2016年12月31日

チュチェ105(2016)年を振り返る(3) 自主権の問題としての労働問題と1年

総括第3弾は、当ブログのメインテーマとなりつつある「自主権の問題としての労働問題」についてです。本年も積極的に論じてきました。

■SMAP解散問題と自主管理・協同経営への道
年明けすぐに大きくクローズアップされたSMAP解散問題。この件を労働問題と捉える風潮(それ自体は正しい認識)に対して、私は「自主権の追求」を中心に据えて論じました。

1月19日づけ「テンプレの域に達しつつある「労働組合結成の勧め」――中世的芸能界の近代革命のために必要な組織とは?
1月20日づけ「「オーナーの私有財産としての芸能事務所」という事実に切り込まずして「ジャニーズの民主化」を語る認識の混乱

SMAP問題では、「労組結成」や「メリー氏解任署名運動」といった、単なる「陳情」に留まる方法論が人口に膾炙していました。こうした風潮に対して私は、「究極のムラ社会」「現代のギルド」といっても過言ではない特殊な人間関係・上下関係が支配している芸能界の事実から出発し、まずは自由化を達成した上で、続いて自主管理を達成しなければならないと論じました。

既存事務所という「ムラ社会」の枠内で反体制運動を展開しようものなら潰されてしまいます。それゆえ芸能界における自由化は、中世末期・近代初期におけるムラ社会・同職ギルドの崩壊といった歴史的事象と同様に、既存枠の外で、それを打ち破るような形で、離合的な人間関係観を基盤とした新しい関係性の中で自立・自活を進化・発展させてゆくほかありません。また、単に移籍するだけでは「干される」可能性があるので、自主的な思想意識を一致点としてタレントたちが自主管理・協同経営型に集結し、旧勢力との競争の中で勝ち残ってゆくべきです。真に必要とされるのは、陳情団体ではなく、移籍を支援する棲み分け型アソシエーションであり、自主管理・協同経営型のアソシエーションなのです。

このような自主管理・協同経営の道を通ることによってのみ、真の意味での「ジャニーズ・SMAPの民主化」が達成されると論じました。逆に、労組を結成したり署名を集めるだけではオーナーの私有財産としての芸能事務所に雇用される関係性にはまったく変化はなく、自主的であるとはいえないのです。

1月に論じた視点は、本年の記事を貫く基本的視点になりました。4月6日づけ「「やりがい」の搾取を取り戻すために――資本主義と他人労働を知りチュチェの自主化へ」は、この観点をさらに深化させた「未来社会論」であります。

「やりがい搾取」を如何に排し、真のやりがいを取り戻し、政治・経済・思想文化の生活の各側面のバランスを取ってゆくべきかという問題を設定した上で、私は、なぜ私有財産社会・搾取社会としての資本主義社会においては、経済生活のみが突出して発展している・させられているのかを知るところから始まるとしました。そして、資本主義社会を読み解く鍵は、労働実施の主体と労働成果の帰属主体が異なるところにあると指摘し、労働実施の主体と労働成果の帰属主体を一致させることを通して労働者の自主化=行為と結果の帰属主体となること、自らの主となることを目指すという方向性を提示しました。そしてそのために、労働市場活用と自主管理経営という方法論があるとしました。

昨今のブラック企業側が、おそらく意図せずに、実質的に自主管理経営を推奨するような発言をしているのは注目に値します。たとえば、12月23日づけ「エイベックス松浦社長が意図せずに提示している「強力な労働自主化運動への道」」では、労基署から是正指導をうけてしまったエイベックスの松浦勝人社長の「好きで仕事をやっている人に対しての労働時間だけの抑制は絶対に望まない」という言説を取り上げました。

次項以降でも述べるように、働き方は一人ひとりの生身の人間の事情にあわせるべきです。法的規制は、保護不足になることもあれば、松浦社長が言うように過保護になることもあります。そうであれば、具体的な労働時間・労働環境は、やはり労使交渉によって当事者たちが自主的に設定することが最善です。

松浦社長の言説は、一人ひとりの社員が自分自身の労働環境を自主的に決定できるような環境整備を志向しています。具体的には、社内の風通しをよくし、上下関係を威圧を排し、勤務環境に関する労使間の率直な意見交換を可能とする土壌を創り上げること、社員たちの労働自主化運動の展開を容認する寛容な労務管理に必然的に至るものです。

労働自主化・自主管理化の方向性はまだまだ萌芽の段階ですが、さまざまな言説が自生的・自然発生的に進化し始めている兆しが見えつつあると思います。

■電通女性社員パワハラ・過労自殺事件と「一人ひとりの生身の人間にあわせる」視点
秋以降の「電通女性社員パワハラ・過労自殺事件」は、世論を大きく揺り動かしました。この事件は、電通の職場環境・企業体質といった「ブラック企業としての本流的議論」と同時に、程度の低い「電通擁護論」という「ブラック企業を支える社会的思想文化状況」の2つが論点として浮かび上がってきました。

ブラック企業としての本流的議論としては、私は10月20日づけ「人を生産手段として使うということは如何いうことであるか――何の管理もせず、ただ収益だけ持ち去る;環境破壊と同じ構図」において、「一人ひとりの生身の人間にあわせる」という私の従来からの基本的主張を軸にすえて主張を展開しました。すなわち、労働者側が「心身の自己管理」をすることが大前提であることは勿論ではあるものの、「生身の人間」としての労働者は「一つ一つ品質にバラツキがある生産手段」である以上は、使用者側が「一つ一つ」にあわせて労働環境を調整してゆく必要があると述べました。何の管理もせず、ただ労働の成果を持ち去るだけでは環境破壊と同じ構図なのです。さらに補足(ボヤキ)的に、「自己管理」を云々言うのであれば、「仕事量の自己管理」をしたい、都合の良いときだけ「自己管理」を持ち出されても・・・と思うとも述べました。

社会的思想文化状況については、10月11日づけ「長谷川秀夫教授はワタミと同じレベルの「急進左翼」――「時代」ではなく「その人自身」」で触れました。パワハラ・過労自殺問題は、本質的に「自殺した彼女に適合した働き方だったのか」であるのに、大炎上してもなお「今の時代に適合的な働き方か」などと、相変わらず問題の本質を捉えていない「反省の弁」を述べたのが、長谷川秀夫・武蔵野大学教授でした。

「時代」などという言葉で生身の人間を一括してサンプリングする長谷川教授は、結局は「一人ひとりの現実」に目を向けているわけではありません。「残業100時間くらいで自殺なんて情けない」などという当初の「あるべき論」と同じ穴の狢、珍妙なる哲学でブラック企業の代名詞になったワタミと、渡邉美樹氏と同類なのです。大切なのは、「時代」ではなく、「その人自身」です。

「一人ひとりの現実」に目を向けるための視点として、私は次のように述べました。再掲します。
こうした配慮――反急進の漸進主義のサポート――を組織生活において実践するためには、どういった視点が必要でしょうか? 最後に二つの過去ログの再掲します。

チュチェ102(2013)年6月3日「ワタミは「ブラック」というより「急進左翼」」で私は次のように述べました。
翻って渡邉美樹氏はどうか。「『無理』というのはですね、嘘吐きの言葉なんです」というのは立派な哲学ですし、おそらく渡邉氏ご自身は、大抵のことは意志の力で乗り越えることのできる超人なんでしょう。しかし、残念ながら部下はそうではない。ワタミという企業のチュチェは誰なのか。渡邉氏が何から何まで一人で成し遂げる個人経営の居酒屋なら、「大将の哲学」ということでいいでしょう。しかし、ワタミのような巨大企業になれば、そのチュチェは、(朝鮮革命のチュチェが「首領・党・人民大衆の統一体」であるように)「渡邉氏・幹部社員・一般社員の統一体」です。決して「超人;渡邉美樹」の事情だけでは済まないのです。
チュチェ102(2013)年2月14日づけ「受け手次第
その点では、「指導か暴力かの基準づくり」というのも、少し危ない考えかもしれません。おそらくそれは、何らかの「世間平均」の設定になることでしょう。しかし、繰り返すように、そもそもこの問題は画一的にどうこうすべき問題ではないのです。画一的な基準を設定している限り、「世間平均」からの「外れ値」が問題になる可能性はあり続けるでしょうね。
「一人ひとり差異がある生身の人間」という現実をあるがままに捉え、それを基盤に「現実的なスピード」で「あるべき形」を目指すべきです。これが私の言う漸進主義であり、これこそが現実主義であると自負しています。これに外れる「急進主義」や「あるべき論」は、急進左翼に転落することでしょう。


■ブルジョア博愛主義が蔓延った
従来からの要求型労働運動を私は「ブルジョアの譲歩に期待する『ブルジョア博愛主義』である」としてきました。こともあろうに、「電通女性社員パワハラ・過労自殺事件」のような重大案件に対しても、従来からの要求型労働運動で臨もうとする自称「労働者側」が少なくありませんでした。労働問題が深刻だった今年だったからこそ、ブルジョア博愛主義の甚だしさもまた際立つ1年でした。

私が特に呆れた気持ちでキーボードに向かったのが、10月15日づけ「だからブルジョア博愛主義者は甘い――「労働時間の上限規制」と「インターバル規制」再論」と11月4日づけ「中途半端に「労働者の権利意識」に触れるだけでは観念論に転落する――「労働者の権利意識」を「現実の自主化」につなげるには」の執筆時でした。自殺の本質がパワハラだったのにも関わらず、自称「労働者側」が単なる長時間労働に問題を矮小化したのにも驚きましたが、若い女性を一人を自殺に追い込むような勤務を要求する企業・部署・上司が新しい法律を受けて改心したり、それを律儀に守ったりするかのような想定には心底おどきました。

ブラック企業というのは、「労働基準法なんて知らねえよ」と最初から開き直っている連中、他人を踏み台にしても厭わないような極端な利己主義者の集合体、そんな連中に中途半端な要求をしたところで一体どれほどの役に立つのかでしょうか。10月10日づけ「秋山木工の徒弟制度――言いたいことは分かるが洗練されていない」でも述べたように、おそらく違法行為・新しく違法になった行為は、「地下化」するだけでしょう。

労基署は警察です。犯罪は「パトロール」だけでは摘発し切れません。「被害者の被害届提出」や「地域住民の協力」が不可欠です。しかし、密室化・地下化してしまえば、「被害届」は出ず「協力」もありません。これでは検挙は不可能です。

いのちを守るためには、まずはなによりも逃げるしかありません。そのためには、退路の確保こそが大切です。ブラック企業の改心に期待したブルジョア博愛主義者たちの途方のない「甘さ」ゆえに、「退路の確保」という方法論はあまり追究されていませんが、深刻なブラック労働が社会的注目を浴びた今年こそ、「退路の確保」について広範に論じられるべきでした。甘っちょろいブルジョア博愛主義者たちの害悪は筆舌に尽くしがたいと思います。

■「一人ひとりの生身の人間にあわせる」ことをしない労組・労働系弁護士
「電通女性社員パワハラ・過労自殺事件」を論じるうえでの軸であった「一人ひとりの生身の人間にあわせる」という観点は、昨年以前から述べてきた主張ですが、今年の記事に限って言えば、5月5日づけ「自主の立場から見た「勤務間インターバル制度」――内容は労使交渉で、形式は絶対的記載事項として!」において特に重点的に論じました。既に上述していますが、この観点は特に重要だと考えていますので、さらに掘り下げて以下で述べておきます。

5月5日づけ記事では、法的な一律規制に頼るのではなく、一人ひとりの生身の人間にあわせることの重要性を労働者の立場から述べました。もとの文が端的になので再掲します。
真に当事者の都合に寄り添ったきめ細かい対応のためには、当事者自身が主導権を握り、当事者の生活フィールドでの対応を主軸としなければなりません。労働問題においては、労使対等の交渉が行われ、その合意事項が遵守されることを保障すべきです。労働法制が前面に出て中心的な立場で指導するのではなく、当事者へのアドバイスとサポートの立場に徹するべきです。

他方、階級闘争型が主張する「具体的数値に基づく強力な法規制」は、あくまで最低限の担保にしかなりません。チュチェ104(2015)年6月15日づけ「「自主権の問題としての労働問題」と「法的解決」の相性」をはじめとして以前から指摘しているように、労働者個人個人が抱えている事情は千差万別ですから、「ある種の社会的基準」にもとづく、法的解決・マクロ的対応には本質的に限界があります。その「社会的基準」によっては保護され得ない個別事情を持った個人は依って立つ所がありません。法は「12時間間隔をあければよい」と規定しても、個々の労働者によっては「14時間は必要」という場合もあるでしょう。そうした労働者が守られるためには、結局は労使交渉にならざるを得ません。また、あらゆるケースを事前に予測して法の網の目を巡らせることは現実的には不可能なので、法的規制には必ず「本件は法的保護の対象になるか」「当事者と言い得るか」という解釈の問題が発生します。労使が主張を異にし、交渉に入らざるを得なくなる場面は必ずあるのです。そうであれば、最初から労使交渉を睨んで備えるべきです。
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労組関係者・労働弁護士こそ、個別具体的なケースを重視してしかるべき立場の方々であるはずです。マクロ的一律規制は、具体的な数値義務を一律に課すのではなく、あくまでミクロ的なアクションをサポートするための「道具」であるべきだというのは、彼らこそよくご存知のことであるはずです。

マクロ的一律規制を殊更重視する人たちの中には、往々にして「ぼくの かんがえた りそうの しゃかい」を紋切り型に押し付けようとする人がいます。ミクロをサポートするタイプではなく、具体的な数値義務を一律に課すタイプのマクロ的一律規制を声高に主張する労組関係者・労働弁護士のビジョンには、疑念を感じざるを得ません。

■労組・労働系弁護士の脳内補完に満ちた「作文」が多かった
総括第2弾・社会政策(福祉)編でも述べましたが、社会政策界隈の論客は、往々にして、当事者が実際に何を考えているのかではなく、脳内補完で物事を述べようとします。労働問題の論客もこの例に漏れず、思い込みで主張する人が今年も多かった。特に今年は労働問題が社会的な耳目を集めたので、そうした「作文」がもたらす悪影響は例年より大きかったのではないかと危惧します。

2月22日づけ「「労働市場を通した自主化の高まり」の前に空しく響く「要求実現型労組活動家の訴え」
3月9日づけ「ブラック企業を支える「労働者の良心」と「社会的通念」に切り込まない愚、というよりタチの悪いコジツケ?
3月31日づけ「表層的な「パターン当てはめ」ではブラック企業問題解決には至らない――「類塾」を巡る労働系法律家のパターン分析の浅さ
12月25日づけ「労働者の関心事に答えず、ブラック企業の利益を無意識に実現させる労組活動家

このうち特に、3月9日づけの記事の指摘は重要だと自負しています。「労働者の良心」「社会的通念」――これらが昨今のブラック労働を支える一因になっています。私はチュチェ思想支持者ですが、キムジョンイル総書記は「車はエンジンをかけなければ走らないように、人間も思想にエンジンがかからなければ目的を遂げることはできない。」と指摘されています。総書記のご指摘を踏まえれば、自主権の問題としての労働問題の解決のためには、なによりもまず、2月29日づけ「長時間労働文化を支えている労働者の意識を変革することこそ、新社会を建設・維持する上で鍵となる」でも述べたように、文化の刷新が必要であると言ってよいでしょう。そしてそれはすなわち、表層的なパターン当てはめで演繹的に思考するのではなく、必ず、一人ひとりの生身の人間が実際に何を考えているのかを具体的に把握しなければならないと言えます。

その意味では、労組関係者・労働系弁護士は、「電通パワハラ過労自殺事件」に対する武蔵野大学の長谷川秀夫教授と同様の誤りを冒していると言えます。労働者側を自称する人物も、ブルジョアの代弁者たちも揃って「一人ひとりの生身の人間が実際に何を考えているのか」というポイントを省みていなかったのが、今年の特徴でした。

■文化の刷新のための正しい市場観
3月18日づけ「市場経済しかあり得ないからこそ、正しい市場観の確立が労働問題の解決においても必要とされている」では、上述の文化の刷新の前提としての正しい市場観について述べました。

私は以前から重ねて述べているように、労働問題の解決のために市場メカニズムを活用する方法論を主軸にすえるよう主張しています。すなわち、「いやなら労働契約しなければよい」という基本方針です。これは、チュチェ104(2015)年10月8日づけ「「日本の労働組合活動の復権は始まっている」のか?――労組活動は労働者階級の立場を逆に弱め得る」」で基本的な方向性を打ち出し、同年10月15日づけ「周囲の助けを借りつつ「嫌だから辞める」「無理だから辞める」べき」で補足した基本的立場です。

しかしながら、「いやなら労働契約しなければよい」という自己防衛と「取引に際しての義務の履行」とは全く別問題です。たとえば、悪徳業者に対する買い手側/不払い顧客に対する売り手側の自己防衛行動とは全く別の次元において、義務を果たしていない悪徳業者/不払い顧客は、債務不履行という点において取り締まりの対象になるのと同じことです。労働契約における安全配慮義務も全く同様。これは市場経済の基本原則です。

現時点、市場経済以外に現実的な経済システムの展望はありません。労働市場においても市場を活用する方法論で臨むべきです。そうであるからこそ、正しい市場観の確立が、労働問題の解決においても必要とされています。

■文化の刷新のための正しい世界観
正しい市場観のほかにも、正しい世界観を持つ必要もあるといえます。従来的な要求実現・階級闘争型の方法論は、その世界観にルーツをもっていると考えられるからです。

7月3日づけ「階級敵対的・ゼロサム的認識にたつ「介護・保育ユニオン」の経済学的・世界観的誤り」や12月4日づけ「「呉越同舟」の労使関係とストライキ路線――一人ひとりの労働者の生活自主化のためには?」でこの問題については論じました。特に7月3日づけ記事で私は、階級敵対的・ゼロサム的思考を一旦封印する必要性があると述べました。なぜならば、経済は全体としてシステムだからです。

資本家と労働者は、一見して対決的な関係ですが、実際にはお互いに同じシステムを構成している相互作用的な関係にある要素同士です。こうした関係にある要素同士は、そうした関係性にあるからこそ、闘争に走るべきではありませんし、また、取り分を越え要求をしてもいけません。まさに「呉越同舟」の関係にあると言えるのです。

二元論的な認識論・世界観は、物事をバラバラ分解して考察するので、どうしても階級闘争的な発想に至ってしまいます。システムとしての世界を正しく認識した上で、そうした世界観で現実を理性的に思考する必要があります。そして、「呉越同舟」的に対応する必要があるのです。

世界観レベルでの認識の誤りは、結局は、かつての国労のような誤りを冒すことにつながるでしょう。特に、介護・保育業界は、業界としての基盤が脆弱であり、業界内での分配よりも業界間での分配にこそゆがみがあります。介護・保育業界は、階級闘争しているフェーズではありません。

■どうしてもブラック企業の責任を追及したいなら
正義感に溢れた人物は、どうしてもブラック企業の責任を取らせたいと思うものです。12月25日づけ「労働者の関心事に答えず、ブラック企業の利益を無意識に実現させる労組活動家」では、POSSE代表の今野晴貴氏が「ぜひ不当なノルマやペナルティに屈するのではなく、それらを改善させることで、良い年を迎えてほしい」などと述べていました。アルバイターにとっては、そうした責任追及の優先順位は比較的低い位置づけにあるのにもかかわらず。

12月16日づけ「自主的かつスマートなブラック企業訴訟の実績――辞めた上で法的責任を問う方法論」で述べたように、企業側の責任を追及するのであれば、やはり辞めた後に法的にシロクロつけるべきです。記事でも述べたように、(1)取り急ぎ退職したことによって心身の健康を守る。(2)退職したことによって、ブラックな勤め先に対する依存度をゼロにし、自主的な地位を獲得する。(3)中途半端に未練を残さず退職したことによって、将来にわたって「巻き返し」をうけることを予防する。という3点において、「まず辞める」のは大切なことなのです。正義はそれから、安全地帯で自主的な立場を確保してから実現に取り掛かっても遅くはありません

■労働者の自主化に役に立った「市場メカニズム」、役に立たなかった「労組/ユニオン」
最後に、この小見出しに適合する記事の幾つかを一覧形式でピックアップしておきます(後日の続編記事執筆のために)。
・6月19日づけ「マクドナルドの「殿様商売」「ブラック労務」に改善を強いたのは労働組合ではなく市場メカニズムのチカラ
・8月4日づけ「中途半端に役に立たない「さっぽろ青年ユニオン」――ユニオンにこそ求められる転職・再就職支援
9月10日づけ「ブラックすぎて感覚が麻痺した企業を退場に追い込んだ競争的評判経済
11月16日づけ「役所(労基署)頼みの階級闘争、中世的封建時代以来の「お代官様お願げえしますだ」の枠を越えていない労組運動
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2016年12月30日

チュチェ105(2016)年を振り返る(2) 観念に固執する「老害」たちのせいで社会政策の前進が妨げられた1年と、わずかな吉兆

総括記事第2弾は、社会政策の福祉分野について振り返ります。なお、自主権の問題としての労働問題については別稿で重点的に取り上げます。

■「貧困女子高生うららちゃん」騒動を振り返る――論点のスリカエとコジツケ、開き直りに終始したNHK「擁護」論者たち
福祉国家論」のタグを付与している記事を読み返すと、夏季に大きな話題になった「貧困女子高生うららちゃん」騒動について継続的に取り上げてきたことが分かります。NHK取材班が、貧困問題の告発としては不適当な人物を強引に・コジツケ的に取り上げたがゆえに始まった炎上案件に対して、甚だしい論点のスリカエやガン無視、果ては開き直りまで横行する始末でした。
・8月22日づけ「「貧困女子高生」騒動を巡って、怪しい面々が悪質な論点ずらしを含むNHK「擁護」論を繰り出してきた!
・8月29日づけ「「価値観抜きの相対的貧困」などあり得ない――概念の悪用よって復活する悪平等としての「共産主義という名の亡霊」
・9月4日づけ「「嫉妬」されないために、支出の優先順位をつけましょう

また、思い込み・コジツケ・レッテル貼り、要するに「脳内補完」に溢れた「啓蒙指導」を展開した結果、まるで擁護になっていない「援護射撃」も見られました。自称擁護論者が口を開くたびに墓穴を掘りまくっていたのは壮観でした。
・8月30日づけ「自分を客観視できないジャーナリスト
・9月3日づけ「相対的に見るからこそ「貧困」とは言えず「普通」レベル――ムラ社会的な集団主義メンタリティーだからこそ生活水準の比較に敏感な日本人

騒動がすっかり鎮静化した12月に入ってからも、池上彰氏がフジテレビ番組中で悪質な印象操作の一環として本件を取り上げ、再度炎上したのは、読者諸氏に於かれてはご記憶に新しいことかと存じます。
・12月17日づけ池上彰氏、フジテレビ特番で「日本の格差の深刻さ」を珍妙なるグラフと理論で指摘

■NHK「擁護」論者たちの観念論者っぷりが明々白々に証明された
脳内補完を基礎とする啓蒙――いまに始まった話ではない社会政策界隈の基本的習性ですが、労働問題を含む社会政策全体に注目が集まった本年では、いつにない炎上案件となってしまったのでしょう。

9月3日づけ「相対的に見るからこそ「貧困」とは言えず「普通」レベル――ムラ社会的な集団主義メンタリティーだからこそ生活水準の比較に敏感な日本人」で特に強調したとおり、日本人はムラ社会的な集団主義メンタリティーを持っているので、他人との生活水準の比較には敏感です。「一般庶民はワンコインランチで我慢してるのに、うららちゃんは普通でも中々出来ない贅沢を躊躇なく行っている」というフェイスブック上で採取したコメントは、本件炎上の核心部分を的確に抉っていました。このことは、そうした世論を踏まえずに手前勝手な理屈を延々と展開し、それゆえに墓穴を掘りまくっていた社会政策界隈が、いかに世論から遊離していたのか、「日本人のムラ社会的集団主義メンタリティーという現実」から出発していない観念論者っぷりが明々白々に証明されたことを意味します。

また、数年前まではあまり注目を浴びることの無かった社会政策関連の話題が、かくも炎上したのは、逆に言えば、それだけ社会政策に対する関心が高まっているということになるのかも知れません。

■NHK「擁護」論者たちの非誠実なる人格が際立った
うららちゃん騒動の総括において湯浅誠氏は、「彼女の消費実態は「進学できない」という番組の中心的要素に比べて枝葉の問題なので、とりあげなかったことも問題ない。だから「ねつ造」という批判は当たらない」などと述べて、開き直りました(9月4日づけ記事収録)。それに対して私は、上掲12月17日づけ記事において、「格差・貧困問題に警鐘を鳴らすのはまったく正しいことですが、「目的のためなら、すべてが正当化される」という姿勢は困るんですよ。それを許す政治過程は独裁に転落しかねないし、それ以前に、こういうことを続けると「あーまた格差、貧困ネタ? どこまで本当なんだか」という空気になりかねません」としました。うららちゃん騒動は、社会政策界隈の世論からの遊離という事実、「日本人のムラ社会的集団主義メンタリティー」という現実から出発していない観念論者化という事実を証明したのみならず、「目的のためなら、すべてが正当化されるか否か」という誠実さの試金石でもあったといえます。

その意味では、うららちゃん騒動で無理筋な擁護論を展開していた連中は、観念論者かつ非誠実なる人格であったと言わざるを得ません。

■観念固執とレッテル貼り――ー北欧諸国の成功例を伝えることは「経団連・自民党の新自由主義的宣伝」?
「レッテル貼り」に関しては、ちょうど今日もあったばかりなので、触れておきましょう。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161230-00048838-jbpressz-bus_all&p=1
>> 電通を血祭りに上げても労働者は救われない
JBpress 12/30(金) 6:15配信


(中略)

■ 失業で「人生をすべて失う」社会

 過労自殺でいつも議論になるのは「自殺する勇気があるなら会社を辞めればいいのに」という疑問だ。それはどう考えても不合理だが、日本では会社を辞めることが人生の終わりだと思う人が多い。

 日本の自殺者は年間約2万5000人だが、その1割は「勤務問題」が原因だ。自殺率が急上昇したのは1998年で、35%も増えた。この年は北海道拓殖銀行、山一証券の破綻に続いて、日本長期信用銀行や日本債券信用銀行などの破綻があり、企業倒産件数も負債総額も90年代で最悪になった。

 失業で自殺が増えるのは当たり前だと思いがちだが、スウェーデンでは1992年の金融危機で失業率は2%から10%に激増したが自殺者は減り、その後も減り続けている。北欧では失業給付が手厚く、職業訓練で転職を促進するなど、失業を前提にした制度設計ができているからだ。

 自殺率の世界ランキング上位には、リトアニア、カザフスタン、スロベニアなど東ヨーロッパの国が多く、社会主義が崩壊した90年代には上位を独占した。社会主義国では、職を失うことが人生を失うに等しいからだ。


(中略)

 このシステムの行き詰まりを、雇用規制の強化で是正することはできない。労働問題は組織の歪みの結果であって原因ではないので、長時間労働を禁止したら、闇のサービス残業や「持ち帰り残業」が増えるだけだ。民主党政権が「正社員化を促進する」と称して派遣社員を規制強化したら、パート・アルバイトが増えた。

 根本的な原因は、日本の資本市場や労働市場が機能しないために新陳代謝がきかず、広告代理店やマスコミのような未来のない会社がいつまでも残ることだ。労働者を救うためには、中途退社や中途採用を自由にし、会社を辞めても人生の終わらない社会にする必要がある。 特に戦時体制から変わらない労働行政を、失業や転職を前提とした制度設計に改めることが重要だ。労働者が「一家」のために働いて「お国」のために死んで行く時代の制度設計を21世紀に続けることはできないし、続けるべきではない。

池田 信夫
<<
池田信夫氏が北欧福祉国家を、まったく正しく評価している・・・明日はドカ雪大晦日かと思うような展開ですが、意外と池田氏はこういう「柔軟」(風見鶏?)なところがあって、見ていて面白いお方です。

当ブログでは以前から指摘しているように、北欧諸国では、産業の新陳代謝を促進させるため、傾斜産業への補助金延命措置やマクロ的規制を行わず、むしろ積極的なミクロ的競争政策を推進している反面、一人ひとりの勤労者・生活者の暮らしを守るため、池田氏が触れているように、ソーシャル・ブリッジの構築に注力しています。チュチェ102(2013)年8月18日づけ「「小泉改革」を克服した新しい改革を」でもご紹介した、スウェーデン元財務相のヌーデル氏の発言を以下に再引用します。
http://www.jri.co.jp/MediaLibrary/file/report/other/pdf/5292.pdf
>> ソーシャルブリッジという概念の3つめの側面は、就業人生への復帰です。

仕事に長い間就いていない人たちは、もう一度就職をするにしても、それに必要なスキルを失っています。この人たちに、就業に必要な求められるスキルを身に付けさせるには、積極的労働市場政策によって、労働市場への再参入を支援することが必要でしょう。従って、失業者には、新しい職を探すための手助けと再訓練の機会が与えられなければなりません。わたしたちは、OJT から学校教育までさまざまな機会を提供しています。重要なのは、高失業率がそのまま受け入れられるような風土を作らないことです。

既に申し上げたように、ここでの考え方は、人を守るということです。雇用を守るのではありません。フランスやドイツにあるような法律は、私たちにはありません。そういった法律は、産業が消滅してしまいますと、かえってコストを高めてしまいます。一方、私たちは、その産業を生き残らせるためにお金を提供するのではなく、個人が自分の身を守るために使えるお金を提供するという考え方です。競争が激しくなることによって自分の働いている会社が例え倒産したとしても、自分の人生は揺るがないのだという自信を人々に持たせなければなりません。

つまり、ソーシャルブリッジは、古い、競争力をなくした仕事から、新しい競争力のある仕事に人々を移らせるためのインセンティブにならなければならないわけです。スウェーデン人が変化を好んでいるのかといえば、それは全くのうそになります。スウェーデン人は、変化を好んではいません。しかし、ほかの国よりも変化を受け入れる大きな土壌が多分あるでしょう。 <<
旧来型の規制と保護の時代は既に過去のものになっており、好むと好まざるとに関わらず、市場活用型の社会政策が現実的必要性を持つ時代になりつつあります

にもかかわらず、そうした時代の変化について行っていないばかりか、レッテル貼りに走る言説がなおも見られています。コメ欄。
>> no_***** | 2016/12/30 11:13

JBpressは新自由主義で経団連と自民党のために、労働者解雇自由化社会をつくろうとしている。

そのために電通を守り、雇用規制を緩和させようとしている。
つまりは嘘記事です。
<<
北欧諸国の実績を単純にコピーすればよいものではなく、必ず、我々日本人が主体的な立場に立って政策を吟味しなければならないのは当然です。しかし、いったい何の根拠があって、既に北欧諸国で実績のある方法論に対して、こうしたレッテルを貼るのでしょうか?

旧型階級闘争系の人たちを中心に、いまも市場活用型方法論にアレルギーを見せる人たちは存在します。そうした時代遅れな手合いなのでしょうか? うららちゃん騒動での擁護者たちは観念論者でしたが、このケースでは「観念固執論者」の姿が見え隠れしています。

■観念に固執する「老害」たちのせいで社会政策の前進が妨げられた1年における数少ない吉兆
こうしてみると、今年の社会政策界隈は、社会的注目度があがっている好機であるにもかかわらず、観念に固執する「老害」たちのせいで、新しいステージに上がりきれなかった残念な年であったように思えていきます。しかし、11月18日づけ「「過渡期」に差し掛かった福祉政策・労働政策・社会政策界隈――脱啓蒙主義へ」は、数少ない吉兆でした。

上掲記事は、生活保護制度を巡って脳内補完・啓蒙主義的言説を展開してきた、みわよしこ氏の署名記事です。しかし、みわ氏は上掲記事で、なんと、「就労によるメリットに若干の手当をしたところで「働いたら損」となる状況は変わらない」という、生活保護バッシングに対する核心的批判の論点を正面から受け止める姿勢を示しました。典型的な脳内補完・啓蒙主義者であれば、こうした場合、ひたすら「人権」というキーワードを連呼するのに終始するのにも関わらず!

よい意味で衝撃をうけて興奮していた私は「ようやく、福祉政策・労働政策・社会政策界隈にも、世論の不満を汲み取り、制度的改善を模索し始めるという質的進歩の波が波及し始めているのでしょう。「過渡期」に差し掛かっているのでしょう。」とした上で、次のようにも述べました。
>> これを機に、ベーシックインカムや負の消費税といった具体的政策の問題や、あるいは、北欧福祉国家を支える「自立を尊ぶ政策・制度と、それを支える思想」への探究も進めていただきたいものです。以前から取り上げてきているように、北欧諸国はすべて小国であるために「福祉が充実している」とはいうものの、「国民を福祉で食わせつづける」などということは到底不可能であり、福祉を通じた自立・自活を強く求められる制度設計になっています。また、そもそも個人主義的な思想文化の国柄ですから、「お上が食わせる・お上に食わせてもらう」という観念でもありません。日本の社会政策界隈は、「北欧福祉国家はこんなに上手く行っている」などと言って、その制度的概観だけを安易にコピーして日本に輸入しようと試みますが、まちがいなく失敗するでしょう。自己満足の世界から少し足を踏み出しはじめた「過渡期」に、ぜひとも学んで学んでひたすら学んでいただきたいものです。 <<

みわ氏が見せた吉兆が、来年以降どのように開花してゆくのか。来年も社会政策界隈からは目を離せません。
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2016年12月29日

チュチェ105(2016)年を振り返る(1) 「ゲス不倫」はパートナー間の問題に留まらない

チュチェ105(2016)年も残すところわずかとなりました。近年は特に振り返り記事は書いてきませんでしたが、今年は一年の出来事を振り返り、補足的に論じる機会を設けることにしました。正月3が日くらいまで足が出る気もしますが、ボチボチ書いてゆきます。

当ブログは特殊な話題を取り上げるブログですが、振り返り第1号は「世間寄り」の話題として「ゲス不倫」について取り上げます。とはいっても、この話題を正面から取り上げた記事は、わずかに4月3日づけ「不倫擁護の精神的貧困――不倫は「信頼に対する裏切り」に過ぎぬ。不倫に反対する若者は、「反体制」を気取るエスタブリッシュメントの放縦に反対している。」だけでした(すこし触れる程度なら、もう少しある)。

■社会的人間の本質である信頼を裏切る反社会的性格の人物の存在は社会的脅威
上掲記事では、筆者の田中俊英氏の「ロマンティクラブ・イデオロギー(男女の二項対立に基づく伝統的恋愛観や恋愛行為を支える思想)に裏打ちされた異性愛とその制度化(結婚)を疑わないという姿勢を受け入れていれば、不倫が不倫として悪いものになる」という主張、つまり不倫を「社会規範・価値観の相対的な問題」とするピントのズレた主張に対して、私は、「不倫は信頼に対する裏切りであり、信頼は社会的人間の本質である」「社会的人間の本質である信頼の裏切りを許容する社会規範は存在しない」としました。いかなる理屈を並べようとも、社会的存在である人間の本質に照らしたとき、信頼に対する裏切り行為を正当化することは不可能なのです。また、現代結婚制度に反対し、事実婚形態を固守する「狂信的左翼」ですら、「人間同士の愛と信頼」は譲らないという実態についても補足的に述べました。肉欲・動物的本能に走り、社会的信頼を損なうような人物は信用に値せず、そうした反社会的性格の人物が、我々の市民社会で生活していることは、脅威以外の何者でもありません

■社会的信頼の本質は予想可能性
「人間も動物じゃないか!」という「反論」もあるかもしれませんが、尚も本質を見誤っている底の浅い「反論」です。人間も動物であるという指摘自体は正しい指摘です。たとえば、ふだん「家族愛」や「友情」を誓い合っている関係であったとしても、著しい飢餓の状況下では、動物的本能剥き出しの食料争奪戦が起こることでしょう。しかし、飢餓状態は一瞥しただけで客観的に状況が分かる事態であり、そうした状況下での食料争奪戦は十中八九起こるであろう事態です。「予想がつく」事態です。

他方、パートナーがいるにも関わらず別の魅力的人物が現れた場合に、パートナーの信頼を取るか、不倫に走るかというケースは、飢餓状態のように一瞥しただけで客観的に状況が分かるようなものではなく、不倫に走るかどうか一概には言えません。食料争奪戦とは異なり、「予想がつかない」事態です。

社会的信頼の本質は予想可能性です。客観的に明々白々の状況下での我利我利亡者的行為と異なり、気分次第で信頼を守ったり裏切ったりするような人物は、やはり信頼には値しないのです。家族との信頼関係を損なうような人物が、それ以外の赤の他人同士の関係である市民社会で信頼に足る人物であるとは到底思えません。行動に予想可能性がありません。その点において、不倫はパートナー間の問題に留まらないのです。

■隔離空間内部の特殊原理とは棲み分けつつも、旗幟鮮明に反対しなければならない
「それなら、ヒッピー・コミュニティのような特殊原理に基づき統合している集団が閉鎖・隔離空間の内側で勝手にやっている分には構わないのではないか?」というご意見もあるかもしれません。これについても述べておきたいと思います。

私は以前から繰り返し述べてきている通り、棲み分け論者なので、率直に言ってしまえば、隔離空間の内側だけで勝手にやっている分には積極的に干渉しようとは考えていません。しかしながら、市民社会として、そうした特殊原理に対する立場は、主として対内的に、旗幟鮮明に反対を表明しておかなければならないと考えています。

サザーランドの犯罪(反社会)行動の分化的接触理論によります。すなわち、犯罪的・反社会的行動は、社会的に一般的な生活から分化した「犯罪文化」に直接・高頻度に接触し、その価値観・手口を学習することによって、生み出されるというものです。犯罪文化空間で学んだ犯罪的価値観を、一般市民生活に持ち込むことが犯罪行動の始まりなのです。

不倫に走る人格は信頼に足らぬ人格であるとは言え、それ自体が第三者に対して直ちに被害をもたらすものではありません。その点を以って「直接被害を受けているわけでもない第三者が、他人の家庭の不倫問題に首を突っ込むべきでない」という主張もあるかもしれません。しかし、分化的接触理論に基づけば、直接的被害を受けていないからといって、反社会的行動に対して黙って傍観していることは不適切なのです。「対岸の火事」としてはならないのです。私自身は昔から小うるさいことは嫌いな性質で、学級委員の風紀指導は本当に嫌いだったのですが、人間同士の信頼関係を本質的な基礎とする我々の市民社会を守る上では、ある種の「風紀」の重要性は認めざるを得ないのです。

■改めて振り返り、まとめる
ここで改めて4月3日づけの記事を振り返れば、不倫を「社会規範・価値観の相対的な問題」とした田中氏は、ご自分たちの特殊原理空間でそれを実践している限りであれば何も問題はありませんでした。しかし、単なる価値観ではなく信頼関係を本質として成立している社会的人間同士の市民社会に、その特殊な統合原理を持ち込んだことが根本的な間違いだったのです。

なお、多忙な時期と重なったために記事として取り上げる機会はありませんでしたが、ゲス不倫問題をめぐっては、ある心理学者が「わざわざ他人の不倫に首を突っ込んで批判する人物は、無意識の内心では自分自身に不倫願望があることの裏返しである」と指摘していました。この機会にこの言説についても言及しておきたいと思います。

率直に言ってしまうと、そうなのかもしれません。何と言っても「無意識の内心」なのですから。しかし、これもまたピントのズレた言説です。多くの人は、それでも自制しているからであります。

「xx君だって〜〜しているのに!」という言い訳が「オマエは小学生か」と突っ込まれるのに、「xx君だって内心は〜〜したがっている!」では、「小学生」未満です。この「擁護」論では、当人の自制心のなさ、社会的信頼を軽視する人格が際立つだけではないでしょうか?


次回以降は、労働問題や社会政策に関する1年間の動きを総括します。
ラベル:社会
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2016年12月25日

労働者の関心事に答えず、ブラック企業の利益を無意識に実現させる労組活動家

(12/25 一部21:25追記)労組界隈も年末は書き入れ時なんでしょうか? 既定路線に当てはめようとしていつも通りの欠陥が見られます。以下で論じます。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/konnoharuki/20161225-00065868/
>> クリスマスケーキの自腹購入の強要、どう対処すればいいの?
今野晴貴 | NPO法人POSSE代表。雇用・労働政策研究者。
12/25(日) 12:51

昨日から、私が代表を務めるNPO法人POSSEには、「クリスマスケーキ」の販売ノルマやペナルティに関する相談が多数寄せられている。

「クリスマスケーキの販売ノルマを達成できなければ自腹で購入するように言われている」

「ケーキのノルマを達成できない場合、罰としてタダ働きでトイレ掃除をさせられる」

これらは昨日寄せられた相談だ。ケーキ屋やコンビニなどに勤める学生アルバイターからの相談が特に多い。

売れ残ったケーキの自腹購入の強要の被害は、今日ピークを迎えるだろう。また、年末年始には、おせち料理や年賀はがきの自腹購入の強要の被害が例年多発する。

そこで、以下では、不当なノルマや自腹購入強制の被害を少しでも減らすために、法的論点と対処法を考えていきたい。


(中略)

どのような対処法があるのか?

ここまでは法律上の論点を整理してきた。だが、違法だとわかっていても、アルバイトが経営者を正すことは簡単ではない。そこで、違法行為への対処法を次に紹介しよう。対処法の基本は、専門機関への相談という形をとる。それぞれの相談機関の管轄や特徴を押さえることが大切だ。

労働基準監督署への申告

労働基準監督署は、労働基準法違反等の取り締まりや行政指導を行う機関だ。ペナルティの一部には労働基準法に違反するものもあるが、ノルマやペナルティの多くは、民事的な問題であり、労働基準監督署の管轄外となってしまう。残念ながら、労働基準監督署では自腹購入の強要には太刀打ちできないだろう。

労働審判の申し立て

近年労使紛争が増加していることをうけて、労働審判という労働事件専門の司法制度が作られている。通常の裁判に比べると、大幅に解決までの時間が短縮されている(制度の詳細は裁判所のHPを参照してほしい。)。

だが、それでも司法制度の利用のハードルは低いとは言えない。解決まで通常半年程度の時間を要し、弁護士を雇うコストも当然かかってくる。逆に、高額な商品を買わされた場合や継続的に自腹購入を強要される場合には、労働審判の申し立てを検討したらよいだろう。

ユニオン(労働組合)で会社と話し合い

ノルマや自腹購入の強要といった問題の改善を目指すならば、ユニオン(個人加盟の労働組合)に相談することが有効だ。ユニオンが会社に話し合い(団体交渉という)を申し込んだ場合、会社は応じなければならないとされている。だから、受けた被害が法律上グレーの場合でも、話し合いによって改善する道が開かれているのだ。

また、ユニオンに加入して会社と交渉する場合、職場や会社全体の改善を求めることができるというメリットもある。自分と同じ被害を受けている人が他にもいるならば、ユニオンでの交渉をお勧めしたい。

簡単にいえば、アルバイトの法律問題は、金額が少額であるためなかなか裁判や労働審判になじまない。また、今回問題になっているノルマに関しては、労基署も有効に動きにくい。

このことから、ユニオンでの団体交渉が最善の方法になるというわけだ。幸いにも、ここ数年で各地に学生アルバイトの団体が立ち上がっている。有名なところでは、大学生や大学院生が中心となって運営し、首都圏や仙台市などを拠点として活動している「ブラックバイトユニオン」がある(末尾の相談窓口情報を参照)。

(中略)

クリスマス、お正月をたのしく迎えるために

解決事例からも分かるように、ノルマ問題を解決するために大事なことは、「証拠を残すこと」と、「専門機関への相談」に尽きる。

クリスマスから年末年始は、アルバイターにとっては、厳しい時期だ。クリスマスケーキを乗り越えても、その先におせち料理や年賀はがきが待っている。

だが、この記事を読んでくれた方には、ぜひ不当なノルマやペナルティに屈するのではなく、それらを改善させることで、良い年を迎えてほしいと思う。

すでに紹介した「ブラックバイトユニオン」の労働相談窓口は、クリスマスや年末年始も労働相談に対応している。ぜひ活用してほしい。


(以下略) <<
今野氏は例によって「ぜひ不当なノルマやペナルティに屈するのではなく、それらを改善させることで、良い年を迎えてほしい」という「価値観」の下、「労基署への申告」「労働審判の活用」「労組の活用」の3つをメニューとして提示しています。

■ムラ社会で波風立てた人の居心地という重大関心事
今野氏の提案を受け入れて、例の3つの方法論を推進したとしましょう。相手はブラック企業、改心するはずがありません。法的には問題ないものの、「居心地悪い雰囲気」を作ってくることでしょう。日本の職場環境は、いわば「ムラ社会」です。法的闘争を勧めている労組関係者たちは、そうした「ムラ社会で波風立てた人の居心地」にも責任をもってくれるのでしょうか? 

「権利を主張して何が悪い!」「元はといえば店側が不当じゃないか!」といった調子ばかり。いまだかつて労組関係者から、標準的日本人の感性に沿った説明を受けたことがありません。しかし、それこそが従業員たちにとって最も気になるところです。商品の「お買い上げ」がおかしいと言うのは、わざわざ「ご指導」頂かなくても、みんな「あれっ?」「いやだなあ」と思っていますよ。でも、波風立てたくないから黙っているものです。

■アルバイターは戦うよりも辞めたほうが早い
チュチェ103(2014)年8月3日づけ「「ブラックバイトユニオン」は逆効果――やればやるほど資本家への依存を高める」やチュチェ104(2015)年9月23日づけ「「ブラックバイト」の域を超えているのに「団体交渉」を申し込むブラックバイトユニオンの愚」においても述べたように、そもそも、アルバイトという就業形態は、正規労働者ほどは勤め先に対して依存しておらず、辞めても次の勤め先が正規雇用よりは見つけ易いという長所があります。それゆえ、アルバイターは退職した場合でも生活への影響が限定的であり、それゆえに比較的辞め易いと言えます。辞めることが可能であれば、辞めてしまったほうがよいでしょう。該当部分を再掲します。
http://rsmp.seesaa.net/article/426582325.html
>> 本来、「アルバイト」という雇用形態は、正規労働者ほどは勤め先に対して依存していません。辞めても次の勤め先が正規雇用よりは見つけ易いために生活への影響が限定的であり、それゆえに比較的辞め易いと言えます。従って、さっさと辞めて次のアルバイト先を探し、そこに全力投球したほうが「生活費を稼ぐ」という意味では得策です。しかし、ユニオンに言われるがままに団体交渉を闘いブラック企業の「改心」に期待しようものなら、貴重な生活時間の少なくない部分は闘争に傾けることになります。その分、生活費を稼ぐ時間は削られます。(中略)時間の経過とともに、そのバイト代は自分自身の生活費の不可欠な一部に組み込まれてゆき、他方で、疲労の蓄積によって「次のアルバイト探し」が困難になってゆくことでしょう。愚かにもブラック企業の「改心」などに期待したアルバイターは、こうしてさらに辞めるに辞められなくなってしまうことでしょう。 <<

■「要求実現」の長期的逆効果
仮に労組運動の結果、要求が受け入れられたとしましょう。単純な労組関係者は「要求が実現されました!」「戦えば勝てるんです!」などと大はしゃぎすることでしょう。しかし、相手はブラック企業。本心から改心するはずがなく、「巻き返し」を虎視眈々と狙っています

労働者(アルバイターを含む)が企業側に要求を呑ませるということは、換言すれば、企業側と「利益・運命共同体」としての結びつきを強めることを意味します。虎視眈々と巻き返しを狙っているブラック企業側は、いったん獲得した「要求の成果」を労働者が自らの生活の不可欠な一部に組み込んだタイミングで、足許を見てくることでしょう。あるいは、著しい景気後退などにより労働者側のパワーが弱まったタイミングで「回収」を試みることでしょう。チュチェ104(2015)年10月8日づけ「「日本の労働組合活動の復権は始まっている」のか?――労組活動は労働者階級の立場を逆に弱め得る」を筆頭に以前から指摘しているように、労働者が真の意味で自主的になるためには、足許を見られないために特定の勤め先に対する依存度を下げることが必要です。にも関わらず、むしろ団体交渉を通して店側と強く結ばれてしまうのです。要求実現型の従来型労働運動は、労働者の自主化にとって逆効果になり得るのです(戦闘的組合の御用組合化はその典型例と言えるでしょうね)。

長いですが、重要なので再掲します。
http://rsmp.seesaa.net/article/427429066.html
>> 労働者が真の意味で自主的になるためには、企業側に足許を見られないために特定の勤め先に対する依存度を下げることが必要です。なぜ電力会社が一般電力消費者に対して殿様商売ができる(できていた)のかといえば、他に売り手がいないからです。なぜ、自動車メーカーが下請け工場の部品をふざけた値段にまで値切ることができるのかといえば、他に買い手がいないからです。他に売り手/買い手相手が居ないとき、買い手/売り手は、売り手/買い手に対して依存的立場・弱い立場に置かれます。(中略)独占市場の基本原理です。

(中略)労働者が「できればその企業で勤め続けたい」という願いを前提として団体交渉に臨んでいる限り、最終的には企業側の掌の上に居続けます。企業は需要独占者の立場に居続けます。ミクロ経済学における「価格弾力性」を思い浮かべてください。ミクロ経済学によれば、需要者に対して供給者の価格弾力性が硬直的であった場合、たとえそれがマーシャリアン・クロスが成り立つ非独占・非寡占の市場であっても、取引の主導権は需要者側にあるといいます。(中略)これはすなわち、こうした前提で臨む限り、団体交渉における労働者の立場は弱いということを示します。

■「代わり」の存在こそが依存度を下げる――辞職・転職カードが重要
価格弾力性の決定要因は「代わり」の存在の有無です。「代わり」があればその取引にこだわる必要は無いので、価格弾力性は弾力的になります。「代わり」がなければ何としてでも取引を成立させなければならないので、価格弾力性は硬直的になります。

ミクロ経済学的考察に基づけば、労働者の立場と為すべきことも見えてくるでしょう。真に交渉力を持つためには、「辞めるよ?」という脅しが必要なのです。「辞めるよ?」と言える立場は、「代わり」を確保している立場です。「辞めるよ?」と言えない立場で、団体交渉等によって企業側から「譲歩」を勝ち取りその利権を自らの生活に組み込むことは、特定の勤め先に対する依存度を上げることに繋がります。労働者階級が自主的であるためには、労働需要者としての企業を競争的な立場にしなければならないのに、「辞めるよ?」と言えない立場で、団体交渉等に臨むというのは、労働者階級自らが企業の「労働需要独占者」としての地位をさらに強化させていると言っても過言ではありません。自分から労働市場を独占化させてどうするんですか。
<<

■合理的アルバイターは、自発的に戦おうとしないだろう
もっとも、人手不足の昨今ですから、少なくない合理的なアルバイターは、面倒な「戦い」に身を投じるよりも、自発的にスパッ辞めてしまう人のほうが多いのではないかと思います。学生アルバイターの場合は特にそうでしょう。これは以前にも述べています。
http://rsmp.seesaa.net/article/403098330.html
>> つまり、学生は企業に対して依存度が低く、わざわざ労組で階級闘争に身を投じる人・投じざるを得ない人よりも、スパッと辞めてしまう人・辞めることができる人の方が多いので、運動としての広まりはブラック企業問題ほどは広まらないと考えられるのです。あらゆる場面においてもそうですが、「広まらない」というのは労働運動において特に大きな意味を持っています。 <<

■「社会的悪評」を立てず、コッソリと当事者間で収拾させる労使交渉は、ブラック企業にとって有難いことこの上なし
さらにいえば、今回今野氏が提案している3つの方法論はすべて「当事者間という狭い範囲でコッソリと紛争を収拾する」という方法論です。ブラック企業としては有難いことこの上ないでしょう。

競争的市場経済において商売人が最も恐れるのは、自社にたいする悪評です。自社に対する悪評の前には、どんなブラック企業でも対応を講じるようになるものです。チュチェ103(2014)年10月3日づけ「最後の決定的な部分は下から積み上げてゆくこと」でも述べたように、あの「すき家」のブラック労務が改善された決定打は、「アルバイト従業員たちの大量退職連鎖」であり、それが社会的に大きく報じられた結果としての「新規バイト応募者の激減」でした。今野氏が提案するような方法論では、店側の悪評が立ちません。これでは、何も知らない「産業予備軍」たちが次々と応募してしまい、結果として、決起したアルバイターに対しては「あっそ、代わりはいるから、じゃあ明日から来なくていいよ」という扱いになることでしょう。それに対して、店側の悪評が十分に立ち得る状態で辞めれば、その退職行為自体が悪評の根拠になり、じわじわと店側を締め上げることができるでしょう。「すき家」のケースだって、会社側は初めのうちは「どーぞ、明日から来なくて結構!」とタカを括っていたのでしょうが、悪評が社会全体に広がって行った結果、あるときから「やばっ」と危機感を持つに至り、ついに労務改革に取り組んだのでした。「ワタミ」もそうだと言えるでしょう。

「辞める」というインパクトある対応を一人ひとりが積み重ねることによって、労働市場に悪評を立てること――これが競争的市場経済における強力な方法論です。

■まとめ
今野氏は「ぜひ不当なノルマやペナルティに屈するのではなく、それらを改善させることで、良い年を迎えてほしい」などとしますが、上述をまとめると、
1.働き続けたいので、「ムラ社会」としての職場で人間関係に波風立てたくない人は、そもそも戦わない。
2.今の人間関係などもう如何でも良いと思っている人は辞めるので、そもそも戦わない。
3.所詮アルバイト、所詮ケーキ数個程度だから、面倒なことをするまでもない。
4.「要求実現」は、企業側との結びつきを強めるので、労働者の自主化という意味では逆効果。
5.退職者が大量に発生するということは企業にとって著しい悪評。新規採用に響きかねなので、一番効く。
ということなのです。

■労組は何をなすべきか
こうした、無理に闘争するのではなく辞めることを中心に据えた方法論における労組の立場・役割については、以下の過去ログで積極的に論じています。あわせてご参照いただければと思います。
チュチェ103(2014)年8月31日づけ「ユニオンが転職支援する大きな意味――「鉄の団結」は必要ない
チュチェ104(2015)年10月15日づけ「周囲の助けを借りつつ「嫌だから辞める」「無理だから辞める」べき
チュチェ105(2016)年12月16日づけ「自主的かつスマートなブラック企業訴訟の実績――辞めた上で法的責任を問う方法論
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2016年12月23日

エイベックス松浦社長が意図せずに提示している「強力な労働自主化運動への道」

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161223-00000004-spnannex-ent
>> 労基署勧告にエイベックス社長が疑問「今の働き方を無視する様」
スポニチアネックス 12/23(金) 5:40配信

 エイベックスの松浦勝人社長が22日、自身のブログを更新し、社員に違法な長時間労働をさせていたとして、三田労働基準監督署(東京都港区)から今月9日付で是正勧告を受けたことについて、「今の働き方を無視する様な取り締まりを行っていると言わざるを得ない」と批判し、「法律が現状と全く合っていないのではないか」と疑問を投げかけた。

 勧告を受けたこと自体は「現時点の決まりだからもちろん真摯(しんし)に受け止め対応はしている」とコメント。その上で、「好きで仕事をやっている人に対しての労働時間だけの抑制は絶対に望まない」とし「僕らの業界はそういう人の“夢中”から世の中を感動させるものが生まれる」と理解を求めた。

最終更新:12/23(金) 9:25
<<
■意図せずに強力な労働自主化運動への道を提示する松浦社長
一見して、企業の社員酷使を正当化する言説以外の何者でもないように見えますが、この論点は、「自主権の問題としての労働問題」というテーマを掲げ、勤労大衆・労働者階級の立場から主張してきた私の主張とも通底する部分があります。一人ひとりの生身の人間の事情を、事前に法律が網羅的に規定することなどできず、それゆえ、法の規制よりも、一人ひとりの労働者が自分自身の労働環境を自主的に決定できるように労使交渉を推進し、労働自主化運動を展開してゆくこそが主軸とされるべき時代になりつつあるのです。もちろん、松浦社長は、そこまで深く考えてはおらず、単に利潤目当てに労働法制を緩和するベクトルでモノを言っているのでしょうが、意図せずに強力な労働自主化運動への道を提示していると言えます。以下で述べます。

■一律の法的解決・マクロ的対応には本質的限界とは何か
法的規制の限界を勤労大衆の立場から述べましょう。チュチェ104(2015)年6月15日づけ「「自主権の問題としての労働問題」と「法的解決」の相性」をはじめとして以前から指摘しているように、労働者個人個人が抱えている事情は千差万別ですから、ある種の「社会的基準」にもとづく、一律の法的解決・マクロ的対応には本質的に限界があります。一人ひとりの生身の人間の事情を、事前に法律が網羅的に想定・規定することは不可能です。

たとえば昨今は勤務間インターバル制度が取り沙汰されています。仮に法が12時間のインターバルを義務化したとしましょう。しかし、ある人物にとっては、体質的問題からそれでは不足であるというケースも十分にありえます。そうした場合、その人物を守るためには「12時間のインターバル」という法的規制は役に立ちません。個別の労使交渉が必要になります。しかし、おそらく企業側は「法の基準は十分に守っているし、普通12時間もあれば十分じゃないか」などと、まずは応じることでしょう。このように、「社会的基準」によっては保護され得ない厳しい個別事情を持った個人は、一律の法的規制に頼りきりの制度においては、依って立つ所はありません。これは、一律の法的解決の「力不足」という意味での限界として位置づけることができます。労使交渉の推進をサポートする仕組みこそが真に必要なものであると言えます。

他方、一人ひとりの生身の人間の事情を、事前に法律が網羅的に想定・規定することなどできないという基本原理に照らせば、松浦社長が言う「好きで仕事をやっている人」というケースは、一律の法的解決の「不必要な過保護」という意味での限界として理解することができるでしょう。やはり、労使交渉による決定が望ましいと言えるでしょう。

■労働市場を活用するタイプの労使交渉
一人ひとりの生身の人間の事情を、事前に法律が網羅的に想定・規定することなどできない――その点において、私は以前より、従来の左翼的な要求実現型労組運動ではなく、労働市場を活用するタイプの労使交渉――「勤務環境が改善されないなら辞めます」――を主軸に据えた労働運動の重要性を指摘してきました。

12月5日づけ「小うるさい「職人」と棲み分けできる市場経済で本当に良かった!」など、繰り返し述べてきたように、自由な市場経済の真の効用は、自由契約であるがゆえに、「棲み分け」ができる点にあります。「棲み分け」ゆえに似たような価値観をもつ人たち同士での経済活動に特化が可能です。同時に、「棲み分け」ゆえに、極端な「俺様正義」を押し通そうとすれば、自分自身が競争淘汰される恐れがあるので、ある程度の「社会的枠内」に留めるインセンティブが発生します。

事実、「ワタミ」や「すき家」などは、極端な「俺様正義」(とくに渡邉美樹氏の珍妙なる哲学・・・)のために労働市場から淘汰されそうになり、あわてて労務改革に取り組んだ実例であったことは、チュチェ104(2015)年10月8日づけ「「日本の労働組合活動の復権は始まっている」のか?――労組活動は労働者階級の立場を逆に弱め得る」で述べたとおりです(あれだけワタミ労組が頑張って要求運動を展開してきたのに、実際に会社側を動かしたのは、労働市場を活用する「勤務環境が改善されないなら辞めます」路線だったのです)。

また、本年10月10日づけ「秋山木工の徒弟制度――言いたいことは分かるが洗練されていない」においても述べたように、珍妙なる「働き方哲学」に洗脳を受けてしまい、それを当然だと思い込んでしまっている労働者のケースについても、いや、そうしたケースだからこそ、「辞める」ことを主軸に据えた作戦が必要です。

なお、従来の左翼的な要求実現型労組運動の立場を取らない理由については、チュチェ104(2015)年10月8日づけ「「日本の労働組合活動の復権は始まっている」のか?――労組活動は労働者階級の立場を逆に弱め得る」や本年12月16日づけ「自主的かつスマートなブラック企業訴訟の実績――辞めた上で法的責任を問う方法論」などで述べました。簡単に言うと、要求運動は、自主化にとって逆効果になるのです。

■社員たちの労働自主化運動の展開を容認する寛容さを求めたい
好きで仕事をやっている人に対しての労働時間だけの抑制は絶対に望まない」などと社員の声を「代弁」している松浦社長には、ご自身の主張の筋を通すという意味で、一人ひとりの社員が自分自身の労働環境を自主的に決定できるような環境整備、具体的には、社内の風通しをよくし、上下関係を威圧を排し、勤務環境に関する労使間の率直な意見交換を可能とする土壌を創り上げ、社員たちの労働自主化運動の展開を容認する寛容さを求めたいものです。

もし、松浦社長がそうした寛容政策を取ろうとしなかったり、あるいは、寛容政策をとった結果、社員から労務管理に対する反発の声が表明されるようになったとしたら、チュチェ102(2013)年6月3日づけ「ワタミは「ブラック」というより「急進左翼」」や本年10月11日づけ「長谷川秀夫教授はワタミと同じレベルの「急進左翼」――「時代」ではなく「その人自身」」で述べたのと同じ視点から、松浦社長がワタミの渡邉氏と同じレベルの「急進左翼」であり、エイベックスは「ブラック企業」ではなく「左翼結社」に他ならないということになるでしょう。所業は資本家でも思考回路が空想的左翼なのです。
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2016年12月19日

安易なブラック批判;勤労大衆の利益の立場だからこそ慎重になるべき

http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20161218-00000037-nnn-soci
>> 熊本市役所で火事「り災証明」データは無事
日本テレビ系(NNN) 12/18(日) 21:05配信

 18日未明、熊本市役所で火事があった。けが人はいなかった。

 18日午前3時40分ごろ、熊本市中央区の熊本市役所で火事があり、書類やパソコンなど約300平方メートルが燃えた。当時、この階に女性職員がいたが、逃げ出して無事だった。

 火事があったのは10階の健康福祉政策課で、熊本地震のり災証明のデータは無事だという。


(以下略) <<
■安易なブラック批判と言わざるを得ない
コメ欄をみると、「日曜日の午前3時に職場にいるだなんてブラックだ!!!」というコメントが溢れています(今回は引用は省略します)。あまりにも短い、それも本筋は火災ニュースであるにもかかわらず、そこまで論じることが出来る「素材」なのでしょうか?

■宿直勤務の可能性
自主権の問題としての労働問題勤労大衆の立場から論じてきた私ですが、この世論の反応は、短絡的であると言わざるを得ません。世間一般では知られていないのかもしれませんが、公務員は事務職であっても宿直勤務があるので、このような短い記事で報じられている事実の範囲だけでは、一概に「ブラック」とはいえません

■その人自身にとって十分な代休・振休が付与されているか検討されていない
また、純粋に時間外労働だったとしても、「日曜日の午前3時に職場にいる」というだけではブラックとは言えないでしょう。その時間外勤務に対して、その人自身の生活において十分な代休・振休が付与されていれば電通パワハラ・過労自殺問題の記事でも述べたように、その人自身基準というのが大切です)、それは「ブラック」とは言えません。何を以って「ブラックか否か」というべきかは、実はこれだけブラック企業・労務問題が世間のクローズアップを受けているにも関わらず、意外と共通認識が定着していません。「自主権の問題としての労働問題」というテーマを掲げている私としては、世間一般の認識とは少し違うかもしれませんが、「当人の生活の全方位にわたるバランスが取れているか否か」という切り口から「ブラックか否か」を議論したいと考えています。

もちろん、秋山木工の件においても述べたように、あまりにも社会通念から逸脱しているケースにおいては、「当人」というファクターだけで論ずることは不適当です。しかし、今回の熊本市役所のケースでは、そこまで論ずることは情報不足のため不可能です。敢えて一般論、そして私自身の体験談いえば、「休日深夜勤務ないに越した事はない(だって疲れるじゃん)が、まあ人生の1ページかもね」といったところです。

■元はといえば公務員バッシングのせいではないのか
この記事だけではなんとも言えませんが、仮に、慎重に実態なる調査を行った結果、ブラックという他なかったとしましょう。となると、今度は「役所がブラック化した原因は何処にあるのか」という問題に関心が移ります。

結論を言えば、かつて一世を風靡した安直な公務員バッシングのせいではないかでしょうか。一握りのキャリア官僚の「厚遇」を以ってノンキャリアから地方公務員まで十把一絡げに「公務員」とグルーピングして論じた風潮、出先機関の定年間際職員を以って霞ヶ関、都道府県庁、政令市市役所等の不夜城部署を論じた風潮、そうした雑な言論がもたらした悪影響は計り知れないでしょう。同時期に叩かれていた「学校の先生」の件を見ても、「モンスター・ペアレント」を増長する一助になっていました。相関はありそうです。いま慌てて「教員の負担軽減・待遇改善」キャンペーンを張っていますが、いちど肥大化したモンスターはなかなか退治される気配はありません。公務員はまだキャンペーンさえ張られていません。まだまだ「役所のブラック化」は留まらないことでしょう。

自分たちの雑なコメントが、役所のブラック化をもたらしたのではないか――そうした自省のもとに投稿されたコメントだったのでしょうか。疑わしいと言わざるを得ません。

■安易なブラック批判の何が悪いのか
先にも述べたように、私は「自主権の問題としての労働問題」というテーマを掲げ、勤労大衆の大衆の立場からその自主化を論じてきました。その意味では、昨今のブラック企業に対する世論の盛り上がりは良い傾向だと考えています。むしろ、「まだまだ足りない」といっても良いでしょう。

しかし、過剰なブラック企業批判は戒めるべきです。正確でない認識は正しい処方箋を出す上で障害になります。いまはよくても後々、どうなるかは分かりません。また、過剰な認識・手当ては、敵対分子に漬け込まれ、宣伝を捻じ込まれる余地、「ゆり戻し」の余地が生じます。過ぎたるは及ばざるが如し。勤労大衆の利益の立場だからこそ慎重になるべきです。隙を見せてはなりません。
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2016年12月17日

池上彰氏、フジテレビ特番で「日本の格差の深刻さ」を珍妙なるグラフと理論で指摘

格差・貧困問題に警鐘を鳴らすのはまったく正しいことですが、「目的のためなら、すべてが正当化される」という姿勢は困るんですよ。それを許す政治過程は独裁に転落しかねないし、それ以前に、こういうことを続けると「あーまた格差、貧困ネタ? どこまで本当なんだか」という空気になりかねません。
http://netgeek.biz/archives/89232
>> 【炎上】池上彰が日本の貧困を深刻に見せるためにインチキグラフを使っている
腹BLACK 2016年12月17日

ジャーナリストの池上彰がなぜこんなことを…。よく見れば中学生でも見抜ける印象操作に池上彰が手を染めてしまった。

問題の放送はこちら。

▼平均所得の推移について日本とアメリカを比較するグラフをつくり、「日本は貧困層がますます貧しくなっているんです」
(画像引用略)
一見もっともらしい説明だが、注意深く観察するととんでもない不正が明らかになる。まず最もやってはいけないのは、比較グラフなのに縦軸の数値が違うということ。さらに以下の点もおかしい。

・日本のデータは民主党政権下あたりの2010年までしか使っていない

・アメリカは2011年のデータまで使っており、横軸もずれがある

・そもそもなぜ比較対象がアメリカなのか

・なぜ上位1%と下位90%なのか。上位10%と下位90%のほうが自然

グラフをつくったのが池上彰ではないとしてもこの放送はひどすぎる。日本の貧困層はひどくなっていると結論ありきで訴えるために捏造された見せ方だ。

(中略)
ジャーナリスト池上彰がこの数字のトリックに気づかなかったはずがない。テレビ局からギャラをもらう池上彰は政治が絡む番組でもテレビ局の犬になって偏向報道に手を染めているのか。

その後、番組は貧困層の悲惨さを訴えるために色々な主張がなされる。

(中略)
▼貧困層の具体例として貧困JKうららさんが事例に挙げられる。
(画像引用略)
▼皆さんご存知の通り、炎上騒ぎになった。
(画像引用略)
▼しかし、池上彰は貧困JKの肩を持つ。
(画像引用略)
▼うららさんは相対的貧困だったので世間の反応が間違っていたと結論付ける。
(画像引用略)
番組の流れはざっとこんなところ。日本は貧困層が苦しい思いをしているとデータを見せてから具体例を紹介し、大衆の理解がいかに間違っているかと説得する流れにもっていっていた。

しかし、そもそも冒頭のデータからして間違っているのだからもはや呆れて物が言えない。貧困JKについては極端な浪費癖があることが分かり、それを税金で助けてあげるのは違うという論調が強まった。相対的貧困という言葉が有名になってもなおその論調は弱まらない。


(以下略) <<

http://hosyusokuhou.jp/archives/48780288.html
>> 【悲報】池上彰が「日本の格差の深刻さ」で使用したグラフが酷すぎると話題にwwwwwwwwwwwww

「縦軸がね…」
「目盛り壊れちゃう〜」
「こんなことしだしたら終わりやね 」
「目盛りがガバガバじゃねぇかお前んグラフゥ! 」
「縦軸合わせたら日本もちょっと下がってるくらいやんけ」
「こんなことして恥ずかしくないのか池上」
「これ流石にやばない? 」
「これBPOやろ」
「ガイジグラフかな」
「ひどいな、こんなひどい内容でドヤってんのかこいつ」
「アメリカの格差に比べたら日本の格差なんてカワイイもんやな」
http://raptor.2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1481929747/
<<

私も昨日の記事を書きながら、テレビをつけていたので途中までは見ていました。「『資本論』の記述を引いた共産党の宣伝パンフレットみたいな構成だなー」と思いつつ、共産党員と関係していたころの記憶をたどって次の展開を読んだところ大当たりで、一種の「なつかしさ」を感じる番組内容でした(進歩がない?)。もっとも、共産党の宣伝パンフレットではあまり出てこない「企業も競争に直面している」という事実を指摘している(厳密には『資本論』の序文でマルクスは指摘しているはずなんですが、共産「党主義」者はちゃんと読んでいないんでしょうね)点は、党宣伝パンフレットよりはマシです。

格差の問題は分配の問題ですが、分配のためには原資が必要です。我がなつかしの共産党員たちは、当ブログでも何度か引き合いに出している、「規制緩和と産業淘汰がすすむ活力ある自由経済下での経済成長」と「手厚い個人単位での社会保障政策」とを両立させ、経済成長と社会保障の好循環を回している、スウェーデンを筆頭とする北欧福祉国家の実態を知るにつれて、党宣伝パンフレットに則ったアジテーションをしなくなっていったものでした(印象と異なり、90年代以降の現実の北欧諸国は、左翼が泡を吹いて卒倒するような自由化を進めつつ福祉給付の水準を維持しています)。「池上氏と番組スタッフたちがその視点から北欧諸国を取材したとき、この論調とどう整合性つけるのかな?」と思いつつ、番組を聞き流していました。

そうこうしているうちに記事が書き終わったので、私はアメリカにおける格差論の部分しか視聴(聞き流し)していなかったのですが、そのあとにこんな、あからさまな印象操作が行われていたとは・・・

比較している2つのデータのグラフが、よくよく見ると目盛りの単位がまったくことなっている・・・いわゆる「びっくりグラフ」です。『ウソを見破る統計学―退屈させない統計入門』という超初心者むけの読み物(←けっこう面白いですよ)でさえ、冒頭で早速斬って捨てていた印象操作の古典的な手法です。追及されたら「違法ではないが一部不適切」とでも言うのでしょうか(「日本死ね」よりも、よほどこっちのほうが流行語向き・・・)?

そして出ました「貧困女子高生うららちゃん」の件。また蒸し返したんですね。画面キャプチャによると「貧困に対する理解が足りないのではないか」というシーンだったようです。

この件については、当ブログでは、私自身が反貧困・貧困撲滅推進の立場(もっといえばチュチェの社会主義者)であるからこそ、うららちゃんを貧困の例として取り上げるNHKとその擁護論者たちを批判してきました。「貧困に対する理解が足りないのではないか」という番組中での指摘についても、当時、まったく同一の主張を展開していたNPO法人「ほっとプラス」代表理事の藤田孝典氏(そのコジツケ・脳内補完に満ちた主張を、当ブログではよく批判的に取り上げています)の署名記事を批判する形で、9月3日づけ「相対的に見るからこそ「貧困」とは言えず「普通」レベル――ムラ社会的な集団主義メンタリティーだからこそ生活水準の比較に敏感な日本人」を中心に取り上げました。すなわち、「うららゃんは、相対的に見ても貧困とはいえず、普通レベル。むしろ、相対的に見て普通の人より楽しんでいるかもしれない」ということ、そして、「もともと日本人はムラ社会的な集団主義メンタリティーで「生活水準の比較」には敏感であるから、「無理解」とはいえない」ということです。

9月4日づけ「「嫉妬」されないために、支出の優先順位をつけましょう」においては、格差・貧困問題の「大御所」である湯浅誠氏の擁護論を批判する形でも取り上げています。湯浅氏は、「彼女の消費実態は「進学できない」という番組の中心的要素に比べて枝葉の問題なので、とりあげなかったことも問題ない。だから「ねつ造」という批判は当たらない」といったアクロバットな擁護論を展開させ、人々を動揺させました。私はこれについて、「捏造は捏造、ウソつき」とした上で、「進学という目標があるのなら、消費の優先順位づけも重要」と指摘した上で、擁護論者たちのどうしようもない常識的感覚からのズレを指摘しました。

「さすがフジテレビ」と言ったところでしょうか?(これ、フジテレビの特番ですよー『保守速報』にその辺のツッコミがないのが不思議) 形勢不利と見るや否や沈黙するも、ほとぼりが冷めるとこうして同じことを繰り返す・・・懲りないですね。池上氏はどうするんでしょうか? このまま沈黙? 「スタッフがつくったグラフがマズいのは分かっていたが、作り直する時間がなかった」? うーん。

ちなみに、社会主義者の立場から申し上げれば、こんなことをやりながらもフジテレビは本当に中途半端と言わざるを得ません。結局、「政府による社会政策」といった古典的プランに誘導することしかできていません。しかし、番組が想定している「税金を徴収して、それを再分配にまわす」といった程度の古典的で素朴な福祉国家路線には、もう戻れません前掲した「90年代以降の北欧型路線」を踏襲するか、あるいは、正攻法で「人民政権樹立」や「労働者自主管理体制樹立」くらい踏み込むかのどちらかしか道はないのです。事態はそこまで進展しているのです。

キム・ジョンイル総書記の御命日に、2ちゃんのスレや「保守速報」を引いて記事を書くのもアレですが、あくまで「道具」ですし、社会主義者だからこそ、「中心的要素に比べて枝葉の問題については、捏造にはならない」(by湯浅誠)とするわけには行かないのです。
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2016年12月16日

自主的かつスマートなブラック企業訴訟の実績;辞めた上で法的責任を問う方法論

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161216-00000012-mai-soci
>> <ブラック企業訴訟>3年闘った女性 「勇気出し声上げて」

毎日新聞 12/16(金) 10:03配信

 違法な長時間労働を強制されたなどとして、20代の元従業員の男女6人が、仙台市青葉区のマッサージ師派遣会社「REジャパン」=昨年3月に破産=の会社役員らに約3600万円の損害賠償を求めた訴訟は先月9日、仙台地裁で和解が成立した。3年間に及ぶ裁判を闘った原告の女性(27)=仙台市若林区=が毎日新聞の取材に応じ、「一人で思い悩まずに勇気を出して声を上げてほしい」と訴えた。【本橋敦子】


(中略)

 女性は13年5月ごろ、「会社を辞めたい」と申し出たが、社長は取り合わなかった。「社長は『人は宝だ』と言っていたが、大事にされたと感じたことは一度もなかった」。他人との会話を苦痛に感じるようになり、全身の倦怠(けんたい)感に苦しんだ。13年7月に退職した。

 その後、労働問題に取り組むNPO法人POSSE(ポッセ)などの支援を受け、元同僚と一緒に同11月に提訴。会社側への怒りから始めた裁判だったが、次第に「同じ思いをしている仲間の励みになれたら」との思いが強くなっていった。そして提訴から約3年後の先月、会社側からの解決金と文書による謝罪を勝ち取った。


(以下略) <<
きちんと退職した上で、なおかつ、法的に戦ったのはとても良かったと思います。以下、3つのポイントから述べてまいります。

当ブログでは以前から、「自主権の問題としての労働問題」というテーマを掲げ、労働者階級の利益を実現する立場から、「嫌だから辞める・無理だから辞める」ことの大切さを軸に、論考してきました。辞めるということは、勤め先の支配から脱することです。心身の無理をせず「退職」するのは、取り急ぎ安全地帯に脱出するという意味で最善の方法です。これは、いじめ問題においても述べてきました。第一のポイントです。

第二に、労働者が真の意味で自主的になるためには、企業側に足許を見られないために特定の勤め先に対する依存度を下げることが必要です。これについては、チュチェ104(2015)年10月8日づけ「「日本の労働組合活動の復権は始まっている」のか?――労組活動は労働者階級の立場を逆に弱め得る」で述べていますので、少し長いですが再掲します。
>> ■労組運動の危険性――企業側への依存度を下げ、企業側の労働需要独占の立場を掘り崩さなければならない
(中略)

労働者が真の意味で自主的になるためには、企業側に足許を見られないために特定の勤め先に対する依存度を下げることが必要です。なぜ電力会社が一般電力消費者に対して殿様商売ができる(できていた)のかといえば、他に売り手がいないからです。なぜ、自動車メーカーが下請け工場の部品をふざけた値段にまで値切ることができるのかといえば、他に買い手がいないからです。他に売り手/買い手相手が居ないとき、買い手/売り手は、売り手/買い手に対して依存的立場・弱い立場に置かれます。前述の競争市場の基本原理に対して独占市場の基本原理です。

労働者は同時に一企業でしか働けないのに対して、企業は同時に複数の労働者を雇用し得ます。いくら労働者が束になったところで、労働者が「できればその企業で勤め続けたい」という願いを前提として団体交渉に臨んでいる限り、最終的には企業側の掌の上に居続けます。企業は需要独占者の立場に居続けます。ミクロ経済学における「価格弾力性」を思い浮かべてください。ミクロ経済学によれば、需要者に対して供給者の価格弾力性が硬直的であった場合、たとえそれがマーシャリアン・クロスが成り立つ非独占・非寡占の市場であっても、取引の主導権は需要者側にあるといいます。分かりやすくいえば、「生活必需品でない商品は買わなくても消費者は困らないが、それしか商材のない生産者は何とかして売り切らなければならないので、結果的に値切り交渉・在庫処分安売りセールが起こりやすい」と言えばよいでしょう。これと同様に、「できればその企業で勤め続けたい」という労働者(労働供給者)の願いは、ミクロ経済学的には「需要者に対して供給者の価格弾力性が硬直的」と解釈できます。これはすなわち、こうした前提で臨む限り、団体交渉における労働者の立場は弱いということを示します。

■「代わり」の存在こそが依存度を下げる――辞職・転職カードが重要
価格弾力性の決定要因は「代わり」の存在の有無です。「代わり」があればその取引にこだわる必要は無いので、価格弾力性は弾力的になります。「代わり」がなければ何としてでも取引を成立させなければならないので、価格弾力性は硬直的になります。

ミクロ経済学的考察に基づけば、労働者の立場と為すべきことも見えてくるでしょう。真に交渉力を持つためには、「辞めるよ?」という脅しが必要なのです。「辞めるよ?」と言える立場は、「代わり」を確保している立場です。「辞めるよ?」と言えない立場で、団体交渉等によって企業側から「譲歩」を勝ち取りその利権を自らの生活に組み込むことは、特定の勤め先に対する依存度を上げることに繋がります
(以下略) <<

第三のポイントについて述べましょう。これも以前から述べてきましたが、勤め続けることを前提とした労使交渉によって仮に何らかの譲歩を引き出したとしても、もともと他人を踏み台として使い潰そうとしていたブラックな使用者側が真に反省するはずもないので、いつかどこかで必ず「巻き返し」があると考えて間違いありません。景気が著しく後退したり年齢を重ね家族を持つようになるなど、転職が困難になった状況下で「逆襲」をうけることでしょう。変な幻想をもたず、縁を切ることができるならばキッパリと切ったほうがよいのです。もちろん、周囲の助けを借りつつ「嫌だから辞める」「無理だから辞める」べきです。

(1)取り急ぎ退職したことによって心身の健康を守った。(2)退職したことによって、ブラックな勤め先に対する依存度をゼロにし、自主的な地位を獲得した。(3)中途半端に未練を残さず退職したことによって、将来にわたって「巻き返し」をうけることを予防した。この3点において、彼女らが「まず退職したこと」は正しい選択でした

これに対して、やや旧聞ですが、「アリさんマークの引越社」で、ヤクザまがいの恫喝に耐え、シュレッダー係に左遷されつつも、労働組合(ユニオン)とともに勤めながら階級闘争を続けている男性は、対照的な状況にいるようです。取り上げましょう。
https://www.bengo4.com/c_5/n_4624/
>> 労働 2016年05月09日 15時56分
シュレッダー係1年「ほぼ無の境地」…アリさん「引越社」労働問題、男性従業員の心境


(中略)

シュレッダー係への異動を命じられてからもうすぐ1年を迎える男性は上映後、「客観的にもひどい」と感想を述べた。また、「自分にとって、仕事は達成感や社会貢献が含まれるが、今はお金を稼ぐだけの労働だ。ほとんど無の境地でシュレッダーをやっている」と打ち明けた。このゴールデン・ウィークもほとんど休みをとれなかったそうだ。

男性の代理人をつとめる大久保修一弁護士は「シュレッダー係に異動する人事や、従業員に弁償金を支払わせることはあってはならないこと。今後の裁判で、会社の違法な部分をあぶり出していく」と語った。

プレカリアートユニオンの清水直子委員長は「引越社は、働いている人からお金を取り上げるというやり方で安い価格設定をしてダンピング競争を加速させている。その部分も含めて改めさせて、引越業界全体に変化をもたらしたい」と強調していた。
<<
従前の常識であれば、一旦退職してしまうと司法関係者から「辞められたんだったら、もういいんじゃないの?」といった扱いを受けてしまうので、どうしてもシロクロつけたい男性従業員氏としては、スゴスゴと辞めることはできなかったのでしょう。それはそれで仕方ありませんでした。他方で、限られた人員で次々に紛争を処理してゆく必要のある司法関係者が「案件の優先順位」をつけてゆくこともまた、仕方のないことでした。

しかし、それはそれとしても、「ほとんど無の境地でシュレッダーをやっている」というのは、男性従業員氏の生涯全般を見渡したとき、本当によい選択と言えるのでしょうか? 戦うこと自体は正しい選択だとは思いますが、もっとスマートな方法論があったのではないかと疑問に思わざるを得ません

先に「周囲の助けを借り」ることの必要性に触れました。弁護士や労組などがそれに当たるでしょう。しかし、この男性従業員氏を「支援」している代理人の大久保弁護士やユニオンの清水委員長のコメントを見るに、一人の生身の労働者にとっての利益を第一に考えているのか疑問に思わざるを得ない主張を展開しています。

シュレッダー係に異動する人事や、従業員に弁償金を支払わせることはあってはならないこと」というのは、法的には正しい指摘です。しかし、代理人弁護士が「会社の違法な部分」を追及しつづける傍らで、クライアントの男性従業員氏は「無の境地」で、30代半ばという働き盛りかつ転職ギリギリの年代を過ごしています。40代や50代といった今後の人生を考えたとき、どう評価すべきなのでしょうか?

その部分も含めて改めさせて、引越業界全体に変化をもたらしたい」というユニオン委員長の構想は遠大です。私もこれが突破口になればいいと思います。しかし、あくまで生身の人間、男性従業員氏が救われることが最優先・先決であるはずです。それが達成できないのであれば、たとえ「引越業界全体に変化」をもたらせそうもない方向であったとしても、戦術を変えなければなりません。その意味で、もはや男性従業員氏を支援するという本旨ではなく、単なる「階級闘争のモデルケース」になってしまっていないでしょうか?

「REジャパン」の闘争モデルと「アリさんマークの引越社」の闘争モデル――対照的かつ示唆的です。
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2016年12月15日

手抜き問題は、公営・民営は本質的な問題ではない

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161213-00000063-mbsnews-l27
>> 地下鉄民営化可決 安全対策の費用負担は?
毎日放送 12/13(火) 19:24配信

地下鉄民営化可決 安全対策の費用負担は?

 橋下前市長時代に2度否決された大阪市営地下鉄の民営化に向けた議案が、13日可決されました。

 13日の大阪市議会、市営地下鉄を市が出資する新会社に移行するための議案が維新、自民、公明などの賛成多数で可決しました。民営化されれば、ホテルや不動産業など鉄道以外の事業にも参入できるなどのメリットがあります。

 一方で、民営化によって安全対策などは軽視されないのでしょうか?例えば、関心が高まっている駅のホーム柵。現在は、利用者が少ないものの新しい路線の今里筋線や長堀鶴見緑地線は全駅で設置済みですが、古い路線の谷町線や阪急が乗り入れる堺筋線には全く設置されていません。


(以下略) <<
民間企業が財・サービスの圧倒的大部分を生産・流通させているこの時代に、「民営化によって安全対策などは軽視されないのでしょうか?」とは、随分荒っぽい切り口です。それをいったら、民営企業である毎日放送も、利益=スクープ優先で他を軽視しないんでしょうか?w

チュチェ102(2013)年2月9日づけ「発送電分離問題と「官か民か」の不毛な二分法」を筆頭に以前から述べてきていますが、安全対策をはじめとした保守・点検・運用管理は、業界を問わず、主体の公営・民営問わず、手抜きの危険性が存在します。1日に1回の点検(ほとんどの場合、緊急の問題は検出されない)を2日に1回に減らしたところで、特に不都合が生じないのが通常です。これは、生産活動とは決定的に異なります。毎日工場のラインを回して産出しているところを、手を抜いて2日に1回しか生産ラインをまわさなくなれば、どんなケース(在庫はなしという前提で)においても、それはそのまま売上に直撃してしまいます(当たり前)。

「1日に1回の点検を2日に1回に減らす動機」は、コストカットかもしれないし、単にサボりたいだけかもしれません。民間企業であれば利潤追求ゆえに前者の誘惑があるかもしれませんが、公営企業体についても、利潤を追求しなくてよいからこそ後者の誘惑があるかもしれません。動機は何であれ、行動の帰結が「手抜き」であれば同じことです。このように手抜き問題は、主体の公営・民営は本質的な問題ではないのです。

重要なのは監視の目です。1月15日づけ「「生産過程における厳格な規制」と「流通過程における最小限の規制」――自由交換経済の真の優越性を踏まえた規制」にて私は、「消費者の眼に晒されにくい生産過程を行政が審査すべきであり、その結果を積極的に情報公開し、消費者行動に資する情報提供するべき」と述べましたが、一般消費者の目が届きにくい分野である保守・点検・運用管理への監視を強化すべきでしょう。
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2016年12月14日

「愛しているからこそ『死ね』」?

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161213-00010000-bfj-soci&p=1
>> 「日本を愛しています」と語った俵万智さんに集まる「反日」批判 愛国とは何なのか

BuzzFeed Japan 12/13(火) 5:00配信


流行語大賞にノミネートされ、トップ10入りをした「保育園落ちた日本死ね」。「反日的だ」などとバッシングの矛先が向いた歌人がいる。【BuzzFeed Japan / 籏智広太】

「サラダ記念日」などで知られる俵万智さんだ。俵さんは流行語大賞の選考委員を務めており、Twitterなどに批判の声が集まった。
.

産経新聞がこの騒動を「『日本死ね』トップテン入りで、審査委員の俵万智さんに「残念で仕方ない』と批判・炎上 」と報じるなど、波紋は広がった。

俵さんは12月10日、「ちょっと見ないうちに、何か書かないと次に進めない雰囲気になっていました。だから一回だけ、その件について、私の思いを書きますね。お騒がせ&ご心配おかけしました」とつぶやき、下記のように思いを綴った。

“「死ね」が、いい言葉だなんて私も思わない。でも、その毒が、ハチの一刺しのように効いて、待機児童問題の深刻さを投げかけた。世の中を動かした。そこには言葉の力がありました。お母さんが、こんな言葉を遣わなくていい社会になってほしいし、日本という国も日本語も、心から愛しています“


(中略)


「日本を愛しています」と書いた俵さんは、ネットで批判されるように「反日」なのだろうか。

同じように「反国家的」だと指摘され、「私たちは愛国者だ」と反論した人がいる。
英メディア「ガーディアン」のアラン・ラスブリッジャー編集長だ。

2013年、アメリカやイギリスの国家機密に迫る報道を続けていたガーディアンは、英国会で批判に晒された。そして、ラスブリッジャー編集長はこう質問を受けた。

「あなたは国を愛しているのか?」
.

ラスブリッジャー編集長はこう答えた。

「そういう質問を受けることにちょっと驚いています」と前置きをしてから、編集長が語ったのは次のようなことだった。

「私たちは愛国者です。そして、私たちが愛国的であるためには、この国に民主主義の本質と言論の自由の本質が必要なのです。それを議論し、報じることができることも」

さらに、こうも繰り返した。

「私がこの国を愛するのは、書くこと、報じること、考えることに対して自由であるからなのです」

最終更新:12/14(水) 9:29
<<
日本の「愛国」界隈のことは良く知りません(興味もない)が、朝鮮における愛国者の例を引き出せば、俵万智氏と彼女への擁護論が相当苦しいことが分かります

朝鮮における愛国者といえば、何と言ってもキム・イルソン主席です(アン・ジュングンはただのアホ)。不滅の革命頌歌「キム・イルソン将軍の歌」で「絶世の愛国者」とうたわれています。生涯を祖国の解放と社会主義建設、敵との戦いに費やしたキム・イルソン主席は、まことに愛国的な生を送られました。

そんな絶世の愛国者キム・イルソン主席が「朝鮮死ね」と言ったことは、私は一度も聞いたことはありません。もちろん、軍人として革命指導者として、「反革命分子死ね」といった調子で流血の事態を指揮したことは事実です。しかし、それらはあくまで원쑤(憎き敵という意味の朝鮮語)に対するものでした。

そう、「死ね」という表現は원쑤に対する憎しみを込めた表現であり、愛する祖国に対して使うような単語では決してないのです。これは、日本でも基本的には同じでしょう。戦闘的革命精神がない分、日本のほうが対人関係は「ぬるい」でしょうし。

いまさら言い訳を重ねるのは無意味です。言葉というのものは対人コミュニケーションの道具です。「愛しているからこそ『死ね』」などという感性は一般的ではなく、多くの場合、相手の気分を害する表現です。伝わらなければ意味がなく、誤解されたのであれば、意図を弁解した上で表現を撤回し、別の単語で言い換えるのが常識人の対応です。

俵氏擁護のために、英「ガーディアン」のアラン・ラスブリッジャー編集長の言葉(これそのものは正しい)を引き出せるようなケースではありません。まったく違うケースなのです。「民主主義の本質と言論の自由の本質」のためには「死ね」は良いのでしょうか。「自由」「民主主義」という枕詞をつければ何でも許されるのでしょうか?

また、本件はそもそも「流行語大賞」であり「俵万智が今年気に入った単語リスト」ではありません。俵氏が日本を愛しているかどうかなど関係ありません。審査委員の好き嫌いに関わらず、客観的に見て流行した言葉を選出するのが本来的な意味での「流行語大賞」です。思わず自白してしまった?wそこも今回の反発――たいして流行っていない言葉を、政治利用のために選出する――の一因なのですよ。「日本死ね」という単語そのものではなく、その背後にある邪な思惑と、社会的影響力のある媒体を私物化していることにも非難が集まっています

私は親朝(朝鮮民主主義人民共和国)派の左翼であり、それゆえに世界各国の愛国・愛族主義精神にはシンパシーを感じています(たとえば、アメリカ愛国主義の立場に立つことはありませんが、アメリカ人が故郷を愛する、ごくごく普通の感情には共感します)が、それにしても愛国主義に対する変わり映えのないの「反論」ですね。アクロバットな言い訳と「言論の自由」。もう少しひねりはないのでしょうか?
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2016年12月12日

自主的に選択的に開放することこそが真の意味での共生の道;共生するためにこそ、時に棲み分けることが逆説的に必要

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161212-00000003-mai-bus_all
>> <トランプ現象>移民と多様性の米国どこへ?

毎日新聞 12/12(月) 9:30配信

 米大統領選で共和党のドナルド・トランプ氏が勝利した後、金融市場は株高・ドル高と好意的に反応しています。トランプ氏は政策面で環太平洋パートナーシップ協定(TPP)からの離脱を除けば、今のところ現実路線へと修正する兆しを見せています。ただ、反移民的な姿勢の大統領誕生で、封印されていた差別の感情が噴き出す恐れもあります。毎日新聞米州総局(ワシントン)の清水憲司特派員が、現地で身近で感じる、社会が負った深い傷について報告します。


(中略)

移民を喜んで受け入れられる「強い米国」をこそ取り戻してほしいと思う。 <<
取材報告記事かと思ったら、ただの感想作文で呆れました。。。これでカネが貰えるんですかぁ。。。

■TPPは「共生」?――日本「リベラル」の不思議
ツッコミどころが多い「記事」ですが、ここでは敢えて論点を一つに絞り、「トランプ氏は政策面で環太平洋パートナーシップ協定(TPP)からの離脱を除けば、今のところ現実路線へと修正する兆しを見せています」という部分に注目したいと思います。毎日新聞が「TPP推進=現実路線」という見解に立っているようです。似たような論調の朝日新聞も先日、リカードの比較生産費説を引っ張り出して(!!)「TPPの正しさ」を力説していました。

アメリカのリベラルを代表していたヒラリー・クリントン氏がTPP反対派であったのと対照的に、日本では、毎日新聞や朝日新聞といったリベラル系こそがTPP推進の論調を張っています。日本リベラルの理想的未来社会論がTPPのうちにあるのでしょうか?

朝日新聞11月15日づけ「(トランプショック どう考える:4)自由貿易、制限する前に」や、あるいはBrexitのときの「国同士が協力しあわなきゃいけない時代なのに!!!」といった悲鳴から、「国境を開けっ広げにすることこそが世界の人々と共生することだ」といった、たいへん短絡的な発想を持っていることを推察できます。

一切の交流を絶つ鎖国は論外であることは勿論ですが、「国境を開けっ広げにすること」と「世界の人々と共生すること」は直接的には関係ありません。私も、対外開放や自由経済を尊重する立場ですが、それは、あくまで選択の自主(「選択の自由」ではありません)という大前提の下でのものです。そもそも、対外開放・自由経済は、究極的には一人ひとりの生身の人間が、自らの意志の下で自主的に選択するための手段でしかありません。

■共生のためにこそ、自力が必要
「いや、国際的に『ちゃんと』ルールを作れば自主は確保される。TPPは『自由のためルール』だ。」という主張もあることでしょう(前掲の朝日新聞記事は、まさにそういう論調です)。しかし、仮に「共生の原則」を侵犯する輩がいたとして、自主的力量・自らの力なくして如何やって対抗するというのでしょうか? まさか、「輩」以外のTPP加盟国の集団安全保障的な制裁に期待を寄せるとでも言うのでしょうか? 

自主的な力があって初めて共生を語ることができます。自らがを持っているからこそ、他者と対等に交渉ができるのです。他者に約束の履行を要求することができるのです。共生とは、互いに尊重し合い助け合って共にコミュニティの中で生きてゆくことですが、その大前提は「地位の対等」と「約束を守ること」であり、それらを遵守させることです。自主的でなくして他者に約束を遵守させることなどできません

こんな調子だから、最近の自称「リベラル」は、たとえば移民が重大犯罪を犯し、それに対してレイシスト連中が「犯罪者を追放するのは当然だが、同時に移民は無条件にたたき出せ!」と沸騰しているのに対して正しく反応できていないように見受けられます。共生を掲げるのであれば、むしろ「リベラル」こそが「犯罪者を追放するのは当然」の先頭に立つべきです(もちろん、「同時に移民は無条件にたたき出せ!」には反対すべきでしょう)。にもかかわらず、歯切れの悪い反応に終始しています。これでは、傍から見る限りは「共生論者は、故郷の破壊を見てみぬふりをするんだな」とか「やっぱりアカは、移民を使って社会を文化大革命的な動乱状態にするつもりなんだな」などと認識されても当然でしょう。

■共生するためにこそ、時に棲み分けることが必要
新参者に自分たちが長く住んできた故郷を大きく変えられても「共生」と言い張るのは、ある意味立派ですが、普通の感性であれば、場合によってはお引取りいただくことも選択肢の一つです。ある人にとって何てことないようなことでも、他の人にとっては譲れないことだってあります。なぜ、訪問される側が譲歩しなければならないのでしょうか? 訪問側が譲歩しても良いはずです。理想を言えば、両方が譲歩すべきですが、それには時間が掛かります。逆説的ながら、共生するためにこそ、時に棲み分けることが必要なのです。何でもアリと開放とは異なります。

■誰にとっての「自由」なのか
また、私的資本によって公的政治が支配されているこの時代において、「自由のためルール」というのは、誰にとっての「自由」なのでしょうか? そうした考察が日本の「リベラル」には決定的に不足しています。「自由」という言葉の甘美な響きに惑わされています(私も自由の価値は極めて重要だと考えており、このブログでもたびたびその論調で主張を展開してきましたが、私の目は「リベラル」ほど節穴ではないと自負しています)。

一国の国内(国民国家は、経済的には一つの「自由貿易圏」です)での地域格差問題でさえ解決できず、一握りの都市部への自然発生的な集中でさえマトモに是正できていないのに、超国家的レベルでの集中は是正でき、幅広い層への富の分配が実現されるというストーリーを信じる方がどうかしています

前掲の朝日記事では、必要なのは反自由貿易ではなく社会政策などと述べていますが、ならばまずは、自由貿易思考という大前提を掲げて社会政策を充実させ、準備を万端に備えてから開放すべきでしょう。北欧の福祉国家と評される国々は、まさにそうした政策体系であり、生活者の利益と経済の活性化を両立させています。

■平等な競争社会であればこそ、ますます自力が重要
こうした不平等が蔓延る経済社会でなくとも、需要と供給がクロスする図(マーシャリアン・クロス)が成り立っているような経済学の初歩的な教科書にも必ず載っている理想的な競争的市場であったとしても、議論の大枠は変わりませんです。価格弾力性の議論を思い起こしていただきたい。価格弾力性が乏しい市場参加者にとっては、その商品取引はより必須・不可欠なので、相手方から足許を見られやすいものです(ちょっとくらいコトでは相手は取引から逃げない)。よって、原材料費高騰といった誰かが負担しなければならない「ババ」は、価格弾力性が乏しい方に押し付けられてしまいます。

マルクスは、「不正」など何一つない純粋な資本主義的な自由交換経済においても、搾取と不平等・窮乏化が発生していることを指摘しました。そして、労働者の団体的な争議行為=労働市場における労働供給曲線の弾力性調整や、革命的な階級闘争を、窮乏化への反応として位置づけました。革命的な階級闘争はさておき、反共的労働組合でも選択肢として留保している各種の団体的争議行為は、本質において労働供給曲線の弾力性調整です。各種団体的争議行為の原点にある団結は、まさに自らの力そのものです。

■真の意味での共生の道
自らの立場・自らの力を守りつつ、自主的に選択的に開放することこそが真の意味での共生の道です。その意味で、TPPを有難がっている昨今の「リベラル」が言うところの「開けっ広げ」というのは、選択の自主を行使を放棄するに等しい暴挙です。

自主の道に関する朝鮮労働党の見解をご紹介します。
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/sinboj1998/sinboj98-9/sinboj980925/sinboj98092570.htm
>> (前略)

  自立の道は、国と民族の自主権を強固に守っていく道である。

 金正日総書記は次のように指摘した。

 「経済的に自立してこそ、国の独立を強固にして自主的に生きることができるし、思想におけるチュチェ、政治における自主、国防における自衛を確固として保障し、人民に豊かな物質文化生活をもたらすことができます」

 経済的自立は、政治的独立の物質的基礎である。自立経済というしっかりとした柱で支えられていない政治的自主権は、空論に過ぎない。

 民族的復興を志向しない国と民族は世界にない。しかし、民族の復興のために奴隷的な屈従を甘受しなければならないのなら、それは真の繁栄とはなりえない。民族の生命は自主性にある。国を愛する人ならば、民族的尊厳を売ってまでもよい暮らしをしようとする傾向を絶対に許すべきではない。いかなる場合においても、侵害されてはならないのが民族の自主権であり、そのために必要なのが経済的自立である。

 こんにち、わが国が政治分野で自主権を徹底的に堅持しているということは、世界が認める事実である。経済的に外国に縛られていないので、われわれは誰にでも言いたいことをはっきりと言えるのだ。


(以下略) <<
まったく正しい指摘です。もちろん、朝鮮は少し自主にこだわりすぎて鎖国的になっている部分は否めませんが、いままさに慎重に開放の道を模索していることは、当ブログでも数少ない情報ソースを頼りにご紹介してきたとおりです

対外開放・自由経済は重要な価値観です。しかし、それと「開けっ広げ」は決定的に異なります。選択の自主という防衛ラインを譲ってはなりません。「自主は共生の前提」であります。

やっぱり「リベラル」って観念論なんだよね・・・
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2016年12月11日

内田樹氏のようなSEALDs支持者が「対米自立」を啓蒙するとは笑止千万

https://dot.asahi.com/aera/2016120800261.html
>> 内田樹「日本人がみんな知っていて、知らないふりをしていること」

(中略)

日本がアメリカの属国であることを日本人はみんな知っている。知っているが、知らないふりをしているだけである。その現実を現実として直視したら、ではその現実とどう立ち向かうか、どうやって属国の地位を脱して国家主権を奪還するかについて本気で考えなければならなくなるからだ。残念ながら、そんなスケールの問題について考えることのできる人間は今の日本の指導層の中にはいない。だから、そんな問題は存在しない、日本は主権国家だという「ファンタジー」の中で夢見ることを人々は選んだ。日本が属国であるのはたかだか彼我の物理的実力の差の結果に過ぎない。国民的努力を結集すればいつか主権は奪還可能だと私は思う。けれども、属国であるという現実を直視しない限り、主権国家になる日は永遠に来ない。(内田樹)

※AERA 2016年12月12日号
<<
私も左翼として対米自立による自主化を目指す立場ですので、内田樹氏の「脱属国」「対米自立」という考え方には異論はありません。「日本は主権国家だという「ファンタジー」」という表現にも異存はありません。ただ、内田氏のようなSEALDs支持者が「対米自立」を啓蒙するとは笑止千万。氏の言う「物理的実力」とはいったい何のことやら?

内田氏は「国民的努力を結集すればいつか主権は奪還可能」などとサラッと言ってのけます。しかし、アメリカ帝国は、気に入らない政権を武力を以って転覆させることを厭いません。現実を冷静に見極めたとき、随分と楽観的なストーリーを無邪気に提案している姿に驚愕します。

私の知り合いの日本共産党系の「お左翼」も、同じようなことをよく口にしていました。たしか、「非自民党政権を樹立し、日米安保条約を破棄して対米自立をしよう!」だったでしょうか。「アメリカは、チリのアジェンデ政権のように、民主的選挙で樹立された政権への軍事クーデターを堂々と支援するような国だけど、本当にその程度のプランで『対米自立』なんてできるの? ひっくり返されない?」と問うたところ、絶句していましたね・・・まあ、彼女は入党して日が浅い下っ端でしたからまだしも、内田氏がそんな下っ端「お左翼」と同じレベルなのはマズイんじゃ・・・

「対米自立」というのは、お左翼が考えているような甘いものではありません。ことによっては朝鮮やキューバのような厳しい条件下で対峙しなければならないこともあるのです。しかし、SEALDsのような軟弱者たちに「期待」しているような人物には、対峙などイメージすることすらできないでしょう。「対米自立」をナメるな!

「朝鮮やキューバは極端だ、ヨーロッパのような道があるはずだ」という「反論」もあるかもしれません(お左翼は、よく知りもしない癖にヨーロッパかぶれが多いですからね、前掲の共産党員もそうでした)。しかし、ヨーロッパ人はSEALDsの連中のような観念論者ではありません

たとえば、フランスは長きに渡って自主外交のためにNATO(北大西洋条約機構)には加盟していませんでした。自前の核兵器と強力な軍隊による自主防衛がフランスの自主外交を基礎付けていました。SEALDsのような観念的方法論とは決定的に異なるリアリズムです。

物理的実力」をつけるべく、SEALDs路線を「歴史資料館のもの」としなければなりません。朝鮮革命歌「수령이시여 명령만 내리시라」の精神に学び、「お左翼」路線と決別しなければなりません。

경제를 건설해 힘을 키우자
経済を建設して力を育てよ
국방을 건설해 힘을 키우자
国防を建設して力を育てよ
혁명기지 더욱더 굳게 다지며
革命の基地をさらに強固に固めて
목숨도 서슴없이 바쳐 싸우자
命もためらわず捧げて戦おう
우리의 손으로 통일을 이룩하고
我らの手で統一を達成し、
인민들은 행복하게 살아가리라
人民は幸福に暮らしてゆくだろう
수령이시여 우리들에게 명령만 내리시라
首領よ! 我らには命令だけを下されよ!
단숨에 달려가
一息に駆けつけ、
남녘땅의 형제들을 해방하리라
南の兄弟たちを解放せしめん!

「対米自立」をナメるな!
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「お左翼」たちの墓標としての「保育園落ちた日本死ね」に賛成

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161210-00110783-diamond-soci
>> 流行語大賞「保育園落ちた日本死ね」トップ10入りで大論争

ダイヤモンド・オンライン 12/10(土) 6:00配信

流行語大賞「保育園落ちた日本死ね」トップ10入りで大論争

 今月一日、もはや恒例となった「ユーキャン新語・流行語大賞」が発表された。

 年間大賞に輝いたのは、広島東洋カープ・緒方孝市監督が言われた“神ってる”だ。昨年の年間大賞“トリプルスリー”には首を傾げたが、いずれにしても二年連続でプロ野球界からその年の流行語が選ばれたことになる。“カープ女子”という言葉がトップ10入りしたのが二〇一四年だから、いまやトレンドは広島から生まれるのかもしれない。

 今年は、出版社の校閲部に配属された新入社員を石原さとみちゃんが演じた『地味にスゴイ! 校閲ガール・河野悦子』というテレビドラマ(日本テレビ系)が注目を浴びたが、“校閲”という言葉の守り神のような仕事(原稿の誤字脱字、表記の統一、表現の適格性、構成や展開、視点に齟齬がないか、固有名詞や年代、数字に誤りがないか等々を一言一句チェックし、正しい日本語に修正するお仕事)にスポットが当たった一方で、“神がかっている”を簡略化した“神ってる”が流行語大賞に選ばれた。

 正しい日本語と新語・造語のコントラストが面白いが、今年ベストテンにランクインした「保育園落ちた日本死ね」をめぐっても、はたしてこの言葉が流行語にふさわしいのか否かで論争が起きている。白黒をつけるかのように、“日本死ね”で意見が真っ二つに分かれているのである。


(以下略) <<
「保育園落ちた日本死ね」のトップ10入り、いいじゃないですか。だってこれ、「お左翼」の墓標ですよ?w

「保育園落ちた日本死ね」とブログに書き込んだ人物の素性はさておき、この話題が最初に沸騰したとき、野党勢力は参議院選挙に向けての政府・与党(為政者)攻撃のためにフル活用しようと試みました。しかしながら、最初期こそ政府・与党側の動きは鈍かったものの、ほどなくして「保育園落ちた日本死ね」の波を取り込みました。その結果、野党の攻撃材料だったはずの「保育園落ちた日本死ね」が政府・与党側のポイントとなってしまったのです。野党が与党に得点源を提供したというのが、「保育園落ちた日本死ね」の結末だったのです。

野党支持者たちは「野党の追及で与党を動かした!」などと自画自賛するかもしれませんが、9月15日づけ「「我が党の要求が取り入れられた!」では永遠に在野勢力」において、まさに東京都の小池知事が「保育園落ちた日本死ね」を自らの政策の中核に取り込んでいる事実、そしてそれを基に都民が小池知事を支持し、野党勢力には目もくれていない事実を指摘しました。いくら在野勢力側が「我が党の要求が取り入れられた!」などと主張しても、取り組むことを決定したのは与党であり、加点(プラスのポイント)を獲得するのは為政者側です。

また、共産党の吉良よし子参議院議員(夫は東京都内の区議)が調子に乗ってシャシャリ出てきたために、「お前たちは夫婦で高所得者だろ!」とツッコミを受けたことも記憶に新しいことかと思います。庶民側を自負していた「お左翼」が、当の庶民から「お前は違う」と拒絶されるのは、歴史上、しばしば起こってきたことですが、それがまた繰り返されたのたのが、「保育園落ちた日本死ね」の一幕でした。

このように、「保育園落ちた日本死ね」は、「お左翼」たちが墓穴を掘りまくっていた爆笑コントだったのです。

そして昨今の「大論争」。傍から見れば「お左翼」の爆笑コント以外の何者でもない珍事であることを未だに認識できていない、自分たちを客観視できない途方のないアホたちが、いまだに左翼的な文脈に位置づけようとし、ますます面白コメントを量産してくれているのです。

「お左翼」たちの墓標としての「保育園落ちた日本死ね」に私は賛成です。そして、こうした「お左翼」たちを笑い飛ばし、そろそろマジメに人民権力掌握を目指す真の左翼運動・自主化運動の展開に備えるべきでしょう。
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2016年12月08日

「アナウンサーだから不倫しちゃいけない」のか

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161208-00000185-sph-ent
>> 梅沢富美男、テレ朝・田中&加藤アナの不倫報道にあきれ顔「下半身に人格はないけど…」
スポーツ報知 12/8(木) 21:48配信

 俳優の梅沢富美男(66)が8日放送のTOKYO MX「バラいろダンディ」(月〜金・後9時)でテレビ朝日・田中萌アナウンサー(25)と加藤泰平アナウンサー(33)の不倫疑惑報道に怒りを見せた。

 番組では、2人の不倫疑惑報道を取り扱った。梅沢は「何考えているんだか…。今年は不倫ブーム。ベッキーから始まって不倫だ、不倫だ、ゲス不倫だって自分たちも放送してた、そうしたら気を付けろよ」とまくし立て、「たしかに下半身に人格はないと昔から言っていたけど、俺もないことしてたけど、報道してる人は見つかったらいけないと普通は気を付けるだろう」とあきれ返っていた。


(以下略) <<
4月3日づけ「不倫擁護の精神的貧困――不倫は「信頼に対する裏切り」に過ぎぬ。不倫に反対する若者は、「反体制」を気取るエスタブリッシュメントの放縦に反対している。」でも述べましたが、不倫の本質は、信頼に対する裏切りであり、いかなる理屈を並べようとも、社会的存在である人間の本質に照らしたとき、それは正当化し得ません。そうした反社会的性格の人物が私たちの共同社会で生活していることは、脅威以外の何者でもないと言わざるを得ません。

その意味では、「報道してる人は見つかったらいけないと普通は気を付けるだろう」というような、限定的な話ではありません。これは、社会構成員全体に等しく課せられる「最低限の規範」です。報道番組のアナウンサーは確かに真実を伝える役割を担っており、信頼を裏切ってはいけないのは確か(ウソつきがニュースを読む・・・ウソつきをニュース番組に起用する・・・うーむ・・・)ですが、それはアナウンサーに限った話ではないのです。鳥越俊太郎淫行疑惑に対するバカバカしい擁護論といい、梅沢氏の「下半身」に関する論評はどうもねえ。。。

俺もないことしてたけど」などと言っているあたり、自分を卑下しているんでしょうか? 卑屈になったからと言って許されるものではないんですがね。
ラベル:社会
posted by 管理者 at 23:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2016年12月06日

AV出演問題と「自由意志」

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161205-00005433-bengocom-soci
>> 国民生活センター、AV出演勧誘の注意呼びかけ…伊藤弁護士「消費者並みの保護を」
弁護士ドットコム 12/5(月) 20:03配信


10代、20代の若い女性を中心にタレント・モデル契約をめぐるトラブルが発生しているとして、国民生活センターは11月30日、消費者に向けて注意を呼びかけた。同センターによると、自分からモデル事務所に応募して面接を受けたところ、「アダルトビデオ(AV)に出演しないか」と勧誘されたという相談もあったという。

●モデルに応募したところ「AV出演」を勧誘されたケースも

国民生活センター相談情報部の担当者は12月5日、弁護士ドットコムニュースの取材に応じた。担当者によると、タレント・モデル契約をめぐって寄せられた相談件数は、2006年〜2015年までの10年間、年700〜900件の間を推移している。

これまで、繁華街で声をかけられる「スカウト」をきっかけとしたトラブルが多く見られたが、近年はそれに加えて、SNSで知り合った人から声をかけられたり、インターネットやSNSの募集広告を通じて、自分から連絡をとったことがきっかけにトラブルに巻き込まれるケースが増えている傾向にあるという。

相談内容は、芸能事務所のオーディションに申し込んで合格したが、同じグループの養成教室に通うため50〜100万円の高額契約を結ばされたというケースや、ネットで見つけたモデル事務所(絵画モデル、パーツモデル)に応募して面接を受けたところ、「AVに出演しないか」と勧誘されたケースなどがあった。

担当者は「トラブルに巻き込まれるきっかけが、多様化しています。自分が選んだものでも、トラブルにあう可能性があります。『街で声をかけられてもついていかなくてもいい』『自分で選んでいるから大丈夫』と思いがちですが、身を守るためにご相談してください」と警鐘を鳴らした。

今回の国民生活センターの呼びかけの中で、「アダルト関連の出演を強要されるなどした場合には警察に相談しましょう」という文言もある。相談情報部の担当者によると、タレントになるつもりで連絡しているのに、フタをあけたらアダルトビデオに出演しないかと勧誘されているケースが複数件あり、そのなかには実際に「AV出演を強要された」という相談事例があったという。

●ヒューマンライツ・ナウ「消費者被害と共通性がある」

AV出演強要をめぐっては、NPO法人ヒューマンライツ・ナウ(HRN)が今年3月、被害をまとめた報告書を発表した。消費者庁にも「無知や困惑に乗じて契約締結に至って被害が生じるという点で消費者被害と共通性がある」などとして、被害の防止の対策をとるよう要望していた。国民生活センターによると、今回の呼びかけの背景の一つには、この要望もあるという。

HRN事務局長の伊藤和子弁護士は、弁護士ドットコムニュースの取材に対して、「国民生活センターにずっと働きかけて来たことが実り、AV出演強要に関するリリースを出していただきました。ずっと、『せめて消費者被害並みの保護を』と訴えてきましたが、消費者並みの保護の重要な第一歩が踏み出されたことをうれしく思います」と述べた。

さらに、「被害を防止するための啓発として重要であるとともに、AV強要被害にあった人にも消費相談センターに相談することを呼びかけている点が注目されます。困ったら消費相談センターに相談すればいいというのは被害の只中にある人にとって心強いと思います」と今回の国民生活センターの呼びかけの意義を語った。

弁護士ドットコムニュース編集部

最終更新:12/5(月) 20:03
<<
AV出演問題。この秋、俄かにクローズアップされました。

いささか旧聞になってしまいますが、11月13日づけ朝鮮中央通信が、この問題について論評しています(毎日新聞でも触れられていましたネ)。KCNAの朝鮮語文を原文とし、その拙訳を以下に掲載いたします。
>> 색정범죄의 희생물로 시들어가는 일본의 녀성들과 어린이들
色情犯罪の生贄に追い込まれてゆく日本の女性たちと子どもたち

(평양 11월 13일발 조선중앙통신)
(ピョンヤン 11月13日 朝鮮中央通信)

온갖 사회악이 판을 치는 일본에서 해마다 2만편의 각종 색정편집물이 제작되여 사람들의 건전한 사상의식을 마비시키고 부패타락의 길로 사정없이 떠미는 일종의 《마약》으로,범죄집단들을 위한 치부의 수단으로 리용되고있다.
ありとあらゆる社会悪が幅を利かせている日本において、毎年2万本の各種の色情編集物(注;AV)が製作され、人々の健全な思想意識を麻痺させ、腐敗堕落の道へ無情に押しやっている。一種の「麻薬」として、犯罪集団のための手段として利用されている。

특히 색정영화산업이 번성하여 이 나라의 수많은 녀성들과 어린이들이 그 희생물로 전락되고있다.
얼마전 일본의 한 인권단체 성원인 세가와녀성은 색정편집물제작에 출연할것을 강요당하는 녀성들의 수가 해마다 늘어나고있다고 폭로하였다.

特に、色情映画産業(注;AV業界)が繁盛し、(一方で、)この国の数多くの女性たちと子どもたちが、その犠牲になっている。

색정편집물제작자들은 처음에는 옷전시회나 텔레비죤극에 출연할 배우들을 모집한다는 거짓말로 18~20살 난 처녀들을 유혹하고는 색정영화에 출연할것을 강압적으로 요구한다고 한다.
色情編集物製作者たちは、はじめはファッションショーやテレビ番組に出演する俳優たちを募集するという名目で18歳〜20歳の娘たちを誘惑しては、色情映画に出演することを強圧的に要求するという。

처녀들이 기겁하여 빠져나가려고 하면 이자들은 《계약》문건들을 흔들며 갖은 수단과 방법을 다하여 그들을 위협공갈하고있다.
少女たちが驚いて逃げ出そうとしても、この者(注;AV業者)たちは、「契約」文書を持ち出し、さまざまな手段・方法を尽くして彼女らを脅し、恐喝している。

이렇게 색정영화촬영장에 강제로 끌려나온 처녀들은 갖은 폭행과 강간을 당하고있으며 가혹한 운명의 나락으로 굴러떨어지고있다.
かくして、色情映画撮影の現場に強制的に引き出された娘たちは、暴行と強姦をうけ、過酷な運命の奈落に転落している。

인권단체들이 녀성들에게 출연을 강요하는 색정편집물제작업체들을 단속하기 위한 특별사업이라는것을 벌린다고는 하지만 녀성천시,녀성학대가 고질적인 악습으로 되여온 일본사회에서 그것이 통할리 만무하다.
人権団体が、女性たちに出演を強制する色情編集物制作業者らを取り締まるための特別事業を講じるよう要求しているが、女性蔑視、女性への性的虐待が慢性的な悪習となっている日本社会において、そうした要求が通じるはずもない。

더우기 문제로 되는것은 이 나라에서 고등학교 녀학생들을 포함한 미성년들까지도 색정범죄의 피해를 당하고있는것이다.
更に問題となるのは、日本においては、高校の女子学生を含む未成年者までもが性犯罪の被害にあっていることだ。

고등학교 녀학생들의 5명중 1명이 성폭행의 대상으로 되고 색정범죄로 피해를 입는 미성년들의 수가 해마다 늘어나고있다.
女子高校生の5人に一人が性的暴行の対象となっており、性犯罪の被害を受ける未成年者の数が毎年増えている。

얼마전 한 인권문제전문가는 유엔인권리사회 회의에서 중등 및 고등학교 녀학생들을 대상으로 하는 성학대행위가 일본에서 우심해지고있는데 대하여 문제시하면서 이를 근절할것을 일본당국에 요구하였다.
先日、ある人権問題専門家は、国連人権理事会の会議にて、中学生および高校生に対する性犯罪が日本で憂慮されていることについて問題視し、これを根絶することを日本当局に要求した。

그뿐이 아니다. 철모르는 어린이들을 대상으로 한 반인륜적이며 비인간적인 색정범죄가 계속 성행하여 커다란 물의를 일으키고있다.
それだけではない。分別のない子どもたちを対象にした反人倫的・非人間的な色情犯罪が引き続き盛んで、大きな物議を醸している。

일본에서 지난해에 그러한 범죄행위가 공식 등록된것만도 1 938건에 달하였다고 한다.
日本では、このような犯罪行為が公式に登録されたものだけでも、1938件に達したという。

그럼에도 불구하고 일본당국은 치떨리는 범죄행위를 감행한자들을 법적으로 처벌하지 않고있을뿐아니라 재판이 진행되여 유죄로 판명되는 경우에도 적당한 벌금형으로 처리하고있다.

にもかかわらず、日本当局は、恐るべき犯罪行為を犯した者たちを法的に処罰していないだけでなく、裁判が行われて有罪と判断される場合にも、罰金刑で処理している。

제반 사실들은 황금만능,약육강식의 생존법칙이 란무하는 일본이야말로 가장 비인간적인 사회,말세기적풍조가 만연하는 썩고 병든 사회라는것을 여지없이 실증해주고있다.
これらの事実は、黄金万能(注;金銭万能の意)・弱肉強食の生存法則が横行している日本こそ、もっとも非人間的な社会、いまだかつてない風潮が蔓延する腐敗し病んだ社会であることを実証している。

(以下略)<<
ちょっと言い過ぎな感もありますが、朝鮮民主主義人民共和国の性的観念は、日本よりも相当厳しい(たとえば、不倫は、日本では民事責任しか問われませんが、朝鮮では刑法の「不法婚姻罪」で労働教化所送りになりますからね)ので、彼らの目にはそう映るのでしょう。

同様の指摘は、朝鮮と同じく社会主義国であった旧東ドイツの一般市民が、「壁」崩壊後に執筆した回顧録にもありました。先日読んだ『私は東ドイツに生まれた 壁の向こうの日常生活』から該当箇所を引用いたします。
>>  東ドイツに売春宿はなかった。そんなものが存在していたら、女性に対する侮辱にあたっただろう。全ての女性が仕事を見つけられるような社会だったのだ。国家は工場の中に女性を必要としていた。生計を立てるために我が身を売る必要などなかったのだ。東ドイツにおいて売春行為は、資本主義特有の現象であるとみなされていた。春をひさがねばならぬほど女性を追い詰める社会、というわけである。(中略)
 男性の間では時折、パートナーを次々と替える「軽尻女」の噂が立ったものだが、これは職業的な売春とは無関係な話題であった。
<<
フランク・リースナー『私は東ドイツに生まれた 壁の向こうの日常生活』東洋書店(2012)p229

20世紀の社会主義を無邪気にマンセーするつもりはありませんが、「女性を追い詰める社会」という「対抗文明」側からの指摘は、重要だと思います。

リースナー氏のパートナーを次々と替える「軽尻女」の噂が立ったものだが、これは職業的な売春とは無関係な話題」という指摘は、程度の低いAV擁護論に対する痛撃でしょう。もちろん、AVなどの性産業従事者たちを「軽尻女」と断ずるのは、私は冒涜的な言い過ぎだと思います。AVを芸術表現と認識し、誇りを持って出演している女性がいらっしゃるであろうことは、以前にも述べた通りです。私はAV女優が賎業だとは思ってはいません。しかし、「好きでやっている女性」と「追い詰められて」とを峻別する視点は重要です。

たとえ一見して「好きでやっている女性」であったとしても、朝鮮中央通信記事が指摘するように、「少女たちが驚いて逃げ出そうとしても、この者(注;AV業者)たちは、「契約」文書を持ち出し、さまざまな手段・方法を尽くして彼女らを脅し、恐喝している」のであれば、あるいは、坂口杏里ちゃんのように、精神的に不安定な状況で、借金返済に迫られてAVに出演しているケースについては、やはり「好きでやっている女性」とは言い切れないでしょう。自由意志論は哲学的領域にも達する話題であり、ここでは哲学を深く論じるつもりはありませんが。

若い女性には社会経験が乏しく、それゆえ百戦錬磨の業界人にいいように言いくるめられる事実にも、配慮が必要でしょう。「分別のない子どもたちを対象にした反人倫的・非人間的な色情犯罪」と朝鮮中央通信は指摘しています。ある種のギャラリーたちは、そういうケースについても「自己責任」を提唱しますが、失うものの大きさを勘案するに、AV出演強制は「自己責任」の範疇に帰属させていいものなのか、はなはだ疑問であります。「おバカ」だからこそ、「失うもの」が大きすぎるからこそ、キム・イルソン主席のチョンサンリ方法、毛沢東の大衆路線に沿って領導しなければならないと思います。

もっとも、これは価値観の問題・正義感の問題です。重々に承知しています。正義感の問題だからこそ、私は、朝鮮中央通信・朝鮮労働党の見解と同じく、AV出演強制問題を放置できません。他人の貞操を心配するほどの暇人であることを私は否定しません。「恒産なくして恒心なし」――他人の貞操を心配できることは決して悪いことではないと思います。「しない善より、する偽善」――困っている人の役に立てば何でも良いと思います。もちろん、自己満足の要素があることは否定しませんヨ。私、俗物ですから。
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2016年12月05日

小うるさい「職人」と棲み分けできる市場経済で本当に良かった!

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161204-00005428-bengocom-soci
>> 焼き鳥店「串外しやめて」で激論、「バラしてシェア」する客を退店させることは可能?
弁護士ドットコム 12/4(日) 10:14配信

焼き鳥は串から外してシェアしないでほしいーー。ある焼き鳥屋の店主が「焼鳥屋からの切なるお願い」として客への要望をつづったブログがネット上で議論を呼んだ。

店主の男性は、店にかかげた看板の画像とともに、焼き鳥を串から外して食べることに、「切った肉をフライパンで焼いても同じ」「絶対に美味しくない」と主張。「串から外さずガブりついて食べてください!!」と呼びかけていた。

ネット上では、「あれだけは許せない」「(同席した人にされると)食べる気をなくす」など店主の主張に賛同する声も多く寄せられたが、「知ったことか。好きに食うわ」「客の自由」など、食べ方を指定することについて疑問の声もあがっていた。


(以下略) <<
面倒な「職人」に限って、あれこれと小うるさく口を挟んでくるものですね。弁護士ドットコムの記事なので、弁護士先生が法的観点から詳細に論評しています。その内容には私は異論はないのですが、「法律云々はさておき、気に入らない客は追い出せばいいじゃん。逆にお宅が競争淘汰されると思うけどね」というのが正直な感想です。

我が国は競争的市場経済の国家です。競争の効用は、「切磋琢磨」に留まりません。各企業・生産者が競争的環境に存在することは、過度な利己的行動・本人以外は誰も共感してくれない俺様正義にたいする牽制になるのです。棲み分け原理による俺様正義の抑止です。また同時に、ある程度の支持者がいれば、それは棲み分け原理による多様性の確保にもなります。

顧客には選択の自由があります。気にくわない生産者とは取引せずとも非難されるいわれはありません。生産者は誰にも相手にされない危険性がある以上は、俺様正義を貫く訳には行かず、一定程度、世間標準に合わせる必要があります。

他方、志を同じくする人々が一定数存在すれば、同志の間だけで経済を循環させることも、市場経済においては可能です。誰も共感してくれないような極端な俺様正義を排しつつも、その生産者が気にくわない人は取引せず、気の合う人だけが取引するという絶妙なラインでの棲み分けが、市場経済においては可能なのです。

本件、焼き鳥の串問題も、誰も共感しない「職人」の俺様正義であれば、彼が焼き鳥業界から淘汰されるだけですし、一定数の同志がいれば、同志の間で勝手にしていられます。焼き鳥を串から外して食べたい人は、それを認める大将の店にいけばよろしいのです。串から外さずガブりついて食べてほしい大将は、志を同じくする客だけを相手にすればよろしいのです。一人ひとりの個人が、自説を曲げる必要性を最小限にできるのが、棲み分けの市場経済なのです。これが統制経済・規制業界だったら、面倒な「こだわり」に万人が仕方なく付き合わされるところでした

棲み分けできる市場経済で本当に良かった!
ラベル:経済 経済学 社会
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2016年12月04日

「呉越同舟」の労使関係とストライキ路線――一人ひとりの労働者の生活自主化のためには?

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161204-00013932-kana-l14
>> 始発からスト、臨港バス 夜勤帰り、休日通勤の客も弱り顔

カナロコ by 神奈川新聞 12/4(日) 9:30配信

 神奈川県の川崎鶴見臨港バスの労働組合は4日、最長で24時間のストライキに入った。同組合のストは1980年4月以来、36年ぶり。一部の系統を除き路線バスが始発から運休となっている。

 多くのバス路線の発着点が集中するJR川崎駅では、それぞれの乗り場の案内板に「当社組合がストライキを行っております」とのビラが貼り出された。駅の東西ロータリーに非組合員の管理職3人が案内係となって乗客の説明に当たっている。

 川崎駅と水江町を結ぶ系統沿いに住む30代の男性は「夜勤明けで帰宅しようと思ったら。弱りましたね」と困っていた。60代の会社員は「これから工場に出勤しなければいけないのに。タクシーに切り替えて行きます」と足早に去って行った。平常通り運行している市バスで目的地を目指す人もいた。


(以下略) <<
■「呉越同舟」の労使関係とストライキ路線
このご時勢、それも36年ぶりのストライキですから、組合側も相当な苦悩の末に下した決断だったのでしょう。特に、決行日が日曜日だったことも、利用客への影響を最小限にしようと苦心したことが伺えます。

しかしながら、コメ欄に寄せられている論点にも耳を傾けなければならないでしょう。
>> dem***** | 2016/12/04 10:14

依然はよくあったよね、私鉄ストとか。最近聞かないのは何故かな?


(中略)

カメムシ大明神補佐代理付係長心得見習 | 2016/12/04 16:30

乗客の怒りが組合員に跳ね返ってくるからね。

右肩上がりの時代ならともかく、鉄道は一般企業より比較的安定しているし、民間企業はストが企業活動に直結して職場自体の喪失に繋がる。
<<
鉄道は一般企業より比較的安定している」か如何かはさておき、「民間企業はストが企業活動に直結して職場自体の喪失に繋がる」という指摘は極めて正しい。旧国鉄が私鉄各社との競争に負け、国労が労使もろともに没落していった前例は未だに多くの教訓をもたらすことでしょう。

我が国は競争的市場主義国家です。顧客は特定の業者に頼る必要はありません。今回のケースでも「平常通り運行している市バスで目的地を目指す人もいた」というくだりにもあらわれているように、「臨港バスがダメなら市バスでいいや」といった具合に、「代替財」にシフトすることができるのです。利用客にとっては労使も関係なく「バス会社」です。多少のストであれば「連帯のメッセージ」を寄せることもあるでしょうが、市バスが走っているのに「臨港バスがストなので今日は出かけません」という人はおらず、迂回経路を利用することでしょう。もし使用者側にストで痛撃を与えようものなら、利用客への甚大な打撃も副作用的にもたらさざるを得ず、迂回経路が本経路になってしまうことでしょう。

「その前に使用者側が折れればいい」という主張もあるでしょうが、使用者側が時機を見計らって合理的に事態を収拾できるとは限りません。また、そもそも使用者側にとっては「部門のうちの一つ」でしかない場合、これ幸いと部門閉鎖に走ることもあるでしょう。沈没船の「沈没責任」など、問うたところで意味はありません。

事実として、一企業の労使は「呉越同舟」の関係です。この本質的関係性を無視して、彼我二分論的に物事を把握すれば、国労のように取り返しのつかない事態に至ることでしょう。あるいは、炭労のケースも参考になるかもしれません(階級闘争に明け暮れているうちに石炭産業自体が消滅)。

■産別組合の連帯ストの功罪
個別組合のスト戦術の限界を以って、産別組合の連帯ストを提唱する言説もあるかと思います。「地域のバス会社の組合が一斉にストをすれば『代替財』はないから大丈夫」といったところでしょうか。しかしながら、これは別の問題を抱えています。超企業的な産別連帯は、個別組合がバラバラに運動を展開するよりもインパクトが大きいとはいえ、各社ごとに事情が異なる組合の集合体だからこそ、個別の事情に対応しきれないという危険性があるのです。

「苦しい組合への階級的連帯のために、余裕のある組合までもがストに付き合う」程度なら問題はないかも知れません(もちろん、あちこちの大小さまざまな労使紛争にいちいち連帯していてはキリがないとは思いますが、それは取りあえず置いておきましょう)。しかし、逆に「階級的連帯のために、苦しい組合に忍耐を要求する」ケースが必ず生じます。闘争というものは、いつも直球勝負すればよいわけではなく、時には戦略譲歩も必要になるからです。このことは、超企業的な産別連帯に限らず、個別組合の内部でもおき得ることです。組合全体の利益のために、少数の労働者個人に忍耐を要求するという構図です。

「階級全体の利益」「組合全体の利益」の名の下に忍耐を要求された個別組合・個別労働者は、本当に黙っていなければならないのでしょうか? 一人ひとりの生身の人間の利益と「階級の利益」なるものが一致するとは限りません。また、一人ひとりの生活の事情は異なります。人間、個人的ではあるものの、どうしても譲れない事情はあるものです。よく知りもしない他人が偉そうに「君の言い分はエゴである」などと、どうして指導できるのでしょうか。「一人ひとりの労働者の生活自主化」を目指す組合が逆に「全体の利益」を押し付ける構図、組合が逆に自主化を抑圧する展開に陥りかねません。左翼運動の歴史を振り返れば、そうした全体主義的な実例はあまりにも多すぎました。その轍を踏まない保障などどこにもありません。

■産業「間」組合?
タクシーに切り替えて行きます」という会社員の声も記事では紹介されていました。まさか、タクシー業界の組合も集結させるつもりでしょうか? 仮にタクシー業界を巻き込めたとして、地域によっては鉄道という手段(都市部ならバスにとって地下鉄は「強敵」でしょうな)もあります。いくらなんでも利害関係が違いすぎるバス、タクシー、鉄道の統一は難しいでしょう。

■「一人ひとりの労働者の生活自主化」に立ち返れば
組合の本来的目標である「一人ひとりの労働者の生活自主化」に立ち返ったとき、「スト路線」の是非については、かなり広範に及ぶ論点、それも質的な論点が残されています。以前から当ブログでもこの問題については考察してきました。市場機構を活用することを主軸とはしていますが、まだ私も「これだ!」という決定打は打ち出せていません。今回は論点整理のレベルで終わってしまいますが、今後とも継続して検討してゆく所存です。
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2016年12月03日

リーダー不在で「韓国ろうそく革命」とは笑止千万

http://japanese.joins.com/article/959/222959.html
>> 【社説】世界が驚くろうそく革命の力=韓国

(中略)

英国の名誉革命と米国革命で新たな政治体制が作られ、フランス革命で自然法と人権が普遍的価値として受容されたとするならば、いま韓国のろうそく革命はこの地に真の市民社会が到来したことを告げる祝砲といえるだろう。ろうそく革命のエネルギーは一民間人により公的システムが壊され、牽制を受けない大統領1人により国政の全てを思うままにする故障したシステムを修理するエネルギーに転換されなければならない。階層・地位・性別に関係なく、だれでも努力しただけ保障を受けられ、成就しようと思う人に機会が与えられる公正な社会に転換されるための呼び水として使われなければならないだろう。ろうそく革命のエネルギーが韓国社会が一段階アップグレードされ先進化する動力として昇華される時、ろうそくの火は消えず永遠に国民の胸の中で燃え上がるだろう。すでに「最悪の大統領」は過去になり、「最高の国民」たちが新しい未来を開いている。(中央SUNDAY第507号) <<
まあ、無理でしょう。リーダーが不在の「烏合の衆」にすぎないのですから。偶然的に一致した「パク・クネ退陣」までは行動を統一できても、それより先の「未来社会像」までもが共有されているわけではないのだから、早晩、足並みは崩れ、全面的に崩壊することでしょう。

ハンギョレはもう少し踏み込んだ内容を報じています。ますます失敗の方向性が見えます。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161129-00025791-hankyoreh-kr
>> 怒りから代案へ、成長する「広場の民主主義」

ハンギョレ新聞 11/29(火) 11:59配信


(中略)

 26日、光化門(クァンファムン)集会の本行事に先立ち、午後1時からソウル市庁前広場で開かれた「わいわい市民評議会」には、150人あまりがみぞれの降る中三々五々と円卓を囲んでグループディスカッションを行った後、投票を行った。「朴槿恵(パク・クネ)大統領をどのように退陣させるか」については「国会が弾劾を進め、憲法裁判所が拒否しないように団体行動を続けていくべき」(37%)という意見が最も多く、「政府の無能力と道徳性を牽制する装置をどのように作るべきか」については36%が「大統領と国会議員に対する国民リコール制度を憲法に明示」を選択した。光化門広場のセウォル号の座り込み場の隣の「朴槿恵退陣キャンプ村」では、午前9時に15~20人が集まり「村民会議」を開いて活動計画などさまざまな事案を論議する。24日午前10時には初めての村総会を開き、朴大統領の退陣後至急推進すべき7大課題を選定した。広場に出た市民たちから噴出する要求を選び出すためだ。

 文化芸術、労働、人権、女性、性的マイノリティ、青少年団体に所属する村民たちは、お互いさまざまな違いをさらけ出した協議を経て、▽不正蓄財を没収し、20代の借金から清算▽警察・検察・裁判所のトップの直接選挙制実施▽韓国放送(KBS)の中に集会・デモの特別放送担当部署設置など、ユニークな課題を採択した。特に「特定嫌悪犯罪加重処罰法制定」は、人権をめぐる激しい論争と字句の修正を繰り返したという。

 組職も続々と生まれている。「村民会議」は朴槿恵退陣戦略だけでなく、以後の社会について公論の場が必要だと判断し、「広場討論委員会」を構成して、少なくとも週1回以上広場で討論会を開くことにした。第1回討論会は29日午後2時、キャンプ村で開かれる。第1回討論会を準備中のイ・ウォンジェ文化連帯文化政策センター所長は「提案は短く、全体討論は長く持つつもりだ」とし、「汝矣島(ヨイド)の政治を越え、市民のための新しい政治を実現する談論と政策まで作り出す」と話した。イ所長は「さまざまな主体が各地で次々と開いている討論会を一つにつないで汲み上げる討論会を12月に開く一方で、これらの討論で出た結果をアーカイブに構築し、次の大統領選挙で強力に世論化する計画」だと付け加えた。


(以下略) <<
ただ広場でおしゃべりし、まだ実現のための具体的方途も決まっていないものを、あたかも時代の画期のように描くシアワセ思考回路

腐敗との闘争は、激しい戦いを伴うものであり、それを突破するための「理念と行動のベクトル統一」が必要です。その統一を行うリーダーを「首領」と位置づけるべきか、もっとソフトに「庭師」レベルに留めるかは別として、そうした理念と行動の統一が重要なのです。共和国南半分(南朝鮮、「韓国」)の現状には、そうした役割を果たすリーダーは不在です。

一部に留まっているものの、韓国人のなかにも気がついている人はいるようです。
>> 韓国は歴史的岐路に立たされている、必要なのは国を救い出す強力な指導者―韓国紙
Record china配信日時:2016年12月2日(金) 6時40分

2016年11月28日、韓国紙・朝鮮日報によると、米国で次期大統領がドナルド・トランプ氏に決定したことで、国際情勢は不確定要素が増し、韓国も安保体制や経済情勢が不安定になる中、朴槿恵(パク・クネ)大統領が友人の崔順実(チェ・スンシル)被告に機密情報を漏らしていた「崔順実ゲート」事件で揺れており、韓国は歴史的岐路に立たされている。30日付で中国紙・参考消息(電子版)が伝えた。

「大韓民国号」は座礁し、荒波にのまれた船長(大統領)はリーダーシップを失い、船員(政治家)たちは自分の命の心配しかせず、船そのもの(国)も乗客(国民)も危機的な状況に置かれている。エンジン(経済)も動きを止めつつある。


(中略)

朝鮮日報は、国内外に不安定要素を抱える韓国を救うには、道徳心や責任感、強いリーダーシップを持つ政治指導者が必要だとし、国民の怒りを生産の原動力にしていかなければ国を救う道も閉ざされてしまうと指摘している。 <<
まさか保守系の『朝鮮日報』と意見が一致するとはw

共和国南半分の70年弱の歴史において、暴動騒ぎで政権転覆が起きたことは以前にもありましたが、それによって社会が本質的に変わったことはありませんでした。いわゆる「韓国民主化」も、軍事独裁的方法よりも、もっとソフトな利益独占方法があるから、打算的に「民主化」したに過ぎません(本気でアレが「民主化」だと思っている馬鹿が日本にも少なくないようで頭が痛い)。

朝鮮民族の歴史において、人々の理念と行動を統一できたのはただ、キム・イルソン主席だけでした。それ以外のアクションがすべて失敗してきたことは歴史の事実です。デモ隊の要求どおりにパク・クネ氏が退陣しようとも、本質的には、リーダー不在の今回も「失敗の歴史」に1ページが加わるだけでしょう。
ラベル:チュチェ思想
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2016年12月01日

コンサートチケット転売問題は極めて経済学的問題である――転売禁止という雑な配給制がもたらす効果

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161130-00000010-jct-bus_all&p=1
>> 橋下徹氏、チケット転売を容認 「価値があるものは高く売れる」
J-CASTニュース 11/30(水) 21:30配信


(中略)

  「物価を一定に維持して行くのは社会主義、共産主義。何で今、転売行為が問題になっているのか、さっぱりわからない」

と、転売行為が問題視されていることを不思議がった。


(中略)

日本音楽制作連盟「金銭的に余裕がある人しかライブを楽しめない」

 じつは、「チケットの転売行為」について、経済行為としては「問題がない」としている識者がいないわけではない。経済学者で、嘉悦大学の橋洋一教授もその一人。「倫理的な問題などを除けば、転売は経済的には非難されることはない」という。2016年8月29日付の現代ビジネス「ニュースの深層」で主張していた。

 「橋下×羽鳥の番組」では、橋下氏も「違法行為」(各都道府県の迷惑防止条例違法違反)については、「(法律は)転売を違反行為だといっているのではなく、あれは迷惑行為を罰しているもの」とし、そのため転売行為が「社会的な批判にはあたらない」としている。

 また、アーティスト側がチケットを発行して広く販売しているのだから、転売されても仕方がない状況になっているとも話し、むしろチケットの販売方法や価格などを問題視しているようだ。

 2016年8月、多くのアーティストが賛同した「私たちは音楽の未来を奪うチケットの高額転売に反対します」の意見広告を目にした人は多い。J‐CASTニュースは11月30日、その共同声明を発表した音楽団体の一つ、日本音楽制作連盟に、橋下氏の主張についてどのように考えているのか、聞いた。

 すると、

  「たしかに、多くの識者の方がご指摘のとおり、一つひとつのライブという単位でみれば、需要と供給により、価格が決定されるべきであるということは経済学的には正しいのかもしれませんし、単純な転売行為だけをみれば、それを規制する法律がないというのも理解しております。
  しかし、音楽ビジネスは単にそのライブだけで完結するものではありません。子どもから大人まで、男女を問わず、多くの方にライブに足を運んでいただく機会をつくり、応援していただける方を増やしていくことで、新たな音楽を生み出すための再投資をしていかなければなりません。
  単に、『資本主義の大原則』にしたがってライブのチケットを販売し続ければ、多くの人気アーティストのライブは、金銭的に余裕がある一部の人しか楽しむことができないこととなってしまいます。それにより、金銭的に余裕がない若者などは音楽から離れていき、ひいては音楽文化の衰退にも繋がりかねません。
  私たちが『資本主義の大原則』に従って、ライブのチケットを販売することは簡単で、目先の利益を考えればそれにより一時的に利益を最大化することができるかもしれません。しかし、そのような行為が音楽文化の衰退に繋がることは明白であると考えておりますので、継続して高額転売の禁止を訴えているという次第です」

とのコメントを寄せた。

最終更新:12/1(木) 19:05
<<
■日本音楽制作連盟の「思い」は素人制度設計で逆効果に――航空機チケットのキャンセル制度との比較
日本音楽制作連盟の指摘には一理あります。転売は「金銭万能」が横行することになり、社会文化的に大きな悪影響を及ぼしかねないという懸念は正しいでしょう。しかし、残念ながら彼らの願望に反して、彼らの方法は逆方向の効果をもたらすことでしょう。「金銭万能」を予防しようとするあまり、「所有権の移転」そのものを規制し過ぎています。

コメ欄に興味深い意見が寄せられているので、ご紹介しましょう。
>> tmi***** |2016/12/01 01:52
会員登録時の顏認証を取り入れて機械で本人確認、もし行けなくなっても会員同士が譲り合えるシステムがあれば解決する。もちろん転売は良くないが、アーティスト側の問題でもある。既に行っているグループもある。
<<
>> yuj***** |2016/12/01 04:22
tmiに賛成。
記名チケットにして、行けなくなったファンは主催者側が買い取り再販する。それをキャンセル待ちのファンが買う。
航空券でできているのだからイベントのチケットでもできるはず。
<<
>> 野球大好き評論家 |2016/12/01 05:34
開催側がチケット回収して、それをキャンセル待ちって…
その開催側の件費負担はアーティスト持ちでするのか。
<<
>> yuj***** |2016/12/01 05:41
航空券の場合は、チケット回収費用はキャンセル料として購入者が負担しているので、それに倣えばいいのでは。
<<
鋭い指摘です。航空機チケットも転売が禁じられていますが、音楽コンサートほどの問題は起きていません。航空機チケットは、キャンセル制度を通してスムーズな「所有権の移転」が可能になっているので、「急に必要なくなった人」と「急に必要になった人」「どうしても必要な人」とを柔軟にマッチングさせることができるのです。

「金銭万能」を予防しようとする連盟の姿勢は正しいと思いますが、「所有権の移転」そのものを規制し過ぎる素人考えの雑な制度設計では、「特に予定が詰まっていない計画通りに行動できるヒマ人」ばかりが有利になるというマイナス効果をもたらしかねません。

■臨時的で柔軟な資源の融通のために
橋下氏のいう「資本主義の大原則」に強硬に反対するという一点において、20世紀の社会主義国家は、連盟にとって「同志」でしょう。20世紀の社会主義国家は、転売による私的利殖行為を禁じるため、私的な取引を原則として禁じていました(計画経済)。しかしながら、そうした計画経済においても、緊急・臨時の資材融通のために補足的ではあるものの、市場取引が存在していました。

物事は当初計画どおりには進まないものです。事前の公的なルートだけでは到底間に合わないのです。その点、市場取引は、売り手と買い手が2人いれば成立するものです。臨時的で柔軟な資源の融通には市場的方法が優れているのです。

日本音楽制作連盟は、臨時的で柔軟な資源の融通についてどういう方法論を持っているのでしょうか?

■早い者勝ち経済と長蛇の行列
コンサート運営者がド素人であれば、さらに事態は酷くなります。要するに「早い者勝ち」。これはますます「ヒマ人有利」になることでしょう。「早い者勝ち経済」といえば「長蛇の行列」。「長蛇の行列」といえば「ソビエト」。橋下氏の「物価を一定に維持して行くのは社会主義、共産主義」というコメントは――たぶん彼はそこまで深く洞察して発言はしていないでしょうが――ある意味正しいのかもしれませんw

事実、一部の文化芸術イベントでは、「ダフ屋死ね」と稚拙な運営体制のために、途方もない長蛇の行列ができています。また、文化芸術ではありませんが、鉄道趣味の世界では、「特急xxラストラン、指定席券10秒で完売!」といった同様の事態がしばしば発生しています(鉄道趣味界はコンサート以上に酷いですよねぇ。ダフ屋云々以前に、公式の販売ルートそのものが酷い。ダフ屋を徹底排除したところで10秒完売が30秒完売になるくらい? こっちは仕事あるんだけど。。。)。

文化芸術界に存在する日本音楽制作連盟は、ヒマ人有利な長蛇の行列問題についてどういう方法論を持っているのでしょうか(鉄道会社にも問いたい)?

■「よりよい配給制」の探求を怠っている――経済学的にこそ考えるべき
日本音楽制作連盟の発想は、ある種の「配給制」と言っても良いでしょう。スーパーマーケットなどでたまに見られる「お一人様xx個まで」という張り紙からも分かるように、資本主義経済においても、時には「配給制」は必要です。しかし、上で述べてきたように、連盟は「金銭万能を予防する」という大義名分の下に思考停止し、「よりよい配給制」の探求を怠り、結果的に別の問題を発生させているのです。

こうした思考停止は、「経済学的には正しいのかもしれません」というくだりと、コメント全体の文脈から考えて、「我々は経済学とは異なる指針に立っている」という、ある種の「反経済学」的な立場に連盟が自らを位置づけていることも影響しているかもしれません。

経済学は本質において、「選択と分配の学問」です。その意味では、チケット転売問題の制度設計は、極めて経済学的テーマです。もし、チケットの流通を認めながらも、高額転売による私的利殖行為を禁じるというのであれば、それは経済学的に考察しなければなりません。でなければ、前述のように、必要以上の流通規制により別の問題を引き起こし、目的とは逆の結末に至ることでしょう。

ちなみに、経済学は実証的分析と規範的分析の2本立てで成立していますが、規範的分析分野においては、「より多くの人に利益を」という連盟の指針と同じ考え方もあります。なお、近代経済学=「カネ儲け至上主義」、マルクス経済学=「より多くの人に利益を」という分け方では決してありませんヨ。有効な社会政策・制度設計は近経学者から提出されたものが多いのは、最近ではマル経学者からも認める発言が出てきています(松尾匡氏など)。だいたいこの「2本立て」は近経の考え方ですw

■「価値があるものは高く売れる」のミクロ経済学的意味
橋下氏が如何考えているのかは知りませんし、あいつの考えなどはどーでもいいのですが、経済学者の橋洋一氏の「倫理的な問題などを除けば、転売は経済的には非難されることはない」の言いたいところは、だいたい次のような内容になるでしょう。

経済学(ミクロ経済学)において、需要者(買い手)の支払い申し出価格は、彼の商品に対する価値評価を反映しています。オークションを想定すれば理解し易いでしょうが、多くの買い手が支払い価格を申し出合うことによって、どうしても欲しい人はそれ相応の買い取り価格を提示し、それほどでもない人は「こんなものに、こんな額は払えない」として、オークションから退出します。

こうした買い手同士の競争によって、「なんとなく欲しい人」にではなく「どうしても欲しい人」に貴重な商品が渡ることになります。苦労して稼いだ金銭と貴重な商品とを引き替えにするからこそ、買い手側はマジになるのです。

ダフ屋から高い金銭を払ってでも購入しようとする人は、喉から手が出るほど欲しがっている人です。「高額な転売品に頼るほど、喉から手が出るほどに欲しがっている人に融通して何が悪いの?」「確かにダフ屋も儲かっちゃうけど、それは必要悪だよね」といったところなのでしょう(たぶん)。

もちろん、これは「金銭万能」をも正当化してしまう言説であり、私は支持できません。たしかに転売は「喉から手が出るほどに欲しがっている人にこそ融通できるシステム」でありますが、もっと規範的分析においてスマートな分配論があれば、そっちであることに越したことはありません。私の規範的分析は、ダフ屋に頼るよりも、航空機チケットのキャンセル制度を応用した柔軟な流通制度を構築すべきであります。

■マルクス経済学的にも興味深い転売規制問題
ちなみに、マルクス経済学的に考えるとこれは、「商品流通『W−G−W』を認めながらも、利殖行為『G−W−G』は認めない」、つまり、「『手持ちの不用品を売って貨幣を入手し、その貨幣で別の商品(コンサートのチケット)を買う』のは認めるが、『貨幣で商品(コンサートチケット)を購入し、転売によって貨幣を得る』ことは認めない」ということになります。

理屈上、商品の市場流通と市場での利殖行為とは区別できますが、実際においてはこれら2つの行為は連続的であり、実践的には片方を禁じてもう片方を許すというのは困難です。しかし、これを首尾よく実践的に区別できるようになれば、「市場交換を残しながらも『資本の暴走』に歯止めを掛ける」という未来社会像が描けることでしょう

やはり、チケット転売問題は経済学的に極めて興味深いテーマであります。
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