2016年10月30日

筋違いの資本主義的医療批判――コトの本質は滅私奉公型全体主義か否か

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161030-00010005-newswitch-soci
>> 財政難の日本で、富みを生み出さない治療は行うべきか
ニュースイッチ 10/30(日) 14:10配信

あなたの判断基準は何ですか?

 ここに二つの話があります。ありふれた、よくある話です。

 エピソード(1) ある人が胃がんになって手術を受けました。その後、抗がん剤を使ってがんを克服し社会に復帰しました。会社に勤めて、その人が財やサービスを生み出しました。治療に500万円かかりましたが、生み出したものは1000万円になりました。

 エピソード(2) ある人は誤嚥(ごえん)性肺炎になり1カ月入院し、治療に100万円要しました。退院後自宅に帰り娘が面倒をみましたが、1カ月後に肺炎を再発し、再入院しました。治療に150万円かかり肺炎は治りましたが、結局食べることはできず、徐々に衰弱し2カ月後に亡くなりました。

 さて、どちらが効率的ですか。そう訊(き)かれれば、経済学者や企業経営者は、個人の考えは別にして(1)の方が効率的とはっきり言うかもしれません。もっと言えば、今後は市井の人々の中にもそう考える方々が増えていくように私は思います。


(中略)

 私達はいくつもあるゲームのプレーヤーです。ただし数あるゲームの中でも特に「資本主義」というゲームに没頭しすぎる傾向にあります。そのゲームの中では確かに「効率化」は判断基準の一つです。

 しかし、ゲームはそれだけではありません。全く異なるルールのゲームもありますし、私達はそれらのゲームのプレーヤーでもあります。ルールが違うのですから、判断基準が違います。それらの判断基準は場合によって「思いやり」とか「いたわり」とか呼ばれ、その優先度が高いゲームが存在していることも知っています。

 経済的基盤がなければ、しなやかなプレーヤーとして存在できませんが、さまざまなゲームの中にいることも時々立ち止まって考えてみるべきです。


(中略)

土谷明男(葛西中央病院理事長) <<
俗流的な資本主義批判です。率直に言って、「エピソード(1)」は資本主義的というよりは、いわゆる「社会主義」的な判断だということに土谷理事長はお気づきないのでしょう。

いわゆる「資本主義」者は、顧客が取引後に自分の与り知らぬ所で何を為すのかなどに関心はありません。ただ、その顧客が自分に対して払ってくれる金額にしか興味はありません。医師が資本主義的思考に染まっているのであれば、「生み出したものは1000万円になりました」などというのは、どうでもいいこと。「治療に500万円」の500万円がキチンと支払われるのか否かということにのみ関心をもつものです。私的利益=個人的効率性を上げる事柄のみに関心があるのが資本主義者です。社会的効率性など関心外なのです。

資本主義を国是とする国家においては、当然、そうした資本主義者の私的利益を最大化することが「国家の使命」であります。患者が将来に向かって社会的に何も生み出さない人物であったとしても、資本主義的医師の私的利益を最大化させるのが資本主義国家なのです。

治療に500万円かかりましたが、生み出したものは1000万円」といった「社会的効率性」を基準にすえるのは、むしろ、いわゆる「社会主義」体制=滅私奉公型の全体主義的社会主義です。たとえば、レーニン治世下の戦時共産主義体制における食糧配給は、「革命のために如何に有用・効率的な人物か」という基準で行われていました。党幹部は〜〜kacl,赤軍軍人は一日あたり○○kcal、事務員はxxkcal,農民は△△kcalといったように、厳然たるヒエラルキーが、一方的に定められていました。滅私奉公の全体主義体制においては、個人はあくまで革命のための手段でしかありません。

土谷理事長は、「「思いやり」とか「いたわり」」と「資本主義」を対比的に位置づけていますが、むしろ資本主義体制のほうが「「思いやり」とか「いたわり」」が開花しやすいとさえ言えるでしょう。結局、資本主義体制は――競争の強制法則を捨象すれば――「私的利益」の追求を是とする体制です。しかし、ここでいう「私的利益」の内実は、追求している当事者に選択の余地があります。それが自由経済の自由たる所以です。金銭的利益を追求するのは勿論、そうした利益は多少差し置いて、「思いやり」とか「いたわり」」を追求することも、私的利益の追求として自由です。特に医師は独占的な立場に立ちやすいのですから、独占的超過利潤の一部を患者に還元する余地は、すくなくとも市井の一般事業者よりはあるでしょう。

他方、いわゆる「社会主義」――概念に幅のある言葉ですが、ここではレーニン治世下を想定します――は「革命」という大義のためには個々の事情は我慢することを当然に見なします。最高指導者の趣味として「「思いやり」とか「いたわり」」が掲げられているのならまだしも、レーニンのような革命至上主義者が率いている状態では、そうした思いは「ブルジョワ個人主義者」と非難されることでしょう。

仮に「「思いやり」とか「いたわり」」が掲げられていたとしても、「社会的押し付け」という問題点からは逃れることは出来ません。「「思いやり」とか「いたわり」」の美名の下に、特定個人に苦痛や死を要求する――「『「思いやり」とか「いたわり」』の原理にもとづき、あなたよりもAさんの治療を優先しますので、死んでください」――これも相当に全体主義的な発想です。「「思いやり」とか「いたわり」」などとキレイごとを言っている暇があったら、「優先順位的に生きるに値しない命」についてこそ、医療者は哲学的に思索すべきでしょう(もっとも、医療資源は有限ですから、分配論としての「社会的効率性・社会的押し付け」は究極的には不可避かもしれませんが。。。)。

私は社会主義(自主的判断が尊重される集団主義的社会主義)を支持する立場ですが、こうした筋違いの資本主義批判が、いわゆる「社会主義」=滅私奉公型の全体主義的社会主義と、自主的判断が尊重される集団主義的社会主義との質的差異をスルー(混同)し、日本共産党のような全体主義的社会主義の下にホイホイと集結してしまう甘さをもたらします。しっかり区別するべきです。コトの本質は滅私奉公型の全体主義か否かです。
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2016年10月26日

電車内化粧是非論争の核心は「相互配慮できないその人格」

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161026-00000001-jct-soci
>> 東急電鉄「車内で化粧はみっともない」 啓発広告に賛否両論の嵐

J-CASTニュース 10月26日(水)12時42分配信

「都会の女はみんなキレイだ。でも時々、みっともない」――。こんな標語が印象的な、東急電鉄のマナー広告が物議を醸している。

 車内でのメイクを控えるよう呼びかけるものだが、ネットで「『みっともない』なんて全然思わない」「女性への抑圧」と批判が沸き起こり、逆に広告に賛成する声も相次ぐなど、賛否が大きく分かれる状態になっている。

■「電車内の化粧のどこがマナー違反か」「女性への抑圧」

 東急電鉄は16年9月16日から、「わたしの東急線通学日記」と題する啓発ポスターを全線(世田谷線除く)に掲出している。大学進学を機に上京し、東急線沿線に住み始めた主人公の女性がさまざまな乗車マナーに触れるといった趣旨だ。

 すでに第4弾まで公開されており、「車内化粧篇」は第2弾。第1弾の「歩きスマホ篇」とともに9月16日から掲出されている。「都会の女はみんなキレイだ。でも時々、みっともない」という一文に、座席シートでメイクする女性の写真が重ねられている。しかし、ツイッター上では、この広告に対して、

  「電車内の化粧のどこがマナー違反かよくわからない」
  「女性への抑圧」

と疑問の声が続々と寄せられた。写真を見る限り、女性の座るシートは空いている。ツイッターなどでは、男性の体臭や酔っ払い、騒音、痴漢など「車内化粧」より糾弾すべきものがあるという意見も相次いだ。その一方で、

  「電車内で化粧する女は無理です」
  「マナーと明らかな犯罪行為をごちゃ混ぜにしても論点がずれる」

とポスターに賛意を示す声も多い。まさに賛否両論の状況だ。


(以下略) <<
「おっ、やってるやってる」レベルの議論ですね。みんなヒマなのかな? 私は比較的ヒマです。

さて、電車内化粧是非論争。かつて先鋭的批判派の話を聞いたことがありますが、次のような要旨でした(世論を綿密に調べる気にもならない「論争」なので、全国的代表例とは言い切れないと思います。あしからず)。曰く「化粧というものは『ソト』に出かけて『他人』と会うために『ウチ』で行うもの。化粧を電車内などの公共の場所で行うということは、その人は暗黙のうちに、公共の場所を『ウチ』と捉えて私物化しているか、あるいは電車に乗り合わせた人たちを『他人』と認めていないということなのだ。そういう人は、自分が利害関係者と認識している人に対してはイイ顔をするのかもしれないが、それ以外の人たちに対しては傍若無人に応対する『素地』がある。本人は否定するだろうが、無意識のうちにそうなのだ!」とのこと。

ちょっと思い込みが激しく、言いすぎなんじゃないかと思います(駅の「化粧室」ってどう捉えればいいんでしょうかね?)が、批判論者の率直な見解なのでしょう。7月31日づけ「棲み分け原理と価値観の多様性――自由主義的な人間関係の基礎」にて私は、タトゥー(刺青)擁護論者について「タトゥーが嫌がられているのではなく、配慮しようとしないその人格が嫌がられている」と指摘しましたが、それはそのまま電車内化粧是非論争にも当てはまるのでしょう。批判論者は、電車内で化粧をするということを、周囲の人々に実質的に損害を与えているから問題視しているのではなく、『ウチ』で行うべきことを『ソト』で済ませるその「人格」を問題視しているのでしょう。論争のある問題について「自分の感覚」「自分の権利」のみで判断しようとし、他人の反応を考慮しようとしない「相互配慮できないその人格」が問題視されているのでしょう。

その意味では、電車内化粧擁護論・タトゥー擁護論にて共通して見られる「他人に実害は与えていない」という反論がいかに噛み合っていないのかが分かります。また、後述するように、私はこの論争に関わらない立場なのですが、流石に「抑圧」まで来ると「社民党みたい」と言うほかありません。どうですか、電車内で化粧に精を出している「淑女」の皆様、「他人からの目線」って考えたことありますか? 自分の感覚だけで物事を判断すると、やくみつる氏のような、みっともない人間になってしまいますよ!

ちなみに私は、以前から重ねて主張しているように、「物理的にも心理的にも棲み分け論者」です。なので、私自身は物理的な意味で『ウチ』でやるべきことは当然『ウチ』で行いますが、他方で、他人が『ウチ』でやるべきことを『ソト』でやっていたとしても、これは心理的に棲み分けをしています。ちょうど、街宣右翼やバカ左翼をスルーするような心理です。「あの人、ママの教育が悪かったんだろうなあ・・・」と思いつつ、無視しています。関わりあいたくないし、関わる必要もないし、たぶんそういう人は、他人に影響を及ぼすような地位でもないでしょうから(一流の人たちってやっぱり常に「お天道様に恥ずかしくない」振る舞いをしていますよ、ホント)。あっちだって私なんかに構うつもりはないでしょう。円満円満。

最後に。「アタシの電車内化粧がイヤなら別の車両に移れ!」という持論のマジで傍若無人な方! この広告は東急電鉄の見解です。これを機にあなたこそ東急線に乗らなきゃいいんじゃないですか? ほら、JR線や小田急線を乗り継げばいいじゃないですか! あなたと同じ考えの人が本当に社会の多数派であれば、「東急線への乗客数減・競合他社線へのシフト」という形で「兵糧攻め」できますよ。収益減に耐えかねて「女性の電車内化粧という権利を踏みにじっていました・・・」などと東急電鉄が自己批判する日を思い浮かべつつ、迂回乗車してください。ちょうど東急線は混雑しているんで。
ラベル:社会
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2016年10月22日

「泣く泣く」転職市場に参入さぜるを得ないは増えてゆくだろう――労働組合は如何対応すべきか

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161022-00000016-nkgendai-life
>> 電通に続き関電…大企業ほど陥る“過労死”なくならぬ理由

日刊ゲンダイDIGITAL 10月22日(土)9時26分配信


(中略)

 サラリーマンの中には「経済界は教訓を生かしてオーバーワークを是正するだろう」と期待する声も上がっているが、そんな生易しいものではないようだ。

■一度退職したらもう再就職できない

「企業は激務を減らすよう努力するでしょうが、長続きしませんよ」と苦笑するのは労働問題に詳しいジャーナリストの溝上憲文氏だ。

「大企業の経営トップにも“自分が若いころは眠らずに働いた”と自慢し、“社員は死ぬ気で頑張れ”と号令する人がいる。こうした経営者はギリギリの人数で最大の効果を出すことに躍起になり、社員はそれに応えようとして自分を追い詰める。原因は終身雇用です。日本の大企業の社員は一度退職したら中小企業にしか再就職できないことを知っている。妻に文句を言われ、収入も減る。だから追い詰められても会社を辞めることができず、無理をしてしまうのです」

 大企業や有名企業の社員ほど会社に固執し、自分を追い込んでしまうのだ。

「欧米人は個人主義ですが、日本人は組織への帰属意識が強い。会社に尽くそうと考えるのです。そこにあるのは“お家のため”という武士道の滅私奉公精神。同時に世間の目を気にしすぎるメンタリティーです。社内で“あの人はサボっている”“仕事ができない”と後ろ指をさされたくないので、ボロボロになるまで心身を酷使する。こうした他人の目を怖がる“対人恐怖症”は日本人特有の現象とされています」(明大講師の関修氏=心理学)

 関氏によると、人はイヤな仕事を押し付けられると精神的に参ってしまうが、好きな仕事なら耐えられるという。漆塗りなどの職人が寝食忘れて働いても死亡しないのは好きな仕事だから。「嫌だ」と思ったら、退職を模索したほうがいいということだ。

最終更新:10月22日(土)9時26分
<<
ただしい指摘です。とくに「組織への帰属意識」「終身雇用」にも触れた解説は、従来型の労働運動系人士の解説からは逆立ちしても出てこない重要な指摘です。

主体的心理面においても客観的構造面においても、かくして辞めたくても辞められない状況ができあがっています。そして、そうした「しがみつかねばならぬ」状況が、企業側の「労働需要独占者」としての立場を更に強化することになります。大企業工場が系列の下請け町工場に無理難題を押し付けるのと同じような力関係が更に強化されるのです。

ここで仮に、従来型の労働組合による要求活動を展開しても、「しがみつかねばならぬ」状況――根本的な労使の力関係――には変化はありません。むしろ要求実現活動は、実態としては企業への依存を深めることにもなるのです(チュチェ104(2015)年10月8日づけ「「日本の労働組合活動の復権は始まっている」のか?――労組活動は労働者階級の立場を逆に弱め得る」参照)。

チュチェ104(2015)年10月15日づけ「周囲の助けを借りつつ「嫌だから辞める」「無理だから辞める」べき」やチュチェ103(2014)年8月31日づけ「ユニオンが転職支援する大きな意味――「鉄の団結」は必要ない」などで何度か述べてきたように、味方になってくれる周囲の人々の助けを得ながら脱出すべきでしょう。辞めたくても辞められない状況で自らを追い詰め、また、企業側の「労働需要独占者」としての立場がますます強化されていく展開、かといって従来型の要求実現運動に逆効果の恐れがあるのならば、当の労働者にとっては何もよいことはありません

妻に文句を言われ」るのであれば、要求活動ではなく転職活動に理解がある弁護士や労働組合の助けを借りるべきでしょう。働きすぎで死ぬよりは辞めたほうがマシですし、無職なら「死ぬための時間」の調整もつき易いでしょうから、急ぐことはありません。

たしかに日本の労働市場は、一定年齢以上になると転職・再就職が急激に難しくなる状況にあります。しかし、市場の動向というものは本質的に、ひとつひとつの契約の「合成ベクトル」です。おそらく「もう無理・・・」と言って「泣く泣く」転職市場に参入さぜるを得ない中年以上の労働者は増えてゆくことでしょうが、そうした動きは、長い目で見て転職市場を活性化させることにつながるでしょう。若年労働者・第二新卒者の転職市場もそうした要素もあり、近年大きくなっているように・・・

「長い目で見て」というものの、労働者の生活は一日一日連綿と続くものです。ケインズが正しく指摘したように、「長期的には我々は皆死んでいる」のです。だからこそ、労働組合は、中途半端な要求実現活動で逆に企業側の立場の強化をアシストするようなことはせず、転職市場に参入さぜるを得ない中年以上の労働者を「階級的連帯」から支援することにより力をいれるべきでしょう。あるいは、チュチェ103(2014)年10月5日づけ「資本家の権力の源泉を踏まえた自主化闘争――自立的な自主化であるために」でも論じたように、「アソシエーション自主管理経営の第一歩」として、より先鋭的になるか。

また、労働組合のみならず、ソーシャル・ブリッジの政策的整備が必要なことも勿論です。何度かご紹介してきた古めの記事で恐縮ですが、最後に再掲しておきます。
http://diamond.jp/articles/-/10654
>> 労働政策の基本は「人は守るが、雇用は守らない」
元スウェーデン財務大臣 ペール・ヌーデル
〜スウェーデンはいかにして経済成長と強い社会保障を実現したか。日本そして世界への教訓(第2回)
<<
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2016年10月20日

人を生産手段として使うということは如何いうことであるか――何の管理もせず、ただ収益だけ持ち去る;環境破壊と同じ構図

https://www.buzzfeed.com/takumiharimaya/dentsu
>> 【電通過労自殺】「100時間の残業、驚く数字ではない」現役社員が思うこと

(中略)

「『仕事がつらいうえに、私生活もうまくいかず、自ら命を絶ってしまったのでは』というのが、翌週の社内の空気感でした。あくまで個人の問題であり、最終的に会社が責められるものだとは、私自身はまったく思っていませんでした」

(以下略) <<
あくまで個人の問題」――こういう感覚が上から下まで充満しているから起きた事件だったのでしょう。

■生産手段としての労働者は本質的に「品質のバラツキが大きい」
「心身の自己管理」が大前提であることは勿論です。労働契約も商売なのだから、売り手(労働者)側が万全な状態で「売り出す」ことは当然のことです(私はそこを「甘やかす」つもりはありません)。しかし、同時に労働者は「生身の人間」です。人権問題云々以前に、「一つ一つ品質にバラツキがある生産手段」である以上は、使用者側が「一つ一つ」にあわせて調整してゆく必要があるのです。

生産手段のなかでも品質が比較的に均一な「機械設備」だって、使用者側の責ではなくとも使用者自身の手で調整して使っています。まして「生身の人間」を生産手段として思い通りに使おうとすれば、ますます慎重に使うべきでしょう。人間を生産手段として使うというのは、本質的に、それだけ「面倒くさい」ものなのです。嫌なら最初から雇うな

■何の管理もせず、ただ収益だけ持ち去る――環境破壊と同じ構図
偶然任せではなく「対象」を生産手段として思い通りに使い、そこから収益を生み出すというのであれば、それ相応の「使い方」の問題が生じます。それが「人事権」であり「配慮義務」なのです。。嫌なら最初から雇うな(2回目)。

電通社員は、生産手段としての「生身の人間」の生み出す収益を、その辺に自生している野草やキノコを集めて売りさばいているのと同じくらいに思ってはいないでしょうか? 自然に生えてきたモノを「ラッキー」とばかりに採取し、またいつか自然に生えてくるのを待つような気持ちがあるのではないでしょうか? 何の管理もせず、ただ収益だけ持ち去る――環境破壊と同じ構図です。何のための人事権なのでしょうか? 何のための「採用の自由」なのでしょうか? 天下の電通人事が、よりによってあんな「豆腐メンタル」(←わたしは自殺した彼女をこんな風に言うつもりは毛頭ありませんが、電通社員様の率直な感想ですよね?w)を採用するとは・・・ご自分の「見る目のなさ」をちょっとは恥じたほうが宜しいのではないでしょうか? 中小企業の経営者はマジですよーカツカツの状況下で社員に鬱病になられたら大変ですからね。どこまで役に立つのかは分かりませんが、やたらに就活生に心理テストを受けさせていますからね。

■「対象」にあわせる必要性
チュチェ102(2013)年2月14日づけ「受け手次第」や本年10月11日づけ「長谷川秀夫教授はワタミと同じレベルの「急進左翼」――「時代」ではなく「その人自身」」でも述べたように、「「深刻さの度合いは『受け手』次第である」のです。再掲。
>> 誤解を恐れずに言えば、たしかに「特殊」だったかもしれません。なぜならば、ああいうシゴキは日本中、津々浦々で長年行われてきましたが、だからといってシゴキを受けた生徒がガンガン自殺していたかといえば、決してそんなことはなかったからです。人ひとりの死を「統計数値」として見ることに対して批判的な方も多いかと思いますが、やはり、そういわざるを得ないことも事実です。

しかし、ここで重要なのは、「深刻さの度合いは『受け手』次第である」ということです。本件における元教諭擁護者において決定的に欠如しているのは、そこでしょう。たしかに、「世間平均」からみれば「特殊」かもしれませんが、こういう問題は本質的に「深刻さの度合いは『受け手』次第である」なわけです。「ヤワすぎる」とかいったとしても、そもそもそんな主張は無意味なのです。

もちろん「スポーツマンたるもの、あの程度で音を上げるようではダメだ。もっと根性をすえるべきだ」というのは、まあそれもそれで一つの意見、理想像かもしれません。しかし、あなたの理想像だけで物事を語られてしまっては困ります。「現実がオカシイんだ、理想社会に向けて革命だ!」といって、急進的に社会を改造しようとして大失敗した「共産主義の思考・方法」となんら変わるところがありません。

もし、「スポーツマンたるもの、あの程度で音を上げるようではダメだ。もっと根性をすえるべきだ」というのであれば、それ自体は結構ですから、せめて現実、スタートラインを見据えてください。その上で、理想を実現するための方法を考えてください。「現実がオカシイ!」というのは、そうかもしれません。しかし、良くも悪くもそれが「現実」なんです。
<<

まあ、本当に有能な管理職であれば、直感的に「その人に合わせたマネジメント」をするものですがね。人の上に立つ器ではない人物が、何かの間違いで管理職になってしまった・・・いや、電通という企業自体に、マネジメントのノウハウが蓄積されていなかったのかも知れませんね(ま、使い捨てしてりゃ蓄積もされないでしょーねー)。

■都合のよい「自己管理」論
ついでに言えば、「自己管理」を云々言うのであれば、「仕事量の自己管理」についても労働者階級として申し上げたいものです。都合の良いときだけ「自己管理」を持ち出されてもねえ・・・と思うのであります。

もっとも、この問題は、最終的には「労働契約」すなわち「労使の力関係と合意」の問題です。嫌ならサッサと辞めろ、嫌なら最初から雇うな(3回目)。

「嫌なら最初から雇うな」については、チュチェ102(2013)年6月10日「競争の強制法則」でも述べました。「嫌ならサッサと辞めろ」については、本年10月15日づけ「だからブルジョア博愛主義者は甘い――「労働時間の上限規制」と「インターバル規制」再論」でも述べています。過労でうつ状態になっている労働者に自発的な「逃げ」を期待するのは非現実的です。労働問題専門弁護士や労働組合による「脱出援護」が必要だと考えていることを、特に、補足的に述べておきます。
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2016年10月17日

「大人」は「若者の貧困」をじゅうぶんに理解した上で突き放している――「アリとキリギリス」主義

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161017-00140240-toyo-soci
>> 「若者の貧困」に大人はあまりに無理解すぎる

東洋経済オンライン 10月17日(月)6時0分配信


(中略)

生活困窮者支援を行うソーシャルワーカーである筆者は、若者たちの支援活動を行っていると、決まって言われることがある。「どうしてまだ若いのに働けないのか?」「なぜそのような状態になってしまうのか?」「怠けているだけではないのか?」「支援を行うことで、本人の甘えを助長してしまうのではないか?」などである。
要するに、"若者への支援は本当に必要なのか? "という疑念だ。これは若者たちの置かれている現状の厳しさが、いまだに多くの人々の間で共有されていないことを端的に表している。今回の連載を通して、「若者なんだから、努力すれば報われる」という主張など、ナンセンスであることを明らかにしていきたい。

■もはや通用しない労働万能説


(中略)

仕事は選ばなければいくらでもある?

(中略)

■家族への依存も、もはや困難に

(中略)

 いずれにしても、若者たちを取り巻く環境を見る際には、家族への依存は困難になっていると想定しておく必要があるだろう。さらに20歳を超えた成人に対して、家族がどこまで面倒を見るべきなのか、についても議論を進める必要がある。諸外国では当然であるが、成人した場合、血のつながりのある者同士でも、日本ほど扶養をすることはない。主に夫婦間や未成年の子どもに対する扶養義務くらいで、成人後は生活や就労を政府や社会システムが保障していく。「困ったら家族を頼る」ということが当たり前の社会でなくなることを示していきたいとも思う。

 つまり、困ったら家族が助けてやればいいという論調は、ややもすると社会福祉や社会保障の機能を家族に丸抱えさせることにつながってしまう。これでは家族が共倒れの状況を招きかねず、さらに社会福祉や社会保障の発展も妨げる。そういう点において、家族扶養説は危険な前近代の思想であると言えるだろう。

藤田 孝典

最終更新:10月17日(月)17時50分
<<
誰かと思えば、当ブログでも何度も取り上げてきた藤田孝典氏(藤田氏について取り上げた過去ログ)。「周回おくれの認識」と「思い込み」で浅い分析に基づく啓蒙を試みています

論評するまえに、ザッと読みの感想を述べておきましょう。私としては珍しく藤田氏の言いたいことには共感しています。しかし、やはり認識が周回遅れであると言わざるを得ません。いままで当ブログでは藤田氏の言説(特に労働組合問題)を「対立的・否定的」に論評してきましたが、今回は「不足の追及」という観点で論評します。

■若者の貧困をじゅうぶんに理解した上で突き放している――リーマンショックと「アリとキリギリス」主義
藤田氏は「若者の貧困への無理解」などという構図を設定しています。ニワカ左翼にだって思いつく浅い構図です。
 
リーマンショックと、それに伴う中小企業の倒産・中小企業労働者の失業・年越し派遣村や新卒内定取り消しに対する「世論」を思い起こしましょう。リーマンショックに伴う生活苦は、明らかにマクロ経済的な要因に基づくものでした。「通常の不況」であれば、贅沢はできないにせよ、慎ましい生活を送ることは十分に可能な人までもが弾き出されたのが「100年に一度」のリーマンショックでした。そうした一種の天災にも等しい異常事態に対して「世論」は、「アリとキリギリス」的な発想を展開したものでした。「人生は山あり谷あり。不況・恐慌がいつか来るのは当たり前。それに事前に備えなかったお前が悪い。」と。まさに「冬は必ず来るのに、夏の間に遊びほうけていたキリギリス君よ、君が悪い。われわれ働きアリが助ける義理はない」の構図です(旧ブログにて掘り下げて検討していましたので、あわせてご覧ください)。

こうした事実を思い起こしたとき、左翼がニワカに思いつくような単純な構図が決定的に浅いということが見えてくるでしょう。「世論」は現実をよーく理解したうえでも尚、「お前の貧困など知らん」と言っているのです。

この背景については、(旧ブログにて検討してきたように、私はにもとづく「努力至上主義」「努力真理教」があると考えています。日本人の「まじめさ」「勤勉さ」が暴走した結果でしょう。このように国民性を考慮のうちに入れたとき、コトの真相はかなり根深く、左翼の思いつきなどで分析しきれるものではないことが分かるでしょう。まことに浅い分析です。

■「社会的扶助vs家族内扶助」の二元論ではない――現実は相互作用的関係にある
記事は「家族扶養説は危険な前近代の思想である」などとしています。言及が足りません。

記事のような書き方をすると、読者によっては「社会的扶助vs家族内扶助」という二元論的構図を想定し、それに従って如何でもいいような反論を仕掛けてきます。いままでの多くの社会保障論議は、たいていそのような展開になり、延々と不毛な議論を展開したものでした。

「誰が」などというのは、目標達成のためには如何でもいい要素です。「資源」はトータルに活用すべきです。また、社会的扶助と家族内扶助は、正しく設計して適宜に補正しつつ同時に実施すれば相互作用的に効果を発揮するものなので、そもそも二元論的・相互対立的に位置づけるものではありません。社会的扶助は、共倒れ寸前の家族を支え、その家族愛を開花させる作用があります。家族の絆という崇高な関係性を社会全体で守るのが社会的扶助です。他方で、家族内扶助は自立の第一歩です。現在の状況では、いつまでも社会的に食わせて行けるわけではなく、いつかは自立自活してもらわなければなりません。

文脈的にこの記事は、啓蒙的目的で書かれていると思われますが、不毛な二元論に陥りがちな論題であるからこそ、踏み込んだ表現をすべきでした(もっとも、藤田氏は単純な社会的扶助単一主義者なのかもしれませんが)。

■あれから8年
リーマンショックから8年たっても、論点に進歩がありません。通常、論争のある論点に言及する際には「想定される反論への事前反論」を用意するものですが、そうしたパラグラフは見られません。ひたすらに自分の観点・立場に独りよがり的に立っていることの証左でしょう。現実主義の立場に立てば、認識は進歩すると思うのですが。。。
ラベル:社会 福祉国家論
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2016年10月15日

だからブルジョア博愛主義者は甘い――「労働時間の上限規制」と「インターバル規制」再論

法規制だ署名だ、って・・・だからブルジョア博愛主義者は甘いんですよ。
(※10月18日20時41分に新パラグラフ「■逃げるしかない」を補充しました。内容的には別記事の再論です。)
http://bylines.news.yahoo.co.jp/komazakihiroki/20161015-00063296/
>> 電通に憤ったみんな、その怒りをこの署名にぶつけてくれ!!

駒崎弘樹 | 認定NPOフローレンス代表理事/全国小規模保育協議会理事長
2016年10月15日 17時58分配信


(中略)

【働き方改革のセンターピン】

日本で長時間労働が多い理由。それは、長時間労働が「合法」だからです。どういうことか。企業は普通、社員を週に40時間しか働かせられません。皆さんの多くは、1日8時間労働だと思います。

でも、36協定という労使協定(*)を結べば、いくらでも働かせられる。合法的に。

いくらでも?そんなバカな。いや、ほんとです。例えばワタミはかつて、過労死ラインの1.5倍、残業上限月120時間で36協定を結んでいました。そしてこれは合法でした。

長時間労働が合法なら、そりゃあ企業はやるでしょう。何が悪いんですか、と。だったら、長時間労働を違法化してしまえば良いんです。少なくともどんな労使協定があろうが、過労死ラインを超えさせてはいけません。

そんなの理想論だって?いやいやいや。実はEUでは、とっくにこの「長時間労働の違法化」はなされています。平均週48時間が法律上の上限で、違反の場合は罰則があります。そして労働生産性は、日本より高いのです。

さらにはEUには、終業から始業まで11時間休ませないといけない、という「インターバル規制」があります。おそらく夜中まで働いて、2時間しか寝れず出社した高橋さんには、インターバルはなかったでしょう。

この「労働時間の上限規制」と「インターバル規制」の導入が、働き方改革のセンターピンなのです。

【失われゆくチャンス】

そしてこの2つの規制を始めとした、働き方改革を行う千載一遇のチャンスが巡ってきました。本年9月から始まった「働き方改革実現会議」で、安倍総理自ら参加する力の入れようです。

しかし、せっかくここまできた働き方改革ムーブメントですが、急速に機会は失われようとしています。産業界からのロビイングにより、一部の閣僚が上限規制に水面下で反対し、会議メンバーの中に、上限規制反対派の民間委員も就任しました。

産業界にとっては、これまで無尽蔵だったら人的資源を制限されることへの恐怖があり、それが政治的パワーとなって働き方改革を妨げる方向に向かっているそうなのです。

【死者のために、そして子どもたちのために声をあげよう】

このままでは、おそらく改革は微温的なもので終わるでしょう。そして日本のどこかで、また若者が長時間労働にボロ雑巾のように痛めつけられ、命を落としていくでしょう。

それで良いのか。私たちはこの狂った制度を、私たちの子どもの世代に残して本当に良いのでしょうか。いつか我が子が嬉々として入社した会社に殺されてから、あああの時声をあげておけば良かった、と叫ぶのでしょうか。

少なくとも、僕は今ベストを尽くしたいと思います。(株)ワークライフバランス社長の小室淑恵さんを始めとした、働き方改革の志士たちが、法改正を求める署名キャンペーンを始めました。この署名に参加することで、意思表示したいと思います。

http://chn.ge/2dRG68V

国民の意思表示のうねりが、改革派の政治家の背中を押し、反対派の勢力の意志を削ぎます。皆さん、声を集めましょう。人の命を奪う制度を変えましょう。

それが亡くなった高橋まつりさんへの、いやこれまで過労死で倒れた幾万人の同胞たちへの、せめてもの弔いになることを願って。


(以下略) <<
(おことわり:原文での太字強調は、引用時に解除しました)
「労働時間の上限規制」と「インターバル規制」の導入が、働き方改革のセンターピン」という論点設定に呼応して、これらについて駒崎弘樹氏のブルジョア博愛主義っぷりを検討してゆきましょう。

■法の具体的数値規定が個人をキメ細かく守れるのか――「労働時間の上限規制」と「インターバル規制」
駒崎氏は「長時間労働が合法なら、そりゃあ企業はやるでしょう。何が悪いんですか、と。だったら、長時間労働を違法化してしまえば良いんです。」などと単純なアイディアを持ち出した上で、EUでの「11時間のインターバル規制」を無邪気に取り上げています。

こうした甘い思考について私は本年5月5日づけ「自主の立場から見た「勤務間インターバル制度」――内容は労使交渉で、形式は絶対的記載事項として!」で以下のように述べました。
>> 他方、階級闘争型が主張する「具体的数値に基づく強力な法規制」は、あくまで最低限の担保にしかなりません。チュチェ104(2015)年6月15日づけ「「自主権の問題としての労働問題」と「法的解決」の相性」をはじめとして以前から指摘しているように、労働者個人個人が抱えている事情は千差万別ですから、「ある種の社会的基準」にもとづく、法的解決・マクロ的対応には本質的に限界があります。その「社会的基準」によっては保護され得ない個別事情を持った個人は依って立つ所がありません。法は「12時間間隔をあければよい」と規定しても、個々の労働者によっては「14時間は必要」という場合もあるでしょう。そうした労働者が守られるためには、結局は労使交渉にならざるを得ません。また、あらゆるケースを事前に予測して法の網の目を巡らせることは現実的には不可能なので、法的規制には必ず「本件は法的保護の対象になるか」「当事者と言い得るか」という解釈の問題が発生します。労使が主張を異にし、交渉に入らざるを得なくなる場面は必ずあるのです。そうであれば、最初から労使交渉を睨んで備えるべきです。 <<
法的規制というのは、一律の規制です。10月11日づけ「長谷川秀夫教授はワタミと同じレベルの「急進左翼」――「時代」ではなく「その人自身」」でも述べたとおり、コトの本質は「その人自身」です。労働時間上限や勤務間インターバルなどを法律で具体的なに数値設定したとしても、それらの規定が一人ひとりの労働者に適合的とは限りません

法律で具体的数値を頭ごなし的に設定するのではなく、上掲過去ログでも述べたとおり、最初から労使交渉を睨んで備えるべきなのです。労使交渉を通して、労使間が現場で働いている生身の人間の実情に合った労働条件を真に自主的に設定できるようにこそすべきなのです。

法律を用意し、「これなら十分だろう」と思い込んでいる上限時間やインターバル時間を設定して「これで労働者は守られた」と思っていても、それは自己満足に過ぎない可能性があるのです。ブルジョア博愛主義者は何かと「法的規制」に走ろうとしますが、法的規制には原理的に限界があるのです。

■だれが法を執行するのか
また、長時間労働を違法化したとして、いったい誰がその実効性を保証するというのでしょうか? 通常は、「労働基準監督署」または「労働組合」という答えが返ってくるものと思われます。これらについても検討しましょう。

労基署については、10月10日づけ「秋山木工の徒弟制度――言いたいことは分かるが洗練されていない」で私は以下のように述べました。時代の変遷にもかかわらず独特の徒弟制度が安定的に脈々と受け継がれている秋山木工という企業について論じた記事です。
>> 仮に、ここで抗議メールを殺到させ、世論を盛り上げ、更に労基署の臨検が入ったとしましょう。おそらく、秋山木工の「徒弟制度」は密室化・地下化するだけでしょう。社長自身が体験した「徒弟制度」をそのまま自社の研修に取り入れ、それについて行ける人たちだけが弟子として集っているのが秋山木工なのですから、需給は一致しています。「以後の取材はすべてお断り」「関係者には緘口令」による密室化・地下化で、以後もコッソリと「徒弟制度」を維持させてゆくことでしょう

労基署は警察です。犯罪は「パトロール」だけでは摘発し切れません。「被害者の被害届提出」や「地域住民の協力」が不可欠です。しかし、密室化・地下化してしまえば、「被害届」は出ず「協力」もありません。これでは検挙は不可能です。
<<
その現場で働いている労働者自身が違和感を感じない限り、職場は密室化・地下化します。労基署は動きませんし、動けません。

産経新聞報道によると、やはり電通の企業文化が背景にあるようです。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161015-00000506-san-soci
>> 電通「鬼十則」背景か 東大卒エリート美女、自殺までに綴った苦悶の叫び

産経新聞 10月15日(土)20時0分配信


(中略)

 弁護士側は、電通の過労体質を指摘した上で、第4代吉田秀雄社長の遺訓とされる「鬼十則」を明らかにした。電通の社員手帳に掲げられているという十則の一部を紹介する。

 ・取り組んだら「放すな」、殺されても放すな、目的完遂までは。

 ・仕事とは、先手先手と「働き掛け」で行くことで、受け身でやるものではない。

 ・頭は常に「全回転」、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービスとはそういうものだ。

 高橋さんのメッセージからは、上司から「髪がボサボサ、目が充血したまま出勤するな」「女子力がない」と言われるなどのパワハラをうかがわせる内容もあった。


(後略) <<
電通も密室化・地下化が進んでいると思われますが、上掲部分を見る限り、多かれ少なかれ日本社会全体を覆っている「価値観」であるとも考えられます。いずれにせよ、労基署が十分に動ける「協力受け入れ態勢」は整っていないと思われます。

(10月20日22時20分追記)
10月20日づけ「人を生産手段として使うということは如何いうことであるか――何の管理もせず、ただ収益だけ持ち去る;環境破壊と同じ構図」においても、「電通社員の声」を取り上げた記事をネタに論考しています。あわせてご参照いただければと思います。
(追記終わり)

労働組合については、あまりに多く論じてきたので再掲する記事の選定が難しいのですが・・・たとえばチュチェ104(2015)年10月8日づけ「「日本の労働組合活動の復権は始まっている」のか?――労組活動は労働者階級の立場を逆に弱め得る」。
>> 労働者が真の意味で自主的になるためには、企業側に足許を見られないために特定の勤め先に対する依存度を下げることが必要です。なぜ電力会社が一般電力消費者に対して殿様商売ができる(できていた)のかといえば、他に売り手がいないからです。なぜ、自動車メーカーが下請け工場の部品をふざけた値段にまで値切ることができるのかといえば、他に買い手がいないからです。他に売り手/買い手相手が居ないとき、買い手/売り手は、売り手/買い手に対して依存的立場・弱い立場に置かれます。前述の競争市場の基本原理に対して独占市場の基本原理です。

(中略)

ミクロ経済学的考察に基づけば、労働者の立場と為すべきことも見えてくるでしょう。真に交渉力を持つためには、「辞めるよ?」という脅しが必要なのです。「辞めるよ?」と言える立場は、代替財を確保している立場です。「辞めるよ?」と言えない立場で、団体交渉等によって企業側から「譲歩」を勝ち取りその利権を自らの生活に組み込むことは、特定の勤め先に対する依存度を上げることに繋がります。労働者階級が自主的であるためには、労働需要者としての企業を競争的な立場にしなければならないのに、「辞めるよ?」と言えない立場で、団体交渉等に臨むというのは、労働者階級自らが企業の「労働需要独占者」としての地位をさらに強化させていると言っても過言ではありません。自分から労働市場を独占化させてどうするんですか。 <<
ワタミやすき家のブラック労働が改善の方向に動きだした決定打が「無理だから辞める」によるアルバイト応募者激減であった事実一つとっても、この方法論が有用であることが分かります。もちろん、労働市場におけるマーケット・メカニズムが円滑に作用するよう、労働者階級の立場から調整することが必要であることは、以前から私も認めている通りです(今回は割愛します)。

また、そもそもの根本的な力関係(階級関係)が企業側有利であれば、労組が騒いだところで痛くも痒くもありません

類似した実例はSMAP解散騒動のときに既に見られていました。SMAP解散騒動を「ブラック企業の構図」とした上で「ジャニーズ事務所にメリー氏解任の署名を!」という運動が見られましたが、結局なにも起こりませんでした。それはそうでしょう。そんなものメリー氏にとっては痛くも痒くもないのですから。

企業とって痛みを感じさせるためには、ストライキなどの要求行為・労働争議行為では不十分です。ストライキなどは、「最終的には労働者は生産を正常化させる」ということが明白です。となれば、企業側は消耗戦に持ち込むことでしょう。また、仮にストライキなどによって一時的に「譲歩」を見せたとしても、根本的に労働者は企業の「掌の上」。企業側は巻き返しを虎視眈々と狙っているでしょう。年齢を重ねて容易には転職できなくなったり、著しい景気後退などにより労働者側のパワーが弱まったタイミングで「回収」することでしょう。企業にとって本当に痛いのは、辞められることです。「退職しようものなら懲戒解雇にするぞ!」くらいしか脅しになり得ないというのは、強力なカードなのです。

■そもそもブラック企業が改心したり法律を守るわけない
若い女性が一人死んでいます。人ひとりを自殺に追い込むような勤務を要求する企業・部署・上司が新しく法律が出来たからと言って改心したり、それを律儀に守ったりはしないでしょう。「長時間労働が合法なら、そりゃあ企業はやるでしょう。何が悪いんですか、と。」なんて甘いものではありません。ブラック企業というのは、「労働基準法なんて知らねえよ」と最初から開き直っている連中です。他人を踏み台にしても厭わないような極端な利己主義者の集合体です

チュチェ104(2015)年9月23日づけ「「ブラックバイト」の域を超えているのに「団体交渉」を申し込むブラックバイトユニオンの愚」で、「しゃぶしゃぶ温野菜」のヤクザ的労務について以下のように述べました。
>> これが事実だとすれば、もはや「ブラックバイト」の域を超えており、ただの「ヤクザ企業」です(もともとブラック企業ってヤクザ系って意味だったはずなんですけどねえ・・・)。

相手がヤクザ者であれば、選択肢は一つだけです。キッパリ縁を切る。あの手の連中、他人を踏み台にすることしか考えていない骨の髄までの利己主義者に理を説いても、心を入れ替えるはずがありません
<<
法を作ればよいと考えているブルジョア博愛主義者たちの決定的な甘さです。駒崎氏は「少なくとも、僕は今ベストを尽くしたいと思います」などとしています(キメ台詞のつもり?)。こんなのがベストだと思っているとは、おめでたい話です。

■逃げるしかない
このパラグラフは、10月11日づけ「長谷川秀夫教授はワタミと同じレベルの「急進左翼」――「時代」ではなく「その人自身」」と重なりますが、再論します。

前掲産経新聞記事にもあるように、電通の「社風」は、健全な労働環境からは程遠いものであると思われます。労基署でさえ苦労するであろう職場環境は、一社員がどうにかできるものではないでしょう。また、仮に労基署が動いたり、職場環境改善が動き始めたとしても、実際に改善されるには尚も時間が掛かります。しかし、ギリギリの状態で働いている生身の人間は、一分一秒を争っています

イジメ問題を巡って以前から述べてきたように、「逃げる」しかありません。「逃げる」ことは、先に「独占市場の基本原理」に触れた上で経済学的に考察したように、有力な手段でもあります。

もちろん、過労でうつ状態になっている労働者に自発的な「逃げ」を期待するのは非現実的です。チュチェ104(2015)年10月15日づけ「周囲の助けを借りつつ「嫌だから辞める」「無理だから辞める」べき」において、365日連続勤務でうつ病を発症した男性の「だんだん、考える時間もなく精神的におかしくなっていったのかなと思う」という発言を引用した上で、私は労働問題専門弁護士や労働組合による「脱出援護」を提唱しましたが、これは重要でしょう。

■最後に
一人ひとりの労働者の自主化を断固として掲げ、市場メカニズムを活用しつつ、ブラック企業を市場淘汰という形で「粛清」すべきです。ありもしない企業側の「改心」に期待することは、利己主義者の「愛」に期待するブルジョア博愛主義です。
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2016年10月11日

長谷川秀夫教授はワタミと同じレベルの「急進左翼」――「時代」ではなく「その人自身」

言いたいことは分かりますし、私も過労経験者――あれも人生の1ページでした――ですが、こんなことは絶対言いませんし、他人に要求しませんよ。むしろ「帰宅催促屋」でしたから。以下で述べます。
http://www.itmedia.co.jp/business/articles/1610/11/news044.html
>> 2016年10月11日 08時00分 更新

スピン経済の歩き方:
電通や東芝といった大企業が、「軍隊化」してしまうワケ

 10月7日、電通の新入社員の女性が「過労自殺」だったとして労災認定された。また、政府はこの日の閣議で「過労死等防止対策白書(2016年版)」を決定、これを受けて「残業100時間くらいで自殺なんて情けない」とコメントし、批判に晒(さら)されていた武蔵野大学の長谷川秀夫教授が自身のFacebookに謝罪文を出した。

 「不快な思いをさせてしまい申しわけございません」というお詫びの言葉の後、今回の問題の根幹をなす一文があったので引用させていただこう。

 『とてもつらい長時間労働を乗り切らないと、会社が危なくなる自分の過去の経験のみで判断し、今の時代にその働き方が今の時代に適合かの考慮が欠けていました』(長谷川教授のFacebookより)

 既に話題となっているように、長谷川教授は、MBAホルダーのビジネスエリート。東芝で23年間、経理一筋で勤め上げた後、コーエーのCFO(最高財務責任者)にヘッドハンティングされ、ニトリの取締役も歴任した「プロのCFO」(日経金融新聞 2003年9月29日)として知られている。ご自身が語る「とてもつらい長時間労働の経験」というのは、おそらく東芝時代のことだろう。

 『米商務省による二度の反ダンピング訴訟では調査・資料作成を担当して勝訴に貢献、米国の赤字子会社に上級副社長兼CFOとして赴任した際は一年で黒字化させた実績もある。プロとしての自負は強い』(同上)

 こういう会社員人生を歩んできた人が、「1日20時間とか会社にいるともはや何のために生きているのか分からなくなって笑けてくるな」(女性社員のツイート)というSOSを目にしても、単にプロ意識が欠如した「甘え」にしか映らない。「これだから最近の若いのは」というオジさん世代の憤りが、死者にムチ打つ「失言」につながった、というのは容易に想像できよう。

 ただ、一方で、長谷川教授のように「大企業の社員として成功したオジさん」が、こういう思想に執着していることこそが、今回の女性社員のような「犠牲者」を生み出す原因になっている、という現実も忘れてはいけな 長谷川教授の主張の根っこにある考え方というのは、分かりやすく言えばこうなる。

 「我々も若いときは長時間労働やらきつい目にあってきたんだから、今の若い人たちもちょっとくらいの辛さで泣き言を言うな」

 これは特にユニークな考えではなく、企業の中で長く生きてきた上の世代からすれば、「常識」ともいうか、かなりベーシックな仕事に対する考え方だ。「辛い体験」を経て成功をした企業人は、若い世代にも自分と同じような体験が必要だという考えにとりつかれる。だから、そこから逃げ出す若者は、「情けない」となる。

 このような「オレができたことをお前ら若い連中はなぜできぬ」的思想が、特に際立って強い企業が、新入社員に富士山登頂をさせるなどコテコテの体育会系文化をもつ電通だ。


(中略)

 では、なぜ電通や東芝という立派な大企業に、在籍する人たちがそろいもそろって、こういうハラスメントにつながる思想に囚(とら)われてしまうのか。

 いろいろな意見があるだろうが、個人的には、大企業に限らず、日本の組織の多くが、戦時体制下の組織を引きずっているからではないかと思っている。


(中略)

 このように日本社会全体が、戦時体制を引きずる中で、年功序列という組織に入った年次を基にした人事制度、上官の命令は絶対服従、所属組織への強い忠誠心、など旧日本軍の組織文化が、日本企業に引き継がれていったのは決して偶然ではない。「企業戦士」になんの疑問も抱かせず、「経済戦争」に没頭させるには、「軍隊」という戦争のための組織をモデルにするのが、最も理にかなっているからだ。

(以下略) <<
■「時代」ではなく「その人自身」
大炎上して慌てて「今の時代にその働き方が今の時代に適合かの考慮が欠けていました」などと弁解していますが、あいかわらずコトの本質が分かっていない点、本当の反省ではありません。問題はその働き方が今の時代に適合か」ではなく、「自殺した彼女に適合した働き方」なのです。

かつて、大阪市立桜宮高校バスケ部での自殺事件(これも体育会系ですね)に関連して私は、以下のように述べました。チュチェ102(2013)年2月14日づけ「受け手次第」から再掲します。
>> 誤解を恐れずに言えば、たしかに「特殊」だったかもしれません。なぜならば、ああいうシゴキは日本中、津々浦々で長年行われてきましたが、だからといってシゴキを受けた生徒がガンガン自殺していたかといえば、決してそんなことはなかったからです。人ひとりの死を「統計数値」として見ることに対して批判的な方も多いかと思いますが、やはり、そういわざるを得ないことも事実です。

しかし、ここで重要なのは、「深刻さの度合いは『受け手』次第である」ということです。本件における元教諭擁護者において決定的に欠如しているのは、そこでしょう。たしかに、「世間平均」からみれば「特殊」かもしれませんが、こういう問題は本質的に「深刻さの度合いは『受け手』次第である」なわけです。「ヤワすぎる」とかいったとしても、そもそもそんな主張は無意味なのです。

もちろん「スポーツマンたるもの、あの程度で音を上げるようではダメだ。もっと根性をすえるべきだ」というのは、まあそれもそれで一つの意見、理想像かもしれません。しかし、あなたの理想像だけで物事を語られてしまっては困ります。「現実がオカシイんだ、理想社会に向けて革命だ!」といって、急進的に社会を改造しようとして大失敗した「共産主義の思考・方法」となんら変わるところがありません。

もし、「スポーツマンたるもの、あの程度で音を上げるようではダメだ。もっと根性をすえるべきだ」というのであれば、それ自体は結構ですから、せめて現実、スタートラインを見据えてください。その上で、理想を実現するための方法を考えてください。「現実がオカシイ!」というのは、そうかもしれません。しかし、良くも悪くもそれが「現実」なんです。
<<
自殺問題は、「あなたがそうだからといって、他人が同じように感じるとは限らない」という厳然たる現実に立つべきです。個人によって脳回路が異なるのですから、客観世界からの刺激への反応は、ひとそれぞれです。「あんな程度で・・・」と言ったところで、受け止め方はその人次第なのだから、「あるべき」論を押し付けてはならないのです。

また、「時代」などという言葉で生身の人間を一括してサンプリングし、それを基準として個々人を論じることも「同じ穴の狢」です。「あるべき論」も「サンプルからの演繹」も、一人ひとりの現実に目を向けているわけではありません

これら、「一人ひとりのリアルを見つめるのではなく、生身の人間を一括してサンプリングし、そこに理想至上主義を付加する思考」は、結局のところ、20世紀を通じてその誤りが徹底的に暴露されつくした「急進左翼」の考え方そのものです。急進左翼政権は、失政があったとしても「あるべき」論の押し付けで生身の人間の犠牲など意にも介しません。急進左翼政権の計画経済は「統計」を元に需給を計算したものの、一人ひとりの消費者の細かいニーズには、ついに応えられませんでした。

レッテル貼りはしたくありませんが、こういわざるを得ないのです。「日本軍体質」すなわち「精神主義」などという甘っちょろいものではありません。

オヤジが「オレの若い頃は〜」などというのがバカ丸出しなのは勿論、「ジェネレーションギャップ」などと総括するのも同じくらいのバカ丸出しっぷりなのです。大切なのは、「時代」ではなく、「その人自身」なのです。

■その人自身に合わせた漸進主義は「甘やかし」でも「現実迎合」でもない
このように主張すると必ず「甘やかすことに繋がるのではないか」という懸念が表明されます。あるいは、「理想を捨てて現実に迎合する思想」という批判もあるでしょう。そうした主張と私の立場は決定的に異なります。一言で言えば、私の立場は「漸進主義」です(以前から述べているように、左翼・共産党対策部署の経験が私にはありますが、この論点は本当によく話題になりました)。

「一人ひとりに合わせる」ことと「甘やかすこと」は決定的に異なります。甘やかすことは、「現状のままでいいよ」ということであり、「停滞のススメ」です。私の立場は漸進主義、すなわち、スピードはさておき、進み続けることが大前提です。「歩きたくないよー」は原則として許しません

「理想を掲げること」と「急進主義」は全く異なります。遠大な理想を掲げつつも、足元を漸進的に固めてゆくのです。現実を無視した急スピードは単なる空想論・観念論です。

漸進主義は「現実主義的進歩主義」なのです。

■周囲の人間による配慮の必要性
「子どもじゃないんだから人事部がそこまでしてやる必要はない」という声もあるかもしれません。東芝うつ裁判の判例がそうした言説を粉砕していますが、判例を引き出すまでもなく「適材適所に配置しないと、従業員にも企業利益にもマイナスで誰も得をしない」のです。

また、外見的には「子どもじゃない」のかもしれませんが、過労による判断力の低下を見逃すことは出来ないでしょう。チュチェ104(2015)年10月15日づけ「周囲の助けを借りつつ「嫌だから辞める」「無理だから辞める」べき」において、365日連続勤務でうつ病を発症した男性の「だんだん、考える時間もなく精神的におかしくなっていったのかなと思う」という発言を引用した上で、私は労働問題専門弁護士や労働組合による「脱出援護」を提唱しましたが、人事部以外にも弁護士や労組によるサポートというアプローチもあるでしょう。

「各部署にそんな悠長な教育をやっている余裕はない」はないという指摘もあるでしょう。そうであるならば、「担当から外す」までです。何のための人事権なのでしょうか?繰り返しになりますが、「適材適所に配置しないと、従業員にも企業利益にもマイナスで誰も得をしない」のです。

■配慮のための視点
こうした配慮――反急進の漸進主義のサポート――を組織生活において実践するためには、どういった視点が必要でしょうか? 最後に二つの過去ログの再掲します。

チュチェ102(2013)年6月3日「ワタミは「ブラック」というより「急進左翼」」で私は次のように述べました。
>> 翻って渡邉美樹氏はどうか。「『無理』というのはですね、嘘吐きの言葉なんです」というのは立派な哲学ですし、おそらく渡邉氏ご自身は、大抵のことは意志の力で乗り越えることのできる超人なんでしょう。しかし、残念ながら部下はそうではない。ワタミという企業のチュチェは誰なのか。渡邉氏が何から何まで一人で成し遂げる個人経営の居酒屋なら、「大将の哲学」ということでいいでしょう。しかし、ワタミのような巨大企業になれば、そのチュチェは、(朝鮮革命のチュチェが「首領・党・人民大衆の統一体」であるように)「渡邉氏・幹部社員・一般社員の統一体」です。決して「超人;渡邉美樹」の事情だけでは済まないのです。 <<
チュチェ102(2013)年2月14日づけ「受け手次第
>> その点では、「指導か暴力かの基準づくり」というのも、少し危ない考えかもしれません。おそらくそれは、何らかの「世間平均」の設定になることでしょう。しかし、繰り返すように、そもそもこの問題は画一的にどうこうすべき問題ではないのです。画一的な基準を設定している限り、「世間平均」からの「外れ値」が問題になる可能性はあり続けるでしょうね。 <<

「一人ひとり差異がある生身の人間」という現実をあるがままに捉え、それを基盤に「現実的なスピード」で「あるべき形」を目指すべきです。これが私の言う漸進主義であり、これこそが現実主義であると自負しています。これに外れる「急進主義」や「あるべき論」は、急進左翼に転落することでしょう。
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2016年10月10日

秋山木工の徒弟制度――言いたいことは分かるが洗練されていない

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161010-00000007-pseven-bus_all
>> 徒弟制度続ける企業 携帯メール禁止、恋愛発覚で即刻クビ

NEWS ポストセブン 10月10日(月)7時0分配信

 最近の企業では厳しい勤務環境となると、すぐに「ブラック」の誹りを受けがちだ。その風潮に真っ向から抗うように、古くからの「徒弟制度」を続けている企業がある。一流の職人を育てるその企業にライター・池田道大氏が迫った。


(中略)

 厳しい指導で知られる秋山木工の秋山利輝社長は、「最近は海外からの注目度が高い」と自信を見せる。

「社員1万人という中国企業の社長が、『カネは儲かるが従業員の育て方がわからない』と見学に来ます。ウチは日本一厳しい会社と言われるけど、僕は日本一優しいと思っている。自分は年に一日も休まず、弟子に付き添っていますよ。“ブラック企業”などと言いたい人は言えばいいけど、弟子をスターにしたい思いは、僕に勝てるはずがない」


 秋山木工では、1年間の「丁稚見習いコース」を終えると丁稚として正式採用される。入社した丁稚を待つのは過酷な修業の日々だ。

 全寮制で、朝5時に起床して朝食を作り、近所を1.5km走る。好き嫌い厳禁の朝食後は工場や近所を掃除し、8時の朝礼で冒頭の「職人心得30箇条」を全員で唱和して仕事が始まる。

 丁稚の主な業務は荷物運びや工場の掃除だ。職人の手助けをしながら、仕事の段取りや技術を目で学ぶ。仕事が終わると夕食を作り、夕食後はレポート作成や自主練習に励み、23時にようやく就寝。休日はなく、修業から解放されるのは盆と正月の10日間のみだ。秋山社長は、「心が一流になれば、必ず技術も一流になる」と断言する。

「厳しくするのは、一流としての基礎づくりに集中するためです。一流の職人になるには“一生懸命”や“頑張る”というレベルでは足りず、“本気”で取り組む必要がある。技術は練習すれば誰でもできるようになるけど、人を思いやり、感謝する心は直に教えないと学べない。心を磨くには徒弟制度が一番なんです」


(以下略) <<
この会社、数年間隔で取り上げられる、この道の「老舗」です。

この会社の問題点は、コメ欄に寄せられた以下のコメントが端的だと思うので、引用しましょう。
>> >だからどこが違法なんだ?
丁稚も労働者の範疇だから、労働基準法の範囲内から外れる
・労働時間
・賃金
・休暇
などを満たせてない時点でダメ。丁稚が労働でないとの言い訳も残念ながら成り立たず、労働基準法ができたいきさつというのは、こういった旧態依然とした職人の徒弟制度、強制労働、賃金の途中搾取、丁稚奉公制度をなくすための。

普通にアウト。丁稚側が違反内容を明確にして、労基に行けば、経営者はお叱りをうける。労基側はすすんで調べはしない。
<<

■「一流への育成」を装った奴隷的使役の温床になる以上は、社会的には容認できない――もっとスマートに一流になれ!
他方、秋山社長の「一流になるため」論は、一定範囲で正しさがあるとも思います。どんな業界であっても、一流と呼ばれるためには、人の上に立つためには、「休日返上」の尋常ならざる努力が必要だというのは、間違いないことなのです。「心が一流になれば、必ず技術も一流になる」という秋山社長の発言は、私も同感です。やはり、「働く」って大変なことなんですよ。

しかし、そういった「事実」と「職場での上下関係」をいいことに、「一流への育成」を装った奴隷的使役が行われる構造的な恐れがある以上は、社会としてこれを認めるわけにはいきません。記事でも紹介されているように、秋山社長はひたすらに弟子たちが一流になれるよう、ご自身も邁進しておられることと思います。しかし、世の中には悪い奴がおり、そういった連中の手口と秋山社長の方法論との線引きは困難です。「秋山式育成法」の社会的効用と「職人育成を装った奴隷労働」の社会的不効用を比べたとき、後者が著しく大きい以上は、これを認めるわけにはいかないのです。

擁護論者は実に視野が狭い! 秋山木工のケースは「善意の親方」なので大丈夫だとしても、悪い奴は悪知恵がよく働くのです。リーダーの「善意」に依存する制度は制度として不適当、認めるわけにはいきません(関連して。日本共産党員諸君! 「レーニンは良かったがスターリンはダメ」って、「社会主義制度はリーダーによって天国にも地獄にもなる欠陥制度」と言っているのと同じだぞ!)。

「尋常ならざる努力」と「労働法の要求」を両立するため、世間一般の意欲ある労働者は「自己啓発」という形で、休日は職場の人間関係とは離れて自主的に研鑽を重ねています(私の職場にも「彼/彼女には敵わないなー」と言わざるを得ないくらいに効率的な仕事をする「期待の星」はいますが、そういうのは別として、凡庸な人間が週休2日のうち本当に2日間まるまる遊びほうけていたら、一流にはなれないと私も思いますよ)。そして、そうした自己啓発・自発的研鑽の積み重ねが次第に実力という形で結実してゆき、評価査定を通じて名実ともに一流になってゆくのです。上司の側も、口にはしないもののそれを期待しているものです。明確に要求しないからこそ、自発性や本気度も測り易く、効率的に「ふるい」に掛けることができます。

そういうスマートな方法で一流を目指せばいいものを、どうして世論の非難を浴び、労働法制を無視するような「バカ正直」な方法を秋山木工はとるのでしょうか? こうした「感性のズレ」は、秋山木工の組織内慣習に疑念を抱かせます

■規制しても密室化・地下化するだけ――どうやれば労働者を守れるか
これだけブラック企業問題が大きくクローズアップされている時代においても、時代錯誤的な「徒弟制度」を維持している事実を鑑みたとき、秋山木工関係者たちは「自分たちは正しい」と思い込んでいることでしょう。記事でも「“ブラック企業”などと言いたい人は言えばいい」などと、社会の風潮は一応はキャッチした上で、それでも堂々としています。

いま、秋山木工の公式ページが503エラーを起こしています。炎上しているんでしょうか? 仮に、ここで抗議メールを殺到させ、世論を盛り上げ、更に労基署の臨検が入ったとしましょう。おそらく、秋山木工の「徒弟制度」は密室化・地下化するだけでしょう。社長自身が体験した「徒弟制度」をそのまま自社の研修に取り入れ、それについて行ける人たちだけが弟子として集っているのが秋山木工なのですから、ある意味、需給は一致しています。「以後の取材はすべてお断り」「関係者には緘口令」による密室化・地下化で、以後もコッソリと「徒弟制度」を維持させてゆくことでしょう

労基署は警察です。犯罪は「パトロール」だけでは摘発し切れません。「被害者の被害届提出」や「地域住民の協力」が不可欠です。しかし、密室化・地下化してしまえば、「被害届」は出ず「協力」もありません。これでは検挙は不可能です。

密室化・地下化した組織は大抵、カルト化してゆきます。前述の「感性のズレ」は、その萌芽であるとも評価できるでしょう。遅かれ早かれ、何らかの悲劇が起こりかねません。それは何としてでも防ぎたいものですが、どうすればよいでしょうか?

3年前、学校教育現場での体罰やいじめ、そしてそれを苦にした学生の自殺事件が日本中を揺るがせていたとき、私は「退路の確保こそが大切」と述べました。学校教育現場というのは一種の密室であり、強い同調圧力があります。ムラ社会です。そうした環境に順応できない学生が自分自身を守るためには、脱出するほかありません。

チュチェ102(2013)年3月26日づけ「庭師のように」において私は以下のように述べました。
http://rsmp.seesaa.net/article/351906692.html
>> (前略)間違えて「魔境」に入り込まないように正確な情報を広報すること(「この学校ではシゴキ・シバキが横行していて、それに耐えられない人にはお勧めできない」など)や、一度は方法に賛同して「参入」したものの、やっぱり「退出」したい人と思った人がスムーズに「退出」できるようにすることといった「人為的」な「手入れ」は不可欠(以下略) <<
社会通念的でない秋山木工の考え方に共感する人を「思想改造」することは現実として困難です。引き止め切ることはできないでしょう。であれば、上述のような「事後の善処」を整備することのほうが現実的でしょう。

退路を十分に確保しておき、時代の流れに任せるほかないでしょう。参入と退出が実質的に自由に行われる環境を整備し、長期的な自然淘汰を待つほかありません。もちろんケインズが指摘したように、「長期的には我々は皆死んでいる」のですから、労基署の手入れや世論喚起も怠るべきではありません。また、精神的に追い詰められたがための判断力の低下というケースも無視できないでしょう。チュチェ104(2015)年10月15日づけ「周囲の助けを借りつつ「嫌だから辞める」「無理だから辞める」べき」において、365日連続勤務でうつ病を発症した男性の「だんだん、考える時間もなく精神的におかしくなっていったのかなと思う」という発言を引用した上で、私は労働問題専門弁護士や労働組合による「脱出援護」を提唱しました。退出を援護する手厚い体制も不可欠です。しかし、最終的な根絶は、やはり「時代の流れ」なのです。

更に言えば、「ワタミ」や「すき家」でのブラック労働に大きな転換を迫ったのは、求職応募者の減少=労働市場からの自然淘汰の傾向が見えはじめたことに対する企業側の危機感でした。「時代の流れ」は、短い時間軸においても作用することが既に知られています。労基署の手入れ(一律的な法規制の活用)、世論喚起(要求活動)、退路を十分に確保することによる自然淘汰(辞める)、これらをトータルに活用すべきでしょう

■再生産の恐れ――「組織の主体は誰なのか」という観点
秋山木工の独特の「徒弟制度」は、秋山社長自身の体験に基づくものです。つまり、これは「再生産品」です。秋山木工で修行した「将来の親方」が、この方法論を更に再生産する恐れについて考えてみましょう。

秋山社長は、「技術は練習すれば誰でもできるようになるけど、人を思いやり、感謝する心は直に教えないと学べない」などとし、「人を思いやり、感謝する心」を強調しています。ワタミの渡邉氏も同じことを連呼していました。そして、従業員が死にました。内実が問題です。

ワタミの方法論について、かつて私は以下のように述べました。チュチェ102(2013)年6月3日づけ「ワタミは「ブラック」というより「急進左翼」」より再掲します。
>> 翻って渡邉美樹氏はどうか。「『無理』というのはですね、嘘吐きの言葉なんです」というのは立派な哲学ですし、おそらく渡邉氏ご自身は、大抵のことは意志の力で乗り越えることのできる超人なんでしょう。しかし、残念ながら部下はそうではない。ワタミという企業の主体は誰なのか。渡邉氏が何から何まで一人で成し遂げる個人経営の居酒屋なら、「大将の哲学」ということでいいでしょう。しかし、ワタミのような巨大企業になれば、その主体は、(朝鮮革命のチュチェが「首領・党・人民大衆の統一体」であるように)「渡邉氏・幹部社員・一般社員の統一体」です。決して「超人;渡邉美樹」の事情だけでは済まないのです。 <<

秋山木工の関係者が独特の「徒弟制度」を維持しているという事実を、部外者が完全に根絶させ、かつ、彼らに「思想改造」を行うことは現実的に困難です。心変わりした労働者・如何見ても無理そう労働者が安全かつ迅速に脱出できる退路を確保し、手厚い脱出援護体制を確立した後は、定期的な手入れをしつつも、一種の「隔離状態」にし、自然淘汰を待つほかないでしょう。

しかし、せめて関係者各位におかれては、いまはまだ大丈夫であっても、ゆめゆめご自分の「あるべき論」ばかりを振りかざさないようにしていただきたいと願うのであります(記事では「あるべき論」が前面に出過ぎているので心配です)。そうした無茶な押し付けは、自然淘汰を自ら促進することにもなり、自分自身の首を絞めることにもなるでしょう
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2016年10月07日

相変わらず「死刑を求めない遺族」の存在を無視する「あすの会」――団体が「あるべき遺族」の規定に繋がる発言をすべきではない

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161007-00000502-san-soci
>> 「殺したがるばかどもと戦って」 瀬戸内寂聴さん発言に犯罪被害者ら反発

産経新聞 10月7日(金)9時27分配信

 日本弁護士連合会(日弁連)が6日、福井市内で開催した死刑制度に関するシンポジウムに、作家で僧侶の瀬戸内寂聴さん(94)がビデオメッセージを寄せ、死刑制度を批判したうえで「殺したがるばかどもと戦ってください」と発言した。会場には全国犯罪被害者の会(あすの会)のメンバーや支援する弁護士らもおり、「被害者の気持ちを踏みにじる言葉だ」と反発した。


(中略)

 この中で瀬戸内さんは「人間が人間の罪を決めることは難しい。日本が(死刑制度を)まだ続けていることは恥ずかしい」と指摘。「人間が人間を殺すことは一番野蛮なこと。みなさん頑張って『殺さない』ってことを大きな声で唱えてください。そして、殺したがるばかどもと戦ってください」と述べた。

 瀬戸内さんの発言について、あすの会顧問の岡村勲弁護士は「被害者はみんな加害者に命をもって償ってもらいたいと思っている。そのどこが悪いのか。ばか呼ばわりされるいわれはない」と話した。

最終更新:10月7日(金)18時51分
<<
■なぜ、このタイミングで寂聴さんの発言だけを狙い撃ちに?
寂聴さん発言。宗教関係者なんて、表現の差こそあれ、昔から多くの面々が似たようなことを言ってきたものです(当否の議論はここではしません)。なぜ、このタイミングで寂聴さんの発言だけを狙い撃ちにしたのでしょうか? 

「宗教関係者なら何を言ってもよい」と言いたいのではありません。「宗教関係者の発言に噛み付いたところで意味などない」のです。また、「ばかども」という寂聴さんの表現は、作家にしては低レベルすぎて相手にすることこそ「ばか」でしょう。会としてやることがないのでしょうか? あるいは、寂聴さん批判の衣をした日弁連批判でしょうか?

最近は「あすの会」としての活動はあまり聞かなくなり、わずかに高橋シズヱさんのアクションが報道されましたが、会としてのものではないようでしたし、率直に言って、いままでの「あすの会」の論調とは少し異なるものでした(本年9月20日づけ「犯罪被害者遺族と確定死刑囚との出会いの場――高橋シズヱさんと原田正治氏・河野義行氏が「一点で一致」した日」)。どちらかというと、後述する"Ocean"(「あすの会」にとっては「目の上のたんこぶ」でしょう)の言説にも近いものがあります。

■相変わらず「死刑を求めない遺族」の存在を無視する「あすの会」
また、岡村弁護士は「被害者はみんな加害者に命をもって償ってもらいたいと思っている」とします。相変わらずの構図の主張です。

8年前、朝日新聞夕刊コラムに「あすの会」が噛み付いたのと同じ時期、「Ocean 被害者と加害者の出会いを考える会」という死刑制度に反対の立場を取る犯罪被害者団体が、「確定死刑囚の一日も早い死刑執行を待ち望んできた犯罪被害者遺族」という「あすの会」が描く構図への明確な反対を表明する文書を発表しました。
・旧ブログにて保管している文書現物をスキャンしたものはこちら。「あすの会」が描く構図に反対し、"Ocean"の原点を明確にしています。
・上掲文書にて紹介されている講演会の記録はチュチェ97(2008)年8月6日づけ「「Ocean」設立1周年集会報告(1)

世界的に見ても、「被害者はみんな加害者に命をもって償ってもらいたいと思っている」わけではないのです。もちろん、「死刑を求める遺族」と「死刑を求めない遺族」のどちらが正しくてどちらが正しくないという問題でもありません。岡村弁護士は、長く「あすの会」で活動されている(きっかけは大変不幸だったと思います)のですから、"Ocean"や原田正治氏、河野義行氏の主張をご存じないはずはないでしょう。にもかかわらず、こうした構図を相変わらず描き続けておられます。

■一人ひとりの遺族の思いが団体を作っているのではないのか。団体が「あるべき遺族」を規定するべきなのか。
「あすの会」の立場としては、"Ocean"のような団体、原田正治氏や河野義行氏は「目の上のたんこぶ」のような存在でしょう。事実、彼らに対して「あんなこと言う奴らは、本当に家族を愛していたのか?」などと失礼千万なコメントを寄せる輩も居ます。しかし、チュチェ97(2008)年8月2日づけ「朝日は尚も「被害者」「被害者遺族」のことを考えてはいない」においても、事なかれ主義的な朝日新聞編集部に対する批判という形で書いたように、死刑を求めない被害者遺族がたとえ一人でもいる限り、「被害者はみんな加害者に命をもって償ってもらいたいと思っている」という構図を描いて主張しまわるべきではないのです。

換言すれば、仮に「わたしたちと行動を共にする被害者は加害者に命をもって償ってもらいたいと思っている」であったのならば、あくまで「自分と同志」のことを言っているのでよい表現ですが、「被害者はみんな加害者に命をもって償ってもらいたいと思っている」では、「そうは考えない被害者」の思いを踏みにじることになるのです。

一人ひとりの遺族の思いが団体を作っているのに、その団体が「あるべき遺族」を規定するが如き構図を描くことは、結局、真に一人ひとりの遺族のための活動ではなくなってしまうことでしょう。概念の一人歩き、概念による人間自身の疎外です。

■最後に
こういう記事を書くと脊髄反射的な反応を見せる人がいるので、念のため。以前から立場を鮮明にしているように、私は「死刑を求める遺族」になる自信があります。原田正治氏や河野義行氏のお考えの境地に至ることは、私には難しいものの、その立場・主張を否定するつもりは毛頭もありません。そして、原田正治氏や河野義行氏のような方々がいらっしゃるにもかかわらず、団体が「あるべき遺族」を規定するが如き構図を描くことには反対です。

関連記事
・チュチェ106(2017)年8月7日づけ「「犯罪の加害者と被害者との対話」を目指す運動の再興期
・チュチェ105(2016)年9月20日づけ「犯罪被害者遺族と確定死刑囚との出会いの場――高橋シズヱさんと原田正治氏・河野義行氏が「一点で一致」した日
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2016年10月03日

コミュニティ・同業者ギルドではなくアソシエーションで相互に牽制しあう関係性へ

(チュチェ105(2016)年10月4日 20:40に加筆しました)
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20160929-00000104-jnn-pol
>> 小泉進次郎氏「それ違う!」 JA全農幹部を厳しく批判

TBS系(JNN) 9月29日(木)19時50分配信
 自民党の小泉農林部会長がJA全農の幹部を批判しました。そのワケは全農が農家から取る「手数料」のあり方でした。

 自民党の農業改革会合。この席で、小泉農林部会長とJA全農幹部との間で激しい応酬がありました。そのワケは、農家が農作物を出荷する際に負担する「手数料」。全農の大きな収入源となっています。削減を求める小泉氏に対し、全農幹部は「従業員を養う財源だから簡単に切るのは賛成できない」と述べたのです。

 それに対し小泉氏は・・・
 「じゃあ、いったい農家って農協職員を食わせるために農業やっているんですか。それ違うじゃないですか!」(自民党 小泉進次郎 農林部会長)

 JA全農幹部を批判した小泉氏。そのワケはJAに頼らず、農家の所得拡大を目指す小泉氏の姿勢があります。


(以下略) <<
■飛んで火に入る夏の虫
手数料を巡る全農幹部発言。いかにも言いそうなことを本当に言ってくれましたwバカだねえ。

手数料は「従業員を養う財源」である以前に、農協が農家に対して提供する諸サービスの対価です。農協だって商売なのですから、それが大前提です。

農協の存在意義が根本から問い直されている昨今において、自己都合を優先して言及してしまうあたり、危機感のなさが滲み出ています。

■相互に対等でない関係性が人間を尊大にさせる
なぜ、「手数料収入はサービス提供との交換の対価である」という字義通りの大前提(普通の商売であれば忘れるはずのない基本です)を二義的に位置づけてしまうのでしょうか? 「商売はお互い様」という市場哲学を忘れたのではないかとすら思わせるようなバカ発言をしてしまうのでしょうか?

一つに、「農協と農家の関係性が、相互に対等な関係にないから」と言うことが挙げられるでしょう。特に「全農幹部」くらいご出世なさると、地域コミュニティ・同業者ギルドのなかでも、自分は特にピラミッド型組織の上位に居ると思い込んで尊大になり、ゆえに自己都合優先で物事を考えてしまうのでしょう。後述するように、地域コミュニティ・同業者ギルドは単一化・ピラミッド化し易いので、業界団体の幹部は、こんな意識になりやすいと思われます。そうした業界団体幹部から「センセイ」と呼ばれてチヤホヤされている「地方議会のドン」が、何処の誰とは言いませんが、首都を筆頭に全国各地で尊大な素振りを見せている所からも、推して知ることが出来ます。

「相互に対等な関係にない」という点では、独占企業もそういえるでしょう。たしかに、町工場を従えている大企業・巨大工場も尊大な振る舞いです。

ここで重要なのは、大企業−町工場のような名実ともに強固なピラミッド型組織に限らず、ある種の「思い込み」のレベルであっても、自称上位者は尊大な振る舞いを行うようになることです。傍から見れば裸の王様のようですけど。農協の統制力は実際には地域にもよるでしょうが、幹部連中たちが「貴族気分」であれば、実態はそれほど伴っていなくとも、こういうバカ発言が飛び出してくるものです。

■相互に牽制しあう関係性へ
一人では大将になれないのと同様、ピラミッド型の組織と化したコミュニティや同業者ギルドであっても、組織である以上は、相互作用・渾然一体の関係性、システムの関係性にあります。では、相互作用・渾然一体、システムの関係性であることを思い起こさせるためには、どうすればよいのでしょうか?

なによりも、相互に牽制しあう関係性を作ることであります。その有力な代表的方法こそが競争的市場ですが、必ずしも競争的市場化だけが唯一の解決策というわけではありません。市場の諸機能の中でも相互牽制という要素が必要であり、そしてそれは市場しか持ち合わせていないというわけではないからです。市場化には確かに副作用がありますが、それを恐れるあまり守旧的になる必要などないのです。

■コミュニティ・同業者ギルドではなくアソシエーションで
ここにおいて、一つの案として、コミュニティ・同業者団体ではなくアソシエーションという方法論があると言えるかもしれません。地域の共通性を基盤としたコミュニティは、地理的要因などから単一組織化・地域独占化が起き易いと言えます。また、同業者ギルドも、業界単位での結成が前提である以上は、やはり単一化し易いと言えます。しかし、人間の関心・志の共通性を基盤とし、メンバーの離合が自由な関係性で結ばれたアソシエーションであれば、組織の多様化がより期待できるでしょう。これは、相互牽制的な人間関係の基盤になるでしょう。

現代日本では、コミュニティとアソシエーションの区別があまりついておらず、コミュニティ論には注目が集まるものの、アソシエーション論には注目が集まりにくいという事実があります。また、いまだに「業界別」という考え方が根強いものです(労組だって「産別」と言っているくらいですから!)。しかし、これらを区別し、アソシエーションを再検討すべきときが来ているのかも知れません。同業ギルドではなく、「同志ギルド」の時代が来ているのかも知れません。

ちなみに、「農業協同組合」は原義的にはアソシエーションですが、このザマを見せています。ムラの農業コミュニティ・地域独占体に成り下がっています。この「アソシエーションの再検討」は、「アソシエーションの再生」でもあるのです
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2016年10月01日

日本人の「現場の暴走」と「事なかれ主義的自粛」

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160930-00000086-san-soci
>> 豊洲空洞の責任者特定できず 都調査「職員の連携不足」

産経新聞 9月30日(金)7時55分配信

 築地市場(東京都中央区)の移転先となる豊洲市場(江東区)の主要施設下で盛り土が行われていなかった問題で、東京都が地下空洞の設置を決めた責任者を特定できなかったとする内部調査の結果をまとめたことが29日、都幹部への取材で分かった。


(中略)

 この検査結果の判明に先立ち、土壌汚染対策などを検証する都の「市場問題プロジェクトチーム」の初会合が29日、都庁で開かれた。

 委員の一人は「耐震性を改めて検討すべきだ」と指摘。1級建築士で建築会社代表の佐藤尚巳委員は、地下空洞の存在を周知していなかった点を問題視しつつ、「地下に空間があることで建物のメンテナンスができる。長寿命化のためには有効で、正しい選択だった」と述べた。

最終更新:9月30日(金)10時36分
<<
「技術的には正しいものの、行政組織としてはあってはならないプロセスだった」という方向で真相が明らかになりつつあります。「現場の知見・現場の判断」の重要性は、さまざまな場面で共通であることは確かです。しかし、印象論になってしまいますが、どうも日本人の「現場の知見・現場の判断」は、「現場の暴走」に繋がることが少なくないように思います。うまく収められればよいものの、満州事変・日中戦争のように破滅的な結果に至るリスクもあります。

佐藤委員の発言に対して、座長が「諌めた」そうです。
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20160929-00000079-jnn-soci
>> 豊洲新市場の地下水、環境基準上回るベンゼンとヒ素

TBS系(JNN) 9月29日(木)17時22分配信
 東京の豊洲新市場の地下水から環境基準をわずかに上回るベンゼンとヒ素が検出されたことが分かりました。


(中略)

 一方、都庁では豊洲新市場の問題についてプロジェクトチームの初会合が開かれました。会議では建築の専門家から新市場の地下に空間が出来ていたことは技術的に正しいという発言も出ました。

 「地下空間については、非常に正しい選択であったし、東京都の技術系の役人の方の名誉にかけて正しい選択だったと思う」(1級建築士 佐藤尚巳氏)

 ただ、この発言に対しては座長が「発言は慎重に」と、いさめる場面もありました。次回の会議では地下の空間を含めた施設の耐震性を再検証し、設計会社への聞き取りも行う予定です。盛り土問題の都の調査報告は、小池都知事が30日の定例会見で発表するとみられています。(29日23:22).

最終更新:9月30日(金)12時16分
<<
議事録をチェックしていないので、座長の発言の全体像までは把握できていないのですが、発言は慎重に」という発言こそ慎重にすべきでしょう。

「技術的には正しいものの、行政組織としてはあってはならないプロセスだった」と問題点を正しく洗い出した上で、その観点で諌めたのであれば正しい指摘だったでしょう。しかし、「発言は慎重に」などと、どういう観点から指摘しているのかが曖昧な形にしてしまうと、不必要に発言を萎縮させかねません。

日本人の自粛の文化は、社会生活上の相互尊重の技術としてスマートだと思います。諸外国のように、何でもかんでも議論を展開してシロクロつけることが必ずしも優れているとは言えないでしょう。しかし、問題点を曖昧にした状態での自粛、事なかれ主義的な自粛は、言論の萎縮になります

関連して。近頃、ヘイトウヨの桜井誠が本格的な議会政治活動の展開を試みています。それに対して、同じ土俵で取っ組み合いを繰り広げてきた、桜井と同じレベルのパヨク勢が、半ば嫌がらせのような方法論でメディア等に圧力を加える事案が散見されます。以前にも述べたように、ネトウヨもパヨクも等しく政権担当能力はなく、せいぜい現代版紅衛兵に過ぎないと思います。連中それ自体には、あいかわらずそれほどの危険性はないと思っていますが、他方で、現代版紅衛兵の大騒ぎを面倒くさがって、事なかれ主義的な自粛に走るメディア側の体質は、危険だなと思うのであります。
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