>> 高須氏、ポケモンGO”侮蔑”のやく氏に「気の毒」高須院長の鮮やかな切り返し。特に「理解はまだですが、僕はやくさんを軽蔑しません」というくだり。やはり、一個人として人格的にちゃんとしている人は、適度な人間関係の距離感が分かるのですね。
日刊スポーツ 7月26日(火)12時36分配信
世界中で大ブームとなっているスマートフォン向けゲーム「ポケモンGO」に対し否定的な意見を述べた漫画家やくみつる氏(57)について、同ゲームのユーザーである美容外科「高須クリニック」の高須克弥院長(71)は「他人の価値観が理解できない人を気の毒に思います」とした。
やく氏は25日放送の日本テレビ系「情報ライブ ミヤネ屋」にコメンテーターとして出演。ポケモンGOが紹介されている最中はずっと眉間にシワを寄せてむっつりした表情を浮かべ、「都内で『ポケモンGO禁止』を言う候補者がいたらすぐ投票しますね。愚かでしかない。こんなことに打ち興じている人って、心の底から侮蔑しますね」と批判。やく氏の発言はネット上で賛否を呼んだ。
(中略)
そんな高須院長だけに、25日にツイッターでやく氏の発言に反発。やく氏が著名人の煙草の吸殻等を蒐集する珍品コレクターであることに触れ、「この不潔な煙草の吸い殻に価値観を感じるのですか?!びっくりしました」と、価値観の違いを指摘したが、「理解はまだですが、僕はやくさんを軽蔑しません」とした。 <<
■棲み分けと個人の自由
以前から述べてきていますが、お互いの価値観を尊重し合う現代的人間関係を保つためには、棲み分けという考え方が大切です。お互いの価値観が衝突しない限り、たとえ自分には理解不能な振る舞いだったとしても、「干渉しない」「あれこれ言わない」、そして「わざわざ価値観の異なる人たちの輪に近づかない」のです。自由主義的な人間関係です。
ポケモンGOによって歩きスマホが激増し、衝突事故が多発しているというのであれば、それは問題視されるべきです。しかし、やく氏の論の立て方は決してそうではありません。結局、自分の価値観にそぐわないゲーム内容だから口汚くののしっているだけです。説教臭い非自由主義的な人間関係原理が見え隠れします。
■タトゥーを「受け入れる」のは自由主義的か?
「干渉しない、あれこれ言わない、わざわざ価値観の異なる人たちの輪に近づかない」関連でもう少し議論を拡張させておきたいと思います。いわゆる「タトゥー・刺青」問題について。
タトゥー擁護論者は、しばしば「私の身体の話で、誰の邪魔もしていないのに、何で温泉に入れないといった不利益を蒙らなければならないんだ!」とした上で、タトゥーを「受け入れる」ように求めます。これは一見して前掲の自由主義的な人間関係に沿っているような主張ですが、自由主義的な人間関係とは異なります。自由主義的な人間関係は「干渉しない」ことであり、タトゥー擁護論者の「受け入れ」とは決定的に異なります。先にも述べたとおり、自由主義的な人間関係は棲み分けに基づくものであり、受け入れまでは組み込まれていません。「自分たちのテリトリーでは何をやっていても結構だけれども、わざわざ価値観の異なる人たちの輪に近づかないべき」なのです。
■「わざわざこっちに来るな」――多様な価値観どうしが平穏に共存するための秘訣は棲み分け
自由主義社会においては、人々は人間関係(友人関係)を選ぶ権利を持っています。自由主義社会は、常に無条件で自分を受け入れてくれる家族社会ではありませんし、「誰とでも仲良くしましょう」の学校社会でもありません。一定の人間関係を強制されるムラ社会でもありません。
タトゥー批判論者に言わせれば「タトゥーを入れるのは君たちの勝手だし、入れたければ入れればよいけれども、なんで私たちが、君たちを仲間として受け入れてやらなきゃならないの?」「ご勝手にどうぞ、こっちには来るな」といったところなのです。お互いが不愉快な思いをするだけなので、わざわざ価値観の異なる人たちの輪に近づくべきではありません。そうした棲み分けが、多様な価値観どうしが平穏に共存するための秘訣、処世術なのです。
棲み分けと多様な価値観の共存は矛盾しません。むしろ、多様な価値観の共存と称して棲み分けを否定すると、それは強制的同一化に転落します。誰かが折れてしぶしぶ受け入れるわけですから。
■棲み分けが不適当なケース
なお、棲み分けというものは「移動の自由が現実的である」ことが前提です。それゆえ、たとえば居住国のように簡単には変更できないケースにおいては、「国政が嫌なら他国に引っ越せばいいじゃない」という話にはなりません。移動の自由が非現実的な場合においては、「お互いに干渉せず、どうしても嫌なら別に当たる」という方法論ではなく「お互いに譲りあって受け入れあう」べきです。
その意味で、個人レベルの私的集団におけるタトゥー問題は、棲み分けの原理で解決すべきことですが、国家レベルの公的集団でこのことを考えるときにおいては、たとえば「タトゥーを入れている奴は非国民/人民の敵だから罰金」というのは正しくありません。
企業レベルというのは微妙なところです。企業社会の「公」的性格により重点を置くべき時代ですが、商売というものは「私」的な部分が大きいものです。消費者は私的な判断基準で商品を選択するので、商売人はそれに対応する必要があります。違法ではないが不適切な発言をしたタレントがCMを降板するといったケースは、企業の公的性格を重視する視点で言えば「合理的理由がないので降板の必要はない」ものですが、商売という私的性格を踏まえれば、「消費者が嫌がるなら降板させたほうがいい」ということになります。
■タトゥーが嫌がられているのではなく、配慮しようとしないその人格が嫌がられている
また、タトゥー批判論者の言説によれば、タトゥー問題は、「受け入れるべきか否か」という問題以上に「相互配慮という姿勢を持っているのか」という人格の問題にも論点が拡大します。社会通念上、眉をひそめる人が現にいる事柄について、きちんと配慮した振る舞いができない人は、人格的に嫌がられるのです。その契機が偶然タトゥーだっただけなのです。タトゥーを入れているのを批判されているのではなく、他人に対する配慮ができないその人格が批判されているのです。
現時点では、タトゥーは市民権は得られていません。それなのに強引に「何が悪い」「法律には違反していない」などと言って相互配慮に欠ける言動を取れば、タトゥーを入れていること自体ではなく、その人格が批判されるのです。私個人としては、こういうことを言う「人格」のほうが面倒くさくて嫌ですけど、「批判論者の思考回路」は事実としてそうなのです。
■まとめ――棲み分けを基礎とする個人の自由
やくみつる氏は、自分の価値観に合わないゲームの存在を否定しようとしました。それに対して自由主義は、たとえ理解不能だとしても、自分の活動範囲外における存在は認めるべきだとします。タトゥー擁護論者は、自分たちの価値観を、その価値観をもたない人たちにも受け入れるように要求します。あるいは、強引に突破しようとします。しかし、自由主義は、存在するのは勝手だけれども、嫌がる人たちの輪・テリトリーにわざわざ入り込むべきではないとするのです。これが棲み分けです。この棲み分けの上においてのみ、本当の意味での多様な価値観が開花するのです。