪的ですらあります。
今野氏の言説を真に受けて実践した労働者が、企業側から「譲歩」を勝ち取ったとしても、それはあくまで
政略的な「妥協」にすぎません。そんなものに無邪気に飛びついた彼・彼女は、その獲得物を自らの生活費に組み込み、それを基に将来の生活ビジョンを構想することでしょう。獲得物が大きければ大きいほど、夢は膨らみ費用も膨らむものです。なんとしてでも成果物を保衛し拡大しなければなりません。年齢を重ねるにつれて費用はドンドン増え、他方で再就職先も少なくなってきます。
そして、いざ逃げられない状態になって初めて、立ち位置を思い知ることでしょう――なんとしてでもこの会社で勤め続けなければならない! 見事に会社の子分になり果てるでしょう。ユニオンとその構成員たちが特定企業と経済的に密接に関係しつつも「階級的矜持」を保持し続けるのは、当人たちの思想意識に関わらず、なかなか難しいと言わざるを得ないでしょう。
そもそも、労働者の人権・尊厳を踏みにじることに何の躊躇も感じない
ブラック経営者・ブラック資本家が、労働者・労組の訴えを受け入れ、
心を入れ替えて真に、継続的な労働環境の改善、人権の尊重に踏み出すと本気で思っているのでしょうか? 笑ってしまうくらい安っぽいヒューマニズム物語です。間違いなく政略的な妥協です。私が言うのもアレですが、
事は階級闘争だという認識を少しは持った方がよいでしょう。
どうも最近のブラック企業問題においては、ブラック経営者・ブラック資本家に対する「甘さ」が見え隠れします。
■ユニオンは労働貴族化しないのか?――ブラック企業も労働貴族も「利己主義精神」の点においては「同じ穴の狢」
あるいは、ユニオンが
労働貴族のサロン・クラブと化することも十分にあり得るでしょう。
労働貴族は搾取階級の共犯者であり、ブラック企業の手先です。
以前の記事でも指摘したように、同質の教育を受けて人格形成してきた人たちが、ある人々はブラック経営者・ブラック資本家になり、ある人々は奴隷的労働者になる事実は、日本社会そのものに「ブラック○○」を人格的に準備する要素があるというべきですが、これはすなわち、日本社会そのものに労働貴族を人格的に準備する要素があるとも言えます。
どうも最近のブラック企業問題においては、前述の「甘さ」に加えて、
労働貴族問題についての言及、積極的な労働運動が次第に変節し御用組合化していった歴史的経緯についての言及が弱いように思えてなりません。何か変な幻想でも持っているのでしょうか? 「共産党員は絶対に腐敗・変節しない!」みたいな(そんな人間、毛主席語録の中にしかいませんって)。歴史的にこうも多くの現実の労働組合員が変節し、貴族化していったところを見ると、「企業側からの譲歩」という甘い罠にかかってしまい渋々、企業に付き従っているわけではなく、労働貴族を自らの心の内で合理化する素地、ブラック経営者・ブラック資本家と結託する素地、非組織労働者やヒラの労働組合員よりも、労組幹部としての自分自身の出世・生活を優先して憚らない
利己主義の精神があるといってよいでしょう。
事の本質が「利己主義精神」であるならば、ユニオンだけが例外とは言えません。既存労組と比較してユニオンだけを例外化できる要素は見当たりません。
要求実現型労組運動の歴史的教訓から見るに、今話題のユニオンは、単に利権を獲得していないために失うものは何もなく、むしろ
タカればタカるほど利権を獲得できるから積極的に企業と闘争しているだけで、それなりの地位を占めるようになれば一気に保守化するというのは目に見えているというべきでしょう。やはり、ユニオンとその構成員たちが特定企業と経済的に密接に関係しつつも「階級的矜持」を保持し続けると見るには困難があります。
■ユニオンも競争淘汰されなければならない
ユニオンが「労働貴族の荘園」と化さないためには、ユニオンもまた個別労働者のチェックをうけなければならず、役に立たないユニオンは淘汰されなければなりません。 その点では、「労働不売運動の組織化」は現実的ではありません。そういう方法論を実現させるためには、「鉄の団結」が必要になってしまうからです。鉄の団結は腐敗の温床です。
一人ひとりの生活者の自主権の問題として労働問題の解決は、「競争的市場の基本原理」を意識しながら特定企業との癒着・依存を絶ち、自分自身の自主的立場を担保するパワーを確保すると同時に、
「労組も所詮は欲のある人間の組織」という現実的な認識に立ち、「労組の階級的矜持」などという心許ないものに過度な期待を寄せず、単純な二分法に基づいて短絡的に労組に組するのではなく、
特定労組との癒着についても警戒を持って、自主的・取捨選択的に対応しなければならないのです。
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