新天皇が即位し令和の時代が始まりました。
■令和という「章」
先月30日にフジテレビ系列で放送された「FNN報道スペシャル 平成の“大晦日”令和につなぐテレビ」において、タモリさんが元号について「
西暦というものが、本のページ数だとすれば、元号というのは日本だけが持っている『章』。その章があるから切り替えができますよね」と発言しました。とてもよい見解であると注目を集めています。
https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/05/01/kiji/20190501s00041000430000c.htmlタモリの新元号特番コメントが話題に「西暦は本のページ。元号は日本だけの『章』」
[ 2019年5月1日 21:31 ]
(中略)
6時間半の生放送番組エンディングでコメントを求められたタモリは「西暦というものが、ずっと(続く)本のページ数だとすれば、元号というのは日本だけが持っている『章』。その章があるから(時代の)切り替えができますよね」と自身の考えを述べた。
(以下略)
元号の切り替わりを「時代の切り替わり」と位置付けることについては、リベラル界の筆頭格たる『朝日新聞』が5月3日朝刊の「改元の「祭り」テレビ染めた」で、水島久光・東海大学教授の「(日本国憲法の国民主権に照らせば)
天皇の交代によって時代が変わるという価値観とは本来は相容れないはずだ。(中略)『元号』を『時代』と意図的に読み替え、あおったのは問題だ。」という発言を報じる形で批判していますが、そうした声はごくごく一部に留まっています。
■令和の時代を多様性の時代に「しようとする」動きは盛んになるだろう
それどころか、リベラル界の中からも、この機に乗じて
「令和の時代を多様性の時代へ!」といったキャンペーンが出てきています。NHKの夜のニュース番組「ニュースウォッチ9」では、制作陣が内心どう思っているのかは分かりませんが、「改元祭」の熱気に乗っかって「新しい令和の幕開けに『家族とは何か』について考えたい」という特集を5月1日の放送で放映しました。曰く「令和の時代は家族の在り方が多様化するはずだが、どんな形であってもそれぞれの家族が大切にされる時代になってほしい」と。また、下記記事もかなり無理矢理な論理展開ではありますが、「令和の時代は多様性の時代」という位置づけを試みています。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190506-00000104-spnannex-ent華原朋美、45歳高齢出産へ 多様な輝き方を選べる「令和」
5/6(月) 10:15配信
スポニチアネックス
【芸能覆面座談会】令和の時代が幕を開けました。芸能界では早速「令和婚」「令和出産」のおめでたいニュースが続出しています。令和第1回の座談会。いつものメンバーがニュースの裏側に迫ります。
(中略)
本紙デスク 個性に応じた、より多様な輝き方を選択できるのが来るべき令和の新時代。結婚だけでなく、改元を機に驚くような決断をする芸能人がもっと出てくるかもしれないね。
最終更新:5/6(月) 10:17
スポニチアネックス
令和の時代が多様性の時代に「なる」かは分かりませんが、こんなコジツケと言う他ない論法が早くから出てきている点、
令和の時代を多様性の時代に「しようとする」動きは、平成の時代以上に盛んになることでしょう。ポリコレ文化大革命もますます盛んになってゆくことでしょう。
■「多様な生き方・価値観が認められ共存する寛容な社会」における社会秩序とは?
「多様性」の正体について検討すべき段階に入っていると言えます。改元後初の記事は、このことについて取り上げます。
以前から繰り返し述べているように、「自主」こそが人間が人間たる基本的特徴と考えている私、「労働と生活の自主の実現・自分自身の生の主人となり得る社会の実現」を目指す私も、社会における多様性を重視しています。多様な生き方が受け入れられる自主的な社会・多様性のある社会の実現を志す立場です。当ブログでも以前からこの立場から述べてきました。とりわけ、経済学を学んできた身として「消費と生産の多様化」という観点から市場経済の優位性について論じてきました(多様性を声高に主張する人たちの中には、経済活動に関する多様性に関してはトーンが低かったり、あれこれ理由をつけてはむしろ統制的な経済政策を論じるケースが少なくない中、政治・経済・一般生活の各分野で「多様性尊重」という立場を一貫させてきたと自負しています)。
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チュチェ102(2013)年12月22日づけ「
市場競争の効用は「効率性」よりも「多様性」」
チュチェ104(2015)年10月5日づけ「
図書館指定管理者制度の本旨は「多様性」」
チュチェ105(2016)年12月5日づけ「
小うるさい「職人」と棲み分けできる市場経済で本当に良かった!」
チュチェ106(2017)年5月6日づけ「
「不合理なルールを変えて多様性を実現する」を単なる「何でもあり」にしないために」
しかしながら、
昨今リベラル勢力が注力している「多様性キャンペーン」は、たしかに旧来の価値観を問い直して非合理的な思い込みを打破する局面においては活躍しているものの、
新しい社会秩序を形成するにあたっては心許ないと言わざるを得ません。最終的にどのような社会的新秩序を作り出そうとしているのかについて明確に見えてこないのです。
「寛容の精神」「お互いを認め合う」といったあたりの曖昧な単語を持ち出して誤魔化すことに終始しており、積極的かつ具体的なビジョン・着地点が見えてこないのです。
「多様な生き方・価値観が認められ共存する寛容な社会」とは、いったいどのような秩序が成り立っている社会なのでしょうか? 多様性と「何でもあり」とが異なるのは明白でしょう。「非寛容に対しても寛容に」と言うわけにはいかないはずでからです。
■リベラリズムは回答できていない
この命題に対して
リベラリズムは、一貫した回答を提出できていないようです。たとえばイギリスでは、ともに少数派であるLGBTと、異性愛しか認めず同性愛等を禁じているイスラム教徒との激しい対立に際して有効な仲介ができていないようです。
http://www.iiyamaakari.com/2019/03/vs-lgbt.htmlイスラム教徒 vs. LGBT:イギリスの小学校でマイノリティ同士の戦い勃発
イギリスのバーミンガムにある小学校で今年2月、イスラム教徒の父母を中心とする300人ほどがLGBTについての授業に抗議するデモを行いました。(写真はMailOnlineより)
この小学校では「仲間はずれなんていない(No Outsiders)」というプログラムに従い、年に5回、LGBTの平等を促進しLGBTの価値観を支持する授業が行われていました。
そこではお母さんが二人いる家庭の話など、同性愛や同性婚の話を読ませ、その価値観を肯定するよう指導されていたとのこと。
これに対してイスラム教徒の父母は、「価値観の押し付けだ!」「子供の無垢さを利用するな!」「我々の子供に同性愛やLGBT的な生き方を勧めるな!」「我々の文化に対する差別だ!」等々と抗議、授業停止を求める署名活動が行われ、3月には授業に参加させないために600人ほどの子供を学校から連れ戻す事態に発展しました。
これを受けて学校は「仲間はずれなんていない」授業の停止を決定。
一件落着かと思われたところで、今度はLGBTを支援する議員が、イスラム教徒父母の行動はLGBTに対するヘイト・クライムであり学校から生徒を連れ戻し教育を妨害したことに対して罰金が課せられるべきだと抗議しました。
LGBTの支援者らは、こうしたイスラム教徒たちによるLGBTに対する侮辱の声は日に日に大きくなっており、社会が分断されてきていると懸念を表明しています。
イスラム教徒とLGBTは共にいわゆる社会的なマイノリティであり、リベラル勢力が保護すべき対象だと主張してきた存在です。
今回発生したのは、マイノリティ同士の利益が相克するという事案です。
イスラム教においては、同性愛行為は神の秩序に対する反逆行為であるとして禁じられています。
イスラム法において合法とされる性交渉は、婚姻関係にある異性同士か、男の主人と女奴隷との間のもののみと規定されており、それ以外は全て違法なのです。
またイスラム教は、神は人間を男と女として創造し、それぞれにふさわしい規範を与えたと考えるので、男の身体を持って生まれたのに女だという自覚を持ち自分は本当は女だと主張する、といった「性同一性障害」というものの存在を本来的に想定していません。
心の中でそういった認識を持つだけならば自由ですが、それを表明することは全く認められないのです。
ですから、「LGBTの価値や生き方を認めましょう!」「LGBTも平等です! 」と学校で教え込まれるのは、イスラム教徒としては大変な迷惑なのです。
イスラム教徒は自分たちこそ「保護されるべきマイノリティ」だという認識があるので、「LGBTの価値を押し付けられるのはそれと矛盾するイスラム教の価値を軽視しているという点で差別的であり受け入れられない」、と主張しているのです。
(中略)
日本は欧米から何周も遅れて外国人労働者を受け入れることを決定し、今更のように「多様性のある社会を実現させよう!」と政界や経済界が声を合わせて主張し始めました。
私たちは、実態のない妄想としての理想的多様性社会を夢見るより、実態としての多様性社会でどのような問題が生じているか、それはどのようにこじれ、どのような解決をみるのかについて、注視しそこから学ぶべき時期にきているように思います。
「リベラリズムなど結局はキレイゴトの羅列にすぎず、観念論の域を脱していない」という認識の私としては、「やっぱりね」としか思わない展開。
イギリスの事例は、リベラリズムの教義を乗り越えて「多様な生き方・価値観が認められ共存する寛容な社会」を模索しなればならないことを教訓的に示していると言えます。
■イスラム世界からの「棲み分け」という多様性共存の実践報告
リベラリズムのお題目から離れて事実から出発して参考になり得る実例を拾うべきです。その点、
「イスラム世界における世俗主義的人士と敬虔な信徒との共存」の実例は、このことを考える題材になり得ると考えます。イスラム教は世界的に広まっている宗教ですが、敬虔な信徒の宗教的情熱は実にストイックである一方で、世俗主義的人士の信仰はかなり「柔軟」で、
宗教的情熱に大きな温度差がある人たちが一定の空間でビミョーな共存関係を築いているからです。
この点において、『朝日新聞』5月1日国際面コラムは、興味深い内容を報じています。以下。
https://www.asahi.com/articles/ASM4Y226CM4YUHBI004.html(特派員メモ)披露宴の2日後に @ヨルダン川西岸地区
高野遼 2019年5月1日09時30分
パレスチナ人の結婚披露宴に初めて招待された。新郎新婦はイスラム教徒だ。会場入り口で出迎えの新郎やその家族と握手を交わし、ホールの中へ……。
「あれ? 新婦はどこ? 男性だけ?」
イスラム式の結婚式は男女別が伝統という。静かな会場で羊肉の料理をいただく。女性は一つ下の階に集まっていた。
ところがその2日後、「今度はもっと楽しい披露宴があるから」と呼ばれて再び同じ会場へ向かうと、雰囲気は一変していた。
(中略)
「男女別はどうなったの?」
新郎のいとこがウイスキーグラス片手に教えてくれた。(中略)この晩は自由なスタイルを受け入れるゲストだけを招待したという。
宗教熱心な人とそうでない人のためにと二度の披露宴を開いたのだ。「どちらも大切なゲストだからね」。4時間越えの大宴会を終え、新郎の父は満足げだった。
あくまでも一例ではありますが、上掲記事からは、
多様な価値観どうしが平穏に共存するための秘訣が「棲み分け」であることが分かります。棲み分けについては、当ブログでも以前から繰り返してきました(チュチェ105(2016)年7月31日づけ「
棲み分け原理と価値観の多様性――自由主義的な人間関係の基礎」、チュチェ106(2017)年9月30日づけ「
棲み分けと共存」)。前掲:イギリスにおけるLGBTとムスリムの対立・衝突のように、
異なる価値観同士は、どんなに頑張っても衝突してしまう局面があるものです。これを穏便かつ現実的に解決しようとすれば、棲み分ける他にありません。
その点、上掲記事で報じられている「二度の披露宴」という棲み分けの処世術は、極めて現実的。
「寛容の精神」だの「お互いを認め合う」だのとキレイゴトを並べるのに終始するリベラリズムの言説よりもずっと説得力がある「多様な価値観を共存させるための方法」であるといえます。何といっても、リベラリズムは実践的成功を見ていないが、イスラムにおける棲み分けは実践されているのですから!
■総括
「多様な生き方・価値観が認められ共存する寛容な社会」は、間違いなく理想的な社会像です。しかし、
事実から出発すればこそ、異なる価値観同士の衝突を穏便かつ現実的に解決しようとすれば、棲み分ける他にないのです。
前述のとおり、令和の時代を多様性の時代に「しようとする」動きは、平成の時代以上に盛んになることでしょう。また、「自主」こそが人間が人間たる基本的特徴と考えている私としても、令和の時代が多様な生き方が受け入れられる自主的な社会・多様性のある社会の実現になってほしいと考えています。
それを実現するにあたっては、お題目を並べるのに終始しているリベラリズムではなく、事実・実践から出発すべきであります。宗教的情熱に大きな温度差がある人たちが一定の空間でビミョーな共存関係を築いている
イスラム世界の事実から出発するに、多様な価値観が共存するためには「棲み分け」が効果的であることが分かります。
「多様な生き方・価値観が認められ共存する寛容な社会」を目指す必要が日本でも高まりつつあるといえますが、多様な価値観を共存させようとすればこそ「棲み分け」という選択肢を考慮に入れなければならないと言えるでしょう。共存のためにこそ少し距離を置くのです。