2017年05月16日

実践の拠り所になる規則・型のない所に「何が適切なのかを考え、行動する力」は育たない

http://www.asahi.com/articles/ASK596T58K59UTIL04Z.html
>> 地毛証明書、必要か 生徒のため?プライバシー侵害?
土居新平、峯俊一平

2017年5月15日07時35分

 「地毛証明書」は生徒のためか、プライバシーの侵害か――。東京の都立高の約6割が導入しているこの制度について、都立高を所管する東京都教育委員会の堀川勝史・主任指導主事(生活指導担当)と、批判的な山梨学院大の荒牧重人教授(子ども法)に話を聞いた。(土居新平、峯俊一平)


(以下略) <<
■十分に練られた都教委主任指導主事のコメント
地毛証明書の件です。都教委の堀川主任指導主事のコメントの詳細は紙面・記事をご確認いただくとして、要旨としては、「調査はあくまで依頼のものであり、回答は任意」「『黒髪直毛』を指導の基準としているのではなく、『生まれながら頭髪』で高校生活を送れるようにするための措置」といったところです。さすが東京都の役人だけあって「十分に練られているな」という感想です。

■悪い意味で教育専門家的な、妥協点を知らない愚劣極まる「理想主義」
他方で山梨学院大の荒牧重人教授のコメント。聞き手(朝日新聞記者)の「学校側は誤った指導を防ぐための措置と説明している」「都教委は規範意識を前面に出した生活指導を実施している」といった質問に対する応答は、5月6日づけ「「不合理なルールを変えて多様性を実現する」を単なる「何でもあり」にしないために」での弁護士センセーのコメントと大差ないレベルで「目新しさ」に乏しいものでしたが、「染めているのに『地毛だ』と言い張る生徒・保護者もおり、『ウソをついたもの勝ちになる』という指摘がある」という質問(擁護志向の甘めな質問を想定していましたが意外と突っ込んでいますね)への回答が見所。悪い意味で「教育専門家だなあ」と言わざるを得ない言説でした。引用しましょう。
>> ―-染めているのに地毛と言い張る生徒や保護者もいて、証明書が無ければ「ウソをついたもの勝ちになる」という声もある
「現場の状況は重々承知している。ただ、現実が厳しいからといって、本来の教育を放棄していいのか。証明書を要求して子どもを管理するのではなく、生徒自身が何が適切なのかを考え、行動する力を身につけさせる指導が必要だ。
(以下略) <<
遥か昔、お左翼連中と繰り広げた教育論議を思い出します・・・自分が思い描く「理想像」を絶対視するものの、理想的教育論の非現実的性を突きつけられるや否や「本来の教育」なるものを持ち出して観念世界に逃げ込む・・・「教育専門家」に限らず、ある種の「理想」を掲げる人たちの悪い癖です。

「理想を掲げるな」などというつもりは毛頭ありません(私のチュチェ思想支持の立場なんて荒牧教授以上の夢想家ですよねw)。しかし、理想は明日明後日に実現するものではないが、日々の生活は連綿と続くものです。「生徒自身が何が適切なのかを考え、行動する力を身につけさせる指導」というのは崇高なる理想的な教育のあり方だと私も思いますが、一朝一夕に実現されるものではありません。「今日の現実」と「明日の理想」との妥協点を探り、双方の立場に配慮しながら、折り合いをつけながら社会は運営してゆくものです。その点、都教委の指導は、以前にも述べましたが、私は、地毛証明書は「時代の進歩」を示していると見ています。都教委はギリギリの妥協点を探り当てたと言えます。「本来の教育」などという判然としないものを持ち出すのではなく、ギリギリの妥協点を積み重ねることによって時代を前進させているのです。

現実との妥協点・折り合いをつけようとしない方法論は、工夫次第で実現できないこともない領域までも殺してしまう愚劣極まる方法論です。そしてそれが実現され得ないことが見えてくるや否や「本来の教育」なる観念論に逃げ込んでいるのです。

■都教委は妥協点を探り当てた
そもそも、都教委は決して「本来の教育を放棄」してなどいません。「ぼくの かんがえた りそうの がっこう」しか最早アタマにない荒牧教授には見えてこないのかもしれませんが、都教委が「黒髪直毛」信者あるいは、単なる事なかれ主義者であれば、「地毛証明書」を制度化するはずがありません。通知の起案、決裁、生活指導教官への指示文書、依頼状の生徒・保護者への送付、生徒・保護者からの回収(時に催促)、機密管理・・・ちょっと考えただけで面倒くさい仕事であることが分かります。

「生活指導ちゃんとやってます!」というアリバイ作りに過ぎないのであれば、黒髪直毛を押し付けた方が遥かに楽です。しかし、実際には、面倒くさいことこの上ない地毛証明書の任意提出を求めている
のです。なんて生徒思いなのでしょう!

■「考える」ための最低限の材料・枠組みもない人たちへの過度な期待
荒牧教授は「証明書を要求して子どもを管理するのではなく、生徒自身が何が適切なのかを考え、行動する力を身につけさせる指導が必要」などとしますが、2点において質問に答えていません。第一に「染めているのに地毛と言い張る」のは生徒だけではなく保護者にもいるというのが聞き手の質問です。「生徒自身が」などと巧妙に応答内容を摩り替えています。

第二に、「生徒自身が何が適切なのかを考え、行動する力」というときの判断基準・行動基準はいったい何なのでしょうか。しばしば、伝統的な価値観に反対する手合いは、代々受け継がれてきた価値観を棄却する代替案として「自分の頭で考える」ということを掲げます。しかし、人間は思考の枠組みが何もないところで思索をめぐらせることは出来ません。そもそも、「考える」という行為は、頭の中にストックしてある知識や知恵を操作する行為であり、「考える」以前に、既存の思考のための枠組みを「知っている」ことが必要です。それは、たとえば科学知識であり、特に社会生活においては、約束事・規則です。

規則のないところに「何が適切なのかを考え、行動する力」は育ちません。「適切」という概念は、「不適切」という領域があり、それと対比することによって浮かびあがってくるものです。まず所与のものとして、適切と不適切との区別がなければならないのです。

「考える」ための最低限の材料・枠組みもない人たちに「自ら考えることによって善悪を判断させる」ことを期待するのは、実際には、「なんでもあり」をもたらすだけでしょう。

■毛主席に学べ!
まずは「型」を習得し、そしてそれを日々の生活の中で実践するようにすべきです。実践の中で特段の矛盾がなければ、それは「型」が客観的な法則に則ったものであると言いえるので、「型」の科学的正しさが証明されたといえます。他方で、実践の中で矛盾に突き当たるのであれば、それは「型」がもはや時代の法則に合致しないことが証明されたといえます。そのとき初めて、次の時代に合致した「型」を探るときなのです。

最後に、毛主席語録から引用したいと思います。観念論的な自称「教育専門家」は学習せよ!
>> 人的正确思想是从那里来的?是从天上掉下来的吗?不是。是自己头脑里固有的吗?不是。人的正确思想,只能从社会实践中来,只能从社会的生产斗争、阶级斗争和科学实验这三项实践中来。
  《人的正确思想是从那里来的?》(一九六三年五月),人民出版社版第一页

人間の正しい思想はどこからくるのか。天からふってくるのか。そうではない。もともと自分の頭のなかにあるのか。そうではない。人間の正しい思想は、社会的実践のなかからのみくるのであり、社会の生産闘争、階級闘争、科学実験というこの3つの実践のなかからのみくるのである。
「人間の正しい思想はどこからくるのか」(1963年5月)
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posted by s19171107 at 00:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする