格差・貧困問題の「大御所」である湯浅誠氏が、「貧困女子高生」問題に参戦し、「新たな擁護論」で火に油を注ぎました。検討しましょう。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/yuasamakoto/20160831-00061633/>> NHK貧困報道”炎上” 改めて考える貧困と格差
湯浅誠 | 社会活動家・法政大学教授 2016年8月31日 7時9分配信
(以下略。適宜、引用します) <<
(※お断り:原文が、読みにくい・引用しにくい改行になっているので、当方にて、改行箇所については変更させていただきました。また原文の太字処理は、引用では解除させていただきました)
以下のくだりを見る限りは、今回のNHK報道問題の核心部分は、ある程度の範囲内で認識しているようです。完全にスルーし、勝手な論点設定をしてシャドーボクシングに精を出している他の擁護論者とは良い意味で異なります。
>> (前略)「裏切られた感」が”炎上”を招いた
高校生のツイッターを見て、怒りを覚えた人たちの気持ちはわかる。
番組を見て「1000円のキーボードしか買えないほど家計が苦しい」という印象を受けたのに、実態が違う。
だまされた、と感じる人はたくさんいただろう。
その「裏切られた感」が“炎上”を招いた。
彼女は、番組から印象付けられたほどには貧しくない、過剰に貧しさを演出するのは行き過ぎではないか、と。
それが「ねつ造」という批判になった。 (以下略) <<
そもそも「NHKの捏造」という切り口で始まった騒動ですから、「
その「裏切られた感」が“炎上”を招いた」というのは、
当然の話です(この時点で少し認識がズレている予感・・・)。
しかし、その上で展開する「新しい擁護論」が、またしても
妙な方向に。。。湯浅氏のような人物でも事態を把握しきっていないと、次のような主張を展開してしまうのですね。
>> 相対的貧困状態とは矛盾しない
それに対して「いや、それも貧困なんです」という反論が出ている。
(中略)
したがって、彼女が同じ映画を6回見ようと、7800円の観劇をしようと、1000円以上のランチを食べようと、それは相対的貧困状態の中でのやりくりの話であって、相対的貧困状態であることと矛盾しない、と。
だから、彼女は「(絶対的)貧困」ではないだろうが「(相対的)貧困」であり、「子どもの貧困」というタイトルの下に彼女をとりあげても問題ないし、彼女の消費実態は「進学できない」という番組の中心的要素に比べて枝葉の問題なので、とりあげなかったことも問題ない。だから「ねつ造」という批判は当たらない、と。 <<
「
枝葉の問題」だから「
「ねつ造」という批判は当たらない」というのは
凄い理屈ですね。
結論のための論拠・具体例が捏造だったら、結論の信用性が失われるのは当然のことです。そもそも、「
枝葉」じゃないし。
典型的な「結論は正しいんだから、いいんだっ!」のケース。
8月29日づけ記事でご紹介した、左翼・共産党対策部での私の経験談そのまんまの展開です。再掲しておきます。
>> (前略)こうした、取り上げるに不適切なサンプルを不注意にも持ち出したがために袋叩きにあい、苦し紛れに「統計的・理論的には正しいんだっ!」と連呼する無様な姿を見ると、またしても、かつて左翼・共産党対策部で、活動家相手に対峙した記憶を思い出します。結論の正当性はコチラも認めるケースについて一応、共産陣営の論拠を聞いてみたところ、部分的事実とデタラメを超飛躍で継ぎ合わせるトンデモ理論だったときのこと。流石にこのトンデモな理屈をスルーするとこっちまでバカの一員になりかねないので、「結論の正しさは認めるが、その理屈はおかしい」と指摘したところ、「結論は正しいんだ!」などと強弁し始めました。おそらく、共産陣営側も途中から無理筋だということは理解していたようです(口を滑らせていたしw)が、私たち「反共陣営」を前に引くに引けなくなったのでしょう。とはいっても、流石にトンデモすぎる理屈を繰り返すのは不利だとも悟っていたのでしょう。だからこそ、ひたすらに「結論は正しい」一点張りだったのでしょう。
「結論は正しいんだ!」は、相当追い詰められて初めて出てくる論点の摩り替えです。(以下略) <<
こういうことを平気で言ったりやったりするから、この手の人々は信用されないんですよね。
それはさておき、「
やりくりの話」という「
新しい擁護論」に目を向けましょう。この擁護論の当否を評価するには、「震源地」たる当該NHK番組の論調を振り返る必要があります。騒動の最初期に片山参議院議員がNHKに確認している通り、本件報道は、
「経済的理由で進学の夢を諦めざるを得なくなった女子高生」というのが、そもそもの話でした。
https://twitter.com/katayama_s/status/767923517400592384>> 本日NHKから、18日7時のニュース子どもの貧困関連報道について説明をお聞きしました。NHKの公表ご了解の点は「本件を貧困の典型例として取り上げたのではなく、経済的理由で進学を諦めなくてはいけないということを女子高生本人が実名と顔を出して語ったことが伝えたかった。」だそうです。
20:16 - 2016年8月22日 <<
となれば、湯浅氏の言説に敢えて乗っかって「
やりくりの話」とするのであれば、「
支出の優先順位をつけなさい」という話に飛び火するでしょう。こうなると、うららちゃんの
主体的な選択行為・意思決定の問題ですから、
この「擁護」論は、火に油を注ぐことになるんじゃないかと。。。
支出の采配は当人の自由です。しかし、「
彼女が同じ映画を6回見ようと、7800円の観劇をしようと、1000円以上のランチを食べようと、それは相対的貧困状態の中でのやりくり」だとした上で、「そんなわけで、お金がなくなって進学できなくなっちゃいました>< お金ください^q^」という話になれば、
「おいコラ、優先順位ちゃうやろ」という反応を受けるのは当然でしょう(また新しい擁護論を展開しようとして墓穴を掘っている・・・)。圧倒的大多数の普通の人々は、物事に優先順位をつけて支出しています。
擁護論者の言説に乗っかって、仮にうららちゃんが相対的貧困だとしたとしても、「進学の夢」がありながら、あのような散財を繰り返し、それでいながら、社会的支援を求める言説を口にすれば、非難が寄せられても不思議はありません。
ほとんどの人たちは、物事に対する正しい優先順位をつけているにも関わらず、夢を諦めざるを得ない場面に直面しているのです。予算制約に伴う「諦め」は貧困層だけでなく、普通の生活水準の人たちにも当てはまります。
前回の記事でも触れたように、「一般庶民はワンコインランチで我慢してる」のに、彼女は「普通でも中々出来ないことを躊躇なく行っている」のです。
彼女は、「貧困とは言えない人」か、または「貧困なのに物事の優先順位をつけられない人」のどちらかです。
限られた資源である放送電波を使って、そんな人物を紹介すべきだったのでしょうか? 8月30日づけ記事でも述べましたが、ここ10年間の貧困報道の累積によって、多くの視聴者は「メディアが報じる一つ一つの具体的なケースは、いずれも現代社会を象徴する一幕である」という認識を深く植えつけられています。他でもないメディア自身の報道の功によるものです。そうした状況下において、
非典型的ケースの紹介で「限られた放送電波」と「視聴者の注意力」を浪費したことの、「貧困との闘争」における
損失はいかほどだったのでしょうか?
ニュース7はNHKの看板報道番組です。貧困問題にまったく興味のない人でも、ニュース7に取り上げられたことをキッカケに関心をもつかもしれません。インパクトのある代表的かつ衝撃的なケースを報じるべき決戦のタイミングで、あのようなケースを取り上げたことは、仮に彼女の素性が今日に至るまでバレていなかったとしても、
非典型的かつインパクトのない事象では、事実報道としては無力すぎ、また、視聴者の記憶にはほとんど残らず、戦略的に大失敗になっていたことでしょう。
仮にうららちゃんが「
貧困なのに物事の優先順位をつけられない人」であるのならば、
前回の記事でも触れたように、それは
一つの独立した社会問題の分野です。これを貧困と結び付けて報道することは不可能ではありませんが、事前の断り書きが必要なケースです。
今回のNHK報道ではそうした断りはありませんでした。そもそも本件騒動はNHKの報道姿勢の問題ですから、
やはりNHKを擁護することはできません。
記事の終わりに至って湯浅氏は「
反省とこれから」として、まとめを試みています。
>> 反省とこれから
今回のNHK貧困報道“炎上”は、登場した高校生と番組を制作したNHKが「まとまった進学費用を用意できない程度の低所得、相対的貧困状態にある」ことを提示したのに対して、受け取る視聴者の側は「1000円のキーボードしか買えないなんて、衣食住にも事欠くような絶対的貧困状態なんだ」と受け止めた。
そのため、後で出てきた彼女の消費行動が、一方からは「相対的貧困状態でのやりくりの範囲内」だから「問題なし」とされ、他方からは「衣食住にも事欠くような状態ではない」から「問題あり」とされた。
いずれにも悪意はなく(高校生の容姿を云々するような誹謗中傷は論外)、行き違いが求めているのは、衣食住にも事欠くような貧困ではない相対的貧困は、許容されるべき格差なのか、対処されるべき格差なのか、という点に関する冷静な議論だ。 (以下略)<<
湯浅氏は巧妙にも論点を「相対的貧困vs絶対的貧困」の構図に
スリカエています。
「
後で出てきた彼女の消費行動が、(略)
「衣食住にも事欠くような状態ではない」から「問題あり」とされた」わけではないのは、既に述べたとおりです。「
1000円のキーボード」が
本当は1000円よりも高いBluetooth対応のキーボードではないかとして、「ウソつき!」と非難されたのが、事の始まりです。時系列的に見れば、うららちゃんのツイートが暴露されたのは、すでに炎上が始まってからのことです。
もともとのVTRが怪しさMAX・胡散臭さMAXだったのです。だから、普通ならそのまま、その人となりを特定されることなくスルーされるはずの一般人なのに、うららちゃんについては「総力取材」が始まり、ツイートが晒されたのです。
「
「相対的貧困状態でのやりくりの範囲内」だから「問題なし」」などというのは、上述のとおり、メチャクチャな理屈です。貧困問題は正義論が深く関わる問題ですから、こういう言説を堂々と口にする人が参画しているのは危うさを感じざるを得ません。
うららちゃんの生活水準は、
「相対的に見るからこそ貧困とは言えないのではないか」という視点が湯浅氏の言説には完全に抜けています。また、「
まとまった進学費用を用意できない程度の低所得、相対的貧困状態にある」というのであれば、支出に優先順位をつけなければならず、普通の人たちは支出の優先順位を当然につけているのに、「イエス!散財!」などとして欲望の限りに放蕩している事実について、湯浅氏は有効な主張を展開できていません。
「年越し派遣村」の頃から思っていましたが、
どうも湯浅氏は、一般庶民の「妬み」にも近い感情や「アリとキリギリス」的な思想を、考慮の外に置いてしまっているのではないでしょうか? 「一般庶民がどう感じるか」という社会政策上の一大問題に対する考慮が(たとえば、みわよしこ氏などに比べれば考えているとは思いますが)浅すぎるように思います。
前回の記事でも述べましたが、もともと日本人はムラ社会的な集団主義メンタリティーですから、「生活水準の比較」には敏感な国民性があります。そうした国民が直感的に、うららちゃんに違和感を感じているわけです。擁護論者たちの想定とは異なり批判論者は、絶対的貧困のイメージに基づいて彼女を評価しているのではなく、
「あの子が『貧困』で易々と支援されるなら、ずーっと歯を食いしばって頑張ってきたオレはどうなるんだよ」といったように、まさに相対的に彼女を評価しているのです。
擁護論者の決定的な考慮不足は、やはり「公平感」への絶対的な考慮不足でしょう。
「なんでアイツだけ」に答えられていないのです。
8月22日づけの記事でも述べましたが、こうした
無理筋の擁護論を次々に展開して
言い訳に終始する人々に対しては、「
あんたらこそ貧困を軽く見ていないか?」と、改めて強く問いたいと思います。それとも、
まさかビジネス?そういえば、3500円のカツカレーを食べて叩かれた政治家がいましたね。いや、なんとなく思い出しただけです。
7800−3500=4300ですね。いや、小学校算数の復習です。