>> 財政難の日本で、富みを生み出さない治療は行うべきか俗流的な資本主義批判です。率直に言って、「エピソード(1)」は資本主義的というよりは、いわゆる「社会主義」的な判断だということに土谷理事長はお気づきないのでしょう。
ニュースイッチ 10/30(日) 14:10配信
あなたの判断基準は何ですか?
ここに二つの話があります。ありふれた、よくある話です。
エピソード(1) ある人が胃がんになって手術を受けました。その後、抗がん剤を使ってがんを克服し社会に復帰しました。会社に勤めて、その人が財やサービスを生み出しました。治療に500万円かかりましたが、生み出したものは1000万円になりました。
エピソード(2) ある人は誤嚥(ごえん)性肺炎になり1カ月入院し、治療に100万円要しました。退院後自宅に帰り娘が面倒をみましたが、1カ月後に肺炎を再発し、再入院しました。治療に150万円かかり肺炎は治りましたが、結局食べることはできず、徐々に衰弱し2カ月後に亡くなりました。
さて、どちらが効率的ですか。そう訊(き)かれれば、経済学者や企業経営者は、個人の考えは別にして(1)の方が効率的とはっきり言うかもしれません。もっと言えば、今後は市井の人々の中にもそう考える方々が増えていくように私は思います。
(中略)
私達はいくつもあるゲームのプレーヤーです。ただし数あるゲームの中でも特に「資本主義」というゲームに没頭しすぎる傾向にあります。そのゲームの中では確かに「効率化」は判断基準の一つです。
しかし、ゲームはそれだけではありません。全く異なるルールのゲームもありますし、私達はそれらのゲームのプレーヤーでもあります。ルールが違うのですから、判断基準が違います。それらの判断基準は場合によって「思いやり」とか「いたわり」とか呼ばれ、その優先度が高いゲームが存在していることも知っています。
経済的基盤がなければ、しなやかなプレーヤーとして存在できませんが、さまざまなゲームの中にいることも時々立ち止まって考えてみるべきです。
(中略)
土谷明男(葛西中央病院理事長) <<
いわゆる「資本主義」者は、顧客が取引後に自分の与り知らぬ所で何を為すのかなどに関心はありません。ただ、その顧客が自分に対して払ってくれる金額にしか興味はありません。医師が資本主義的思考に染まっているのであれば、「生み出したものは1000万円になりました」などというのは、どうでもいいこと。「治療に500万円」の500万円がキチンと支払われるのか否かということにのみ関心をもつものです。私的利益=個人的効率性を上げる事柄のみに関心があるのが資本主義者です。社会的効率性など関心外なのです。
資本主義を国是とする国家においては、当然、そうした資本主義者の私的利益を最大化することが「国家の使命」であります。患者が将来に向かって社会的に何も生み出さない人物であったとしても、資本主義的医師の私的利益を最大化させるのが資本主義国家なのです。
「治療に500万円かかりましたが、生み出したものは1000万円」といった「社会的効率性」を基準にすえるのは、むしろ、いわゆる「社会主義」体制=滅私奉公型の全体主義的社会主義です。たとえば、レーニン治世下の戦時共産主義体制における食糧配給は、「革命のために如何に有用・効率的な人物か」という基準で行われていました。党幹部は〜〜kacl,赤軍軍人は一日あたり○○kcal、事務員はxxkcal,農民は△△kcalといったように、厳然たるヒエラルキーが、一方的に定められていました。滅私奉公の全体主義体制においては、個人はあくまで革命のための手段でしかありません。
土谷理事長は、「「思いやり」とか「いたわり」」と「資本主義」を対比的に位置づけていますが、むしろ資本主義体制のほうが「「思いやり」とか「いたわり」」が開花しやすいとさえ言えるでしょう。結局、資本主義体制は――競争の強制法則を捨象すれば――「私的利益」の追求を是とする体制です。しかし、ここでいう「私的利益」の内実は、追求している当事者に選択の余地があります。それが自由経済の自由たる所以です。金銭的利益を追求するのは勿論、そうした利益は多少差し置いて、「「思いやり」とか「いたわり」」を追求することも、私的利益の追求として自由です。特に医師は独占的な立場に立ちやすいのですから、独占的超過利潤の一部を患者に還元する余地は、すくなくとも市井の一般事業者よりはあるでしょう。
他方、いわゆる「社会主義」――概念に幅のある言葉ですが、ここではレーニン治世下を想定します――は「革命」という大義のためには個々の事情は我慢することを当然に見なします。最高指導者の趣味として「「思いやり」とか「いたわり」」が掲げられているのならまだしも、レーニンのような革命至上主義者が率いている状態では、そうした思いは「ブルジョワ個人主義者」と非難されることでしょう。
仮に「「思いやり」とか「いたわり」」が掲げられていたとしても、「社会的押し付け」という問題点からは逃れることは出来ません。「「思いやり」とか「いたわり」」の美名の下に、特定個人に苦痛や死を要求する――「『「思いやり」とか「いたわり」』の原理にもとづき、あなたよりもAさんの治療を優先しますので、死んでください」――これも相当に全体主義的な発想です。「「思いやり」とか「いたわり」」などとキレイごとを言っている暇があったら、「優先順位的に生きるに値しない命」についてこそ、医療者は哲学的に思索すべきでしょう(もっとも、医療資源は有限ですから、分配論としての「社会的効率性・社会的押し付け」は究極的には不可避かもしれませんが。。。)。
私は社会主義(自主的判断が尊重される集団主義的社会主義)を支持する立場ですが、こうした筋違いの資本主義批判が、いわゆる「社会主義」=滅私奉公型の全体主義的社会主義と、自主的判断が尊重される集団主義的社会主義との質的差異をスルー(混同)し、日本共産党のような全体主義的社会主義の下にホイホイと集結してしまう甘さをもたらします。しっかり区別するべきです。コトの本質は滅私奉公型の全体主義か否かです。