ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)ならぬエココレ界隈が最近やたらプッシュするグレタ・トゥンベリさんがカナダの石油産地でデモったところ、痛烈なカウンターデモに遭遇したそうです。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191019-00000017-jij_afp-sctchトゥンベリさん、カナダ石油産地で環境保護訴え カウンターデモも
10/19(土) 12:04配信
AFP=時事
【AFP=時事】スウェーデンの高校生環境活動家グレタ・トゥンベリ(Greta Thunberg)は18日、石油資源が豊富なカナダ・アルバータ(Alberta)州で気候変動に抗議する人々と共にデモを行った。一方、石油業界で働く人々もカウンターデモを実施し、大型掘削装置のクラクションを鳴らした。
(中略)
しかし大勢がトゥンベリさんを支持する声を上げる一方、石油生産を支持するカウンターデモも行われ、有名なトゥンベリさんが話すのに合わせてクラクションを鳴らし、嫌悪感をあらわにした。
あるカウンターデモの参加者は、アルバータ州レッドディア(Red Deer)からエドモントンに向かう50台の車列に加わる前にカナダメディアのインタビューに応じ、「われわれだってもちろん、環境に配慮している。彼女たちが理解しなければならないのは、われわれが困窮しており、アルバータ州の雇用にも配慮しなければならないということだ」と訴えた。
(以下略)
■痛烈なカウンターデモを受けても変わりそうにないエココレ的エコロジー運動
あるカウンターデモ参加者の「
彼女たちが理解しなければならないのは、われわれが困窮しており、アルバータ州の雇用にも配慮しなければならないということだ」」という訴えは、9月25日づけ「
観念論としてのエコロジー運動」において私も述べたところです。
すなわち、人間存在は社会的・経済的・制度的に規定されたものであり、社会経済制度・構造を根本から変革しない限りは社会は変革されないのです。「環境負荷のある産業」を廃止するためには、その社会的・経済的・制度的条件を整備することが必要であり、それはすなわち、「環境負荷のある産業で生計を立てており、かつ、もはや他で潰しが効かない人々」を別産業に配置しなおすことが必要なのです。
啓蒙などでは社会は変革され得ません。人間行動をちょっと変えたくらいで社会が変革されると考えるのは、まさしく「観念論」と言わざるを得ないのです。「エココレ」の様相を呈しつつある最近のエコロジー運動がほぼ完全に忘却ないし無視している事実は、地球温暖化対策に消極的なトランプ米大統領がラストベルトの労働者の強い支持を背景に当選した事実を筆頭とする「環境負荷のある産業で生計を立てており、かつ、もはや他で潰しが効かない人々の存在」であると言えます(マルクス主義が影響力を持っていた時代であれば、こんな「観念論」と言う他ない粗雑な言説がここまで大手を振ることはなかったことでしょう・・・)。
【追記】2020年の大統領選挙でトランプ氏は敗北し、バイデン氏が大接戦の末に勝利しましたが、
選挙戦期間中、バイデン氏は環境問題に優先度高く取り組む姿勢を示しつつも環境政策とエネルギー政策との両立についてかなり「慎重」な物言いを余儀なくされました。たとえばフラッキング規制について候補者ディベートで少し踏み込んだ発言をしたところ大騒ぎになり、あわててバイデン陣営が火消しに走ったという一幕もありました。
2016年大統領選挙及び2020年大統領選挙は、依然として「環境負荷のある産業で生計を立てており、かつ、もはや他で潰しが効かない人々の存在」は事実として大きな要素であり続けていることを示しています。【追記おわり】
カナダの地で事実を告げられたグレタ・トゥンベリさんを筆頭とする「エココレ」ご一行。
気候変動は危機水準であり環境問題は喫緊の対策が必要であるからこそ、エコロジー運動は、観念論から卒業して新たな局面を切り拓く必要があると言えますが、たぶん彼・彼女らは何も感じていないことでしょう。環境保全という
「大義」に照らせば、失業など大したことのない「必要経費」くらいにしか考えていないことでしょうし、
「再就職あっせんは政府の仕事であり、エコロジー運動の仕事ではない」くらいのことは平気で言い出すでしょう。
必要なのは、環境保護の「活動家」ではなく環境保護の「政治家」です。要求を並べてアジる人材ではなく社会全体をトータルに見渡して調整する人材なのです。
■啓蒙主義的な個人主義的自由主義・リベラリズム的発想の悪しき影響
個人の主観的思考・願望や行動を過剰に重視する
啓蒙主義的な個人主義的自由主義・リベラリズム的発想の悪しき影響は、ここにも顕著にあらわれています。
すなわち、個人の主観的思考・願望や行動を過剰に重視する
啓蒙主義的な個人主義的自由主義・リベラリズムは、個人は、その価値観と意志に基づき行動を自由に決定し、そうした個人の志ある行動により社会全体が変革されていくという
主観観念論的社会観を提唱し、社会組織・社会システムが個々人に与える
客観的・構造的制約というものを軽視ないしは無視します。
換言すれば、啓蒙−決心−行動−成果が連続的で「個人が改心すれば社会が変わる」と言わんばかりのビジョンを示す啓蒙主義的な個人主義的自由主義・リベラリズムは、それゆえに、啓蒙と決心との間の葛藤、決心と行動との間にある客観的・構造的制約、行動と成果との間にある因果関係に対してまともに分析を加えようとしません。また、そうであるがために、問題の所在を「決心したか否か」や「関係者が善人であるか悪人であるか」に設定してしまいます。
しかし、前述のとおり、人間存在は社会的・経済的・制度的に規定されたものであり、社会経済制度・構造を根本から変革しない限りは社会は変革され得ず、人間行動をちょっと変えたくらいで社会が変革されると考えるのは、
まさしく「観念論」と言わざるを得ないのです。
【追記】記事末尾、「補論」において、世界観の問題として更に言及しています。記事末尾につづく。【追記おわり】
■「長期的視野と短期的対策に整合性を持たせる」という概念が存在しないエココレ的エコロジー運動
エコロジー運動における観念論が深刻化しています。ESG投資の世界で活動されている夫馬賢治氏が、「
グレタさんを批判している場合か」などとしつつ以下のような記事を発表しました。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191019-00067794-gendaibiz-intグレタさん演説のウラで、日本メディアが報じない「ヤバすぎる現実」
10/19(土) 8:01配信
現代ビジネス
グレタさんを批判している場合か
(中略)
サミットで、「あなた方は、その空虚なことばで私の子ども時代の夢を奪いました」「あなた方は私たちを裏切っています」とスピーチしたグレタさん。その結果、「環境問題だけでなく経済も大切なことを大人がグレタさんに教えてあげなければいけない」と諭す意見や、「東日本大震災で原子力発電が停止した日本では、なかなか難しい議論だ」という言論が日本には溢れかえるようになった。
このような話を日本国外のビジネスパーソンや投資家にしたら、「いつまで20年前と同じ話をしているのですが。もっとアップデートしてください」と言われるのがオチだろう。
では、今回の国連気候アクション・サミットでは何があったのか。見ていこう。
巨額マネーが動き出した
国連気候アクション・サミットは、一つの国際会議なのだが、今や主役は政府だけでなく、企業や投資家も同じように存在感を発揮している。今回も、資本主義のマネーを大きく動かしている機関投資家がまず大きな宣言を行った。
(中略)
銀行の「融資」が変わる
今回は投資家だけでなく、銀行からも巨大な宣言があった。9月23日には、銀行の融資が、環境や社会にどのような影響を与えているかを自主的に測定し公表していく「国連責任銀行原則」が発足。なんと世界から131の銀行が自主的に署名した。
(中略)
気候変動が「巨大な経営リスク」と化す
これらの銀行が目標達成するには基本的に2つしか道はなく、CO2排出量の多い融資先に削減するよう求めるか、CO2排出量の多い企業への融資をやめるかのいずれかとなる。
それに銀行が自らコミットしたのだ。
投資家も銀行も、気候変動が異常気象や海面上昇をもたらし、社会を揺るがすような危機を発生させると考えているからだ。
実際に主要国の金融当局は、気候変動がリーマン・ショック級、もしくはそれ以上の金融危機を起こすことを恐れ、金融当局による「業界団体」を発足している。
(中略)
置き去りの日本
(中略)
環境対策を進めれば、経済やわたしたちの生活が犠牲になると言われていた時代は、世界ではとっくに通りすぎている。
投資家も企業も政府も、経済成長とわたしたちの生活を守るために気候変動対策を進めている。さて、日本国民はいつ目覚めるのか。
夫馬 賢治
5月16日づけ「
短期的対策と長期的対策との混同は議論を噛み合わなくさせる――「松本走りをやめろ」は正しいけど正しくない」を筆頭に以前から折に触れて強調してきたことですが、
「大義」を掲げる人のタイムスパンは生活者のそれとはズレており、それゆえに現実的施策の提言に失敗しています。
大義を掲げる人は短くても10年単位タイムスパンで物事を考えがちですが、生活者は今日明日のタイムスパンで物事を考えます。経済学用語でいえば、大義を掲げる人は「長期」、生活者は「短期」で物事を考えます(経済学では、工場等の建設や解体によって生産能力――固定生産要素――に変動が生じるタイムスパンを「長期」、それ未満を「短期」とします)。
生身の人間にとっての「現実」とは「生活」のことを言います。生活に根差した事実のみが現実であり、そこから離れた一切の事項はすべて「観念」に過ぎません。
「
環境対策を進めれば、経済やわたしたちの生活が犠牲になると言われていた時代は、世界ではとっくに通りすぎている。投資家も企業も政府も、経済成長とわたしたちの生活を守るために気候変動対策を進めている」という夫馬氏ですが、
ここでいう気候変動対策は経済学用語における「長期」に属するものです。銀行の融資や投資家の投資は、生産設備増強のためのものですが、これはまさしく「長期」に属するものだからです。
これに対して「わたしたちの生活」は「短期」に属するものです。真の気候変動対策を行うのであれば、長期的視野と短期的対策に整合性を持たせて漸進的に対策を打ってゆく必要がありますが、上掲記事を読む限り、そしてまた、グレタ・トゥンベリさんのような極論を語る人を持ち上げている点から、
夫馬氏にはタイムスパンに関する意識が欠落していることが推察されます。生身の人間にとっての「現実」とは「生活」のことを言い、生活に根差した事実のみが現実であり、そこから離れた一切の事項はすべて「観念」に過ぎない以上は、長期的視野と短期的対策との整合性を確保していない
夫馬氏の言説は、観念論と言う他ありません。
これは結局、エココレ的エコロジー運動が、白か黒かでしか物事を考えられない二項対立・二元論的発想に基づいているからなのでしょう。「敵」または「味方」しか居ないから自陣営内での意見の相違・路線の相違を処理できず、また、タイムスパンに対する深い洞察もできないのでしょう。それゆえに、ハチャメチャな「味方」をも擁護してしまうのでしょう。
ちなみに、夫馬氏は「
グレタさんを批判している場合か」と言いますが、
「環境保全活動は、グレタ・トゥンベリさんやエココレとは全く無関係に進展している」というのが現実なのではないでしょうか。記事を読む限りそうとしか読み取れませんでした。投資家や銀行のアクションとグレタ・トゥンベリさんの活動との関連性が一切論じられていないのですから。
グレタさんを批判している場合か」という夫馬氏の台詞を踏まえて申せば、「グレタさんなんかを持ち上げている場合か」とお返ししたいと思います。
落ち着いて考えてみれば、環境保全の大切さを訴えることとグレタ・トゥンベリさんを担ぎ上げることとは何の関係もないことは分かりそうなものですが、彼女は今やエココレ的エコロジー運動のシンボルと化しています。このこともまた、エココレ的エコロジー運動が二項対立・二元論的発想に基づいていることを示唆するものです。
■総括――「短期」のタイムスパンにも配慮した環境保全・気候変動対策の必要性
世界は、グレタ・トゥンベリさんの活動とは無関係に環境保全・気候変動対策に動いています。
しかしこれらの活動はまだ、経済学用語における「長期」に関する活動に留まっています。
生活者のタイムスパン:今日明日に注目する「短期」のタイムスパンにも配慮した環境保全・気候変動対策が必要です。グレタ・トゥンベリさんを持ち上げている場合ではありません。
■補論(追記)
チュチェ108(2019)年12月31日づけ「
チュチェ108(2019)年を振り返る(4)――協同経営化・自主管理化を突破口とする社会主義建設の課題」において、この記事を振り返って踏まえながら、啓蒙主義的な個人主義的自由主義・リベラリズムの世界観の問題点への探究を深化させました。
リベラリズムとマルクス主義、チュチェ思想の相違点から、リベラリズムの不足点とチュチェ思想の優位性について考えた内容を補論として以下に追記します。
前述のとおり、リベラリズムは、人間が意識を変え行動を変えれば社会システムが変わると想定しています。これは
物事を個人レベルに還元し過ぎています。
人間が意識を変え行動を変えることで達成できるのは、あくまでも個人レベルの課題に留まるからです。脳味噌一個・腕二本・脚二本で出来得る仕事の範囲は限定的なのです。社会システムはもっと巨大で、社会的の課題は個人レベルの課題とは質的にまったく異なります。当然、解決方法も異なります。
リベラリズムはミクロレベルでの思考・方法論をマクロレベルに不適切に適用しているわけです。
これに対してマルクス主義は、客観的な前提条件としての社会システムが変われば人間の意識は変わると想定しています。「存在が意識を規定する」という教義に基づく見解ですが、
社会システムの変化がそのまま直ちに人間の思想意識を変化させるわけではありません。長期的な視点に立ったとしても、はっきりとしたことは言えません。
チュチェ思想は、人間を「自主性、創造性、意識性をもった社会的存在」として定義づけ、その上で「人間があらゆるものの主人でありすべてを決定する」という原理に基づいています。
チュチェ思想には人間の自主的思想意識を重視する点においてリベラリズムと共通する部分がありますが、チュチェ思想とリベラリズム・観念論との違いは、チュチェ思想は、「人間の集団的な創造能力」を重視していることにあるといえるでしょう。また、
チュチェ思想における「意識」の定義もまた独特であり、これもチュチェ思想とリベラリズム・観念論との違いであると言えます。
「人間の集団的な創造能力」を重視するチュチェ思想においては、啓蒙等によって単に「目覚めた」だけでは不足で、それを実現するための集団的創造能力が必要だとします。チュチェ思想が想定する
人間の集団的創造能力には、
たとえば生産力が挙げられます。生産力に注目している点は、リベラリズムにはなくマルクス主義的な観点ですが、
チュチェ思想における生産力は、自主的思想意識と同列に並ぶ「人間の能力」としている点においてマルクス主義とは大きく異なるところです。
また、チュチェ思想でいう「意識」は、世界を認識し改造するすべての活動が合理的に行われるように構想・計画する人間の性質、及び調整する人間の性質ですが、
その内実は、客観的対象の反映としての「知識」と、事物事象に対する利害関係を反映した「思想意識」であります。この定義は、明らかにマルクス主義を踏まえたものであります。
これに対してリベラリズムでいう「意識」は、必ずしもこのような定義にはなっていません。総じて観念論哲学者のそれに近かったり、酷い場合には哲学的裏付けがあるとは言い難いケースも見られ、結果的に一般的な意味・用法に留まっています。
しばしばマルクス主義者は、チュチェ思想が「意識」を重視するからといって「観念論だ」と断じがちですが、
チュチェ思想における意識の定義をご覧いただければ、唯物論的な議論の組み立て方であることがお分かりいただけるのではないかと思います。
このように、「人間の自主的思想意識」と「人間の集団的創造能力」をともに「人間の能力」の属性として同列的に位置付け理論的に連携させ、また、唯物論的な前提に立ちながらも「意識」の重要性を打ち出している点において、
チュチェ思想は、リベラリズムとマルクス主義との双方と共通点を持ちながらも独特な世界観を持っていると言えます。世界と自己の主人たらんとする自主的な思想意識を持ち、世界と自己を改造し得る創造的能力を持ち、自主的思想意識と創造的能力を合理的に統括制御する意識性を持つからこそ「人間があらゆるものの主人でありすべてを決定する」のです。
チュチェ思想の観点から
リベラリズムの不足を指摘すれば、
リベラリズムは、人間が「意識」を変え行動を変えることによって、具体的にどのような経路をたどって社会システムが変わってゆくのかが曖昧で描き切れていないと言えるのです。また、「意識」の哲学的突き詰めが甘い点も指摘しなければなりません。
意識の内実が何であるのか曖昧なまま「意識化」を訴えたところで、結局何をどうすればよいのか曖昧になってしまいます。
人間の集団的創造能力に関する詳しい説明を抜きに、そして、「意識」の哲学的位置づけを曖昧なままにしておきながら、「人間が意識を変え行動を変えれば社会システムが変わる」などとするから
リベラリズムは、根拠薄弱な観念論になってしまうのです。
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