共和国建国69周年です。世間の関心はもっぱら「核開発」と「ミサイル実験」ですが、
共和国を考える上で今一番重要な論点は、なんといっても経済改革の進展です。■積極的な政策としての市場経済導入改革
現在、
キムジョンウン同志が積極的に推進している
経済改革は「分権化」をキーワードとして説明することができます。
その内容は、各企業所(ミクロ)については、すなわち裁量権限の拡大と独立採算制の導入、経済全体(マクロ)については市場メカニズムの導入と整理できるでしょう。当ブログでも以下の通り、継続的に取り上げてきました。
○チュチェ102(2013)年4月11日づけ「
経済改革」
○チュチェ102(2013)年10月1日づけ「
ウリ式市場経済」
○チュチェ102(2013)年10月7日づけ「
チュチェの市場経済・ウリ式市場経済――共和国の経済改革措置に関する報道簡易まとめ」
○チュチェ105(2016)年6月6日づけ「
朝鮮労働党第7回党大会は経済改革・競争改革を漸進的に継続すると暗に宣言した画期的大会」
○チュチェ105(2016)年7月2日づけ「
分権改革・経済改革の旗印を更に鮮明にした画期的な最高人民会議」
○チュチェ106(2017)年1月2日づけ「
キムジョンウン委員長の「新年の辞」で集団主義的・社会主義的競争が総括された!」
○チュチェ106(2017)年7月27日づけ「
政策としての朝鮮民主主義人民共和国における市場経済化は着実に前進している――韓銀推計という第三者的立場の分析からも明らか」
この経済改革の方向性は、チュチェ105(2016)年6月6日づけ「
朝鮮労働党第7回党大会は経済改革・競争改革を漸進的に継続すると暗に宣言した画期的大会」でも強調したように、
伝統的に難題だった「企業間・個人間の競争」を定式化し、「社会主義的・集団主義的競争」という名でイデオロギー的な位置づけがなされている点、政策として積極的に取り組んでいるものと言うことができます。
また、チュチェ106(2017)年1月2日づけ「
キムジョンウン委員長の「新年の辞」で集団主義的・社会主義的競争が総括された!」でも触れたように、
キムジョンウン委員長自ら、このイデオロギー的定式化を
「新しい時代精神」と指摘している点からも分かるように、相当に高次の位置づけがなされているので、
そう簡単に後退するとは考えにくいものです。
つまり、
現在共和国で進展している市場化の波は、決して「闇市の制御不能な拡大」ではなく、「闇市をしぶしぶ認めている」わけでもなく、
政策として積極的に推進されているものであり、今後も推進されつづけるのであると考えられるのです。
「分権化」という観点から共和国の経済システムの変化を論じたものとして、以下の東洋経済ONLINEの記事が参考になるので、重要部分を抜粋します。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170830-00186095-toyo-bus_all>> ミサイル発射の北朝鮮に圧力だけではダメだ
8/30(水) 6:00配信
東洋経済ONLINE
(中略)
そんな国際社会の圧力に北朝鮮が持ちこたえられるのか。それを判断するには、北朝鮮の経済状況を見る必要がある。1990年代に社会主義圏諸国の崩壊と相次いだ自然災害で、北朝鮮経済は事実上瓦解した。北朝鮮はこの時期(1994〜1997年)を「苦難の行軍」時期と自称する。
■中央集中から地方分散型の経済へ
当時の北朝鮮経済は、中央に集中させる計画経済システムだった。北朝鮮全域で生産された物資を、中央に集中させた後、地方に分散させる構造だ。しかし、突然の自然災害によって、東部地域(江原道、咸鏡道)と西部地域(平安道、黄海道)を結ぶ連結網が大きく毀損した。食糧自給がなされていなかった東部地域は孤立した。一方、工業製品を東部地域に依存していた西部地域は、工業製品不足に苦しめられた。このような状況が3年以上続き、平壌の経済状況に多大な悪影響を与えたのである。
ところが、1998年になって北朝鮮は突然、「強盛大国」論を主張し始めた。東部と西部を結ぶ連結網が3年ぶりに復旧できたためだ。時を同じくして、韓国や米国、日本は、北朝鮮に対する支援を開始。そんな支援を、北朝鮮は単純に無償支援だと受け入れたのではなく、支援を利用して内部システムの整備を始めた。農地整理事業と物流網の整備、鉱山の生産活動の正常化、道路・通信網の再整備などを絶えず推進していった。
ただ、日米韓の支援があったとはいえ、財源が絶対的に不足していたため、時間が長くかかり、目に見えるほどの復旧作業を行えなかった。10年余りという、長い時間をかけて進められた復旧作業の過程において、北朝鮮住民は自ら市場化を進めることになった。ここでいう市場化とは、中央集中式の計画経済システムから、地方分権的な市場経済システムへと転換したことを意味する。
もちろん、北朝鮮当局はこのような市場化を最大限抑制しようとしたが、事実上、黙認することで一貫していた。金正恩政権が始まってからは、北朝鮮住民によって形成された、地方分権型市場システムが全面的に受け入れた。中央で管理する経済特区とは別途に、地方政府が活用できる二十数カ所の経済開発区を指定したのもこのためだ。労働者や各機関のインセンティブを刺激する、圃田担当制(農業)と社会主義企業責任管理制を導入し、市場を事実上許容する措置さえとった。
(中略)
実際に食糧を自主的に解決でき、生活必需品を供給できる程度の軽工業の工場稼働も可能になった。電力でも中央が供給するシステムから地方分権式に変わっている。家庭には太陽光発電や小型発電機などを利用し、最小限の電力供給ができるようになった。さらには、石炭など鉱山の運営が正常化し火力発電所の稼働率が高まっただけでなく、水力を利用した中小型発電所も地域単位で稼働している。総合してみると、最低水準から、自主生存が可能になったということだ。
(以下略) <<
「
中央集中式の計画経済システムから、地方分権的な市場経済システムへと転換」――的確な指摘です。
キムジョンウン経済改革の方向性を端的に言い表しています。
※蛇足ですが、「そんな支援を、北朝鮮は単純に無償支援だと受け入れたのではなく、支援を利用して内部システムの整備を始めた」というくだりには、改めて感心させられました。無償の支援を食いつぶしてしまうような手合い、せっかくの支援にブラ下がる手合いは、国家レベルでも個人レベルでも珍しくないものですが、主体が確立されており、自力更生の精神が骨の髄まで染みている共和国にあっては、無償支援を正しく利活用したわけです。■
キムイルソン時代から柔軟に考えられてきた「社会主義における市場の活用」
ところで、
キムジョンウン同志の経済改革は、いままで市場を廃絶しようと努力してきた共和国が、ある日突然に諦めて方向転換した結果なのでしょうか?
私は、決してそんなことはなく、
「社会主義における市場の活用」は共和国の歴史的な思想的・政策的課題であり、それに対して最近ようやく一定の解答が出てきたのだと考えています。その点において、前掲;東洋経済ONLINE記事の「
北朝鮮当局はこのような市場化を最大限抑制しようとしたが、事実上、黙認することで一貫していた」という一文だけは、正しくないと指摘しておかなければなりません。
初代指導者の
キムイルソン同志は、チュチェ58(1969)年3月1日発表の労作『
社会主義経済のいくつかの理論的問題について 科学・教育部門の活動家の質問にたいする回答』において、農民市場について論じていらっしゃいます。
この労作において
キムイルソン同志は、農民市場を「
立ち後れた商業形態」と仰います。農民市場が合理的な一元的国家計画に組み込まれ得ないためです。チュチェ58年の段階では、まだ自由経済と計画経済のどちらが優れているのかという論点に決着がついておらず、また、計画経済を採用する共和国の方が南朝鮮よりも経済的に豊かだった時代なので、
キムイルソン同志が、農民市場を「
立ち後れた商業形態」と批判されたのは、時代の制約上、仕方なかったと思います。しかし、さすがは
キムイルソン同志。「頭で立っている」どこぞの極左連中とは違います。
一方で農民市場を「立ち後れた商業形態」としつつも、他方で積極的に自然発生的な農民市場を評価されているのです。重要部分を抜粋しましょう。
>> 農民市場とは、協同農場の共同経営と協同農民の個人副業で生産される農産物や畜産物の一部を、農民が一定の場所をつうじて、直接住民に売る商業の一形態であります。農民市場は、社会主義社会における商業の一形態ではありますが、これには資本主義の残りかすが多分にあります。それでは、農民市場の資本主義的な残りかすとはなんでしょうか!
それは、農民市場では、価格が需要と供給によって自然成長的に定められ、したがって、価値法則がある程度、盲目的に作用することです。国家は、農民市場の需要と供給および価格を計画化しません。もちろん国営商業が発展し、農民市場にたいする国家の調節的作用が強まるにつれて、農民市場の自然成長性はある程度制限されるが、社会主義の段階では農民市場を完全になくすことはできません。
(中略)
しかし、社会主義のもとで協同経営が存在し、個人副業生産がおこなわれている以上、農民市場の存在は避けられないことであり、また、それが残っているのは決して悪いことではありません。一部の人は、副業生産物まで国家が買い付けて、計画的に供給すべきだと考えているようですが、それは間違いであり、また実際にそうすることもできません。個人副業生産物はそれを生産した人自身が消費し、残ったものは市場にだして自由に売ったり、ほかの品物と交換できるようにすべきです。協同農場の共同経営で生産した畜産物や工芸作物も、その大部分は国家が買い付けるべきですが、一部は農民に分け与えるべきです。農民は、これを自家消費することもできれば、買付け係に売ることも、農民市場にだして売ることもできるでしょう。必ず買付け係に売れと言うべきではなく、農民が誰にでも自由に売れるようにすべきです。こうすれば、人民の生活上の便宜もはかることができます。
(中略)
社会主義社会に副業生産や農民市場が残っているのは悪いことではなく、むしろよいことです。我々が、まだ人民生活に必要なすべての品物、特にほうきとかパガジ(ふくべ)のようなこまごました日用品や、食肉、卵、ゴマ、エゴマのような副食物などをすべて国家で十分に供給できない条件のもとで、そういったものを個人が副業で生産し、市場にだして売るのがどうして悪いのでしょうか。それが立ち後れた方法ではあっても、すべてを先進的な方法でできないときには、後れた方法も利用しなければなりません。
(中略)
それにもかかわらず、副業生産や農民市場が共同経営に悪影響を与え、利己主義を助長するからと、法令をもって農民市場を廃止するならば、どういう結果になるでしょうか。もちろん、市場はなくなるけれども、闇取引は依然として残るようになるでしょう。農民たちは、副業で生産した鶏や卵をもってよその家の勝手口を訪ね、裏通りを売り歩くことでしょう。そうしているうちに取り締まりを受けて罰金を払わされるか、法の追及をうけることになるでしょう。だから、農民市場を強制的になくして、解決されることはなに一つなく、かえって人民の生活に不便を与え、不必要に多くの人を罪人にしてしまうおそれがあります。
したがって、国家的に人民生活に必要なすべてのものを十分に生産、供給できない条件のもとでは、性急に農民市場を廃止しようとする極左的偏向を厳しく警戒しなければなりません。
それでは、いつになったら個人副業生産と農民市場がなくなるでしょうか。
第1に、国の工業化が実現し、技術が高度に発展して、人民の要求するあらゆる消費物資が豊富になったとき、はじめてそれがなくなるのです。どんな品物でも国営商店で買えるようになれば、誰も、しいてそれを農民市場へ行って買おうとはしないはずであり、また、そのような品物が農民市場で売買されることもないでしょう。例えば、工場で安くて品質のよい化学繊維が多く生産されるならば、人々はわざわざ市場に行って高い綿花を買おうとはしないだろうし、また、一部の農民がそれを高く売ろうとしても、売ることができないでしょう。現在の条件のもとでも、人民の需要をみたしている商品は、農民市場では売買されないし、咸興市のような大都市でも、白頭山のふもとにある胞胎(ポテ)里のような山間の僻地でも、我が国のすべての地域で、同じ価格で実現されます。このように品物が豊富で、同じ価格で実現されるとき、それは供給制と変わりありません。
しかし、人民の需要をみたせない商品は、たとえ国家が唯一的に価格を制定したとしても、闇取引されたり、農民市場で又売りされるということを忘れてはなりません。商店の品物を買いだめしておいて、他人が急に必要になって求めるときに高値で売りつけるような現象があらわれるようになるのです。卵の販売の問題を例にとってみましょう。現在、平壌をはじめ、各地に養鶏工場を建設して卵を生産していますが、まだ人民に十分供給できるほどではありません。そういうわけで、卵も国定価格と農民市場価格とのあいだに差が生ずることになるのですが、これを悪用して又売りする現象があらわれています。
もちろん、だからといって、卵をいくつか又売りした人を罪人扱いにして教化所に送るわけにもいかず、ほかの方法で統制するとしても、販売量を調節するといったようないくつかの実務的対策を立てること以外に方法はありません。もちろん、こうした対策もとらなければなりませんが、そんな対策では商品が一部の人たちに集中する現象をある程度調整できるだけで、それが農民市場で又売りされたり、闇取引される現象を根本的になくすことは決してできません。
この問題を解決するためには、品物を多く生産しなければなりません。産卵養鶏工場をより多く建設し、人民の需要をみたすほど大量に生産するならば、卵の闇取引はなくなるであろうし、農民市場で売買されることもおのずとなくなるようになるでしょう。こうした方法で国家的に人民の需要をみたし、農民市場で売買される商品を一つ一つなくしていくならば、最後には農民市場が不必要になるでしょう。
(以下略) <<
意識的・合理的計画化という未来社会論に照らして農民市場を「
立ち後れた商業形態」としつつも、現実主義的な観点から「
それが残っているのは決して悪いことではありません」と述べ、その理由として、「
人民の生活上の便宜もはかることができるから」と指摘されています。
今日の
キムジョンウン同志の
経済改革の第一目標は、人民生活の向上です。
建国の父が「人民の生活上の便宜」という観点から市場の活用について評価していた点を踏まえれば、キムジョンウン同志が人民生活の向上のために市場を活用するのには、何の障害もありません。
キムジョンウン同志の方法は、キムイルソン同志の方法であるといえます。
また、「
国家的に人民生活に必要なすべてのものを十分に生産、供給できない条件のもとでは、性急に農民市場を廃止しようとする極左的偏向を厳しく警戒しなければなりません」という指摘は
今日においてこそ大いに活きる重要なお言葉です。
キムイルソン同志が前掲労作を発表された約50年前ではまだハッキリはしていなかったものの、集権的・計画的供給の困難性は、副業生産物に留まらないことが今や事実として明白になっています。50年前ではまだ仮説の域を脱していなかったF.A.ハイエクの計画経済批判が、いまや定説になっています。
週刊東洋経済2013年10月12日号の特集「金正恩の経済学」においてインタビュー(p86-p87)にこたえた朝鮮社会科学院教授のリギソン同志は、
キムジョンウン経済改革の目玉である
企業所の裁量権拡大と独立採算制導入の背景について「
国家がすべての企業所や工場を管理し、彼らに対する報酬などの保障が難しくなったことがある」と述べています。
このことは、キムイルソン同志の前掲労作の枠組みの応用であると位置づけることが可能でしょう。「
国家的に人民生活に必要なすべてのものを十分に生産、供給できない」という条件を満たすのであれば、社会主義においても市場的方法の活用は
已む無しなのです。
このように、今日、
キムジョンウン同志が取り組んでいる「計画部分と市場部分とを混在させる試み」は、
キムイルソン同志のチュチェ58年の労作に、
その原型が既に見られると私は考えています。
■
キムジョンイル時代だって「反市場」ではなかった
チュチェ98(2009)年秋のデノミネーションが最も顕著だったように、市場経済化を好ましく思っていなかったと思われがちな前指導者の
キムジョンイル同志についても、そう断定するのは
早計です。
キムジョンイル同志は、
2000年代前半においては経済管理の市場的方法論の導入を模索していたからです。チュチェ91(2002)年の「7.1経済管理改善措置」は漸進的な経済開放政策でした。また、イデオロギー面においては、チュチェ105(2016)年6月6日づけ「
朝鮮労働党第7回党大会は経済改革・競争改革を漸進的に継続すると暗に宣言した画期的大会」でも指摘したように、
キムジョンイル時代に発表された音楽作品や文学作品においては、「個人の営利追求行為」や「個人間の競争」が肯定的に描写されていたのです。
また、地方分散的な経済構造へ大きく転換を遂げた
キムジョンイル時代、「
カンゲ(江界)精神」というものが大きくクローズアップされました。カンゲ精神については、『朝鮮新報』チュチェ97(2008)年2月15日づけが分かりやすく解説しているので、引用します。
http://korea-np.co.jp/j-2008/04/0804j0215-00001.htm>> 慈江道に対する総書記の現地指導は何度も行われたが、その意義がとくにクローズアップされているのは1998年1月の現地指導だ。
総書記は当時、「苦難の行軍」と呼ばれた経済的困難の時期に雪の吹きすさぶ慈江道を訪れ、道庁所在地である江界市を中心に経済部門に対する指導を行った。これを機に慈江道は中小規模水力発電所の建設を積極的に推し進め電力問題を解決するなど、難局打開へ向けた経済再建事業をリードした。慈江道の取り組みは「江界精神」と呼ばれ賞賛された。その後、「江界精神」が経済再建のモデルケースとして全国に広まり、「苦難の行軍」を克服する原動力となったことは周知の事実だ。
国内メディアは総書記の慈江道現地指導10周年に大きな意義を付与し、「江界精神」を再び強調している。
今回、10周年という節目の年に、総書記が江界市をはじめとする慈江道各地を訪れたことは、単なる経済視察を超えた重要な意味合いを持つものとして受け止められた。
今年の3紙共同社説は、経済と人民生活を高い水準に押し上げることで、金日成主席生誕100周年を迎える2012年に「強盛大国の大門を開く」という構想を打ち出した。
「2012年構想」との関連でいえば、今回の慈江道現地指導は「強盛大国」の建設に向けて世界のすう勢を見すえながら、自力更生の原則を堅持するという経済復興の方法論を示したものとして理解することができるだろう。同時に、これらの目標達成のために人びとを奮い立たせるうえでも、重要な意義を持つものだ。 <<
前掲;東洋経済ONLINE記事でも触れられている地方分権式の電力供給システムが「カンゲ精神のモデルケース」と位置付けられ、なおかつ、それは「自力更生の原則」に接続されています。
前掲;東洋経済ONLINE記事では、
共和国経済の地方分権的構造への変化が統制不能な形で展開されているかのように読めますが、もっとも統制が厳しかった
キムジョンイル時代においてさえ、決してそんなことはなく、
「自力更生」という概念を媒介として、依然としてイデオロギー的に管理されていたのです。
※ちなみに、共和国が、そこらへんの凡庸な「社会主義国」と異なるのは、社会主義イデオロギーに付きまといがちな「中央集権」に一辺倒ではなく「自力更生」という概念が存在することだと私は考えています。
「中央集権」しかイデオロギー的なバックボーンがない「頭で立っている」極左的「社会主義」者たちではどうしても対応しきれない事態、小回りが要求される事態についても、「自力更生」の看板を掲げれば柔軟に許容できる点が、共和国政権が命脈を保ち続けることができた一つの要因であると考えています。
これに対して、共和国と同様にイデオロギーが国家存立の唯一のアイデンティティだった東ドイツ政権には「自力更生」という概念がなかったので、計画経済が瓦解に向かいつつあることが明らかでも結局、有効な手を打つことはできませんでした。残念ながら、チュチェ92(2003)年に勃発したイラク戦争以降「先軍政治」に拍車がかかって以降は、何よりも国防が最優先となり、内部引き締めが強化され、市場化に歯止めが掛けられるようになったのは
事実です。
しかし、これは外敵の脅威に対抗するための
非常措置なので、
このことを「本筋」として位置付けることは適当ではありません。また、
「個人間の競争」は、昨年の第7回党大会を目前に控えて70日戦闘が展開されていたチュチェ105(2016)年3月19日づけ『労働新聞』社説「集団主義的競争の熱風を激しく巻き起こし、より高く、より早く飛躍しよう」においてイデオロギー的に完全に定式化されたように、
先軍の時代にあっても生き永らえました。
キムジョンイル同志の時代は、内外の情勢が厳しい非常事態だったので統制が優先されたものの、
あくまで非常措置であり、経済改革の芽が完全に摘まれてしまっていたわけではなかったのです。
このように、
今日の経済改革;「社会主義における市場の活用」は、決して急に湧いてきた話ではなく、共和国では長年にわたって取り組まれてきた重要課題であり、それにようやく一定の解答が出てきたものなのです。
■これからどうなる?
これからの展望について少しだけ触れておきたいと思います。イデオロギーこそが分断国家としての唯一のアイデンティティである以上は、「社会主義的・集団主義的競争」を新しい時代精神とまで位置づけた(今年の「新年の辞」参照)点を鑑みれば、前述のとおり、
現在の改革路線は今後も継続するものと考えられます。
たとえ外部状況が大きく変化しようとも、
たとえばアメリカ帝国主義がまたしても何処かの小国を侵略し、その危機に対抗するために共和国が内部を引き締める必要が発生したとしても、キムジョンイル同志の時代のような経済統制にはならないと考えられます。なぜなら、アメリカ帝国主義と渡り合うための
核開発・ミサイル開発は、市場の活用によって活性化された経済活動からの税収が原資だからです。
カネのなる木;市場を上手く囲い込んで利用しようとすることでしょう。
これらの改革に伴う変化が
社会主義の原則とどのような関連性を保ち続けるのかという点については、私も労作を紐解きながら考察している最中ですが、「社会主義」というイデオロギー自体が未だ変化と発展の途上にある以上は、
「社会主義」の方が現実に対応して変化してゆく可能性もあると考えています。以前から述べているように、朝鮮式社会主義は、試行錯誤の結果から帰納的に形成されているものであり、常に進化し続けています。既に「完成」している「立派な」理屈を演繹的に実践する御国柄ではありません。
とりわけ、
チュチェ思想における社会主義の本質が「大衆路線」と「集団主義」だと位置づけられている点は、分析の切り口になると考えています。「大衆路線・集団主義」は、わりと包括的な原則であり、
政策的裁量幅が大きいものですが、この枠の範囲内で
様々な試行錯誤が今後も展開されてゆくものと思われます。
かつて
キムイルソン同志は、チュチェ54(1965)年9月23日に行った演説『
人民経済計画の一元化、細部化の偉大な生命力を余すところなく発揮するために』のなかで次のように述べていらっしゃいます。
キムイルソン同志もまた、
かなり柔軟な試行錯誤を試みていらしたのです。
>> 計画部門の活動家は、労働力、設備、資材など、生産の諸要素について具体的に把握していなければなりません。
(中略)
これらのことをすべて把握してこそ、現実に合った科学的な計画を立てることができます。ところが、これらすべての要素を具体的に検討し、客観性のある正しい計画を立てるためには、計画委員会委員長や相、企業所支配人など、一人の力では不可能です。いくら聡明な人でも、一人で労働力、設備能力、資材、資金など、生産のすべての要素をことごとく知りつくすことはできないものです。設備が何台だから労働者は何人必要で、機械が何台で従業員は何人いるからどれほど生産できる、といったように机上で立てた計画は、事実上、計画だとはいえません。机上で、一人で生産の予備を探しだすということは不可能なことです。一企業所の生産能力や一地域の商品需要だけでも極めて多様であるのに、まして、国全体の経済生活と関連のある膨大で複雑な生産の諸要素を、幾人かの活動家がどうして正確に反映できるでしょうか。
計画化で官僚主義、主観主義の誤りをおかさないためには、大衆路線を貫徹しなければなりません。大安(テアン)電機工場にたいする指導で最も重要な問題としてかかげたのは、まさに計画化で官僚主義、主観主義をなくし、大衆路線を貫く問題でした。
計画部門の活動家が、計画化で大衆路線を貫くためには、生産現場に出向かなければなりません。現在、各計画局の管下にある企業所は多くないので、企業所の実態を把握するのはさほど難しいことではないはずです。1年のうち、およそ20日か1か月ぐらい現場に行って、労働者とともに働きながら実態を調べてみれば、すべて把握することができます。このように、一度よく調べてカードをつくっておき、変更事項をそのつど書き込んでいけば、いつでも自分の受け持った工場、企業所の状態をはっきりと知ることができるでしょう。
(中略)
しかし、計画を大衆的に討議して作成するというのは、国家計画機関が計画化を積極的に指導せずに、生産者が立案して提出した計画をそのまままとめてもよいということを意味するのではありません。生産者が立てた計画だからといって、すべてが正しく客観性をもつものだとはいえません。(中略)したがって、消極的なものではなく、全国家的な立場に立った動員力のある計画を立てるためには、計画化にたいする国家計画部門の活動家の指導と統制を強化することが必要です。
結論的に言って、人民経済計画化を正しくおこなうためには、計画化で大衆路線を貫き、国家計画機関の主観主義と官僚主義をなくすばかりでなく、計画事業にたいする国家の指導と統制を強化して、生産者の機関本位主義、地方本位主義をも徹底的になくさなければなりません。
この問題を解決する唯一の道は、計画の一元化を実現することであります。
(中略)
このシステムは、計画化において事大主義と教条主義に反対し、我が国の具体的な実情に即してマルクス・レーニン主義の原理を創造的に発展させた独創的なシステムであります。
私は以前、我が国の計画化システムにあった不合理な点をなくすために、すでに数年前からいろいろと考えてきました。
マルクス、エンゲルス、レーニンの著作も読んでみたし、社会主義経済建設を直接指導した経験のあるスターリンの著作も読んでみました。また、外国の計画化システムについてもいろいろと研究してみました。しかし、我が国の実情にかなった合理的な計画化システムは、どのマルクス・レーニン主義の古典にも書かれていなかったし、外国人の書いた本にもありませんでした。我々にはただ、計画化にかんするマルクス・レーニン主義の一般的理論を我が国の現実に即して発展させ、自分の頭で自国の計画化システムを完成していくほか他の道はありませんでした。それで我々は、工場にも出かけて研究し、農村にも出向いていろいろと研究してみました。このような過程で我々は、党の意図と国の全般的な経済状態をよく知っている国家計画部門の活動家が直接現地に出向いて、具体的な生産の潜在力を誰よりもよく知っている広範な生産者大衆と協議して計画を立てるシステムをつくるのが最も合理的であると認め、計画の一元化システムを設けるという結論に達しました。
このシステムは、計画化に偉大なチョンサンリ(青山里)精神とテアン(大安)の事業体系を具現したものであり、中央集権的指導と地方の創意性、プロレタリアート独裁と大衆路線を正しく組み合わせた、最も威力あるシステムであります。計画部門の活動家がこのシステムを立派に運営するならば、工業計画、農業計画、基本建設計画、運輸計画、商業計画、買付け計画をはじめ、人民経済のすべての部門の計画を、党の意図と国家の要求に即して、また地方と企業所の具体的な実情を正しく反映して立てることができるはずです。
(以下略) <<
「
中央集権的指導と地方の創意性、プロレタリアート独裁と大衆路線を正しく組み合わせた、最も威力あるシステム」――チュチェ54(1965)年といえば、ソ連や東欧諸国では、新古典派一般均衡理論や線形計画法といった数理的技法を用いてまで、経済の計画化に躍起になっていた時代です。「科学的な客観法則」とやらに則った「科学的に正しい道筋」を上段から人民大衆に押し付けることが「社会主義経済」だと考えられていた時代です。
そんな時代にあって、
キムイルソン同志は、「大衆路線」という朝鮮式社会主義においては譲ることのできない一線に依拠しながらも、
柔軟な発想で生産現場との協議に基づく経済システムを提唱されていたのでした。
キムイルソン同志の「大衆路線」に則った協議型の経済の計画化は、当時にあっては、きわめて「異端」な方法論です。
しかし、こうした「異端」な方法論を敢えて執行すること、そして、物事の原点に立ち返って考察を深めることによって一見して「異端」なものを正統に位置づけなおしてしまうのが、共和国の伝統なのです。
きっと、
キムジョンウン同志も「それって社会主義?」というような
大胆な新しい方法論を執行しつつ、それを「大衆路線」や「集団主義」の大枠に収める
イデオロギー的定式化を成功させることでしょう。
ちなみに、前掲の
キムイルソン同志の「
これらすべての要素を具体的に検討し、客観性のある正しい計画を立てるためには、計画委員会委員長や相、企業所支配人など、一人の力では不可能です」は、ハイエクの計画経済批判とも通底する部分があります。ハイエクは、このことを根拠に「自由市場の唯一性」を論じました。他方、
キムイルソン同志は、このことを根拠に「大衆路線」を提唱されました。二人の方法論は全く異なるベクトルですが、二人の方法論を相互補完的に定式化することはできないものでしょうか?
もしかすると、先にも触れた、週刊東洋経済2013年10月12日号の特集「金正恩の経済学」におけるリギソン同志(朝鮮社会科学院教授)のコメントは――意識的にそうなったわけではなく、結論的に偶然そうなっただけだと思いますが――事実上、ハイエクと
キムイルソン同志の主張の折衷になっているのかもしれません。
ますます興味深い共和国における経済改革の進展。今後とも注目してゆく所存です。