>> “電車を止めないストライキ”をJR東労組が予告 「それって効果あるの?」「これが現代のストか……」の声も■ストは「労働市場における商売人」である労働者の商行為の一環
2/21(水) 16:08配信
ねとらぼ
厚生労働省は2月20日、東日本旅客鉄道労働組合(JR東労組)から「ストライキ等の争議行為を行う予告」を受けたと公表しました。
(中略)
予告された内容は、2018年3月2日以降に「全組合員(助役を除く)による本来業務以外に対する非協力(自己啓発活動など)の形式による争議行為の実施」。今回のストライキでは、「列車運行に支障をきたすことはない」としています。要求内容は、組合員一律での定額賃金ベースアップ(定期昇給分を除く)です。
この報道を受け、ネット上では「そもそも電車が止まったら困る」という声があった一方で、予告内容を確認したユーザーからは「電車が止まらないストライキなんて意味あるの?」「自己啓発活動をしないことがストになるの?」という声も寄せられました。
ストライキ決行の可能性についてJR東日本に取材しましたが、現時点、同社広報では分からないとのこと。JR東労組に対して「自己啓発活動とは、具体的に何か」などの取材申し入れをしていますが、2月21日15時時点で、回答は得られていません。
(以下略) <<
昨年12月26日づけ「商行為の一環としてのストライキ――自由経済を維持・拡大するためにこそストライキは展開すべきだが、その労働者の利益にとっての弊害についても認識すべき」でも言及したとおり、「労働市場における商売人」である労働者は、慈善活動・ボランティア活動で働いているわけではないのだから、いくら労働契約を結んでいるからといって、いつでもどんな場合でも自身の労働力を販売するわけには行きません。
ストライキという行為は、労働者の人間としての権利(人権)である以前に、「売り手と買い手の取引交渉失敗による取引停止・操業停止」という点において、市場取引における商売人としての合理的行為;商行為の一環であるとも位置づけられるものです。そのため私は、今回のJR東日本労組(東労組)のストを辞さない構えを支持します。
■お客様を敵に回さない形でのストを!
また、前回記事で私は、労働運動のやり過ぎは労働者自身の首を絞めることに繋がる点において、「利用客を敵に回さない一方で、企業当局側には打撃を与える」という方法論がスマートでよいと述べました。一企業の労使はお客様(消費者)との関係においては「呉越同舟」の関係にあるという事実を直視し、「誰を敵に回してはならないか」ということを十分に承知した上で戦術を練らなければならないわけです。
今回の東労組のプランは、「ストライキが決行されたとしても、列車の運行に支障はない」ことを明言し、いわゆる非協力闘争の形式を宣言しました。戦術面においても私は、強く支持するものです。
■世論の後押しがないので「電車を止めるスト」が成功する条件は熟していない
ところで、ねとらぼ記事中では、「電車が止まらないストライキなんて意味あるの?」という声が掲載されていますが、むしろこの段階で「電車を止めるストライキ」を打っても、目指すところの成果は得られないであろうと見るべきです。ストライキに対する利用客・世論の支持を広く受けているわけではなく、他社労組との連携もない状態だからです。以下に述べるとおり、@何の効果も生まないか、A逆にクレーマーのような利用客にエサを与えることになるか、B労使諸共に没落してゆくキッカケになるかのいずれかになりかねないものと考えます。
このような状態でのスト突入は、まさに「独走」であり、かつて公労協(国労・動労)が飛び込んだ「スト権スト」(1975年)の失敗の轍を踏みかねないものです。
あのとき公労協は、総評との連携さえも十分とは言えないままに単独的にストに突入したところ、私鉄網の発達で国鉄の「地位」自体が低下しつつある中で私鉄が「スト破り」的に列車を運行(そもそも公労協側が私鉄労組に協力を要請していなかったのだから無理もないことだけど)したこともあり効果は上げられませんでした。もともと私鉄線を利用していた通勤通学客はいつも通り私鉄線を利用し、国鉄線の通勤通学客は「ま、私鉄動いているし・・・」といった具合に落ち着いて(とはいっても混雑はしているけど)経路を切り替えたわけです。
また、スト継続に対する世論の支持も取り付けきれていませんでした。世論は、「国鉄当局は何をやっているんだ、組合に譲歩して早く紛争を収めろ!」とはならなかったのです。
その結果、空前の大規模・全面的ストであったにも関わらず、当局側に打撃を与えることが出来ず、敗北を喫したのです(当人たちもスト権奪還闘争を後退させたとは認めているくらいの完敗)。
1975年当時よりも私鉄鉄道網の発展は著しく、「国鉄の地位低下」が指摘された当時よりもJRの「地位」は低下しています。仮にここで「電車が止めるストライキ」を打っても、そのことに戦術的な意味がどれほどあるのか甚だ疑問であると言わざるを得ないところでしょう。ただでさえ昨今は毎日のように事故や点検等で運転見合わせになるJR東日本管内。平然と経路を切り替える大多数の利用客たちの姿が容易に想像できます。社会的議論を喚起し、組合運動に有利な世論形成には至らないことでしょう。
■「兵糧攻め」は無産階級としての労働者、消費者から見れば企業の一員である労働者の戦い方ではない
なお、「利用客による経路切り替え」という事態は、労使諸共に影響を受ける事態です。「一企業の労使は呉越同舟の関係」と述べた通りです。その点においてこの事態は、企業側にとって労働者側の要求を呑むインセンティブになりうるようにも見えます(もちろん、逆も――労働者側が企業側の労務を受け入れる――然りです)。単独ストにも一定の効果がありそうな気もしてきます。
しかし、一般的に考えたとき、企業側の「体力」と労働者側の「体力」には歴然とした差があります。そして、企業側も当然に反撃してくることでしょう。「利用客による経路切り替え」という事態によって、一種の「兵糧攻め」的な意味で企業側が困り始める頃には、無産階級としての労働者側は干からびているでしょう。そう考えると、「利用客による経路切り替え」の長期的効果は、「企業側が労働者側の要求を呑む」ことよりも「労働者側が折れる」ことの方が先に発生するものと思われます。
「利用客による経路切り替え」が一種の「兵糧攻め」的な効果を発揮し始めて企業側が実際に困り始めたり、そこまで行かなくとも、現実的な経営の脅威として本格的な危機を感じ始めた状態は、既にマーケットにおける企業全体の立場が相当に危うくなっている段階です。「呉越同舟」の船が呉越諸共に沈没し始めた段階です。まさに国鉄の末路。スト戦術としては危険すぎると思われます。
■クレーマーのような利用客にエサを与えることになる恐れ
上述の「効果なし」とは逆の事態も想定できます。国鉄があった時代はまだスト等の労働争議に対する社会的理解があった時代でしたが、そんな時代でも公労協(国労・動労)のストには批判的な声が巻き起こっていたものです。あの頃よりも階級連帯意識が乏しい昨今(ぶっちゃけて言うと、自分勝手な奴が多い時代)において「電車を止めるストライキ」を打つことは、パンドラの箱を開けることにならないでしょうか?
前述のとおり、お客様を敵に回してはならず、お客様を敵に回した側の敗北は確定的と言っても過言ではないものですが、今やそのお客様の「扱いづらさ」は空前のレベルに達しつつあります。そのご機嫌を損ねかねないプランを採用すべきではありません。労働者階級の利益を優先するからこそ私は、「電車を止めるストライキ」は敬遠して、他の方法で企業側を揺さぶる方がよいと考えています。
つまり、ストライキに対する利用客・世論の支持を広く受けているわけではなく、他社労組との連携もない状態における「電車を止めるストライキ」は、@何の効果も生まないか、A逆にクレーマーのような利用客にエサを与えることになるか、B労使諸共に没落してゆくキッカケになるかのいずれかになりかねない、というわけです。
■「本来業務以外」を労働者に押し付けたツケを払うとき
ちなみに、ねとらぼ記事中では、非協力闘争について「自己啓発活動をしないことがストになるの?」という声が掲載されていましたが、「自己啓発活動」はあくまで一例に過ぎません。日本の労働現場は残念ながら「本来業務以外」が不可欠的な重要な役割を果たしているものです。「本来業務以外に対する非協力」は、打撃になることでしょう。それに、「自己啓発活動」なんて、実態においては「研修」に近いようなもの・・・「『本来業務以外』を労働者に押し付けたツケを払うとき」と見ておきましょう。
ラベル:自主権の問題としての労働問題