2018年02月21日

国労・動労の方法を克服した東労組のスト戦略

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180221-00000065-it_nlab-bus_all
>> “電車を止めないストライキ”をJR東労組が予告 「それって効果あるの?」「これが現代のストか……」の声も
2/21(水) 16:08配信
ねとらぼ

 厚生労働省は2月20日、東日本旅客鉄道労働組合(JR東労組)から「ストライキ等の争議行為を行う予告」を受けたと公表しました。


(中略)

 予告された内容は、2018年3月2日以降に「全組合員(助役を除く)による本来業務以外に対する非協力(自己啓発活動など)の形式による争議行為の実施」。今回のストライキでは、「列車運行に支障をきたすことはない」としています。要求内容は、組合員一律での定額賃金ベースアップ(定期昇給分を除く)です。

 この報道を受け、ネット上では「そもそも電車が止まったら困る」という声があった一方で、予告内容を確認したユーザーからは「電車が止まらないストライキなんて意味あるの?」「自己啓発活動をしないことがストになるの?」という声も寄せられました。

 ストライキ決行の可能性についてJR東日本に取材しましたが、現時点、同社広報では分からないとのこと。JR東労組に対して「自己啓発活動とは、具体的に何か」などの取材申し入れをしていますが、2月21日15時時点で、回答は得られていません。


(以下略) <<
■ストは「労働市場における商売人」である労働者の商行為の一環
昨年12月26日づけ「商行為の一環としてのストライキ――自由経済を維持・拡大するためにこそストライキは展開すべきだが、その労働者の利益にとっての弊害についても認識すべき」でも言及したとおり、「労働市場における商売人」である労働者は、慈善活動・ボランティア活動で働いているわけではないのだから、いくら労働契約を結んでいるからといって、いつでもどんな場合でも自身の労働力を販売するわけには行きません。

ストライキという行為は、労働者の人間としての権利(人権)である以前に、「売り手と買い手の取引交渉失敗による取引停止・操業停止」という点において、市場取引における商売人としての合理的行為;商行為の一環であるとも位置づけられるものです。そのため私は、今回のJR東日本労組(東労組)のストを辞さない構えを支持します。

■お客様を敵に回さない形でのストを!
また、前回記事で私は、労働運動のやり過ぎは労働者自身の首を絞めることに繋がる点において、「利用客を敵に回さない一方で、企業当局側には打撃を与える」という方法論がスマートでよいと述べました。一企業の労使はお客様(消費者)との関係においては「呉越同舟」の関係にあるという事実を直視し、「誰を敵に回してはならないか」ということを十分に承知した上で戦術を練らなければならないわけです。

今回の東労組のプランは、「ストライキが決行されたとしても、列車の運行に支障はない」ことを明言し、いわゆる非協力闘争の形式を宣言しました。戦術面においても私は、強く支持するものです。

■世論の後押しがないので「電車を止めるスト」が成功する条件は熟していない
ところで、ねとらぼ記事中では、「電車が止まらないストライキなんて意味あるの?」という声が掲載されていますが、むしろこの段階で「電車を止めるストライキ」を打っても、目指すところの成果は得られないであろうと見るべきです。ストライキに対する利用客・世論の支持を広く受けているわけではなく、他社労組との連携もない状態だからです。以下に述べるとおり、@何の効果も生まないか、A逆にクレーマーのような利用客にエサを与えることになるか、B労使諸共に没落してゆくキッカケになるかのいずれかになりかねないものと考えます。

このような状態でのスト突入は、まさに「独走」であり、かつて公労協(国労・動労)が飛び込んだ「スト権スト」(1975年)の失敗の轍を踏みかねないものです。

あのとき公労協は、総評との連携さえも十分とは言えないままに単独的にストに突入したところ、私鉄網の発達で国鉄の「地位」自体が低下しつつある中で私鉄が「スト破り」的に列車を運行(そもそも公労協側が私鉄労組に協力を要請していなかったのだから無理もないことだけど)したこともあり効果は上げられませんでした。もともと私鉄線を利用していた通勤通学客はいつも通り私鉄線を利用し、国鉄線の通勤通学客は「ま、私鉄動いているし・・・」といった具合に落ち着いて(とはいっても混雑はしているけど)経路を切り替えたわけです。

また、スト継続に対する世論の支持も取り付けきれていませんでした。世論は、「国鉄当局は何をやっているんだ、組合に譲歩して早く紛争を収めろ!」とはならなかったのです。

その結果、空前の大規模・全面的ストであったにも関わらず、当局側に打撃を与えることが出来ず、敗北を喫したのです(当人たちもスト権奪還闘争を後退させたとは認めているくらいの完敗)。

1975年当時よりも私鉄鉄道網の発展は著しく、「国鉄の地位低下」が指摘された当時よりもJRの「地位」は低下しています。仮にここで「電車が止めるストライキ」を打っても、そのことに戦術的な意味がどれほどあるのか甚だ疑問であると言わざるを得ないところでしょう。ただでさえ昨今は毎日のように事故や点検等で運転見合わせになるJR東日本管内。平然と経路を切り替える大多数の利用客たちの姿が容易に想像できます。社会的議論を喚起し、組合運動に有利な世論形成には至らないことでしょう

■「兵糧攻め」は無産階級としての労働者、消費者から見れば企業の一員である労働者の戦い方ではない
なお、「利用客による経路切り替え」という事態は、労使諸共に影響を受ける事態です。「一企業の労使は呉越同舟の関係」と述べた通りです。その点においてこの事態は、企業側にとって労働者側の要求を呑むインセンティブになりうるようにも見えます(もちろん、逆も――労働者側が企業側の労務を受け入れる――然りです)。単独ストにも一定の効果がありそうな気もしてきます。

しかし、一般的に考えたとき、企業側の「体力」と労働者側の「体力」には歴然とした差があります。そして、企業側も当然に反撃してくることでしょう。「利用客による経路切り替え」という事態によって、一種の「兵糧攻め」的な意味で企業側が困り始める頃には、無産階級としての労働者側は干からびているでしょう。そう考えると、「利用客による経路切り替え」の長期的効果は、「企業側が労働者側の要求を呑む」ことよりも「労働者側が折れる」ことの方が先に発生するものと思われます。

「利用客による経路切り替え」が一種の「兵糧攻め」的な効果を発揮し始めて企業側が実際に困り始めたり、そこまで行かなくとも、現実的な経営の脅威として本格的な危機を感じ始めた状態は、既にマーケットにおける企業全体の立場が相当に危うくなっている段階です。「呉越同舟」の船が呉越諸共に沈没し始めた段階です。まさに国鉄の末路。スト戦術としては危険すぎると思われます。

■クレーマーのような利用客にエサを与えることになる恐れ
上述の「効果なし」とは逆の事態も想定できます。国鉄があった時代はまだスト等の労働争議に対する社会的理解があった時代でしたが、そんな時代でも公労協(国労・動労)のストには批判的な声が巻き起こっていたものです。あの頃よりも階級連帯意識が乏しい昨今(ぶっちゃけて言うと、自分勝手な奴が多い時代)において「電車を止めるストライキ」を打つことは、パンドラの箱を開けることにならないでしょうか?

前述のとおり、お客様を敵に回してはならず、お客様を敵に回した側の敗北は確定的と言っても過言ではないものですが、今やそのお客様の「扱いづらさ」は空前のレベルに達しつつあります。そのご機嫌を損ねかねないプランを採用すべきではありません。労働者階級の利益を優先するからこそ私は、「電車を止めるストライキ」は敬遠して、他の方法で企業側を揺さぶる方がよいと考えています。

つまり、ストライキに対する利用客・世論の支持を広く受けているわけではなく、他社労組との連携もない状態における「電車を止めるストライキ」は、@何の効果も生まないか、A逆にクレーマーのような利用客にエサを与えることになるか、B労使諸共に没落してゆくキッカケになるかのいずれかになりかねない、というわけです。

■「本来業務以外」を労働者に押し付けたツケを払うとき
ちなみに、ねとらぼ記事中では、非協力闘争について「自己啓発活動をしないことがストになるの?」という声が掲載されていましたが、「自己啓発活動」はあくまで一例に過ぎません。日本の労働現場は残念ながら「本来業務以外」が不可欠的な重要な役割を果たしているものです。本来業務以外に対する非協力」は、打撃になることでしょう。それに、「自己啓発活動」なんて、実態においては「研修」に近いようなもの・・・「『本来業務以外』を労働者に押し付けたツケを払うとき」と見ておきましょう。
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2018年02月20日

言うは易く行うは難し

「言うは易く行うは難し」の典型。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180220-00000039-reut-bus_all
>> 政権奪還なら金融セクターは産業に奉仕へ=コービン英労働党党首
2/20(火) 12:53配信
ロイター


(中略)

コービン党首は「一世代の間、金融が産業に奉仕せず、政治家が金融に奉仕してきた。その結果、生産的経済、わが国の公共サービスと国民生活は少数の『大き過ぎてつぶせない』銀行とカジノ金融業者に人質として取られてしまった」と批判。

「もはやそれも終わりだ。次の労働党政権は40年ぶりに、実体経済のために立ち上がるだろう。わが党は金融を、全ての人の支配者ではなく、産業への奉仕者とするため断固たる行動を取る」と述べる予定だ。

さらに、自動車部品大手GKN<GKN.L>に対する投資会社メルローズ<MRON.L>の敵対的買収案に言及。「われわれはGKNのような企業の成長を適切に評価しているが、同社の崩壊の可能性に直面している時、対応するすべがない」とし、「次の労働党政権は『公益性テスト』の範囲を広げ、国内の産業基盤を破壊する敵対的買収を防ぐため政府が介入できるようにする」考えだ。

大手企業は労働党に対し警戒しており、米モルガン・スタンレーは投資家に対し、コービン党首の政権奪還はEU離脱以上の政治リスクになると警告した。


最終更新:2/20(火) 13:12
<<
産業への奉仕者とするため断固たる行動を取る」――本来的な意味での金融業の在り方に立ち返らせるという意味においては、お題目としては文句のつけようのない正論中の正論です。しかし、実際の政策に落とし込むとすれば、これは実に難しいものです。

どこまでが実体経済に奉仕していると言えて、どこからがそうでないと言えるのかのでしょうか。実際の政策は、「程度の差」の問題、換言すれば、「線引きの問題」と言い切ってしまっても過言ではありませんが、どうするつもりなのでしょうか?

ちなみに歴史上の類似した構造の事例を振り返るとき、スターリンの「階級としての富農(クラーク)絶滅」の計画の例が思い出されます。すなわち、ボリシェヴィキが掲げる意味における共産主義においては、富農の存在は相容れないものであり、その意味においては、「富農絶滅」は理論的には理解可能ではあるものの、実際に「誰を富農と見なすべきか」「どこまでが『団結対象とすべき中農』で、どこからが『打倒すべき富農』と言うべきなのか」という基準については曖昧模糊としていました。ボリシェヴィキは最後まで明確な線引きを提示できず、結局、雑なキャンペーンに終始したものでした。お題目が明確であったとしても、実際の政策への落とし込みが困難な好例です。

また、一見してただの投機行為に見えても、思いもよらぬ実体経済に対するプラス効果があり得ることは、現代よりも遥かにシンプルな経済構造かつ、「自由民主主義」などという概念が存在しなかった日本の江戸時代における幕府のコメ先物禁止令とその撤回の一例を見るだけでも明白です。

それよりも驚くべきは、「われわれはGKNのような企業の成長を適切に評価している」という認識。メルローズの魂胆が幾ら何でもハチャメチャすぎるのかも知れませんが、たぶんそんなにも「分かりやすい」のは、今回切りの極めて稀な幸運なるケースでしょう。たかだか政治家ごときが一企業の成長を「適切に評価」することはできないと言い切ってよいと思います。一周遅れの計画経済論者だって、もう少し「謙虚」でしょう。

こういうことを言いたくなる気持ちはすごくよく分かるのですが、実際の政策的課題として考えたとき、まさに「言うは易く行うは難し」の典型と言わざるを得ないところです。

モルガン・スタンレーの言い分を認めるのも何となく癪な気もしますが、マーケットにおける百戦錬磨のプロでさえ眉を顰めるような極めて一握りの「輩」を対象にしたパフォーマンスに留まってくれればよいものの、これを本気でやろうものなら、その影響たるや確かにBrexitどころではないかもしれません。
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2018年02月16日

【광명성절경축】チュチェ思想の神髄が「図らずも」実践された例は、その必然性・正当性を示すもの【2.16경축】

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180213-00000069-sasahi-soci
>> 北海道「突出して何もない町」が地方創生に成功 陰にアイデアマン公務員〈AERA〉
2/14(水) 11:30配信
AERA dot.

「地方創生」の名のもとに、各自治体が奮闘している。昨年12月、地方創生の司令塔、内閣府の「まち・ひと・しごと創生本部」は「移住・定住施策の好事例集(第1弾)」を発表した。3大都市圏以外から、行政・民間の取り組みによって転入者数から転出者数を差し引いた社会増減数を始点年の総人口で割った「社会増減率」がプラスに転じた、または社会減の減少幅が縮小した自治体を選定。全18自治体を紹介した。成功した地方自治体は一体どんな取り組みをしたのか。そのひとつを取材した。


(中略)

 北海道南部にある厚真町は人口約4700人。日本創成会議が「消滅可能性」を指摘した自治体の一つだ。

 大坪さんは1987年の入庁以来、都市計画を担当した。町は、60年代の高度経済成長期から人口減少がつづいていた。人口を増やすためには、外から人を呼んでくるしかない。

「成功した町の事例をそのまま真似してもうまくいくとは限りません。自治体の役割は、それぞれの地域にあった戦略をいかに見つけ出し、それを行政が一丸となって実現させるか。そのためには、役場内の自由な発想とそれを受け入れる雰囲気づくりが必要だと思っています」


(中略)

「失敗? あまり考えませんでした(笑)。それよりも、うまくいったらいいなあという、わくわく感のほうが圧倒的に大きかったですね」

 町は、若手職員を中心に地域資源を生かしたローカルベンチャー支援などにも乗り出した。

 厚真をもっと魅力的な町にしたい──。強い意志と希望を持った職員が増えているという。
 

(以下略) <<
こんなことを言うと当人たちは極めて心外だと思いますが(笑)、「成功した町の事例・・・」のくだりは、まさにチュチェ思想が教える所のど真ん中です。「チュチェ思想の神髄」を正確に言い当てていると言ってよいコメントです。

「成功した他国の経験をそのままコピペ的に模倣しても成功するとは限らない」「他国の経験や支援を無批判に受け入れるのではなく、一概に排斥するのでもなく、我が国の条件に合わせて自分の頭で考えて選択せよ」「党の周りに一心団結して我々の革命事業を推進しよう」――こうしたチュチェ思想が提唱する心構えが実践されたわけです。

また、「わくわく感のほうが圧倒的に大きかったですね」というコメントからは、主体的なチャレンジで充実した職業生活を送っているご様子が窺えます。主体性を堅持しつつ、実践活動を自主的で創造的に楽しんでいる姿は、まさしくチュチェ思想が目指す理想像です。

元来、チュチェ思想は実践を重視する思想です。仮に「チュチェ思想」という名称を看板として掲げていなくとも、その神髄を踏まえた実践行為は、チュチェ思想的であると言えます。その点、本件記事が伝える事実は、ほぼ間違いなく当人たちはチュチェ思想を意識して取り組んだわけではないものの、実態としては、チュチェ思想的実践が成功裏に推進された例といえるでしょう。

そして、「チュチェ思想」という看板が掲げられていない場面で実質的に「チュチェ思想的実践」と言い得る展開が成功裏に推進されているという事実は、チュチェ思想の神髄は、特に意識的に仕向けたり無理矢理にコジツケたりせずとも自然発生的な試行錯誤の結果として到達する点において、その必然性・正当性を示すものと言い得るものでしょう。

광명성절 축하합니다!
ラベル:チュチェ思想
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2018年02月13日

「価値観の相対化」は危険な劇薬、取り扱い注意

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180210-00000046-asahi-soci
>> 選択的夫婦別姓「容認」4割超 「必要ない」は3割切る
2/10(土) 17:20配信
朝日新聞デジタル

 内閣府の家族と法制度をめぐる世論調査で、夫婦別姓を選べる「選択的夫婦別姓制度」を導入してもよいと考える人の割合が過去最高の42・5%だった。導入する必要はない、と答えた人は過去最低の29・3%。ただ、政府は「国民の意見が大きく分かれている」として制度の導入に慎重な姿勢だ。

 制度をめぐっては法制審議会(法相の諮問機関)が1996年に導入を答申したが、法改正のめどはたっていない。調査は全国の18歳以上から無作為抽出した5千人を対象に面接で実施した。回収率は59%。

 調査結果によると、質問は三択で、制度を導入してもよいと答えた人は過去最高の42・5%。
(中略)制度容認派のうち19・8%は自分も結婚前の姓を名乗りたいと回答した。(以下略) <<
制度として存在するのは構わないと考えているが、自分自身が夫婦別姓を選択する予定である人は、ごくごく少数にとどまる――制度利用予定者が思ったよりも少ない結果で少し驚きました。まあ私自身も、別姓を名乗りたい夫婦は名乗ればいい(どうでもいい)と思うが、自分たちの問題として考えたときは、この問題について特別なコダワリはないので、ウチは世間標準通りに夫婦同姓でいいんじゃないかと思っているクチですが。

それはさておき、この問題に関しては、右派界隈からしばしば「選択的夫婦別姓論は、家族の結束を弱める左翼勢力の陰謀的な制度改悪であり、その狙いは『家族の解体』にある」といった非難が浴びせられます。この世論調査と選択的夫婦別姓論者の論法を見る限り、それは「杞憂」「被害妄想」といってよいのではないかと考えているところです。

選択的夫婦別姓論者の論法が、「価値観の相対化」と「多様な選択肢の自己決定を可能にする」である限り、選択的夫婦別姓論を「容認」することこそ可能ではあるものの、それをデフォルトに「仕向ける」ことは不可能です。そして、今回の世論調査結果を見る限り、ごく一部の夫婦は夫婦別姓を選択するものの、大多数の夫婦と「夫婦予備軍」は今のまま夫婦同姓を選択するであろうことが見込まれます

選択的夫婦別姓論者が言うように、「夫婦同姓という伝統」の根拠を問い詰め、あらゆる考え方を相対化した上で考え抜いたとき、夫婦が同姓を名乗らなければならない根拠など存在しないという結論に至らざるを得ません。その点において、夫婦別姓を妨げる根拠はありません。同様の論法に従えば、当たり前のことながら夫婦同姓を妨げる根拠も存在しないので、夫婦別姓でなければならない根拠もまた存在しません

それゆえ、仮に夫婦別姓が実現したとして、その社会において旧来的な夫婦同姓論――家族が一体感を持つためには、同姓であるべきだから、ウチは同姓にする――という夫婦がいたとしても、「価値観の相対化」と「多様な選択肢の自己決定を可能にする」を制度成立の論拠にしている限りは、そうした考え方を批判できる根拠は存在しません

もし、ここで、「『家族が一体感を持つためには、同姓であるべきだから、ウチは同姓にする』なんて考え方に合理的な根拠はない」などと説教しようものなら、まさに「選択的」であるがゆえに、「余計なお世話」として門前払いされることでしょう。また、この制度が「価値観の相対化」を経て成立したのであれば、「合理的な根拠」という判断基準もまた相対化された上で棄却され得るものです。この世には「絶対的基準」が存在しない以上は、価値観を相対化する立場を突き詰めれば、「伝統」に縛られる謂れがないのと同様に、「合理性」に縛られる謂れもまた存在しなくなるのです。合理的に行動しなければならない理由など存在せず、ただ気の向くままに好きにしても非難される謂れはありません。

現在の選択的夫婦別姓論者の論法は、「価値観の相対化」と「多様な選択肢の自己決定を可能にする」に留まっています。こうして考えると、「価値観の相対化」と「多様な選択肢の自己決定を可能にする」を主軸とする現在の選択的夫婦別姓論は、「夫婦同姓制度を打破」することは可能であるものの、新しい価値観としての「夫婦別姓を推進」し得るものではないのです(そもそも、選択的夫婦別姓論は「夫婦別姓を推進」するものではありませんが)。

そして、今回の世論調査。制度として存在するのは構わないと考えているが、自分自身が夫婦別姓を選択する予定である人は、少数にとどまるわけです。人々は、都度都度に合理的に行動を選択することよりも、伝統や習慣に合わせて定型的な行動をとる方を好むと言われています。また、Hayekは、伝統や習慣の特徴について「権力によって強制されなくとも、内面化されているがゆえに、自発的に遵守するもの」と述べています。つまり、人間心理の観点から考察すれば、実際に制度化されたところで自発的に夫婦別姓を選択するケースは多くないと見込まれるし、また、価値観が相対化された状況下での自由選択制であるがゆえに個別の夫婦に対して別姓を推奨できないわけです。

こんな現状で「選択的夫婦別姓論は、家族の結束を弱める左翼勢力の陰謀的な制度改悪であり、その狙いは『家族の解体』にある」などと言うのは、杞憂というべきか被害妄想というべきか。右派界隈の頭の悪さは今に始まったことではありませんが、老婆心ながら、お止めになった方がよいのではないかとお勧めするところです。

ところで、私が特に昨年あたりから、「『不合理なルールを変えて多様性を実現する』を単なる『何でもあり』にしてはならない」という強調するようになったのは、昨今の「変革」論が「価値観の相対化」という劇薬をあまりにも安易に利用している嫌いがあるためです。

上述のとおり、この世には「絶対的基準」が存在しない以上は、価値観を相対化する立場を突き詰めれば、個人を縛る理屈は存在しなくなりますキムジョンイル総書記が指摘されているように、「自由」と「放蕩」は根本的に異なります。自由はあくまで集団的枠組みを破壊しない範囲内――集団主義の枠内での個人的自由と集団的生活の調整と接合・両立――でなければならないという点において、一定の程度において「個人を縛る」理屈は存在しなければなりません。安易なる「価値観の相対化」の濫用は、古臭い制度の破壊には絶大な威力をもたらすものの、その副作用として新しい制度の樹立を困難にしかねません。社会革命の立場に立つからこそ私は、「価値観の相対化」の利用には慎重でなければならないと考えています

夫婦が同姓であるべきか別姓であるべきかという程度であれば、どっちに転んでもどうでもいい話ですが、この程度の「どうでもいい話」でさえ「価値観を相対化」という劇薬の効果は抜群に発揮され得るものです。そして私は、この程度の「どうでもいい話」とは言えども、それにしても「価値観を相対化」の劇的な効果に対する慎重さが足りないのではないかと思うのです。

もっと社会集団の根底を規定するような分野において、この調子で安易に「価値観を相対化」が導入されれば、いったいどんなことになるでしょうか? 不合理で人々の自主性を縛り付けるような旧来型の制度は粉砕されるでしょうが、それにとって代わる新しい制度を樹立し得るでしょうか? どういう理屈で人々を新制度に従わせるというのでしょうか? 破壊するだけ破壊してそのままにならないのでしょうか?

夫婦が同姓であるべきか別姓であるべきかという問題については、上述のとおり、現行制度を壊したところで大多数の夫婦は自発的に同姓を選ぶ見込みである点、大きな影響はないでしょうし、繰り返しになりますが、この程度の問題であれば、どっちに転んでもどうでもいい話です。しかし、もっと社会集団の根底を規定するような分野における「破壊」の影響は不透明です。

まあ、あらゆる価値観を相対化し破壊したものの「プロレタリア文化」の創造には失敗したと言わざるを得ない、かの文化大革命でさえ、最終的には収まるところには収まりました。その点において「長期的(歴史的)視点」で見れば、「価値観を相対化」路線は、社会の成熟度に応じた時間を掛けて「それなりの地点」に落ち着くのかもしれません。しかし、「生活的視点」からみれば、「それなりの地点」の落ち着くまでの「数か月」「数年」の間にも日常生活は連綿と続くわけです。私は生活的視点を徹底させたいと考えています。

「価値観の相対化」――危険な劇薬です。取り扱い注意。夫婦が同姓であるべきか別姓であるべきかという程度の「どうでもいい話」であるからこそ、これを機に「価値観の相対化」の劇的効果について、じっくりと考えを巡らせるべきでしょう。
ラベル:社会
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2018年02月11日

首領様は依然として、お面の題材にしてよい御方ではありません

https://jp.reuters.com/article/idJP2018021101001536
>> 「金日成仮面」と韓国報道で混乱

 【平昌共同】平昌冬季五輪アイスホッケー女子の南北合同チームが10日出場した試合の会場で、北朝鮮応援団が男性のお面をかぶって歌う場面があり、韓国の一部メディアが「故金日成主席の仮面」と伝えた。


(中略)

 お面の正体は、男性の片思いを描いた北朝鮮の歌謡曲「フィパラム(口笛)」を歌う際、男性役を演じるために使う「美男子仮面」との説が有力だ。 <<
写真見ましたが、首領様のお若い頃にはあまり似てなかったな・・・プロバガンダ・イラストによく出てくるような男性という印象でした。

というよりも、いくらキムジョンウン委員長の時代になり、堅苦しさが軽減されてきたとはいえ、首領様のお面が許容されるような日はまだまだ遠いと言わざるを得ない現状です。偉大な首領であり、チュチェ思想においては「肉体的生命とは区別される政治的生命の父」。平たく言えば「人民の神」という地位に依然として位置しているわけです。国威発揚のオリンピック応援のためとはいえ、お面の題材にしてよい御方ではありません

ちなみに個人的な話になってしまいますが、だいぶ以前にチャイナ・タウンに遊びに行った時の話ですが、怪しげなお土産物店で売られている「毛沢東トランプ」を見たとき、「モテクドン・ドンジ(毛沢東同志)がトランプの絵柄になるのか。共和国もいつか、首領様がトランプの絵柄になる日が来るのかな・・・?」と思ったものです(我ながら純粋だなーw)。毛沢東は中華人民共和国の建国者であり、今も昔も中国共産党政権の正統性の源泉であるとともに、トランプの題材になるくらいは大目に見てもらえる「キャラクター」です(在日チャイニーズ社会ではOKなだけで、本国ではどうだか知らないけど)。同じように首領様がトランプの絵柄になる・・・畏れ多いものの、そういう時代もいいかもな、と思ったものでした。ええ、なんてことのない、ただの個人的思い出話です。なんとなく、ずっと忘れていた記憶を思い出したので。
ラベル:メディア
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BGMから読み解く朝鮮人民軍創建70周年慶祝閲兵式

2月8日挙行の朝鮮人民軍創建70周年慶祝閲兵式について。

普通のことを書いてもあまり面白くないし、ヤフーニュース等を引用したところで「有識者」なる人々のご高説(割と外れる)を再構成するだけになるので、ここは趣を変えて「閲兵式中にどんな曲がBGMとして流れたのか」という点に絞って記事を執筆したいと思います。題して「BGMから読み解く朝鮮人民軍創建70周年慶祝閲兵式」。

以前から述べているとおり、共和国は「音楽政治」の国音楽をプロパガンダの主要な手段としてフル活用している国です。音楽に乗せてあからさまにメッセージを伝えるケースもあれば、その場では面と向かっては言えないような内容を含む曲をBGMとして流すことで腹の内を婉曲に伝えるケースもあるものです。

たとえば、太陽政策を掲げていた南側のノムヒョン大統領(当時)は、任期満了直前のチュチェ96(2007)年に訪朝しましたが、歓迎の花束を渡された際と儀仗隊行進の際に流されたBGMが何と「朝鮮人民軍歌」。この歌は、朝鮮半島の赤化統一を歌う曲です。
https://www.youtube.com/watch?v=yZR3isKgY20#t=231

中国やベトナムなどの要人訪朝の例を見るに、花束贈呈時は「歓迎曲」、儀仗隊行進時は「遊撃隊行進曲」が定番である点、わざわざ「朝鮮人民軍歌」を流したのは異例であり、ここには意図があると見るべきでしょう。

周知のとおりノ大統領の太陽政策は、武力を用いず、吸収統一を目指さず、和解と協力を推進する外交政策です。そんな彼の任期満了直前における訪朝は、当然、太陽政策の集大成的な位置づけでありましょう。それに対する共和国側の接遇は、キムジョンイル総書記自ら出迎え、一般大衆を大量動員して歓迎の花束を渡すという点では一見してノ大統領と南側当局者を大歓迎しているかに見えるものの、わざわざ「朝鮮人民軍歌」をBGMとして流している点において、実は腹の内では嗤っていたものと思われます。

前置きが長くなりましたが、今回の2.8절(2.8節)について見てみましょう。
動画はhttps://www.youtube.com/watch?v=sgMj7OOss3Eより。

キムイルソン大元帥万々歳」またはそれに準じる曲から閲兵式の本行進(太陽肖像画の行進ではない方)が始まるのが最近の定番であるところ、「祖国保衛の歌」(00:58:03)に始まり、「決戦の道へ」(01:00:20)、「進軍また進軍」(01:01:56)、「党中央を命懸けで死守しよう」(01:03:50)といった、祖国防衛系の戦時歌謡が続いた点、やはり今回の2.8節は、「正規軍・自衛戦力としての朝鮮人民軍」の位置づけを強調するための閲兵式と言えそうです。

キムイルソン大元帥万々歳」は、ようやく5曲目に登場。チュチェ96(2007)年4月25日の人民軍創建75周年記念閲兵式で演奏された、「遊撃隊行進曲」や「今日も七連隊はわれらの前にいる」といった抗日パルチザン時代を歌う作品や、「朝鮮の姿」「我らは銃をさらにかたく握らん」あたりの伝統的一品は採用されませんでした。

共和国も世代交代の時代なのか、こういった昔ながらの定番の曲が採用されなかった一方で、モランボン楽団の持ち歌と化している「戦車兵の歌」(01:21:24)や「砲兵の歌」(01:23:47)は採用。「正規軍・自衛戦力としての朝鮮人民軍」の位置づけを強調するにあたっても適した歌詞内容なので納得の選曲です。

戦車・装甲兵員輸送車・偵察戦闘車よりも自走砲・自走式多連装ロケット砲・地対空ミサイル車両の方が登場台数が多く、そして名曲「海岸砲兵の歌」(01:24:29)に合わせて登場したのもメッセージ性を強く感じるものです。戦車等は敵地に侵攻・制圧できるが、自走砲・自走式多連装ロケット砲・地対空ミサイル車両はそういう目的で設計されていません。後者の登場台数が多いという事実、そして「海岸砲兵の歌」をBGMとしている事実は、この閲兵式のテーマが「正規軍・自衛戦力としての朝鮮人民軍」という位置づけを強調する点にあることを更に論証するものであると考えられます。パレード映えする侵攻向けの兵器、好戦的な軍歌など幾らでもあるのに、それらが採用されなかったわけです。

そして最後の最後に「共和国ロケット兵行進曲」の曲に合わせての戦略軍部隊の行進。昨年は頻繁に発射実験を実施していたものの、1回の発射実験で登場するのは単一の形式だけだったので、こうして複数形式が一堂に会するのは実は初めてのケースかもしれません。「あれ、いつの間にこんなにバリエーション豊富に揃えたんだ?」と一瞬思ってしまうくらいの壮観であります(もちろん、それこそが閲兵式を全世界に公開している狙いであるわけですが)。

朝鮮労働党政治局の1月23日づけ決定によって、40年ぶりに2月8日に「戻ってきた」建軍節。当ブログでは1月25日づけ「自主独立国家建設の必須的要求である正規軍としての朝鮮人民軍――「2.8建軍節」の意味」にて、このタイミングでの党政治局の決定は、「自主独立国家建設の必須的要求である正規軍としての朝鮮人民軍」という位置づけを強調するところにあると考えるのが自然な見立てだと述べましたが、その内容を論証するかのような閲兵式でした。

なお、共和国が「マルクス・レーニン主義」の旗を降ろし、「共産主義」について言及しなくなって久しい今日。チュチェ100(2011)年10月10日の建国63周年閲兵式の時点では掲げられていたものの、チュチェ101(2012)年4月15日の太陽節閲兵式の時点では撤去済みだった(すなわち、キムジョンウン委員長の時代になるや否や早速撤去された)、マルクスとレーニンの肖像画は、あいかわらず画面から確認はできませんでした。「社会主義企業責任管理制」を政策の大黒柱として掲げている以上は、いまさらマルクスやレーニンの肖像画を掲げている場合ではないので、当然といえば当然ですけど。

キムイルソン大元帥万々歳」を後回しにしてまで「祖国保衛の歌」や「決戦の道へ」といった戦時歌謡を先発させ、「砲兵の歌」や「海岸砲兵の歌」を歌う。戦車・装甲兵員輸送車・偵察戦闘車よりも自走砲・自走式多連装ロケット砲・地対空ミサイル車両を大動員する。多種多様にわたる戦略軍の陣容を誇示する――完全に自衛モードに入っている共和国です。
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2018年02月05日

「20年、50年先の安全安心」と「目の前の経済」とを密接に結びつけて

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180205-00000004-asahi-pol
>> 落選の稲嶺氏「真摯に市民の選択受け止め」 名護市長選
2/5(月) 0:37配信
朝日新聞デジタル

 現職の稲嶺進氏(72)は後援会事務所で、相手候補の当選の一報を見ると、険しい表情になり、テレビ画面を見続けた。集まった支持者たちは静まりかえった。

 記者団に対しては「名護市民の選択の結果で、真摯(しんし)に受け止めないといけない」と話した。さらに「20年、50年先の安全安心を訴えてきたが、結局は目の前の経済優先という形で敗れた」と述べ、辺野古移設の問題が争点とならなかったと振り返った。


(以下略) <<
今回の有権者の投票動向を単純に「20年、50年先の安全安心を訴えてきたが、結局は目の前の経済優先という形で敗れた」と割り切ってよいかはさておき、重要な観点に立った分析です。

20年、50年先の安全安心を構想することは、まさしく政治が取り組むべき大課題です。しかしながら同時に、以前から述べてきたとおり、政治は現実=人々の日常生活の要求に立脚しなければなりません。たとえ長期的展望に則るにしても、人々の日常生活の上に据え付けなければなりません。チュチェ105(2016)年6月24日づけ「「生活の現実」とEU離脱派の主張」で私は、次のように述べました。
>> ■政治の立脚点、政治の目的とは何か
さて、政治は現実に立脚しなければならないことは、議論の余地はないと思います。たとえ理想を追求するにしても、「国家百年の計」を考えなければならないにしても、「今の現実」の上に据え付けなければなりません。では、政治がまず考慮に入れなければならない「今の現実」とは何でしょうか? 人々は何を求めているのでしょうか?

以前から繰り返し述べているように、それは「生活」です。人々は「日々の生活」を営みながら、「よりよい明日の生活・自主的な生活」を追求しています。よりよい明日の生活を追求する上では様々なビジョン・理想社会論が出てきますが、それらはすべて「生活のためのビジョン」です(生活を目的としない理想論は無意味・空虚です)。人々が立脚する現実は生活であり、人間活動の目的は生活であり、すべては生活のための道具です。「生活の現場こそが現実」なのです。
<<
人々は日々の生活を営みながら、よりよい明日の生活・自主的な生活を追求しています。20年、50年先の安全安心は大切ですが、まず「目先」のことに目途が立たなければ、そういった課題をじっくり考えることはできないのです

今回、稲嶺氏は20年、50年先の安全安心を訴えるという、政治が取り組むべき課題の一つを正しく取り上げたと言えます。しかし、日々の生活についてより明るいビジョンを提示する対立候補者と比べて見劣りしてしまったことは否めません。人々の投票行動においてウェイトが高く位置づけられる経済振興について対立候補者がリードしたことは、敗因といっても過言ではないでしょう。すくなくとも、稲嶺氏自身がそのように総括しているわけです。

稲嶺氏陣営や、それと足並みを揃えてきた翁長知事派が、このことを受けて、人々の日常生活に関しても突っ込んだ政策を立案し、それを選挙公約の政策パッケージに組み込む方向に舵を切るのか、それとも「目先の利益に走った馬鹿者たち」と見下す方向に舵を切るのか・・・稲嶺氏たちが、人々の日常生活を無視してきたとは私は思っていませんし、理想一辺倒の活動家マインドではないと考えています。新人左翼候補ではなく、既に2期務めてきた名護市行政の「政権担当者」だったのだから、ある程度の政権担当能力はあるわけで、おそらく前者的な方向性になるだろうと思います。稲嶺氏陣営と足並みを揃えてきた翁長知事派だって、まったくの無能無策ではないと信じています。

であるからこそ、今回を教訓に、「20年、50年先の安全安心」と「目の前の経済」とを密接に結びつけた政策パッケージの立案に期待したいと考えています。県知事選は正念場。そこまでに稲嶺氏陣営と足並みを揃えてきた翁長知事派が、どれほどまでに政策パッケージを洗練させられるかが問われています。

私自身も、当ブログで以前から展開してきているとおり、人民大衆の自主化・生産の自主管理化という気の遠くなるような果てしないビジョンを提唱しています。これらは、「20年、50年先」どころの話ではなく、また、社会総体の大変革が必要になる事業でもあります。それゆえ私は、遠大なる「革命精神」を提唱しつつも、革命的ロマンに浸り過ぎないように「生活主義」を掲げ、また、急進主義に走らないように「漸進主義」を掲げているところです。

生活主義や漸進主義が、自らの革命的力量の力不足の責任回避になってはならないことは当然のことです。しばしば、「唯物」論的な立場をとると自称する人々は、自分たちの力不足を「客観的条件の悪さ」のせいだったり、「黎明期」だの「ミニ組織」だのと言い訳して責任回避する嫌いがあります。ある程度は、そういう事情も汲む必要はあるものの、それを以って自動的に免責するわけにはいきません。ケース・バイ・ケースで審査しなければなりません。観念論に転落してはなりませんが、醜い責任回避になってはなりません。急進主義になってはいけませんが、官僚的事なかれ主義・日和見主義になってはいけません。

このあたりのバランスのとり方については、従来型の左翼思想においては、「科学理論」なる基準が取り沙汰されるところです。しかし、「科学理論」の万能性について懐疑的である立場である私としては、この基準を「人民大衆の生活」に据えたいと考えています。「人民大衆の生活」は政策の正否を実証するフィールドだからです。理屈の世界でありがちな苦し紛れの屁理屈的言い訳が通用しにくく、実証できれば「成功」・できなければ「失敗」だと明確に言えます。また、最終的に到達すべき基準は、結局のところ、「人民大衆の生活の改善」です。

もちろん、「人民大衆の生活」は、概念として漠然としています。一口に「人民大衆」、すなわち、勤労者大衆と言えども、その利害関係は複雑に錯綜しています。素朴な階級的世界観が想定しているほど現実世界は単純ではありません。世代間の関係性も重要な要素です。しかし、それらの要素があってもなお、「人民大衆の生活」という看板を下ろすわけにはいかないのであります(この点については、別稿で更に掘り下げる予定です)。

自主権の問題としての労働問題」において、「自由化と自主化による『二段階革命』」を提唱し、最近は更に、「ソーシャルブリッジの構築」といった具合に、徐々に構想を詰めているように、私自身も、「20年、50年先」と「目の前」とを密接に結びつけたビジョンを考えてゆきたいと思っているところです。
ラベル:政治 社会
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2018年02月02日

多様性重視の時代だからこそ、押し付けがましい言説をスルーするスキルを獲得すべき

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180202-00000082-asahi-soci
>> 「結婚機運を醸成」都が動画配信 押し付け?疑問の声も
2/2(金) 21:35配信
朝日新聞デジタル

 「オリンピックとパラリンピックを一緒に観(み)ませんか?」。東京都は2日、こんなセリフで物語が始まる「結婚に向けた気運(きうん)醸成のための動画」のネット配信を始めた。都民は未婚率が高く、結婚を増やすのが狙いというが、「行政が結婚を押し付けるようだ」と疑問の声もある。


(中略)

 国の調査(15年)では、18〜34歳の未婚男女の約9割が「いずれ結婚するつもり」と回答した一方、都民の生涯未婚率(同)は女性が19・20%で全国1位、男性は26・06%で同3位。2日の記者会見で動画を紹介した小池氏は「結婚は個人の自由、人生観に基づいて決めること」としつつ、結婚を望みながら未婚の人を念頭に「そういう人の背中を押して応援することも必要」と説明した。「人口は国の基本中の基本」とも述べた。

 「恋愛しない若者たち」の著書があるマーケティング会社社長の牛窪恵さんは動画について、「多様な生き方を選べる時代に、多くの独身男女が『なぜ東京都に言われないといけない?』と疑問を抱くだろう。行政が一定の型にはめようとしているようだ」と指摘。「非正規雇用が増え、経済的な事情から恋愛に意欲が持てない人も多い中、理想型の見せつけでは共感を得られない。受け手の気持ちが分かっていない」と話す。(石井潤一郎)

最終更新:2/2(金) 21:41
<<
そう、朝日新聞編集部が述べているとおり、時代は「多様性重視」なのです。だからこそ、各人はチュチェ(主体)を確立し、押し付けがましい言説をスルーするスキルを獲得すべきなのです。いちいちこんなことに反発したり、気分を害しているようでは、本当の意味での「多様性重視」の時代とは言えません。大胆なる胆力を持って、誰に何と言われようとも自分自身が歩む道に対して、自分自身を信じるからこその確信を持つべきなのです。これこそが、革命歌謡≪신심드높이 가리라≫などで歌われているチュチェの確立です。

「多様性の重視」と「チュチェの確立」は表裏一体的にあるべきです。チュチェを確立しない状態で「多様性」を重視しようものなら、結局のところ、お互いに腫れ物を触るようなヨソヨソしい関係性に陥ることでしょう。

その点、こんな記事を書き立てている朝日新聞編集部は、まだまだ多様性重視の時代に乗り切れていないと言わざるを得ないところです。むしろ、こういうお節介も甚だしい行政的キャンペーンをスルーするべく、多様な生き方のモデルを創造せんとする若人たちを鼓舞するような論陣を張るべきでしょう。

しかしまあ、少子化になれば文句を言われ、結婚サポートに乗り出せば「行政が一定の型にはめようとしているようだ」とは・・・何をやっても文句を言われる。辛い話です。
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2018年02月01日

平和の問題も福祉・労働の問題も詰めが甘い日本共産党

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2018-01-31/2018013101_04_1.html
>> 2018年1月31日(水)
非人道的惨禍が前提 「核抑止力論」を批判
衆院予算委 藤野氏、政府を追及

 日本共産党の藤野保史議員は30日の衆院予算委員会で、北朝鮮の脅威と「核抑止力論」を理由に核兵器禁止条約に背を向ける日本政府の態度をただし、安倍晋三首相に正面から条約参加を強く求めました。


(中略)

 藤野氏は、「核抑止論」について、「広島・長崎のような非人道的惨禍を引き起こしても許されるという考え方だ。唯一の戦争被爆国の政府が続けていいのかが問われている」と指摘。「核兵器を違法化し、『悪の烙印(らくいん)』を押すことが核兵器開発の放棄を迫る国際的な大きな力になる。日本政府は条約に参加してこそ、北朝鮮にも核兵器を捨てなさいと強い立場で迫ることができる。北朝鮮問題の解決には、核兵器禁止条約が最も抜本的かつ現実的な道だ」と指摘しました。 <<
核抑止論は、広島・長崎のような非人道的惨禍を回避しようとする合理的思考に対する期待があればこその外交戦術のはずですが、それはさておき、「日本政府は条約に参加してこそ、北朝鮮にも核兵器を捨てなさいと強い立場で迫ることができる」という言い分。大丈夫かな? 共和国の興味関心は徹底してアメリカであり、日本など眼中にないというのが実態でしょう。

日本共産党の理屈ではこうなのかもしれませんが、交渉事なのだから、問題は、朝鮮労働党がどういう理屈に立脚しているかです。自分が拠って立つ理屈を相手側に当てはめることは愚かなことです。国際関係でも「科学的指導」をするつもりなのでしょうか?

『しんぶん赤旗』の編集が悪いのかもしれませんが、日本共産党は平和と労働を政策的柱にしている割には、筋の通らない理解困難な言説がますます増えています。直近でも、1月30日づけ「大東建託労組員の夢物語的願望に付き合う日本共産党の著しい後退」で言及したとおり、ブラック企業の大家である大東建託について、労働運動による「体質改善」を目指す言説を好意的に取り上げるという、科学的社会主義・革命的共産主義者としては驚くべき言説を展開したところです。

当該記事でも述べましたが、一般的なレベルの企業であれば労組運動は必ずしも無意味・無価値ではないと思いますが、しかし、大東建託のケースでは無意味・無価値と言っても過言ではありません。それだけ大東建託は悪質です。大東建託のケースのような経営者・資本家が改心するはずなどなく手遅れです。

当該記事では「辞める」ことの効果を述べました。すなわち、@ミクロ的には、個別労働者が心身の無理をせず「退職」するのは、取り急ぎ安全地帯に脱出するという意味で最善的であること、そしてAマクロ的には、労働市場においてブラックの悪名が立つと求職者が減ってしまうので、企業側としては営利的判断として待遇改善に取り組むようになるわけです(もともと日本共産党はEconomics的な分析には批判的であり、かつ疎いので、これは仕方ないかなと思いますが・・・いやまあ、ダメだとは思うけど、新しい分析の視座を消化するのには時間がかかるから・・・)。

もちろん、特筆的に悪質なブラック企業といえども、現実として大東建託に勤めている人々がいる以上は、長期的には倒産・破産を目指すべきですが、短期的には現従業員の生活を擁護する必要が絶対的に存在します。それはまさしく政治の課題、経済政策の課題です。その点について私は、「社会的に好ましくない企業の淘汰」のためにこそ、スウェーデンの福祉国家モデルを参考に、ソーシャル・ブリッジの構築を急ぐべきだと述べました。かの国では、斜陽産業の淘汰を促進させつつ当該企業従業員の生活を擁護するためにソーシャル・ブリッジを構築しています。スウェーデン・モデルの神髄を「企業の適者生存のためにソーシャル・ブリッジを構築すること」に位置づけた上で、それが指し示す前例を摂取し、来るべき「日本モデル」を「ブラック企業の淘汰のためにソーシャル・ブリッジを構築すること」とすべきでしょう。しかし、日本共産党の政策パッケージからは、そういった観点を見出すことは、ほとんど不可能です。

平和の問題も福祉・労働の問題も詰めが甘い・・・というよりもともとの客観的事情の認識がズレていると言わざるを得ない、後退著しい日本共産党の姿が改めて浮き彫りになったわけです。地域の生活上の課題解決には依然として存在感があるとは思っていますが、そのレベルを超えるスケールになると一気に意味不明な「政策」が目白押しになるのが今日の日本共産党の姿です。
posted by 管理者 at 22:22| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする