「まーたNHKが捏造した!」として大炎上が続いている「貧困女子高生」の件で、NHK擁護論が迷走しています。また、突如として相対的貧困の概念を、危険な文脈で持ち出してきました。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160829-00049553-gendaibiz-bus_all&p=1>> 「貧困女子高生」バッシングの無知と恥〜自分の価値観を振り回すな! 「ニッポンの貧困」の真実
現代ビジネス 8月29日(月)11時1分配信
文/大西連(NPO法人「もやい」理事長)
(中略)
自民党の役職等を歴任してきた片山氏がこういった発言をすることは、日本の貧困対策にとってマイナスになりかねない。
しかし、それも、「貧困」の定義や考え方が、個々人によって異なり、あまり共有されていないことによる不幸だとも思う。
メディアでも「貧困」について報道される機会が増え、大手メディアだけでなくwebメディアなどでも「貧困」に関する記事が掲載されることも多くなってきている。
あらためて、「貧困」について、特に日本(先進国)で一般的に言われるところの「貧困」について解説したいと思う。
一口に「貧困」と言っても、どこからどこまでが「貧困」なのか、非常にわかりづらい。
たとえば、先述の「千円のランチ」に関しても、じゃあ500円なら貧困なのか、それとも300円以下じゃないと貧困と認められないのか、など明確な基準がなくあいまいだ。ともすると、個々人の価値観に左右されてしまう。
そうならないために、たとえば、政策的に(社会的に)貧困の解決を目指すための指標(定義)として、「絶対的貧困」と「相対的貧困」という考え方がある。
日本では、ホームレスなど一部の人をのぞき、こういった絶対的貧困状態にある人はほとんど存在していないと言ってよい。むしろ、日本でいうところの「貧困」は「相対的貧困」である。
「相対的貧困」は、「1日1.25アメリカドル以下」のような世界共通の基準があるわけではなく、その国(地域)において一定程度以下の所得水準の人の割合を算出する考え方である。
相対的貧困率の実際の算定方法は、@収入から税金や社会保険料を引いた使えるお金(「可処分所得」という)がいくらか算出し、Aそれを一緒に生活している世帯人員で合算し、Bその世帯人員の平方根で割って「等価可処分所得」を算出し、Cその等価可処分所得ごとにならべたときの真ん中の人の値(中央値)を計算し、Dその金額の半分以下の人の割合を出す、というものである。
あくまで、相対的な基準であるがゆえに、景気が良くなれば(多くの人が豊かになれば)貧困ライン(基準金額)は上昇し、景気が悪くなれば(生活が苦しい人が増えれば)貧困ラインが下がる。
なので、いわゆる飢えてしまう、住むところがない、着るものがなくて凍死してしまう、などのすぐさま生命の危険がある「貧困」だけではない「貧困」が、日本で言うところの「貧困」であり、多くの先進諸国ではこの「相対的貧困」を指標にしている。
6人に1人が貧困ライン以下
そして、日本の「相対的貧困率」は、16.1%であり、近年、上昇を続けている。(2012年厚労省「国民生活基礎調査」)
日本の貧困ライン(2012年時点)は単身で122万円/年(等価可処分所得)であり、月に約10万円しか使える所得がない状態。2人世帯だと173万円/年(月に14.4万円)、3人世帯だと211万円/年(月に17.6万円)、4人世帯だと244万円/年(月に20万円)という数字になる。日本では、この水準以下の生活をしている人が6人に1人いるのだ。
「貧困」を語るときに注意すべきこと
2013年に「子どもの貧困対策の推進に関する法律」が全会一致で成立した。与野党を超えてすべての国会議員が賛成し、(まだ不十分な点もあるものの)子どもの貧困対策に向けた官民の取り組みや制度も少しずつだが整いつつある。
今回のNHKの番組のように「貧困」をめぐる報道は難しく、時に誤解や偏見のまなざしに晒されることもある。しかし、その背景にある問題は何かを考えることはとても重要なことだ。
「この人は○○だから困っている」「あの人は××だから困っていない」という比べ合いやレッテル張りは、問題の解決につながるどころか、正直に言ってあまり意味がない。「貧困」である人がいくらのランチを食べていたら納得できるか、という議論は不毛だ。
あたりまえだが、相対的貧困下にあっても、映画を観に行ったり、スポーツをしたり、恋人とデートしたりすることができる。もちろん、経済的な制約があるなかで、ではあるが……。
一場面を切り取って、個々人の発言や行動の一部をみて、評価をし、自分の価値観を押し付けて「貧困」を語るのは、もうやめにしたほうがいいのではないか。日本の「貧困」のレベルは客観的な政府の統計をみても先進国でも最低のレベルで、自己責任と言えず政策で対応しなければならない重要なテーマとなっているのだ。
(以下略) <<
■露骨な論点の摩り替え
露骨な論点の摩り替え、今回のNHK報道問題の批判の焦点とは
関係ない話に無理矢理に繋げています。
たしかに、「6人に1人が貧困ライン以下」は事実であり、これは深刻であり待ったなしの問題です。しかし、
今回の炎上事件では、「『6人に1人が貧困ライン以下』の論証として、うららちゃんを持ち出すNHKの編集は、報道機関として不適当ではないのか」と指摘されているのです。
筆者の大西理事長としては、相対的貧困の概念を以って「
自分の価値観を押し付けて「貧困」を語」っているなどとし、
反論しているつもりなのでしょう。問題のNHK特集番組に出演した
うららちゃんが相対的貧困なのか否かについて、大西理事長は触れていません。しかし、それこそが今回の批判の焦点、「まーたNHKのヤラセか?」の核心なのです。今回の炎上事件は、
貧困層バッシングではないのです。「うららちゃんは貧困なのか? 貧困でないとすれば、NHKは事実を捏造したことになるが、報道機関として許されるのか?」という、
ひたすらに、一般論としての貧困問題云々ではなく、うららちゃんを「サンプル」としてピックアップした
NHKの報道姿勢の問題なのです。
■擁護派が展開すべき言説
であれば、
大西理事長が試みるべき反論は、ひたすらに「うららちゃんは貧困なのです!」ということを言及・立証することに尽きるはずです。また、NHKが限られた資源である放送電波の一部を占有している以上は、
「うららちゃんは貧困層の代表的ケースです!」と言及することに尽力すべきなのです(放送電波を非代表的事例の紹介に消費しないでください! 優先順位をつけてください!)。「うららちゃんは貧困層の代表的ケースです!」と立証できれば、NHK報道班の完全勝利。「ほら、相対的貧困ってのはこんなにも『パッと見では把握しにくい貧困』なんですよ! みなさん、もっと相対的貧困に注目してください!」という絶好の宣伝文句になるはずです。にもかかわらず、そうした方向に議論が進むことはなく、うららちゃんのことは完全無視して、相対的貧困の理論的定義の解説に終始しているのが、大西理事長なのです。
■相当追い詰められて初めて出てくる「結論は正しいんだ!」という論点の摩り替え
こうした、取り上げるに不適切なサンプルを不注意にも持ち出したがために袋叩きにあい、苦し紛れに「統計的・理論的には正しいんだっ!」と連呼する無様な姿を見ると、
またしても、かつて左翼・共産党対策部で、活動家相手に対峙した記憶を思い出します。結論の正当性はコチラも認めるケースについて一応、共産陣営の論拠を聞いてみたところ、部分的事実とデタラメを超飛躍で継ぎ合わせるトンデモ理論だったときのこと。流石にこのトンデモな理屈をスルーするとこっちまでバカの一員になりかねないので、「結論の正しさは認めるが、その理屈はおかしい」と指摘したところ、「結論は正しいんだ!」などと強弁し始めました。おそらく、共産陣営側も途中から無理筋だということは理解していたようです(口を滑らせていたしw)が、私たち「反共陣営」を前に引くに引けなくなったのでしょう。とはいっても、流石にトンデモすぎる理屈を繰り返すのは不利だとも悟っていたのでしょう。だからこそ、ひたすらに「結論は正しい」一点張りだったのでしょう。
「結論は正しいんだ!」は、
相当追い詰められて初めて出てくる論点の摩り替えです。
前回の記事で取り上げた
「門前払い的無視」では、もはや凌ぎきれなくなっているのでしょう。NHK擁護派の主張は二転三転していますが、新たな段階に入りつつあるのでしょう。
■相対的貧困という概念の「重要性」と「危うさ」
ところで、今回の大西理事長の言説を読んでいると、
相対的貧困という概念が危険な方向に悪用されかねないことに改めて気がつかされました(以前から、なんか嫌な予感がするなとは思っていましたが・・・)。
先に断っておきますが、
私も反貧困の立場なので、相対的貧困という概念は理解していますし、
相対的貧困という概念は重要な分析ツールだと認識しています。しかし、
使い方によっては危険な結果をもたらしかねないツールであるとも考えています。
道具は、主体としての人間の「使い方」次第です。
大西理事長の「価値観抜きの相対的貧困」は、
統計的・機械的に算出されるものです。このような概念に基づく社会保障給付を行おうとすれば、最下流階層が「十分に健康的で文化的な生活ができる」程度の生活水準だとしても、上〜中流階層が「成金的生活」レベルであれば、統計的・機械的に、成金を基準にした給付を社会として行わなければならなくなります。
必要でしょうか? また、上〜中流階層が獲得している成金的生活レベルは、彼らが努力に努力を重ねた結果であったとしたら? 彼らが努力は決して他人を搾取した結果ではなく、猛烈なる徹夜強行軍の結果であったとしたら? 「価値観抜きの相対的貧困」などと称して
機械的に給付水準を決められるのは堪らないでしょう。
■「通俗的な意味での、悪平等としての共産主義という名の亡霊」の復権に繋がりかねない
たしかに、大西理事長がいうように、食うや食わずの貧困は世界的には解消に向かいつつあります。その点では、貧困の問題を「絶対的貧困」の概念だけで把握することは不適切であるというのは正しいと思います。また、格差の過度な拡大も問題視すべきという指摘も一理あるでしょう。しかし、
大西理事長がいう「価値観抜きの相対的貧困」で把握する試みは、歴史的に大失敗が実証されている「通俗的な意味での、悪平等としての共産主義という名の亡霊」を復権させることにならないでしょうか? 単純に統計的に算出される指標
だけで貧困を定義すべきではありません。
価値観を含めてトータルに考えるべきです。「
「貧困」である人がいくらのランチを食べていたら納得できるか、という議論は不毛」などでは決してありません。「
経済的な制約」は、それが
何をどのように制約しているのかに拠って評価は異なります。
■そもそも「価値観抜き」などあり得ない
さらに突っ込んで、哲学レベルにまで踏み込んで述べれば、
相対的貧困の「定義」は人為的なものであり、それはすなわち、定義した人物の判断が根底にあることを意味します。相対的貧困を「
@収入から税金や社会保険料を引いた使えるお金(「可処分所得」という)がいくらか算出し、Aそれを一緒に生活している世帯人員で合算し、Bその世帯人員の平方根で割って「等価可処分所得」を算出し、Cその等価可処分所得ごとにならべたときの真ん中の人の値(中央値)を計算し、Dその金額の半分以下の人」と定義しなければならない自然史的な必然性などありません(いっそのこと、「総生産÷頭数」の分配論でもよかったはずです)。より緩い定義でより多くの人を「相対的貧困」と定義しても良いのにもかかわらず、敢えて上述の定義を以って「線引き」を図るのは、人為的な価値判断です。
あらゆる問題設定・現状評価は、人間の判断によって線引きが行われている点において、問題提起を行った人物の思想・価値観が根底に存在するものです。
あらゆる問題設定において、「価値観抜きの純粋に客観的な問題設定」など、そもそもあり得ないのです(通俗的なマルクス主義と根本的に異なるチュチェ思想の人間主義的観点です)。
「貧困問題」という問題設定自体、価値観が入ってくる問題なのです。
■まさか、意図的な「共産主義という名の亡霊」の召喚?
にもかかわらず、「価値観抜きの相対的貧困」などと提唱する大西理事長。
意図的に相対的貧困の概念を操作し「共産主義という名の亡霊」を敢えて召喚しようとしているという見方は、考えすぎでしょうか? もしそうであれば、ソ連崩壊から25年たっても
未だに油断できない情勢にあると言わざるを得ないでしょう。
■集団主義的競争・社会主義的競争を提唱する親朝派は、「悪平等としての共産主義という名の亡霊」に反対する
最後に、私の立場を明確にしておきましょう。うららちゃんを叩くとネトウヨ認定されるらしいので(うららちゃんは叩いてはいないんだけどねえ)。以前から立場を鮮明にしているように、
私は親朝(朝鮮民主主義人民共和国)派・チュチェ思想派です(ヘイトなんてするはずがありませんw)。
チュチェ105(2016)年3月19日づけ『労働新聞』が報じているとおり、
キム・ジョンウン委員長率いる朝鮮労働党は、「悪平等としての共産主義」からの脱却の方向性を明確に打ち出し、
集団主義的競争・社会主義的競争を提唱していらっしゃいます。私は、親朝派・チュチェ思想派として、
キム・ジョンウン委員長が掲げる方針を断固支持しています。
だからこそ、悪平等主義には反対であり、それゆえ、「悪平等としての共産主義という名の亡霊」を召喚しかねない大西理事長の相対的貧困論には反対です。
オルタナティブとしては、
前回の記事で述べた
「自主の立場」を改めて提唱します。該当部分を再掲します。
>> 自主の立場から言えば、本人の認識と社会の承認の二本立てでしょう。率直な意見交換の後に形成されるものです。ここで重要なのは、どちらか一方が断定的に定義できるものではないということです。社会の側が「おまえは貧困ではない」と押し付けることも、個人の側が「私は貧困です」と言い張ることも不適当です(もし、相対的貧困問題の場合であれば尚更でしょう)。 <<
この意味においては、大西理事長の「
自分の価値観を押し付けて「貧困」を語る」ことは、押し付けという点において不適当なのは確かですが、だからといって大西理事長のいう「価値観抜きの相対的貧困」は哲学レベルでそもそもあり得ない言説ですし、当人の自己申告だけで貧困を語ることも不適当です(「当人の証言だけで判断してはならない」というのは、「鳥越俊太郎淫行疑惑」のときに鳥越氏支持者が盛んに口にしていた言説です。本件におけるNHK取材班支持者と鳥越氏支持者は人的に重なるところが多いようなので、当然、認めてくださることと思います)。
率直な意見交換の末に社会的に水準が決まるものです。
この問題は重要な論点なので、継続的に論じてゆく予定です。