ロシア10月大革命から100年。あの革命を支持するか否かは別として、世界史の画期的出来事だった割には、盛り上がりに欠けるものです。Yahooニュースを見ても大して記事は上がっていません。
そんななか、国際政治学者の六辻彰二氏が次のような記事を公開しています。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171107-00000001-wordleaf-eurp&p=4「ロシア革命」から100年 世界に今も問いかけるものは?
11/7(火) 6:00配信
THE PAGE
(中略)
■レーニン時代:緩やかな混合体制
権力を握ったボリシェビキ政府は、人々の不満の種だった第一次世界大戦から離脱。その後、モスクワが新たな首都とされ、社会民主労働党が「共産党」に改称されるなど、新たな体制が形になっていった一方、共産主義の波及を恐れた米国や日本など各国が反革命派を支援したこともあり、内戦は1920年初頭まで続きました。この間、干ばつも手伝って経済は壊滅寸前でした。
これに対して、ボリシェビキ政府は「戦時共産主義」と呼ばれる方策のもと、工場の国有化など経済の中央集権化を推進。特に重視されたのは食糧供給の安定化で、そのためにコルホーズ(集団農場)とソフホーズ(国営農場)が設立され、農業の組織化・近代化が図られました。
ただし、地主の土地が没収され、富裕な農民が備蓄食糧の供出を強いられた一方で、「自分で土地を耕す者」の土地所有や、自宅で消費する以外の「残余」を市場に出すことは認められました。部分的とはいえ市場経済を採用することは共産主義からの「逸脱」でしたが、共産主義者への貧農の根深い不信感を前にした「妥協」でもありました。
革命の指導者レーニンは理論家で、「純粋な共産主義」を目指す傾向がありました。レーニンはマルクスが予見したように各国で革命が発生し、「国境を越えた労働者の連帯」によって国家という枠組みが順次「死滅」することを期待していたといわれます。
その一方で、レーニンは理想とソ連経済の実態や農民の生活との妥協を図るほどには現実的だったといえます。その結果、工業の中央集権化と農業における部分的な自由化は、1921年からの新経済政策(NEP=ネップ)でも基本的に引き継がれました。
また、共産党への権力集中や反革命的な人物の検挙も進められましたが、機関紙『プラウダ』で経済政策をめぐる議論が行われるなど、言論の自由が一定のレベルで守られたのも、レーニン時代の特徴でした。
(中略)
しかし、スターリン時代に構築された、ギガント・マニア(巨大狂)と呼ばれる、需要に必ずしも適応しない重厚長大型の経済システムは、冷戦下での米国との核軍拡競争とも相まって国家財政を疲弊させ、1989年の「冷戦」終結、1991年の「ソ連」崩壊へとつながりました。つまり、国家主義的になり過ぎたことはソ連経済の破たんを加速させたといえます。
ただし、ソ連という「実験」は失敗したものの、それは資本主義が万能であることを意味しません。社会主義、共産主義が台頭した19世紀と現代は、資本主義のもとで貧困や格差が広がる点で共通します。ブラック企業や過労死が広くみられる日本でも、「労働者の搾取が資本家の蓄財と技術発展を生む一方、労働者の窮乏化を生む」というロシア革命の問題意識そのものは、いまだに生命力を失っていないといえるでしょう。
■一見して「レーニン主義者のくたばり損ないが負け惜しみを言っている」ようだが・・・
まさしく「一時的妥協」であり、「経済的テロル(戦時共産主義)に必ず戻る」とレーニン自身が書き残しているネップを持ち上げるが、そこに「至る経緯」が完全に欠落している――
レーニンの大量殺人について一切触れていません。
レーニンが「純粋な共産主義」を目指すにあたって行使した「どんな法律によっても、絶対にどんな規則によっても束縛されない、直接暴力で自ら保持する無制限の権力」について言及せずにロシア革命を語るのは、歴史的事実に照らしても、レーニン主義のイデオロギーに照らしても、あまりにも不十分であるというほかありません。
また、「
ソ連という「実験」は失敗したものの、それは資本主義が万能であることを意味しません。社会主義、共産主義が台頭した19世紀と現代は、資本主義のもとで貧困や格差が広がる点で共通します。」とも述べています。こんなもの、レーニン主義者がソ連崩壊から間もない頃から繰り返していた
「負け惜しみ」と同じレベルの言説です。
一見すると、レーニン主義者のくたばり損ないが、都合の悪い部分の責任をスターリンに押し付け、往生際悪く足掻いている典型的ケースであるかのようですが、
記事最末尾の「ロシア革命の問題意識そのものは、いまだに生命力を失っていないといえる」というくだりは注目すべきです。
六辻氏はあくまで「問題意識そのもの」を評価しているに過ぎず、方法論等については「ソ連という「実験」は失敗した」と言明しているわけです。レーニン主義者のくたばり損ないにありがちなことですが、@ソ連が失敗したという事実認識がそもそも怪しかったり、あるいは、A「失敗」だと認めているにも関わらず、その教訓を汲み取れていないので次に生かせていない、というケースがあるものですが、六辻氏の言説をよく読むと、そうではないようです。
■「次の100年」を見据えるにあたっての必須観点――急進主義・設計主義的合理主義を放棄し、漸進主義を採用する
方法論に関わる考え方の問題について、六辻氏は今年2月に「
ガーナは「チョコレートの国」か? チョコレートにみる「矛盾との向き合い方」」という素晴らしい記事を公開なさっています。
取り上げているテーマはロシア革命とは全く異なるものの、世界史の画期的出来事であったロシア革命によって成立したソ連政権が瓦解した今日において、その教訓に学び改めて社会的矛盾に立ち向かうための重要な心掛けを指摘しています。該当部分を引用します。
そのなかで重要なのは、言い古されたことではありますが、まず知ることしかありません。逆に、問題の複雑さにしびれを切らして、一気呵成に問題を解決しようとすれば、副作用だけが大きくなりがちです。フランス革命で「反革命的」とみなされた人々が「貧者に対する哀れみのために」相次いで断頭台の露と消えたことも、世界のあらゆる問題を一刀両断に解決する方法として「イスラーム国家の樹立」という処方箋を示した「イスラーム国」も、そして「安全のためなら何をしても許される」と豪語するトランプ氏も、この点では同じです。
「一刀両断」を目指す人々に欠けているのは、「万能でない人間が考えることに100パーセントの正解がない」ことを認める謙虚さと言えるでしょう。人間社会につきものの矛盾と向き合うためには、無理やり「断つ」のではなく、「ほぐす」努力が必要なことを、甘くてほろ苦いチョコレートは語っているのかもしれません。
「
「一刀両断」を目指す人々に欠けているのは、「万能でない人間が考えることに100パーセントの正解がない」ことを認める謙虚さ」――まさに、
反急進主義・反設計主義的合理主義の立場。
近代社会主義運動・共産主義運動が哲学のレベルで欠けていた考え方です。
このことをロシア革命・ソ連政権に引き付けて考えると、政治における共産党独裁;無制限の権力・暴力も、経済における組織化・計画化の強行も、
結局は「科学」を妄信する行き過ぎた「合理」主義的思考方法に原因があったといえるでしょう。
このことを教訓とするならば、人間の理性;合理的思考の限界を前提とした上で、急進主義を放棄して漸進主義を採用することになるでしょう。「
思考方法としての保守主義を一部取り入れる」と換言しても良いかもしれません。
わずか100年前に起こったロシア革命によって樹立された「革命政権」はとっくの昔に瓦解しています。ソ連政権はあまりにも短命でした。以前から述べているように、私自身も社会主義を信奉する立場ですので、この歴史的経緯から学ぶべき教訓はあまりにも多いものですが、
「ロシア革命の問題意識そのものは、いまだに生命力を失っていないといえる」という今回の指摘と「「一刀両断」を目指す人々に欠けているのは、「万能でない人間が考えることに100パーセントの正解がない」ことを認める謙虚さ」という2月の指摘を踏まえ、「次の100年」を見据えるべきと考えています。私自身は、
21世紀の社会主義的諸運動は、合理的思考の限界を前提とし、漸進主義を採用するほかないと考えています。
■漸進主義とは何か
ここでいう「漸進主義」とは何か――4月21日づけ「
「一代限りの生前退位特例法」から見える漸進主義としての保守主義」で次のように述べました。
■懐疑主義的保守主義を乗り越える漸進主義的保守主義の核心
漸進主義的保守主義は、懐疑主義的保守主義が持つ問題点を乗り越えます。「少しずつ前進し、問題があったら直ちにロールバックする」という方法論は、論理的推論や科学技術に対する過度な慎重姿勢を排して新しい挑戦に取り組みつつも、万が一に予想外の事態が発生したとしても、直ちにロールバックが可能な範囲内での実施に敢えて留めることによって取り返しのつかない事態にも至らないようにもすることができる「よいとこ取り」なのであります。
直ちにロールバックが可能な範囲内での実施を積み重ねてゆく方法論は、理性主義にもとづく方法論――いわゆる「急進主義」もその一種です――に比べて所要時間は少しばかり長くはなりますが、「急がば回れ」というように、安全性・確実性はより高まるものと思われます。「こまめなPDCAサイクルの実施を主軸とする方法論」などと平たく言い換えてもよいかも知れません。
万が一に予想外の事態が発生したとしても、直ちにロールバックが可能な範囲内での実施に敢えて留める。そしてそれを繰り返し、積み重ねることで、社会を少しずつ改善してゆくという方法論です。
この方法論は、何も私が思い付き的に提唱したものではなく、
コンピュータ・システムやソフトウェアの開発・構築においては、かなり広範に採用されている考え方です。3月6日づけ「
コストカットと稼働率は両立しうる――システム科学的な冗長化思想を物流業界に」においても言及したように、「稼動テスト」をシステム開発の中心に据え、こまめにプロトタイプを実際に動かしてみることによって、コーディングの正しさを「机上の検証」ではなく「実証」によって確認する「反復型開発」や「テスト駆動開発」が広範に広まっています。
従来型のウォーターフォール・モデルが依然として開発技法として採用されているケースもあります。しかし、システム開発の世界においては、文字通り血を吐くような壮絶な修羅場を乗り越える(あるいは、力尽きてプロジェクトが崩壊する)経験を通して、「最初にしっかり計画し、それに忠実に作業してゆく。最後には『きっと』ちゃんとしたものが出来ているはず」といった設計主義的方法論ではなく、「反復型開発」や「テスト駆動開発」といった漸進主義的方法論を編み出すに至ったのであります。
問題意識においては「革命的」に、方法論においては漸進主義的に――
キムイルソン主席が、父;キムヒョンジク先生から受け継いだ
「志遠」とも通底する心構え――アンジュングンの「一発屋的個人テロ」と比較すれば際立つ考え方です――
こそが21世紀の社会主義的諸運動の原則になることでしょう。
※
カオス理論を筆頭とする現代科学の諸成果は、唯物論的思考・科学的思考を突き詰めた結果として、マルクス・レーニン主義を基礎づけている19世紀後半〜20世紀前半の「素朴な科学信仰」を卒業するに至っています。「合理的思考の限界」というのは、決していわゆる「反知性」などではなく、むしろ現代科学的といってもよいでしょう。■漸進主義の採用は、究極的には「世界観の転回」に行き着く――カオス的システムの世界観
このことは、究極的には「世界観の転回」に行き着くでしょう。すなわち、
我々が生きるこの物質世界を「カオス的システム」(カオス系)と見なす世界観への転回です。
ここでいう「カオス」とは、カオス理論におけるそれであり、決定論的でありながらも長期予測不能性(long-term unpredictability)が発生している初期値鋭敏性を持った有界な非周期軌道のことです。
観察対象にカオスが発生している場合、その長期的な挙動の予測は原理的に不可能です。
また、ここでいう「
システム」は、@複数の要素から構成されており、Aそれらが物理的機構によって相互作用的に関連しており、B全体として一体的に、1つ以上の役割を担って働いているもののことです。「
@相互作用性とA全体としての一体性、を重要な特徴とする一塊」と言ってもよいでしょう。
■マルクス・レーニン主義的世界観の誤り
マルクス・レーニン主義的な設計主義的合理主義の世界観は、カオス的システムの世界観と真っ向から対立するものです。すなわち、「事物には単一・究極的な原因があるはずだ」という仮説に立ち、物質世界における事物の関連性を「直線的なドミノ倒し」であるかのように想定します。そして、「科学的分析によって複雑な諸現象は各要素に分解され得る」とした上で、「長期的な見通しを立てつつ、究極の原因に対応する究極の真理を掴み、それを打倒・排除する実践を行えば、ドミノ倒し的に全体に好い波及が見られるはずだ」というプランを挙げるものです。
現実世界の実相はそうではありません。
構成要素同士の関係性は円環的な相互作用の関係にあり、単一・究極のものはありません。「構成要素同士が全体として一体的な挙動を見せる一塊」になっている点において、システムといってよいものです。
システムである以上は、個別要素に分解してもその全貌を解明することはできず、「究極の原因」などと称して、
特定箇所にのみパッチ的な対応を行おうものならば、システム内部の絶妙な相互作用バランスが崩れ、システム全体に関わる予期せぬ致命的障害を引き起こしかねないものです。
事前の予想とは大きく異なる結末を迎えることになるものです。
■カオス的システムの世界観は、どう思考するのか
我々が生きるこの物質世界を
「カオス的システム」と認識する人物は、決して「一刀両断」の方法論を採用しないことでしょう。長期予測不能性を十分に理解していれば、「短期予測の積み重ねを以って漸進的に社会を改善してゆくほかない」と気が付くはず。社会を合理的設計にもとづいて計画化しよう(設計主義的合理主義)などど考えるはずもありません。
また、
我々が生きるこの物質世界を「構成要素同士が複雑かつ円環状に絡み合ったシステム」と認識する人物は、断片的な事実や一部の構成要素のみを取り上げて「究極の原因」などとし、それを排除することによって「正常化」を目指すようなことはしないでしょう。労働問題については、「資本家階級と労働者階級は敵対的関係にあり、生きるか死ぬかの階級打倒闘争を展開するしかない」などと提唱するのではなく、
「資本家階級と労働者階級は呉越同舟」の関係にあると認識したうえで、階級的立場を鮮明にしつつも敵対的ではない労使交渉に臨むことでしょう。
この観点・立場は、以下の記事からもお分かりいただけるとおり、以前からの私の持論です。
チュチェ105(2016)年4月26日づけ「
「最低賃金大幅引き上げキャンペーン」の経済オンチと、根本的な世界観的誤りと危険性――円環的相互作用システムの立場から」
チュチェ105(2016)年7月3日づけ「
階級敵対的・ゼロサム的認識にたつ「介護・保育ユニオン」の経済学的・世界観的誤り」
社会的宿痾に立ち向かう心構えについて私は、チュチェ102(2013)年2月21日づけ「
「鶏が先か卵が先か」が経済である」において、「
西洋医学みたいに『病巣を切除すれば病気は治る』みたいな発想ではなく、東洋医学のように『病気は結局のところ身体のバランスの崩れだから、トータルに体質改善してゆく』といった発想でやったほうがいいんじゃないか」と述べましたが、
東洋医学的な治療の思想は、カオス的システムの世界観に立った社会改善の方法論的原則と通ずるものがあると自負しています。
■「次の100年」を見据えるにあたっての必須観点――主体を強化し、その役割を高める
なお、ソ連政権の教訓から「次の100年」を見据えるためには、朝鮮労働党の
キムジョンイル総書記がチュチェ81(1992)年1月3日に発表された
「社会主義建設の歴史的教訓と我が党の総路線――朝鮮労働党中央委員会の責任幹部との談話」も必読文献でありましょう。該当する部分を以下に引用します。
>> 従来の理論に対する教条主義的理解から脱却できなかった人たちは、社会主義社会の本質と優位性が社会主義思想をもった人民大衆によってではなく、社会主義政権と社会主義的所有関係によって決まるとみなし、社会主義建設の推進力も生産力と生産関係の適応という経済的要因に求めました。(中略)しかし、こうした政治的・経済的条件そのものが社会主義社会の発展を促す決定的要因になるわけではありません。生産力発展の問題にしても、生産力の発展において主動的で能動的な役割を果たすのは生産の直接的担当者である勤労人民大衆であり、かれらの自発的熱意と創造的能力を高めることなしには、例え、社会主義的生産関係者を樹立したとしても、生産力をたえまなく急テンポで発展させることはできないのです。
(中略)
ところが一部の国では国家主権と生産手段を掌握して経済建設さえ進めれば社会主義が建設できると考え、人々の思想・意識水準と文化水準をすみやかに高め、人民大衆を革命と建設の主体にしっかり準備させる人間改造事業に第一義的な力をそそぎませんでした。その結果、社会主義社会の主人である人民大衆が主人としての役割を果たせなくなり、結局は経済建設も順調にいかず、社会のすべての分野が停滞状態に陥るようになったのです。
かれらはまた、社会主義社会本来の要求に適応した人民的な政治方式の確立に相応の注目を払うことができなかったため、 人民の統一団結を弱め、大衆の創意を高く発揮できなくしました。社会主義社会で人民大衆が政治の真の主人となり、国家と社会の管理に主人らしく参加するか否かは、社会主義制度の強化発展と社会主義建設の成果を左右する最も重要な問題です。しかし、一部の国では社会主義政権は樹立したものの、実際には旧社会の政治方式をそのまま踏襲したので、国家と社会の管理活動がその主人である人民大衆から離れて特定な人たちの活動になりました。そのため、官僚主義が増長して人々の創意を抑制し、党と国家に対する大衆の信頼を失墜させ、人民大衆の統一団結を破壊する重大な結果をもたらしたのです。
結局、それらの国では社会主義が自己発展の強力な推進力を失い、強固な社会的・政治的基盤をもつことができなくなりました。強固な主体が存在しない社会主義は、その優位性と威力を発揮することができず、前進途上における挑戦と試練に打ち勝つことができません。歴史的事実は、強力な軍事力と膨大な経済的潜在力をもつ大国であっても、社会主義建設において主体を強化し、その役割を高めなければ、帝国主義者と反動派の反社会主義攻勢に耐えられず崩壊するしかないことを示しています。それらの国が帝国主義者と反動派の反社会主義攻勢に屈し、社会主義の挫折を招いたのは、まさに社会主義建設において主体を強化し、その役割を高めなかったためにもたらされた必然的結果と見るべきです。 <<
あえて私が要約する必要もないくらいに端的で説得力のある指摘です。
■「次の100年」のために
@
「急進主義・設計主義的合理主義を放棄して、合理的思考の限界を前提とした上で漸進主義を採用すること」に加え、A
「主体を強化し、その役割を高める」ということも、
まさに「社会主義建設の歴史的教訓」として汲み取ることができるでしょう。
また、目下探究中であり、今回の記事には間に合わなかった論点として、B「自論を支持しない相手を無知蒙昧と決めつけ、扱き下ろす」のではなく、
相手が自論を支持しないのであればこそ、「相手がどうしてそういう言葉を掛けてくるのか」「その人はどういう人生を歩んできたのか」を分析し、理解し、包摂してゆく取り組みが必要であろうという点を挙げたいと思います。これは、
人民大衆が統一団結し、国家を自主管理してゆく社会主義社会では、階級的連帯に基づく同志的な意見交換で、考え方をすり合わせていく必要があるからです。このことは、いわゆる「前衛意識」を捨てることにも繋がる論点です。
さらに、C「既存の価値観の打破」が「なんでもあり」に転落しないために、
「あくまでもルールを守る、非合理的なルールだとしても自己判断で勝手に破らない」という大原則をあくまで守るべきでしょう。「どんな法律によっても、絶対にどんな規則によっても束縛されない、直接暴力で自ら保持する無制限の権力」など、到底容認できないからです。