今年の労働分野・福祉分野・多文化共生分野の動向の特徴点は、従来の発想や方法論とは一線を画す新しい方法、実務の現場において事実から出発することで自生的・自然発生的に編み出された新しい方法が提唱・実践され、その取り組みが一般メディアでも報じられた点にあったと私は考えます。
■労働分野における現場発の新しい方法
労働分野については、労働運動・労働組合運動(労組運動)に関して、2月21日づけ「国労・動労の方法を克服した東労組のスト戦略」(JR東労組のスト計画)と4月25日づけ「消費者には影響を及ぼさないタイプのストライキの原則的推奨と消費者直撃が例外的に正当化されるケースについて」(岡山県の両備バス労組の集改札スト決行)で取り上げました。「利用者には影響を及ぼさない一方で経営側には打撃を与え、その要求を迫る」タイプのストライキが計画・実践され、それが大きく報じられたのです。これは、期間中のサービス提供・操業の完全停止を特徴とする従来型の顧客直撃型ストライキとは一線を画すものです。
以前から繰り返し指摘しているとおり、「システムとしての市場経済」という現実・事実から出発しなければなりません。一企業の労使は顧客(消費者)との関係においては「一つの事業システム」であり「呉越同舟」の関係にあります。この事実を直視し「顧客を敵に回してはならない」ということを十分に承知した上で戦術を練らなければ、「呉越もろとも沈没」という末路を辿ることになり、結局は労働者自身の首を絞めることに繋がります。階級二分法的発想に立つ従来型の労組活動家たちが決まって口にしてきた「ストで顧客に迷惑が掛かっているのは分かっているが、悪いのは組合の条件を呑まない経営側だ。あいつらが我々の要求を呑めばいいだけだ。」という強弁は、顧客に逃げられるだけです。
その点、列車の運行には支障ないことを言明したJR東労組のスト計画と集改札ストを選択した両備バス労組の実践は、「一企業の労使は顧客・消費者との関係においては『一つの事業システム』であり『呉越同舟』の関係にある」という正しい自己認識・自己理解に立っており、「顧客を敵に回してはならない」という大原則を遵守しており、現実・事実から出発した正しい方法論であったと言えるでしょう。利用者・消費者が置き去りにされがちだった労働争議からの進歩、「労使の対立」ばかりに気を取られ「生産業者と消費生活者の関係」を見落としがちだった労組運動に、より大きなスケールを意識した視点が導入されつつある進歩の吉兆なのです。
そして、こうした方法論が、現実の労組運動:自分たちの経済的要求を事実から出発して実現する過程で自生的・自然発生的に編み出されてきた点は、依然として従来型の職業的活動家が階級二分法的発想に立って顧客・消費者直撃型の労組運動を提唱・推奨している中、現場レベルではそうした階級二分法的発想が放棄されつつある兆しであるとも言い得ます。「社会主義」と「会社主義」に支配されて来、戦闘的な紅色組合か御用組合かの両極端だった日本の労組運動に画期的変化が見えてきたと言い得るのです。
特にJR東労組についていえば、当該労組は「革マル派に支配されている」と指摘されているところですが、そんな労組でも「顧客・消費者直撃型の労組運動は展開すると自分たちの首を絞めることになる」という認識がみられるようになったということは大きな変化です。革マル派が本当に階級二分法的発想を放棄したはずがなく、あくまで情勢判断に基づく打算的なものだとは思いますが、それだけでも大進歩なのです。
JR東労組のスト計画は、とにかく労使対立を忌避する同社の独特なる事情によって結局は実行には移されず、それどころか、タブー視されていた「ストライキ」という言葉を持ち出したことがキッカケで組合員の大量脱退が発生するという事態に発展しました。このことについては、同社の個別事情を詳しく検討しなければならないところで、私も探究中であります。
あくまで一般論ですが、昨年の振り返り記事でも述べたとおり私は、労組が「労働貴族の荘園」と化さないためには、労組もまた個別労働者のチェックをうけなければならず、役に立たない労組は淘汰されなければならないと考えています。「労組も所詮は欲のある人間の組織」という現実的な認識に立ち、また、上部組織のことも考慮に入れつつ、労組に対しても警戒心を持って自主的・取捨選択的に対応しなければならないとも考えています。
その点において、現実の労組運動:自分たちの経済的要求を事実から出発して実現する過程で自生的・自然発生的に新しい方法論が編み出されたのと同様に、個別労働者が自分自身の経済的要求を事実から出発して実現する過程で自生的・自然発生的に「役に立たないJR東労組からの脱退」を選択したこともまた、日本の労組運動における画期的変化であると言えるでしょう(本当に役に立たないかどうかは、繰り返しになりますが探究中です)。
もちろん、労働者は組織化されていた方が何かとよいとは思いますから、労組からの大量脱退を喜ぶのも妙な話だと自分でも思いますが、役に立たない労組に惰性的に加入していても仕方ないことは厳然たる事実です。正直、複雑なところではありますが、労組の存在とその運動の意義は、それ自体が目的ではなく個別労働者の自主化が目的である以上は、役に立たない労組が個別労働者から見捨てられるのは「仕方ないこと」だと考えています。
労働分野はかなりイデオロギー色が強く、イデオロギーに立脚した方法論が伝統的に根強い分野です。そのような分野において、現場レベルで階級二分法的発想に立つ従来型の労組運動から脱する方法論が自生的・自然発生的に編み出されつつあるのです。それゆえ、利用者・消費者が置き去りにされがちだった労働争議からの進歩が見られつつあること、そして、個別労働者が自分自身の経済的要求を事実から出発して実現する過程で自生的・自然発生的に「役に立たない労組からの脱退」を選択し始めたこと、これら2点において画期的な一年だったと言えます。実務の現場において事実から出発することで自生的・自然発生的に編み出された新しい方法が計画・実践された画期的一年だったと言えます。
■福祉分野における現場発の新しい方法
続いて福祉分野における現場発の新しい方法の実践について振り返ってみましょう。
7月17日づけ「またしても最もホットな論点から逃げた」で取り上げた神奈川県小田原市での生活保護に係る業務改革と8月26日づけ「福祉政策の進歩;協働・協同社会への第一歩」で取り上げた東京都文京区におけるコレクティブ・インパクトによる「こども宅食」事業の推進が、この一年を特徴づける動きだったと言えます。これらもまた、従来型とは一線を画す現場発の取り組みであります。
神奈川県小田原市での生活保護に係る業務改革のキッカケは、「保護なめんな」ジャンパーを巡る全国的な批判でした。たしかにこれは受給者を威圧する点において問題視されて当然でした。仮に目的が正当であっても手段が正当とは限りません。
生活保護バッシングにおいては、チュチェ102(2013)年6月30日づけ「「自己責任論」は「助け方の拙さ」に由来する」において、「助け合い」を建前とした制度でありながら実態として「助け合い」にはなっておらず、助ける側はいつも助ける側で助けられる側はいつも助けられる側だという不満が根底にある(事実であるかどうかはさておき、そういう不満が根底にある)ことを指摘しました。その上で私は、問題の所在を「助け方の拙さ」に設定し、当該記事にて次のように述べました。
旧ブログの頃から述べてきたことですが、結局「助け方」の問題なのではないかと思います。つまり、日本の「支援」「救済」は、「対象者を助ける」ということばかりに注目しているために、被支援者が社会に恩返しする機会を積極的に設定することも無いし、恩返ししたのか否かのチェックすらしていないのではないでしょうか。たとえば、生活保護は支給したらそれっきり。積極的に雇用を創出するわけでもなければ、パチンコに注ぎ込んでいるのか如何かすらもチェックしない。それが、「「助け合い」ではない」とか「助ける側はいつも助ける側ですし、助けられる側はいつも助けられる側」「そういう善人の思いを踏み躙るのが、弱者面してぶら下がり続けているクズどもです。そういう連中に努力とか頑張るとかいった概念は存在せず、如何に楽して生きるかしか頭にないのですから。」という不満を抱かせる原因になっているのではないでしょうか。その点、ジャンパー問題を巡って全国的非難を浴びた小田原市の生活保護行政が、仕切り直しの改革プランにおいて組織目標として「自立支援」を掲げたことは、こうした類の不満を緩和する点においてプラスです。生活保護制度に対する不満の声に対して「人権論講座」に終始することなく、彼らの不満を汲んで一定の応答を試みたと言えるのです。
こうした改革が、イデオロギー的にではなく実務の現場において事実から出発することで自生的・自然発生的に編み出された点は画期的であると言えます。異論・反論に対して人権論をまくし立てて「折伏」しようとしたところで、異論派が易々と転向するはずがありません。歴史と事業を前に進めるには、「折伏」に血眼になるのではなく、落しどころに落とし込むことの積み重ねが大切です。異論派の不満を汲んで一定の応答を試みることが大切です。
市役所職員は基礎自治体の職員ですから、地域や職員個人にもよるかもしれませんが、生活の現場に最も近いところで活動するので、目の前の住民との合意を重要視するものと思われます(そうあるべきです)。小田原市職員たちの基礎自治体の職員としての現場感覚が、生活保護制度に対する不満の声に対して一定の応答を試みるプランにしたのではないでしょうか。
人権論に基づく折伏に熱中するあまり、本当であれば歴史的な前進が可能な局面で足踏みを繰り返してきた福祉分野。実務の現場において事実から出発することで自生的・自然発生的に編み出された新しい方法論を実践している小田原市の試みは画期的であり、今年の福祉分野を特徴づける一幕であると言えます。
東京都文京区におけるコレクティブ・インパクトによる「こども宅食」事業の推進については、長く学問的にも実務的にも行政独占の下で硬直的・画一的だった日本の福祉サービスの画期的転換点であると言えます。
そもそも、福祉というものは生活そのものですが、生活の本質は多様性であります。生活における多様性を守り・実現させるにあたっては、消費の多様性が必須であり、そうであればこそ供給されるサービス内容も多様であらねばなりません。一人の人間が思いつくアイディアの幅は限られているので、より多様なサービスを供給するにあたっては、より多くの人に参加を呼びかけ、巻き込まなければなりません。その点、いくら「福祉は公の責任において行うものだ」という大義名分があるとはいえ、福祉サービスを行政が独占することは、「生活のための福祉」という観点に立てば本末転倒なのです。にもかかわらず、日本の福祉サービスは、「措置」として、長く行政独占の下で硬直的・画一的でありました。
これに対して、東京都文京区で実践されつつある「コレクティブ・インパクト」は、行政からの委託ではなく対等にアイデアを出し合うからこそ、行政だけでは思いつかなかったような取り組みが生まれている点において、供給主体の多様化による効果が出ているようで、生活そのものとしての福祉のサービスの本来あるべき姿を実践しているといえます。。そしてこれが、理論の世界で捏ね繰り回されているのではなく、理論の世界を先取って地方自治体の施策の中で実践されている点、実務の現場において事実から出発することで自生的・自然発生的に編み出された新しい方法論である点において画期的であると言えます。このこともまた、今年の福祉分野を特徴づける一幕であると言えるでしょう。
福祉分野もイデオロギー色が強く、イデオロギーに立脚した方法論が伝統的に根強い分野です。しかしここでもまた、実務の現場において事実から出発することで自生的・自然発生的に編み出された新しい方法論が大きな成果を挙げつつあります。この点においても、今年は画期的な一年だったと言えます。
■多文化共生における現場発の自生的・自然発生的に編み出された新しい方法
多文化共生(外国人住民との共生)における現場発の自生的・自然発生的に編み出された新しい方法について述べたいと思います。
いわゆる多様性の問題について私は、自主の問題の一分野として位置付けており、来年以降、さらに積極的に論じたいと考えています。今年はあまり記事を書いてきませんでしたが、12月22日づけ「「外国人住民との共存・共生の問題」の本質は「ご近所づきあいの問題;お互いに配慮し合う関係性をつくる取り組み」――芝園団地の取り組みについて」で取り上げた埼玉県川口市の芝園団地での多文化共生の試みは、実生活の中から編み出され、既に実践されている点において特筆的活動と言えます。
とりあえず「多様性」と言っておけば何となく正しいように見えてしまうくらいに「多様性ブーム」の昨今においては、記事中でも書いたとおり、どこか実生活からフワフワと離れた異文化理解・多様性尊重キャンペーンが横行しています。「異文化を理解しよう」「多様性を認め合おう」といった観念的なお題目を繰り返して啓蒙活動を展開したところで、多文化共生が実現されるほど現実は甘くはありません。そもそも文化摩擦や民族差別というものは、往々にして、その集団に属する一個人との間での実生活上での不満・トラブルの蓄積が、その個人が所属している集団の問題に増幅されることで生じるものです(サンプル数過少のインチキな統計的推論のようなものです)。生活上のトラブルが原因なのです。
その点、お互いに快適な日常生活を送るためにも、特定個人によるトラブルを差別問題に発展させないためにも、実生活の現場で生じるトラブルを最優先で一つ一つ解決してゆく必要があります。「外国人住民との共存・共生の問題」は、本質的には「ご近所づきあいの問題:お互いに配慮し合う関係性をつくる取り組み」であると言えます。その観点から団地内での多文化共生を実践し、成果を挙げている芝園団地自治会の取り組みは、まさに実務の現場において事実から出発することで自生的・自然発生的に編み出された新しい方法であると言えます。
抽象的なお題目ばかりが先走りがちな昨今において、外国人住民との共存・共生に生活上の喫緊の重要課題として直面している芝園団地の自治会が、ゴミの出し方や騒音問題といった実生活に関わる分野を切り口に活動を着実に展開している、実務の現場において事実から出発することで自生的・自然発生的に新しい方法を編み出していることは、重要な事実です。イデオロギー的理想からの演繹・抽象的お題目の羅列ではなく、実生活の中から編み出され、既に実践されている活動である点が特徴です。地に足がついており、具体的な実例を創り上げているのです。
■総括
労働分野、福祉分野そして多文化共生分野のいずれにも共通するのは、立派な理想や理論からの演繹ではなく、実務の現場において事実から出発することで自生的・自然発生的に編み出された新しい方法だったことであり、そして、成果を挙げていることです。従来型の方法論とは一線を画した生活者の実践活動が歴史を前進させていたのがチュチェ107年の特徴だったのです。
■来年の編集方針(1)――5大編集方針
昨年の振り返り記事で私は、チュチェ107年の労働分野に関する編集方針として、(1)「システムとしての市場経済」という現実・事実から出発しなければならず、一企業の労使は顧客(消費者)との関係においては「一つの事業システム」であり「呉越同舟」の関係にあるという事実から出発すべきであること、(2)企業側への依存度を上げずに要求を呑ませるという点において、労働者は「辞める」という選択肢を留保した状態での要求活動を展開する必要があり、労組を中心にいざという時のための転職相互扶助体制を確立する必要があること、(3)ストライキ等による要求実現は、企業側・資本家側との利益共同体に参画することを意味し、これが戦闘的組合の御用組合化の原因なので、労働者階級の自立・自主管理の推進のためにはストライキに留まっていてはならず、資本家からの自立と生産を自主管理を目指すべきであること、(4)自主管理化路線を、社会主義理論と結びつけて深化させてゆくことを掲げました。
今回振り返った記事以外も含めて本年はおおむね、この方針で記事を執筆してきました。来年もこの編集方針を継続しつつ、これを福祉分野や多文化共生分野にも対しても「自主の問題」つながりで拡張適用させる予定です。加えて、「実務の現場において事実から出発することで自生的・自然発生的に編み出された新しい方法論」の動向についても第5の編集方針として考察してゆきたいと考えています。
この第5方針は、生活者の自発的な試行錯誤を重視するものです。私は以前から、個々人や小規模グループのミクロ的なベクトルが、あたかもベクトルの合成の如くマクロ的な社会変動につながるという社会歴史観に立ってきましたが、そうした見解と関連するものであります。この見解は、組織論におけるいわゆる「外部注入論」に疑問を投げかけるものであり、人民大衆の自発性に注目するものでもあります。
■来年の編集方針(2)――自主管理化路線のさらなる深化を目指して
ところで、労働分野・福祉分野の政策は福祉国家の根幹をなすものであり、国を形作る極めて重要なテーマです。その点、12月30日づけ「両極端な2つの「民営化幻想」を乗り越えて多様性のある公民協調・協同・協働社会へ」でも詳しく論じたとおり、日本では依然として、国のカタチを論ずるにあたって「民間善玉論・行政悪玉論」と「行政善玉論・民間悪玉論」という官民二分法的発想・悪玉論的発想に由来する両極端で事実に基づかない2つの「民営化幻想」が展開されています。
この状況に対して私は、上掲12月30日づけ記事でも述べたとおり、公設民営制度をさらに洗練させること、準市場の概念と制度設計をさらに進化させることを通して、公共・行政部門と民営・民間部門が協調・協同・協働的に連関する社会経済への道筋を模索したいと考えています。
振り返れば、従来の福祉国家を規定してきた混合経済モデルは、一国のうちに公共部門と民間部門が混在しつつもお互いに縄張りを張ってきました。混合経済モデルは、縄張り争いを惹起することで「民間善玉論・行政悪玉論」あるいは「行政善玉論・民間悪玉論」といった、両極端で事実に基づかない2つの「民営化幻想」を生む土壌になってきました。
しかし、以前から述べているとおり、自由取引の効用は「効率性」よりも「多様性」です。一人ひとりの生身の人間はみな千差万別の個性を持っており、人間生活の本質的特徴は「多様性」にあると言えます。人間の文化的な生活には消費活動が不可欠ですが、多様な個人が思い思いの生活を送るには、多様な消費活動が保障される必要があります。消費活動は生産活動を前提とします。つまり、消費の多様性のためには、生産の多様性が大前提です。一人の人間・少数の集団は、いかに天才的であったとしても、そのアイディアには限りがあるので、生産の多様性確保のためには、より多くの参加者を生産活動に巻き込む必要があると言えます。自由取引は、そうした人々の活動をコーディネートする機能を持っています。その点、人々の生活の多様性を重視すればこそ、自由取引をベースとする以外に現時点では選択肢はありません。
他方、自由取引は「自由」であるからこそ、「何でもあり」に転落するリスクを抱えています。その点、一定範囲の公益的要請を実現させる経路の確保が求められます。
措置制度と契約方式との中間形態・混合経済の一形態として位置付けられる準市場の概念は、こうした難しい調整において重要な思考の枠組みを提供すると考えられます。多様性にかかる要求と公益にかかる要求を両立するためにこそ、準市場の概念を洗練させ、制度設計に応用してゆくことがますます大切になっていると考えます。そして、社会主義の立場に立つからこそ、このことを最終的には、社会主義的公益と私的営利活動の接合――集団主義的競争と渾然一体――に繋げ、自主管理的社会主義像の深化に繋げたいと考えています。
方針というものは、何らかの目標を達成するために設定するものです。上述した来年の5大編集方針は、準市場の概念と結びつけて探究し、自主管理化路線のさらなる深化を目指して実践してゆく所存です。
■来年の編集方針(3)――チュチェの民族観・民族主義理論に立脚した多文化共生・多様性尊重
多文化共生分野については、私は、多様性尊重は棲み分けと裏表の関係にあり、その本旨は「多様性尊重」という言葉の原義に照らせばこそ「お互いの生活文化を尊重し合い、自分の生活文化も他人の生活文化も等しく大切にし、うるさい干渉をし合わないようにしよう」にあると考えています。多様性尊重が真に尊重された社会は、「文化の坩堝」ではなく「文化のサラダボウル」になると考えています。
かつて多文化共生は、民族性を薄めてコスモポリタニズム的というか最大公約数的というか・・・な文化の創生を志向するきらいがありましたが、「多様性尊重」という概念の導入以来、むしろそれが逆転し、多文化共生と自文化尊重との両立が論理的に確立されたと私は考えています。多様性尊重の旗印の下に、すべての民族が自文化の原点に立ち返り、そのよさを見直し、その上で相互尊重を目指すという方向性を模索したいと考えています。その過程においては、キム・ジョンイル総書記の労作『民族主義にたいする正しい認識をもつために』を筆頭とするチュチェの民族観・民族主義理論は基本的視座になると考えています。この筋から考察する予定です。