2017年02月28日

飲酒運転で一番死んでいるのは「運転者自身」;厳罰の抑止力とは?

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170223-00000058-asahi-soci
>> 飲酒運転死者、25%は巻き添え 総数は16年ぶり増加

朝日新聞デジタル 2/23(木) 11:20配信


 全国で昨年、飲酒運転による交通死亡事故は213件で221人が亡くなり、そのうち運転者・同乗者以外の巻き添えの形で亡くなった第三者は、25%の56人にのぼった。警察庁が23日発表した。


(中略)

 死亡した221人のうち、運転していた本人は149人(67%)、同乗者が16人(7%)。第三者は56人(25%)で、内訳は歩行者33人、車13人、バイク9人、自転車1人だった。

朝日新聞社
最終更新:2/23(木) 16:47
<<
やや旧聞に属する記事になってしまいましたが、重要なデータを示しています。

朝日編集部は、「飲酒運転死者、25%は巻き添え」などとタイトルをつけるものの、記事中に掲載されている統計を見ると、なんと飲酒運転による死亡者の3分の2は、運転している当人だそうです。同乗者も含めれば、死亡者の4分の3は飲酒運転を「している側」から出ていることが分かります。意外なことに、飲酒運転によって第三者を死に至らしめるケースよりも、自分自身が傷ついたり死亡したりするケースのほうが多いことが、このデータから読み取ることが出来ます(自業自得の死亡事故なんてニュースにならないか)。

私は旧ブログ時代から、いわゆる「厳罰化」には慎重な姿勢をとってきました。「悪いことをやった人間が罪を償うのは当然」という応報刑的主張が間違っているというわけではありません(いわゆる「人権屋」に与するつもりはありません)。いわゆる「感情屋」的な感情任せ、勧善懲悪原理主義的な刑罰体系の整備にばかり注目する昨今の「厳罰化」の流れは、本当に必要とされている対策を後回しにしかねないという意味における慎重姿勢であります。

このデータを受けてなお、いや、受けたからこそ一層の「厳罰化」を要求する言説が、すでにコメ欄にも現れています。厳罰とは、本質的において、「自己にとっての不利益」を回避するインセンティブを付与する仕組みであり、刑罰の威光による抑止力を期待したものです。最強の抑止力は「自分自身が死ぬリスク」です。それ以上の抑止力などありません。

飲酒運転によって負傷する可能性が最も高いのは「偶然の第三者的通行人」ではなく「自分自身」です。つまり、飲酒運転によって「自分自身が死ぬリスク」が高い確率で存在しているにも関わらず、それでも、少なからぬドライバーは飲酒運転をしているわけです。いったいこれ以上、どのような「抑止力」があるのでしょうか? 飲酒運転に対する「厳罰による抑止力」は、まったく効力が無いとはいいませんし、「悪いことをやった人間が罪を償うのは当然」というのは理解できますが、それに頼りきりにすべきではないと思うのであります。
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2017年02月24日

「白頭の血統(ペクドゥの血統)」における「血」は生物学的な親子関係のことではない

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170223-00000067-san-kr
>> 正男氏暗殺 主要拠点マレーシア、北の異様な閉鎖社会

産経新聞 2/23(木) 7:55配信


(中略)

 ■正恩氏は“兄殺し”韓国が宣伝放送 北住民は正男氏知らず

 【ソウル=桜井紀雄】韓国軍が南北軍事境界線付近に設置した大型拡声器を使って「金正男氏暗殺」について北朝鮮に向けた放送を始めたことが分かった。聯合ニュースが政府消息筋の話として22日までに報じた。対北放送は金正恩政権が最も神経をとがらせる存在で、さらなる南北摩擦を生みそうだ。

 放送は、正男氏が工作機関、偵察総局の要員と推定される北朝鮮人らの指揮下で暗殺されたとし、金正恩朝鮮労働党委員長の指示があったとみられるという内容。先週末から放送が始まったという。

 正男氏が金日成(イルソン)主席の直系である「白頭(ペクトゥ)血統」を引く、金委員長の異母兄である点にも触れている。金委員長の3代世襲は白頭血統を正統性の根拠としており、“兄殺し”の内容が北朝鮮国内に知れ渡れば、金委員長の「最高尊厳」を揺るがすことになる。

 対北放送は2015年8月、非武装地帯(DMZ)の地雷爆発事件をきっかけに11年ぶりに再開。一時停止を挟み、16年1月から続いている。今回の放送を妨害するように北朝鮮側も対南宣伝放送の一部の出力を上げたという。

 脱北者らによると、北朝鮮住民の間で正男氏の存在はほとんど知られてこなかった。だが、幹部や住民らはラジオなどを通じてひそかに韓国などのニュースをチェックしているといい、正男氏殺害事件が起きたことで、皮肉にも金委員長の威信を傷付ける内容が広まる可能性が高い。

最終更新:2/23(木) 10:10
<<
金委員長の3代世襲は白頭血統を正統性の根拠としており、“兄殺し”の内容が北朝鮮国内に知れ渡れば、金委員長の「最高尊厳」を揺るがすことになる」――「白頭の血統(ペクドゥの血統)」という表現における「血」を、生物学的な意味・DNA鑑定で決着がつくような意味で捉えてしまっています。昨今の日本国内における報道・言説ではほぼ100%の確率で、こうした理解にもとづいて「ペクドゥの血統」という表現が使われていますが、朝鮮民主主義人民共和国の指導思想であるチュチェ思想における「血」の意味を踏まえておらず、それゆえに誤った方向に分析していると言わざるを得ません

日本人は、「相手側の情勢分析」が昔から不得手・不十分です。相手側の出方を探るにしても、「相手の立場に自分が立ったとしたら、自分は如何判断するか」という思考から脱し切れていません。結局は「自分本位」。これではまずい。本当に戦略を考えるのであれば、「相手側の普段の発想に従えば、今の状況で彼らは如何行動するか」とすべきです。つまり「相手本位」であるべきなのです。

相手本位で考えるためには、何よりも相手側の行動原理、内的な論理回路を理解しなければなりません。朝鮮民主主義人民共和国の行動を分析するのであれば、それは当然、支持するしないはとは全く別個に、チュチェ思想について学ばなければなりません。一般的な単語であったとしても、チュチェ思想によって解釈され付加された意味合いを踏まえて考えなければなりません「血統」という一般的な表現は、まさにチュチェ思想によって特殊な意味が付加された表現の代表選手です。

朝鮮大学校教授から今や総連幹部に出世なさった韓東成(ハン・ドンソン)氏の著書『哲学への主体的アプローチ―Q&Aチュチェ思想の世界観・社会歴史観・人生観』では、民族という概念の理解に関連して、チュチェ思想における「血縁」の意味を次のように解説しています(同書99ページ)。
>>  血縁の共通性は、民族形成の基礎です。
 ここでの血縁の共通性とは、人種のような生物学的なものではなく、社会歴史的に形成された血縁的関係を意味します。
 血縁的関係は、人々に身体的および心理的な共通感を抱かせ、民族という堅固な集団とに結合させるうえで重要な作用をします
<<
「人種のような生物学的なものではないのは分かったが、じゃあ何なのだ」と言いたくなるような解説ですが、私は独自に「任侠界隈での擬似家族的関係性」になぞらえると、一番シックリくるのではないかと考えています。任侠の世界における「親子」は、生物学的な意味・DNA鑑定で決着がつくような意味ではありません。生物学的には血縁関係にない人間が一定の組織上の儀式(盃事)を経て想像上の一体感を取り結ぶことによって出来上がる関係性を「親子の血縁関係」と称しています。もちろん、チュチェ思想における「血」の概念を「任侠界隈での擬似家族的関係性」と言い切ってしまってよいかどうかは、いましばらく組織社会学的に分析し、いずれは結論を出したいと思っていますが、現時点では近似できる共通の特徴が見られると認識しています。

少なくとも、チュチェ思想での「血縁」は、上述引用のとおり、「生物学的な意味での関係性」ではなく、「想像上の一体感をもたらす関係性」であることは間違いありません。となれば、「ペクドゥの血統」という表現における「血」も同様に、「キムイルソンキムジョンイルキムジョンウンのDNA」という意味ではないと考えるほうが自然な理解です。「人々に身体的および心理的な共通感を抱かせ」るような、特殊な想像上の関係性であると見なすべきです。

朝鮮民主主義人民共和国は、傍から見れば何が如何違うのか理解に苦しむような定義・建前に拘る御国柄です。「血」という、彼らにとっては極めて重要な単語をイイカゲンに使うはずがありません。「ペクドゥの血統」という表現における「血」とは、イデオロギー的に考え抜かれた文脈でのみ使われる、生物学的な意味での親子の血縁関係ではなく、擬似的な意味での「血縁」関係と見るべきです。

そもそも、キムイルソン主席からキムジョンイル総書記に権力が継承されたときも、決して「キムジョンイル同志は、キムイルソン同志の息子だから」という理屈ではありませんでした。キムジョンイル総書記からキムジョンウン委員長への権力継承においても、「ペクドゥの血統」を除けば、「世襲」を感じさせる表現は見られません。もし、「キムジョンウン同志は、キムジョンイル総書記の息子であり、キムイルソン主席の孫だから最高指導者として相応しい」という理屈であれば、一人の人間に対して覚え切れないくらい沢山の敬称・美称をつける御国柄なのだから、もっと積極的に生物学的血縁関係の事実を押し出すはずであり、「ペクドゥの血統」なる妙に婉曲な表現だけに留まるはずがありません

擬似的な意味での「血縁」関係における首領の地位に、なぜキムジョンウン委員長こそが相応しいと言える(ということになっている・している)のかといえば、それはやはり「人民的な風貌を持っているから」ということになるのでしょう。これは、キムイルソン主席からキムジョンイル総書記への権力継承期にも盛んに宣伝されていたことです。

キムイルソン主席が生涯貫き通した、現地指導方式による人民との積極的な交流、包容力のある「広幅政治」のスローガン、人民思いな指導者のイメージ...それらは「社会主義共和国の最高指導者として理想的な姿」であり、キムイルソン主席はそれを完全に体現している(いた)と位置づけられています。たしかに、何処の国でも政治指導者は人民と積極的に交流を深めるべきであり、その意味では、キムイルソン主席の方法は「最高指導者にとっての王道」であると思います。

最高指導者としてのイメージ戦略を推進するに当たって、キムジョンウン委員長が髪型までキムイルソン主席を意識しているのは、キムイルソン主席の「人民的な風貌」を自らの物することこそが、3代目最高指導者としての地位を固める最も重要な課題であると本人が認識しているためでしょう。もし、生物学的な意味での血縁関係が決定的に重要であるのならば、髪型や立ち振る舞いを真似する必要などないはず。生物学的な親子血縁関係の事実を、もっと直接的であからさま、大袈裟でわざとらしい、傍から見れば逆効果なんじゃないかというくらいの「マンセー!」な表現で宣伝しているはずです。しかし、そうした「マンセー!」な宣伝ではなく、髪型や立ち振る舞いの真似に邁進しておられるのがキムジョンウン委員長です。この点を見ても、生物学的な属性ではなく、「人民的な風貌の継承者」という属性が、擬似的な意味での「血縁」関係における首領の地位にとって重要視されていることが分かります。

金委員長の3代世襲は白頭血統を正統性の根拠としており、“兄殺し”の内容が北朝鮮国内に知れ渡れば、金委員長の「最高尊厳」を揺るがすことになる」という、冒頭に取り上げた産経新聞記事の表現に戻りましょう。上述のとおり、「ペクドゥの血統」は生物学的な意味での血統ではないので、その意味では「兄殺し」がイデオロギー的な問題を引き起こすとは考えられません。「最高指導者が個人の暗殺を指示した」というのは西側諸国では衝撃的な内容ですが、朝鮮は革命政権なので、粛清沙汰自体は、特段驚くに値しません。儒教倫理という面においても、すでに叔父のチャンソンテクを処刑していますが、その時には「たとえ肉親であっても・・・」と自ら「尊属殺し」であることを認めていました。

そう考えると、人民の間では、ほとんど知られておらず、人民の期待を密かに背負っていたわけでもない、人民にとってはまったく無関係の「ただの中年男性」が何処か異国の地で急死したからいって、「誰?」「ああ、そうですか」であるし、それが最高指導者の兄だったとしても、すでに叔父が刑死しているのだから「なにを今更」なのです。人民にとっては、「そんなことより今日の闇市の相場」といったところでしょう。
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2017年02月22日

人員不足という労働者階級に有利な状況を生かせていない労組運動

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170221-00000000-jct-bus_all
>> セブン店舗、従業員募集で「ノルマ罰金無し」明記 「当たり前だろ」「吹っ切れたか!」

J-CASTニュース 2/21(火) 7:00配信

 東京・世田谷区とみられる地域に、新たにオープンするコンビニエンスストア大手の「セブン‐イレブン」が、「ノルマ罰金無し」をうたってアルバイト店員を募集していると、ツイッターなどで話題になっている。

 コンビニのアルバイト店員は、人手不足が伝えられている一方で、最近では節分に食べる「恵方巻」に販売ノルマが課せられているなどと、過酷で不当な労働環境が取り沙汰されていた。


(中略)

「こういう表示、いまは必要かも」

 そんなコンビニの人手不足に耐えかねたのか、新規オープンを準備中の東京・世田谷区あたりの「セブン‐イレブン」で、店舗に大きく「従業員募集中」「ノルマ罰金無し」の張り紙が掲げられた。

 近所の住民だろうか、あるツイッター主が2017年2月18日付で

  「これは…」

と、つぶやいたことでわかった。

 ツイッターに公開された写真をみる限りでは、働きやすさをアピールすることで、人材を確保しようとしたように思われる。

 なんとも自虐的というか、受け取りようによっては他の店舗では「ノルマ」も「罰金」もあったかのようにも受けとめられかねない記述に、ツイッターやインターネットの掲示板などでは、

  「やっぱりな... 前はあったんだ!いや、他のセブンはあるってことだ!」
  「店長にはあるってことだろ」
  「罰金って、何に対する罰金なのかはわからないな」

といった「不信感」を募らせている人がいるほか、

  「セブンイレブンがついに吹っ切れたか!」
  「これはなくて当たり前だろ!」
  「こういう表示はいまは必要かもしれませんね」
  「当たり前も書かなければならないご時世すかw」

などの声も寄せられている。


(中略)

最終更新:2/21(火) 8:13 <<
チュチェ105(2016)年12月25日づけ「労働者の関心事に答えず、ブラック企業の利益を無意識に実現させる労組活動家」において触れたように、コンビニでの売り上げノルマ未達成者に対する「お買い上げ強制」については、ユニオン(労働組合)界隈が参入を試み、積極的に活動しているようです。そんななかでの本ニュース。またしても、労組の要求運動によってではなく、労働市場における「見えざる手」が企業・経営者側に改善のインセンティブを与え、自発的な改善措置が取られたようです

労組運動は、通念とは反して実は好況時のほうが活発に現れ成果を挙げるものです。好況時は労働需要に対して供給が少なくなり、労働者階級の立場が相対的に強くなるので、労働者側も「要求してみよう」という気になるし、企業・経営側も「応えないと逃げられる」と判断するので、労使交渉が妥結しやすいのです。一方、不況時は労働需要が減り、労働者階級の立場が相対的に弱くなります。余剰人員が幾ら大声を上げようとも、そもそも「不要な労働力」である以上は企業側には応対する利益が無いので、労組が騒ごうとも成果を上げ難いのです。

昨今、サービス産業は著しい人員不足にあるといいます。つまり昨今は、労働市場における労働者階級の立場は相対的に強いと言い得る状況です。普段であれば、いまこそ労組運動が大衆的レベルで盛んになり、要求活動が展開される場面です。しかし今回、日本の労働者階級は、人員不足という自己に有利な状況を「労組運動を活発化させる」という道を選択するのではなく、「転職」という道を選択し、自己利益を図っているようです。今回のニュースは、その代表的一例とみなすことができるでしょう。

さて、当ブログでは自主権の問題としての労働問題を労働者階級の立場から論じるにあたっては、従来型の要求実現型の労組運動に対しては批判的な立場をとり、より労働市場を活用する形での労働自主化の道を探究してきました。その基本的見地は、チュチェ104(2015)年10月8日づけ「「日本の労働組合活動の復権は始まっている」のか?――労組活動は労働者階級の立場を逆に弱め得る」において述べています。

他方、チュチェ104(2015)年9月23日づけ「「ブラックバイト」の域を超えているのに「団体交渉」を申し込むブラックバイトユニオンの愚」においても述べたように、労働組合には、労働市場における市場メカニズムの作用が労働者階級の利益となるように補助的・補足的に調整する役割はあると考えています。労組活動にはある程度の役割があることは私も認めます。

労組活動にはある程度の役割がある――労組運動には過剰な期待は禁物ですが、壊滅してしまってはいけないので、ある程度の成果を定期的に上げてもらう必要がありますし、労組にはそうする潜在的な力があるし、そうすべきだと思っています。

しかしながら、通常であれば労組運動が活発に見られ成果を上げる状況であるはずの昨今であるにもかかわらず、今回のように労組によってではなく市場メカニズムのほうが成果を挙げています。労組は、有利な状況を生かせていません。もっとも、チュチェ103(2014)年10月6日づけ「最後の決定的な部分は下から積み上げてゆくこと」においても触れたように、このことは今に始まったことではありません。今よりは景気状況が低調にあった時期においても、「ワタミ」や「すき家」といった「ザ・ブラック企業」を窮地に追いやった決定打でした。

結局、今も昔も労組運動は成果を挙げられていないのです。ちょっとマズい状況にあると思います。
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2017年02月15日

キム・ジョンナム氏死亡に関する2題

キム・ジョンナム(金正男)氏死亡(暗殺?)! 私も驚かされたニュースでした。

共和国政府・労働党中央が関与しているのかどうかは分かりません。私は親朝派を以前から自称していますが、もし、「血の粛清」であれば、これには賛同できません。この立場は最初に鮮明にしておかなければなりません。「部下の暴走」にしても、中央の監督責任は免れ得ないでしょう。

もちろん、故人への冥福を祈願しています。

率直に言って、この事件そのものについては、これ以上も以下もありません。議論の余地のない事件だと思いますが、他方、この事件に対する「世論」や「分析」について一筆したためておきたいと思います。

まず、「開明的思考をもったキム・ジョンナム氏の死去は、『最後の砦』を失った気分だ」といった類のコメントについて。死亡の一報以上に驚かされた、まさに「観念論」と言うほかない言説です。

たしかに、人間は客観的世界を変革する力を持ちます。人間は周囲の環境に一方的に影響を受けるのではなく、周囲の環境を能動的に変革します。しかしそれは、個人レベルでの活動でとうにかなるものではなく、人間の集団的な力の賜物です。すこし小難しくいえば、客観的世界それ自体が持つ強烈なベクトルに抗するには、それ相応のベクトルが必要であり、それは多くの場合、個人レベルではカバーしきれないのです。高校数学・物理学でベクトルを学んだ方は、「大きなベクトルを合力的に打ち消すには、それ相応の逆ベクトルが必要だ」と言えばご理解いただけるでしょうか。

朝鮮労働党の「独裁」政権においても、事態は変わりありません。たとえ「独裁」的な最高指導者といえども、この法則からは逃れることは出来ません。たとえ、キム・ジョンナム氏が「後継者レース」から脱落せずに「世襲」を成功されていたとしても、現在の国内外の客観的世界の状況を踏まえるに、彼の「開明的思考」が何処まで開花したのか、はなはだ疑問であります。部下である党幹部たちは、「開明的政策」に付いて来るのでしょうか? 急に「開明的政策」を実施して政権は崩壊しないのでしょうか?

第二の論点に移りましょう。まずは引用。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170215-00000040-yonh-kr
>> エスカレートする正恩氏の恐怖政治 体制脅かす可能性も

聯合ニュース 2/15(水) 12:40配信


(中略)

 金委員長の恐怖政治は、自らを唯一の指導者とする体制を下支えする手段として用いられているが、狂気じみた粛清と処刑が長引けば権力層の内部で不安と動揺が広がり、逆に体制を脅かす「諸刃の剣」になりかねないとの見方もある。

 後継者としての教育を十分に受けておらず、父親に比べ経験もカリスマも不足していた金委員長は、父親の死後、できるだけ早く最高権力者としての地位を固める必要があった。


(中略)

 16年7月には金勇進(キム・ヨンジン)副首相が最高人民会議(国会に相当)で「座る姿勢が悪かった」と指摘され、国家安全保衛部(秘密警察、現国家保衛省)の調べを受けた後に処刑された。今年1月にも、金元弘(キム・ウォンホン)国家保衛相が党組織指導部の調査を受け、大将から少将に降格された後、解任された。

 13日の正男氏の殺害が金委員長の指示だったとすれば、金委員長は自らにとっての潜在的な脅威までも除去したと見なせる。韓国戦略問題研究所のムン・ソンムク統一戦略センター長は、自らを批判し続けてきた正男氏が支配体制を固める上で邪魔になると金委員長が判断し、機会をとらえて殺害したようだとの見方を示した。

 海外に暮らし、自身の唯一指導体制にとっての大きな脅威と認識していなかった正男氏までも除去したのは、金委員長が自らの権力基盤に不安を感じていたせいだとの解釈もある。

最終更新:2/15(水) 14:48
<<
キム・ジョンナム氏「暗殺」を、他の党・政権幹部粛清と同列に扱い、「体制不安定化」というお決まりの結論に導く「韓国」メディアの分析です。いかにも彼ららしい軽薄な分析です。

粛清された党・政権幹部の面々にキム・ウォンホン国家保衛相の名を挿入している聯合ニュース。秘密警察トップを粛清することの意味が理解できていないのでしょう。秘密警察は独裁政治の執行機関であり、超法規的な政治的な力と、それを実施するだけの物理的な力があります。その物理的な力は、時として最高指導部にも振るわれることがあります。

たとえばスターリンは、秘密警察をフルに活用しながらも、その力には警戒していました。スターリンは当初、必ずしも万全ではない権力を固めるために、ヤゴダやエジョフが率いるNKVDを使って1930年代に大粛清を実行しました。それによって権力を固めたスターリンは、のちに彼らを粛清・抹殺しました。しかし、70歳を越えて心身ともに衰えつつあった1950年代に新たな粛清を行おうとした矢先に、逆に秘密警察のトップであったベリヤから「奇襲攻撃」をうけて暗殺されました(近年の研究によると、スターリンの死はベリヤによる暗殺であることは、ほぼ固まりつつあるようです)。

典型的な独裁者であったスターリンの後半生は粛清の歴史といってもよいと思いますが、このように、独裁の執行機関としての秘密警察は、独裁者自身にとっても危険な存在なのです。そのトップを解任することができたというのは、最高指導者が独裁者としての万全なる地位を確立できている証拠であり、「体制は不安定」などではなく、むしろ「体制は磐石」と見なすべきです。

ハッキリ言って、キム・ジョンナム氏の死亡が暗殺だったとしても、昨今の共和国における一連の粛清劇とはまた別線の事態であると見たほうがよいでしょう。党や軍の「老害」たちの粛清と、秘密警察トップの粛清を混同しているような軽薄な「分析」に、さらに権力中枢からは遠いキム・ジョンナム氏の件を強引に「接ぎ木」している、それもその理由を「自らの権力基盤に不安を感じていたせいだとの解釈」程度にしか位置づけられていないわけです。いっそ、「脱北者のキム某氏」の口を借りて「じつはキム・ジョンウンも占いに凝っていて・・・」ということにしておいても、それほど違和感ありません。

キム・ジョンイル総書記存命の時代から、キム・ジョンナム氏には暗殺危機があったといいます。無理矢理に事象をコジツケて、お決まりの結論に導く「韓国」メディアのいつものパターンと見たほうがよいのではないかと現時点では私は考えています。
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2017年02月14日

増員は一人当たりの労働負荷を逆に増やす;「働き方改革」の逆効果

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170214-00000130-jij-soci
>> 労働環境改革に70億円=過労自殺受け、人員増へ―電通
時事通信 2/14(火) 19:18配信

 大手広告代理店の電通は14日、新入社員の過労自殺問題を踏まえ、2017年に社内の労働環境改革費用として約70億円を投資すると発表した。

 200人規模の人員増や一部業務の機械化、デジタル広告分野の人材育成などを行う。同日行った16年12月期の決算発表の中で明らかにした。


(中略)

最終更新:2/14(火) 21:27 <<
■人員の追加投入は、逆に労働時間を延長させる――「ブルックスの法則」
「やらないよりマシな第一歩」という評価が大多数でしょうか? コメ欄にも、そのような投稿が見られます。本当でしょうか?

"Adding manpower to a late software project makes it later."(遅れているソフトウェアプロジェクトへの要員追加は、プロジェクトをさらに遅らせるだけだ)という逆説的な格言があります。1月25日づけ記事においても触れた「ブルックスの法則」です。この法則は、フレデリック・ブルックスという、著名なソフトウェア工学者かつ開発技術者が自身のソフトウェア開発経験をもとに提唱しているものですが、前掲過去ログにおいても述べたように、ソフトウェア業界に限った現象ではなく、知識集約型産業の労働に共通する法則的現象であると考えられます。「常識」とは全く異なり、人員の追加投入は労働時間短縮には資さないどころか、逆効果になるというのです。

「ブルックスの法則」について私は、(1)「人員の追加投入は労働時間短縮には資さないどころか、逆効果になるというケースがあり得る」、そして、(2)「それは経営者の悪意的な経営判断ではなく、生産方法・生産技術的に規定されている客観的法則である」という結論を導出する点において労働問題分析の中核的視点を提供する重要な概念だと考えていますが、このことについて今回は以下のとおり検討してみたいと思います。

■人員の追加投入は、新人教育と相互連絡のための負担を増やす
「ブルックスの法則」は、同氏の『人月の神話』の第2章において展開されています。同書はソフトウェア開発の古典と評されるだけに、ウィキペディアに詳細な紹介記事が存在します。参照しつつ詳しく検討してみましょう。

ブルックス氏は、「遅れているソフトウェア・プロジェクトに人員を投入しても、そのプロジェクトをさらに遅らせるだけである」という格言の根拠として、ウィキペディアにもあるとおり、
 @新しい人員の教育
 A追加の相互連絡
 B再配置そのものに費やされる労力とそれによる作業の中断

以上の3点において必要な労力が増加するといいます。知識集約型産業の労働においては、担当業務を分割して皆で手分けして取り掛かることが困難だというわけです。

私の理解を交えながら、詳しく検討します。
@は重要な要素です。知識集約型産業の労働は、結局「必要な技術・知識を知っているかどうか」「アイディアが思いつくかどうか」が鍵です。従来型の製造業と異なり、知識集約型産業の労働は、頭数があれば仕事が進むものではありません。新しい人員には十分な技術・知識的訓練が必要であり、そして、一人の労働者が一人前になるには、他の業界での教育指導と比較して、相当時間がかかってしまうのです。また、それまでの間は逆に、他の業界での「新人さん」以上にサポートの手間がかかってしまうのです。言語化しにくいタイプの経験的蓄積が絡む場合、さらにコトは深刻です。

平たく言えば、単に人員を増やしたところで「分かっていない人、教育が必要なわかっていない人が増える」だけ。既存タスクに加えて、そうした人々への対応によって逆に古参は負担が増え新参者についても分かっていないだけに長時間にわたる労働になってしまうのであります。

Aも重要な要素です。人員が増えれば相互連絡の手間が増える――平たく言えば「会議ばっかり」状態――のは他の業界もそうですが、マニュアルや一定の「型」が既に確立されている非知識労働とは異なり、知識労働というものは、そうした「型」を破るのが仕事です。新しいものを模索しながら、すり合わせて創造してゆく知識労働は、相互の認識を一致させることが他の業界以上に重要かつ困難なのです。これが労働時間延長・負担増への圧力になります。

ブルックス氏は「1人の妊婦が9か月で赤ちゃんを出産できても、9人の妊婦が1ヶ月で赤ちゃんを出産することはできない」という端的な喩えで表現しています。「個」に依存する部分が大きい仕事では、仕事の分割が困難であり、結局、これらの要素によって全体スケジュールが遅延してしまい、時間短縮にはならないのです。そして、増援のつもりで追加人員を投入することは、新人教育と相互連絡という新しいタスクを生み出し、逆に負担を増やすことになるのです。

なお、事前に必要工数を正確に予測し、教育目的で早くから多めに人員を配置しておくというプランについては、「ブルックスの法則」ではなく私の意見ですが、(1)知識集約型産業は、既に確立されているマニュアルや一定の「型」どおりに生産するものではなく新しいものを創造する産業である点において「水物」であり、必要工数・必要人数の事前予測が難しいこと、(2)担当者の個人的・属人的スキルに左右される部分が大きいので計画を立て難いこと、(3)仕事というものは手を動かさないとなかなか覚えられないものだが、特にソフトウェア開発の場合、上流工程と下流工程でそれぞれ必要とされる人員数はまったく異なるので、教育目的で早くから多めに人員を配置してもプロジェクト初期においては人員過多になってしまい教育目的を果たせないなどの理由で、非効果的であると考えられます。

なお、Bについては他の業界でもよくあることで、それほど特徴的な要素ではないと思われますので、割愛します。

前回の記事でも述べたように、産業への要素投入は経営判断だけではなく生産方法・生産技術的に規定されているケースがあります。知識集約型産業に労働力を大量に投入しても、「分かっていない人」を増やすだけでしょう。電通のような広告業界は、知識労働ではないのでしょうか? 単に人員を追加的に投入したところで仕事が進むような生産方法なのでしょうか? 人員を増やせば解決するわけではないケースではないのでしょうか?

■プロジェクトの遅れを取り戻し、各員の負担を減らすためには
さて、ブルックス氏は、スケジュールの遅れを取り戻し、各員の負担を減らすためには、
 @スケジュールを立て直す
 A仕事の規模を縮小する

という方法論を提唱しています。

ブルックスの法則が広告業界で当てはまるとすれば、カネにモノを言わせて人員を追加投入したところで、それは逆効果になりかねません。「やらないよりマシな第一歩」とは到底いえません。ブルックス氏が提唱しているように「スケジュールを立て直す」ことのほうが大切なのではないでしょうか?

もっとも、「スケジュールを立て直す」というのは、電通といえども一社だけでどうにかなる問題ではありません。以前から述べているように、個別資本は社会的被造物であり、「競争の強制法則」に晒されているのです。社会全体の総体的変革――それを視野に入れなければならないのです。

■生産現場を正しく認識しなおす必要
そのためには、まずは、(1)「人員の追加投入は労働時間短縮には資さないどころか、逆効果になるというケースがあり得る」、そして、(2)「それは経営者の悪意的な経営判断ではなく、生産方法・生産技術的に規定されている客観的法則である」ということを認識する必要があります。

昨今は、労働法・社会政策界隈や、労働組合運動家、経済学者が「働き方」について積極的に発信していますが、彼らの言説において、「ブルックスの法則」を踏まえたものはほとんど見られません。「労働者一人当たりの負担を減らすためには、雇用を増やせば良い」という短絡的な言説が氾濫しています。これは、まさにブルックスがいう「人月の神話」――根底において「人月計算」の発想に根ざしています。これからの時代のメインとなってゆくであろう知識集約型産業の労働は、そうではありません。生産現場を正しく認識しなおすことから始めなければなりません

「労働問題分析の中核的視点としてのブルックスの法則について」シリーズ関連記事
1月24日づけ「「働き方改革」「残業規制」は相対的剰余価値搾取の時代の入口
8月15日づけ「「人に仕事をつける」日本の働き方は「ブルックスの法則」が作用し易い
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2017年02月11日

被害者意識の暴走は自らの客観的位置を分からなくし、怪しげな連中に付け入る隙を与える;沖縄危機

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170206-00082929-okinawat-oki
>> 横柄な本社 「人件費を抑えるための沖縄なんだ…」 元カスタマーセンター33歳

沖縄タイムス 2/6(月) 17:10配信

 「沖縄の人を下に見ているのか、カスタマーの仕事を下に見ているのか。東京本社の社員の態度にそんな意識が表れていた」。新城玲奈さん(33)は、一昨年末まで4年勤めた職場をこう振り返った。

 県内に拠点を置く外資系金融関連会社のカスタマーセンターで金融商品の利用客からの問い合わせに対応する業務を担当した。商品開発を担う本社社員とは電話やメール中心の顔が見えない間柄のため、連携は不可欠。しかし、敬語を使わない、メールの返信が1カ月以上ない、新商品の詳細な説明がないこともよくあった。本社派遣の上司の態度も同様で「仕事を丸投げされた上に、軽くみられている」と感じた。

 時給千円超のパートタイム勤務。福利厚生が手厚く、残業代も休日出勤の手当もついた。外資系らしいラフな雰囲気で、「県内の他のパートに比べたら働く環境は整っていた」。

 一方、東京との給与格差を痛感した。新城さんの月収は基本給15万円に残業代や契約数に応じた成果報酬を加えた手取りが18万〜22万円なのに対して、ライバル会社が東京で募集していた同じ職種の基本給は23万円。「人件費を安く抑えるための沖縄なんだ」。本社社員の態度がふに落ちた。


(中略)

最終更新:2/6(月) 19:10 <<
■被害者意識の暴走
沖縄が置かれている現状に対して、不満感・不平等感・疎外感を感じるのは、一定の程度においては当然であると私は考えています。しかし、コメ欄にもあるように、この記事で語られている「不満」は、沖縄に限った話ではありません。本土における東京本社と地方支社との関係においてもしばしば指摘されていますし、同じ東京都区内においても、横柄な本社に振り回される営業所の悲哀物語というのはザラにある話です。「派遣イジメ」「下請けイジメ」なども、根底においては同じ構図であると言えるでしょう。

被害者意識は、はじめのうちは「加害者としてのアイツらと、被害者としての我々」という構図で把握するものですが、被害者意識が深く激しくなるにつれて「被害者としてのワタシと、それ以外」という構図になって行きがちです。自分以外が見えなくなってゆく・・・自分の客観的立ち位置が見えなくなり、回りで同じように苦しめられている人たちのことを捨象してしまい、あたかも自分だけが苦しんでいるかのように錯覚してしまう。公平性に配慮した解決策を提案できなくなる。ヨタ話に惑わされて、怪しげな連中の運動にいいように利用されてしまう・・・

本土においてもよくある話を、「本土対沖縄」の構図として捉えている沖縄タイムス紙のこの記事は、沖縄県民が持っている(持たざるを得ない状況に追い込まれている)不満感・不平等感・疎外感が暴走し始めていることを示唆しています。沖縄以外が見えなくなっており、「沖縄は、本社・本店の横暴に苦しめられている地方拠点の一つ」という客観的な位置づけが見えなくなりはじめています(あえてそれを狙って煽ろうとしているという可能性も、『沖縄タイムス』ならあり得ますね)。

■怪しげな連中が付け入る隙――「聞こえのよい看板」は当てにならない
こういうときこそ、怪しげな連中の甘言に惑わされ易くなります。たとえば共産党は「営利大企業の横暴に抗し、地域コミュニティでの協同的な経済へのシフトへ!」といった主旨の経済ビジョンを提示します。しかし、被害者意識が暴走している人たちはスッカリと忘れてしまっているかもしれませんが、史上最大規模の下請けイジメで公正取引委員会から指導を受けたのは、日本生協連(日本生活協同組合連合会)、つまり「非営利」を掲げる協同組合組織でした。いかに「聞こえのよい看板」が当てにならないのかを如実に語る出来事でした。

このニュースは発生当時、大きく取り上げられていましたが、私の知り合いのコミュニティ運動信者・生協運動信者の驚き様は、いまでも鮮明に思い出されます。大資本の「横暴」に関しては、見当違いな言い分も含めてかなり舌鋒鋭かった裏返しに、コミュニティ運動にはかなり肩入れしていた人だっただけに、夢にも思って居なかったんでしょう。

■交換経済の本質的法則に照らせば・・・
また、そもそも交換経済活動というものは、「いかにして『ソト』から富を持ち込むか」というものです。交換経済における諸現象を分析する経済学の根本的な探究テーマの一つとして「富とは何であり、その源泉はどこにあるのか」という古典的なモノがあります。歴史上、多くの学説が提示されてきましたが、「富の源泉」については、主たる学説はいずれも表現の差こそあれ、「富は『外部』から持ち込むもの」としています。

貿易差額主義として知られる重商主義は、富を金と定義した上で、輸出を多くし輸入を少なくすることで貿易黒字を出すことで、国内に金を蓄積すべきであるとします。富を「外国」から持ち込み蓄積する経済思想です。

重農主義は、大地から産出される農産物のみが富であるとし、人間が耕作によって投入する労力と、植物自身の生命力や地味、太陽エネルギーといった「人間以外を由来とする諸力」との差分を収穫し、蓄積する思想です。富を「大地(人間以外)」から持ち込み蓄積する経済思想です。

マルクスの労働価値説と、それを基盤とする階級間での剰余価値搾取理論は、改めて説明する必要はないでしょう。なお、昨今は労働価値説の誤りに関する認識が広まりつつあり、マルクス経済学者においても労働価値説を否定するようになってきていますが、置塩信雄の「マルクスの基本定理(Fundamental Marxian Theorem)」によって、剰余価値搾取理論は労働価値説を前提とする必要がないことが明らかになっています。

マルクスの階級的構図とは異なり、市場参加者は相互に対等な関係にあるとした上で、売り手と買い手は取引によってWin-Winになるという結論を導き出すEconomics(いわゆる「近代経済学」)の限界効用価値説においても、富は「外部から持ち込む」ものです。分かり易いように、魚屋の魚と米屋のコメとの物々交換を想定すれば、魚屋は手持ちの魚は不要で、それよりもコメを必要としており、米屋はその逆です。だからこそ、交換動機が発生します。そして、交換によってコメを手に入れた魚屋の効用(満足感)は増えます。米屋も同様です。

財に対する主観的な価値評価が異なる者同士が合意によって交換することによって、満足感を相手から引き出す。Economicsの限界効用価値説も、富を「満足感」とした上で、それを「自分以外」から持ち込み蓄積する経済思想なのです。

被害者意識をコントロールできなくなり始めている人たちが、些細な差異に敏感になり、疎外感を感じるようになるのは、ある意味においては仕方の無いことです。そのような状況に至った背景には、「追い込まれた」という要素も否定できず、沖縄県民ばかりを責めるわけには行きません。

しかし、上述のように、そもそも交換経済活動というものは、「いかにして『ソト』から富を持ち込むか」というものです。ウチとソトの違いがあるからこそ交換活動が成り立ちます。このまま行くと、こうした差異にまで「疎外」を感じているような言説が出かねないような展開を記事は示唆していますが、これは本質的・法則的なものなのだから、なにか「工夫」によって解消できるものではありません。また、「ウチとソトの違い」は、需給双方が対等なケースにおいても法則的にあり得るものですが、こうしたケースでのそれは、「差別意識のない差異」です。仮に、交換が本質的・法則的に抱える「差異」にまで差別意識を見い出すとすれば、それは被害妄想の域であるし、たとえば「沖縄が独立すれば解決される」などという人物がいるとすれば、間違いなく詐欺師です。

どうしても解消すると言い張るのであれば、「交換」を廃絶する必要があります。経済人類学で言うところの「贈与経済」のように、非交換経済のモデルはあり得るものの、半ば考古学的な探究によって解明されているモデルであり、現時点ではとても現代的システムになりえるものではありません(経済人類学的な探求は私は好きですが、現時点での非現実性は認めざるを得ません)。

■イデオロギー的工作活動への「解毒剤」
すでに沖縄の政治的状況は、かなり複雑化しています。管見では、現地生活者に根ざしたものではなく、「イデオロギー的な空中戦」という観が否めませんが、各勢力ともに現地生活者を取り込もうと工作を展開しています。被害者意識の暴走は、そういった連中に付け入る隙を与えるものです。

他方、そういったイデオロギー的工作活動への「解毒剤」は、小市民的な生活経験と、同じような境遇におかれている他人の状況への想像力です。深呼吸して沖縄タイムスの記事を読み返せば、小市民的な生活経験に照らし、そしてそこから展開される想像力の発露によって「おやっ?」と思い直すことでしょう。その生活に根ざした「おやっ?」こそが正しい認識の第一歩です。これを「反知性主義」などというのであれば、私は観念論者の自己弁護とお返しします。
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2017年02月01日

「普通の小市民的生活」への願いが保護貿易主義に繋がっている;自由と公正を両立させたビジョンを提示する他ない

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20170128-00010003-agora-bus_all
>> ノーベル経済学賞受賞者はトランプ反対を提唱せよ --- 中村 仁

アゴラ 1/28(土) 7:00配信

経済原則に逆行する「米国第一」

トランプ氏が新大統領に就任し、米国の政治、外交、経済の大転換を図ろうとしています。特に保護貿易主義への傾斜は劇薬で、これまでの世界経済の原理、原則に逆行します。米国人でほとんどを占められるノーベル経済学賞の受賞者は今こそ結束して、経済原理の基本を守るようトランプ氏に訴えるべきでしょう。


(中略)

ノーベル経済学賞は1969年に、自由主義的民主主義を前提にした学問的な業績を表彰するために、設けられました。授賞者のほとんどが米欧人、その圧倒的多数が米国人です。「貿易のパターンと経済活動の立地」(クルーグマン教授)や労働経済、資産価格形成など、トランプ氏の貿易、産業政策を批判するうえで、参考にできる研究業績はいくらであります。

世界経済の最大の軸は、「比較優位の理論」でしょうか。英国の経済学者、リカルドが1817年に「すべての国にはそれぞれ相対的に優位な産業がある。貿易によって、それぞれが最も得意な分野を生かせば、利益、収益を最大化できる」と、提唱しました。今年はそれから200年という節目の年に、自由貿易に障壁を設け、歴史の歯車を逆回転させようとしているトランプ氏に、警鐘を鳴らすべきです。


(中略)

トランプ氏は就任演説で主張しました。「工場が一つまた一つと閉鎖され、海外に移転され、取り残された何百万という米国労働者が顧みられることはなかった」、「われわれは米国の産業を犠牲して、外国の産業を富ませてきた」、「われわれの製品をつくり、職を奪うという外国の破壊行為から国境を守らなければならない」。ここには、比較優位理論に基づく自由貿易論の姿はありません。

ホワイトハウスで自動車業界首脳と会談した時は、こう発言しました。「製造業を国内に取り戻したい」、「もう一度、製品を国内で作りたい」、「日本に車を売る場合、彼らは販売を不可能にするような措置を取っている」。誤解と誤った認識に満ちています。これに対し、「米国内では既存工場はすでにフル稼働に近い」、「米側に競争力がなかったから、その製品が輸入されていたのだ」、「外国企業との競争がなくなると、価格が上昇する」などの反論が聞かれます。


(以下略) <<
比較優位論に基づく反トランプ政権論――目下の状況を捉えていない、悪い意味で経済「学者」・経済「評論家」的な主張です。

誤解がないようにまず最初に私の立場を述べておきましょう。以前から繰り返し述べているように、私は自由経済の支持者であります。現時点において、自由経済以外に現実的な経済システムは存在しないと確信しています。それは、「自主権の問題としての労働問題」を論じる――労働運動は往々にして「階級闘争」的な方法論が提示されます――に当たっても、ブレることのない基本方針としているところからもご理解いただけるものと思います(もちろん、比較優位論が前提とする仮定の現代的意義・現実性に議論があることも承知していますが、今回は捨象します)。

そんな私が、経済学の主流理論に沿った主張を「悪い意味で経済『学者』・経済『評論家』的」と言うのはどうした訳であるかというと、比較優位論に基づく自由貿易論が指摘する「貿易によって、それぞれが最も得意な分野を生かせば、利益、収益を最大化できる」という結論自体に、いまや疑問が投げかれられており、その価値が揺らいでいるにもかかわらず、そうした「挑戦」に対して答えず、「古い価値観」に基づく主張を繰り返している点にあります。経済「学者」・「評論家」が自明としてきた前提的価値観が揺らいでいるのです。

トランプ氏支持者の声が、ようやく日本国内にも届き始めています。それによると、トランプ氏を支持する「普通のアメリカ人」たちは、普通に働き、ごくごく慎ましい普通の小市民的生活を送ることを望んでいることが分かります。そうした「小市民的生活者」にしてみれば、利益、収益を最大化できる」ことよりも、「普通の小市民的生活」を求めていると言えるでしょう。

比較優位論は、あくまで国際収支的な意味での「利益」であり、GDPの問題であり、国際経済学・国際マクロ経済学の視点です。他方、トランプ氏支持者の視点は、あくまで小市民的生活者の視点であり、ミクロ的な視点です。国際収支上、国際貿易によってGDPがより大きくなると言っても、一人ひとりの生活者の懐が暖まらないのであれば、彼らにとっては関係のないことです。他方、保護貿易・移民規制がGDPを萎ませるとしても、一人ひとりの生活者の懐が「普通の小市民的生活」を送る上でより有用であるのならば、生活者としてはより望ましいものと言えます。

「それは一国の国内における分配の問題であって、国際貿易易の是非のせいではない」という指摘があるでしょうが、現在の自由貿易体制が、そうした「都合の良い話」を実現できていない事実は動かし難いと言わざるを得ません。もちろん、模索する動きがあることは承知しています。自由貿易への支持を明確にしつつも社会的公正への視点も怠らないクルーグマンの立場と研究は、そうした動きの中に位置づけることができます(私もこの立場です)が、やはりまだ成功を収めているとは言えません。他方、いつまでたっても果たされない「自由と公正の両立」ではなく、移民を規制し、身内共同体の枠内でやってゆくというビジョンに現実的な魅力を感じるのは、無理のないことです。日々の生活を送る生活者は、中長期的なビジョンを「悠長」に語っているほど暇ではないのです。

これはアメリカに限ったものでありません。ネトウヨや排外主義者のことではありません。チュチェ105(2016)年2月7日づけ「「なぜ共産党は嫌われているのか?ー設立から振り返る」に、ここ15年の新事情を付け加える」においても述べたように、昨今は日本においても、左翼勢力を中心に、こうした主張への共感が広がってしまっています
>> 伝統的に日本左翼は、たとえば教育現場での「順位づけ」を否定してきたように、競争を否定的に捉える傾向にありました。そうした傾向を保ったままの状況において、近頃、「コモンズ」をはじめとした新しいミクロ的な共同体思想や、「定常社会」といった成長路線とは距離を置いた立場が注目されることが増えて来、そうした波に乗っかる形で日本共産党が自党の政策を位置づけ宣伝する場面がここ数年、とくに東日本大震災以降に見られるようになって来ました(まだ全党レベルの動向というよりは、下級組織レベルの動向ですが)。「地域の中小商工業者・農家が連合し、全国企業を排斥し、高い参入障壁と互助的産業保護によって経済成長は目指さずボチボチやってゆく」といった青写真、ムラ社会的・人民公社的な地域共同体の青写真といえば、私の言いたいことが伝わるでしょうか。 <<

また、少し脱線すれば、そもそも「一国の国内における分配の問題なのか」という問題もあります。「グローバリズムに対抗するためのインターナショナリズム」という立場から述べれば、一国の問題ではありません。「自由貿易推進」と、それに関する付属的諸論点は、いずれもグローバリズムの論点であり、インターナショナリズムではありません(ここを混同し、TPPを筆頭とする自由貿易的主張が、あたかも公正を実現させるものであるかのような主張が、朝日新聞などで展開されていましたが、本当に馬鹿なんじゃないかと思わざるを得ません)。

トランプ氏支持者がどういった生活を求めているのかという現実から出発せず、従来型の「理論」から出発する主張は、まさに悪い意味で経済「学者」・「評論家」的です。そもそも経済は生活の手段に過ぎず、生活というものは「どう生きたいか」という人生観の実践です。トランプ氏支持者が「国富の最大化よりも、一人ひとりの普通の生活」を望むのであれば、それは選択のひとつです。生活が主、経済は従――その逆は本末転倒であり、「自己疎外」です。

「普通の小市民的生活」への願いが保護貿易主義に繋がっている――自由と公正を両立させたビジョンを提示するしかありません。結局、「トランプ文化大革命」は、既存の制度や理論に対する「造反」なのです。そうであれば、古い理論の「啓蒙」ではなく、新しいビジョンを提示するしかないのです。
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