2018年12月31日

チュチェ107(2018)年を振り返る(3) 労働・福祉・多文化共生の現場において自生的・自然発生的に編み出された新方法が提唱・実践・報道された一年

「チュチェ107(2018)年を振り返る」第3弾として、朝鮮半島情勢と並ぶ当ブログのメインテーマである「労働者階級の自主権の問題としての労働問題」と「福祉国家の社会・経済論」、そして「多文化共生」について、「実務の現場において事実から出発することで自生的・自然発生的に編み出された新しい方法」という切り口から振り返りたいと思います。

今年の労働分野・福祉分野・多文化共生分野の動向の特徴点は、従来の発想や方法論とは一線を画す新しい方法、実務の現場において事実から出発することで自生的・自然発生的に編み出された新しい方法が提唱・実践され、その取り組みが一般メディアでも報じられた点にあったと私は考えます。

■労働分野における現場発の新しい方法
労働分野については、労働運動・労働組合運動(労組運動)に関して、2月21日づけ「国労・動労の方法を克服した東労組のスト戦略」(JR東労組のスト計画)と4月25日づけ「消費者には影響を及ぼさないタイプのストライキの原則的推奨と消費者直撃が例外的に正当化されるケースについて」(岡山県の両備バス労組の集改札スト決行)で取り上げました。「利用者には影響を及ぼさない一方で経営側には打撃を与え、その要求を迫る」タイプのストライキが計画・実践され、それが大きく報じられたのです。これは、期間中のサービス提供・操業の完全停止を特徴とする従来型の顧客直撃型ストライキとは一線を画すものです。

以前から繰り返し指摘しているとおり、「システムとしての市場経済」という現実・事実から出発しなければなりません。一企業の労使は顧客(消費者)との関係においては「一つの事業システム」であり「呉越同舟」の関係にあります。この事実を直視し「顧客を敵に回してはならない」ということを十分に承知した上で戦術を練らなければ、「呉越もろとも沈没」という末路を辿ることになり、結局は労働者自身の首を絞めることに繋がります。階級二分法的発想に立つ従来型の労組活動家たちが決まって口にしてきた「ストで顧客に迷惑が掛かっているのは分かっているが、悪いのは組合の条件を呑まない経営側だ。あいつらが我々の要求を呑めばいいだけだ。」という強弁は、顧客に逃げられるだけです。

その点、列車の運行には支障ないことを言明したJR東労組のスト計画と集改札ストを選択した両備バス労組の実践は、「一企業の労使は顧客・消費者との関係においては『一つの事業システム』であり『呉越同舟』の関係にある」という正しい自己認識・自己理解に立っており、「顧客を敵に回してはならない」という大原則を遵守しており、現実・事実から出発した正しい方法論であったと言えるでしょう。利用者・消費者が置き去りにされがちだった労働争議からの進歩、「労使の対立」ばかりに気を取られ「生産業者と消費生活者の関係」を見落としがちだった労組運動に、より大きなスケールを意識した視点が導入されつつある進歩の吉兆なのです。

そして、こうした方法論が、現実の労組運動:自分たちの経済的要求を事実から出発して実現する過程で自生的・自然発生的に編み出されてきた点は、依然として従来型の職業的活動家が階級二分法的発想に立って顧客・消費者直撃型の労組運動を提唱・推奨している中、現場レベルではそうした階級二分法的発想が放棄されつつある兆しであるとも言い得ます。「社会主義」と「会社主義」に支配されて来、戦闘的な紅色組合か御用組合かの両極端だった日本の労組運動に画期的変化が見えてきたと言い得るのです。

特にJR東労組についていえば、当該労組は「革マル派に支配されている」と指摘されているところですが、そんな労組でも「顧客・消費者直撃型の労組運動は展開すると自分たちの首を絞めることになる」という認識がみられるようになったということは大きな変化です。革マル派が本当に階級二分法的発想を放棄したはずがなく、あくまで情勢判断に基づく打算的なものだとは思いますが、それだけでも大進歩なのです。

JR東労組のスト計画は、とにかく労使対立を忌避する同社の独特なる事情によって結局は実行には移されず、それどころか、タブー視されていた「ストライキ」という言葉を持ち出したことがキッカケで組合員の大量脱退が発生するという事態に発展しました。このことについては、同社の個別事情を詳しく検討しなければならないところで、私も探究中であります。

あくまで一般論ですが、昨年の振り返り記事でも述べたとおり私は、労組が「労働貴族の荘園」と化さないためには、労組もまた個別労働者のチェックをうけなければならず、役に立たない労組は淘汰されなければならないと考えています。「労組も所詮は欲のある人間の組織」という現実的な認識に立ち、また、上部組織のことも考慮に入れつつ、労組に対しても警戒心を持って自主的・取捨選択的に対応しなければならないとも考えています。

その点において、現実の労組運動:自分たちの経済的要求を事実から出発して実現する過程で自生的・自然発生的に新しい方法論が編み出されたのと同様に、個別労働者が自分自身の経済的要求を事実から出発して実現する過程で自生的・自然発生的に「役に立たないJR東労組からの脱退」を選択したこともまた、日本の労組運動における画期的変化であると言えるでしょう(本当に役に立たないかどうかは、繰り返しになりますが探究中です)。

もちろん、労働者は組織化されていた方が何かとよいとは思いますから、労組からの大量脱退を喜ぶのも妙な話だと自分でも思いますが、役に立たない労組に惰性的に加入していても仕方ないことは厳然たる事実です。正直、複雑なところではありますが、労組の存在とその運動の意義は、それ自体が目的ではなく個別労働者の自主化が目的である以上は、役に立たない労組が個別労働者から見捨てられるのは「仕方ないこと」だと考えています

労働分野はかなりイデオロギー色が強く、イデオロギーに立脚した方法論が伝統的に根強い分野です。そのような分野において、現場レベルで階級二分法的発想に立つ従来型の労組運動から脱する方法論が自生的・自然発生的に編み出されつつあるのです。それゆえ、利用者・消費者が置き去りにされがちだった労働争議からの進歩が見られつつあること、そして、個別労働者が自分自身の経済的要求を事実から出発して実現する過程で自生的・自然発生的に「役に立たない労組からの脱退」を選択し始めたこと、これら2点において画期的な一年だったと言えます。実務の現場において事実から出発することで自生的・自然発生的に編み出された新しい方法が計画・実践された画期的一年だったと言えます。

■福祉分野における現場発の新しい方法
続いて福祉分野における現場発の新しい方法の実践について振り返ってみましょう。

7月17日づけ「またしても最もホットな論点から逃げた」で取り上げた神奈川県小田原市での生活保護に係る業務改革と8月26日づけ「福祉政策の進歩;協働・協同社会への第一歩」で取り上げた東京都文京区におけるコレクティブ・インパクトによる「こども宅食」事業の推進が、この一年を特徴づける動きだったと言えます。これらもまた、従来型とは一線を画す現場発の取り組みであります。

神奈川県小田原市での生活保護に係る業務改革のキッカケは、「保護なめんな」ジャンパーを巡る全国的な批判でした。たしかにこれは受給者を威圧する点において問題視されて当然でした。仮に目的が正当であっても手段が正当とは限りません。

生活保護バッシングにおいては、チュチェ102(2013)年6月30日づけ「「自己責任論」は「助け方の拙さ」に由来する」において、「助け合い」を建前とした制度でありながら実態として「助け合い」にはなっておらず、助ける側はいつも助ける側で助けられる側はいつも助けられる側だという不満が根底にある(事実であるかどうかはさておき、そういう不満が根底にある)ことを指摘しました。その上で私は、問題の所在を「助け方の拙さ」に設定し、当該記事にて次のように述べました。
旧ブログの頃から述べてきたことですが、結局「助け方」の問題なのではないかと思います。つまり、日本の「支援」「救済」は、「対象者を助ける」ということばかりに注目しているために、被支援者が社会に恩返しする機会を積極的に設定することも無いし、恩返ししたのか否かのチェックすらしていないのではないでしょうか。たとえば、生活保護は支給したらそれっきり。積極的に雇用を創出するわけでもなければ、パチンコに注ぎ込んでいるのか如何かすらもチェックしない。それが、「「助け合い」ではない」とか「助ける側はいつも助ける側ですし、助けられる側はいつも助けられる側」「そういう善人の思いを踏み躙るのが、弱者面してぶら下がり続けているクズどもです。そういう連中に努力とか頑張るとかいった概念は存在せず、如何に楽して生きるかしか頭にないのですから。」という不満を抱かせる原因になっているのではないでしょうか。
その点、ジャンパー問題を巡って全国的非難を浴びた小田原市の生活保護行政が、仕切り直しの改革プランにおいて組織目標として「自立支援」を掲げたことは、こうした類の不満を緩和する点においてプラスです。生活保護制度に対する不満の声に対して「人権論講座」に終始することなく、彼らの不満を汲んで一定の応答を試みたと言えるのです。

こうした改革が、イデオロギー的にではなく実務の現場において事実から出発することで自生的・自然発生的に編み出された点は画期的であると言えます。異論・反論に対して人権論をまくし立てて「折伏」しようとしたところで、異論派が易々と転向するはずがありません。歴史と事業を前に進めるには、「折伏」に血眼になるのではなく、落しどころに落とし込むことの積み重ねが大切です。異論派の不満を汲んで一定の応答を試みることが大切です。

市役所職員は基礎自治体の職員ですから、地域や職員個人にもよるかもしれませんが、生活の現場に最も近いところで活動するので、目の前の住民との合意を重要視するものと思われます(そうあるべきです)。小田原市職員たちの基礎自治体の職員としての現場感覚が、生活保護制度に対する不満の声に対して一定の応答を試みるプランにしたのではないでしょうか

人権論に基づく折伏に熱中するあまり、本当であれば歴史的な前進が可能な局面で足踏みを繰り返してきた福祉分野。実務の現場において事実から出発することで自生的・自然発生的に編み出された新しい方法論を実践している小田原市の試みは画期的であり、今年の福祉分野を特徴づける一幕であると言えます。

東京都文京区におけるコレクティブ・インパクトによる「こども宅食」事業の推進については、長く学問的にも実務的にも行政独占の下で硬直的・画一的だった日本の福祉サービスの画期的転換点であると言えます。

そもそも、福祉というものは生活そのものですが、生活の本質は多様性であります。生活における多様性を守り・実現させるにあたっては、消費の多様性が必須であり、そうであればこそ供給されるサービス内容も多様であらねばなりません。一人の人間が思いつくアイディアの幅は限られているので、より多様なサービスを供給するにあたっては、より多くの人に参加を呼びかけ、巻き込まなければなりません。その点、いくら「福祉は公の責任において行うものだ」という大義名分があるとはいえ、福祉サービスを行政が独占することは、「生活のための福祉」という観点に立てば本末転倒なのです。にもかかわらず、日本の福祉サービスは、「措置」として、長く行政独占の下で硬直的・画一的でありました。

これに対して、東京都文京区で実践されつつある「コレクティブ・インパクト」は、行政からの委託ではなく対等にアイデアを出し合うからこそ、行政だけでは思いつかなかったような取り組みが生まれている点において、供給主体の多様化による効果が出ているようで、生活そのものとしての福祉のサービスの本来あるべき姿を実践しているといえます。。そしてこれが、理論の世界で捏ね繰り回されているのではなく、理論の世界を先取って地方自治体の施策の中で実践されている点、実務の現場において事実から出発することで自生的・自然発生的に編み出された新しい方法論である点において画期的であると言えます。このこともまた、今年の福祉分野を特徴づける一幕であると言えるでしょう。

福祉分野もイデオロギー色が強く、イデオロギーに立脚した方法論が伝統的に根強い分野です。しかしここでもまた、実務の現場において事実から出発することで自生的・自然発生的に編み出された新しい方法論が大きな成果を挙げつつあります。この点においても、今年は画期的な一年だったと言えます。

■多文化共生における現場発の自生的・自然発生的に編み出された新しい方法
多文化共生(外国人住民との共生)における現場発の自生的・自然発生的に編み出された新しい方法について述べたいと思います。

いわゆる多様性の問題について私は、自主の問題の一分野として位置付けており、来年以降、さらに積極的に論じたいと考えています。今年はあまり記事を書いてきませんでしたが、12月22日づけ「「外国人住民との共存・共生の問題」の本質は「ご近所づきあいの問題;お互いに配慮し合う関係性をつくる取り組み」――芝園団地の取り組みについて」で取り上げた埼玉県川口市の芝園団地での多文化共生の試みは、実生活の中から編み出され、既に実践されている点において特筆的活動と言えます。

とりあえず「多様性」と言っておけば何となく正しいように見えてしまうくらいに「多様性ブーム」の昨今においては、記事中でも書いたとおり、どこか実生活からフワフワと離れた異文化理解・多様性尊重キャンペーンが横行しています。「異文化を理解しよう」「多様性を認め合おう」といった観念的なお題目を繰り返して啓蒙活動を展開したところで、多文化共生が実現されるほど現実は甘くはありませんそもそも文化摩擦や民族差別というものは、往々にして、その集団に属する一個人との間での実生活上での不満・トラブルの蓄積が、その個人が所属している集団の問題に増幅されることで生じるものです(サンプル数過少のインチキな統計的推論のようなものです)。生活上のトラブルが原因なのです。

その点、お互いに快適な日常生活を送るためにも、特定個人によるトラブルを差別問題に発展させないためにも、実生活の現場で生じるトラブルを最優先で一つ一つ解決してゆく必要があります。「外国人住民との共存・共生の問題」は、本質的には「ご近所づきあいの問題:お互いに配慮し合う関係性をつくる取り組み」であると言えます。その観点から団地内での多文化共生を実践し、成果を挙げている芝園団地自治会の取り組みは、まさに実務の現場において事実から出発することで自生的・自然発生的に編み出された新しい方法であると言えます

抽象的なお題目ばかりが先走りがちな昨今において、外国人住民との共存・共生に生活上の喫緊の重要課題として直面している芝園団地の自治会が、ゴミの出し方や騒音問題といった実生活に関わる分野を切り口に活動を着実に展開している、実務の現場において事実から出発することで自生的・自然発生的に新しい方法を編み出していることは、重要な事実です。イデオロギー的理想からの演繹・抽象的お題目の羅列ではなく、実生活の中から編み出され、既に実践されている活動である点が特徴です。地に足がついており、具体的な実例を創り上げているのです。

■総括
労働分野、福祉分野そして多文化共生分野のいずれにも共通するのは、立派な理想や理論からの演繹ではなく、実務の現場において事実から出発することで自生的・自然発生的に編み出された新しい方法だったことであり、そして、成果を挙げていることです。従来型の方法論とは一線を画した生活者の実践活動が歴史を前進させていたのがチュチェ107年の特徴だったのです。

■来年の編集方針(1)――5大編集方針
昨年の振り返り記事で私は、チュチェ107年の労働分野に関する編集方針として、(1)「システムとしての市場経済」という現実・事実から出発しなければならず、一企業の労使は顧客(消費者)との関係においては「一つの事業システム」であり「呉越同舟」の関係にあるという事実から出発すべきであること、(2)企業側への依存度を上げずに要求を呑ませるという点において、労働者は「辞める」という選択肢を留保した状態での要求活動を展開する必要があり、労組を中心にいざという時のための転職相互扶助体制を確立する必要があること、(3)ストライキ等による要求実現は、企業側・資本家側との利益共同体に参画することを意味し、これが戦闘的組合の御用組合化の原因なので、労働者階級の自立・自主管理の推進のためにはストライキに留まっていてはならず、資本家からの自立と生産を自主管理を目指すべきであること、(4)自主管理化路線を、社会主義理論と結びつけて深化させてゆくことを掲げました。

今回振り返った記事以外も含めて本年はおおむね、この方針で記事を執筆してきました。来年もこの編集方針を継続しつつ、これを福祉分野や多文化共生分野にも対しても「自主の問題」つながりで拡張適用させる予定です。加えて、「実務の現場において事実から出発することで自生的・自然発生的に編み出された新しい方法論」の動向についても第5の編集方針として考察してゆきたいと考えています。

この第5方針は、生活者の自発的な試行錯誤を重視するものです。私は以前から、個々人や小規模グループのミクロ的なベクトルが、あたかもベクトルの合成の如くマクロ的な社会変動につながるという社会歴史観に立ってきましたが、そうした見解と関連するものであります。この見解は、組織論におけるいわゆる「外部注入論」に疑問を投げかけるものであり、人民大衆の自発性に注目するものでもあります。

■来年の編集方針(2)――自主管理化路線のさらなる深化を目指して
ところで、労働分野・福祉分野の政策は福祉国家の根幹をなすものであり、国を形作る極めて重要なテーマです。その点、12月30日づけ「両極端な2つの「民営化幻想」を乗り越えて多様性のある公民協調・協同・協働社会へ」でも詳しく論じたとおり、日本では依然として、国のカタチを論ずるにあたって「民間善玉論・行政悪玉論」と「行政善玉論・民間悪玉論」という官民二分法的発想・悪玉論的発想に由来する両極端で事実に基づかない2つの「民営化幻想」が展開されています

この状況に対して私は、上掲12月30日づけ記事でも述べたとおり、公設民営制度をさらに洗練させること、準市場の概念と制度設計をさらに進化させることを通して、公共・行政部門と民営・民間部門が協調・協同・協働的に連関する社会経済への道筋を模索したいと考えています。

振り返れば、従来の福祉国家を規定してきた混合経済モデルは、一国のうちに公共部門と民間部門が混在しつつもお互いに縄張りを張ってきました。混合経済モデルは、縄張り争いを惹起することで「民間善玉論・行政悪玉論」あるいは「行政善玉論・民間悪玉論」といった、両極端で事実に基づかない2つの「民営化幻想」を生む土壌になってきました。

しかし、以前から述べているとおり、自由取引の効用は「効率性」よりも「多様性」です。一人ひとりの生身の人間はみな千差万別の個性を持っており、人間生活の本質的特徴は「多様性」にあると言えます。人間の文化的な生活には消費活動が不可欠ですが、多様な個人が思い思いの生活を送るには、多様な消費活動が保障される必要があります。消費活動は生産活動を前提とします。つまり、消費の多様性のためには、生産の多様性が大前提です。一人の人間・少数の集団は、いかに天才的であったとしても、そのアイディアには限りがあるので、生産の多様性確保のためには、より多くの参加者を生産活動に巻き込む必要があると言えます。自由取引は、そうした人々の活動をコーディネートする機能を持っています。その点、人々の生活の多様性を重視すればこそ、自由取引をベースとする以外に現時点では選択肢はありません。

他方、自由取引は「自由」であるからこそ、「何でもあり」に転落するリスクを抱えています。その点、一定範囲の公益的要請を実現させる経路の確保が求められます

措置制度と契約方式との中間形態・混合経済の一形態として位置付けられる準市場の概念は、こうした難しい調整において重要な思考の枠組みを提供すると考えられます。多様性にかかる要求と公益にかかる要求を両立するためにこそ、準市場の概念を洗練させ、制度設計に応用してゆくことがますます大切になっていると考えます。そして、社会主義の立場に立つからこそ、このことを最終的には、社会主義的公益と私的営利活動の接合――集団主義的競争と渾然一体――に繋げ、自主管理的社会主義像の深化に繋げたいと考えています。

方針というものは、何らかの目標を達成するために設定するものです。上述した来年の5大編集方針は、準市場の概念と結びつけて探究し、自主管理化路線のさらなる深化を目指して実践してゆく所存です。

■来年の編集方針(3)――チュチェの民族観・民族主義理論に立脚した多文化共生・多様性尊重
多文化共生分野については、私は、多様性尊重は棲み分けと裏表の関係にあり、その本旨は「多様性尊重」という言葉の原義に照らせばこそ「お互いの生活文化を尊重し合い、自分の生活文化も他人の生活文化も等しく大切にし、うるさい干渉をし合わないようにしよう」にあると考えています。多様性尊重が真に尊重された社会は、「文化の坩堝」ではなく「文化のサラダボウル」になると考えています。

かつて多文化共生は、民族性を薄めてコスモポリタニズム的というか最大公約数的というか・・・な文化の創生を志向するきらいがありましたが、「多様性尊重」という概念の導入以来、むしろそれが逆転し、多文化共生と自文化尊重との両立が論理的に確立されたと私は考えています。多様性尊重の旗印の下に、すべての民族が自文化の原点に立ち返り、そのよさを見直し、その上で相互尊重を目指すという方向性を模索したいと考えています。その過程においては、キム・ジョンイル総書記の労作『民族主義にたいする正しい認識をもつために』を筆頭とするチュチェの民族観・民族主義理論は基本的視座になると考えています。この筋から考察する予定です。
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チュチェ107(2018)年を振り返る(2) 朝米関係の行方を占うならば、朝鮮民主主義人民共和国とアメリカ合衆国そのものを正面から取り扱うべきだということが明々白々になった一年

「チュチェ107(2018)年を振り返る」の第2弾です。「『朝米関係の行方を占うならば、朝鮮民主主義人民共和国とアメリカ合衆国そのものを正面から取り扱うべき』だということが明々白々になった一年」というテーマでお送りいたします。

振り返り第1弾:チュチェ107(2018)年を振り返る(1)――国家核武力完成という基盤の上で展開された共和国の平和攻勢の一年

■悔し紛れの無理筋を展開する日本言論
振り返り第1弾の記事で私は、史上初の朝米首脳会談について、キム・ジョンウン委員長は初回会談としては十分に目標を勝ち取ったと言えると述べました。事実として、共和国が今回の会談で獲得を目指していたものは、おおむね達成されたと言えますが、このことをどうしても認められない人たちが、悔し紛れに無理筋を展開していました。日本言論に限ってすこし振り返っておきましょう。

トランプ米大統領が朝米首脳会談開催を公表して以来、日本言論では「トランプには腹案があるに違いない」「これはトランプの罠に違いない」という見立てがかなり広範に広がっていました。「米軍による斬首作戦」の「期待」が高まっていたのは、まだ昨年(チュチェ106・2017年)のこと。私なんかは、兵站に注目すれば軍事的にこそまったく実現味のない「口撃」に留まるものとして見ていましたが、70年前に兵站で散々苦労したくせにいまだに学習していない日本言論には、まるで攻撃前夜であるかのような空気が満ち満ちていたものでした。

その「余韻」ゆえの「トランプの罠」への期待(願望?)だったのだと思われますが、会談の日付が近づくにつれて、どう考えても「腹案」があるようには見えず、結局、会談結果を見るに腹案などありもしなかったのが現実でした。このことをどうしても認められない人たちによる悔し紛れの無理筋が展開されたことも今年の特徴。そのサンプルとして当ブログでは、2回にわたって特集を組みました(別途数回、小話的に言説を取り上げましたが割愛します)。

■悔し紛れの無理筋展開サンプル(1)――遠藤誉氏のケース
一つ目は、6月10日づけ「朝米関係の行方を占うならば、朝鮮民主主義人民共和国とアメリカ合衆国そのものを正面から取り扱うべき」で取り上げた東京福祉大学国際交流センター長の遠藤誉氏の記事です。中国政治の専門家が、何のつもりかは分かりませんが、よりにもよって関西大学の李英和(リ・ヨンファ)氏を相棒にすることで専門外の朝鮮半島情勢に関する知識不足を補いつつ論評しているハチャメチャなシロモノです。

トランプ大統領は、北朝鮮が要求してきた段階的非核化を事実上認めた。これはアメリカの譲歩を意味するのだろうか。答えは「否」だ。むしろ北を追い詰めている。その理由を考察する。」という書き出しに始まる記事では、段階的非核化を推進する期間中、共和国はアメリカから何も得られず、その間に共和国経済はますます疲弊するはずだから、「むしろ北を追い詰め」ることになるという論法です。

しかしながら、抜け目のない共和国は朝米首脳会談に先立って中国政府と接触。あからさまな習近平ヨイショ・中国政府ヨイショで政治的にも経済的にも中国に自らの後ろ盾となってもらい、万全の体制で会談に臨んだという事実があります。中国政治の専門家であるはずの遠藤氏の分析には中国ファクターが完全に欠落していました。

驚くべきは遠藤氏自身が4月に公開した記事中で「習近平新時代の中国の特色ある社会主義思想」の正しさを自国民に誇示したい中国共産党政権にとって、古くからの同盟国である共和国との友好関係の重要性が増しており、今後は両国の連携が強化されるだろうと自ら予測したばかりだったこと。それから2か月しかたっていないのに、中国政治の専門家だというのに、ちょっと前に自分でも言及していた中国ファクターを完全に欠落させた記事を書き立ててしまった遠藤氏の言説からは、「北朝鮮は追い詰められている」という構図でないと精神の安定を保てないのだろうかという疑いさえも生まれる奇怪極まるものでした。悔し紛れの無理筋展開にしても支離滅裂的に一貫性ないシロモノでした。

上掲6月10日づけ記事では、遠藤氏の別記事を取り上げて、朝鮮半島情勢分析で割と広くみられる誤謬について言及しました。すなわち、(1)中国視点への中途半端な偏り、(2)原典を十分に確認しない、(3)肝心の「朝鮮」を中心に据えずに中国やアメリカ、ロシアの動向ばかりに注目する、です。

■誤謬(1)――中国視点への中途半端な偏り
(1)中国視点への中途半端な偏りについては、共和国における昨今の漸進的な経済改革を中国の「改革開放政策」と無理矢理に結びつける言説を例として批判しました。

中国共産党の取り組みが中心となって世界が回っているとでも言いかねない手合いの認識では、中国政府が共和国政府に対して「改革開放」を再三にわたって要求してきたことを以って共和国が経済改革に舵を切ったという構図を描きがちです。しかし、共和国政府が中国政府の要求に付き合わなければならない理由など何処にもありません

当ブログでも以前から指摘してきたように、共和国政府は以前から、慎重に市場経済との折り合いのつけ方を模索してきました。チュチェ102(2013)年10月に発売された『週刊東洋経済』(10月12日号)の特集「金正恩の経済学」では、共和国が改革路線へ舵を切った事情について、朝鮮社会科学院研究者へのインタビューという形で掲載されています。共和国政府は、自国の必要があって改革路線に踏み出したのであり、中国政府の要求を呑んで改革路線に舵を切ったわけではないというのが真相なのです。

■誤謬(2)――原典を十分に確認しない
(2)原典を十分に確認しないについては、朝鮮労働党機関紙『労働新聞』を読めば直ちに間違いだと分かる遠藤氏の分析を例としました。遠藤氏は以前から、共和国の経済改革は中国からの改革開放要求に応じたものであるという認識に立っていますが、その観点から朝鮮労働党中央全員会議(4月20日開催)で提起された経済建設路線について、リ・ヨンファ氏からの伝聞を根拠に「北朝鮮はきっと「紅い団結」に基づいた「中国式の改革開放路線」を全開にしていくことだろう。」とブチ上げました。

しかしながら、5月13日づけ「朝鮮労働党全員会議で提起された経済建設路線を読む」において、『労働新聞』記事を和訳(当方翻訳)した上で述べたとおり、党中央は全員会議を通して自力更生・自給自足を強調しました。韓「国」紙『ハンギョレ』も、まさに”겨레”(ギョレ:同胞)であるからこそ原典を十分に確認した上で「「金委員長が中国の改革開放を率いたトウ小平の道を歩こうとしている」という評価もあるが、まだ断定する状況ではない。金委員長は「新しい革命的路線の基本原則は自力更生」と強調することにより、少なくとも形式論理上では全面的改革開放と距離を置いた。」と論評しました。

『労働新聞』を読めば直ちに間違いだと分かる遠藤氏の分析。原典ソースをしっかりと読み込まず、思い込みで分析すると如何なるのかという失敗例を、遠藤氏の「分析」は実証したのでした

■誤謬(3)――肝心の「朝鮮」を中心に据えずに中国やアメリカ、ロシアの動向ばかりに注目する
(3)肝心の「朝鮮」を中心に据えずに中国やアメリカ、ロシアの動向ばかりに注目するついては、「習近平にとって金正恩は、一党支配体制を維持するためのコマの一つなのだ。金正恩ははしゃいでいるが、習近平の手の上で踊っているに過ぎないのではないだろうか。」とする遠藤氏に対して、以下のように述べたうえで、キム・ジョンウン委員長が一方的に踊らされている・泳がされているかの如き見立ては、「相手国は自国利益のコマである」という外交戦略の大原則、二国間関係・国際関係を分析するにあたっての基本的なお約束事が遠藤氏の思考から完全に欠落しているのではないかと述べて批判しました。

キム・ジョンウン委員長にしてみれば、習主席をはじめとする歴代の中国主席たちは、「独立国家たる我が国に対して、何の権利があるのかは知らんが偉そうに指導してくる奴」といったところでしょうし、キム・ジョンナムやチャン・ソンテクの事実上の後見役であった点に至っては、「潜在的には政権を脅かす存在」であったわけです。しかし、キム・ジョンウン委員長は、習主席をヨイショしまくったわけです。

遠藤氏は「習近平にとって金正恩は、一党支配体制を維持するためのコマの一つなのだ」などと書きますが、「それは、お互いさま」。利用しあっているというのが実態なのです。

その上で私は、次のように述べました。
こうした「大国中心」の分析は、日米関係の枠内における日本の政策分析や、ソ連―東欧諸国関係の枠内での東欧諸国情勢の政策分析でも往々にして見られてきたものですが、とりわけ朝中関係では酷いものです。日本や東欧諸国の政策の行方を分析するにあたっては、米国の意向やソ連の意向を踏まえるのは必須的手続きであるとはいえ、それだけで日本や東欧諸国の政策を判断する人は、まずいません。米国の意向やソ連の意向があるとはいっても、各国にも言い分と事情があるのだから、そこにスポットライトを当てるのが当然のことです。

しかし、朝中関係ではなぜか中国政府の意向を決定的要素として共和国情勢を語る極めて不可思議な方法論が幅を利かせています
(中略)朝鮮半島情勢において中国の影響力は大であるとはいえ、それだけで説明できるものではありません。共和国の国家指導思想であるチュチェ思想の「チュチェ」は漢字で書くと「主体」ですが、これは、まさしく「反中国・反ソビエト・自主自立」という意味での「主体」です。共和国はチュチェを確立するために努力しており、ここ最近の朝米関係・朝中関係を見るに、一定の成果を挙げています
今回の共和国による平和攻勢の事実は、朝鮮半島情勢研究者にありがちな朝中関係分析の異常性をますます浮き彫りにしていると言えます。

■朝米関係の行方を占うならば、朝鮮民主主義人民共和国とアメリカ合衆国そのものを正面から取り扱うべきことが明々白々になった一年
以上に挙げた3種類の誤謬が、いよいよ破綻の様相を顕著に呈したのが今年一年の朝米関係・北南関係・朝中関係でした。共和国が弱小国でありながら「チュチェ」を提唱して自力更生・自主外交に注力してきた結果、中国を上手く利用して後見人に据えることに成功し、それを背景として史上初の朝米首脳会談の開催にこぎつけ、初回会談としては十分に目標を勝ち取ったのでした。

中国の事情だけをもって朝鮮半島情勢を語ろうとする人々の誤謬と、どうしても「北朝鮮は追い詰められている」という構図にしがみつこうとする人々の哀れさが特に際立ったチュチェ107(2018)年。現実・ファクトに立てばこそ、朝鮮半島情勢や朝米関係を語るというのであれば、朝鮮民主主義人民共和国とアメリカ合衆国そのものを正面から取り扱う必要性が明々白々になった一年でした

■悔し紛れの無理筋展開サンプル(2)――パックン(パトリック・ハーラン氏)と村野将氏のケース
悔し紛れの無理筋展開サンプルの二つ目として、6月23日づけ「朝米会談の「負け」を受けて因習的思考回路にメスを入れるアメリカ、しがみつく日本」を振り返りたいと思います。

当該記事では、共和国側がより多くの成果物を獲得した朝米首脳会談について、アメリカでは因習的な思考回路にもメスを入れる指摘が出始めたのに対して、日本では因習的な思考回路――勧善懲悪主義――にますます固執する姿を取り上げて批判しました。

アメリカ事情については、ニューズウィーク日本版の「米朝会談「アメリカは高潔・聡明、敵はクレイジー」外交のツケ」という記事を取り上げました。「そもそもアメリカの外交政策には以前から「世界観」に問題があった」として、「アメリカでは経験豊富な政府高官や聡明な専門家でさえ、外交摩擦を利害の対立や政治的価値観の衝突として理解するのではなく、個人の欠点や被害妄想、現実に対するゆがんだ見方を反映していると捉えたがる」と指摘する記事です。アメリカの為政者の世界観は、まさしく観念論と言うべきです。ニューズウィーク日本版記事は、こうした観念論的な考え方の誤りを指摘するものであり、内容の重要性もさることながら、こうして因習的思考回路に斬り込む姿勢そのものが重要であります。アメリカは、朝米首脳会談の「負け」から教訓を学び取ろうとしていると言えます。

日本事情については、AbemaTIMESの「「トランプ大統領は絶対やってはいけないことをした」パックンも米朝首脳会談に怒り」を取り上げました。「人権問題には触れもせず、残酷な指導者と対等に付き合うような会談を行ってしまったこと。会談は譲歩を引き出すための手段でもあったのに、同じ数の国旗を並べ、同じものを食べ、一緒に庭を歩いた。絶対やってはいけないことだし、歴代大統領だったらしなかった」などと憤るパックン(パトリック・ハーラン氏)の言説について、文化大革命の真っ最中に訪中したニクソンや、ソ連共産党書記長と会談した歴代アメリカ大統領について言及しました。アメリカ大統領は、アメリカ的基準では堂々の「人権侵害国家」に該当するソ連・中国の首脳と対話してきたというのが歴史的事実・ファクト。「残酷な指導者」だからといって対話に応じないというのは、「悪との対決」の構図に立っており勧善懲悪的である点においてテレビウケするコメントではあるものの、こんな心構えを外交政策の中心に据えようものなら、進むものも進まなくなることだろうと私は述べました。

いわゆる「対北朝鮮政策」は、「悪との対決」の構図に立ち勧善懲悪的にやってきたのに、一向に成果が上がらず、むしろ「最大限の圧力」が逆に朝中両国を結束させる方向に作用しているのが客観的事実・ファクトです。"Deal"したからといって物事が進むという保証はありませんが、成果が上がらないどころか逆効果さえ生んでいる方法論にしがみつくようでは、間違いなく話は進みません。この厳然たる事実を突きつけられても依然として「悪との対決」の構図に立ち勧善懲悪にしがみつく言説が飛び出てくる点、この発想の根深さを示しています

当該記事では、岡崎研究所研究員の村野将氏の言説も取り上げて批判しました。村野氏は「国際政治は“喧嘩両成敗“でお互い仲良くするということではなく、どちらに正義や正当性があるかを決する場でもある」ので、「こちらが正義だというのであれば、北朝鮮の方から妥協してくるまで圧力はかけ続けたままであるべきだ」。にも関わらず、「トランプ大統領だけでなく、韓国を含めた陣営は北朝鮮に対して強く当たるべきところを自ら譲歩していった。これは昨年まで日本が考えていた戦略とは違う」と主張します。

村野氏が言う「正義や正当性」を「国益」という単語で言いかえれば、依然として国際政治は国益同士が剥き出しでぶつかり合う場である点において、理解可能な主張であります。しかし、本来的には「国益」という単語を使うべきタイミングで「正義や正当性」という単語を敢えて使っている点、村野氏は、勧善懲悪的な枠組みで思考していることが推察されます。極めて危険な観念論的発想です。

また、当該記事でも述べましたが、いまや一国が他国に対して、自国の国益を一方的に押し付けられるような情勢にはありません。力関係の問題として見たとき、世界は確実に多極化しています国益同士が剥き出しでぶつかり合う場であるからこそ、今や一方的に国益を押し付けようとするだけでは何も得られず、相手側にも一定の譲歩をしなければならなくなっているわけです。かつての現実はすでに非現実になっているのです。村野氏が言う「昨年まで日本が考えていた戦略」は時代遅れとなっており、それに尚もしがみつくようでは観念論に転落することでしょう。

因習的な「アメリカは高潔・聡明、敵はクレイジー」という思考回路にメスを入れ始めるアメリカ、因習的な勧善懲悪主義の思考回路にますます固執する日本。朝鮮半島情勢・朝米関係を巡って日本言論の観念論化が際立った一年でした。
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チュチェ107(2018)年を振り返る(1) 国家核武力完成という基盤の上で展開された共和国の平和攻勢の一年

チュチェ107(2018)年も例年どおり、過去ログの読み返しを通して一年間の出来事を振り返りたいと思います。まずは、朝鮮半島情勢について朝鮮民主主義人民共和国(共和国)にスポットを当てて振り返りたいと思います。

共和国にとってのチュチェ107年は建国70周年の年でしたが、(1)国家核武力完成という基盤の上で展開された平和攻勢の一年でした。また、共和国の平和攻勢が大成功をおさめた事実に対して、悔し紛れの無理筋が大規模に展開されましたが、このことを通じて、(2)「朝米関係の行方を占うならば、朝鮮民主主義人民共和国とアメリカ合衆国そのものを正面から取り扱うべき」だということが明々白々になった一年でもありました。

この記事では、(1)国家核武力完成という基盤の上で展開された平和攻勢の一年について述べます。(2)については、次の記事に分割して述べます。

振り返り第2弾:チュチェ107(2018)年を振り返る(2)――朝米関係の行方を占うならば、朝鮮民主主義人民共和国とアメリカ合衆国そのものを正面から取り扱うべきだということが明々白々になった一年

■歴史的な急展開を見せた北南関係・朝米関係とキム・ジョンウン委員長の確固たる決意と卓越した外交センス
昨年(チュチェ106・2017年)来の朝米間の激しい対立と緊張は、年明け以降も続きました。1月22日づけ朝鮮労働党政治局決定による朝鮮人民軍創建記念日の変更(40年ぶりに戻す)や2月8日の閲兵式(軍事パレード)は、1月25日づけ「自主独立国家建設の必須的要求である正規軍としての朝鮮人民軍――「2.8建軍節」の意味」や2月11日づけ「BGMから読み解く朝鮮人民軍創建70周年慶祝閲兵式」で論じたとおり、アメリカの脅威・恫喝に屈せず自国の自主と独立をあくまでも守り抜くという決意に満ちたものだったと言えます。

同時に共和国は、韓「国」ピョンチャンで開催された冬季オリンピックへの要人派遣によって北南関係改善の突破口を開き、平和攻勢の機会を逃すことなく3月上旬には韓「国」の「政府」特使団を招待。3月8日づけ「キムジョンウン同志のターン」で述べたとおり、特使団の訪問は徹頭徹尾、共和国側のペースで進んだ模様で、キム・ジョンウン委員長の確固たる決意と卓越した外交センスが光っていました

その後、韓「国」特使団のアメリカ政府への「ご報告」を受けたトランプ米大統領が朝米首脳会談をぶち上げたことによって、北南関係のみならず朝米関係も歴史的な急展開を見せました。対共和国「圧力」政策に関して最も強硬で頑迷だった日本も、3月11日づけ「各国のメンツが立つストーリーが出揃い、いよいよ朝米首脳会談へ」で取り上げたとおり、「むりやり捻りだした」感が強い理屈ではあったものの、対話局面に入り得るストーリーを編み出すことに成功し、関係各国が対話を突っぱねる動機が一旦はなくなったのでした。

これらの展開について私は、4月21日づけ「「やりたいことはやりきった」というストーリーの延長上に位置付けられる共和国の核実験場廃棄宣言」において、共和国は昨年11月の国家核武力完成によって「やりたいことはやりきった」というストーリーを持つに至り、このことを基盤・スタートラインとして対話攻勢・平和攻勢を展開していると位置づけました。「共和国はまったくブレておらず、従前からの主張を繰り返し続けている」とした上で、にもかかわらずアメリカ側(トランプ大統領)が「非常に良いニュースで大きな進展だ」と称賛したことについて、現状は「共和国側のペース」と言ってよいでしょう」と述べました。もちろん、共和国は馬鹿ではないので、対話の雰囲気を醸成し平和攻勢を主導しつつも、抜け目なく「わが国に対する核の威嚇や核の挑発がない限り、核兵器を絶対に使用しない」と述べていました。依然として警戒心を緩めない共和国の老熟した外交交渉に全世界が注目しました

■アメリカの「首脳会談中止」カードを斬って返した共和国
しかしながら5月以降、アメリカ政府内部の「リビア方式の非核化」に拘る一部の頑迷な政府担当者の発言や、相変わらずの米「韓」合同軍事演習の展開など、対話局面とはそぐわないアメリカ側の言行不一致的な行動によって徐々に朝米両国間の溝は拡大。双方から批判の応酬が始まり、ついに5月24日にはアメリカ側が「首脳会談中止」を発表するに至りました。電撃的な首脳会談決定に続く電撃的な中止に、世界は2度驚かされました。そして、舌の根も乾かぬうちの「やっぱり開催」の発表。3度世界は驚かされました。

このジェットコースター的な駆け引きを振り返ると、これもまた共和国側の外交術の鮮烈さに感服せざるを得ません。

5月17日づけ「筋を通し公開的に言質を取った共和国」で論じたとおり、共和国は、対話局面で北侵演習を展開するという非常識な行動を理由に北南閣僚級会談を中止し、いわゆる「リビア方式」に拘る一部政府関係者の件も交えて、朝米首脳会談について再考をチラつかせました。これは当然です。体制の安全保障が至上命題である共和国にとって、いったん丸腰になる「リビア方式」は決して受け入れられるものではなく、そんな交渉に参加する意味はありません。日本国内の報道でさえ、面と向かって共和国を擁護することはしない(できない)ものの、共和国側の「大国に国を委ねて崩壊したリビアやイラクの運命をわが国に強要しようとしている」という発言を編集・カットせずにそのまま伝えたり、海外識者・専門家の解説を引用したりする形で、「リビア方式」を朝米交渉に持ち込むことのの無茶さを報じていました。

これに対してアメリカ側がいち早く軌道修正を試みました。ホワイトハウスのサンダース報道官は、「リビアモデルは我々が採用中のモデルではない」と弁明しました。また、「もし会談が開催されないなら、我々は最大の圧迫戦略を継続していく」という発言も引き出しました。これは「ただちに軍事行動に移るつもりはない」ということを意味します。共和国は、機を捉えた絶妙な揺さぶりでアメリカ側から是非とも引き出したかった言質を獲得したのでした。そしてまた、「『対話のための圧力』は、対話を台無しにし得る」という教訓を残しました。今後、アメリカが再度圧力路線に回帰したとしても、この前例がある以上は、抑制する力が働くことでしょう。

アメリカ側が仕掛けた「首脳会談中止」という危機への共和国側の対応も見事でした。5月26日づけ「「寛大さ」と「アメリカの無茶の被害者としてのワタシ」を描き出すキム・ゲグァン談話の戦略性」で論じたように、共和国外務省は、いつになく抑制的な調子を採用して「寛大さ」を強調しつつ、同時に行間に「哀しみ」を漂わせる談話を第1外務次官名義で発表することで、「アメリカが無茶を言ってきて困るんですよ・・・」という被害者としての振る舞いを見せ、「分からず屋のトランプ坊やを諭している」構図を描き出しました。

アメリカ側に対して一定程度の配慮を見せる寛大な論調の談話が、「我々も可能な限り妥結に向けて努力してきたが、やはりアメリカは頑なだった」という、今回に限らず今後もしばらく使えるストーリーを創り上げたのです。折しも5月中旬以降、News Week誌やBBC放送が「トランプ政権が無茶を吹っかけてノース・コリアを困らせている」という構図の記事を書き始めていました。時機を捉えた見事な斬り返しです。

「首脳会談中止」がアメリカの揺さぶりであることは明らかです。朝米首脳会談開催が決まってからというもの、朝中関係が中国が完全に共和国の後見人となる形で劇的に改善され、北南関係も共和国主導の形で改善されました。巻き返しを狙ったアメリカ側は、「首脳会談中止」という特大級のカードを切ってみたものの、その目論見は崩れ去ったわけです。見事と言うほかありません。

■初回会談としては十分に目標を勝ち取りつつ油断なさらないキム・ジョンウン委員長
「やっぱり開催」の方向性が確定してからというもの、ますます情勢は共和国側に有利に傾きました。6月3日づけ「朝米首脳会談中止騒動で共和国が得たもの」において私は、約1週間にわたって展開された「中止騒動」を振り返りました。相手がトランプ大統領であるとはいえ、「キム委員長が権力の座にとどまったままでも北朝鮮の変革は可能だ」や「時間をかけても構わない」、「圧力は継続するが、『最大の圧力』という言葉を金輪際、使いたくない」という言質を取ったことは重要でした。共和国は、アメリカ側から仕掛けられた揺さぶりをも斬ってかえし、国益を確保しました。結果的に見て、共和国側がどうしてもアメリカ側の口から言わせたかったセリフを言わせることに成功したのでした。

結局、事前の有利な情勢はそのまま持ち越されました。6月12日の朝米首脳会談では、6月12日づけ「수령님、장군님が果たせなかった偉業を、遺訓を果たされた원수님 수령님、장군님が生涯をかけて注力されてきた偉大な遺産の賜物」でまとめたように、共和国側は共同文書へのCVIDの明記を回避して「朝鮮半島の完全な非核化」という表現を勝ち取りました。アメリカ側から安全保障の言質を取り付けました。米「韓」軍事演習中止という台詞を引き出しました。制裁解除は叶わなかったものの、ここ最近、自ら「自力更生」を連呼していた点、共和国側は今回の会談にそこまでの期待はしていなかったものと推察されます。キム・ジョンウン委員長は初回会談としては十分に目標を勝ち取ったと言えます。

大いなる快挙でありつつも、6月13日づけ「朝米首脳会談を報じる朝鮮中央通信配信記事から読み取る「要点」」で指摘したとおり、米「韓」合同軍事演習が「無条件の中止」ではなく「朝米間の善意の対話が行われている間」という限定付きである点を共和国側は十分に理解して、それを自国民にも伝えている点、依然として油断しておらず、さすが共和国であると言えます。そしてまた、アメリカ側が朝米関係の改善のための真の信頼構築措置を取る限りにおいて自分たちも追加的な措置を取ると宣言し、ボールはアメリカ側にあるという構図を描きました。

アメリカが米中貿易戦争や中間選挙対策で忙しかったこともあり、12月31日現在で第2回朝米首脳会談は開催されていませんが、依然として対話局面は続いており、開催が前向きに模索されていると報じられています。しばらく時間が空いてしまったため、6月時点での共和国に有利な情勢がそのまま続いているとは言い難いものの、不利に転落したという事実もありません。有利かは分からないが不利ではない現状を今後どのように活用してゆくのか、今後の共和国の外交手腕に注目です。

■総括:軍事力の担保があるからこそ外交交渉が成り立つ好例、共和国の歴史における苦労が報われた勝利の証
朝米首脳会談までを振り返ると、11月29日づけ「チュチェ朝鮮の戦略的地位を最上の境地に引き上げた国家核武力の完成1周年」でも論じたとおり、これは、国家核武力完成をスタートラインとしていると言えます。軍事力の担保があるからこそ外交交渉が成り立つ好例であると言えます。

共和国の国家核武力完成は、他の国であればたったの一日も耐えられない前代未聞の困難な試練と難関を一歩も退かずに乗り越えて達成したものですが、ここにおいては、首領・党・大衆の一心団結、すなわち、思想の団結と社会・政治の組織的な団結構造が最大の秘訣であったと言えます。

9月30日づけ「김정은위원장 문재인대통령과 백두산에 오르시였다」で言及したとおり、キム・ジョンイル総書記は、チュチェ84(1995)年1月1日発表の≪당의 두리에 굳게 뭉쳐 새로운 승리를 위하여 힘차게 싸워 나가자≫(党のまわりに固く団結し新たな勝利のために力強くたたかっていこう)において、「わが党には自己の指導者に忠実な中核が多くいます。党に忠実な中核がわたしを積極的に支持し助けてくれるので、キムジョンイル将軍も存在しているのです。一人では将軍になることはできません。わたしは中核の知恵をまとめて、彼らに依拠して政治をおこなっています。」と仰っています。

総書記のご指摘は、政治権力の本質を主体的立場から言い当てています。為政者や政権与党というものは、自己・自派の政治的ビジョンを貫徹させるべく社会を動かそうと努力するものですが、多くの国では「政権機関・行政機関を動かす」ようには「社会を動かす」ことはできないものです。政権機関や行政機関を意のままに動かすことはできても社会そのものを直接的に意のままに動かすことはできないのが一般的です。これは、社会そのものは、為政者や政権与党が意のままに操れるほど結束していないし、指揮系統が組織化されていないのが一般的だからです。

その点、共和国が、他の国であればたったの一日も耐えられない前代未聞の困難な試練と難関を一歩も退かずに乗り越えて国家核武力を完成させた事実の背景、数十年来のビジョンが貫徹された背景には、世界にまたとない思想的にも組織的にも高度に結束した共和国の姿があると言えるでしょう。首領・党・大衆の一心団結、すなわち、思想の団結と社会・政治の組織的な団結構造が最大の秘訣であったと言えるのです。この歴史的偉業は、偉大な指導者の周りに千万軍民が一心団結したがゆえの偉業なのです。

思想の団結と社会・政治の組織的な団結は、チュチェ思想においては重要テーマです。偉大な指導者の周りに千万軍民が一心団結したがゆえの国家核武力完成という歴史的偉業は、同時に、チュチェ思想の偉大な実践的成果であるとも言えるでしょう。

国家核武力完成は、共和国の戦略的地位を更に高め、帝国主義者たちの横暴無道な核恐喝を終わらせ、帝国主義者たちを対話と交渉のテーブルに着かせました。また、安全保障が確立されたがゆえに、共和国は社会主義経済建設に全力を集中できるようになり、革命の前進速度をさらに加速していくことができる断固とした担保ができました。

朝米首脳会談の開催は、先軍政治を含む共和国の路線がついに結実したものであり、共和国の歴史における苦労が報われたことを意味します。建国70年目の象徴的出来事は、首領・党・大衆の一心団結;思想の団結と社会・政治の組織的な団結構造の賜物であり、これはチュチェ思想の偉大な実践的成果であります。この歴史的偉業は、勝利の証だったのです。
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2018年12月30日

両極端な2つの「民営化幻想」を乗り越え、消費生活の多様性がある公民協調・協同・協働社会へ

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181228-00182239-hbolz-soci
水道民営化をすれば水道代が安くなるという幻想
12/28(金) 8:33配信
HARBOR BUSINESS Online

 先日、極右系フェイクニュースをリツイートしているような人物から「水道を民営化をすれば行政の無駄を省き、画期的なアイディアで水道代を値下げできる」という主張を受けました。一般的に「ネトウヨ」と呼ばれるジャンルの人なのですが、とにかく「水道民営化をすれば水道代は下がるんだ」という主張をしており、140文字のTwitterで一生懸命返信を試みたのですが、文字数に制限があると、なかなか伝えたいことが伝えられないので、このたび、しっかりと記事を書くことで納得していただこうと思いました。


(中略)

◆「民間ならば無駄のない経営ができる」という幻想
「行政の仕事は無駄だらけだけど、民間企業なら無駄のない経営ができる」というのは完全なる幻想です。

 行政はその会計を非公開にすることはできません。請求があれば情報を開示する義務があり、何にどれだけお金がかかっているのかをチェックされる運命にあります。もちろん、無駄なものにお金がかかっていることもあるかもしれませんが、それらは原則として住民がチェックでき、「これが無駄だ」と指摘し、改善させることができます。

 これが民間の会社になってしまうとどうなるのか。何にどれだけお金がかかっているのかを開示する義務は基本的にありません。「そこらへんは自治体と契約する時にうまいこと開示するように義務づける」という人もいるかもしれませんが、企業も企業でそこらへんはうまいことやるのです。

 日産のカルロス・ゴーン会長がうまいことやって退職後にも巨額の報酬をもらおうとしていたのと一緒です。行政だと絶対にあり得ませんが、キャバクラ代を接待交際費として領収書を切ってもらうこともできるようになります。また、民間企業の場合には、働かずにお金を儲ける「投資家」という存在が入ってくることもコストを高くする原因になります。株式を上場して企業の価値を高めれば、株価が高くなり、株主の資産も大きくなります。株主配当を奮発すれば、ますます株価は上がり、株主の資産はもっともっと大きくなります。利益を配管などのメンテナンスに使うのではなく、株主配当に使って、金持ち同士みんなでウマウマするという現象が起こるのも民間企業の特徴です。つまり、民間企業なら無駄のない経営ができるというのは、「メンテナンスにかかる費用を最小限にするに違いない」という極めて部分的な話をしているに過ぎず、それ以外の「本質的な無駄」の部分を完全に無視していると言えると思います。

◆行政サービスを採算だけで判断する愚かさ
「過疎地の買い物難民のためにドローンを使った物資の供給などを提案したり、試行錯誤しているのも民間企業である。採算性の薄いところに新しい切り口で提案できる能力は行政より民間の方が高い」という話もされました。

 ドローンには競争性があり、水道民営化には25年から30年の独占契約が結ばれることを考えると競争性がなく、ドローンと水道はまったく異なるのですが、ドローンの会社がどうして試行錯誤をしているのかと言えば、それは彼らが「ドローンに将来性を感じていて、きっと物資を運ぶためにドローンが活用される社会が来るはずだ」と考えているからです。

 もちろん、本当にそんな世の中が来たら、今から取り組んでいる企業には既にノウハウを蓄積されているわけですから、ライバル会社に差をつけ、先行者利益でバクバクに儲かる可能性を秘めています。

 つまり、彼らはボランティアのためにやっているのではなく、将来の利益のためにやっているのです。

 この「選挙ウォッチャー」という仕事も、今はまったく儲かりません。もっと読んでくれる人が増えてもいいと思うのですが、選挙を面白いと感じてくれる人がまだまだ少ないため、ビジネスとして成立しているとは言い難い状況です。しかし、儲からないのに、それでもやり続けている理由は、この仕事が世の中に必要だということもあるのですが、将来的にめちゃくちゃ儲かると考えているからです。将来の利益のことを考えれば、今の苦しさは耐えるに値するものだと考えているのです。

 このように「採算性が薄いのにやる」ことには何らかの理由があって、理由もないのに採算性の合わないことをやっている人は、よほど何も考えていない人です。また、ドローンを使ってどのようなビジネスをするのかを考えるのは行政の仕事ではありません。行政は「利益」を考えるところではなく、市民や国民に何をしたら有益であるかを考えるところであり、それは図書館のように運営だけを見たら赤字になるようなことでも、市民や国民のために有益であると考えればやるところです。

 そのうち「図書館を作るなんて税金の無駄だ!」と言い出すバカタレが出てくるんじゃないかとヒヤヒヤしていますが、行政サービスにおいて「採算が合うか合わないかだけを見る」というのはバカのすることです。民間企業が新しい切り口を提案するのは、いつも「儲かるから」であることを忘れてはなりません。


(中略)

 何か一つでも国民にメリットがあればいいですが、水道事業をする企業が儲かる以外のメリットは何もありません。何の解決にもなっていないので、一つ一つ丁寧に説明していく必要があると思います。水道民営化の問題はいろいろと真っ黒なので、竹中平蔵の思惑通りに事を進めないためにも、みんながしっかりとした知識を持つことが必要です。
水道事業へのコンセッション方式による公設民営制度の導入。私自身は水道事業のような費用逓減産業は経済学的見地から公営であるべきだと考えている一方で、以前から述べている通り、多様性を消費生活においても実現させるべきだと考えているので、何からの方法で広く市井のアイディアを取り込む仕組みを構築すべきであると考えています。今回の水道法改正のコンセッション方式による公設民営制度は、その観点から言うと役に立たないように思えるので、この改正案を急ぎ導入しなければならない必要性を感じてはいません。「不要ではないか」の立場です。しかしながら上掲引用元記事の主張は、今回の水道法改正による水道事業におけるコンセッション方式導入に限定して批判すればいいものを、広く公設民営化を否定する内容になっており、「言い過ぎ」であると考えているところです。

以前から申し述べている通り、私は、いわゆる「準市場」の概念と制度を発展させて、公共・行政部門と民営・民間部門が協調・協同・協働的に連関する社会経済を指向しています。社会主義の立場に立ちつつも民間企業や市場メカニズムを参考的に取り込み、融合して行こうと考えている立場です。社会主義的公益と私的営利活動の接合――集団主義的競争と渾然一体――を僭越ながら模索しています。その観点から以下、考察してまいります。

■我々の日常生活は民営企業・民間部門によって支えられているという事実
引用元記事の執筆者である、ちだい氏は、民間部門には「何にどれだけお金がかかっているのかを開示する義務は基本的にない」から、「キャバクラ代を接待交際費として領収書を切ってもらうこともできるようになる」し、「利益を配管などのメンテナンスに使うのではなく、株主配当に使って、金持ち同士みんなでウマウマするという現象が起こる」が、一方で、「行政はその会計を非公開にすることはできず、請求があれば情報を開示する義務があり、何にどれだけお金がかかっているのかをチェックされる」から、公営の方がいいと主張します。本当でしょうか。

この論点を考えるに当たっては、何よりも「事実から出発すること」が必要でしょう。以前から繰り返し述べていますが、我々の日常生活のほとんどの部分を直接的に支えているのは、儲け主義・営利目的の民営企業・民間部門です。利益至上主義的行動によってとんでもないコトになっていそうなところですが、その割には言うほど利益至上主義的な不祥事は起きていないというのが厳然たる事実であります。

この事実から出発すべきです。交際費云々について、企業経営や生産活動、ひいては我々の日常生活が大きく揺らぐほどの事態にはなっていません。売り上げを金持ち同士で山分けして、設備投資やサービス改善が後回しにされて、消費者が困り果てるという事態は、皆無ではないものの、蔓延しているとは決して言えません。むしろ、激しさを増す市場競争や世論によって、とりわけサービス改善の圧力に晒されて苦労しているのが多く見られています。その点、ずいぶんと一方的で事実と異なる内容が書き立てられていると言わざるを得ません。引用元記事の執筆者である、ちだい氏の主張は、単なる観念上の想定にすぎず、確実な根拠に基づく合理的な判断とは言い難いと思われます。

■民営企業・民間部門はガバナンス強化に向かっている一方で、行政機関におけるそうした動きは依然として鈍いという事実
背任的な不正行為云々について言えば、経営学的な意味で所有と経営が分離されている現代の民営企業・民間部門の場合、所有者としての株主(資本家)の眼が光っています。大きな企業であればあるほどコーポレート・ガバナンスが確立されています。雇われ経営陣や一般社員が会社の財産を私的に使えば、所有者としての株主が黙ってはいないでしょう。広い意味での公設民営化としてのコンセッション方式では、行政が親玉として君臨します。株主が雇われ経営者を監視するガバナンス機構を流用してはいかがでしょうか? ちなみに、政府・行政が株主の立場から企業経営を統制するというタイプの社会主義論もあります。このことについて引用元記事では企業も企業でそこらへんはうまいことやる」と言いますが、この程度では説明したうちには入りません

これもまた事実から出発すれば、雇われ経営陣や一般社員が所有者としての株主に対して背任的行為を繰り返し、経済社会全体を揺るがす事態にはなっていません。カルロス・ゴーン会長の件についても、無事にバレました。やはり、お天道様とビッグ・ブラザーと特捜部様は見ていらっしゃいます。

民営企業・民間部門での不正について取り上げ、以って行政機関の優位性を相対的に印象付けようとしているのが本文の主張構造ですが、公文書改竄・隠蔽がこれだけ世間を揺るがせ、行政に対する信頼が低下している昨今において、「行政には情報開示義務があるが、民営企業・民間部門にはそれがないのか・・・フムフム」と納得する読者がいったいどれだけいると言うのでしょうか? 説得力に欠けると言わざるを得ません。引用元記事の表現を借りれば「事実として、行政も行政でそこらへんはうまいことやっている」のです。まして、民営企業・民間部門はガバナンス強化に向かっている一方で、行政機関におけるそうした動きは依然として鈍いわけです

■生活に不可欠な事業だって既に民間部門が担当している事実
「水道事業は生活に不可欠な事業であり、一般的な消費財生産・販売事業と混同されるのは困る」という主張もあるかも知れませんが、今回の水道法改正は、コンセッション方式=広い意味での公設民営化であります。民間丸投げというわけではありません。先にも触れたように、純粋民営企業における所有−経営関係と同様な関係性で行政が所有者として控えています。株主が利潤最大化を要求し監査するのと同等の構図で、行政が公益に基づく要請を展開し、監査する経路があります。いやまあ、「自分たちの不祥事の後始末もできない公務員たちが、委託先の監査などできるはずがない」というのなら理解可能ですが、そういう論理構成ではなく粗雑な「民間悪玉論」に留まるものです。

「生活に不可欠」という観点についても事実から出発したいと思います。一歩間違えると取り返しのつかない不可逆的な結果をもたらす医療界の現状はどうとらえるべきでしょうか。医療界は現時点では株式会社の参入は認められておらず、医療法人の営利目的の事業展開は認められていません。しかし、株式会社の企業立病院は認められています。これらの企業立病院は、表向きは営利を掲げてはいません(掲げられません)が、株式会社的手法による経費削減は当然、展開されているところです(もっといえば、企業立病院に限らず、公立病院だってこのご時世、民間的手法を参考にしてコスト削減に挑戦しています)。企業立病院で患者がバタバタと死んでいますか?

医療ほど生活に不可欠で、かつ失敗が許されない事業は他にありません。水道事業は命に関わる事業ですが、医療事業は「直ちに」命に関わる事業である点、水道事業と同等以上の重要性を持っています。そうした超重要事業においても、当然課せられるべき一定の制限の下で、既に非行政・民間部門が立派に担当しているのです。

■両極端な2つの「民営化幻想」
以前から述べているとおり、手抜きや背任的不正行為は、「官だから起こる」とか「民だから起こる」といった問題ではなく、人間の組織に共通する問題であると言えます。旧式な二分法で考えることは不適当であり、危険であるとすら言えます。官民二分法的発想・悪玉論的発想から脱する必要があります。

また、民営企業・民間企業の社会的影響力が大きくなってきている現代において、昔のように「株主・オーナーの私有財産だから」といって、情報開示を必要としないわけには行かなくなっています。また、「事実として、行政も行政でそこらへんはうまいことやっている」時代になっています(昔から官僚組織はそうだけど)。この点からも、官民二分法的発想・悪玉論的発想から脱する必要があります。

「民間ならば無駄のない経営ができる」というのは、無邪気にも「民間善玉論・行政悪玉論」的に考えているとすれば、たしかに幻想と言うべきに違いありません。特に水道事業について言えば、そもそも現行の比較的安価な価格体系がかなり無理をしたものである以上は、公営であろうと民営であろうといずれ値上げ自体は不可避的な点において、このご時世に「コンセッション方式で民間参入を認めれば水道料金が安くなる」というのは、まずあり得ないと言ってよいと私も思います。上がることはあっても下がることは考えにくいものです。

しかしながら同時に、「行政なら透明性のある事業が期待できるが、民間では不正が横行するようになる」と強弁するこの手の言説もまた、事実から出発すればこそ前述のとおり、幻想であると言うほかありません。こちらは「行政善玉論・民間悪玉論」と言うべきものです。水道法改正を巡って、官民二分法的発想・悪玉論的発想に由来する両極端で事実に基づかない2つの「民営化幻想」が展開されています。

■自由の効用は「効率性」よりも「多様性」
引用元記事では、筆者のちだい氏は「行政サービスを採算だけで判断する愚かさ」を論じています。私も、彼とは違った意味ではあるものの、重要な観点だと考えています。この問題を単なる合理性・効率性の問題に矮小化することに私は反対です。自由の効用は「効率性」よりも「多様性」にあると考えているからです。人々の生活を第一に考えればこそ、多少「非採算的・非効率的」であっても「多様性」を目指すべきだとさえ考えています

民間企業が新しい切り口を提案するのは、いつも「儲かるから」であることを忘れてはなりません」というのは正しい指摘です(忘れている人なんているのかな? ご教示いただくまでもないような。誰と闘っておられるのでしょう?)。このことは、アダム・スミス以来の経済学の基本的原理です(『国富論』第1篇第2章)。この点を忘却しきってはならないものの、しかしながら、多くの事業家たちが、必ずしも「博愛精神」によるわけではなくそれぞれの目的・魂胆を以って新規参入することによって新しいアイディアが生まれ、サービスに多様性が生じることもまた厳然とした事実であります。今回の水道法改正の制度においては受託者との間で25年から30年の長期の独占契約が結ばれる点を以って、「競争性がない」と書かれていますが、それでも行政独占では生じ得なかった新しいアイディアが入り得る点には注目すべきでしょう。

「多様性」が多方面で重視される昨今において、生活密着型のサービスの多様性だけが認められないのはおかしな話です。「こども宅食」に関して取り上げた8月26日づけ「福祉政策の進歩;協働・協同社会への第一歩」でも述べましたが、行政機関は、公益目的という点においては純潔な目的意識を持っていますが、ひとりの人間・少数の集団が思いつくアイディアの幅には限界があります。より多様なサービスを供給するにあたっては、より多くの人に参加を呼びかけ巻き込まなければなりません

チュチェ102(2013)年12月22日づけ「市場競争の効用は「効率性」よりも「多様性」」でも述べたとおり、自由化の本質的優位性は、「効率性」ではなく、多様な供給主体によってサービスが多様化するところ、すなわち「多様性」にあります。もちろん、福祉やインフラ産業は営利目的とはそぐわない点あるので全面的に自由化すべきではありません。特に水道事業は費用逓減産業です。しかし、多様性にこそ自由の優位性がある点、「供給主体の多様化」という点に注目して、いわゆる「準市場」の概念を援用し、制度を整備しつつ取り組むべきでしょう。生活に密着した分野であるからこそ、制度・ルールをしっかりと整えて、少々「不純」な動機を持っている人も含めて多くの人々を巻き込み、多様なアイディアが提案・実践されうるプラットフォームが整備されるべきです。

このことについても、事実から出発しましょう。当ブログでも繰り返しご紹介しているように、スウェーデンを筆頭とする北欧の福祉国家においては、かつては福祉サービスは公共・行政部門が独占しており、日本でいうところの「措置制度」のようなものでした。福祉は生活そのものですが、画一的な福祉サービスしかありませんでした。こうした現実に対して、福祉サービスの受給者自身が声を上げて、長きにわたる闘いの結果、行政による福祉サービスの供給独占が廃され、多様な供給主体によるサービス提供が実現しました。

このとき北欧福祉国家群は、行政によるサービス供給独占を廃すると同時に、一定のサービス水準を定めてそれを担保するように求めました。1990年頃の話です。あれから30年。経済状況や生活環境の不断の変化によって試行錯誤は続く(当然)ものの、基本的な方針に大きな変化はありません。「公益的要求に基づくサービス基準の順守」と「サービス供給主体の多様化」をセットとする北欧の実践例、公共・行政部門と民間部門の合作的事例は、重要な先例であると言えます。

もっと最近の例では、前掲8月26日づけ記事でご紹介した「こども宅食」における「コレクティブ・インパクト」が挙げられるでしょう。行政・企業・NPOらが対等にパートナーシップを組んで協働するという方法論ですが、行政からの委託ではなく対等にアイデアを出し合うからこそ、行政だけでは思いつかなかったような取り組みが生まれているとのことで、供給主体の多様化による効果が出ているようです。

なお、「水道は大切だが福祉はどうでもいい」という主張は容認できません。水道も福祉も生活そのものです。

■公民の協調・協同・協働社会へ、多様性の確保へ
引用元記事では「図書館」が引き合いに出されています。当ブログでもチュチェ104(2015)年10月5日づけ「図書館指定管理者制度の本旨は「多様性」」において、図書館運営における外部委託について、東京都千代田区における図書館運営の外部委託の成功的事例を取り上げて論じています。佐賀県武雄市や神奈川県海老名市で惨憺たる状況に陥った図書館運営の外部委託は、東京都千代田区立図書館では比較的上手く実践され、行政直営運営時代では思いつかなかった発想が、外部委託によって導入できたという事実があります。

上掲過去ログにおいて私は、次のように述べました。
(引用元の)記事では、重要なキーフレーズが登場しています。「図書館も出版文化を担う施設ですから、経営効率を求めるものではない」と「指定管理者制度は経営効率性ばかりが強調されますが、千代田区の場合はサービスの充実に寄与しています」です。つまり、東京都千代田区の民間委託は、まさに民間委託の「財・サービスの多様性の充実」という側面を上手く実現させていると言えるのです。

(中略)

民間委託の本旨が「多様性」であれば、あるべき運営の姿は、役所直営の独占体制ではなく、民間丸投げでもありません。管理能力が高い直営時代からの図書館司書と、民間企業のノウハウを掛け合わせる形で「多様性」を探究してゆくことにあるでしょう。「多様性」という文脈においては、公共部門も民間部門もそれぞれ異質の文化を持っており、新しい文化の重要なベースを提供し得るという点において立場は対等です(効率性の文脈では、やはり公共部門が民間部門に打ち勝つことは難しく、どうしても「民間部門信仰」のようなものができてしまいます)。
お互いの長所・ノウハウを対等な関係性から掛け合わせる――この姿勢は、コンセッション方式=広い意味での公設民営化を目指す水道事業においても重要になるでしょう。また、こうした試みを通じてさらなる公民の協調・協同・協働社会を切り拓いていくべきであると私は考えています。

引用元記事は、「行政サービスを採算だけで判断する愚かさ」を主張していますが、これもある意味において「採算だけで判断する愚かさ」に陥っています。企業は確かに「利益」という個別的利益を狙っているでしょうが、その結果として、「多様性」というかけがえのない社会的利益が提供されるのです(これは、バーナード・マンデヴィルの『蜂の寓話――私悪すなわち公益』にみられ、スミスが継承した考え方ですが、最近はたとえば松尾匡氏のようなマルクス経済学者も肯定的に捉えるようになっています)。サービスの供給主体の多様化の効用は、「効率性」にあるのではなく「多様性」にあるのです。そして、引用元記事の表現を借りれば、「市民や国民のために有益であると考えれば」こそ、多少「非採算的・非効率的」であっても「多様性」を目指すべきであるとさえ言えるのです。

■準市場の概念と制度をさらに洗練させる必要性、「事実からの出発」に徹する必要性
今回の水道法改正を巡っては、水道民営化推進論者の言い分は、原則論や印象論が先行しがちでしたが、反対の論陣を張る引用元記事もまた、原則論や印象論に立脚していると言わざるを得ません。「極右」だ「ネトウヨ」だは、特にそうです。

いわゆるネトウヨと呼ばれる人たちに統一的な経済政策論はありません。そもそもネトウヨは経済政策に関する主張によって形成されるグループではないからです。基本的に経済オンチだとは思いますが、あえて傾向的なことを言えば、ネトウヨ層は、官公労批判の文脈で民営化を提唱したり「反日メディア」批判の文脈で電波オークションがどーのこーの言ったりする(たぶん経済学的な意味は分かっていない)ものの、保守左派から国家社会主義にかけて分散しており、その点においては、かつての「日本型社会主義」への憧憬だったり、集産主義(Collectivism)や全体主義(Totalitarianism)への親和性はあっても、新自由主義との親和性は低いというべきです。むしろ、ひょんなタイミングで共産党を絶賛することさえあります(共産党もいい迷惑でしょう)。

今も昔も「ネトウヨ」は蔑称ですが、必要性がまったくない文脈で敢えてネトウヨと呼ぶ点、何らかの印象操作狙っていると推察するところです。

こうした印象操作的で中身に乏しい言説が飛び出してくる現状は、公設民営制度をさらに洗練させること、準市場の概念と制度設計をさらに進化させる必要性を示していると言えます。冒頭でも述べたとおり、私自身は今回、水道法を急ぎ改正する必要性を感じていないのですが、引用元記事の主張は、今回の水道法改正による水道事業におけるコンセッション方式導入に限定して批判すればいいものを、広く公設民営化を否定する内容になっており、「言い過ぎ」であります。今回の水道法改正はどうでもいい(擁護・弁護する義理はないから)として、公設民営制度一般に関してはきちんとお答えできるようにしておく必要性を改めて感じました。

一人ひとりの生身の人間はみな千差万別の個性を持っています。その点、人間生活の本質的特徴は「多様性」にあります。人間の文化的な生活には消費活動が不可欠ですが、多様な個人が思い思いの生活を送るには、多様な消費活動が保障される必要があります。消費活動は生産活動を前提とします。つまり、消費の多様性のためには、生産の多様性が大前提です。一人の人間・少数の集団は、いかに天才的であったとしても、そのアイディアには限りがあるので、生産の多様性確保のためには、より多くの参加者を生産活動に巻き込む必要があると言えます。自由な取引は、そうした人々の活動をコーディネートする機能を持っています。前述の北欧諸国における福祉多元化の例を見れば分かるとおり、人々の多様な欲求を充足させるには優位性を持っています。

他方、スミスが正しく指摘しているように、自由な取引における各参加者の行動原理は、博愛精神ではなく利己心です。現代経済学が正しく指摘するように、パレート最適と公平性は別問題です。その点において、公益を基準とした修正もまた必要とされていることは間違いのないことです。

措置制度と契約方式との中間形態・混合経済の一形態として位置付けられる準市場の概念は、こうした難しい調整において重要な思考の枠組みを提供すると考えられます。多様性にかかる要求と公益にかかる要求を両立するためにこそ、準市場の概念を洗練させ、制度設計に応用してゆくことがますます大切になっていると考えます。このことは最終的には、社会主義的公益と私的営利活動の接合――集団主義的競争と渾然一体――に繋がるものであると社会主義の立場に立つからこそ考えております。

引用元記事では、行政については「「利益」を考えるところではなく、市民や国民に何をしたら有益であるかを考えるところ」であるとする一方で民間企業については「株主配当に使って、金持ち同士みんなでウマウマするという現象が起こる」とする、原理・原則を現実に演繹的に展開して断定する物言いが目立ちました必ずしもこうとは言い切れない現実が目の前に広がっているにも関わらず。私自身も類似事例の援用や演繹を多く行っているので、教訓的でした。「人の振り見て我が振り直せ」。あくまでも「事実からの出発」に徹して制度を考える必要性を改めて認識しました。
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2018年12月25日

「キレイ過ぎるゴト」は危うい

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181225-00000017-zdn_mkt-bus_all&p=1
「南青山の児相反対派」をボコボコに叩く、そんな風潮がよくない理由
12/25(火) 8:11配信
ITmedia ビジネスオンライン

日本中の子どもたちがクリスマスを楽しみに待ち焦がれていた最中、子どもたちがガッカリするような残念なトラブルが起きてしまった。

東京の一等地で生活するオトナたちが、虐待を受けるなど問題を抱えた子どもに対して、お前らが地域にやって来ると、治安悪化や土地の価値低下が引き起こされ、「青山」というブランドが大きく毀損(きそん)される――などと間接的にディスりだしたのである。

ご存じ、港区南青山の一時保護所を併設した児童相談所建設計画をめぐる反対派住民の主張だが、彼らの子どもに対する「口撃」はこれにとどまらない。

「このあたりのランチは1600円くらいする」「入所した子が青山の幸せな家族や着飾った人を見て、自分とのギャップを感じるのでは」などと「チョー上から目線」のロジックを展開。「不幸な子どもは、不幸で貧しい人間の多い街で暮らしとけ」とでも言わんばかりの勢いで完全に「地域に害をもたらす疫病神」扱いなのだ。


(中略)

お笑い芸人のカンニング竹山さんは情報番組で「ものすごく危険な思想」とバッサリやって、ネット民から「正論だ」と拍手喝采された。また、オセロの松嶋さんはその逆で、「児相が来たら引っ越してしまうかも」と反対派住民の心情に一定の理解を示すようなコメントをしたため「炎上」した。

個人的には、このような批判が出るのは致し方ないし、竹山さんのご指摘もそのとおりだと思う。が、その一方で、反対派住民や松嶋さんらをボコボコに叩いて留飲を下げる今の風潮はあまりよろしくない気がしている。

かばっているわけではなく、我々すべての日本人への「ブーメラン」になるからだ。

児相を受け入れない人は多い
南青山の反対派住民や松嶋さんを叩いている方たちからすると、彼らの考え方は、かなり差別的で利己的で、世間の一般常識からかけ離れていると思っているが、それは実は大きな「勘違い」なのだ。

彼らくらいの勢いで、虐待を受けた子どもや、問題行動を起こす子どもを生活圏から排除しようとする大人は日本中に山ほどいる。

誤解を恐れずに言うと、今回たまたまワイドショーで注目を集めたがゆえ、南青山の反対派住民や松嶋さんは「危険な思想」とみなされているが、ちょっと視野を広げると、日本全国で石を投げれば当たるくらい「平凡な思想」の持ち主ということなのだ。

例えば、今から2年前、大阪市で児童相談所の建設が断念されている。理由は、松嶋さんが漏らしたのと同様、「虐待を受けた子や非行少年らが過ごす一時保護所の併設などに住民から不安の声があがった」(朝日新聞 2016年12月20日)からだ。


(中略)

極めてオーソドックスな「住民感情」
だが、住民からわきあがったのは猛烈な反対だった。その主張の中身は、南青山の反対派住民に丸かぶりである。

「子どもが無断で外出したり、子どもを連れ帰ろうと親が押しかけたりして、住民に危害を加えないか」(朝日新聞 2016年10月3日)

もちろん、建設予定の児相と、居住エリアは出入り口も違うので、児相の利用者はマンションエリアには立ち入ることはできない。だが、敷地内の駐車場や屋外の通路は共有する。問題のある子どもや親とは、道ですれ違うのも怖いというわけだ。

また、南青山の反対派住民は「ほんの一部」で大多数は児相が来ることに賛成というが、このタワマンはそんな空気ではなかった。全360世帯からなる「自治体組織のアンケートでは、6割超の世帯が反対と答えた」(朝日新聞 2016年12月20日)という。

なんて話をすると、「それは同じ建物内だからだ! 普通の住宅地だったら反対するような冷たい人はいないはずだ」とか顔を真っ赤にして怒る人もいるだろうが、残念ながらそれは日本の「醜悪な現実」から目を背けているだけだ。

例えば、神奈川県横浜市では市内に4カ所の児相があるが、その中の1カ所に一時保護所がなかった。そこで2011年にその児相内に新たに整備をつくると公表した。建物は区の総合庁舎で、もともとあった児相内につくるのだから問題ないような気もするが、近隣住民は納得しなかった。

「約半年間で説明会を5回開いたが、地元町内会は計画の撤回を求める陳情書を市長に提出。反対署名は2600人分を超えた」(朝日新聞 2016年10月3日)

反対理由は南青山や大阪市とまったく同じで、市の資料にも以下のような住民の声が掲載されている。

「非行を行なった児童が一時保護されるのが心配である」「地域に対して閉鎖的な建物ができることに反対である」(横浜市北部児童相談所一時保護所の整備について 地元説明会で出された主な意見)

このようなケースは日本中で山ほど起きている。つまり、虐待を受けた子どもなどが身を寄せる「一時保護所」のある児童相談所を嫌がって、どうにか生活圏から追い出そうとするのは、日本社会では決して珍しい話ではなく、極めてオーソドックスな「住民感情」なのだ。

児相のネガイメージに引きずられている
では、なぜこうなってしまうのかというと、多くの日本人がひと昔前の児相のネガイメージに引きずられているからだ。

既に多くのメディアが触れ回っているのでご存じだと思うが、児相を利用する子どもや親が、近隣住民に危害を与えることなどない。周辺の土地価格が落ちたなんてケースもない。そういう意味では、南青山の反対派住民の主張は根も葉もない「妄想」なわけだが、30年くらい前まではそうとも言い難い。

というのも、戦前から1980年くらいまでは、児相で子どもが職員に暴力を振るって「脱走」する事件がちょいちょい発生しているからだ。


(中略)

ただ、過去にはこういう「事件」があったのは、紛れもない事実だ。児相や一時保護所に漠然とした不安を感じている方たちは、このような時代に拡散された「ネガイメージ」をいまだに引きずっている可能性が高い、と申し上げているのだ。

時代錯誤な「児相観」から脱却できない
では、なぜ日本人はそのように時代錯誤的な「児童相談所観」からなかなか脱却できないのかというと、「不幸な子どもを社会で協力し合って育てていく」という考えが希薄だからではないか、と個人的には考えている。


(中略)

ブーメランで「日本人」に突き刺さる
なぜ「世界一のおもてなし」とか「世界一親切な国民」とか、自分たちの“いい人ぶり”をやたらと自画自賛する我々日本人が、「不幸な子ども」にはここまで冷たいのか。

サイコパスとかでないとしたら、そこには「子ども」に対してひずんだ考え方があるとしか考えられない。それこそが先ほど申し上げた「子どもは親のモノ」という「呪い」ではないか。

多くの日本人にとって、他人の子どもは「他人のモノ」に過ぎないので、どんなに虐待を受けようとも、どんなにSOSを発信しても基本的に興味が持てない。

そのような人々にとって、「児童相談所」とは、「得体の知れないアカの他人のモノ」がウジャウジャしている不気味な施設になってしまう、というのは容易に想像できよう。


(中略)

南青山の反対派住民の主張は「差別意識」が丸出しだ。自分たちだけは特別だという「選民思想」にもとらわれている。だが、ちょっと冷静になってみると、それらはすべて日本人がよく指摘される「悪徳」ではないか。

南青山の反対派住民を叩けば叩くほど、それらの批判はきれいな放物線を描くブーメランとなって我々に突き刺さる。まずはその「醜い現実」を認めないことから始めるべきではないか。

(窪田順生)
ITmedia ビジネスオンライン
この問題、反対派が並べ立てる「反対理由」が、報じられている範囲では噴飯物で弁護しにくい一方で、ここまでムチャクチャな理屈を形振り構わず並べ立てているところを見るに、「相当嫌なんだろうな」「そこまで嫌がることかな? 不思議だな。何か思い込み的な物があるんだろうな」とも感じていたところです(年々、「相手の思い・動機」が気になるようになって来、昔のようには「正義一辺倒」ではなくなってきました・・・もともと他人様が何を考えているのかには興味があったけど、「歳取ったなあ」とも思う今日この頃w)。

また、いくら政治が「人々の利害を調整し、あるべき社会像を実現する」というのが本旨である、つまり、「あるべき」論が先行しがちであるとはいえ、寄って集って「キレイ過ぎるゴト」の飽和攻撃を仕掛けて、児童相談所を南青山の地に「押し付けようとする」姿勢にも違和感を感じていたところでした。私には、児相設置反対派への批判言説がどうしても「自分自身の問題」として仮定的に置き換え、思考実験的な見地に立って述べているようには読めなかったのです。一点の曇りもない不気味なくらいに「キレイ過ぎる」言説から私は、本件問題が「自分の生活とは関係ないところ」で展開されつつあるからこそ、ここまで潔癖なことを臆面もなく堂々と言っているのではないか、要するに「所詮は他人事だからご立派なことを言っているだけなのではないか」と感じていました。「キレイ過ぎるゴト」を並べている人たちも、いざ自分の近所に児相ができるとなったらどう反応するかわかったもんじゃないなと思っていました。

読者の皆様の中にも経験がある方が多いと思いますが、現実の利害調整においては、潔癖なことを臆面もなく一方的に捲し立てられるケースは、まずないと言ってよいと思われます。落とし所に持ってゆく必要がある以上は、相手の主張についても考慮せねばなりません。結果的に、とても「キレイ」とは言えない結果になるのが普通です。ネット世界ほどには言いたい放題できないのが現実世界です(だからこそ逆に、若い頃とは違った観点から「キレイゴト」に憧れもするんですがw)。

そんな中、出てきた当記事。記事前半のデータに基づく説得的な部分と、記事後半の「不幸な子どもを社会で協力し合って育てていくという考えが希薄だからではないか」という演説との間に論理的必然性がない点は少し厳密さに欠けているように思いますが、とても興味深い指摘です。特に、児相への拒否反応を、南青山以外のケースを紹介することで「オーソドックスな住民感情」だと位置づけなおすのは重要な指摘です。

記事中にも明記されていますが、事実・現実に立脚したとき、反対派の言説は「妄想」「時代遅れの知識・感覚」だと言う他なく、斬って捨てるのは容易です。しかし、どんなに事実に基づかない「幻想」を信じていたとしても、地域住民の理解・同意を得ずして施設を建設するわけには行かないものです。地域住民は、たとえ「差別者」の汚名を着せられたとしても、自分自身の生活に直結する問題であればあるほど背に腹は代えられず、形振り構わぬ必死の抵抗を見せるものです。そうである以上は、「キレイ過ぎるゴト」の飽和攻撃で押し切ろうとするのではなく、誤解を丁寧に解いてゆく必要があると言えるでしょう。

カンニング竹山さんの言に乗っかって申せば、南青山の児相設置反対派の選民的思想丸出しの言説が「ものすごく危険な思想」だというのは勿論ではあるものの、自分自身の問題として仮定的に置き換えようとせず、反対派の真意をマジメに探求しようともせず(仮に荒唐無稽であったとしても探究せよ!)にバッサリと「キレイ過ぎるゴト」の飽和攻撃で押し切って沈黙させようとする発想もまた「ものすごく危険な思想」だと思うのであります。その点、オセロ松嶋さんは、児相に対する誤った観念を開陳し自爆してしまったものの、自分自身の問題に置き換えてマジメに考えようとしていたことは伺え、その点に限っては好感を持ちました。

ちなみに、「安全地帯から評論家気取りで原則論的なことを言いたい放題に言う」という点では、当ブログも「キレイ過ぎるゴト」を並べています(一応自覚はしています)。「生活主義」を掲げている以上は生活の当事者から乖離した「キレイ過ぎるゴト」は展開しないように心掛けているつもりではあります。しかし、自分でも十分にやり切っているとは思っていません。この記事は、私自身にとっても戒めになるものでした。
ラベル:社会
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2018年12月22日

「外国人住民との共存・共生の問題」の本質は「ご近所づきあいの問題;お互いに配慮し合う関係性をつくる取り組み」;芝園団地の取り組みについて

http://www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/list/201811/CK2018112902000155.html
「共生」の道模索続く 住民5000人弱、半数が外国人 川口・芝園団地
2018年11月29日

 外国人労働者の受け入れを拡大する入管難民法などの改正案が衆議院を通過し、28日に参議院での審議に入った。受け入れ拡大の大きな課題は、増加する外国人と日本人が地域でいかに一緒に生活していくかだ。そんな変化に既に向き合ってきたのが、川口市の芝園団地。5000人弱の住民の半数以上を中国人を中心とする外国人が占める中、「共生」の道を探り続けている。 (井上峻輔)

 JR蕨駅から徒歩七分。都市再生機構(UR)が管理する団地の敷地を歩くと中国語の会話が聞こえ、掲示板には日本語と中国語の両方で書かれた案内が貼られている。団地内の商店街には、中華料理店や中国の食材が買える店が並ぶ。

 かつては、日本人と中国人のトラブルが相次いだ。

 団地は一九七八年に造成され、東京都心へのアクセスの良さなどで九〇年代後半から中国人が増え始めた。二〇一〇年頃には階段で便をしたり、ベランダからごみを投げ捨てたりする住民も現れ、ベンチに「中国人帰れ」との落書きがされるまで日本人との関係が悪化した。

 「日本には中国のように日が沈んでからも屋外で遊ぶ文化がなく、屋内で過ごす人が多い。夜、屋外では静かに過ごしましょう」

 団地自治会が作った新規入居者用の冊子には、こんな内容が中国語で書かれている。ほかにも「日本の住宅は足音が響きやすい」「階段や玄関前に私物やごみを放置しないように」など、団地生活のマナーをイラスト付きで紹介している。

 自治会事務局長の岡崎広樹さん(37)は「生活習慣の違う人が入ってくれば、日本人に不満と怒りがたまるのは当然だし、中国人には悪気がないから解決が難しい。その差を埋める必要がある」と狙いを語る。

 団地の事務所には通訳が配置され、ごみ捨て場は収集日や分類を色や中国語で分かりやすく示すように。祭りなどを通じて交流の場も増やしてきた。
 現在、目立ったトラブルはなくなった。自治会の取り組みは「多文化共生の先進的事例」として、今年二月に国際交流基金の表彰も受けた。しかし、岡崎さんは言う。「今は『共存』しているだけ。『共生』となると、今でも課題が多い」

 
(中略)

 ただ、二年半続けてきたからこそ、交流の難しさも見えてきた。円山さんは「日本人の参加者は固定化されてしまっている。そもそも、交流に関心のない人が多い」と吐露する。

 団地の日本人は、若者が就職や進学を機に出て、高齢者が多い。一方、中国人は子育て世代が中心だ。「世代が異なり、生活の中での関係が生まれづらい。日本人でも自治会に入らない時代に『接点』をつくるのは難しい」と岡崎さん。苦心して関係を築いた中国人が数年で引っ越してしまうことも悩みだ。

 
(以下略)
■差別意識の根源は、実生活上での不満・トラブルの蓄積
外国・他文化にルーツを持つ人々(いわゆる「外国人」)との地域社会での共存・共生の問題。埼玉県川口市は、外国人住民の数が全国第3位(1位:東京都新宿区、2位:東京都江戸川区)で、その中でも芝園団地を含むJR蕨駅周辺は同市内でも特に外国人住民が多い地域です。ここでの取り組みは、全国を先駆ける一つのモデルケースといってよいと私は考えています。

さて、「外国人との共存・共生」というと往々にして、どこか実生活からフワフワと離れた異文化理解・多様性尊重キャンペーンの範疇に留まりがちです。「異文化を理解しよう」「多様性を認め合おう」といった観念的なお題目、いわゆる「リベラル派」にありがちですが、イデオロギー的理想から演繹的に生み出された美しいけれども抽象的なお題目を並べたくらいで地域社会での外国人住民との共存・多文化共生が実現するほど話は簡単ではありません。

チュチェ106(2017)年3月12日づけ「ご近所トラブルからの草の根レイシズム――「我々が彼らに寛容になろう」ではなく「ご近所同士お互いに配慮し合おう」」でも言及しましたが、特定集団に対する差別意識というものは、往々にして、その集団に属する一個人との間での実生活上での不満・トラブルの蓄積が、その個人が所属している集団の問題に増幅されることで生じるものです(サンプル数過少のインチキな統計的推論のようなものです)。また、自分自身が外国人とトラブルになったことがない人物であっても、インチキ統計推論的にデッチあげられたイメージによって、心理的な溝を作ってしまうものです。

ここで重要なのは、「差別意識というものは、実生活のなかから生じるもの」だということです。ヘイトスピーチには、つまみ食い的な歴史的エピソードやオカルト染みたイデオロギー的言説が付き物ですが、そういったものは「後付けの理屈」に過ぎません。それゆえ、外国人に対する差別をなくして共存・共生を目指そうとすればこそ、実生活の現場において起こりがちなトラブルを解決し、不満が鬱積しないようにすることが第一に重要な取り組みになると言えるでしょう。

特に外国人住民の場合、生活習慣・文化的背景の違いによって、まったく悪意なく迷惑行為を行っているケースがあるわけです。記事中、芝園団地自治会事務局長氏の「生活習慣の違う人が入ってくれば、日本人に不満と怒りがたまるのは当然だし、中国人には悪気がないから解決が難しい。その差を埋める必要がある」というコメントが掲載されていますが、現実を正確に捉えていらっしゃいます。

■「外国人住民との共存・共生の問題」の本質は「ご近所づきあいの問題;お互いに配慮し合う関係性をつくる取り組み」
お互いに快適な日常生活を送るためにも、特定個人によるトラブルを差別問題に発展させないためにも、実生活の現場で生じるトラブルを最優先で一つ一つ解決してゆく必要があります。「外国人住民との共存・共生の問題」は、本質的には「ご近所づきあいの問題;お互いに配慮し合う関係性をつくる取り組み」であると言えます。

さらに申せば、問題の本質を「ご近所づきあいの問題」と位置付ければこそ、外国人住民との共存・共生の問題を考えるということは、ご近所づきあいの在り方を考えることとイコールになります。この問題は外国人住民対策といった狭い範疇に留まるものではなく、日本人住民同士のケースであっても日本人vs外国人のケースであっても外国人住民同士のケースであっても等しく、「既に住んでいる人と新しく引っ越してくる人とが、お互いに配慮し合う関係性をつくる取り組み」であると言えるでしょう。そう特殊・特別な話題というわけではなく、割と普遍的な話題であるわけです。

■実生活の中から編み出され、既に実践されている特筆的活動
「外国人住民との共存・共生」の本質的を「ご近所づきあい;お互いに配慮し合う関係性をつくる取り組み」として位置付けるとき、芝園団地の取り組みは重要なモデルケースとして展開されていると言えます。というのも、「外国人住民との共存・共生」という旗印は、往々にして、「我々が異文化と多様性に寛容になろう」「異なる文化の人たちを仲間として受け入れるために、我々が生活習慣を彼らのそれに合わせよう!」といった具合に受け入れる日本人側への「変化」を要求します。これには、「後から移り住んできたくせに、なぜこちらが一方的に譲歩しなければならないのか」といった不満が生じがちです。

「外国人住民との共存・共生」を「お互いに配慮し合う関係性をつくる取り組み」として展開することは、近所付き合いの延長線上に位置づけられるものである点において、かかる不満が生じるリスクを低減するものであると言えるでしょう。これが先祖代々のムラ社会だと難しいでしょうが、旧住宅公団が1970年代に整備した芝園団地の場合、まだまだ「団地移住者一世」が暮らしておられると考えられ、ムラ社会的な「ヨソ者排除」の意識は薄いと考えられます(団地移住者一世は、みんなヨソ者同士ですから、相互調整の意識があると考えられるところです)。柔軟なご近所付き合いを期待できます。

抽象的なお題目ばかりが先走りがちな昨今において、外国人住民との共存・共生が喫緊の重要課題として直面している芝園団地の自治会が、ゴミの出し方や騒音問題といった実生活に関わる分野を切り口に活動を着実に展開していることは、重要な事実です。特に、イデオロギー的理想からの演繹・抽象的お題目の羅列ではなく、実生活の中から編み出され、既に実践されている活動である点が特筆すべきであります。地に足がついており、具体的な実例を創り上げています

歴史は実践が切り拓き、生み出し、前進させるものです。芝園団地の取り組みは歴史を切り拓いているといっても決して大袈裟ではないでしょう。素晴らしい取り組みに敬意を表します。

関連記事
チュチェ106(2017)年3月12日づけ「ご近所トラブルからの草の根レイシズム――「我々が彼らに寛容になろう」ではなく「ご近所同士お互いに配慮し合おう」
ラベル:社会
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2018年12月17日

한치의 드팀도, 한걸음의 양보도 없이 무조건 끝까지 관철하여야 한다

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181217-00000021-jij-kr
正恩氏「一歩も譲歩しない」=総書記死去7年で強調―北朝鮮
12/17(月) 8:51配信
時事通信


(中略)

 正恩氏は「わが党はこの7年間、将軍様(総書記)の思想や路線を守り、遺訓を貫徹するため、力強く闘争を進めてきた」と報告。「今後も、一寸のずれもなく、一歩の譲歩もなく、将軍様の構想と念願を実現するために闘っていこう」と呼び掛けた。

 核開発や国際制裁には直接触れていないが、非核化をめぐる米朝協議を念頭に、圧力に屈しない姿勢を強調した形だ。

最終更新:12/17(月) 9:17
時事通信
ながく共和国の公式声明に接してきた身から申せば、「今後も、一寸のずれもなく、一歩の譲歩もなく、将軍様の構想と念願を実現するために闘っていこう」というのは、いつもの決まり文句、定番の呼びかけです。「圧力に屈しない姿勢を強調した形」という時事通信の読解に少し違和感を感じるところです。ほんとかな?

というわけで『労働新聞』社説を見てみましょう。
http://www.uriminzokkiri.com/index.php?ptype=igisa2&no=1164010
주체107(2018)년 12월 17일 로동신문
チュチェ107(2018)年12月17日 労働新聞 

사설
社説

위대한 령도자 김정일동지의 애국념원을 받들어 사회주의강국건설위업을 빛나게 실현해나가자
偉大な領導者 キムジョンイル同志の愛国念願を戴き、社会主義強国建設偉業を輝かしく実現させてゆこう

(中略)

우리는 위대한 장군님을 우리 혁명의 영원한 수령으로 높이 모시며 장군님의 사회주의강국건설사상과 유훈을 생명선으로 틀어쥐고 한치의 드팀도, 한걸음의 양보도 없이 무조건 끝까지 관철하여야 한다. 위대한 장군님께서 자기 부문, 자기 단위에 주신 유훈을 자로 하여 모든 사업을 전개해나가는것을 철칙으로 삼아야 한다. 위대한 장군님께서 뿌려놓으신 만복의 씨앗들이 풍성한 열매를 맺도록 하기 위한 투쟁을 과감히 벌려 장군님의 혁명력사가 조국의 강성번영과 더불어 이 땅우에 세세년년 흐르게 하여야 한다.
偉大な将軍様を我が革命の永遠なる首領に高く奉り、将軍様の社会主義大国建設思想と遺訓を生命線として堅持し、一寸のずれもなく、一歩の譲歩もなく無条件に最後まで貫徹しなければならない。偉大な将軍様が、自身の部門・自身の単位に対して遺してくださった遺訓を基準としてすべての事業を展開していくのを鉄則としなければならない。偉大な将軍様が蒔いてくださった万福の種が豊かな実を結ぶようにするための闘争を果敢に広げ、将軍様の革命の歴史が祖国の強盛繁栄とともにこの地に生き続けるようにしなければならない。

위대한 장군님의 고귀한 혁명유산인 일심단결을 백방으로 강화해나가야 한다.
偉大な将軍様の高貴な革命の遺産である一心団結をあらゆる方面で強化していかなければならない。

일심단결은 주체조선의 상징이며 불가항력적위력이다. 세상에 둘도 없는 당과 인민의 위대한 혼연일체를 더욱 튼튼히 다져나가는데 주체의 사회주의위업완성을 위한 근본담보가 있다.

一心団結はチュチェ朝鮮の象徴であり、押しとどめることのできない偉力である。この世にふたつとない党と人民の偉大な渾然一体を一層堅固にしていくことに、チュチェの社会主義偉業完成のための根本的担保がある。

우리는 주체조선의 운명이시고 미래이시며 백전백승의 기치이신 경애하는 최고령도자동지를 정치사상적으로, 목숨으로 결사옹위하여야 한다.(中略)일군들은 인민에 대한 멸사복무정신을 지니고 사람들의 운명을 끝까지 책임지고 보살펴주며 이끌어주어 우리 혁명대오를 하나의 사상과 신념, 동지적사랑과 의리로 철통같이 뭉친 일심단결의 성새로 더욱 강화해나가야 한다.(中略)당의 로선과 정책을 곧 법으로 여기고 무한한 헌신성과 희생성을 발휘하여 당이 준 과업을 당에서 정해준 시간에, 당이 요구하는 높이에서 무조건 철저히 관철하여야 한다.
我々は、チュチェ朝鮮の運命、未来、百戦百勝の旗印であられる敬愛なる最高領導者同志を政治思想的に、命を以って決死擁護しなければならない。(中略)活動家たちは人民に対する滅私服務精神を持って人々の運命を最後まで責任を負って面倒を見、導き、我が革命の隊列を一つの思想と信念、同志的な愛と義理で堅く団結した一心団結の城塞に一層強化しなければならない。(中略)党の路線と政策を法として、無限の献身性と犠牲性を発揮し、党が与えた課題を党が定めた時に、党が要求する高さで無条件に徹底的に貫徹しなければならない。

우리 국가제일주의를 높이 들고 사회주의강국건설의 모든 전선에서 대혁신, 대비약을 이룩해나가야 한다.
我が国家第一主義を高く掲げ、社会主義大国建設のすべての前線で大革新、大飛躍を果たしていかなければならない。

우리 국가제일주의는 사회주의조국의 위대성에 대한 긍지와 자부심이며 나라의 전반적국력을 최고의 높이에 올려세우려는 강렬한 의지이다. 우리가 우리 국가제일주의를 내세우는 기본취지는 전면적인 국가부흥시대에 맞게 더욱 분발하여 천하제일강국을 일떠세우기 위한 총돌격전에 매진하자는데 있다.
我が国家第一主義は、社会主義祖国の偉大性についての矜持と自負心であり、国の全般的な国力を最高の高さに引き上げたいという強い意志だ。我々が、我が国家第一主義を掲げる基本趣旨は、全面的な国家復興時代に合わせてさらに奮発し、天下第一強国を打ち立てさせるための総突撃戦に邁進しよう、という点にある。

위대한 당의 령도밑에 우리 공화국이 정치군사강국으로 된 오늘 우리에게 있어서 최대의 임무는 경제강국을 일떠세우는것이다. 우리는 경제건설에 총력을 집중하여 혁명의 전진을 더욱 가속화해나가야 한다. 모든 부문, 모든 단위에서 자력갱생과 과학기술을 비약과 혁신의 무기로 틀어쥐고 증산투쟁, 창조투쟁, 생산돌격전을 과감히 벌려나가야 한다.
偉大な党の領導の下に我が共和国が政治軍事強国になった今日、我々にとって最大の任務は、経済強国を打ち立てることだ。我々は経済建設に全力を集中して革命の前進をさらに加速化していかなければならない。すべての部門、すべての生産単位で自力更生や科学技術を飛躍と革新の武器として掌握し、増産闘争、創造闘争、生産突撃戦を果敢に広げていかなければならない。

영웅적 김일성-김정일로동계급은 당의 경제강국건설구상을 실현하기 위한 오늘의 총진군에서 자기의 혁명적기상과 본때를 남김없이 떨쳐야 한다. 농업근로자들은 《쌀로써 당을 받들자!》는 구호를 높이 들고 애국의 열정을 총폭발시켜 위대한 수령님들께서 펼쳐주신 황금벌의 력사를 끝없이 빛내여나가야 한다. 과학자, 기술자들은 주체의 신념과 민족적자존심으로 탐구전, 창조전을 드세게 벌려 강국건설의 탄탄대로를 열고 세계를 압도하는 과학연구성과들을 더 많이 내놓아야 한다.(略)
英雄的なキムイルソン―キムジョンイル労働者階級は、党の経済強国建設構想を実現するための今日の総進軍で自分の革命的気性と気立てを残らずと轟かせるべきだ。農業勤労者たちは「コメを以ってして党を奉ろう!」というスローガンを高く掲げ、愛国の情熱を総爆発させて、偉大な首領様たちが広げてくださった黄金原の歴史を果てしなく輝かせていくべきだ。科学者、技術者たちは、チュチェの信念と民族的自尊心で探究戦、創造戦を強力に繰り広げて強国建設の道を開き、世界を圧倒する科学研究成果をもっと出さなければならない。(略)

모든 일군들이 오늘의 총진군을 앞장에서 이끌어나가는 기수, 기관차가 되여야 한다. 일군들은 높은 정책적안목과 다방면적인 실력을 지니고 당의 의도에 맞게 사업을 대담하게 설계하고 주도세밀하게 작전하며 일단 시작한 일은 무조건 끝장을 보고야마는 완강한 실천력을 발휘하여야 한다.
すべての活動家たちが、今日の総進軍を先頭に導いていく騎手、機関車になるべきだ。活動家たちは高い政策的な眼目と多面的な実力を持って党の意図に沿って事業を大胆に設計し、細密・周到に作戦を遂行し、一度始めたことは無条件に決着させる頑強な実践力を発揮しなければならない。

각급 당조직들은 일군들과 근로자들속에서 김정일애국주의교양을 실속있게 진행하여 누구나 조국과 인민의 부름앞에 말로써가 아니라 자기 한몸을 내대고 실천으로 대답하는 애국자들로 튼튼히 준비시켜야 한다.(中略)당조직들과 일군들이 당에 대한 인민의 믿음을 제일 귀중한 재부로 간직하고 인민대중제일주의를 철저히 구현해나갈 때 온 나라에 로동당만세소리, 《세상에 부럼없어라》의 노래소리가 더욱 높이 울려퍼지게 될것이다.
各組織は活動家たちや労働者たちの中でキムジョンイル愛国主義教育を進め、誰もが祖国と人民の呼び掛けに言葉によってではなく身を挺して実践で応える愛国者たちにしっかりと育て上げなければならない。(中略)党組織らと活動家たちが党に対する人民の信頼を一番貴重な宝として維持し、人民大衆第一主義を徹底的に実現していく時に、全国に労働党万歳の声、「この世に羨むものはない」の歌声がさらに高く響くことになるだろう。

숭고한 도덕의리심을 지니고 수령의 사상과 위업을 충직하게 받들어나가는 우리 인민의 투쟁을 세계가 지켜보고있다.
崇高な道徳義理心を持って首領の思想と偉業を忠実に奉じていく我が人民の闘争を世界が見守っている。

모두다 위대한 당의 령도따라 태양의 존함으로 빛나는 주체의 사회주의조국의 강성번영을 위하여 더욱 힘차게 싸워나가자.

偉大な党の領導によって太陽の名で輝くチュチェの社会主義祖国の強盛繁栄に向けてさらに力強く戦って行こう。
上掲拙訳部分をご覧いただければお分かりいただけると思いますが、時事通信も取り上げている「一寸のずれもなく、一歩の譲歩もなく無条件に最後まで貫徹しなければならない」以降の本文中に並ぶ訴えは、一心団結の強化、経済建設への全力集中、愛国主義教育の充実を要求するものです。「非核化をめぐる米朝協議を念頭に、圧力に屈しない姿勢を強調した」というのは、本文中からは読み取れないくらいの「行間読み」ですね。。。

核開発や国際制裁には直接触れていないが、非核化をめぐる米朝協議を念頭に、圧力に屈しない姿勢を強調した形だ。」というくだりは、「共和国側がそう言った」というよりは、「『北朝鮮はそう言いたいに違いない』と時事通信が思った」というのが真相に見えます。ほんと、こんな「分析」ばっかりだなあ。。。

キムジョンイル総書記逝去7年追悼。장군님의 사회주의강국건설사상과 유훈을 생명선으로 틀어쥐고 한치의 드팀도, 한걸음의 양보도 없이 무조건 끝까지 관철하여야 합니다.
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2018年12月15日

「嫌だから辞める」「無理だから辞める」路線の浸透;重要な進歩

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181211-00253369-toyo-bus_all
「死ぬほど働く人」が辞められない深刻事情
12/11(火) 16:00配信
東洋経済オンライン

 パワハラをはじめとしたブラックな経営者により、自死に至るような、つらいケースを報道で多く見るようになってきました。


(中略)

 もちろんいちばん悪いのは、ブラックな経営者、ハラスメントを行う人で、悪質なものは法的な処分を下すべきです。しかし、法的処分までに自分の心身が壊れては意味がありません。まず自分の安全を第一に考えてほしいです。

 ニュースなどであまりにひどいパワハラの実態などが流れますと、多くの人は「なぜその会社を辞めなかったのか」と不思議に思うでしょう。

■「自分では辞められない」状態になる前に
私の体験や過労やうつ状態から抜け出して幸せになった人を取材した拙著『「死ぬくらいなら会社辞めれば」ができない理由(ワケ)』に描いたとおり、理由は人それぞれにあるでしょうが、「判断力・思考力を奪われている」というのも大きいのではないでしょうか。

 長時間労働による過労や、ハラスメントによる心的ダメージは、人間から「まともに考えて対処する力と余裕」を奪うのです。洗脳といってもよいかもしれません。

 すっぽりと、真っ暗なトンネルに入ったような状態になってしまうと「進む」という選択肢以外見えなくなってしまいます。

 そうなったあとで、自ら「退職」という大きな決断をするのは難しいことです。まず、そのような選択肢が「見えない」状態になっていますし、もし「見えた」としても、「手の届かないはるか遠く」であり、そこにたどり着くだけの力が残っていません。

 結果的に「力尽きるまで前に進む」しかなくなってしまいます。

 そうなった後での対処はとても難しいことから、「そういう状態になりそうだと感じたら、まずは休んで判断力を取り戻す」というのが、重要です。「限界まで頑張った」後では遅く、「まだ大丈夫」のうちに「意識的に休む」ということですね。

(中略)

■「おかしい」ことに「おかしい」と気がつく
 「判断力を失う前に判断」するには、どういったことに気をつけたらいいのでしょうか。

 「ブラック会社に入社しない」のがいちばんいいのですが、ブラックかどうか入社前に判断するのは難しいことです。

(中略)

 入社後、重要なのは、「おかしい」と思えることなのですが、たいていの人はそれほど多くの会社を経験していないので、なかなか気づけないこともあります。

(中略)

 もし、ひどくしてしまうと、どのみち会社を辞めなければならないのはもちろん、次に新しく働きだすことも難しくなってしまいます。

 だったら、元気なうちに退職・転職した方がよいに決まっています。我慢しても何もいいことはないのです。

 大切なのは、少しでも「おかしい」、あるいは、そこまでいかなくても「えっ、そういうものなの?」と感じたら、調べることです。

(中略)

 「辞めてもいいよ」と言われたところで、「辞めた後どうなるの……?」という不安が払拭されなければ、決心がつかないことがあるでしょう。

 そうこうするうちに、疲れ果てて判断力を失い……という人が多いのではないでしょうか。これがいちばん難しい問題だと思います。

 そういう場合、普段から「辞めてもなんとかなる」という気持ちになれる情報を持つのが大切だと思います。

 まずは、心にまだ余裕があるうちに、「転職準備」を開始するのも1つの方法です。ネットを通じて転職先の情報を探すだけでも良いでしょう。

 必ずしも良い転職先が見つからなかったとしても、情報を持つことで、「選択肢はたくさんある」ことを知ることができます。

 もちろん、良い転職先があれば、具体的な転職活動に進むのもいいと思います。これも、元気なうちでないと難しいことなので、早いうちから始めておくのがよいでしょう。

■日本は失業してすぐに「のたれ死ぬ」国ではない
 あと、「転職がうまくいかなかったときに、生活はどうなるのか」も重要な問題です。ここがネックになり、退職を考えられない人も多いかと思います。

 家族や親戚などに、フォローしてもらえるならそれがいちばんですが、それが難しい場合は、各種社会制度で利用できそうなものを調べるのもよいと思います。
 
 失業保険をはじめ、さまざまな社会制度があります。たとえば奨学金にしても返済を一時止められる制度もありますし、家賃を補助してくれるような制度もあります。

 こういったことも「知っている」だけで、安心度が変わってくると思います。

 日本は今のところ「失業したとたん、のたれ死ぬ」ような国ではないので、「心身の危険が迫っている」場合には、迷わず、「心身の安全」を選びましょう。

 心身を壊してしまうほうが、よほど人生のリスクが高まります。

(中略)

■どうしようもないときにどうすればよいか
 もうそうなったら、個人的にはある程度は強引に休ませるのも仕方がないと思います。

 おそらく、もう自分の意志では休めない状態になっています。

 また、周囲に助けを求めることも必要です。

 家族・親戚・友人に広く相談するのもいいでしょう。

 親や配偶者が言って聞き入れられないことでも、他の立場の人から言ってもらえたら届くこともあるかもしません。

 過労死110番のような相談機関や、過労死防止センターのような組織もあります。

 そういったところに、どんどん相談することも必要だと思います。

汐街 コナ :イラストレーター
■生身の人間の利益を第一に考えればこそ「取り急ぎ安全地帯に脱出する」ことを優先すべき
重要な指摘の連続で、引用が長くなりました。『「死ぬくらいなら会社辞めれば」ができない理由』を執筆された汐街コナ氏が、休むこと・辞めることを前面に押し出していらっしゃることは大きな意味があります

世の中には、「『死ぬくらいなら会社辞めれば』などと簡単に言うな! 退職なんてそう簡単にできるものではない! 労働組合に入って闘おう!」などとアジる手合いがいます。こうした主張について私は以前から、「ブラック企業の経営者・資本家のように、他人を踏み台にすることしか考えていない骨の髄までの利己主義者に理を説いても、心を入れ替えるはずがない」という前提の下、「仮に労基署が動いたり、職場環境改善が動き始めたとしても、実際に改善されるには尚も時間が掛かるが、ギリギリの状態で働いている生身の人間は、一分一秒を争っている」とした上で、「辞めるということは、勤め先の支配から脱することであり、心身の無理をせず退職するのは、取り急ぎ安全地帯に脱出するという意味で最善の方法」と述べてきました。いのち・健康が最優先。まずは安全なところに脱出する必要があります。

そして、「取り急ぎ安全地帯に脱出する」という意味での「辞める」を実行するにあたっては、追い詰められた状態にある当の労働者は往々にして判断能力が低下している(たとえば、過労でうつ状態になっている労働者に自発的な「逃げ」を期待するのは非現実的です)ので、労働組合・ユニオンを含む周囲の人々が、転職支援を含む「脱出支援」することが極めて重要であると述べてきました(チュチェ104(2015)年10月15日づけ「周囲の助けを借りつつ「嫌だから辞める」「無理だから辞める」べき」やチュチェ105年10月15日づけ「だからブルジョア博愛主義者は甘い――「労働時間の上限規制」と「インターバル規制」再論」、同年12月16日づけ「自主的かつスマートなブラック企業訴訟の実績――辞めた上で法的責任を問う方法論」などで主張展開)。

私は以前から「自主権の問題としての労働問題」というテーマを掲げてきました。生身の人間・一分一秒を生きる生活者の利益を第一に考えればこそ、「正義の実現のために闘い、相手に非を認めさせる」ことよりも「取り急ぎ安全地帯に脱出する」ことを優先すべきです。チュチェ105年12月31日づけ「チュチェ105(2016)年を振り返る(3)――自主権の問題としての労働問題と1年」でも述べたとおり、正義の実現は、安全地帯に脱出し自主的な立場を確保してから取り掛かっても決して遅くはありません。

■「取り急ぎ安全地帯に脱出する」ことは、社会変革の一歩にも繋がる
「取り急ぎ安全地帯に脱出する」ことは、個人的で一時的な効果には留まりません。チュチェ105年6月19日づけ「マクドナルドの「殿様商売」「ブラック労務」に改善を強いたのは労働組合ではなく市場メカニズムのチカラ」や同年12月25日づけ「労働者の関心事に答えず、ブラック企業の利益を無意識に実現させる労組活動家」を中心に指摘してきたように、評判が決定的な作用をもたらす現代市場経済において商売人が最も恐れるのは自社にたいする悪評なので、退職者が続出しているという事実は、企業側には効果的です。あのワタミやすき家でさえ、「ブラック企業」という悪評が立ってしまい人材が集まらなくなったので、労働環境の改善に取り組むようになりました。初めのうちは「どーぞ、明日から来なくて結構!」とタカを括っていたのでしょうが、悪評が社会全体に広がって行った結果、あるときから「やばっ」と危機感を持つに至り、ついに労働環境の改善に取り組んだのでした。

個別労働者のミクロ的な行動が、あたかもベクトルの合成のように積み重なり、マクロレベルでの社会的うねりになったのです。「取り急ぎ安全地帯に脱出する」ことは、生身の人間・一分一秒を生きる生活者の利益の実現であると同時に、社会変革の一歩なのです。

■「嫌だから辞める」「無理だから辞める」路線の浸透――重要な進歩を示す事象
チュチェ105年12月31日づけ「チュチェ105(2016)年を振り返る(3)――自主権の問題としての労働問題と1年」で私は、次のように述べました。
いのちを守るためには、まずはなによりも逃げるしかありません。そのためには、退路の確保こそが大切です。ブラック企業の改心に期待したブルジョア博愛主義者たちの途方のない「甘さ」ゆえに、「退路の確保」という方法論はあまり追究されていませんが、深刻なブラック労働が社会的注目を浴びた今年こそ、「退路の確保」について広範に論じられるべきでした。甘っちょろいブルジョア博愛主義者たちの害悪は筆舌に尽くしがたいと思います。
あれから2年。この話題で著名な人物によって取り急ぎ安全地帯に脱出すること、つまり、「退路の確保」という方法論がピックアップされました。「自主権の問題としての労働問題」に重要な進歩が見られました。素晴らしいことだと思います。

■労働基準監督官による職場臨検等の補助的だが不可欠な役割について(補論)
なお、労働基準監督官による職場臨検等の行政的措置や法的規制や労働組合による要求運動については、あくまでも補助的役割ではあるものの不可欠なものだと私は考えています。

チュチェ105年5月5日づけ「自主の立場から見た「勤務間インターバル制度」――内容は労使交渉で、形式は絶対的記載事項として!」でも述べたとおり、自主権の問題としての労働問題の解決にあたっては、真に当事者(労働者個人個人)の都合に寄り添ったきめ細かい対応をするためには、当事者自身が主導権を握って個別のケースに合わせたミクロ的対応が必要です。当事者の生活フィールドを主戦場としなければなりません。その点、ある種の「社会的基準」にもとづく法的規制は、あくまで最低限の担保にしかなりません。その「社会的基準」によっては保護され得ない個別事情を持った個人は依って立つ所がないのです。そうした労働者が守られるためには、結局は労使交渉にならざるを得ません。マクロ的対応には本質的に限界があります。

法的規制の手法は、労使対等の交渉が行われ、その合意事項が遵守されることを保障することに注力すべきでしょう。労働法制が前面に出て中心的な立場で指導するのではなく、労使交渉に臨む当事者へのアドバイスとサポートの立場に徹するべきです。

また先に、「評判が決定的な作用をもたらす現代市場経済において商売人が最も恐れるのは自社にたいする悪評なので、退職者が続出しているという事実は、企業側には効果的です。あのワタミやすき家でさえ、ブラック企業という悪評が立ってしまい人材が集まらなくなったので、企業側が労働環境の改善に取り組むようになりました。」と述べましたが、「ブラック企業」という悪評を広める上で、労働基準監督官による職場臨検は重要であると言えます。

現代評判経済一般について論じたチュチェ105年1月15日づけ「「生産過程における厳格な規制」と「流通過程における最小限の規制」――自由交換経済の真の優越性を踏まえた規制」で私は、「消費者の眼に晒されにくい生産過程を行政が審査し、消費者行動に資する情報を提供すべき」と述べました。市場淘汰の力は絶大であるものの、日々の生産過程・職場環境は、たいていはブラックボックス化されています。健全な市場経済体制の維持のためには、生産過程・職場環境に関する行政の審査と規制を行い、その結果の積極的な情報公開;消費者行動に資する情報提供が必要であると言えます。悪質な売り手の市場淘汰を補助するわけです。

労働市場における労働供給者としての労働者は「消費者」ではありませんが、この考え方はまったく変わることなく通用します。労働基準監督官が職場臨検を行い、最低限の条件さえも守られていない状況を公表して当該企業の評判を落とすことは労働市場における市場原理の正常な動作;市場淘汰を補助していると言えます。また、労使交渉の妥結結果が履行されていないことについて指導することは、労働者を助けることに繋がります。いずれも極めて重要な補助的役割を果たします。

■労働組合の補助的だが不可欠な役割について(補論)
さて、労使交渉の主体は勿論、労働組合です。労働組合の役割を決して否定するものではありません。しかし、要求実現型の組合活動には重大な落とし穴があることは、いくら強調してもし過ぎることはないと考えます。

チュチェ104年10月8日づけ「「日本の労働組合活動の復権は始まっている」のか?――労組活動は労働者階級の立場を逆に弱め得る」を筆頭に繰り返しているように、要求実現型組合運動は、要求を実現すればするほど企業側との結びつきを強め、体制内化し、結果として自主の実現には逆効果(御用組合化)する避けがたいリスクが存在することを忘れてはなりません。企業側は、それこそ「投資」する意気込みで一時的に労働者側の要求を呑み、労働者たちが獲得した利益を自己の生活の不可欠な一部とし、労働者たちが企業への経済的依存を高めて辞めるに辞められなくなった段階、ミクロ経済学的には「需要者に対して供給者の価格弾力性が硬直的」な段階において、「回収」を試みることでしょう。不利な条件を押し付けられても対抗するすべがありません。労働者本人の年齢やスキルによっては、企業は「労働需要独占者」になるかもしれません。

労働者が真の意味で自主的になるためには、交渉力を持つためには、企業側に足許を見られないために特定の勤め先に対する依存度を下げることが必要です。先に述べた「価格弾力性」を柔軟にするためは「代わり」(代替財)の確保が必要です。また、労働需要独占の打破には、労働力の販路多様化=代わりが必要です。つまり、労働者が交渉力を持つためには、「なら辞めるよ?」という脅しが必要です。「なら辞めるよ?」と言える立場は、「代わり」を確保している立場です。「なら辞めるよ?」と言えない立場で、団体交渉等によって企業側から「譲歩」を勝ち取りその利権を自らの生活に組み込むことは、特定の勤め先に対する依存度を上げることに繋がります。自分から供給の価格弾力性を硬直化させたり、労働市場を独占化させていては仕方ありません。

労使交渉の要求内容としてありがちな「増員要求」の落とし穴についても言及しておきたいと思います。チュチェ106年2月14日づけ「増員は一人当たりの労働負荷を逆に増やす――「働き方改革」の逆効果」や同年8月15日づけ「「人に仕事をつける」日本の働き方は「ブルックスの法則」が作用し易い」でも言及したとおり、生産方法や生産技術、仕事の割り振り方・進め方によっては、増員のような一般的には負担軽減・待遇改善になると考えられがちなプランが逆効果になるケースもあります。

労使交渉を実践するにあたっては、こうした落とし穴に対する十分な警戒が必要です。

以前から私は、早急に産別労組を組織し、労働者の階級的連帯に基づく再就職支援・転職支援が必要だと述べてきましたが、特定の勤め先に対する依存度下げた状態で労使交渉を力強く行うためには、労働組合は新しいフロンティアを開拓しなければならないと言えるでしょう。究極的には、チュチェの社会主義者として、ここを突破口として労働者自主管理企業や協同経営組合の一層の発展を目指したいところです。
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2018年12月04日

根本的解決に至り得ないであろうコンサート等のチケット転売規制法;航空機チケットとの比較を踏まえて

https://news.yahoo.co.jp/byline/maedatsunehiko/20181204-00106441/
ついにチケット転売規制法が成立へ 気になる今後の運用と残された課題
前田恒彦 | 元特捜部主任検事
12/4(火) 6:35

 チケットの転売を規制する法律が4日に衆議院で可決され、参議院送付後、12月中にも成立する見込みだ。公布から半年で施行される。今後の運用や残された課題など、消費者が気になるであろう点をまとめてみた。


(中略)

【「業として」とは】
 ただし、(a)の「業として」という部分が最も重要な犯罪成否のポイントとなる。これは「反復継続の意思をもって」ということを意味し、ケースバイケースで判断される。

 一般の消費者からすると、「本当は自分で行こうと思っていたものの、急な予定が入って行けなくなったから転売した」とか、「チケット争奪戦に勝ち抜くために家族名義を使って申し込みをしたところ、複数枚当選したので余った分を転売した」といった事案が気になるところだろう。

 それが真実であり、たまたま今回だけであるなど、過去に同様の行為を繰り返しておらず、転売価格もせいぜい送料など実費分を追加している程度であれば、「業として」には当たらないから、安心して転売して構わない。

 逆に、名義は別々でも実質的に同一人物が同時に何十枚も購入して仕入れ、当選後、すぐに転売しているとか、様々なアーチストのチケットの転売を手がけているとか、実費分どころか利益分をも上乗せして転売を繰り返しているといった事情があれば、「たまたま今回だけだ」といった弁解は通らない。

【非公式の転売サイトも検挙可能に】
 他方で、ネット上には現に興行主側が関与していないチケット転売サイトが存在し、転売の仲介により手数料収入を得ている。

 警察は、チケットキャンプの運営会社元社長をダフ屋の共犯として詐欺罪で立件した後、「チケット流通センター」や「チケットストリート」といった転売サイトに対し、不正入手の疑いがあるチケット出品の削除を要請した。

 しかし、表向きはダフ屋対策を徹底していると言いつつ、今でも明らかにダフ屋によるものと思われる高額のチケット出品が見られる。

 今後は先ほどの条件をみたすチケットの不正転売が法律で禁止されるわけで、そうしたチケットが高額で出品されていることを知りながら放置し、転売の仲介で手数料を得ていれば、ダフ屋の片棒を担いでいると評価でき、幇助犯(ほうじょはん)として検挙できる。


(中略)

【不正仕入の規制がポイント】
 この点、金券ショップの経営はどうなってしまうのか、と心配する方も多いだろう。

 たとえ規制の対象となるチケットであっても、定価未満で仕入れ、定価以下で販売すれば不正転売には当たらず、利ざやも稼げるわけだから、いまだ商機は残されている。


(中略)

【それでも不正転売対策としては不十分】
 とは言え、どれだけダフ屋を取り締まっても、ダフ屋に活動空間を提供する者やダフ屋から購入する客がいなくならない限り、不正転売の根絶などあり得ない。

 法案では、興行主側にチケットの適正流通や不正転売の防止を図る努力義務が課されているし、国や自治体にもこれをサポートする義務が課されている。

 不正転売そのものを不可能とするために、次のようなシステムが積極的に導入されるべきだし、現に一部で導入済みであり、その普及が期待される。
(イ) デジタルチケット化と本人確認の徹底

(ロ) 興行主側によるリセールサイトの設営

(ハ) 不正転売チケットの無効化と購入者のブラックリスト入り

(ニ) チケット販売価格の多様化や柔軟化

 まず(イ)だが、転売禁止のデジタルチケットに統一し、チケットが表示されるIDやパスワードをスマートフォンと紐付けした上で、購入時に登録したクレジットカードや顔写真付きの身分証明証、スマートフォンの提示を入場時に購入者や同行者に求めたり、顔認証システムを導入するといったものだ。

 ファンクラブ先行販売枠を得るためにファンクラブに加入し、複数枚購入した上で高額で転売し、同行者と同時入場することで転売規制の網をくぐり抜けようとする例も見られるが、購入可能枚数を1人1枚に限ったり、販売時にあらかじめ同行者の氏名や連絡先を登録させるようにすれば、回避できる。

 ドーム球場やスタジアムクラスでの大規模なコンサートでも、何人に1人といった割合でアトランダムに本人確認を行うことで、入場時の時間や手間を最小限にとどめることができる。

 高い転売代金を支払い、わざわざ遠方から会場に足を運んでも、ダフ屋からの購入がバレて入場を拒否されるという事態が頻発すれば、ダフ屋の利用をためらうことになる。

 ダフ屋が購入時に使ったスマートフォンなどを顧客に貸し与えたり、入場不能時の返金保証をするケースもあり、おのずと限界があるものの、不正転売が格段に困難となるはずだ。

【消費者目線の重要性】
 他方で、行こうと思って購入したものの、何らかの事情で行けなくなったことから、無駄にするくらいであれば誰かに売り、代わりに楽しんできてもらいたい、といった消費者のニーズは間違いなくある。

 転売サイトを利用したり、Twitterなどを利用した直接のやりとりで高額転売を行う例も後を絶たない。

 公式の受け皿が整っていないからだ。

 定価取引に限定した音楽業界公認の「チケトレ」もあるが、非公式の転売サイトに比べ、仲介手数料が高い。

 (ロ)で挙げたとおり、興行主側も、こうした公式のサービスを広く設け、手数料をより低額なものとした上で、定価以下でのチケットのリセールを安全かつ容易に行えるようにすべきだ。

 併せて、(ハ)で挙げたように、非公式の転売サイトで転売が行われているチケットを無効化し、そうしたチケットで入場しようとした者の入場を拒否するのみならず、ブラックリスト入りさせ、業界団体で情報共有し、その他のコンサートを含めて出入り禁止にするといった措置をとることも考えられる。

 さすがにそうした事態まで待ち受けているとなると、転売禁止のチケットなど怖くて手出しできなくなるはずだ。

 公式の転売サイトができるとダフ屋が定価で堂々と購入し、非公式の転売サイトで転売することも懸念されているが、転売禁止のチケットが非公式のサイトに出品された時点で無効化されるとなれば、ダフ屋の旨味も全くなくなる。

 無効化したチケットについては、その情報を興行主側のサイトなどで公表した上で、公式の転売サイトを通じて定価で再販売すればよい。


(中略)

 もちろん、(ニ)で挙げたチケット販売価格の多様化や柔軟化も重要だ。

 良い座席とそうでない座席との間の定価に大きな違いがないからこそ、転売による商売が成り立つ。

 思い切って市場原理に委ね、座席によって様々な価格帯のチケットを設ける必要もあるだろう。



(以下略)
■コンサート等のチケット転売規制法の致命的な不備・不足点
意図的な証拠改竄による冤罪事件を引き起こした張本人として法曹界から追放された前田恒彦氏(犯した罪について刑期を満了させて法的責任は果たしているので「氏」と呼びます)。「職業倫理は欠けていたが、特捜部主任検事だっただけあって、職務を遂行するだけの頭脳はいまでも健在なんだな、やっぱり情報整理能力はあるんだな」と感じるところです。

それはさておき、コンサート等のチケット転売規制法の致命的な不備・不足点に対する鋭い指摘について取り上げたいと思います。

引用部分。@「ダフ屋から購入する客がいなくならない限り、不正転売の根絶などあり得ない。」とA「何らかの事情で行けなくなったことから、無駄にするくらいであれば誰かに売り、代わりに楽しんできてもらいたい、といった消費者のニーズは間違いなくある。(中略)公式の受け皿が整っていない」という指摘は、この法案が解決していない重要な論点を的確に言い当てています

■「消費者がダフ屋を必要としない環境」を作り上げることこそが要諦ではないのか
これら2点については、当ブログでも以前から論考してきました。第一論点については、昨年9月9日づけ「共和国における経済改革の進展――建国69年目のチャレンジの行方」と、同17日づけ「表市場での「即日融資取りやめ」は闇市場への「商機の提供」」において、政策的に「望ましくない」からといって個別の商取引を権力的に禁止する方法論の、政策目標実現に対する困難性について、朝鮮民主主義人民共和国(以下、「共和国」)のキム・イルソン主席が1960年代に発表した談話を引用して論じました。

周知のとおり、共和国は建国以来一貫して社会主義の看板を掲げ続けています。特に1960年代は東西冷戦の真っ只中で、まだ計画経済と自由経済の体制優位性競争に決着がついていない時期でした。共産圏諸国においては、それなりの信憑性と確信の下に「市場における自由な取引は望ましくない」「計画外の勝手な商売は『闇市』として取り締まるべし」と当然視されていた時代でした。しかし、キム・イルソン主席は、次のように指摘され、闇市(農民市場)根絶の困難性を認め、かつ自発的・自生的取引の肯定的効果さえも認めておられました
 社会主義社会に副業生産や農民市場が残っているのは悪いことではなく、むしろよいことです。我々が、まだ人民生活に必要なすべての品物、特にほうきとかパガジ(ふくべ)のようなこまごました日用品や、食肉、卵、ゴマ、エゴマのような副食物などをすべて国家で十分に供給できない条件のもとで、そういったものを個人が副業で生産し、市場にだして売るのがどうして悪いのでしょうか。それが立ち後れた方法ではあっても、すべてを先進的な方法でできないときには、後れた方法も利用しなければなりません。

(中略)

 それにもかかわらず、副業生産や農民市場が共同経営に悪影響を与え、利己主義を助長するからと、法令をもって農民市場を廃止するならば、どういう結果になるでしょうか。もちろん、市場はなくなるけれども、闇取引は依然として残るようになるでしょう。農民たちは、副業で生産した鶏や卵をもってよその家の勝手口を訪ね、裏通りを売り歩くことでしょう。そうしているうちに取り締まりを受けて罰金を払わされるか、法の追及をうけることになるでしょう。だから、農民市場を強制的になくして、解決されることはなに一つなく、かえって人民の生活に不便を与え、不必要に多くの人を罪人にしてしまうおそれがあります。

 したがって、国家的に人民生活に必要なすべてのものを十分に生産、供給できない条件のもとでは、性急に農民市場を廃止しようとする極左的偏向を厳しく警戒しなければなりません。

 それでは、いつになったら個人副業生産と農民市場がなくなるでしょうか。

 第一に、国の工業化が実現し、技術が高度に発展して、人民の要求するあらゆる消費物資が豊富になったとき、はじめてそれがなくなるのです。どんな品物でも国営商店で買えるようになれば、誰も、しいてそれを農民市場へ行って買おうとはしないはずであり、また、そのような品物が農民市場で売買されることもないでしょう。例えば、工場で安くて品質のよい化学繊維が多く生産されるならば、人々はわざわざ市場に行って高い綿花を買おうとはしないだろうし、また、一部の農民がそれを高く売ろうとしても、売ることができないでしょう。現在の条件のもとでも、人民の需要をみたしている商品は、農民市場では売買されないし、咸興市のような大都市でも、白頭山のふもとにある胞胎(ポテ)里のような山間の僻地でも、我が国のすべての地域で、同じ価格で実現されます。このように品物が豊富で、同じ価格で実現されるとき、それは供給制と変わりありません。

 しかし、人民の需要をみたせない商品は、たとえ国家が唯一的に価格を制定したとしても、闇取引されたり、農民市場で又売りされるということを忘れてはなりません。商店の品物を買いだめしておいて、他人が急に必要になって求めるときに高値で売りつけるような現象があらわれるようになるのです。卵の販売の問題を例にとってみましょう。現在、平壌をはじめ、各地に養鶏工場を建設して卵を生産していますが、まだ人民に十分供給できるほどではありません。そういうわけで、卵も国定価格と農民市場価格とのあいだに差が生ずることになるのですが、これを悪用して又売りする現象があらわれています。

 もちろん、だからといって、卵をいくつか又売りした人を罪人扱いにして教化所に送るわけにもいかず、ほかの方法で統制するとしても、販売量を調節するといったようないくつかの実務的対策を立てること以外に方法はありません。もちろん、こうした対策もとらなければなりませんが、そんな対策では商品が一部の人たちに集中する現象をある程度調整できるだけで、それが農民市場で又売りされたり、闇取引される現象を根本的になくすことは決してできません。

 この問題を解決するためには、品物を多く生産しなければなりません。産卵養鶏工場をより多く建設し、人民の需要をみたすほど大量に生産するならば、卵の闇取引はなくなるであろうし、農民市場で売買されることもおのずとなくなるようになるでしょう。こうした方法で国家的に人民の需要をみたし、農民市場で売買される商品を一つ一つなくしていくならば、最後には農民市場が不必要になるでしょう。
キム・イルソン主席のご指摘を踏まえて私は、前掲過去記事において必要だから需要が発生するのです。表の市場で満たされないからといって諦める人ばかりではなく、一部は闇市場に流れるものです。需要があれば商機があり、商機があれば供給があるものです。いくら社会的に好ましくないとはいえ、それを単純に禁止しているだけでは、闇市・闇業者に商機を与えるだけ。」と述べましたが、このことは「ダフ屋から購入する客がいなくならない限り、不正転売の根絶などあり得ない。」という前田氏の指摘とも重なるものです。

■臨機応変なチケット有効活用のための融通を実現させる公式の受け皿が整っていないのが元凶である
キム・イルソン主席のご指摘を踏まえれば、ダフ屋撲滅の要諦は、何よりも「消費者がダフ屋を必要としない環境」を作ることにあります。その点、前田氏が記事中で列挙したアイディアはいずれも効果が期待されるものですが、とりわけ「(ロ) 興行主側によるリセールサイトの設営」と「(ニ) チケット販売価格の多様化や柔軟化」は重要なアイディアであると言えます。第二論点としての「何らかの事情で行けなくなったことから、無駄にするくらいであれば誰かに売り、代わりに楽しんできてもらいたい、といった消費者のニーズは間違いなくある。(中略)公式の受け皿が整っていない」に話を進めましょう。

2016年12月1日づけ「コンサートチケット転売問題は極めて経済学的問題である――転売禁止という雑な配給制がもたらす効果」でも言及したとおり、航空機チケットと比較したときコンサート等のチケット販売の制度設計は稚拙・雑であると言わざるを得ません。コンサート等のチケット販売においては、自分自身が行くつもりで一旦は正規ルートで堂々と購入したものの、何らかの事情で本人がコンサートに行けなくなった時、チケットが有効に活用される方途が設計されていません。今回の法規制は「業としての転売」を対象としたものであり、その点、急用を理由とする一回限りの転売意図に留まる一般消費者は規制対象外ですが、一回限りの転売意図であればこそ「販路」を自己のものとしていない一般消費者は、プロの転売仲介業者を必要とするものです。転売仲介業者は、ボランティアではなく業として転売を仲介しています。手数料等を取らないわけには行きません。

一般消費者の一回限りの転売意図は規制対象外とはいえ、その一回限りの転売意図を実現するにあたっての販路を提供する「必須インフラ」としてのプロの転売仲介業者の立場が危うくなる立法(本文中にもあるとおり、転売仲介の商機が完全になくなるわけではありませんが・・・)は、回りまわって最終的には、一回限りの転売意図の実現をも危うくするでしょう。その点において、今現在の社会環境は、臨機応変なチケット有効活用のための融通が実現されにくい環境にあります。

これに対して上掲記事でも述べたとおり、航空機チケットは「キャンセル制度」を通して、チケットの融通を効率的に行っています。正規購入者でない人物がコンサート会場に潜りこむのは暴力団等の資金源の問題や不平・不満の感情的問題に留まる話ですが、航空機チケットの闇転売はテロやハイジャックの余地を生む点において、絶対に避けなければならない問題です。他方、急用で搭乗できなくなった消費者分の空席を残してフライトをするのは経営上、なるべく避けたい問題です。臨機応変なチケット融通が求められるところです。その2つの両立困難な課題を、「キャンセル制度」が上手く調整させているわけです。航空機チケットの転売は既に厳しく禁じられていますが、同時に、闇取引しなくても済む公式の受け皿が整っているわけです。

■単なる法規制では、この問題の解決には至り得ないだろう
今回のチケット転売規制法は。結局のところ、「不公平で望ましくないから禁止する」の域を脱していないものと思われます。もしかすると、チケット取りに失敗した立案者の個人的恨みが原動力かもしれませんw(知らないけど)。そうであるがゆえに、上述のとおり、おそらく闇転売は根絶されないでしょう。「犯罪のプロ」である暴力団等アングラ世界の住人達にとっては、中途半端に悪知恵が働く程度の素人さんが商売をやりにくくなる点において、商機到来といったところでしょう。

必要だから需要が発生するのです。需要があれば商機があり、商機があれば供給があるものです。供給をなくすためには需要をなくすのが正道です。キム・イルソン主席がご指摘されるように、需要をなくすには、消費者の必要を満たす代替的手段を制度的に提供することによって、「消費者がダフ屋を必要としない環境」を作り上げることこそが要諦です。その点において私は、航空機チケットの「キャンセル制度」を参考にしたチケット販売制度のレベルアップが何よりも必要であると主張するところであります。それを置き去りにして単なる法規制に走っているようでは、この問題の解決には至り得ないことでしょう。

なお、航空機チケットの転売対策がそうであるとおり、取り締まりがまったく無駄であるというわけではありません。取り締まりは必要です。不可欠です。しかし、取り締まりは不可欠ながらもあくまでも補助的な要素であり、根本的には「消費者がダフ屋を必要としない環境」を作り上げることこそが要諦です。
posted by 管理者 at 22:02| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2018年12月02日

消費増税に伴う「軽減税率」の対象指定における設計主義的・計画経済的発想について

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181201-00000044-jij-pol
軽減税率、書籍・雑誌は対象外=有害図書の排除困難―政府・与党
12/1(土) 10:15配信
時事通信

 2019年10月の消費税率10%への引き上げに伴い導入される軽減税率に関し、政府・与党は1日、書籍・雑誌を導入段階では対象にしない方向で調整に入った。

 条件となっていた有害図書を排除する仕組みがまとまっていないことなどが理由だ。

 
(以下略)
消費増税の予定期日まで1年を切りました。

膨大な種類の財・サービスが流通している現代消費社会において、政府・役人の采配で軽減税率の対象か否かを振り分けるというのは、実に設計主義的・計画経済的な発想です。歴史の教訓を振り返り経済学の立場に立てば、こうした人為的振り分けをスピード感をもって対応するには大人数の担当官が必要ですが、それでも合理的な設定は困難なものと言わざるを得ません。現代消費社会は多様性を本質的特徴としているので、膨大な種類の財・サービスの性質についてハッキリと人為的に分類することは困難だからです。5年以上前から軽減税率についてはウダウダとやっていますが、設計主義的・計画経済的発想の困難性の証左であります。

また、新聞界を見ればわかるとおり業界団体の活動も活発になっています。振り分けの過程にも不透明さがあります。

制度というものは透明かつシンプルであらねばなりません。価格や販売・支払い局面に口を出すというのは、「政府は対策を打っている」という印象を与えやすく素人さんに対するパフォーマンスとしては効果的かもしれませんが、経済政策の中でも調整の困難性が高く非合理的で失当な結果をもたらしかねない危険性が高いものであると言えます。そもそも、消費増税に伴う逆進性の低減を目指すのであれば、全国民一律の税率の軽減は、その本旨とは合致しないものであります。

いわゆる「負の所得税」の発想を援用して家計の所得水準に応じた機械的な還付の方がシンプルで安全、制度の本旨に沿ったものになると考えられます(ちなみに、最近流行りの「ベーシック・インカム」は、呼び名が違うだけで数理科学的には「負の所得税」と同一の構造・効果をもっています)。

軽減税率導入に特に熱心なのは公明党です。公明党の経済政策は、政策の目標はさておき、その手段に目を向ければ、「防災・減災ニューディール」を筆頭として経済の人為的操作を政策原理とする些か古臭い発想・・・というかマクロ経済学入門の教科書に載っている内容から脱し切れていないように見えます。まあ、古くて入門レベルとはいえ一応マクロ経済学に立脚している点は、それにさえも立脚としているとは言い難い手合いと比べればマシですが・・・
posted by 管理者 at 18:12| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする