2018年08月27日

「トランプのせいでヘイトクライムが増えている」;リベラル派の社会歴史観は主観観念論的

https://www.jiji.com/jc/article?k=2018080900713
トランプ政権、差別助長か=米で憎悪集団・犯罪増加

 【ワシントン時事】トランプ米大統領の人種差別的な言動が、米国社会の分断を助長していると批判されている。人権団体などによると、人権や宗教差別などに基づく「ヘイトグループ(憎悪集団)」や「ヘイトクライム(憎悪犯罪)」は現政権下で増加した。それでもトランプ氏は意に介さず、新たに米プロバスケットボール協会(NBA)のスター選手にも侮蔑の言葉を投げつけた。


 トランプ氏は昨年1月の就任以降、白人至上主義者に肩入れするような発言で批判を浴びた。アフリカや中米諸国を侮辱し、ハイチからの入国者は「全員エイズ患者だ」と述べたとされる。

 カリフォルニア州立大サンバナディーノ校の調査では、米国の10大都市における2017年の憎悪犯罪件数は前年比12%増加し、過去10年間で最悪を記録。人権団体「南部貧困法律センター(SPLC)」によれば、17年に米国内で差別活動を行った憎悪集団も前年から4%増えた。

 公民権運動団体「全米黒人地位向上協会(NAACP)」は「トランプ大統領は選挙戦から分断と憎悪の言葉を吐き出してきた」と指摘。トランプ氏の言動や政策が憎悪犯罪の増加と直接関係があると批判する。


(以下略)
トランプ老人に、大衆意識を左右したり組織化したりする度量・カリスマ性があるとは驚くべき発見です。トランプ老人のせいでヘイトクライムが増えているというのなら、彼は、能力発揮の方向性は間違っているが大衆意識を操っている点において稀代の大指導者であると言えるでしょう。直接の主従関係(たとえば労使関係のような関係)にない大勢の他人を、それも扇動だけで意図する方向に仕向けられるとは驚異的な能力です。

実際のところは、アメリカ社会は、トランプ老人という個人の存在とは無関係に、客観的事実として既に分断されており、トランプ老人は決してオピニオンリーダーや扇動者などではなく、彼もまた分断されたアメリカ社会の客観的環境に反応して言いたい放題しているだけの、いわゆる「無教養な男性白人労働者」と同じようなものであると思われます。

社会を、個々人が作り出すベクトルの合成として成り立ち、円環的因果関係が支配するシステムとして見る立場から述べれば、アメリカ社会はトランプ老人という個人の存在とは無関係に、客観的事実として既に彼の就任前から分断されており、トランプ老人本人も分断された社会の「パーツの一つ」に過ぎず、いわゆる「無教養な男性白人労働者」と大差ないと見ます。もちろん、「パーツ」だって位置する場所によって重要性は異なるものですが、社会システムが冗長化されていればこそ、特定のパーツの出来不出来を全体で補完します。現代アメリカにおいては自由主義・民主主義制度が冗長性を確保しているし、そもそもトランプ老人にはオピニオンリーダーや扇動者と言うほどの影響力はないでしょう。

「トランプのせいでヘイトクライムが増えている」――こういうのを「主観観念論的な社会歴史観」というのでしょう。トランプ老人が大統領選挙で当選して以来、「リベラル」陣営を中心にトランプ批判が継続的に展開されてきましたが、振り返ってみると「トランプの粗野な発言のせいで・・・」といった具合の批判が目につきます。あんな老人の粗野な発言くらいで国が揺らぐだなんて、あまりにも「個人」の影響力を大きく描き過ぎでしょう。無名の大衆のちょっとしたヘイト意識・ヘイト行動が、マクロレベルにおいては巨大なベクトルに合成されているというのが真相でしょう。そして、トランプ老人は、そのベクトルの構成要素ではあるが、決してそれの方向性を規定するほどのタマではないと思われます。

そしてこの手の主観観念論者は、「悪者さえいなくなれば世界は清く正しくなる」などと無邪気に考えるわけです。安直な自然改造論・社会革命論の萌芽です。

リベラル勢力の観念論っぷりがまたしても発揮された一幕でした。
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2018年08月26日

福祉政策の進歩;協働・協同社会への第一歩

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180826-00010000-binsider-soci&p=1
見えない貧困をそっと解決する「こども宅食」が革新的な理由
8/26(日) 8:10配信
BUSINESS INSIDER JAPAN

2012年に厚生労働省が発表した6人に1人(16.3%)から改善したものの、いまだ7人の1人(13.9%)の子どもが経済的に苦しい貧困状態にある日本。

低価格もしくは無料でご飯が食べられる「こども食堂」が全国的な広がりを見せるなど、さまざまな取り組みが行われているが、2017年10月に始まった「こども宅食」が“複合的”な成果を出しつつある。

なぜこども宅食は上手くいっているのか。そこには、これからの社会問題解決に欠かせない新しい仕組みがあった。

(中略)

民間と自治体が対等だからこそ出たアイデア
LINEの活用や民間の配送、企業による食品の提供――。

こども宅食のもう一つの特徴が、同じ目標に向けて、民間と自治体が対等にパートナーシップを組み、事業を進めている点だ。


(中略)

こうした行政、企業、NPOらがパートナーシップを組み、社会問題の解決を目指す形は「コレクティブ・インパクト」とも呼ばれる。

2011年にアメリカで論文が発表されて以降、欧米で注目を集め、2017年頃からは日本にも“輸入”された、今注目を集める新しい協働の形だ。

こども宅食がコレクティブ・インパクトの形を目指したのは、「業務委託だと行政の代わりにやっているだけで、NPOの良さが生きない」(RCF代表の藤沢烈さん)からだ。

実際、行政からの委託ではなく、対等にアイデアを出し合うからこそ、行政だけでは思いつかなかったような取り組みが生まれている。


(中略)

コレクティブ・インパクトの可能性
文京区の成澤廣修区長も、今後は企業との連携など、もっと違う分野でも取り組むことができるのではないかと話す。

「今回はNPOが主な相手ですが、株式会社ともできる。企業もSDGs(持続可能な開発目標)などの社会的インパクトを重視するようになっており、そのパートナーは地方自治体である可能性が高いと思っています。こども宅食によって、その思いを強くしました」

ただし、課題もある。

それは事業の継続だ。現状はふるさと納税を活用し、2017年度は8000万円以上、2018年4月から新規に募集しているふるさと納税でもすでに、900万円以上集めることに成功している。

しかし、寄付だけでは持続的とは言えない。今後どう「マネタイズ」していくかが、問われることになる。

(文、写真・室橋祐貴)

最終更新:8/26(日) 13:02
BUSINESS INSIDER JAPAN
■長く行政独占の下で硬直的・画一的だった日本の福祉サービス
一昔前は、福祉政策・社会政策は行政の独壇場であったし、そうあるべきだと当然視されていました。NPOやNGOの活動が脚光を浴びるような時代になっても、依然として福祉サービスは実質的には行政が独占しており、NPO・NGOは、その「下請け」くらいの立ち位置でしかありませんでした。

「福祉は公の責任において行うものだ」という大義名分があるとはいえ、その内実を見れば、硬直化した発想によって生まれたサービスは画一的で柔軟性を欠いたものでした。保守から革新まで揃って公営主義。保守陣営は、できれば福祉サービスを削って行財政改革に取り組みたいと狙っていたのでサービスの改善に積極的だったとは言えず、他方、革新陣営は、(今もってそうですが)イデオロギー的理由から公営主義を墨守せんとしてきました。その結果、日本の福祉サービスは、「措置」として、長く行政独占の下で硬直的・画一的でありました。

そもそも、福祉というものは生活そのものですが、生活の本質は多様性であります。生活における多様性を守り・実現させるにあたっては、消費の多様性が必須であり、そうであればこそ供給されるサービス内容も多様であらねばなりません。一人の人間が思いつくアイディアの幅は限られているので、より多様なサービスを供給するにあたっては、より多くの人に参加を呼びかけ、巻き込まなければなりません。その点、いくら「福祉は公の責任において行うものだ」という大義名分があるとはいえ、福祉サービスを行政が独占することは、「生活のための福祉」という観点に立てば本末転倒なのです。

ちなみに、私はチュチェ102(2013)年12月22日づけ「市場競争の効用は「効率性」よりも「多様性」」を筆頭に繰り返してきたように、自由な市場経済の優位性は、「効率性」などではなく、多様な供給主体が切磋琢磨することによって、サービスが多様化し、かつ、質が上がり得るところにあると考えています。福祉は営利目的とはそぐわない点あるので、全面的に自由化すべきではないものの、多様性にこそ自由経済の優位性がある点、「供給主体の多様化」という点に注目して、より積極的に取り込むべきであると考えているところです。

「多様性」が盛んに取り沙汰されていますが、いつまで待っても「サービスの多様性、供給の多様性」へ波及せず、むしろ、それを圧殺するような公営主義・計画主義・設計主義的な言説さえ出てくる昨今は、実に不可思議です。「多様性」を云々している人たちは、本心から多様性を追求しているのでしょうかね? だったら、生活の多様性のためにこそ消費の多様性が必要であり、それは供給の多様性の必然的につながるので、自由交換しか道はないはずですが・・・

■ついに時代はここまで来た
そんななか、地方自治体の施策の中で実践されつつある「コレクティブ・インパクト」。「実際、行政からの委託ではなく、対等にアイデアを出し合うからこそ、行政だけでは思いつかなかったような取り組みが生まれている。」とのことで、供給主体の多様化による効果が出ているようです。理論の世界で捏ね繰り回されているだけではなく、理論の世界を先取って地方自治体の施策の中で実践されつつあるのが画期的です。

ちなみに、「民間と自治体が対等にパートナーシップを組み、事業を進めている」というのは、記事では「2011年にアメリカで論文が発表されて以降、欧米で注目を集め、2017年頃からは日本にも“輸入”された、今注目を集める新しい協働の形だ。」と書きますが、ノーマライゼーション運動発祥地である北欧諸国では、1970年代から徐々に形成されてきた福祉事業体系なので、この言葉自体は新しいので「誤報」ではないものの正確ではないと思います。また、「アメリカの学者の思い付き」などではなく、その歴史は古く実践例豊富です。

更に革新的なのが、文京区長の次の言葉。「今回はNPOが主な相手ですが、株式会社ともできる。企業もSDGs(持続可能な開発目標)などの社会的インパクトを重視するようになっており、そのパートナーは地方自治体である可能性が高いと思っています。」。一昔前であれば、肯定的文脈で報じられることは珍しいプランです。理論の世界では依然として否定的な意見が根強いプラン。「多様性を本質とする生活のためにこそ、福祉政策・社会政策と自由市場の融合が必要だ」と長く思案してきた身からすると、「ついに時代はここまで来た。」と思うところです。「時代が私に追いついた。」などと前衛気取りで誇るつもりはなく、ただ、「問題解決の糸口が見えてきた(と少なくとも私は思う)。よかった。」という思いです。

■公営主義者たちにどう対応すべきか
ここで障害となり得るのが、昔ながらの公営主義者たちです。「福祉政策はあくまでも行政が実施主体であるべきで、NPO・NGOは、行政の指導下で『下請け』としてだったら居てもいい。福祉は営利には馴染まないので、営利企業はもっての外」と言う手合いです。

「福祉は営利には馴染まないので、営利企業はもっての外」というのは、理解可能な言い分ではあります。営利企業は支払い能力のある人だけを対象とするが、福祉を必要としている人は往々にして支払い能力に乏しい人なので、そもそも福祉産業は市場として成立しにくいこと。福祉を必要としている人には契約を締結できる法的能力を欠いている(制限行為能力者)ケースがあること。クリームスキミングが発生して収益性の低い分野に取り組む事業者が壊滅することなど。課題があることは認めざるを得ません。もちろん、「企業の社会的責任」が注目される昨今、福祉サービスを民間営利企業に丸投げするのは論外とはいえ、いわゆる「準市場」的な制度設計の下に一部参加させることくらいは認めてもよいことでしょう。しかし、NPO・NGOでさえ事業の中核には触れさせず、あくまでも「下請け」に留めさせるのは、たいへん理解に苦しむことです。Non Profit OrganizationやNon Governmental Organizationなのだから、語句の意味として営利目的ではありません。

いくつか理由はあると思われます。第一に、「福祉は公の責任において行うものだ」という大義名分に囚われているケース。NPO・NGOを実施主体の核心に引き入れることはすなわち、行政部門の地位が相対的に低下することを意味します。大義名分に囚われている人は、これが許せないのでしょう。

しかし、先に「ノーマライゼーション運動発祥地である北欧諸国では、この発想はすでに実践されている」旨を述べましたが、北欧諸国では公民協働しつつも、最終的な実施責任は公共部門・行政部門が取るということになっているので、NPO・NGOを引き入れたとしても「公的責任の放棄」には当たらないでしょう。

第二に、主に金銭的な理由でNPO・NGOは、事業継続が確実ではないという論拠によるものです。これは記事中でも触れられている重要課題です。当面は、「最終的な実施責任としての公共部門・行政部門」からの財政的バックアップが必要でしょう。しかし、あくまでも過渡期的であるべきです。

ノーマライゼーション先進国であるスウェーデンでは障害者の就労参加が国家的命題となっていますが、かの国にはSamhall(サムハル)という国営の障害者就労企業があります(当ブログでも何度も取り上げているとおりです)が、この企業は厳しい数値目標を掲げるからこそ、補助金の類は当然受け取っているものの、「国営企業」にあちがちな放漫経営とは一線を画した自立的経営を達成してきました。Samhallの例を参考として、我々式のモデルを構築すべきです。

あるいは、この課題への取り組みを機に、協同金融・社会的金融の質的転換・成長を一層進めることも一策でしょう。社会的起業が話題になっていますが、製造やサービスといったモノの流れには、カネの流れが伴い、それゆえ金融部門が対応的に存在しているという経済の実際の姿を踏まえれば、協同金融・社会的金融の重要性は言うまでもないことです。

ちなみに、公益志向の製造・サービス業の自立と協同金融・社会的金融の発展は、人民政権下での労働者による自主的生産管理を目指す主体的社会主義者として、歴史の進歩であると考えるところです。

第三には、「民間営利企業は勿論のこと、NPO・NGOも本心では信用していない」というケースです。「科学の党が国家を指導し、国家が民を指導する」という特殊な世界観を信奉する人たち、いわゆる「前衛」においては、民にあたるNPO・NGOは信用に値しないものでしょう。まして、企業家・資本家などは、「公益など眼中にない金の亡者・悪意の塊」といったところでしょう。

前衛意識の本質は「少数エリート主義」であり、他人を馬鹿にする意識があってこそのものです。企業家・資本家を「公益など眼中にない金の亡者・悪意の塊」などというのは、誹謗中傷の極致ですが、まことしやかに口にされています。傍から見れば滑稽なものです。

このケースへの反論は比較的容易です。科学的見地に立ち、事実から出発すればよいのです。公営主義で人々の多様な生活上の欲求を充足できているならまだしも、予算不足の問題を除外しても画一的で使い勝手が悪いのが事実。スウェーデンに至っては、行政中心の日本で言うところの「措置制度」に受給者自身が反発し、サービス供給主体の多様化が進められたわけです。

焼け野原から出発した戦後日本のように、ありとあらゆるものが不足している「質より量」の段階においては、画一的であったとしても無いよりはマシなのだから、多様性の問題は受給者にあっても意識されないものです。しかし、ある程度、量的に充足してくると次は質的部分に関心が至るものです。多様性に意識が向かうものです。少数のエリートは、いくらエリートであるとはいえ、常人よりは豊かかも知れないが発想に限界があるものです。「質より量」の時代においては、少数のエリートでも何とかなるかも知れませんが、質の時代・多様性の時代は、エリートの限界なのです。少数エリート主義は量的拡大の時代の発想であり、質的多様化の時代には合わないのです。

世界的視野で見ても、「少数エリート主義」は目標を達成できていないのですから、「事実から出発すればこそ行政独占の公営主義の時代は終わった」と言い得るでしょう。そして今、いわゆる「準市場」といった形態が模索されているところです。

大義名分に囚われている人については、「最終的な実施責任は公共部門・行政部門が取るのだから、『公的責任の放棄』にはならないよ」と。事業継続に懸念をもつ人には、「当面は財政支援、ゆくゆくは新しくモデルを作って行こうよ」と。いわゆる前衛連中については、「事実から出発すればこそ行政独占の公営主義の時代は終わったのだから、あなたの考え方は時代遅れだよ」と。「コレクティブ・インパクト」を含む協働・協同の推進にあたっての目下の課題・異論を乗り越えてゆくべきであります。協働・協同の方向性は進歩であり、正しいと考えます。
ラベル:福祉国家論
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2018年08月25日

「物理世界・人間社会がいかに組み立てられているか、べきか」を常に頭の片隅において人間自身に還元して評価すること

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180811-00177000-diamond-bus_all&p=1
不況でも倒産しない会社は好況時に何をしているか
8/11(土) 6:00配信
ダイヤモンド・オンライン

● 松下幸之助さんが唱えた 「ダム経営」の大切さ
 2012年12月に始まった景気回復局面は今も続き、業績が好調な中小企業が増えています。しかし油断はできません。景気は必ず循環します。好況の後には必ず不況が訪れます。いついかなる時でも企業を維持発展させるために、経営者は好景気のときこそ、「治に居て乱を忘れず」の心構えでいなくてはなりません。

 松下幸之助さんは「ダム経営」を唱えました。「ダム経営」とは、ダムに水をため、必要に応じて徐々に流していくように、ヒト・モノ・カネの経営資源、特に資金に余裕を持ち、好況時にはそれをダムのようにため、不況のときでも安定的な経営をしなさいということです。

(中略)

● まずは手元流動性を十分にし、 自己資本比率を高めること
 自己資本比率(返済の必要のない純資産÷資産)が低い会社は、景気変動への抵抗力が弱いといえます。景気が良いときは負債が多い、つまり、借金まみれでも会社は回るものです。運転資金が不足しても銀行が貸してくれます。しかし景気が悪くなれば、銀行は手のひらを返して貸してくれなくなり、立ち往生してしまいます。私はそういう会社を何社も見てきました。

 そこで、景気や業績が良くて、手元流動性(現預金など自社でコントロールできる資金)に余裕が生まれたときは、自己資本比率の低い会社は、まず財務改善を行う。借金を返すということです。それでも余裕がある場合は、自己資本比率を一定以下(たとえば20%など)に落とさない範囲で設備投資をすることを検討してください。自己資本比率が高い会社は、このことを気にすることはありません。

 ただし、手元流動性が十分にない会社は、借金返済と現預金のバランスが重要です。中小企業の手元流動性の目安は、月商の1.7ヵ月分、資金がボトム(一般的には給料日から月末までの間)になるときでも1ヵ月分を用意しておくのが適切と私は考えています。

(中略)
 ですから、手元流動性が極端に低い場合には、借金をしてでも、つまり、自己資本比率を落としてでも、手元流動性を確保することが大切なのです。あくまでも優先順位は、手元流動性が上で、それが十分に確保できてから自己資本比率のことを考えてください。
(中略)
● 景気が良いときほど、 会社が「小さくなる能力」を身につける
 設備投資をする場合でも、同時に会社が「小さくなる能力」を持っておくことがとても大切です。好況時には仕事が増えるため、社員を増やし、設備投資をしたくなりますが、すべてを拡大・拡張で賄わずに、仕事を一定比率外注するのが有効な場合も少なくありません。

 外注すれば利益率は落ちますが、景気が悪くなって仕事が減ったときに外注分を削減することで、会社と社員を守ることができます。これが「小さくなる能力」です。それをせずに、中途半端に会社を大きくすると、景気が悪化したときに対応できません。固定費は売上高が落ちても減らないのです。

(以下略)
■「自分さえよければ」か「止むを得ない自衛措置」か
好況時における手元流動性の積み増しと一定比率の業務外注化、不況時における手元流動性の切り崩しと外注削減――中途半端な日本左翼がしばしば批判の対象にする経営判断です。労働者階級・中小商工人の立場に立てば、そのような主張を展開する動機も分からなくはありません(とはいっても、本件引用記事のように「月商の1.7ヵ月分、資金がボトム(一般的には給料日から月末までの間)になるときでも1ヵ月分を用意しておくのが適切」といった具合に、経営の観点から根拠があると言い得る具体的数値を挙げるべき)が、本件引用記事が正しく指摘しているように、こうした経営判断は、資本主義経済という所与の環境におかれた企業経営の観点に立てば、止むを得ない自衛措置であると位置付けることも可能です。

このことについて、どのように評価すべきでしょうか。「自分さえよければ」と批判すべきでしょうか。「止むを得ない自衛措置」と擁護すべきでしょうか。

■「社会がいかに組み立てられるべきか」という観点に立つチュチェ哲学の答え
조청(チョチョン、在日本朝鮮青年同盟)機関誌≪새세대≫(セセデ、新世代)チュチェ101(2012)年12月号は、当時流行していたサンデルの正義論で触れられた諸テーマをチュチェ哲学の観点から取り上げる意欲的な特集を組んでいました。「災害後の便乗値上げをどう考えるか」というテーマでは、次のように論じています。
Q.弱みにつけ込んだ「便乗」値上げはアリ?ナシ?
 価格は需要と供給によって決まる?
 メキシコ湾で発生した竜巻が大きな被害をもたらした直後、1袋2ドルの氷が10ドルで、250ドルの自家用発電機が2000ドルで売られた。人の弱みにつけ込んだともいえる「便乗」値上げ。これってアリ?
 
A.社会がいかに組み立てられるべきかを考えるべき。
 この場合、値上げをした人を悪いとは一概には言えない。なぜなら、資本の発展に伴って社会が発展していく資本主義社会では、需要に比例して値段が上がるのは、一つの法則であるからだ。そのため、これに沿って値段を上げた彼らにすべての非があるとは言えない。
 チュチェ哲学を実践している共和国でもし同じことがあった場合、どうなるだろうか。ズバリ、無償ですべてを国と人民が賄うだろう。
(中略)これは、「可哀想だから手伝う」というものではなく、人間を社会的存在として見ているため、社会が手伝うのは当たり前という観点によるものだ。
 チュチェ哲学の観点から見ると、この問題は、値段を上げざるを得ない資本主義社会そのものに問題があると言える。つまり、社会がどのように組み立てられるべきかに、問題の論点を置くべきなのだ。
(以下略)
もしかすると、「おや、悪徳資本家の糾弾があると思いきや、意外な結論だ」という感想の方もいるかもしれません。しかし、チュチェ哲学は、現実の物質世界を「主体としての人間と客観的環境との相互作用」と捉えるので、その観点から述べれば、「資本主義社会では、需要に比例して値段が上がるのは、一つの法則」なので、「値上げをした人を悪いとは一概には言えない」という指摘は正しいものです。人間の行動は当人の善意・悪意にのみ規定されるわけではなく、物質世界の環境・客観的な法則にも影響されるものです。そうした環境条件を最終的に改造・征服するのは人間であるとはいえ、それは一朝一夕に完遂できるものではありません。現実生活の場面においては、物質世界の環境・客観的な法則の影響を捨象することはできないのです。

手元流動性の積み増しと一定比率の業務外注化という経営判断についても同様の観点から分析可能でしょう。たしかに不況時の「外注切り」は、切られる側からすれば堪ったものではないでしょう。手元流動性の積み増しによって手取りが減らされる従業員も不満があることでしょう。しかし、企業は、外注先よりも自社組織の存続を優先せざるを得ません。手取りが抑制されて恨みを買おうとも雇用そのものを守ることを優先せざるを得ません。場合によっては一部従業員の雇用を犠牲にしても、より多くの従業員の雇用を維持せざるを得ないというケースもあることでしょう。資本主義経済における企業は、このような方法で景気変動に対して自衛するほかないのです。「そうせざるを得ない」のです。

■「中途半端な社民主義」批判
前回記事で私は、本来国家が取り組むべき課題・社会政策的施策の一部を民間営利企業に「肩代わり」させようとするプランを「中途半端な社民主義」として批判しました。もちろん、企業の社会的責任という概念を否定するつもりはありません。しかし、誰も助けてくれないので自立せざるを得ず、競争に生き残るためには利潤を追求し蓄積せざるを得ない資本主義社会体制下の一企業に対して、景気変動への自衛措置を差し置いて社会政策的施策の一部を「肩代わり」させることは、本来的に困難なのです。

その点、「チュチェ哲学を実践している共和国でもし同じことがあった場合、どうなるだろうか。ズバリ、無償ですべてを国と人民が賄うだろう」というチュチェ哲学の実践的見解は重要な方向性を示しています国家の役割と企業の役割をしっかりと分担する(社民主義における役割分担の徹底)か、あるいは、企業の行動原理を根本的に変えるべく社会の組み立てられ方を根本から見直す(人民政権下での労働者による主体的な社会主義的生産管理への移行)べきでしょう。

■「中途半端な道徳主義」批判
なお、日本には「三方よし」という言葉がありますが、「よし」というのは多くの場合、「程度の問題」に関する言葉です。「三方よし」と「企業の社会的責任」の親和性は、私が改めて指摘するまでもないことですが、「三方よし」の観点からこの問題について考えるとすれば、「手元流動性のため込みすぎ」という論点、「程度の問題」が浮上してくることでしょう。「経営の自衛のために一定の手元流動性が必要だとは言っても、これは多すぎではないのか。やはり企業はその一部を切り崩して社会に還元し、責任を果たすべきではないのか。企業も社会政策の一翼を担うべきではないのか。」という論点です。

しかし、この場合も依然として「国家の役割と企業の役割をしっかりと分担するか、あるいは、企業の行動原理を根本的に変えるべく社会の組み立てられ方を根本から見直す」という大きな方向性に揺るぎはないでしょう。現代の民間営利企業は規模も大きく、その潜在的能力は大であるといっても、自社の経営が不安定な状態・自分のことで精いっぱいな状況下で「三方よし」を求めるのは、やはり酷だからです。余裕が出てきて初めて商業倫理に意識が向かい得るのです。とりわけ現代では、輝かしい実績とネームバリュー、莫大な資産と内部留保を持つ世界的大企業、まず安泰だと思われてきた大企業であっても、時代の変化についていけずに資産を急速に食いつぶし、ついに身売りするケースが続出しています。市場環境は不安定性を増しています。

一企業ができることを過小評価するつもりはなく、「企業の社会的責任」を軽視するつもりはありません。その潜在的能力が大きい現代民間営利企が社会のために為し得ることは多いでしょう。また、狂信的・教条的左翼が言う「企業家・資本家にとって公益など眼中になく、奴らは金の亡者・悪意の塊」などというのは、事実に反する中傷です。さらに述べれば、「企業の社会的責任」の定着によって徐々に経済社会全体に公益志向の風潮が強まってゆくことは、「企業の行動原理を根本的に変えるべく社会の組み立てられ方を根本から見直す」にあたっての第一歩であると考えています。

しかし同時に、「資本主義的な社会の組み立て方」においては、あくまでも市場における「一プレイヤー」に過ぎない個別企業については、「企業の社会的責任」は重要な概念ではあるが限界があることも認めざるを得ません。この事実を無視して「企業の社会的責任」を経済社会の諸問題解決の主要な、中心的なソリューションに据えようとすることは、中途半端な道徳主義に転落するものです。

「ため込みすぎ」を指摘するのであれば、このことを大前提としつつも、「経営的には月商の1.7ヵ月分程度あれば十分なのに、こんなにも積み立てる必要はあるのか?」といった具合に、具体的数値を根拠にすべきでしょう。決して、自分のことで精いっぱいな状況下に置かれた人に「社会的責任」を強要してはなりません。また、抽象的なお題目で言いがかりをつけるのではなく、具体的数値を根拠にすべきであります。

■「中途半端な物理主義(唯物論)」批判
「資本主義経済における企業は、そうせざるを得ない」とはいっても、それを万能の免罪符とすることは当然、許されません。前掲≪새세대≫記事でも、「値上げをした人を悪いとは一概には言えない」と書いてあるものの、「悪くない」とは書いていません。いくら主体としての人間が物質世界の環境・客観的な法則からの影響を受けるからと言って、何から何まで許されるわけではありません。人間はまったく無力というわけではないからです。

中途半端な物理主義(唯物論)者は、環境からの作用を過大評価するあまり主体側の対応を過小評価しがちです。何らかの目標の達成に失敗したとき、その失敗の原因を外部環境に求めて言い逃れするわけです。「自然環境・社会情勢が悪いから仕方ない」(←それを打破するのが革命でしょう)「敵の妨害が原因」(←そりゃ敵は妨害するでしょうよ)・・・突き詰めれば、「あれが邪魔した」「こいつのせい」といった具合です。

チュチェ哲学は、社会と人間自身の発展に伴って人間の自主的要求・創造的能力・目的意識が高まり、人間側の自然・社会改造の作用範囲が大きくなってゆくと説きます。それゆえ、主体の主動的な作用と役割によって社会的運動が生成発展するようになるといいます。

現代人は「資本主義的な社会の組み立て方」に行動の幅を規定されているとはいえ、高度に発展した現代社会に生きているからこそ為し得ることの幅もまた広くなっているはずです。中途半端に道徳主義に走り、客観的条件を無視するのは正しくない意見ですが、中途半端に物理主義(唯物論)に走り、目の前の現実を無理矢理弁護することもまた正しくない意見です。

※なお、マルクス主義で重視される「生産力」は、チュチェ哲学においては本質的には「人間の自然改造能力」であると定義されています。生産力も人間自身に還元して理解するのがチュチェ哲学の見方です。

■「原理主義」批判(補足)
一企業も経済・社会システム全体から見れば、あくまでも「一プレイヤー」に過ぎないがゆえに、彼らが為し得ることには限界があると上述しましたが、これは国家についても当てはまります。国家は一企業よりも強力な政策的・権力的手段を持っている「巨人」であるとはいえ、依然として経済・社会システム全体から見れば、あくまでも「一プレイヤー」の域を脱してはいません。正しい経済・社会システム観を持ち、計画経済的誘惑に抗しなければなりません。

■結論
中途半端な社民主義、中途半端な道徳主義、中途半端な物理主義(唯物論)。いずれも害悪です。何事においても、主体と客体の相互作用の関係に着目し、「物理世界・人間社会がいかに組み立てられているか、べきか」を常に頭の片隅において適宜に立ち返り参照しつつ、「自然の運動とは異なり社会の運動には主体としての人間の主動的な作用と役割によって生成発展」するというチュチェ哲学の観点から評価・判断すべきであります。

ここで大切なのは、人間自身に還元して評価することです。社会的運動が生成発展に際して主動的な作用と役割を果たす主体としての人間、いま現実に生きている生身の人間に可能なのかということです。推進主体が実施できないことが実現されるはずがありません。

人間自身に還元して評価する――こうすれば、中途半端な主張や希望的観測に立脚することなく、バランスの取れた物の見方を得られることでしょう。

ちなみに、最初に引用した記事の話題に立ち返れば、手元流動性の積み上げについては、目安として挙げられている金額範囲内であれば自衛措置として是認できることでしょう。経営科学の具体的数値に基づく根拠があれば是認せざるを得ないところです(適切な物理主義)。しかし、それを超える謎の積み上げがあれば、それは非難されても仕方ないかもしれません。配当や給与に回すべきかもしれません(適切な道徳主義)。具体的根拠に基づく積み上げのせいで取引先・下請け企業が経営危機に陥ると言うのであれば、その救済は当該企業ではなく政府が政策的に救済すべきです(適切な社民主義)。しかし、政府だって万能ではないので、救えないことだってあるでしょう(反原理主義)。外注化についても同様です。
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2018年08月12日

「白黒論理」から世界観レベルで脱却し社民主義の徹底へ

http://japanese.joins.com/article/604/243604.html
【コラム】罠にかかったJノミクス=韓国(2)
2018年07月31日11時10分

 文在寅(ムン・ジェイン)政権の経済政策「Jノミクス」は所得主導成長、革新成長、公正経済を3つを軸にしている。包容的成長に包装を変えた所得主導成長は、最低賃金引き上げと脆弱階層に対する財政支援拡大で所得の差を減らすと同時に、購買力増進効果が成長につながるようにするという趣旨だ。規制撤廃を通じた新産業育成を新しい成長動力にするというのが革新成長であり、財閥への経済力集中を緩和して不公正な慣行を正すというのが公正経済だ。危険で無謀な実験という批判があるが、実際、北欧の数カ国がすでに施行している政策だ。

 いかなる経済政策も短期間に効果を期待することはできない。韓国経済のパラダイムを変えようという意図なら、根気を持って我慢強く推進すべきだが、国民に忍耐心を要求しにくいのが問題だ。最低賃金引き上げのために直ちに職場を失う貧困層、すぐにもつぶれそうな零細自営業者の立場では、政府に恨みを抱くだろう。

 
 (中略)
 
 最初から文在寅政権が黒と白でなく灰色の現実を認め、適正な水準でJノミクスを推進していれば、これほどの状況にはならなかっただろう。2年連続の2けた最低賃金引き上げが代表的な例だ。保守陣営も同じだ。考えと論理が違うからといって無条件に排斥し、政策の失敗を望むような態度を見せるのは問題だ。認めるべきことは認め、問いただすべきことは問いただす姿勢が必要だ。

 金教授は白黒論理から抜け出す道は対話しかないと強調する。対話は相手の言葉に耳を傾けて共通分母を探す過程だ。惜しくても灰色の中間地点で妥協することだ。対話を通じた解決法の目指す点は、より多くの人の人間らしい生活だ。
(以下略)
■似て非なる「スウェーデン・モデル」と「Jノミクス」
たしかに、ムン「政権」のJノミクスなるものと、北欧諸国が成功裏に実践している経済政策は、「所得の差を減らすと同時に、購買力増進効果が成長につながるようにする」「規制撤廃を通じた新産業育成を新しい成長動力にする」「財閥への経済力集中を緩和して不公正な慣行を正す」といったお題目だけ見ると、とても良く似ています。ほぼコピーと言ってもよいかもしれません。しかしそれは、あくまでも見掛けだけの類似性。内実はコピーできていません。

北欧モデル、とりわけその筆頭格であるスウェーデン・モデルは、当ブログでも以前から強調しているとおり、「高福祉と好景気の好循環」を目指して設計されており、また、それを実現するにあたって労使協調を中心とした"Folkhemmet"(国民の家)構想を基盤としています。「勤労者所得・購買力の向上」「産業の振興」「経済の公正化」が"Folkhemmet"構想に基づいてシステム的に相互連関し、全体として一つの機能を実現しているわけです。

これに対して、韓「国」の現状はどうかでしょうか。「所得主導成長」「革新成長」「公正経済」といったお題目がそれぞれバラバラで、一つのシステムとして稼働していません。また、一つのお題目に限って見ても、直線的なドミノ倒し的因果関係に立ち、また、掲げた目標そのものしか見ておらず、目標達成のための下準備や政策が実施された場合の影響範囲の調査が不十分であると言わざるを得ません。

「分配が健全化され消費者の購買力が上がることが刺激となって、生産が拡大され、経済が循環し始める。分配・支出⇒生産なのだ」といったあたりが彼らの言い分なのでしょうが、これは1960年代のマクロ経済学のような安直な所得→支出→生産の因果関係、直線的なドミノ倒し的因果関係を前提としていると言う他ありません。しかし、チュチェ105(2016)年4月26日づけ「「最低賃金大幅引き上げキャンペーン」の世界観的誤りと危険性――円環的相互作用システムの立場から」で述べたとおり、そんなに安直な話ではありません。分配局面に変化が起これば、「上に政策あれば下に対策あり」の要領で、それに対応した新しい・予期せぬ変化が他の局面で新規に発生するものです。

直線的なドミノ倒し的因果関係の発想は、「事物には単一・究極的な原因がある」という思考に繋がり、その結果として「究極の原因に対応する究極の真理を掴み、改善実践を行えばよい」という結論に至ります。しかし、経済社会を司る「変数」は無数にあり、それらは相互依存・相互作用的に連関しているので、ある既知の変数を変更すれば「上に政策あれば下に対策あり」の要領で新しい動きが発生し、直線的なドミノ倒し的因果関係の発想では想定できない事態に陥るのです。まさに今、「時給が上がったので、商売たたみます」という展開が韓「国」社会で見られているように・・・

最低賃金引き上げに伴う中小零細経営への打撃の問題は勿論のこと、そのほかにも、たとえば、既存大企業に人材が集中する情勢(だからこそ大学入試も人生をかけた壮絶な受験戦争になります)であるにも関わらず「創造的なベンチャー企業の育成」などとブチ上げています。じっくりと作戦を練っておらず、安易な思いつきの域を脱していないものと推察されます

■朱子学以来の白黒論理から世界観レベルで脱却する必要
引用記事では、Jノミクスの行き詰まりの根源には、朱子学以来の「灰色」を認めない白黒論理の文化的伝統があると言います。そして、これを乗り越えるためには対話しかないとします。

成功例としてのスウェーデン・モデルが"Folkhemmet"構想に基づく対話を基調としていることを踏まえれば、対話の重要性は私も大いに賛同できるところです。スウェーデンでは、異なる階層同士が対話の中でお互いの境遇や事情、必要性を表明しあうからこそ、現実的な「落としどころ」が見出されています。

Jノミクスの行き詰まりを、外見上よく似ているにも関わらずまったく異なる状況下にある北欧諸国の現状と比較するに、開発独裁時代以来の強引な成長主義モデルを引きずっている一方で、いまどき珍しい規模の激烈な要求実現運動的・階級闘争的な労組運動も残っている韓「国」社会は、大きな転換を迫られていると言えるでしょう。Jノミクスでは事態を打開できそうになく、要求実現運動的労組運動などもっての外です。革新純化は非現実的です。かといって古い成長主義モデルもまた行き詰っており、保守回帰も不可能です。また、今まで曲がりなりにも小康状態的な均衡にあった「分配問題というパンドラの箱」を、今回自分自身で開いてしまったのだから、ムン「政権」が革新を標榜している限りは、もう元には戻せないでしょう。またロウソク集会になってしまいます。

革新純化も保守回帰も不可能。左右の極端な言説を排し中道を歩むほかないものの、Jノミクスは「中途半端な社民主義」ゆえに厳しい展望。となれば、社民主義を徹底させるしかムン「政権」に道はないでしょう。つまり、「勤労者所得・購買力の向上」「産業の振興」「経済の公正化」を相互連関させること。そのためには、経済社会を「円環的な因果関係で連関するシステム」として認識し、古いマクロ経済学の安直な教義から卒業し、"Folkhemmet"構想のように対話文化を基調とすること他国の経験を見掛けだけ真似るのではなく、自国の問題として主体的に応用するために、目標達成のための下準備や政策が実施された場合の影響範囲の調査を十分に行うことが必要です。

このとき、引用記事でも強調されているように、朱子学以来の白黒論理を乗り越えることは世界観レベルで重要な切り替えになるでしょう。この論理は、「白か黒か」「善か悪か」「敵か味方か」「労働者か資本家か」といった具合の単純二分法思考そのものです。我々の客観的物質世界は、このような単純二分法的には出来ておらず、諸要素がシステム的に、円環的な因果関係で連関しています。要求を連呼しているだけの階級闘争路線や一昔前の古いマクロ経済学は、世界観レベルで考察すれば「安直な構図的認識に基づいている」という点において朱子学以来の白黒論理とも通底しています。

これを乗り越えて、円環的な因果関係で連関するシステムとして経済社会を捉えることは、対話を基盤とする北欧的な社民主義を徹底させる上で重要な課題になるでしょう。相手方が自分と同じく「システムの構成要素」であると思えばこそ、異なる階層同士が対話する気になるものです。また、経済社会がシステム的構成になっていると考えればこそ、安直な因果関係・直線的なドミノ倒し的因果関係で社会の実相を説明できるなどとは思わないはずです。

記事では「白黒論理から抜け出す道は対話しかない」といいますが、「対話を実践するためには、まず白黒論理から脱却する必要がある」というのが正確なところでしょう。白黒論理に凝り固まった人が異なる階層・立場の人と対話する気になるはずもありません。取り組むべき順序が逆になっているのは少し気になりますが、白黒論理からの脱却がカギを握るという認識に異論はありません。正しくない認識でいくら活動しても正しくない結果に終わるだけであり、成功するためには正しい認識を基にしなければなりません。

■社会政策の最終的責任主体としての政府の復権
ところで、最賃引き上げについて、城繁幸氏が次のように書いています。
https://news.yahoo.co.jp/byline/joshigeyuki/20180728-00091012/
最低賃金の引き上げより不足分を配った方がよい理由
城繁幸 | 人事コンサルティング「株式会社Joe's Labo」代表
7/28(土) 12:50


(中略)

本来、格差是正の主役となるのは、企業ではなく政府のはずです。そこで発想を変え、雇い主ではなく、政府が社会保障給付として不足分を支給するのがベストでしょう。最低限度の生活を送るためには時給換算で1500円程度必要だというのであれば、その差額を「負の所得税」のような形で一律で支給するイメージです。

これなら働ける人たちのモチベーションを削ぐこともなく、人手不足の日本で労働市場への参加者を増やす効果も見込めるでしょう。本来、大きな政府を志向するリベラルにとっても「出来るかどうか、いちかばちかで民間企業に丸投げする政策」よりも親和性が高いはずです。
日本の最賃に関する記事ですが、最賃制度一般について言える話です。最賃引き上げによる格差是正・勤労者生活保障を「出来るかどうか、いちかばちかで民間企業に丸投げする政策」という見立ては正しい。本来的には政府部門が取り組むべき課題を民間営利企業に「肩代わり」させるというプランは、「企業の社会的責任」という美名の下、正当化されがちですが、本来的には無理があります。スウェーデンの話に戻りますが、たしかにスウェーデンも民間営利企業に一定の社会政策推進上の役割を求めています。しかし、ソーシャル・ブリッジの構築や各種福祉給付を見れば明白なとおり、勤労者の生活を保障する大黒柱的制度の最終的責任主体は紛れもなく政府部門です。

出来るかどうか、いちかばちかで民間企業に丸投げする政策」もまた、労使協調路線と階級闘争路線とのどっちつかずの中途半端な状態である点、そして、勤労者生活保障の最終的責任主体の点から見て不十分である点において、「中途半端な社民主義」の特徴です。

もちろん、「負の所得税」は、今話題の「ベーシック・インカム」と経済学的には同値として扱われている点、ベーシック・インカムの実験が各国で次々と中止されている昨今では、こうした給付を直ちに導入することは困難です。現段階では、「雇い主ではなく、政府が社会保障給付として不足分を支給するのがベスト」という発想に注目し、これを現代社民主義の基本原則の一つとして実践と理論に位置付けるよう注力すべきです。

■反面教師として
ムン「政権」が掲げるJノミクスと酷似した政策は、日本でもリベラルあるいは左翼勢力の手で時折、取り沙汰されます。特に「所得主導成長」の論法など、ほぼ同じであると言ってよいでしょう(もっとも、「所得主導成長」や「公正経済」は論点化されても「革新成長」がほとんど出てこない――せいぜい中小企業の「保護」で、そこには、イノベーションの担い手としての中小ベンチャー企業の「育成」という位置づけや「起業支援」といったものはありません――ので、日本のリベラル・左翼の経済政策はJノミクスにさえ及びませんが・・・)。しかし、いま論じてきたとおり、Jノミクスは大変な苦境に陥っており、そして北欧の成功例と比較するに、重大な誤謬があると言わざるを得ないものです。Jノミクスの苦境は、日本のリベラル・左翼が掲げる経済政策の行く手を実証するものとして、社民主義的福祉国家を追求すればこそ(そして私の場合、そこから更に一歩進んで、主体的社会主義を目指すからこそ)、反面教師的に位置付けて学ぶべきものであると言えるでしょう。

ちなみに、以前にも述べましたが、対話や団結を重視するのは勤労人民大衆が主人となる主体的な社会主義社会;人民政権と労働者による生産管理の主体的条件となります。その点、白黒論理からの脱却・対話文化の定着は、社民主義の徹底であると同時に、主体的な社会主義的な社会の主体的条件の整備に当たると考えています。もちろん、社民主義で満足していてはなりません。社民主義では解決し得ない課題があるからこそ人民政権・労働者生産管理の主体的社会主義を目指さなければなりません。

関連記事一覧:ラベル / 最低賃金からご覧ください。
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2018年08月04日

女性差別の問題は自主権の問題、女性の解放は男性を含めた勤労人民大衆の解放運動

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180802-00000081-sph-ent
東京医大の女子受験者一律減点報道に尾木ママ「あまりにも時代錯誤」片山さつき氏「男女差別でアウト」
8/2(木) 11:39配信
スポーツ報知

 尾木ママこと教育評論家の尾木直樹氏(71)が2日、自身のブログを更新。東京医科大が今年2月の一般入試で女子受験者の得点を一律で減点していたと報じられたことに「酷い差別」と怒りをあらわにした。

 尾木ママは「女子は大学入試の得点を一律減!酷い差別」との記事で報道に言及。「いや〜驚きました!!驚きました!!文科省役人の息子さんを裏口入学させたかと思いきや 他方では、女子受験生のみなさんの得点を一律に減らし、入学差別していた つまり女子入学者数を押さえていたのです!それも一切公表せず、秘密裏に進めていたのです!」とつづり、「あまりにも時代錯誤 あまりにも大胆なやり方に言葉を失います」と吐露。


(中略)

 同報道に関しては脳科学者の茂木健一郎(55)もこの日朝に「東京医大の認識の古さ、時代遅れ感は、とても残念です」とツイート。自民党の片山さつき参院議員(59)も「試験一律減点が事実なら男女差別でアウト、処分すべきだが、1人の医師が稼ぐ保険点数の男女比が10:7という問題、働き方から抜本改革しないと。医師会に女性会長なしも時代錯誤!」とつぶやくなど、衝撃が広がっている。

最終更新:8/2(木) 13:32
■あまりにも「生産性」に偏り過ぎている東京医科大の判断
この問題は、女性差別であることは間違いありません。しかし、単なる「時代錯誤の女性差別」ではないし、啓蒙的女性運動として解決を目指すべき問題ではありません。東京医科大側の言い分を見るに、もっと根が深い問題であると言わざるを得ないでしょう。

東京医科大の「関係者」の言い分は、要するに「女性は私事都合(結婚や出産)で離職しがちで、せっかく育成しても「使えない」可能性があるから、初めから受け入れない」ということです。
http://news.livedoor.com/article/detail/15100134/
外科では女性医師敬遠がち「女3人で男1人分」
2018年8月2日 16時30分
読売新聞

 東京医科大(東京)医学部医学科の一般入試で、同大が女子受験者の得点を一律に減点し、合格者数を抑えていたことが明らかになった。

 同大出身の女性医師が結婚や出産で離職すれば、系列病院の医師が不足する恐れがあることが背景にあったとされる。

 
(中略)
 
 この関係者によると、同大による女子合格者の抑制は2011年頃に始まった。10年の医学科の一般入試で女子の合格者数が69人と全体(181人)の38%に達したためだ。医師の国家試験に合格した同大出身者の大半は、系列の病院で働くことになる。緊急の手術が多く勤務体系が不規則な外科では、女性医師は敬遠されがちで、「女3人で男1人分」との言葉もささやかれているという。
大学医学部はさまざまな役割を担っていますが、最大の役割は、臨床医の育成・供給であることは間違いのないことです。しかし、仮に結婚や出産で離職しがちだといっても、そんなものは普通、医師としての職業人生のうちでたかだか数年の話であるし、そのほか諸々の勤務制限が掛かりやすいために「女3人で男1人分」だというのが事実だったとしても、その程度は、使用者たる病院側が受忍しなければならない範囲のものでしょう。何から何まで使う側にとって都合がいいほど、世の中甘くはありません。

この程度のことも受忍できない東京医科大の判断は、あまりにも「生産性」(いままさに物議をかもしている単語です)に偏り過ぎていると言わざるを得ず、このような経営姿勢を見るに、東京医科大の幹部陣は、医療スタッフを「単なる生産要素としてしか見ていない」ものと推察できます(もちろん、「生産要素」であることは間違いではありませんが、「単なる生産要素としてしか見なしていない」ということが問題なのです)。

■性別を超えた労働の問題・自主権の問題の一種として捉えるべき
「女3人で男1人分」という表現は、「男」に焦点を合わせると更に彼らの魂胆が明白になってきます。

女性の結婚や出産を機とする生活の変化は、大きな契機であるとはいえ、ワーク・ライフ・バランスの観点から述べれば、特に異常なことではありません。家事・育児等で独身時代のようには働けなくなるでしょうが、そもそもそれが普通の人間的生活です。「結婚や出産があって、仕事以外にもやることがあるから、『女3人で男1人分』だ」という言い分は、「男はワーク・ライフ・バランスが取れているケースの3倍働け」と言っているに等しい言い分です。ごく一般的な人間的働き方の3倍働くことを期待する――とんでもないブラックであると言わざるを得ません。

このように、この問題を動機レベルに分解して追究すれば、単なる「古臭い、時代錯誤的な女性差別」として片づけられるものではなく、勤務医の労働力の使用者としての姿勢にも波及する点において、労働問題の一種として捉えるべきでしょう。そうであれば、啓蒙的女性運動のレベルの話ではないだろうと言わざるを得ません。

また、「男は女の3倍働け」と言っているに等しい言い分を踏まえれば、この問題は単なる女性運動・女性解放運動に留まるものではなく、「3倍もの働きを要求されている男性の解放」であるとも言えます。やはり、啓蒙的女性運動の枠に留まるものではなく、さらに広範な層を取り込み、「勤労人民大衆の自主権の問題、勤労人民大衆の解放運動」として発展させるべきでしょう。

■実は「生産性」を損ねている――スウェーデンとの比較
ところで、北欧スウェーデンは女性運動・男女平等運動が盛んで、女性の社会進出が進んでおり、男女平等が実現しつつある社会だとしばしば紹介されます。このことはスウェーデン社会の一面を正しく表現している認識ですが、スウェーデンにおける女性の社会進出は、単なる女性運動・男女平等運動の成果ではありません。当ブログでも昨年11月19日にご紹介したとおり、同国の男女平等担当大臣が自ら「男女平等は人権の問題でもありますが、同時に経済成長のツールでもあります。これは、決して女性への贈り物ではない、ドライでテクニカルなものなんです。」と言明しています。

この観点から本件について考察すれば、「女3人で男1人分」などとうそぶく東京医科大の幹部陣は、あたかも「生産性」を重視しているように見えて、実際には思惑とは真逆の、大変な「社会的資源の無駄遣い」に走っているわけです。

医師は依然として偏在・不足しています。医師は知識労働の極致であると同時に、対人(対患者)活動である点において、増やそうと思って急に増やせるものではありません。医師の卵は社会の宝です。「女だから」という理由で門前払いするのは、それこそ「非効率」であると言わざるを得ません。もはや一切弁護の余地はないのです。

■女性の解放は男性の解放――スウェーデンの経験から
先に私は、本件への取り組みは「3倍もの働きを要求されている男性の解放」になると述べましたが、これは私のオリジナルな発想ではなく、スウェーデンの取り組みの輸入品です。高橋(2011)p5-6がスウェーデンの経験を明確に記しています。
https://www.rieti.go.jp/jp/publications/dp/11j040.pdf
 先述の通り、スウェーデンでは、国際的な枠組みでワーク・ライフ・バランスという概念が提唱される前から、男女の機会均等という理念に基づく「家庭と仕事の両立」というビジョンが打ち立てられていた。スウェーデンの父親役割の変遷を、 「父親政策(Pappapolitik)」という視点から捉えた Klinth (2005)は、1960 年代の性別役割論争に ついては、女性の解放としてだけではなく、男性の解放としても捉えるべきであると し、同国の男女平等の出発点は、両性の解放であったとの見解を示している(Klinth 2005)。女性の解放が、仕事の権利と経済的自立によりなされるのに対し、男性の解放 は、積極的で公平な親としての家庭参画であった。男性の解放なしには、女性の解放は成しえなかった、とする。育児休業制度における父親への割当制度、いわゆる「父親の月」の導入が、男女双方にとっての「二重の解放」であった。つまり女性はケアの担い手であると同時に働き手となることができ、男性は働き手であると同時にケア の担い手にもなることができたからである(Klinth 2005, Ahlberg et al. 2008)。

 同国での WLB の実現に向けた労働環境は、労働者が性別や家族状況(配偶の有無、子どもの有無)に関わらず、人として尊厳ある生活ができるよう整備されていること がその基盤にある。労働者の基本的権利を定める労働時間法(Arbetstidslagen:所定労 働時間は週 40 時間以下)や有給休暇法(Semesterlagen:年間最低5週間、国家公務員 は6週間)は遵守され、徹底化されている。
ちなみに、「性別を超えた労働の問題・自主権の問題」とか「女性の解放は男性の解放」と私は述べましたが、これはスウェーデンを参考にしたからこその認識である点において、決して階級闘争的な意味あいではない点を誤解ないようお願いいたします。前掲過去ログ(昨年11月19日づけ「男女平等は人権問題であると同時に経済成長のツール――福祉国家革新の先駆者としてブレないスウェーデンの現実を正しく報じる意味」でも述べたとおり、スウェーデンの福祉国家モデルは、「国民の家(Folkhemmet)」構想による労使対話の産物であり、これは、明らかにマルクス・レーニン主義的な労使間の階級対決・階級闘争路線を否定するものだからです。

■総括
東京医科大の判断は論外ですが、それへの反対論も間違いではないが少し物足りないというのが正直な感想です。

■続報について
5日読売新聞報道によると、「女子一律減点」ではなく「3浪以下男子に段階別の特別加点」だったという続報が出ています。
女子だけでなく、3浪の男子も抑制…東京医大
「女子の一律減点」はなかった? 読売が「3浪以下の男子に加点」と修正
本ブログ記事の主張の核心は、性差別云々ではなく、東京医科大幹部陣の思考があまりにも「生産性」に偏り過ぎているところにあります。その点、「3浪以下男子に段階別の特別加点し、女子と4浪以上の受験者には加点していなかった」という続報は、この問題を性差別の問題として片づけるべきではないという私の主張の線を更に補うものです。

主張内容を変更する必要はなく、それどころかむしろ、主張を裏付ける続報であると見ています。しかし、結果的に不十分な内容・一部誤報の報道記事を基に執筆したことになるので、一応、断り書きをしておきます。
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