https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200313-00071075-gendaibiz-soci新型コロナ、テレビでよく見る「専門家」に対する大きな疑問と違和感
3/13(金) 6:31配信
現代ビジネス
(中略)
本当に専門家なのか
岡田教授にしても、大谷医師にしても、感染症や呼吸器疾患が専門であることは間違いないのであろう。前者は感染研出身であるし、後者は一般向けの書籍もたくさん出している。これまでのテレビ出演の実績も多いようだ。
しかし、これだけ国民の関心が高い問題について、そして皆が不安を高めているなかで、きちんと科学的に説明ができるだけの専門性があるかというと、それは非常に疑わしい。
テレビ局は、いったいどのような基準で専門家を選んでいるのだろうか。おそらくは、これまでも局の番組に出演実績があり、出演交渉を受けてくれて、なおかつ話が分かりやすい人という基準は重要だろう。
専門性については、著名である、本を出している、有名な大学や機関に所属しているなどということも大きいかもしれない。岡田教授にしても、大谷医師にしても、そのいくつかに当てはまる。
しかし、科学者の端くれとして、私はその人の専門性を見るときに、専門の学術論文がどれくらいあるかということがまず重要な基準であると考えている。
有名であるとか、本を出しているとかは基準としては、さほど重要でない。テレビや雑誌で有名な人でも専門家として疑問のある人はいくらでもいる。また、本は著者と出版社がOKであれば出せるが、論文は同じ科学者の査読を経ないと出版されないためハードルや質が高い。
実際、調べてみたが、大谷医師はもちろんのこと、大学に勤める研究者であるはずの岡田教授は、雑誌記事の類はたくさんあるが、学術論文は1998年を最後に1本もない。
研究者が自身の研究業績を発表するResearchGateやreserchmapなどには名前すらなかった。こういう人は普通、専門家とは呼ばない。
(以下略)
■なぜ岡田教授や大谷医師がテレビで重宝されるのか
じつに的確に事実を捉え、科学的見地から正しく論評されていると思います。それだけに、とても「残念な出来」になってしまっています。
いまや昼間の情報番組ではおなじみの岡田晴恵・白鷗大学教授や医師の大谷義夫氏らが、「専門家」とは言い得ないような怪しげな人物だということは、記事筆者である原田隆之・筑波大学教授のご指摘のとおりで私も異論はありません。そして、そうした怪しげな人物が公共電波で重宝され、眉唾な言説を垂れ流しているのは忌々しきことであります。
そうであるからこそ、
「なぜ岡田教授や大谷医師がテレビで重宝されるのか?」、つまり「なぜテレビ局は、怪しげな人物を番組に呼び、誰もが認めるような感染症の専門家を呼ばないのか?」ということにこそ注目すべきと私は考えます。俗流「専門」家が持ち正統派専門家が持っていないものを対照することによって、
視聴者等の一般庶民が何を求めているのかが見えてくるものと思われます。そして、それを出発点として、科学的立場から対応策を組み立てることが急ぎ必要だと考えます。
テレビの情報番組が扇動的なコンテンツを配信し、人心・世論が動揺するという現象は、今回に限らずよく見られるものです。当ブログは以前から事件報道や刑事裁判、「北朝鮮」報道など、世論が一方向に偏りがちなテーマを取り上げてきましたが、こうした世論の「沸騰」に対するテレビの情報番組の「貢献」は実に大きなものがあります。
事件報道を分析する界隈ではよく言われることなのですが、新聞等の文字によるメディアと異なり
テレビ等の映像によるメディアには「放送時間」という厳しい制約があり、限られた時間(ふつうはごく短時間)内に効果的にメッセージを伝える必要があります。数分程度のコーナーで起承転結がつくように情報を圧縮して伝える必要があります。
それゆえ、どうしても演出は派手になりがちで、出演者は話が端的で分かりやすい人が選ばれる傾向にあります。
多くの科学者仲間から引用される質の高い学術論文を発表しているような著名な科学者であっても、話が分かりにくいようではテレビ局からはお呼びがかからないのです。
そしてまた、
視聴者の側としては、「いま自分たちは何をなすべきか」ということを端的に知りたいという欲求ゆえにテレビの情報番組を視聴するのです。
たとえば、事件報道界隈で言えば、橋下徹・元大阪市長のように、不明確なことであっても断定的にコメントする人が大変な人気を誇っていたとおりです(光市事件弁護団への懲戒請求扇動が最たるものでしたが、その内実・実態は、かなりいい加減なものでした)。橋下氏がコメンテーターだったころはまだ記憶に新しいところかと思います。思い出してみてください。人々が何を求めているのか、テレビ局が何を求めているのかが見えてくるはずです。
原田教授は、岡田教授や大谷医師の論文執筆本数を以って専門家か否かを判断しています。これは科学者の世界では基本的かつ当然の視点ですが、テレビ局や視聴者にとっては、「どうでもいいこと」以外の何物でもありません(とんでもなくピントがズレていますね・・・)。
テレビ局や視聴者は、知りたいテーマを自分に合った形で答えてくれる人を求めているわけであり、
大ウソやあからさまなデタラメを言わない限りは、科学者としての業績が多少見劣りしていたとしても構わないわけです。
もし、岡田教授や大谷医師のような人が存在しなかったとしても、だからといって話が分かりにくい正統派科学者がテレビに出てくることはないでしょう。そういった場合おそらくテレビ局は、正統派科学者の取材メモをアナウンサーに読ませるでしょう。ときどきありますよね、スタジオの番組出演者たちの疑問・質問に対して「oo大学のxx教授によると・・・」とフリップボードで回答を提示する番組。当の大学教授の出演スケジュールが合わなかったのか、ギャラに折り合いがつかなかったのか、話が破滅的に分かりにくかったんでしょうね。
この点、ネットニュース編集者の中川淳一郎氏が面白い記事を書いています。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200314-00612306-shincho-sociウイルス禍が産んだアイドル「岡田晴恵教授」(中川淳一郎)
3/14(土) 5:55配信
デイリー新潮
新型コロナウイルス報道でもっとも有名になったのは、白鴎大学の感染症の専門家・岡田晴恵特任教授でしょう。この1カ月ほど、平日はテレビで見ない日がないほどの八面六臂の活躍ぶりで、朝にテレビ朝日で見たと思えば午後はTBSに登場している。(中略)
今、岡田さんが引っ張りだこになるのも分かるんです。何しろズバリと答えを言ってくれる。「重点地域を決めて各自治体主導で検査・治療をすべきです」といった感じで。
初めのうちは、2003年のSARS対策に当たった感染症専門家の初老男性がテレビに出ていたのですが、この人が喋ると他の出演者がイライラし始めるんですよ。
「ならば、感染しないためには、ズバリ我々は何をすればいいのですか!」
と迫ったところで、
「ンまぁ〜、人によってそれは異なるわけで、その人が置かれた環境により対策は違うわけであり、状況の推移を見守り、適切に対処していくべきです」
常にこんな調子で、結論を言わないんですよ。もちろん、人の命にかかわることだから、断定をするのは乱暴ですし、状況が分からないにもかかわらず提言をすることの危険性はあります。この方は長年研究してきたからこそ慎重に発言するし、感染症対策が一筋縄ではいかないからこそのこの話法です。そこは理解します。
しかし、テレビというものは「じゃあどうすればいいの! バシッと一言でお願いします!」と、一番に断定を求められます。
一方、岡田さんは慎重に喋りながらも、「という場合もある」「〇〇の方がいいですよね」と「半断定」「選択肢提示」的な話し方をしてくれる。極端な断定を求められたら「だから」や「ですから」と遮り、「もぅ、これだから素人はダメなのよ。答えを早く求めすぎるし、さっきそのことは説明したじゃないの」のような苛立ちも伝わってくる。だからこそテレビ各局からオファーが殺到するのでしょう。(以下略)
たしかに、ダラダラとメリハリのない、いかにも研究者風な専門家が徐々に登場回数を減らしてきた一方で、岡田教授は「生き残って」います。これが示すことはあまりにも明らかです。
ダラダラと話すような専門家は、いかに研究の世界で優秀であっても一般庶民にとっては「お呼びでない」ということなのです。
原田教授も記事中、「
これまでも局の番組に出演実績があり、出演交渉を受けてくれて、なおかつ話が分かりやすい人という基準は重要だろう」と指摘されている点、このこと自体はご理解なさっているのだと思われます。
それだけに「一般庶民が何を求めており、いま科学者には何が足りていないのか」という方向に論が進まないのは、とても残念に思います。「そこに答えがもう落ちている」のにそれをスルーするというのは、原田教授にあっては「一般庶民は何を求めているのか」について、あまり関心がないということなのでしょう。
■「科学者が一般庶民に接近する」ことの重要性
むしろ、全体的に科学的啓蒙を志す内容であり、とりわけ次のくだりが端的ですが、「科学者が一般庶民に接近する」のではなく「一般庶民が科学者に追いつく」ことを是としているようです(該当部分のみ引用)。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200313-00071075-gendaibiz-soci&p=5誰を信じればよいのか
今回のコロナ騒動をめぐっては、いろいろな専門家がテレビやネットで意見を開陳している。そして、人によって言うことが違うということも混乱に拍車をかけている。
あるテレビ番組では、東国原英夫氏が「困るのは専門家によって言うことが違うということ。右往左往している。こういうときは、どっか司令塔に意思統一してほしい」と述べていた。これもまた危険なことである。権力やメディアが科学者の言うことに規制をかける社会など、考えただけでも恐ろしい。
たしかに、「マスクをしろ」という人がいたかと思えば、「マスクは大して役立たない」という専門家がいたり、「積極的に検査をしろ」という専門家がいれば「それはいけない」という専門家もいる。聞いているほうは、どれが正しい情報かわからず混乱する一方だ。
私も、大学の授業の時に学生から「先生によって言うことが違うのですが、何を信じたらいいのですか」と聞かれたことがある。そのようなとき私は、「先生を信じるよりも、データやエビデンスを頼ってください」と答えている。
重要な判断をするとき、あの先生が有名だ、本をたくさん出している、あの先生が偉い、好きだなどという曖昧なことを根拠にしてはいけない。また、データにも質の違いがあり、データであれば何でもよいわけではない。どのようなデータを選ぶか、データの質を吟味するには、高い科学的リテラシーが要求される場合がある。さらに言えば、科学だって限界はあり、データだけに頼りすぎることも危険である。
こんなことを言うとますます混乱するかもしれないが、せめて今できることは、メディアが専門家を選ぶ際の基準を厳格にすることだろう。そしてメディアに携わる人々は、ぜひ科学的リテラシーを高めるように勉強してほしい。
「
私も、大学の授業の時に学生から「先生によって言うことが違うのですが、何を信じたらいいのですか」と聞かれたことがある。そのようなとき私は、「先生を信じるよりも、データやエビデンスを頼ってください」と答えている」というのは、実に科学的に正しい態度であります。私もかくありたい・かくあらねばならぬと常々考えて努力しています。しかし、一般庶民は、筑波大学の学生ほど科学的素養があるわけではありません。日本の教育制度においては、理数系科目を徹底的に回避し、テスト前の暗記だけで乗り切ることも不可能ではありません。それゆえ、中学校レベルの科学的思考方法さえも身につけていない人はザラにいると言っても過言ではありません。そんな人たちが、「
データやエビデンスを頼ってください」と諭されて「ハイ分かりました、頑張ります」と言うでしょうか?
「一般庶民が科学者に追いつく」と言うのは、相当困難なことであると言えるでしょう。教育政策として取り組むべき長期的課題だと思います。
とりあえず直近の新型コロナウィルス禍にかかる社会的混乱を乗り切るためには、「科学者が一般庶民に接近する」という方法論で臨むべきでしょう。
岡田教授や大谷医師の「テレビ映り」を研究することで「専門外の人たちに専門知識を広めるには、どうしたら効果的なのか」を探ることが必要だと考えます。
また、
長期的課題においても「科学者が一般庶民に接近する」という方法論は決してバカにできないでしょう。昨年10月12日づけ「
「地球平面説」支持者が増えている事実が示すこと」及び本年2月20日づけ「
新型肺炎を巡る「不安」の正体は、科学的見地が軽視されているためではなく、科学「者」が軽視されているため」でも述べたとおり、いま一般社会では
科学者に対する不信感が募っています。これは、
科学者と一般庶民との間でコミュニケーションが取れていないためであると考えられます。コミュニケーションを成立させるためには、「正しいこと」を一方的にまくし立てるのではなく、
双方が歩み寄り合う形での対話が必要です。科学的な知識や理解を広める過程は、自分以外の他人との交流・意見交換を伴う点において「
対人活動」なのです。
また、
科学者が陥りがちな「落とし穴」として
「知識のタコツボ化・専門バカ化」があります。
謙虚さを失い専門分野にのめり込んだ科学者は、総合的に見れば誤りを犯すことがあります。
たとえば、高速増殖原型炉「もんじゅ」のナトリウム漏洩事故は、専門家同士の連係ミスであると
指摘されています。原子炉レベルの高度な技術が要求される場面では、その分野の専門家以外は、「ド素人」とは言わないまでも、知識水準には大きな開きがあると言えます。
これを防ぐためには、「科学者が一般庶民に接近する」に準じた方法論を取るべきでしょう。
相手が一般庶民であっても同様です。とくに経済学者にありがちですが、生活者としての一般庶民に言わせれば荒唐無稽と言う他ない
生活実感が欠如した理論的考察ゃ政策案が飛び出てきます。
こういったことを避けるためには、「科学者が一般庶民に接近する」という心構えが大切です。
なお、後に触れるような屁理屈的な極論への飛躍があると困るので断っておきますが、「上山下郷(下放)せよ」とまで言っているわけではありません。
■戦略的に「好かれる科学者」になれ
原田教授は心理学の専門家なのでご存じないはずはないでしょうが、P.ラザースフェルド(P.Lazarsfeld)の「コミュニケーションの二段階の流れ仮説」(the two-step flow of communication)を踏まえるに、人々は自分にとってのオピニオンリーダーを介して新しい知識・情報を受け容れるか否かを判断していると言います。「
重要な判断をするとき、あの先生が有名だ、本をたくさん出している、あの先生が偉い、好きだなどという曖昧なことを根拠にしてはいけない」という
「あるべき論」も分かりますが、事実から出発する必要があります。
すこし「邪道」に見えるかもしれませんが、正統派科学者は、学問のみに精励するのではなく「好かれる科学者」になり、その地位をある意味「利用」して科学的見解を広めるという手があるでしょう。仕方のないことです、科学的素養のない一般庶民は好き嫌いで判断するのだから。
孤高にも「あるべき論」を主張して何も変わらない・何も実現しないよりは、すこし邪道であっても効果が上がる方法を取った方がよいでしょう(こう考えるのは、やはり私が学問の人というよりも政策の人だからなのでしょうかね)。
■視聴者は「諸説あること」を知りたいわけではない
なお、記事中、原田教授は「
あるテレビ番組では、東国原英夫氏が「困るのは専門家によって言うことが違うということ。右往左往している。こういうときは、どっか司令塔に意思統一してほしい」と述べていた。これもまた危険なことである。権力やメディアが科学者の言うことに規制をかける社会など、考えただけでも恐ろしい」としていますが、
これは明らかに飛躍であります。要するに、素人たる一般庶民には科学者同士の意見対立を見せられたって何が正しいのか分からないのだから、
「話をまとめてから持ってこい」というだけのことです。視聴者は、「諸説あること」を知りたいわけではなく、「いま自分たちは何をなすべきか」ということを知りたいのです。
これは、一般的な職場では当然のことです。自社ないしはクライアントにとって最適な戦略を考えるためには、プランを幾つか立案し議論を活発に展開することは必要不可欠なことですが、とっ散らかった状態でプレゼンしようものなら、自社上席者またはクライアントから「話をまとめてから持ってこい」と一喝されることでしょう。とくにクライアントの依頼で戦略等を考える場合、クライアントは自力では戦略を立てられないから外注しているのに、当の外注先が「諸説あります」なんてプレゼンをしたら、そりゃ怒られるでしょうね。もう二度とお呼びがかからないかも知れません。
どうしても「諸説あること」を見せたいのであれば、「朝まで生テレビ!」のような深夜放送か「日曜討論」のような明らかな討論番組でやれば宜しいのです。昼の情報番組を見るような人たちは、この手の討論番組は見ないでしょうから、棲み分けできると考えられます。
「視聴者が何を求めているのか」という事実から出発すべきです。
「視聴者が何を求めているのか」に無関心だと、ここまでハチャメチャなことを口にできるのですね・・・前回2月20日づけ記事で私は原田教授の執筆姿勢について「
原田教授が自席に腰を掛けたまま、相手側の視点に合わせてみることもせずに自分の視点だけで記事を書きあげたことが透けて見える」としました。個人に粘着しているつもりはないし、あの手の罵倒まがいのことは書かないつもりだったのですが・・・
■総括:科学普及活動は対人活動
最後に、昨年10月12日づけ「
「地球平面説」支持者が増えている事実が示すこと」でも引用した以下のくだりを再掲したいと思います。
https://bunshun.jp/articles/-/14297?page=3反科学の人々が求めるのは「信頼」と「共感」か
「反科学」デマを追う『ルポ 人は科学が苦手 アメリカ「科学不信」の現場から』の著者・三井誠氏は、「科学コミュニケーション」の重要性を説く。かつて紀元前に地球球体説を説いたアリストテレスは、演説に大切な三要素として「ロゴス(論理)」「エトス(信頼)」「パトス(共感)」を挙げた。人々を説得する際、エビデンスや事実だけでは十分ではない。三井氏は、近代科学を広める人々が「論理」に頼りすぎて「信頼」と「共感」のコミュニケーションに失敗した可能性を指摘している。結局のところ、「反科学」旋風の対策は、専門家がインターネット等で知識を魅力的に伝えることなのかもしれない。
科学普及活動は対人活動なのです。