ほぼ1か月経ちますが、参議院選挙の結果について。支持する・しないは別として、「NHKから国民を守る党」(N国党)の躍進は注目せざるを得ないでしょう(ちなみに私は、同党および同党支持者の皆さんを尊重しますが、支持者ではありません)。
■スクランブル放送化のシングルイシュー政党ではないN国党
さて、N国党の躍進については様々な反応が出てきていますが、同党の政策・主張および同党支持者の問題意識・要求が正確に把握されていないケースが少なくありません。たとえば、ジャーナリストの堤未果氏は「
優れた公共放送が国家にとっての社会的共通資本」などとする記事を
公開しています。同様の主張は、あちこちで目に・耳にすることができます。コメ欄で「そういう問題ではないんだよ」と突っ込まれています。
たしかに堤氏の主張は、N国党の政策・主張および同党支持者の問題意識・要求に応答しているとは言い得ない内容です。8月13日の会見で立花党首は、
「私は公共放送が必要ないとは一言も言ってない」とか「
NHKの改革をしたいのならば受信料問題1点に絞ってやるほうがいいということで当時の仲間であったNHKの顧問弁護士から言われたので、受信料問題1点に絞って今ここまで来ましたけども、決して私は受信料払いたくない人を単純にお守りするということではなく、公共放送が正しく機能する、いわゆるNHKがちゃんと公共放送の役割・使命を果たしてもらうためにこのようなスクランブル放送の実現を目指すという政党を立ち上げてここまで来たという次第」と
述べています。
さらに、これは重要な発言を引き出したと言えますが、
「直接民主主義というのがわれわれのワンイシューであって、その中にNHKのスクランブル放送が含まれているという考えです」とも立花党首は言っています。
堤氏を筆頭に、N国党の主張を正面から受け止めるのではなく、伝え聞いた断片的情報を中途半端に継ぎ接ぎして「理解したつもり」になっている人たちが相当に多いことが推察できます。
■「庶民の鬱屈」と「選択の自由の回復」を原動力とするN国党
「
直接民主主義というのがわれわれのワンイシューであって、その中にNHKのスクランブル放送が含まれているという考えです」という立花党首の説明は、彼らの自己規定であり、N国党はそういう自己規定のもとに意識的に活動している政党であると言えます。
N国党分析は、この事実から出発する必要があります。そしてまた、同党をもっとよく理解するためには、この事実を掘り下げる努力も必要でしょう。その点、私は下記記事に注目しました。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190803-00295714-toyo-bus_all&p=1N国党躍進を茶化す人が見落とす「庶民の鬱屈」
8/3(土) 15:20配信
東洋経済オンライン
「NHKから国民を守る党」(N国党)が参院選で1議席を獲得し、政党要件を満たしたことが世間に衝撃を与えている。7月29日に、日本維新の会から除名され、現在無所属の丸山穂高・衆院議員が入党して2人に増え、翌30日には旧みんなの党代表で無所属の渡辺喜美氏と会派「みんなの党」を結成するなど、話題性だけでなくその党勢も着実に伸ばしつつある。
この現象に対して世間ではテレビ番組の識者のコメントをはじめとして、「茶化したり」「単なるネタ扱い」に終始していたりしている論調があまりにも多いが、それでは本質を見誤る。受信料を支払う人だけがNHKを視聴できる「スクランブル放送」の実施を掲げ、比例代表で98万票超を獲得した事実は重い。
■「優先的地位」の既得権益層に対する敵意
この100万人近い人々の「民意」。深層に、自分たちの存在など歯牙にもかけない現状の政治体制に対する絶望や、自分たちの生活実感とかけ離れた「優越的な地位」の既得権益層に対する敵意があるに違いない。
ただし、それは「NHK」という事業体そのものの改革の是非というよりかは、NHKは分かりやすい的(まと)≠ノされているに過ぎない。「NHK」に象徴される「巨大な既得権益」への反発であり、自分たちのお金を強制的に吸い上げる一方で、自分たちの生き死に対しては一切関心を示さない、目には見えない力に対する拒絶のサインである。無意識に潜むメッセージを一言で言えば、「もう自分たちは黙ってはいないぞ」「混乱の種を国会に送り込んでやる」ということを象徴しているのだ。
(中略)
■「上級国民」騒動が示す圧倒的不均衡への憤り
今年4月、東京・東池袋で車が暴走し、歩行者10人を次々とはね、母子2人が死亡する事件が発生した。ネット上では、加害者が逮捕されないことから、元官僚という経歴が理由ではないかとの憶測が飛び交い、ニュースに取り上げられるほどの「炎上」騒動に発展した。また、そのような特権的な地位にある者を「上級国民」というスラングで揶揄(やゆ)した。
ここで表面化したのは、「持つ者」と「持たざる者」の圧倒的不均衡への激しい憤りである。それがある種のデマをきっかけに大爆発を起こしたのである。先の男性の嘆きを借りれば、なぜいつも「わしらみたいな庶民」が泣き寝入りしなければならないのか、ということなのだ。ここに今回の参院選で「N国党」を支持した人々の心理を解き明かすヒントがある。
そもそも、「N国党」は、NHKの「強引な集金人」などへの対応といった、非常にピンポイントな分野ではあるけれども、国民の身近な困り事に寄り添う活動とイメージ戦略で地歩を固めてきた。このような一般の人々の直接的な不安とリンクした形の草の根運動は、これまで既存の政党が見過ごしてきた問題を拾い上げる印象を与えると同時に、「NHKという権力」と「NHKという権力に新興政党が挑む、エンターテイメント性」が対峙するエンターテイメント性の高い闘争のドラマを提供してきた。
N国党代表の立花孝志氏がユーチューバーであることなどがクローズアップされやすいが、地方から草の根運動で少しずつ支持を伸ばしてきたことを忘れてはならない。2019年4月の統一地方選で「N国党」は大躍進を遂げている。東京23区や関西を中心に47人中26人が当選し、所属議員が一挙に30人を超えたのだ。異論はあるかもしれないが何度も繰り返して強調したいのは、泡沫候補に面白半分≠ナ投票した者がほとんどと考えるのは大間違いだと思う。そこには「庶民」の鬱屈(うっくつ)が反映されている。一定の合理性があると結論づけるのが妥当なのだ。
(中略)
■「無党派だが不安や不満を抱えた層」を取り込んだ
実のところ、「N国党」は、既存の政党がアプローチできていなかった「無党派だが何らかの不安や不満を抱えた層」を掘り起こすことに成功していた、と素直に考えるのが正しいように思われる。それは山本太郎代表が率いる「れいわ新鮮組」も同様だろう。
与党を含む他の政党は、このことの重大性についてもっと自覚したほうが良いかもしれない。もしこれらの階層に潜在している怨嗟(えんさ)を上手く手当てすることができなければ、「N国党」でなくとも別の新興勢力のようなものが、数百万人は存在するであろう「怨嗟の票田」を得て急伸するだけである。想定外の事態へと突き進むポテンシャルがあることに、果たしてどれだけの人々が気付いているだろうか。
(中略)
真鍋 厚 :評論家、著述家
「自分たちの存在など歯牙にもかけない現状の政治体制に対する絶望や、自分たちの生活実感とかけ離れた「優越的な地位」の既得権益層に対する敵意があるに違いない」とする真鍋氏の分析。立花党首の「強み」である「雲上人感ゼロ」な言動・行動・雰囲気とも合っているし、「
直接民主主義というのがわれわれのワンイシューであって、その中にNHKのスクランブル放送が含まれているという考えです」という主張とも通じるところがあり、
説得力のある見立てとして成り立っています。
また、この記事では言及されていませんが、
「スクランブル放送化」とはすなわち、視聴者・消費者の選択の自由を保障するということとイコールです。
N国党旋風は、単なる「庶民の鬱屈」だけが原動力ではなく、「自分自身の選択の自由」を奪われた各階層の人々の不満をも原動力にしていると言えるでしょう。
さらに、本当に単なる人気取りであれば絶対言わないようなネガティブなことでさえも自分から正直に言ってのけるあたりも、支持者にはウケているようです。たしかにこれは、いままでの政治家にはなく、また、いわゆる「ポピュリスト政治家」とも異なる立花党首の特徴的側面と言えます。
もう一歩踏み込んでいえば、「上級国民」なる概念を信じていないような人もまた、N国党支持に回っている可能性さえあるでしょう。つまり、現代社会の閉塞感の原因を特定の階層(特権階級等)が仕組んだものとするのではなく、利害関係が複雑に錯綜しているがために従来の利害調整型政治システムでは対処しきれず麻痺状態に陥っていると見なす人もまた、いわゆる「しがらみ」のないN国党に「岩盤突破」を期待して支持するという構図です。
いずれにせよ、決してバカにしたり軽視したりできるような事態ではありません。
■同じポピュリズムでもトランプ現象より手強い
N国党幹事長になった上杉隆氏は、13日の会見で、N国党の躍進をトランプ現象などと関連付けて位置付けました。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190813-00010005-wordleaf-polトランプ現象は、権利行使者への一般大衆の一揆
上杉:そのトランプ現象というのは、皆さんのようなMSM、メインストリームメディアの人も含めて、既存のいわゆる権利を行使する人たちへの一般大衆のいわゆる一揆。こういうのが3年前に起こっているわけですよ。それをぜひ認識してほしい。
それは、もう本当に世界は変わっています。トランプ現象のあとにフィリピンではドゥテルテ大統領が誕生しました。そして今年になってイギリスではボリス・ジョンソンが誕生しました。皆同じ構図です。左ではなく保守のほうからの革命というのが起こっている。しかも右も左もないんですよね。
日本だったら例えば大きな大企業、経団連だけではなくて、連合などもディープステートに入っています。党もそうです、政党も。自民党や公明党だけではなく、共産党も社民党も立憲民主党も、これは実は大きな組織に寄った選挙をやっています。そういう選挙とは違うアプローチでやったのが立花孝志で、私自身はこのトランプ現象の日本での発出っていうのを、この立花孝志に見ていると。
いよいよ日本においても、
政治から置き去りにされてきた人たち、既存の「政治の話」が響かない境遇にある人たちを代表する党・政治家が出現したというわけです。本当にそうかどうかは分かりませんが、そういうイメージを創り上げたことが勝因だとはいえるでしょう。
ここで是非とも注目しておかなければならないことは、
トランプ現象やBrexitと違い、N国党旋風は、党首の言動に賛否はあれども、党の政策・主張は、ある程度「まとも」だということです。
非科学的な主張や「今どきそこまで言うの?」と驚きを禁じ得ないゴリゴリの人種差別的発言を辞さないトランプ大統領は言うに及ばず、Brexitも経済政策としては慎重に評価せざるを得ないものです。担ぎ上げた御輿があまりに「アレ」過ぎるために、英米両国の庶民が蓄積している鬱屈・怒りまでもが一緒くたにコケにされ、「反知性主義」などというレッテルさえ貼られてしまっています。庶民生活という「究極のリアル」から自然発生的に湧き上がってきた怒りが軽視・無視され、難解な数学的な理論予測や優等生の作文のような理想論ばかりが幅を利かせてしまっています。
これに対して、N国党が掲げる「NHKのスクランブル放送化」や「直接民主主義」は、まともな政策と言えます。
まじめな議論の対象として位置付けることができます。決して一笑に付して片づけられる勢力ではありません。その点、
N国党旋風は、同じポピュリズムでもトランプ現象より手強いと言えるでしょう。
■甘く見てはいられない
「庶民の鬱屈」と「選択の自由の回復」を原動力とし、ポピュリズム的手法を駆使しつつも、諸外国のポピュリストたちがハチャメチャな政策を掲げているのと比べると、まともな政策を訴えているN国党。
ハナからバカにすることはできず、腰を据えて「攻略」する必要がありそうです。
政策がまともに見えるだけに、政治手法の問題が軽視されかねない危険があります。「コンプライアンス社会」と言われつつも、
現代日本は何だかんだでプロセスが軽視されがちだからです。とりわけ、監視の目に息苦しささえ感じている人には、立花党首の型破りなスタイルはウケることでしょう。「NHKのスクランブル放送化は正しいんだから、多少のムチャ・ヤンチャは目をつぶろうよ」と。
私は、
政敵を「叩き潰す」ことを是とする立花党首の方法がウケていることに危機感を感じるものです。小泉郵政解散劇場・橋下維新劇場・小池都議選劇場に続く不穏な空気と言えます。
※なお、政敵を「叩き潰す」ことを是とする立花党首の政治手法は、彼個人の資質の問題にとどまらずN国党の体質的問題であると私は考えます。以前にも述べましたが、下っ端のヒラ党員の個人的資質を党全体の体質と結び付けるのは失当ですが、党幹部の個人的資質は、そういう人物を党が組織的意思の下に登用した点において、単なる個人的資質の問題として片づけることはできないからです。
以前から申し述べているように、
私は文革的手法を政治に持ち込むことには反対の立場です。かつて首領様は、中国での文革を念頭におきつつ階級闘争の展開方法について2通りあると指摘されました。
社会主義革命を行うときの階級闘争は、ブルジョアジーを階級として一掃するための闘争であり、社会主義社会での階級闘争は、統一団結を目的とする闘争であって、それは決して社会の構成員を互いに反目し、憎みあうようにするための階級闘争ではありません。社会主義社会でも階級闘争を行うが、統一と団結を目的とし、協力の方法で階級闘争を行うのであります。こんにち、我々の行っている思想革命が階級闘争であるのはいうまでもないことであり、農民を労働者階級化するために農村を助けるのも階級闘争の一つの形式であります。なぜならば、労働者階級の国家が農民に機械をつくつて与え、化学肥料も供給し、水利化も行う目的は結局、農民を階級としてなくして完全に労働者階級化しようとするものであるからです。我々が階級闘争を行う目的は、農民を労働者階級化して階級としての農民をなくすだけではなく、かつてのインテリや都市小ブルジョアジーをはじめとする中産階層を革命化して労働者階級の姿に改造しようとするものであります。これが、我々の進めている階級闘争の主要な形式であります。
また、我々の制度のもとでは、外部から反革命勢力の破壊的影響が入りこみ、内部では転覆された搾取階級の残存分子が策動するために、かれらの反革命的策動を鎮圧するための階級闘争が存在します。
このように社会主義社会では、労働者、農民、勤労インテリの統一と団結を目的とし協力の方法でかれらを革命化し、改造する階級闘争の基本形式とともに、外部と内部の敵に対し独裁を実施する階級闘争の形式があるのです。
キム・イルソン『資本主義から社会主義への過渡期とプロレタリアート独裁の問題について――党の思想活動部門の活動家に行った演説』チュチェ56(1967)年5月25日
いくら「上級国民」への怨嗟があるといっても、彼らを階級として一掃するような闘争は正しいとは言えません。社会の構成員を互いに反目し、憎みあうようにする闘争を展開すべきではありません。まして、
NHKのスクランブル放送を巡って憎悪を掻き立てる文革的手法を持ち出すのは「やりすぎ」です。また、
「直接民主主義を実現させる」(その結果として上級国民との格差を是正する)というのであれば、数の力で暴力的に政敵を打倒する文革的手法はまったく相容れないものと言えます。首領様が「社会主義革命を行うときの階級闘争」として提唱された
「統一と団結を目的とし、協力の方法」での闘争方法を採用すべきであります。
しかし、まともな政策をN国党が訴えているだけに、
その政治手法を問題視し論点にするのには難儀しそうです。
N国党の躍進を甘く見てはいられません。