2019年07月28日

ムラ社会とブルジョア「自由主義」社会とのハイブリッドである日本社会の現状

「新聞社の社会的責任」と「ケチ・イチャモンつけ」が限りなく接近している昨今。とくに毎日新聞記事の粗探しっぷりは読んでいるこっちが不愉快になることが多々ありますが、しかし、下記の毎日新聞批判については、疑問符をつけざるを得ないものです。なぜか毎日新聞が京アニの責任を追及していることになっています。理解に苦しむ見立てですが、これこそが標記の「ムラ社会とブルジョア「自由主義」社会とのハイブリッドである日本社会の現状」を示すものと言えそうです。以下、論じます。

■本当に「京アニの責任」を問うているのか?
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190723-00029403-president-soci&p=1
放火殺人で京アニの責任を問う毎日の驕り
7/23(火) 17:30配信
プレジデントオンライン


(中略)

 死者数が多いだけでなく、日本アニメの象徴への放火という事件性から、さまざまなメディアが大きく取り上げた。この連載で読み比べている新聞社説も例外ではない。なかでも毎日新聞は発生翌日の19日付社説で書いている。他紙に先駆ける報道だったが、社説は早ければいいというわけではない。

 社説を19日付の新聞に載せるためには、事件の発生と同時進行で書かなければならない。京都市消防局に通報があったのが午前10時35分で、火災の鎮圧が宣言されたのが午後3時19分だった。一方、翌日の新聞に社説を載せるためには、一般的には午後6時ごろまでに論説委員が原稿を書き上げる必要がある。つまり事件の方向性がよく分からないうちに、筆をおかなければいけない。かなりリスクの高い行為だ。

■歌舞伎町の火災と京アニの火災を比較する見当違い
 案の定、7月19日付の毎日社説は、最後にこう書いていた。

 「一方で、たとえガソリンによる放火でも、あっという間にビル全体が炎と猛煙に包まれてしまったのは不可解だ。2001年に発生した東京・歌舞伎町の雑居ビル火災では44人が亡くなったが、防火扉が固定されていた不備が明らかになった」
「今回の火災で、防火扉の設置や作動状況はどうだったのか。消火設備は備わっていたかなど、詳しい検証が待たれる。多くの人が出入りする場所では、不測の事態にも備えるべく防火策の再点検を進めたい」

 防火扉の固定が問題にされた歌舞伎町の火災と京アニの火災を比較して、消火設備の不備の可能性を指摘するのは見当違いだ。京アニの第1スタジオのような鉄骨3階建ての建物には、防火扉の設置義務はない。法令で定められた消火器と非常警報設備は備えられており、京アニに法令違反はなかった。このことは同じ毎日新聞の20日付朝刊の解説記事「クローズアップ」でも指摘していることだ。

 毎日の論説委員は、見立てに自信がないのなら、自社の記者の解説記事を待つべきだった。それをせずに、あやふやな知識で社説を書くから、こういうことになるのだ。


(以下略)

ジャーナリスト 沙鴎 一歩
記事中でも触れられていますが、翌朝の朝刊に掲載するためには前日の午後6時ごろには社説原稿を書き上げないと間に合わない計算になります。本件毎日新聞社説について言えば、錯綜する情報を収集し、理解・総合した上で急いで社説にまとめたという事情を踏まえれば、「7月18日午後6時までの情報を基にすれば、こんなもんだろうな」と言えるでしょう。その点、「よく分からないことを無理に論じるな」というのであれば理解可能ではありますが、京アニの責任を問う毎日の驕り」というのは、少々イチャモンつけが過ぎるのではないでしょうか

筆者の沙鴎氏は、毎日新聞社説の「詳しい検証が待たれる」というくだりに非常に反応しています。「法令で定められた消火器と非常警報設備は備えられており、京アニに法令違反はなかった」と強調しています。沙鴎氏には、「詳しい検証が待たれる」という毎日新聞社説のくだりが京アニの責任を追及していると読めるようです。

本件では「ガソリンを撒かれて火をつけられたのだから、どうしようもない(だから京アニに非はない)」という論調が圧倒的ですが、沙鴎氏もまたその一人と言えるでしょう。たしかに「善悪」の基準で行けばそのとおりでしょう。京アニに法令違反はなく、よって落ち度があったとは言えません。

しかし、果たして毎日新聞社説の狙いは「落ち度さがし」だったのでしょうか? 「京アニの責任」を追及しているのでしょうか? 「多くの人が出入りする場所では、不測の事態にも備えるべく防火策の再点検を進めたい」というくだりを素直に読めば、粗探しの上で落ち度を見つけ出して京アニの責任を追及するというよりも、教訓を得ようとする姿勢を読み取ることが出来ます。少なくとも、沙鴎氏が社説本文から引用した範囲内からは、京アニの責任を追及する意図を読み取ることは困難です。

毎日新聞は、他人の粗探し・責任追及に熱心な割に、何事も言いっぱなしで具体的なプランニングは完全に他力本願なので、その普段からの姿・論調を思い起こせば、「どーせまた毎日新聞のことだから・・・」と言いたくなる気持ちはよく分かりますw しかし、今回ばかりは失当な見方と言うべきでしょう。

教訓を得るという観点において、マンション管理コンサルタントの土屋輝之氏は次のように述べています。
https://diamond.jp/articles/-/209374
京アニ放火事件で関心高まる「防火設備」、学ぶべき教訓は何か
土屋輝之:株式会社さくら事務所 マンション管理コンサルタント
2019.7.22 5:27


(中略)

 もちろん、犯人がガソリンを撒いて火をつけるという暴挙に出たわけだから、通常の火災とは訳が違う。おそらく爆風が事務所内を駆け巡り、通常の火災以上に、中にいた人たちはパニックに陥ったはずだ。

 しかし、この特殊要因を考慮に入れても、鉄筋コンクリートの建物で各フロアがあれほどの勢いで全焼するというのは、かなり考えにくい。本稿執筆時点(7月19日)での情報を見る限り、その一番大きな理由は、すでに多くのメディアで指摘されているように、1階から3階までを貫く、らせん階段があったこと、そして「区画」されていなかったため、と考えられる。

 オフィスビルであれマンションであれ、防火シャッターや防火扉によってスペースを区切り、火の手が急激に広がらないような対策をするが、具体的な基準は「建物の用途」や「床面積」によって異なる。

 オフィスビルの場合、不特定多数の人が訪れる場所ではなく社員たちは建物の中をよく知っているから、避難にはさほど手間取らないと考えられる。かつ、危険物を扱うような業務内容ではないだろうし、ごく小規模なビルである。これらを考えると、緩めの基準が適用されたはずで、吹き抜けた形状のらせん階段もOKが出たのだろう。もしもっと大きなビルであったり、用途が異なる場合であれば、こうした形状のらせん階段はNGだった可能性が高い。

 そして、らせん階段部分に防火扉や防火シャッターがあって区画されていればまだしも、それがなかったとなると、らせん階段が炎や爆風の通り道となって、建物の内部全体があっという間に炎と煙に包まれても不思議ではない。


(中略)

 もちろん、条件さえ満たしていれば、区画されないらせん階段を設置することは法令で認められている。しかし、「法令で認められているから絶対に安心」ではないのだ。ここに防火の難しさがある。

(中略)

 京アニのケースのように、ガソリンを撒かれるという事態は、そうそう起きるものではない。しかし、火災の危険性はどんな建物でも少なからずある。「あのケースは特殊だった」で終わらせず、この事件から得るべき教訓を得ていただきたいと願う。
 
京アニに法令違反はなかった」と強調するのに終始する沙鴎氏に対して「法令で認められているから絶対に安心」ではないのだ。ここに防火の難しさがあると指摘し、その上で「あのケースは特殊だった」で終わらせず、この事件から得るべき教訓を得ていただきたいする土屋氏。対照的です

■「粗探し批判」の異様な増殖
京都市役所は、類似した構造の建造物について調査に乗りだすようです。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190719-00000084-asahi-soci
京アニ放火 階段の吹き抜け構造、火のまわり早めたか
7/19(金) 20:19配信
朝日新聞デジタル

 京都市伏見区のアニメ制作会社「京都アニメーション」の第1スタジオが爆発炎上し、34人が死亡した事件で、京都市消防局によると、第1スタジオは1階から3階までつなぐらせん階段が設置され、吹き抜けになっていた。この吹き抜け構造が火のまわりを早めた可能性があり、京都市は19日に緊急検証対策チームを設置。同消防局などと連携して今後同様の建物を調査する方針だ。


(中略)

 今回の火災を踏まえ、対策チームが調査対象とするのは、第1スタジオのように防火や準防火の指定がない地域にあり、収容人数が30人以上で3階建て以上の建物。らせん階段や吹き抜け構造について調査するという。

最終更新:7/19(金) 23:14
朝日新聞デジタル
こうした調査を積み重ねることで一人でも多くの被害者を減らすための防火体制を構築することが肝要です。京アニの事件はそれはそれとして対応しつつも、この事件そのものとは一線を画しつつも事件を教訓とする取り組みを展開してゆく必要があります。

京アニの件とは直接的には関係のない「教訓を得る」に属する話であるにもかかわらず、この記事にも「今回の放火は防ぎようがない、京アニに落ち度はない」というコメントが書き込まれています。記事の主題・属性を無視してまで「京アニに落ち度はない」という弁護が執拗に展開されるのは、かなり異様であると言わざるを得ません。誰も責めていないのに、勝手に弁護・弁解しているわけです。

以前から指摘してきたことですが、日本社会では「事実関係の究明」と「責任追及」が混同される傾向があります。このことが、この手の妙な弁護が執拗に展開されている原因であると考えられます。興味深い記事を見つけました。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190719-00000004-zdn_mkt-bus_all&p=3
結婚式場のメルパルク炎上に見る、日本企業特有の「根深い欠陥」とは
7/19(金) 7:00配信
ITmedia ビジネスオンライン


(中略)

 日本社会は、基本的に陰湿であり、かつ目的意識が希薄という特徴がある。このため、何かトラブルが発生しても、解決が最優先されず、スケープゴート探しに血道を上げてしまう。このため、問題の当事者となった人は、状況のいかんに関わらず「自分は悪くない」と声高に主張するケースが多いのだ。非を認めて謝れば済むところを問題がこじれてしまうのは、こうした土壌が存在しているからである。

(中略)

加谷珪一(かや けいいち/経済評論家)
ITmedia ビジネスオンライン

最終更新:7/19(金) 7:00
つまり、日本人・日本文化は「犯人捜し」を再優先する国民性・文化性ゆえに、「何か問題が発生している状況下で特定個人に声がかかる」ということを「その人の責任が追及されている」と受け止めるのです。だから、事件・事故の被害者に事実関係の確認をすることを「粗探しして被害者の落ち度をあげつらおうとしている」と見なすわけです。

これは、もっと言ってしまえば、自分が普段から他人の粗探しばかりしているから、「毎日新聞は京アニの粗探しをしているに違いない(他人も自分と同じように粗探しをしているに違いない)」と思い込んでしまうとも言えるでしょう。

思い起こせば、5月に滋賀県大津市で発生した保育園児死傷右直事故のときもそうでした。「マスコミは保育園側の過失を追及しているように見える」という批判が沸騰しました。

たしかに、保育園側が開いた会見とはいえ、事故から数時間しか経っておらず思考が混乱したままであろう段階においては、すこしハードルの高い質問だったといえますし、警察でも裁判所でもない「マスコミ」が出過ぎた真似をしているとも言えるかもしれません。歩道で普通に信号待ちしていた歩行者に右直事故の責任があるわけがないのは常識で分かることです。

しかし、「教訓を得る」という点においては、事故の瞬間を克明に描き出す必要があるので、責任追及とはまったく別問題として、常識的に考えれば当たり前のことであったとしても、事実関係を洗い出さなければならないのです。京都新聞が見解を述べています。決して粗探しなどではないのです。

■日本社会の現状を象徴する一幕
こうした思い込みは、ムラ社会以来の日本の「伝統的」なメンタリティーと言えるでしょうが、チュチェ105(2016)年1月26日づけ「木村草太氏こそ何かの冗談ではないのか?――ブルジョア「憲法学」者の正体みたり」でも述べたとおり、最近は、原因・責任・賠償といった「他人に如何に責任を負わせるか」という敵対的利己主義社会の発想が「自由主義」の名の下に推奨されてもいます。

スケープゴートを探し出して吊るしあげてイジメ抜くというムラ社会の色彩は色濃く残りながらも、同時に、責任の擦り付け合いで「個人」として生き延びるブルジョア「自由主義」社会の色彩も強まりつつあるわけです。

文脈を無視してまで「京アニに落ち度はない」という弁護が執拗に展開される異様な風景。誰も責めていないのに、勝手に弁護・弁解が展開されている現実。ムラ社会とブルジョア「自由主義」社会とのハイブリッドである日本社会の現状を象徴する一幕です。
ラベル:社会
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2019年07月22日

評判経済たる現代資本主義市場経済を象徴する吉本興業社長の釈明会見

みんな選挙結果なんかよりもこっちの方に興味があるようでw投票率48%じゃ仕方ないにしても、選挙翌日とは思えないような世論状況ですが、私も選挙結果と同じくらいこっちの方にも興味があるのは否めないですw
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190721-00293303-toyo-soci&p=2
宮迫と亮の「不本意な告発」が起こした巨大衝撃
7/21(日) 13:30配信
東洋経済オンライン


(中略)

■笑いを届ける企業とは思えない冷酷さ

 繰り返し嘆願したことで「会見を開かせてやる」という承諾は得たものの、「期限はこっちで決める。それはこっちの権限だ」と言われた宮迫さんは、「あの空気感、あの感じ……『ひと月、ふた月引き延ばされて、結果うやむやにされるのではないか』という不信感が拭い切れなかったので、僕たちは自分たちに弁護士をつけることを選択しました」。

 この選択が両者の対立を決定づけ、2人はさらに追い込まれていくことになります。宮迫さんは、「2日前、僕たちの弁護士さんのところに書面で、『僕と亮くん2人の引退会見、もしくは、2人との契約解除。どちらかを選んでください』という書面が突然送られてきました。意味がわかりませんでした。引退ということもなく、謝罪会見をさせてもらえると思っていた僕たちはどうしたらいいのかわからなくなりました」。

 このあたりは弁護士同士のやり取りだけに法的な問題は考えにくく、吉本興業には書面を正当化する裏付けがあるのでしょう。ただ、そこに一切の温情はなく、笑いを届ける企業とは思えない冷酷さを世間の人々に感じさせてしまいました。


(以下略)
■評判経済たる現代資本主義市場経済を象徴する一コマ
6月7日づけ「カネカは初動に失敗してしまった――評判経済たる現代資本主義市場経済での自殺行為」で私は、「これからの時代、労務でもめたときは弁護士に相談するのではなく、広告代理店に相談した方が良いかもしれません。」と書きました。今回の吉本興業の対応は、法律的には恐らく何とかなるのでしょう。しかし、「そこに一切の温情はなく、笑いを届ける企業とは思えない冷酷さを世間の人々に感じさせてしまいました」と評されてしまいました。これは痛い

さすが世の中の流れに敏感な吉本興業だけあって、早々に釈明会見。むしろ逆効果だったようですが、たった数日で形勢逆転、大芸能事務所が掌を反すように慌てて対応を始めるとは、評判経済たる現代資本主義市場経済を象徴する一コマと言ってよいでしょう。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190722-00000126-dal-ent
吉本芸人 社長会見に不満噴出 トレエン斎藤「情けない」 たむけん「言い訳」
7/22(月) 16:54配信
デイリースポーツ

 吉本興業の岡本昭彦社長が22日、都内で会見を開いた。反社会的勢力の会合に所属芸人が出演し金銭を受け取った問題で、吉本興業側が正式な会見を開くのは初めて。この会見は午後2時から弁護士が経緯を説明、2時半ごろから岡本社長が登場して会見を行った。謝罪はしたものの、回りくどい“釈明”に終始した印象のぬぐえない会見内容に、吉本芸人たちはテレビの生放送やSNSで次々と批判や不満を表明している。
 
 トレンディエンジェルの斎藤司は生出演したフジテレビ系「直撃LIVE グッディ!」で「僕はこの会社なんだ、と情けない」とあきれた。「なんでこんなに、一企業の社長として、なんでこんなに回りくどいことばっかり言って…」「YES、NOの札を最初に渡しておくべきだった」と質問にストレートに答えない姿勢を批判し、「(社長には)覚悟がなかった、という感じがして。ほんとに皆さんに申し訳ない」と詫びた。


(以下略)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190722-00000218-spnannex-ent
吉本社長会見中に所属芸人からツッコミ続出「悲しいわ…血の通った発言を聞きたいんです」
7/22(月) 16:29配信
スポニチアネックス


(中略)

 また、「とろサーモン」久保田かずのぶ(39)は、社長の会見についてとは明言していないが、会見と同時間帯に「悲しいわ。知り合いの芸人、先輩後輩同期、皆同じ事を思ってる。頼むから汗の書いた文字が欲しいんです。生きてる言葉をください血の通った発言を聞きたいんです。どう変わるんですか?」と訴えている。
私、このニュースを最初に見たとき、「相変わらず芸能界・芸能事務所は腐っているなー」という感想が出て来ました。SMAP解散問題の時にも述べましたが、芸能界という世界は、中世のような人間関係が色濃く残っている特殊世界です。「継続的な憤り」は感じつつも「突発的な驚き」は感じませんでした。

ただ、最近の人は違うようですね。「笑いを届ける企業とは思えない冷酷さ」を感じたそうで。そういう人たち一人ひとりの感覚の変化が今回の事実を「驚き」として受け止め、そして驚きであるがゆえに話題として発破し、一人ひとりのミクロ的・個人的驚きがあたかもベクトルの合成ように増幅されてマクロ的・社会的なうねりになったのでしょう。そうした状況に主に商売的動機から危機感を感じた会社側が掌を反すように慌てて対応を始めたというわけです。

まさしく、評判経済たる現代資本主義市場経済を象徴する一コマと言ってよいでしょう。

■一人ひとりの意識の変化が「市場メカニズムによって」社会的うねりに増幅された
ちなみに、最近、リベラリズムを観念論として批判している立場から申し述べておくと、今回のような社会的変動の端緒は確かに「一人ひとりの意識の変化」です。その点はリベラリズムと認識は同じでしょう。しかし、一人ひとりの意識の変化「自体」が今回の現象を引き起こしたわけではありません。一人ひとりの意識の変化が「市場における消費者行動の変化」を予兆させるようになり、それゆえに主に商売的動機から危機感を感じた会社側が慌てて対応を始めたわけです。つまり、「市場における消費者行動の変化の予兆」すなわち「市場メカニズム」が重要な要素になります。

改めて重点的に述べたいと思っていますが、リベラリズムは、人間が意識を変え行動を変えることによって、具体的にどのような経路をたどって社会システムが変わってゆくのかを描き切れていないと言えます。そうした詳しい説明抜きに「人間が意識を変え行動を変えれば社会システムが変わる」などとするから根拠薄弱な観念論になってしまうわけです。

■また労組結成のススメ?
ところで、吉本闇営業問題では例によって「さる筋」が労働組合結成がどーのこーのと端っこの方で主張しています。うーん。。。宮迫さん及びロンブー亮さん並びに世間一般は、会社側の対応に「一切の温情はなく、笑いを届ける企業とは思えない冷酷さ」を感じ取ったから、というのが大きな要素のはず。何よりも本人たちが組合活動のような形で対決姿勢を取りたいとは思っていないのではないでしょうか。。。

すごく違和感を感じるんですよね。「さる筋」の労組運動が「血の通った発言」を求める人たちの要求を満たせるのだろうかと。

■余談
トレエン斎藤さんの「情けない」及びたむけんさんの「言い訳」発言について。所属芸人が自社社長の会見に対して斯くも「自由」に論評できるとは、社会主義国における権力闘争ウォッチを普段からやっている身からすると、彼らは会社側の報復を恐れず捨て身で正論を展開しているのか、それとも社内政治の点において岡本社長の「先」が長くないと見越してなのか、といったあたりにも興味がわいてきます。こういう「空気の変化」が気になってくるのです。
ラベル:社会
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2019年07月19日

いくら大切な話だといっても話題を切り出すタイミングというものがある

https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20190719-00000136-nnn-soci
京アニ火災 確保の男、数回騒音トラブルも
7/19(金) 11:54配信
日テレNEWS24

京都市のアニメ制作会社「京都アニメーション」のスタジオで33人が死亡した火災で身柄を確保された男は、近隣住民との間でたびたびトラブルになっていたことがわかった。

捜査関係者などによると身柄を確保された41歳の男は、3年前からさいたま市のアパートで暮らしていたが、去年8月以降、近隣住民との間で数回騒音トラブルがあったという。


(以下略)
過酷な労働環境で有名なアニメ業界(京アニはホワイトですけどね)に関する強い怨みの動機を推察できる事件だけに、藤田孝典氏あたりが例によって、(京アニが業界でも有名なホワイトであることを無視して)事実から出発するのではなく類型からの「そうに違いない」論法でトンでもないことを口走っていないだろうかと思っていた矢先の下記コメント。斜め上を行きすぎていました。。。
藤田孝典
NPOほっとプラス代表理事 聖学院大学人間福祉学部客員准教授

重大事件が起こるたびに騒音トラブルに触れる報道がされます。
そもそも、1人暮らし用のワンルームや低廉な家賃の民間賃貸住宅では、隣室との壁も薄く、中には電話の話し声や独り言、いびき等がそのまま丸聞こえという場合もあります。
もちろん、足音や生活音が聞こえることも珍しくありません。
これらの生活音は意図せずとも、相手に不快な思いをさせてトラブルに繋がる事例が散見されます。
生活困窮者や低所得状態にある方の住宅への入居支援を行っている場合には、このように近隣トラブルや騒音トラブルがしばしば起こります。
その際には常に問題当事者の人格や行動が問われるのですが、そもそも住環境自体にトラブルが起きやすい構造的問題がないか、民間賃貸住宅の建設時に見直してほしいと思います。
高所得者、中所得者などは、持ち家、隣室との厚い壁に覆われたマンションなどに居住しているので、実態が見えにくいとも思います。
「本件犯人が住んでいたアパートは、そうだったの?」「一般論として、それは問題だとは思うけど、今言う話?」という疑問しか浮かんでこないコメントです。

やはり早速批判の声がTwitter上で展開されていますが、藤田氏は「殺人は罪。厳罰に処すべき。その次はどうしますか?何度繰り返せば痛ましい事件は終わりますか?」などと「反論」しています。うん。。。住事情が事件の原因だったと判明したの?? 身柄を確保された犯人は重篤な容体で取り調べできる状態ではないらしいけど?? よく分からないなら下手に決めつけない方がいいですよ。

社会が崩壊していることに起因する大量殺傷事件の数々。その背景に目を向けることがない限り、残念ながら何度も何度も罪なき人々が殺されてゆく。繰り返し繰り返し。いつかは気づいて止められるようになってほしいな。」とも言っています。報道されている範囲で述べれば、身柄確保の時点で犯人は「自分の作品を盗まれたから」と述べたそうです。「意味不明」と言わざるを得ず何か秘められた動機がありそうですが、前述のとおり今現在は容体は重篤で受け答えできる状況にありません。少なくともまだ動機解明に役立つような追加発言は報じられていません。繰り返しになりますが、分からないことについては、個人的事情に起因することなのか社会的原因があるのかについてさえも決めてかかるような論評を控えるべきだと思いますが。。。例によって藤田氏は、事実から出発するのではなく類型からの「そうに違いない」論法を展開していると言わざるを得ません

5月28日に発生した川崎市での通り魔殺傷事件の時とは異なり、今回はさすがにちょっと。。。川崎殺傷事件のとき中川淳一郎氏が「犯人にまつわる背景も不明な今、やるべきは被害者に対する哀悼の意表明だけだろ。お前がやってる「弱者救済」商売に繋がることを憶測で即座に書く神経を軽蔑する」とTwitterで批判していましたが、今回についてはその批判が当てはまると言えるでしょう。

余談ですが、藤田氏のTwitterを見ていたら、反社相手の闇営業問題で善後処置をし損ねて絶体絶命の状況にある宮迫博之さんの件について「地位保全を求める労働組合運動に参加してほしい」と述べていました。宮迫さんのマネジメント契約って、実態として労働者性が認められるんでしょうかね? 労働者性が認められるとして、労働者は会社を通さない闇営業をしても問題ないのでしょうか(そこは就業規則の定めに依るだろうけど)自ら労組運動をライフワークとし、二言目には労組という単語が出てくる藤田氏。さすがに労働者性を認めるのは苦しく現行法では公正取引委員会が動くべきコンビニFC店の問題でも労組を持ち出していた藤田氏。ここまで来ると「商売」という批判も「見当はずれ甚だしい」とは言えなくなってきますね。。。

住環境問題は重大な問題でありいち早い対策・解決が必要だと私も思いますが、いくら大切な話だといっても話題を切り出すタイミングというものがあります。この藤田コメントは、ピアノ騒音殺人事件(1974年)のようなケースなら理解可能ですが、今回については放火大量殺人をダシにして直接的には関係のないアジテーションを展開しているようにしか読めません。あるいは、もはや手の施しようのない「類型からの『そうに違いない』論法」と言うべきでしょうか(どっちもありそうだなー)。

川崎殺傷事件のときは、5月28日づけ記事でも述べたとおり、「刑事政策を考える」という点において「「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしい」という彼の主張は、事件の評価とは直接的には無関係ながらも理解可能でありましたが、今回は厳しい。京都市の門川大作市長が事件当日夜の参院選応援演説で「大変な火事が起こっております。火事は3分、10分が大事。選挙は最後の1日、2日で逆転できる。そのことも含めてよろしくお願いします」などと人間性を疑う大暴言を吐きましたが、藤田コメントも負けず劣らずの酷さです。

私は、住環境問題の解決が単なる個人の問題ではなく社会的問題だと思うからこそ、藤田氏の本件主張について批判を申し述べる次第です。世間の皆様、住環境問題を重視する立場の人間は、決して藤田氏と同じ考え・発想ではございませんので一緒にしないでくださるようお願い申し上げます。
ラベル:社会
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2019年07月17日

「合理的推理」の「理」は、「当事者にとっての理」も含まれる

https://www.excite.co.jp/news/article/Jiji_20190716X320/
処刑説の金革哲氏生存=米朝実務協議担当―韓国情報機関
時事通信社
2019年7月16日 20:31

 【ソウル時事】韓国の情報機関、国家情報院の徐薫院長は16日、国会の情報委員会で、処刑説が出ていた北朝鮮の金革哲・国務委員会米国担当特別代表について「生きているとみている」と報告した。


(以下略)
キム・ヒョクチョル氏「銃殺」説。「キム・ヨンチョル粛清・キム・ヨジョン謹慎」説の「付属品」として5月下旬から6月上旬にかけて話題になった件です。「キム・ヨンチョル粛清・キム・ヨジョン謹慎」説は早々にガセネタと判明しましたが、いよいよキム・ヒョクチョル氏「銃殺」説の旗色も悪くなってきたようです。この間の騒動は、いよいよ何の根拠のない「創作」である可能性が高まってきました

私は基本的に、予測を外した人について後になってからアレコレ言わないようにしています。とりわけ朝鮮半島情勢は、共和国の秘密主義的体質に加え、各国の利害が複雑に絡み合っているために予測が困難であり、事後論評は「後出しジャンケン」の様相を呈してしまうからです。また私自身は、国際政治に明るくないと自覚しているので、論評しかねる(よく分からない)という事情もあります。

ただ、以下にあげる記事については、例外的に事後論評を試みたいと思います。コリア国際研究所所長のパク・トゥジン(朴斗鎮)氏による「キム・ヨンチョル粛清・キム・ヨジョン謹慎」説にかかる自己弁護です。「パク・トゥジン」という筆者名を見ただけで記事の結論とそれを読む価値の無さが一目瞭然だし、その上に1ヵ月も前の記事になりますが、典型的な要素があり「素材」としては「使いやすい」ので、我慢してお付き合いくださいw
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190616-00010001-jindepth-int&p=1
権威回復目論む金正恩の狡猾
6/16(日) 19:01配信
Japan In-depth


(中略)

■ 権威回復の手始めは責任転嫁

ハノイ米朝首脳会談失敗の責任転嫁のために、金正恩が党副委員長の金英哲を労役に、妹の金与正(キム・ヨジョン)を謹慎に、そして統一戦線部室長の金聖恵(キム・ソンヘ)と通訳を強制収容所送りとし、対米交渉特別代表だった金赫哲(キム・ヒョッチョル)を処刑したと朝鮮日報が報道した(5月31日)。ポンペオ米国務長官は、この報道に対して否定も肯定もせず「確認中」という答弁だけを出した。

だがこの報道に対して、金正恩は異例の速さで反応した。重要行事に金英哲と金与正を登場させて「粛清報道」が「誤報」であると印象付ける世論操作を行った。それだけこの報道の拡散が怖かったと見られる。

いまだに姿を現さない金聖恵の処遇や、特には金赫哲の処刑説については未確認ではあるが、健在ぶりを示すために出てきた金英哲が統一戦線部長を解任され幹部席の末席に座らされたことや、慈江道(チャガンド)視察に金与正が同行しなかった(玄松月が同行)ことを見ても、対米交渉関係者に処罰が下されたことは明白だ。また金正恩時代になって処罰から粛清という話もよくあることだ。

労働新聞は5月30日付で「良心は人間の道徳的風貌を規制する尺度」との個人論評を掲載し、北朝鮮で一連の粛清があったことを示唆した。そこには「首領(金正恩)に対する忠実性は、義務である前に良心であり、実践でなければならない。革命の道では、首領の崇高な道徳義理を身につけ価値の高い生活の頂点に上がる人もいれば、一方で首領への忠実性を言葉だけで覚え、甚だしくは大勢に応じて変化する背信者、変節者も現れる。忠実性は決して闘争年限や経歴から出てくるものではない」「首領の構想と意図を実現するために、自身の血と汗、命までも躊躇なく投げ打つ良心を持つ人間、義理の人間が真の道徳の強者、真の革命家である」と綴られ、今回の処罰・粛清がどのような名目のもとで行われたかが暗示された。


(中略)

だが、親金正恩の「ハンギョレ新聞(韓国)」は、情報の深い分析もしないまま、金英哲と金与正が姿を現しただけで、いち早く朝鮮日報報道を「誤報」と決めつけた。金正恩の意中を忖度したとしか思えない対応だ。このハンギョレ新聞報道に合わせて日本で「誤報」との主張を行ったのがコリアレポートの辺真一氏だった。

■ 「クロスチェック」と「合理的推理」で金正恩のウソを見抜け


(中略)

しかし、そうだからと言って、韓国発情報をすべて疑っていては朝鮮半島情報の分析が成り立たない。情報の中からデマでないものを選び出すのが情報分析の第一歩なのだ。そのためには複数の情報源をもって「クロスチェック」する必要があるが、それとともに必要なのが「合理的推理」だ。金正恩のウソを見抜き閉鎖的な北朝鮮を分析するにはこの二つの作業は必須となる。

北朝鮮情勢に対する合理的推理は、北朝鮮が首領絶対制システムであることの理解が土台となる。


(中略)

こうしたことから、「対米交渉担当者たちが処罰されるだろう」というのは北朝鮮専門家であれば誰もが到達する「合理的推理」である。誰を最も重罪にするかはその時の政治状況と金正恩の裁量によって決まる。したがって対象人物が映像に登場したからといって「粛清は誤報」とするのは「即断」すぎる。

(中略)

金正恩は未熟だが狡猾だ。金英哲が映像に登場したからと言って彼に対する処罰や対米交渉関係者に対する粛清がなかったと判断するのは早計だ。北朝鮮状況を誤判しかねないだけでなく金正恩の計略にはまる可能性がある。
■党や国家の最高幹部としての肩書を維持しつつの「粛清」・「謹慎」は、可能性としてあり得るだろうか?――ブーメランが突き刺さるパク・トゥジン氏
閉鎖的な北朝鮮を分析するには」、「複数の情報源をもって「クロスチェック」」することと「合理的推理」が必要だという指摘自体は極めてまっとうなものです。私も、しばしば「共和国分析においてこそクレムリノロジー的分析が有効だ」と述べているとおり、極めて秘密主義的ではあるが、正統を重視する儒教文化圏に位置し、科学を標榜する社会主義を掲げている共和国情勢を分析するにあたっては、複数の情報源からのクロスチェックと合理的推理によって断片的な情報をジグソーパズルのように組み立て、ストーリーを構築して理解することが必要だという立場です。

その点、パク・トゥジン氏にはブーメランになってしまいますが、彼こそ「党や国家の最高幹部としての肩書を維持しつつの『粛清』・『謹慎』は、可能性としてあり得るだろうか?」という問いを立て、複数の情報源からのクロスチェックと合理的推理を展開すべきでした

ハノイ会談から粛清・謹慎説が出回るまでの間にあった幾つもの政治イベント――最高人民会議第14期代議員選挙、朝鮮労働党中央委員会第7期第4回全員会議および最高人民会議第14期第1回会議――でキム・ヨンチョル氏とキム・ヨジョン氏はともに最高幹部として名を連ねていたという厳然たる事実から出発すべきです。

このことについては、当ブログでは、3月23日づけ「最高人民会議第14期代議員選挙結果を読む」、4月13日づけ「朝鮮労働党中央委員会第7期第4回全員会議と最高人民会議第14期第1回会議から読み取る布陣と確固たる意志」および6月6日づけ「「キム・ヨンチョル粛清・キム・ヨジョン謹慎説」を振り返る――『労働新聞』に照らして読めばこそ最初から明らかだった『朝鮮日報』誤報」などで繰り返し書いてきました。特に6月6日づけ記事では「党の最高幹部の肩書を維持しつつの「粛清」・「謹慎」は、共和国の政治史においてはかなり異例のこと。絶無とまでは言いませんが、「かなり可能性が低い」と言わざるを得ないストーリーでした」と述べたとおりです。

パク・トゥジン氏も『朝鮮日報』のガセネタと同じく『労働新聞』5月30日づけ「良心は人間の道徳的風貌を規制する尺度」論評を、粛清断行を示唆する間接証拠として挙げていますが、まさに6月6日づけ記事でも書いたとおり、ちょうどこの時期に実施されていた、キム・ジョンウン委員長によるチャガン(慈江)道現地指導における、近年で最強クラスのご立腹ぶりと関連させたほうがストーリーとして合理的であると言わざるを得ません。

■傷口を自らひろげるパク・トゥジン氏
パク・トゥジン氏は「「対米交渉担当者たちが処罰されるだろう」というのは北朝鮮専門家であれば誰もが到達する「合理的推理」である」と言い張ります。しかし、ハノイ会談から粛清・謹慎説が出回るまでの間にあった幾つもの政治イベントでキム・ヨンチョル氏とキム・ヨジョン氏がともに最高幹部として名を連ねていたという厳然たる事実を見落としたのは、あまりにも痛い彼は、いったん決めてかかった見立てに引きずられて、それの修正を迫る新しい事実に直面しても合理的に考え方を変えることはできなかったわけです。

粛清されて強制労働を課されているはずのキム・ヨンチョル氏が健在だという事実を突きつけられたときの言い訳もすごい。「重要行事に金英哲と金与正を登場させて「粛清報道」が「誤報」であると印象付ける世論操作を行った。それだけこの報道の拡散が怖かったと見られる」とのこと。キム・ヨンチョル氏が粛清されたことが暗黙の前提になっている論理構成はこの際は脇において(そのことこそが問題なんですけどね・・・)、なぜキム・ジョンウン委員長が、このことにだけ「怖がる」のかについてまったく説明されていません

パク・トゥジン氏が、キム・ヨンチョル氏らが処罰をうけたとあくまでも言い張る理由は、次のくだりが該当するでしょうか。すなわち、「金英哲が統一戦線部長を解任され幹部席の末席に座らされたことや、チャガン(慈江)道視察に金与正が同行しなかった(玄松月が同行)ことを見ても、対米交渉関係者に処罰が下されたことは明白だ」。このことについては、私も繰り返し述べているとおり、共和国は遊びで対米交渉しているわけではないのだから、交渉担当者の党内序列が低下するくらいは当然でしょう。それに、そもそも、単なる序列低下と「粛清・謹慎」説および「銃殺・収監」説はまったく別物です。キム・ヨンチョル氏が末席に座ったこと、キム・ヨジョン氏が現地指導に同行しなかったことは、序列低下に留まるものです。もっといえば、キム・ヨジョン氏がチャガン道という、まあまあ田舎の地方現地指導に同行しなかったことなど、単に本人あるいは家族の体調不良の可能性だってあるでしょう。キム・ヨジョン氏はまだ幼子を育てる母親です。現地指導(地方視察)に同行しなかったくらいで、ここまで書き立てられるとは・・・

「そもそも北朝鮮情勢の分析自体は難しいものだけど、ぼくちゃんこれだけ頑張って考えたんだもん!」という心の叫びは痛いほどに伝わってきますが、「党や国家の最高幹部としての肩書を維持しつつの「粛清」・「謹慎」は、可能性としてあり得るだろうか?」という重要論点の見落としを取り繕ろうとアレコレ言い訳を展開してむしろ傷口をひろげているように思えてなりません・・・

■一度決めてかかった認識を改める契機がないパク・トゥジン理論
そして最後の捨て台詞。「金正恩は未熟」というのは、パク・トゥジン氏としてはどうしても言わずにはいられない・我慢できないお決まりの台詞なのでスルーするとして、「金英哲が映像に登場したからと言って彼に対する処罰や対米交渉関係者に対する粛清がなかったと判断するのは早計だ」もすごい。悪魔の証明的の発想。普通は、「ある」と主張する側に立証責任があって十分な材料を提示できないときは「ない」とするのが、それこそ合理的推理の掟。パク・トゥジン理論でいくと、一度決めてかかった認識を改める契機がありません。どんなに推理と異なる事実が発生しても持論に固執できることになります。

「疑いをもって判断を保留すること」と「事実だとして主張すること」との間には根本的な違いがあります。パク・トゥジン氏は、そこを混同しています。

仮に一連の粛清・謹慎説および銃殺・収監説が事実だとしましょう。キム・ヨンチョル氏に強制労働が科されていて、キム・ヒョクチョル氏が刑死していて、キム・ソンヘ氏とシン・ヘヨン氏が収監されているとしましょう。死んでしまったキム・ヒョクチョル氏は生きて登場できないとしても、キム・ソンヘ氏とシン・ヘヨン氏がいまだ消息不明なのはなぜなのでしょうか? 本当に怖がっているのならば、何かテキトウなタイミングで朝鮮中央テレビのワンシーンや『労働新聞』の掲載写真の端っこの方に顔の半分でも写し込めばいいものを。キム・ソンヘ氏とシン・ヘヨン氏の消息不明には、何か別の理由があると考えることも可能でしょう。

■「合理的推理」の「理」は、当事者にとっての「理」も含む
ちなみに僭越ながらお勧め申し上げると、「合理的推理」の「理」は、「第三者的な理」だけではなく、「当事者にとっての理」も含まれると考えるべきでしょう。特に相手側陣営の内部事情を探るというのであれば、相手陣営内部を司る論理や力学に注目すべきです。つまり、「朝鮮労働党や共和国政府のいつもの主張や動向、またはチュチェ思想の原則からその思考回路を推測すれば、こういう理屈でこういう結論に至るだろう」という視点を交えることも大切だということです。

側近たちの肩書は、無秩序につけられているわけではなく幹部同士の忠誠競争・相互牽制の分かりやすいシンボルとして重要なものです。部外者が思っている以上に、ヒエラルキー的構造の社会主義体制内部においては肩書は重要です。相手陣営内部(朝鮮労働党の組織内)を司る論理や力学に注目し、「党や国家の最高幹部としての肩書を維持しつつの「粛清」・「謹慎」は、可能性としてあり得るだろうか?」という問いが必要になるのです。

この視点に立脚して「今回の粛清・謹慎」説を見たとき、最高人民会議第14期代議員選挙や党中央委員会第7期第4回全員会議、最高人民会議第14期第1回会議でキム・ヨンチョル氏とキム・ヨジョン氏がともに最高幹部として名を連ねていたという厳然たる事実を踏まえればこそ、本件は当初からかなり胡散臭い情報だということが見抜けたはずです。
ラベル:共和国 メディア
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2019年07月15日

主観主義的社会歴史観と「個人」主義的人生観に打ち克ち、「我々」意識に基づく社会の集団的・共同体的結束を再興するために

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190708-00000001-withnews-soci&p=2
貧しいのは本人のせい? エリート階級に広がる「自己責任論」、乗り越えるには 格差問題の専門家に聞く
7/10(水) 7:02配信
withnews

生活が苦しい人のための政策を考えるとき、必ずと言っていいほどネックになるのが「自己責任論」です。“貧しいのは本人の責任”、“努力しなかった本人が悪い”。日本に広く行き渡ってしまった考え方ですが、格差問題に詳しい社会学者の橋本健二・早稲田大学教授によると、特に高学歴・高収入の人はこう考える傾向が強いそうです。どうすれば自己責任論を乗り越え、本格的な貧困対策に取り組めるのか。橋本さんに聞きました。(朝日新聞記者・牧内昇平)


(中略)

階級別にみていくと、企業の経営者や役員などの「資本家階級」や、会社の専門職や上級事務職など、わたしが「新中間階級」と呼ぶ人々のあいだで、「貧困になったのは努力しなかったからだ」と考える人の割合が多かったのです。

――資本家階級に自己責任論が広がるのはうなずけますが、新中間階級の人びとにも同じ傾向があるのですね。そもそも新中間階級とはどのような人たちですか。

企業などで働く専門職、管理職、上級事務職。学歴が高く、情報機器を使いこなし、高い収入を得ている、つまり恵まれた豊かな生活を送っている人たちです。

2000年代に入ってその傾向は強まった
――この層の人々に自己責任論が広がっているのですか。

新中間階級に自己責任論の傾向が強まっていったのは、ここ20年のことだと思います。先ほどとは別の調査によると、1995年まではかろうじて、新中間階級はリベラルだった。不公平がこの世の中にあることをはっきり認識していた人が多くて、富裕層から貧しい人にお金を回す「所得再分配」にも割と好意的でした。

ところが2005年からアレっという結果が出るようになりました。

――なぜ、2000年代から新中間階級に自己責任論者が増えてきたのでしょうか?

戦後民主主義の成果と言えるのか分からないですが、これまでは弱者との連帯、弱者への共感という心性があったのかもしれません。そうしたものの見方が、高学歴な高所得者から急激に失われてきたと感じています。

なぜ自己責任論が容認されるのか?

――資本家階級に自己責任論が広がっているのはうなずけますが、なぜ新中間階級で目立つのでしょうか?

自己責任論には表と裏、プラスとマイナスのふたつの側面があります。プラスは「自分が恵まれているのは自分のおかげだ」、「自分が努力し、能力があったからだ」という側面です。これがマイナスにはたらくと、「自分が貧乏なのは自分のせいだ」となります。これは表裏一体の関係です。

新中間階級はこれまで勉強や仕事で成功してきた人たちです。この人たちはまず、自身の成功をプラスの側面で考える。「自分の地位や財産は自分で築いたものだ」という見方です。

そしてこの層の人々は論理的にものを考えますから、必然的に「貧しいのは本人の責任だ」となる。そうしておかないと論理整合性がとれないのです。こうして、強固な自己責任論が成り立ちます。

自己責任論から脱却するには

――「論理」を大事にする人々に自己責任論から脱却し、貧困対策に積極的になってもらうには、どうすればいいですか?

正義感とか倫理観だけで多くの人が一斉に動くとは考えられない。わたしは「自分の利益にもなりますよ」と伝えることが必要だと思っています。

いまは恵まれた新中間階級でも、子どもがアンダークラスに入る可能性は十分あります。大学を出てもいい仕事に就けるとは限りません。だとしたら、アンダークラスが生まれないような社会の方がいいし、仮にアンダークラスになったとしても、最低賃金で1500円もらえる社会の方がいいわけですよね。1500円だったら子どもがフリーターになってもそんなに絶望する必要はない。

また、子どもだけでなく、いま新中間階級の人たち自身が老後に転落する可能性もあります。退職金は減っているし、年金の水準も下がっていきます。よほどの大企業に定年まで勤めた人でなければアンダークラスに転落する可能性があります。いくらか貯金があっても大きな病気をしたら1千万円くらい簡単になくなります。


(以下略)
「階級」という概念の使い方が正確でないのが少し気になりますが、企業の経営者や役員などの資本家階級のみならず、会社の専門職や上級事務職といった高所得労働者階級の間にも「貧困になったのは努力しなかったからだ」と考える人の割合が増えている点について着目し、その原因について論考している興味深い記事です。

偶然、当ブログでも7月4日づけ「こき使われている勤務医が「自己研鑽」のインチキ理論に毒されているのは何故か、知識労働者を核心とした自主化運動・抵抗運動の展望はどこにあるのか」においてチュチェ思想の観点から、知識労働者たちが雇い主たちのインチキ理論を受容してしまい自ら進んで搾取されている事実について構造的に分析したところです。

今回は、その延長線上で、チュチェ思想的な観点から橋本教授の言説について考えてみたいと思います。

■新中間階級が資本家的な思想傾向にある原因は、知識労働者のプチブル化
橋本教授曰く、会社の専門職や上級事務職に就き、学歴が高く、情報機器を使いこなし、高い収入を得ている、つまり恵まれた豊かな生活を送っている「新中間階級」という人々(これ正確には「階層」だよね)に、2000年代以降、「自己責任論」への支持と「所得再分配」への否定的評価が広まってくるようになったといいます。

この原因について橋本教授は、二点あげています。一点目が戦後民主主義的リベラリズム以来の「弱者との連帯、弱者への共感」という心性の急速な消失。もう一点が「自分の地位や財産は自分で築いたものだ」という見方から論理的・必然的に導出される「貧しいのは本人の責任だ」という理屈だといいます。

そして、自己責任論からの脱却の展望として、自己責任論からの脱却は正義感や倫理観の連呼だけではなく「自分の利益にもなる」ということを訴えかけるだとします。

橋本教授がいう「新中間階級」は、私の前掲過去ログ上でいう「インテリ・知識労働者」に該当すると考えられます。念のために再言及しておくと、キム・ジョンイル総書記は『反帝闘争の旗を高くかかげ、社会主義・共産主義の道を力強く前進しよう』(チュチェ76・1987年9月25日)において、知識労働化に伴う現代資本主義社会の階級構成変化について次のように指摘されました。ちなみに、橋本教授が「2000年代」とする変化について総書記が1987年の段階で察知していたことは特筆的だと思います。
 第2次世界大戦後、資本主義諸国では社会的・階級的構成に大きな変化が起こりました。発達した資本主義諸国では技術が発達し、生産の機械化、オートメ化が推進されるにしたがって、肉体労働に従事する勤労者の数が著しく減り、技術労働と精神労働に従事する勤労者の隊伍が急激にふえ、勤労者の隊伍において彼らは数的に圧倒的比重を占めるようになりました。

 社会の発展に伴って勤労者の技術、文化水準が高まり、知識人の隊伍がふえるのは合法則的現象だといえます。

 もちろん、知識人の隊伍が急速に拡大すれば、勤労者のあいだで小ブルジョア思想の影響が増大するのは確かです。特に、革命的教育を系統的にうけることのできない資本主義制度のもとで、多数の知識人がブルジョア思想と小ブルジョア思想に毒されるのは避けがたいことです。それゆえ、彼らを革命の側に獲得することは困難な問題となります。
その上で私は、知識労働の最たるものとして医療労働、とりわけ勤務医の階級意識について次のように述べました。
この見解を現代日本の医療界に当てはめてみましょう。医師は知識労働の最たるものです。医師は、長い時間と努力によって血肉化した知識をもとに、主治医として治療の中心人物として、雇われの身なので全体的には雇い主の指揮命令下にありながらも、自分自身の判断で仕事を進める場面も多いものです。それゆえ、病院等に雇われて組織的に働く看護師などと比べると、ひとり親方・個人事業主的傾向が強いといえます。総書記が指摘されるように、ブルジョア思想・プチブル思想に汚染されている恐れが大きいと考えられるのです。

雇われの身でありながらも個人事業主のような働き方をしている勤務医がプチブル思想に毒されて自己の労働者性を忘却している場合、個人事業主の感覚のまま病院経営者になってしまった大ブルジョアの誤った労務感覚に共感し、健全な自主性・自主的要求が麻痺してしまう恐れがあるわけです。勤務医が「自己研鑽」などというインチキにコロッと騙されている背景には、知識労働者のプチブル化が考えられるのです。
新中間階級の自己肯定感の源泉を「自分の地位や財産は自分で築いたものだ」という認識におく橋本教授の見立ては、私が勤務医について述べた「長い時間と努力によって血肉化した知識をもとに、主治医として治療の中心人物として、雇われの身なので全体的には雇い主の指揮命令下にありながらも、自分自身の判断で仕事を進める場面も多い」ために「ひとり親方・個人事業主的傾向が強」く、よって「ブルジョア思想・プチブル思想に汚染されて」しまうという見立てと共通点が多いといえるでしょう。

つまり、産業構造の変化に伴い労働者階級はインテリ化・知識労働者化します。すなわち、全体的には雇い主の指揮命令下にありながらも、長い時間と努力によって血肉化した知識をもとに自分自身の判断で仕事を進める場面が多い知識労働者は、ひとり親方・個人事業主的傾向を強め「我々」意識が弱まり、「自分の地位や財産は自分で築いたものだ」と考えるようになり、プチブル化して行くわけです。

■元凶としての「個人」主義
新中間階級あるいは知識労働者の「自分の地位や財産は自分で築いたものだ」という認識は、「自分の成功は自分の努力にのみ拠るものだ」という点において主観主義的というべきです。物事を個人レベルに還元し過ぎています。そして、こうした主観主義的社会観(社会歴史観)は、「個人」主義的人生観と通底するものです。

朝鮮大学校校長で最高人民会議代議員(総聯選出)のハン・ドンソン(韓東成)先生は、著書『哲学への主体的アプローチ Q&Aチュチェ思想の世界観・社会歴史観・人生観』(2007年、白峰社)において、社会歴史観と人生観の発展経緯について次のように指摘しています(p88-89)。
観念論は、大きく客観的観念論と主観的観念論に分かれます。多くの哲学者が、(中略)個人の主観的な意志や感覚によって社会歴史が左右されるとする主観観念論的な社会歴史観を主張してきました。
また、ハン先生は人生観(チュチェ思想において重要な論点)に関して、次のように論じています(p164-165)。
このような見地から人生観を扱った人々は、人間を孤立した個人的存在と見なし、人間の生命を個人的な面からとらえながら、個人の自由で平等な生活が、人間の自然的本性にあった生活だと主張しました。そのなかには、個人の生命、自由、私有財産を保存しようとする志向が人間の本性であり、それにあった生活に幸福があるとする見解や、肉体的欲求の充足、肉体的快楽に最高の幸福を見いだす見解もありました。

このような個人主義的人生観は、社会歴史に対する主観主義的観点にもとづいていました。それは、人々の生活や社会的運動が客観的な物質的条件に制約される面があることを見ずに、理性の要求と力に依拠して行動することによって、人間は、歴史と自らの運命を開拓することができるとしました。
(中略)人間の本性にあった幸福な生活をおくる方途を、啓蒙に求めました。
こうしたチュチェ思想・チュチェ哲学の指摘を前提に私は、チュチェ104(2015)年5月1日づけ「「私の努力」の実態は「主客の相互作用の賜物」――受験勉強は所詮「子どもの戦い」」で、「学歴は努力の証明書」などと述べて炎上したタレントの福田萌さんの件について次のように述べました。
自分自身の努力も勿論尊く重要な位置を占めているものの、周囲環境や協力もまた大きな位置を占めており、実相は「主客の相互作用」であるにも関わらず、努力至上主義者たちは「本人の努力のみがその果実をもたらした」などという視野の狭い主張をドヤ顔で述べているわけです。

本件、あまりにも典型的過ぎます。もちろん、受験勉強は「自分との戦い」という要素が大きく、難関校合格者はその戦いの勝者です。自信を持ってよいと思います。しかし、受験勉強は「子どもの戦い」でもあります。そこには親のバックアップがあり、国家・社会の支えがあるものです。受験勉強もまた「主客の相互作用」の賜物です。
「自分の成功は自分の努力にのみ拠るものだ」という主張は、人間存在を社会集団から孤立した存在と見なしている点において主観観念論的な社会歴史観に根差していると言えます。また、人間存在を社会集団から孤立した存在と見なすことは、人間の存在・人間の生命を個人的な側面からのみ捉える一種の「個人」主義と通底するものです。「個人」主義にはどうしても、人間を孤立した個人的存在と見なし、人間の生命を個人的な面からのみ捉える傾向があります。

実際のところ人間は、客観的な物質的条件にも制約され、また、集団をなして生活しています。いわゆる「個人」は社会システムの不可分な要素として組み込まれています。その点、「個人」主義は、社会の実相と異なる「観念」に過ぎないと言えます。

■小括――新中間階級・労働者階級の「変化」と社会的結束の分解過程
いま述べてきたことをまとめましょう。(1)産業構造の変化に伴い労働者階級はインテリ化・知識労働者化します。全体的には雇い主の指揮命令下にありながらも、長い時間と努力によって血肉化した知識をもとに自分自身の判断で仕事を進める場面が多い知識労働者は、職務経験を積み成功体験を重ねるにつれて、ひとり親方・個人事業主的傾向を強めるようになります。

また、(2)ひとり親方・個人事業主的傾向を強める過程で、人間存在を社会集団から孤立した存在と見なすようになり、「他人は他人、自分は自分」という観念・「彼我の断絶」という思い込みが増長され、「我々」意識が弱まって行きます

(3)結果的に知識労働者は、「自分の地位や財産は自分で築いたものだ」とか「自分の成功は自分の努力にのみ拠るものだ」などと考えるようになり、プチブル化して行きます。「我々」意識に欠ける人々が増えるにつれて社会の集団的・共同体的結束が分解して行くわけです。

労働者階級のインテリ化・知識労働者化→ひとり親方・個人事業主的傾向の深化及び「我々」意識の衰退→社会の集団的・共同体的結束の分解、という図式です。

■戦後民主主義的リベラリズムは「共犯者」ではないのか
このように考えると、橋本教授の「戦後民主主義の成果と言えるのか分からないですが、これまでは弱者との連帯、弱者への共感という心性があったのかもしれません。そうしたものの見方が、高学歴な高所得者から急激に失われてきたと感じています。」という見立てには疑問を感じざるを得ません

日本人には、戦後民主主義とは無関係に昔からの共同体意識や「お互い様」精神に基づく共助・相互扶助が成り立っていました。会社共同体、隣近所共同体、そして創価学会のような信仰共同体等の共助体系が果たしてきた役割は大きいといえます。日本の公助体系・社会政策の整備が後手後手に回りながらも、ある程度の社会的結束が保たれてきたのは、昔ながらの共助・相互扶助のお陰だと言えるでしょう。

戦後民主主義についていえば、産業構造の変化に伴う労働者階級のインテリ化・知識労働者化、そして彼らのプチブル化による「我々」意識の衰退、社会の集団的・共同体的結束が分解してゆく現実に対して十分に対処しきたのかということを問わねばならないでしょう。もっと言ってしまえば、「個人」を重視する戦後民主主義的リベラリズムは、むしろ「我々」意識の衰退を歓迎さえしていたのではないのか、ということを問わねばならないでしょう。

人間を社会集団共同体の一員として見なさず、あくまでも「個人」として見なそうとする言説は、たとえば卑近なところでは、スポーツにおけるナショナルチームに対するリベラル派の見解・言説によく現れています。昨年のピョンチャン・オリンピックにおける日本代表選手の活躍には、多くの自然発生的な賞賛が寄せられましたが、江川紹子氏を筆頭とするリベラル派は、「日本人の活躍ではなく選手個人の活躍だ」なとど強弁し、物議を醸しました。

たしかにオリンピックで世界レベルの優秀な成績をおさめたのは、「選手個人」です。しかし、その選手個人の育成には国家的なサポートがあります。もちろん、諸外国と比べて十分な援助を受けられておらず手弁当主体の不遇な競技種目があることは私も承知しています。しかし、その場合でも「みんなの応援」という大きなサポートがあります。

「みんなの応援」というものは、人間にとって大きな力になるものです。「我々」意識をベースとする「我が共同体の仲間たちの応援を背に、共に闘っているんだ!」という認識は、「個人」として孤立している哀れな人間には理解できないのかもしれませんが、類的存在としての人間においては、その意欲に火をつけ、持っている能力を十二分に発揮しますキム・ジョンイル総書記は「車はエンジンをかけなければ走らないように、人間も思想にエンジンがかからなければ目的を遂げることはできない。」と仰いましたが、そのエンジンに点火させるのが「みんなの応援」なのです。

先の大戦の反省から官製ナショナリズムに対して警戒するのは当然のことでしょう。オリンピック等のスポーツ大会が政治利用されてきた歴史的事実を見逃すことはできません。しかし、スポーツ選手・アスリートに対する自然発生的な「我々」意識に基づく応援にまで「選手個人の活躍だ」と強弁することは、結果的に「個人」を社会から切り離して孤立した存在に追いやるものです。

オリンピック等におけるナショナルチームに対してさえこの調子なのだから、他は推して知るべし。人間を、社会と切り離され孤立した「個人」として位置付ける言説が、まさにリベラルの手によって戦後70年間にわたって幅をきかせてきました。

「個人」を社会から切り離して孤立した存在に追いやる発想が大手を振って罷り通ることを許し、むしろ推奨するのが「戦後民主主義」だというのであれば、「戦後民主主義」こそが、折からの産業構造の変化による労働者階級のプチブル化及び「我々」意識の衰退による社会的結束の分解をアシストしてきた「共犯者」として指弾しなければならないでしょう。

■「自分の利益にもなりますよ」はあくまで過渡期の戦術的対策に留まる――利己主義者を甘く見てはならない
「個人」主義に打ち克ち、社会をシステムとして共同体として再構築する必要、いわゆる「個人」を社会集団システムの不可分な一員として組織化する必要があります。「我々」意識を再興する必要があります。しかし、「個人」主義的な社会歴史観・人生観は強固です。遠大な理想を掲げつつも段階的で現実的なプランを実行する必要があります。

その点、橋本教授の「正義感とか倫理観だけで多くの人が一斉に動くとは考えられない。わたしは「自分の利益にもなりますよ」と伝えることが必要だと思っています。」という指摘は、段階的で現実的なワン・ステップとして過渡期的な戦術としてであれば、有効でしょう。

私も前掲7月4日づけ記事において「必ずしも皆が皆、心を入れ替えて博愛主義者に転向するとは私も考えてはいません。(中略)しかし、仕事を進める上で組織行動が不可欠になる時代においては、利己主義者であればこそ、あくまでも上っ面に過ぎなくても、戦略的に団結・連帯の道を歩む人たちが増えてゆくものと考えられます。組織生活不適合者は職業人として淘汰されてゆく運命にあります。」と述べたところです。前掲記事で私が述べたことは職場:労働局面での連帯に主眼を置いたものですが、分配局面でも同様に通用するでしょう。

しかし、これはあくまでも「過渡期の戦術的対策」にとどめるべきです。「個人」主義の極致たる利己主義においては、「他人に厳しく・自分に甘く」が原理原則です。自分が「勝ち組」であるときには弱者に対して厳しいが、いざ何かの拍子に自分が弱者になろうものなら、今までの経緯などお構いなしに自己の権利を声高に主張するのが利己主義者の生態であります。しかし、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の言葉どおりに、一息つけばまた元に戻るのも利己主義者の生態であります。奴らを甘く見てはなりません

■社会的分業の進展に伴う有機的連帯の深化が社会の集団的・共同体的結束を再興する道
やはり、社会のシステム・共同体としての再構築、「我々」意識の再興を主眼とする対策を打つ必要があります。

フランスの社会学者E.デュルケム(1858〜1917 つまりチュチェ思想とは無関係)によると、社会的分業の進展によって各部分が相互に補完的な機能を受け持ち、社会連帯の形式が有機的連帯になってゆくといいます。個性を持つ個人が社会的役割を担い、相互補完的に依存し合うように社会が変化してゆくといいます(ひとり親方・個人事業主が活躍してゆく余地は縮小してゆくものと考えられます)。デュルケムは、社会は、有機的連帯による組織的社会に発展すると説いているのです。

社会の産業構造の変化は、一人ひとりの労働者たちをプチブル化しつつも、同時に一人ひとりの労働者たちを組織化してお互いの関係を有機的連帯に改変してゆくわけです。社会をシステム・共同体として再構築する展望はここにあると言えます。

そして、この機を生かして積極的に思想工作、すなわち対人活動としての組織化を推進し、崩壊寸前の「我々」意識を再興すべきでしょう。

かつてマルクス主義は、機械制大工業の進展は労働過程の協業的性格を必然とするので、それまで職人気質だった労働者は団結を知るようになって行くとし、これが新しい社会を切り拓く条件になるとしました。マルクス主義は「存在が意識を規定する」という教義ゆえに、このことが大きな流れとしては自然に起こるものと楽観的に見なし、積極的な思想工作を展開して来ませんでした。このことについて、キム・ジョンイル総書記は『社会主義建設の歴史的教訓とわが党の総路線』(チュチェ81・1992年)で次のように指摘されています。
ところが一部の国では、国家主権と生産手段を掌握して経済建設さえ進めれば社会主義が建設できると考え、人びとの思想・意識水準と文化水準をすみやかに高め、人民大衆を革命と建設の主体にしっかり準備させる人間改造事業に第一義的な力をそそぎませんでした。その結果、社会主義社会の主人である人民大衆が主人としての役割を果たせなくなり、結局は経済建設も順調にいかず、社会のすべての分野が停滞状態に陥るようになったのです。
キム・ジョンイル総書記の上述指摘のほかにも、たとえばW.F.オグバーンの「文化的遅滞」(Cultural lag)も指摘していることですが、社会制度の変化がそのまま直ちに人々の思想意識を変化させるわけではありません。自生的・自然発生的な変化を無視するわけではありませんが、人為的で積極的な活動は不可欠と言えるでしょう。

いままで当ブログでは散発的にこうしたテーマについて論じてきましたが、中間報告的に述べれば、何か新しい理屈を拵える必要はないと言えます。たとえば、人事評価を「組織的成績に対する『個人』の貢献」に切り替えることなどが考えられるでしょう。

昨今「効率よく仕事を進めて一足早く帰宅する」という画が持て囃されていますが、大抵のプロジェクトは複数人が役割分担し、全員の仕事が出揃って初めて納品物になります。その点、「効率よく仕事を進めて一足早く帰宅する」というのは、「納品物本位」ではなく「ノルマ本位」と言わざるを得ません。自分のノルマさえ達成できれば全体の納品など関係ないという点において、「まるでソ連のやる気ゼロ労働者のようだ」と言わざるを得ません。こういう人物は、「個人」としては仕事が早くて優秀なのかもしれませんが、納品物に対する意識が欠落しているようでは組織人として評価はできません。

このとき、たとえば「効率よく仕事を進め、自分のノルマを達成したあとに30分から1時間程度、少し遅れ気味の部分を手伝う」といった具合に働く人がいるとすれば、こういう人を納品物本位である点において積極的に評価するべきでしょう。人間は、評価されればますますその評価基準に沿うように自ら考えるようになります。また、心根は利己主義的であったとしても、利己主義であるからこそ評価体系が納品物本位・組織本位であると分かれば、それに沿って動くようになります。そうしているうちに、組織生活が徐々に体質化されてゆくことでしょう。

「組織的成績に対する『個人』の貢献」だなんて「言うは易く行うは難し」だ、というご指摘もあるでしょうが、そもそも人事評価など定量的にはやりにくいものです。ここで大切なのは、定量的・厳密的に人事評価を実施することよりも、そういう観点で人事評価を実施するとアナウンスすることです。評価者がアナウンスすることによって被評価者たる労働者たちが行動を改める、このことが主たる狙いなのです。

■まとめ――主観主義的社会歴史観と「個人」主義的人生観に打ち克とう
一人ひとりの労働者たちが「我々」意識を取り戻すにあたっての障害物は、主観主義的社会歴史観と「個人」主義的人生観です。人々の有機的連帯の深化・社会全体の組織化において毒素と言うべきものです。

社会的分業の進展に伴う組織的社会への発展は、社会の集団的・共同体的結束を強める客観的条件を作り出すものと言えますが、客観的条件がそのまま直ちに主体の行動を変化させるわけではありません積極的な思想工作、すなわち対人活動としての組織化を推進し、崩壊寸前の「我々」意識を再興する必要があります。

そうした思想工作を展開するにあたっては、「我々」意識の衰退を歓迎さえすることがある「個人」主義の動向に対して厳重に警戒する必要があると言えます。上述してきたように、「個人」主義にはどうしても、人間を孤立した個人的存在と見なし、人間の生命を個人的な面からのみ捉える傾向があるからなのです。

7月8日は、チュチェ思想創始者たるキム・イルソン主席の逝去25年、本日7月15日は、社会政治的生命体論を定式化されたキム・ジョンイル総書記の労作『チュチェ思想教育において提起される若干の問題について』発表33年です。
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2019年07月07日

「核凍結論」が、いま西側メディアで取り沙汰された意味

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190703-00000010-cnippou-kr
NYT「北核凍結説」 ビーガン氏「完ぺきな推測」
7/3(水) 8:54配信
中央日報日本語版

米国政府が北朝鮮との核交渉をめぐって核凍結水準で妥協できる案を準備中というニューヨークタイムズ(NYT)の先月30日付の報道に対して韓米両国が強く否認した。ドナルド・トランプ米大統領と金正恩(キム・ジョンウン)北朝鮮国務委員長の先月30日の板門店(パンムンジョム)会談以降、米朝が非核化実務交渉を再開することで合意した後の報道だった。NYTの報道通りに米国政府が非核化の目標を「核凍結」に合わせる場合、北朝鮮を事実上核保有国と認定することになる。

ジョン・ボルトン国家安保会議(NSC)補佐官は1日(現地時間)、ツイッターを通じて「NSC関係者や私自身の中で誰もこれを議論したり聞いたりしたことがない」と否認した。ボルトン補佐官は「これは大統領を身動きできないようにしようとする誰かの非難すべき試み」として「責任を負わせる必要がある」と話した。これに先立ち、スティーブン・ビーガン国務省対北朝鮮特別代表もNYTに「完ぺきな推測」と反論した。

関連事情に明るい韓国の外交消息筋も2日「韓国だけでなく米国の対北交渉チームも核凍結協議案の提示を全く念頭に置いていない」と報道を強く否認した。彼は「北朝鮮の完全な非核化という大枠で凍結が1次関門になり得るが、これはあくまでも中間地点で最終目標は完全な非核化」と再確認した。


(中略)

だが、一部では北核交渉を再選に積極的に活用しているトランプ大統領が米国本土を脅威する大陸間弾道ミサイル(ICBM)の廃棄に焦点を当てて「米国に平和がやってきた」として成果として前面に出す可能性を懸念している。ICBM廃棄の次の段階である核廃棄は進展しないのに結果的に核凍結で終わるシナリオだ。

核凍結で終わろうとする場合、トランプ大統領が米国内で逆風にさらされる可能性があるという指摘もある。ワシントン事情に明るい消息筋は「核凍結論はむしろトランプ大統領と米国の対話派を苦境に落とす可能性がある」として「核凍結論は米国内交渉派の肩身を狭めるために『北朝鮮の非核化はすでに水の泡になった』という自称「現実論者」らの主張であるばかり」と一蹴した。


(以下略)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190703-00033800-hankyoreh-kr
トランプ大統領「金委員長に近いうちにまた会いたい…急ぐ必要はない」
7/3(水) 12:02配信
ハンギョレ新聞


(中略)

 一方、ニューヨーク・タイムズ紙は、米政府が北朝鮮の核開発凍結(freeze)に焦点をおいた新たなシナリオを検討していると、30日付で報道した。北朝鮮の完全な非核化という従来の目標を下げて、北朝鮮を核保有国として暗黙的に認める案ということだ。同報道について、国務省は「私たちの目標は依然として北朝鮮に対する『最終的かつ完全に検証された非核化』(FFVD)」としたうえで、「我々は現在いかなる新しい提案も用意していない」と否定した。スティーブン・ビーガン国務省北朝鮮政策特別代表も「単なる推測」だと否定した。

 しかし、米国が北朝鮮に最終的な核廃棄に進む非核化ロードマップを求める中、核凍結はロードマップの“入り口”にあたる必須の段階だ。ニューヨーク・タイムズ紙は、米政府が核凍結に目標を修正しているかのように報道し、「トランプ政権が北朝鮮に屈服している」という論議を触発しようとしたものと見られる。
核凍結論――以前から燻っている観測ですが、このことを確度高く裏付ける証拠はいまのところありません。アメリカ国内では核凍結論を求める声はさほど大きくはなっておらず、打ち上げるにしては少し早すぎる「花火」です。条件が整っていない段階で打ち上げてしまうと、反対勢力の抵抗を突破できる支持を得られずに失速してしまうでしょう。

ゆくゆくはアメリカは、核凍結という選択肢を真剣に検討する必要が生じると私は考えていますが、現時点では時期尚早でありましょう。当のトランプ政権幹部たちは揃って報道内容を否定しており、また、『ニューヨーク・タイムズ』報道の続報や深堀も出てきていません。日が経つごとに胡散臭さが強くなってきています。こうなると、本件は「怪情報」だと位置付けざるを得なくなってきます。

さて、「いま」こういった「怪情報」が飛び出てくる背景は何でしょうか? 上掲引用記事でも指摘されていますが、朝米接近を快く思わない勢力の影を感じ取らざるを得ません。朝米融和局面に危機感をおぼえた反共和国派が先回りして「暴露」することで「核凍結で手を打つ」という選択肢を事前に潰してしまおうとしている可能性が考えられます。

トランプ大統領がよく口する「急がない」という言葉の意味するところが徐々に変化し、かつてのような勇ましさが見る影もなくなっています。「急がない」は、朝米首脳が接触するたびに意味するところが変わってきました。

ついちょっと前まで「斬首作戦」が取り沙汰されていたタイミングでの急展開的なシンガポール会談での「急がない」は、「会談・交渉が今回で妥結しなくても軍事攻撃はしない」ということを意味しており、緊張緩和の効果を果たしました。反共和国派には衝撃を与える「急がない」でした。

続くハノイ会談の「急がない」は、全体としては緊張緩和局面を維持するが、前進も後退もしないもの。「非核化の前進」には資さないものでした。シンガポール会談でトランプ大統領が予想以上に共和国側に融和的だったことと比較して厳格な姿勢を取った点、経済封鎖の継続によって「兵糧攻め」的な効果が期待される点において、反共和国派には概ね好評な「急がない」でした。

今回の板門店会談での「急がない」は、その直前に確認された「同時並行原則」に照らせば、一息に完全非核化を目指すのではなく段階的非核化を目指し、その見返りとして段階的に封鎖を解除してゆくという意味合いが込められているものと考えられます。これはまさに共和国が目指してきたものであり、反共和国派にとっては悪い方向に向かっている兆候といったところなのでしょう

再度の「揺り戻し」を警戒する反共和国派の心情は容易に推測できます。『中央日報』でさえも次のように主張しているのだから、筋金入りの反共和国派の懸念は更に強いことでしょう。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190703-00000021-cnippou-kr
米国の有力紙が米行政府の交渉目標が北朝鮮の完全な非核化から後退するかもしれないと報じたことを受け、米国務省は直ちに否認した。ジョン・ボルトン国家安保会議(NSC)補佐官はツイートを通じて「(北核凍結は)協議したこともなく、聞いたこともない」と明らかにした。スティーブン・ビーガン国務省対北朝鮮特別代表も「純然たる推測」として一蹴した。しかし「火のないところに煙は立たぬ」という疑いが多い。

実際、ビーガン代表は先月末「6・12シンガポール共同声明の合意事項を同時的・並行的に進展させるために北朝鮮側と建設的議論をする準備ができている」と言及したことがある。「同時・並行的」は北朝鮮が主張してきた非核化へのアプローチだ。北朝鮮寧辺(ヨンビョン)核団地と大陸間弾道ミサイル(ICBM)の除去に合わせて北朝鮮に対する制裁も一部解除するということだ。北朝鮮の既存の核兵器と残りの核施設は後ほど段階的に除去する。そうなると北朝鮮の核保有は相当な期間に認められることになる。状況によっては北朝鮮が核兵器をあきらめられない可能性もある。そのため、米国は北朝鮮の非核化を先に成功させた後、北朝鮮に対する制裁を解除するというのが原則だった。

問題は北朝鮮の核保有が認められれば韓国、北朝鮮の間に深刻な安保不均衡が生じるという点だ。北朝鮮は核兵器を土台に米国と核軍縮を提起し、核傘の除去と在韓米軍の撤収まで持ち出す可能性もある。韓半島の安保状況がさらに複雑になる。したがって、韓国政府は「核凍結論」を鋭意注視する必要がある。
私は基本的に、他人の主張を評価するにあたっては、「何が語られているのか」、すなわちその内容の論理的正当性だけで判断するよう心掛けており、「誰が語っているのか」、すなわちその人物の属性や平生の主張内容からレッテルを貼ることはしないように心掛けているつもりです。しかし、それでもやはり、本件のようなケースでは「誰が語っているのか」にまったく無頓着であってはならないでしょう。

『ニューヨーク・タイムズ』はリベラルな論調で知られていますが、アメリカのリベラル派は日本のそれとは大きく異なり、トランプ大統領のことも共和国のことも心底嫌っています。以前から『ニューヨーク・タイムズ』は、共和国について誇張した内容の記事を書いてきました(『ハンギョレ』チュチェ107・2018年11月14日づけ「[ニュース分析]NYT「隠れた北朝鮮ミサイル基地」報道が誇張・歪曲である理由とは」)。今回も、そうした社の論調とまったく無関係だとは言えないでしょう。

日々刻々と変わる情勢を、もうしばらく見つめる必要がありそうです。
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2019年07月04日

こき使われている勤務医が「自己研鑽」のインチキ理論に毒されているのは何故か、知識労働者を核心とした自主化運動・抵抗運動の展望はどこにあるのか

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190702-00000111-kyodonews-soci
厚労相、無給医「早急に改善を」 労基法違反を指摘
7/2(火) 13:41配信
共同通信

 労働として診療をしているのに給与が支払われない「無給医」が50の大学病院に計2191人いた問題で、根本匠厚生労働相は2日の閣議後の記者会見で「給与が支払われない医師がいたのは誠に遺憾。賃金不払いは労働基準法違反であり、速やかに改善が図られる必要がある」と述べた。労基法違反が確認されれば、対応していく考えも示した。

 大学病院には、教育を受ける大学院生のほか、自己研さんや研究目的の医師が在籍し、その一環で診療に携わる場合には給与を支払わない慣習が存在している。
(以下略)
■19世紀的主張を21世紀になっても恥ずかしげもなく公言する医療界――医師の常識を疑う
労働法の観点からいえば至極当然の結論であり、まったく驚くに値しないことです。しかし、こんな当たり前のことをわざわざ厚生労働大臣が公言するということはすなわち、医療界には労働法の常識とは懸け離れた力学が働いているということを証明するものです。

いま医療業界誌で「医師の働き方改革」がテーマにならないことはありませんが、どの雑誌・記事でも必ずと言ってよいほど「医師の業務には自己研鑽の部分があり、その部分は労働時間には当たらない」や「労働基準監督署には病院に対して謙抑的な対応を求める」といった論調が出てきます。本件は大学病院における事象ですが、それ以外の病院――公立・私立を問わず――についても、有力団体の幹部(すなわち、有力病院の理事長・院長等)が、大真面目に主張しています。医師の偏在という問題が医師の長時間労働の重大な要素であるという事情を最大限に酌んでも、「謙抑的な対応を求める」とは、特別司法警察職員たる労働基準監督官に取り締まられる犯罪者の側がいったい何様のつもりなのかと驚かざるを得ません。

この手の言い分は、他人を自己の指揮命令下に置いて労働者として使役する事業では通用しません。この手の主張は、いまのような労働法制がまったく未整備で「工場法」さえ整備途上だった19世紀から使い古されてきた雇い主側の言い逃れの最たるもの。時代錯誤も甚だしい。現代労働法制は、こういった言い逃れ的主張に対してとっくに回答を出しています。

そもそも、どんな労働であってもその成果は労働者の熟練に左右されるものです。労働者は勤務を通して習熟・熟練します。労働時間から労働者の習熟・研鑽時間を分離させることは極めて困難です。労働者(勤務医)を使役しておきながら、まして顧客(患者)から対価を取っておきながら「これは本人の自己研鑽だから労働ではない」とする主張は世の中では通用しません。さすがに最近の一般企業は、表立ってはこんな理屈は口にしていません。一般企業は理解しているのです。

IT業界のようにエンジニア個人の熟練に依るところが大きい業界であっても、たとえ人件費節約が至上命題であっても「プログラミングは本人の自己研鑽だから残業ではない」などという主張は公言はされません。ちゃんと「合法」的に裁量労働制を導入して「解決」している(そして優秀なエンジニアに逃げられるわけです)か、個人事業主との契約という形をとって労働者性を持たないようにしています(そして実態面で労働者性を認定されて裁判に負けるわけです)。陰ではやっているかもしれませんが、医療界のようにお偉いさんが世間様に向かって大々的に宣言することはありません。

「自己研鑽」などと19世紀のような主張を21世紀になっても恥ずかしげもなく公言するのが医療界の現状なのです。医療界の時代錯誤は医師の常識を疑うレベルです。

医師の常識は世間の非常識なのでしょうか。個人事業の感覚のままで雇用を語っているのでしょうか、それとも単なる無知なのでしょうか――若いころから「先生先生」と持ち上げられてきたので、たとえ専門外でも他人に頭を下げて教えを乞うことができないのでしょうか。病院内での絶対権力者に対して敢えて意見を申し上げるような取り巻き衆がいなかったのでしょうか。あるいは、有力団体の幹部、すなわち有力病院の理事長先生・院長先生は経営者ですから、厳しさを増す病院経営のために時代錯誤は百も承知で労働基準監督署に泣きを入れているのでしょうか。馬鹿な勤務医を騙せればラッキーとでも考えているのでしょうか。

■こき使われている勤務医が「自己研鑽」のインチキ理論に毒されているのは何故か――チュチェの現代資本主義論・階級分析から
病院経営も経営ですから、経営者が労働者をこき使うのは「よくあること」と言えます。ここで注目しなければならないのは、有力団体・有力病院幹部の「勘違い」や時代錯誤な「無知」ではなく、病院経営者の「経営判断」でもありません。こき使われている勤務医が「自己研鑽」のインチキ理論に毒されて、黙々と無給に耐えている事実です。

使命感・責任感と「無給労働に沈黙すること」は別問題です。「働いたんだから給料払え」と要求を展開するくらいであればバチは当たりません。医師に限らず、給料が遅配になったからといって翌日からすぐにストライキに入る人は少ないでしょう。お客様に迷惑を掛けてはならない等の理由で、支払いを求めながらも取りあえず働き続けるのが普通です。しかし、そのような支払い要求さえも展開されていないのが現状です。雇われる側である勤務医が雇う側の理屈を受容してしまっているのです。己の自主性・自主的要求を麻痺させられているのです。

なぜ、雇われる側である勤務医が雇う側の理屈を受容してしまっているのでしょうか。キム・ジョンイル総書記の労作『反帝闘争の旗を高くかかげ、社会主義・共産主義の道を力強く前進しよう』(チュチェ76・1987年9月25日)で展開されているチュチェの現代資本主義論・階級分析は、それを解明するカギとなります。そして、知識労働者を中核とする先進資本主義社会において人々の自主化を達成する上で重要な指針を教えています。

総書記は同労作中で、先進資本主義社会では科学技術の発展に伴いインテリ・知識労働者が労働者階級の圧倒的部分を占めるようになり、労働者階級がブルジョア思想の影響を強く受けるようになったと指摘されました。それゆえ、従来どおりの方法では労働者階級を革命陣営側に取り込むことは困難になりつつあると指摘されています。
 第2次世界大戦後、資本主義諸国では社会的・階級的構成に大きな変化が起こりました。発達した資本主義諸国では技術が発達し、生産の機械化、オートメ化が推進されるにしたがって、肉体労働に従事する勤労者の数が著しく減り、技術労働と精神労働に従事する勤労者の隊伍が急激にふえ、勤労者の隊伍において彼らは数的に圧倒的比重を占めるようになりました。

 社会の発展に伴って勤労者の技術、文化水準が高まり、知識人の隊伍がふえるのは合法則的現象だといえます。

 もちろん、知識人の隊伍が急速に拡大すれば、勤労者のあいだで小ブルジョア思想の影響が増大するのは確かです。特に、革命的教育を系統的にうけることのできない資本主義制度のもとで、多数の知識人がブルジョア思想と小ブルジョア思想に毒されるのは避けがたいことです。それゆえ、彼らを革命の側に獲得することは困難な問題となります。
この見解を現代日本の医療界に当てはめてみましょう。医師は知識労働の最たるものです。医師は、長い時間と努力によって血肉化した知識をもとに、主治医として治療の中心人物として、雇われの身なので全体的には雇い主の指揮命令下にありながらも、自分自身の判断で仕事を進める場面も多いものです。それゆえ、病院等に雇われて組織的に働く看護師などと比べると、ひとり親方・個人事業主的傾向が強いといえます。総書記が指摘されるように、ブルジョア思想・プチブル思想に汚染されている恐れが大きいと考えられるのです。

雇われの身でありながらも個人事業主のような働き方をしている勤務医がプチブル思想に毒されて自己の労働者性を忘却している場合、個人事業主の感覚のまま病院経営者になってしまった大ブルジョアの誤った労務感覚に共感し、健全な自主性・自主的要求が麻痺してしまう恐れがあるわけです。勤務医が「自己研鑽」などというインチキにコロッと騙されている背景には、知識労働者のプチブル化が考えられるのです。

■知識労働者のプチブル思想をどう克服するか――開業すればよしというわけには行かなくなってくる時代で
もちろん、知識労働者は、いかにプチブル思想に汚染されたとしても依然として労働者であることには変わりありません。総書記は次のように指摘されています。
だからといって社会的・階級的構成におけるこうした変化が、共産党、労働者党の社会的・階級的基盤の弱化を意味したり、社会主義革命に不利な条件とみなすことはできません。技術労働にたずさわる勤労者であれ、精神労働にたずさわる勤労者であれ、彼らはいずれも生産手段の所有者ではありません。技術労働や精神労働をする勤労者と肉体労働をする労働者とでは技術・文化水準や労働条件においてある程度の差がありますが、彼らはいずれも資本家に雇われ、賃金をもらって生きているという点で本質的な共通性をもっています。
勤務医は、たとえ個人事業主のような働き方をしていたとしても労働者であることには変わりありません。勤務医が有力団体・有力病院幹部のインチキ理論の束縛から脱し、抑圧された働き方ではなく自主的な働き方を達成するためには、まずそのプチブル思想から脱する必要があるといえます。

もっとも、「自分はいいように利用されてきた」という事実に気が付きプライドを傷つけられた勤務医たちは、ほとんどの場合において、プチブル思想から脱するのではなく開業して本当に個人事業主になることを選択しているのが現状です。過酷な労働環境に対して我が身だけを守って一抜けすることが多く見受けられるところです。

「どうせ診察場面では勤務医も開業医もそれほど大差ないのだから、勤務先の労働環境を改善するよりも自分で理想の診療所を作った方が手っ取り早い」とか「勤務先の労働環境を改善する前に死んでしまう」といった事情を考えれば、このことは一概に悪いとはいえないところです。以前から繰り返してきたとおり、「雇い主相手に闘うよりも、さっさと辞めた方がよいケースもある」というのは、私の労働問題に関する基本的認識です。辞職者が連続すれば雇い主側にも労働環境改善のインセンティブが生じるものです。

しかし、医療サービスは今後、組織化が必要になってくるものと考えられます。いままでのようにプチブル思想そのままに開業すればよしというわけには行かなくなってくることでしょう。

一般論として、個人、すなわち脳味噌一個・腕二本・脚二本で出来得る仕事の範囲は限定的ですが、複数人が組織化したときに出来得る仕事の範囲は飛躍的に広がります。産業がますます高度化する昨今では、仕事の組織化は不可避ですが、仕事の組織化に伴い労働者は組織化されてゆき、それにより労働者は組織生活を体質化してプチブル的・個人事業主的発想から卒業してゆくものと考えられます。

このことは、決して医療も例外ではないでしょう。昨今は医療界では、診療技術の高度化・専門化に伴い「チーム医療」という言葉が盛んに口にされています。疾病構造が複雑化し診療科間・病院間の患者紹介がますます広がっている現状では医療サービスの組織化・システム化は不可避でしょう。このことはすなわち、医療従事者もまた組織的・システム的に行動することが不可避になりつつあることを意味します。チーム医療の時代においては、組織生活を体質化できている人だけが職業人として生き残れることでしょう。「チーム医療」がスローガンとして連呼されているということは、現実の医療はまだチームとして動いていないことを示しますが、チーム医療の時代は、すぐそこまでやってきています。

もちろん、必ずしも皆が皆、心を入れ替えて博愛主義者に転向するとは私も考えてはいません。むしろ私は「人間の改心」なるものを基本的に信じない立場です。大の大人が心を入れ替えるはずもなく、利己主義者は死ぬまで利己主義者だと思っています。しかし、仕事を進める上で組織行動が不可欠になる時代においては、利己主義者であればこそ、あくまでも上っ面に過ぎなくても、戦略的に団結・連帯の道を歩む人たちが増えてゆくものと考えられます。組織生活不適合者は職業人として淘汰されてゆく運命にあります。

また、単に過去の症例を基に病名をつけて処置・処方するだけの診療行為であれば、今後はビッグデータとAIの活用で代用されるでしょう。患者の境遇に同情して心から寄り添うことができる人間味のある医療従事者だけが職業人として生き残ることができるでしょう。AIなど所詮は機械。生身の人間が心から寄り添ってくれるからこそ、類的存在としての人間は満たされるのです。そうした時代に職業人として生き残った人間味あふれる医療従事者は、患者のみならず同僚たちに対しても同情心を持つ人物であることでしょう。決して、過酷な労働環境に対して我が身だけを守って一抜けするような人物ではないでしょう。

上記で述べたことは相当に理想論的であり、プチブル思想にかなり毒されている医師・医療界では長期的な課題として見積もっておく必要がありそうです。しかし、産業の高度化は仕事の組織化・労働者の組織化を進めます。組織生活不適合者は職業人として淘汰されてゆく運命にあります。このことは医療界も例外ではありません。博愛主義的利他心か利己主義的戦略かさておき、労働者は組織生活を体質化せざるを得なくなります。また、医療界に特化していえば、他人の境遇に同情して心から寄り添うことができる人間味のある医療従事者以外は職業人として淘汰されてゆく運命にあることでしょう。

これからの時代の医療従事者は、他人の境遇に同情して心から寄り添うことができる人間味を持っているがゆえに、プチブル的振る舞いを見せることなく組織的団結を選択し、個人的な自主性の追求に留まらず集団的に自主性の追求を目指す人たちが増えてゆくものと考えられるのです。あるいは、自分ひとりで開業したところで高度化・専門化した医療に対応しきれず詰んでしまうので、必ずしも博愛精神ではないかも知れないが、利己的動機が大いに秘められているかも知れないが、表向きは団結・連帯の道を歩む人たちが増えてゆくものと考えられるのです。

いずれにせよ、プチブル分子にとって「生きづらい」世の中になっていくものと考えられるのです。

■知識労働者を核心とした自主化運動・抵抗運動の展望――チュチェ思想による革命論
ここでキム・ジョンイル総書記の上掲労作に再度立ち返りましょう。総書記は、知識労働者が労働者階級の圧倒的部分を占める先進資本主義社会における革命論を次のように提起されています。この提起は、知識労働者を中核とする先進資本主義社会において人々の自主化を達成する上で重要な指針を与えるものと言えるでしょう。
 今日の労働者階級は、かつてのような無産階級であるとばかりみなすことはできません。社会主義社会の労働者階級が無産階級でないのはいうまでもないことであり、発達した資本主義諸国の労働者階級も、マルクス主義の創始者たちが、失うものは鉄鎖のみであると言った、かつての無産者とは異なります。革命に参加できるかどうかは、無産者か有産者かということだけにかかっているのではありません。

 人間は飢餓と貧困に耐えられないという理由のみで革命に参加するものとみなしてはなりません。自己の運命の主人として、国家と社会の主人として生きようとするのは、自主的人間の根本的要求です。金日成同志が教えているように、自主性が踏みにじられるところには抵抗があり、抵抗があるところには革命闘争がおこるものです。

 解放前、日本帝国主義の支配のもとで、我が国の知識人も、一般労働者に比べては高い待遇をうけ、比較的裕福な暮らしをしました。しかし彼らは、植民地の知識人として民族的差別をうけたので、反帝的な革命性をもっていました。

 今日、発達した資本主義諸国で、技術労働や精神労働にたずさわる労働者の生活水準が高くなったとはいえ、彼らは依然として資本主義的搾取と抑圧のもとにあるため、資本主義制度に対して反感をいだいており、資本の支配から解放されて自主的に生きることを要求しています。自主的に生きることを要求するということは、すなわち社会主義を志向することを意味します。
つまり、先進資本主義社会における社会主義革命は、食うや食わずの困窮者たちによる古典的マルクス主義が描くそれではなく、ある程度の物質生活を送りつつも資本家の支配に抑圧されている知識労働者たちが、自己の運命の主人として国家と社会の主人として生きようとするため自主性回復のための闘いだというのです。新しいチュチェ思想による革命論であります。

前述のとおり、どんな労働であってもその成果は労働者の熟練に左右されるものです。労働者は勤務を通して習熟・熟練します。労働時間から労働者の習熟・研鑽時間を分離させることは極めて困難です。労働者を使役しておきながら、まして顧客から対価を取っておきながら「これは本人の自己研鑽だから労働ではない」とする主張が世の中では通用しません。

勤務医が勤務先の指揮命令下で医療行為を行っているにも関わらず、その対価が支払われないのは決して正当化し得ません。正当な対価を支払わない「ただ働き」は、抑圧に他なりません。その上、勤務医は往々にして過酷な長時間労働までも強いられています。使命感・責任感などは、そういう状況に追い込まれて強制的に引き出されたものです。この「美談」の影に、ほくそ笑む病院経営者たちがいます。こうした手合いが「自己研鑽」などとインチキを恥ずかしげもなく公言しているのです。勤務医の使命感・責任感は、いいように利用されているわけです。

このことは、勤務医の自主性を踏みにじることであり、また、医道への冒涜に他ならないでしょう。組織生活を体質化できている人だけが職業人として生き残っているこれからのチーム医療の時代において、この事実を広めて勤務医の自主的要求の覚醒に訴えるとき、肉体労働者ではなく知識労働者を核心とした自主化運動・抵抗運動が始まることでしょう
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