2017年01月29日

「協調」と「主体的立場に立った条件交渉」――フリーランス協会の行く手について

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170126-00000074-impress-sci
>> 「フリーランス協会」設立、フリーランスやパラレルワーカーを支援、企業と一体で「働き方改革」実現

Impress Watch 1/26(木) 15:24配信

 「プロフェショナル&パラレルキャリアフリーランス協会(仮)」が1月26日に設立された。フリーランスとして活動するプロフェッショナルワーカーに加え、企業に在籍しながら副業や兼業しているパラレルワーカーの有志が主体となり、フリーランス支援に携わる企業・団体23社が支援する

 協会の代表理事で株式会社Waris代表取締役共同創業者の田中美和氏は、各業種のマッチングサービス、モバイルやインターネットの普及、価値観の多様化などを背景に、日本におけるフリーランスは2016年に1000万人を突破したことを紹介。さらに、「会社員でもほかの企業の仕事ができるパラレルワーカーも増えており、副業・兼業(を認める就業規定)は大企業も広がっている」とし、これらを背景に「クリエイターだけでなく、ビジネス系の営業やマーケティング、事業企画など、さまざまな種類のフリーランスが生まれつつある」とした。

 フリーランスには、自由に働けるメリットがある反面、社会保障が手薄で、労災保険や雇用保険、国民年金なども全額自己負担であるほか、ローンが組みにくいなどの社会的な不安もある。さらに、先輩や上司、同僚とのつながりなども獲得しにくくなる。また、専門領域を持つがゆえに、ほかのジャンルなどへのキャリアアップが難しかったり、仕事を獲得するための営業活動や、確定申告をはじめとした経理業務も必要となるため、そうした面で難しさを感じる声もあるという。

 協会では、フリーランスが主体となるが、これを支援する企業と一体となって現状を把握し、さまざまな支援を行うことで「こうした課題を解決し、(フリーランスが)安心・安全な状況で能力を発揮できる土壌を作りたい」とした。また、「興味あるけど一歩踏み出せない人にも選択肢を提示したい」と述べた。

 協会は任意団体としてスタートするが、4月には社団法人化を目指す。協会のウェブサイトでは、無料のメールマガジン会員を募集しているが、4月からは各種特典を得られる正会員の募集を開始する。会費は1万円前後が想定されているという。「協会普及へ向け、(メルマガ会員を含め)初年度に1万人程度の会員獲得を目指したい」とのことだ。4月には著名なフリーランスにアンバサダーとして就任してもらうプランもあるという。


(以下略) <<
■今回は「協会」だった
近頃この手の団体が出来るとき、「ユニオン」という形態を取っているケースが目立つような気がしますが、今回は「協会」でした。フリーランス支援に携わる企業・団体23社が関与しているとのことで、需要側(企業)と供給側(フリーランス)の双方が共に運営してゆくという点において、たいへん興味深い試みであると思います。

他方、既に懸念の声も上がっています。正しい指摘だと思います。また、企業がフリーランスたちを囲い込むための「放牧場」のようになってしまうという懸念もあり得るでしょう。

■システムとしての市場経済で自主化を達成するためには
以前から繰り返し述べているように、市場経済はシステムです。売り手と買い手は、時に利益が相反するケースもありますが、そうした場合であっても「呉越同舟」の関係。大きく捉えて「全体として渾然一体」な関係にある「システムの構成要素同士」であることには変わりはありません。

システムとして市場経済を見たとき、自らの自主化を目指すのであれば、需給双方は協調すべきであると同時に、利益が相反するケースにおいてはシステム的としての大局観を意識しつつ、主体的立場に立って条件交渉を行うべきであります。お互いに相手の事情を汲みながら主体的立場にも立ち、相互牽制的に交渉を展開し、時に袂を分かつ――そもそも「市場における契約交渉」自体が原則的にそうしたものです。

■「協調」と「主体的立場に立った条件交渉」
そうした原則の下、当ブログでは「自主権の問題としての労働問題」というテーマを掲げて論考してきました。一連のシリーズ記事において私は、従来型の要求運動型の労働組合活動については、活動家たちの階級二分法的発想・行動について批判を展開してまいりました。「主体的立場」を鮮明にする点においてはよいのですが、「需給双方の協調」に欠けた言動・プランが目立つのです。それどころか、システム的な大局観に立っていないために、逆に労働者としての利益をも損ねかねない「素人考え」が見え隠れしています。とても全面的な支持をすることはできません。

他方、今回の「フリーランス協会」については、「需給双方の協調」については十分であるものの、逆に、利益相反のケースにおける「フリーランスとしての立場からの主体的条件交渉」という点が見えにくい。その点では、やはりこれについても「ちょっとなあ」と思わざるを得ません。

最近は活動しているのか否かも分からないような状態ですが、はたらぼ」というNPO法人があります(よりにもよって、あのパソナが酷似したネーミングを事業に使い始めましたが別物です)。かつて毎日新聞に代表者のインタビューが掲載され、大変興味深い活動目標に深く共感した覚えがあります。残念ながらスクラップしたはずの記事がどっかに行ってしまったので、公式ページのトップに現在も掲載されている「はたらぼの理念」を以下に引用いたします。
http://www.hatalab.org/
>> はたらぼの理念 - ごあいさつ

昇給や雇用の安定が期待できず経営者を信用しない労働者、社員に絶対的服従を求め対話を軽視する経営者、そして予算も人員も限られ管理監督に手が回らない行政。

労働をめぐるこうした相互不信は、終身雇用、年功賃金によって支えられていた日本型雇用の崩壊とともに、高まっています。

昨今では最低限の法律すら守らず、労働者を使い捨てにする「ブラック企業」が社会問題化しています。

互いを非難し合う。しかしこれで、社会は良い方向へ向かうのでしょうか?

私たちは“悪者叩き”の考え方から距離を置くことにしました。

誰が悪いと非難するのではなく「どう解決するか」、誰に責任をとらせるかではなく「どの役割を誰が担うか」にスポットを当てたい。そう考えることにしました。

「働く」ということに関わるすべてのポジションから、建設的な対話を通じてアイデアを出し合う「対案探し」。

はたらぼは、人々を建設的に結びつけることを通して、労働者、企業、行政などの間の信頼回復を目指していきます。
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事業内容についても引用しましょう。
http://www.hatalab.org/ourtask.php
>> はたらぼの事業について

宣言事業

はたらぼが提案する「雇用基本宣言」にご同意いただける企業を募集・集積し、就職・転職活動を行う求職者への十分な情報提供を実施。良質な働き方が評価される社会の実現を目指します。

>>詳しくはこちらをご覧ください。

社会的対話事業

行政、企業、労働者が課題・悩みをそれぞれに抱える分断状態を打開し、建設的な対話の場を設計。 答えを見出すための対話の場を、様々なシーンで創出してまいります。

講演・ファシリテーション事業

高校、大学での労働に関する出張講演のほか、会議やワークショップを通じた合意形成や相互理解を促進する「ファシリテーション」の技術を用い、誰もが納得できる会議の実現をコーディネートいたします。
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条件交渉の際には供給側に立つことを言明しながらも、人々を建設的に結びつけ、対話を通じてアイデアを出し合うというシステム的な対応をも行う。優良企業と求職者とのマッチングも行う――前述の「協調」と「主体的立場」との両立を目指していると言えます(消息不明状態なのが本当に悔やまれる!)。

従来型の労組活動家たちは認めようとはしないでしょうが、「ユニオン結成」というニュースがチラホラ見られる昨今、実際の労働条件の改善は、労組運動の結果というよりも、労働市場における市場メカニズムの作用によると言うべきケースが続出しています。むしろ、「さっぽろ青年ユニオン」のケースのように、ユニオンが中途半端に役に立たない事態さえも見受けられています。昨今の「ユニオン・ブーム」は、報じられているほど役に立っているわけではなく、その意味では、既存戦術に則った労組活動は「頭打ち」にあると言ってもよいかもしれません。

労組活動は、活動家たちの階級二分法的な認識が基になっており、そしてこれは、以前から繰り返し指摘してきているように、哲学レベルでの認識論的な論点をも含む深刻な事態です。その点において私は、システム的大局観に立って「協調」と「主体的立場」とを両立させる道においては、労組に期待できる場面はそれほど多くはないと思っています。

フリーランス協会も前述の通り、「両立の道」においては、そのままでは不適当です。しかし、フリーランス協会のなかに、「主体的立場」を踏まえた部門をつくれば、これはある程度のものになるのではないでしょうか?

■公的なバックアップを受けつつ、主体的・自主的にに活動を展開すべき
前掲「はたらぼ」が、残念ながら消息不明状態になってしまっているのは、おそらく、市井の有志だけでは大規模・継続的に組織活動を展開することが困難であるという事情があるのではないかと推察しています。福祉の世界で、かつて「共助」という形で展開されていた篤志家の福祉事業が、その規模水準と継続性を維持・拡大するために徐々に「公助」に転換していった経緯と同様に、労働の世界においても、規模水準と継続性を維持・拡大するためは、公的なバックアップ体制が必要なのでしょう(無論、他力本願になってはいけません)。

今回のフリーランス協会は、時代の流れの中に自らを位置づけようとしています。前回の記事でも述べましたが、政府・自民党が推進する「働き方改革」に対して無邪気すぎることは避けなければなりませんが、時代の流れを上手く掴むことは大切なことでもあります。主体的・自主的な立場を見失わずに!

動き始めたばかりのフリーランス協会の今後の動向に期待しつつ注目をつづけたいと思います。
posted by s19171107 at 14:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2017年01月25日

「働き方改革」「残業規制」は相対的剰余価値搾取の時代の入口

http://bylines.news.yahoo.co.jp/sasakiryo/20170125-00066954/
>> 残業時間の上限規制<80時間>が検討されていることについての注意点

佐々木亮 | 弁護士・ブラック企業被害対策弁護団代表
1/25(水) 9:36


(中略)

とはいえ、じゃあこんな規制は要らないのか?といえば、そうではないでしょう。

現在の野放し状態を少しでも規制する方向であれば、少なくとも労基署などの行政が動ける「幅」が広がるので意味がありますし、こうした規制をすることで、各企業が法に違反しないよう努力が進むことも期待できます。

もっとも、注意すべき点として、2点あります。

これをゴールとしてはならない

1つ目は、政府はこの規制を入れて満足してしまうおそれがあります。

しかし、長時間労働対策は上限規制だけでは不足です。

この規制は内容からしてもゴールであってはなりません。

より短い上限となるように、少なくとも「何年以内に○○時間とする」という目標を掲げてもらいたいものです。

80時間の規制を入れたのでおしまい、では困ります。

また、上限規制のほかに、終業時刻と次の始業時刻との間に一定の時間を空けるインターバル規制も必要です。

こうした規制は、企業の自主努力に任せてしまうのではなく、法制度として導入していくことが必要です。

そして、規制を設けることで働く現場にしわ寄せがくることも防がなくてはなりません。

これが一番の難題なのですが、使用者側の努力と覚悟が問われます。

ここで、この新たな法規制が機能するよう、行政がしっかり動けるように、労働基準監督官の純増が必要です。

純増ですので、名目だけ増やしてもダメです。

残業代ゼロ法案とセットにしてはならない

2つ目の注意点は、政府がこの上限規制を、現在出している労働基準法改正案と抱き合わせにしてくる可能性があることです。

しかし、現在出されている法案は労働者側から「残業代ゼロ法案」と呼ばれる内容であり、長時間労働を誘発するものです。

新たな規制とは全く方向性が異なります。

これを抱き合わせにして、その成立を迫ることなど絶対に許されません。


(以下略) <<
個人に粘着しているつもりはないのですが、またしても佐々木弁護士です。典型的な主張を積極的に発信なさっているので、どうしても取り上げる機会が多くなってしまいます。

昨今の政府・自民党主導の「働き方改革」「残業規制」について「注意点」を指摘しています。相変わらず社会・経済構造の本質を見誤り、権力的・制度的規制の効果予測を誤り、ブルジョア「博愛」主義的な甘さと思い込みで論じていらっしゃいます。

労働時間が権力的に短縮を強制されたとき、従前の売り上げ・利潤を維持するためには、資本・企業側には二通りの方法があります。一つが「労働力の追加投入による投下労働量の増加」であり、もう一つが「労働密度の強化による投下労働量の増加」であります。そして今回、政府・自民党が推進するような「残業規制」においては、どちらの方法を選ぶかは、資本・企業側の判断に一任されます。

一般的に考えて、資本・企業側は、「労働密度の強化」を選択することでしょう。労働力を追加投入するということ、平たく言えば「人を増やす」ということは、「固定費の増加」に繋がります。資本・企業側としてはなるべく避けたいものです。仮に人員を増やさなければならないケースであったとしても、派遣労働者を筆頭とする非正規労働者であれば、固定費の増加にはならないので、そうした選択肢を選ぶと考えられます。

また、産業への要素投入は、経営判断だけではなく生産方法・生産技術的に規定されているケースもあります。労働集約型産業に資本を大量に投下しても上手くは行かないだろうし、知識集約型産業に労働力を大量に投入しても、「分かっていない人」を増やすだけでしょう。ソフトウェア開発のプロジェクト・マネジメントにおける、いわゆる「ブルックスの法則」のことです。長時間労働だからといって単純に人員を増やせば良いというわけではない、それどころか"Adding manpower to a late software project makes it later."(遅れているソフトウェアプロジェクトへの要員追加は、プロジェクトをさらに遅らせるだけだ)という格言であり、「1人の妊婦が9か月で赤ちゃんを出産できても、9人の妊婦が1ヶ月で赤ちゃんを出産することはできない」という端的な喩えでも言い表すことができます。

長時間労働の代名詞のようなIT産業において、なかなかそうした実情が改善されない、それどころか、デスマーチを行った(行わせた)にも関わらず、結局、納期・品質水準を守れず、半ば投げ出すような形でプロジェクトを中止させ、企業の評判をガタ落ちにさせ、経営を傾けさせるに至る事態は未だに横行しています(従業員の使い潰しを是とする企業はあっても、自社の評判を落とし、経営を傾けさせるのを是とする企業はありません)。更に言えば、プロジェクトによって労働時間に極端なまでに差(同じ開発会社でも、毎日定時あがりの部署と毎日午前様の大炎上部署が並存しているのはザラです)があるものです。そうした一因は、IT産業が生産方法において知識集約型産業であるがゆえに、「ブルックスの法則」が当てはまってしまうからだと言われています(事前に必要工数を正確に予測できればよいのですが、知識集約型産業であるがゆえにプログラマー・エンジニアの個人的な属人的スキルに左右される部分が大きいので、なかなか予測が立てにくいものです)。

長時間労働問題の解消を試みるのであれば、必ず、「生産に必要な労働量は、経営判断だけではなく生産方法・生産技術によっても規定され得る」「人員を増やせば解決するわけではないケースもある」という論点をも踏まえて考えなければなりません。上掲ウィキペディアページの「そのほか分野への適用」の一節――人員を増やせば良い産業と、そうでない産業があるということ――は、特に重要な指摘です。避けては通れない論点であるにも関わらず、「労働者側」を自称する労働運動界隈の人々から、こうした指摘を見たことがありません。

「残業規制」の効果は、マルクス経済学で言うところの、労働時間の際限の無い延長による「絶対的剰余価値の搾取」の時代から、労働密度の強化による単位時間当たりの労働生産性の向上を目指す「相対的剰余価値の搾取」の時代を切り開くという予測に至ります。また同時に、固定費の増加を極力回避するために、派遣労働者を筆頭とする非正規労働者への需要が増えるという予測にも至ります。

マルクスが指摘しているように、絶対的剰余価値の搾取も相対的剰余価値の搾取も、搾取という点においては相違ありません。むしろ相対的剰余価値の搾取のほうが、より人間性を破壊されるものです。

なお、「相対的剰余価値の搾取」と「賃金未払い」は、まったく異なります。相対的剰余価値の搾取は、賃金をキチンと支払った上で行われる行為です。時給1500円の労働者が1時間当たり3000円分の価値を産出している(材料費他を便宜上無視すれば、企業利潤は1500円)ところ、労働密度強化によって1時間当たり4000円分を産出するように指示しつつも、時給を据え置くような場合(同様に企業利潤は2500円)、増分の1000円こそ「相対的剰余価値」になります。

佐々木弁護士は労働基準監督署・労働基準監督官について「行政が動ける「幅」が広がるので意味があります」とします。しかし、労基は絶対的剰余価値の搾取については取り締まれるものの、相対的剰余価値の搾取を取り締まることは困難です。「絶対的剰余価値の搾取」すなわち「労働時間の際限の無い延長」は、「時間」という動かしがたい客観的指標が焦点であるがゆえに、権力的取締りが容易です。しかし、「相対的剰余価値の搾取」すなわち「労働密度の強化」というものは、マルクスが『資本論』で言及しているように、知覚しにくく、それゆえ、権力的にも取り締まりにくいものと考えられるのです。相対的剰余価値の搾取が主体となる時代においては、労基的取り締まり方法は一層、困難になることでしょう

政府・自民党が繰り出す昨今の「残業規制」に対する理論的備えが、佐々木弁護士の言説には決定的に欠如しています。

労働密度の強化に関する問題は、結局のところ、労使の力関係の問題、換言すれば、労働市場での力関係の問題です。それはすなわち、賃金・労働環境に関する労使交渉であり、そして取引中止という意味での「辞める」ということです。「自主権の問題としての労働問題」というテーマを掲げて論じてきたとおり、何よりも「転職環境の整備」が核心であり、そしてそれを補う形での「労使交渉」こそが、相対的剰余価値の搾取がメインとなってゆくであろう時代において、労働者一人ひとりの自主化にとって重要な要素になってゆくことでしょう。

私自身は以前から述べている通り、現代社会・現代経済はシステムであると見ており、その意味において、二分法的な階級分析の立場には立っていません。しかし、それにしても、政府・自民党が推進し、大企業やその代弁者たちからも不気味なまでに持て囃される昨今の「働き方改革」「残業規制」に対して、「労働者側」が余りにも無邪気に飛びつき過ぎているように見えます。かつて「小泉構造改革」を支持していた連中が、最近は「いまの労働者の仕事には無駄が多い」だの「さらに生産性を向上させ、効率化を推進しなければならない!」だのという文脈で「働き方改革」「残業規制」を主張していることが分かります。ちょっとくらいは警戒しましょうよ。「高い生産性」という言葉に釣られてはなりません。それは「ブルジョワの利益にとっての生産性」です。

「労働問題分析の中核的視点としてのブルックスの法則について」シリーズ関連記事
2月14日づけ「増員は一人当たりの労働負荷を逆に増やす――「働き方改革」の逆効果
8月15日づけ「「人に仕事をつける」日本の働き方は「ブルックスの法則」が作用し易い
posted by s19171107 at 20:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2017年01月24日

「世論」の逆を行くのならば主旨を明確にして余計な論点は盛り込まないこと

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20170123-00126570-hbolz-soci
>> 「生活保護舐めんな」ジャンパーは小田原市だけの問題なのか?

HARBOR BUSINESS Online 1/23(月) 9:10配信


(中略)「捕捉率を計算したこともないのに、わずか1%にも満たない不正受給を防止するために市民への通報義務を課すのはあまりにも歪であり、行き過ぎではないのか?」と指摘すると、小野市の担当者は「確かにそうですが、(生活保護を)本当に必要な人に行き渡らせる為にも、不正受給はダメですので」と答えた。

 ここが問題なのだ。

◆「本当に必要な人に行き渡らせるために」は本当か?

 生活保護の議論では必ず、「不正受給」が話題に上る。その際には決まって「本当に必要な人に行き渡らせるために」という一言が添えられる。

 だが、筆者がこれまで取材した「本当に必要な人に行き渡らせる論者」の中で、「では、現在の捕捉率はどれぐらいなのか?」との質問に即座に答えられた事例は、皆無だ。大半は小野市のように「計算をしたことがない」と答える。

 これは不思議なことではないか?

「本当に必要な人に行き渡らせ」たいというのならば、不正受給の件数よりも、まずは、捕捉率を調査するべきではないのか。捕捉率の計算さえせず「本当に必要な人」を把握することなどできようはずもない。

 こうした指摘を行うと、必ず感情的な反論が返ってくる。行政職員でさえ感情的になって必死に反論する。「理屈はそうだが、しかし不正受給はダメじゃないか!」「不正受給はダメなんだから、取り締まるのは正義じゃないか!」とさえいうのだ。

◆生活保護の現場で横行する「正義」

 正義――。

 小田原市の職員ジャンパーにもプリントされていた言葉だ。

 確かに「不正受給」は悪い。詐欺罪に該当する場合もある。悪い行為を未然防止することは、「正義」ではあろう。しかし、現場の生活保護担当者は、あくまでも「法によって定められた手続きの執行官」であって、「正義の代弁者」でもなんでもない。あくまでも、生活保護法やその他の関連法令に則って、生活保護の審査・支給に関する手続きを進めるのが仕事だ。そこに、「正義」などの価値判断が入り込む余地などない。いや、むしろ、執行官がそうした価値判断を挟むことは危険ですらある。

 だが、生活保護の現場ではこの「正義」が横行している。どの市町村でも、資格審査の席で担当者が持ち出すのは、申請者の収入状況や資産の有無など、法が定める客観的な指標ではなく、まずは、「働けるのなら働け」「甘えてはいけない」などの「正義」だ。

 資格審査担当者が「正義」で申請者を「水際」ではねのけているのだ。全国的に横行している「生活保護の水際作戦」とはこのことに他ならない。支給開始後の家庭訪問や接見の場でも同じような「正義」が繰り返し受給者に押し付けられる。そしてそのたびに受給者は負い目を感じていき、スティグマを実感することになる。

 そう考えると、「我々は正義。不正を見つけたら追及する。私たちをだまして不正によって利益を得ようとするなら、彼らはクズだ」とうそぶいていたのは、小田原市の職員だけではないことがわかる。目には見えないジャンパーを着て実務に当たる職員は、全国の市区町村に、いる。

<文/菅野完(Twitter ID:@noiehoie)写真/時事通信社>

ハーバー・ビジネス・オンライン
最終更新:1/23(月) 19:47
<<
自称「正義」など、たいていはロクでもない――旧ブログ時代、光市母子殺害事件を軸に、死刑問題・刑事事件問題について、主に「世論」を分析してきた経験から言って、強く頷けます。その意味では、このり記事の指摘は正しいと私も思います。

他方、兵庫県小野市のケースを一般論のようにスリカエる論法や、「わずか1%にも満たない不正受給」などと言及してしまったことは決定的にマズかった。私も光市事件に関する「世論」を批判的に分析してきましたが、以下のように述べるように心がけてきました。
http://s19171107.seesaa.net/article/54485339.html
>> 私は真に公正な判決によるならば、被告が実際に死刑になってもならなくても如何でもいいのですが、偏向した報道を元につくられた偏った世論に対しては今後も疑問を呈し、批判を加えてまいる所存です。そして、そのような世論を司法に持ち込むことに断固として反対し、また現状での裁判員制度導入に慎重意見を申し上げます。 <<
余計な論点に深入りすると、真に伝えたい本旨が伝わらなくなります。私は旧ブログ時代、あくまで「刑事事件に対する世論の研究」を目指しており、死刑制度そのものについて論じるつもりはありませんでした。まして私は死刑存置派であり、死刑廃止論を宣伝する動機もありませんでした。それゆえ、上記のような断り書きを折に触れて宣言していました。

確かに「不正受給」は悪い」としつつも、「執行官がそうした価値判断を挟むことは危険」というのが本旨であるのならば、ちょうど朝日新聞関係者が「わずか3パーセント」と口走ったために「3パーセントもあるのかよ」「1パーセントだってあっちゃ駄目だろ」と猛反発を受けた直後だったのだから、不用意・不必要に「わずか1%にも満たない不正受給」というべきではありませんでした。

生活保護制度を擁護する立場であればこそ、制度の趣旨を踏まえて、困窮者が萎縮しないようにしつつ不正受給には厳格にあるべきです。少なくとも、是非・善悪は別として事実としてセンシティブな問題なのだから、余計なことを言わないように慎重に主張すべきです。「執行官がそうした価値判断を挟むことは危険」という指摘はまったく正しい。だからこそ、センシティブで論点が数多ある生活保護問題においては、論点を絞るべきなのです。どうしても「わずか1%にも満たない不正受給」と言いたいのならば、別稿で論じるべきです。

余計な物言いが、思わぬ方向に議論を一人歩きさせる――慎重には慎重を期すべきです。光市母子殺害事件という極端なまでに「世論」が一方向に走ったケースにおいて、あえて「世論」を敵に回すような分析を展開してきた経験から言えば、この記事はあまりにも不用意でした。

光市母子殺害事件においては、「大弁護団」の弁護戦術と、それに対する「世論」の猛烈な反発が最高裁差し戻し判決・広島高裁での差し戻し控訴審判決に対して一定程度の影響を与えたのではないかと考えられています。生活保護制度においても同様に、「弁護」側の不用意な発言が世論の猛反発を招きかねません。そのとき困るのは困窮者たちであり、それは「弁護」側の稚拙な擁護論のせいです。
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2017年01月23日

生活保護は「施し」でも「権利」でもなく「お互い様精神を基礎とする制度」――二元論から脱しよう

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170123-00000009-mai-bus_all
>> <生活保護>「施し」ではなく「権利」という常識
毎日新聞 1/23(月) 9:30配信

 1950年に施行された生活保護法は、自立できない怠け者の国民に施しを与える慈愛深い制度ではありません。健康で文化的な最低限度の生活を送るために、足りないお金を国家が補助する制度です。その仕組みを解説します。【NPO法人ほっとプラス代表理事・藤田孝典】


(以下略) <<
個人に粘着しているわけではないのですが、例の藤田孝典氏の記事です。「借りるならいいけれども、貰うのはどうしても嫌だ」と言い張る困窮者を半ば強引に「説得」したものの、困窮者自身の「生き方の哲学」に配慮することなく、ただ一方的な「啓蒙」をしたために、当人は「生活保護受給者」という自身の境遇をどうしても承服できず、それを苦に自殺してしまったケースについて、「最後まで自罰的態度を崩しませんでした」などと言ってのける、どうしても啓蒙主義志向を脱することが出来ない藤田氏(1月14日づけ「「支援」者の「説得」が要保護対象者の生き方の哲学を否定し、彼の心を折った――自主の問題としての福祉」参照)が、今度は「常識」という言葉を使い始めました。

この長い記事をよく読んでみると単なる制度の解説であることが分かります。いったい何処が「常識」なのかについて解説がありません。「制度にたいする社会的認知度」と「常識」には関連性がないことは、「意外と知らない法律」といった類のテレビ番組が良好な視聴率を叩き出す点からも分かるはずです。

常識」という意味では、生活保護は「権利」ではなく「施し」です。もちろん、私はこうした「施しとしての生活保護」という位置づけに組するつもりは毛頭ありませんが、冷徹に現実の世論を分析すれば、残念ながらそう結論付けざるを得ません

生活保護は「権利」なのか「施し」なのか――私はそもそもそうした二元論的構図化そのものに反対です。私は、生活保護は、法律・制度的には「権利」ではあるものの、その本質は「お互い様精神を基礎とする制度」と捉えるべきと考えています。社会的扶助の歴史的な成立経緯、チュチェの社会主義者としての正義、そしてチュチェ102(2013)年6月30日づけ「「自己責任論」は「助け方の拙さ」に由来する」を筆頭に継続的に分析・総合してきた昨今の世論傾向から、そのように認識しています。

「権利としての生活保護」という位置づけに対する世論の反発と比較して「困ったときはお互い様という意味での生活保護」は、まだ受け入れられる余地があるようです。社会的扶助の歴史的な成立経緯にも決して反していない位置づけであり、否定する論拠はありません。生活保護制度はあくまで制度;生活のための道具に過ぎないのだから、「権利」であろうと「お互い様」であろうと、生活者の役に立てば如何でもよいはず。使えるものは何でも使う、トータル使う。そうした柔軟さが大切です。

藤田氏のように、「正しい」認識をまくしたてる「啓蒙」主義的方法論、そしてそれを基盤とする制度設計は、論敵を折伏・・・じゃなくて「説得」し尽くすまで終わりがありません。相当の所要時間が見込まれます。しかし、論敵の側にも言い分があり、「啓蒙」的な物言いをヨシとはしないでしょう。前掲1月14日づけ記事において私は、敵にも味方にも啓蒙主義的に応対する方法論について以下のように述べました。
>> 「我々側」に対しては、当人の気持ちに寄り添っているわけではないので、どうしてもピンボケになるし、「論敵」に対しても、その疑問に正面から応答しているわけではないので、主張は平行線を辿り、まったく説得にならないのです。 <<
また、そもそも民主社会なのだから、「正しい」認識を注入し、相手の考えを改めさせるよりも、なるべく多くの意見・立場を取り込み、抱擁するような「広幅政治」を目指すべきでしょう。ますます「啓蒙」主義は時代に合致していないと言わざるを得ません。生活保護は「施し」でも「権利」でもなく「お互い様精神を基礎とする制度」と位置づけたほうがよいでしょう

その点において、チュチェ105(2016)年11月11日づけ「「反知性主義」批判という名の観念論――最近の観念論者の自己弁護」でご紹介した毛沢東大衆路線を、福祉分野においても実践すべきだといえます。当該記事は、アメリカ大統領選挙でトランプ氏が当選したことに事実を「反知性主義」なる単語を用いてエリート主義・啓蒙主義的に分析しようとする言説を批判する主旨ですが、福祉問題・生活保護問題についても、まったく同様に当てはまります。
>>  大衆の生産、大衆の利益、大衆の経験、大衆の気分、これらすべては、指導的幹部がいつも注意をはらわなければならないことである。
中央直属機関と軍事委員会直属機関の生産展覧会のための題辞、1943年11月24日づけ延安『解放日報』
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>>  われわれの大会は、それぞれの部署で活動している一人ひとりの同志が、大衆から遊離しないように注意を喚起することを全党によびかけるべきである。人民大衆を熱愛し、注意ぶかくその声に耳を傾けること、どこにいってもその土地の大衆ととけあい、大衆の上にあぐらをかくのではなく、大衆のなかにふかくはいること、大衆の自覚の度合いに応じてその自覚を啓発、向上させ、大衆の心からの自発的意志の原則にしたがって大衆がしだいに組織化され、その時その場所の内外環境のゆるすすべての必要な闘争をしだいに展開するのを援助することについて、1人ひとりの同志を教育することである。
「連合政府について」(1945年4月24日)、『毛沢東選集』第3巻
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>>  わが党のすべての実際工作において,およそ正しい指導は、大衆のなかから大衆のなかへ、でなければならない。それは、つまり大衆の意見(分散的な、系統だっていない意見)を集中し(研究をつうじて、集中した、系統だった意見にかえる)、これをふたたび大衆のなかへもちこんで宣伝、説明し、これを大衆の意見にし、これを大衆に堅持させて、行動にうつさせ、また大衆の行動のなかで、それらの意見が正しいかどうかを検証する。そして、その後、ふたたび大衆のなかから意見を集中し、ふたたび大衆のなかへもちこんで堅持させる。このように無限にくりかえして、1回ごとに、より正しい、よりいきいきとした、より豊かなものにしていくのである。これがマルクス主義の認識論である。
「指導方法のいくつかの問題について」(1943年6月1日)、『毛沢東選集』第3巻
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>>  大衆がまだ自覚していない時に、われわれが進撃にでるなら、それは冒険主義である。大衆がやりたがらないことをわれわれが無理に指導してやらせようとすれば、その結果はかならず失敗する。大衆が前進をもとめている時に、われわれが前進しないなち、それは右翼日和見主義である。
「晋綏日報の編集部の人たちにたいする談話」(1948年4月2日)、『毛沢東選集』第4巻
<<
「正しい」認識をまくし立てるようでは、大衆の認識すなわち本来的な意味での常識に訴えることは出来ません。これは、藤田氏が立つ「啓蒙」主義路線の決定的誤りです。「失敗の保証書」であるとさえ言えるでしょう。
ラベル:福祉国家論
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2017年01月18日

元上司にだけ「厳罰」は、むしろ「トカゲの尻尾きり」

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170118-00000076-asahi-soci
>> 電通、自殺社員の元上司ら社員3人処分 役員も報酬減額

朝日新聞デジタル 1/18(水) 16:06配信

 広告大手の電通は18日、新入社員の過労自殺問題で、労務担当の中本祥一副社長ら役員5人を、3カ月間20%の報酬減額処分にすると発表した。電通の長時間労働問題を巡っては、石井直社長が昨年12月に引責辞任を表明している。


(中略)

 電通は18日、高橋さんの上司だった部長級以下3人の社員についても社内規則によって処分したと公表。ただ、「詳細は言えない」(広報)として内容は明らかにしなかった。

最終更新:1/18(水) 18:14
<<
「直属上司に対する処分が甘い、懲戒解雇せよ」という指摘があります。人一人を自殺に追い込んだ点においては、そうした指摘も理解できます。

他方、所詮は中間管理職。上と下との板ばさみという位置づけです。到底処理できないような仕事量であっても、他部署等からの「援軍」を自在に手配できるわけではありません。もちろん、修羅場であってもパワハラをせず、部下をしっかりと指揮できる管理職もいるのだから、元上司を全面的に免罪はできません。しかし、以前にも述べましたが、そもそも上司にしてはいけない人物を昇格させた「上層部の指揮命令権」を見逃してはいけません。元上司を積極的に弁護するつもりはありませんが、そうした構造的な部分にも着目する必要があります。

その意味では、このパワハラ・自殺事件は、一定程度において「会社の組織問題」に起因しているともいえます。その点において、社長が引責辞任なら中間管理職としての元上司に対しては、一段下くらいになるでしょう。元上司にだけ「厳罰」は、むしろ「トカゲの尻尾きり」です。

「自主権の問題としての労働問題」を労働者階級の立場から私は論じてきました。パワハラを擁護するつもりは毛頭ありません。他方、マルクスが正しく指摘するように、資本主義体制における現象は、社会構造の被造物です。その視点は忘れてはなりません。また、チュチェ思想が正しく指摘するように、それを打破してゆくのは、人間の自主的な運動です。パワハラは構造的なものだが、それを打ち破るのは人間自身の自主的な運動なのです。
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2017年01月16日

「36億人対8人」?――悪平等主義者との違いを鮮明に!

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170116-00000015-jij_afp-bus_all
>> 世界人口の半分36億人分の総資産と同額の富、8人の富豪に集中

AFP=時事 1/16(月) 13:01配信

【AFP=時事】貧困撲滅に取り組む国際NGO「オックスファム(Oxfam)」は16日、世界人口のうち所得の低い半分に相当する36億人の資産額と、世界で最も裕福な富豪8人の資産額が同じだとする報告書を発表し、格差が「社会を分断する脅威」となるレベルにまで拡大していると警鐘を鳴らした。

 この報告書は、スイス・ダボス(Davos)で17日から世界経済フォーラム(WEF)の年次総会(ダボス会議)が開催されるのを前に発表されたもの。それによると、世界人口のうち所得の低い半数の人々の資産額の合計と同額の富が、米誌フォーブス(Forbes)の世界長者番付上位の米国人6人、スペイン人1人、メキシコ人1人の計8人に集中しているという。

 この8人の中には、米マイクロソフト(Microsoft)の共同創業者ビル・ゲイツ(Bill Gates)氏、交流サイト(SNS)最大手フェイスブック(Facebook)の共同創業者マーク・ザッカーバーグ(Mark Zuckerberg)氏、インターネット通販最大手アマゾン・ドットコム(Amazon.com)創業者のジェフ・ベゾス(Jeff Bezos)氏が含まれている。


(以下略) <<
いわゆる「99%のための・・・」方面の人々によるレポートです。日本支部のページには、プレスとして概略が掲載されています。なかなか突っ込みどころがある内容です。
http://oxfam.jp/news/cat/press/201799.html
>> 格差に関する2017年版報告書を発表「99%のための経済」
2017/01/16

世界で最も豊かな8人が世界の貧しい半分の36億人に匹敵する資産を所有

オックスファムは、1月17日から20日までスイスで開催される世界経済フォーラム(通称ダボス会議)に先がけて、格差問題に関する最新の報告書「99%のための経済(An Economy for the 99%)」を発表しました。

最新報告書では、富める者と貧しい者の間の格差は、これまで考えられていたよりも大きく、世界で最も豊かな8人が世界の貧しい半分の36億人に匹敵する資産を所有していることが明らかになりました。


(中略)

世界では、10人にひとりが一日2ドル以下でしのぐことを余儀なくされている中、ごく一握りの人たちが莫大な富を有しています。2015年9月の国連総会で合意された持続可能な開発目標(SDGs)は、「誰一人取り残さない」を合言葉に、格差問題をはじめとした地球規模課題への取り組みのための枠組みですが、今日の世界経済は、何億もの人々を取り残しながら回り続けています。格差拡大は、何億もの人々を貧困の中に封じ込め、社会に亀裂をつくり、民主主義をも脅かしています。

納めるべき税金はなるべく回避する。支払うべき賃金はなるべく抑える。カネの力で政治を動かし、経済のルールを自分たちの都合のよいように書き換える。こうした方針を取る大企業や大富豪が、格差の拡大を加速させています。経済によってごく少数の幸運な人々だけではなく、すべての人々が恩恵を受けるためには、その仕組みとあり方に根本的な変革が必要です。

世界は今、99%のための経済を必要としています。経済を私たちの手に取り戻し、「ヒューマン・エコノミー(人間らしい経済)」を実現しなければなりません。

各国政府は、労働者に適正な賃金が支払われるよう保障し、租税回避を阻止するだけでなく、競って法人税減税を推し進めるようなことをやめるために協力、協調しなければなりません。そして、株主の利益だけでなく、従業員の利益と社会への貢献を考える企業への支援を惜しんではなりません。各国政府は、格差を広げてきた時代遅れの経済理論や欠陥が明らかとなった経済政策にしがみつくのをやめ、GDPへの執着を捨てるべきです。既得権と出自が将来を左右するのではなく、才能と勤勉によって未来を切り拓くことができる社会、保健医療や教育など基本的社会サービスが当たり前の社会、すべての人々に資する経済を実現しなくてはなりません。


(以下略) <<
■「36億人対8人」では社会に亀裂が走らないからこそ大問題
まず何よりも、「36億人対8人」では「社会を分断する脅威」とは言えないでしょう。あまりにも少人数過ぎ、また、差が大きすぎます。トップ8と36億人は、元々統合されていない人たちであり、その意味では、「社会に亀裂」など走りようがありません。

社会に亀裂が走るのは、届きそうで届かない格差に日常生活で高頻度で直面し、希望と実態との乖離が大きくなり、バランスが崩れた場合です。たとえば、毛沢東時代の中国のように、大多数が等しく貧しい状態では、共産党幹部のような一部特権階級が居たとしても、一般的に亀裂も分断は意識されません。手の届かない豊かさなど追求しようとも思わず、むしろ「安定」化してしまうものです。他方、豊かさが広まりつつある状況のほうが、隣人との差を意識するようになり、亀裂が生まれます。要求運動が活発化し、社会が不安定化するものです。日本でも、不況・低成長時代よりも好況・高度成長時代のほうが共産党・公明党の党勢が伸びたじゃありませんか。

極端な富の集中は、「社会の不安定化が増大させる」のではなく、「人民大衆の生活向上を求める思想意識を麻痺させる」という意味でこそ、現実的かつ死活的です。届きそうで届かない格差に日常生活で高頻度で直面する状況は、そうした現実を打破しようとする革命意識・革命精神の原動力になる意味で、これこそが「社会に亀裂」を走らせるものです。他方、「36億人対8人」のような極端な富の集中の状況下では、すなわち、人民大衆が「等しく貧しい」社会では、革命意識・革命精神を喚起するキッカケがないので、「安定」化してしまうでしょう。

現状認識・将来展望が決定的に誤っています

■トップ8の素顔を見ると・・・
「『10人にひとりが一日2ドル以下でしのぐことを余儀なくされてい』る中、『ごく一握りの人たちが莫大な富を有』しており、そうした連中は『カネの力で政治を動かし、経済のルールを自分たちの都合のよいように書き換え』」、『格差の拡大を加速させてい』る」という文脈の中でトップ8を挙げています。

しかし、この「トップ8」の名を見てみると、揃いもそろって著名な慈善活動家としての顔をも持っていることに気がつかされます。『資本論』に出てくるような悪徳資本家連中――もっとも、マルクスが正しく指摘しているように、「悪徳資本家」は、個人的人格の問題ではなく経済システムの被造物です――かと思いきや、実態はそうではないようです。

世の中には「世界で最も豊かな8人が世界の貧しい半分の36億人に匹敵する資産を所有している」という「状況」をケシカランとする「正義」の方もいらっしゃるようですが、実際に貧困状態にある一人ひとりの生身の人間の視点――これこそが自称「正義」よりも大切なことです――から見れば、「状況」よりも「使われ方」の方が重要でしょう。

その意味では、たとえば、トップ8にランクインしているマーク・ザッカーバーグ氏は、従来型の寄付に疑問を持ち、自分なりの慈善事業モデルを構築しようとする試みに挑戦しています。批判的意見もあるものの、興味深いアプローチであります。彼なりに貧困問題に挑戦する方法論を模索しています。であれば、彼を吊し上げるまえに、従来型の慈善事業活動家たちは、既存の「寄付」のあり方への疑問に答えるべきでしょう。

■「どう稼いで、どんな風に使っているのか」に重点を置く姿勢を鮮明に――悪平等主義と線引きせよ
トップ8が「幾ら持っているか」よりも、「どう稼いで、どんな風に使っているのか」に重点を置くべきです。「たくさん持っていること」自体が不正なのではなく、「収益源と使途」が焦点なのです。たとえ99パーセント側の中でも特に所得額が下位であっても、その僅かな収益源が苛烈な搾取であれば、トップ8よりも悪質です。せっせと働いた労賃であっても、それで児童買春をしているようでは、トップ8よりも悪質です。

「再分配制度の構築」を強く訴える全体の論旨からみて、「たくさん持っていること」自体を絶対的悪としている訳ではなく、「使い方」の問題を意識していない訳ではないと思います。しかし、分かりにくいこうした構成をした文章だと、「たくさん持っていること」自体を否定的に見る「頭数で割り算」主義者(「悪平等としての共産主義」と親和的です)や、「稼ぐこと」自体をも否定するような勢力を増長させることになります。「たくさん持っていること」は悪いことではありません。まして「稼ぐこと」は、貧困撲滅のために必要な大前提です。

「99%」運動は、「悪平等としての共産主義」者を筆頭とする悪平等主義者にも現に悪用されています。赤旗を立てながら「99%〜」とアジっている連中は日本にも存在します。悪平等主義は、貧困撲滅に資することはありません。私も反貧困であり、だからこそ、悪平等主義とはキチンと線引きすべきだと確信しています。

■「能力主義」の枠を脱し切れていない
既得権と出自が将来を左右するのではなく、才能と勤勉によって未来を切り拓くことができる社会」などと言いますが、トップ8たちには一代で立身出世した人物の人たちが複数含まれていることに気がつかされます。「99%」を云々するのであれば、トップ8たちも最初は「99%側」であり、「才能と勤勉によって未来を切り拓」いて来たわけです。

分配論的に見て、現代社会の歪みには、「能力主義」による部分があります(もちろん、それだけではありません)。「ヒューマン・エコノミー」を謳い、あたかも新世界を提言しているように見えて、実際は「能力主義」の焼き直しに過ぎない主張は、事態を見誤っているという他ありません。

■馬鹿馬鹿しいブルジョア「博愛」主義の政策「提言」
「再分配制度の構築」を強く訴えています。これは私も総論としては賛同するものですが、方法論が稚拙です。

すべての人々が恩恵を受けるためには、その仕組みとあり方に根本的な変革が必要」といいながら、「競って法人税減税を推し進めるようなことをやめるために協力、協調しなければなりません」だの「格差を広げてきた時代遅れの経済理論や欠陥が明らかとなった経済政策にしがみつくのをやめ、GDPへの執着を捨てるべきです」だのと、あくまで「政策的対応」の枠を脱していません。そして、ダボス会議=現社会のエスタブリッシュメントたちのクラブに向けて「陳情」しています。

誠に馬鹿馬鹿しい「提言」です。もはや事態はブルジョア「博愛」主義で救える段階ではありません。「たくさん持っていること」や「稼ぐこと」には肯定的な評価を与えて悪平等主義との決定的違いを鮮明にしつつ、他方で、分配論において、「能力主義」の枠から脱し、また、「お手盛り」を排する――以前から述べているように、自主管理化が必要だと私は考えています。そしてこれは、ブルジョア「博愛」主義的な「陳情」では達成困難な課題なのです。
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2017年01月15日

「規制のあり方」議論の1年――スキーバス転落事故から1年

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170114-00000536-san-soci
>> 軽井沢スキーバス転落 事故から1年 「事故はいまだに進行形」「悲劇で終わらせてはいけない」教育評論家の尾木直樹・法政大教授

産経新聞 1/14(土) 20:42配信

 15人が死亡した長野県軽井沢町のスキーバス転落事故から15日で1年。法政大教授で教育評論家の尾木直樹さん(70)のゼミでは、半数にあたる10人が事故を起こしたバスに乗車し、4人が命を落とした。心と体に傷を負った学生と向き合ってきた尾木さんが、学生たちの今の様子や事故の教訓を語った。


(中略)

 −−改めて今回の事故を受けて訴えたいことは

 「規制緩和は業界が活性化してすばらしいことだが、命の安全だけは徹底して考えなければいけない。国の監査態勢がこんなにずさんだったのが信じられない。15人の命を犠牲にして学ばなければいけないほどのことだったのか。『格安』は命を売っているんだと気づかされた。誰もそこまでは求めていない。適正な利潤をあげ、安全態勢を整えられる値段を出してほしい。“軽井沢の悲劇”で終わらせるのでなく、日本全体がしっかりと学び取らなければいけない」

(池田証志)

最終更新:1/14(土) 20:42
<<
■規制緩和議論の方向性が変わった
悲惨な大事故から1年。この事故は、「規制緩和のあり方」が改めて社会的に議論されるキッカケになりましたが、いま振り返ってみると、いままでの規制緩和議論とは異なる風潮だったことに気がつかされます。

近年の改革の一環で規制が緩和された分野において重大な事故が発生したとき、従前であれば、短絡的に「規制緩和が原因」と結論付けられることが多くありました。たとえば、日本共産党機関紙『赤旗』は、事故翌々日にいち早く、「参入規制強化」を訴える記事を掲載しました。当ブログでは、1月17日づけ「共産党の「参入規制強化論」の真意――スキーツアーバス転落事故の「原因」論から」にて取り上げ、「サービス品質基準に関する規制強化は必要でも、参入規制は関係ない」と批判しました。また、1月24日づけ「主張」(社説)でも同様の論法で、「規制緩和見直し」を主張しました。『SAPIO』2016年10月号は、評論家(←そうだっけ?)の古谷経衡氏が、そうした言説を否定しています

しかし、今回は違いました。上掲引用記事での尾木教授の「規制緩和は業界が活性化してすばらしいことだが、命の安全だけは徹底して考えなければいけない。(中略)『格安』は命を売っているんだと気づかされた。誰もそこまでは求めていない。」というコメントは、市場活用型の規制緩和路線には積極的な評価を下すと同時に、他方で「命の安全だけは徹底して考えなければいけない」としている点において、短絡的な「規制緩和、YESかNOか?!」ではない発展的な見解です。

世論も、共産党ほど短絡的ではない方向にあるようです。事故直後のテレビ朝日系列「報道ステーション」や、ちょうどこの記事を執筆しながら視聴していた日本テレビ系列「真相報道バンキシャ!」では、利用者自身が「安かろう悪かろう」を回避する必要「も」あるという視点で、優良業者の見分け方を報じ、市場淘汰という方法論を以ってバス業者のサービス品質・安全性を担保させる路線を提示しました。

「市場における自由競争」と「安全性の担保」という2つのテーマを両立させる方向に、確実に進みつつあります。二度と同じような事故を起こさず、そして、より自己選択の余地のある質の高い生活を実現させる方向に世の中は進みつつあると言えるでしょう。

■「事前点検」か「事後処罰」か
規制のあり方についての基本的な考え方は、1月15日づけ「a href="http://rsmp.seesaa.net/article/432604589.html" target="_blank">「生産過程における厳格な規制」と「流通過程における最小限の規制」――自由交換経済の真の優越性を踏まえた規制」において述べました。あの記事の論旨ではなかったので積極的には論じませんでしたが、事業者に品質維持のインセンティブを付与させるには「事前点検」と「事後処罰」があります。「事前点検」と「事後処罰」は、どちらが効果的なのでしょうか?

率直に言って、「事後処罰」のほうが低コストかつ効果的です。そもそも、最強の威力を持つ「市場淘汰」は、いうまでも無く「事後処罰」です。ロクでもない品質の商品を提供すれば、二度と消費者から選択されなくなる――そうなれば商売が成り立たなくなるので、事業者には強烈なインセンティブが生じます。

他方、「事前点検」は、優良企業も悪徳企業も等しく点検が必要です。その意味では、網羅的ではあるものの少し無駄が多い。限られた人員で効果的に監督するとなると、「事後処罰」のほうが現実的です。

とは言っても、実際の国民感情を考慮すると、「事前点検」に落ち着くのではないかとも思います。何と言っても、最後まで「BSE全頭検査」を堅持した国ですから(統計科学的には抽出検査で全く問題ないにもかかわらず!)。それはそれでよいと思います。以前から述べているように、経済も政治も全ては「どう生きたいのか」というテーマに服従するもの。国民が「多少無駄があっても確実に確実を期したい」と願うのならば、それはそれでよいのです。仮に「事前点検」に拘ることによって、現行の社会システムを破壊しかねないのであったのならば、「国民が望むから・・・」で済ませるわけには行きません(たとえば、いくら望んでいても計画経済は駄目でしょう)が、「事前点検か事後処罰か」程度であれば、そんなことはないでしょう。

■活発な市場経済+事前点検体制しかない
不要な規制をなるべく減らし、活発な市場経済に委ねる以外に選択肢はありません。これは事実として、国民感情の問題ではありません(計画経済愛好者には残念でしようが、無理なんですって)。他方、「事前点検か事後処罰か」は、国民感情の問題になりえます。活発な市場経済+事前点検体制こそが、現代日本において、現実的かつ国民感情にも合致した路線であるといえます。
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2017年01月14日

「支援」者の「説得」が要保護対象者の生き方の哲学を否定し、彼の心を折った――自主の問題としての福祉

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170114-00000008-mai-bus_all
>> <生活保護>「受給は恥」思いつめた高齢困窮者の悲劇

毎日新聞 1/14(土) 9:30配信

 少ない年金収入なのに、生活保護受給を「恥ずかしいこと」ととらえる高齢者が少なくありません。申請すれば受給できるはずなのに、なぜ頼ろうとしないのでしょうか。そこには制度を「施し」と捉える、悲しいほど真面目な国民性がありました。【NPO法人ほっとプラス代表理事・藤田孝典】

 ◇「生活保護をもらうなら死んだ方がマシ」

 以前ほどひどくないにせよ、申請窓口で生活状況を根掘り葉掘り聞かれる状況は変わりません。

 大学を卒業したばかりのケースワーカーや自治体職員に「家族を頼れないの?」「もうちょっと働けないの?」「なぜこんなに貯金が少ないの?」と聞かれます。理屈は通っていますが、若者の遠慮ない質問は、長く生きた人間の最後のプライドにグサグサと突き刺さります。


(中略)

 また、困窮当事者には、保護されることを「恥ずかしい」と感じる意識が強くあります。私たちが、「生活保護で当面の危機を回避しましょう」「恥ずかしい制度ではありませんから」と提案しても、「いや、恥ずかしい制度ですよ。生活保護受けるぐらいなら、死んだ方がマシです」とか、「生活保護受けるようになったら人間終わりです」と言う人が多いのです。


(中略)

 ◇働けなくなったらすべて自己責任?

 生活保護制度は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と規定する憲法25条の理念に基づいて運営されています。条件さえ満たせば、無差別平等に保護を受けることができます。困窮の原因は問われません。

 にもかかわらず、制度利用に対するバッシングや批判は止まることがありません。私たちの意識のなかに、生活保護とは自立していない人が受けるもの、あるいは怠けていた人が受けるもの、計画性がない人たちが受けるものという感情があるのでしょう。

 勤勉で真面目な国民性ゆえに、一生懸命計画的に生活してきた人ほど、保護を必要とする人たちを枠からの逸脱と見なす傾向が強いように思えます。私たちのような支援団体やソーシャルワーカーには、日本は過度に自立を求める社会、と映ります。その意識は保護を必要とする側も同じです。

 私たちが一緒に生活保護を申請した70代の男性は、無年金状態でした。困窮していた彼はそれでも「ほんとに嫌だ。生活保護だけは嫌だ」と言い続けました。

 「生活保護以外の制度は? お金を貸してくれる銀行はないの?」と何度も尋ねるので、「こんな所得で貸してくれる銀行なんてないですよ」と言うと、今度は「じゃあサラ金から借りたい」と言います。「貸してくれるはずがないでしょう」と説得し、ようやく申請に行きました。

 市役所のケースワーカーですら「こんなに困るまでがまんしなくていいですよ」と言うほどの困窮ぶり。男性は「ありがとう」と涙を流しながら申請書類を書きました。でも結局、自殺を図ってしまいました。

 アパートに残された遺書には、「この年になってお国の世話になるのは本当に申し訳ない。だから命を断ちます」と書いてありました。ケースワーカーに聞いたところ、保護費を受け取りにくるたびに「ほんとに申し訳ない、申し訳ない」と頭を下げ、謝っていたそうです。

 「早く仕事を見つけますから」と謝る男性に、「大丈夫ですから、もう見つけなくていいんです。年金だと思って暮らしてくださいよ」とケースワーカーが言葉をかけても、彼は「いやあ、私は年金を掛けてなくて、本当に自分の落ち度です」と、最後まで自罰的態度を崩しませんでした。


(以下略) <<
■統計データをつけておいた方がよい
思い込み・脳内補完で構図を描き、物事を論じる藤田孝典氏が、ご自身の活動上の経験をもとに主張しています。もっとも、後述するように、藤田氏はどうしても「啓蒙」というスタイルからは脱することが出来ない(思い込み・脳内補完と啓蒙は高い親和性があります)ようですが。私を含めた公的扶助論に関心のある者からすれば、目新しい情報は特にありませんが、社会一般への広報という意味では幾らかの価値がある記事であると言えるでしょう。

ただし、こういったルポ的な記事には、「この事例は全体のうちで、どの程度の頻度で発生しているのか」という統計データを付けておいたほうがよいでしょう。広報目的であれば尚更です。統計が欠落したルポは不正な印象操作の典型的手口ですし、逆に、統計の欠如ゆえに「そういう例もあるのかもしれないけど、ごく一部でしょ? ギャンブル狂いの生活保護受給者は全国的にも事例が多い」といったふうに、「逆印象操作」になってしまう可能性もあります。

■要保護対象者の生き方の哲学に「指導」「啓蒙」しようとしなかったか?
それはさておき、藤田氏の経験に基づく本記事、特に引用部分の70代無年金状態男性のケースを読むと、藤田氏らNPO活動家やケースワーカー等の「支援」者たちが要保護対象者たちに、一種の「啓蒙」を試みていると言わざるを得ないようです。それも、人々が、それまでの人生でを通して積み重ねてきた生き方の哲学に対して、「あなたの生き方は間違っている」「福祉国家の生き方こそが正しいから受け入れなさい」と言わんばかりの「啓蒙的指導」の姿勢。よりによって精神的にも追い詰められている要保護対象者の生き方の哲学を否定し、「啓蒙」を試みるとは・・・一番やってはいけないことをやってくれました。

生活保護以外の制度は? お金を貸してくれる銀行はないの?」とまで言う自立自活志向が強い70代無年金状態男性に対して、あくまで「権利としての生活保護制度」を説く「支援」者たち――この御方はきっと、「『貰う』のは嫌だけど『借りる』ならいい」という考えの御方だったのでしょう。これは、男性が70年かけて培ってきた生き方の哲学でした。男性は、この生き方の哲学を支えに、人生の苦楽を乗り越えてきたのでしょう。生き方の哲学というのは、ヨソ者にとっては理解できなくとも、当人にとっては至宝であり、ヨソ者があれこれ指導できるような軽い・浅いものではないのです。生き方の哲学とは、当人の人格・人生そのものであり、自分史そのものであり、「こういう生き方をしたい」という自主的な願いそのものなのです。

であれば、「早く仕事を見つけますから」という、男性の生き方の哲学に基づく痛切な言葉に対して、ケースワーカーは「大丈夫ですから、もう見つけなくていいんです。」などと言うべきではありませんでした。幸いにして「『借りる』ならいい」という、ある意味で「柔軟」な哲学の御方だったのだから、たとえば、「仕事が見つかるといいですね。でも無理しないでくださいね・・・生活を立て直し、働いて社会に恩返ししようとする、そのお考えは本当に尊敬します」といった具合に返すべきでした。基本的に相手の生き方を否定しない言葉をかけるべきなのです。何か助言するにしても、生き方の哲学のコアはそのままに、「技術的」な助言の体裁とすべきなのです。

■「支援」者の「説得」が男性の心を折った
自殺した男性について「最後まで自罰的態度を崩しませんでした」などと振り返る藤田氏は、いまだに男性の生き方の哲学に対して「啓蒙」的な認識を持っているのでしょう

おそらく藤田氏たちは、「説得」の末に男性が生活保護申請に同意したときは、「うまく考えを改めさせた」と鼻高らかだったことでしょう。しかし、そのとき、当の男性は、自らが人生をかけて形成してきた価値観が崩れたこと、たかだか30歳そこらの若造(藤田氏は結構お若い方です)の「権利としての生活保護」論にも反論できないほどの状況にあることに、内心では失望の渦の中にいたのではないでしょうか? 男性は、打ちのめされたような気持ちだったのだと推察します。

藤田氏らNPO活動家やケースワーカーたちが、本当に男性に寄り添った相談・説得をしていたのか、単なる「生き方の啓蒙」に過ぎなかったのではないか、甚だ疑問であります。

■生き方の哲学の問題に「意見交換」はあっても「指導」はない
藤田氏が「福祉国家の生き方」の立場に立つのは自由ですし、受け入れるかどうかを当人が選択できる決定権があるのならば、「他人に勧める」程度は問題ありません。しかし、「生きることの主人公」はあくまで要保護対象者自身であり、彼ら・彼女らひとりひとりの生身の人間には、人生を掛けて形成してきた、ヨソ者があれこれ指導できるほど軽い・浅いものではない、独自の生き方の哲学があるのです。これは、当人の人格・人生そのものなのだから、徹底的に尊重しなければなりません。

生き方の哲学について意見交換をもちかけ、あわよくば考えを変えてもらうにしても、長い時間をかけ、当人の生き方の哲学を十分に理解した上で、歩み寄るような形での妥協点を見つける方法論――上座から「指導」「啓蒙」とは決して相容れない方法論――を取るべきです。というよりも、当人が長い人生を掛けて形成してきた独自の生き方の哲学を変えるとなると、現実的な落とし所は「歩み寄るような形での妥協点」にならざるを得ません。相手にも考え方があり、特に生き方の哲学は、その人の「こういう生き方をしたい」という願いなのだから、それをヨソ者が一方的に「指導」「啓蒙」などできないのです。これは、生き方の哲学に限らず、世の中の多くの交渉ごとでよく見られる通常の「均衡点」です(普通に生きていれば分かりそうなものですが・・・よほど「指導」「啓蒙」ばかりの日々ってこと?)。

最後まで自罰的態度を崩しませんでした」などとする藤田氏――あくまで自分の考え方が正しいと言わんばかり、「男性は最後まで誤った考え方に固執し、指導を受け入れなかった」と言わんばかりの言い回しを敢えて使う藤田氏が、どういう「相談」「説得」をしていたのか、なんとなく見えてくるような気がします。根底には「指導」「啓蒙」という意識があったと疑わざるを得ません

■「言い方」の問題
藤田氏は記事冒頭で「若者の遠慮ない質問は、長く生きた人間の最後のプライドにグサグサと突き刺さります」などと、自治体担当者の「言い方」を取り上げています。これはこれで正しい指摘ですが、それを言うのであれば、ご自分たちが男性に対して相談・「説得」を行っていた時の「言い方」もまた、当人の生活感情・価値観を踏まえた言い方だったのかという自省が求められます

でも結局、自殺を図ってしまいました」などと、「現代福祉国家残酷物語」風に総括している場合ではないのです。

本当に根がマジメな方が、それゆえに自殺を選択してしまうのは本当に心が痛みます。同時に、「説得」を装った「啓蒙」に終始する自称「支援」者たちへの怒りを禁じえません。人間は単に衣食住の充足だけではなく、「自分の生き方の哲学に対して自主的に生きているのか」という要素もまた衣食住と同等に重要です。生活保護問題は、生き方の問題であり、自主の問題なのです。

藤田氏のように、「人権」や「権利」以外のボキャブラリーが乏しく、「論敵」に対しても「我々側」に対しても「啓蒙」というスタイルしか取れない人物は、結局、「ぼくが かんがえた りそうの せかい」を人々に教育・指導することにしか関心がない「前衛党」型メンタルなのでしょう。私にも実体験があります――批判や懸念を一顧だにせず、「学習不足」だのと指導してきたり、ときに根拠のない中傷まがいのストーリーを脳内でデッチあげる・・・もっとも、データを挙げて反論したり、福祉問題であれば「北欧福祉国家の実績」に言及すると、支離滅裂なことを口にしたり、沈黙するものです。

こういう連中こそが、自主の問題としての福祉にとっての最大の障害物です。「我々側」に対しては、当人の気持ちに寄り添っているわけではないので、どうしてもピンボケになるし、「論敵」に対しても、その疑問に正面から応答しているわけではないので、主張は平行線を辿り、まったく説得にならないのです。

私の個人的経験について述べます。かつて、福利厚生制度を企画・議論していたとき、制度の根底をひっくり返すような指摘を受けました。誤解の典型のような言い分だったものの、ありがちな指摘だったので、「これはキチンとお答えして、ご理解いただかなければならないね」とチームを挙げて準備していたところ、いわゆる「上から目線」で他人を教育・啓蒙するのが大好きな、有名な「困ったさん」が「権利に対する理解が足りていない! こんな言い分は相手にする必要はありません!」と吠え出しました・・・

幸いにして我がチームは総じて、意見のすり合わせを重視する人たちだったので、最終的にはキチンとしたお答えを準備できたのですが、「困ったさん」は別チームに移った後に「前衛党メンタル」丸出しで大暴走し、とんでもないトラブルを起こしていました・・・もし、あのとき「困ったさん」が我がチームの主導権を握っていたら、議論は平行線を延々と辿り、大混乱のうちに企画は頓挫していたことでしょう・・・

■制度設計の問題として
観点を変えて、制度の問題について考えましょう。藤田氏は「日本は過度に自立を求める社会、と映ります。その意識は保護を必要とする側も同じです」などとしますが、これは制度設計の問題です。

生活保護以外の制度は? お金を貸してくれる銀行はないの?」という言葉に代表される、マジメな日本人の自立自活に対する強い思いは、一方においては「悲劇の元凶」ですが、他方においては「優れた国民性」です。本当に支援が必要な人に対して扶助することは当然ですが、皆がみんな他力本願になってしまっては社会が成り立ちません。

以前から繰り返し言及しているように、「北欧福祉国家」と呼ばれる国々は、社会福祉サービスの提供と自立プログラムがセットになっています。「福祉にぶら下がる輩」を制度として防止しなければ、際限がなくなってしまうのでしょう。「上手な制度設計」とは、正にこのことを言います。

日本でも、「福祉にぶら下がる輩」はたびたび問題として取り上げられますが、総じてモラルは高く、国民の自立自活志向は強いと言ってよいでしょう。であれば、「貰う権利がある」ではなく、「生活を立て直し、後日、納税等、何らかの方法で社会に恩返しすればよい」という位置づけを前面に出し、優れた国民性に訴え、さらにそれを基本にした制度設計を行えば、一方において悲劇を防ぎながら、他方において「福祉にぶら下がる輩」をも防ぐことができるでしょう。

制度設計の問題は、また改めて論じます。
ラベル:社会 福祉国家論
posted by s19171107 at 16:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2017年01月11日

日本人の主体性の欠如は、ここまで来ている

毎週水曜日のYahoo!JAPANトップページでは、恋愛に関する過去のYahoo!知恵袋での質問が幾つかピックアップされ、掲載されます。この手の話題は、私も人並みには興味があるし、話の種にもなるので、ブログ執筆とは別にチェックしているのですが、「日本人の主体性の欠如は、ここまで来ているのか・・・」という意味で今回は注目しました。

今日は、滅多に使わない「日記じゃない雑記」カテゴリで、思うところを書き留めておきます。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10160574025
価値観を押し付けてくる彼氏に疲れました。
要するに、交際に関して彼氏(3か月目)との意見が合わないことについての相談事(相談者は女性とのこと)のようです。彼氏側が「常識」という単語をつかって来るそうで、相談者・回答者ともに、「常識」という土俵にたって論じています。

恋愛にまで「常識」を持ち込むとはたまげました。恋愛沙汰は、好みの問題の最たるものであり、「常識」なるものに合わせなければならないものではありません。世間が何と言おうとも「嫌だから嫌」で構わないし、「そんなことを気にする方が嫌」でも構いません。好みが合わないなら袂を分かち、合う人同士で寄り合えばよい類いのものの典型であります。

その意味で、「常識」を振りかざす質問者の彼氏は根本的にズレていますが、それに対して、同じ「常識」の土俵に乗って質疑応答しているYahoo!知恵袋の連中も、本質的に言って、皆揃って同じ穴の狢であると言わざるを得ません。

そんなに「常識」だの「普通」だのが気になるのでしょうか? 合わせないと、自分自身の考えに自信が持てないのでしょうか? 好みの問題にまで「常識」や「普通」に合わせようと、他人の顔色をキョロキョロと伺い、他人の言動にビクビクするとは、深刻なる主体性の欠如と言わざるを得ません。

更に指摘しなければならないのが、皆、「常識」を論じているようで、よくよく読むと個人の感想を述べているに過ぎない点です。個人の私的意見を「常識」などとする論法は、「虎の威を借る・・・」の一種であり、これもまた主体性の欠如であります。

元の質問のケースについて言えば、彼氏側は「常識」という単語を持ち出さず、「俺は・・・と思う」と言うべきでした。それに対して彼女側は「私は・・・と思う」と返すべきでした。そして、他人の意見を求めるのであれば、常識云々ではなく、「皆さんはどうおもいますか?」と問うべきであり、回答者たちも「私もあなたと同意見」とすべきでした。本質的に「常識」の問題ではないのだから、そうした単語は一切使うべきではないのです。

好みの問題にまで「常識」や「普通」を持ち込む思考、実態においては単なる私的意見を「常識」などと言ってのける思考――日本人の主体性の欠如は相当に深刻と言わざるを得ません。

なお、この質問のケースそのものについて述べれば、質問内容を読む限りは、彼氏・彼女双方の考え方の溝は相当あり、歩みよりは難しいのではないかなと私は思います。互いに袂を分かつことになりそうですが、他方、互いに感性を同じくする次のパートナーは見つかるのではないかとも思います。それでよいのです。恋愛も「棲み分け」なのです。

仮に次のパートナーができなくても、そもそも好みの問題なのだから、無理する必要はありません。「どうしても・・・!」という場合であっても、依然として「常識」の問題ではなく、「どうしても手に入れたいあの人」との、一対一の人間同士の問題です。

本当に「どうしても手に入れたいあの人」ならば、自分自身が考えを改めることに苦はないでしょう。また、それ主体性の欠如には当たりません。定見なく風見鶏のように考えを変えているのではなく、「どうしても!」と思うもののために、守るべき価値観に優先順位をつけ現実の状況に自ら調整を試みること、変化する客体に対して、自らの意思であの手この手を尽くし、一部は諦めをつけ、重要なのものを獲得・維持してゆくことは、むしろ主体的であると言えます。いままでの考え・方法に固執することは決して主体的であるとは言えないのです。

思想における主体性の確立は、自らの人生の主人として自主的に生きる上で必要な健全なる思想意識の基盤です。正しく主体を立てる必要があると、思いがけないタイミングで改めて感じさせられた話題でした。
posted by s19171107 at 23:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記じゃない雑記 | 更新情報をチェックする

2017年01月05日

差別意識のない場面で騒ぎ立て「差」を創り上げるのも差別主義

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170105-00000007-jct-soci
>> 初詣「ベビーカー自粛」要請で大騒ぎ 「差別」批判へ寺側の意外な言い分

J-CASTニュース 1/5(木) 18:27配信

 2017年の年開け早々、ネット上で大論争に発展したのが、ベビーカーに赤ちゃんを乗せて大勢が集まる場所で初詣に参拝することの是非についてだ。それが障害者差別、少子化問題といったことにまで議論が広がっていった。

 発端となったのは東京板橋区の乗蓮寺が「ベビーカーご利用自粛のお願い」の看板を出した、とツイートされたこと。乗蓮寺は2年前まではベビーカー優先の寺だった。看板を出したことであらぬ方向まで話題が沸騰していることに住職は頭を抱えている。

■乙武氏「車椅子も同じように思われているのだろう」

 「ベビーカーご利用自粛のお願い」の看板の写真と共に、

  「何の落ち度もない単に小さい子供を連れたママさんが初詣に来て、これを見て嫌な気持ちになると想像できないだろうか。なら松葉杖の人も、車椅子の人も足の悪い高齢者も、視覚障害者も全部遠慮しろと?」

というツイートが出たのは2017年1月1日。それが瞬く間に拡散し、ネット上で大論争に発展した。意見は賛否両論あり、人ごみにベビーカーは邪魔で危険、赤ちゃんがかわいそうだから神社の対応は当然だ、との意見の方が多いのだが、赤ちゃんを持つ親に対し親切でない寺だ、とか、なんとなく気分が悪いから参拝に行かない、などといった反発も出た。そして、看板に「ほじょ犬は除く」とあることから、

  「ベビーカーだけを自粛にしたら 差別になりますよね」

などといった議論にも発展した。乙武洋匡さんはこうした騒ぎに関して1月4日にツイッターで、

  「『混雑時のベビーカーは自粛すべきだ』という意見を耳にするたび、車椅子も同じように思われているのだろうと肩身の狭さを感じる。不寛容な社会になればなるほど、『生きづらさ』を感じる人が多くなっていく」

などと感想を述べた。東京都議会の音喜多駿議員は、「初詣ベビーカー論争」だとし、ブログで、

  「少子化の最大の原因は、わが国が『子どもを産めば産むほど不自由になる社会』であることだと考えています」

と訴えた。


(中略)

ベビーカーに躓いた老人が倒れ怪我をしていた

 寺の住職によれば、2年前まではベビーカー、車椅子での参拝を優先させていて、専用通路を作り、係員を配置し安全に努めるという布陣を取っていた。ところが思わぬトラブルが起こる。ベビーカー1台にファミリーが5人、10人と付いてきて専用通路を通り参拝し始めたのだ。混んでいる時にはお参りするまで1時間待たなければならないため、それを見た参拝客が腹を立て「なんだあいつらは!! 」と寺の担当者と小競り合いになった。

 また、ベビーカーがあれば優遇される寺ということが知れ渡り、小学5年生くらいの子供をベビーカーに乗せて現れる親が相次ぐことになった。親は優先通路に入るとベビーカーをたたみ、降りた子供は敷地内を駆け回った。そこで寺は優先通路を通れるのは押している1人だけ、という制限を設けた。ところが、ファミリーは2手に分かれて参拝することになり、先に参拝を終えたベビーカー組の中には境内近くで合流のため待機する、ということが起こった。

 そしてとうとう一昨年(2015年)、お年寄りがベビーカーに躓き、ベビーカーに抱き着く形で倒れてしまった。幸い軽傷で済んだのだがけが人を出したことには変わりがなく、「警察からの要請」もあり、昨年から「ベビーカーご利用自粛」の看板を出すことになった、という。取材に対し住職は、自分も孫をベビーカーに乗せて散歩に行くのが楽しみなため、自粛の看板を出すのはとても残念だった、としたうえで、ネット上で今回の件が「差別」や「少子化」問題になるのは想像もつかなかったし、それが寺に対する批判にも繋がっているとし頭を抱えていた。

  「あくまでも事故を回避するために設けた看板です。『自粛のお願い』という表現だけでなく、もう少し説明を付けて、理解していただけるようにするべきだったのかもしれません」

と住職は話していた。

最終更新:1/5(木) 20:33
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■問題の本質は「人格」
何のことは無い、問題の本質は「ベビーカー利用者の『他人に対する配慮ができない人格』」だったわけです。「なら松葉杖の人も、車椅子の人も足の悪い高齢者も、視覚障害者も全部遠慮しろと?」だなんて、いったいいつ、誰が言ったのでしょうか? 「ベビーカーだけを自粛にしたら 差別になりますよね」などと、差別でない事柄を「差別だ!」というあなた。あなた自身がが差別主義者です(後述)。

ラッシュ時におけるベビーカー乗車の是非に関する問題もそうですが、問題の本質は、「『人ごみにベビーカーは邪魔で危険』であるから、『混雑時のベビーカーは自粛すべきだ』という論点の是非」ではありません。他者に対して十分に配慮を見せているのであれば、ベビーカー等は何の問題もありません。逆に言えば、他者に対する配慮が十分でない傍若無人な振る舞いを見せるのであれば、どんな事情があっても許容されません。問題の本質はあくまで「その人格」という意味では、以前にも論じた、タトゥー(刺青)問題電車内化粧是非論争と同じです。

単に占有面積が広く、それゆえ「人ごみにおいて邪魔で危険」という意味では、出張用のキャリーバッグや単なる大荷物を持った人物も十分に「邪魔」であり、そうした人物に遭遇するほうがベビーカー等(車椅子含む)と遭遇するよりも遥かに高確率です。毎日のように狭い歩道や駅通路、電車内などで遭遇する、比較的大きなカバンを肩にかけつつ、スマホ画面の世界に入り込んでいる会社員風の人物も、傍から見れば「邪魔」です。ご自分のスマホスペースを強硬に確保しようとする人物(エレベーター内や電車内では多いですよね)には腹立たしさを感じます。また、暴言承知で敢えて述べれば、肥満体の人物はベビーカー等よりも面積を占有するので「邪魔」です(特に電車内の場合、ベビーカー等は専用スペースに収まっているので一般に乗降の妨げにはならないものの、肥満体の乗客の中にはドア前で踏ん張る人がいて、乗降の著しい妨げになることがあるんですよね・・・超迷惑)。たとえ、痩せ型・手ぶらであったとしても、いまここにいる必要性があるとは思えないような時間帯に敢えて現れる人物(長期休み期間に、わざわざラッシュ時間帯に乗車してくる鉄オタ中学生とかね・・・)のであれば、「ラッシュ後にしてくれよ」と思うのであります。

■客観的に見てそ必要性と十分な配慮があればよい
しかし、他者に対して十分に配慮を見せているのであれば、明らかに海外旅行用のスーツケースを狭い歩道や駅通路、満員電車等で引いていたとしても、そこまで問題視されはしません。航空便は、電車ほど頻発しているわけではなく、予定便に間に合わなければならないので、「明らかに必要性のない時間帯」に敢えて外出しているとも思えません(さすがに前泊まで求めるのは行き過ぎでしょう)。その人物にとって客観的に見て必要な時と場所であり、かつ、十分な配慮を持っているのであれば、何の問題もないのです(ちなみに私は、有給・代休・振休等で平日に私用外出する際は、時差外出・迂回乗車・急行ではなく各停利用――どうせ10分くらいしか変わらないし、急いでいないし――するようにしています)。

その意味で、「ほじょ犬は除く」という断り書きは、「その人にとっての必要性」という意味で、当然の例外です。盲導犬や聴導犬といった補助犬は、一般的に利用者にとって「いつ・なんどきにおいてもの最低限に必須なツール」と認識されています。配慮云々・人格云々の問題ではありません。もちろん、たとえ盲導犬・聴導犬と言っても、世の中には犬アレルギー・犬恐怖症もいるのですから、「こちらに おわす方をどなたと心得る?!」(『水戸黄門』風に)という振る舞いを見せるのであれば、話はまったく別です。

ベビーカーも、利用者によっては「いつ・なんどきにおいてもの最低限に必須なツール」であるケースもあるでしょう。保護者の身体的制約のために、我が子を長時間抱き上げ続けることが難しいケースなどは十分にあり得ます。しかし、それは一般的なケースとは認識されていません。「実はベビーカーというのは、視覚障害者にとっての盲導犬、聴覚障害者にとっての聴導犬、身体障害者にとっての車椅子と同様に、多くの幼児の保護者にとって『いつ・なんどきにおいてもの最低限に必須なツール』なのだ!」というのであれば、「社会一般における認識の立ち遅れ」という指摘は成り立ち得ますが、それでもなお「差別」とまで言い張ることはできないでしょう。

■どうしてもというのなら寺務所に相談すれば?
他方、ベビーカーが引き起こしてきた諸々のトラブルは枚挙に暇がありません。記事でも、既にトラブルが起こっているのです。慎重かつ総合的に比較考量すれば、「ベビーカー自粛のお願い」が出るのは、自然な成り行きであるといえます。どうしてもベビーカーを使わなければならないのであれば、あくまで自粛に過ぎないのだから、寺務所に相談すればよい話です。仏道を修めようとしている僧侶たちなのですから、そうした最低限必須な必要性をキチンと伝えれば、仏の御心を以って必ず容認してくれることでしょう。介助を買って出てくれることもあるかもしれません。輩に言いがかりをつけられるのであれば、仏の御心で僧侶たちが必ず守ってくれるでしょう。

■差別意識のない場面で騒ぎ立て「差」を創り上げるのも差別主義
学生時代に私は社会福祉を学んでいたのですが、我が恩師の言葉を思い出します。「差別ではない事柄を『差別だ!』という人は、自分自身『差』を作り上げている。その意味で、その人自身が『差別主義者』なんだ」(要旨かつ私の理解)――本件も、上述したとおり、「差別」とは到底いえない案件です。にもかかわらず、問題を差別の問題と位置づける言説が一定勢力を保っています。問題の本質は、「ベビーカーを利用しているか否か」ではなく「他人に対して配慮できているか否か」という点、すなわち、人格の問題です。まして車椅子だの松葉杖だのとは一言も言っていません。その意味で「みんなを平等に取り扱っている」わけです。そこに敢えて「超理論」で差別を「設定」するのであれば、何も無いところに「差」を創り上げているという意味において、その人自身が一種の「差別主義者」であると言う他ありません。誰も見下してはいない場面なのに、勝手に「見下された!」などと騒ぎたてるのは、その人自身、無意識のうちに「自分は差別される側」という、一種の差別意識があるということです。差別意識は、「差別する側」だけのものではありません。誰も差別していないのに、無意識にも差別意識があったとはいえない状況なのに、相手に差別者のレッテルを貼ったり、あるいは、勝手に被差別意識を持つことは、差別意識を持つことと同等に、社会の融和にとっての障壁であります。

一般人が「隠れ差別主義者」であるのも十分に問題ですが、都民の代表である音喜多都議や、ある程度の社会的地位のある乙武氏が、お寺側の言い分も聞かずに思い込みで語り、「隠れ差別主義者」っぷりを露呈させているのは、看過できない大問題です。相互配慮精神、相手の言い分を聞く姿勢は仏道の基本。他人の話を聞かずにエラそうにお坊さん相手に説教を垂れるんじゃない!
ラベル:社会
posted by s19171107 at 23:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2017年01月02日

キムジョンウン委員長の「新年の辞」で集団主義的・社会主義的競争が総括された!

새해를 축하합니다!
チュチェ106(2017)年が明けました。おめでたくするかは自分次第、自力更生であります。

本年第1回目の更新は、例によって、キムジョンウン委員長の「新年の辞」から。「小林よしおの研究室」様に早くも全文の和訳が公開されているので、引用・活用させていただきます。

「新年の辞」は全体として生産・経済分野への言及に大きなウェイトが割かれています。その中でも、次のくだりは注目に値します。
>>  「70日間戦闘」と「200日間戦闘」期間に、我々は社会主義強国建設のための新しい時代精神を創造し、人民の心の中には党にたいする信頼、社会主義にたいする信念がより深く植えつけられました。全国がるつぼと化した昨年の連続的な徹夜進軍において、すべての党員と勤労者、軍人と青年は、苦難と試練に勇敢に立ち向かう不屈の攻撃精神と、いかなる逆境にあっても党の呼びかけにただ献身と実践をもってこたえる決死貫徹の気概、互いに助け導き合いながら飛躍を遂げる集団主義の威力を余すところなく発揮しました。 <<
互いに助け導き合いながら飛躍を遂げる集団主義の威力」は「新しい時代精神」である――これは、チュチェ105(2016)年3月19日づけ『労働新聞』に掲載された集団主義的競争の熱風を激しく巻き起こし、より高く、より早く飛躍しよう」を指しているものと思われます(全文和訳は、当ブログ6月6日づけ記事に掲載)。この論説は、伝統的に難題だった「集団主義と競争原理の両立」について、「互いに成功を学びあい、助け合い、切磋琢磨してゆく」タイプの競争を社会主義的競争と位置づけ、「弱肉強食の生存競争」としての資本主義的競争との違いを定義した点において、イデオロギー的に重要な論説だったと私は見ています。

前掲6月6日づけ記事で「今後のキムジョンウン経済改革・経済活性化のイデオロギー的な「背骨」になってゆくことでしょう」と述べましたが、「新年の辞」で総括的に言及されたことは、当面は集団主義的・社会主義的競争の路線を継続してゆくということなのでしょう

対外・軍事関係については、南半分の連中が「ICBM最終段階発言」を非難したそうですが、「新年の辞」全体から見ると、そもそも、そうしたテーマへの言及の比重が大変小さいことがわかります。昨年は「祖国統一は、最も緊迫かつ死活的な民族最大の課題」とまで指摘していたのに、今年はパククネ「政権」がガタガタになっている好機であるにもかかわらず、そもそも南側の情勢への言及自体が小さい。「裏で操っている」と見られてはまずいので意図的にトーンを落としているのでしょうか?

いつも気持ちだけで、能力が追いつかないもどかしさと自責の念に駆られながら昨年を送りましたが、今年はいっそう奮発して全身全霊を打ち込み、人民のためにより多くの仕事をするつもりです。」という一文は、「偉大な指導者」としては異例中の異例発言です。共和国南半分・聯合ニュースも早速報じていますが、ナムソンウク教授とキムグンシク教授の分析、どちらが主たる狙いを言い当てているかは、今後の政治指導の動向を見極めてゆく必要があると思います。

集団主義的・社会主義的競争を「互いに助け導き合いながら飛躍を遂げる集団主義の威力」として明示的に総括したこと、そして、異例中の異例たる「自己批判」が、今年の「新年の辞」の注目ポイントでした。

(1月3日18時6分補足)
posted by s19171107 at 16:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする