2017年05月06日

「不合理なルールを変えて多様性を実現する」を単なる「何でもあり」にしないために

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170430-00000058-asahi-soci
>> 「地毛証明書」、都立高の6割で 幼児期の写真を要求も

朝日新聞デジタル 4/30(日) 21:39配信


(中略)

 東京の都立高校の約6割が、生徒が髪の毛を染めたりパーマをかけたりしていないか、生まれつきの髪かを見分けるため、一部の生徒から入学時に「地毛証明書」を提出させていることがわかった。勘違いによる指導を防ぐ狙いがあるが、裏付けのために幼児期の写真を出させる例もあり、専門家から疑問視する声もある。

(中略)

 「地毛証明書」「頭髪についての申請書」など呼び方や書式は各校で違うが、多くは保護者が「髪の色が栗毛色」「縮れ毛である」などと記入、押印する形。保護者も参加する入学前の説明会で染色やパーマが疑われる生徒に声をかけ、用紙を渡す例もある。1校当たり年間数人から数十人が提出している。今年度から導入する学校もある。

 多くの都立高は校則で髪の染色やパーマを禁止する。世田谷区の都立高の担当教諭は「染めているのに地毛だと言い張る生徒もいる。保護者の責任で証明してもらう」と話す。背景には、生徒とのトラブルを防ぐほか、私立高との競争が激しく、生活指導をきちんとしていることを保護者や生徒にアピールするねらいもある。

 東京都教育委員会の堀川勝史主任指導主事(生活指導担当)は証明書について「間違って指導し、生徒に嫌な思いをさせないための方法としてはあり得る」とする一方、写真については「学校長の判断だが、写真は個人情報であり人権上の配慮がより必要だ」と語る。


最終更新:5/1(月) 13:24 <<
■ルールと多様性を両立しようとする歴史の進歩
昔であれば「明るい色の髪の毛」は、問答無用で指導の対象だったものですが、きちんとした手続きを踏んで「地毛証明書」を発行してもらえれば、指導の対象から外れる時代になったようです。昔は、生まれつき茶髪の子は、誰の責任でもないのに頭ごなしに否定されて可哀想なものでしたが、頭ごなしの統制の時代から本人の事情を汲む時代へ。進歩です。

この一件、私なんかは「ルールと多様性を両立しようとする歴史の進歩の一例」と好意的にみたのですが、弁護士センセーは事件にしたいようです。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170506-00006057-bengocom-soci
>> 都立高の6割で「地毛証明書」提出させる…弁護士「不合理な差別を助長している」

弁護士ドットコム 5/6(土) 9:09配信

東京の都立高校の約6割が、髪を染めたり、パーマをかけていないかを調べるため、一部の生徒から入学時に「地毛証明書」を提出させていることが朝日新聞で報じられ、ネット大きな話題になった。


(中略)

このニュースに対して、ネットでは、「人権侵害ではないか」などの声が噴出している。これまでも、地毛が茶色い学生や、天然パーマの学生が、学校の指導で不快な思いをしたという体験談は数多く聞かれる

地毛証明書を提出させることに、どんな問題があると考えられるのか。高島惇弁護士に聞いた。

●茶髪や縮毛を問題視する風潮自体に合理的な理由がない


(中略)

なぜ地毛証明書の提出を求めるようになったのか。

「服装や毛髪の乱れは問題行動に繋がる傾向があるとして、入学時から規制していきたいという生徒指導側の強い要望があります。

また、判例上も、生徒の服装や毛髪を規律する校則については、教育を目的として定められたものであって、社会通念上の合理性を有している場合には適法と判断される傾向があるため、毛髪等に関する規制はほぼ無条件に許容されるという誤った考えが、現場で浸透していった側面も否定できません。

しかし、生まれつき栗毛や縮毛の生徒はどの地域にも一定数存在するものであって、そのような生徒に対して黒髪を強要することは、不合理な差別であると言わざるを得ません」

そうであれば、地毛証明書の提出を一律に促すことは、違法といえるのか。

「学校が、『黒髪直毛以外の生徒は学校の秩序を乱すおそれがある』という偏見に基づいている疑いを否定できず、不合理な差別を助長するとして、違法と評価される可能性は十分あります。

毛髪の問題は、日本人の髪がほぼ黒一色という事情から出てくるのかもしれません。

しかし、本来生徒の服装や髪型は、個人のライフスタイルに関わるものであって、茶髪や縮毛を問題視する風潮自体、そこまで合理的な理由がないでしょう。

一昔前に問題視されていた丸刈りについても、今では丸刈り校則を維持する学校がほとんどなくなったように、いずれは茶髪や縮毛に関する規律も緩やかになっていくのではないでしょうか」

最終更新:5/6(土) 10:16
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■自由市場擁護論に現れている多様性を極めて尊重する私の立場
この問題は、「多様性」という最近話題の論点に発展しやすいと思われるので、まず最初に私の立場を鮮明にしておきたいと思います。

私は「多様性」を極めて尊重する立場です。たとえば私は以前から「ライフスタイルの自主性・多様性」という観点から、自由な市場経済の本旨を「個人の選択肢の多様性」であると定義し、それを積極的に擁護してきました。

すこし詳しく理屈を述べておきましょう。人間は、財貨の消費活動によって多様な人格を開花させ、自己実現を図ります(絵の具を使って絵を描いたり、楽器を使って音楽活動を展開したり、新鮮な食材をつかって食生活を豊かにしたり・・・)。個性に豊んだ方法で自己実現を果たすためには、消費手段としての財貨の種類は豊富であるべきだし、多様な消費手段を消費者が自由に買い付け、利用できる状態にする必要があります。市場は人々が消費手段としての財貨を入手する主要な経路です。そうである以上は、多様な人格を開花させ、自己実現を図るにあたっては「消費活動の自由」、すなわち「買い付けの自由」が必要です。それは換言すれば「品揃えの豊かさ」であり、つまるところ「供給の自由」が必要になります。

そうした立場から私は、代表的には以下の記事を公開してきました。
チュチェ102(2013)年12月22日づけ「市場競争の効用は「効率性」よりも「多様性」
チュチェ104(2015)年10月5日づけ「図書館指定管理者制度の本旨は「多様性」
チュチェ105(2016)年12月5日づけ「小うるさい「職人」と棲み分けできる市場経済で本当に良かった!

■多様性は「何でもあり」ではない
他方で、多様性は「何でもあり」とも異なります。その視点から規制のあり方についても述べています。私は可能な限り多様性の余地を確保したいので、以下の通り、「棲み分け」という方法論を展開していますが、これは取りも直さず、一つの空間であまりにも価値観が混在しすぎている「何でもあり」状態では、本当の意味での多様性は実現されないということです。多様性は一定の枠組み、ルールがあってこそ成り立つものなのです。枠組みなき「多様性」は無政府状態です。
チュチェ105(2016)年7月31日づけ「棲み分け原理と価値観の多様性――自由主義的な人間関係の基礎
チュチェ105(2016)年1月15日づけ「「生産過程における厳格な規制」と「流通過程における最小限の規制」――自由交換経済の真の優越性を踏まえた規制

■事件にしたい弁護士センセーの誤読?
さて、私の基本的立場――多様性は最大限認めるべきだが、一定の枠組みが大前提――を述べた上で、『弁護士ドットコム』の記事に目を移しましょう。朝日新聞報道と照らすに、『弁護士ドットコム』の記事は全体的に事実認識が誤っており、それを前提として論じているような気がしてなりません。

高島弁護士は、「生まれつき栗毛や縮毛の生徒はどの地域にも一定数存在するものであって、そのような生徒に対して黒髪を強要することは、不合理な差別であると言わざるを得ません」といいますが、朝日記事では、世田谷区内に立地する都立高校教諭のインタビューの背景として「生徒とのトラブルを防ぐ」と指摘しています。また、都教委の堀川氏の「間違って指導し、生徒に嫌な思いをさせないための方法としてはあり得る」というコメントを掲載しています。つまり、多くの都立高校で行われている「地毛証明書」は、「生まれつき栗毛や縮毛の生徒はどの地域にも一定数存在する」からこそ、校則違反の染髪と区別し、生まれつき明るい髪色をしている生徒を守るために行っているのです。高島センセーは、いったい何を勘違いしているのでしょうか?

■「禁則を敢えて破ってくるその人格」こそが問題視されている
また、「学校が、『黒髪直毛以外の生徒は学校の秩序を乱すおそれがある』という偏見に基づいている疑い」といいますが、これはまた表層的な分析です。染髪に関する校則の問題は、単に髪の毛の色が黒色か茶色かという表面的な問題ではなく、その核心は「禁則を敢えて破ってくるその人格」なのです。

※追記
ちなみに、「黒髪の生徒には『地毛証明書』の提出を求めず、明るい髪色の生徒だけを『狙い撃ち』的に『染髪容疑』を掛けるのは先入観であり差別だ!」「生まれつきでは茶髪なのに、ファッションとして黒髪に染めている生徒もいるだろう!」という意見もあるでしょう(びっくりするほど美しい黒髪の人っていますよねー 真似したくなりますよねー)。理想を言えば、全生徒に提出を要求したほうがよいでしょう。その意味では「地毛証明書提出制度は、徹底されていない」といえます(もっとやれーー)。しかし、これ以上、教育現場の負担を増やせないという現実的事情・事務省力化の切迫した必要性を踏まえれば、明るい髪色の生徒を「狙い撃ち」にして証明書提出を求めるのは、残念ながら現状では致し方ないとも思います。

■非合理なルールだからといって、一般には直ちに破ってよいわけではない
もちろん、「本来生徒の服装や髪型は、個人のライフスタイルに関わるものであって、茶髪や縮毛を問題視する風潮自体、そこまで合理的な理由がないでしょう。」という指摘は、たしかにその通りです。もっと踏み込んでいえば、高校生がタトゥー(刺青)を入れていようと「合理的」な反対理由はありません。タトゥーをしているからと言って必ずしも不良とは限らないでしょう。しかし、「こんなのには合理性はない」と思えたからといって、皆がそれを行動計画の前提的枠組みとして活用しているルールを勝手に破ってはいけません。それは「多様性」という言葉では正当化されないのです。

多様性は一定の枠組みがあって初めて成り立つものであり、枠組みのない多様性は無政府状態自己判断で勝手にルールを破ってはならないのです。その観点で以下の記事について考えてみたいと思います。
http://www.excite.co.jp/News/smadan/20170502/E1493691272331.html?_p=2
>> 『地毛証明書』が教育的に間違っている3つの理由【勝部元気のウェブ時評】

(中略)

■ 頭髪指導は教育ではなく大人による管理
そもそも、日本社会で発生する犯罪の中で、染毛している犯罪者はどれほどいるでしょうか? オレオレ詐欺をするグループも、痴漢の加害者も、会社のお金を横領する人も、政治資金規正法に違反する政治家も、児童買春する人も、皆染毛している人が多数派でしょうか? そんなことはありません。その多くが黒髪です。

本当に必要なことは、子供たちのために彼等が犯罪や社会悪に走るのを防ごうという視点であり、それを防止するための実践的な教育や倫理観の育成のはずです。ですが、生徒指導というのは、本質的なところには切り込まず、単に見た目ジャッジをして善か悪かを峻別しているだけ。

それは、結局のところ、「子供たちのことを考えていない」ということの表れのように思うのです。つまり、あくまで大人が描くあるべき高校生像を強要しているだけ。もはや「教育」ではなく、「管理」という表現が的確でしょう。


(中略)

■ ウワベの頭髪指導はブラック企業にも通じる
一方で、生徒指導を受けてルールを守った子供たちは何を学ぶのでしょうか? 彼等は決して、「非行に走らないこと」を学ぶわけではありません。あくまで「取り繕うことの重要性」「とりあえずパフォーマンスをしておけば良いというウワベを重視する社会に迎合すること」を学ぶのです。

これでは、空気は読むことや長い物には巻かれることに長けるだけで、適切な倫理観が習得できていないため、善悪の判断がつかないままです。「社会に出れば染毛は良くないことだから、高校生のうちから学ぶ必要があると思う」という反論を言う人もいると思いますが、それこそ「とにかくルールだから守らなければならない」という思考停止状態です。

このような思考停止に皆が陥ると、たとえトップが悪かろうが、「これがルールだから」という論理がまかり通ってしまうので、組織全体が毒されるということに繋がります。電通の過労死事件に見られるようなブラック企業の体質が日本でこれほど蔓延るのも、そのような「人権的に間違っているか否かよりもコミュニティ内のルールに従っているか否かが大事」という日本的秩序観が生んだ悲劇ではないでしょうか?


(以下略) <<
あくまで大人が描くあるべき高校生像を強要しているだけ。もはや「教育」ではなく、「管理」という表現が的確でしょう」というのはまったく正しい本質を突いた指摘です。しかし、「ウワベの頭髪指導はブラック企業にも通じる」などと、話の流れをブラック企業問題に接続させることは誤りです。「管理の受容・容認」は「思考停止状態」ではないし、ましてその対極は、「自己判断にもとづくプロセスを踏まないルール破り」ではありません「このルールはおかしい」という合理的思考は尊重すべきですが、「だから破っても良い」には必ずしも直結しません

■急迫なる生命の危険を巡る「緊急避難的ルール破り」と、髪色を巡る「校則破り」が同列であるわけがない
ブラック企業問題を筆頭とする労働問題を「自主権の問題」と位置づけ、その解決を目指して労働者階級の立場から論考してきた私からすると極めて不満が残る論理構成です。過労死問題と髪色指導問題を同列に語るとは、物事の「程度の差」というものが分かっていないと言わざるを得ません。

ブラック企業問題を筆頭とする労働問題は、資本家階級と労働者階級の力関係の問題であり、そして、資本家階級が一方的に押し付けてきた「規則」を巡る問題であるという点では、「大人による管理」と構造は類似していることは認めます。しかし、生命に関する急迫なる危険を避けるための「緊急避難的なルール破り」と、髪色を巡る「校則破り」ごときが同列であるわけがありません。また、そこまで酷くはないケースについても、明らかな違法状態であれば、「法律>就業規則」なのだから従う必要はありません(それこそ「法律という名のルールだから」で済む話です)が、企業の裁量に委ねられている部分については、いくら「資本家階級が一方的に押し付けてきた」といっても、はじめから破るのではなく、労使交渉・団体交渉といったプロセスを踏むべきです。

■およそあらゆるルールを「自己判断」で破ってもよいことになる理屈
緊急避難的なルール破りを基準に、それ以外の一般的規制を議論を展開するようでは、およそあらゆるルールは「自己判断」を理由に破ってもよいことになり、あっという間に無政府状態に陥ることでしょう。こんな理屈がまかり通るようになれば、それこそブラック企業問題においても「わが社の経営上、こんな『岩盤規制』は非合理だ」といったような理屈で何でもありになってしまうでしょう。

繰り返しになりますが、多様性は一定のルールがあってこそのものであり、ルールなき「多様性」は無政府状態に過ぎません。そして、「このルールはおかしい」という合理的思考は尊重すべきですが、「だから破っても良い」には必ずしも直結しないのです。


■髪色を巡っては、いまはまだ社会的コンセンサスが取れていない
『弁護士ドットコム』の記事に戻れば、「一昔前に問題視されていた丸刈りについても、今では丸刈り校則を維持する学校がほとんどなくなったように、いずれは茶髪や縮毛に関する規律も緩やかになっていくのではないでしょうか」といいますが、それはまさに社会的議論がまとまり、コンセンサスが取れてこその話。いまはまだ取れていません。社会的議論の場は作ってゆくべきで、人々の自主性を侵害するような「おかしな規制」は緩和してゆくべきですが、自己判断で勝手に破るべきではないのです。

■「不合理なルールを変えて多様性を実現する」を単なる「何でもあり」にしないために
最近、「多様性」という言葉を以って、さまざまなルール・常識を問い直そうとする動きが活発になってきました(朝日新聞や毎日新聞、東京新聞あたりはかなり積極的ですよね)。このこと自体は私は、社会の自主化を志向したものであり、好ましいものであると見ていますが、他方で、「多様性」ではなく「何でもあり」でしかない言説も増えつつあるように思います。そしてそうした言説は、往々にして「自分には規制の合理的理由付けが思いつかないから」レベルの短絡的な言い分に過ぎなかったりします。少し危険な臭いもします。

「自分には思いつかないから/理解できないから」と述べる人は「自分が馬鹿だから思いつかない/理解できない」という可能性には思いが至らないのでしょうか? 4月21日づけ「「一代限りの生前退位特例法」から見える漸進主義としての保守主義」で述べた「漸進主義としての保守主義」の観点は、ルールの改変に当たって持つべき心構えです。社会的議論は漸進主義的なプロセスの踏み方です。
posted by s19171107 at 17:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする