2019年08月22日

「いいとこ取り」をヨシとしない日本世論の「風向き」が変わりかねない際どい事態

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190822-00000165-kyodonews-bus_all
セブン大阪時短店が日曜定休通告 本部は慰留、導入すれば異例
8/22(木) 20:15配信
共同通信

 自主的に24時間営業を短縮したセブン―イレブン東大阪南上小阪店(大阪府東大阪市)のオーナー、松本実敏さん(57)が9月から日曜日を定休日にするとセブン―イレブン・ジャパン本部に通告したことが22日、分かった。人手不足を理由としている。本部側は慰留した。セブン加盟店は年中無休が前提で、定休日を導入すれば異例となる。

 松本さんによると通告は22日。本部側は契約違反だと指摘し、人員を派遣すると提案した。松本さんは、派遣にかかる金銭的負担を理由に断った。


(以下略)
日本世論は、妬みの感情もあると思いますが、「いいとこ取り」をヨシとしない傾向にあります。万事自分に都合の良い「旨い話」など、そうそうはありえない、そんなことは許せない・・・といった感覚です。コメント欄でも以下のとおり指摘されています。
そうであれば自分で個人商店を立ち上げて自由に営業時間を設定したらいいのでは。本部の営業に関する指示には従わない、でもオリジナル商品やブランドの恩恵を受ける、は成立しないでしょう。
好き勝手に定休日作りたいのならフランチャイズに加盟するべきでは無いと思う。
フランチャイズシステムの、オイシイとこだけ欲しいというのが認められるのなら、
好き勝手やった者だけが得をする社会になってしまう。
さすがに自分の勝手放題に営業したいなら
フランチャイズでセブンのブランドを利用せずにやればいいのに
それが成功すればあらたな小売業のFC元になるかもしれない
まさにそれが先行事例じゃないかな
ブランドは利用したいけどとにかく自分のやりたいようにやりたいでは
身勝手というか都合良すぎじゃないかな
今回、セブン・イレブンのFC殿様商売システムに風穴を開けることができたのは、なによりも「評判経済」たる現代資本主義市場経済における「世論」に他なりません。世論がFCオーナー側に同情的で、そうした状況を機敏に察知したセブン・イレブン本社側が、自社の評判に傷がつくことを恐れるからこそ契約条件の譲歩を決断したわけです。

その「世論」が眉をひそめるような挙に出た東大阪南上小阪店オーナー氏。本部側の人員派遣申し出の詳細が分からないので断定的なことは言えませんが、コメント欄で店舗経営コンサルタントの佐藤昌司氏が「あまり度が過ぎると世論の風向きが変わるリスクもあります。同情から「わがまま」と見られるということになりかねません」と指摘しているように、これは「風向き」が変わりかねない際どい事態です。。。「本部側もいままで相当、やりたい放題してきたんだからお互い様」といった具合のフォローも出てきていますが、いささか苦しいようです。「本部の横暴を糺す」という錦の御旗を掲げているときに「そっちこそどうなんだ主義」は、あまりウケがよくないように見受けられます。

例によって藤田孝典氏がコメントを寄せています。本件に関する彼の主張については、3月12日づけ「「少数派は多数派に合わせろ」と言うに等しい暴論が労働界隈・社会政策界隈の人権闘士から出てきた驚きの展開――ブルジョア的「お客様」論に接近する異常事態」で既に批判していますが、今度は「正直なところ、日曜日にコンビニが閉まっていても問題ありません」と言い始めました。そのまま読むと、「本部側の人員派遣申し出がお話にならないくらいショボい以上は、日曜定休はやむを得ない(=本部が更に譲歩すべき)」ではなくて、本当に日曜定休でいいと思っているように読めます。

そりゃまあ、無ければ無いでみんな仕方ないから環境に合わせるでしょうが、だからといって「そらみろ、本当はなくてもよいんだ!」という話にはならないでしょう。そのうちお役所みたいな営業時間を提唱したり、ついには「コンビニなんて無くても構わない」とか言い出すんでしょうか? まさかなあ。。。でもなあ。。。

全国的に、商店街の個人営業の小商店が大型スーパーに淘汰された経緯を見るに、消費者の求めるものは「いつでも開いている店」であることは間違いないでしょう。しかし、それが働く側にとって問題が発生するのであれば、「綱引き」の要領で元に戻すのではなく、双方の要求を両立させるべく方法を考えるというのが正道だと思うのですが(社会政策界隈では「綱引き」的発想によく遭遇するものです)。

ライフスタイルやワークスタイルの多様化している「多様性の時代」だからこそ、消費者運動と労働運動が連携して「組織としては年中無休:24時間・365日営業であるが、労働者個人としては十分な休暇・休養を取ることが出来る」ようにすべく企業・資本側に要求を展開してゆくことが必要なのではないのでしょうか。それこそ市民団体や労働組合の出番なのではないでしょうか。

「無いなら無いで私は困らないから構わない」論法で年中無休・24時間営業の中止に賛同する言説は、「全体から見れば少数かも知れないが、そのタイミングでそれを必要とする人・せざるを得ない人が社会には存在する」ということを無視した粗雑な議論であり、多数派の都合によって少数派の必要を無視する暴論ではないのでしょうか。

そもそも、「深夜閉店」なら「多数派にとっては無問題」と言えるでしょうが、「日曜定休」はそうと言えるのでしょうか。。。藤田氏の言説は「ぼくの かんがえた りそうの しゃかい」を出発点としているようにしか読めない主張が決して少なくありませんが、これはまさにそのド真ん中といえそうです。

本件ニュース及びさらに原理主義化した藤田氏の言説を目の当たりにして、改めて疑問に思います。

ちなみに私は、「本部側の人員派遣申し出がお話にならないくらいショボい以上は、日曜定休はやむを得ない」というのであれば、「それなら致し方ない」という点において決断を理解します。これは、「組織としては年中無休:24時間・365日営業であるが、労働者個人としては十分な休暇・休養を取ることが出来る」ようにすべく企業・資本側に要求を展開してゆくことが必要という立場ゆえのことです。原則として「年中無休:24時間・365日営業」を支持するものです。他方、「そこまでしてセブン・イレブンのFC加盟店でなければならないのか?」という疑問も浮かんできます(きっと何か理由があるんでしょうけど)。どちらが先に袂を分かとうとするでしょうか。
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2019年08月18日

むしろ憂慮・問題視すべきは「勧善懲悪の設定」

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190818-00000007-tospoweb-ent
ヒロミ アンパンチ論争ピシャリ「それを教えるのは親」
8/18(日) 13:31配信
東スポWeb

 18日放送のフジテレビ系「ワイドナショー」で、ネット上で起こった「アンパンチ論争」などを特集。ダウンタウン・松本人志(55)やヒロミ(54)らが意見を述べた。

 人気アニメ「それ行け!アンパンマン」の主人公・アンパンマンのアンパンチは暴力的で、子供に悪影響を与えるのではという論争について、ヒロミは「それを教えるのは親だからね」とアンパンマンに責任はないと指摘。さらに自身の幼少期を振り返りながら「ヒーローってのはそういうもの。そのまねをね、仮面ライダーとか(ごっこを)やったけど、そんなにひどい犯罪者になってないでしょ」と話した。

 一方、松本は「僕は(アンパンチ論争に)関わりたくない」と前置きした上で「本気で思ってる人はいないんじゃないか。不完全なボケに我々が乗っからないといけない面倒くささみたいなものを感じる。でも本当に思っている人がいるとしたら、これはなかなかすごい」と続け、論争になっていることが信じられない様子だった。


(以下略)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190814-00000107-spnannex-ent
福田萌 アンパンチで幼児が暴力的問題に「どう使うか、教えることも親ができること」
8/14(水) 11:29配信
スポニチアネックス


(中略)

 福田は「うちの2歳半の息子もしょっちゅう私やお友達にアンパンチ炸裂してた。でも、『お友達にはアンパンチしちゃダメだよ』と根気よく話し続けてたら、最近は『アンパンチ、だめよ』と控えるように」と自身の体験を告白。「暴力に限らず、どんな力もそれを持った時にどう使うのか、それを教えることも親ができることと思う」と記した。
■「伝統的」な議論
昔ながらの暴力表現問題。「伝統的」な議論なので今更、特に驚きもしないことです。今回は「アンパンマン」が吊るしあげを食らいましたか。前々から何度か「被害」にあっていたと思いますがね。

さて、「アンパンチ」つまり「暴力での問題解決の描写」の問題については、すでに多くの人が正しく見解を述べているところです。「親がちゃんと教育的に補足すればいい」

もちろん、たとえば、以前から指摘してきたように、いわゆる粗雑な「自己責任論」の背景に「アリとキリギリス」の世界観がそのまま息づいていることを考えるに、アニメ作品等の描写にも気を配り「アンパンチが子どもを暴力的にしないだろうか・・・」という心配をすること自体は大切なことです。何もしないでいると「悪党相手なら暴力をふるっていいんだ」と勘違いする子どもに育ちかねないという懸念は理解可能です。アンパンマンが唯一の直接的原因にはなり得ないでしょうが、成長過程で見聞きする経験や諸作品から少しずつ影響をうけて歪んだ人格に育ってしまう(その一因がアンパンマン)というのは、否定しきれないことでしょう。だからこそ親の積極的な役割発揮が大切だと言えます。これに尽きるでしょう。

■むしろ憂慮・問題視すべきは「勧善懲悪の設定」
むしろ、以前から述べてきたことですが、こういった作品の描写で憂慮すべきは、「勧善懲悪の設定」というべきです。親もまた勧善懲悪の設定にドップリと浸かっているので「親の教育的補足」は期待できません

「勧善懲悪の設定」に則っている作品に共通して指摘できることとして、時代劇が際立って特徴的ですが、善と悪がクッキリ分かれていて善人は文句なしの聖人君子であり悪党は生まれながらの悪党として描かれていることが挙げられます。つまり、悪党がダークサイトに走った理由や経緯が描かれることはまずありません

また、作品中では悪党に冤罪はあり得ず、正義の主人公側が掴んでいる証拠は完璧なものとして描かれています。もっといえば、そのこと自明の前提なので、証拠を吟味・検討するシーンが描かれていないことさえあります。

だからこそ、悪党の弁解といえば「言い逃れ」と相場が決まっており、そもそも編集上の関係で弁解シーンの省略さえあります。当然、正義の側が暴走するシーンなど期待できようはずがありません

さらに、「悪は穢れ」という意識も相まって、徹底的に排斥することを是とする描写も見られます。「悪党は悪いことをするから、やっつけられても文句はいえない」という一種の因果応報論と合わさったとき、「それは流石にやりすぎでは・・・」という心理的ストッパーを抑制します。

この描写は、まさに巷の刑事事件・刑事裁判の見方そのままといえます。「逮捕=有罪」と言わんばかりの見立て。悪党がなぜ悪党に育ったのかについて一顧だにしない。検察側証拠は疑いのないものであり、それを基に起訴した検察は完璧。「悪党」の弁解といえば言い逃れに決まっている(だから大悪党が小悪党や無実の人に罪を擦り付けて逃げる事案を見逃すわけです――無実の人を収監している間に公訴時効が来てしまった足利事件とか)。「それでもボクはやってない」などあり得ない。悪の成敗に「やり過ぎ」はなく、どんな微罪でも徹底的に罰して永久に社会から追放することが大切・・・「たかがフィクション作品」とは言えないのではないでしょうか。

とくに、モノの程度が分からない人たちが「悪党は生まれながらの悪党」「正義の側は常に正しく間違うはずがない」「悪党の弁解は言い逃れに決まっている」「元はと言えば悪党が悪い。因果応報」「悪は穢れだから徹底的にやるべし」といった「勧善懲悪の設定」そのままに行動するとき、道徳的にそれが「正しい」とされている以上は、「これで本当に大丈夫だろうか」という慎重さに欠き、歯止めが利かなくなることでしょう

「暴力での問題解決の描写」を問題視する人は多いのに対して、上述の「勧善懲悪の設定」は日本社会に広く根付いているといえそうです。親もまた勧善懲悪の設定にドップリと浸かっているので「親の教育的補足」は期待できませんこのことこそ憂慮し問題視とすべきでしょう

■ここまで罵倒するのは酷では?
ところで、「アンパンチ論争」って、「だからアンパンチの描写を中止せよ!」ってな運動にまで発展しているのでしょうか? 落語家の立川志らく師匠は「親がおかしくなってる」と、タレントの土田晃之氏は「「教育する能力がない人が作品のせいにする」」などと罵倒しています(この人たちいつも他人様に噛み付いて罵倒しているよね)が、単に「大丈夫かな・・・?」くらいの素朴な懸念を表明しただけだったとしたら・・・『北斗の拳』で育っただけあるということ?(逆説的に)

また、仮に本気でそう言っていたとしても、単に考えが甘いだけなのだから、ここまで罵倒するのは酷に思えるところです(素でボケている人を相手に声を荒げることが如何にムダなのか分かっていない人生経験の浅い人が多い多い・・・)。本当に攻撃的な世の中です。ヤフコメのような匿名掲示板が攻撃的論調なのは2ちゃんねるの頃から変わっていませんが、顔出しの芸能人がヤフコメのような調子で攻撃的なのは最近の特徴と言えるかも知れません。

「アンパンチ論争」ごときで斯くも攻撃的な「反論」が出てくるのを見ると、立川志らく師匠の言葉を借りれば、「相当前から、親がおかしくなってる」と言えそうです。
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2019年08月17日

同じポピュリズムでもトランプ現象より手強いN国党

ほぼ1か月経ちますが、参議院選挙の結果について。支持する・しないは別として、「NHKから国民を守る党」(N国党)の躍進は注目せざるを得ないでしょう(ちなみに私は、同党および同党支持者の皆さんを尊重しますが、支持者ではありません)。

■スクランブル放送化のシングルイシュー政党ではないN国党
さて、N国党の躍進については様々な反応が出てきていますが、同党の政策・主張および同党支持者の問題意識・要求が正確に把握されていないケースが少なくありません。たとえば、ジャーナリストの堤未果氏は「優れた公共放送が国家にとっての社会的共通資本」などとする記事を公開しています。同様の主張は、あちこちで目に・耳にすることができます。コメ欄で「そういう問題ではないんだよ」と突っ込まれています。

たしかに堤氏の主張は、N国党の政策・主張および同党支持者の問題意識・要求に応答しているとは言い得ない内容です。8月13日の会見で立花党首は、私は公共放送が必要ないとは一言も言ってないとか「NHKの改革をしたいのならば受信料問題1点に絞ってやるほうがいいということで当時の仲間であったNHKの顧問弁護士から言われたので、受信料問題1点に絞って今ここまで来ましたけども、決して私は受信料払いたくない人を単純にお守りするということではなく、公共放送が正しく機能する、いわゆるNHKがちゃんと公共放送の役割・使命を果たしてもらうためにこのようなスクランブル放送の実現を目指すという政党を立ち上げてここまで来たという次第」と述べています

さらに、これは重要な発言を引き出したと言えますが、直接民主主義というのがわれわれのワンイシューであって、その中にNHKのスクランブル放送が含まれているという考えです」とも立花党首は言っています

堤氏を筆頭に、N国党の主張を正面から受け止めるのではなく、伝え聞いた断片的情報を中途半端に継ぎ接ぎして「理解したつもり」になっている人たちが相当に多いことが推察できます。

■「庶民の鬱屈」と「選択の自由の回復」を原動力とするN国党
直接民主主義というのがわれわれのワンイシューであって、その中にNHKのスクランブル放送が含まれているという考えです」という立花党首の説明は、彼らの自己規定であり、N国党はそういう自己規定のもとに意識的に活動している政党であると言えます。N国党分析は、この事実から出発する必要があります。そしてまた、同党をもっとよく理解するためには、この事実を掘り下げる努力も必要でしょう。その点、私は下記記事に注目しました。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190803-00295714-toyo-bus_all&p=1
N国党躍進を茶化す人が見落とす「庶民の鬱屈」
8/3(土) 15:20配信
東洋経済オンライン

 「NHKから国民を守る党」(N国党)が参院選で1議席を獲得し、政党要件を満たしたことが世間に衝撃を与えている。7月29日に、日本維新の会から除名され、現在無所属の丸山穂高・衆院議員が入党して2人に増え、翌30日には旧みんなの党代表で無所属の渡辺喜美氏と会派「みんなの党」を結成するなど、話題性だけでなくその党勢も着実に伸ばしつつある。

 この現象に対して世間ではテレビ番組の識者のコメントをはじめとして、「茶化したり」「単なるネタ扱い」に終始していたりしている論調があまりにも多いが、それでは本質を見誤る。受信料を支払う人だけがNHKを視聴できる「スクランブル放送」の実施を掲げ、比例代表で98万票超を獲得した事実は重い。

■「優先的地位」の既得権益層に対する敵意
 この100万人近い人々の「民意」。深層に、自分たちの存在など歯牙にもかけない現状の政治体制に対する絶望や、自分たちの生活実感とかけ離れた「優越的な地位」の既得権益層に対する敵意があるに違いない。

 ただし、それは「NHK」という事業体そのものの改革の是非というよりかは、NHKは分かりやすい的(まと)≠ノされているに過ぎない。「NHK」に象徴される「巨大な既得権益」への反発であり、自分たちのお金を強制的に吸い上げる一方で、自分たちの生き死に対しては一切関心を示さない、目には見えない力に対する拒絶のサインである。無意識に潜むメッセージを一言で言えば、「もう自分たちは黙ってはいないぞ」「混乱の種を国会に送り込んでやる」ということを象徴しているのだ。


(中略)

■「上級国民」騒動が示す圧倒的不均衡への憤り
 今年4月、東京・東池袋で車が暴走し、歩行者10人を次々とはね、母子2人が死亡する事件が発生した。ネット上では、加害者が逮捕されないことから、元官僚という経歴が理由ではないかとの憶測が飛び交い、ニュースに取り上げられるほどの「炎上」騒動に発展した。また、そのような特権的な地位にある者を「上級国民」というスラングで揶揄(やゆ)した。

 ここで表面化したのは、「持つ者」と「持たざる者」の圧倒的不均衡への激しい憤りである。それがある種のデマをきっかけに大爆発を起こしたのである。先の男性の嘆きを借りれば、なぜいつも「わしらみたいな庶民」が泣き寝入りしなければならないのか、ということなのだ。ここに今回の参院選で「N国党」を支持した人々の心理を解き明かすヒントがある。

 そもそも、「N国党」は、NHKの「強引な集金人」などへの対応といった、非常にピンポイントな分野ではあるけれども、国民の身近な困り事に寄り添う活動とイメージ戦略で地歩を固めてきた。このような一般の人々の直接的な不安とリンクした形の草の根運動は、これまで既存の政党が見過ごしてきた問題を拾い上げる印象を与えると同時に、「NHKという権力」と「NHKという権力に新興政党が挑む、エンターテイメント性」が対峙するエンターテイメント性の高い闘争のドラマを提供してきた。

 N国党代表の立花孝志氏がユーチューバーであることなどがクローズアップされやすいが、地方から草の根運動で少しずつ支持を伸ばしてきたことを忘れてはならない。2019年4月の統一地方選で「N国党」は大躍進を遂げている。東京23区や関西を中心に47人中26人が当選し、所属議員が一挙に30人を超えたのだ。異論はあるかもしれないが何度も繰り返して強調したいのは、泡沫候補に面白半分≠ナ投票した者がほとんどと考えるのは大間違いだと思う。そこには「庶民」の鬱屈(うっくつ)が反映されている。一定の合理性があると結論づけるのが妥当なのだ。


(中略)

■「無党派だが不安や不満を抱えた層」を取り込んだ
 実のところ、「N国党」は、既存の政党がアプローチできていなかった「無党派だが何らかの不安や不満を抱えた層」を掘り起こすことに成功していた、と素直に考えるのが正しいように思われる。それは山本太郎代表が率いる「れいわ新鮮組」も同様だろう。

 与党を含む他の政党は、このことの重大性についてもっと自覚したほうが良いかもしれない。もしこれらの階層に潜在している怨嗟(えんさ)を上手く手当てすることができなければ、「N国党」でなくとも別の新興勢力のようなものが、数百万人は存在するであろう「怨嗟の票田」を得て急伸するだけである。想定外の事態へと突き進むポテンシャルがあることに、果たしてどれだけの人々が気付いているだろうか。


(中略)

真鍋 厚 :評論家、著述家
自分たちの存在など歯牙にもかけない現状の政治体制に対する絶望や、自分たちの生活実感とかけ離れた「優越的な地位」の既得権益層に対する敵意があるに違いないとする真鍋氏の分析。立花党首の「強み」である「雲上人感ゼロ」な言動・行動・雰囲気とも合っているし、「直接民主主義というのがわれわれのワンイシューであって、その中にNHKのスクランブル放送が含まれているという考えです」という主張とも通じるところがあり、説得力のある見立てとして成り立っています。

また、この記事では言及されていませんが、「スクランブル放送化」とはすなわち、視聴者・消費者の選択の自由を保障するということとイコールです。N国党旋風は、単なる「庶民の鬱屈」だけが原動力ではなく、「自分自身の選択の自由」を奪われた各階層の人々の不満をも原動力にしていると言えるでしょう。

さらに、本当に単なる人気取りであれば絶対言わないようなネガティブなことでさえも自分から正直に言ってのけるあたりも、支持者にはウケているようです。たしかにこれは、いままでの政治家にはなく、また、いわゆる「ポピュリスト政治家」とも異なる立花党首の特徴的側面と言えます。

もう一歩踏み込んでいえば、「上級国民」なる概念を信じていないような人もまた、N国党支持に回っている可能性さえあるでしょう。つまり、現代社会の閉塞感の原因を特定の階層(特権階級等)が仕組んだものとするのではなく、利害関係が複雑に錯綜しているがために従来の利害調整型政治システムでは対処しきれず麻痺状態に陥っていると見なす人もまた、いわゆる「しがらみ」のないN国党に「岩盤突破」を期待して支持するという構図です。

いずれにせよ、決してバカにしたり軽視したりできるような事態ではありません。

■同じポピュリズムでもトランプ現象より手強い
N国党幹事長になった上杉隆氏は、13日の会見で、N国党の躍進をトランプ現象などと関連付けて位置付けました。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190813-00010005-wordleaf-pol
トランプ現象は、権利行使者への一般大衆の一揆

上杉:そのトランプ現象というのは、皆さんのようなMSM、メインストリームメディアの人も含めて、既存のいわゆる権利を行使する人たちへの一般大衆のいわゆる一揆。こういうのが3年前に起こっているわけですよ。それをぜひ認識してほしい。

 それは、もう本当に世界は変わっています。トランプ現象のあとにフィリピンではドゥテルテ大統領が誕生しました。そして今年になってイギリスではボリス・ジョンソンが誕生しました。皆同じ構図です。左ではなく保守のほうからの革命というのが起こっている。しかも右も左もないんですよね。

 日本だったら例えば大きな大企業、経団連だけではなくて、連合などもディープステートに入っています。党もそうです、政党も。自民党や公明党だけではなく、共産党も社民党も立憲民主党も、これは実は大きな組織に寄った選挙をやっています。そういう選挙とは違うアプローチでやったのが立花孝志で、私自身はこのトランプ現象の日本での発出っていうのを、この立花孝志に見ていると。
いよいよ日本においても、政治から置き去りにされてきた人たち、既存の「政治の話」が響かない境遇にある人たちを代表する党・政治家が出現したというわけです。本当にそうかどうかは分かりませんが、そういうイメージを創り上げたことが勝因だとはいえるでしょう。
 
ここで是非とも注目しておかなければならないことは、トランプ現象やBrexitと違い、N国党旋風は、党首の言動に賛否はあれども、党の政策・主張は、ある程度「まとも」だということです。

非科学的な主張や「今どきそこまで言うの?」と驚きを禁じ得ないゴリゴリの人種差別的発言を辞さないトランプ大統領は言うに及ばず、Brexitも経済政策としては慎重に評価せざるを得ないものです。担ぎ上げた御輿があまりに「アレ」過ぎるために、英米両国の庶民が蓄積している鬱屈・怒りまでもが一緒くたにコケにされ、「反知性主義」などというレッテルさえ貼られてしまっています。庶民生活という「究極のリアル」から自然発生的に湧き上がってきた怒りが軽視・無視され、難解な数学的な理論予測や優等生の作文のような理想論ばかりが幅を利かせてしまっています。

これに対して、N国党が掲げる「NHKのスクランブル放送化」や「直接民主主義」は、まともな政策と言えます。まじめな議論の対象として位置付けることができます。決して一笑に付して片づけられる勢力ではありません。その点、N国党旋風は、同じポピュリズムでもトランプ現象より手強いと言えるでしょう。

■甘く見てはいられない
「庶民の鬱屈」と「選択の自由の回復」を原動力とし、ポピュリズム的手法を駆使しつつも、諸外国のポピュリストたちがハチャメチャな政策を掲げているのと比べると、まともな政策を訴えているN国党。ハナからバカにすることはできず、腰を据えて「攻略」する必要がありそうです

政策がまともに見えるだけに、政治手法の問題が軽視されかねない危険があります。「コンプライアンス社会」と言われつつも、現代日本は何だかんだでプロセスが軽視されがちだからです。とりわけ、監視の目に息苦しささえ感じている人には、立花党首の型破りなスタイルはウケることでしょう。「NHKのスクランブル放送化は正しいんだから、多少のムチャ・ヤンチャは目をつぶろうよ」と。

私は、政敵を「叩き潰す」ことを是とする立花党首の方法がウケていることに危機感を感じるものです。小泉郵政解散劇場・橋下維新劇場・小池都議選劇場に続く不穏な空気と言えます。

※なお、政敵を「叩き潰す」ことを是とする立花党首の政治手法は、彼個人の資質の問題にとどまらずN国党の体質的問題であると私は考えます。以前にも述べましたが、下っ端のヒラ党員の個人的資質を党全体の体質と結び付けるのは失当ですが、党幹部の個人的資質は、そういう人物を党が組織的意思の下に登用した点において、単なる個人的資質の問題として片づけることはできないからです。

以前から申し述べているように、私は文革的手法を政治に持ち込むことには反対の立場です。かつて首領様は、中国での文革を念頭におきつつ階級闘争の展開方法について2通りあると指摘されました。
 社会主義革命を行うときの階級闘争は、ブルジョアジーを階級として一掃するための闘争であり、社会主義社会での階級闘争は、統一団結を目的とする闘争であって、それは決して社会の構成員を互いに反目し、憎みあうようにするための階級闘争ではありません。社会主義社会でも階級闘争を行うが、統一と団結を目的とし、協力の方法で階級闘争を行うのであります。こんにち、我々の行っている思想革命が階級闘争であるのはいうまでもないことであり、農民を労働者階級化するために農村を助けるのも階級闘争の一つの形式であります。なぜならば、労働者階級の国家が農民に機械をつくつて与え、化学肥料も供給し、水利化も行う目的は結局、農民を階級としてなくして完全に労働者階級化しようとするものであるからです。我々が階級闘争を行う目的は、農民を労働者階級化して階級としての農民をなくすだけではなく、かつてのインテリや都市小ブルジョアジーをはじめとする中産階層を革命化して労働者階級の姿に改造しようとするものであります。これが、我々の進めている階級闘争の主要な形式であります。

 また、我々の制度のもとでは、外部から反革命勢力の破壊的影響が入りこみ、内部では転覆された搾取階級の残存分子が策動するために、かれらの反革命的策動を鎮圧するための階級闘争が存在します。

 このように社会主義社会では、労働者、農民、勤労インテリの統一と団結を目的とし協力の方法でかれらを革命化し、改造する階級闘争の基本形式とともに、外部と内部の敵に対し独裁を実施する階級闘争の形式があるのです。

キム・イルソン『資本主義から社会主義への過渡期とプロレタリアート独裁の問題について――党の思想活動部門の活動家に行った演説』チュチェ56(1967)年5月25日

いくら「上級国民」への怨嗟があるといっても、彼らを階級として一掃するような闘争は正しいとは言えません。社会の構成員を互いに反目し、憎みあうようにする闘争を展開すべきではありません。まして、NHKのスクランブル放送を巡って憎悪を掻き立てる文革的手法を持ち出すのは「やりすぎ」です。また、「直接民主主義を実現させる」(その結果として上級国民との格差を是正する)というのであれば、数の力で暴力的に政敵を打倒する文革的手法はまったく相容れないものと言えます。首領様が「社会主義革命を行うときの階級闘争」として提唱された「統一と団結を目的とし、協力の方法」での闘争方法を採用すべきであります。

しかし、まともな政策をN国党が訴えているだけに、その政治手法を問題視し論点にするのには難儀しそうです。N国党の躍進を甘く見てはいられません。
ラベル:政治 社会
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2019年08月16日

ムン「大統領」の自力自強・自立的民族経済建設の路線宣言

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190815-00000020-asahi-int
文大統領、日本批判を抑えて協力呼びかけ 光復節の演説
8/15(木) 11:04配信
朝日新聞デジタル

 韓国の文在寅(ムンジェイン)大統領は15日午前、日本の植民地支配からの解放を記念する「光復節」の式典で演説した。日本の対韓輸出規制強化を念頭に「日本の不当な輸出規制に立ち向かう」と言及したが、歴史認識問題では直接的な日本批判を避け、「今からでも日本が対話と協力の道に出れば、我々も喜んで手を握る」と関係の改善を呼びかけた。

 韓国の歴代大統領は光復節演説で、歴史認識をめぐる日本政府の対応について批判的に言及してきたが、例年になく日本批判が少なかった。日韓関係の懸案となっている徴用工問題や慰安婦問題には触れなかった。


(以下略)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190815-00000578-san-pol
文在寅大統領演説 外務省幹部「明らかにトーンが変わった」
8/15(木) 18:37配信
産経新聞

 韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領が、日本の朝鮮半島統治からの解放記念日「光復節」の演説で対日批判を抑制したことについて、外務省幹部は「明らかにトーンが変わった」と指摘し、韓国側の対応を見極める考えを示した。今後は、韓国最高裁が日本企業に賠償を命じたいわゆる徴用工訴訟をめぐり、日本側が受け入れ可能な解決策を示すかどうかが焦点になる。


(以下略)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190815-00000020-yonh-kr
文大統領「日本が対話姿勢なら手を取る」=光復節演説
8/15(木) 10:55配信
聯合ニュース

【ソウル聯合ニュース】韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領は15日、光復節(日本による植民地支配からの解放記念日)74周年の記念式典の演説で、「私は本日、いかなる危機にも毅然として対処してきた国民を思いながら、われわれがつくりたい国、『誰も揺るがすことができない国』を、改めて誓う」と述べた。

 文大統領は、まだ韓国は十分に強くなく、分断状態にあるために「誰も揺るがすことができない国」を実現できずにいるとした。実現を誓うとの発言は、日本の対韓輸出規制の強化によって韓国経済が直面した危機を必ず乗り越えるという強い意志の表れといえる。
(以下略)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190816-00000008-cnippou-kr
文大統領「誰も揺るがすことができない国作ろう」(1)
8/16(金) 9:45配信
中央日報日本語版

究極の目標は誰も揺るがすことができない国。このために中間目標として責任ある経済強国と橋梁国家、そして平和経済。

文在寅(ムン・ジェイン)大統領の第74周年光復節祝辞はこの論理を骨子として肉付けがされていた。祝辞全体を貫く核心は経済で、青瓦台(チョンワデ、大統領府)は今回の8・15慶祝辞を「光復節(解放記念日)初の経済演説」と規定している。

解放直後、詩人の金起林(キム・ギリム)が書いた『新国頌』の中の「セメントと鉄と希望の上に揺るがすことができない新しい国建てていこう」という一節から取ってきた「揺るがすことができない国」は祝辞を貫く核心文面であり、文大統領が設定した究極の指向点だった。文大統領は「今、我々は堂々とした経済力を備えるに至った。国民所得3万ドル時代を切り開き、金九(キム・グ)先生が願っていた文化国家の夢もかなえつつある」としつつも「誰も揺るがすことができない国はまだ成し遂げられていない」と話した。「私たちが十分に強くないためであり、まだ我々が分断されているため」としながらだ。


(以下略)
ムン「大統領」の光復節演説。急に反日がトーンダウン。聯合ニュース記事にもあるとおり、「まだ韓国は十分に強くなく、分断状態にあるために「誰も揺るがすことができない国」を実現できずにいる」ためでしょう。

キム・ジョンイル総書記はかつて、次のように指摘されました。
経済は社会生活の物質的基礎です。経済的に自立してこそ、国の独立を強固にして自主的に生活し、思想における主体、政治における自主、国防における自衛をゆるぎなく保障し、人民に豊かな物質・文化生活を享受させることができます。

経済における自立の原則を貫くためには、自立的民族経済を建設しなければなりません。

自立的民族経済を建設するというのは、他国に従属せず独り立ちできる経済、自国人民に奉仕し、自国の資源と人民の力によって発展する経済を建設することを意味します。このような経済を建設すれば、国の天然資源を合理的かつ総合的に利用して生産力を急速に発展させ、人民生活のたえまない向上をはかり、社会主義の物質的・技術的基盤を強固にきずき、国の政治的・経済的・軍事的威力を強化することができます。また国際関係において政治的、経済的に完全な自主権と平等権を行使し、世界の反帝・自主勢力と社会主義勢力の強化に寄与することができます。

とくにかつて帝国主義の支配と略奪によって経済的、技術的に立ち後れていた国ぐににおける自立的民族経済の建設は、死活の問題として提起されます。これらの国では自立的民族経済を建設しなければ、帝国主義者の新植民地主義政策を退けてその支配と搾取から完全に脱することはできず、民族的不平等を一掃して社会主義に向けて力強く前進することもできません。
キム・ジョンイル『チュチェ思想について』外国文出版社(原著:1982年 上掲邦訳版:2002年)P.43

外勢(日本)依存の経済構造が、反日大舞台としての光復節演説が不気味なまでに抑制的にならざるを得なかった理由といえます。自立的民族経済が確立されていないから、ここぞという時にトーンダウンしたわけです

韓「国」の情けない現状を浮き彫りにしたムン「大統領」の光復節演説。しかしながら、「まだ韓国は十分に強くなく、分断状態にあるために「誰も揺るがすことができない国」を実現できずにいる」という事実を認めた演説であるとも言えます。事実に向き合うことから変革は始まります。外勢依存の韓「国」が、遅ればせながらも自力自強の道・自立的民族経済の建設を意識し始めたことは、とてもよいことです。
ラベル:チュチェ思想
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2019年08月01日

ブルジョア「個人」主義及びブルジョア「自由」主義が蔓延る日本では想像もできないこと

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190730-00050109-yom-int
就職難の韓国若者、不買運動に参加か…異例の長期化様相
7/30(火) 7:42配信
読売新聞オンライン

 【ソウル=豊浦潤一】韓国で、日本政府の対韓輸出管理厳格化に反発した日本製品の不買運動が広がっている。売り上げが激減したと報じられた商品もある。長続きしなかった過去の不買運動とは違い、異例の長期化の様相を帯びている。


(中略)

 今回はマスコミが連日、不買運動の広がりを報じている。日本の輸出管理の対象が、半導体という韓国の主力産業を直撃し、ただでさえ就職難に苦しむ若者が、一層の雇用減を恐れて運動に参加したとの見方がある。

 今年は、日本統治下の1919年3月1日、「朝鮮独立万歳」を叫ぶデモ行進が行われた「3・1独立運動」から100年というタイミングにあたり、反日感情が高まっていることも背景にありそうだ。「独立運動はできなかったが不買運動はする」が、運動の合言葉になっている。


(以下略)
毎日新聞が必死に、新大久保に出没する日本の若者を取り上げて「政治と文化は別」と発信しています(相当必死ですね、4ページもの大作ですよw)が、対する韓「国」の若者が挙って日本製品不買運動に参加しています。

※ちなみに、読売新聞編集部は上掲引用のとおり「ただでさえ就職難に苦しむ若者が、一層の雇用減を恐れて運動に参加したとの見方がある」などと出典不明の「見方」を報じていますが、後述のとおり、朝鮮民族の儒教道徳に照らせば、不勉強も甚だしい主張であります。

韓「国」人が斯くも「国民としての立場」を貫徹している根底には、儒教道徳の存在を指摘できるでしょう。東アジア哲学の専門家であり、特に朝鮮哲学に造詣が深い小倉紀蔵氏の著作『北朝鮮とは何か――思想的考察』は、「北朝鮮」に限らず韓「国」を含めた朝鮮半島の哲学的原理に根差した論考が展開されている興味深い著作ですが、そこにおいては、朝鮮民族の発想が次のように解説されています。

このような「歴史問題を道徳問題として把握する」というメンタリティは、あきらかに儒教的な伝統に淵源する。

(中略)

儒教的な世界観においては、人間は愛の同心円を自己の心から身体へ、身体から家へ、家から国へ、国から天下へと拡大してゆかねばならない。(中略)(その拡大の原理が「愛之理」としての仁である)。(中略)どんなに離れた場所にいる民衆であろうが、その感じる痛みを自分の痛みとして感じることが儒教的士大夫はできなくてはならないのである。

(中略)

儒教的な道徳意識は、「痛み」という感覚にきわめて敏感である。

(中略)

韓国人ならばすべからくこの巨大な点の激痛を自分の身体の直接的な痛みのように感じなくてはならない、とされる。なぜならそのことによって韓国という近代「国民国家=主権国家」の立派で道徳的な一員として認められるからである。(中略)その痛みを感じられない国民は、「不仁」つまり感覚が麻痺している状態なのである。そのような人間はこの共同体の正しいメンバーとはいえない。なぜなら大韓民国とは一個の愛の生命体であって、その生命の根本は道徳である。個々の人間も、この大韓民国という生命体が生き生きと機能していればこそ生きていけるのであって、国家という生命体が愛の共同体として機能しなくなったら、それはそこに所属している国民ひとりひとりの死を意味するのである。

(中略)

ここにおいては、自我の存在は国家の存在なしではありえないという認識が、島(注:竹島)や慰安婦という収斂点への痛みの感覚を伴って増幅する。

(中略)

しかしこの「痛み」は、いったい何に関する感覚なのだろうか。(中略)自己の所属する国家と自己とが一体化した感覚である。
小倉紀蔵『北朝鮮とは何か――思想的考察』藤原書店、2015年(p44〜p48)

日本と韓「国」の差異が顕著にあらわれた例としては、防弾少年団の所謂「原爆Tシャツ」騒動が挙げられるでしょう。他人の痛み・苦しみに少しばかりでも想像力が働くのであれば、日本人はあれを決して許してはならないことでした。しかし、あの騒動の結果、防弾少年団はテレビ朝日系列「ミュージックステーション」への出演が急遽見送られましたが、このことについて「政治と文化は別」などと主張する日本の「若者」たちが文句をたれていたのは記憶に残るところです。原爆投下を揶揄するような外道の手合いの悪辣な所業を目にしても「政治と文化は別」とは、ブルジョア「個人」主義及びブルジョア「自由」主義の極致と言わざるを得ません。

対する韓「国」人。「自分自身」とは無関係のことに斯くも本気で怒ることが出来るわけです。今回の韓「国」人の挙国的な反日活動については、動機の面においては「いかがなものか」という念は禁じ得ませんが、しかし、こうした国vs国の対立において私事を措いて国民としての立場から、同胞の苦しみに対して本気で怒り行動できるというのは、ブルジョア「個人」主義及びブルジョア「自由」主義が蔓延り、防弾少年団の所謂「原爆Tシャツ」をスルーした日本では想像もできないことだと言ってよいでしょう。

なお、チュチェ哲学の観点から申せば、自分自身と、民族集団等その所属する社会集団の自主的で文化的な生活こそが政治の任務であり目的なので、「政治と文化は別」という主張は失当であると言わざるを得ません。民族的文化生活および民族の矜持を守るためにこそ政治があります。政治は文化生活の下僕です。チュチェ哲学の立場から申せば、日本社会はブルジョア「個人」主義及びブルジョア「自由」主義が蔓延っている社会であると同時に、哲学的にも貧困なる社会と言えます。
posted by 管理者 at 21:53| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする