■SMAP解散問題と自主管理・協同経営への道
年明けすぐに大きくクローズアップされたSMAP解散問題。この件を労働問題と捉える風潮(それ自体は正しい認識)に対して、私は「自主権の追求」を中心に据えて論じました。
1月19日づけ「テンプレの域に達しつつある「労働組合結成の勧め」――中世的芸能界の近代革命のために必要な組織とは?」
1月20日づけ「「オーナーの私有財産としての芸能事務所」という事実に切り込まずして「ジャニーズの民主化」を語る認識の混乱」
SMAP問題では、「労組結成」や「メリー氏解任署名運動」といった、単なる「陳情」に留まる方法論が人口に膾炙していました。こうした風潮に対して私は、「究極のムラ社会」「現代のギルド」といっても過言ではない特殊な人間関係・上下関係が支配している芸能界の事実から出発し、まずは自由化を達成した上で、続いて自主管理を達成しなければならないと論じました。
既存事務所という「ムラ社会」の枠内で反体制運動を展開しようものなら潰されてしまいます。それゆえ芸能界における自由化は、中世末期・近代初期におけるムラ社会・同職ギルドの崩壊といった歴史的事象と同様に、既存枠の外で、それを打ち破るような形で、離合的な人間関係観を基盤とした新しい関係性の中で自立・自活を進化・発展させてゆくほかありません。また、単に移籍するだけでは「干される」可能性があるので、自主的な思想意識を一致点としてタレントたちが自主管理・協同経営型に集結し、旧勢力との競争の中で勝ち残ってゆくべきです。真に必要とされるのは、陳情団体ではなく、移籍を支援する棲み分け型アソシエーションであり、自主管理・協同経営型のアソシエーションなのです。
このような自主管理・協同経営の道を通ることによってのみ、真の意味での「ジャニーズ・SMAPの民主化」が達成されると論じました。逆に、労組を結成したり署名を集めるだけではオーナーの私有財産としての芸能事務所に雇用される関係性にはまったく変化はなく、自主的であるとはいえないのです。
1月に論じた視点は、本年の記事を貫く基本的視点になりました。4月6日づけ「「やりがい」の搾取を取り戻すために――資本主義と他人労働を知りチュチェの自主化へ」は、この観点をさらに深化させた「未来社会論」であります。
「やりがい搾取」を如何に排し、真のやりがいを取り戻し、政治・経済・思想文化の生活の各側面のバランスを取ってゆくべきかという問題を設定した上で、私は、なぜ私有財産社会・搾取社会としての資本主義社会においては、経済生活のみが突出して発展している・させられているのかを知るところから始まるとしました。そして、資本主義社会を読み解く鍵は、労働実施の主体と労働成果の帰属主体が異なるところにあると指摘し、労働実施の主体と労働成果の帰属主体を一致させることを通して労働者の自主化=行為と結果の帰属主体となること、自らの主となることを目指すという方向性を提示しました。そしてそのために、労働市場活用と自主管理経営という方法論があるとしました。
昨今のブラック企業側が、おそらく意図せずに、実質的に自主管理経営を推奨するような発言をしているのは注目に値します。たとえば、12月23日づけ「エイベックス松浦社長が意図せずに提示している「強力な労働自主化運動への道」」では、労基署から是正指導をうけてしまったエイベックスの松浦勝人社長の「好きで仕事をやっている人に対しての労働時間だけの抑制は絶対に望まない」という言説を取り上げました。
次項以降でも述べるように、働き方は一人ひとりの生身の人間の事情にあわせるべきです。法的規制は、保護不足になることもあれば、松浦社長が言うように過保護になることもあります。そうであれば、具体的な労働時間・労働環境は、やはり労使交渉によって当事者たちが自主的に設定することが最善です。
松浦社長の言説は、一人ひとりの社員が自分自身の労働環境を自主的に決定できるような環境整備を志向しています。具体的には、社内の風通しをよくし、上下関係を威圧を排し、勤務環境に関する労使間の率直な意見交換を可能とする土壌を創り上げること、社員たちの労働自主化運動の展開を容認する寛容な労務管理に必然的に至るものです。
労働自主化・自主管理化の方向性はまだまだ萌芽の段階ですが、さまざまな言説が自生的・自然発生的に進化し始めている兆しが見えつつあると思います。
■電通女性社員パワハラ・過労自殺事件と「一人ひとりの生身の人間にあわせる」視点
秋以降の「電通女性社員パワハラ・過労自殺事件」は、世論を大きく揺り動かしました。この事件は、電通の職場環境・企業体質といった「ブラック企業としての本流的議論」と同時に、程度の低い「電通擁護論」という「ブラック企業を支える社会的思想文化状況」の2つが論点として浮かび上がってきました。
ブラック企業としての本流的議論としては、私は10月20日づけ「人を生産手段として使うということは如何いうことであるか――何の管理もせず、ただ収益だけ持ち去る;環境破壊と同じ構図」において、「一人ひとりの生身の人間にあわせる」という私の従来からの基本的主張を軸にすえて主張を展開しました。すなわち、労働者側が「心身の自己管理」をすることが大前提であることは勿論ではあるものの、「生身の人間」としての労働者は「一つ一つ品質にバラツキがある生産手段」である以上は、使用者側が「一つ一つ」にあわせて労働環境を調整してゆく必要があると述べました。何の管理もせず、ただ労働の成果を持ち去るだけでは環境破壊と同じ構図なのです。さらに補足(ボヤキ)的に、「自己管理」を云々言うのであれば、「仕事量の自己管理」をしたい、都合の良いときだけ「自己管理」を持ち出されても・・・と思うとも述べました。
社会的思想文化状況については、10月11日づけ「長谷川秀夫教授はワタミと同じレベルの「急進左翼」――「時代」ではなく「その人自身」」で触れました。パワハラ・過労自殺問題は、本質的に「自殺した彼女に適合した働き方だったのか」であるのに、大炎上してもなお「今の時代に適合的な働き方か」などと、相変わらず問題の本質を捉えていない「反省の弁」を述べたのが、長谷川秀夫・武蔵野大学教授でした。
「時代」などという言葉で生身の人間を一括してサンプリングする長谷川教授は、結局は「一人ひとりの現実」に目を向けているわけではありません。「残業100時間くらいで自殺なんて情けない」などという当初の「あるべき論」と同じ穴の狢、珍妙なる哲学でブラック企業の代名詞になったワタミと、渡邉美樹氏と同類なのです。大切なのは、「時代」ではなく、「その人自身」です。
「一人ひとりの現実」に目を向けるための視点として、私は次のように述べました。再掲します。
こうした配慮――反急進の漸進主義のサポート――を組織生活において実践するためには、どういった視点が必要でしょうか? 最後に二つの過去ログの再掲します。
チュチェ102(2013)年6月3日「ワタミは「ブラック」というより「急進左翼」」で私は次のように述べました。
翻って渡邉美樹氏はどうか。「『無理』というのはですね、嘘吐きの言葉なんです」というのは立派な哲学ですし、おそらく渡邉氏ご自身は、大抵のことは意志の力で乗り越えることのできる超人なんでしょう。しかし、残念ながら部下はそうではない。ワタミという企業のチュチェは誰なのか。渡邉氏が何から何まで一人で成し遂げる個人経営の居酒屋なら、「大将の哲学」ということでいいでしょう。しかし、ワタミのような巨大企業になれば、そのチュチェは、(朝鮮革命のチュチェが「首領・党・人民大衆の統一体」であるように)「渡邉氏・幹部社員・一般社員の統一体」です。決して「超人;渡邉美樹」の事情だけでは済まないのです。
チュチェ102(2013)年2月14日づけ「受け手次第」
その点では、「指導か暴力かの基準づくり」というのも、少し危ない考えかもしれません。おそらくそれは、何らかの「世間平均」の設定になることでしょう。しかし、繰り返すように、そもそもこの問題は画一的にどうこうすべき問題ではないのです。画一的な基準を設定している限り、「世間平均」からの「外れ値」が問題になる可能性はあり続けるでしょうね。
「一人ひとり差異がある生身の人間」という現実をあるがままに捉え、それを基盤に「現実的なスピード」で「あるべき形」を目指すべきです。これが私の言う漸進主義であり、これこそが現実主義であると自負しています。これに外れる「急進主義」や「あるべき論」は、急進左翼に転落することでしょう。
■ブルジョア博愛主義が蔓延った
従来からの要求型労働運動を私は「ブルジョアの譲歩に期待する『ブルジョア博愛主義』である」としてきました。こともあろうに、「電通女性社員パワハラ・過労自殺事件」のような重大案件に対しても、従来からの要求型労働運動で臨もうとする自称「労働者側」が少なくありませんでした。労働問題が深刻だった今年だったからこそ、ブルジョア博愛主義の甚だしさもまた際立つ1年でした。
私が特に呆れた気持ちでキーボードに向かったのが、10月15日づけ「だからブルジョア博愛主義者は甘い――「労働時間の上限規制」と「インターバル規制」再論」と11月4日づけ「中途半端に「労働者の権利意識」に触れるだけでは観念論に転落する――「労働者の権利意識」を「現実の自主化」につなげるには」の執筆時でした。自殺の本質がパワハラだったのにも関わらず、自称「労働者側」が単なる長時間労働に問題を矮小化したのにも驚きましたが、若い女性を一人を自殺に追い込むような勤務を要求する企業・部署・上司が新しい法律を受けて改心したり、それを律儀に守ったりするかのような想定には心底おどきました。
ブラック企業というのは、「労働基準法なんて知らねえよ」と最初から開き直っている連中、他人を踏み台にしても厭わないような極端な利己主義者の集合体、そんな連中に中途半端な要求をしたところで一体どれほどの役に立つのかでしょうか。10月10日づけ「秋山木工の徒弟制度――言いたいことは分かるが洗練されていない」でも述べたように、おそらく違法行為・新しく違法になった行為は、「地下化」するだけでしょう。
労基署は警察です。犯罪は「パトロール」だけでは摘発し切れません。「被害者の被害届提出」や「地域住民の協力」が不可欠です。しかし、密室化・地下化してしまえば、「被害届」は出ず「協力」もありません。これでは検挙は不可能です。
いのちを守るためには、まずはなによりも逃げるしかありません。そのためには、退路の確保こそが大切です。ブラック企業の改心に期待したブルジョア博愛主義者たちの途方のない「甘さ」ゆえに、「退路の確保」という方法論はあまり追究されていませんが、深刻なブラック労働が社会的注目を浴びた今年こそ、「退路の確保」について広範に論じられるべきでした。甘っちょろいブルジョア博愛主義者たちの害悪は筆舌に尽くしがたいと思います。
■「一人ひとりの生身の人間にあわせる」ことをしない労組・労働系弁護士
「電通女性社員パワハラ・過労自殺事件」を論じるうえでの軸であった「一人ひとりの生身の人間にあわせる」という観点は、昨年以前から述べてきた主張ですが、今年の記事に限って言えば、5月5日づけ「自主の立場から見た「勤務間インターバル制度」――内容は労使交渉で、形式は絶対的記載事項として!」において特に重点的に論じました。既に上述していますが、この観点は特に重要だと考えていますので、さらに掘り下げて以下で述べておきます。
5月5日づけ記事では、法的な一律規制に頼るのではなく、一人ひとりの生身の人間にあわせることの重要性を労働者の立場から述べました。もとの文が端的になので再掲します。
真に当事者の都合に寄り添ったきめ細かい対応のためには、当事者自身が主導権を握り、当事者の生活フィールドでの対応を主軸としなければなりません。労働問題においては、労使対等の交渉が行われ、その合意事項が遵守されることを保障すべきです。労働法制が前面に出て中心的な立場で指導するのではなく、当事者へのアドバイスとサポートの立場に徹するべきです。労組関係者・労働弁護士こそ、個別具体的なケースを重視してしかるべき立場の方々であるはずです。マクロ的一律規制は、具体的な数値義務を一律に課すのではなく、あくまでミクロ的なアクションをサポートするための「道具」であるべきだというのは、彼らこそよくご存知のことであるはずです。
他方、階級闘争型が主張する「具体的数値に基づく強力な法規制」は、あくまで最低限の担保にしかなりません。チュチェ104(2015)年6月15日づけ「「自主権の問題としての労働問題」と「法的解決」の相性」をはじめとして以前から指摘しているように、労働者個人個人が抱えている事情は千差万別ですから、「ある種の社会的基準」にもとづく、法的解決・マクロ的対応には本質的に限界があります。その「社会的基準」によっては保護され得ない個別事情を持った個人は依って立つ所がありません。法は「12時間間隔をあければよい」と規定しても、個々の労働者によっては「14時間は必要」という場合もあるでしょう。そうした労働者が守られるためには、結局は労使交渉にならざるを得ません。また、あらゆるケースを事前に予測して法の網の目を巡らせることは現実的には不可能なので、法的規制には必ず「本件は法的保護の対象になるか」「当事者と言い得るか」という解釈の問題が発生します。労使が主張を異にし、交渉に入らざるを得なくなる場面は必ずあるのです。そうであれば、最初から労使交渉を睨んで備えるべきです。 <<
マクロ的一律規制を殊更重視する人たちの中には、往々にして「ぼくの かんがえた りそうの しゃかい」を紋切り型に押し付けようとする人がいます。ミクロをサポートするタイプではなく、具体的な数値義務を一律に課すタイプのマクロ的一律規制を声高に主張する労組関係者・労働弁護士のビジョンには、疑念を感じざるを得ません。
■労組・労働系弁護士の脳内補完に満ちた「作文」が多かった
総括第2弾・社会政策(福祉)編でも述べましたが、社会政策界隈の論客は、往々にして、当事者が実際に何を考えているのかではなく、脳内補完で物事を述べようとします。労働問題の論客もこの例に漏れず、思い込みで主張する人が今年も多かった。特に今年は労働問題が社会的な耳目を集めたので、そうした「作文」がもたらす悪影響は例年より大きかったのではないかと危惧します。
2月22日づけ「「労働市場を通した自主化の高まり」の前に空しく響く「要求実現型労組活動家の訴え」」
3月9日づけ「ブラック企業を支える「労働者の良心」と「社会的通念」に切り込まない愚、というよりタチの悪いコジツケ?」
3月31日づけ「表層的な「パターン当てはめ」ではブラック企業問題解決には至らない――「類塾」を巡る労働系法律家のパターン分析の浅さ」
12月25日づけ「労働者の関心事に答えず、ブラック企業の利益を無意識に実現させる労組活動家」
このうち特に、3月9日づけの記事の指摘は重要だと自負しています。「労働者の良心」「社会的通念」――これらが昨今のブラック労働を支える一因になっています。私はチュチェ思想支持者ですが、キムジョンイル総書記は「車はエンジンをかけなければ走らないように、人間も思想にエンジンがかからなければ目的を遂げることはできない。」と指摘されています。総書記のご指摘を踏まえれば、自主権の問題としての労働問題の解決のためには、なによりもまず、2月29日づけ「長時間労働文化を支えている労働者の意識を変革することこそ、新社会を建設・維持する上で鍵となる」でも述べたように、文化の刷新が必要であると言ってよいでしょう。そしてそれはすなわち、表層的なパターン当てはめで演繹的に思考するのではなく、必ず、一人ひとりの生身の人間が実際に何を考えているのかを具体的に把握しなければならないと言えます。
その意味では、労組関係者・労働系弁護士は、「電通パワハラ過労自殺事件」に対する武蔵野大学の長谷川秀夫教授と同様の誤りを冒していると言えます。労働者側を自称する人物も、ブルジョアの代弁者たちも揃って「一人ひとりの生身の人間が実際に何を考えているのか」というポイントを省みていなかったのが、今年の特徴でした。
■文化の刷新のための正しい市場観
3月18日づけ「市場経済しかあり得ないからこそ、正しい市場観の確立が労働問題の解決においても必要とされている」では、上述の文化の刷新の前提としての正しい市場観について述べました。
私は以前から重ねて述べているように、労働問題の解決のために市場メカニズムを活用する方法論を主軸にすえるよう主張しています。すなわち、「いやなら労働契約しなければよい」という基本方針です。これは、チュチェ104(2015)年10月8日づけ「「日本の労働組合活動の復権は始まっている」のか?――労組活動は労働者階級の立場を逆に弱め得る」」で基本的な方向性を打ち出し、同年10月15日づけ「周囲の助けを借りつつ「嫌だから辞める」「無理だから辞める」べき」で補足した基本的立場です。
しかしながら、「いやなら労働契約しなければよい」という自己防衛と「取引に際しての義務の履行」とは全く別問題です。たとえば、悪徳業者に対する買い手側/不払い顧客に対する売り手側の自己防衛行動とは全く別の次元において、義務を果たしていない悪徳業者/不払い顧客は、債務不履行という点において取り締まりの対象になるのと同じことです。労働契約における安全配慮義務も全く同様。これは市場経済の基本原則です。
現時点、市場経済以外に現実的な経済システムの展望はありません。労働市場においても市場を活用する方法論で臨むべきです。そうであるからこそ、正しい市場観の確立が、労働問題の解決においても必要とされています。
■文化の刷新のための正しい世界観
正しい市場観のほかにも、正しい世界観を持つ必要もあるといえます。従来的な要求実現・階級闘争型の方法論は、その世界観にルーツをもっていると考えられるからです。
7月3日づけ「階級敵対的・ゼロサム的認識にたつ「介護・保育ユニオン」の経済学的・世界観的誤り」や12月4日づけ「「呉越同舟」の労使関係とストライキ路線――一人ひとりの労働者の生活自主化のためには?」でこの問題については論じました。特に7月3日づけ記事で私は、階級敵対的・ゼロサム的思考を一旦封印する必要性があると述べました。なぜならば、経済は全体としてシステムだからです。
資本家と労働者は、一見して対決的な関係ですが、実際にはお互いに同じシステムを構成している相互作用的な関係にある要素同士です。こうした関係にある要素同士は、そうした関係性にあるからこそ、闘争に走るべきではありませんし、また、取り分を越え要求をしてもいけません。まさに「呉越同舟」の関係にあると言えるのです。
二元論的な認識論・世界観は、物事をバラバラ分解して考察するので、どうしても階級闘争的な発想に至ってしまいます。システムとしての世界を正しく認識した上で、そうした世界観で現実を理性的に思考する必要があります。そして、「呉越同舟」的に対応する必要があるのです。
世界観レベルでの認識の誤りは、結局は、かつての国労のような誤りを冒すことにつながるでしょう。特に、介護・保育業界は、業界としての基盤が脆弱であり、業界内での分配よりも業界間での分配にこそゆがみがあります。介護・保育業界は、階級闘争しているフェーズではありません。
■どうしてもブラック企業の責任を追及したいなら
正義感に溢れた人物は、どうしてもブラック企業の責任を取らせたいと思うものです。12月25日づけ「労働者の関心事に答えず、ブラック企業の利益を無意識に実現させる労組活動家」では、POSSE代表の今野晴貴氏が「ぜひ不当なノルマやペナルティに屈するのではなく、それらを改善させることで、良い年を迎えてほしい」などと述べていました。アルバイターにとっては、そうした責任追及の優先順位は比較的低い位置づけにあるのにもかかわらず。
12月16日づけ「自主的かつスマートなブラック企業訴訟の実績――辞めた上で法的責任を問う方法論」で述べたように、企業側の責任を追及するのであれば、やはり辞めた後に法的にシロクロつけるべきです。記事でも述べたように、(1)取り急ぎ退職したことによって心身の健康を守る。(2)退職したことによって、ブラックな勤め先に対する依存度をゼロにし、自主的な地位を獲得する。(3)中途半端に未練を残さず退職したことによって、将来にわたって「巻き返し」をうけることを予防する。という3点において、「まず辞める」のは大切なことなのです。正義はそれから、安全地帯で自主的な立場を確保してから実現に取り掛かっても遅くはありません。
■労働者の自主化に役に立った「市場メカニズム」、役に立たなかった「労組/ユニオン」
最後に、この小見出しに適合する記事の幾つかを一覧形式でピックアップしておきます(後日の続編記事執筆のために)。
・6月19日づけ「マクドナルドの「殿様商売」「ブラック労務」に改善を強いたのは労働組合ではなく市場メカニズムのチカラ」
・8月4日づけ「中途半端に役に立たない「さっぽろ青年ユニオン」――ユニオンにこそ求められる転職・再就職支援」
9月10日づけ「ブラックすぎて感覚が麻痺した企業を退場に追い込んだ競争的評判経済」
11月16日づけ「役所(労基署)頼みの階級闘争、中世的封建時代以来の「お代官様お願げえしますだ」の枠を越えていない労組運動」
ラベル:自主権の問題としての労働問題 ☆