2020年02月25日

伝染病に「自己責任」論は馴染むか?:「社会」意識の崩壊

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200221-02210071-sph-soci
川淵三郎氏、新型コロナウイルス感染拡大でイベント自粛に疑問…「中止する…という考え方は、もっともだけど安易すぎない?」
2/21(金) 10:32配信
スポーツ報知

(中略)

 新型コロナウイルスによる感染拡大で各地でイベントが自粛されていることにツイッターで「色々考えたんだけど…感染を防ぐために人との接触をできるだけ避ける。そのためにイベントの開催は中止する…という考え方はもっともだけど安易すぎない?」と指摘した。

 その上で「満員の通勤電車をどう考えるの?生活のために自己責任で通勤するのでは?イベントも自己責任で見に行きたい人は行けば良いという事にならない?」と疑問を投げかけていた。
誤った推論、かつ、ゼロか100でしか物事を考えられない人の典型と言わざるを得ませんね。

事態は個人的な風邪症状の問題ではなく、公衆衛生上の深刻な伝染病(感染症)です。「イベントも自己責任で見に行きたい人は行けば良い」とはならないでしょう。どのような経路で伝染してゆくのかは依然として不明瞭ですが、人から人への伝染が連鎖しているようです。そうなれば、もはや「自己責任」の問題では済みません。「自己責任」で腹を括ったイベント参加者にだけ伝染するわけではないのです。公衆衛生の問題になります。他人様・世間様のご迷惑になるのです。

個人レベルで済まない問題を「自己責任」に位置付けようとする言説が飛び出してくる現状。もともと稚拙で粗雑、低レベルでくっだらない「自己責任」論が幅を利かせており、また、自由と放蕩を履き違え、社会的・集団的視点が欠落していた「自由」主義・「個人」主義の日本社会ですが、いよいよ「社会とは何か」という基本的な認識・理解さえもが崩壊していることを端的に示していると言えるでしょう。

また、「満員の通勤電車」と「イベント」は、質的にまったく異なるものです。「満員の通勤電車」は、そりゃ避けられるなら避けた方がよいでしょうが、なかなかそうは行かないのが現実です。「出勤しない」という選択肢は現実的にはありません。しかし、イベントは「避けられる」ものです。いままさに「不要不急の外出は避けてください」という呼びかけがなされているとおりです。

満員電車での出勤を「生活のために自己責任で」というのは、そもそもおかしな言い分ではあります(会社側が時差出勤・在宅勤務を認めないから、仕方なく満員電車で通勤しているわけです)が、百歩譲ってそれが正しいとしたとしても、「満員の通勤電車がいいなら、イベントもいいはずだ」というのは、質的に異なるものを同列に配置している点において、理屈として成り立っていません。こういうのを「屁理屈」というのです。
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2020年02月22日

為替・派生商品の研究を始めた共和国:まだよくわからないが注視すべき

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200219-00000026-cnippou-kr
北朝鮮が為替・派生商品の研究を始めた…改革・開放の準備?
2/19(水) 10:40配信

北朝鮮が金正恩(キム・ジョンウン)国務委員長の執権以降、資本主義体制を批判するよりも生産性の向上や知識、技術などの経済政策を強調しているという分析が出てきた。北朝鮮の経済論文に含まれたキーワードを分析した結果だ。外部的に自強第一主義、国産化奨励など閉鎖・孤立主義を前に出しているが、内部的には改革と開放を準備しているとみられる。

韓国銀行(韓銀)が19日、報告書「北の『経済研究』で分析した経済政策の変化:テキストマイニング接近法」を出した。北朝鮮の代表的な経済関連文献『経済研究』に出てくる言葉と使用頻度を分析した内容だ。韓銀展望模型チームのキム・スヒョン課長は「1980年代から2018年までの論文の題目とキーワードをコンピューターアルゴリズムを活用するテキストマイニング技法で分析した」とし「統治者別、時期別、経済環境の変化による経済戦略と政策の変化を追跡した」と述べた。


(中略)

金正恩時代(2012−18年)には資本主義体制を批判する論文が大幅に減り、生産・知識・技術・貨幣・貿易などの頻度が高まった。キム課長は「知識強国、技術強国などの言葉が登場し、経済政策が成長と実利を強調する方向に変っているのが分かる」と話した。

「海外の銀行制度」「貨幣の流通と為替」「貿易理論」「国際化時代の競争力」など海外先進事例から成長動力の拡充や発展を模索するという意図ともみられる。理念中心の叙述から抜け出し、計量経済モデルを活用して多様なテーマを扱い始めたのも興味深い。

韓国開発研究院(KDI)国際政策大学院のソン・ウク教授は「過去の閉鎖主義時代には海外書籍などに依存した論文は事大主義だと批判されたが、金正恩時代には派生商品リスク回避や為替レート予測のように具体的な知識や技法が要求されるテーマを扱っている」と説明した。


最終更新:2/19(水) 10:40
記事がいうように、国内の金融制度改革を目指しているのかもしれないし、あるいは逆に、国際市場環境において国家として生き延びるための対外的な金融戦略の策定を目指しており「外に対しては資本主義化するが、内に対しては社会主義を守り抜く」のかもしれません。

これだけではまだ何とも言えませんが、興味深い研究結果ではあります。注視すべきでしょう。状況が分かってくるとすれば、「集団主義的競争」や「社会主義商業の復元」と同様、それを我が物としたことを宣言していると言い得る論説やスローガンが出てきたときでしょう。
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2020年02月20日

新型肺炎を巡る「不安」の正体は、科学的見地が軽視されているためではなく、科学「者」が軽視されているため

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200220-00070523-gendaibiz-soci
新型肺炎「不安の正体」なぜ人々はパニックに陥っているのか
2/20(木) 6:01配信
現代ビジネス

(中略)
 たしかに得体の知れない新型ウィルスは不気味ではあるが、専門家の情報にもかかわらず、なぜ人々はこんなにも不安になっているのか。

 新しいウィルスであり、確固たる予防(ワクチン)や治療(治療薬)がないとはいっても、通常の風邪であっても、対症療法しかなく根本的な治療薬がないのは同じことだ。死亡率だってインフルエンザよりずっと低い。

 つまり、人々が不安になっているのは、合理的、科学的な理由からではない。現実を見ないで、いたずらに不安を高めているように思われる。そもそも不安の定義は「漠然とした恐怖の感情」のことであり、対象が何かよくわからないがその感情が抑えられないようなものをいう。

 だとすると、残念ながら合理的な説明や科学的なデータでは、なかなかそれを抑えることができないということになる。そして、一旦不安が感染してしまうと、人は往々にして非合理的な行動を取ってしまうようになる。

不安と人間の行動
 不安に苛まれたとき、それを収めるために何かの対処行動を取ること自体は、正常な反応である。

 しかし、その際にややもすると、人間はコストの小さい行動を取る傾向がある。この場合のコストとは、心理的、行動的、経済的なさまざまなコストが含まれる。そして、それが必ずしも「正しい対処」ではないことが多い。

(中略)
 マスクの装着にも同じことが言える。マスクを装着するのは、比較的コストが小さい対処である(入手しにくさや価格の高騰で難しくなりつつあるが)。

 しかし、これも繰り返し専門家が指摘しているように、マスクはウィルス感染予防策としては、それほど効果があるものではない。

(中略)
 さらに、感染症への免疫を高めるためには、十分な睡眠を取り、栄養に気を配り、適度な運動をすることが必須である。言うまでもなく、喫煙も大きなリスクである。

 とはいえ、これらの行動が十分に実行されているかというと甚だ疑問である。これらは一朝一夕に効果を発揮することではないかもしれないが、根本的に非常に重要な対策であることは間違いない。

 このように、世の中はマスクという手軽な対処だけで安心し、これらのコストが高い面倒な対策が軽視されていると言わざるを得ない。

もう1つの危険
 さらにここで注意すべき危険な兆候がある。それは原因帰属の誤りによる危険である。原因帰属とは、何らかの事象の原因をどこに求めるかという認知的プロセスのことである。

(中略)
 同じようなことが、新型コロナウィルスパニックのなかでも起こってはいないだろうか。人は不安になったとき、そしてその原因がわからなかったり、どこにももっていきようがなかったりすると、「共通の敵」を作ってそれを攻撃することで不安を鎮めようとする。

 ネット上で起こっている「中国叩き」や「陰謀論」がその最たるものである。もちろん、この新型肺炎は中国発のものであることは厳然たる事実だ。しかし、中国人全部を締め出したり、中国人全員を危険視することは、危険な差別意識につながる。

(以下略)
原田 隆之(筑波大学教授)
新型肺炎を巡る「不安」の正体を探る記事。筆者の原田隆之・筑波大教授(心理学)は、記事冒頭で「専門家の情報にもかかわらず、なぜ人々はこんなにも不安になっているのか」と問いを設定し、それに対して理路整然と分析しています。ある程度説得力のある内容だとは思いますが、原田教授自身が設定した問いに照らせばこそ、ひとつ重大な見落とし・欠陥があると言わざるを得ず、「いかにも大学教授的だな」という感想を禁じ得ません。

専門家の情報にもかかわらず、なぜ人々はこんなにも不安になっているのか」という問いは、専門家と一般人との間での知識・理解の齟齬が生じている原因、コミュニケーションが不完全になっている原因を問うことと等価であると言ってよいでしょう。専門家が科学的見地に則って正しく事態を分析し、それを広報しているにも関わらず、一般人がそれに耳を傾けようとしないわけであり、コミュニケーションが成り立っていないということに他なりません

このことを分析するにあたっては、情報の「受け手」である一般人の心理状況等を分析することはもちろん大切なことではありますが、「コミュニケーションが成り立っていない」という点においては、それだけでは中途半端・不十分であり、情報の「送り手」である専門家の側についても分析が必要があるはずです。しかし、原田教授の分析は、一般人の非合理性に関する分析に留まっています

いや、もっと言ってしまえば、情報の「受け手」である一般人の心理状況さえも十分に分析しているとは言い難いでしょう。新型肺炎に不安を覚えている人の具体的で典型的な言説を取り上げるわけでもなく、記事の大部分が心理学の概念説明に留まっており、現実に起こっている現象がまるで「添え物」のように扱われています。現実の出来事を概念を使って説明しているというよりも、概念の実例として現実の出来事を紹介しているというべき内容です。これでは「教科書」です。

世論、すなわち人間の言動を分析しているにもかかわらず、当の人間が何を思っているのかに迫ろうとしておらず、それこそ動植物や微生物を離れたところから双眼鏡または顕微鏡で観察しているが如き筆致なのです。原田教授が自席に腰を掛けたまま、相手側の視点に合わせてみることもせずに自分の視点だけで記事を書きあげたことが透けて見えるようです。

当該記事のコメ欄を見るだけでも少しは世論調査になるでしょう。
未知のものに不安を感じるのは人として当然の事だと思います。
二転三転する専門家やWHOの発表を聞いて安心できる要素があるのなら教えて頂きたい。
別の記事になりますが、新型コロナに怯える中国での生活、一変した上海の今のコメ欄にも同様の書き込みがあります。
もしも家族が感染したらと思うと気が気ではない。


この一言に尽きる。日本のワイドショーでは、男性の専門家たちがこぞって心配しすぎるなと言っているが、本人や家族が感染しても同じことを言うのだろうか。
未知のウィルスに専門家もクソもないわけで、信用してはいけない。
コメ欄に寄せられているこうした無名の一般人の意見を素直に読み解けば、一般人が科学者としての専門家の科学的な指摘に耳を貸さないのは、コストが高い面倒な対策が軽視されている」とか「原因帰属の誤り」、つまり、科学的見地が軽視されているためではなく、科学「者」たる専門家が軽視されているためと言えるでしょう。要するに、大多数の科学者が言うことが信用できないわけです。

このことは、昨年10月12日づけ「「地球平面説」支持者が増えている事実が示すこと」でも論じました。当該記事は、「地球平面説」なる荒唐無稽な前近代的世界観を本気で信じている人が無視できない数存在している根本を問う内容ですが、その中で私は、「人々を説得する際、エビデンスや事実だけでは十分ではない(中略)近代科学を広める人々が「論理」に頼りすぎて「信頼」と「共感」のコミュニケーションに失敗した可能性を指摘している」という引用元記事のくだりを出発点として、科学者においては理論構築の自己満足に浸るだけでは不十分でありそれを広く人々に浸透・納得させて初めて科学者たり得るというべきなので、理論構築には論理的厳密さは最重要ではあるものの、科学的な知識や理解を広める過程は、自分以外の他人との交流・意見交換を伴う点において「対人活動」であるとも言えるとしました。

科学者は、証拠を論理的に説明すればよいというわけではないのです。科学者同士であればそれでも通じるのかも知れませんが、一般人に知識を浸透させるためには、それだけでは不足なのです。広報活動を対人活動として捉え、その特性に合わせた「伝え方」に注意する必要があるのです。「伝え方」上手のエセ科学が、しばしば本家科学を上回る浸透っぷりを見せるのも、本家科学の足りないところを示しているといえるでしょう。

その観点から当該過去ログで私は、地球平面説が一定程度広まってしまっている現状は、地球平面説信奉者の主張に耳を傾ければこそ科学者の対人活動が不足していたことを示しているのではないか、「科学への不信感」というよりも「科学『者』への不信感」が、荒唐無稽な主張に「説得力」を与えてしまったのではないかとしました。その上で、科学的主張を浸透させるためにはまず、科学『者』が信頼されるようになるべきとしました。17世紀が「科学革命」の時代なら、21世紀は「科学者革命」の時代というべきなのです。決して、一般人側の知識不足・勉強不足等にのみ帰結させてはならないのです。

このように考えると、上掲引用記事における原田教授の分析が如何に「中途半端」なのかが見えてくるのではないかと思います。

以下のやりとりも興味深い。
情報が少ないから警戒するのは当たり前。
パニックを避けたいなら、ウイルスに関しての正確な情報をどんどん出せば良いだろ。
一度免疫が出来れば、後は大丈夫なのかを知りたいわ。

情報はどんどん出てきてます。
ただ、判明した順に出てくるのです、当然ですが。だから小出しにしているように聞こえてしまう。
学者はわからないことはわからないと言ってしまいます。当然なのです。
一般人が欲しい情報というのは結局結論のみなのです。そんなの終わるまで出るわけないのです。

一般人が求めている情報と専門家が発信している情報に「需給のズレ」があるので、需要サイドとしての一般人が不信感を持つということです。歯切れのよい結論を欲している人に対して、よく言えば「理路整然」と、悪く言えば「いつまでも結論が出てこないダラダラ長い話」を展開すれば、反発や不信感が募るのは自然な流れでしょう。

さて、「専門家の情報にもかかわらず、なぜ人々はこんなにも不安になっているのか」という問いに私なりに答えを出すとすれば、科学者としての専門家と一般人の間でのコミュニケーションが成り立っていない点において、その原因を分析するにあたっては、情報の「受け手」である一般人の心理状況等と情報の「送り手」である専門家の側の双方について分析する必要があるが、後者にスポットライトをあてるならば、科学的見地が軽視されているのではなく、科学「者」たる専門家が軽視されているがためだと考えます。そしてその原因は、(1)科学者の対人活動としての広報の不足及び、(2)一般人が求めていることに対して科学者が正面から応答しきれていないためであると考えます。
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2020年02月19日

ブルジョア的”SDGs”ゴッコ・「ええかっこしい」としての「レジ袋有料」

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200219-00000084-asahi-bus_all
ファミマ、7月からレジ袋有料に コンビニ大手で初
2/19(水) 21:52配信
朝日新聞デジタル

ファミリーマートは7月からレジ袋を有料化する。コンビニ大手3社で有料化の方針を打ち出したのは初めてで、19日発表した。値段は今後決めるという。

 小売店で7月からプラ製レジ袋の有料化が義務づけられるのに合わせ、ファミマはレジ袋をバイオマス素材を3割配合したものに切り替える。25%以上バイオマス素材を配合すれば例外として無料でもいいが、ファミマは「プラスチック削減につながる」として有料化に踏み切る。
コメ欄。
環境に配慮した!と言えば響きはいいけど、それなら、プラバッグより改善するところがもっとあると思うけど...
レジ袋を有料にする前に箸、スプーン、フォーク、ストローなどを有料化にするべき
ブルジョア的"SDGs"ゴッコ、早くも見透かされるの巻w草不可避ww

「資本主義には自浄能力はない」とはまでは言いませんが、まさか「ええかっこしい」を本気にする人は、少なくとも当ブログ読者の諸氏には、いらっしゃらないと思っています。
ラベル:社会
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2020年02月17日

公衆衛生の検討から始まる集団主義的観点の復権

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200215-00000004-pseven-soci&p=2
新型コロナ、感染爆発Xデーと「隔離」「解放」の究極選択
2/15(土) 7:00配信NEWS ポストセブン


(中略)

「個人的な意見ですが、患者を診る医師の立場から言えば、致死率が1%を大きく割り込む病気を理由に疑わしいぐらいの人々を隔離するのは、隔離された人々への負担が重すぎます。一方で、流行を防止する公衆衛生の立場からは、仮に致死率が0.1%でも数十万人の患者が出れば数百人が死亡することになり、発症前の隔離もやむを得ないかもしれません。この2つの考え方のバランスを取ることが難しい」

 乗客からすれば、早く下船して日常生活を取り戻したいだろうが、それによって、多くの国民の日常生活が害される恐れがある。個々人の自由を尊重すれば、その自由を成り立たせている社会基盤が崩れかねない。


(以下略)
乗客からすれば、早く下船して日常生活を取り戻したいだろうが、それによって、多くの国民の日常生活が害される恐れがある。個々人の自由を尊重すれば、その自由を成り立たせている社会基盤が崩れかねない」――われわれチュチェ思想派としては常に念頭においている「個人と集団の利害を両立させる集団主義的調整」の最たるものですが、ブルジョア「自由」主義を標榜している日本言論空間で目にするとは・・・

仮に致死率が0.1%でも数十万人の患者が出れば数百人が死亡することになり、発症前の隔離もやむを得ない」というのは、「個人の自由」を優先させることこそが正義とされがちな昨今のブルジョア「自由」主義社会において、珍しく社会を優先させていると言えます。

今回の新型コロナウィルスの大流行は、現代社会の在り方を考えるにはとても多くの教訓を残すことでしょう。

感染経路や予防方法、治療方法といった医学的見地がほとんど解明されていない現状において、未知の新型伝染病の前では、人々の社会的地位:貧富貴賤はほとんど意味をなさず、その意味では「人間はみな平等」です。また、未知の新型伝染病であるからこそ、発症した患者の「自己責任」を追及することは困難であり、「自己責任」論者は珍しく沈黙を守っています。他方、さすがの人権派も強い感染力をもつ未知の新型伝染病を前にしては、いつものようには「個人の自由」を語ろうとはせず、基本的に公衆衛生の立場を認めながらも、その「行き過ぎ」を注視する程度の姿勢を守っています。加えて、ウィルスは人間どころか動物でもなければ生物でさえない点において「話し合い」など、あり得るはずもないので、「話し合いでの解決を」なる優等生的無能発言は見られません

「貧富貴賤を問わず『平等に伝染』してゆく『未知のウィルス』」であるからこそ、今回の新型コロナウィルスの大流行は、本当の意味での「全社会的闘争課題」になり得たと言えるでしょう。かくして昨今ではとても珍しいことです。ノイズ的要素がもともと少なく「クリア」な事案であるために、検討すべき論点が明白なのです。余計なことを考えずに患者を診る医師の立場から言えば、致死率が1%を大きく割り込む病気を理由に疑わしいぐらいの人々を隔離するのは、隔離された人々への負担が重すぎます。一方で、流行を防止する公衆衛生の立場からは、仮に致死率が0.1%でも数十万人の患者が出れば数百人が死亡することになり、発症前の隔離もやむを得ないかもしれません。この2つの考え方のバランスを取ることが難しい」という一点に絞って、「個人と集団の利害を両立させる集団主義的調整」の問題として考えることができるのです。

「個人と集団の利害を両立させる集団主義的調整」は、ある場面においては個人の利益を優先させ、別の場面では社会の利益を優先させます。そのときと場合によってどちらを優先させるのかを、事前の「ゲタ履かせ」なしに比較衡量して結論を導出させます。公衆衛生の検討集団主義的観点の復権が始まるかも知れません
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2020年02月13日

末期的様相を呈しはじめたブルジョア市場主義

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200213-00070398-gendaibiz-bus_all
楽天に怒りの鉄拳…公取委員長が「三木谷社長の横暴を許さない」ワケ
2/13(木) 6:31配信
現代ビジネス


(本文省略)
記事本文とは直接関係ありませんが、コメ欄。
ビジネスの何たるかはわからないけど一消費者として疑問を感じる対策だと思う。
「もう少し買えば送料無料になるよ」と餌のようなものをチラつかせ、消費者はあんまり買わなくても良いものも買う事に…
それが狙いなんだろうけど。
売る側もきっと商品の値段も送料を考えた値段設定せざるを得ないだろうし。

誰が得するのかなぁ?
■必ずしも必要とは言えない需要を無理くり喚起することで辛くも生き延びる現代資本主義の末期症状
すばらしい視点!
 偉大な領導者、キム・ジョンイル同志は、労作『反帝闘争の旗を高くかかげ、社会主義・共産主義の道を力強く前進しよう――朝鮮労働党中央委員会の責任幹部とおこなった談話』(チュチェ76・1987年9月25日)で次のように教えられました(該当部分のみ抜粋)。
 資本家は、商品の販路がしだいにとざされていくにつれ、非人間的な需要を人為的につくりだし、人々の物質生活を奇形化する方面に進めています。資本家によって奢侈と腐敗堕落した生活が助長され、人間の肉体と精神を麻痺させるいろいろな手段がつくりだされた結果、麻薬中毒患者やアルコール中毒者、変態的欲望を追い求める堕落分子が日を追って急激にふえており、人々は精神的・肉体的障害者にかわりつつあります。これについてはブルジョア弁護人たちでさえ、いやすことのできない現代資本主義の癌疾であると慨嘆しています。

 資本家は、勤労者大衆の自主的な思想・意識を麻痺させ、人々を資本主義的な搾取制度に従順に従わせるため、反動的で反人民的な思想と文化、腐りきったブルジョア的生活様式をヒステリックにまきちらしています。資本主義諸国では、各種の反動思想と迷信が流布されて麻薬のように人々の健全な精神を麻痺させ、人々を蒙昧にしており弱肉強食の生活方式が助長されて不倫・背徳と殺人、強盗などの社会悪がはびこり、人々を恐怖と不安におののかせています。こうして資本主義社会においては、物質富がますにつれて、人々の精神生活はますます貧困化しています。

 資本家階級は、日増しに危うくなっていく彼らの特権的地位を維持するため、大衆を懐柔、欺瞞、買収する狡猾な策動にとりすがる一方、反動的な支配機構をファッショ化し、侵略と戦争政策をさらに強化する道につき進んでいます。

 物質生活における奇形化、精神・文化生活における貧困化、政治生活における反動化、これがまさしく現代帝国主義の反人民性と腐朽性を示す資本主義社会の基本的特徴であるといえます。
その上で、キム・ジョンイル同志は次のように社会主義の優位性を説いておられます。
 人間は、豊かな物質生活を営みながら肉体的に健康に暮らし発展することを求めるだけでなく、みちたりた精神生活を享受し、精神的、文化的に発展することを求めます。人間は物質的に、精神的、文化的に裕福に生活することを望むとともに、社会の平等な主人としてお互いに結びつき、永遠に生きる社会政治的生命をもって生き、発展することを求めます。これは社会的人間の本質的要求であるといえます。

 社会的人間の本質的要求にそくして社会生活を発展させるためには、物質生活が豊かになるにつれて人々の精神・文化生活と政治生活を発展させなければなりません。しかし資本家は、人々が腐りきった物質生活と金銭の奴隷になることを求めるので、精神・文化生活を豊かにすることには金を使おうとしません。かえって彼らは、勤労者の精神的・文化的発展を阻害するために莫大な金を費やしています。また資本家は、勤労者大衆の政治的地位と役割の向上は彼らの政治的支配を危うくするので、勤労者の政治生活の発展を極力おさえようとしています。資本主義社会の人々は、ますます金品の奴隷になりさがっており、政治的生命を抑圧されています。

 資本主義社会では、物質生活における不平等をなくすことができないばかりでなく、高まる物質生活と貧困化する精神・文化生活のあいだの不均衡、人民大衆の高まる自主的要求と悪化する政治生活のあいだの不均衡を克服することができません。このような不平等と不均衡をなくし、勤労者大衆の物質生活と精神・文化生活を等しく均衡的に発展させるためには、社会主義の道に進まなければなりません。
もちろん、三木谷社長が言っているように、送料無料を導入しなければAmazonとは対抗し得ず、「みんなで沈むことになる」というのは、ある程度は真実なのでしょう。その点、このことは個別企業・個別資本家の善意や悪意の問題ではなく、資本主義という制度の問題であります。現にキム・ジョンイル同志もあくまで「現代資本主義」や「現代帝国主義」の問題であり、資本家個人の人格の問題として論じていません。

必ずしも必要とは言えない需要を無理くり喚起することで辛くも生き延びる資本がわんさと存在し、そういった手合いによって成り立っている現代資本主義は、何かの拍子に人々が倹約志向を強めればただちに瓦解する点において、いよいよ末期的であると言えるでしょう。

■労使間の利益分取り競争もまた末期症状的
本件騒動そのものについても少し論じておきたいと思います。さまざまな利害関係や思惑が交差しているためにカオス的な様相を呈しています。とりあえず下記を下敷きにしましょう。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200213-00034211-bunshun-bus_all
楽天・三木谷社長が語った「それでも“送料無料化”を推し進める理由」とは
2/13(木) 21:36配信
文春オンライン

「(3890円以上、送料無料を実施すると)ハッピーでない人がいるかもしれないが、これをやらないとみんなが沈んでしまう。5万店の店舗を載せた楽天という船が、激化する一方の荒波を乗り切るにはこれしかない、という思いでやっている」

 楽天会長兼社長の三木谷浩史が吠えた。

 これに対し、現在の楽天は出店している店舗が個々に送料を決めている。商品の販売価格を高めにして送料無料にしている店もあれば、商品を安く送料を高く設定している店もある。利用者は商品の価格と送料を注意深く見ないと、どれが一番安いのか分からない。

「楽天が儲けようという話ではない」
 この「分かりにくさ」が「楽天よりアマゾンの方が安い」という利用者のイメージに繋がっている、と楽天は分析した。そこで1年ほど前から、一定金額以上は送料無料とし、価格表示をアマゾン並みに分かりやすくする方針を打ち出し、店舗と話し合いを続けてきた。その結果として出てきたのが、3月18日から実施する「3980円以上で送料無料」の方針だ。

 しかし「無料」と言っても、実際には利用者のところまで商品を届ける運賃がかかるわけで、そこは店舗の負担になる。

 これに対し「楽天ユニオン」を名乗る人々が「店舗いじめだ」と反発。1700筆の署名を集めて公取に駆け込んだ。弱者の味方、公取が悪代官の楽天を成敗する、という構図が生まれた。

 三木谷はこう反論した。

「これ(送料無料化)は、楽天が儲けようという話ではない。やらなければ(楽天市場の成長が止まり)みんなで沈むことになる」


(中略)

楽天市場に人を集めるために年間3000億円
 楽天市場の創業期から出店している有力店舗の経営者は、今回の送料無料騒動をこう見る。

「昔は店舗も楽天も一緒に成長できたから、誰も文句を言わなかった。今は店舗もなかなか利益が出なくなり、楽天と同じ方向を向きにくい。しかしウチを含めて、楽天市場を利用して成長してきた店舗は、相応分の負担はすべきだとも思う」

 楽天は楽天市場の最大の魅力とされる楽天スーパーポイントに年間3000億円強を投じている。これも楽天市場に人を集めるための投資である。

 新聞やテレビが「弱い店舗の代表」とクローズアップする楽天ユニオンは、ユニオンと名乗っているが正式な労働組合ではなく、ネットショップとしての実績も乏しい。しかしメディアではいつの間にか「強い楽天と弱いユニオン」という構図が出来上がり、そこに公取が登場した。

「楽天ユニオンがどんな人々か、メディアの人たちにも一度ちゃんと調べて欲しい」(三木谷社長)

 楽天が衰退しアマゾン一択になった時、困るのは店舗と利用者だろう。しかし「剛腕」で知られる三木谷は、何かするたびに叩かれ役だ。その表情には「また俺が悪者かよ」という苛立ちが浮かんでいた。

大西 康之
まず、楽天側の主張についてですが、前掲「みんなで沈むことになる」というのは、出店者にも利益共同体としての楽天市場の整備に協力を仰ぐという意味であれば、理解可能な主張であります。しかし、「楽天ユニオン」なる集団は別(ご立派なことは言っているものの、出店者団体を「ユニオン=労働組合」というのには無理があり過ぎるでしょう)として、それにしても強い反発が展開されている現状は、楽天側の「根回し」が不十分だったことを示しているでしょう。特に、楽天側が出店者の送料負担を緩和するような施策を打ち出さず、ただ単に「送料無料」をブチ上げたことは、「テメーは一銭も出さずに出店者に全額負担させるつもりか!」という疑念を抱かせるには十分すぎました。いやまあたぶん、本音では「みんなで沈むことになる」という一定程度は正しいことをタテに、負担を出店者に押し付けようとしていたんでしょうけど。

他方、「送料無料」に反発する出店者側についてですが、「2000億円物流に投資をアピールしてるけど楽天が勝手に投資しているだけで出店者には関係ない」という意見があるようです。そんなこと言っておきながら、いざ楽天が身銭を切って自前の流通網を整備したら、これ幸いとフリーライダー的に「乗り込む」のが目に見えています。おいしいトコロだけツマミ食いしようという魂胆がミエミエです。

こう考えると、ブルジョア市場経済社会の末期的症状が見て取れます。生産業者と流通業者は持ちつ持たれつの戦略的利益共同体関係であるにも関わらず、己のブルジョア的利益に拘泥するがあまり、戦略的利益共同体関係の内部でさえ、パートナーを出し抜こうと陰謀と屁理屈を巡らせているわけです。

「近江商人の『三方よし』」は、いったいどこへ行ってしまったのでしょうか。いよいよブルジョア市場主義が末期的様相を呈しはじめました

■近江商人の「三方よし」と朝鮮式社会主義
なお現在、朝鮮民主主義人民共和国においては、社会主義企業責任管理制、集団主義・社会主義的競争、社会主義商業の復元及び、先質後量原則によって市場取引の社会主義化が進んでいますが、朝鮮式社会主義の本質は集団主義である点において、「朝鮮式社会主義市場経済」の本質は、集団主義であると言えます。

「集団主義」という概念は、かなり漠然とした概念ですが、「個人と集団の利益を対等な関係性の原則の下に調整し、ともに利益を享受すること」であるとも言い換えられる点において、近江商人の「三方よし」と通底する部分が大であると思われます。
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2020年02月11日

日本共産党第28回党大会で展開された「発達した資本主義国における社会主義的変革の『特別の困難性』」に関する主体(チュチェ)的見解について

近頃すっかり日本共産党の動向に関心がなくなってきたところでしたが、党大会が開かれ党綱領が改定されたとのこと。「発達した資本主義国での社会主義的変革は、特別の困難性をもつ」そうです。このことについて、志位委員長が次のように報告しました。主体的に読み解いてみたいと思います。まずは引用から。
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2020-01-16/2020011609_01_0.html
(前略)

発達した資本主義国における社会主義的変革の「特別の困難性」とは

 報告の最後に、一部改定案が、発達した資本主義国における社会主義的変革について、「豊かで壮大な可能性」とともに、「特別の困難性」をもつ事業だと言及した意味についてのべておきたいと思います。全党討論のなかでは、「資本主義の発達の遅れた国での社会主義的変革も困難であり、発達した資本主義国での社会主義的変革も困難となると、両方とも困難ということか」という質問もありました。

 ここでいう「特別の困難性」とは、発達した資本主義国において、多数者革命を「開始する」ことの困難性――日本の場合で言えば、国民の多数の合意のもとにまず民主主義革命を実現し、さらに国民の多数の合意で社会主義的変革にすすむうえでの困難性ということであります。

 8中総の提案報告でのべたように、「発達した資本主義国では、支配勢力が、巨大な経済力と結びついた支配の緻密な網の目を、都市でも農村でも張り巡らして」います。「なかでも支配勢力が、巨大メディアの大部分をその統括下に置き、国民の精神生活に多大な影響力を及ぼしていることは、私たちの事業を前進させるうえで特別に困難な条件」となっています。こうした「特別の困難性」を打ち破るには、日常不断に多数者を結集する粘り強い活動にとりくむこと、わけても強大な日本共産党を建設し、この党が一翼を占める統一戦線を実現することが、絶対に不可欠であります。

 そして、多数者革命を「開始する」ことは困難であっても、民主主義革命を実現し、社会主義的変革の道に踏み出すならば、その先にははかりしれない「豊かで壮大な可能性」が存在する――これが日本における私たちの社会変革の事業の展望であります。

 いま私たちがとりくんでいる市民と野党の共闘、日本共産党の躍進、強く大きな党づくりの事業は、そのどれもが日常不断の粘り強いとりくみ――忍耐力、不屈さが求められる仕事であります。しかし、それこそが、「特別の困難性」を突破して、未来社会における「豊かで壮大な可能性」を現実のものにする最もロマンある仕事だということを胸に刻んで奮闘しようではありませんか。(拍手)

 以上で、綱領一部改定についての報告を終わります。(大きな拍手)
支配勢力が、巨大メディアの大部分をその統括下に置き、国民の精神生活に多大な影響力を及ぼしていることは、私たちの事業を前進させるうえで特別に困難な条件」という見解は、チュチェ思想派たる私としても同感であります。しかし、今回の党大会報道を見るに日本共産党は、「特別の困難性」を克服するための具体的方法論がおそらく浮かんでいないものと思われます。チュチェ思想派としてそのような感想を持ちました。先進資本主義国における社会主義革命を人類はいまだ経験していないので、何が正解であるかは現時点では語り得ないものですが、それにしても具体性に乏しい掛け声です。

この課題については、当ブログでも何度か引用してきたキム・ジョンイル総書記の労作『反帝闘争の旗を高くかかげ、社会主義・共産主義の道を力強く前進しよう』(チュチェ76・1987年9月25日)が回答を与えていると考えます。総書記は、同労作にて先進資本主義国における革命を論じておられます。

すなわち、総書記は同労作中において、先進資本主義国では第二次世界大戦後、技術労働と精神労働に従事する労働者が急激にふえ、労働者のあいだでプチ・ブルジョア思想の影響が増大しつつあること、特に、革命的教育を系統的にうけることのできない資本主義制度のもとでは多数の知識人がブルジョア思想とプチ・ブルジョア思想に毒されるのは避けがたいことであると言明されました。それゆえ、彼らを革命の側に獲得することは困難な問題となることを認めました。

もちろん、技術労働にたずさわる労働者であれ、精神労働にたずさわる労働者であれ、彼らはいずれも生産手段の所有者ではない点は、マルクス存命期の労働者階級と違いはないので、労働党・共産党の社会的階級的基盤が弱くなったわけではありません。総書記は、問題の所在は、社会的階級的構成の変化に応じて、労働党・共産党が労働者階級の広範を獲得するための政治活動をいかにおこなうかにあると指摘されています。労働者階級をいかに革命的に覚醒させるかという問題があるというのです。

そして総書記は、今日の労働者階級は、かつてのような無産階級であるとばかりみなすことはできず、「失うものは鉄鎖のみ」ではないし、そもそも革命に参加できるかどうかは、無産者か有産者かということだけにかかっているのではないと指摘されています。すなわち、人間は飢餓と貧困に耐えられないという理由だけで革命に参加するわけではなく、自然と社会、そして自分自身の運命の主人として生きようとする自主的人間の根本的要求に基づいて革命に参加するケースもあるのです。「自主性が踏みにじられるところに抵抗があり、抵抗があるところに革命闘争がおこる」わけです。

その上で、総書記は次のように指摘されました。
今日、発達した資本主義諸国で、技術労働や精神労働にたずさわる労働者の生活水準が高くなったとはいえ、彼らは依然として資本主義的搾取と抑圧のもとにあるため、資本主義制度に対して反感をいだいており、資本の支配から解放されて自主的に生きることを要求しています。自主的に生きることを要求するということは、すなわち社会主義を志向することを意味します。実際上、資本主義国の知識人で、いっときなりとも社会主義に共鳴しない人はほとんどいません。彼らが引き続き社会主義をめざしてたたかっていけないのは、社会的・階級的立場の制約というよりは、むしろ彼らを思想的に正しく教育し導いていない事情と関連しています。

 勤労者大衆を革命化し、獲得するうえで、主体はあくまでも労働者階級の党です。党を組織的、思想的に強化し、現実の要求にそくして党活動の方法を改善することなしには、大衆を意識化、組織化して党の周りに結集することができず、革命勢力をしっかりと固めることもできません。党を強化し、大衆を党の周りに結集して、革命の主体的力量を強化する活動を優先させずに、革命の成果を期待するのは、あたかも果樹の手入れもせずに果実を摘もうとするに等しい愚かなことです。
さて、「党の強化」という結論においては、キム・ジョンイル朝鮮労働党総書記の30年以上前の談話と、今回の志位日本共産党委員長の主張は同一です。しかし、そこに至る理屈がキム・ジョンイル総書記の方が遥かに深い。果たして志位委員長が言うように「日常不断に多数者を結集する粘り強い活動にとりくむ」程度で先進資本主義国での革命の前に横たわる問題を乗り越えられるのでしょうか? 労働者階級内部におけるプチ・ブル化の深刻化によって自己責任論が蔓延している日本社会において、自己責任論と闘う社会主義・共産主義勢力に一般市民が寄り付くでしょうか? 党の強化よりも前に、まず社会意識の改善が必要であると思われます。その意味では、党の強化以前に、敷居の低い大衆団体の強化から始めるべきではないかと思うのです。

キム・ジョンイル総書記の先進資本主義国革命論は、自主性回復のための闘いと言う点において、単なる物質生活での解放にとどまらず、精神的な意味での解放をも視野に入れています。これは、チュチェ108(2019)年12月31日づけ「チュチェ108(2019)年を振り返る(4)――協同経営化・自主管理化を突破口とする社会主義建設の課題」でも論じたとおり、ストレス等による精神疾患が異常な水準でメンタルヘルス問題が重大な課題になっている現代においてこそ価値のある社会モデルであると言え、また、人倫・人間性の回復を掲げた初期マルクスの問題意識とも通底する点、マルクス主義を継承しているとも言えるでしょう。
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2020年02月10日

キム・イルソン主席の闇市対策に学ぼう:マスク買占め・高額転売を「道徳」や「民度」の問題とし、「権力的取り締まり」を求める言説の低レベルさについて

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200208-00000004-moneypost-bus_all
品薄マスクを高額転売… 「日本人の民度」はここまで低いのか?
2/8(土) 16:00配信
マネーポストWEB

 中国・武漢発の新型コロナウイルスは世界中を混乱に巻き込んでいるが、春節の時期と重なったことで中国人観光客が日本に大挙して押し寄せたこともあり、ドラッグストアやコンビニではマスク不足の事態になっている。そんな中、オークションサイトやフリマアプリでマスクが高額で転売されていることが話題になっている。この状況を見て、ネットニュース編集者の中川淳一郎氏が感じたことを綴る。


(中略)

 オークションサイトを見ても、とんでもない値がついたマスクが多数出品されているのですが、心底情けなくなります。今回、武漢からチャーター機で帰って来た邦人が検査を拒否したり、役人に罵詈雑言を浴びせる様子が報じられたことで、「中国的考えに染まったのでは?」などと言われ、中国人の民度の低さがネットでは多数指摘されました。

 しかし、十分日本人だって民度低いですよ。なんで、困っている人が大勢いる時にマスクを大量に購入し、高額で転売しようなんて考えるのですかね。漫画『北斗の拳』に登場するレイのように「てめえらの血はなに色だーーっ!!」と言いたくなります。

 公共の利益を考えるよりも己の小遣い稼ぎを最優先する連中がこれほどまで多いとは、本当に呆れました。当然さもしい連中はこの世に大勢いることは理解できていますが、今回のコロナウイルス騒動で、人間がいかに醜い存在かがよーく分かった気がします。


(以下略)
供給不足のマスクを買占め、価格を釣り上げ転売で利ザヤを稼ぐ――褒められた行為ではないことは間違いありません。もちろん、久留米大学商学部の塚崎公義教授が解説しているように、経済科学的な分析の見地からは必ずしも全否定されるものではありませんが、そうはいっても一般的な庶民感覚から言えば「モヤモヤ」感は拭い去ることはできないでしょう。当の塚崎教授でさえ「決して強欲商人に感謝しないし、自身が強欲商人になろうとも思わない」と言っているくらいですから。マスク高額転売に道徳的な憤りを感じるのは、社会的存在としての人間であればこそ、むしろ正常な証であるといえます。

しかしながら、本件を「民度」の問題で片づけてはならないでしょう。このことは、決して道徳問題ではありません。むしろ、民度民度と連呼する輩どもの民度こそ問わねばならないでしょう。

買占めと高額転売は「闇市的な闇取引」の一種であると位置づけることが可能だと思われます。生産者でもなければ消費者でもなく最低限必要な流通業者でもない転売ヤーは、「居なくても構わない」存在ですが、それが一番大きな利益を手にしているのは、明らかに正常な商取引だとは言えず、闇市的な闇取引と断じてよいでしょう。

いま日本社会を席巻している「転売ヤー許すまじ」「行政は取り締まるべきだ」「転売ヤーが跋扈する日本の国民道徳性・民度は低い」は、結局は単なる「道徳講釈」であり、また、「権力的取り締まり待望論」でありますが、果たして闇市は道徳講釈で廃絶し得るでしょうか? また、闇市は権力的取り締まりで廃絶し得るでしょうか? このことについては、闇市との闘争における「先人」に教えを乞うことが解決の糸口になることでしょう。

さて、中央集権的な社会主義計画経済に闇市は「つき物」と言っても過言ではないでしょう。計画立案の困難性、党や政府機関の縦割り官僚主義、労働者にとってのインセンティブの不足等によって計画経済は、慢性的な生産不振・品物不足に悩まされてきましたが、それを「闇市」が補完してきました。闇市の存在は、計画経済の遂行にとって障害であり脅威でもあったため、社会主義の国々は何とかして闇市を抑え込もうと努力してきました。

しかし意外に思う方もいらっしゃるかと思いますが、当ブログでも何度かご紹介してきたとおり、朝鮮民主主義人民共和国のキム・イルソン主席におかれては、チュチェ58(1969)年3月1日づけ「社会主義経済のいくつかの理論的問題について―― 科学・教育部門の活動家の質問にたいする回答」において、闇市・闇取引の存在は好ましくないことであるとしつつも、それを活用せねばならない局面もあるとし、権力的に取り締まったとしても闇取引を根絶させることはできないともした上で、品薄な商品に対する政策を論じておられました。

キム・イルソン主席は次のように指摘されています(関連部分のみ抜粋)。
人民の需要をみたせない商品は、たとえ国家が唯一的に価格を制定したとしても、闇取引されたり、農民市場で又売りされるということを忘れてはなりません。商店の品物を買いだめしておいて、他人が急に必要になって求めるときに高値で売りつけるような現象があらわれるようになるのです。卵の販売の問題を例にとってみましょう。現在、平壌をはじめ、各地に養鶏工場を建設して卵を生産していますが、まだ人民に十分供給できるほどではありません。そういうわけで、卵も国定価格と農民市場価格とのあいだに差が生ずることになるのですが、これを悪用して又売りする現象があらわれています。

 もちろん、だからといって、卵をいくつか又売りした人を罪人扱いにして教化所に送るわけにもいかず、ほかの方法で統制するとしても、販売量を調節するといったようないくつかの実務的対策を立てること以外に方法はありません。もちろん、こうした対策もとらなければなりませんが、そんな対策では商品が一部の人たちに集中する現象をある程度調整できるだけで、それが農民市場で又売りされたり、闇取引される現象を根本的になくすことは決してできません。

 この問題を解決するためには、品物を多く生産しなければなりません。産卵養鶏工場をより多く建設し、人民の需要をみたすほど大量に生産するならば、卵の闇取引はなくなるであろうし、農民市場で売買されることもおのずとなくなるようになるでしょう。こうした方法で国家的に人民の需要をみたし、農民市場で売買される商品を一つ一つなくしていくならば、最後には農民市場が不必要になるでしょう。

行政が権力的に取引に介入しようとしても、買い溜めと高額闇転売は避けられないのです。そんなことをしたところで、「商品が一部の人たちに集中する現象をある程度調整できるだけ」で「闇取引される現象を根本的になくすことは決してできません」。

また、朝鮮総聯傘下、在日本朝鮮青年同盟系の雑誌≪새세대≫は、チュチェ101(2012)年12月号のチュチェ哲学特集において、「弱みにつけ込んだ『便乗』値上げはアリ? ナシ?」という問いにたいして、チュチェ哲学・チュチェ思想に基づき次のように解説を加えていました。
Q.弱みにつけ込んだ『便乗』値上げはアリ? ナシ?
価格は需要と供給によって決まる?
メキシコ湾で発生した竜巻が大きな被害をもたらした直後、1袋2ドルの氷が10ドルで、250ドルの自家用発電機が2000ドルで売られた。人の弱みにつけ込んだとも言える「便乗」値上げ。これってアリ?

A.社会がいかに組み立てられるべきかを考えるべき
この場合、値上げをした人を悪いとは一概には言えない。なぜなら、資本の発展の伴って社会が発展していく資本主義社会では、需要に比例して値段が上がるのは、一つの法則であるからだ。そのため、これに沿って値段を上げた彼らにすべての非があるとは言えない。


(以下略)
このことは、こんにちの我々にとって参考になるものと思われます。道徳講釈を垂れても権力的取り締まっても、そんなことでは闇取引の根本的な解決には至らないのです。

やはり一刻も早く生産を増やすしかありません。転売ヤーとは、取り締まりによってではなく生産力によって戦うしかないのです。

もちろん、生産が一定量に達するまでには幾ばくかの時間がかかります。それまでの間を凌ぐ手当は必要でしょう。しかし、それもやはり道徳講釈ではありません。道徳を説かれたところで転売ヤーが改心いるはずがありません。また、権力的取り締まりでもありません。そんなことをしても幾らかの手当にしかならず、むしろ闇取引が更に地下に潜行するだけです。

まさに共和国を筆頭に多くの社会主義国が実施してきたように、配給切符制度を導入するのが効果的でしょう。仕入れができなければ転売ヤーは何もできません。なお、「おひとり様xx個限り」というのは、「1回の会計あたりxx個限り」というのが実態であり、真の配給制とは言えません。

資源配分の歪みは、突き詰めると制度設計の問題であります。市場参加者の善意や悪意をまったくの不問にするのは正しい姿勢ではないものの、それを問題の核心としてはなりません。市場参加者が我利我利亡者であったとしても、ある程度は社会が回るようにうまく制度設計することこそが為政者のなすべきことであり、民衆は為政者に対してそのように要求すべきなのです。

今回のマスク買占め騒動を見るに、日本社会はキム・イルソン主席の認識水準には追いついておらず、初歩的な善意悪意論及びお手軽な権力的取り締まり待望論の水準に留まっていることが判明しました。

もちろん、物資不足が珍しい物質的に豊かな現代日本では、普通に暮らす限りでは闇物資に手を出す必要はなく、よって、いざ供給不足局面に陥ったときにどうすれば良いのか分からないという事情もあるでしょうから、その点は割り引く必要があるとは私も思います。

是非とも今回を機に、「闇市的な闇取引」との付き合い方をとおして市場政策のイロハが浸透することを僭越ながら祈る次第です。
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2020年02月09日

さて日本は?

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200131-00227336-diamond-bus_all&p=2
グーグルが「一流と凡人」を見分ける、たった1つの違い
1/31(金) 6:01配信ダイヤモンド・オンライン


(中略)

 ビルは貢献意欲、それも個人的な成功だけでなく組織の大義に貢献する意欲を持っている人を求めた。チーム・ファーストだ!

 グーグルCEOのスンダー・ピチャイも言うように、「自分の成功が他人との協力関係にかかっていることを理解している人、ギブアンドテイクを理解している人、つまり会社を第一に考える人」を探す必要がある。

 スンダーとビルは、そういう人材が見つかれば、スンダーいわく「かけがえのない人材として扱った」。

 だがそうした人材かどうかを、どうやって判断するのか?

 彼らが何かを犠牲にしたり、他人の成功を喜ぶことがあるかどうかに注目すればいい。スンダーはこう指摘する。

 「ときとして、より大きな成果を得るために、誰かが何かを犠牲にしなくてはならないことがある。僕はそういうときの行動に強く注目している。自分とは直接関係のない、ほかの部署の成功を喜んでいるときもだ。そういうことに目を光らせるんだ」
「個人主義」的と言われるアメリカにおいても、「個人的な成功だけでなく組織の大義に貢献する意欲を持っている人」が求められているということです。

これに対して、「個人主義」と称する単なるノルマ主義や、あるいは逆に、「チーム・ファースト」と称する出る杭を打つ型のムラ社会が跋扈しているのが日本であります。

日本において「成果主義」だの何だのと言われ始めた頃から「個人主義」的なアメリカ企業の評価体系及び給与体系に対する憧憬を語る言説を耳にするにようになりました。この手の人たちは、「個人」的なスキルの研鑽に励むとともに、自分が如何に有能なのかを主張する指標として「仕事の速さ」を誇る傾向にあるように私は見ています。「効率的に仕事を捌き、残業をせず、夜は自己研鑽に励む」というわけです。

こういった人々は、個人として見たときは大変に優秀なのでしょう。しかし、仕事というのものは一人で完結するわけではなく、複数人による流れ作業であります。企業とは、原材料を投入して成果物を産出するシステムであり、個々の従業員・労働者は、そのシステムの構成要素です。特定の構成要素(特定の作業班・特定の個人)だけ仕事が早くても、他がモタついて成果物が完成しなければ、売り上げにはならず、システムとしては失敗であります

優秀な個人であればこそ効率的に自分の仕事を捌き、その上で非効率的な他人の課題改善の支援を行い、全員の仕事の総体として・システムのアウトプットとしての成果物が少しでも早く完成するように立ち回ることが求められますが、どうもそういう展開は見られ難いところです。酷い場合たと、成果物の品質が不十分であったとしても「自分の仕事は完璧だった。誰々が悪いんだ」などと口にしてしまう人までいる始末です。「企業はシステムである」ということをまったく理解していないと言わざるを得ず、いくら「個人」として優秀であっても、組織人としては「使えない」のです。個人事業主であればこれでも構わないのでしょうが、協業組織においては「使えない」のです。

「企業はシステムである」ということを理解していない言説がしばしば飛び出てくることは結局のところ、日本の近代化が「押し付けられたもの」に過ぎないことに起因していると考えられます。黒船来航以来外圧に振り回されっぱなしの日本。外圧によって否応なしに近代化させられた結果、ムラ社会は形式上は半強制的に解体されて居住地の垣根を越える人員の往来が始まり、地縁によらない人間関係が構築されるようになりました。しかし、外圧による半強制的近代化であるからこそ、依然として人々の頭の中にはムラ社会的原理の残滓があり、同調圧力による没個性的振る舞いは顕著であります。欧米的な意味での個人主義が確立されたとは到底言い得ない状況にあります。

要するに、日本人の思想文化水準が個人主義を担うに相応しい水準にはなっていないということなのです。未だに他人との適切な距離感が分からないのです。ある人は距離を取り過ぎるし、別の人は近すぎるのです。

少し話はそれますが、昨今は、ワンオペ育児問題、老々介護問題、引きこもり問題といった家庭を現場とする様々な問題が社会的に認知されるようになりつつあります。悲劇的な事件も起こるようになりました。こうした問題には「核家族化の進行」が一因として存在していると考えられます。要するに、昔と比べて家族がマンパワー的な意味で弱小化しているにも関わらず、「家族の問題は家族内で解決しなければならない」という強い思いが、問題を「抱え込む」方向に追いやっているわけです。他方、このことを以って「家族の問題に対して家族のメンバーが責任感を持つ必要はない」というような珍妙な理屈を展開する輩も現れつつあります。

これもまた、他人との適切な距離感が分かっていないが故の様相というべきものです。責任感を持つことと他者の支援を要請することは矛盾しません。いま手元に資料がないのですが、かつて共和国政府は「自力更生とは、他者の手助けを一切受け付けないという意味ではない」という見解を提示していました。共和国が「自力更生」を掲げるのは、自然、社会と自己の運命の主人としての責任と矜持を持っているからに他なりませんが、しかし、そうはいっても何から何まですべて自分の力だけで解決することを「自力更生」は求めているわけではありません。

あまり日本の悪口をいいたくはないのですが、古代以来「個人」とは何であるかという哲学的問いの蓄積がある欧米に対して、そして、東西冷戦の極東最前線という厳しい環境下において社会主義建設を推進する過程で個人と集団・自国と他国の関係性を考え抜いてきた共和国に対して、日本は決定的に不利な状況にあると言えます。

もっとも、「個人的な成功だけでなく組織の大義に貢献する意欲を持っている人が求められている」というのが、わざわざ本の内容になるくらいなのだから、アメリカにおいてもそうではない事象が割とありふれているということなのでしょう。あまりにも当たり前すぎることをわざわざ記す必要はないからです。その意味で日本人は、あまり過剰に自虐的になる必要はないでしょうが、しかし、欧米には個人主義の伝統があるので、こうした新しい人材観の消化は早いことでしょう。

職場における個人の評価とはすなわち、組織・集団と個人との関係の問題に他ならず、それは世界観や社会歴史観に直結する問題であります。「個人主義」アメリカは動き出しました。さて日本は?

なお、チュチェの社会主義者として私は、「個人主義」的と言われるアメリカでさえ、「個人的な成功だけでなく組織の大義に貢献する意欲を持っている人」が求められるようになりつつあることは、歓迎すべきことと考えます。

チュチェ108(2019)年12月31日づけ「チュチェ108(2019)年を振り返る(4):協同経営化・自主管理化を突破口とする社会主義建設の課題」でも述べたように、産業の知識化によって労働者階級がプチブル化し、社会の有機的連帯・システム的連関が瓦解するようになりつつも、他方で同時に、産業の高度化によって労働者は独りでは成果物を産出できず社会的分業・社会的協業が必要不可欠になることで、社会の有機的連帯・システム的連関が再構築されるようにもなります。社会的分業・社会的協業の進展によって労働者個人は互いに相互補完的な機能を受け持つようになるので、労働者個人は組織生活を体質化せざるを得なくなり、「我々」意識を持たざるを得なくなるのです。「個人的な成功だけでなく組織の大義に貢献する意欲を持っている人」が求められるようになり始めたことは、まさに後者の展開が始まったことを示しています。
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2020年02月05日

朝鮮労働党第7期第5回総会報道について:社会主義の革新へ

今年は昨年以上に始動が遅れ早2月。武漢肺炎を巡る朝日両国の比較が、わりあい「書きやすかった」ので、チュチェ109年第1号記事はそれにしましたが、やはり当ブログ的には、昨年末の朝鮮労働党第7期第5回総会について触れないわけには行かないでしょう。

■総会の要点
『労働新聞』チュチェ109年1月1日づけ総会報道によると、今次総会は次のような内容だったようです。

キム・ジョンウン委員長は、いわゆる「年末期限」を迎えつつあった先の総会において、「世紀を継いできた朝米対決は、今日に至り、自力更生と制裁との対決とに圧縮され、明白な対決の構図を描いている」と分析された上で、「対話を口にしながらも我が共和国を完全に窒息させ圧殺するための挑発的な政治軍事的、経済的悪巧みをさらに露骨化しているのが昼強盗アメリカの二重的行動」であり、「核問題でなくても、アメリカは共和国に対してまた異なる何かを標的と定めて迫ってくるであろう。現情勢は、各方面で内部の力をより強化することを切迫に要求している」とされました。

それゆえに、自強力を育てようとせず制裁解除を待つようでは、敵は攻勢を強めて共和国の前進を遮ろうとするだろうから、共和国は自力更生によって敵の封鎖に対して正面突破戦を展開しなければならないとし、『我々の前進を阻害している全ての難関を正面突破戦で突き抜けよう!』、これが全党と全人民が掲げるべき闘争スローガンであるという総路線を提示なさいました。

そして、正面突破戦の基本戦線を経済戦線であると定義し、「革命的な思想と精神は時代をリードしなければならないが、経済事業は現実に足をしっかりとつけて進行しなければならない」としつつ、全般的な生産と供給の均衡を取り、人民経済計画の信頼度を決定的に高めるための鍵となる問題を提示されました。まず解決しなければならない問題は、「経済事業体系と秩序を合理的に整頓すること」と指摘し、「過去の過渡的で臨時的な事業方式を継続して踏襲する必要はない」と言明されました。また、「経済司令部としての内閣責任制、内閣中心制を強化しなければならない。内閣の統一的指導と指揮を保障しなければならない」ともされました。

その流れの中で、国家商業体系・社会主義商業を至急復元する必要性にも言及。社会主義商業の本分を固守しながらも国家の利益と人民の便利を一緒に保障できるよう商業サービス事業を改善しなければならないと強調されました。「先質後量」の原則で生産物、創造物の質を高めるようにとも仰いました。

「農業戦線は正面突破戦の主戦場」とし、農業部門の科学技術力量と農業科学研究機関をしっかりと調えるよう訴えられました。

そして、共和国が依拠する無尽蔵の戦略資産は、科学技術であるとして教育政策への注力を表明。経済政策と教育政策を結び付ける視点を提示されました。

正面突破戦の勝利の担保としてキム・ジョンウン委員長は、「強力な政治外交的、軍事的担保がなければならない」とし、造成された情勢に対処し、外交戦線をさらに強化するよう指令。誰も侵犯することができない無敵の軍事力を保有し継続して強化していくことは、党の揺るがぬ国防建設目標だとしつつ、アメリカによる敵対的行為と核威嚇恐喝が増大している現実で、共和国は可視的経済成果と福利だけを見て未来の安全を放棄することはできないと強調されました。

その上で、アメリカの対共和国敵視政策が撤回され、朝鮮半島に恒久的で堅固な平和態勢が構築されるときまで、国家の安全のための必須的で先決的な戦略兵器開発を中断することなく継続して粘り強く行っていくと宣言されました。「我々の抑制力強化の幅と深度は、今後アメリカの対朝鮮立場の如何によって上方修正されるであろう」とも宣言されました。

このほか、全党的、全国家的、全社会的に反社会主義・非社会主義現象を掃討するための闘争を高強度で展開し、勤労団体事業を強化して全社会的に道徳綱紀を強く打ち立てる必要性についても言及。そして、こうした事業においては、党の団結した威力とその嚮導的役割が極めて重要だとも強調。革命の参謀部である党の強化も盛り込まれました。

最終的なビジョンとして、「全人民が不屈の革命信念と炎のような祖国愛、堅忍不抜の闘争精神で継続して力強く闘争してゆけば、難関を突破して『この世に羨むものはない』の歌が全国すべての人民の実生活となる新たな勝利を迎えることになる」と説かれました。

その結果、次の内容の決定書が採択されました。
첫째, 나라의 경제토대를 재정비하고 가능한 생산잠재력을 총발동하여 경제발전과 인민생활에 필요한 수요를 충분히 보장할것이다.
第一に、国の経済の土台を再整備し、可能な生産潜在力を総発動させ、経済発展と人民生活に必要な需要を十分に保障する。

둘째, 과학기술을 중시하며 사회주의제도의 영상인 교육, 보건사업을 개선할것이다.
第二に、科学技術を重視し、社会主義制度の影像である教育・保健事業を改善する。

셋째, 생태환경을 보호하며 자연재해에 대응하기 위한 국가적인 위기관리체계를 세울것이다.
第三に、生態環境を保護し、自然災害に対応するための国家的な危機管理体系を打ち立てる。

넷째, 강력한 정치외교적, 군사적공세로 정면돌파전의 승리를 담보할것이다.
第四に、強力な政治外交的、軍事的攻勢で正面突破戦の勝利を担保する。

다섯째, 반사회주의, 비사회주의와의 투쟁을 강화하고 도덕기강을 세우며 근로단체조직들에서 사상교양사업을 짜고들것이다.
第五に、反社会主義・非社会主義との闘争を強化し、道徳の綱紀を確立し、勤労団体組織における思想教養事業に取り組む。

여섯째, 혁명의 참모부인 당을 강화하고 그 령도력을 비상히 높여나갈것이다.
第六に、革命の参謀部である党を強化し、その領導力を高めていく。

일곱째, 혁명의 지휘성원인 일군들이 사회주의건설의 전진도상에 가로놓인 난관을 뚫고나가기 위한 정면돌파전에서 당과 혁명, 인민앞에 지닌 자기의 책임과 의무를 다하기 위하여 분투할것이다.
第七に、革命の指揮成員の活動家たちが社会主義建設の前進途上に横たわる難関を突破するための正面突破戦で、党と革命、人民の前に持つ自己の責任と義務を果たすために奮闘する。

여덟째, 각급 당조직들과 정치기관들은 이 결정서를 집행하기 위한 조직정치사업을 짜고들며 최고인민회의 상임위원회, 내각을 비롯한 해당 기관들은 결정서에 제시된 과업을 철저히 집행하기 위한 실무적조치를 취할것이다.
第八に、各党の組織と政治機関は、この決定書を執行するための組織政治事業を組んで最高人民会議常任委員会、内閣をはじめとする機関は、決定書に示された課業を徹底的に執行するための実務的措置を取る。

(以下略)
■「持久戦体制」へ
さて、すでに発表から1か月たっており、十分すぎるほど論評が尽くされています。それゆえ、いまさら網羅的な論評をしても仕方ないので、私が気になった部分について好きに書かせて貰いたいと思います。

昨年12月30日づけ「朝鮮労働党中央委員会第7期第5回総会に関する部分的報道内容に基づく考察」で私は、「年末期限以降の新たな道の概要は、(1)地域情勢に即した国防力強化措置によって事実上、並進路線へ回帰しつつも、アメリカが共和国を刺激するような言行を慎む限りにおいては、アメリカのメンツを潰すようなことや対話局面が決定的に崩壊するような事態にはしないこと。そして、(2)自力更生路線のさらなる鮮明化を二本柱とする「持久戦体制」と推察・考察できる」と述べました。

(1)については、≪누구도 범접할수 없는 무적의 군사력을 보유하고 계속 강화해나가는것은 우리 당의 드팀없는 국방건설목표≫(誰も侵犯できない無敵の軍事力を保有し、強化し続けていくことは我が党のゆるぎない国防建設目標である)というくだりが明白に示すように、やはり国防力強化措置は、再び前面に押し出されるようになりました。

しかしながら、≪세상은 곧 멀지 않아 조선민주주의인민공화국이 보유하게 될 새로운 전략무기를 목격하게 될것이(다)≫(世界は遠からず朝鮮民主主義人民共和国が保有することになる新たな戦略兵器を目撃することになる)程度に留めている点、≪우리의 억제력강화의 폭과 심도는 미국의 금후 대조선립장에 따라 상향조정될것이(다)≫(我々の抑制力強化の幅と深度は、今後アメリカの対朝鮮立場の如何によって上方修正されるであろう)としている点を見るに、依然として対話局面が決定的に崩壊するような事態を目指しているわけではないことが分かります。

조선로동당 위원장동지께서는 전대미문의 혹독한 도전과 난관을 뚫고나가는 정면돌파전에서 반드시 승리하자면 강력한 정치외교적, 군사적담보가 있어야 한다고 하시면서 조성된 형세에 대처하여 외교전선을 더욱 강화하기 위한 방략들을 제기하시였다≫(朝鮮労働党委員長同志は、前代未聞の厳しい挑戦と難関を切り抜ける正面突破戦で必ず勝利するには、強力な政治外交的、軍事的担保がなければならないとおっしゃり、造成された情勢に対処し外交戦線をさらに強化するための方略を提起された)というくだりの「外交戦線」という単語にも注目すべきでしょう。

(2)については、≪세기를 이어온 조미대결은 오늘에 와서 자력갱생과 제재와의 대결로 압축되여 명백한 대결그림을 그리고있습니다≫(世紀を継いできた朝米対決は、今日に至り、自力更生と制裁との対決に圧縮され、明白な対決の構図を描いています)という一文が端的に示しています。前掲12月30日づけ記事で私は、各道の農業経営委員長がオブザーバーとして会議に参加したことに注目し、「自力更生の中心として農業生産の自力更生を位置づけ、そしてその責任者として各道の農業経営委員長が総会に出席したとすると、今回の党中央委員会総会の開催目的には「自力更生路線のさらなる鮮明化」があるように思われます」と推測しましたが、概ね的中したようです。キム・ジョンウン委員長の新年最初の現地指導先はスンチョン(順川)リン酸肥料工場建設場でした。『朝鮮新報』も報じているように年明けから共和国メディアはこぞって農業部門での飛躍を呼びかけているとのことです。

なお、「チュチェ農法」が出て来ず、≪농업부문의 과학기술력량과 농업과학연구기관들을 튼튼히 꾸릴데 대한 문제≫(農業部門の科学技術力量と農業科学研究機関をしっかりと作ることに関する問題)といった表現になっているのはチェックしておきたいと思います。

■「内閣中心制の強化」は分権型社会主義の実践
「経済司令部としての内閣責任制、内閣中心制の強化」については、昨年4月の施政方針演説と関連付けて読み解くと、興味深い事実を見て取ることができるでしょう。キム・ジョンウン委員長は、次のように指摘されていました
정치적령도기관인 당이 행정사업에 말려들고 실무적방법에 매달리면 자기의 본도를 잃게 되는것은 물론 행정기관들의 기능을 마비시키고 당의 권위를 훼손시키며 결국은 혁명과 건설을 망쳐먹을수 있습니다.
政治的領導機関である党が行政事業に巻き込まれ、実務的な方法に没頭すれば、自らの本性を失うことはもちろん、行政機関の機能を麻痺させ、党の権威を傷つけ、結局は革命と建設が台無しになる恐れがあります。
キム・ジョンウン委員長による改革の重要特徴として「経済に対する党の過剰な干渉を正常化させる」という点があります。もちろん、今総会中の≪당중앙위원회의 결정집행이자 내각사업≫(党中央委員会の決定執行こそが内閣事業)という大枠は越えられないものの、これまで漸進的に展開されてきた改革です。

ここでいう内閣中心制の強化とは、社会主義企業責任管理制によって計画権を付与された各生産単位からボトムアップ的に報告された内容を内閣が集約し、それらが構成要素となり国家戦略が組み立てられる、今日における朝鮮式経済計画の強化に他なりません。国家からのトップダウン的な命令を現場はただ実行するだけという旧型の経済計画:指令型社会主義とは根本的に異なるものです。

「経済事業は現実に足をしっかりとつけて進行しなければならない」や「過去の過渡的で臨時的な事業方式を継続して踏襲する必要はない」というくだりと併せて考えるに、ちょうど昨年、伝統的な「テアン(大安)の事業体系」が憲法から削除された事実を踏まえると、ボトムアップ的な現代朝鮮式経済計画の野心的な展望が見えてきます。分権型社会主義の実践例であるとも言い得、実務的にも思想的にも注目に値するものです。

■「社会主義商業の復元」の意義と「消費社会主義」への転換
社会主義商業の復元について言及があったことも、実務的にも思想的にも注目に値します商業とはすなわち市場的流通であり配給ではないからです。商業の役割を高めることは、実務的に注目すべき提起です。

思想的意義についてですが、まず言葉の定義の問題として、朝鮮における社会主義商業とは、本質的に人民に対する供給活動であり、人民の物質的・文化的需要を満たすための商業活動をいいます。資本主義商業と比較すれば、マルクス経済学の枠組みで言えば、前者はW−G−W’を基本とする流通であり、後者はG−W−G’を基本とする流通であると言えます。

W−G−W’とG−W−G’は実際的には分離が困難です。それゆえ、市場化は「無限に自己増殖する価値運動」としての資本の増殖こそが経済の主目的に成り下がる資本主義社会を必然化するものであるという見識が古くから根強く残っています。共和国が社会主義商業の復元について言及していることの思想的意義とは、共和国が如何にして商業を社会主義の枠内に組み込むかという点にあると言えます。

チュチェ108(2019)年12月31日づけ「チュチェ108(2019)年を振り返る(1):社会主義企業責任管理制が憲法レベルで位置付けられた共和国史と社会主義思想発展史に残る画期的一年」社会主義勢力が長年定式化に苦しんできた「競争」の概念を我がものとし、「個人の能力と努力に対する評価」を社会主義の枠内に取り込む実運用体系を構築することで社会主義思想を発展させたと述べましたが、ことしチュチェ109年は、これに続いて「社会主義商業の復元」をとおして「商業及び市場流通の社会主義化」というテーマが提示されたものと言えるでしょう。

なお、朝鮮における社会主義商業を商業活動の所有形態に焦点を当てて分類したとき、国営商業(国営企業による商業)と協同商業(協同組合による商業)に分けられますが、「商業及び市場流通の社会主義化」の問題はやはり、所有形態の問題が大きくかかわってくるものと思われます

■「先質後量」原則の重大な意義
「先質後量」原則については、『朝鮮新報』チュチェ108年8月8日づけ「平壌第1百貨店展示会を訪ねて/売れ筋から見る市民生活」と関連付けると興味深いでしょう。すなわち、当該記事では評価基準は消費者とされています。共和国も遂に、供給サイド偏重の経済から脱却し始めたということになります。

消費者にとっての質を優先させようとすれば、当ブログでも以前から指摘してきたように、消費生活は本質的に多様性を帯びている点において、流通及び生産もまた多様化しければならなくなります。いくら天才的なアイディアをもった人物であったとしても、その脳味噌から絞り出し得る発想には限界があるので、多様なアイディアを保障するには、生産単位もまた多様であらざるを得ず、そしてその生産を消費者に繋ぐ流通も多様であらなければならなくなります。

このことを以って、F.A.ハイエクは設計主義を基調とする集産主義に対する競争を基調とする自由主義の優位性を説きました。超集産主義と言えるソ連は、最後まで質の問題を解消できず、ハイエクの予言どおりの経過をたどって崩壊しました。

この経緯を踏まえるに、競争概念の社会主義化に成功し、続いて商業及び市場流通の社会主義化にも取り組み始め、「先質後量」原則に基づき「評価基準は消費者」だともする共和国は、実にチャレンジングな領域に足を踏み入れたと言えるでしょう。

この課題の成否のカギは、社会主義企業責任管理制にあるでしょう。前述のとおり本質的に多様性を帯びている消費需要を柔軟に充足させるためには、流通及び生産もまた多様化する必要があり、よって生産現場に大きな裁量権を認める必要が生じますが、しかしながら、人間による人間の搾取を廃絶させ、支配と隷属を根絶し、人民大衆の自主性を実現すること:社会政治的生命体を構築することを究極目標とする朝鮮式社会主義においては、生産手段の私有化までは認められないことでしょう。

それゆえ、所有形態は社会的所有でありながらも、計画権等の実務的権限を生産現場に認める社会主義企業責任管理制の重要性がますます増大すると言えます。計画権を各生産単位に付与し、そこからボトムアップ的に提案される生産計画を国家経済計画に盛り込むことを「人民経済の計画的運営」と定義する社会主義企業責任管理制が不可欠でありましょう。社会主義版の「所有と経営の分離」が進むことでしょう。

このことについては、続報を待ちつつ更に考察を深めたいと思います。

■国家経済発展5か年戦略について
最後に、国家経済発展5か年戦略の最終年を迎えるにもかかわらず、それについて言及がなかったことについて、取り上げておかなければならないでしょう。

まだ朝米交渉が、共和国にとって楽観的雰囲気に包まれていた昨年の「新年の辞」でもそれほど言及されていなかったので、そもそもこの単語の出現回数自体にはそれほど意味がないのかも知れませんが、そうはいっても「0回」は流石に取り上げておかねばならないでしょう。

さて、「対米対峙は長期戦になるが、全人民が不屈の革命信念と炎のような祖国愛、堅忍不抜の闘争精神で継続して力強く闘争してゆけば、難関を突破して『この世に羨むものはない』の歌が全国すべての人民の実生活となる新たな勝利を迎えることになる」というのが今総会で提示された路線の趣旨ですが、総会報道は冒頭で、経済建設分野でも一連の成果が達成されたとしつつ豊作・増産を報じてもいます。これらの成果はいずれも国家経済発展5か年戦略の成果に他なりません。

このように文脈を整理して考えると、国家経済発展5か年戦略に対する言及が今総会報道になかったのは、「国家経済発展5か年戦略の達成済み成果を長々と振り返るよりも、今後の正面突破戦について強調するのを優先するために割愛した」という見方ができるでしょう。達成済みのことを振り返って成果に酔うよりも、危機感をあおって正面突破戦を強調し体制の引き締めを期そうとしていると考えられるのです。

なお、国家経済発展5か年戦略が放棄されたのかといえば、通例、経済計画が上手くいっていないときは、まず計画期間の延長や数値目標の変更から始まり、最終的には「達成した」と宣言されるものです。かつての第1次7カ年計画は、まず実施期間が延長された上で、本当かどうかは分かりませんが「達成した」という発表がなされました。部外者からすれば経済計画が達成されたか否かなど検証しようがないのだから、当局が「達成した」と宣言すれば、それは「達成した」ということになるわけです。

しかし、今回はそうはなっていません。1月17日づけ『朝鮮新報』は、朝鮮社会科学院経済研究所(在ピョンヤン)のリ・ギソン(李基成)氏とのインタビューを掲載しています([]、[]。邦訳[]、[])が、その中で戦略遂行期間に達成する数値目標は変更されていない」とれさています。これは、「経済計画が上手くいっていないとき」の典型的パターンとは異なります。この発言について、韓「国」キョンナム大のイム・ウルチュル(林乙出)教授は、「特に「史上最大規模の制裁が敢行されたが、戦略的な実行期間に達成する数値目標は変更されなかった」と強調した部分を注意深く見守る」と評価しています(SPN1月17日づけ北 사회과학원 연구사, 국가경제발전 5개년전략...자립경제토대 강화-인민경제 현대화 이룩 주장)。

また、仮に国家経済発展5か年戦略が放棄されたとすれば、少なくとも今後は、「国家経済発展5か年戦略」という単語を筆頭にこれに関連した一切の言説が控えられるはずです。「儒教文化」と「科学的社会主義」という、正統性を何よりも重視する2つの思想体系をともに信奉している共和国政権が、単に「失敗」しただけではなく「失敗して諦めて投げ出したもの」に触れるはずがありません。しかし、共和国国内でのリ・ギソン氏への上掲インタビューが共和国当局によって許され、そしてそれが朝鮮総聯機関紙である『朝鮮新報』に掲載されたところを見ると、「放棄した」とは言えないように思われます。

■おわりに――社会主義の革新へ
「「内閣中心制の強化」は分権型社会主義の実践」「「社会主義商業の復元」の意義と「消費社会主義」への転換」「「先質後量」原則の重大な意義」の各節は、通常的な総会報道論評とは異なる角度から書きました。どれほどの閲覧者の皆さんが現代朝鮮式社会主義の行方に関心があるのかは存じ上げませんが、昨年の大晦日付け「チュチェ108(2019)年を振り返る(1):社会主義企業責任管理制が憲法レベルで位置付けられた共和国史と社会主義思想発展史に残る画期的一年」でも長文を投稿したとおり、私にとってはこれこそが関心のド真ん中です。

今年も現代朝鮮式社会主義の行方にスポットライトを当てた記事執筆を進めてまいる所存です。よろしくお願いいたします。
posted by 管理者 at 22:07| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする