飯塚元院長へのネットの“上級国民”指摘に若新雄純氏「逮捕はされなかっただけ」たいへん痛ましい事案であったことは大前提でありつつ、上掲記事にて論じられていることに尽きるというべきであります。
11/18(月) 12:20配信
AbemaTIMES
(中略)
今回、飯塚元院長を逮捕しなかった理由について、捜査関係者は「『上級国民』とか一切関係ない。証拠隠滅も逃走の恐れもないので、逮捕の必要がないということ」としている。なお、警視庁は書類送検した飯塚元院長について、起訴を求める「厳重処分」の意見書をつけている。
事故から約7カ月が経っての書類送検。慶応大学特任准教授などを務めるプロデューサーの若新雄純氏は「車で死亡事故を起こした場合でも、今回に限らず逮捕されないケースもあるようなので、警察のルールを破った行動ではないと思う。世間から見ても上級の人生を送っていたであろう人だからこそ、身分などが明らかで逮捕の際に逃亡の恐れがないと判断されることは自然だし、人物像によるそれなりの配慮があったとしても、ルールの範囲内だったと考えることはできる。最初に逮捕されなかったからと言って許されたわけではまったくなく、世間の注目もあるので、起訴されて重い罰が課される可能性は高いと思う。むしろ、逮捕されていなかったことでネットで騒がれて、顔写真や経歴などがさんざんさらされて、警察に逮捕はされなかったが、ネットや社会に逮捕されたようなもの」との見方を示す。
(以下略)
「上級国民」なる勘繰りが出てくる背景は分からないでもありません。身柄を拘束するか否かについては、絶対的かつ画一的な基準はなく、究極的に言ってしまえば、当局者の判断次第だからです。上掲記事コメ欄でも「「逃亡の恐れがない」人を過去、バンバン逮捕しているようですがね?」という意見が寄せられています。
しかしながら本来、特定個人の身柄を本人の意思に反して強制的に拘束することには正当な理由が必要であり、かつ必要最小限である必要があります。平たく言えば、「どうしても身柄を拘束しなければならないケース以外は、拘束すべきではない」わけです。
その点、「「逃亡の恐れがない」人を過去、バンバン逮捕しているようですがね?」というのは確かに事実なのかもしれませんが、その理屈で行けば、問題視すべきは「本件事案において元院長が身柄を拘束されていないこと」ではなく「他案件において『逃亡の恐れがない』はずの人が身柄を拘束されていた」ことでありましょう。
本件のような白昼堂々の事案だと、どうしても「推定有罪」で思考しがちなのは無理ないのかもしれません。「無実・無罪を前提として科刑要素を検討する」よりも「有罪を前提として減刑要素を検討する」という思考に偏りがちなのは無理ないのかもしれません。事故発生の事実を以って「まずは有罪」と仮定し、やむを得ぬ事情が明らかになった場合に限って「減刑要素」をして取り扱いたくなる気持ちは、分からないでもありません。
しかし、刑罰と言うものが対象者の一生を大きく左右する峻厳なものである点、そしてまた、「有罪事実がある」ことを立証するのに対して「有罪事実はない」ことを立証するのは論理的に困難(悪魔の証明)なので、いったんは「有罪事実はない」と仮置きした上で「有罪事実がある」と言える証拠が立証できた場合のみ「有罪」とすべきである点を踏まえれば、「無実・無罪を前提として科刑要素を検討する」という大原則に画一的に則るべきでありましょう。
「ケース・バイ・ケースで判断する」というのは、やめた方がよいでしょう。これは、とてつもない裁量権を担当の官僚に対して与えることになるからです。
ケース・バイ・ケースを無邪気に支持する言説はよく耳にしますが、すべての案件に対して担当の官僚が正確かつ適切に裁量し得ると本気で思っているのでしょうか? 信じがたいことです。
判断を誤ることは当然あるでしょう。しかし、「ケース・バイ・ケース」なのだから、何を以ってケース・バイ・ケースをケース・バイ・ケースに否定・無効化できるというのでしょうか? 日本でも「国民情緒法」の原理を導入しますか? 汚職事案だって「必ず」といって過言ではない確率で起こるでしょう。
たいへん痛ましい事案であったからこそ「光市事件・福岡三児飲酒死亡事故以来10年ぶり」といってよいくらいに世論が沸騰した本件ですが、10年前とはあまり世論状況は変わっていないようです。
上掲問題点以外にも、「厳罰要求署名」を以って起訴するか否かや起訴された場合の判決に影響を与えようとする大きな動きが見られます――組織力のある遺族・支援者がいれば厳罰が下り、被害者が天涯孤独で支援者がいなければ軽い刑でよいということ? 被害者や遺族、支援者の属性や人数によって刑の軽重に差があってよいのでしょうか? 処分や判決は、署名等とは一線を画すべきでしょう。
裁判員制度が始まったことで「一般庶民」も「刑事事件の裁き方」を知る必要が生じているわけですが、残念ながら、定着しているとは言い難いようです。