2016年05月05日

自主の立場から見た「勤務間インターバル制度」;内容は労使交渉で、形式は絶対的記載事項として!

http://www.nikkei.com/article/DGXLZO00374750U6A500C1MM8000/
>>> 退社→翌日出社、一定時間空けて 就業規則明記で助成
深夜残業や早朝出勤の抑制促す
2016/5/4 1:38日本経済新聞 電子版

 厚生労働省は従業員がオフィスを退社してから翌日に出社するまで一定時間を空ける制度を導入した企業に助成金を出す方針だ。就業規則への明記を条件に、早ければ2017年度から最大100万円を支給する。深夜残業や早朝出勤を減らすことで、長時間労働の解消につなげる。


(以下略) <<<
引用部分にはありません(わたしは本件を日経新聞紙面でこの記事を知りました)が、EUのような法的義務ではなく就業規則で明文的に規定した場合に助成金を出すという方向性だそうです。

「就業規則で明文的に規定した場合に助成金支出」という方法論は、階級闘争型の方々には、すこぶるご不満なことでしょう。やはり、EUと同等かそれ以上の、具体的数値に基づく強力な法規制を敷くべきだといったところでしょう。しかし、「自主権の問題としての労働問題」という立場からは、「半歩前進」という位置づけです。

労働問題を自主権の問題と位置づける立場は、労働者個人個人が抱えている個別の事情に寄り添い、ミクロ的に対応することを要求します。その要求を実現させるためには、換言すれば真に当事者の都合に寄り添ったきめ細かい対応のためには、当事者自身が主導権を握り、当事者の生活フィールドでの対応を主軸としなければなりません。労働問題においては、労使対等の交渉が行われ、その合意事項が遵守されることを保障すべきです。労働法制が前面に出て中心的な立場で指導するのではなく、当事者へのアドバイスとサポートの立場に徹するべきです。

他方、階級闘争型が主張する「具体的数値に基づく強力な法規制」は、あくまで最低限の担保にしかなりません。チュチェ104(2015)年6月15日づけ「「自主権の問題としての労働問題」と「法的解決」の相性」をはじめとして以前から指摘しているように、労働者個人個人が抱えている事情は千差万別ですから、「ある種の社会的基準」にもとづく、法的解決・マクロ的対応には本質的に限界があります。その「社会的基準」によっては保護され得ない個別事情を持った個人は依って立つ所がありません。法は「12時間間隔をあければよい」と規定しても、個々の労働者によっては「14時間は必要」という場合もあるでしょう。そうした労働者が守られるためには、結局は労使交渉にならざるを得ません。また、あらゆるケースを事前に予測して法の網の目を巡らせることは現実的には不可能なので、法的規制には必ず「本件は法的保護の対象になるか」「当事者と言い得るか」という解釈の問題が発生します。労使が主張を異にし、交渉に入らざるを得なくなる場面は必ずあるのです。そうであれば、最初から労使交渉を睨んで備えるべきです。

労働法制は補完的立場に徹するべきだという自主の立場は、労働法の本質・歴史的経緯にも合致しています。
本来、労働条件は、契約自由の原則に基づき民法的に決定されるべき問題ですが、資本主義社会においては、階級間の力関係の影響で、労働者が一方的に不利な条件での契約を押し付けられるという現実がありました。これは紛れもない事実です。そこで、階級間の力関係という現実を踏まえた上で自主的な労働契約を結ぶための補完法として労働法が形成されてきました。階級闘争型の方々は、労働法や労働運動に独自の意味合いを付加し、なおかつ、その後付けの意味こそが正統であると思い込んでいるようですが、そうではないのです。

自主の立場から見た勤務間インターバル制度の法制化は、労使交渉サポート型で行われるべきです。そうした視点から今回の厚生労働省の方針を検討すると、「具体的に数値を決めず、あくまで労使交渉での決定に詳細を委ねた」という点は評価できます。他方、「就業規則に明文化することに対する助成金」に留まってしまった点は、マイナスです。自主的な労使交渉の遅滞なき正常な履行が必ずしも担保されません

今回はあくまで「第一歩」なので、今後の制度の進化にも期待を寄せたいと思います。自主の立場における次なる一手は、上述のマイナスポイントに対応し、かつ、勤務間インターバル制度を定めることを就業規則における絶対的記載事項に昇格させることでしょう(もちろん、その具体的内容は、労使交渉に委ねるべきです)。

また、個別労働者の労働時間削減・勤務間インターバル確保のためには、単に就業規則を改定すればよいわけではありません。以前から述べている通り、仕事の引き継ぎやシフト制導入といった技術的対応、特定人物に仕事を頼りきりにするのではなく誰もが代行できる体制作りも必要となってくるでしょう。そうしないと仕事が止まってしまいます。自身の担当職務への責任感の強い労働者が後ろ髪引かれることなく安心して休めるようにしなければなりません。そうした視点からも勤務間インターバル制度を構築すべきです。
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2016年05月02日

ネトウヨ=パヨク=ハリコの虎

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160430-00001860-besttimes-soci&p=1
>>> ブレない千葉麗子さん 極左(パヨク)から極右(ウヨク)へ360度の大回転

BEST TIMES 4月30日(土)18時0分配信

・「パヨク」を「保守」「右派」「ウヨク」と読み替えると…

 一部で話題(? )の元アイドル千葉麗子氏による著書『さよならパヨク』(青林堂)を読んだ。私が生涯の中で読んだノンフィクションの中でもベスト5に入る出来である。何と素晴らしい理路整然とした美文であるのだろう、と読了後にひとしきり感激にむせび泣いた。というのは嘘だが、この本の中に出てくる「パヨク(“左翼”の揶揄表現)」は、それをすべて「保守」「右派」「ウヨク」と置き換えても全く意味が通じるところに驚愕した次第である。


(中略)

 このように、「パヨク」を「保守派」「右派」に置き換えただけでその意味がすべて通じるという奇文を読んだのは、当方としては、はじめての読書経験であったので逆説的に極めて貴重と言わなければならない。さらに千葉氏の「パヨク斬り」は続く。

(中略)

・極左から極右へ 360度の大回転でスタート地点に戻る

 本書を読んだ結論としては、「地球は丸い」という当たり前の事実を再確認できたという単純だが重要な真実に改めて気付かさせてくれた、という点である。
 極左の方向(千葉氏曰く、“パヨク”)にドンドンと進むと、地球は丸いのでいつの間にか極右側に進むが、はからずも最終的には360度回転して出発点に戻っている。「極左」と「極右」のイデオロギー的回転もこれと全く同じもので、千葉氏は本書の中で繰り返し「パヨクと決別した=さよならパヨク」といっているが、彼女の本心は一向に、まったくブレていないということがわかる。180度回転して極右になったつもりが、実際には360度の回転であり、結果、出発点は同じ地点から一歩も動いていないのだ。
 いみじくも千葉氏本人が述懐するように、「彼氏が変わるごとに趣味が変わる」というニュアンスの思想遍歴を持つ彼女の思想地図は、現時点に至るまで全く変更されていないと感じた。


(中略)

文/古谷 経衡<<<
まさにその通り! 直感的には感じていたことで、いつかまとめたいと思っていた現象を、みごとに実体験に基づいて報告してくれた千葉氏、そしてそのエッセンスを抽出してくださった古谷氏に感謝感謝です。

■なぜ私はネトウヨ・パヨクを取り上げなかったのか
旧ブログ時代、私は、光市事件問題を筆頭に、刑事事件・刑事裁判に関する世論を継続的に分析してきました。また、現ブログでは日本共産党の主張について、政策面はもとより哲学面からも批判的に検討してきました。他方、「ネトウヨ」も「パヨク」もほとんど言及してきませんでした。「パヨク」は最近の事象ですが、「ネトウヨ」、「ネトウヨ世論に感化されたウヨク」、「ネトウヨ活動に飽き足らず現実世界に飛び出てきてしまった『重症患者』」(本稿では一括して「ネトウヨ」とします)は、少なくとも10年以上前から蠢いていた連中です。しかし、私は10年間一貫して、ほとんど触れて来ませんでした

これは、「世論」「共産党」「ネトウヨ」は、三者三様の危険性はあるものの、(1)刑事事件・刑事裁判を巡る世論は、本当に「山が動きそう」で、特に光市事件は「世論が山を動かしてしまった」事案であったこと、(2)日本共産党は、一見して「正論」を述べつつ、とんでもない主張を抱き合わせ商法的に混ぜ合わせてくる党である点、特に昨今は、強固な組織票をチラつかせて民進党に擦り寄り間接的影響力を及ぼそうと画策をめぐらせており、依然として危険性が高いのに対して、(3)ネトウヨは、政治権力を担える力量は到底なく、「山を動かす」気配もまったくなく、その主張を「抱き合わせ商法」的に混ぜ込める余地もなさそうだったからです。要するに、ネトウヨには現実的危険性がない、「ハリコの虎」でしかないと思われたからです。やっていることは「現代日本に甦った紅衛兵」ですが、結局、なんら建設的なことはできないと判断したからでした。

パヨクは、「カウンター」を主要な活動としています。たしかに、ネトウヨ言説に感化された連中が現実世界に繰り出してきてヘイトデモをしているところには、往々にしてパヨクが出現します。これはすなわち、パヨクはネトウヨと同じ土俵で取っ組み合っている連中である、同じレベルの連中であるということです(「チョンをぶっころせー」と叫んでいるヘイトウヨが、本当に在日コリアンを殺害した例ってありましたか? なんでそんなに目の色を変えてカウンターするんでしょうね? 精神攻撃だから? 私は、共産党員の人格攻撃で精神的に参ってしまった人を何人も知っており、支援してきましたが、ホント「棲み分け」が特効薬だと思いますよ。人格攻撃するような人たちは、右も左も「治りません」からね)。ネトウヨが上述の通りのウルサイだけの現実的危険性がない連中であれば、そんな連中と同じ土俵で戦うことを活動のメインにすえているパヨクも、客観的に見れば同じ程度の連中でしかないことは容易に推測できます。

また、ネトウヨ同様、政治権力を担える力量は到底なく、「山を動かす」気配もまったくなく、その主張を「抱き合わせ商法」的に混ぜ込める余地もなさそうです。その点において、「ネトウヨなど取り上げる価値もない」と見なしていた私は、同様に「パヨクなど取り上げる価値もない」と判断したのでした。

おそらく、ネトウヨ同様「現代日本に甦った紅衛兵」であるパヨクは、「上級指導機関」からいいように使われる駒でしかないのでしょう。用済みになれば「下放」される、切られるでしょう。

ただ、これはあくまで「ネトウヨとパヨクの外観的類似性からの推測」に過ぎませんでした。そんな中で舞い込んできたチバレイ本と、それに対する古谷まとめ。おかげさまで、あくまで外観からの類推でしかなかった「ネトウヨ=パヨク=ハリコの虎」説に確信を持つことができました。

■パヨク・サヨクが伸びないのは民族主義に対する正しい認識がないから
今後もネトウヨ・パヨクを積極的に取り上げる予定はないので、この機会に特にパヨクについて更に言及しておきたいと思います。

パヨクは偏狂で陰湿、およそ市民的ではない言動を見せる点、ネトウヨよりも凶暴・危険です(ぱよぱよちーんの人とか)。しかしパヨクは、ネトウヨよりも思想的基盤が脆弱で、そのため人的ボリュームが薄いと思われます。

ネトウヨは大衆的なパッション・ダイナミズムがあります。彼らのアクションには地に足がついた自生的な部分があるように思われます(ちょっと表現が難しい・・・)。また、こちらから熱心に「捜索」せずとも、ネトウヨ的言説に接触することは容易です。これはすなわち、(脳みそが低クオリティな)人々をひきつける一定の「魅力」があること、それゆえの「人的ボリューム」があることを意味します。

しかし、パヨクの言説は、どうも観念的で浮世離れしている部分が否めません。パヨクの主張は、当人たちにしてみれば感情的同一化しうる理想論なんでしょうが、傍から見れば何がそんなによいのか、まったく理解できない独善的な言説です。ネトウヨに引っかかるような「脳みそ低クオリティ人士向けの魅力」すらありません。ホンマモンの狂信的信者以外にその主張が広がっていません。そのため、パヨクの言説に接するためには、こちらからそれなりの努力をして「捜索」しなければなかなか出会えません。人的ボリュームは相当薄いと思われます。

この差異は、「ナショナリズム・民族主義」と「インターナショナリズム・地球村」との「人気度」の差異なのでしょう。右翼が依拠する「ナショナリズム・民族主義」はパッションに訴えかけるものがありますが、左翼が依拠する「インターナショナリズム・地球村」は、どうもフワフワしているというか、パッションに訴えかける要素に欠けます思想的基盤が脆弱です。あの赤軍派の連中が、朝鮮民主主義人民共和国に渡ってすっかり民族主義に染まったように、やはり、ナショナリズム・民族主義というのは人間の心に訴えてくるものがあるのでしょう。

もし左翼が活路を探るのであれば、ナショナリズム・民族主義に対する肯定的配慮が必要でしょう。その点、キムジョンイル総書記の『民族主義にたいする正しい認識をもつために』は、たいへん示唆深いものがあります。いくつか抜粋してご紹介します。
>>> もちろん、民族を構成する各階級、各階層はかれらの相異なる社会的経済的地位からして、階級的要求と利害関係が異なります。しかし、各階級、各階層の利害を超越して民族の自主性と民族性を固守し、民族の隆盛と発展を遂げることに関しては民族の構成員全体が共通の利害関係をもっています。それは、民族の運命はすなわち民族構成員の運命であり、民族の運命そのものに個人の運命があるからです。民族の構成員として、民族の自主権と尊厳が踏みにじられ、民族性が無視されても構わないと考える人はいません。自民族を愛し、民族の特性と利益を重んじ、民族の隆盛と発展を求めるのは、民族構成員の共通の思想・感情であり、心理でもあります。民族構成員のこうした思想・感情と心理を反映しているのが、ほかならぬ民族主義なのです。言い換えれば、民族主義は自民族を愛し、民族の利益を擁護する思想です。 <<<
>>> 民族を愛し、民族の利益を擁護する真の民族主義と、ブルジョア階級の利益を擁護するブルジョア民族主義は峻別しなければなりません。ブルジョア民族主義は他国、他民族との関係においては民族利己主義、民族排外主義、大国主義として現れ、それは国家や民族の間に反目と不和をまねき、世界の人民間の友好関係の発展を阻害する反動的な思想です。 <<<
>>> 民族主義は国際主義とも矛盾しません。国家や民族の間で互いに援助し、支持し連帯し合うのが、国際主義です。国ごとに国境があり、民族の区別があり、国家と民族をよりどころにして革命と建設が進められている状況のもとで、国際主義は国家間、民族間の関係であり、民族主義を前提としています。民族と民族主義を抜きにした国際主義は実際、なんの意味もありません。自国、自民族の運命に無関心な者が国際主義に忠実であるはずはないのです。それぞれの国の革命家はなによりも自国、自民族の富強、繁栄のためのたたかいをりっぱにおこなうことで、国際主義に忠実であるべきです。 <<<
キムジョンイル総書記の民族主義論は、民族主義に対する認識を新たにする必要を強く提起しています。マルクス主義の化石的主張に固執する余り、いまだに民族主義を「世界人民の連帯を妨害する反動的イデオロギー」と見なす筋がいますが、総書記が指摘するように、民族を基礎単位にし、そして民族が相互に尊重しあうことこそが本当に必要なことなのです。「民族相互尊重を基礎としたナショナリズム・民族主義」を目指すべき、「ヘイトなき民族主義」を目指すべきなのです。

ネトウヨと同じ土俵で取っ組み合いをしているレベルであり、かつ、ネトウヨよりも支持が得にくい主張を核心にすえているパヨクが浮上する要素はまったく見当たらない点、彼らが政治権力を握って社会を指揮する可能性はほぼゼロです。各種産業・業界に潜入した隠れパヨクにたいする公安上の監視・取り締まりは一層強化する必要はあると思いますが、それ以上の心配は必要ないと思われます。

■パヨク・サヨクは反革命的な成金的プチブル
最後に一言。パヨク・サヨクと左翼をぜひとも区別してください。私のようにチョソン労働党支持を明確にし、社会主義の本質は集団主義であり、社会主義の優越性は集団主義の優越性である」という総書記が提示された命題を信奉している身からすると、パヨク・サヨクの身勝手な主張は、「成金的プチブル根性」にしか見えません。あのように、基本的な秩序をも守らず、他人の迷惑を顧みず、ただ自分の権利だけを追求し、自分だけが正しいと思い込んでいる独善性は、まさにブルジョア≪自由主義≫思想=動物的放蕩に他なりません。ほんと、一緒にされるのは迷惑千万です。
ラベル:社会 左翼 政治
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2016年05月01日

「「公平」や「中立」を訴える声が、時として自由な言動を縛る」?

『朝日新聞』の朝刊(紙媒体)を開いてみたら大爆笑。ネット版を探したものの、流石商売人。「平和と民主主義」の危機を警告するはずの特集なのに、すくなくともログインしないと読めないようにしてあるんですね。
http://www.asahi.com/articles/DA3S12337196.html
>>> (話そかな、:3)話すな、「公平」の下に

2016年5月1日05時00分


(以下略)<<<
記事の要旨は、地方自治体主催の憲法講座での講義内容や、社会福祉協議会が配布した護憲ビラ配布(本人たちは社協活動と護憲運動に関係があると思っているようです)が、「公平・中立」を根拠に問題視されている実例に関する特集です。いわく「「公平」や「中立」を訴える声が、時として自由な言動を縛る。」とのこと。

抽象論としては理解できる主張ですが、朝日が取り上げた「実例」は、どれも「別の機会・場所でやればいいんじゃないの?」「人民公社のように、ありとあらゆる場面で『反動的発言』が禁止されているわけじゃないんでしょ?」で片付けられてしまうような「弱い論拠」です。どうして公平や中立が、そのタイミングで求められているのかを考えれば分かる話でしょう。

4月21日づけ「抱き合わせ募金を擁護する日本共産党関係者の「基準」――世間常識に合わせないことの意味」で取り上げた件と同様に、本人たちは正しいと思っていた「抱き合わせ」が、他の参加者たちからは「会の趣旨とは異なる護憲運動は慎んでください」として受け入れられなかったというだけの話です。目的意識的に形成された集まりに、その結成目的と異なる主張を持ち込めば、反発を食らうのは当然と見るべきでしょう。「ヨソでなら幾らでもやっていいから、ヨソでやってくれ!」ということなのです。

もちろん、もしこれが、完全に私的な空間での出来事への中止要求や、「非国民めっ!」といったような文脈であれば、問題視されるべきです。「非国民めっ!」といった批判は、「軍国主義の再来」といった詰まらない言い分としてではなく、地縁や血縁といった当人の思想意識・目的意識では制御できない「所与の条件」に対して、それを根拠に何らかの行動様式を一方的に押し付けている点において問題視すべきです。地縁集団・血縁集団には「ヨソ」はありません。そこでの一定の行動の禁止は、代替となる場面が存在しないことから、文字通り「自由な言動を縛る」ことになってしまいます。しかし、今回はそうした事案ではありませんでした。少なくとも、そういう記事文脈にはなっていません。

集まりの趣旨の捉え違って「ここでやるな」と言われただけなのに、「「公平」や「中立」を訴える声が、時として自由な言動を縛る。」などとまとめてしまう朝日新聞編集部。もちろん、朝日ほどの大新聞の記者たちが、その程度のことを本気で間違えるはずもありませんこの特集の真意は、自分たちが肩入れしている主張を妨げられた、それも、自分たちの言いたい放題を正当化するために散々多用してきた理屈が、ブーメランの形で跳ね返って来、自分自身が沈黙させられてしまったことに対する「負け惜しみ」なのでしょう(スマートは再反論が思いつかなかったんでしょうね)。

朝日新聞を筆頭とする「リベラル」と呼ばれる人々の戦術変更の必要性が迫っています。「公平」や「中立」の表情をしながら、ちゃっかりと主義主張を織り込む「主張の異物混入」「抱き合わせ商法」という方法論は、まさに「公平・中立原理主義」によって息の根を止められようとしています。皆によってたかって「偏っているんじゃないかっ?!」とか「自分の日記帳でやれっ!」と言われてしまえば、もう返す言葉はありません。

むしろ、もう正体を明らかにしたほうがよいでしょう。「主張の異物混入」「抱き合わせ商法」の主張の正体を見破られたときのバッシングは「みんなの信頼を裏切った」という点において激しいものですが、最初から立場・旗色を鮮明にしていれば、その主張が馬鹿にされることはあっても、「みんなの信頼を裏切った」という反発は受けません。『しんぶん赤旗』や『聖教新聞』が実例です。一般紙が公平・中立を装って「池田大作万歳!」とやれば反発を受けますが、『聖教新聞』が幾らやっても、誰も文句はいいません。まあ、それじゃ世論工作にはなりませんけどね。
posted by 管理者 at 13:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする