2016年03月31日

表層的な「パターン当てはめ」ではブラック企業問題解決には至らない――「類塾」を巡る労働系法律家のパターン分析の浅さ

http://bylines.news.yahoo.co.jp/sasakiryo/20160330-00056024/
>>> 社員全員を取締役にしたら残業代は払わなくてもよいのか?〜「類塾」を営む株式会社類設計室のやり方

佐々木亮 | 弁護士・ブラック企業被害対策弁護団代表 2016年3月30日 20時54分配信

あまり一般の方には知られていませんが、労働業界周りの人であれば誰でも知っている超有名な「労働判例」という雑誌があります。
労働判例(2016年4月1日・1128号)労働判例(2016年4月1日・1128号)
私も労働事件を扱う弁護士の端くれなので、この雑誌を定期購読しているのですが、最新号におもしろいというか、目を疑うような事件が載っていました。

それは、関西で「類塾」を営んでいる株式会社類設計室が被告となった事件です(類設計室(取締役塾職員・残業代)事件・京都地裁平成27年7月31日判決・労働判例1128号52頁)。

ちなみに労働者の代理人は渡辺輝人弁護士です。

全社員を取締役にするという荒技

雑誌「労働判例」の表紙に、いきなり「全員取締役制塾職員の労働者性と割増賃金請求」という言葉が躍ります。

ここで、労働業界周りの読者は「え?どういうこと?」と一気に引き込まれます。

そして、「ぜ、全員取締役制?!・・・・だと?」と心を鷲掴みにされるのです。

そう、どうやらこの会社では、全社員を取締役ということにして残業代(=割増賃金)を払っていなかった、それが裁判沙汰になった、ということが判るわけです。


(中略)

「取締役」であれば残業代を払わなくてもいい?

さて、取締役だから残業代を払わない、とはどういうことでしょうか?

会社と取締役の契約関係は「委任契約」であるとされています。

この場合は、労働基準法の適用はありません。委任ですから。

しかし、ある人が、会社との間で労働契約を結んでいれば、原則として労働基準法の適用があります。

労働基準法が適用されることになれば、その人が法律上の制限を超えて働いた場合、会社は割増賃金(=残業代)をその人に払わなければならないこととなります。


会 社「あ〜ぁ、残業代を払いたくないなぁ」

悪い人「社長、名案がありますぜ。」

会 社「なんだ。言ってみよ。」

悪い人「全社員を取締役にすれば、委任契約なので残業代払わなくていいようですぜ。」

会 社「おぉ。それは名案だ。さっそく全員を取締役にしよう!」

というやり取りがあったかどうかは知りませんが、全社員を取締役にするということの目的で考えられるのは、こういうところだろうと推測できます。

ところが、会社とその人の契約が労働契約なのかどうかは、契約のタイトル名にとらわれずに、客観的に判断されます。

ですから、いくら取締役に仕立て上げたとしても、客観的に労働者だと言われてしまえばそれまでなのです。

当然、裁判では「取締役」とされた原告の労働者性が争点となります。

裁判所は、

・取締役の登記がされていないこと

・全正社員が参加する会議は取締役会と同視できないこと

・出退勤が厳格に管理されていたこと

・原告の給料23万円は年間売上83億円、経常利益12億円の会社の取締役としては安いこと

などを理由に次のように結論づけました。

上記に述べたところを踏まえると、本件において、原告の労働者性を否定する事情はみいだし難いというほかなく、原告は、被告の実質的な指揮監督関係ないしは従属関係に服していたものといわざるを得ず、紛れもなく労基法上の労働者であったと認められるべきである。

出典:京都地裁平成27年7月31日判決文より


(中略)

労基法の適用逃れの手口

このような労働契約じゃないかのような契約を結んだ形にして、労働基準法上の使用者の義務を逃れようとするブラック企業はけっこうあります。

労働契約を途中から業務委託契約に切り替えられてしまった例などもありますし、最初から業務委託契約にするというケースもあります。

他にも、委任、準委任、請負など、いろいろな形を使う場合があります。

いずれの場合でも、契約のタイトルにとらわれないで実態判断ですから、おかしいな?と思ったら専門家に相談してみてくださいね。
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■佐々木弁護士の安易なパターン当てはめ・演繹思考を指摘せずにはいられない
本件事案、まずは判決の「紛れもなく労基法上の労働者であった」という指摘を全面的に支持すること、そして、この記事の筆者であるブラック企業被害対策弁護団代表の佐々木亮弁護士の「会社とその人の契約が労働契約なのかどうかは、契約のタイトル名にとらわれずに、客観的に判断されます。」という見解の正しさを確認いたします。その上で、だからこそ、佐々木弁護士の安易なパターン当てはめ・演繹思考を指摘せずにはいられません。

■類グループの特異な「自主管理」思想への注目(理解や擁護は不要)
佐々木弁護士は恐らく、「類塾」や「株式会社類設計室」そして「類グループ」をあまりご存知ないのでしょう。しかし、類グループは、「独自」の社会観・組織観を持ち、行動している点において、その界隈では少し目立った存在です。どのくらい「独自」なのかは、その公式ページをご覧いただければお分かりになるでしょう。この組織は、「共同体」にコダワリがあるようで、独自の共同体論を長々と述べています。「共同体の強さ」というページでは、『自主管理への招待』なる自主出版書物を紹介(販売しつつ無料閲覧も出来るのが不思議ですが)しています。「共同体設立の契機となった基礎理論。40年以上前に書かれたが、今でも読者の心に強く訴えかける。」とのことで、類グループの原点・中核には自主管理思想があることが述べられています。そのほかにも、沿革のページでは、一般営利企業であれば考えないようなことを組織として定義し発表しています。この組織は、一つの特殊な(奇怪な?)論理に従って動いているといえます。

「類グループの原点・中核には自主管理思想がある」という彼らの論理を踏まえると、この組織の全ての行動原則が見えてきます。彼らが誇る「劇場会議」は、まさに彼の自主管理経営の中核であると位置づけられますし、「全員取締役制」というのも、彼の自主管理経営の現象形態であると考えられます。悪徳ブルジョワ連中と日々階級闘争を繰り広げておられるであろう佐々木弁護士は「全員取締役制」に仰天していますが、自主管理志向の組織であれば、何の不思議もありません。

■安易にパターン当てはめに走り、無茶な方向に話を持って行く佐々木弁護士
にもかかわらず、佐々木弁護士は、次のようなストーリーを組み立ててしまいました。引用記事から再掲します。
>>> 会 社「あ〜ぁ、残業代を払いたくないなぁ」

悪い人「社長、名案がありますぜ。」

会 社「なんだ。言ってみよ。」

悪い人「全社員を取締役にすれば、委任契約なので残業代払わなくていいようですぜ。」

会 社「おぉ。それは名案だ。さっそく全員を取締役にしよう!」

というやり取りがあったかどうかは知りませんが、全社員を取締役にするということの目的で考えられるのは、こういうところだろうと推測できます。
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佐々木弁護士は「というやり取りがあったかどうかは知りませんが」といいつつも、「推測できます」とし、その後もその前提で話を続けています。それは、記事の最終意味段落に「労基法の適用逃れの手口」という見出しをつけていることからも確定的です。

「巷のブラック企業」だったら、そうである確率は高いかも知れません。「ブラック社労士」が問題を起こしたばかりですし。しかし、類グループについて言うと、必ずしもそういう「巷のブラック企業」のパターンとは言い切れず、彼らに独自の自主管理経営思想から必然的に発生した現象形態であるとも言えるでしょう。同グループが運営している「るいネット」の、宗教じみた主張の数々をみると、壮大な(かつ奇怪極まる)実践の確信的一環である可能性が高いように思われます。個人的には、誤解を恐れずに言うと、ヤ○ギシ会とどっこいどっこいの奇怪な論理で動く組織だと考えています。

■個別組織の内的論理をも考慮に入れてこそ、「根っこ」にまで浸透する対策が打てる
少なくとも、「巷のブラック企業」のパターンに当てはめることはできない事案です。後述しますが、本件事案が「自主管理」由来の問題であれば、それは「自主管理経営組織における労働過程」という新しい重要な問題提起になります。しかし、これを「ワタミ」や「すき家」などと同列においてしまうと、問題に広がりが出てきませんし、体制構造的に異なりうる企業のパターンから単純演繹的に「ブラック企業対策」を打っても、「根っこ」にまで浸透するとは限りません。まさに、「タイトル名にとらわれずに」判断しなければならない事案、株式会社形態や表層的事象に囚われず、安直にパターン化することなく、個別組織の内的論理をも考慮に入れて深く探究しなければならない事案です。

もちろん、「個別組織の内的論理をも考慮に入れて探究しなければならない事案」とはいっても、類グループの内的論理は所詮、部分社会の論理であり、法律に基づく全体社会の論理から外れることは許されません。冒頭で私が、まずは判決の全面的支持を表明したのは、そのためです。しかし、事実の善悪判断や責任問題の追及とは別に、その動機解明が必須であることもまた事実です。なぜ、そういう結果に至ったのかという動機を解明することによって事態の構造・本質を知ることができ、「根っこ」にまで浸透する対策が打てます。

その点、動機の解明にあたって佐々木弁護士は、類グループ独自の自主管理思想を一顧だにせず、「巷のブラック企業」のパターンを安易に当てはめし、その後の思考を進めてしまっています。佐々木弁護士の言説は、事象の現象形態・事象の表面だけを舐め、それ以上の深い部分への探究をしようとしていない、表層的な分析です。

■個別の動機への探究をしない表層的な分析は、事象の本質を見誤る
個別の動機への探究をしない表層的な分析は、「根っこ」に浸透しない浅い対策しか打てないばかりか、事象の本質を見誤ることにも繋がる点、さらに問題は深刻です。安易にパターン化する人は、目の前の事実に基づいたストーリーではなく、そのパターンに基づいて演繹的に思考し、不明瞭な部分を補完したストーリーを作り上げて物事を判断します。こうした人々が見ているもの・語っているものは、事実・内実の産物ではなく、あくまで「想像」の産物です。演繹的補完が甚だしいと、それはコジツケに成り下がります。

もちろん、人間が物事を認識する上では、一定のパターンに沿って思考せざるを得ません。しかし、あくまで事実・内実に基づく人は、新しい現象に接するたびに既存のパターン類型を定義しなおしつつ判断します。パターンを不断に進化させるのです。本件、類グループの事案は、現象形態としては「ブラック企業」ですが、「自主管理思想にルーツをもつブラック企業」という点において、「巷のブラック企業」とはルーツが異なっています。ルーツにも探究の目を向けるとき、あくまで事実・内実に基づく人であれば、「ブラック企業」というパターン類型・観念に進化が起こるはずです。しかし、佐々木弁護士はあくまで、既存の「巷のブラック企業」のパターンに帰着させてしまいました。

まあ、企業側から金銭を回収し、弁護料を稼げればいいだけなら、そこまで考えないでしょうけど。

■表層的分析の癖は、見当違いな批判の基盤にもなるし、盲目的な支持の基盤にもなる
今回、佐々木弁護士は、本件現象形態を「巷のブラック企業」という否定的ニュアンスのあるパターンに安易に結び付けて判断しましたが、もし自分が普段から肯定的に評価しているパターンに合致する特徴を、類グループが持っていたらどうだったでしょうか? あくまで事実・内実に基づいて本件を思考したわけではなく、パターンに基づいて演繹的に判断したわけですから、判断を誤っていたかもしれません。佐々木弁護士個人の普段の立場は存じ上げませんが、たとえば、株式会社に対しては厳しい立場の人でも、労働者協同経営や生活協同組合に対しては幻想を持ち甘く接する人は、一定数いるものです。

かつて、様々な事物をパターン化して思考することを「科学的・理論的思考」などと称して積極的に行っていた人たちが、「カンボジア共産党(ポル・ポト派)」の「共産党」という肯定的ニュアンスのパターン、そして、「アジア的優しさ」などという部分的・表層的な現象形態(ポル・ポト軍も、東部地方出身者部隊は比較的穏健だったようで、残虐さで鳴らしたのは中部・北西部の部隊だったそうです)にすっかり囚われて、あの暗黒虐殺政権の本質を見誤って無邪気に支持していた歴史的事実を、今回の安易なパターン化から思い出さずにはいられません。

■妙なパターン化・安易なパターン化をする人は、事実・内実に基づかず思い込みで判断する癖のある人
あくまで事実・内実に基づく人は、妙なパターン化・安易なパターン化は決してしません。その点、佐々木弁護士の言説は、「類グループ」の事実・内実を正面から捉えているとは言えない記事構成である点、事実・内実に基づいているとは言えません。これは、事態の構造・本質に迫るには甚だ不足です。既に発生してしまった個別の労働事件を力技で解決する方法ならまだしも、深い本質的洞察にもとづく円満解決や紛争予防といった、より踏み込んだレベルでの解決にあたっては、こういう姿勢で臨むのは不適当です。

■判決の意義――左翼的協同組合に対するメスに!
最後に、この判決の意義を「自主管理経営組織における労働過程」という視点から考えておきたいと思います。なによりも、「紛れもなく労基法上の労働者であった」という判決のくだり、「会社とその人の契約が労働契約なのかどうかは、契約のタイトル名にとらわれずに、客観的に判断されます。」という佐々木弁護士の指摘は、左翼的協同組合・「協同組合ムラ」・自称「自主管理組合」を手心なしの視点で見る上での力強い武器になることでしょう。私企業の剰余生産物の処分に対して左翼は極めて厳しい立場ですが、相手が協同的な組織になると、その剰余生産物の処分には一気に甘くなる弱点があります。「協同」とか「自主管理」という甘言に惑わされるからでしょう(モンドラゴン信者とか)。

自主の立場に立てば、私企業における専制的処分も協同組合における同調圧力も、労働者個人の積極的同意がなければ「搾取」であることには変わりありません。判決は、組織の内実を個別的に審査する立場を鮮明に打ち出しました。左翼の「パターン化」によって追及の手が甘めになっている協同組織に対するメスになることを大いに期待します。
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2016年03月28日

昨今の刑事事件における「人物評価の過一面化」の傾向――ヤフーニュースコメント欄10年

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160328-00000549-san-soci
>>> 埼玉失踪少女保護 千葉大、寺内容疑者の卒業取り消しも検討

産経新聞 3月28日(月)17時38分配信

 未成年者誘拐容疑で身柄確保された寺内樺風(かぶ)容疑者(23)が今月23日に卒業したばかりの千葉大は28日、千葉市稲毛区のキャンパスで記者会見を開き、渡辺誠理事は「本学卒業生がこのような事件を起こし、誠に申し訳ない」と陳謝するとともに、寺内容疑者の卒業取り消し処分を検討することを明らかにした。


(以下略)<<<
企業や官公庁でいうところの懲戒解雇のような位置づけなんでしょうか?

それはさておき、コメント欄。上位3件。
>>> クソ記事万歳 | 2016/03/28 17:44

よくわからんけど、過去に遡って停学とか変じゃないか?
<<<
>>> man***** | 2016/03/28 18:02

ずるして単位をとったとかではないから、それは別の話では?と思うのだが。

国立大学の人だと、違うのか?
10年経って彼がシャバに出てきたときに、高卒であるとした方が良いのか?
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>>> mio***** | 2016/03/28 17:57

停学って変な話だろう
<<<
ヤフーニュースにコメント欄が設置されて10年、私は設置当初から、特に刑事事件のコメント欄をウォッチし、記事を執筆してきました。旧ブログ記事の相当部分はそうした内容でした。

その分析の中で私は、いわゆる「世論」は、多面的な人間の特定一面を切り出し、それを過度に全面化することによって、偏った人物評価を行う傾向にあることを論じてきました。そうした「人物評価に過一面化」は、感情・激情に基づく安易な厳罰化、安易な死刑要求につながっていることを指摘しました。また、そうした過度な一面化は、加害者の処罰とは別個に検討すべき事件の原因追求・再発防止の検討にも影響を及ぼしていることを指摘しました。

関連記事一覧:司法・裁判制度関係記事+光市事件関連記事インデックス
http://www.geocities.jp/s19171107/DIARY/BLOGINDEX/saiban.html

そうした世論研究を長く行ってきた身からすると、今回のコメント欄における世論は、珍しく人物評価を、「それはそれ、これはこれ」で分離させることができている点、とても意外に感じました。ヤフーニュースのコメント欄がかなり大衆化し、より現実の世論に近づいてきている要素があるでしょうし、あるいは、世論も変遷をしているのかもしれません。

今後もますます世論の変動には目が離せません。
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2016年03月27日

原発事故風評被害の根底には恐怖心がある――恐怖心を和らげようとしない「良識的批判」こそが風評被害継続の原因

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160323-00000532-san-soci
>>> TOKIOのラーメンに「福島の小麦から作った麺なのかよ。人殺し」 作家のツイートが大炎上、アマゾンレビューにも延焼中

J-CASTニュース 3月22日(火)18時23分配信

 アイドルグループ「TOKIO」が2年がかりで作り上げた「世界一美味いラーメン」。テレビで試食の様子が放送されたところ、ある作家が「福島の小麦から作った麺なのかよ。人殺し。」などとツイッターでつぶやいた。

 これがネット上で大騒動に発展し、作家のツイッターが「炎上」しただけでなく、作家の新刊本のアマゾンレビューにも大量の批判が書き込まれた。作家は問題のツイートを削除し、自身のブログで謝罪した。

■「自分も食べてみたい」と大騒ぎになるなか

 日本テレビ系バラエティー番組「ザ!鉄腕!DASH!! 」の企画でTOKIOが2年がかりで取り組んだ究極のラーメンの完成が2016年3月20日の放送で報告された。とにかく素材にこだわっていて、高知土佐清水の宗田鰹、能登の海塩、函館の真昆布など18の材料が使われた。麺に使われたのは福島産の最高級小麦「春よ恋」。誰が作ったラーメンかを伏せた試食会が行われ、麺やスープを口にした人の表情が見る見る変わっていくのを見ると、よほど美味しく出来たラーメンだということがうかがえる。一杯の原価が630円だそうで、仮に店舗で販売すると値段は2000円以上になるという。ネット上では「自分も食べてみたい」と大騒ぎになるなか、あるツイートが、こうしたお祭り騒ぎを凍らせることになる。ミステリー作家の藤岡真さんのもので、藤岡さんは、

  「TOKIO。究極のラーメンて、福島の小麦から作った麺なのかよ。人殺し」
  「未だに『食べて応援』している馬鹿がいて頭が痛くなる」

などと16年3月20日の番組終了時につぶやいた。過去には、

  「福島の農家の皆様は、どうか地産地消して下さい。県外に出荷するほどの生産量があるのですか。そして、ご自分のお子さんには絶対に食べさせないで下さい。なお、圏外で生産物を目撃したら『毒入り食べたら死ぬで』シールを添付させていただきます」
  「おい、福島の百姓。放射性物質で汚染された毒作物を県外にまくな。その前にてめえで食って死ね。もう、我慢も限界だ」

などとつぶやいたことがあり、この時もネット上で物議を醸した。


(中略)

本質的な謝罪にはなっていない、と火に油を注ぐような形になっていて、

  「グレーゾーンではなかろ?安全と断言できるんだが?何を謝罪すべきか判断する知性も持ち合わせてないのか?」
  「あなたみたいなひとがいるから風評被害は止まないんだよ。福島の人たちが苦しんでるのに、よくそんなこと言えるよな。 あんたが人殺しだわ 作家かなんかしらねーけど、言葉選べ」
  「まるで子供だ。一作家なら中坊が書いたような言い訳しか並んでない反省文みたいな文章よりもきちんとした謝罪文を出すのが筋だろ」

などといったことがリプライされている。


(後略)<<<
この発言は論外の発言ですが、それに対する「良識的反論」にも問題を感じます。じつに「良識的」な範囲内に収まってしまっており、いまだに「福島県産農産物は危ない」と考えている人たちの動機にまったく迫っていないと言わざるを得ません。相手の言い分を聞かずに、ただ「正論」を並べている「(ステレオタイプ的な意味での)学級委員」のようなものを感じます。こういう「良識的反論」を続けると、福島県産農産物の安全性問題に関して意見を口にすること自体がタブーになり、差別意識が地下に潜行することになるでしょう。「福島県産は黙って買わないのかベスト」という空気になってゆくことでしょう。日本は自由市場経済なのだから、特定の商品について「買いたくない」と思うのなら黙って買わなければよく、特定の商品を買わないこと自体を非難される筋合いはありません。これは果たして「良識的反論」をしている人たちが望んでいる事態でしょうか? 「良識的」な人たちの行動は、自分の理想を自分で遠ざけているのではないでしょうか?

詳しく述べましょう。福島県産農産物に対して排斥的姿勢を持っている人たちの動機は、それの当否は別にして、結局は「恐怖」なのでしょう。典型的な「良識的反論」として、「福島県産農産物の安全性は科学的に証明されている」というものがあります。しかし、この問題に対して深い懸念を持っている人たちは、「『科学的に安全性が証明されている』って、原発もそのはずだったじゃん・・・」というように、原発事故以来、「科学」だとか「科学者」に対して根強い不信を持つに至り、いまもその不信が拭い取れていない人々です。彼らは、恐怖と不信感に囚われいるのですから、いくら「科学的データ」を並べられても、「はい分かりました」とは言えない心理状況にあります。

そういう人たちに対して、なおも「福島県産農産物の安全性は科学的に証明されている」と言ったところで、そもそも話題が噛み合っていないのですから、何の意味もない「反論」に過ぎません。むしろ、「安全性が科学的に証明されて久しいのに、なぜ今も恐怖心に囚われているのか?」という点に関心の軸を移し、その恐怖を和らげる、ある種のカウンセリング的対応を展開しない限り、恐怖と不信感に囚われいる人たちはずっと考えを変えないでしょう。また、時間の経過とともに社会的議論が下火になっていくにつれて「世の中は別として、家族と自分自身だけでも身を守らなきゃ」という立場の人も増えてゆくことでしょう。そうなれば、福島県産農産物に対する恐怖心・福島県に対する差別意識は、決して社会的には顕在化しえない地下潜行が進むことでしょう

かつて、日本国内で狂牛病が発生したときに行われた「全頭検査」を思い起こしていただきたいと思います。狂牛病感染検査においては、統計学的に有意なサンプル抽出で科学的にはまったく問題ないのに、日本人はどうしても「全頭検査」にこだわりました。もちろん、「脳みそがスポンジ状になってしまう!」と言われれば、恐怖を感じるのも無理もありません。率直に言って、「科学的根拠のない福島県産農産物排斥」と「科学的根拠のない狂牛病全頭検査」は、それを支える動機にはまったく何の違いもない、どちらも「恐怖」に支えられているものであると言わざるを得ないと思います。結局、安全性の問題は科学の問題とは割り切れないのです。

その意味では、記事中で取り上げられた、以下の典型的な反論は、福島県産農産物に対してなおも恐怖心を持っている人たちの本心を汲み取らず、あくまで「自分たち側」の論理だけで攻撃している不十分な言説であると言わざるを得ません。
>>> あなたみたいなひとがいるから風評被害は止まないんだよ。福島の人たちが苦しんでるのに、よくそんなこと言えるよな。 <<<
「そんなこと言われたって、怖いものは怖いし信用できないものは信用できない」というのが、彼らの真意です。「たとえ差別だ何だと言われたって背に腹はかえられない」というのが、彼らの動機なのです。彼らの立場に立てば、「原発は絶対安全」などと太鼓判を押していた日本の科学者たちの馬脚があらわれた原発事故後になってもなお、そんな科学者たちの「科学的に安全が証明された」などという大本営発表を鵜呑みにしたノーテンキな連中に、自分たちの不安を一顧だにされず、ただ「迷信的被害妄想」だの「福島の人たちを苦しめるひどい人」だのと人格的に批判されるのも(程度の差こそあれ)「苦しんでる」うちに入る、と言いたいでしょう。

やはり、単に「科学的事実」を高圧的に提示するだけではなく、彼らの不安、彼らの不信感を拭うようなフォローが必要とされています。原発事故から5年たってもまだ信頼が回復していないのだから、かなり根深い観念です。また、こうしたツイートがいまだに出てくる点、不信に対する正確なフォローが5年間十分に行われてこなかった証左であるともいえます。「がんばろうニッポン」などというスローガンが如何に空虚だったのかが示されています。

もっとも、たとえ冷静な立場にたったとしても、「科学」というのは、結局「いま分かっている因果関係を並べたストーリー」にすぎません。そもそも未曾有の原発事故なのですから、人間がまだ知覚していない因果関係の歯車が静かに回っている可能性もあります。そうした不確実・不明瞭な現実に対して、「なるべく関わらない、なるべく避ける」という超慎重主義的な観点・立場も、一概に否定できるものではありません。こうした観点・立場に対して、神ではない「良識的」な人たちが批判できる「正義」は存在しないでしょう。究極的には、あくまで「たとえ差別だ何だと言われたって背に腹はかえられない」という人たちを説き伏せ切ることは出来ないかもしれません。しかし、だからといって彼らの不安感・不信感に対して何の対応も取らず、ただ「良識的な批判」を高圧的に展開し、ツイッターを炎上させて数の力で沈黙させればよいわけではないのです。サイレント・レイシストは根絶できないかもしれませんが、一人でも少なくすべきです。
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2016年03月22日

元社民党の保坂展人・世田谷区長の観念論が堂々の待機児童数最多を記録――共産圏の観念論・硬直的経済政策そのまんま

http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20160321-00000032-jnn-pol
>>> 「保育園落ちた」 待機児童数最多の世田谷区長を直撃

TBS系(JNN) 3月21日(月)18時59分配信

 「保育園落ちた」というネット上の書き込みで注目される待機児童問題。全国で一番深刻な自治体が、東京の世田谷区です。実は、今の区長、待機児童問題の解消を掲げて再選した人物なんです。一体なぜ公約を守れないのか、区長を直撃しました。


(中略)

 世田谷区の保育園の入所希望者は定員の2倍以上。つまり希望者の半分以上が子どもを保育園に預けられない状態ですが・・・

 「待機児多いって、それは大変申し訳ない状況があるんだけれども、そこの質を少し落として、もう量で抱え込むよというふうにした途端、やっぱり子育て環境全般が劣化していくんじゃないだろうかということの方がやっぱり心配」(保坂展人 世田谷区長)

 多くの子どもを受け入れた場合、保育園での事故が起こる可能性も高くなるとして、世田谷区は園児5人に対し、保育士が1人という国の基準よりも手厚い規定を設けています。保坂氏は「保育の質は絶対に譲れない」と話します。


(中略)

 「例えば仮に世田谷区だけがものすごく待遇がいいよと。そこで保育士は確保できるかもしれないけども、他の自治体が悪いというような、これはまずいと思いますよね」(保坂展人 世田谷区長)

 待遇の差が自治体によって大きくなると、保育士の求人に偏りがさらに生じる可能性を保坂氏は指摘しました。参議院議員選挙を念頭に、与野党が待機児童対策を競う展開になりましたが、実効性のある政策を打ち出せるのは、どの政党なのか。問題がクローズアップされてから1か月、与野党の幹部からは中身が大事だという声があがり始めています。


(以下略) <<<
■元社民党代議士の左翼観念論者世田谷区長がもたらす官製特権・官製格差――「分かち合い」の精神は何処へ?
記事中で紹介されている保坂区長の「意地」は、社会的にどういう影響をもたらしているのでしょうか? なんと言っても、保育園入園の切符を手に入れることができた一部区民の子弟に対しては一定の水準の保育が「特権」として提供される一方で、不運にも保育園に入園できなかった区民の子弟は、待機児童の立場に追いやられているのです! 保坂区長が「国の基準よりも手厚い規定」にもとづく「保育の質」にこだわるために、その皺寄せとして、他の地域であれば享受できるはずの「国の基準」レベルの保育が受けられない区民がいるのです。

限られた資源しかないとき、果たして「この人にはフルに与えるが、その分、あなたに皺寄せさせてもらう」という方法論が社会通念的に通じるでしょうか? 「申し訳ありませんが、すこし我慢して、あちらの方にも分けてあげてください」というのが資源が足りない時にこそとるべき分かち合いの精神なのではないでしょうか? どうしても「理想の保育園」を維持したいなら、その当選枠から漏れた人に対しては「理想には及ばないでしょうが、少しでも足しになれば・・・」として次善の策を提供するのも、政治・行政の役割ではないのでしょうか?

もちろん、「これ以下を認めるとなると、ごみ屋敷での保育も可能になってしまう」というのならば、「絶対に譲れない」のは理解できます。しかし、世田谷区の場合、「国の基準よりも手厚い規定」であり、それは単なる区長の信条です。まったく人為的な不足です。元社民党代議士の区長がもたらす官製特権・官製格差!

■質と量を両立させるのが「行政の責任」ではなかったのか、量を増やすと質が低下するものなのか
そもそも、「子育て環境全般が劣化していくんじゃないだろうかということの方がやっぱり心配」「保育の質は絶対に譲れない」のであれば、その両立の道を探っていくのが政治・行政の役割であるはずです。少なくとも、保坂区長の古巣;社民党は、いまだってずっとそういい続けています。

また、「量を増やす」ことが「質を落とすこと」なのでしょうか? 新規参入の拡大で解決できそうな問題なのに、そうした方法論を意地でも取らないで問題解決を図ろうとする以上、必要量を政治・行政が自前で用意するのは、彼らの逃れられない責任です。それが出来ないなら参入を認めるべきです。責任を果たせない輩がゴチャゴチャと言い訳を並べて居座ってはならず、その座を明け渡すべきです。実現できない理想を語っても生活者は満足しません。生活者は、実現しない理想論などには興味はないのです。ご自分の観念論にあくまでこだわり、ご自分の目に入ってくる範囲内さえ良ければ、それで良いのでしょうか? まるで体制末期のチャウシェスク状態。ブカレストのデパートに商品が溢れていれば問題なしっ!

■イデオロギーに固執した旧共産圏計画経済における硬直化の轍を踏んでいる左翼観念論者世田谷区長
この状況、まさに共産圏におけるマルクス・レーニン主義の教義に基づく計画経済の硬直化の過程と瓜二つです。共産圏では既に1960年代には計画経済では国民の諸費生活を向上させるには不十分・非効率であることが明らかになってきており、各国で改革が模索されていました。しかし、結局それは頓挫しました。ソ連のブレジネフ指導部が計画経済の原則に教条的だったためです。たとえば東ドイツでは、興味深い改革を推進していたヴァルター・ウルブリヒトはソ連の支持を失って失脚し、エーリッヒ・ホーネッカーが後継者の座に座りました。彼の「原則に忠実」な指導下、東ドイツ経済は低迷の道を歩むようになりました。あくまで観念でしかない「理想」「原則」にこだわるにあまり、「忍耐」や「次善の策」をとることも必要さとれる政治・経済の運営が硬直化してしまったのです

■責任転嫁に走る左翼観念論者世田谷区長
これだけでも十分に酷い、しかし、旧社会党・社民党の人間らしい発想ですが、次のくだりは一種の責任転嫁までしている点、さらに悪質かつ社民党的です。
>>>  「例えば仮に世田谷区だけがものすごく待遇がいいよと。そこで保育士は確保できるかもしれないけども、他の自治体が悪いというような、これはまずいと思いますよね」(保坂展人 世田谷区長)

 待遇の差が自治体によって大きくなると、保育士の求人に偏りがさらに生じる可能性を保坂氏は指摘しました。
<<<
まったく問題を感じません。世田谷区が保育士に好待遇を提示してヘッドハンティングを展開すれば、近隣の渋谷区や品川区、港区だって黙ってはいないでしょう。好待遇提示の労働需要競争が始まるだけです。まことに良いことです。そのせいで渋谷区で保育士の労働供給が減ってしまうのであれば、渋谷区民の子弟にも保育園入園の門戸を開放すればよいし、遠く足立区あたりで保育士不足が激しくなれば、世田谷区の支援で足立区の保育士を確保してあげればいいだけです。東京都が調整に乗り出してもいい、国が腰を上げてもよいでしょう。市場競争の好いトレンドを人為的に増幅し、補完することは経済政策の王道。必要なことでしょう。

■「可能性」を危惧する割には、「現実の問題」を無視する左翼観念論者世田谷区長
そもそも、「保育士の求人に偏りがさらに生じる」ことは、あくまで可能性でしかないのに、「まずい」のでやらず、現実として発生している「一部区民にのみ特権的に高い保育サービスが提供されている」という官製特権・官製格差はよしとする、その違いはいったい何なのでしょうか?

■左翼観念論者をトップに据えるとテンプレ的にこうなる
あれこれ理由をつけて、あくまで観念論を固守しようとし、その批判に対して、妙な「平等論」を展開する保坂区長。左翼観念論者をリーダーにするととんでもないことが起こるという、共産圏で実証されたことが、世田谷の地で再現してしまっています

なお、「元社民党の保坂展人氏」などと他人の過去の経歴を云々するのは批判もおありでしょう。私自身、あまり好きではありません。真の自己批判を行った人に対して、過去をほじくるべきではありません。しかし、保坂区長の社民党離党は、区政上の技術的な問題であり、社民党の理念を捨てたがゆえの離党ではありません。この文脈で「元社民党の保坂展人氏」と呼ぶことについては問題ないと認識しています。
posted by s19171107 at 03:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

「企業に規制を守らせる」よりも「退場を促進させる」べし

(以下、3/24に補足的に大きく加筆しました)
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20160319-00000000-nnn-soci
>> 元社員「限界まで走る」過酷労働実態を証言

日本テレビ系(NNN) 3月19日(土)0時35分配信
 69人の死傷者を出した山陽自動車道のトンネル事故で18日、衝突したトラックの運転手が逮捕された。逮捕された運転手の勤務先の元社員が18日夜、日本テレビの取材に対し、運送会社の過酷な労働実態を証言した。


(中略)

 一方、以前この運送会社に勤めていたドライバーは、定められた休憩時間をとれない過酷な勤務実態を証言した。

 皆見容疑者が勤める運送会社の元ドライバー「(運行は)ほぼぶっ通しです。トイレ休憩以外は止まれないような感じで。私は18時間半ですかね。確か、鹿児島から関東に戻るような感じのスケジュールで急ぎだった。とにかく走らないと寝る時間がない、寝ないと次の運行がきつくなるので、とりあえずその日、限界まで走るっていうのが常識な会社なんですかね」


(以下略) <<<
限界まで」。典型的な焼畑農業的経営です。中小規模の企業では決して珍しくない経営スタイルです。
コメント欄を見てみましょう。
>>> yas***** | 2016/03/19 01:04

企業が嫌でも法律を守るくらいの規制がほしい。
<<<
■労務管理ができない企業は倒産しなければならない
気持ちは分かりますが、問題の核心ではありません。こうした経営スタイルをとっている企業は、まともな労務管理を行う意志のないブラック企業のケースだけではありません。そうしたノウハウのない無能が経営を行うナンセンス企業のケース、余裕のないカツカツ企業のケースなど、要因はさまざまです。「嫌でも法律を守るくらいの規制」をナンセンス企業やカツカツ企業に求めたところで、できないものはできないのです。

もちろん、だからといって、まともな労務管理を諦めるべきではありません。1月の軽井沢スキーバス転落事故に際して、私は「「生産過程における厳格な規制」と「流通過程における最小限の規制」――自由交換経済の真の優越性を踏まえた規制」という記事を書きました(1月15日づけ)。その中で私は、「現下の競争的価格環境では利益を上げられない業者は、すでに市場から引導を渡されているわけですから、手抜きで生き残りを図る往生際の悪い業者は「処刑」すべき」であり、これは「市場原理の正常な動作を執行」であると述べました。まともな労務管理がナンセンス企業であろうがカツカツ企業であろうが関係などないのです。「倒産すればよい」のではありません。「倒産しなければならない」のです。

■労務管理ができない企業に「同情」する必要はない――労働者のほうがよっぽど「かわいそう」
「倒産しなければならない」というと、家業観念の強い日本では脊髄反射的に拒否反応を見せる人が一定数存在します。しかし、企業の所有者としての経営者が自発的で無理しているならまだしも、経営者からの指揮命令を受ける立場である「使われる側」の労働者を心身の限界まで酷使することで成り立っている企業、要するに他人の人生を極限まで搾取することで成り立っている企業に「潰れちゃかわいそう><」などという情をかける必要などありません。家業だか何だか知りませんが、なにか犯罪を犯したわけでもないのに、他人の自主権を侵害してよい理屈などこの世に存在しません。労働者のほうがよっぽど「かわいそう」です。

■「労働に対する配分」の原則は守るべき
ただし、単に「かわいそう」だからといって、産出している価値分以上を労働者に与えるべきではありません。待遇は労働に対して与えられるものですし、生み出している以上のものを享受するのはマクロ的に看過できない歪みをもたらします(その原資は、どこから調達してくるつもりなのでしょうか?)。産出した価値からまともな水準の要素支払を賄えないのならば、限界費用>限界収益ならば、大人しく市場原理に従って事業を畳むしかないのです。

■「必要に対する配分」は国家の責務であり企業の責務ではない
世の中には「労働に対する配分」ではなく「必要に対する配分」を要求する主張があり、そういう人こそ積極的に待遇改善を要求しますが、それは失当です。それは、企業に求めるべき事柄ではなく、国家の福祉政策に求めるべき事柄です。あくまで、企業に対しては、「働いた分をキチンと報いよ」の範囲内での交渉(賃金であれば分配率交渉)であらねばなりません。決して「生活できる待遇を寄越せ」を主軸に据え、働いた分を越えた要求(働いた範囲内の分配率調整で賄えるなら構いません)を企業にしてはなりません。宛先が違うのです。

一個人が国家に「生活できる待遇を寄越せ」と要求するにしても、長期的には自分自身で「生活できる待遇」に見合った価値を産出できるように研鑽を積まねばなりませんし、国家も研鑽を積ませなければなりません。「企業の内部留保を切り崩して、金銭で与えればいい!」などという主張もあるでしょうが、それは、生産性の高い一個人に「返金」されるべきものです。そこで生産性の低い労働者に渡してしまったら、生産性の高い一個人にしてみれば、搾取主が「資本家」から「同僚」に変わるだけです。自主の立場からすれば、「資本家の労働者搾取はわるくて、労働者同士の搾取はよい」ということにはなりません。企業が労働者を搾取し自らの私有財産とした剰余価値を税金・収奪の形で国有化したとしても、それを分別なくバラまいてしまえば、搾取された当の労働者にすれば、結局手元に戻ってきていない以上は搾取と変わりありません。自分が産出した価値を持ち去って消費しているのが資本家階級の人物なのか、「福祉受給者」なのかなど、当人にしてみれば関係ないのです。

■まともなマネジメントができない企業がのさばる社会的影響
ちょっと脱線してしまいました。「倒産しなければならない」の続きに話を戻します。まともなマネジメントができない企業がのさばる社会的影響を考えてみましょう。同じ農地を耕作するにしても、(本当の意味での)焼畑式では生産性が比較的低いように、原始的なマネジメントが生み出す生産性は総じて低いものです。人間ひとりの腕は2本しかありませんが、組織化された腕は人数分、組織的分業の効用を考慮すれば人数分以上になるからです。その点、原始的なマネジメントしかできない企業は、社会的生産力を無駄遣いしていると言えます。まともな労務管理をしない・できない企業は、社会的にも害悪なのです。もちろん、そうした企業の従業員は、「そうした企業にしか引っかからないような人材」と見ることも可能ですが、農地だって肥料次第で生産力が変わるように、人材だって使い方次第で生産力が変わるものです。

■「参入が増えたこと」が問題なのではなく「スムーズな退出が促進されていない」ことが問題
そうした視点で考えると、次の主張の失当性が見えてくるでしょう。
>>>tam***** | 2016/03/19 01:08

とにかく小さい運送会社は無理をさせる。無理をさせないと儲からない。そろそろ国土交通省も運賃の最低ラインを決めるべきだと思う。規制緩和で誰でも運送会社を作れるようになったのがそもそもの間違い。
<<<
規制緩和で誰でも運送会社を作れるようになった」、つまり「参入が増えたこと」が問題なのではありません。現在の競争的価格状況において、まともな労務管理ができない企業、淘汰されるべき企業が往生際悪く悪あがきしていること、つまり、「スムーズな退出が促進されていない」ことが問題なのです。

運賃の最低ラインを決めるべき」という主張は、同時に「最低ラインを設定すると受注案件がなくなるような低品質の企業は潰れなさい」「最低ラインでもまともな経営ができない企業は潰れなさい」ということを意味しています(まさかどんな企業でも無制限に経営を守るだなんてことを主張しているわけではないでしょう。そんなことをされたら、今度は運送会社に発注する側の経営が圧迫されてしまいます)。規制緩和で誰でも運送会社を作れるようになった」という主張は、どうしても「スムーズな退出が促進されていないことが問題」であるという結論に至るのです。

経済的規制緩和が関わる分野で何か問題が起きると、すぐに規制緩和の「参入自由化」に批判の矛先が向かいます。しかし、問題の本質はそこではないのです。現下の環境に適応できない淘汰されるべき企業が淘汰されていないこと、それが問題なのです。もし、破壊的規制緩和で業界が焼野原になってしまうようであれば、それは再規制も必要でしょう。しかし、厳しいながらも最低限のレベルは自発的に守れる企業が一定数存在する以上は、規制再強化ではなく、淘汰促進に重点をおくべきです。資本・労働力の最適再配置を推進すべきなのです。

もちろん、この淘汰促進は、賃金が上がりコストが増える分をカバーする生産性改善がなければ、社会的なサービスの供給量は今よりも減ります。淘汰された企業の元従業員が他社・他業種に速やかに吸収されなければ、失業者が滞留します。当然のことです。私の主張は、一貫して述べているように「市場原理の正常な動作を執行している」のであり、ゴリゴリの市場主義なのですから。それゆえ私は、これと同時に、市場原理を補完し生活を安定化させる社会政策もセットにするべきとも考えています。これは、新自由主義的な競争的市場経済と福祉政策を両立させている北欧の現代(特に1990年代以降)福祉国家体制の基本原則でもあります。

■消費者にも責任の一端
次のような見解も肝に銘じるべきです。
>>> 大日本帝国 | 2016/03/19 01:32


結局は、24時間365日物流を求める一般市民がいるかぎりこの問題は無くならない。昔は、宅急便なんかは日曜日は休みで平日も17時で終わってた。
<<<
>>> qkx***** | 2016/03/19 01:42

30時間ぶっ通しとか稀に運行上あるけど、人手不足は国の政策のせいだし、雇う側も致し方なく命令だしてる感はある。健康診断は年に2度あるし、タコメーターも付いてて陸運局に提出してるけど、免許取るのは高いし難しいし、昔より賃金も安ければ若いドライバーなんて滅多にやりたがらないし、国の血液なんだからもう少し国が賃金の見直し(全国レベルで)しないと規制規制で辞めるドライバーが増える一方なんよね。

ぶっ通ししなきゃコンビニに毎日商品が並ぶことも無くなるし、安く食べ物や欲しいものも満足に並ばなくなるし。有り難みをしらんからな裏で国を支えてるドライバーがいても。

規制強化をとか言ってる奴がいるけど、あんたらなんもわかっちゃいない。

いつも犠牲者はドライバーで、その原因を作ってるのは規制にしばられて人材が確保出来ないからですよ。
<<<
結局、需要があるから供給が発生するのです。「供給があるから需要が喚起されるんだ」とか「薄給なんだから仕方ないだろう!」という主張もあるかもしれませんが、前者については「消費者にとって真に不要な商品は、どんなに大量の供給があっても消費されないのはソ連を見ればわかる」と反論できますし、後者についても「だったら貧乏人らしく生きろよ」とも反論できます。むかしは、セブンイレブンは正に7時〜23時でしたよ。

私の身近な知っている市井の左翼運動家・共産党員もそうですが、ふだんはエラそうなことを言っておいて、自分自身はそこまで生活が困窮しているわけでもない/貧乏人のくせにあれこれ欲しがって、激安店に通いつめたり、どうせヒマなんだから昼間に買出しに行けばいいのに、わざわざ深夜に繰り出したりしている輩がいます。

この問題は、生活者とまったく別の空間の出来事ではないのです。
posted by s19171107 at 01:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2016年03月18日

市場経済しかあり得ないからこそ、正しい市場観の確立が労働問題の解決においても必要とされている

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160224-00004333-bengocom-soci
>>> 「持病への配慮なく、握力6キロまで低下した」元トラックドライバー女性が会社を提訴

弁護士ドットコム 2月24日(水)19時56分配信

ヘルニアを持病として抱えているにもかかわらず、会社に負荷のかかる業務を続けさせられた結果、右手の握力が極度に低下する後遺症が残ったとして、元トラックドライバーの女性(44)が2月24日、東京都内の運送会社(港区・新橋)を相手取って、休業損害や後遺症の慰謝料など約2460万円を求める訴訟を東京地裁に起こした。


(以下略)<<<
コメント欄。
>>>

これを全て会社の責任にするのはどうかと思う。ヘルニアで自身に限界を感じ取った時点で転職等考えるべきだったね。
<<<
全て」と限定化している点、一見して一理あるようには思えます。しかし、やはり会社の責任と言わざるを得ないでしょう。

労働契約も契約の一種ですから、「いやなら契約しなければよい」「いやなら別を当たればよい」というのは、市場の原則に則った主張です。しかし、たとえば、一般の商取引において次のようなケースが発生した場合、どう考えるべきでしょうか?

納期や品質を全く守らない業者、あるいは、キチンと納品したのに代金を払わず踏み倒そうとする顧客がいるとします。そうした場合、悪徳業者に対して買い手は発注しなければよいし、不払い顧客に対して売り手は受注しなければよいというのは一面として正しい選択です。しかし、だからといって悪徳業者/不払い顧客が免罪されるわけがありません。悪徳業者に対する買い手/不払い顧客に対する売り手の自己防衛行動とは全く別の次元において、悪徳業者/不払い顧客は義務を果たしておらず、それは相手方の自己防衛行動の如何に関わらず、取り締まりの対象になります。これは、市場経済の基本原則です。

労働契約における安全配慮義務も、全く同様に、市場経済の基本原則が通用します。「ヘルニアで自身に限界を感じ取った時点で転職等考えるべき」というのは、あくまで労働供給側の自己防衛行動です。それとは全く別の次元において、労働需要側には安全配慮義務が生じるのです。もし、労働供給側が無理をしていたとしたら、労働需要側がそこに歯止めをかけねばなりません。逆も然りです。それが市場経済を根本において支える、アダム・スミスが言うところの公平な観察者です。

当ブログでは、自主権の問題としての労働問題を、市場メカニズムの力を用いて解決する方向で検討を重ねています。私は基本的に市場メカニズムの調整能力・未知解探査能力を信頼しています(無邪気な信奉ではなく、場合によっては、偉大な首領の領導が必要とも思っています)。昨今の労働問題に対する世論は、だいぶ市場活用型になってきたと認識しています。よい方向だと認識しています。しかし、どうも市場メカニズム・市場経済に対する基本的認識が少し足りないきらいもあるように思われます。現時点、市場経済以外に可能性はありません。正しい市場観の確立が、労働問題の解決においても必要とされています
posted by s19171107 at 02:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2016年03月16日

日本共産党が日和見しているせいで電力自由化の批判勢力がいない――共産党の綱領的原則の軽薄さ・ブレブレっぷりは電力政策から明白

http://www.s-housing.jp/archives/86182
>>> 電力小売全面自由化に向けて消費者からの相談が増加

2016年3月14日

 今年4月の電力小売全面自由化に向けて、消費者トラブル防止施策で協力する独立行政法人国民生活センターと経済産業省電力取引監視等委員会の窓口では、消費者からの相談が増加している。各事業者の営業活動が本格化した1月以降、3月8日までの登録分で、同センターおよび各地の消費生活センターの相談窓口には382件、同委員会の相談窓口には331件の相談が寄せられた。

 これまでの相談事例では「代理店と偽った営業行為」、「消費者に対する説明が不十分な営業行為」、「電力の営業と称した他の商品・サービスに関する営業行為」、「電力の営業と称し個人情報を取得する行為」、「電力会社だと偽り、スマートメーターの設置費用を請求しようとする行為」に関する相談があったという。


(以下略)<<<
電力小売全面自由化が始まります。市場の競争によって特定企業による独占体制を打破すること、これは原則として正しい方向性です。他方で、自由化するということは、その分、「わけのわからない連中」が紛れ込む可能性が高まるということでもあります。また、商売は「慈悲の精神」でやっているわけではないので、電力供給を「商売の世界」に位置づけることは、それ相応のリスクが伴います。

そうした「市場化の悪影響」は、本来は左翼の仕事です。しかし、昨今の左翼言論界隈をみると、電力自由化に対する反対意見は盛り上がっていません。見方によっては「国民生活の生命線たる電力供給を『儲け主義』の世界に投げ込む暴挙」たる電力自由化に対して、日本共産党機関紙『赤旗』は以下のように述べています。
>>> 2016年2月29日(月)

きょうの潮流

 4月からの電力自由化を前にして購入先を悩む人が増えています。東京電力福島第1原発の事故や地球温暖化を考え、再生可能エネルギーを選びたいと思っている人も多いはず▼全体で20兆円超といわれる電力市場。300社以上がひしめくと予想されていますが、いずれにしても国民の生活に欠かせない電気を扱うことを肝に銘じてもらいたい。公的な使命からいっても電力会社は公明正大さをまとっていなければなりません


(以下略)<
電力会社の「公明正大さ」に「国民の生活に欠かせない電気」の供給を一任する楽観論。さすがに市場主義者である私も不安になる方法論です。市場経済は決して、個別企業の「公明正大さ」によって成立しているのではなく、自由競争・競争淘汰によって個別企業の行動が律されているから成立しているのです。「競争の強制法則」です。

日本共産党は、国民生活の根幹をなす分野にこそ民主的規制を加えることを以って「ルールある資本主義経済」の樹立であるとしています。「ルールある資本主義経済」において電力は「公明正大さ」に任せておいてよいのでしょうか? 日本は、何だかんだと言って色々な行政的規制が煩雑な国ですが、そうした日本において敢えて「民主的規制」の強化を声高に主張する日本共産党ですから、まさか「公明正大さ」で満足するとは思えません。

また、計画経済の失敗が明々白々な21世紀において、尚も「社会主義」の看板を掲げる日本共産党の理論的根拠である「瞰制高地(管制高地)論」は、「たとえ自由市場を認めていたとしても、経済全体に影響をあたえるような『瞰制高地』を社会主義勢力が掌握していれば、その経済は社会主義的であるといえる」という理屈です。瞰制高地論の立場に立つならば、何をおいても電力だけは社会主義勢力が統制すべき分野であることは明らかでしょう。まさか日本共産党が、坂本龍一じゃあるまいし、「たかが電気ごとき・・・」などという観念論を党の方針にするとは、さすがに考えられません。

以前の記事でも、党の下部組織レベルでの動きと断った上で述べましたが、昨今の日本共産党は、「中央集権的社会」というよりも、「人民公社的地域共同体」の青写真を掲げるようになって来ました。「地域の中小商工業者・農家が連合し、全国企業を排斥し、高い参入障壁と互助的産業保護によって経済成長は目指さずボチボチやってゆく」といった理想論です。その意味では、電力会社の地域独占の打破は党の方針に合致している面もあるかもしれません。

しかし、この「人民公社的地域共同体」は、切磋琢磨というプラス作用を含めたあらゆる競争を否定的に位置づけ、「お手々をつないで」路線を掲げます。その意味では、今回の電力自由化は、「人民公社的地域共同体」を目指すものとは到底いえませんので、やはり上掲記事のような「甘さ」は不可解であると言わざるを得ません。

なせ日本共産党は、党の未来社会論にはどうしても合致しない「自民党・民主党的電力自由化」に対して上記の如き「甘い」立場を示しているのでしょうか? 推測になってしまいますが、おそらく、既存の電力会社による地域独占体制に対する国民の怒りの強さ、特に、あれだけの事故を起こし、かつ、ロクに反省せず責任も果たさないでいながらも、地域独占の力で今も殿様商売を続けている東京電力に対する激しい怒りの「捌け口」が電力自由化への期待になっている中、「国民諸君! 東電への怒りは分かるが、『電力自由化』は違うのだ!」という、唯物論的真実を主張する勇気がないからでしょう。

それは、日本共産党の最新の原子力発電・原子力平和利用論にもあらわれています。日本共産党は、「原発ゼロ」を主張しつつも、「将来に向けた原子力の平和的利用に対する基礎研究の継続」は今も静かに主張います。これは、将来的な原子力発電に対する扉は閉ざしていません。しかし、大多数の「原発ゼロ」路線は、根本的・理論的に原子力は人間の手に負えるシロモノではなく、未来永劫にわたる「原子力の平和利用」に対しては否定的な立場です。そうした反原発・非原発のうねりと正面切って戦う勇気のない日本共産党は、「基礎研究の継続」はなるべく目ただないようにアピール文の端っこに小さく書いています。きっと、万に一つ「本当にクリーンな原子力の平和利用」の道が見つかったときには、「我が党は福島第一原発事故後の『原子力アレルギー』の時代にあっても、真理に対する科学的立場を捨てず、平和利用の将来的可能性にかけた基礎研究の道を主張してきました!」というのでしょう。仮にそのときにも党が残っていたとしたらの話ですけど。

このように、日本共産党は、世論が激しければ激しいほど党の核心的・綱領的原則を容易に投げ捨て、隠蔽し、世論におもねる・日和る党なのです。日本共産党の批判的言論に依存している日本社会そのものも相当に情けないものではあるものの、事実として、昨今の電力自由化に対して積極的・具体的に懸念を表明し、その制度設計に批判を展開する勢力が乏しい現状です。もちろん、本質的に非現実的・観念論的に反市場主義の立場をとる日本共産党の言論には建設的実効性は乏しいのは重々承知していますが、「日本中みんなが賛成じゃないんだぞー」「こういう欠点もあるんだぞー」という異論の提示だけでも無いよりはマシなものです。

「批判勢力欠席」のなかの電力自由化、果たしてどのように展開してゆくのでしょうか。折を見て、市場主義者の立場から是々非々に検討したいと思っています。
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2016年03月13日

保育の世界における公営主義一辺倒が揺らぎ始めたか?

http://bylines.news.yahoo.co.jp/sendayuki/20160312-00055292/
>>> 「保育園通った、日本万歳!」とは限らない理由。 待機児童批判の落とし穴?

千田有紀 | 武蔵大学社会学部教授(社会学) 2016年3月12日 5時35分配信

「保育園落ちた日本死ね!!!」というタイトルのブログが、待機児童の解消問題を提起した。そのこと自体はとても意義があることである。しかしその一方で、こうした問題化により、拙速な待機児童解消を目標とした保育状況の悪化の可能性にも危惧をもっている。


(中略)

保育士が確保できないのは、あまりに保育士の待遇が悪いからである。潜在保育士が復帰しない理由の第一は、条件が折り合わないからだ。これほど潜在保育士がいるにもかかわらず、政府は待機児童の解消のために、研修を受けた保育ママなど資格を持たない人での保育を認めるなどの規制緩和で乗り切ろうとしている。方向が間違ってはいないか?

(中略)

2000年代の小泉政権の「改革」の波のなかで保育園がいっせいに民営化したときに、多くの保護者が不信感を持ち、就労を辞めざるを得なかったことがニュースになった。株式会社が運営する保育所が、必ずしも悪いといっているわけではない。しかし、ある程度の質が担保されなければ、親は安心して働けない。量の問題だけではないのである。

(以下略)<<<
私は、この記事を、「安易な規制緩和の推進」を戒める警句であると同時に、「安易な公営化への逆行」の立場をとっていない点において、2重に注目しました。保育は福祉政策と教育政策が重なる部分なので、ただてさえ公営主義者が多い2大分野のエッセンスがさらに凝縮されてしまう「公営主義者の牙城」であると言ってもよい分野です。

たとえば、チュチェ102(2013)年6月17日づけ「「子供の視点」は「子供の視点」なのか」にてご紹介した、保育園経営者で社会福祉法人理事長でもある長田安司氏の言説。いわゆる「横浜方式」を批判する際に、「保護者といっても所詮素人! 素人が『選択の自由』を行使しようものなら、きっと自分に都合のよい保育サービスを選択するに違いない!」などという論理をもって、公営主義すら飛び越えた主張を展開しました。長田氏の理想は「子供が3歳までは母親に育児休業を十分とってもらい、その間、無理に働かなくても良い仕組みを作る」ことだそうで、その意味では字義どおりの「公営主義者」ではありませんが、現実的にそれは無理ですから、結局は、「子どもの発育のためには、保育所入所は行政処分で!」に至らざるを得ないでしょう。結果的に「公営主義」に行き着く主張です。

しかし、この記事は、前述の通り、「安易な公営化への逆行」の立場を取っていません。「株式会社が運営する保育所が、必ずしも悪いといっているわけではない」と断り書きをつけています。公営主義者であれば、「株式会社=儲け主義」という定式を必ず出してくる(たとえば日本共産党機関紙『赤旗』の基本論調)はずです。

これはおそらく、「横浜方式」が取り沙汰された時期以上に、現実の待機児童問題が深刻化しており、「主義者」たちの「イデオロギー空中戦」などを取り上げている場合ではなくなってきているということなのでしょう。生活者の立場としては、求めている質を満たし適切な価格のサービスであれば公営・民営の区別はまったく問題ありません

むしろ、「「保育園落ちた日本死ね」と叫んだ人に伝えたい、保育園が増えない理由」という記事が暴露しているように、役所の無意味なルールが保育所増設を阻んでいるという側面すらあるのです。公営主義的な足掻きが事態の深刻化に拍車をかけているのならば、公営主義もまた清算の対象になるでしょう。

さらに付け加えるのならば、多様なサービスの提供には多様な供給主体の参加が不可欠です。参加者が限定されているフィールドでは、アイディアも限定されてしまいます。グループに入れなかった新進気鋭のアイディアマンが持っている素晴らしい発想が埋もれてしまいます。子どもの可能性はまことに多様です。であれば、その伸ばし方も多様でありましょう。となれば、その能力を伸ばすサポーターも、広く募るべきです。その意味で、私は保育への公営主義に反対であります。

ようやく、保育の世界における公営主義一辺倒な前提が揺らぎ始めたように思います。もちろん、単に論点を分離して触れていないだけかもしれません。しかし、そうであれば、分別なく「やっぱり公営が一番!」と短絡的に結論を持ち出さない・持ち出せない、別稿で慎重に展開しなければならないようになってきたとは言えるでしょう。
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2016年03月12日

でた! 「当事者優越主義」――左翼にあるまじき小池晃の大暴言

http://www.sankei.com/politics/news/160311/plt1603110021-n1.html
>>> 安倍首相、「保健所」誤読で議場騒然 「子供の苦労ないから…」と共産委員長

 安倍晋三首相は11日午前の参院本会議で、待機児童の解消に関し「保育所」と答弁すべきところを「保健所」と誤読した。首相は「保育所」と言い直したものの議場が騒然となった。共産党の吉良佳子氏の質問への答弁。

 これに対し、共産党の小池晃政策委員長は11日の記者会見で、「子供を保育所に預けた経験があり、苦労した経験がある、あるいはそういった苦労している人の声に耳を傾けたことがあれば、保育所を保健所と言い間違えることはない」と批判した。

 小池氏はこれとは別に「こういう問題で苦労していたら、あまりああいう言い間違いはしない」と語り、「耳を傾けたこと」の部分を省いて首相を重ねて批判した。首相には子供がいない。


(以下略) <<<
出ました。「経験者じゃないから・・・」や「当事者じゃないから・・・」として、発言内容やスタンスについて、それ自体ではなく、発言者の素性を持ち出す批判手法。「どうせXXだから・・・」といった思考も含まれるでしょう(共産党的には「XX」には「ブルジョア」が入るんですかね?)。こうした批判においては、「当事者」「経験者」という素性が優位に作用します。当ブログで過去に取り上げて論考してきた、刑事事件・刑事司法問題における「被害者感情絶対主義」は、その一種であると言えるでしょう。

たしかに、当事者・経験者の見解は、事実の体験がある点において、伝聞や推測よりはリアリティーがあります。他方で、当事者だからこその感情という厄介な問題や、あるいは「井の中の蛙」状態でしかないというケースもあり、決してその素性がそのまま無条件に正確な主張を提供するとも限りません

こうした「当事者優越主義」は、発言者の発言内容自体をもとに主張を事後的に評価せず発言者の素性をもとに発言前から主張に色をつける点において、事実を多面的に検討するに当たって極めて有害な方法です。当事者だから正しい訳ではないし、詳しく知らないからこその新鮮な主張、しがらみがないからこそ公平に他分野との調整を果たせるといった場合もあるでしょう。発言を萎縮させてはいけません。

発言者の素性が大手を振ってしまい発言が萎縮した実例として、刑事事件・刑事司法問題における「被害者感情絶対主義」のもたらす議論の硬直化があります。旧ブログに論考を残しておりますので、下記よりご覧いただければと思います。
http://www.geocities.jp/s19171107/DIARY/BLOGINDEX/saiban.html
※文字化けする場合は、文字コードをEUC-JPにしてください。

また、こうした手法は、単に言論を萎縮させるだけでなく、頑張っても「よい素性」になれない人たちを傷つける無遠慮な暴言にもなります。左翼であれば、本人の努力とは別の客観的・構造的な因果関係があるということは理解できるでしょう。不妊の夫婦に「子供の苦労」がないのは、彼らの努力の問題ではありません。小池氏が口にした「批判のための、よりによって最低レベルの、批判」を聞いて、心を痛めた不妊夫婦がいたら、左翼としてどう弁解するのでしょうか?
ラベル:政治 日本共産党
posted by s19171107 at 21:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2016年03月09日

ブラック企業を支える「労働者の良心」と「社会的通念」に切り込まない愚、というよりタチの悪いコジツケ?

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160307-00004382-bengocom-soci
>>> 「プールの水」流失で小学校教諭が個人弁済――弁護士「ブラック企業と変わらない」

弁護士ドットコム 3月7日(月)11時55分配信

千葉市中央区の市立小学校で昨夏、男性教諭がプールの給水口の栓を閉め忘れて、大量の水を流失させる事故が起きた。この際に発生した水道料金約438万円をめぐって、誰が責任をとるべきかが問題になったが、今年2月中旬、小学校の校長と教頭、男性教諭の3人が全額弁済した。

千葉市教育委員会によると、体育主任をつとめる男性教諭が昨年7月21日、小学校で行われた水泳教室のあとで、給水栓を閉めるのを忘れた。その後、8月7日に閉栓されるまで、18日間も注水が続いた。プール脇の排水口に流出して、無駄になった水は約9200立方メートルにのぼった。

県水道局から請求された水道料金約438万円。市教委はその支払について、学校関係者や顧問弁護士と相談して検討していた。今回、3人が弁済した背景について、市教委保健体育課の担当者は、弁護士ドットコムニュースの取材に対して「本人たちから『全額弁済したい』という強い申し入れがあり、その意向を尊重した」と説明した。


(中略)

ただし、労働者と使用者との関係においては、『わざと』損害を与えた場合や『重大な過失』がある場合を除いて、労働者に損害賠償をする義務は生じません」

今泉弁護士はこのように述べる。どうしてそんなルールになっているのだろうか。

「毎日働いているなかで、人間であれば誰しも、『うっかりミス』をすることはあります。使用者は、当然そのことを予想して対策を考えるべきです。また、使用者は労働者を使うことによって利益を得ているのですから、損害が発生したときにはそれを負担するのも当然というように考えるべきだからです。

裁判例においても、労働者が損害賠償責任を負うケースは、ごくごく例外的な場合に限られています。コンビニなどで釣銭があわない場合に、バイトの店員に支払わせるといった話をよく聞きますが、これは許されないことです。


(中略)

今回のケースは一般企業ではなく、公立小学校で起きた事故だが、どう考えるべきだろうか。

「今回のケースは、水道代438万円という高額な金額について、小学校の校長、教頭、男性教諭という3人の個人に支払わせています。このような対応は、ブラック企業と変わりません。

たとえ、本人たちが『全額弁済したい』と言っていたとしても、労使間の力関係からして、自由な意思によるものであるというのは、相当な疑問があります。

そもそも、ミスが起こり得ることを想定したうえで、複数人によるチェック体制や、定期的な見回りの体制がとられていなかったことが問題です。とりわけ、公立小学校の教員は残業代のつかない長時間労働で多忙を極めており、『うっかりミス』が生じやすい職場環境におかれています。

市教委は、再発防止のための体制改善をすべきです。個人の自己責任に問題を矮小化してしまうような今回の対応は、最悪の例として記憶されるべきでしょう」


(以下略)<<<
■決断にいたる「当事者の判断」こそ重要ポイント
記事の流れとしては、千葉市の小学校教諭がプールの給水栓を閉めるのを忘れたために、18日間も注水が続き、結果として430万円以上の水道料金が無駄にかかってしまった件について、市教委が学校関係者や顧問弁護士と相談して検討した結果、本人たちからの「全額弁済したい」という強い申し入れを受け入れて弁済してもらったという経緯について、労働問題に強みを持っている今泉義竜弁護士(首都圏青年ユニオン顧問弁護士なんですね〜)が「ブラック企業と変わりない!」などとお怒りでいらっしゃるといったところです。

今泉弁護士は、「労働者と使用者との関係においては、『わざと』損害を与えた場合や『重大な過失』がある場合を除いて、労働者に損害賠償をする義務は生じません」という、これ自体は正しい法的見解を軸に論を展開し始めています(労働者に対する賠償請求自体は禁止されていませんからね)。しかし、18日間ものリカバリーチャンスを生かさず、結果的に430万円以上もの大損害を発生されてしまったことを、「うっかりミス」として片付けることは、はたして社会通念的に通じるのか(これが一晩や3日程度だったらねえ)というと、疑問符をつけざるをえません(ちなみに、「お前だったら払いたいと思うのか!」という筋違いな感想を持った人へ。そりゃ430万円を大喜びで払う人はいないでしょうよ)。

おそらく、給水栓開けっ放し事件を起こしてしまった男性教諭、そして監督責任者としての校長・教頭は、「18日間・430万円」を「うっかりミス」として片付けるのは、自分自身の良心、そして社会通念的・世間の反応に照らして、まかりならないと判断したのでしょう。それが「本人たちから『全額弁済したい』という強い申し入れ」という行動につながったのでしょう。

■一部分だけ切り出し、根拠のない憶測を付加して議論を展開する労働弁護士
しかし、この記事は、「水道代438万円を3人の個人が負担した」という結果だけを取り出し、事件の経緯と当事者の判断・行動を捨象して「このような対応は、ブラック企業と変わりません」などと断じています。当人たちの良心、そして社会的通念・世間の反応に対して検討を加えていません。この弁済は、あくまで本人たちの強い申し入れの結果としての弁済であり、賠償義務を履行したわけではありません。自身の良心と社会通念に従った自発的な弁済行為とされています。その点において、本件では当事者の判断が大きな要素といえます。

にもかかわらず、無理矢理にブラック企業に話を持っていこうとしているために、「本人たちが『全額弁済したい』と言っていたとしても、労使間の力関係からして、自由な意思によるものであるというのは、相当な疑問があります」などと、大きな論理の飛躍を見せてしまっています。

もっとも、そう書いてはみたものの、おそらく証拠はないのでしょう。もし、そういう有形・無形の圧力があったのだとすれば、ブラック企業批判の文脈ではもってこいの情報ですから、胡散臭いソースであったとしても飛びつくことが容易に想定できます。しかし、あくまで「相当な疑問があります」で終わっています。これでは、類型化された「ブラック企業」の事例から演繹的に紡ぎだした「疑問に思う根拠のない疑問」に過ぎません(結論に根拠が必要なのは当然ですが、疑問だって、そういう疑問を提出するに相応しい「不審点」が必要なんですよ!)。

自発的な弁済と言われている行為を、何の根拠があるのかも明確に示さずに「労使間の力関係からして、自由な意思によるものであるというのは、相当な疑問があ」るなどと断じてしまう。類型を無理矢理に個別事案にあてはめて解釈していまう。「観察・実験を経ていない理論的推論」で論説を書いてしまう。まったくの妄想の産物、まったくの観念論でしかありません。

■「ブラック企業」は社会的通念が支えている。労働弁護士は「文化大革命」を焚きつけることこそ正道
この記事を先入観なく読んでいけば、本当に本人たちの強い申し入れの結果の弁済行為と見るのが正常な読解です(「違う!」というのであれば、そう主張する人物こそが不審点を明確に提示すべきです)。そして、ブラック企業問題に絡めたいのであれば、「労使間の力関係からして、自由な意思によるものであるというのは、相当な疑問があ」るなどと怪しいコジツケを展開するのではなく、むしろ「労働者と使用者との関係においては、原則として、労働者に損害賠償をする義務は生じない」とした上で、「にもかかわらず、労働者が自発的に払おうとする「良心」や、そうした場合に自費弁済するのを当然視する「社会的通念・世間の反応」が、ブラック企業的文化の温床になっているんです!」と論じるべきでしょう。一種の「文化大革命」を焚きつけるべきでしょう。

以前から述べているように、社会文化の体制というのは、体制として回っている以上は、たとえ消極的理由・諦めの気持ちによるものだとしても、「積極的には反対はされていない」と見るべきです。もし、まったく支持されておらず、かつ、オルタナティブが有力であれば、「積極的に反対される」はずだからです。現代日本におけるブラック企業文化も、そうだと言えるでしょう。巷で語られているようなブラック企業に好き好んで勤めようと思う人はいないでしょう。しかし、現実としてブラック企業は大いにのさばっており、かつ、積極的なブラック企業撲滅のための国民運動が展開されているわけではありません。また、ブラック企業で労働争議が頻発しているというニュースも聞きません。つまり、現代日本の労働者は、事実として、ブラック企業文化に対して「積極的には反対していない」「積極的反対が盛り上がっていない」と見るべきでしょう。これは、見方を変えれば、労働者が自己を解放する闘争に身を投じようとしないから、ブラック企業的文化がのさばっているともいえるのです(一人ひとりの労働者に自己解決を要求しているわけではないですし、戦闘的労組に加入して階級的スクラムを組めといっているわけでもないですよ)。

記事中では、コンビニの釣り銭不一致の自己弁済について取り上げていますが、これだって、法の趣旨やあるいは会計的処理(『資本論』も学習しているんですかね?)はさておき、社会通念的には「使用者は労働者を使うことによって利益を得ているのですから、損害が発生したときにはそれを負担するのも当然というように考えるべき」とは考えられていないから、発生しているとも言えます。釣り銭は店のものですから、他人のものを失くしたら自費で弁済するのは当然とお母さんも言っていたことではありませんか?(お母さんって「ブルジョワの奉仕者」「反革命思想宣伝隊」になるんですね!!! どーりで文化大革命があらゆる価値を破壊し尽くしたわけですわ)

それ以前に、本件の場合は税金が無駄になったのですから、営利企業の利益と一緒にするのはどうなのでしょうか。話がすりかわっています。わざとやっているなら、かなりタチの悪い部類に入りますし、気づかずブレているなら、ちょっと心配になります。

■今泉弁護士の指摘は焦点がブレている――「事件解決の視点」なのか「再発防止・社会改善の視点」なのか?
事実をブラック企業問題にコジツケた挙句、「市教委が悪い」などというテンプレ的な結論しか提示できない今泉弁護士。それも、違法であることが明白であると論証できたわけでもありません。特定の事件を論考するに当たっては、「事件解決の視点」と「再発防止・社会改善の視点」があると思います。今泉弁護士の指摘は、事件解決の視点では、妄想でストーリーを作り上げてしまっている点、都合のいいときだけ本件の事実を取り上げ、別の部分では急に一般論にコロコロと都合よく話がすりかわっている点においてまず致命的大減点ですが、仮に今泉弁護士のストーリーに従ったとしても、「これを『うっかり』で通せるのか」という点で、決定打に欠けています。また、再発防止・社会改善の視点においても、「市教委が悪い」と言っているだけで、自費弁済した3個人の良心的判断・行動、そして社会的通念・世間の反応をまったく検討していないのは、全体社会的現象としてのブラック企業問題を考える不十分過ぎます。

さらに言えば、「市教委が悪い」のでしょうか? 千葉市だからといって財政は決して豊かではありません。千葉県は? 国は? 「市教委は、再発防止のための体制改善をすべきです。個人の自己責任に問題を矮小化してしまうような今回の対応は、最悪の例」というのは、そのまま「国(千葉県)は、再発防止のための体制改善のために予算を編成すべきです。一基礎自治体の問題に矮小化してしまうような対応は、最悪の例」とも言えます。事件解決の視点では、市教委vs3個人なので、それでもいいのかもしれませんが、そうなるとこの記事はいったい、事件解決の視点で書いているのか、再発防止・社会改善の視点で書いているのか、まったくブレブレになってしまいます。

ちなみに、430万円を請求しないかわりに、査定を不自然にならない程度に数年間低めに抑えて、その分をコッソリと回収した場合はどうなんでしょう? 一気に明白に回収しないなら、少しずつコッソリと回収するまでですよ。分配権は権力側が持っているものであって、下っ端が持っているわけではありません。どんなに非支配者が騒いでも、権力側にはカードが幾らでもあるのです。やはり自主権の問題としての労働問題を究極的に解決するためには、自主管理化ですかねっ?!
posted by s19171107 at 12:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする