>>> 社員全員を取締役にしたら残業代は払わなくてもよいのか?〜「類塾」を営む株式会社類設計室のやり方■佐々木弁護士の安易なパターン当てはめ・演繹思考を指摘せずにはいられない
佐々木亮 | 弁護士・ブラック企業被害対策弁護団代表 2016年3月30日 20時54分配信
あまり一般の方には知られていませんが、労働業界周りの人であれば誰でも知っている超有名な「労働判例」という雑誌があります。
労働判例(2016年4月1日・1128号)労働判例(2016年4月1日・1128号)
私も労働事件を扱う弁護士の端くれなので、この雑誌を定期購読しているのですが、最新号におもしろいというか、目を疑うような事件が載っていました。
それは、関西で「類塾」を営んでいる株式会社類設計室が被告となった事件です(類設計室(取締役塾職員・残業代)事件・京都地裁平成27年7月31日判決・労働判例1128号52頁)。
ちなみに労働者の代理人は渡辺輝人弁護士です。
全社員を取締役にするという荒技
雑誌「労働判例」の表紙に、いきなり「全員取締役制塾職員の労働者性と割増賃金請求」という言葉が躍ります。
ここで、労働業界周りの読者は「え?どういうこと?」と一気に引き込まれます。
そして、「ぜ、全員取締役制?!・・・・だと?」と心を鷲掴みにされるのです。
そう、どうやらこの会社では、全社員を取締役ということにして残業代(=割増賃金)を払っていなかった、それが裁判沙汰になった、ということが判るわけです。
(中略)
「取締役」であれば残業代を払わなくてもいい?
さて、取締役だから残業代を払わない、とはどういうことでしょうか?
会社と取締役の契約関係は「委任契約」であるとされています。
この場合は、労働基準法の適用はありません。委任ですから。
しかし、ある人が、会社との間で労働契約を結んでいれば、原則として労働基準法の適用があります。
労働基準法が適用されることになれば、その人が法律上の制限を超えて働いた場合、会社は割増賃金(=残業代)をその人に払わなければならないこととなります。
会 社「あ〜ぁ、残業代を払いたくないなぁ」
悪い人「社長、名案がありますぜ。」
会 社「なんだ。言ってみよ。」
悪い人「全社員を取締役にすれば、委任契約なので残業代払わなくていいようですぜ。」
会 社「おぉ。それは名案だ。さっそく全員を取締役にしよう!」
というやり取りがあったかどうかは知りませんが、全社員を取締役にするということの目的で考えられるのは、こういうところだろうと推測できます。
ところが、会社とその人の契約が労働契約なのかどうかは、契約のタイトル名にとらわれずに、客観的に判断されます。
ですから、いくら取締役に仕立て上げたとしても、客観的に労働者だと言われてしまえばそれまでなのです。
当然、裁判では「取締役」とされた原告の労働者性が争点となります。
裁判所は、
・取締役の登記がされていないこと
・全正社員が参加する会議は取締役会と同視できないこと
・出退勤が厳格に管理されていたこと
・原告の給料23万円は年間売上83億円、経常利益12億円の会社の取締役としては安いこと
などを理由に次のように結論づけました。
上記に述べたところを踏まえると、本件において、原告の労働者性を否定する事情はみいだし難いというほかなく、原告は、被告の実質的な指揮監督関係ないしは従属関係に服していたものといわざるを得ず、紛れもなく労基法上の労働者であったと認められるべきである。
出典:京都地裁平成27年7月31日判決文より
(中略)
労基法の適用逃れの手口
このような労働契約じゃないかのような契約を結んだ形にして、労働基準法上の使用者の義務を逃れようとするブラック企業はけっこうあります。
労働契約を途中から業務委託契約に切り替えられてしまった例などもありますし、最初から業務委託契約にするというケースもあります。
他にも、委任、準委任、請負など、いろいろな形を使う場合があります。
いずれの場合でも、契約のタイトルにとらわれないで実態判断ですから、おかしいな?と思ったら専門家に相談してみてくださいね。 <<<
本件事案、まずは判決の「紛れもなく労基法上の労働者であった」という指摘を全面的に支持すること、そして、この記事の筆者であるブラック企業被害対策弁護団代表の佐々木亮弁護士の「会社とその人の契約が労働契約なのかどうかは、契約のタイトル名にとらわれずに、客観的に判断されます。」という見解の正しさを確認いたします。その上で、だからこそ、佐々木弁護士の安易なパターン当てはめ・演繹思考を指摘せずにはいられません。
■類グループの特異な「自主管理」思想への注目(理解や擁護は不要)
佐々木弁護士は恐らく、「類塾」や「株式会社類設計室」そして「類グループ」をあまりご存知ないのでしょう。しかし、類グループは、「独自」の社会観・組織観を持ち、行動している点において、その界隈では少し目立った存在です。どのくらい「独自」なのかは、その公式ページをご覧いただければお分かりになるでしょう。この組織は、「共同体」にコダワリがあるようで、独自の共同体論を長々と述べています。「共同体の強さ」というページでは、『自主管理への招待』なる自主出版書物を紹介(販売しつつ無料閲覧も出来るのが不思議ですが)しています。「共同体設立の契機となった基礎理論。40年以上前に書かれたが、今でも読者の心に強く訴えかける。」とのことで、類グループの原点・中核には自主管理思想があることが述べられています。そのほかにも、沿革のページでは、一般営利企業であれば考えないようなことを組織として定義し発表しています。この組織は、一つの特殊な(奇怪な?)論理に従って動いているといえます。
「類グループの原点・中核には自主管理思想がある」という彼らの論理を踏まえると、この組織の全ての行動原則が見えてきます。彼らが誇る「劇場会議」は、まさに彼の自主管理経営の中核であると位置づけられますし、「全員取締役制」というのも、彼の自主管理経営の現象形態であると考えられます。悪徳ブルジョワ連中と日々階級闘争を繰り広げておられるであろう佐々木弁護士は「全員取締役制」に仰天していますが、自主管理志向の組織であれば、何の不思議もありません。
■安易にパターン当てはめに走り、無茶な方向に話を持って行く佐々木弁護士
にもかかわらず、佐々木弁護士は、次のようなストーリーを組み立ててしまいました。引用記事から再掲します。
>>> 会 社「あ〜ぁ、残業代を払いたくないなぁ」佐々木弁護士は「というやり取りがあったかどうかは知りませんが」といいつつも、「推測できます」とし、その後もその前提で話を続けています。それは、記事の最終意味段落に「労基法の適用逃れの手口」という見出しをつけていることからも確定的です。
悪い人「社長、名案がありますぜ。」
会 社「なんだ。言ってみよ。」
悪い人「全社員を取締役にすれば、委任契約なので残業代払わなくていいようですぜ。」
会 社「おぉ。それは名案だ。さっそく全員を取締役にしよう!」
というやり取りがあったかどうかは知りませんが、全社員を取締役にするということの目的で考えられるのは、こういうところだろうと推測できます。 <<<
「巷のブラック企業」だったら、そうである確率は高いかも知れません。「ブラック社労士」が問題を起こしたばかりですし。しかし、類グループについて言うと、必ずしもそういう「巷のブラック企業」のパターンとは言い切れず、彼らに独自の自主管理経営思想から必然的に発生した現象形態であるとも言えるでしょう。同グループが運営している「るいネット」の、宗教じみた主張の数々をみると、壮大な(かつ奇怪極まる)実践の確信的一環である可能性が高いように思われます。個人的には、誤解を恐れずに言うと、ヤ○ギシ会とどっこいどっこいの奇怪な論理で動く組織だと考えています。
■個別組織の内的論理をも考慮に入れてこそ、「根っこ」にまで浸透する対策が打てる
少なくとも、「巷のブラック企業」のパターンに当てはめることはできない事案です。後述しますが、本件事案が「自主管理」由来の問題であれば、それは「自主管理経営組織における労働過程」という新しい重要な問題提起になります。しかし、これを「ワタミ」や「すき家」などと同列においてしまうと、問題に広がりが出てきませんし、体制構造的に異なりうる企業のパターンから単純演繹的に「ブラック企業対策」を打っても、「根っこ」にまで浸透するとは限りません。まさに、「タイトル名にとらわれずに」判断しなければならない事案、株式会社形態や表層的事象に囚われず、安直にパターン化することなく、個別組織の内的論理をも考慮に入れて深く探究しなければならない事案です。
もちろん、「個別組織の内的論理をも考慮に入れて探究しなければならない事案」とはいっても、類グループの内的論理は所詮、部分社会の論理であり、法律に基づく全体社会の論理から外れることは許されません。冒頭で私が、まずは判決の全面的支持を表明したのは、そのためです。しかし、事実の善悪判断や責任問題の追及とは別に、その動機解明が必須であることもまた事実です。なぜ、そういう結果に至ったのかという動機を解明することによって事態の構造・本質を知ることができ、「根っこ」にまで浸透する対策が打てます。
その点、動機の解明にあたって佐々木弁護士は、類グループ独自の自主管理思想を一顧だにせず、「巷のブラック企業」のパターンを安易に当てはめし、その後の思考を進めてしまっています。佐々木弁護士の言説は、事象の現象形態・事象の表面だけを舐め、それ以上の深い部分への探究をしようとしていない、表層的な分析です。
■個別の動機への探究をしない表層的な分析は、事象の本質を見誤る
個別の動機への探究をしない表層的な分析は、「根っこ」に浸透しない浅い対策しか打てないばかりか、事象の本質を見誤ることにも繋がる点、さらに問題は深刻です。安易にパターン化する人は、目の前の事実に基づいたストーリーではなく、そのパターンに基づいて演繹的に思考し、不明瞭な部分を補完したストーリーを作り上げて物事を判断します。こうした人々が見ているもの・語っているものは、事実・内実の産物ではなく、あくまで「想像」の産物です。演繹的補完が甚だしいと、それはコジツケに成り下がります。
もちろん、人間が物事を認識する上では、一定のパターンに沿って思考せざるを得ません。しかし、あくまで事実・内実に基づく人は、新しい現象に接するたびに既存のパターン類型を定義しなおしつつ判断します。パターンを不断に進化させるのです。本件、類グループの事案は、現象形態としては「ブラック企業」ですが、「自主管理思想にルーツをもつブラック企業」という点において、「巷のブラック企業」とはルーツが異なっています。ルーツにも探究の目を向けるとき、あくまで事実・内実に基づく人であれば、「ブラック企業」というパターン類型・観念に進化が起こるはずです。しかし、佐々木弁護士はあくまで、既存の「巷のブラック企業」のパターンに帰着させてしまいました。
まあ、企業側から金銭を回収し、弁護料を稼げればいいだけなら、そこまで考えないでしょうけど。
■表層的分析の癖は、見当違いな批判の基盤にもなるし、盲目的な支持の基盤にもなる
今回、佐々木弁護士は、本件現象形態を「巷のブラック企業」という否定的ニュアンスのあるパターンに安易に結び付けて判断しましたが、もし自分が普段から肯定的に評価しているパターンに合致する特徴を、類グループが持っていたらどうだったでしょうか? あくまで事実・内実に基づいて本件を思考したわけではなく、パターンに基づいて演繹的に判断したわけですから、判断を誤っていたかもしれません。佐々木弁護士個人の普段の立場は存じ上げませんが、たとえば、株式会社に対しては厳しい立場の人でも、労働者協同経営や生活協同組合に対しては幻想を持ち甘く接する人は、一定数いるものです。
かつて、様々な事物をパターン化して思考することを「科学的・理論的思考」などと称して積極的に行っていた人たちが、「カンボジア共産党(ポル・ポト派)」の「共産党」という肯定的ニュアンスのパターン、そして、「アジア的優しさ」などという部分的・表層的な現象形態(ポル・ポト軍も、東部地方出身者部隊は比較的穏健だったようで、残虐さで鳴らしたのは中部・北西部の部隊だったそうです)にすっかり囚われて、あの暗黒虐殺政権の本質を見誤って無邪気に支持していた歴史的事実を、今回の安易なパターン化から思い出さずにはいられません。
■妙なパターン化・安易なパターン化をする人は、事実・内実に基づかず思い込みで判断する癖のある人
あくまで事実・内実に基づく人は、妙なパターン化・安易なパターン化は決してしません。その点、佐々木弁護士の言説は、「類グループ」の事実・内実を正面から捉えているとは言えない記事構成である点、事実・内実に基づいているとは言えません。これは、事態の構造・本質に迫るには甚だ不足です。既に発生してしまった個別の労働事件を力技で解決する方法ならまだしも、深い本質的洞察にもとづく円満解決や紛争予防といった、より踏み込んだレベルでの解決にあたっては、こういう姿勢で臨むのは不適当です。
■判決の意義――左翼的協同組合に対するメスに!
最後に、この判決の意義を「自主管理経営組織における労働過程」という視点から考えておきたいと思います。なによりも、「紛れもなく労基法上の労働者であった」という判決のくだり、「会社とその人の契約が労働契約なのかどうかは、契約のタイトル名にとらわれずに、客観的に判断されます。」という佐々木弁護士の指摘は、左翼的協同組合・「協同組合ムラ」・自称「自主管理組合」を手心なしの視点で見る上での力強い武器になることでしょう。私企業の剰余生産物の処分に対して左翼は極めて厳しい立場ですが、相手が協同的な組織になると、その剰余生産物の処分には一気に甘くなる弱点があります。「協同」とか「自主管理」という甘言に惑わされるからでしょう(モンドラゴン信者とか)。
自主の立場に立てば、私企業における専制的処分も協同組合における同調圧力も、労働者個人の積極的同意がなければ「搾取」であることには変わりありません。判決は、組織の内実を個別的に審査する立場を鮮明に打ち出しました。左翼の「パターン化」によって追及の手が甘めになっている協同組織に対するメスになることを大いに期待します。