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>>> これは何かの冗談ですか? 小学校「道徳教育」の驚きの実態 法よりも道徳が大事なの!?■木村草太センセーの特殊な「普遍的」価値論
現代ビジネス 1月26日(火)11時1分配信
文/木村草太(憲法学者)
(中略)
骨折という事故はスルー?
一例として、少し前からインターネット上で話題になっている道徳教材について検討してみよう。
(中略)
読者の皆さんは、この教材を見てどう思うだろうか。シッカリトシタ学校教育を受けたリョウシキアル方々は、「人の失敗を許すのは大切だ。これを機にクラスの団結力を高めよう」と思うのかもしれない。
実際、この教材の解説にも、「相手を思いやる気持ちを持って、運動会の組体操を成功に導こう」という道徳目標が示されている。教材の実践報告にも、「この実践後の組体操の練習もさらに真剣に取り組み、練習中の雰囲気もとてもよいものになった」と誇らしげな記述がある。そこには、骨折という事故の重大さは、まるで語られていない。
学校は治外法権?
これが交通事故だったら、運転者は十分に注意をしていたのか、車はきちんと整備されていたのか、道路の整備に不備はなかったのか、など、原因がしっかりと追究されるだろう。そして、原因に対して誰かが責任をとり、そのような事故の再発をいかにして防止するかが議論されるだろう。
なぜ、学校が舞台になると、「骨折ぐらいは仕方ない。お互いに許して団結しよう」という話になってしまうのだろうか。この教材を見た時、私は、「法とは何なのか」をあらためて真剣に考えなくてはならないと思った。
法的に見ると、つよし君が参加した組体操は、違法の可能性が高い。
(中略)
しかし、この教材は、「困難を乗り越え、組体操を成功させる」という学校内道徳の話に終始する。学校内道徳が、法規範の上位にあるのだ。いや、もっと正確に言えば、学校内道徳が絶対にして唯一の価値とされ、もはや法は眼中にない。法の支配が学校には及んでいないようだ。これは治外法権ではないのか。
(中略)
ただ、今必要な「法とは何か」という問いの答えは、いたってシンプルだ。法の本質は、法と法以外の規範(例えば、道徳や校則、会社規則など)との違いを考えれば分かる。つまり、法の本質は、「普遍的な価値を追求する規範だ」という点にある。
(中略)
法以外の規範とはなにか?
もちろん、法以外の規範がすべて悪いものだ、ということではない。
ただ、法以外の規範の特徴は、「普遍性を持たない」ことにある。つまり、特殊集団のための規範だ。
道徳は同じ道徳観をもつ人たちの間のルール、校則は学校に通う人たちの間のルール、会社規則は会社に勤める人たちの間のルールだ。特別な集団の中で、独自のルールがあった方が、コミュニケーションがスムーズに進むということはよくある。「みんなで団結してがんばるのが好き」な人が集まって、辛い試練に耐えて頑張るのは、それはそれですばらしいことだろう。
しかし、内部の人にとっては守るべきルールであっても、その外部にいる人たちには自分たちのルールを押し付けることは許されない。
さらに、「そのルールに従う集団に入るか否かは、当人の自由な意思に委ねなければならない」のが大前提だ。逆に言えば、参加するか否かの自由が保障されない集団では、内部ルールにも普遍性が要求されることになる。
また、内部ルールはいくらでも自由に定めてよい、というものではない。あくまで法に違反しない範囲で定めなければならない。たとえば、ある会社で、残業手当を払わないという規則があったとしても、それは労働基準法違反で許されない。
(中略)
もちろん、「嫌いだから」というだけで、学校のカリキュラムをすべて拒否して良いはずはない。ただ、学校が子どもたちに義務付けてよい教育内容には、普遍的な価値が要求される。
そして、教育内容は、その普遍的な価値を実現するのに効果的で、かつ、弊害の生じないものが選ばれなければならない。これを行政法の世界では、「比例原則」とよぶ。
では、組体操への参加を強制することに、普遍的に説明できる価値はあるのだろうか。また、それは、組体操以外の安全な競技では得られないものなのか。
組体操は、骨折はもちろん、場合によって死の危険もあるほど危険な競技だ。それを強要するなら、これらの疑問に誠実に答える必要がある。「クラスの団結力を高める」、「困難を努力で乗り越える」という程度の教育目的では、あえて、組体操という危険な競技を選ぶことを正当化することは不可能だろう。
しかし、今回紹介した道徳教材には、こうした問題意識は微塵も感じられない。その原因は、学校内道徳を絶対的な価値と思い込んでいることにあるだろう。その盲目的な態度は、一般社会であれば当然に思い至るべき疑問を持つこと自体を圧殺してしまう。
(中略)
組体操事故を教材にするなら、子ども達に、次のような問いを投げかけるべきだ。
「この事故の原因は何だと思いますか?」
「骨折は、その子から、どのような可能性を奪いますか?」
「この事故について、指導をしていた先生は、どのような責任を負うべきですか?」
「学校がいくらの賠償金を払えば、骨折したことに納得できますか?」
「骨折という重大事故にもかかわらず、組体操を中止しない判断は正しい判断ですか?」
「バランスが崩れても、一人もケガをしないようにピラミッドを作ることはできますか?」
「運動会で組体操を行わせることは、適法だと思いますか?」
こうした問いについて考えれば、それぞれの人が異なる価値観を持っていること、異なる価値の共存のために普遍的なルール作りが必要であることを学ぶことができるだろう。また、実際の民法や刑法が、これらの問題にどんな答えを出しているかを学ぶ機会にもなる。 こう言うと、「法学の授業が大事なのは分かるが、法学は難しすぎて、道徳の授業と置き換えるのは無理だ」と思う人もいるかもしれない。しかし、法学の基本となる考え方や法律の基本的な内容は、それほど難しいものではない。
(以下略)<<<
組体操での骨折事故をテーマにした広島県の道徳教材が「普遍的価値」に基づかない「特殊集団の価値観」に基づく教材であり、そんな教材を道徳教育に使っているのがケシカラン、そもそも道徳教育など不要で、法教育だけでいいという要旨の話です。筆者の木村草太センセーは、道徳教育など必要なく「原因・責任・賠償」といった法教育こそが「普遍的価値」に合致する必要な教育だとしています。
私は「普遍的価値」という考え方にそもそも反対なのですが、仮に普遍的価値を論じるのならば、「「運動会で組体操を行わせることは、適法だと思いますか?」」に留まるべきではなく、「そもそも何で運動会なんて、もともとは海軍兵学校のイベントに参加しなければならないの?」「なんで頼んでもいないのに、あのハゲが担任なの?」「どうして○○町に住んでいるという理由だけで、××中学校に通わなければならないの? 学区制って何なの? 選択の自由の侵害ではないの?」という自主権の問題にこそ議論が行くべきではないのでしょうか? 他人の責任を追及するというのは近代的な発想ですが、自主的要求は、ローマの奴隷反乱や中華王朝の農民暴動まで含めれば、さらに幅の広い発想(恐らく奴隷たちには自主という自覚はなく、「21世紀の視点で解釈すれば、それは『自主』と言い得るモノ」でしょうけど)であり、より「普遍的」な発想といいうるものです。
私としては、旧ブログの頃から繰り返しているように、事物には多面性・多層性があり、そして社会の総体はシステムとして相互作用的に成立していると考えていますので、広島県教材も木村センセーの言説もいずれも正しいと考えています。法規範が特殊集団規範を形成するのは勿論、特殊集団規範が法規範を突き上げることもあるでしょう。むしろ、法規範が「普遍的」かといわれれば、私のような「法進化論者」には、とても首肯できるものではありません。
■広島県教材は、世間一般基準で「カルト」的なのか? そういうことを言い出す方がカルト的ではないのか?
広島県教材は、たしかに木村氏が言うように、「骨折という事故の重大さは、まるで語られてい」ません。しかし、では広島県教材が語る「相手を思いやる気持ちを持って、運動会の組体操を成功に導こう」という道徳目標」は、カルト的な価値観に基づく異常な主張でしょうか? 「不十分」かもしれませんが、「異常」とまではいえないと思います。少なくとも、憲法学業界のことは知りませんが、世間一般の価値観としては異常ではありません。
また、「学校内道徳が絶対にして唯一の価値とされ、もはや法は眼中にない」と批判しますが、「絶対にして唯一の価値」と言っているのでしょうか? 単に「論題に対応した結論」でしかないのではないでしょうか? 木村センセーはピント外れの結論を要求しているようにしか見えません。もし現実世界でこんなことを言ったら、「今はそういう話をしているんじゃないんだよ」と一蹴されそうですね。もちろん、私の自主権の問題だって一蹴されるでしょう(まあ、そんな私はバカな切り出しはしませんけどねw)。
■責任追及を主軸にすえる「憲法学者・木村草太」の中途半端な論点設定――人間的未熟さを露呈している
旧ブログ時代に刑法問題、加害者問題・被害者問題について考察してきた身からすると、事件は法的問題を追及すれば終わりではないと強調したいと思います。たとえ加害者が法的に――事によっては死刑によって――罰せられたとしても、決してそれは終わりではありません。むしろ、法的制裁は事件の核心を解決するにはあまりに非力です。研究時代に接したキリスト教牧師の「罪人であっても、赦しをあたえなければなりません」という教えや、犯罪被害者であり冤罪被害者でもある河野義行氏の「私は恨まない」という指摘は、刑事事件問題を考える上で本当に大きな示唆がありました。その意味では、広島県教材の切り口も重要であり、法教育と道徳教育は、両輪の関係にあるのではないかと思います。
おそらく、「憲法学」者には「赦し」などという観点はないんでしょうね。法を問題にしている割には、木村センセーの主張の程度の低さには驚愕します。まあ、ここまでくると、「法学」というより「人間学」になってくるので、あまりハイレベルな要求をしてはいけないのかも知れません。思い起こせば、刑法問題を研究していた頃、「法学」とか「刑法学」の立場に立っていることを自称していた人たちも、「人間学」的にはとても幼稚で、庶民感情よりも刑法の立場にたつ私としても、「味方」の粗雑な主張には本当に苦慮したものです。
■敵対的利己主義の枠内に留まる狭い法観念を「普遍的価値」と言ってのける木村草太氏の「底の浅い独善的正義論」
「普遍的価値」なる観念のもと、自分が感じる「正義」、それも程度の低い「正義」のみが本当の正義であり、それ以外の教育は必要ないという底の浅い独善性。それだけでも危ない発想ですが、原因・責任・賠償といった「他人に如何に責任を負わせるか」という敵対的利己主義社会の発想に基づく観点に終始し、自主権の問題に全く切り込まない、敵対的利己主義・ブルジョア自由主義の枠内に留まる法観念。木村センセーの「法」は、敵対的利己主義に基づく社会、責任の擦り付け合いで「個人」として生き延びるブルジョア社会に特異な法観念です。人間ってそういうモノなんでしょうかね? 敵対的利己主義社会・ブルジョア社会って普遍的な社会なんでしょうか? 2016年現在では「主流」かもしれませんが、「普遍的価値」ってそういう意味なんですか(時空を超えた価値って意味ですよね)? 木村センセーの「学校内道徳が絶対にして唯一の価値とされ、もはや法は眼中にない」は、「法は法でも敵対的利己主義社会を支えるブルジョア自由主義法を絶対・唯一の価値とし、人民大衆の本質的要求としての自主権の問題は、もはや眼中に無い」として、お返ししたいと思います。
幸いにして、木村センセーの言説に違和感を感じる人は、少なくないようです。敵対的利己主義観念・ブルジョア自由主義観念は、日本人の心には浸透し切っていないようです。救いです。
■自論を「普遍的価値」などと言ってしまうこと自体の誤り
自分の思いつきを「普遍的価値」なんて言わないほうがいいですよ。一世代の流行は勿論、伝統だって「普遍」とまでは言えません。あらゆる人間の知恵は時代の産物であり、未来永劫有効とは限りません。