2019年05月30日

「『一人で死ぬべき』は控えよう」論から透けて見える、空虚で白々しいリベラリズム的ブルジョア「博愛」主義;エンゲルスの『フォイエルバッハ論』に立ち返り、同胞愛・人類愛復興の道へ

https://news.yahoo.co.jp/byline/fujitatakanori/20190528-00127666/
川崎殺傷事件「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしい
藤田孝典 | NPOほっとプラス代表理事 聖学院大学人間福祉学部客員准教授
5/28(火) 13:10


(以下略)
神奈川県川崎市での通り魔的殺傷事件に関する藤田孝典氏の当該記事が炎上しています。当該記事については、当ブログでは5月28日づけ「日本における刑事政策議論の「難しさ」と、その「語り方」(案)」で刑事政策の観点から概ね同意見の立場ながらも、あいかわらず事実からではなく想像から出発しており、慎重さに欠ける論理展開であると述べました。いったんは論じ尽くしたつもりだったのですが、一晩明けてみるとどうにも論じ尽くした感がしない・・・

悶々としているところ、リベラル界の重鎮:江川紹子氏や、尾木ママこと教育評論家の尾木直樹氏が参戦してきました。江川氏や尾木氏の言説も含めて更に理由を突き詰めてみたところ、「結局のところ、こんなのはキレイゴトに過ぎないから」という身も蓋もない結論に至りましたので、以下で更に論じたいと思います。

藤田稿において問題となるくだりは、以下になりましょう。
類似の事件をこれ以上発生させないためにも、困っていたり、辛いことがあれば、社会は手を差し伸べるし、何かしらできることはあるというメッセージの必要性を痛感している。

「死にたいなら人を巻き込まずに自分だけで死ぬべき」「死ぬなら迷惑かけずに死ね」というメッセージを受け取った犯人と同様の想いを持つ人物は、これらの言葉から何を受け取るだろうか。

やはり社会は何もしてくれないし、自分を責め続けるだけなのだろう、という想いを募らせるかもしれない。

その主張がいかに理不尽で一方的な理由であれ、そう思ってしまう人々の一部が凶行に及ぶことを阻止しなければならない。

そのためにも、社会はあなたを大事にしているし、何かができるかもしれない。社会はあなたの命を軽視していないし、死んでほしいと思っている人間など1人もいない、という強いメッセージを発していくべき時だと思う。
前回記事でも述べたとおり、本事件を教訓として分析した上で潜在的な逸脱分子を社会の側に引き留める刑事政策・社会政策に繋げる上ではこの心構えは大切でしょう。しかし極めて残念ながら、「社会はあなたを大事になどしていないし、何かするつもりもない」「社会はあなたの命などどうでもいいと思っている」「死んでほしい人は結構いる」というのは、事実から出発すればこそ指摘しなければなりません。事実として、現代日本社会は、朝鮮民主主義人民共和国の歌謡≪세상에 부럼없어라≫(この世に羨むものはない)に歌われるような≪우리는 모두다 친형제≫(我らは皆、親兄弟)の社会ではないです。

我々の社会はそれだけ同胞愛・人類愛が廃れている社会なのです。この社会において「社会はあなたを大事にしているし、何かができるかもしれない。社会はあなたの命を軽視していないし、死んでほしいと思っている人間など1人もいない、という強いメッセージを発していくべき」などと述べるのは、高潔であり人類の夢ではあるものの、現時点では実に空虚であり、白々しく、お育ちの良い御仁のキレイゴトの域を脱していないと言わざるを得ません。かつて藤田氏が労働問題について論じていたとき私は、「ブラック経営者・資本家が「奴隷の陳情」に応じるなどと思い込んでいる甘っちょろい「ブルジョア博愛主義者」」だと述べましたが、今回もまたそうした彼の思考回路がよく現れているようです。

社会福祉や労働問題について積極的に発信されている藤田氏には、僭越ながら、F.エンゲルスの『フォイエルバッハ論』に立ち返ってみることをお勧め申し上げたいと思います。次に挙げるエンゲルスの指摘は、今日のブルジョア「自由」主義社会の本質を見抜いたものです。藤田氏の言説がまさしくブルジョア「自由」主義の提灯持ちたるリベラリズム的ブルジョア「博愛」主義の域に留まる「キレイゴト」に過ぎないことを明白にすることでしょう。リベラリズム的ブルジョア「博愛」主義の「優しさ」など何の役にも立たぬ空想的社会変革論です。
今日、われわれにとって、他の人びととの交際で、純粋に人間的な感情をあじわう可能性は、すっかりいためつけられている。それは、われわれが行動しなければならないこの社会は、階級対立と階級支配に基礎をおく社会だからである。
(エンゲルス著・森宏一訳『フォイエルバッハ論』新日本出版、1998年、p55)

階級対立と階級支配に基礎をおく社会だから」という論拠は、事実を単純化しすぎているようにも思いますが、同胞愛・人類愛がが廃れている現実とその原因を踏まえた上で次の一手を考えるほかないでしょう。繰り返しになりますが藤田氏の主張は、現時点では社会的土台に欠けた非現実的な理想であると言わざるを得ないのです

藤田氏のような立場であればこそ、エンゲルスの指摘に立ち返り、それを指針とすることで、朝鮮民主主義人民共和国の歌謡≪세상에 부럼없어라≫(この世に羨むものはない)に歌われるような≪우리는 모두다 친형제≫(我らは皆、親兄弟)の社会:同胞愛・人類愛が社会にあふれる理想的社会を目指すべきです。


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5月28日づけ「日本における刑事政策議論の「難しさ」と、その「語り方」(案)
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2019年05月28日

日本における刑事政策議論の「難しさ」と、その「語り方」(案)

https://news.yahoo.co.jp/byline/fujitatakanori/20190528-00127666/
川崎殺傷事件「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしい
藤田孝典 | NPOほっとプラス代表理事 聖学院大学人間福祉学部客員准教授
5/28(火) 13:10

「死にたいなら一人で死ぬべき」の危険性 凶行を繰り返させないために
報道の通り、5月28日(火)朝方、川崎市で多くの子どもが刺殺、刺傷される事件が発生した。

現時点では被害状況の一部しか判明していないため、事実関係は明らかではないが、犯人らしき人物が亡くなったことも報道されている。

それを受けてネット上では早速、犯人らしき人物への非難が殺到しており、なかには「死にたいなら人を巻き込まずに自分だけで死ぬべき」「死ぬなら迷惑かけずに死ね」などの強い表現も多く見受けられる。

まず緊急で記事を配信している理由は、これらの言説をネット上で流布しないでいただきたいからだ。

次の凶行を生まないためでもある。

秋葉原無差別殺傷事件など過去の事件でも、被告が述べるのは「社会に対する怨恨」「幸せそうな人々への怨恨」である。

要するに、何らか社会に対する恨みを募らせている場合が多く、「社会は辛い自分に何もしてくれない」という一方的な感情を有している場合がある。

類似の事件をこれ以上発生させないためにも、困っていたり、辛いことがあれば、社会は手を差し伸べるし、何かしらできることはあるというメッセージの必要性を痛感している。


(中略)

人間は原則として、自分が大事にされていなければ、他者を大事に思いやることはできない

社会全体でこれ以上、凶行が繰り返されないように、他者への言葉の発信や想いの伝え方に注意をいただきたい
「被疑者死亡案件なのに、もうプロファイリングが進んでいるのかな?」と思ってクリックしてみたら、なんのことはない、藤田孝典氏恒例:事実から出発するのではなく類型から出発した「きっとこうに違いない」の記事でした。

■刑事政策として
それはさておき、藤田氏は「次の凶行を生まないためでもある。」と述べている点、その主張の重点は「類似事件の再発防止」にあることは読解可能です。この記事は、川崎の事件を導入にしているもののその主題は川崎の事件そのものではなく、本件犯人(正しくは「被疑者」ですが、便宜的に以下では「犯人」とします。推定無罪の原則に照らして不適切な部分もありますがご容赦ください)の「弁護・擁護」を主旨としたものではなく「刑事政策」の観点に立っているといえます

刑事政策一般としてであれば私も藤田氏の主張には概ね同意見です。個人の社会的逸脱行為を防ぐために社会的包摂を強化すべきだという意見は私も同意見であり、残念ながら逸脱してしまった人について教訓的に学び次の逸脱を防ぐことは重要な取り組みです。

しかし藤田氏の主張は、本件そのものについて語っているのか刑事政策一般について語っているのかが曖昧で読み手には伝わりにくい上に、「何らか社会に対する恨みを募らせている場合が多く、「社会は辛い自分に何もしてくれない」という一方的な感情を有している場合がある」というくだりに顕著にあらわれているように、一般論としても判例においても激しい非難に値する「身勝手な逆恨み」を弁護・擁護しているようにも読めるフシがあります。「犯人らしき人物が亡くなった」という一般的ではない表現(犯人について普通は「死亡した」とは書かれても「亡くなった」とは書かれないものです)もあってか、案の定、TwitterやFacebook等では、批判・非難の嵐になっています。「殺しは殺しだろう」と身も蓋もない反論に直面しています(いやまあそりゃそうなんだけどさ・・・それで終わらせたら教訓が残らないでしょうに)。

■日本における刑事政策議論の「難しさ」
刑事政策というものは、実際にあった具体的な事件を基に立案するものです。実際にあった具体的な事件の経緯と背景を探る中で知見を見出し、後世に活かすものです。こうした営みの中では犯人の生い立ち・成育環境から事件に至るまでの経緯を洗い出いことは中心的重要事になります。

ところで、日本人は一般的に、「悪人」は一切言い訳・弁解を口にせず、ひたすらに反省を述べることが「正しい」ことだとされています。その関連で、周囲の人々は「悪人」の弁解には一切耳を傾けずに、ひたすら所業を非難することが「正しい」ことだとされています。悪は不浄であり、それを徹底的に拒否・排斥することで純潔を保つのが正義であるという意識があるのでしょう。それゆえ、犯人の生い立ち・成育環境から事件に至るまでの経緯を洗い出し、それを理解することは「犯人の肩を持つ」「悪党の味方をする」ことだと考えられています。

その点、刑事政策というものは日本においては難しい立ち位置にいると言わざるを得ません。「実際にあった具体的な事件の経緯と背景を探る中で教訓的知見を見出す」ことを掲げている刑事政策は、それ自体は直ちには非難されないが、一般的感覚においては「犯人の肩を持つ」「悪党の味方をする」ことと紙一重である点、ちょっとしたコトで容易に非難の嵐に直面し得るものなのです。

今回の藤田氏の主張は、まさにその展開。慎重さに欠けた筆致により誤解を受け、「お前は、ある朝突然に親から子を奪い、妻・子から夫・父を奪った輩を庇うのか」と非難轟々であります。

■日本における刑事政策の「語り方」(案)
私だったら、「さまざまな事情はあったにせよ一線を越えた以上は、もはや擁護は困難だ。強い非難に値する。」と冒頭で断ります。そして、「本件犯人は強い非難に値することは大前提ではあるが、本件犯人がどこで踏み誤ったのかを検証することもまた必要だろう。似たような展開が他で見られつつあれば、今回を教訓に直ちに対策を講じるべきだ」などといった具合に政策一般について語り始めたことを明確に宣言するでしょう。

その上で「こういった逸脱の再発を防ぐには、潜在的な逸脱分子を社会の側に引き留める必要があるのではないか。社会の側に包摂する必要があるのではないか。」と主題を述べるでしょう。最後には、「このことは本件犯人の弁護や、現に逸脱している者の『更生』のための活動とはまったく別であることを申し添える」と念を押すでしょう。

読者の中は義憤で頭が沸騰している人がおり、そういう人はおそらく文章を飛ばし飛ばし読んでいるはずなので、ちょっとしつこいくらいに犯人批判の立場を鮮明にしておくことが必要です。「お前は、ある朝突然に親から子を奪い、妻・子から夫・父を奪った輩を庇うのか」とケンカを吹っかけられたら、「は? どこが? ここよく読んでみろよ。そんな話してねーよ」と言えるようにすることが大切です。

また、こういうセンシティブな話題は、感情の問題もあって議論が錯綜・混乱しやすいので、主張を絞る――なるべく単一論点に絞る――必要があります。弁護や更生の要・不要とは議論を切り離していることを明白にするのです(基本的に感情屋界隈対策が重要ですが、あまり譲歩しすぎると今度は人権屋界隈から妙な議論を吹っかけられかねないので、余計なことは言わないようにすべきです)。

藤田氏の主張と、Twitter・Facebook等での批判・非難の嵐を目にして、改めて刑事政策を展開することの難しさを感じた次第です。

■「許されない一線を越えてしまった人」について、「どうにもし難い利己主義分子のケース」について
ところで、藤田氏は「人間は原則として、自分が大事にされていなければ、他者を大事に思いやることはできない。」と記事中で述べています。この指摘は一般論としては正しいと思います(まあ、本件犯人がそうだったという証拠は現時点ではまったく出てきていないので、「やっぱり藤田氏は想像ベースなんだなあ」と思いますが・・・)。しかし、「他者を大事に思いやらない輩が他者から大切にされるわけがない」のも事実です。

旧ブログのころから私は刑事政策に関心を持ち意見表明してきましたが、「人間にはさまざまな側面があるので、一側面だけを取り出してそれを過度に全体化してはならない」と述べてきました。その観点から、安易な死刑要求言説を批判してきました。しかし、「人間にはさまざまな側面がある」とはいっても、やはり一つの人格であり、多側面がありつつもそれを総合化した上で一定の総合評価を下さなければならないものです。

また、許されない一線を越えてしまった人には壮絶な経緯があり、それは必ずしも個人の人格的歪みにのみ帰結させられるものではなく、社会システムの中で強いられた部分もあります。その点、社会の側にも反省点があるでしょう。しかし、同じような環境におかれつつも踏み止まる人もいるわけです。

本件犯人は「通り魔的殺人」という他者の生を踏みにじる行為に手を染めてしまいました。本件犯人にいかに様々な側面や事情があったとしても、「通り魔的殺人犯」という一側面はすべてを「上書き」してしまう動かしがたい強烈な事実です。それゆえ、本件犯人については、いろいろ彼なりの経緯があり、社会の側も逸脱を止めきれなかったという反省点はあったとしても、同じ状況下であれば全員必ず逸脱するわけではなく踏み止まる人も多い中で許されない一線を越えてしまったのはやはり当人の意志・判断であろうという点(精神疾患等の場合は別)において、非難一色になるのも致し方ないのかもしれません

社会システムの中で強いられた部分があるにせよ、許されない一線を越えてしまった人について世論の大部分が厳しい理由は、ここにあるのでしょう。

また、今回の犯人は被疑者死亡ゆえに詳細が判明していないので何とも言えませんが、犯罪者の中には、どうにもし難い利己主義分子がいるものです。藤田氏のある意味「優しい」議論は、こうしたケースについては考慮が足りていないのではないかと思えてなりません

藤田氏のような言説がなかなか支持を得られないのは、こうした点にも原因がありそうです。

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5月30日づけ「「『一人で死ぬべき』は控えよう」論から透けて見える、空虚で白々しいリベラリズム的ブルジョア「博愛」主義――エンゲルスの『フォイエルバッハ論』に立ち返り、同胞愛・人類愛復興の道へ
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2019年05月26日

これで対話の門戸を開けているつもりか

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190525-00000021-mai-int
「北ミサイルは安保理決議違反」米補佐官明言 「何の反応もない」
5/25(土) 12:59配信
毎日新聞

 トランプ米大統領に先行して来日しているボルトン大統領補佐官(国家安全保障問題担当)は25日、東京都内で記者会見し、北朝鮮による今月の短距離弾道ミサイル発射について「国連安全保障理事会の制裁決議違反だ」と指摘した。米政府高官が決議違反を明言するのは初めて。


(中略)3回目の米朝首脳会談に関しては、2月にハノイで開かれた会談が物別れに終わった後、「北朝鮮から何の反応もない」と説明。「米国は対話の扉を開けているのに、北朝鮮が入ってこない」と話した。

(以下略)
ソウル市に照準を合わせている長距離砲が抑止力として共和国の国防を担っているとはいえ、所詮は長距離砲。全土が米軍基地と化している韓「国」を遍くカバーしているわけではありません。朝鮮人民軍の短距離弾道ミサイル装備は、在「韓」米軍に対する打撃可能性という点において共和国の国防の根幹であります。世界最強の軍事力を持つアメリカの脅威に直面している共和国が、国防の根幹たる短距離弾道ミサイルの操作習熟訓練を行うことは正当な国防措置と見なすべきです(そして、一昨年の秋以降の対米緊張緩和局面では、それさえも共和国側は一時凍結したのです! どれほど本気だったのかが分かるでしょう!)。

こうした事実がありながらも、5月12日づけ「緊張緩和局面に挑発的で悪意的な北侵演習を展開する米「韓」軍、正常的で自衛的な火力打撃訓練を展開する朝鮮人民軍」でまとめた経緯がありながらも、共和国側の短距離弾道ミサイル発射訓練について「国連安全保障理事会の制裁決議違反だ」などとするボルトン。国連安全保障理事会の制裁決議」なるものが、そもそも荒唐無稽であることを告白しているようなものです。

米国は対話の扉を開けているのに、北朝鮮が入ってこない」――ボルトンなりの嫌味のつもりなのでしょうが、ジョークセンスの欠片も感じられないところです。ボルトンの帝国主義的魂胆がよく現れています。さすがに万に一つもないでしょうが、これでもし、本気で彼が対話の門戸を開けているつもりであれば、彼に卒業時最優等の栄誉を与えたイェール大学の格が落ちるというものです。

なお、
チュチェ106(2017)年7月29日づけ「ICBM発射実験は安保理決議違反だが正当防衛」で論じたとおり、国連安保理決議は米欧諸国の帝国主義的な邪なる魂胆に基づく不当不正な封鎖政策であることは疑いのないことですが、しかしながら、資本とその代弁人たる帝国主義列強諸国が「自由」の概念を最大限に悪用している今日の世界情勢の現実に照らせば、各種の取り決めを「自己判断」で破る行為を前例として歴史に残したり、あるいは成文法的に認めることで一番喜ぶのは、ほかでもない帝国主義者たちである点、反帝自主勢力は、あくまでも愚直に国際的取り決めを遵守する方向で努力すべきであります。「不当な『義務』だから守る義理などない!」といった具合に決議を自己判断で安易に破ることは、ブルジョワの利益にしかならないでしょう。「なんでもあり」に転落するのがオチでしょう。

共和国による短距離弾道ミサイル操作習熟訓練の弁護にあたっては、国連安全保障理事会の制裁決議の荒唐無稽さを認識し、国連が帝国主義に汚染されている事実を踏まえつつも、共和国の一連のアクションは、あくまでも「世界最強の軍事力を持つアメリカの急迫不正な脅威に直面している共和国にとっては正当な国防措置の範囲に留まるので違法性は阻却される」という立場に立つべきです。

その上で、自主・平和・親善の原則、インターナショナリズムの原則に立脚し、邪な魂胆によって国連を私物化している帝国主義諸国から国連組織を取り戻すための闘争を力強く展開しなければなりません
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2019年05月23日

移民問題をめぐる「国際主義・インターナショナリズム」のチュチェ思想的民族主義の文脈での復権の道

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190517-00000107-mai-int
「移民には冷蔵庫や通訳も」英国離脱支持の街、衰退の不満転嫁
5/17(金) 22:21配信
毎日新聞

 欧州連合(EU)離脱を巡り混乱が続く英国で、新興のポピュリズム(大衆迎合主義)政党「ブレグジット(英国のEU離脱)党」の人気が急浮上している。離脱派の人々の思いを知ろうと、記者はイングランド北東部にある「離脱派の街」を訪ねた。【ロンドン服部正法】


(中略)

 中心部から車で数分のヘッドランド地区。パブで話し込むと、店を取り仕切る女性はこう訴えた。「外国人は冷蔵庫から何から与えられ、英語が話せないから通訳もつけてもらっている」。女性が指すのはシリアなどからの難民のことだ。だが、英国での難民申請者の数(17年)は、ドイツの6分の1弱、イタリアの4分の1強と周辺国と比べ多いとは言えない。なぜ人々は外国人に不満を募らせ、それがどう離脱支持につながるのか。

 街の周辺は元々英国有数の炭鉱地帯。かつては羽振りの良い炭鉱労働者らが繰り出し、造船業も順調で活気のある街だった。だが、競争力強化と自由化推進の保守党・サッチャー政権(1979〜90年)の改革で、不採算の炭鉱が閉鎖。造船業も下降の一途をたどった。ある調査(12年公表)では、イングランド326自治体のうち、ハートルプールは貧困リスクが高い自治体として4番目。公共サービスは衰退し「地区の図書館や病院が閉鎖された」(同地区選出のフレミング市会議員)。美容院経営者、ケルダ・ヘイズさん(48)は「金属くずなどを集積場から拾って売る貧しい人もいる。EUに分担金を払うより、彼らのための政策に使うべきだ」と言った。


(以下略)
『毎日新聞』の基本的論調は「リベラル」に属するものです。移民問題については、受け入れ国側に「多文化共生精神」「違いを認め合う寛容の精神」といった精神論的な要求を展開してきました。世界的に見てもそうです。こうしたリベラリズム・リベラリストの論調については、スロベニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクは次のように批判しているそうです。
https://news.nicovideo.jp/watch/nw4250735
(略)ブラジル大統領選挙で、性的少数者や女性、黒人への差別発言を繰り返してきた極右政治家ジャイル・ボルソナロ下院議員が当選しました。国際的な右派ポピュリズムの波は、まだまだ拡大していきそうです。

この"世界のトランプ化現象"について、反資本主義の旗手として知られるスロベニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクが、英紙『ガーディアン』のインタビューで興味深い発言をしています。


(略)

ジジェクは、リベラル陣営がトランプら右派政治家の言動ばかりに目を奪われるのは「バカげている」と喝破(かっぱ)します。極右の再興はあくまでもグローバリズムの暴走、格差の拡大による"二次的な症状"である。

にもかかわらず、右派陣営に煽(あお)られるがままに、反差別や多様性といった"些末(さまつ)なこと"を追いかけても、この社会はよくならない。いや、むしろ右派ポピュリズムは拡大していくだけだ――。

身もふたもない言い方をすれば、ジジェクは「左派はきちんとゼニの話をしろ」と言っているのです。


(以下略)
私も大変共感できる指摘。移民排斥感情には幾つかの原因・経緯がありますが、その一つとして「排斥論者の雇用生活環境」が存在していることは紛れもないことです。もちろん、すべてをこれに還元させてしまうとマルクス主義的経済還元論の轍を踏むことになりますが、だからといって「排斥論者の雇用生活環境」を完全に無視することは正しい認識姿勢ではありません。

その点、今回の記事は移民に不満を持つ人々と、彼・彼女らの雇用生活環境を正面から捉えています。もともと啓蒙主義的で観念論と親和的な思考回路を持っているのがリベラリズム。そうした思想潮流を社としての基本論調としている毎日新聞にしては、異例的だが正しい論調です。

衰退の不満転嫁」という表現もよい。記事中ではサッチャリズム改革のあおりを受けてハートルプールの町が衰退していったと描いていますが、そのうえでの「衰退の不満転嫁」という表現は「不満の矛先を筋違いの方向に向けている」という意味になるからです

英国病を治さなければならないという重要命題があったにしても、たとえば経済政策の面では同じように新自由主義的改革を実施しつつもソーシャル・ブリッジの構築にも注力した、ほぼ同時期の北欧諸国(ちょっと後になるかな)での構造改革と比するに、サッチャリズム改革は「中途半端」でした。その結果の代表格が、こんにちのハートルプールの町――産業は衰退し人々は貧困におびえている――なのです。

本当の「敵」の正体は、不満の矛先を向けるべきは、経済政策であり究極的には経済システムなのです。「衰退の不満転嫁」という表現からは、それを読み取ることが出来ます。

本当の「敵」との闘いの過程では、移民との関係も再構築することになるでしょう。ハートルプールの町が衰退した根本には「イギリスの経済システム」の問題があり、移民たちが地元を捨ててイギリスにやってくる根本には「移民出身国の経済システム」の問題がありますが、これらは「国際経済システム」の下位要素(サブ・システム)であり、システム的に連関しているからです。

かつて「インターナショナリズム」という言葉がありましたが(いまも消えて無くなったわけではありませんが)、「クローバリズム」が斯くも暴れまくっている今、この言葉の意味を再構築する必要があるでしょう。

ここにおいては、キム・ジョンイル総書記の労作『民族主義に対する正しい認識を持つことについて』は重要な指針を示すものになるでしょう。

キム・ジョンイル総書記は、同労作において、「民族主義は国際主義とも矛盾しません。国家や民族の間で互いに援助し、支持し連帯し合うのが、国際主義です。国ごとに国境があり、民族の区別があり、国家と民族をよりどころにして革命と建設が進められている状況のもとで、国際主義は国家間、民族間の関係であり、民族主義を前提としています。民族と民族主義を抜きにした国際主義は実際、なんの意味もありません。」と指摘されます。なお、チュチェ思想における民族の定義は、「血縁、言語、文化生活、地域の共通性にもとづいて社会歴史的に形成された人々の堅固な集団」(韓東成、『哲学への主体的アプローチ―Q&Aチュチェ思想の世界観・社会歴史観・人生観』、白峰社、2007、p99)です。つまり、民族集団とは、共通の文化生活を送る人々の集団だと言え、国際主義とは、共通の文化生活を送る人々の集団たる民族を基礎として、互いに援助し支持し連帯し合う関係性のことであると言えます。

人々の社会的活動の究極的目的は、彼・彼女らの日常生活を安寧かつ自主的にするためのものと言うべきでしょう。生まれてこのかた慣れ親しんできた自らの文化的生活スタイル=自民族の文化的生活スタイルを維持し、必要に応じて改善しつつ、それを満喫するという市民的な幸せこそが人々の活動の根本目的です。人々は決して、国際主義・インターナショナリズムのために生活しているわけではありません。

民族集団を基礎とする国際主義・インターナショナリズムこそが人々の社会的活動の究極的目的としての「自主的日常生活」に資するものである――この認識が重要です。
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2019年05月16日

短期的対策と長期的対策との混同は議論を噛み合わなくさせる;「松本走りをやめろ」は正しいけど正しくない

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190515-00010004-amweb-bus_all
「松本走りをやめろ」は本当に正しいのか? 道路事情を無視した市長の発言に疑問
5/15(水) 18:14配信
Auto Messe Web

インフラの不整備が無理な右折を発生させる
 長野県の松本市長が「松本走りをやめて」と言い始めた。この流れを受け「伊予の早曲がり」や「茨城ダッシュ」「名古屋走り」など各地に潜在してきた危険な運転マナーを批判する方向になっている。なぜこういった危険な走り方になるかといえば、話は簡単。道路事情が悪いからだ。松本市長は自分の役割を改めて考えて頂きたいと思う。


(中略)

 したがって松本市長が「松本走りをやめろ」と言うのは、市民に対し「市内の大渋滞を容認しろ」と強制してるのと同じ。為政者としちゃ愚かです。本当に松本走りをやめさせようとするなら、道路の改良から始めなくちゃならない。というか、それこそ市長の仕事じゃなかろうか。真っ先に行うのは右折レーンの拡充だ。

 考えていただきたい。道交法に代表される我が国の交通ルールは、大半が昭和30年代までに作られ、その後、ほとんど見直されていない。発展途上国と同じ状況だと考えていいだろう。欧米のような自動車交通の先進国にしたいのなら、抜本的な道交法の改定や道路構造の見直しから着手しなければならないと思う。

 歩道と車道をしっかり分離することに始まり、免許すら持たない無防備な自転車と、クルマを同じ場所で走らることだって無謀である。信号のタイミングもデタラメだから渋滞を招く。横断歩道の場所や、歩行者を守るガード類の設置だって誰もチェックしていない。道路の円滑な流れと安全を総合管理する部門を創設したらいかがか。

国沢光宏
当ブログでも5月13日づけ「Thesisとしての「道路交通法」、Nomosとしての「松本走り」」で「「松本走り」対策を講じるにあたっては、単なる啓蒙活動や取り締まりを展開するのでは不十分でしょう。現象には何らかの原因・経緯があるものです。こうしたローカル・ルールがどういった経緯で生じたのかということについて問わねばなりません。」や「「上に政策あれば下に対策あり」という言葉があるように、(中略)「イタチゴッコ」になるのがオチ」と論じた点、引用記事筆者の国沢光宏氏とは問題意識を共有しているものと思われます。

他方、コメ欄にある下記コメントの言うことも、もっともな意見だとも考えています。
buz*****

たしかに道路整備は必要だと思います。
が!
すぐには直せない環境のなかで安全に生活するにはと言うことを論ずべきでは
渋滞するけど死亡事故が少ないのと
死亡事故が多いけど渋滞しないのは
どっちがいいのでしょうか?
死亡事故が起きれば、それも渋滞の要因に
なるわけだし、、
mi*****

右折ラインも時差信号もなく右折するには やや無理な右折をせざるを得なのが現状。
そして それが 危険である事は明らか。
道路整備、信号機の改定も進めてほしいが、松本走りの一番の問題は運転者のマナーだと思う。
直進車は、右折車を入れない! 脇道から入る車は入れない! 譲り合いの行動が極めて少ない。

インフラの整備も必要だが、もっと大事な 譲り合いの運転をしたら 松本走りも少しは改善されるのではないだろうか。

一見して相反する2種類の主張がいずれも正しく見える・・・これは、この手の議論にあちがちな「短期的対策と長期的対策の違い」によるものであります。引用記事の主張は「長期的対策」に属するものであり、これに対してコメ欄コメントは「短期的対策」に属するものです。

タイムスパンへの意識が欠落した結果、短期と長期とを混同させ、結果として議論が噛み合わなくなるのは、たとえば経済学の世界ではよくある現象です。経済学では、工場等の建設や解体によって生産能力(固定生産要素)に変動が生じるタイムスパンを「長期」、それ未満を「短期」とします。マーケット・メカニズムは基本的に長期のタイムスパンで効果を発揮するものですが、それを意識しない粗野な「市場主義」が市場万能主義を提唱しています。他方、ケインズ主義のような本来的には短期のタイムスパンしか意識していない理論を、不適切にも長期においても活用しようとする手合いもいます。長期と短期の境界線論争もしばしば見られるところです(ミクロ経済学とマクロ経済学とで用語定義が微妙に異なっているのも更に議論を混乱させています)。

「松本走り」に話題を戻せば、道路インフラの整備は、経済学における「工場等の建設による生産能力の増強」と同様に「長期」に属する問題です。今日・明日のうちにできるような簡単な話ではありませんそれゆえ、「短期」においては啓蒙活動や取り締まりには大きな意味があるといえます。その意味では、松本市長の要請は至極当然です。これで道路インフラの整備まで黙って居ようものなら、それこそ「松本市長は自分の役割を改めて考えて頂きたい」と言わざるを得ません。

前掲5月13日づけ当ブログ記事では、「単なる啓蒙活動や取り締まりを展開するのでは不十分」と述べたとおり、私は「松本走り」対策問題を長期と短期に分けて分析しました(そして長期的対策について力点を置いて論じました)。「短期」には啓蒙活動や取り締まりで対処すべきだが、それだけでは「上に政策あれば下に対策あり」という言葉があるように、「イタチゴッコ」になるのがオチである点において不十分であり、道路インフラの整備が「長期的課題」として必要だと述べたわけです。

引用記事の筆者である国沢氏は、短期的対策としての啓蒙活動や取り締まりと長期的対策としての道路インフラの整備を混同させ、長期的対策をまくし立てているわけです。

現象には必ず背景としての構造があります。問題のある現象を解決するには、表面的な対策だけでは不十分であり、背景としての構造・根っこにも斬り込まなければなりません。これは間違いのないことです。しかし、背景としての構造に斬り込み、それを改善するには幾らかの時間がかかるものである点、これは「長期」に属するものであり、その間の「つなぎ」としての応急対策・「短期」的対策が必要となります。

長期的な構造改善は社会システム的営為の色が濃いものですが、短期的な応急対策は、しっかりした体制が構築される前の応急的措置であるからこそ個々人への注意喚起の色が濃くなりがちです。その点において、短期的な応急対策に啓蒙活動や臨時取り締まりが目立つのは当然でしょう。構造的対応が済むまでは、あくまでも応急措置ではあるものの、人々の意識が必要になるのです。

たとえばソフトウェア開発の世界では、このことはそれほど特異ではありません。プログラムに何らかのバグが見つかったとき、当然システムエンジニアやプログラマーは根本対策としてプログラム修正に取り掛かりますが、すぐにパッチファイルをリリースできるとは限りません。それゆえ、システムエンジニアやプログラマーはユーザーに対して、パッチファイルのリリースまでの間は現象が再現するような操作をしないよう注意喚起し、運用で回避するよう要請を出すものです。読者の皆さんの中にも職場で新しく導入したばかりのシステムが挙動不安定で、「追って通知するまでxxの機能は使用禁止! 代わりに・・・で対応すること!」といったような指示が出た経験・記憶はありませんか?

短期的対策と長期的対策との混同は、あちこちでしばしば見られる現象です。今回はそれが顕著に見られる一例でした。これを機に、「短期的対策と長期的対策の違い」について意識する癖をつけることを大変僭越ながらお勧め申し上げたいと思います。

関連記事
チュチェ106(2017)年12月31日づけ「チュチェ106(2017)年を振り返る(2)――各種ルールと自主性・多様性の問題
本年5月13日づけ「Thesisとしての「道路交通法」、Nomosとしての「松本走り」
ラベル:社会
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2019年05月13日

Thesisとしての「道路交通法」、Nomosとしての「松本走り」

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190513-00000056-dal-life
無理に右折「松本走り」止めてと市民に訴え 各地にはびこる危険運転
5/13(月) 12:41配信
デイリースポーツ

 今月8日、滋賀県大津市の交差点で車同士が衝突、巻き込まれた保育園児らが死傷した悲惨な事故で、改めて便利な車は時に凶器になることを思い知らされた。


(中略)

 そのうちの1つ「松本走り」の当地、長野県松本市では市民へ向けて広報誌で、「交通マナーを守り、思いやり、ゆずりあいの気持ちを持ちながら運転しましょう」と大々的に危険運転の根絶を啓発している。広報まつもとは、今年3月号で「危険 知ってますか?松本走り」というタイトルで2ページにわたり特集した。そのなかで “松本走り”とは「長野県松本市内で見られる、右折車優先の迷惑で危険な運転のことです。県外の方から『危険な運転』『マナーが悪い』と指摘されています」としている。

 その特徴に「対向車がいるのに、強引に右折」「左折車にかぶせるように右折」「青信号と同時に、内回りに右折」「前が詰まっていても交差点に進入」「ウインカーを出さずに道路変更」と挙げている。特集ページを企画した同市の交通安全・都市交通課の担当者に企画した理由や、その思いを聞いた。


(中略)

 −危険な運転が横行しているのは何か事情があるのでしょうか

 「松本市は城下町でして、中心街にも狭い道路があり、右折レーンのない道路も多くあります。平成30年警察のデータによると右折時の人身事故が78件ありました。この数字は“松本走り”だけではなく、あくまで右折時の事故件数ですが、多いと思っています」

(まいどなニュース・佐藤利幸)

最終更新:5/13(月) 16:22
デイリースポーツ
■なぜ「松本走り」なるローカル・ルールが生まれたのかを構造的に分析する必要性
「直進・左折が優先」というのは教習所で習う道路交通法の基本。「右折優先」のごとき「松本走り」(長野県松本市に限らないと思いますが・・・)は、法律に照らせばまったく「グレー」な余地のない違反ド真ん中と言わざるを得ません。

しかしながら、「松本走り」対策を講じるにあたっては、単なる啓蒙活動や取り締まりを展開するのでは不十分でしょう。現象には何らかの原因・経緯があるものです。こうしたローカル・ルールがどういった経緯で生じたのかということについて問わねばなりません

【追記】啓蒙活動や取り締まりが無意味であるとは言っておらず、これはこれで意味のある重要な取り組みです。これだけでは不十分だと言っているわけです。詳しくは、本年5月16日づけ「短期的対策と長期的対策との混同は議論を噛み合わなくさせる」をご覧ください。【追記おわり】

当ブログではチュチェ106(2017)年12月31日づけ「チュチェ106(2017)年を振り返る(2)――各種ルールと自主性・多様性の問題」において、「松本走り」と名指しこそしなかったものの、「右折優先」が非公式の習慣となった経緯について、オーストリア生まれの哲学者・経済学者であるF.A.ハイエクの理論的枠組みを参考にしつつ以下のとおり述べたところです。再掲します。
ハイエクは、ルールをnomos(ノモス)とthesis(テシス)に分類します。nomosは、社会の中で自生的に生成、発展してきたルール(自生的秩序)であり、thesisは権力的に制定された命令の形をとる組織規則としてのルールです。ルールは、自生的に生成、発展してきたものと、権力的に制定されたものに分けられるというわけです。

(中略)

いま「交通整理」という言葉を使いましたが、交通ルールにもこうしたnomos的な側面が大いにあると考えられます。道路交通法はthesisですが、交通ルールには法律としては制定されていない慣習的なルールが多数存在しています。たとえば、パッシングやハザードランプでメッセージを伝えることは、法定の正式なルールではありませんが定着しています。また、法律に従えば、規制速度は表示通りに遵守すべきものですが、実際の交通の流れ次第では逆に規制を越えた速度を出すことが求められる場面もあるものです。さらに、地域によっては、交差点では「右折優先」というコンセンサスが成立しているケースがあります。どうやら、法律通りに左折・直進車を優先させていると右折車はいつまでたっても右折できないので、自然発生的に「右折優先」になったようです(「なったようです」ってところが、いかにも自然発生的ですね)。

「規制速度超過」や「右折優先」などというのは、法律の規定に照らせば、「自己判断のルール破り」以外の何物でもありません。しかし、ルールをnomosとthesisに分類する観点から考察すれば、「規制速度超過」や「右折優先」というコンセンサスが自生的秩序として成立し、皆がそれに従っている点において、既にこれ自体がnomos的な意味でルール化されているのです。「自己判断のルール破り」どころか、「ルールに従っている」ということになるのです。


(中略)

具体的な紛争に成文法を当てはめるにあたっては解釈が必要になりますが、解釈には常識や慣習、伝統からの影響が入り込むものです。前述の交通ルールについて述べれば、「右折優先」は警察の取り締まり対象になっているそうですが、「規制速度超過」は、敢えて超過した方が交通ルールの目的;「円滑で安全な交通の実現」に沿うケースがあります。そうしたケースにおいては、thesisを操る権力側からも黙認・容認されるのです。権力的な取り締まりを受けず、有効な社会秩序として作用するのです。

(中略)

このことは、ルールを考える上で極めて重要なことです。@thesisの観点からはルール違反だが、nomosの観点からはルールには違反していない行為の存在。Aまったくの自己判断と、成文法的ルールとの間に自生的秩序があること。そしてまた、Bどこまでが「まったくの自己判断」になり、どこからがnomos的な意味でのルールに従っていると言えるのか――私はハイエクの法哲学を学んでいる真っ最中ですが、伝統や慣習などの役割にスポットを当てる彼の法思想は、本当に興味深いフロンティアであると日々実感しているところです。
道路交通法に照らせば「グレー」な余地のない違反ド真ん中たる「右折優先」を結果的に「弁護」している形になるのは、書いている自分でも不本意です。私も「右折優先」とばかりに交差点に突っ込んでくる馬鹿には日々イラッとしているところです。しかし、「上に政策あれば下に対策あり」という言葉があるように、自生的秩序・自然発生的ルール(nomos)の存在を無視して成文法(thesis)に基づく権力的取り締まりばかりに気を取られるようでは、「イタチゴッコ」になるのがオチでしょう。

なぜ、「右折優先」というnomosが自生的・自然発生的に生じたのか。その根本を解決しない限りは「右折優先」は根絶し得ないでしょう。

■道路整備の問題
記事中、「松本市は城下町でして、中心街にも狭い道路があり、右折レーンのない道路も多くあります。」と構造的問題について若干の言及があります。コメ欄には「松本は右折車線が少ないから松本走りをしないと渋滞ができるため、それが風土になったんだろう」とも指摘があります。「松本走り」についてよく指摘されていることです。

まずはこの点について構造の問題として改善に取り組むべきでしょう。私は基本的に「ルールを自己判断で破ることを認め始めると際限がなくなる」という点においてルール破りを安易に認めるべきではないという立場です。しかし、私もときどき見かけますが、いくら直進・左折優先が法律だからといって、直進・左折車が多すぎ、青信号・黄信号のうちでは辛くも1台が右折できるのみで、すでに赤信号なのに3〜4台がスピードを上げて右折する(交差する車・歩行者は当然待たされる)ような交差点において、「早い者勝ち」的に右折したくなる気持ちは分からないでもありません。法律の定めや信号機が現実の交通にあっていないような交差点もあるでしょう

■総括
繰り返しになりますが、「直進・左折優先」を定める道路交通法というthesisがあるにも関わらず、それとは異なる「右折優先」という「松本走り」と言う名のnomosが形成されているケースについては、なぜそのようなnomosが自生的・自然発生的に生じたのかについて構造的に分析した上で、thesis的に対策を講じるべきでしょう。構造的問題に斬り込まない限り、単なる啓蒙や権力的取り締まりでは根絶し得ないでしょう。

なお、thesisとnomosの差を埋めるような立法的措置を講じたのちでもなおルール違反行為に手を染める手合いについては、thesisにもnomosにも準じていない点において、「まったくの自分勝手な判断」というべきであり、これは厳しく取り締まるべきでしょう。構造的問題では説明しきれない利己主義分子は存在するものです。

■留意点
なお、勘違いしないでほしいのは、「自生的秩序・自然発生的なルール」と「まったくの自分勝手な判断」は、まったく異なるものだということです。

しばしば、「道路標識どおりに走行しようものなら、むしろ周りの車の迷惑になるから」という理由で、標識=法律を相対化し「法律やルールは絶対的でなく、場合によっては自己判断で破っても構わない」などと言ってのける手合いが出て来ます。「松本走り」常習犯も、捕まえてみれば同じように言い逃れするかもしれません。

しかしながら、ルールを、@国会の議決によって成立する成文法としてのthesisとA自生的秩序・自然発生的ルールとしてのnomosに分ける観点から言えば、こうした言説は概念を混同させ、思考が錯綜・混乱していると言わざるを得ません。

この手の手合いが持ち出す「周りの車の迷惑」は、言い換えれば「自生的秩序・自然発生的ルールとしてのnomos」に準拠しているものです。たしかに、たとえば周りの車が60〜70km/h程度走っているところで、律義に40km/hの表示規制速度を守っていたら迷惑だし、逆に危険でしょう。「自己判断」で法律を破って走った方がよいかもしれません。しかし、いくら「自己判断」でもここで120km/hを出すのは不適切です。なぜなら、「周りの車」が60〜70km/h程度走っているからです。

法律を「自己判断」で破るのが正当化されるのは、法律が「周りの趨勢」と合っていないとき、つまり、thesisがnomosに反しているときだけであり、「自己判断」が常に正当化されるわけではないのです。「まったくの自分勝手な判断」は正当化し得ないのです。

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2019年05月12日

緊張緩和局面に挑発的で悪意的な北侵演習を展開する米「韓」軍、正常的で自衛的な火力打撃訓練を展開する朝鮮人民軍

http://chosonsinbo.com/jp/2019/05/yr20190510-2/
2019.05.10 (15:45) │ 共和国 │
火力打撃訓練への非難に反ばく/朝鮮が立場を表明

金正恩委員長の指導の下、4日、朝鮮東海海上で朝鮮人民軍の火力打撃訓練が行われた。これは、最前線・東部前線防衛部隊の大口径長距離放射砲、戦術誘導兵器の運用能力と火力任務遂行の正確性、武装装備の戦闘的性能を判定・点検し、定期的な戦闘動員準備を備える目的で行われたもの。一部の外部勢力がこの訓練を非難したことと関連し、朝鮮外務省と北南将官級軍事会談の北側代表団の代弁人が8日、それぞれ朝鮮中央通信社の記者の質問に答えた。

「正常的で自衛的な軍事訓練」/朝鮮外務省代弁人
朝鮮外務省の代弁人は「今回われわれの軍隊が行った訓練は、誰かを狙ったものではない通常の軍事訓練の一環として、地域情勢を激化させたこともない」と強調。どの国でも国の防衛のための軍事訓練を行っており、これは極めて正常的なことであり、一部の国が他の主権国家を狙って行う戦争演習とは明白に区別されると述べた。

代弁人は、これまで朝鮮が朝鮮半島の平和と安定のために戦略的決断を必要とする措置を積極的に取ったことや、それに対する相応の対応措置が取られず6.12朝米共同声明の履行が膠着状態に陥ったことを指摘。「われわれが最大限の忍耐を発揮していることについては沈黙を守っていた国が、われわれが最近行った正常的で自衛的な軍事訓練に対しては棘のある声を上げている」と非難した。

一方、3月と4月にも南朝鮮で米南合同軍事演習「同盟19-1」と連合空中訓練が行われ、現在も朝鮮を狙った戦争演習計画が絶えず作成されていることに言及。これらの挑発的な軍事訓練と戦争演習については一言半句も発しない一方、朝鮮の軍事訓練のみを挑発だと主張する行為は、朝鮮の武装解除を圧迫し、最終的に侵略しようと詰め寄る企図であると強調した。


(中略)

代弁人は、南朝鮮軍部が米国とともに挑発的な連合空中訓練を行い、THAAD展開訓練を実施したことや、米国が朝鮮を脅かすICBM「ミニットマン」を発射したことに言及。これらの事柄は問題視せず、朝鮮に対してのみ「北と南が約束した軍事的合意の趣旨に反する」などと批判する南朝鮮軍部に対し、「われわれに対し、とくに北南軍事分野の合意について一言半句する体面はない」と反論した。

(以下略)
共和国が去る4日と9日に、ロシア軍も現役として装備している9K720"Искандер"(イスカンデル)に「酷似している」といわれる武器を火力打撃訓練の一環として発射しました。朝露首脳会談の直後に「イスカンデルに酷似したミサイル」が発射された点、ロシアの影を意識せざるを得ませんが、それもあってか日米「韓」の国と地域が、いささか困惑気味に反応を示しているところです。

このことについて8日、共和国側から声明が発表され、10日づけ『朝鮮新報』記事が詳細に報じています。今回は4日と9日の2回に分けて敢行された共和国の軍事的アクションについて取りまとめてみたいと思います。

■火力打撃訓練に至るまでの経緯――THAAD展開訓練と航空演習を先に仕掛けてきた米「韓」両軍
まず、4日と9日の火力打撃訓練に至るまでの経緯を振り返ってみることが必要だと思います。経緯を踏まえることによってのみ事の筋を理解することが出来るでしょう。

4月20日。在「韓」米軍はTHAAD展開訓練を実施しました。あくまでも「訓練である」と主張しています。
https://japanese.joins.com/article/692/252692.html
在韓米軍、平沢基地で「THAAD」模擬弾装着訓練
2019年04月24日11時06分

 在韓米軍が先週、平沢(ピョンテク)の米軍基地(キャンプ・ハンフリーズ)で「非活性化弾(模擬弾、inert)」を訓練用THAAD(高高度防衛ミサイル)発射台に装着する訓練をしたと24日、明らかにした。

 一週間の日程で実施された今回の訓練には第35防空砲旅団所属の将兵が参加した。米軍は非活性化弾を訓練用THAAD発射台に装着する訓練の写真を20日、第35防空砲旅団のフェイスブックに掲示した。米軍は昨年末にも慶尚北道倭館(ウェグァン)に保管中の訓練用THAADを慶尚北道星州(ソンジュ)基地に移して訓練する場面の写真を公開した。米軍側は「このような小規模単位の訓練はチームの業務関連技術をよく維持する」と説明した。

 今回の訓練は実際には発射されない訓練用模擬弾を発射台に装着し、発射前の段階までの過程に慣れる目的で行われた。平沢基地でこのような訓練をした事実が公開されたのは初めて。


(以下略)
続いて22日からは、F15KやKF16、F16など数十機が参加する北侵演習が開始されました。米「韓」合同の航空演習「マックスサンダー」こそ中止したものの、それと比べれば些か小規模ながらも相変わらず北侵演習を展開している米「韓」両軍であります。
http://news.livedoor.com/article/detail/16360002/
韓米空軍が大規模航空演習を廃止 規模縮小した演習実施中
2019年4月23日 14時31分
聯合ニュース

【ソウル聯合ニュース】韓国軍の消息筋は23日、韓米の空軍が22日から2週間の日程で合同空中演習を実施していることを明らかにした。


(中略)

 韓米の軍当局は朝鮮半島の安全保障情勢を考慮し、マックスサンダーよりも規模を縮小して演習を行っているとされる。演習には韓国空軍の主力戦闘機であるF15KやKF16、在韓米空軍の戦闘機F16など数十機が参加し、オーストラリアの空中早期警戒機E7Aも加わっているという。
米「韓」連合武力と朝鮮人民軍の、わざわざ見せつけるまでもない歴然たる軍事力の差を改めて誇示し、軍事的に恫喝しているわけです。2月の朝米首脳会談が合意に至らなかったとはいえ、依然として軍事行動が避けられるべき緊張緩和局面において、米「韓」両軍が北侵のための絶対的軍事力を不必要に誇示することには悪意を感じざるを得ません

■共和国からの警告
これに対して共和国の祖国平和統一委員会は25日、緊張緩和局面においてアメリカ側が先に仕掛けてきた軍事的挑発について次のように声明を発しました
http://www.uriminzokkiri.com/index.php?lang=jpn&ftype=document&no=19863
祖平統の代弁人 南朝鮮当局の背信的行為は北南関係をより危い局面に追い込むだろう

去る22日から、南朝鮮軍部は対話の相手であるわれわれの面前で南朝鮮占領米軍と共にF15KとKF16、F16戦闘爆撃機をはじめとするおびただしい飛行隊力量を動員してわれわれを狙った挑発的な連合空中訓練を行っている。

祖国平和統一委員会(祖平統)のスポークスマンは25日に談話を発表して、これは朝鮮半島の平和と繁栄を願う全民族の総意が反映されている歴史的な4・27板門店(パンムンジョム)宣言と9月平壌(ピョンヤン)共同宣言に対する公然たる挑戦であり、北と南が軍事的緊張の緩和と敵対関係の解消のために共同で努力すると確約した軍事分野の合意に対する露骨な違反行為であると糾弾した。


(中略)

また、南朝鮮当局が今回の大規模な連合空中訓練を強行して「マックス・サンダー」が歴史の中に消えた、朝鮮半島の情勢を考慮して訓練の規模を縮小したとけん伝しているが、そのような常套的なたわごとでわれわれを安心させ、内外世論の非難を避けていこうとするなら、実に愚かな誤算であると糾弾した。

そして、南朝鮮当局は今回の訓練だけでなく、去る3月にも「キー・リゾルブ」訓練を「同盟」という名称に変えて、すでに中断されるようになった合同軍事演習を強行したし、今後も引き続き行おうとしているとし、次のように指摘した。

南朝鮮当局が看板を変えて「規模縮小」のまねをしていくら術策を弄しても、隠ぺいされた敵対行為の侵略的で攻撃的な性格と対決的正体を絶対に覆い隠すことはできない。

風が吹けば波が立つものである。

南朝鮮当局が米国と共にわれわれに反対する軍事的挑発策動を露骨にする以上、それ相応のわが軍隊の対応も不可避なものになりうる。


(中略)

南朝鮮当局は、北南関係改善の雰囲気を生かすかどうかという重大な時期に、われわれに反対する露骨な背信行為が北南関係の全般を取り返しのつかない危険に陥れかねないということを銘記して、分別のある行動を取るべきであろう。
共和国側は「南朝鮮当局が看板を変えて「規模縮小」のまねをしていくら術策を弄しても、隠ぺいされた敵対行為の侵略的で攻撃的な性格と対決的正体を絶対に覆い隠すことはできない」と真相を見抜いた上で、「南朝鮮当局が米国と共にわれわれに反対する軍事的挑発策動を露骨にする以上、それ相応のわが軍隊の対応も不可避なものになりうる」と事前に警告しているわけです。

■あくまでも正常的で自衛的な訓練としての火力打撃訓練の位置づけ
こうした経緯を踏まえたうえで、冒頭で引用した『朝鮮新報』記事に立ち返り、4日と9日火力打撃訓練について考えてみたいと思います。

どの国でも国の防衛のための軍事訓練を行っており、これは極めて正常的なこと」という指摘。まったくそのとおりの指摘であり、この火力打撃訓練は正常な国防措置であると位置づけることが出来るでしょう。

緊張緩和局面において、若干規模を小さくしたとはいえ依然として北侵を意図する航空演習を展開してきたことは見逃せない事実ですが、そうはいってもあくまでも正常的で自衛的な火力打撃訓練なのです。対抗措置だとしても、共和国は「南朝鮮当局が米国と共にわれわれに反対する軍事的挑発策動を露骨にする以上、それ相応のわが軍隊の対応も不可避なものになりうる」と事前に警告していたわけです。「アメリカ側が先に仕掛けてきた」という他ありません

あくまでも正常的で自衛的な火力打撃訓練なのです。THAAD展開訓練について、前掲の中央日報記事で引用した「このような小規模単位の訓練はチームの業務関連技術をよく維持する」という米軍公式発表が許されるのであれば、共和国の火力打撃訓練についても、兵士たちの練度を維持する点において同様に認められるべきでしょう。

にもかかわらず、共和国側の火力打撃訓練だけが非難されるという展開は、まさに共和国側代弁人が主張する「朝鮮の軍事訓練のみを挑発だと主張する行為は、朝鮮の武装解除を圧迫し、最終的に侵略しようと詰め寄る企図である」という認識の正しさを証明する展開という他ないでしょう。チュチェ105(2016)年2月11日づけ「「北朝鮮だけが「衛星」を打ち上げてはいけない理由」の本音――馬脚が自爆的に表れる日は近い」でも述べましたが、アメリカの訓練が許されて共和国の訓練が許されないなど、結局のところは「のび太のくせに生意気な!」の類いに過ぎず、正当な論拠に基づくものではないのです。

■「安保理決議違反」について
相変わらず「安保理決議」がどうのこうのと持ち出してくる手合いに答えましょう。チュチェ106(2017)年7月29日づけ「ICBM発射実験は安保理決議違反だが正当防衛」で述べたとおり、わざわざ見せつけるまでもない歴然たる軍事力の差を改めて誇示し、軍事的に恫喝してくる米「韓」両軍に対抗し、国の主権を守るためには実力を持たねばなりません。

共和国は目下、アメリカ帝国主義の急迫かつ不正なる脅威に直接的に晒されています。アメリカの甘言に乗せられて油断したり武器を置いたりした結果、政権を打倒されたり転覆させられたりしてしまった反米国家の例は、枚挙に暇がありません。共和国が軍備を充実させることは、「安保理決議違反」であったとしても国の自主権を保障するための、やむを得ぬ行為です。朝米間の明らかな戦力差・国力差を見れば、このことは単なる主観的なことではなく客観的に言えることなのです。

■どちらが挑発的で、どちらが悪意的か?
共和国側の主張は実に首尾一貫しています。あくまでも正常的で自衛的な火力打撃訓練なのです。仮にこの訓練が「安保理決議違反」だとしても、アメリカ帝国主義の急迫かつ不正なる脅威に直接的に晒されている共和国としては、やむを得ぬ行為です。

緊張緩和局面であるにもかかわらず、米「韓」両軍の軍事力と比して圧倒的に劣勢なる共和国が一年半も軍事的アクションを取ってこなかったにも関わらず、アメリカ側が先に北侵演習やTHAAD展開訓練実施の暴挙に出た事実を踏まえるべきでしょう。どちらが挑発的で、どちらが悪意をもって北東アジアにおける緊張緩和の雰囲気を破壊しているのでしょうか?

そして、目下の情勢において、朝鮮人民軍がノホホンと日向ぼっこにうつつを抜かし、兵士の練度維持に必要な火力打撃訓練をしないという選択肢はあり得るのでしょうか? このことを問わねばならないでしょう。
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2019年05月10日

令和の時代を多様性の時代へ、多様な価値観が棲み分ける時代へ

新天皇が即位し令和の時代が始まりました。

■令和という「章」
先月30日にフジテレビ系列で放送された「FNN報道スペシャル 平成の“大晦日”令和につなぐテレビ」において、タモリさんが元号について「西暦というものが、本のページ数だとすれば、元号というのは日本だけが持っている『章』。その章があるから切り替えができますよね」と発言しました。とてもよい見解であると注目を集めています。
https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/05/01/kiji/20190501s00041000430000c.html
タモリの新元号特番コメントが話題に「西暦は本のページ。元号は日本だけの『章』」
[ 2019年5月1日 21:31 ]


(中略)

 6時間半の生放送番組エンディングでコメントを求められたタモリは「西暦というものが、ずっと(続く)本のページ数だとすれば、元号というのは日本だけが持っている『章』。その章があるから(時代の)切り替えができますよね」と自身の考えを述べた。

(以下略)
元号の切り替わりを「時代の切り替わり」と位置付けることについては、リベラル界の筆頭格たる『朝日新聞』が5月3日朝刊の「改元の「祭り」テレビ染めた」で、水島久光・東海大学教授の「(日本国憲法の国民主権に照らせば)天皇の交代によって時代が変わるという価値観とは本来は相容れないはずだ。(中略)『元号』を『時代』と意図的に読み替え、あおったのは問題だ。」という発言を報じる形で批判していますが、そうした声はごくごく一部に留まっています。

■令和の時代を多様性の時代に「しようとする」動きは盛んになるだろう
それどころか、リベラル界の中からも、この機に乗じて「令和の時代を多様性の時代へ!」といったキャンペーンが出てきています。NHKの夜のニュース番組「ニュースウォッチ9」では、制作陣が内心どう思っているのかは分かりませんが、「改元祭」の熱気に乗っかって「新しい令和の幕開けに『家族とは何か』について考えたい」という特集を5月1日の放送で放映しました。曰く「令和の時代は家族の在り方が多様化するはずだが、どんな形であってもそれぞれの家族が大切にされる時代になってほしい」と。また、下記記事もかなり無理矢理な論理展開ではありますが、「令和の時代は多様性の時代」という位置づけを試みています。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190506-00000104-spnannex-ent
華原朋美、45歳高齢出産へ 多様な輝き方を選べる「令和」
5/6(月) 10:15配信
スポニチアネックス

 【芸能覆面座談会】令和の時代が幕を開けました。芸能界では早速「令和婚」「令和出産」のおめでたいニュースが続出しています。令和第1回の座談会。いつものメンバーがニュースの裏側に迫ります。


(中略)

 本紙デスク 個性に応じた、より多様な輝き方を選択できるのが来るべき令和の新時代。結婚だけでなく、改元を機に驚くような決断をする芸能人がもっと出てくるかもしれないね。  

最終更新:5/6(月) 10:17
スポニチアネックス
令和の時代が多様性の時代に「なる」かは分かりませんが、こんなコジツケと言う他ない論法が早くから出てきている点、令和の時代を多様性の時代に「しようとする」動きは、平成の時代以上に盛んになることでしょう。ポリコレ文化大革命もますます盛んになってゆくことでしょう。

■「多様な生き方・価値観が認められ共存する寛容な社会」における社会秩序とは?
「多様性」の正体について検討すべき段階に入っていると言えます。改元後初の記事は、このことについて取り上げます。

以前から繰り返し述べているように、「自主」こそが人間が人間たる基本的特徴と考えている私、「労働と生活の自主の実現・自分自身の生の主人となり得る社会の実現」を目指す私も、社会における多様性を重視しています。多様な生き方が受け入れられる自主的な社会・多様性のある社会の実現を志す立場です。当ブログでも以前からこの立場から述べてきました。とりわけ、経済学を学んできた身として「消費と生産の多様化」という観点から市場経済の優位性について論じてきました(多様性を声高に主張する人たちの中には、経済活動に関する多様性に関してはトーンが低かったり、あれこれ理由をつけてはむしろ統制的な経済政策を論じるケースが少なくない中、政治・経済・一般生活の各分野で「多様性尊重」という立場を一貫させてきたと自負しています)。

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しかしながら、昨今リベラル勢力が注力している「多様性キャンペーン」は、たしかに旧来の価値観を問い直して非合理的な思い込みを打破する局面においては活躍しているものの、新しい社会秩序を形成するにあたっては心許ないと言わざるを得ません。最終的にどのような社会的新秩序を作り出そうとしているのかについて明確に見えてこないのです。「寛容の精神」「お互いを認め合う」といったあたりの曖昧な単語を持ち出して誤魔化すことに終始しており、積極的かつ具体的なビジョン・着地点が見えてこないのです。

「多様な生き方・価値観が認められ共存する寛容な社会」とは、いったいどのような秩序が成り立っている社会なのでしょうか? 多様性と「何でもあり」とが異なるのは明白でしょう。「非寛容に対しても寛容に」と言うわけにはいかないはずでからです。

■リベラリズムは回答できていない
この命題に対してリベラリズムは、一貫した回答を提出できていないようです。たとえばイギリスでは、ともに少数派であるLGBTと、異性愛しか認めず同性愛等を禁じているイスラム教徒との激しい対立に際して有効な仲介ができていないようです。
http://www.iiyamaakari.com/2019/03/vs-lgbt.html
イスラム教徒 vs. LGBT:イギリスの小学校でマイノリティ同士の戦い勃発

イギリスのバーミンガムにある小学校で今年2月、イスラム教徒の父母を中心とする300人ほどがLGBTについての授業に抗議するデモを行いました。(写真はMailOnlineより)

この小学校では「仲間はずれなんていない(No Outsiders)」というプログラムに従い、年に5回、LGBTの平等を促進しLGBTの価値観を支持する授業が行われていました。

そこではお母さんが二人いる家庭の話など、同性愛や同性婚の話を読ませ、その価値観を肯定するよう指導されていたとのこと。

これに対してイスラム教徒の父母は、「価値観の押し付けだ!」「子供の無垢さを利用するな!」「我々の子供に同性愛やLGBT的な生き方を勧めるな!」「我々の文化に対する差別だ!」等々と抗議、授業停止を求める署名活動が行われ、3月には授業に参加させないために600人ほどの子供を学校から連れ戻す事態に発展しました。

これを受けて学校は「仲間はずれなんていない」授業の停止を決定。

一件落着かと思われたところで、今度はLGBTを支援する議員が、イスラム教徒父母の行動はLGBTに対するヘイト・クライムであり学校から生徒を連れ戻し教育を妨害したことに対して罰金が課せられるべきだと抗議しました。

LGBTの支援者らは、こうしたイスラム教徒たちによるLGBTに対する侮辱の声は日に日に大きくなっており、社会が分断されてきていると懸念を表明しています。

イスラム教徒とLGBTは共にいわゆる社会的なマイノリティであり、リベラル勢力が保護すべき対象だと主張してきた存在です。

今回発生したのは、マイノリティ同士の利益が相克するという事案です。

イスラム教においては、同性愛行為は神の秩序に対する反逆行為であるとして禁じられています。

イスラム法において合法とされる性交渉は、婚姻関係にある異性同士か、男の主人と女奴隷との間のもののみと規定されており、それ以外は全て違法なのです。

またイスラム教は、神は人間を男と女として創造し、それぞれにふさわしい規範を与えたと考えるので、男の身体を持って生まれたのに女だという自覚を持ち自分は本当は女だと主張する、といった「性同一性障害」というものの存在を本来的に想定していません。

心の中でそういった認識を持つだけならば自由ですが、それを表明することは全く認められないのです。

ですから、「LGBTの価値や生き方を認めましょう!」「LGBTも平等です! 」と学校で教え込まれるのは、イスラム教徒としては大変な迷惑なのです。

イスラム教徒は自分たちこそ「保護されるべきマイノリティ」だという認識があるので、「LGBTの価値を押し付けられるのはそれと矛盾するイスラム教の価値を軽視しているという点で差別的であり受け入れられない」、と主張しているのです。


(中略)

日本は欧米から何周も遅れて外国人労働者を受け入れることを決定し、今更のように「多様性のある社会を実現させよう!」と政界や経済界が声を合わせて主張し始めました。

私たちは、実態のない妄想としての理想的多様性社会を夢見るより、実態としての多様性社会でどのような問題が生じているか、それはどのようにこじれ、どのような解決をみるのかについて、注視しそこから学ぶべき時期にきているように思います。
「リベラリズムなど結局はキレイゴトの羅列にすぎず、観念論の域を脱していない」という認識の私としては、「やっぱりね」としか思わない展開。イギリスの事例は、リベラリズムの教義を乗り越えて「多様な生き方・価値観が認められ共存する寛容な社会」を模索しなればならないことを教訓的に示していると言えます。

■イスラム世界からの「棲み分け」という多様性共存の実践報告
リベラリズムのお題目から離れて事実から出発して参考になり得る実例を拾うべきです。その点、「イスラム世界における世俗主義的人士と敬虔な信徒との共存」の実例は、このことを考える題材になり得ると考えます。イスラム教は世界的に広まっている宗教ですが、敬虔な信徒の宗教的情熱は実にストイックである一方で、世俗主義的人士の信仰はかなり「柔軟」で、宗教的情熱に大きな温度差がある人たちが一定の空間でビミョーな共存関係を築いているからです。

この点において、『朝日新聞』5月1日国際面コラムは、興味深い内容を報じています。以下。
https://www.asahi.com/articles/ASM4Y226CM4YUHBI004.html
(特派員メモ)披露宴の2日後に @ヨルダン川西岸地区
高野遼 2019年5月1日09時30分

 パレスチナ人の結婚披露宴に初めて招待された。新郎新婦はイスラム教徒だ。会場入り口で出迎えの新郎やその家族と握手を交わし、ホールの中へ……。

 「あれ? 新婦はどこ? 男性だけ?」

 イスラム式の結婚式は男女別が伝統という。静かな会場で羊肉の料理をいただく。女性は一つ下の階に集まっていた。

 ところがその2日後、「今度はもっと楽しい披露宴があるから」と呼ばれて再び同じ会場へ向かうと、雰囲気は一変していた。


(中略)

「男女別はどうなったの?」

新郎のいとこがウイスキーグラス片手に教えてくれた。
(中略)この晩は自由なスタイルを受け入れるゲストだけを招待したという。

宗教熱心な人とそうでない人のためにと二度の披露宴を開いたのだ。「どちらも大切なゲストだからね」。4時間越えの大宴会を終え、新郎の父は満足げだった。
あくまでも一例ではありますが、上掲記事からは、多様な価値観どうしが平穏に共存するための秘訣が「棲み分け」であることが分かります。棲み分けについては、当ブログでも以前から繰り返してきました(チュチェ105(2016)年7月31日づけ「棲み分け原理と価値観の多様性――自由主義的な人間関係の基礎」、チュチェ106(2017)年9月30日づけ「棲み分けと共存」)。前掲:イギリスにおけるLGBTとムスリムの対立・衝突のように、異なる価値観同士は、どんなに頑張っても衝突してしまう局面があるものです。これを穏便かつ現実的に解決しようとすれば、棲み分ける他にありません

その点、上掲記事で報じられている「二度の披露宴」という棲み分けの処世術は、極めて現実的。「寛容の精神」だの「お互いを認め合う」だのとキレイゴトを並べるのに終始するリベラリズムの言説よりもずっと説得力がある「多様な価値観を共存させるための方法」であるといえます。何といっても、リベラリズムは実践的成功を見ていないが、イスラムにおける棲み分けは実践されているのですから!

■総括
「多様な生き方・価値観が認められ共存する寛容な社会」は、間違いなく理想的な社会像です。しかし、事実から出発すればこそ、異なる価値観同士の衝突を穏便かつ現実的に解決しようとすれば、棲み分ける他にないのです。

前述のとおり、令和の時代を多様性の時代に「しようとする」動きは、平成の時代以上に盛んになることでしょう。また、「自主」こそが人間が人間たる基本的特徴と考えている私としても、令和の時代が多様な生き方が受け入れられる自主的な社会・多様性のある社会の実現になってほしいと考えています。

それを実現するにあたっては、お題目を並べるのに終始しているリベラリズムではなく、事実・実践から出発すべきであります。宗教的情熱に大きな温度差がある人たちが一定の空間でビミョーな共存関係を築いているイスラム世界の事実から出発するに、多様な価値観が共存するためには「棲み分け」が効果的であることが分かります

「多様な生き方・価値観が認められ共存する寛容な社会」を目指す必要が日本でも高まりつつあるといえますが、多様な価値観を共存させようとすればこそ「棲み分け」という選択肢を考慮に入れなければならないと言えるでしょう。共存のためにこそ少し距離を置くのです。
ラベル:社会 多様性論
posted by 管理者 at 21:37| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする