2016年11月30日

いわゆる自由主義国と社会主義国の「抑圧」は根本的に異なる

http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/ann?a=20161130-00000010-ann-int
>> カストロ氏追悼、100万人規模に 各国からも参加

テレビ朝日系(ANN) 11/30(水) 10:31配信
 キューバの首都ハバナでは、25日に死去したカストロ前議長の追悼式典が始まっています。参加者は100万人規模になると予想されています。


(以下略) <<
コメ欄。
>> 大好き | 2016/11/30 11:52

抑圧された人にとってはカストロは極悪者だったろう。
しかし、自由主義国だって
政府による人権侵害・表現の自由の規制はある。
社会主義だから問題だったということではない。

今は弟が実権を持っている。
世襲制がちょっと心配だけどね。
<<
いわゆる社会主義国における抑圧について、「いや自由主義国でも程度の差こそあれ、あるものだ」という言説は時たま、耳にします。妙な相対化による矮小化を狙っているのか、素でそう考えているのかは分かりませんが。結論を先に述べれば、いわゆる自由主義国と社会主義国の「抑圧」は根本的に異なります。

これから述べることは、理論上の話です。すなわち、「言っていることとやっていることが違う」といったケース、自由を掲げながらも実態は腐敗しきっている政権などは論じていません。そんなものを幾ら論じても意味はありません。

いわゆる自由主義国における「抑圧」についてまず述べましょう。ここで重要なのは、その目的です。自由主義国家においては、「他人に迷惑をかけない限りにおいて、自分の個人的目的追求を許す」ことが国是であり、また、社会的に何らかの目的が設定されていることは少ないのが常です。そのため、自由主義の権力は、ひとりひとりの個人的目的の自由な追求を保障するために存在しており、こうした国家が行使する権力は、いわば「棲み分けのための権力行使」というべきです。

他方、いわゆる社会主義国においては、何らかの「正しい価値」なるものにもとづく社会的目的が設定されていることが常です(歴史的には「階級性」「革命性」「党性」などに基づく「平等の実現」や「自由競争による無政府状態の克服」などがありました)。そして、社会主義の権力はそうした社会的目的のためにあらゆる資源に総動員を掛けるために行使されます。社会的目的の効率的達成のためには、個人的目的の追求や個人的意見の表明は好ましくありません。こうした国家が行使する権力は、いわば「総動員」のための押し付け的な権力行使というべきです。これは「強制的同一化」に容易に堕落する極めて危険な可能性を孕んでいます。

キューバのように、政治的意思決定の過程が少人数の限られた人々に独占されているような国家においては、その社会的目的は、権力者の独裁的専決事項となります。意思決定の過程に関与できない一般大衆は、ただ党指導部の決定に従うほかありません。

「棲み分け」のための自由主義的な権力行使と、「総動員」のための社会主義的権力行使は、こうして比較すると根本的に性質が異なることが分かります。

根本的に性質の異なる2つの「抑圧」を混同することは、自由社会を「総動員」の道へと導きかねないのは勿論、自由社会であるからこそ必要な棲み分けに対して、「社会主義的だ!」などといった誤ったレッテルを貼ることにも繋がりかねません。前者は「正義」だの「社会的責任」だのといった、それ自体は普遍的で善意に満ちた概念を暴走させ、善意に基づく窮屈な社会を導きかねません。自由社会を全体主義社会に堕落させかねません。他方、後者は、自由社会を無法地帯に堕落させかねない危険性を孕んでいます。

「総動員」の誘惑に抗しがたいものがあることは、私も認めます。「民主的討論」を尽くした末の「合意に基づく総動員・総決起」は、右派も左派も憧れを持つ「美しい人間愛」の姿です。しかし、その善意は、窮屈な地獄に繋がっている危険性があるのです。

目の前の規制や抑圧が全体主義に繋がらないか心配する気持ちも分かります。しかし、自由は制度的枠組みがあってこそ初めて成り立つものであり、なんでもアリの無法地帯は自由ではないのです。我々が「自由だ」と感じる状態は、実はとても手入れが行き届いた状態であり、本来的には「壊れ易い制度の進化的産物」なのです。

棲み分けと「総動員」の総合の道もあると思います。基本的には棲み分けを重視すべきでしょう。棲み分けの自由・行動の自由の留保を保障した上で、「民主的討論を尽くした末の合意に基づく総動員・総決起」を行うべきでしょう。これについては、今後じっくりと考えながら論じてゆくつもりです。
ラベル:社会 政治
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2016年11月29日

共和国南半分(南朝鮮、「韓国」)の経済構造の最大の問題点は「非自主経済」であること

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161129-00109510-diamond-bus_all&p=1
>> ゆがむ韓国経済、財閥偏重の「疑似資本主義」が迎えた限界

ダイヤモンド・オンライン 11/29(火) 6:00配信

● 大統領スキャンダルだけでない 韓国国民の怒り


(中略)

 冷静に考えると、国民の怒りは、単純に大統領のスキャンダルだけが原因ではないだろう。これまで長く蓄積されてきた韓国の経済・社会の構造的な問題に対する不満が、朴大統領のスキャンダルをきっかけに爆発したと見るべきだ。

 第2次世界大戦後、韓国では、サムスンや現代などの財閥=チェボルを中心とする経済構造が出来上がってきた。国は経済発展促進のため主要財閥を支援した。財閥企業は、政府の庇護の下で輸出を中心に収益を獲得するビジネスモデルを整備してきた。
.

 その過程で、政府と有力財閥の癒着の構造が出来上がった。その結果、経済活動によって生み出された富の多くが、財閥企業関係者と有力政治家との間で分配されるシステムが出来上がった。財閥・政治家に関係のない一般庶民は、富の分配を受けることが少なかった。経済的なメリットを、国民の間で公平に分配するシステムができなかったのである。

 そうした財閥を中心とする“疑似資本主義”の弊害が、多くの国民の格差を拡大させてきた。それが最大の問題だ。韓国の政治が経済の構造的な問題の解決に取り組まない限り、財閥依存の経済がはらむ問題、それに関連する政治スキャンダルを根本から解決することは難しい。単に朴大統領だけではなく、韓国自体の先行きには不安を禁じ得ない。


(以下略) <<
■資本主義の見方
共和国南半分(南朝鮮)の社会経済構造を「疑似資本主義」と評する記事。その当否を検討しましょう。資本主義が進みうる方向とは何でしょうか? 人々はどう対応すべきなのでしょうか?

理論の世界での資本主義は、「常にイノベーションが起こり、企業は栄枯盛衰がハッキリしており、競争淘汰がスムーズにすすむ」「それゆえに万人にチャンスが開かれており、全体の厚生は向上してゆく」「一部の人間への権力集中はあり得ない」ということになりましょう。しかし、歴史的事実を見れば、現実の資本主義は、必ずしもそうした呑気な資本主義ではないことが分かることでしょう。「イノベーションは常に都合よく起こるわけではなく、競争淘汰もスムーズに行われるわけではない」「資本主義においても停滞の時代はある」「競争の結果としての独占があり得る」のです。

このうち、「競争の結果としての独占があり得る」というのは重要です。歴史的に見て、群雄割拠・何でもアリの初期資本主義の胎内から独占資本主義が形成され、国家権力との癒着;国家独占資本主義が生まれました。とても資本集中など起こりそうもない混沌とした競争状況であっても、放っておくと、いつの間にか集中が起きてしまうのです。

共和国南半分の現状は、独占資本主義段階・国家独占資本主義段階に達しつつあるといっても良いでしょう。「疑似資本主義」などではなく、「これこそが現実的な資本主義の一形態」なのです。

もっとも私は、古臭いマルクス主義的な直線的発展段階史観に完全に立つつもりはありません。それは事実の一側面ではあるものの、事実そのものではないからです。資本主義が誕生してから数百年たちますが、一方的な集中・集積ばかりではありませんでした。イノベーション・競争淘汰も、とても気まぐれなタイミングで現れるものですが、確かに働いています。資本主義は、資本集中に向かうベクトルと、群雄割拠に向かうベクトルが「綱引き」していると見るのが正確な理解でしょう。

そしてこれらの正反対の諸ベクトルの社会的合成ベクトルは、法則に支配されているというよりも、自由経済においては、それぞれが偶然的に合成されているとみるべきかもしれません。つまり、共和国南半分の現状も現実的な資本主義だし、筆者の真壁氏が想定しているであろう理想的資本主義も現実的な資本主義なのです。

この理解は重要です。古臭いマルクス主義的な直線的発展段階史観が崩壊し、経済が独占に向かってまっしぐらという訳ではないからといって、呑気な資本主義物語に幻想を持ってはいけないのです。仮に、極端に経済活動を自由化したとしても、(格差問題等の社会政策的分野を完全に捨象したとしても)それがそのまま経済活性化につながるわけではないのです。

■自主経済の確立こそが救いの道
共和国南半分の現状を「これこそが現実的な資本主義の一形態」と正しく認識した上で、なおかつ、共和国南半分の問題点を探るために、つづいて以下のくだりを検討しましょう。
>> ● 貿易依存度高く 不安定な韓国経済

 韓国経済は国内の消費市場が小さく、相対的に貿易依存度が高い。輸出のGDPに対する割合は50%を超えている。財閥企業が大規模に大量生産を進めて価格競争力を高め、輸出によって得られた収益をウォン安でかさ上げするのが韓国の成長プロセスだ。

 この経済構造は海外経済の減速に対して脆弱だ。典型例が1997年の"アジア通貨危機"だ。当時、韓国は急速な自国通貨(ウォン)の下落を受けてドル建ての対外債務の支払い負担に耐え切れなくなった。韓国は、この危機を国際通貨基金(IMF)の介入、わが国からの支援などによって乗り切った。

 この時、IMFや欧米の投資家は縁故を重視する韓国の企業経営などが、過剰な債務累積につながったと批判した。これは“クローニーキャピタリズム(縁故資本主義)”と呼ばれる。IMFは韓国を救済するコンディショナリティ(条件)の一つとして財閥の解体を求め、政府も応じた。

 しかし根本的な問題は是正されなかった。リーマンショック後、韓国経済はウォン安に支えられて一時的には回復した。その後、中国の減速とともに財閥企業の経営は行き詰まり、経済は低迷している。

 今年8月末、コンテナ船世界7位の韓進海運が経営破綻した。これは、サムスンの半導体などの製品、現代の自動車を韓進の海運業で輸出するという、財閥と輸出に依存した経済成長モデルの行き詰まりの象徴だ。

 財閥重視の経済政策が進められた結果、韓国では実力を備えた中小企業が育ってこなかった。技術力に関してもわが国の素材や部品に頼るところが多く、韓国が自力で技術革新を進めることは難しい。

 足元のように世界経済全体を通して需要が供給を下回り始めると、どうしても韓国経済の減速懸念は高まりやすい。それが政治スキャンダルと重なることで、国民の怒りが噴出し抗議デモの拡大に繋がっている。
<<
ここでは「中小企業」や「技術革新」に期待を寄せ過ぎている観があります。

共和国南半分の経済構造の最大の問題点は、「非自主経済」であること
です。他国の経済に組み込まれているのです。たとえ共和国南半分で強固な「中小企業」の陣地があったとしても、それが他国の大企業の系列下に組み込まれていたら、事態は同じです。数だけは多いものの一部大企業に振り回されている日本の中小企業群と同じような境遇になることでしょう。

また、「技術革新」については、先にも述べたように、これは誠に気まぐれなタイミングで出てくるものです。技術革新へのあくなき追求は絶対に必要ですが、そんなに滅多矢鱈に出てくるものではないのですから、期待を掛けすぎるべきではありません

みずからの主体を確立する自主経済の確立こそが救いの道です。他人の指揮下ではなく、自らが主人となり、経済の循環を主宰するのです。他人・他国の動向に左右されない陣地をつくるべきなのです。それが本質なのです。

自主経済は「鎖国」ではありません。貿易を制限するわけではありません。むしろ、相互依存的な関係性を構築するために、積極的に貿易を行うべきであるとさえ言いえるでしょう。たしかに貿易によって一部の財を他国に依存することになるでしょう。しかし、他国もまた自国に対して何らかの財を依存する関係になったならば、「お互い様」という意味で、自主を追求する余地が生まれます。

■個人も国家も自主の道を
自主という概念は、私は以前から労働問題においてさかんに使ってきました。しかし、この概念は誠に応用が利くものです。一個人の運命も、一国の運命も、自主の立場から考察すべきです。
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2016年11月27日

供養は免罪符ではない――吸血鬼的資本家を彷彿とさせるスペースワールドの炎上商法

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161126-00000042-it_nlab-sci
>> 「悪趣味」と炎上 スペースワールド5000匹の魚を氷漬けにしたアイスリンク演出、展示意図を聞いた
ねとらぼ 11/26(土) 20:15配信

 11月12日からテーマパーク「スペースワールド」(北九州市)で行われている、5000匹の魚を氷漬けにしたアイスリンク上でスケートができるという演出が炎上しています。編集部は同施設に取材し、演出の意図や批判の声についてどう感じているかを聞きました。


(中略)

● 広報担当者に聞いたスケートリンク「5000匹の魚氷漬け」の演出

――「氷の水族館」の演出がネット上で生命軽視ではないかと炎上していますが、把握していますか

広報:はい。Twitterなどでは多数のご意見を頂いており、直接のお問い合わせも数件受けています。

――展示されている魚は生きたものを利用したのでしょうか

広報:いいえ、違います。本物の魚は公設市場の鮮魚店から卸してもらったもので、鮮魚店には今回の企画意図もきちんと把握していただいています。なお、卸してもらった魚の多くは商品にならない「規格外」のものです。またジンベイザメやサメ、エイなどの大きな魚は写真を等身大に引き延ばして氷の下に埋め込んだものであり、本物の魚ではありません。


(中略)

――来場者の反響はどうでしょうか

広報:お越しいただいた方からはご好評を頂いています。特にお子さまが喜んでくださっているようです。


(中略)

――展示を取り下げるという考えはありませんか

広報:現状は予定しておりません。私としては現地に来ていただければ展示の意図もご理解いただけるのではないかと考えているので、機会があればぜひ実際にリンクにお越しいただきたいと思っています。

――展示された魚たちは処分されるのでしょうか

広報:展示を終えた魚たちに関しての対応については検討中です。魚たちの命も含めて、海の世界を感じていただくという演出趣旨ですので、展示終了後は頑張ってくれた魚たちを供養しようという案も出ています。


(以下略) <<
生命軽視ではないか」という批判に対して「卸してもらった魚の多くは商品にならない「規格外」のもの」という応対。「どーせ死んでるんだから関係ねーだろ」といいたいのか、「弊社の資本で購入したものなのだから、何に使っても勝手だ!」といいたいのか(『資本論』に出てくるような吸血鬼的資本家――合法的労賃(最低賃金だけど)は払った。だからどう使役しようと勝手だ!――を彷彿とさせますな)。いずれにしても、批判の火に油を注ぐような言い様です。

特にお子さまが喜んでくださっているようです」という言い分も、批判者にはカチンとくることでしょう。「ガキをダシに使っている!」といった風に。インチキ臭い募金活動も子どもを使っていますしね。だいたい、「生命軽視」批判の反論の文脈で、生命倫理などあろうはずもない子どもを引き合いに出す感覚がよく分かりません

そして「展示終了後は頑張ってくれた魚たちを供養しようという案も出ています」。あくまで「案」にすぎない以前に、「供養は免罪符ではない」と言いたいものです(免罪符って分かります? 慣用表現としてではなく、歴史的な意味での免罪符――やりたい放題やってもカネで免罪符を買えば全部チャラ――ですよ。ちなみに、免罪符の乱発は、腐敗したカトリック教会に対する宗教改革の動機の一つでした)。

もっとも、「機会があればぜひ実際にリンクにお越しいただきたいと思っています」などとチャッカリ宣伝している点、このチャンスを、むしろ炎上商法として活用しようとしているのかも知れません(ますます吸血鬼的資本家の商魂・・・)。であれば、何を言っても無駄です

幸い、我が国は市場経済の国家です。「嫌なら見るな」と、フジテレビ幹部も言ってますよね。
ラベル:社会
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2016年11月21日

心の奥底レベルにおいて共産党員的な逃避的観念論に堕落しつつある日本人――まだ間に合う

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161121-00010005-houdoukvq-soci
>> 紀子さまと悠仁さま乗せた車が追突事故 職員「霧がすごく」
ホウドウキョク 11/21(月) 13:17配信

秋篠宮妃紀子さまと長男の悠仁さまを乗せた車が、高速道路で追突した事故で、運転していた宮内庁の職員が、事故当時「霧がすごかった」と話していたことがわかった。
事故が起きたのは、神奈川・相模原市緑区の中央道・下り線で、20日午前7時半すぎ、紀子さまと悠仁さまを乗せた車が、渋滞で停車していた乗用車に追突した。
この事故によるけが人はなく、紀子さまらは、別の車で目的地に向かわれたという。
その後の取材で、車を運転していた30歳の宮内庁の職員が、事故当時「霧がすごかった」と話していたことが、新たにわかった。
関東地方では、20日午前、広い範囲で霧のため交通に影響が出ていて、警視庁は、霧による視界不良が、原因の可能性もあるとみている。
.

最終更新:11/21(月) 13:17
<<
誰も怪我をせず、死にもしなかったことは良かったと思います。

さて、コメ欄に目を移すと、次のようなコメントに支持が集まっています。
>> デンスケ | 2016/11/21 13:29

「霧がすごく」は解るけど、走行している車の多くが事故を起こしてる訳じゃないからな。

この運転手の注意不足。
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>> mr3***** | 2016/11/21 13:35

私の注意力が足りなかった。  って言えないの
<<
>> tut***** | 2016/11/21 14:08

でもダメ。大多数の運転手がもっともっと気を付けてる。
<<
ほぼ同じ内容の別記事でも、同様のコメントに支持か集まっているので、これを世論と見てよいと思われます。

この世論からは、2つの特徴的な社会心理が見て取れます。

■日本人はまだ逃避的観念論にまでは堕落していない
第一に、「客観的条件がそうだからこそ、主体側が、相応の対応すべきだ」という、一種の「主体思想」です(もちろん、朝鮮のチュチェ思想とは異なります)。「なにを当然のことを」と思う方も少なくないでしょうが、ある種の人々は、「唯物論」の名の下に、客観的条件の影響を過度に評価し、主体側の役割・責任を矮小化します。以前から述べているように私には共産党・左翼対策部署の経験がありますが、左翼の連中は何かと「客観的条件」を取り出し、自分たちの対応の不足を棚に上げます。「マクロ経済の不景気」だの「インフレ」だのと色々な理由をつけては、逃げようとするものです。

たしかに、物質世界に生きる我々生身の人間は、客観的条件の影響を大いに受けます。そのことを否定するのは、観念論であると言う他ないと私も思います。他方、人間には、自主性・創造性・意識性があり、そうであるからこそ、客観世界に対して意識的・理性的に対応しようとします。我々が生きるこの物質世界は、主体(人間)と客体との相互作用なのです。

※もちろん、どんなに頑張っても、たとえば「死」からは逃れらません。その意味では、究極的には「客体優位」といいうるでしょう。しかし、「死」のような究極的なケースは、一般的な社会変革事業においては、特に問題視すべきではありません。

そうした相互作用的世界観に立てば、一方的に「人間は客観的法則の一方的な被害者だ」ということは、それはそれで観念論的です。客観的条件を無視することを伝統に則って「主観的観念論」と言うのであれば、このような観念論は、「逃避的観念論」というべきでしょう。

「モンスターxx」が取り沙汰される昨今、何かと「自分以外・他人のせい」にする風潮が強まりつつある時代ですが、逃避的観念論に堕落し、自分自身の現状を「客観的条件」のせいにして現実逃避に走る日本左翼と比較するに、まだまだ日本の世論は、左翼・共産党系レベルにまでは堕落していないようです。

■「あいつは責任逃れしているに違いない」という推測は、裏を返せば「自分がその立場だったら、真っ先に責任回避する」ということ――逃避的観念論の一歩手前?
しかしながら、同時に、次のことも指摘しなければなりません。第二の社会心理に移ります。すなわち、「件の宮内庁職員氏は『霧が凄かったせいだ! 私は悪くない!』などと言っていたのか?」という問題です。

私がチェックしていない別記事において、もしかすると、より詳細な情報が載っているのかもしれません。しかし、少なくとも、上掲記事ではそのような情報は一切伝えられていません。いったいどこから「わーたーしーはわるくないー」(エンマの数え歌風に)という「本人の言い訳」が沸いて出てきたのでしょうか? 事情聴取は「霧が凄くて・・・もちろん、みんなそれでも慎重に運転し、事故を起こしていないんだから、私の不注意でした」だったかも知れません。マスコミ(マスゴミ)の「報道しない自由」の行使は、それこそ「ネット評論家」ご自身がよくよくご存知でしょう。こんな数百字程度の「軽めの記事」に、事実のすべてが載っているとは限らないことは、容易に想定できるはずです。

これらのコメントは、脳内補完を基に構成されている疑いがあります。もしそうであれば、それはすなわち、そのコメントを投稿した人物・そのコメントに賛同のクリックをした人物ご自身の投影であるというべきでしょう。以前にも述べたように、他人の言外の意図を予測するにあたって、人々は「自らのうちにある常識的枠組み」を用いるものです。「過去に付き合いのあった変なヤツ」の例を思い出すこともあるでしょうが、意外と「自分が相手の立場だったら、自分はどう対応するか」という想像も多く作用します。このことはすなわち、「他人の言外の意図」を探っているようで、実は、「自分が相手の立場だったらどう対応するか」という自問に過ぎないのです。

たとえば、「殺人被害者遺族のために、被告人に死刑を!」というセリフはよく聞きますが、被害者遺族の皆がみんな死刑判決を望んでいるわけではないということは、10月7日づけ「相変わらず「死刑を求めない遺族」の存在を無視する「あすの会」――団体が「あるべき遺族」の規定に繋がる発言をすべきではない」を筆頭に、以前から述べてきた通りです。このような「自称;代弁発言」は、実態においては、代弁でもなんでもありません。「相手の立場に自分が立ったとき、自分はどう思うか」つまり、「推測」「代弁」しているつもりになっている当人の考えに過ぎないのです。

「当事者の事情説明」も中途半端に「他人の責任追及」に精を出す彼らの姿は、裏を返せば「二言目には責任回避の逃げ口上」に走る彼ら自身の姿を映し出しています。その意味において、先に私は「まだまだ日本の世論は、左翼・共産党系レベルにまでは堕落していないようです」と述べましたが、心の奥底レベルにおいては、「近づきつつある」とはいえるかも知れません

逃避的観念論に堕落した共産党員のようにはなってはいけません。まだ間に合います。共産党員のレベル――被害妄想の域に達しています――に至るには、まだまだ「道のり」があります。繰り返しますが、まだ間に合います。
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2016年11月18日

「過渡期」に差し掛かった福祉政策・労働政策・社会政策界隈――脱啓蒙主義へ

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161118-00108452-diamond-bus_all
>> 「働いたら損をする」仕組みが生活保護制度を歪めている

ダイヤモンド・オンライン 11/18(金) 6:00配信


(中略)

 まずは、「生活保護なんだから、働いても『最低限度の生活』でいてくれないと許せない」、言いかえれば「生活保護を受ける以上は、生活保護なりの生活しか許さない」、もっと端的に言えば「差別させてくれなきゃ困る」という思いを、世間が捨てること。

 さらに、「生活保護で普通の基本的な生活ができる、働いたらもっと可能性が増える」という制度が良いと考え、そのことを制度の形に表わしていくこと。これらが、私には、難しいけれども最も確実な解決方法に見える。


(中略)

 生活保護制度は、生活保護基準という「最低限度」を保障する仕組みである。保護が必要かどうか、どれだけ必要であるかは、収入と生活保護基準の比較によって判断される(資産はないことが前提)。しかし、生活保護基準は、生活保護のもとでの生活の「最高限度」ともなってしまう。どうしてもこのような制度設計でなくてはならないのか、このことが弊害を生み出していないかどうかは、「自分がもしも生活保護で暮らすことになったら」という前提で、「我がこと」として考えるべきではないだろうか。

 一方で解消しなくてはならないのは、生活保護基準が現在あまりにも低すぎることだ。そもそも生活保護基準が低すぎるため、就労によるメリットに若干の手当をしたところで「働いたら損」となる状況は変わらない。また、連動して定められる最低賃金も低く抑えられ、「生活保護の方がマシ」という低賃金・不安定雇用労働者の悲鳴を生み出している。


(中略)

みわよしこ

最終更新:11/18(金) 6:00
<<
みわよしこ氏――精力的に生活保護関連の情報を発信しているものの、メリハリのない長文のせいで真に伝えるべきメッセージの半分も伝わっていないジャーナリストです。また、「世論」への「反論」を脳内補完でこしらえる上に、啓蒙主義的な思考をしているために、傍から見ると「誰に対して『教育指導』しているんだろう?」という率直な疑問を持たざるを得ない残念なお方です。こうした傾向は、みわ氏に限らず、福祉政策・労働政策・社会政策界隈の論客が多かれ少なかれもっているものであることは、当ブログでも、NPO法人ほっとプラス代表理事・藤田孝典氏(貧困)、ブラック企業被害対策弁護団代表の佐々木亮弁護士(労働)の件から繰り返し取り上げてきたとおりです。(1)メリハリのない長文(私もあまり他人のことは言えませんがw)、(2)脳内補完、(3)啓蒙主義が、いまの福祉政策・労働政策・社会政策界隈の主張の基本的パターンです。

みわ氏の本件記事は、「もっと端的に言えば「差別させてくれなきゃ困る」という思いを、世間が捨てること」などと、「そんなこと言っている人、あまり見たことないけどなあ」という点(Yahooニュースにコメント欄が設置されてから10年、継続的にコメ欄ウォッチを続けて来た暇人のブログはここです)において、彼女自身による論点のスリカエ・脳内補完である可能性が高い「反論」である上に、「「自分がもしも生活保護で暮らすことになったら」という前提で、「我がこと」として考えるべきではないだろうか。」といった具合に、例によって啓蒙的な主張を展開していらっしゃる点において、典型的な「この界隈」の論法です。従来どおりの平常運転です。

他方、「就労によるメリットに若干の手当をしたところで「働いたら損」となる状況は変わらない」というくだりには、良い意味で衝撃をうけました。ようやく、福祉政策・労働政策・社会政策界隈にも、世論の不満を汲み取り、制度的改善を模索し始めるという質的進歩の波が波及し始めているのでしょう。「過渡期」に差し掛かっているのでしょう。

チュチェ102(2013)年6月30日づけ「「自己責任論」は「助け方の拙さ」に由来する」で取り上げたように、個人に対する各種の社会的援助(生活保護も当然含む)に対する「自己責任論」を筆頭とする不満の数々は、建前においては「助け合い」としつつも、実態においては「助ける側はいつも助ける側」「助けられる側はいつも助けられる側」という構図が定着しており、「助け合いの名の下に真面目に頑張る人間が搾取されている」という思いに由来する不満なのです。みわ氏は「「自分がもしも生活保護で暮らすことになったら」という前提で、「我がこと」として考えるべきではないだろうか。」など啓蒙を試みていますが、この不満は、そうした次元ではないのです。「そりゃそうかもしれないけど、それを以ってこの搾取は正当化できないだろう。オマエみたいな単純な二元論者じゃ話にならん。もっと制度を工夫すべきなんだ!」といったところなのです。

いままで散々、脳内補完にもとづく啓蒙的言論活動を続けてきたみわ氏は、記事を公開するたびに激しいながらも正論にもとづく、世論からの再反論を受けてきていましたが、ようやく、それらの再反論を取り入れるようになってきたのでしょう。制度設計の問題に切り込み始めました(もっとも、以前から述べていたのかもしれませんが、前述したとおり、彼女の文章はメリハリがなく読むのが苦痛ですから、メッセージが伝わってきません)。

ベーシックインカムや負の消費税(両方とも経済理論的には、ほぼ同一と理解されています)といった具体的な政策にまで切り込めておらず、依然として啓蒙的な部分に比重が置かれてしまっていることは、この際は不問としましょう。いままでは、ほぼ100%啓蒙だったのですから。相変わらずの脳内補完っぷりであることも、この際はよいです。生活保護問題において、単なる「自己満足的人権啓発」でない論点への道筋が、まだまだ不十分ながらも福祉政策・労働政策・社会政策界隈の論客側から出てきたことは、たいへんな進歩なのであります。

これを機に、ベーシックインカムや負の消費税といった具体的政策の問題や、あるいは、北欧福祉国家を支える「自立を尊ぶ政策・制度と、それを支える思想」への探究も進めていただきたいものです。以前から取り上げてきているように、北欧諸国はすべて小国であるために「福祉が充実している」とはいうものの、「国民を福祉で食わせつづける」などということは到底不可能であり、福祉を通じた自立・自活を強く求められる制度設計になっています。また、そもそも個人主義的な思想文化の国柄ですから、「お上が食わせる・お上に食わせてもらう」という観念でもありません。日本の社会政策界隈は、「北欧福祉国家はこんなに上手く行っている」などと言って、その制度的概観だけを安易にコピーして日本に輸入しようと試みますが、まちがいなく失敗するでしょう。自己満足の世界から少し足を踏み出しはじめた「過渡期」に、ぜひとも学んで学んでひたすら学んでいただきたいものです。
ラベル:福祉国家論 社会
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2016年11月16日

役所(労基署)頼みの階級闘争、中世的封建時代以来の「お代官様お願げえしますだ」の枠を越えていない労組運動

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161116-00005362-bengocom-soci
>> エステ「ダンディハウス」「ミスパリ」に労基署が是正勧告…休憩取れず、残業代未払い

弁護士ドットコム 11/16(水) 17:31配信

エステ業界大手ミス・パリのグループ会社が運営する静岡市の店舗に対して、静岡労働基準監督署から是正勧告が出されていたことがわかった。エステ業界の労働組合「エステ・ユニオン」と元社員の20代女性が11月16日、東京・霞が関の厚生労働省記者クラブで記者会見を開き、明らかにした。是正勧告は9月16日付。

是正勧告を受けたのは、ミス・パリのグループ会社シェイプアップハウスが運営する「男のエステ ダンディハウス」「エステティック ミスパリ」の静岡市内の店舗。エステ・ユニオンによると、勧告内容は、(1)休憩時間が法定通り取得できていないこと、(2)時間外労働に対する賃金が支払われていないこと。

元社員の女性は2013年4月、エステティシャンとして入社した。女性によると、定時(11時〜20時)以外も働いていたが、休憩時間は1日平均30分くらいしかとれず、さらに実労働時間をまったく加味していない労働時間記録の偽装がおこなわれていたという。女性は今年8月に退社した。組合の計算によると、過去2年間の未払い賃金は約155万にのぼる。

女性はこの日の会見で「会社には、社員が休憩がとれて、休日も休めて、仕事に集中できる環境にしていてほしい。長時間労働でうとうとしながら仕事をする光景もあった。100%の技術を提供できる環境を整えてほしい」と話した。

エステ・ユニオンの佐藤学さんによると、今年2月には、ミス・パリ本社に対して中央労働基準監督署から労働基準法に基づく是正勧告が出ているという。佐藤さんは「社内全体で汲み取られて改善に結び付けられていなかった。全社的な改善を求めたい」と語った。


(以下略) <<
「エステ・ユニオン」――昨今のユニオン(労組・要求実現型の労働組合)界隈では何かと取り上げられる組織です。かの今野晴貴氏も、エステ・ユニオンを取り上げていらっしゃいました。

いまや「労働運動専門家」という肩書きが板についてきた今野氏によると、職場にユニオンが存在することは、労働環境の継続的維持につながるとのことです(編集の都合上、これを「記事A」とします)。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/konnoharuki/20150221-00043235/
>> たかの友梨が「究極のホワイト企業」に変貌
今野晴貴 | NPO法人POSSE代表。雇用・労働政策研究者。
2015年2月21日 13時16分配信


(中略)

職場にユニオンができ、継続的に交渉していくのであれば、体質がもとに戻らないように監視することができる。また、継続的な改善を話し合いで進めていくことにもなるだろう。

(以下略) <<
それゆえ、今回の報道は今野晴貴氏にとっては満足行くものだったことでしょう。多くの労組活動家も同様の認識でいることでしょう。

また、今野氏によると、労組は労働基準監督署(労基署)よりも有用だそうです(編集の都合上、これを「記事B」とします)。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/konnoharuki/20160418-00056746/
>> ブラック企業に入ってしまったとき、どこに相談すればいいか?
今野晴貴 | NPO法人POSSE代表。雇用・労働政策研究者。
2016年4月18日 11時36分配信


(中略)

ただ一方で、労基署は「守備範囲」が狭いという特徴がある。明らかな賃金未払いなど、労働基準法など特定の法律で罰則が定められた範囲でしかその取り締まりができないのだ。パワーハラスメントや「解雇の撤回」などはたとえそれが明らかに違法であっても労基署は手を出せない。

また、労基署は、その「職員の少なさ」もよく指摘されている。労働基準監督官で実際に取り締まりに当たるのは全国に1500人ほどで、東京23区には、たった139人しかいない(2012年)。これは、監督官ひとりが3000事業所を監督しなければならない計算である。そのため、1件1件丁寧に対応することが物理的に難しくなっており、彼らは大企業のような社会的影響の大きい企業の捜査や、確実に立件できる証拠がそろった案件に注力する傾向がある(もちろん、監督官の個性にもよるが)。

さらに、労基署の相談窓口にはこれら監督官が対応せずに、相談員と呼ばれるアルバイトの職員が対応することが多い。運が悪いと、専門知識が不足した担当者に当たることもある。「そういうことはよくあることだからね」などと、適当にあしらわれてしまうケースもあるのが実情だ。


(中略)

最後に、ユニオンである。ユニオンには労働組合法上の特別な権利があり、個別の労働問題に対しても、解決する法的な能力を持っている。

ただし、ユニオンも弁護士と同じように、解決能力に差がある。

まず、企業の中の労働組合(企業別組合、大企業に多い)は、経営側とつながっていることが多く、相談するとかえって問題が悪化してしまうことも珍しくないので、おすすめは出来ない。

一方で、企業外の地域別労働組合(=ユニオン)も、団体によって解決のノウハウやモチベーションにはかなりのばらつきがあるため、注意が必要だ。

ただ、そうした前提さえクリアすれば、ユニオンは意外と使える。

ユニオンに相談した場合の一般的な流れは次の通りだ。まず、法的関係や労働組合の意義について一通りの説明を受ける。その後、話に納得すると組合に加入して、会社に団体交渉の申し入れをして、問題解決の話し合いをする。

普段の職場では、労使は対等ではない。上司や会社が言うことは、基本的に逆らえないものだ。しかし、団体交渉の場における話し合いは、労使が対等な立場である。

しかも、そうしたユニオンでの交渉は法的に強く守られている。例えば、ユニオンが会社に団体交渉を申し込めば、会社はそれを断ることが出来ない。もし断ったらそれ自体が「不当労働行為」という違法行為になってしまうのである。また、ユニオンに加入したり、団体交渉をしたことを理由に、会社は労働者に不利益な取り扱いをすることもできない。

また、団体交渉は、あくまで「話し合い」であるため、労基署のように労働基準法にしばられることはない。賃金・残業代の未払いはもちろん、パワハラやセクハラを辞めさせたり、解雇の撤回や、最近話題になっている「求人詐欺」についてもその人次第では争うことが出来るのだ。

さらに、ユニオンは「労働協約」という形で、違法行為の是正だけでなく、法律を上回る水準のルールを設けて、労働条件の全社的な改善をも行うことが出来る。

昨年、エステ会社の大手「たかの友梨」でユニオンが労働協約によって会社改善を果たしたが、これについては、こちらの記事を参照してほしい。

たかの友梨が「究極のホワイト企業」に変貌

自分の労働問題を解決することはもちろん、会社全体を、また業界全体をも改善する特別な権利をもっているのがユニオンなのだ。


(以下略) <<
労基署への評価と比較して、ずいぶんと労組を評価していらっしゃる今野氏の言説です。これもまた、多くの労組活動家も同様の認識でいることであることでしょう。

さて、いま引用した2つの記事を考慮しつつ、最初の引用記事(エステ・ユニオンの件)について検討してみましょう。結局、エステ・ユニオンは、たしかに今野氏が「記事A」で言うとおり「体質がもとに戻らないように監視」していたものの、今野氏が散々に「記事B」でその「限界」を指摘していた労基署への告発に至ったのです。率直に言って、これは中世的封建時代以来の「お代官様お願げえしますだ」の枠を越えていないと言わざるを得ません。いや、それしかできなかったのかもしれません。

ユニオンの活動が、労基署への告発;要するに役所頼みの階級闘争である限りは、労働の自主化など夢のまた夢です。労組関係者は、「いや、これが積み重なれば労働の自主化に繋がるのだ!」と言うかも知れません。しかし、そうした組合活動家的認識は、「物事の質と量の差異を無視している」と言わざるを得ません

役所頼みの階級闘争は、本質において他力本願です。他力本願は、自主の対極にあるものです。他人の力に頼った路線を歩む限りにおいては、他人の都合に自らの生活を委ねるという意味において、自らの運命の主人であると言えません。そしてそれは本質において安定的ともいえません。他人の都合が変われば、自らの生活はいとも簡単に揺らぐことでしょう。譲歩してくれる企業の「博愛」精神、代理で戦ってくれる労基署の人員状況・・・そうしたものに自らの生活を依存する労働者の生活が、自主的・安定的とは到底いえません。特に労基署の都合は、「あの」今野氏も労基署の限界を正しくも指摘しているのですから、議論の余地はないでしょう。

加えて、労組活動は労働者階級の立場を逆に弱め得ることをも指摘しなければなりません。企業の「博愛的譲歩」に頼るべきではないのです。これについては、チュチェ104(2015)年10月8日づけ「「日本の労働組合活動の復権は始まっている」のか?――労組活動は労働者階級の立場を逆に弱め得る」にて論じた「労組活動は労働者階級の立場を逆に弱め得る」の該当箇所を再掲しておきます。
>> 労働者が真の意味で自主的になるためには、企業側に足許を見られないために特定の勤め先に対する依存度を下げることが必要です。なぜ電力会社が一般電力消費者に対して殿様商売ができる(できていた)のかといえば、他に売り手がいないからです。なぜ、自動車メーカーが下請け工場の部品をふざけた値段にまで値切ることができるのかといえば、他に買い手がいないからです。他に売り手/買い手相手が居ないとき、買い手/売り手は、売り手/買い手に対して依存的立場・弱い立場に置かれます。前述の競争市場の基本原理に対して独占市場の基本原理です。

労働者は同時に一企業でしか働けないのに対して、企業は同時に複数の労働者を雇用し得ます。いくら労働者が束になったところで、労働者が「できればその企業で勤め続けたい」という願いを前提として団体交渉に臨んでいる限り、最終的には企業側の掌の上に居続けます。企業は需要独占者の立場に居続けます。ミクロ経済学における「価格弾力性」を思い浮かべてください。ミクロ経済学によれば、需要者に対して供給者の価格弾力性が硬直的であった場合、たとえそれがマーシャリアン・クロスが成り立つ非独占・非寡占の市場であっても、取引の主導権は需要者側にあるといいます。分かりやすくいえば、「生活必需品でない商品は買わなくても消費者は困らないが、それしか商材のない生産者は何とかして売り切らなければならないので、結果的に値切り交渉・在庫処分安売りセールが起こりやすい」と言えばよいでしょう。これと同様に、「できればその企業で勤め続けたい」という労働者(労働供給者)の願いは、ミクロ経済学的には「需要者に対して供給者の価格弾力性が硬直的」と解釈できます。これはすなわち、こうした前提で臨む限り、団体交渉における労働者の立場は弱いということを示します。
<<

役所(労基署)頼みの階級闘争、中世的封建時代以来の「お代官様お願げえしますだ」の枠を越えていない労組運動から質的に脱しない限り、労働者階級の自主化はあり得ません。現状は、まだまだ中世的封建時代の延長線上にあります。そして、労組運動家自身が、そうした事実に気がついていないという危機的な状況です。
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2016年11月11日

「反知性主義」批判という名の観念論――最近の観念論者の自己弁護

■「トランプ氏当選」に対するエリート主義者の偽りざるホンネ
「トランプ氏当選」の衝撃は日本国内を揺るがしています。驚きのあまり、Brexitのときと同様に、一種のレッテル貼りにも等しい、頭ごなし的かつ単一要素還元論的な構図を描いて理解しようとする動きが目立ちます。昨日づけ「リベラルは金持ちの道楽――アメリカ大統領選を巡って」でも取り上げたとおりです。

そうした中、「「トランプ支持者は理解できない」で終わり? メディアが見誤った彼らの感情」という記事が公開されました。一見して、頭ごなし的レッテル貼りとは異なる論考かと思いきや、昨日付け記事でご紹介した田原総一朗氏の記事よりも酷いwしかしながら、エリート主義者の偽りざるホンネがよく現れていると思われます。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161111-00010001-bfj-int&p=1
>> 「トランプ支持者は理解できない」で終わり? メディアが見誤った彼らの感情

BuzzFeed Japan 11/11(金) 9:17配信

「なぜ、トランプ氏が支持されるのか。メディアがわかっていなかった。それ自体が、アメリカの『分断』です」。東京大学教授で、アメリカ研究を教える矢口祐人さんはこう指摘する。【BuzzFeed Japan / 石戸諭】


(中略)

「トランプ支持者」の視点からみることができなかった

(中略)

彼らのリアリティ「自分たちは虐げられている」

では、トランプ支持者からはどういうアメリカが見えているのか。矢口さんとともに、例えば、こんなストーリーを想像してみる。

白人しかいなかったある地方の街。そこで生まれ育った白人男性は、10年間まじめに働いたのに、一向に給料はあがらないし、周囲も含めて自分たちの生活がよくなったという感覚はないーーもっとも、彼らの収入はけっして低くはないのだが……ーー。それなのに、この間ヒスパニック系などのマイノリティは明らかに増えて、近くにも住むようになった。

都市部は潤っていて国の経済も好調だというのに、自分たちの街の産業は撤退し、恩恵からどこか取り残されている。それなのに、連邦政府はマイノリティのケアばかりを優先しているようにみえる。何かおかしくないか。政府はどうして彼らを優遇するのか……。

そこにトランプ氏の言葉が聞こえてくる。「メキシコからの移民は強姦犯で、アメリカ国民から仕事を奪っている」「アメリカを再び偉大にしよう」

「彼らの根底にあるのは、自分たちの生活を良くしてほしいという当たり前の感情です。自分たちの生活を大事にしている。ある意味では普通の市民だと思います」

「大事なのは、彼らの世界から見ると、移民やマイノリティは優遇されているのに、どこか自分たちは産業がなくなり取り残されている、という理屈が成り立つということです」

「インテリからすれば、 街の人口構成の変化と、産業の衰退は関係ないというでしょう。しかし、彼らは体感的に理解しているため、被害者意識が強くなる」

トランプ氏の移民排斥発言を本当に支持しているのだろうか。矢口さんは、彼らの多くは移民すべてに反対するわけではなく、連邦政府が不法移民に甘過ぎると感じている、と指摘する。

なにより大事なのは彼らの感情は、自分たちの生活向上にあり、自分たちが虐げられている体制を打破してほしいという思いにあるのだ、と。

それはサンダース現象と共通している

自分たちは被害者であり、既得権益を破壊して欲しい。トランプは愚かな面があるかもしれないが、プロの政治家で、既得権益の中にいるヒラリー・クリントンよりマシではないか。そして、彼女よりずっと信頼できるのではないか。

そんな、自分たちの思いを都市に住む人たち、メディアやインテリは誰もわかっていない。

こうした感情を持っているのは、果たしてトランプ支持層だけだろうか。具体的な主張も、政治的立場も真逆だが、バーニー・サンダース氏の躍進ともつながっているとみる。

「表面的な主張は真逆ですが、サンダース氏も反グローバル化、反エリート、反エスタブリッシュメント(既存体制)。既存体制を打破しようというところは、共通しています」


(中略)

トランプは反知性主義?

反エリート、反既得権益。想起するのはアメリカに流れる「反知性主義」という価値観だ。それを簡単にまとめるとこうなる。

立派な勉強を積んだ人が偉いのではない。彼らエリートは、時として、普通の人たちの、上からお説教を垂れる。エリートは、ろくに知りもしないのに、普通の人たちの考えを十分に尊重しない。普通の人たちだって、知恵はあるし、日々の生活で培った知恵はエリートの座学に勝る。エリートに支配されるくらいなら、普通の人が関わったほうがいいではないか。

トランプ氏はアメリカに流れる「反知性」の流れに乗ったのか。

「クリントン=プロの政治家、トランプ=政治の素人という構図を描き、反知性主義の最良の部分を装った、とはいえるでしょう」


(以下略) <<
はじめのほうこそ「「トランプ支持者」の視点からみることができなかった」というものの、それ以降の矢口教授の分析は、まさしく「経済要素還元主義」。昨日付け記事でもご紹介した「トランプ旋風でわかった“インテリの苦悩” ハーバードの学生がトランプ支持を表明できない事情」や「1年前に直感 木村太郎氏「トランプ大統領誕生」なぜ予言できたのか」、そして本日新たに公開された「日本人が知らない「トランプ支持者」の正体」で分析されている多層的・多元的分析に比べて、あまりにも貧弱な分析です。

※注1:昨日・一昨日の記事の繰り返しになりますが、私は「政治・経済・思想文化のアンバランス」から分析するチュチェ思想の立場に立っています。経済的要素による分析は「真実の一側面」を含んでいるとは思いますが、それだけでは不十分だと見ています。

※注2:参考までに「日本人が知らない「トランプ支持者」の正体」のポイントと思われる箇所を引用します。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161111-00144726-toyo-bus_all&p=2
>> 日本人が知らない「トランプ支持者」の正体

東洋経済オンライン 11/11(金) 12:25配信


(中略)

トランプの何に希望を見出したのか?

 第1に中西部の共和党に多い伝統的なアメリカ人は、政府は何もしてくれない、といった怒りに突き動かされているわけではない。海岸文化が象徴するものがリベラリズム、多様性、グローバリズムだとすれば、中西部の文化が象徴するのは頑ななまでの自立心であり、具体的には神への信仰と勤勉さと創意工夫だけを頼りに自ら切り開いていく生活と家族愛だ。

 それは政府への疑念や公共の施策から取り残された疎外感ではなく、個人の生活を支配する権力への警戒と健全な懐疑、つまりはアメリカ伝統の保守主義である。彼らがトランプを支持したとすれば、怒りというより、リスクをとって自力で成功への道筋をつけた彼への尊敬と期待のほうが大きいように思う。これは筆者の彼の地での遠いが鮮烈な記憶からの推察である。

■「実業家大統領」への憧れ

第2に、中西部でなくともアメリカという国は、他の文化と比べてビジネスマン、とくに独立独行の大実業家を讃える伝統が根付いている。昨年12月の記事「日本人が知らない"カネの国"アメリカの美徳」でも触れたが、彼らの間にはおそらく根強い実業家大統領への憧れがあった。 経営者から低賃金の労働者から零細の自営業者まで、私企業で働くビジネスマンは誰もが日々グローバルな競争にさらされ、とくにアメリカではいつリストラされるか、あるいは新興国の競合にシェアをうばわれるかといった強迫観念と緊張感のなかで仕事をしている人が多い。だから本物の実業家が政治のトップに立てば、同じ規律と緊張感をもって政府のリストラを進め、商売をなるべく楽にしてくれるのではないかという期待があったのかもしれない。

 リスクを張って市場で戦うすべての事業者同様、トランプも政府による数多くの規制にとまどい、多くの従業員を抱えながら訴訟も戦い、胃の痛い思いを何度もしてきたことだろう。チャレンジしては失敗し、それを繰り返して大きな事業を築き上げた。法人税のカットはもちろん、複雑な法務・労務・税務などのプロセスの簡素化も進めてくれるかもしれない。ギャンブル性の高い不動産業出身であることはかなり不安だが、卓越した交渉能力で通貨安競争に歯止めをかけ、公正な貿易条件を担保してくれるかもしれない…、等々。

 ヒラリー・クリントンが生涯をかけて立場の弱い女性や子供の権利や生活の向上のために戦ってきたことは尊敬に値する。多くのアメリカ人は「寛容な国民」だ。だがもしグローバル経済の荒波がアメリカの隅々にまで押し寄せてきているならば、より差し迫った課題は目の前のグローバル競争にどうやって生き残るかであり、現役世代のビジネスパーソンの大勢は、おそらくトランプの経営者としての手腕に賭けたのだ。

 この期待は、ある限られた市場のなかでの社会正義に生きる政治ジャーナリストには、共有できないものだったのかもしれない(FOXテレビの司会者ショーン・ハニティーなど少数の例外はいたが・・・)。

第3の理由は?

第3に、これも以前の記事(日本人が知らないアメリカ的思想の正体)で紹介したことだが、自由至上主義者(リバタリアン)たちの存在があったことを見逃せない。わかりやすい例ではクリント・イーストウッドなど、政府からの自由こそがアメリカのアイデンティティであると信じている人たちである。 思想的にはリバタリアン党のゲイリー・ジョンソン(元ニューメキシコ州知事)に近く、世論調査からは全有権者の10%超をリバタリアン支持者が占めていたと思われる。リバタリアンといわれる彼らは茶会(ティーパーティー)運動を後押しし、2010年の中間選挙で共和党躍進の原動力ともなっていた。


(以下略) <<
※参考終わり、本論に戻る。

経済還元論的な貧弱な分析を述べた上に、矢口教授は、よりにもよってトランプ氏への支持と「サンダース旋風」なるヨタ話を共通の土台で語る始末。「サンダース旋風」なるものが存在しなかったことは、たとえば以下にも述べられています。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161109-00010000-senkyocom-pol
>> (前略)日本における報道ではヒラリーVSサンダースが注目されてサンダース旋風が止まないという誤った報道がなされていました。なぜ誤ったと断言できるかというと、民主党予備選挙参加者はオバマVSヒラリーの2008年時よりも減少しており、実はあまり盛り上がっていないことが明らかだったからです。

それに比べて共和党側予備選挙はトランプ効果で予備選挙参加者数が2012年と比べて激増していました。この新規の予備選挙参加者は予備選段階で「共和党」に一度コミットした形になります。そのため、トランプ支持者でなかったとしても大統領選挙本選で共和党指名候補者に投票する可能性が高いものと推測されました。

たとえば、フロリダ州の共和党予備選挙では2012年・167万人から2016年・236万人まで増加していましたが、民主党の予備選挙では2008年・175万人⇒2016年・171万人に減少しました。2012年大統領選挙本選でオバマ・ロムニーの差が約8万票しかありませんでしたから、今回の本選挙における勝利にトランプ効果が果たした貢献は大きいと言えるでしょう。
(以下略) <<
「サンダース旋風」なるものは、実際には、「アメリカ大統領選挙指名争いに(自称)社会主義者が勝ち残っている!」という、事実を過度にフレームアップしたものに過ぎなかったのです。

■観念論者の自己弁護に堕落しつつある「反知性主義批判」――百害あって一利なし
もっとも、これだけであれば、矢口教授の言説は昨日取り上げた田原氏の言説と大差ないレベルでした。しかし、ここで矢口教授が取り出してきたのが、なんと「反知性主義」(!)。

「反知性主義」というワードは一部界隈では流行っており、論者によって指す所が異なっているマジックワードですが、ご丁寧に矢口教授は、指し示す所を定義してくれています。改めて引用しましょう。
>> 立派な勉強を積んだ人が偉いのではない。彼らエリートは、時として、普通の人たちの、上からお説教を垂れる。エリートは、ろくに知りもしないのに、普通の人たちの考えを十分に尊重しない。普通の人たちだって、知恵はあるし、日々の生活で培った知恵はエリートの座学に勝る。エリートに支配されるくらいなら、普通の人が関わったほうがいいではないか。 <<
昨日の記事における田原氏の物言いを遥かに超えるレベルで、エリート意識を隠そうともしていません。記事冒頭で「「トランプ支持者」の視点からみることができなかった」などと述べて、「頭ごなし的なレッテル貼り」ではない「寄り添うような論考」を期待させておきながら、このパラグラフはその期待をぶち壊しました。たしかに、「頭ごなし的なレッテル貼り」ではありませんが、「動植物を観察するかのような論考」と言わざるを得ません。矢口教授は、単純に学問的分析に徹しているだけなのかもしれません。しかし、たとえそうだとしても、このような「彼我二分的」な見方では、学問的な分析も十分にはできないでしょう。

■毛沢東大衆路線に立て!
本当の意味で「トランプ支持者」の視点に立つのであれば、彼らが実際に何を考え、求め、行動しているのかを、彼らが置かれた環境に寄り添い、彼ら輪の中に入り込み、彼ら自身の言葉をもとに考える必要があります。決して、彼我二分法的に見てはならず、ましてや見下すような姿勢であってはなりません。

彼らを「下層」と言って見下すのは容易いことですが、下層であるからこそ、現実世界の最も厳しいリアルを身をもって経験しています。無責任な観念論者ではなく、現実から出発するリアリストであるならば、生活の現場からの声に耳を傾けるべきです。学問的探求という目的の追究においても、リベラルな政治運動の再生という目的の追究においても、いずれにせよ、現場との対話・説得は第一歩であるはずです。見下しているようでは、対話も説得も成立しません

また、政治は人民大衆の現実の生活のためにあるものです。大衆の必要こそ政治の任務なのです。大衆が誤っていると言うのならば、「正しい道」をエリートが示し、説得すればいいだけ。それができないのならば、それは、「低脳」の誘導さえできないという意味で、「エリート」こそが自信過剰な無能であることを証明しているに他なりません(最近の朝日新聞なんて、ご自身たちの裸の王さまっぷり、無能っぷりを日々証明していますよね)。政治は「リベラル」の道楽ではありません。

その意味で、以前から繰り返し指摘しているように、毛沢東大衆路線に立つべきです。わが愛読書である『毛主席語録』から、いくつかの言葉を引用しご紹介します。
>> 共産党員は学習の模範となるべきであり、(中略)毎日が民衆の教師であるが、またその毎日が民衆の生徒でもある。
「民族戦争における中国共産党の地位」(1938年10月)、『毛沢東選集』第2巻
<
>> 共産党員は、おくれた人びとにたいして、かれらを軽くみたり、みくだしたりするのではなくて、かれらに接近し、かれらと団結し、かれらを説得し、かれらの前進を鼓舞する態度をとるものである。
「民族戦争における中国共産党の地位」(1938年10月)、『毛沢東選集』第2巻
<<
>>  大衆の生産、大衆の利益、大衆の経験、大衆の気分、これらすべては、指導的幹部がいつも注意をはらわなければならないことである。
中央直属機関と軍事委員会直属機関の生産展覧会のための題辞、1943年11月24日づけ延安『解放日報』
<<
>>  いかなる指導要員も、もし下部の個別の組織の個別の人や、個別のできごとから具体的な経験をくみとらなければ、すべての組織にたいして普遍的な指導をおこなうことはどうしてもできない。各級の指導的幹部がみなこの方法を身につけるように、この方法をひろく提唱しなければならない。
「指導方法のいくつかの問題について」(1943年6月1日)、『毛沢東選集』第3巻
<<
>>  われわれの大会は、それぞれの部署で活動している一人ひとりの同志が、大衆から遊離しないように注意を喚起することを全党によびかけるべきである。人民大衆を熱愛し、注意ぶかくその声に耳を傾けること、どこにいってもその土地の大衆ととけあい、大衆の上にあぐらをかくのではなく、大衆のなかにふかくはいること、大衆の自覚の度合いに応じてその自覚を啓発、向上させ、大衆の心からの自発的意志の原則にしたがって大衆がしだいに組織化され、その時その場所の内外環境のゆるすすべての必要な闘争をしだいに展開するのを援助することについて、1人ひとりの同志を教育することである。
「連合政府について」(1945年4月24日)、『毛沢東選集』第3巻
<<
>>  わが党のすべての実際工作において,およそ正しい指導は、大衆のなかから大衆のなかへ、でなければならない。それは、つまり大衆の意見(分散的な、系統だっていない意見)を集中し(研究をつうじて、集中した、系統だった意見にかえる)、これをふたたび大衆のなかへもちこんで宣伝、説明し、これを大衆の意見にし、これを大衆に堅持させて、行動にうつさせ、また大衆の行動のなかで、それらの意見が正しいかどうかを検証する。そして、その後、ふたたび大衆のなかから意見を集中し、ふたたび大衆のなかへもちこんで堅持させる。このように無限にくりかえして、1回ごとに、より正しい、よりいきいきとした、より豊かなものにしていくのである。これがマルクス主義の認識論である。
「指導方法のいくつかの問題について」(1943年6月1日)、『毛沢東選集』第3巻
<<
>>  大衆に結びつくためには、大衆の必要と自発的意志にしたがう必要がある。大衆のためのすべての工作は、たとえ善意であっても、いかなる個人的願望からも出発すべきではなくて、大衆の必要から出発すべきである。多くのばあい、大衆は、客観的にはある種の改革を必要としていても、主観的にはまだそのような自覚をもたず、決意がつかず、まだ改革の実行をのぞまないので、われわれは辛抱づよく待たなければならない。われわれの工作を通じて、大衆の多数が自覚をもち、決意がつき、みずから改革の実行をのぞむようになってからこのような改革を実行すべきであって、さもなければ、大衆から離れてしまうであろう。大衆の参加を必要とするすべての工作は、もし大衆の自覚と自発的意志がなければ、いたずらに形式に流れて失敗するであろう。……これには2つの原則がある。1つはわれわれの頭のなかの幻想からうまれた必要ではなく、大衆の実際の必要ということである。もう1つは、われわれが大衆にかわって決意することではなく、大衆の自発的意志にたより、大衆自身が決意することである。
「文化活動における統一戦線」(1944年10月30日)、『毛沢東選集』第3巻
<<
>>  大衆がまだ自覚していない時に、われわれが進撃にでるなら、それは冒険主義である。大衆がやりたがらないことをわれわれが無理に指導してやらせようとすれば、その結果はかならず失敗する。大衆が前進をもとめている時に、われわれが前進しないなら、それは右翼日和見主義である。
「晋綏日報の編集部の人たちにたいする談話」(1948年4月2日)、『毛沢東選集』第4巻
<<
現実を生きる大衆から遊離した「知識人」は、容易に観念論に転落します。毛主席の教示に学び、大衆とともに学びあう姿勢が、「反知性主義」でも「観念論学者」でもない唯一正しい認識を得ることができる路線なのです。

それにしても、矢口教授の「反知性主義」の定義は、「エリート主義的意識の塊の産物」というほかありません(そもそも本来的な「反知性主義」ってこういう意味でしたっけ?)。「経験論が完全だ」と言うつもりはありませんが、しかし、「反知性主義」なるものの昨今の拡大は、「知性主義」なるものの行き詰まりの観が見えている、換言すれば、「高名な学者が観念論に堕落しているのではないか」という疑念などから出てきているわけです(動機は複合・多層的でしょうが)。そうした疑念に対する自省もそこそこに、「反知性主義」という単語を安易に濫用させると、傍から見ると「観念論者の自己弁護」にしか映りません。まして、大統領選挙の文脈で「反知性主義」などと口走るのは、もはや「単なる悪口」の域にも達しつつあるとさえ言えます。

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(チュチェ106(2017)1月23日に、毛主席語録に学ぶ段落について、論旨が変わらない範囲で内容を補充しました)
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2016年11月10日

リベラルは金持ちの道楽――アメリカ大統領選を巡って

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161110-35836577-bpnet-int&p=1
>> 田原総一朗:「トランプ大統領」誕生の先に何が起こるのか?

nikkei BPnet 11/10(木) 9:57配信


(中略)

「アメリカ・ファースト」の主張にプア・ホワイトが共感

(中略)

トランプ氏勝利はリベラルの敗北

 アメリカでは、共和党というのは保守だ。民主党はリベラルだ。そのリベラルが今、アメリカでは支持を得ていない。実は、アメリカのニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストなど一流紙は、「アンチトランプ」を唱えていたが、マスメディアというのは基本的にリベラルというのが理由でもある。それは日本でも同様だ。

 ところが、リベラルであるためには、ゆとりがなければならない。それから、将来の見通しがないとリベラルに賛同することはできない。

 今のアメリカ人は、ゆとりもない。将来展望もない。オバマ大統領は、2008年の大統領選挙で、「アメリカの夢」を掲げて当選した。アメリカ人はそれに心を動かされ、オバマ大統領を支持した。

 ところが、夢を掲げたものの、夢は何も実現しなかった。アメリカは、将来展望がなく、ゆとりもなくなってしまった。そういう中で、リベラルが生存する条件が、非常に厳しくなってきたのだ。

 そこで、クリントン氏は、オバマ大統領の路線を継承してリベラルを守ろうとしている。しかし、アメリカ人にとって、クリントン氏の発言は、エリート意識が丸出しだとして賛同できなかった。

 クリントン氏は自分たちとは違う。クリントン氏がリベラルを主張できるのは、彼女が金持ちで、エリートだからだというイメージを、国民に植え付けてしまった。だから、国民から見ると、クリントン氏は上から目線に思えてしまう。これが、クリントン支持が広がらなかった大きな理由だと思う。


(中略)

アンチ・グローバリズムの流れが加速

(中略)

 グローバリズムに乗れない人は、ゆとりがない。こうして追い詰められた人たちが、自分のことしか考えられなくなる。それが、アメリカでも起きていて、トランプ氏の言う「反リベラリズム」「反グローバリズム」に国民が共感したのではないのか。

(以下略) <<
経済還元論的・階級的分析は、今回のアメリカ大統領選挙に限らず、Brexitのときにも大いに見られたものです。過去におけるマルクス主義的流行を未だに踏襲しているのかどうかは分かりませんが、それなりに「歴史」のある切り口です。

しかし、このような経済還元論的・階級的分析は、往々にして「エリート主義」的な物言い・結論に至りがちです。多くの経済還元論者・階級分析論者は、明確にはそうは言わないものの、どうしても行間から垣間見ることが出来ることが少なくありません。そんな中での田原氏記事。隠そうともしていませんw

リベラルであるためには、ゆとりがなければならない。」と「今のアメリカ人は、ゆとりもない。」や「グローバリズムに乗れない人は、ゆとりがない。こうして追い詰められた人たちが、自分のことしか考えられなくなる。」といったくだりを読むと、「リベラルって金持ちの道楽?」という感想を禁じえません。

もっとも、「グローバリズムに乗れない人は、ゆとりがない。こうして追い詰められた人たちが、自分のことしか考えられなくなる。」という指摘が事実であることは、私は一概に否定するつもりはありません。私は「政治・経済・思想文化のアンバランス」から分析するチュチェ思想の立場に立っており、「経済的困窮・労資階級的対立」に還元する立場ではありませんが、田原氏の分析には真実の一側面は含まれていると思います(要は「不十分」ってこと)。

しかし、こうした厳然たる事実を指摘した上でリベラル擁護の論調を張るのであれば、まして「「トランプ大統領」誕生の先に何が起こるのか?」というのであれば、本来的にリベラルの支持基盤としなければならない層を取りこぼした事実から、再生する見通しを論じるべきでしたリベラルは支持基盤にも見放されて完敗しているのです。まことに危機的な状況という他ありません。そんな状況下で、再生の道筋を欠いた「分析」に終始しているようでは、結局は単なる「エリート主義者の負け惜しみ」にすぎないと言わざるを得ません。支持基盤とすべき人々を罵るようでは、「リベラル再生」など夢のまた夢(多数決による民主主義なのだから当然)。「やっぱりリベラルって、実現なんて二の次の金持ちの道楽にすぎないんだな」という認識を深めるほかありません。ここ最近、リベラルの敗北が続いている(少なくともBrexitの先例があった)のですから、少しくらいは用意してあってしかるべきです。

もちろん、実際は田原氏が想像しているほど単純な構図ではないので、ここで仮に田原氏が詳細に再生のための処方箋を提言していたとしても、それは的外れなものになっている可能性が高いです。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161109-00514398-shincho-int&p=1
>> トランプ旋風でわかった“インテリの苦悩” ハーバードの学生がトランプ支持を表明できない事情

デイリー新潮 11/9(水) 8:01配信


(中略)


 さて、ここまでハーバードにおけるトランプ支持者の“思惑”に触れてきた。だが、トランプを支持していたのは彼らのような熱心な共和党支持者や、キリスト教徒だけなのだろうか。

 私は思い出していた。ハーバード・ロースクールの友人であるケヴィンが、

「ヒラリーは信用できない。トランプの方がまだ信用できるよ」

 と、酔った勢いで呟いていたことを。

「表現の自由」について学ぶクラスで、リベラルな教授は言う。

「共和党の指名争いは、歴史上稀に見る恥ずべき状態になっている」

 トランプを「差別する人」、マイノリティを「差別される人」と表現した教授に対し、授業後の立ち話でケヴィンは不快感を隠そうとしなかった。

 その決めつけこそが、ステレオタイプな差別だというのだ。


(中略)

■「差別主義者」のレッテル

 ハーバードを卒業した白人男性は、「僕らは自分の意見を自由に表明することができない」という。ポリティカル・コレクトネスが行き過ぎた現在のアメリカでは、白人男性であることはむしろ「原罪」なのだ。努力して好成績を修めても、「優遇されてるからでしょ」と批判されることもあるという。下手に反論すれば「差別主義者」のレッテルを貼られてしまう。

 私の留学中に、人種差別に抗議した黒人学生がロースクールのロビーを何カ月も占拠する事件があった。学校側は黒人学生たちに「どきなさい」とは言わないし、彼らが大量に貼り付けたポスターもそのままだ。にもかかわらず、ロビー占拠に抗議した白人至上主義の学生が、トランプのポスターを貼ると学校側によって瞬時に撤去された。

 親しくなったハーバードの学生たちも「ロビーを自由に使いたい。占拠はやり過ぎだ」と口を揃えていた。

 だが、どうして学校側に抗議しないのか尋ねると、

「自分が矢面に立って“人種差別主義者”のレッテルを貼られたら、この国ではまともに就職できないよ」

 とあきらめ顔。

 ケヴィンも酔った席での戯言を除いてオフィシャルにトランプ支持を表明することはない。

 ポリティカル・コレクトネスが何より重んじられるアメリカ。インテリ層がこれを間違うと大変なことになる。信用を失い、名誉を失い、将来を失う。

 トランプ支持を堂々と表明できる、粗野で素朴な南部の白人男性たちはよい。それを公表できない白人インテリ層のなかにこそ、ふつふつと不満が堆積していたのかもしれない。そして、溜りに溜まった鬱憤が、トランプ旋風に一役買ったのではないか。


(以下略) <<
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161110-00000089-spnannex-ent
>> 1年前に直感 木村太郎氏「トランプ大統領誕生」なぜ予言できたのか

スポニチアネックス 11/10(木) 8:13配信


(中略)

  僕が初めてトランプが大統領になると直感したのは昨年12月。当時の報道を見て、彼の暴言の数々は、米国人が言いたくても声に出せないことだと感じたからです。移民や経済格差の問題にしても多くの米国人が心の中で思っていた。それを率直に表現したからこそ有権者に響いたんですよ。

 先月取材のため、米国に行ったのですが、トランプ勝利を確信するとともに大差もあるんじゃないかと思いました。有権者に「どちらに票を入れるのか」と聞くと、最初は言葉を濁す。投票に行かないという人もいた。でも、よくよく聞くとトランプ。「なぜ隠すのか」と聞くと「マスコミが想定するトランプ支持者は低所得の白人で人種差別主義者で女性蔑視の人たち。隠さない方がおかしい」と言う。だから調査会社の質問にも多くの人が態度を明らかにしませんでした。「隠れトランプ支持」の数は想像以上だ、と思いましたね。


(以下略) <<
単純な構図で考えている人たちには、逆立ちしても出てこない分析です。このような現実を正しく認識しておらず、そして、間違った認識に基づく処方箋すら提言できていない「2重の壁」に直面しているのがリベラルの現状なのです。

結局、事実を認識するにあたって単一要素に還元しようとする思考や構図的に理解しようとする思考に、身体から滲み出てくるエリート意識が合わさると、こうした「お高くとまりつつ、あまり意味のない分析」が出てくるのでしょう。そして、リベラルな見立てがあまりにも無残に粉砕される出来事が連続している中で「混乱状態」あるいは「阿Q状態」に陥り、フリーズしているのが現状なのでしょう。

もちろん、物事を分析するには一定程度の要素還元や構図化が必要になります。問題は、「変わり映えのない、型にはめるような、少数の要素への半ば強引な還元」「いつも同じ構図の展開」です。もっと言えば「認識の発展の欠如」です。田原氏の分析はあまりにも使い古された単純な方法論です。現実を上手く分析できず、よってフリーズ状態になるのも当然です。

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11月9日づけ「トランプ氏の当選を労働者階級として敢えて歓迎する――政治改革の幻想が打ち砕かれた「トランプ後」こそが、いよいよ労働者階級にとって正念場になる
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2016年11月09日

トランプ氏の当選を労働者階級として敢えて歓迎する――政治改革の幻想が打ち砕かれた「トランプ後」こそが、いよいよ労働者階級にとって正念場になる

トランプ大統領誕生です。Brexitにつづく「生活者の怒り」が原動力になったようです。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161109-00011693-wsj-int
>> トランプ氏の強さ、地方とブルーカラーが背景
ウォール・ストリート・ジャーナル 11/9(水) 15:52配信

 ホワイトハウスを勝ち取るための戦いは大接戦にもつれ込んでいる。その背景には、共和党のドナルド・トランプ候補が地方やブルーカラー労働者の多い地域で大幅に勝っている一方、民主党のヒラリー・クリントン候補は同党の牙城だった都市部で弱いことがある。

 出口調査と開票初期の情勢をみると、クリントン氏は4年前のオバマ大統領ほどには黒人票を獲得しておらず、そのために工業が盛んな大票田のいくつかの州での劣勢を強いられている。民主党が票を稼げるはずのペンシルベニア州フィラデルフィアでは前回の大統領選に比べ、得票数が4万6000票少ない。同州が大接戦を演じている一因がここにある。

 ミシガン州デトロイトとその周辺を含む都市部でも、民主党の得票数での優位度は半減すると予想され、クリントン氏の得票数が4年前のオバマ氏より大幅に減るのは確実とみられている。

 民主党はトランプ氏について、メキシコからの不法移民を誹謗(ひぼう)する発言やイスラム教徒の入国を禁止するとの提案により、マイノリティー有権者からは支持されないと見込んでいた。その思惑を裏切る形で、トランプ氏はクリントン氏を窮地に陥れている。


(以下略) <<
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161109-00000073-asahi-int
>> トランプ氏、民主党の地盤を次々破壊 産業廃れた各州
朝日新聞デジタル 11/9(水) 17:29配信

 トランプ氏は、以前からの共和党の地盤を確実に固めたほか、フロリダ州やノースカロライナ州など東部の激戦州を制した。特に、産業が廃れて「ラストベルト」と呼ばれる各州で支持を伸ばしたことが勝因となった。

 トランプ氏は投票を控えた最終日に、フロリダ州など激戦州に加え、1992年から民主党が制してきたミシガン州などで相次いで遊説。選挙戦で訴え続けたスローガン「米国を再び偉大にしよう」を唱え、支持を呼びかけた。


(以下略) <<
すべてを経済に還元させる分析は不十分だとは思いますが、重要な指摘であることは間違いないでしょう。

では、トランプ氏は、労働者の「期待」に応えることはできるでしょうか?
7日づけ「十月革命記念日にヘマしたパヨクは『資本論』を学習しなおすように」でも引用したとおり、マルクスは次のように指摘しています。
>> ・・・ここで諸人格が問題になるのは、ただ彼らが経済的諸カテゴリーの人格化であり、特定の階級諸関係や利害の担い手である限りにおいてである。経済的社会構成体の発展を一つの自然史過程と捉える私の立場は、他のどの立場にもまして、個々人に諸関係の責任を負わせることはできない。個人は主観的にどんなに超越しようとも、社会的には依然として諸関係の被造物なのである。 <<
マルクス『資本論』第1巻第1分冊、新日本出版社、1982年、p12

キム・ジョンイル総書記は次のように指摘されています。
>> 帝国主義の侵略と略奪政策は社会制度に基礎を置いているため、大統領が代わったからと言って何か「理性」的な帝国主義になるものではありません。誰が大統領になるかによって帝国主義が侵略的になったり、そうではなくなるなどと見てはなりません。歴代帝国主義国の大統領は、独占資本家の利益の代弁者でした。 <<
キム・ジョンイル『侵略と略奪は帝国主義の変わらぬ本性である』、朝鮮労働党出版社、2002年 (引用元

マルクス、そしてキム・ジョンイル総書記が指摘しているように、政治家は、その社会構造が生んだものに過ぎません誰が大統領になろうとも、小手先の政策にこそ違いがあるとはいえ、本質において「飛躍」はありえないのです。現に建玉のある資本家や、そうした連中の利益を代弁する「専門家」にとっては、そうした小手先の政策が収益に直結するため、いままさにテレビ等で放映されている通りに大騒ぎしていますが、本質においては、トランプ氏もクリントン氏も大差ないのです。

だいたい、トランプ氏は、「大統領」になったに過ぎず、「皇帝」になったわけではありません。共和党組織をバックに、ブレーンと共に政治を執行してゆくことでしょう。ビジネスが本当に一人でできるわけではないのと同様、政治だってそうせざるを得ません。共和党組織は、本質において「大資本の使い走り」に過ぎません。要するに、トランプ氏は、「大資本の使い走り」の枠を越えることはないのです。仮にトランプ氏が「大資本の使い走り」から脱しようとすれば、極端にはJ.F.ケネディのような末路を辿ることになるでしょう。トランプ氏が大統領になったことによって何か大きく変わるかのような言説がかなり広範に広がっていますが、まことに観念論的な見方です。

ちなみに、トランプ氏自身、日常的な政治は「副大統領」に任せると述べていました。自他共に認める「政治の素人」であるトランプ氏に対して、マイク・ペンス副大統領候補は「政治のプロ」です。そうした「政権構想」ひとつ取っても、「トランプ氏のやりたい放題」になる可能性は低いといえるでしょう。

それはさておき、トランプ氏は、労働者の「期待」に応えることはできないでしょう。このことこそが、長期的に見て労働者階級にとって福音となります。クリントン候補のような「明らかに既得権益層」が見限られたのにつづき、数年以内に「改革のビジネスマン」が見限られるのは間違いないでしょう。「政治改革」がついに行き詰まり、それが幻想に過ぎないことが白日の下に晒されるのです。

「政治改革」などという小手先の小細工の行き詰まりこそが、「社会総体の大改革」への道を切り開きます。経済、社会、思想文化を含めた社会総体の構造こそが、いまの閉塞感の元凶であることを否応なしに認めざるを得なくなるのです。「トランプ後」こそが、いよいよ労働者階級にとって正念場になるのです。

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11月10日づけ「リベラルは金持ちの道楽――アメリカ大統領選を巡って
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2016年11月07日

十月革命記念日にヘマしたパヨクは『資本論』を学習しなおすように

さて、十月革命記念日です。こんな日に日本左翼(パヨク)の理論的レベルの低下が晒されるとは・・・
http://news.livedoor.com/article/detail/12250335/
>> 大手証券会社社員が「上場廃止になるまで追い込まないと」とツイートしたとして炎上 ネット上での指摘に会社側は「把握しているが…」 

2016年11月7日 17時40分
産経新聞

 大手証券会社の社員が、主幹事を務める企業について「上場廃止になるまで追い込まないと」とする内容をツイッターに書き込んだなどとして、ネットで炎上する事態となっている。

 この人物は、人種差別主義に反対する団体に所属しているという声もネット上にあふれており、ネット上で指摘された証券会社の広報担当は産経新聞の取材に「そういうネット上での書き込みについては把握しているが、会社としてのコメントは差し控えさせていただく」と説明。ネットでの騒ぎを受け、事実の確認を急いでいるもようだ。


(以下略) <<
個別資本との闘争に明け暮れているこの御人、安倍首相の寿命を短くすることにも血道をあげているそうです。バカバカしい。マルクスの『資本論』を学習しなおすように。
>> ・・・ここで諸人格が問題になるのは、ただ彼らが経済的諸カテゴリーの人格化であり、特定の階級諸関係や利害の担い手である限りにおいてである。経済的社会構成体の発展を一つの自然史過程と捉える私の立場は、他のどの立場にもまして、個々人に諸関係の責任を負わせることはできない。個人は主観的にどんなに超越しようとも、社会的には依然として諸関係の被造物なのである。 <<
マルクス『資本論』第1巻第1分冊、新日本出版社、1982年、p12

特定の企業や特定の政治家を呪ったり叩いたりしたところで、それらは全て社会・経済・階級的諸関係の被造物に過ぎないというのが左翼の基本的認識であるはず。そうした立場で考え直せば、「大手証券会社社員」氏が躍起になっている対象者たちは、どうみても「下っ端」。たとえば安倍首相は、ブルジョワ階級社会においては大資本の「使い走り」に過ぎません。

目に見える分かり易い対象に憎悪を募らせ、闘っているつもりになっている・・・本当の黒幕は、そうした下々の小競り合いを見ながら笑っている――マルクスの科学的社会主義理論が、そうした構図を捉えなおす理論的フレームを提供し、それを発展させたレーニンが99年前の今日、ロシアの地において革命を成就させました。そうした歴史的な十月革命記念日に、日本の左翼崩れはいったい何をやっているのでしょうか?
ラベル:左翼
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2016年11月04日

中途半端に「労働者の権利意識」に触れるだけでは観念論に転落する;「労働者の権利意識」を「現実の自主化」につなげるには

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161104-00010000-bfj-soci
>> 変わる電通、変わらない社会 22時消灯の実態を社員が証言「もう逃げられない」

BuzzFeed Japan 11/4(金) 5:00配信


(中略)

お題目だけじゃ評価できない

専門家は、どう見るのか。

ブラック企業被害対策弁護団代表の佐々木亮弁護士は、BuzzFeed Newsのメール取材に「これだけでは変わらない」と批判的に語る。

「引き下げた事実はまったく意味がないとは言えません。でも、お題目だけを唱えても、現実が変わらなければ同じことが繰り返されます。あくまでも再発防止策の一部とみるべきで、こうした対応だけを過大に評価することはできません」

「長時間労働は業務量を調整しない限り、どこかにしわ寄せがいきます。時間だけを減らせばいいというわけではなく、業務量や従事者数などを見直さないと、現場の混乱を招くだけで、かえって労働者の負荷が増えかねません」

では、ほかに具体的な対策はあるのだろうか。

「1つで全て解決という単純な話ではないと思っています。それゆえ、やるべきことは多い。まず、法制度としては、労働時間の上限規制とインターバル規制が必要でしょう」

インターバル制とは、終業時から翌日の始業時間までに一定の間隔を定める制度だ。すでに導入をしている企業もあり、民進党や共産党などの野党4党が今年4月に提出した「長時間労働規制法案」にも含まれている。

さらに佐々木弁護士は、過労死を出した企業の企業名の公表や、使用者と労働者、双方の意識改革などが必要とも指摘。こうも語った。

「電通という日本で有数の有名企業で、1度ならず2度(実際は3度目だったようですが)までも、過労自死が起きたということは、日本社会における『働き方』というものを、各労働者に問いかけるものだと思います。いっそう長時間労働撲滅へ意識が高まるのではないでしょうか」


(以下略) <<
また佐々木亮弁護士です。「まず、法制度としては、労働時間の上限規制とインターバル規制」などと、例によって表層的な「提言」をしていらっしゃいます。

10月15日づけ「だからブルジョア博愛主義者は甘い――「労働時間の上限規制」と「インターバル規制」再論」で私は次のように述べました。
>> 若い女性が一人死んでいます。人ひとりを自殺に追い込むような勤務を要求する企業・部署・上司が新しく法律が出来たからと言って改心したり、それを律儀に守ったりはしないでしょう。「長時間労働が合法なら、そりゃあ企業はやるでしょう。何が悪いんですか、と。」なんて甘いものではありません。ブラック企業というのは、「労働基準法なんて知らねえよ」と最初から開き直っている連中です。他人を踏み台にしても厭わないような極端な利己主義者の集合体です <<
いくらマクロ的・一律的規制を厳しくしたところで、それを如何に執行し、実現するのかという問題に佐々木弁護士は答えていません。しかし、それこそが今、問われているのです。

佐々木弁護士としては、記事中の「電通という日本で有数の有名企業で、1度ならず2度(実際は3度目だったようですが)までも、過労自死が起きたということは、日本社会における『働き方』というものを、各労働者に問いかけるものだと思います。いっそう長時間労働撲滅へ意識が高まるのではないでしょうか」というくだりがそれに対する「答え」のつもりなのでしょうか? 法制度が整備され、労働者の権利意識が高まれば、弁護士への依頼が増え、裁判でシロクロつけることが出来るようになるだろうというストーリーなのでしょうか? こういうのこそ「観念論」というべきものです。

いくら労働者の権利意識が高まったとしても、実現可能性・手段がなければ実現しません。この世界は「必要性・目的」と「実現可能性・手段」の相互作用の世界ですが、相互作用であるだけに当然、これらの間には連続的関連性が必須です。飛躍があるのならば媒介が必要です。しかし、「権利意識の高まり」と「弁護士への依頼」との間には断絶があります。たとえば、いくら不当な待遇であっても、力関係において企業側が圧倒的につよく、あるいは、職場が極端に閉鎖的・ムラ社会的人間関係であったとすれば、事実を公にすることは困難でしょう。「訴えれば勝てる」と勧められても、その後に待ち構える「グレーラインの報復」を考えれば、それどこか、本人が勝手に「きっと居心地悪いだろうな・・・」と本人が思い込めば、告発は慎重になるでしょう。

まるで、「革命政党が蜂起を呼びかければ、被抑圧大衆は我も我もと立ち上がるに違いない」という左翼の「空想」です。100年前から進歩していないのでしょうか?

いかにして、人民大衆の自主的な思想意識を現実のモノに転化するのかが問われています。私は以前からチュチェ思想支持を公表しているので、労働者の権利意識が原動力になり、人間自身がその創造的能力を発揮し、主人としての立場から客観的条件を活用しつつ新しい制度を創り上げることによって、現実社会が変革されてゆくこと自体は固く信奉しています。しかし、佐々木弁護士のように中途半端に「労働者の権利意識」に触れるだけでは、それは観念論というほかないと考えています。

以前からの繰り返しになりますが、労働者が自主的にあるための方法論は、特定の企業・職場に対する依存的立場から脱することです。チュチェ104(2015)年10月8日づけ「「日本の労働組合活動の復権は始まっている」のか?――労組活動は労働者階級の立場を逆に弱め得る」より。
>> 労働者が真の意味で自主的になるためには、企業側に足許を見られないために特定の勤め先に対する依存度を下げることが必要です。なぜ電力会社が一般電力消費者に対して殿様商売ができる(できていた)のかといえば、他に売り手がいないからです。なぜ、自動車メーカーが下請け工場の部品をふざけた値段にまで値切ることができるのかといえば、他に買い手がいないからです。他に売り手/買い手相手が居ないとき、買い手/売り手は、売り手/買い手に対して依存的立場・弱い立場に置かれます。前述の競争市場の基本原理に対して独占市場の基本原理です。

(中略)

ミクロ経済学的考察に基づけば、労働者の立場と為すべきことも見えてくるでしょう。真に交渉力を持つためには、「辞めるよ?」という脅しが必要なのです。「辞めるよ?」と言える立場は、「代わり」を確保している立場です。「辞めるよ?」と言えない立場で、団体交渉等によって企業側から「譲歩」を勝ち取りその利権を自らの生活に組み込むことは、特定の勤め先に対する依存度を上げることに繋がります。労働者階級が自主的であるためには、労働需要者としての企業を競争的な立場にしなければならないのに、「辞めるよ?」と言えない立場で、団体交渉等に臨むというのは、労働者階級自らが企業の「労働需要独占者」としての地位をさらに強化させていると言っても過言ではありません。自分から労働市場を独占化させてどうするんですか。 <<

だいたい本件は「過労自死」ではありません。コメ欄にもあるとおり、本質は「パワハラ自死」です。まさか佐々木弁護士は、「パワハラ禁止法」をつくれば、パワハラがなくなるとでも考えているのでしょうか?
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