2019年11月27日

裁判員制度開始10年と「上級国民」なる勘繰りについて

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191118-00010005-abema-soci
飯塚元院長へのネットの“上級国民”指摘に若新雄純氏「逮捕はされなかっただけ」
11/18(月) 12:20配信
AbemaTIMES


(中略)
 今回、飯塚元院長を逮捕しなかった理由について、捜査関係者は「『上級国民』とか一切関係ない。証拠隠滅も逃走の恐れもないので、逮捕の必要がないということ」としている。なお、警視庁は書類送検した飯塚元院長について、起訴を求める「厳重処分」の意見書をつけている。

 事故から約7カ月が経っての書類送検。慶応大学特任准教授などを務めるプロデューサーの若新雄純氏は「車で死亡事故を起こした場合でも、今回に限らず逮捕されないケースもあるようなので、警察のルールを破った行動ではないと思う。世間から見ても上級の人生を送っていたであろう人だからこそ、身分などが明らかで逮捕の際に逃亡の恐れがないと判断されることは自然だし、人物像によるそれなりの配慮があったとしても、ルールの範囲内だったと考えることはできる。最初に逮捕されなかったからと言って許されたわけではまったくなく、世間の注目もあるので、起訴されて重い罰が課される可能性は高いと思う。むしろ、逮捕されていなかったことでネットで騒がれて、顔写真や経歴などがさんざんさらされて、警察に逮捕はされなかったが、ネットや社会に逮捕されたようなもの」との見方を示す。


(以下略)
たいへん痛ましい事案であったことは大前提でありつつ、上掲記事にて論じられていることに尽きるというべきであります。

「上級国民」なる勘繰りが出てくる背景は分からないでもありません。身柄を拘束するか否かについては、絶対的かつ画一的な基準はなく、究極的に言ってしまえば、当局者の判断次第だからです。上掲記事コメ欄でも「「逃亡の恐れがない」人を過去、バンバン逮捕しているようですがね?」という意見が寄せられています。

しかしながら本来、特定個人の身柄を本人の意思に反して強制的に拘束することには正当な理由が必要であり、かつ必要最小限である必要があります。平たく言えば、「どうしても身柄を拘束しなければならないケース以外は、拘束すべきではない」わけです

その点、「「逃亡の恐れがない」人を過去、バンバン逮捕しているようですがね?」というのは確かに事実なのかもしれませんが、その理屈で行けば、問題視すべきは「本件事案において元院長が身柄を拘束されていないこと」ではなく「他案件において『逃亡の恐れがない』はずの人が身柄を拘束されていた」ことでありましょう

本件のような白昼堂々の事案だと、どうしても「推定有罪」で思考しがちなのは無理ないのかもしれません。「無実・無罪を前提として科刑要素を検討する」よりも「有罪を前提として減刑要素を検討する」という思考に偏りがちなのは無理ないのかもしれません。事故発生の事実を以って「まずは有罪」と仮定し、やむを得ぬ事情が明らかになった場合に限って「減刑要素」をして取り扱いたくなる気持ちは、分からないでもありません。

しかし、刑罰と言うものが対象者の一生を大きく左右する峻厳なものである点、そしてまた、「有罪事実がある」ことを立証するのに対して「有罪事実はない」ことを立証するのは論理的に困難(悪魔の証明)なので、いったんは「有罪事実はない」と仮置きした上で「有罪事実がある」と言える証拠が立証できた場合のみ「有罪」とすべきである点を踏まえれば、「無実・無罪を前提として科刑要素を検討する」という大原則に画一的に則るべきでありましょう。

「ケース・バイ・ケースで判断する」というのは、やめた方がよいでしょう。これは、とてつもない裁量権を担当の官僚に対して与えることになるからです。

ケース・バイ・ケースを無邪気に支持する言説はよく耳にしますが、すべての案件に対して担当の官僚が正確かつ適切に裁量し得ると本気で思っているのでしょうか? 信じがたいことです。

判断を誤ることは当然あるでしょう。しかし、「ケース・バイ・ケース」なのだから、何を以ってケース・バイ・ケースをケース・バイ・ケースに否定・無効化できるというのでしょうか? 日本でも「国民情緒法」の原理を導入しますか? 汚職事案だって「必ず」といって過言ではない確率で起こるでしょう。

たいへん痛ましい事案であったからこそ「光市事件・福岡三児飲酒死亡事故以来10年ぶり」といってよいくらいに世論が沸騰した本件ですが、10年前とはあまり世論状況は変わっていないようです。

上掲問題点以外にも、「厳罰要求署名」を以って起訴するか否かや起訴された場合の判決に影響を与えようとする大きな動きが見られます――組織力のある遺族・支援者がいれば厳罰が下り、被害者が天涯孤独で支援者がいなければ軽い刑でよいということ? 被害者や遺族、支援者の属性や人数によって刑の軽重に差があってよいのでしょうか? 処分や判決は、署名等とは一線を画すべきでしょう。

裁判員制度が始まったことで「一般庶民」も「刑事事件の裁き方」を知る必要が生じているわけですが、残念ながら、定着しているとは言い難いようです。
ラベル:法律・司法 社会
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2019年11月24日

ワタミ労組の奮闘は自主管理社会への第一歩

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191123-01621982-sspa-soci&p=1
ブラック企業の代名詞「ワタミ」がホワイト化…何があった!?
11/23(土) 8:53配信
週刊SPA!

 “ウソみたいだろ……、ワタミは今やホワイト企業になってるんだぜ……”。かつてブラック企業大賞だったワタミが、今や業界のホワイト企業として君臨している。新生ワタミの再起は本当なのか?

「ワタミ=ブラック」から背水の陣で汚名返上
 ブラック企業の代名詞とされてきた「ワタミ」。’08年に長時間労働による過労自殺が発生し、’13年には「365日24時間死ぬまで働け」と書かれた理念集が報道され、さらにブラック企業大賞を受賞。「ワタミ=ブラック企業」というイメージを決定づけた。

 だが、汚名返上とばかりに、この2〜3年ほどで労働環境は大幅に改善され、“ホワイト化”を目指した成果が出てきている。


(中略)

 対外的にインパクトが大きかったと新田氏が評価するのは、’16年に発足した労働組合だ。もともとワタミは「社員は家族であり同志」という企業理念に倣い、労組に否定的だった。

 産業別労働組合・UAゼンセンに加盟するワタミメンバーズアライアンス委員長である亀本伸彦氏は、労組が発足した頃をこう振り返る。

「ブラック批判で次々に社員が辞めていくのをつなぎとめたかった。同僚3人でUAゼンセンに相談するところから始め、労組を結成して経営者と話し合いの場をつくることができました」

 会社の体質も徐々に変化してきているという。

「それまでは従業員が会社に対して意見を言うという発想がありませんでした。それが、労働組合が生まれたことでヨコのつながりが強化され、“自分たちの会社のことは自分たちで決める”という考えが出てきた。会社の社風も以前ほどトップダウンではなくなったと思います」


(以下略)
ブラック企業の代表格たるワタミについては、「自主権の問題としての労働問題」というテーマを掲げてきた当ブログでも折に触れて取り上げてきました。チュチェ104(2015)年10月8日づけ「「日本の労働組合活動の復権は始まっている」のか?――労組活動は労働者階級の立場を逆に弱め得る」で論じたとおり、ワタミのホワイト化のキッカケは、「ワタミ=ブラック企業」という悪評が立ってしまい求人しても人材が集まらなくなったので仕方なく労働環境の改善に取り組むようになったことにあります。「嫌だから辞める」「無理だから辞める」という個々の労働者たちの選択が、ベクトルの合成の如く社会的なうねりに増幅されたのが真相です。

この記事では、労働市場の動向という大きな底流をスルーし、そうした流れがあってこそ結成されるに至ったワタミ労組を実態以上にクローズアップしている点、正確さに欠くのではないかと言わざるを得ません。「労組の奮闘に企業側が折れた」のではなく、「労働市場の動向こそが企業側をして労組との対話に乗り出させた」というのが実態です。

このことは、安易で闇雲な闘争至上主義な労働組合運動を戒め、労働者階級はマクロ的動向・労働市場の動向を見極めつつ運動を展開しなければならないという点において、ぜひとも明確にしなければならない事実です。

とはいえ、労働市場の動向という大きな底流を大前提とすれば、ワタミ労組の奮闘は賞賛に値するものです。とりわけ、“自分たちの会社のことは自分たちで決める”という考えが出てきた」というのは、すばらしいことです。

私は以前から、単なる要求実現型の労働運動・労働組合運動は、「お殿様への直訴」の域を脱しておらず、その行き着く先は「体制内化」に過ぎないとしてきました。一見して苛烈な運動が成果を上げれば上げるほど、資本家・経営者らと労働者との結びつきは逆に強化され、労使は利権共同体になってゆくのです。労働者階級は「無産階級」と呼ばれることもありますが、「無産」とは生産手段を私有していない立場を言います。生産手段を私有せず、よって資本家・経営者らの監督下で働いて生活費を稼がなければならない無産者たる労働者が、無産者としての立場のまま資本家・経営者らと結びつきを強化することは危険なことと言えます。

これに対して、チュチェ103(2014)年10月5日づけ「資本家の権力の源泉を踏まえた自主化闘争;自立的な自主化であるために」で述べたとおり、所有権・分配権・指揮命令権といった資本家・経営者らの「権力の源泉」に迫り、これらに対して労働者階級側が一定の影響力を保持することを期す運動は、その過程や結果において経済的利益を勝ち取ったとしても、単なる要求実現型の労働運動・労働組合運動とは一線を画するものであります。依然として生産手段の所有には至っておらずとも、権力にある程度食い込んでいる点において、もはや以前のような意味での無産者ではなくなっているからです。労働運動・労働組合運動は、こういう形の運動;企業の経営・管理への参加を志向する体制建設的な自主闘争・自主化闘争を展開すべきであります。

私は以前から、自主権の問題としての労働問題の最終的解決は、生産の自主管理化しかないと考えています。UAゼンセン指導下のワタミ労組にそこまで踏み込めるかは分かりません(UAゼンセン系じゃあ、あまり期待はできないように思いますw)が、一人ひとりの社員において、単なる経済主義的動機を越える「自分たちの会社のことは自分たちで決める」という思想意識が根付けば、「ワタミ労組」という現象形態ではないかも知れませんが、いずれ新しい段階が見えてくることでしょう。「“自分たちの会社のことは自分たちで決める”という考えが出てきた」という今回のワタミ労組の奮闘は、自主管理社会を主体的に準備するにあたっての第一歩となることでしょう。
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2019年11月23日

「個人の能力と努力に対する評価」が積極的に位置づけられ始めた朝鮮民主主義人民共和国――こんにちの社会主義企業責任管理制と集団主義的競争・社会主義的競争の定着・発展について

https://www.youtube.com/watch?v=WKecHIgCSb0
朝鮮中央テレビ11月19日放送『奇跡はここでも創造される』において、社会主義企業責任管理制について言及がありました。

■「単なるイデオロギー」の域を脱した政策であることが分かる
キム・ジョンウン委員長の経済政策・経済改革における核心である「社会主義企業責任管理制」は、数年前から「新年の辞」を筆頭として継続的に言及されてきました。今年はついに、「テアン(大安)の事業体系」と入れ替わる形で憲法にも謳われる国是にもなりましたが、この動画を見るに、社会主義企業責任管理制は単なる掛け声・スローガンではなく、幾らか「盛って」いる可能性はあるとはいえ、生産現場レベルで成果と言い得るものが上がりつつあるようです。

近頃共和国では、党機関紙『労働新聞』11月21日づけ「사회주의기업책임관리제의 실시와 국가적지도관리의 개선」(社会主義企業責任管理制の実施と国家的指導管理の改善)など、社会主義企業責任管理制について、単なるイデオロギー宣伝報道としてではなく実運用に関する報道という形で言及されることが増えてきています。社会主義企業責任管理制が「単なるイデオロギー」の域を脱した政策であることが分かります

農業分野においては社会主義企業責任管理制ではなく「農場責任管理制」と呼びますが、最近は、昔からある「分組」の下部組織として更に少人数からなるグループによる「圃田担当責任制」を導入しています。『労働新聞』10月25日づけ「분조관리제의 우월성을 높이 발양시키자」(分組管理制の優越性を高く発揮させよう)は、古くからの分組管理制と整合性を取りつつ、新しい圃田担当責任制を位置づけようとする姿勢を見て取れる(「分配から平均主義をなくさなければならない。分配における平均主義は、社会主義分配原則と関係がない」と言及しています)とともに、実運用上の課題について言及している点、これもまた「単なるイデオロギー」の域を脱した政策であることが分かります。

思えば、かなり強力な経済封鎖(巷で言う「経済制裁」のこと)の最中であっても共和国が自強力を以って耐えているのは、西側でさえも否定できない事実です。そこにはキム・ジョンウン委員長の経済政策・経済改革が存在していると言うべきでしょう。

■社会主義国たる共和国で「個人の能力と努力に対する評価」が積極的に位置づけられている
動画中で興味深いのは、社会主義企業責任管理制のもとで「集団主義精神の強化」がなされたコトと「人材登用、人材管理事業を重要視してい」るコトが結びついて言及されている・両立的に言及されている点です。「人材登用、人材管理事業を重要視」とは、動画中の説明によると、「自分が担当する工場の機械に精通し、生産実収益を高める人、次に、生産過程で発生する欠陥に、その時その時に対応できる人。こうした人々を工場の技能工として紹介し、こうした人々に対する評価事業をします」とのこと。つまり、「個人の能力と努力に対する評価」ということに他なりません。

日本の感覚では、とりたてて不思議に思うようなことではないでしょう。しかし、しばしば「悪平等主義」とも表現される社会主義の国たる共和国で、「個人の能力と努力に対する評価」が「集団主義精神の強化」すなわち、社会主義の核心的価値観を実現・強化することに寄与していると積極的に位置づけられ、評価されているわけです。これは、特筆すべきことだと言えます。

■「集団主義的競争・社会主義的競争」の定着・発展
このことは、当ブログでも以前から折に触れて指摘してきたことではありますが、「集団主義的競争・社会主義的競争」の定着・発展であると言えるでしょう。

集団主義的競争・社会主義的競争とは、端的に言って「互いに成功を学びあい助け合い切磋琢磨してゆくタイプの競争」のことです。

社会主義社会における伝統的難題だった「集団主義原則と競争原理の両立」というイデオロギー的問題について共和国は、朝鮮労働党第7回党大会を目前に控えたチュチェ105(2016)年3月、『労働新聞』社説において、互いに成功を学びあい助け合い切磋琢磨してゆくタイプの競争を社会主義的競争と位置づけ、弱肉強食の生存競争としての資本主義的競争との違いを定義することで解答を提示しました(当該社説の全文拙訳は、チュチェ105年6月6日づけ「朝鮮労働党第7回党大会は経済改革・競争改革を漸進的に継続すると暗に宣言した画期的大会」で掲載)。

集団主義的競争・社会主義的競争について私は、キム・ジョンウン委員長の経済政策・経済改革の「背骨」になるであろうと繰り返し述べ、実際にそれを示す具体的事象について折に触れてご紹介してきました。

今回ご紹介した動画についていえば、個人の能力および努力を「組織的・集団的成果に対する貢献度」という観点から評価している共和国の現状は、集団主義的競争・社会主義的競争が単なるスローガンに留まるものではなく実際に生産現場で運用され成果をあげつつあることを示していると言えるでしょう。

■その意義
チュチェ106(2017)年7月27日づけ記事」でも述べたとおり、中国共産党の「改革開放」と比較して共和国の集団主義的競争・社会主義的競争は、社会主義的原則により忠実でありながらも経済的実利をも追求している点において、より現実主義的な社会主義であると言えると考えているので、このように共和国の集団主義的競争・社会主義的競争が成果を挙げつつあることは、たいへん喜ばしいことと考えます。

また、チュチェ106(2017)年9月9日づけ「共和国における経済改革の進展――建国69年目のチャレンジの行方」でも述べたように、いまキム・ジョンウン委員長が先導する集団主義的競争・社会主義的競争は、キム・イルソン主席の時代、そして実はキム・ジョンイル総書記の時代でも模索されていた「社会主義における市場の活用」をイデオロギーの面から積極的に支えるものです。

■総括と展望
繰り返しになりますが、今回ご紹介した動画において言及されている人材登用・人材管理事業は、「個人の能力と努力に対する評価」と「集団主義原則」とが、単なる「上からのスローガン」ではなく生産現場レベルで両立しつつあることを示すものです。これはすなわち、集団主義的競争・社会主義的競争が現場レベルで定着・発展しているということです。これを社会主義の進化と言わずに何と言えるのでしょうか?

上掲過去ログでも述べたとおり、1960年代――ソ連や東欧諸国では新古典派一般均衡理論や線形計画法といった数理的技法を用いてまで経済の計画化に躍起になっていた時代・「科学的な客観法則」とやらに則った「科学的に正しい道筋」を上段から人民大衆に押し付けることが「社会主義経済」だと考えられていた時代――においてキム・イルソン主席は独自に、テアンの事業体系すなわち「中央集権的指導と地方の創意性、プロレタリアート独裁と大衆路線を正しく組み合わせた、最も威力あるシステム」を編み出しました。

これは、当時にあってはきわめて「異端」な方法論でした。しかし、こうした「異端」な方法論を敢えて執行すること、そして、物事の原点に立ち返って考察を深めることによって一見して「異端」なものを正統に位置づけなおしてしまうのが、共和国の伝統なのです。

そしてまた、これも以前から述べていることですが、共和国において政策は、新しいアイディアが実験的に実践されてから全面的に導入される例が多いという「科学的社会主義」を標榜する国にしては珍しい特徴があります。社会主義国は一般的に「急進的な設計主義的方法論による制度建設」の路線を歩むものですが、共和国では、意外なことに、「実験的・試行錯誤的方法論による漸進的な制度進化」がよく見られるのです。国家の根幹を成すチュチェ思想も形成史を振り返ればそうでした。

その伝統を引き継ぐキム・ジョンウン委員長におかれては、これからも、新しい方法論を慎重に試しながら社会主義そのものを進化させて行かれることでしょう。
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2019年11月19日

朝米交渉にキム・ヨンチョル朝鮮労働党副委員長が再登板!

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191119-00000009-cnippou-kr
北朝鮮の金英哲氏、米国に「敵対政策の完全撤回前には非核化交渉議論する余地もない」
11/19(火) 8:51配信
中央日報日本語版

北朝鮮の朝鮮アジア太平洋平和委員会の金英哲(キム・ヨンチョル)委員長が、米国に対して「対朝鮮(対北)敵対視政策を撤回する前は非核化交渉に対して夢も見てはならない」と主張した。

19日、朝鮮中央通信によると、金委員長は談話を通じて、米国の韓米合同空中訓練の延期決定と北朝鮮人権決議参加などを取り上げて「米国は何かにつけ非核化交渉に対して云々するが、朝鮮半島核問題の根源である米国の対朝鮮敵対視政策が完全かつ不可逆的に撤回される前には、それに対して議論する余地もない」とした。

続いて「非核化交渉の枠組み内で、朝米関係改善と平和体制樹立のための問題を一緒に議論するのではなく、朝米間で信頼構築が先行し、我々の安全と発展を阻害するあらゆる脅威がすっかり除去された後に、非核化問題を議論することができる」と強調した。

米国時間に合わせて早朝発表された今回の談話は、韓米軍当局の合同空中訓練延期決定の発表の後に出てきた北側の最初の反応だ。

金委員長は合同空中訓練の延期について「我々が米国に要求しているのは、南朝鮮との合同軍事演習から抜けるか、そうでなければ演習そのものを完全に中止しろということ」としながら、米国の決定を低く評価した。

特に、マーク・エスパー米国国防長官の「善意の措置」「相応の誠意」発言に対して強い不快感を表した。

金委員長は「合同軍事演習が延期になるからといって朝鮮半島の平和と安全が保障されるわけではなく、問題解決のための外交的努力に役立つわけでもない」と強調した。
(以下略)
共和国の以前からの主張の繰り返しですが、このことをキム・ヨンチョル朝鮮労働党副委員長が述べていることの「意味」をアメリカは推し量るべきでしょう。

先月末以来、にわかにキム・ヨンチョル副委員長が対米外交戦において再登板してきています。このことが意味することは、あまりにも明らかでしょう。
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2019年11月12日

グローバリズムとインターナショナリズムの区別がついていない「役に立つ馬鹿」が、いかに諸国民・諸民族の友好と団結を阻害しているか

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191108-00000016-jij-eurp
ナショナリズム再燃=憎悪で扇動、ヒトラーと共通―ベルサイユ条約100年の欧州
11/8(金) 7:10配信
時事通信

 【パリ時事】第1次世界大戦(1914〜18年)後、連合国と敗戦国ドイツとの間で締結されたベルサイユ条約は、多額の賠償金と領土割譲でドイツに屈辱を与え、ユダヤ人排斥を掲げるヒトラーを生んだ。


(中略)

 ◇恨みの感情利用
 歴史は繰り返すのか。ゲルマン民族の優位性を主張するヒトラーは、第1次大戦後の国内不況をユダヤ人に責任転嫁して第2次大戦へと突き進んだ。歴史家ジャンクロード・アゼラ氏はフランス紙ルモンドへの寄稿で「1世紀前は恨みの国民感情が民主主義にとって一番危険な毒だったが、状況は今でも変わらない」と警告した。

 現在、中東やアフリカからの大量の移民流入を背景に、欧州各地でナショナリズムが高まりを見せている。仏極右政党「国民連合(RN)」のルペン党首は最近、支持率でマクロン仏大統領と伯仲。10月のイタリア中部ウンブリア州の議会選では、反移民の右派政党「同盟」が連立与党に勝利した。9月に行われたドイツのザクセン、ブランデンブルク両州での州議会選でも、移民排斥を掲げる「ドイツのための選択肢」(AfD)が躍進した。

 いずれの勢力も「移民が雇用を奪い、治安を悪化させている」と主張し、憎悪をかき立てる。どこかヒトラーの手法と共通している点を指摘する識者は少なくない。

 ◇強要から対話へ
 教訓は生かされているだろうか。仏国際関係研究所(IFRI)のドミニク・ダビド顧問は、第2次大戦を防げなかったのは「ベルサイユ条約が交渉を経ずにドイツに強要されたからだ」と指摘する。中東での紛争や米中貿易戦争など、世界の対立の構造が複雑化する現在では、マクロン大統領が掲げる「多国間主義」が課題解決の鍵になると期待している。

(以下略)
「ゴドウィンの法則」または「ゴドウィンのヒトラー類比の法則」を思い起こさずにはいられない無茶な類推。Wikipediaによると「多くのニュースグループやインターネット上のフォーラムには、ヒトラーとの類比が行われた時点でそのスレッドは打ち切られ、それまでどんな議論が進行中であろうとその類比を持ち出した側が負けとされる伝統がある」とのことですが、その筋で行くと時事通信記者は、負けですねw

ヒトラーの経験を教訓とするのは大切なことですが、「絶対悪・ヒトラー」の例を当てはめることは、しばしばレッテルはりに直結すること。ヒトラー・ナチズムにおいて不可欠の思想的要素は、やはり「アーリア人種至上主義」ですが、現時点でのヨーロッパ諸国におけるナショナリズムの高まりは、あくまでも「生活防衛」であり人種主義的主張の高まりは見られません。その点、本件引用記事で展開されている論理では「ヒトラーと類比するには厳密さに欠ける」と言わざるを得ず、「レッテルはり」の誹りは免れ得ないでしょう。

コメ欄にとても良い意見が投稿されています。
こういう煽り方はよくないです。まるで、「グローバリズムが絶対善」のように思う人が出てしまいます。記者はそう思っているのでしょうけど。
ここは、なぜそうなったのかをしっかり考えるべきです。
金儲けのためのグローバリズムが、とんでもなく行き過ぎたことが最大の原因でしょう。
イチかゼロか、じゃなくてバランスの問題。
グローバリズムの行き過ぎを戻すために、ちょっとナショナリズムの方が力を入れている状態でしょう。
(以下略)
私も常々思っていることですが、国際資本・多国籍企業の儲けを実現するための方便に過ぎない「グローバリズム」と、諸国民・諸民族の友好と団結を保障する「インターナショナリズム」を混同し、「グローバリズム」の旗振り役を率先する、一種の「役に立つ馬鹿」が、とりわけ日本において、いかに多いことか・・・そして、こうした手合いは、「反クローバリズム=右翼」などと短絡的に判断し、たとえばフランスのガチ左翼が「反EU」の旗を掲げるや否や、己の思考的枠組みでは現実を処理しきれずに思考停止・システムフリーズに陥るわけです(チュチェ106・2017年5月14日づけ「日本左翼のEU崇拝・EU幻想を崩したフランス大統領選挙での左翼票動向」でも論じたとおりです)。

記事中では「マクロン大統領が掲げる「多国間主義」が課題解決の鍵になると期待している」などとされていますが、マクロン仏政権がいかなる階級・階層を支持基盤としており、マクロン大統領がいう「多国間主義」によって最も利益を得るのが誰であり、最もワリを食わされるのが誰であるのかを見つめなおす必要があるでしょう。まさか、マクロン政権が「全国民の利益」を代表しているなどと、中学生みたいなことは言わないことだけは固く信じています・・・建前と現実は異なるものです。

国際資本が己の利益のためにグローバリズムを煽り、「役に立つ馬鹿」がそれを更に声高に主張する・・・その影で進む生活者・労働者への搾取は深刻化し、それゆえに反グローバリズム運動が激化する・・・しかし、グローバリズムとインターナショナリズムの区別がついていない「役に立つ馬鹿」は、そうした抵抗運動を「右翼」呼ばわりし、国際資本以上に原理主義的にグローバリズム推進を主張する・・・そして、さらに生活者・労働者の搾取が激化する・・・

こう考えると、グローバリズムとインターナショナリズムの区別がついていない「役に立つ馬鹿」どもの罪深さは筆舌に尽くしがたいものがあると言えます。彼らこそが真の意味での諸国民・諸民族の友好と団結を阻害しているわけです。

なお、インターナショナリズムを考える際の必須文献として当ブログでは、以前からキム・ジョンイル総書記の労作「民族主義に対する正しい認識をもつために」をお勧めしています。インターナショナリズムとしての社会主義・共産主義と朝鮮民族主義との整合性確保を試みる当該労作は、かつては民族主義を敵視さえした社会主義・共産主義理論を根本的に転換させています。
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2019年11月07日

いくらストを打っても経営者が改心するはずがなく/「社会的責任」の独り歩きと拡大解釈=人治の余地

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191107-00010347-bengocom-soci
佐野SA、ふたたびストライキ決行へ「前回のストを正当な争議行為として認めて!」
11/7(木) 18:15配信
弁護士ドットコム

東北自動車道上り線の佐野サービスエリア(SA/栃木県佐野市)で11月8日、またもしてもストライキが決行される。

佐野SA上り線のレストランやフードコートを運営する「ケイセイ・フーズ」の労働組合(加藤正樹執行委員長)が11月7日、東京・霞が関の厚労省記者クラブで、記者会見を開いて明らかにした。


(中略)

労働組合によると、会社側は、前回のストライキを正当な争議行為として認めず、さらに加藤執行委員長らに莫大な損害賠償請求をにおわせているという。こうした状況を受けて、労働組合は11月3日、従業員が安心して働ける環境をもとめて、ストライキを通告していた。

今回のストライキは、佐野SA上り線のレストランエリアに限っており、フードコートは営業する。時間は、午前7時から1時間程度の予定という。加藤執行委員長はこの日の記者会見で「できるだけ、お客さんには迷惑をかけたくない」と話した。


(中略)


●NEXCO東日本に申し入れ

ケイセイ・フーズは、東北自動車道を運営するNEXCO東日本のグループ子会社と出店契約をむすんで、佐野SA上りを運営している。ところが、ことし7月、銀行の融資が凍結されるなど、経営上の問題が起きていた。

同社が8月13日、加藤執行委員長(役職は総務部長)の解雇を通告したことを受けて、労働組合は翌14日、ストライキに突入した。その後、経営陣は刷新されたが、労使交渉は決裂している。

労働組合によると、旧経営陣は株主として、現在も影響力を持ち続けているという。こうした状況のため、労働組合側は11月7日、NEXCO東日本にも「企業としての社会的責任」があるとして、ケイセイ・フーズ側に働きかけるよう申し入れた。

弁護士ドットコムニュース編集部

最終更新:11/7(木) 19:01
弁護士ドットコム
昨日づけ「やはり自主管理的経営を目指すべき」にて、「本件のように、巻き返しを虎視眈々と狙っており、かつ、実際に巻き返し的アクションを取ってきたような手合いに相手に尚も労働組合運動で対抗するのは、愚策というべき」と述べたばかりですが、結局、佐野SAのケイセイ・フーズ労働組合は再度のストライキに突入するようです。ただし、「午前7時から1時間程度」とのことで、あくまで象徴的なアクションに留まるもののようです。世論喚起を狙っているものと見るべきでしょう。

現代市場経済は「評判経済」なので、企業は、自社の悪評になることを避けるインセンティブに駆られる点、以前から述べているように、「象徴的スト」は戦術としてアリだとは思います。しかし、やはり、「この手の経営者が改心するはずがない」という点において、実力行使しようが世論喚起しようが、いつか必ずまた巻き返しを図るでしょう。あまり意味がないように思います。ケイセイ・フーズ労働組合の立場は支持しますが、本件についてストライキという戦法を取ることついては、支持しかねるところです。

他方、「できるだけ、お客さんには迷惑をかけたくない」という労組執行委員長の発言を見るに、勝手連的に盛り上がっている労組屋連中とは明確に一線を画しているようです。ストライキというと、かつての国鉄労働組合のように顧客への影響などほとんど考慮に入れず、それどころか「人質」扱いするようなケースもありましたが、「対顧客」という観点が労働組合運動の「現場」で確実に育っている証拠と言えそうです。この点は強く支持します。

ところで、労組活動家の今野晴貴氏がオーサーコメントを寄せています。
焦点はNEXCOグループの「社会的責任」だ。中小企業の労働事件では、元請会社や親会社といった関係企業の責任が問題になることは珍しいことではない。大手企業が下請会社や子会社を強く支配しているケースでは、事実上、親会社や元請会社が解決内容を決める権限を有しているからだ。
2011年に国連人権理事会で採択された「ビジネスと人権指導原則」によれば、企業は、供給業者等の取引先が雇用する労働者の人権侵害についても「負の影響を引き起こしたり、助長することを回避」し、「人権への負の影響を防止または軽減するように努める」ことが求められている(同原則13参照)。これに照らして考えれば、NEXCOグループには「企業としての社会的責任」があり、そうした責任を踏まえて対応することが求められているといってよいだろう。NEXCOに対応を求める世論は日に日に高まっている。

記事中でも「労働組合側は11月7日、NEXCO東日本にも「企業としての社会的責任」があるとして、ケイセイ・フーズ側に働きかけるよう申し入れた」というくだりがあります。

企業の社会的責任――言いたいことはよくわかります。取引先における労働者への人権侵害等について、見て見ぬふりすることは許されないでしょう。他方、労使紛争はあくまでも当該企業における問題であるという点、NEXCOのように紛争中企業とは商取引の関係しかないような企業がどのようにどこまで介入すべきかの実践的線引きが困難であるという点、そして、そもそも労使紛争は本来的には行政や司法の領分でありそれを差し置いて「NEXCOに対応を求める」というのは、踏むべきステップを飛ばしているのではないかという点など、疑問をつけようと思えば幾らでも付けられる主張であります。

『日刊スポーツ』は次のように報じています。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191107-11070558-nksports-soci
佐野SAレストラン再びスト、労組幹部が解雇迫られ
11/7(木) 18:09配信
日刊スポーツ


(中略)

また加藤氏は、東北道を管理、運営するNEXCO(ネクスコ)東日本と子会社のネクセリア東日本に対し同日、申し入れ書を提出したことも明らかにした。申し入れ書には

<1>ケイセイ・フーズに不当な主張を撤回するよう指導すること

<2>加藤氏への退職推奨を行わないことを確約させた上で、ケイセイ・フーズと再契約すること

<3>それが取り付けられない場合、同社との契約を解消した上で、新たに運営委託契約を結ぶ会社との間で、佐野SAで働く従業員全員の雇用を継承することを確認し契約内容とすること

との内容が記されていた。

加藤氏は「NEXCO東日本の社会的使命は、高速道路を安心、安定的に運営することだと私は思う」と述べた。その上でNEXCO東日本とネクセリア東日本に対し「今の佐野SAは、もう当事者同士で解決する状況は超えている。交渉相手として引きずり出したい。ただの大家と店子(たなこ)の関係ではないと、日常でも感じる」と、使用者としての対応を求める考えを強調した。【村上幸将】
ひとつずつ検討してみましょう。

<1>ケイセイ・フーズに不当な主張を撤回するよう指導すること」――それっぽく見えるものの、「不当な主張」とは具体的に何であるのか不明瞭です。行政や司法の見解に準拠するよう求めるのであれば理解可能ですが、いくら社会的大企業たるNEXCOといえども、このような「利害対立ド真ん中」たる論題について自主的な判断を求められるのは、「酷」を通り越して「筋違い」とさえ感じるところです。

<2>加藤氏への退職推奨を行わないことを確約させた上で、ケイセイ・フーズと再契約すること」――読点以前の前半部分については、上述と同じ理由からNEXCOが率先して立ち入るような内容ではないと考えられます。読点以降の後半部分については、出店にかかる契約は、NEXCOの総合的な経営判断であり、労使紛争だけを以って再契約を確約するのは筋違いな要求でしょう。そもそも本件騒動のおおもとは、ケイセイ・フーズ社の信用不安情報に基づく商品納入停滞。NEXCOの立場に立てば、「それで結局、業務継続能力はあるの?」と問いたいでしょう。

<3>それが取り付けられない場合、同社との契約を解消した上で、新たに運営委託契約を結ぶ会社との間で、佐野SAで働く従業員全員の雇用を継承することを確認し契約内容とすること」――これに至っては、一企業たるNEXCOとしては、いったい何の義理があってケイセイ・フーズ従業員の雇用を維持しなければならないのかという話になるでしょう。この条件を呑む委託先が現れなかったら? まさか直営だなんて、高速道路ユーザーにしてみれば勘弁していただきたい。修繕を要する部分はあちこちにあるわけです。以前にも論じましたが、雇用維持ないしは「ソーシャル・ブリッジ」構築は行政機関の責務であり、個別企業に中途半端に課すべきものではありません

「社会的責任」という、それっぽく聞こえるけれども内実としては曖昧な概念が独り歩きすることで、コジツケまがいの無茶な拡大解釈が生まれないか心配でなりません。

拡大解釈は、解釈する人の判断が重要な要素になります。法の運用から解釈を完全に排除することが不可能なのは事実ですが、法の解釈には「人治」の余地があることも事実です。解釈者が常に妥当に解釈してくれればよいものの、そうは問屋が卸さないもの。とりわけ、「正義」のニュアンスを含む語句であればあるほど危ういものです。内実が曖昧な概念を多用しすぎると、ダブル・スタンダードや辻褄の合わない判断の乱立等によって、法の運用が不安定化する危険があります。まず、実践的・具体的内容を詰めましょうよ。
posted by 管理者 at 20:35| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2019年11月06日

やはり自主管理的経営を目指すべき

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191030-00015077-bunshun-soci
【佐野SA再びスト突入か】新社長がちゃぶ台返しで総務部長に「自発的に辞めてくれ」3億円賠償も
10/30(水) 13:36配信
文春オンライン

 一件落着したと思われた東北道・佐野サービスエリア(SA)のスト騒動に、再び暗雲が立ち込めている。9月22日から現場復帰していた加藤正樹総務部長(45)ら従業員側が、ストライキに再突入するという“苦渋の選択”を余儀なくされようとしているのだ。

「この数週間、ずっと耐えてきました。復帰して、しばらくすると新社長から『あなたは辞めるべきだ』と言われるようになり、夏のストライキが違法だとして組合側に1日あたり800万円の支払いを求められています。さらに、会社から取引先への支払いも滞っていて、スト前の状況に逆戻りです。このまま働き続けることは出来ません。11月1日までに状況が改善されなければ、我々は再びストライキを実施すると決断をしました」(加藤氏)


(中略)

「福田新社長の良い評判を取引先からも聞いていましたし、会社側の弁護士から出されていた私への退職要求の書面についても、福田社長は『そんなこと、私が言うはずがないですよ』と言ってくれて、完全に安心してしまった。しかし、復帰に尽力してくれた仲介者が組合と会社の双方に都合が良い話していたこともあって、話がこじれていった。

 その結果、福田社長と具体的な労使の合意を進めようとすると、時間稼ぎをされているとしか思えない対応をされ、書面1枚交わせないまま1カ月が経過してしまいました。その頃には、従業員たちのいる前で『加藤の退職を要求する』と強い口調で言われるようになり、復帰当初の発言は嘘だったのだと疑わざるを得ない状況になってしまいました。


(以下略)
■案の定・・・
佐野サービスエリア(佐野SA)での労使紛争。お盆の時期を騒がせた一件は、ストライキの「成功」すなわち、経営者側の譲歩で一旦は収束しましたが、ホトボリが冷めた途端にこのザマです。

当ブログでは以前から、たとえばチュチェ106(2015)年10月8日づけ「「日本の労働組合活動の復権は始まっている」のか?――労組活動は労働者階級の立場を逆に弱め得る」を筆頭に、「ブルジョアが本心から改心するはずがなく巻き返しを虎視眈々と狙っている」とし、ストライキ等を主軸とする従来型の労働組合運動について警鐘を鳴らしてきました。

すなわち、ストライキ等によって経営者・資本家側に要求を呑ませた労働者たちは、その「戦果」を自らの生活費の不可欠な一部とするものですが、根っからの利己主義者たる経営者・資本家連中が本心から改心するはずがなく巻き返しを虎視眈々と狙っているものであり、労使対立のホトボリが冷めたり労働者たちが容易には生活水準を低下させられない状況に至ったりしてから「回収」に乗り出すであろうと述べてきました。今回の事象は、そうした私の警鐘の正しさを証明するものと自負します。

■では、労組が常設であればよかったのか?――無産階級の「無産」たる所以を見つめよ!
さて、本件佐野SA事案は、8月の「勝利」を経て一旦は労働組合を解散しました。今回の「紛争再燃」について巷の労組屋は、「このことは、労働組合を解散してしまい、経営者・資本家側に牽制球を投げる役割が消滅したせいだ」ということでしょう。しかしながら果たして、常設型の労組があり、何か経営・労務問題が生じるたびにストライキ等を打てば、本件「巻き返し」は防止できたのでしょうか?

労働者階級は「無産階級」とも呼ばれるものですが、無産階級の「無産」たる所以を思い起こすべきです。無産階級=労働者は生産手段を私有しておらず、それゆえに、生産手段を所有する資本家及びその指図を受けて経営活動に従事する経営者=使用者の指揮命令に服さざるを得ません。労働者−資本家対立が仮に長期持久戦になった場合、生産手段を私有する使用者は圧倒的に有利な立場であると言い得ます。資本家側よりも先に労働者側が「干からびてしまう」と見なすべきでしょう。

■やはり自主管理的経営を目指すべき
本件のように、巻き返しを虎視眈々と狙っており、かつ、実際に巻き返し的アクションを取ってきたような手合いに相手に尚も労働組合運動で対抗するのは、愚策というべきです。これを機に「ブルジョアが改心するなどあり得ない」という事実を直視し、奴らと袂を分かつ(辞める)か、あるいは、ブルジョアを追放して自主管理的経営に移行すべき、すくなくとも、所有権・分配権・指揮命令権といった資本家・経営者らの「権力の源泉」に迫り、これらに対して労働者階級側が一定の影響力を保持することを期すことで企業経営に対して労働者陣営の意見が一定程度反映される仕組みづくりを形成すべきでしょう。

チュチェの社会主義者としては、チュチェ107(2018)年1月30日づけ「大東建託労組員の夢物語的願望に付き合う日本共産党の著しい後退」、あるいは、チュチェ103(2014)10月5日「資本家の権力の源泉を踏まえた自主化闘争――自立的な自主化であるために」でも述べたとおり、自主管理的経営を達成できれば御の字、すくなくとも、企業経営に対して労働者陣営の意見が一定程度反映される仕組みづくりが重要だと考えます。間違っても、ブルジョアの再改心を期待すべきではありません。

■現時点では、労使は否が応でも「呉越同舟」
ちなみに・・・「労使紛争」すわなち企業内部における紛争からは一旦離れ、「生産者−消費者」点に目を移すと、コメ欄にもあるとおり、消費者=佐野SA利用者はウンザリしており、トラブル業者をテナントとして入居させているネクスコには「善処」を求めている姿が見受けられます。記事中、「会社側は、佐野SAを管轄するネクセリア東日本(東北道を管理・運営するNEXCO東日本のグループ会社)に対して“労使円満”であることを強調しているという。というのも、ケイセイ・フーズとネクセリア東日本の業務委託契約は来年3月で切れる。その契約更新の交渉リミットが迫り、現在両社は契約更新について交渉を続けている最中なのだという」というくだりがありますが、これは「対消費者関係において『呉越同舟』の関係にある本件労使は、諸共に撃沈される危険性がある」ということに他なりません

組合と会社の労使問題は何も解決していない状況なのに、福田社長はネクセリアに『全部解決して前向きに頑張っています』と、嘘の説明しながら契約交渉を進めている。このまま業務委託契約が更新された場合は、岸前社長の夫人ら旧経営陣が来年4月以降も残る可能性があり、従業員からすれば恐怖でしかありません」などとインタビューに答える労働者側・・・労働者・旧労働組合側が一方的に悪いというわけでは、もちろんありませんが、しかし、労使対立している場合でもないと言えるでしょう。

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11月7日づけ「いくらストを打っても経営者が改心するはずがなく/「社会的責任」の独り歩きと拡大解釈=人治の余地
posted by 管理者 at 22:19| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする