■「トランプ氏当選」に対するエリート主義者の偽りざるホンネ
「トランプ氏当選」の衝撃は日本国内を揺るがしています。驚きのあまり、Brexitのときと同様に、一種のレッテル貼りにも等しい、頭ごなし的かつ単一要素還元論的な構図を描いて理解しようとする動きが目立ちます。昨日づけ「
リベラルは金持ちの道楽――アメリカ大統領選を巡って」でも取り上げたとおりです。
そうした中、「
「トランプ支持者は理解できない」で終わり? メディアが見誤った彼らの感情」という記事が公開されました。一見して、頭ごなし的レッテル貼りとは異なる論考かと思いきや、昨日付け記事でご紹介した
田原総一朗氏の記事よりも酷いwしかしながら、
エリート主義者の偽りざるホンネがよく現れていると思われます。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161111-00010001-bfj-int&p=1>> 「トランプ支持者は理解できない」で終わり? メディアが見誤った彼らの感情
BuzzFeed Japan 11/11(金) 9:17配信
「なぜ、トランプ氏が支持されるのか。メディアがわかっていなかった。それ自体が、アメリカの『分断』です」。東京大学教授で、アメリカ研究を教える矢口祐人さんはこう指摘する。【BuzzFeed Japan / 石戸諭】
(中略)
「トランプ支持者」の視点からみることができなかった
(中略)
彼らのリアリティ「自分たちは虐げられている」
では、トランプ支持者からはどういうアメリカが見えているのか。矢口さんとともに、例えば、こんなストーリーを想像してみる。
白人しかいなかったある地方の街。そこで生まれ育った白人男性は、10年間まじめに働いたのに、一向に給料はあがらないし、周囲も含めて自分たちの生活がよくなったという感覚はないーーもっとも、彼らの収入はけっして低くはないのだが……ーー。それなのに、この間ヒスパニック系などのマイノリティは明らかに増えて、近くにも住むようになった。
都市部は潤っていて国の経済も好調だというのに、自分たちの街の産業は撤退し、恩恵からどこか取り残されている。それなのに、連邦政府はマイノリティのケアばかりを優先しているようにみえる。何かおかしくないか。政府はどうして彼らを優遇するのか……。
そこにトランプ氏の言葉が聞こえてくる。「メキシコからの移民は強姦犯で、アメリカ国民から仕事を奪っている」「アメリカを再び偉大にしよう」
「彼らの根底にあるのは、自分たちの生活を良くしてほしいという当たり前の感情です。自分たちの生活を大事にしている。ある意味では普通の市民だと思います」
「大事なのは、彼らの世界から見ると、移民やマイノリティは優遇されているのに、どこか自分たちは産業がなくなり取り残されている、という理屈が成り立つということです」
「インテリからすれば、 街の人口構成の変化と、産業の衰退は関係ないというでしょう。しかし、彼らは体感的に理解しているため、被害者意識が強くなる」
トランプ氏の移民排斥発言を本当に支持しているのだろうか。矢口さんは、彼らの多くは移民すべてに反対するわけではなく、連邦政府が不法移民に甘過ぎると感じている、と指摘する。
なにより大事なのは彼らの感情は、自分たちの生活向上にあり、自分たちが虐げられている体制を打破してほしいという思いにあるのだ、と。
それはサンダース現象と共通している
自分たちは被害者であり、既得権益を破壊して欲しい。トランプは愚かな面があるかもしれないが、プロの政治家で、既得権益の中にいるヒラリー・クリントンよりマシではないか。そして、彼女よりずっと信頼できるのではないか。
そんな、自分たちの思いを都市に住む人たち、メディアやインテリは誰もわかっていない。
こうした感情を持っているのは、果たしてトランプ支持層だけだろうか。具体的な主張も、政治的立場も真逆だが、バーニー・サンダース氏の躍進ともつながっているとみる。
「表面的な主張は真逆ですが、サンダース氏も反グローバル化、反エリート、反エスタブリッシュメント(既存体制)。既存体制を打破しようというところは、共通しています」
(中略)
トランプは反知性主義?
反エリート、反既得権益。想起するのはアメリカに流れる「反知性主義」という価値観だ。それを簡単にまとめるとこうなる。
立派な勉強を積んだ人が偉いのではない。彼らエリートは、時として、普通の人たちの、上からお説教を垂れる。エリートは、ろくに知りもしないのに、普通の人たちの考えを十分に尊重しない。普通の人たちだって、知恵はあるし、日々の生活で培った知恵はエリートの座学に勝る。エリートに支配されるくらいなら、普通の人が関わったほうがいいではないか。
トランプ氏はアメリカに流れる「反知性」の流れに乗ったのか。
「クリントン=プロの政治家、トランプ=政治の素人という構図を描き、反知性主義の最良の部分を装った、とはいえるでしょう」
(以下略) <<
はじめのほうこそ「
「トランプ支持者」の視点からみることができなかった」というものの、それ以降の
矢口教授の分析は、まさしく「経済要素還元主義」。昨日付け記事でもご紹介した「
トランプ旋風でわかった“インテリの苦悩” ハーバードの学生がトランプ支持を表明できない事情」や「
1年前に直感 木村太郎氏「トランプ大統領誕生」なぜ予言できたのか」、そして本日新たに公開された「
日本人が知らない「トランプ支持者」の正体」で分析されている
多層的・多元的分析に比べて、あまりにも貧弱な分析です。
※注1:昨日・
一昨日の記事の繰り返しになりますが、私は「政治・経済・思想文化のアンバランス」から分析するチュチェ思想の立場に立っています。経済的要素による分析は「真実の一側面」を含んでいるとは思いますが、それだけでは不十分だと見ています。
※注2:参考までに「日本人が知らない「トランプ支持者」の正体」のポイントと思われる箇所を引用します。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161111-00144726-toyo-bus_all&p=2>> 日本人が知らない「トランプ支持者」の正体
東洋経済オンライン 11/11(金) 12:25配信
(中略)
トランプの何に希望を見出したのか?
第1に中西部の共和党に多い伝統的なアメリカ人は、政府は何もしてくれない、といった怒りに突き動かされているわけではない。海岸文化が象徴するものがリベラリズム、多様性、グローバリズムだとすれば、中西部の文化が象徴するのは頑ななまでの自立心であり、具体的には神への信仰と勤勉さと創意工夫だけを頼りに自ら切り開いていく生活と家族愛だ。
それは政府への疑念や公共の施策から取り残された疎外感ではなく、個人の生活を支配する権力への警戒と健全な懐疑、つまりはアメリカ伝統の保守主義である。彼らがトランプを支持したとすれば、怒りというより、リスクをとって自力で成功への道筋をつけた彼への尊敬と期待のほうが大きいように思う。これは筆者の彼の地での遠いが鮮烈な記憶からの推察である。
■「実業家大統領」への憧れ
第2に、中西部でなくともアメリカという国は、他の文化と比べてビジネスマン、とくに独立独行の大実業家を讃える伝統が根付いている。昨年12月の記事「日本人が知らない"カネの国"アメリカの美徳」でも触れたが、彼らの間にはおそらく根強い実業家大統領への憧れがあった。 経営者から低賃金の労働者から零細の自営業者まで、私企業で働くビジネスマンは誰もが日々グローバルな競争にさらされ、とくにアメリカではいつリストラされるか、あるいは新興国の競合にシェアをうばわれるかといった強迫観念と緊張感のなかで仕事をしている人が多い。だから本物の実業家が政治のトップに立てば、同じ規律と緊張感をもって政府のリストラを進め、商売をなるべく楽にしてくれるのではないかという期待があったのかもしれない。
リスクを張って市場で戦うすべての事業者同様、トランプも政府による数多くの規制にとまどい、多くの従業員を抱えながら訴訟も戦い、胃の痛い思いを何度もしてきたことだろう。チャレンジしては失敗し、それを繰り返して大きな事業を築き上げた。法人税のカットはもちろん、複雑な法務・労務・税務などのプロセスの簡素化も進めてくれるかもしれない。ギャンブル性の高い不動産業出身であることはかなり不安だが、卓越した交渉能力で通貨安競争に歯止めをかけ、公正な貿易条件を担保してくれるかもしれない…、等々。
ヒラリー・クリントンが生涯をかけて立場の弱い女性や子供の権利や生活の向上のために戦ってきたことは尊敬に値する。多くのアメリカ人は「寛容な国民」だ。だがもしグローバル経済の荒波がアメリカの隅々にまで押し寄せてきているならば、より差し迫った課題は目の前のグローバル競争にどうやって生き残るかであり、現役世代のビジネスパーソンの大勢は、おそらくトランプの経営者としての手腕に賭けたのだ。
この期待は、ある限られた市場のなかでの社会正義に生きる政治ジャーナリストには、共有できないものだったのかもしれない(FOXテレビの司会者ショーン・ハニティーなど少数の例外はいたが・・・)。
第3の理由は?
第3に、これも以前の記事(日本人が知らないアメリカ的思想の正体)で紹介したことだが、自由至上主義者(リバタリアン)たちの存在があったことを見逃せない。わかりやすい例ではクリント・イーストウッドなど、政府からの自由こそがアメリカのアイデンティティであると信じている人たちである。 思想的にはリバタリアン党のゲイリー・ジョンソン(元ニューメキシコ州知事)に近く、世論調査からは全有権者の10%超をリバタリアン支持者が占めていたと思われる。リバタリアンといわれる彼らは茶会(ティーパーティー)運動を後押しし、2010年の中間選挙で共和党躍進の原動力ともなっていた。
(以下略) <<
※参考終わり、本論に戻る。
経済還元論的な貧弱な分析を述べた上に、矢口教授は、よりにもよって
トランプ氏への支持と「サンダース旋風」なるヨタ話を共通の土台で語る始末。「サンダース旋風」なるものが存在しなかったことは、たとえば以下にも述べられています。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161109-00010000-senkyocom-pol>> (前略)日本における報道ではヒラリーVSサンダースが注目されてサンダース旋風が止まないという誤った報道がなされていました。なぜ誤ったと断言できるかというと、民主党予備選挙参加者はオバマVSヒラリーの2008年時よりも減少しており、実はあまり盛り上がっていないことが明らかだったからです。
それに比べて共和党側予備選挙はトランプ効果で予備選挙参加者数が2012年と比べて激増していました。この新規の予備選挙参加者は予備選段階で「共和党」に一度コミットした形になります。そのため、トランプ支持者でなかったとしても大統領選挙本選で共和党指名候補者に投票する可能性が高いものと推測されました。
たとえば、フロリダ州の共和党予備選挙では2012年・167万人から2016年・236万人まで増加していましたが、民主党の予備選挙では2008年・175万人⇒2016年・171万人に減少しました。2012年大統領選挙本選でオバマ・ロムニーの差が約8万票しかありませんでしたから、今回の本選挙における勝利にトランプ効果が果たした貢献は大きいと言えるでしょう。 (以下略) <<
「サンダース旋風」なるものは、実際には、「アメリカ大統領選挙指名争いに(自称)社会主義者が勝ち残っている!」という、事実を
過度にフレームアップしたものに過ぎなかったのです。
■観念論者の自己弁護に堕落しつつある「反知性主義批判」――百害あって一利なし
もっとも、これだけであれば、矢口教授の言説は昨日取り上げた田原氏の言説と大差ないレベルでした。しかし、ここで矢口教授が取り出してきたのが、
なんと「反知性主義」(!)。
「反知性主義」というワードは一部界隈では流行っており、論者によって指す所が異なっているマジックワードですが、ご丁寧に矢口教授は、指し示す所を定義してくれています。改めて引用しましょう。
>> 立派な勉強を積んだ人が偉いのではない。彼らエリートは、時として、普通の人たちの、上からお説教を垂れる。エリートは、ろくに知りもしないのに、普通の人たちの考えを十分に尊重しない。普通の人たちだって、知恵はあるし、日々の生活で培った知恵はエリートの座学に勝る。エリートに支配されるくらいなら、普通の人が関わったほうがいいではないか。 <<
昨日の記事における田原氏の物言いを遥かに超えるレベルで、エリート意識を隠そうともしていません。記事冒頭で「
「トランプ支持者」の視点からみることができなかった」などと述べて、「頭ごなし的なレッテル貼り」ではない「寄り添うような論考」を期待させておきながら、このパラグラフはその期待をぶち壊しました。たしかに、「頭ごなし的なレッテル貼り」ではありませんが、
「動植物を観察するかのような論考」と言わざるを得ません。矢口教授は、単純に学問的分析に徹しているだけなのかもしれません。しかし、たとえそうだとしても、このような
「彼我二分的」な見方では、学問的な分析も十分にはできないでしょう。
■毛沢東大衆路線に立て!
本当の意味で「トランプ支持者」の視点に立つのであれば、彼らが実際に何を考え、求め、行動しているのかを、彼らが置かれた環境に寄り添い、彼ら輪の中に入り込み、彼ら自身の言葉をもとに考える必要があります。決して、彼我二分法的に見てはならず、ましてや見下すような姿勢であってはなりません。
彼らを「下層」と言って見下すのは容易いことですが、
下層であるからこそ、現実世界の最も厳しいリアルを身をもって経験しています。無責任な観念論者ではなく、
現実から出発するリアリストであるならば、生活の現場からの声に耳を傾けるべきです。学問的探求という目的の追究においても、リベラルな政治運動の再生という目的の追究においても、いずれにせよ、現場との対話・説得は第一歩であるはずです。
見下しているようでは、対話も説得も成立しません。
また、政治は人民大衆の現実の生活のためにあるものです。
大衆の必要こそ政治の任務なのです。大衆が誤っていると言うのならば、「正しい道」をエリートが示し、説得すればいいだけ。
それができないのならば、それは、「低脳」の誘導さえできないという意味で、「エリート」こそが自信過剰な無能であることを証明しているに他なりません(最近の朝日新聞なんて、ご自身たちの裸の王さまっぷり、無能っぷりを日々証明していますよね)。政治は「リベラル」の道楽ではありません。
その意味で、以前から繰り返し指摘しているように、
毛沢東大衆路線に立つべきです。わが愛読書である『毛主席語録』から、いくつかの言葉を引用しご紹介します。
>> 共産党員は学習の模範となるべきであり、(中略)毎日が民衆の教師であるが、またその毎日が民衆の生徒でもある。
「民族戦争における中国共産党の地位」(1938年10月)、『毛沢東選集』第2巻 <
>> 共産党員は、おくれた人びとにたいして、かれらを軽くみたり、みくだしたりするのではなくて、かれらに接近し、かれらと団結し、かれらを説得し、かれらの前進を鼓舞する態度をとるものである。
「民族戦争における中国共産党の地位」(1938年10月)、『毛沢東選集』第2巻 <<
>> 大衆の生産、大衆の利益、大衆の経験、大衆の気分、これらすべては、指導的幹部がいつも注意をはらわなければならないことである。
中央直属機関と軍事委員会直属機関の生産展覧会のための題辞、1943年11月24日づけ延安『解放日報』 <<
>> いかなる指導要員も、もし下部の個別の組織の個別の人や、個別のできごとから具体的な経験をくみとらなければ、すべての組織にたいして普遍的な指導をおこなうことはどうしてもできない。各級の指導的幹部がみなこの方法を身につけるように、この方法をひろく提唱しなければならない。
「指導方法のいくつかの問題について」(1943年6月1日)、『毛沢東選集』第3巻 <<
>> われわれの大会は、それぞれの部署で活動している一人ひとりの同志が、大衆から遊離しないように注意を喚起することを全党によびかけるべきである。人民大衆を熱愛し、注意ぶかくその声に耳を傾けること、どこにいってもその土地の大衆ととけあい、大衆の上にあぐらをかくのではなく、大衆のなかにふかくはいること、大衆の自覚の度合いに応じてその自覚を啓発、向上させ、大衆の心からの自発的意志の原則にしたがって大衆がしだいに組織化され、その時その場所の内外環境のゆるすすべての必要な闘争をしだいに展開するのを援助することについて、1人ひとりの同志を教育することである。
「連合政府について」(1945年4月24日)、『毛沢東選集』第3巻 <<
>> わが党のすべての実際工作において,およそ正しい指導は、大衆のなかから大衆のなかへ、でなければならない。それは、つまり大衆の意見(分散的な、系統だっていない意見)を集中し(研究をつうじて、集中した、系統だった意見にかえる)、これをふたたび大衆のなかへもちこんで宣伝、説明し、これを大衆の意見にし、これを大衆に堅持させて、行動にうつさせ、また大衆の行動のなかで、それらの意見が正しいかどうかを検証する。そして、その後、ふたたび大衆のなかから意見を集中し、ふたたび大衆のなかへもちこんで堅持させる。このように無限にくりかえして、1回ごとに、より正しい、よりいきいきとした、より豊かなものにしていくのである。これがマルクス主義の認識論である。
「指導方法のいくつかの問題について」(1943年6月1日)、『毛沢東選集』第3巻 <<
>> 大衆に結びつくためには、大衆の必要と自発的意志にしたがう必要がある。大衆のためのすべての工作は、たとえ善意であっても、いかなる個人的願望からも出発すべきではなくて、大衆の必要から出発すべきである。多くのばあい、大衆は、客観的にはある種の改革を必要としていても、主観的にはまだそのような自覚をもたず、決意がつかず、まだ改革の実行をのぞまないので、われわれは辛抱づよく待たなければならない。われわれの工作を通じて、大衆の多数が自覚をもち、決意がつき、みずから改革の実行をのぞむようになってからこのような改革を実行すべきであって、さもなければ、大衆から離れてしまうであろう。大衆の参加を必要とするすべての工作は、もし大衆の自覚と自発的意志がなければ、いたずらに形式に流れて失敗するであろう。……これには2つの原則がある。1つはわれわれの頭のなかの幻想からうまれた必要ではなく、大衆の実際の必要ということである。もう1つは、われわれが大衆にかわって決意することではなく、大衆の自発的意志にたより、大衆自身が決意することである。
「文化活動における統一戦線」(1944年10月30日)、『毛沢東選集』第3巻 <<
>> 大衆がまだ自覚していない時に、われわれが進撃にでるなら、それは冒険主義である。大衆がやりたがらないことをわれわれが無理に指導してやらせようとすれば、その結果はかならず失敗する。大衆が前進をもとめている時に、われわれが前進しないなら、それは右翼日和見主義である。
「晋綏日報の編集部の人たちにたいする談話」(1948年4月2日)、『毛沢東選集』第4巻 <<
現実を生きる大衆から遊離した「知識人」は、容易に観念論に転落します。毛主席の教示に学び、
大衆とともに学びあう姿勢が、「反知性主義」でも「観念論学者」でもない唯一正しい認識を得ることができる路線なのです。
それにしても、矢口教授の「反知性主義」の定義は、「エリート主義的意識の塊の産物」というほかありません(そもそも本来的な「反知性主義」ってこういう意味でしたっけ?)。「経験論が完全だ」と言うつもりはありませんが、しかし、「反知性主義」なるものの昨今の拡大は、「知性主義」なるものの行き詰まりの観が見えている、
換言すれば、「高名な学者が観念論に堕落しているのではないか」という疑念などから出てきているわけです(動機は複合・多層的でしょうが)。そうした疑念に対する自省もそこそこに、「反知性主義」という単語を安易に濫用させると、
傍から見ると「観念論者の自己弁護」にしか映りません。まして、大統領選挙の文脈で「反知性主義」などと口走るのは、
もはや「単なる悪口」の域にも達しつつあるとさえ言えます。
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11月10日づけ「
リベラルは金持ちの道楽――アメリカ大統領選を巡って」
11月9日づけ「
トランプ氏の当選を労働者階級として敢えて歓迎する――政治改革の幻想が打ち砕かれた「トランプ後」こそが、いよいよ労働者階級にとって正念場になる」
(チュチェ106(2017)1月23日に、毛主席語録に学ぶ段落について、論旨が変わらない範囲で内容を補充しました)