2016年04月26日

「最低賃金大幅引き上げキャンペーン」の世界観的誤りと危険性;円環的相互作用システムの立場から

10日も前の話になりますが、また「最低賃金1500円」を求めるデモ行進がありました。熊本地震の影響があるとはいえ、まったく盛り上がらなかったようで、報道記事を探すのに時間がかかってしまいました。
http://blogos.com/article/172086/
>>> 記事 キャリコネニュース
2016年04月15日 19:13
渋谷で「ファストフード・グローバルアクション」開催 「時給1500円」求めてセンター街で参加者100人が声をあげる

4月15日、世界40か国以上で「ファストフード・グローバルアクション」が行われた。アメリカ発のこの世界連帯行動は今回が3回目。当初はファストフード産業で働く労働者が中心となっていたが、今では低賃金で働く労働者全体にうねりが広がっている。

東京渋谷では、複数の労働組合からなる「最低賃金大幅引き上げキャンペーン委員会」が主催し、アクションに参加した。約100人(主催者側発表)がセンター街で、「1500円なければ生活できないぞ!」「賃金上げろ」と声をあげて通行人にアピールをした。

ニューヨークやカリフォルニアに続き、日本でも最低賃金大幅アップを目指す

スタート地点となったのはセンター街入口。「誰でも最低時給¥1500」と書かれたのぼりや、マクドナルドのマスコットキャラ、ドナルドに扮した参加者が珍しかったのか、多くの通行人や外国人観光客がスマホで写真を撮っていた。小学生の男の子が「なんでこんなところにドナルドがいるの?」と参加者に話しかける一幕もあった。

参加者は15時に出発し、約20分間、センター街を練り歩きながら、拡声器を使って通行人に訴えた。


「日本の最低賃金低すぎます。東京でも907円。年間フルタイムで働いても年収200万円にもいきません。これでは低すぎる」
「世界40か国以上で行動が行われています。低賃金の労働者が、最低賃金をあげようと声をあげています。アメリカではその結果ニューヨーク市やカリフォルニア州で次々と時給15ドル、最低賃金アップが実現しています。私たちはその戦いに続いて、日本でも最低賃金の大幅アップを目指したいと考えています」

また、世界各国の最低賃金事情が書かれたリーフレットを配布。さらに、アピール行動の様子を写真に撮ってネットに拡散することも呼び掛けていた。その後、センター街のマクドナルドまでたどり着くと、参加者が集合し、


「最低賃金を大幅にあげましょう!」「時給1500円にしろ」「我々は声をあげるぞ!」
「まともに暮らせる賃金よこせ」「世界の労働者と連帯して戦うぞ!」

とシュプレヒコールをあげた。


(以下略) <<<
■経済は円環的相互作用システムなのだから、一箇所だけ対応しても意味がない
経済システムは、生産局面・分配局面・支出局面の3局面が循環することによって成り立っています。経済システムで歪みが発生しているというのは、この循環のどこかで不具合が発生していることとイコールです。しかし、ここで重要なのは、チュチェ102(2013)年2月21日づけ「「鶏が先か卵が先か」が経済である」を筆頭に以前から述べてきたように、原因と結果が円環状に相互作用しているので、どこか一点にピンポイントで処置を行っても、システム全体の健全化には繋がらないという点があります。上記過去ログを再掲します。
>>> 良くも悪くも経済はシステムとして変動しています。そして、その相互依存関係は円環状に絡み合っており、複雑です。それが経済の正体だと思うんですが、どうも「『変動の中心』というものが何処かにあって、それが経済を支配している」という考えが根強いように思います。ちょうど、「身体の不調は、体内の何処かにある病巣のせいだ!」みたいな感じで。しかし、「病巣」が身体のバランスの崩れのなかから発生してくるように、経済の「変動の中心」と思われているものもまた、経済システム全体のバランスのなかから発生してくるものです。諸法無我なのです(ちょっと意味が違うか?)。

ちょっと上手く表現しにくいんですが、経済政策を西洋医学みたいに「病巣を切除すれば病気は治る」みたいな発想ではなく、東洋医学のように「病気は結局のところ身体のバランスの崩れだから、トータルに体質改善してゆく」といった発想でやったほうがいいんじゃないかと思います。
<<<

「円環的相互作用のシステム」という観点から経済システムを捉える立場で今回の「最低賃金大幅引き上げキャンペーン」を検討すると、「生産性の向上」という生産局面でのアプローチが全く欠けており、分配局面での主張に限定されていることに気がつきます。これではシステムとしての経済における歪みの改善には至り得ません

日本経済の生産性の低さは、以前から指摘されている通りです。Googleで「日本 生産性 低い」と検索してみてください。いくらでも出てくるでしょう。もちろんそうした主張の中には、「生産性が向上すれば全て解決する」といわんばかりの生産局面に主張が限定されている主張、本キャンペーンと根底において大して変わらない主張もありますので注意が必要ですが、重要な指摘ではあります。

■一箇所への対応が予期せぬシステム全体の障害を引き起こし得るが、そうした想定が見られない
上述の経済システム観を持った私に言わせれば、「最低賃金大幅引き上げキャンペーン」は「経済オンチの主張」と言わざるを得ません。おそらく彼らに言わせれば、「分配が健全化され消費者の購買力が上がることが刺激となって、生産が拡大され、経済循環が回るようになる。分配・支出⇒生産なのだ」といったところなのでしょうが、分配局面の健全化のためには生産局面の健全化が必要である(生産⇒分配・支出)のも事実です。また、分配局面に変化が起これば、それに対応した新しい・予期せぬ変化が他の局面で新規に発生するでしょう(円環的相互作用のシステムなのだから)。「上に政策あれば下に対策あり」。よく危惧される「時給が上がったので、商売たたみます」という展開は、分配局面の変化を受けて生産局面に新規の影響が発生する典型例です。

たとえ円環的相互作用システムの立場ではなく、直線的なドミノ倒し的因果関係システムに立ったとしても、そうした主張は「分配問題以外に経済システムには問題がない」という前提に立っています。もちろん、現実はそうではありません。経済シテスムは、あちこちズタボロです。

■「経済オンチ」の背後に見える危険な哲学レベルでの世界観的誤り――設計主義に繋がる思考
熊本地震の翌日とはいえ主催者発表で参加者100人では世間的にもあまり相手にされていない運動なのでしょうから、現時点ではそこまで深堀りする必要のない主張なのかもしれません。しかし、単なる経済オンチに留まらぬ「根本における哲学レベルでの世界観的誤り」について、やはり予防・警戒線的に述べておかなければならないと思います。経済を論じるときに危険な思考・思い違いが見え隠れしています

本キャンペーンのように「分配問題にしか注目しない言説」の根底にはどういう思考回路があるのでしょうか? それは、「事物には単一・究極的な原因がある」という見方であり、そして「究極の原因に対応する究極の真理を掴み、改善実践を行えばよい」という考え方が見受けられます。これは、最終的には設計主義に繋がる危険な考え方です。

現実世界の実相はそうではありません。因果関係は相互作用的であり、単一・究極のものはありません。よって、現実世界への対応は、相互作用システムを踏まえたトータルなものでなければなりません。経済分野における対応について言えば、「分配も生産も、そして勿論支出も同時にトータルに」なのです。前掲過去ログでも述べたように、東洋医学のように「病気は結局のところ身体のバランスの崩れだから、トータルに体質改善してゆく」といった発想に立つことが求められているのです。

■カオスという実相と設計主義的思考
また、この相互作用的な経済システムは、「初期入力値に鋭敏なカオス的性質」があります。一人ひとりの生産者・消費者の僅かな経済活動の変更の波紋が市場メカニズムの複雑な作用を通して雪だるま式に膨れ上がってゆき長期的には大きな変動が発生するという意味です。カオス理論(カオス力学)における「バタフライ効果」が経済システムにおいても観察されます。

こうしたカオス的性質をもった経済システムにおいては、マクロレベルでの一括した組織的対応といった設計主義的アプローチは原理的に不可能です。経済システムを一段上から「設計・指導」し、それを「長期的に徹底」することはできないのです。となれば、次善の策として、ミクロレベルでの市場活用型アプローチしかあり得ません。ミクロレベルでの諸活動が市場メカニズムを通して、ベクトルの合成の形でマクロ的な変動をもたらします。

設計的・計画的対応を織り込むにしても、あくまで市場変動の内でのミクロレベルでの即応的な形態、「市場の一員」としての立場で臨むしかあり得ません。もっとも、市場活動自体がそもそも「バタフライ効果」を起こしているのだから、市場システムを破棄して完全なマクロレベルでの設計主義経済に移行するというラジカルな主張も理論的にはあり得る立場でしょう。しかし、計画経済に対するハイエクの予測がことごとく当たったことが明白な現代において、そういうことを言う人はもういないでしょう。経済システムのベースは市場主義しかあり得ません。そして、市場変動の調整は上述の通り、市場を中心に据える大前提で臨むほかないのです。

■まとめ
つまり、「事物には単一・究極的な原因がある」という思考は、「究極の原因に対応する究極の真理を掴み、改善実践を行えばよい」に繋がり、それは設計主義に発展してゆくが、現実世界の実相は設計主義的アプローチが有効な仕組みになってはおらず、むしろ著しく悪い結果に帰結になりかねないのです。「事物には単一・究極的な原因がある」は破滅的結果をもたらしかねないスタートラインの危険な思考なのです。

4月15日に東京で行われた「最低賃金大幅引き上げキャンペーン」の「根本における世界観的問題」の重大性、世界観(哲学)レベルでの誤りとその危険性がお分かりいただけたのではないかと思います。

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2016年04月21日

抱き合わせ募金を擁護する日本共産党関係者の「基準」;世間常識に合わせないことの意味

19日の記事で取り上げた、日本共産党の地方組織幹部による災害救援金と党活動資金との抱き合わせ商法的な募金に関する、党関係者・支持者の「擁護論」についてです。

末端の日本共産党関係者・支持者は何故、世間常識とは大きく外れた行為を大真面目に擁護するのでしょうか? (ちなみに党中央は明確にダメと言っています) それは、何を以って問題と判断するかという「基準」に違いがあるからです。その基準の違いについて今回は考えてみたいと思います。

私も経験がありますが、一般人は「世間常識」を以って判断を下すのに対して、日本共産党関係者は「理屈」を以って判断を下します。日本共産党に限らず、「革命」を志向する人々は、あらゆる権威・伝統・常識を疑い、それを「理性的に」洗い直した上で(なんという思い上がり!)新しい理性的な理想社会を作り上げることを目指しているので、理屈偏重は彼らの立場を支える「基盤」であり、彼らにとっては「誇り」ですらあるでしょう。

「理屈」の立場に立てば、たしかに「きちんと説明した上の募金だから問題ない」となるでしょう。抱き合わせ商法的募金を禁じる法律はありません。自称「前衛」にご指導賜るまでもなく一般人だってそんなことは百も承知です。しかし、一般人は、そうした世間常識に反することは尚もしません。何故でしょうか? それは、相手を不愉快にさせ、かつ、自分の真意を誤解される恐れがあるからです。

人間の意識的言動の背後には何らかの動機・真意が存在しますが、それは必ずしも相手側に明示的に示されるものではありません。そこで人々は、相手の言動に対して「一定の枠組み」を当てはめて、その動機・真意を推測しようとします。その「一定の枠組み」が「世間常識」なのです。

そのため、たとえば「葬式にホワイトタイでは参列しない」という法律があるわけでもないのに、誰一人としてそうした服装で参列する人がいないのです。もし、そんな服装で葬式に参列しようものなら、「他人の死を喜んでいる」と表明していると受け止められ、遺族や他の参列者に対して「不愉快」というレベルではないマイナス感情を抱かせることになります。

「世間常識に反した理屈」が嫌がられるのは、その「理屈」自体がどうこうではなく、その背後にある「動機・真意」に「悪意」がこめられていると思われるからなのです。通常であれば、やらないような行動パターンをわざわざ、その文脈で敢えて実行するところに、メッセージがあると受け止められるからなのです。親切な人だったら「なんでわざわざ、このタイミングでやるの? それ、今じゃなくても良かったよね? どういうつもり?」と苦言を呈してくれることもあります(日本共産党関係者なら、一度は言われたことがあるでしょうね)が、まさにそうした理由なのです。

ここで重要なのは、現代における「世間常識」の活用は、決して特定個人の自由を侵害し、画一的な価値観に強制的に同一化させる「ムラ社会・ファシズム的な目的」ではなく、多様な考え方をお互いに尊重し合うための「自由で民主的な目的」によるという点です。「常識的に考えて○○すべきではない」というのは、確かに個人に対して特定の言動を控えるよう要請する点において、「自由に対する規制」であることには違いありません。しかし、その禁止の目的は、画一的な価値観をゴリ押しするためではなく、多様な価値観の存在を大前提としたうえで、そうした価値観同士の衝突をなるべくさけるために行う相互配慮なのです。そして、それが「明文化された理屈」ではなく「不文的な常識」の形をとっているのは、学者や権威者の「体系的整理」よりも、何世代にもわたって人類が形成して来、いまも不断に変化しつづけている「自然発生的な習慣・秩序」の方が、人々の自然な生活感情を広く取り込んでいるからなのです。

マルクス主義者らしく「汝の道を進め、人々をして語るにまかせよ」を貫き通すのも一つの道です。しかし、自分は歩み寄る姿勢を見せないのに他人には自分のやり方を受け入れるように要求するのは、幼児的な都合のよさであることは十分に認識すべきです。世の中は「相互配慮」で成り立っています(世間は「お母さん」ではありません)。人間には「友人を選ぶ権利」がある(※1)ので、その正当な裁量の範囲内(まさに人間関係の距離感における成熟度の試金石)で友人を失うことになるでしょう。

※1 もちろん、行きすぎると「不当な疎外」「村八分」になるので匙加減の注意が必要です。我々、現代市民社会に住む人間は、「村八分」のような前近代的な言動を行ってなりません。スマートに距離感を保つべきです。ちなみに、以前にも取り上げましたが、日本共産党関係者は「ムラ社会的人間関係」を理想としている(と言わざるを得ない言動)ので、「友人を選ぶ権利」を否定するきらいがあります。。。

この程度のことは、現代社会における一般人どうしであれば、今更確認するまでもない「自由で民主的な社会における人間関係の基本原則」です。しかし、日本共産党関係者については、そこから確認しなおさなければならないわけです。世間常識に合致しない行為が何故、人々から白い目で見られるのかを理解できない人々が「国民連合」などと口走っている今日この頃です。

このことは、一般人の立場から言えば、「どういう行動原則で動いているのか予測できない特殊な連中が、急に擦り寄って来ている」ということです。何を言い出すか、しでかすか分かったもんじゃない連中、それも悪意・わざとでなく素でやっている連中と、あなたは付き合えますか? 私は無理です、無理でした(実体験)。

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2016年04月19日

日本共産党の「普遍的理念との抱き合わせ商法」による党利党略の確保;日本共産党が言う「正論」の危険性

昨日の記事でも取り上げた、日本共産党品川地区委員長の香西かつ介氏が熊本地震への救援金と党活動費を一緒くたにして集金した件についてです。

小池書記局長も、やり方のまずさを認め、全党に改善の徹底を指示しました(産経新聞記事)。民主集中制の日本共産党において、中央党書記局長がここまで明確に言明しているのですから、もはや党内には議論の余地はないのでしょう。党として「NO」の結論が出ました。正常な判断と思います。

しかしながら、党員かどうかは存じ上げませんが、下記のような「擁護論」も見られます。。。
https://twitter.com/roarmihoko/status/721683559170224128
>>> 政策演説会で、その主旨を次の@被災地支援A北海道5区補選勝利B党の躍進の三点だと説明して聴衆にカンパを募り、集まった額をそれぞれ等分に配分した…ということに何か問題が?(以下略) <<<
「きちんと説明した上の募金だから問題ない」という主旨です。昨日の記事で私は、「「三橋派緑の党のように募金の用途を偽っているわけじゃないから問題ない!」とか言ってきそう」と述べましたが、本当に言ってきましたw

昨日の記事で私は、「一つの目的に専念すべき時と場所において、それとは異なる別の目的を持ち込むことが間違い」と述べました。前掲の産経新聞記事で小池書記局長も言明した世間常識の立場です。それに付け加える形として、大規模地震に対する救援金と抱き合わせで、それとは関係のない党活動費を集金する方法は、スターリン主義者が大得意とする「普遍的理念の私物化」「普遍的理念との抱き合わせ商法」であるという論点を設定したいと思います(ちなみに私は、レーニン=スターリンという認識に立っているので、私が「スターリン主義」というとき、そこにはレーニン執政も含みます)。

「普遍的理念」とは、誰も反対できないような正論を指します。歴史的具体例で述べれば、ロシア革命期、ボリシェビキは「パンと平和」という、誰もがその重要性を認める「普遍的理念」を、あたかも自家薬籠中の物が如く取り上げた事実が挙げられます。「ボリシェビキの政策のみが『パンと平和』をもたらすものであり、それ以外のすべての政治勢力の政策はその対極にある」という独善的位置づけであり、そして「『パンと平和』のためには、ボリシェビキの戦時共産主義以外にあり得ず、そのためには革命的暴力・血の粛清が不可欠である」という論法です。「パンと平和」=「戦時共産主義」=「革命的暴力・血の粛清」という論法が定立されてしまうと、「革命的暴力・血の粛清に反対!」と述べようものなら「貴様は、人民の当然の権利である『パンと平和』にも反対するのかっ!」と言い返され、瞬く間に社会的にも肉体的にも抹殺されてしまいます。

本件救援金募金案件において、収入の多寡の問題を別にすれば、救援金を募ること自体に反対する言動をとること・募金に参加しないという選択肢を選ぶことは困難です。こうした呼びかけを受けて「いや、私は送らないからね」とは言い出しにくいものがあります。それは今回、熊本で発生した大地震のような大規模災害において「救援金を送ろう!」というのは、「普遍的な理念」だからです。良識ある人であれば、ある程度の金額を募金するのは当然だからです。

そうした「普遍的な理念」の展開と同時に救援金とは無関係の党活動費募金を要求する「抱き合わせ商法」のまずさは、もうお分かりいただけるでしょう。ふだん「率直に言って、共産主義には賛成だけど今の党のやり方にはちょっと賛成しきれないから、党活動費募金には、せいぜい500円くらいまでしか出せないなあ」と思っている人でも、こうした「普遍的理念との抱き合わせ商法」で迫られると「せめて5000円くらいは出さないとなあ。となると、3分の1ずつ振り分けるって話だから、党の懐には3300円以上も入るのかあ・・・」という展開になってしまうのです。「普遍的理念」という錦の御旗を掲げられると、それには面と向かっては反対できないので、抱き合わせ的に付属品をつけられると、付属品も含めて肯定せざるを得なくなってしまうのです。これは、付属品に対する正しい評価を妨げ、不当な高評価に繋がる点において、避けるべき方法です。

また、私も経験がありますが、こうした集会におけるカンパ募金というものは、茶封筒を参席者に回してゆく方法において、「公開投票制」的な要素があります。募金の呼びかけに対する入金額というのは、一般的に、その呼びかけに対する賛同の程度を示すバロメーターです。あまりに安い額は、呼びかけに対する賛同度合いが疑われます。「公開投票制」の信憑性の程度は、ソ連における選挙の実例を見ればお分かりいただけるでしょう。ソ連の選挙だって反対投票しようと思えばできないことはありませんでした。受付で交付された投票用紙にバツ印をつけるべく、いったん投票者列から外れて筆記台に向かえばよいのですから。もちろん、反体制思想を持っていることはバレバレ――募金の茶封筒に500円しか入れなかったのと同じくらいバレバレ――ですけど。

「普遍的理念との抱き合わせ商法」に対する思想的無防備には、くれぐれも注意しなければなりません。悪い奴らは必ず、錦の御旗を用意し、それに便乗して自己利益・党利党略を確保しようとするものです。

香西かつ介氏擁護論には、次のような切り口もあります(この人に関わるとヤケドしそうですが敢えて)。
https://twitter.com/rock_west_/status/721699726534451200
>>> なんか噴きあがってるけど、街頭ならともかく、共産党の演説会≒支持者しかいないとこで募金させたんなら、共産党が何に使おうと勝手じゃないの?嫌なら共産党に募金せずに他にすればいいだけの話。これはどこの政党でも同じなんじゃないの?自民党だろうが民進党だろうが。 <<<
「党員相手なんだからいいじゃん」「党員でも嫌なら募金しなきゃいいだけ」という主張です。後者の失当性は、既に上述したとおりです。

さて、果たして「党員相手なんだからいいじゃん」と言えるものなのでしょうか? 党員の「忠誠心」に甘えすぎなのではないかと思わざるを得ません。党員だって地獄の底まで党中央に付き従うわけではないでしょう。現に日本共産党は、未結集党員(幽霊党員)の問題が深刻化しています。党員の「忠誠心」に甘えた稚拙な党運営は党組織の生命力を殺ぐことになります。

今回の香西かつ介氏の発言を擁護する言説は、「『公開投票制』の如き場で、『党員の忠誠心』に甘えきった根性で『普遍的理念との抱き合わせ商法』を展開し、自己利益・党利党略を確保する」ことを是とする思考回路の人々によって提唱されていることが判明しました。党員や党支持者、党員の素質がある人々の思考回路は、こういった諸要素によって構成されていることが判明したのです。

非党員である圧倒的大多数の日本国民にとっては、これら諸要素のうち、特に「普遍的理念との抱き合わせ商法」に注意すべきでしょう。日本共産党が何らかの正論を述べているとき、そこには、必ずしも正論とは言えない怪しいシロモノが「抱き合わせ商法」的に付随している可能性があることが今回の一件で明らかになったのです。たとえ、中核の論理が正論であったとしても、付随品がトンデモないものであるならば、決してその正論に飛びついてはいけません。その中核的正論と付随品の分離を要求すべきです。

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熊本大地震への支援から見る日本社会の再集結――前近代的なムラ社会への回帰としてではなく、個人主義の長所を取り入れた形態
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2016年04月18日

熊本大地震への支援から見る日本社会の再集結;前近代的なムラ社会への回帰としてではなく、個人主義の長所を取り入れた形態

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160418-00000079-jij-soci
>>> 定休日も相次ぐ義援金=週末の来客、5倍近く―銀座熊本館

時事通信 4月18日(月)16時10分配信

 熊本県のアンテナショップ「銀座熊本館」(東京都中央区)には18日、定休日にもかかわらず義援金を届ける人の姿が相次いだ。

 
 同店は月曜が定休日だが、入居するビルの1階受け付けに義援金の箱を設置し、職員も配置した。

 義援金を届けに来た都内の主婦(52)は友人が熊本県に住んでいるといい、「力になりたいと思って来た。こういう時なので店が開いていれば良かった」と残念そうに話した。

 熊本県東京事務所の堀敦博くまもとセールス課長(50)によると、地震直後の週末16、17両日は、通常の週末の来客数の5倍近い約6000人が詰め掛けた。16日の開店時から義援金の箱を設置したが、18日昼ごろまでの集計で総額約430万円の義援金が集まったという。堀課長は「支援してくださった方には感謝の気持ちでいっぱいです」と話した。 
<<<
日本において大規模な地震災害が起こったとき、しばしば、「略奪事件がまったく起こらない」ことが国際的に稀有な事象として取り上げられます。それも確かに重要かつ、誇りとしてよい日本社会の成熟度を示す事実ですが、それ以上に、「普段はお互い干渉しない、一見すると無関心なんじゃないかと思うような関係性でありつつも、ひとたび重大な困難が発生すると、いちはやく助力の手が差しのべられる」点にも、世界的にみて稀有な日本社会の成熟度が現れていると思います。

すなわち、世界的にみると、「コミュニティー同士の共助の輪は強いが、普段から相互の干渉が多い『ムラ社会』」のケースか、あるいは、「普段からの相互干渉は少ないが、非常時にもお互いを省みることのない『バラバラ社会・無関心社会』」のケースのどちらかであることが多いといえます。それに対して、今回の一件を通して日本社会を見ると、「『ムラ社会』でもなく『無関心社会』でもない社会」「個々人が適度な離合的人間関係の距離感と集団的人間関係のバランスを保っている社会」と言えるでしょう。

これは集団主義的社会と個人主義的社会の両方を経験しないと至り得ない社会的意識です。前近代的な村落共同体においては「人格的に独立した個人という位置づけ」はないので、「適度な離合的人間関係の距離感」を体得するのは難しいものがありました。

では、近代的な都市社会になれば自然と人格意識的に成熟化するか(したのか)といえば、むしろ逆であると言わざるを得ません。歴史的に見て、村落共同体から近代都市社会への移行による「近代的個人」の登場は、否応なしの産業化によって村落共同体が強制的に解体されたことによって発生した事象なので、十分な主体的準備がないままに進行しました。社会経済の変化に対して思想意識の変化が追いつかず、アンバランスが発生したのです。

そのため、当初の「近代的個人」は、啓蒙主義者が言うような立派なものではありませんでした。「人格的に独立した個人」というよりは「バラバラに分断された元村民」というべきであり、そこには、「お互いに過度に干渉し合わず、お互いに無関心にもならない」という意味での「個人」の人格意識的成熟性はありませんでした。それは、近代都市社会における「無関心化」の基盤になりました。
人間は本質的に「バラバラ」であり続けることはできません。日本社会も急激な都市化によって「無関心化」が広がりました。その後遺症はいまも根強いものがあります。しかし、今回の一件を見るに、日本社会はそうした「バラバラ」を少しずつ克服し始めている、それも、前近代的なムラ社会への回帰としてではなく、個人主義の長所を取り入れた形での「日本社会の再結集」が始まっているように思います。

もちろん、東日本大震災への支援が5年たって風化し始めている点は、まだまだ「再結集」が不十分であることを認めざるを得ません。。。

そんな中で、日本共産党がやってくれました。
http://getnews.jp/archives/1446665
>>> 共産党・香西かつ介氏 募金を「熊本の被災地救援、北海道5区補選支援、党躍進のためにありがたく使わせていただきます」とツイートし炎上

DATE:2016.04.17 20:04 BY:Taka


(以下略)<<<
日本共産党員のことですから、「三橋派緑の党のように募金の用途を偽っているわけじゃないから問題ない!」とか言ってきそうですが、そういう問題ではないんですよね。一つの目的に専念すべき時と場所において、それとは異なる別の目的を持ち込むことが間違いなんですよ。要するに「あなたは今日、ここに何をしに来たんですか? 被災地救援ですか? 党勢拡大ですか?」という話なのです。

日本共産党は、「党勢拡大」が第一目標・自己目的化している集団です。こういう、特殊社会の論理を最優先にする一種のカルト的集団こそが、これからの日本人・日本社会の「再結集」において主要な障害になるでしょう

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日本共産党の「普遍的理念との抱き合わせ商法」による党利党略の確保――日本共産党が言う「正論」の危険性
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2016年04月17日

大規模災害時に出てくる外野の「道徳の教科書的模範解答」のナンセンスさ

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160416-00000539-sanspo-ent
>>> 「アホな放送局だ」ホリエモン、バラエティ放送延期に苦言
サンケイスポーツ 4月16日(土)14時55分配信

 ホリエモンこと実業家の堀江貴文氏(43)が16日、自身のツイッターを更新。熊本地震を受けて出演予定だった番組が放送延期になったことに対して苦言を呈した。


(中略)

 さらに「俺たち地震の被害を受けてないものは出来るだけ普段通りの生活をしながら無理せず被災者支援を行うのが災害時の対応だろう」と私見を述べた。その上で、18日朝にスマホ向けで生放送という予定があると明かし、「出演する意欲が失せてきた。こんな下らない腰砕け局に協力したくない。。」と後ろ向きな言葉をつづった。 <<<
東京ディズニーシーが「配慮」をしたり(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160415-00000069-sph-soci)と、大規模災害時にはありがちな謎配慮が横行するなか、さすが堀江氏、果敢になる斬り込みです。しかしながら、コメント欄には謎配慮を支えているであろう発想に基づく声が寄せられています。
>>> son***** | 2016/04/16 15:05
自分の家族が被災してても、同じ事が言えるのだろうか。
<<<
「自分の家族が〜」「自分だったら」―――「道徳の教科書的模範解答」です。昨今、何かというと出てくる言説ですが、はっきりいって「そういうお前だって、その立場を徹底できていないだろw」と言ったところですし、また、本質的に「どうでもいい想像力の発揮」です(そもそも堀江氏は「俺たち地震の被害を受けてないものは」と言っています。家族が巻き込まれた場合は、「地震の被害を受けてないもの」には当たらないでしょうに)。

他人の不幸にたいして「自分だったら」と考えて自粛を主張する人たちも、実は「線引き」しています。その立場は、決して貫徹できていません。世界は不条理と不幸に満ちているのですから、そうやってイチイチ「自粛」するようでは、何も楽しいことはできなくなるでしょう。海外では凄惨な戦争・内戦が続いている国だってあるのですから、世界平和実現の日まで、Yahooニュースでホリエモン相手に道徳講釈を垂れたり、家族とファミレスで食事したり、のんきに恋人とのデートにウツツを抜かしている場合ではありません。しかし、日本人は現にそれらをエンジョイしています。「欲しがりません、世界平和までは」などという人は聞いたことありません。ご立派なことを言っている人を含めて皆、他人の不幸に対してはしっかり「線引き」をして、自分の生活をエンジョイしているのです。

そこまで大袈裟な話でなく、もっと粒度を細かくして見た場合、たとえば日本国内では、耐え難い生活上の困難に直面し、死すら選択肢に入れている人もいます。しかしやはり、それを理由に「欲しがりません、共産主義実現までは」などとしている人は聞いたこともありませんたまたま目に入った、目立つ熊本の大地震のときだけ、何故か急に「自粛」を始める――まったく安っぽいおセンチな芸当です。

もっとも、それが被災地の役に立つのであれば、まだマシです。他国での戦争被害者や国内困窮者への救援にはならずとも、少なくとも熊本の被災者を救うことにはなるのですから、まったくやらないよりは、やった方が良いに決まっています。しかし、この「自粛」が、いったい何の役に立つのでしょうか? 東日本大震災の時のように電力が決定的にたりないときは、禁欲的自粛は国民として当然の支援・協力行為です。しかし、今回の場合は、どういうジャンルでの自粛行為が、どういう形で有意に作用するのでしょうか? 「熊本で大災害が起こっているのに、自分だけ楽しいことはできないよ><」という、安っぽい感傷以外に、これといった動機は見当たりません。

そう考えると、「自分だったら」という言説は、そもそも言っている本人達だって貫徹できていない、安っぽい感傷にすぎず、どんな人であっても、結局は堀江氏の言う「俺たち地震の被害を受けてないものは出来るだけ普段通りの生活をしながら無理せず被災者支援を行うのが災害時の対応だろう」という境地に至らざるを得ないと言えるでしょう。

また、こうした「自分だったら」という想像力の発揮は、どうでもいい想像力の発揮です。この手の思考実験は、「相手の立場に立って考える」という「模範的な」行為であると称賛されがちですが、正確に言うと「相手の立場に自分が置かれた時、自分はどう感じるのか」、すなわち、あくまで判断基準は「当事者ではない自分」にすぎません。快適な自室の柔らかいソファーの上で、耐え難い困難に直面している人の立場に立ったつもりになって、「自分だったら」などと想像を巡らせ、おセンチな感傷に浸っている姿は、客観的に見ると滑稽ですらあります。そんな想像で被災地を分かったつもりになっているのは、もはや冒涜的でさえあります

こうした「道徳の教科書的模範解答」を口にしている人は、決して悪意はないのでしょうが、もう少し、自分が依って立つ「正義」を疑ってかかった方が良いでしょう。非常事態では、変な方向への団結が起こり易いものですから。
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2016年04月12日

「一般論としての結束の必要性」と「特定組織への結束の必要性」とを混同させる共産党組織論

短い記事ながらも、スターリン主義の組織観がよくわかる記事です。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-04-10/2016041002_03_1.html
>>> 2016年4月10日(日)
生乳取引制度 廃止狙う
規制改革会議提言 北海道補選争点に

 政府の規制改革会議は8日、牛乳やバターの原料となる生乳の取引について、農協などが酪農家から生乳を集めて乳業メーカーに販売する現行制度の廃止を提言しました。環太平洋連携協定(TPP)を機に廃止をねらうものです。


(中略)

現行では、全国10の「指定生産者団体」となっているホクレン農業協同組合連合会など農協組織が酪農家から一括して生乳を集め、乳業メーカーとの交渉で販売量や価格が決められています。価格交渉力を強めてメーカーと対等に交渉できるようにして、輸送コストの削減や需給調整を行い、安定供給にも役割を果たしています。

 これに対し規制改革会議は、「経営判断で生産数量や販売ルートを選択できるようにする」ことで「酪農家の所得が向上する」という口実で現行制度の廃止を求めています。

 酪農家がばらばらになれば、メーカーによる支配が強まって過当競争や価格暴落が引き起こされ、所得向上どころか所得減や廃業に追い込まれることは必至です。TPP参加を機に学校給食などへの参入をねらう多国籍乳業メーカーなどの要求に応えるものです。


(以下略) <<<
酪農家がばらばらになれば、メーカーによる支配が強まって過当競争や価格暴落が引き起こされ、所得向上どころか所得減や廃業に追い込まれることは必至」という指摘は、たしかに、一概に間違いと断定できるものではありません。質的競争力のない凡庸な商品しかつくれない、ごくありふれた生産者は、結束して身を守る必要があるのも事実です。

しかし、「一般論としての結束の必要性」が正しくとも、「指定生産者団体への結束の必要性」は、必ずしも正当化されません。現行制度解体で一旦バラバラになった個別生産者が、参加・脱退・移籍自由の原則で、改めて自主的に生産者団体を作り、市場の中で存在感を示し、価格交渉力をつければ良いだけです。本当に酪農家たちにとって必要性があるのならば、現行の指定生産者団体に比肩する規模を誇る団体が自生的に形成されるでしょう。酪農家の自主的決断の末の自生的秩序としての同業者団体は大変に結構なことですが、既存の指定生産者団体の枠内に機械的・割り当て的に押し込むべきではありません。生産者たちの自由なアソシエーションに委ねるべきです「割り当て」と「自由なアソシエーション」は、決定的に異なるのです。レーニンでさえ、集団化は人民の自発性に基づいて進めるよう原則化しています。

スターリン主義者は、「一般論としての結束の必要性」と「特定組織への結束の必要性」とを混同させ、論理を飛躍させることで、共産党組織への機械的・割り当て的な一本化を正当化しますが、本件赤旗記事は、まさにその典型的なパターンに基づいています。この混同こそがスターリン主義の重要な一要素である点、日本共産党はいまだにスターリン主義の残滓を引き継いでいると言う他ありません。

こうした混同は、従来は「科学の目」なるもので正当化されてきました。「真理・真実を科学的に解明した唯一正しい方法論に基づく無謬の党」という位置付けです。しかし、商売のことは現場の商売人がよく知っているものです。少なくとも、党幹部・同業者団体幹部が設計できるものではありません。それは歴史的にも実証されていることです。やはり、現場の商売人たちの自主的な判断による離合自在の組織形成に委ねるべきです。現場の商売人だって万能ではないので、「理論的に最高」ではないかもしれません。しかし、「現実的に最善」にはなるでしょう。

もっとも、相手方に足許を見られて値切られるほど、特定メーカーの買い付けに依存すること自体がそもそもの誤りです。結束して特定メーカーにたいして要求を呑ませたとしても、そのメーカーが傾いたらどうするつもりなのでしょうか?

「経営判断で生産数量や販売ルートを選択できるようにする」ことでは、「酪農家の所得が向上する」というよりも、むしろ「特定メーカーの買い付けに対する依存度を下げる多極化」といった方が正確でしょう。いわゆる「下請けいじめ」というのは、結局、メーカーの「需要独占者」という経済的立場を背景にしたものです。そうしたメーカーの強い立場を切り崩すには、「結束」よりも「多極化」こそが正道でしょう。
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2016年04月07日

自称「革命家」の観念的時間感覚と、生活者の現実的時間感覚;日本共産党の数年以内の認可保育所「緊急」増設

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-04-06/2016040601_02_1.html
>>> 2016年4月6日(水)

党が「保育」緊急提言
30万人分認可増設 10万円賃上げ
小池氏ら会見

日本共産党の小池晃副委員長・政策委員長は5日、国会内で記者会見し、大きな政治問題となっている保育所の待機児問題に関する緊急提言を発表しました。認可保育所の緊急増設と、保育士の賃上げなど労働条件を改善する根本的対策を緊急に行う内容です。高橋千鶴子衆院議員と田村智子参院議員が同席しました。

 小池氏は、問題の根本に認可保育所が決定的に足りないこと、保育士の労働条件が劣悪であることを指摘。安倍内閣の緊急対策は「規制緩和と詰め込み、保育内容の切り下げを行うもので公的責任を放棄するものだ」と批判しました。

 第一の提言として、30万人分の認可保育所(約3000カ所)を数年で緊急増設することを示しました。

 子どもの発達・成長の権利を保障し、保護者が安心して預けられる要求にこたえることを強調。▽国や自治体が先頭にたって保育所をつくる▽土地確保の国庫助成制度をつくる▽公立保育所に対する新たな国の助成制度をつくる▽地域の保育ニーズを正確につかんで対策をすすめる―ことを提起しました。


(以下略) <<<
私は、先日公開した、元社民党代議士で現世田谷区長である保坂展人氏の左翼観念論を批判する記事でも述べたように、「規制緩和=保育の質の低下」という左翼の前提は支持していませんし、引用部分最終段落の箇条書きに至っては、まさに出来る見込みのない「前衛観念」の最たるものであるという認識です。もっとも、「公営保育所以外は認めない!」と言わないだけ、昔よりは少し進歩したとは言えるかも知れません(流石に公営原理主義経済は諦めたんでしょうか?)。

しかし、たとえ日本共産党の主張の方向性が正しくとも「数年で緊急増設する」というくだりは、どうしても擁護することはできません。その「数年」の間の保育は、いったいどうなるのでしょうか? 卑近な表現に言い換えれば、「明日の保育」「来月の保育」「今年の夏の保育」は、誰に頼めばよいのでしょうか?

小池会見の詳報記事も参照しましたが、以下のような記述しかなく、結局、今日明日は勿論のこと、3ヶ月や半年といった生活者の立場においては「長期間」と言うべきスパンでも明快な方向性は提示できていません
>>> (略)

30万人分(3000カ所)の認可保育所を緊急に増設する
 ――待機児童問題は、認可保育所の増設で解決することを原則として確立する

 1点目は、認可保育所を緊急に増設することを大原則にして、30万人分、約3000カ所の認可保育所を緊急に増設することです。

 当面の緊急対策も、認可保育所が建設されるまでの一時的な措置であり、保育士の配置など「保育の質」を確保するということを明確にしなければなりません。

 安倍政権の緊急対策は、「質の低下は仕方がない」というものです。しかし、子どもの発達・成長の権利を保障すること、保護者が安心して預けられるというのはギリギリの要求であり、当然の願いです。この願いに向き合うことなしに問題は解決しません。

 日本共産党は、緊急の目標として、30万人分、約3000カ所の認可保育所を数年程度を目途に建設することを求めます。1970年代には10年間で8000カ所の認可保育所をつくった経験もあり、その気になればやれる課題です。

 実際の保育ニーズを国や自治体が把握していないので、「これで十分」というわけではありません。あくまで緊急の課題として、少なくとも数年のうちに整備しようという提案です。


(略)<<<
また、数年以内の認可保育所大増設の現実性について、日本共産党は「1970年代には10年間で8000カ所の認可保育所をつくった経験もあり、その気になればやれる課題」などと評価していますが、1970年代と2010年代の社会経済構造に関する「科学の目」の分析がまったく欠如しています。それでいてその気になればやれる課題」とは、もはや観念論という他ほかありません。

もっとも、「二十一世紀の早い時期に民主連合政府を実現する」という「気長」な構想に比べれば、「数年程度を目途に」など、直近の計画になるのでしょう。それが日本共産党の「時間感覚」なのでしょう。時間の基準を遠い将来を思い描く観念に据えてしまうと、どうしてもこういう感覚になってしまうものです。しかし、それは人々の、生活の現実に根ざした時間感覚ではありません

「偉大な革命」による社会改造は今日明日のうちには成就しませんが、人々の生活は今日も明日も不断に続きます。そうした人々の生活上の欲求に応える「生活主義」の立場に立てば、「生活者は、『遠大な構想』ではなく『直近のパッチ対応』を求めている」と言うべきでしょう。そして、仮に「遠大な構想」を立てたとしても、それはあくまで「直近のパッチ対応」の積み重ねの上に花咲くもの、決して「革命的なもの」ではなく「漸進的なもの」になるほかありません。たとえ一見して「革命的激動」に見えるものでも、水が水蒸気に「革命的に」変化するのと同様に、不断の蓄積(水→水蒸気の場合、熱エネルギーの蓄積)があってこその事象です。

課題が生活に密接に関わるものであればあるほど、「革命」の出番ではなくなるのです。

ところで、日本共産党の「緊急提言」がこのような内容であるということは、生活者の時間感覚においては、もはや規制緩和以外に待機児童問題を解決する方法論はあり得ないということになるのでしょうね。財源的裏づけが皆無の主張である点において日本共産党の提言は現実的には無理筋ですが、そうした無理筋を声高に主張する日本共産党ですら、なんら提示できなかったのですから。
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2016年04月06日

「やりがい」の搾取を取り戻すために;資本主義と他人労働を知りチュチェの自主化へ

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160323-00000002-jct-soci
>>> 「高収入よりやりがい」に「そんな奴いねぇよ」 「ガイアの夜明け」公式アカ炎上のワケ

J-CASTニュース 3月23日(水)18時14分配信


 良い給与に、安定した生活...そんなものは「後回し」という人が増えている――敏腕経営者や斬新なビジネスアイデアを様々な視点で紹介してきた経済番組「ガイアの夜明け」(テレビ東京系)の公式ツイッターアカウントがこんな内容の番組紹介ツイートを投稿した。

 いつもと少し毛色が異なる、穏やかな特集。しかし、ネットユーザーらから「そんな奴いねぇよ」「良い給料に安定した生活欲しい人の方が多いに決まってる」と批判のツイッターが発信されると、このアカウントの炎上に発展してしまった。

■外資系金融機関、大手商社を退職してでもやりたいこと

 番組公式アカウントは2016年3月22日、

  「良い給与に、安定した生活...。そんなものは『後回し』という人が、増えてきているんだそうです。『社会の役に立ちたい』という思いで仕事を探す人たち。働くことを通じて、一体なにを掴もうとしているのでしょうか。今夜のガイアは、人生『やりがい』探しの旅。あなたも改めて、考えてみませんか?」

とツイートした。同日夜に放送される番組の単なる内容紹介だが、とりわけ冒頭部分が反発を招いたようで、

  「そんな奴いねぇよ」
  「良い給料に安定した生活欲しい人の方が多いに決まってる」
  「やりがい探しなんて後回しにしろ」

といったリプライが集中。ちょっとした「炎上」状態となった。

 肝心の番組内容はどうだったのか。

 タイトル名は「『安定』を棄ててでも...」。社会問題の解決とビジネスの展開を同時に行う手法「ソーシャルビジネス」の特集だ。社会貢献の1つの形として、今注目されている。カメラが追ったのは、外資系大手金融機関や大手商社など高収入の安定した職業を退職し、新たに起業する若者たちだった。
.

「やりがい搾取」と勘違い?


(中略)

 いずれの事例もビジネスの興味深い新潮流に見えるが、なぜ批判が集中したのか。

 それはツイートを見て「やりがい搾取」を思い出す人が多かったからかも知れない。企業が「自己実現」や「やりがい」という言葉だけをぶら下げ、労働者に長時間労働させる仕組みを作り、労働内容に見合った正当な代価を支払わない状況、それが「やりがい搾取」だ。労働社会学ではすでに重要な議論のテーマで、ブラック企業や賃金適正化の文脈から批判されることが多い。

 今回番組が特集したのは「高収入の安定した職を捨てて社会のために起業した若者」であり、「やりがい搾取」の事例に当てはまらない。だが、いつもは新興企業も含めた成功した経営者の出演が多いためか、最初のツイートを含め、多くのネットユーザーには、「やりがい搾取」の推奨と誤解されてしまったようなのだ。

 実際、

  「そうやって『やりがい搾取』するのが貧困の一因になってんじゃないの」
  「この後に及んでまだやり甲斐搾取かよ」

といった指摘もツイッターで散見された。

 23日17時現在、公式アカウントはこれらの声に反応していない。

 所得格差やブラック企業的な雇用への疲弊感から、「やりがい」という言葉は、もはやサラリーマンの働くモチベーションにつながらない――。そんな時代を象徴する一断面だった。
<<<
■チュチェ思想の社会歴史観からみる「やりがい搾取」の本質
チュチェ思想の社会歴史観においては、社会生活は、「政治生活」「経済生活」「思想文化生活」の3つに分類されます。政治生活は、社会制度の樹立と政治権力の行使を通して社会の主人として管理・運営してゆく生活の側面、経済生活は、自然の主人として物質的富の創造と享受を通して社会的人間の生存を維持する生活の側面、思想文化生活は、人間自身の主人として精神的富の創造と享受を通して社会的人間の資質と能力を高める生活の側面であると定義されます。

これらの3つの生活の側面は、独自の意義を持つと同時に、相互作用・相互依存の関係にあるとされます。経済生活は政治生活・思想文化生活の物質的基礎をつくり、思想文化生活は経済生活と政治生活のための人的基礎をつくり、政治生活は経済生活と思想文化生活の制度的基礎を作ります。

3つの生活の側面は、すべてが均衡して発展すべきですが、私有財産社会・搾取社会としての資本主義社会においては、これらのバランスに不均衡が生じているというのがチュチェ思想の見解です。すなわち、経済生活の突出した発展により、物質的には豊富ではあるものの、政治的・思想文化的要素に立ち遅れが生じています。また、私有財産社会・搾取社会としての資本主義社会においては、資本家に分配権が専制的に握られているために、経済生活における生産・分配問題が、資本家の「良心」に一任されてしまっています。資本家も「競争の強制法則」に縛られた、資本――無限に自己増殖しつづける価値――の被造物である以上は、なくても良いような需要を無限に作りだし、無理に人間の物欲を刺激することによって、果て無き収益増大に邁進しつつ、他方で、果て無きコストカット=労賃・原材料費の買い叩きを続けます。その結果、本来は、人間生活の一側面に過ぎないはずの経済生活が無限に、奇形的に肥大化しつづけ、政治生活・思想文化生活を圧迫するようになります。すなわち、経済生活における欲望剥き出しの腐敗化・環境負荷の激増、政治生活における資本従属化・階級化、思想文化生活における物質至上主義化・精神の貧困化です。

本件記事で取り上げられている「高収入よりやりがい」に対する「そんな奴いねぇよ」や「良い給料に安定した生活欲しい人の方が多いに決まってる」「やりがい探しなんて後回しにしろ」といった、これらの「反論」は、こうした「経済生活の奇形的肥大化」ゆえの現象です。「やりがい」という思想文化的な要素に対して「高収入」という経済的要素を優先させる、資本主義の論理が人民大衆に浸透してしまっていることを示す現象です。また、「この後に及んでまだやり甲斐搾取かよ」というのは、搾取という概念を認識している点においては、「良い給料に安定した生活欲しい人の方が多いに決まってる」といった経済主義・物質主義丸出しの認識よりは一歩進んではいるものの、短絡的過剰反応の謗りは免れ得ません。本来は「やりがい」という言葉は、人民大衆の側が経済偏重に抗する文脈で用いるべき思想文化的な言葉であるにも関わらず、搾取階級側が経済偏重を強化するための方便になってしまっている点に、現代日本の闇の深さが端的に現れています

■「やりがい」の搾取を取り戻すために
やりがい搾取」を如何に排し、真のやりがいを取り戻し、政治・経済・思想文化の生活の各側面のバランスを取ってゆくべきでしょうか? それは、なぜ私有財産社会・搾取社会としての資本主義社会においては、経済生活のみが突出して発展している・させられているのかを知るところから始まります。

資本主義社会の目的は、人間生活の福利厚生ではなく資本蓄積=価値の増殖です。単に生活上の需要、生活者レベルの慎ましい欲望を満たすためだけであれば不必要なまでの産出が、資本主義社会においては日々、生み出されています。そしてそうした生産の手段として、「他人労働」が活用されています。資本主義社会を読み解く鍵は、労働実施の主体と労働成果の帰属主体が違っているところにあります

零細企業のように、資本家自身も労働するような個人労働の稼業においては、労働の効用(利益)も不効用(疲労)も自分自身に降りかかってきます。それゆえ、資本家が限界分析のできる合理的思考の持ち主であれば、限界効用と限界不効用の比較衡量が厳密に行われ、その結果、トータルで人間生活の福利厚生が図られます。AVC(平均可変費用)>MR(限界収益)であれば産出停止、MC(限界費用)=MR(限界収益)の点で産出最大化を判断するでしょう。

■他人労働を搾取することによる資本主義的稼業に「際限」がない
しかし、他人労働を搾取することによる資本主義的稼業においては、労働の効用(利益)は資本家に帰属するものの、不効用(疲労)は直接的には資本家には降りかかりません。労働者が過労状態でも、資本家自身が傷ついたり、死ぬわけではありません。賃金支払いは、コスト=持ち出しという意味で資本家にとって不効用になりますが、資本主義的稼業は私有財産に基づく社会でもあるため、資本家が分配権を掌握しています。何を誰に幾ら与えるのかは、ただ資本家の判断に一任されています。そのため、平均的な人間であれば既に割に合わない状態になっていたとしても、資本家としては更に産出拡大を推し進めようとするインセンティブに駆られます

資本家が分配権を掌握している以上、被使用者としての労働者の立場は弱く、また、労働者は自らの労働力を資本家に売って生計を立てるほかない、言い換えれば、労働者の労働供給は非弾力的である・資本家は労働需要独占的であるために、労働者は、資本家から押し付けられた労働環境を甘んじて受けざるを得ないケースが一般的です。個人労働中心生産であれば越えることのない限界を、他人労働中心生産では容易に突破してしまう(事業主自身が苦しむわけではないから)のです。ここに、私有財産社会・搾取社会としての資本主義社会において、政治・経済・思想文化の各生活のアンバランス、経済生活の突出が発生するのです。

■労働市場の活用と自主管理によって労働実施の主体と労働成果の帰属主体を一致させる
こうしたアンバランスを是正するためには、「労働実施の主体と労働成果の帰属主体を一致させること」が必要です。自主管理経営は、「経営への直接的参加」という意味で有力かつ典型的な方法論ですが、「この会社の労働環境は嫌だから、労働力を売らない」という労働市場活用型の方法論も、すでに、「ワタミ」や「すき家」において絶大な効力を証明しているように、有力な方法論であるといえるでしょう。労働市場活用型は、経営への直接的参加はありませんが、市場メカニズムの働きが資本家に対してインセンティブを付与することによって、間接的に労働者の意志が経営に反映され得ます。

自主管理経営と労働市場活用は、一見しただけでは共通点が見当たりにくい方法論ですが、労働実施の主体と労働成果の帰属主体を一致させることを通して労働者の自主化=行為と結果の帰属主体となること、自らの主となること、を目指すという文脈においては、共通するものがあります。

自主管理経営と労働市場活用。当ブログでは、この2つの方法論を軸に、自主権の問題としての労働問題について考察を進めてきました。結局、人間が人間らしく生活するためには、生活の諸分野において、偏りのないバランスが取れた生活を送ることが必要なのです。社会と自然と自分自身の主人となることが必要なのです。私有財産社会・搾取社会としての資本主義社会である現代日本においては、経済生活が暴走しているので、経済生活の暴走を抑える必要があります。そのためには、労働実施の主体と労働成果の帰属主体を一致させる自主化が必要とされているのです。

■前進しつづけることは大前提
ところで、「経済生活が暴走している」などというと、最近は「反成長至上主義」などと称して、「経済成長は目指さずボチボチやってゆく」ことを標榜する人たちが出てきます。しかし、私は以前にも述べたように、こうした主張には反対です。たしかに生活のバランスを取ることは大切ですが、豊かさというものは、前進し続けてようやく現状維持できる類のものです。こうした「反成長至上主義」は、往々にして、「立ち止まるだけなら現状は維持できるだろう」という素人的発想に直結します。停滞はジリ貧です。生活のバランスを考えながら速度を調整することは必要ですが、前進しつづけることが大前提です。
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2016年04月03日

不倫擁護の精神的貧困;不倫は「信頼に対する裏切り」に過ぎぬ。不倫に反対する若者は、「反体制」を気取るエスタブリッシュメントの放縦に反対している。

※4/4にタイトルを変更した上で、補充的に追記しました。

私の「若さ」が証明されました!
それにしても、意味不明な論評ですねえ・・・現代ブルジョア退廃文化、ここに極まれり。
それに対する「若者」の健全な思想意識に、日本の将来は意外と暗くないのかなと思ったり。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/tanakatoshihide/20160402-00056138/
>>> 若者ほど、「不倫」や反体制を責める

田中俊英 | 一般社団法人officeドーナツトーク代表 2016年4月2日 17時42分配信


(中略)

■「不倫が悪」の意味

「情報」観はシビアで真っ当なものの、その情報を下支えする「規範」に疑いを抱くことは少なくなっているようにも、僕には思える。

たとえば、昨今芸能ニュースを賑わせる「不倫」情報などに対しても、不倫が悪いということをそれほど疑うことはないようだ。

不倫は、倫理に反するといういう意味だから、時の倫理観が「浮気もたいしたことない」というものであれば、悪いことではない。

逆に、ロマンティクラブ・イデオロギー(男女の二項対立に基づく伝統的恋愛観や恋愛行為を支える思想)に裏打ちされた異性愛とその制度化(結婚)を疑わないという姿勢を受け入れていれば、不倫が不倫として悪いものになる。

不倫とはそれだけ相対的なものであり、タレントの石田純一さんが「不倫は文化」と言った背景には、こうした相対主義を前提とした感覚もあるだろう。

当然、時の倫理を踏みにじってしまうと傷つく人々がおり、世間はそうした傷ついた人々(たとえばオトタケ氏妻やゲス極エノン氏の妻)の味方をする。

「世間」の人々の個別体験の中では不倫も実際に行なっている人がいるかもしれないが、世間の倫理に従って「不倫=悪」といっていれば無難なので、個別体験や個人的倫理観は秘密にして、世間の常識に乗って行く。

その、世間の常識に乗り、そうした常識を伝播していく時に役立つのが、日本人のほぼ全員が持つ携帯でありスマホなのだ。


(中略)

が、世間は(特に若者は)本を読まない。また、マニアックなサブ・カルチャーに接する機会が少ない。その結果として多様な価値(不倫は別に悪くない、学校なんて行かなくてもいい等)を知らず、社会規範を自明なものとして受け入れる。

言い換えると、現代の若者は、スマホの普及により社会規範を相対化できず、当たり前を当たり前として受け入れる。

社会規範のあやふやさを問うロック・ミュージックや小説や映画に接することなく、「不倫はダメだろ!!」という常識を受け入れている。

皮肉なことに、「若者はロックに向かう」という時代はSNSやネットがない時代だからこそ成立した事象であり、スマホの普及により常識や規範を前提化するSNS時代においては、ロックは若者を中心に消費する文化ではなくなった。

若者ほど、「不倫」や反体制を責める時代なのだ。ネトウヨが若者に多いのも納得できる。★
<<<
私も「不倫=悪」という認識であり、石田純一の「不倫は文化」発言は、もはや論評にも値しないくらいの馬鹿馬鹿しい発言であると考えています。

その石田氏ですら、生涯の後半になり――いろいろ振り返って考え直したのでしょう――「不倫は文化遺産」として封印を宣言しました。また、「不倫は文化」などと言っていた時代について、家族に与えた苦痛を反省するようなことを公共電波で述べるようになっています。

なぜ、「不倫=悪」なのでしょうか。それは要するに「信頼に対する裏切り」だからです。「あなただけ」などと耳元で囁きながら、裏ではそれとは正反対の行動を取っている・・・類としての存在である人間の根幹は、信頼であり愛です。人間の根幹に反する行動を取りながらも、それは「悪」でないというのならば、いったい何が「悪」なのでしょう? なんだか紅衛兵の戯言を聞いているような気すらします。

田中俊英氏によると、「不倫=悪」の構図は「社会規範のあやふやさ」を踏まえていないということになるそうですが、信頼に対する裏切りは、果たして「社会規範のあやふやさ」の範疇に入るのでしょうか? 単なる「世間の常識」に留まるのでしょうか? もし、本気でそう思っているのであれば、田中氏の精神の貧困に哀れみを感じざるを得ません。というより、そういう反社会的性格の人物が、私たちの共同社会で生活していることは、脅威以外の何者でもありません。裏切りを許容する社会規範は存在しません。人間の類としての存在性を考えれば、存在するわけがありません。

また、田中氏は「逆に、ロマンティクラブ・イデオロギー(男女の二項対立に基づく伝統的恋愛観や恋愛行為を支える思想)に裏打ちされた異性愛とその制度化(結婚)を疑わないという姿勢を受け入れていれば、不倫が不倫として悪いものになる。」などと言いますが、私の周りで、あくまで左翼イデオロギーに基づく事実婚形態を固守するカップルの例(母数は、「片手では数えられない数」)を見ると、彼・彼女らは、「結婚制度」は「ブルジョア文化の残滓」として拒絶するものの、「人間同士の愛と信頼」は、むしろより貴重に見なしています。現代結婚制度に反対し、事実婚形態を固守する「狂信的左翼」ですら、「人間同士の愛と信頼」は絶対に譲らない。果たして田中氏の精神は、どういう人間の精神なのでしょうか?

田中氏は、「ネトウヨ」に無理矢理、話をこじつけています。更に意味不明度が上がる文脈ですが、ネトウヨって「戦後民主主義」にたいする反体制派ですよ。彼らは、「サヨク」を「反体制」だから責めているのではなく、「サヨク」こそが現代日本を堕落させている「現体制」であり、そうした連中から「日本を取り戻す」と息巻いている人々です。自民党ネット工作員とネトウヨを混同していませんか?

現代の若者は、決して単純に、「「不倫はダメだろ!!」という常識を受け入れている」わけではないでしょう。その結論が常識と偶然一致していたからといって、単に常識を無批判に受けて入れているわけではありません。むしろ、若者の自主的判断の結果、常識的結論に至ったのであれば、それはすなわち、常識こそが正しいということの証左です。

常識に対して短絡的に突っ張るほど、現代の若者は愚かではありません。むしろ、「若者はロックに向かう」時代の連中こそが、現代の退廃的社会文化を作り上げた戦犯です。そうした「みっともない年上たち」と一線を画する現代の若者たち。人間の本質をあくまで譲らない断固たる立場。「愛と信頼」という、人間として決して妥協してはいけない部分を守り抜くその姿勢に私は「日本の将来は意外と暗くないな」と希望を感じています

若者は、反体制を責めているのではありません。「反体制」を自称するエスタブリッシュメント、もはや自分たちこそが「体制」の核心階層になっているにも関わらず、いまだに反体制を気取っている連中に、若者は反対しているのです。いまや、かつての「反体制派」こそが、新しい反体制のうねりの挑戦を受けているのです。「体制派」として打倒の対象になっているのです。

「若いなあ」「青いなあ」という萎れたご意見もあるかもしれません。しかし、偉大な領導者;キムジョンイル同志は次のように指摘されています。
>>> ただ自分勝手に暮らすのは、自由ではなく放縦である。放縦を個性の自由とするなら、そのような自由は動物の生活と変わるところがない。 <<<
>>> 青春時代は新しいものに敏感で、正義感に燃え、美しいものを志向する情感に富んでいる時代であり、旺盛な知識欲と探求心が沸き起こり、新しいものを発案し創造する情熱的な時代である。 <<<
>>> 革命家は肉体的に老いても、精神的に老いてはいけない。 <<<
人間、恥を知るべきです。
posted by 管理者 at 04:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする