2020年05月31日

ここまでくると立派なクレーマー:クレーマーの大声が目立つ新型コロナウィルス禍の世相

https://news.yahoo.co.jp/articles/9ee306e79bf3ea21db1145025f7d3caf75e6eb9a
焦って進めた「9月入学」でまた墓穴…安倍政権の「断末魔」
5/28(木) 7:01配信
現代ビジネス

(中略)
「9月入学」浮上
 今、官邸は、起死回生の一打を放とうと必死になっている。そんな中で飛び出して来たのが「9月入学」問題だ。当初は一部の知事から出たアイデアだが、それに官邸が食いついた。今年9月からは無理として、2021年9月から実現させようという動きの背後には今井氏がいると、この議論に加わる教育関係者などが信じている。
(中略)
 ところがこれには猛反対の声が上がった。もともと9月入学には賛成の人たちの間からも、「このタイミングで実施すべきではない」という意見が出た。5月25日に開かれた自民党の作業チームの会合では、反対論が噴出。意見を聞かれた知事らの多くも反対だった。結局、自民党は9月入学導入の見送りを求める提言を政府に出すことになりそうだ。

またしても拙速か
 民間人として公立中学や高校の校長を務めた教育改革実践家の藤原和博さんは、「9月入学制への移行問題については、3カ月の学校の閉鎖で生じた遅れを取り戻すことと一緒に議論すべきではない」と指摘する。それをやると「学校現場は『3カ月の遅れを6カ月かけて取り戻せばいいのね』と解釈し、旧態然とした授業がダラダラと続くことになる」というのだ。

(中略)
 結局、国民の関心を集めそうだった「9月入学」についても反対論が噴出、「なんでこの危機の時に拙速にやろうとするのだ」と安倍内閣への不信感を増幅する格好になってしまった。政権浮揚策どころか、墓穴を掘りかねない事態になったのである。

 安倍首相を支えて来た世耕弘成・自民党参議院幹事長は記者会見で支持率急落の感想を聞かれ、「新型コロナウイルス対策で成果を出して、国民に評価してもらうことに尽きる」と述べていた。経済の急速な悪化が始まっている中で、どう経済システムを守り、国民の生活を守っていくか。奇抜な政策ではなく、真正面から新型コロナに向き合うことにこそ、政権の浮沈がかかっている。

磯山 友幸(経済ジャーナリスト)
「9月入学」について安倍首相は「前広に検討する」とは言ったものの、自身はそれほど前のめりな姿勢は見せておらず、「門前払いにはしないので、みなさん意見を出してください」くらいのスタンスだったはず。積極的だったのは、小池・東京都知事と吉村・大阪府知事−−いざとなれば御上のせいにすればいいお気楽な立場――でした(国家が問題の責任を地方に帰すのは見苦しい限りですが、地方が問題の責任を国家に帰するのは、必ずしも間違いではないでしょう。それだけ国というものは重い責任を背負っています)。

これを「またしても拙速か」とは、すごい解釈。批判ための批判。ここまでくると立派なクレーマーというべきでしょう。「断片的事実を都合よく継ぎ接ぎすると、こういう風に『新しいストーリー』を創り上げることが出来るのか」とある意味で「感心」さえしてしまうものです。

新型コロナウィルス禍を巡って、下記を筆頭に当ブログでもさまざまな世相を取り上げてきましたが、クレーマー気質の人物による喚き声が目立っているのが現状であります。みんながみんなそうだとは思いませんが・・・

【新型コロナウィルス禍を巡って炙り出された世相 関連記事一覧】
http://rsmp.seesaa.net/tag/articles/%90V%8C%5E%83R%83%8D%83i%83E%83B%83%8B%83X%89%D0%82%F0%8F%84%82%C1%82%C4%E0t%82%E8%8Fo%82%B3%82%EA%82%BD%90%A2%91%8A

素人考えで天下国家を論ずる風潮以上に、クレーマー気質の人物による喚き声が目立つことに私は危機感を持つものです。

かつて将軍様は「下からの批判が良薬であるなら、諂いは砂糖をからめた毒薬にひとしい」と仰いました。批判は社会生活の改善・お互いの成長にとって必要なものです。しかし、クレーマー気質なる手合いによる騒ぎは、それには何ら資さぬものと言うべきでしょう。

私たちは日本社会の主人であります。自分たちの社会の主人としての責任と矜持を持てばこそ、批判のための批判などは最も恥じるべきであり、クレーマー気質の喚きとは一線を画すべきでしょう。
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2020年05月29日

社会政治的生命体論の魅力と論理の飛躍について

■チュチェ思想信奉者に出会えた!
最近、Twitterを作った私ですが、同じく共和国やチュチェ思想などに関心を持っている方々と少しずつ交流の機会を持たせいいただくようになりました(この場を以って感謝申し上げます)。そのうちのお一人に、在日朝鮮人3世でチュチェ思想研究家の@blog_juche_ideaさんがいらっしゃいます。Twitterだけでなくチュチェブログというブログを開設し、精力的に執筆を展開されています。個人ブログ等をほとんどチェックしていない私も、その発信内容が実に興味深いためにTwitterで出会って以来、頻繁にチェックさせていただいているところです。

ことの発端はTwitterの投稿でした。「ミクロとマクロの関係は相互に作用するので、一方向からのみ決まることではないが、ミクロの集合体がマクロとして表れる、という原理がある。ミクロ(個人)の主体性・発展が重要だとするのがチュチェ思想の本質だ」というご意見に対して私が≪주체사상교양에서 제기되는 몇가지 문제에 대하여≫(『チュチェ思想教育(教養)において提起される幾つかの問題について』――以下、「7.15労作」といいます)を下敷きに「チュチェ思想は「ミクロかマクロか」という議論ではないと思います」とコメントさせていただいたのです。

激論というような議論ではなかったのですが、双方の考え方の違いはハッキリとあらわれていました。私は、キム・ジョンイル総書記の見解をチュチェ思想体系から分離するのは困難であると考えているのに対して、@blog_juche_ideaさんは「金正日の独自の解釈とその流れをくむ「金日成・金正日主義」は「チュチェ思想」として認めない」と言明されたのです。

私のコメントも幾らかの刺激になったのでしょうか、その後、@blog_juche_ideaさんはご自身のブログにおいて「家父長制からの脱却とチュチェ思想の飛躍」という記事を公開されました。「当ブログは「社会政治的生命体論」に代表される金正日の独自の解釈は「チュチェ思想」として認めない立場である」と言明されています。

社会政治的生命体論の評価は、チュチェ思想を考える上で避けられない重要な問題です。私は、チュチェ思想研究を志しており、また、チュチェ思想を参考にしつつ日本の自主化を実現したいと考えています。そこで今回は、Twitter上でのやり取り及び上掲「家父長制からの脱却とチュチェ思想の飛躍」を出発点として、私なりに社会政治的生命体論について考えてみたいと思います。

■社会政治的生命体論の魅力
@blog_juche_ideaさんと異なり私は、7.15労作を中心に展開されている社会政治的生命体論を原則として支持しています。また、社会政治的生命体論の形成こそが朝鮮式社会主義・主体的社会主義であると提起した『人民大衆中心の朝鮮式の社会主義は必勝不敗である』の内容も原則として支持しています。この立場から私は数年来にわたって、当ブログにおいて主張を展開してきました。

私が社会政治的生命体論を原則として支持しているのは、なによりも、社会政治的生命体における人間関係の原理に魅力を感じているためです。「혁명적 의리와 동지애는 개별적 사람들을 하나의 사회정치적 생명체로 결합시키는 작용을 합니다」と総書記が指摘されているとおり、同志愛と革命的義理心に基づいた道徳義理的団結が社会政治的生命体論の根本であることに私は魅力を感じているのです。これは「自由と平等」を前提としつつも、それよりも一段高みにある関係性です。社会的存在としての人間が幸福に生きるための人生観の基礎であります。それゆえ、当ブログでは折に触れてブルジョア「個人」主義的な世相を取り上げて批判的に論評し、同時に、同志愛と革命的義理心に基づいた道徳義理的団結に基礎づけられた人間関係論の優越性を主張して参りました。

社会政治的生命体論は、人倫・人間性の回復を掲げた初期マルクスの問題意識と通底していると考えられます。それでいながら社会政治的生命体論は、いわゆる「リベラリズム」のような主観観念論的な博愛主義的言説とは明確に一線を画してもいます。つまり、チュチェの革命論がマルクス主義の科学性と革命性を継承しつつも発展させているというわけなのです。

また、社会政治的生命体論においては、「首領・党・人民大衆が三位一体的な統一体を構成することで革命の主体が形成され、そうした統一体が主体として運動を展開することで人類史が前進する」という見解があります。後述のとおり私は、システム工学的な世界観を持っているので、革命の主体を「首領・党・人民大衆の統一体」と定義し、それが運動することで人類史が前進するという見方:ミクロとマクロを一体化させたシステム的な「主体」の定義には、とても納得がいくのです。

人類史を振り返るに、私は歴史の自主的な主体は、いわゆる「個人」:近代主義的な個人ではなく、組織化された人間集団であると考えています。近代主義的な個人は、あくまでも日常生活における主体であり、社会歴史的なスケールでは主体にはならないと考えています。社会歴史的なスケールとは、社会学でいう社会集団論を下敷きとしたものであり、3人以上で構成される集団であるがために一個人の決意や主観的意思と行動だけでは自由に操作できない空間スケールを「社会」、世代を超える時間スケールを「歴史」として考えています。

ちなみに、チュチェ思想には朝鮮哲学の伝統的内容が色濃く反映されていますが、朝鮮の伝統的思惟においては、主体は近代的な意味での「個人」ではありません。7.15労作で最も儒教的な部分と言い得る次のくだりは、鐸木昌之氏の『北朝鮮 首領制の形成と変容――金日成、金正日から金正恩へ』(明石書店・2014年)によると、ほぼ同じ理屈の内容が韓「国」の倫理道徳の教科書にもあるといいます(P181−182)。
자식들이 자기 부모를 사랑하고 존경하는 것은 자기 부모가 반드시 다른 부모들보다 낫거나 그들로부터 어떤 덕을 입을 수 있기 때문이 아니라 바로 자기를 낳아키워준 생명의 은인이기 때문입니다. 혁명적 의리를 지키는 사람이라면 좋을 때나 나쁠 때나 변함없이 오직 자기 생명의 모체인 수령, 당, 대중과 생사운명을 같이해나갑니다. 만일 그 누가 자기 나라가 뒤떨어졌다고 하여 실망하고 자기 조국에 대하여 다른 마음을 먹거나 조국이 위험에 처하였을 때 자기를 키워준 어머니 조국을 배반하고 자기 한 몸만을 건지려고 한다면 그 어느 나라 인민도 그러한 인간을 양심을 가진 사람이라고 보지 않을 것입니다. 혁명적 의리를 가진 사람이라면 어떤 바람이 불어와도 사대주의를 하거나 자기 수령, 자기 당, 자기 조국을 배반하는 일이 없을 것입니다.
ブルジョア「自由」主義が「進んでいる」日本の感覚からいえば、かなり「強烈」な内容ですが、ほぼ同じ理屈の内容が韓「国」の倫理道徳の教科書にもあるとなると、これは民族文化的なものであると言わざるを得ないでしょう。

さらに、『反帝闘争の旗を高くかかげ、社会主義・共産主義の道を力強く前進しよう』において提起されている、社会政治的生命体論を前提とするキム・ジョンイル総書記の情勢分析は、知識労働者が労働者階級の圧倒的部分を占める現代社会における革命の道・解放の道を明らかにしているものと考えられるので支持しています。肉体労働者を前提とし生産力ばかりに注目する無味乾燥なる古典的マルクス主義が産業構造・社会構造の劇的変化にうまく対応できておらず、思想としての生命力を失いつつあるのとは対照的なのです。

つまり、(1)同志愛と革命的義理心に基づいた道徳義理的団結に基礎づけられた人間関係論、(2)システム的な主体の定義、及び(3)情勢分析の3点において、社会政治的生命体論に魅力を感じ、原則として支持しているのです。チュチェ思想を参考にしつつ日本の自主化を実現したいと考えています

■首領の位置づけと実際との間の「飛躍」:革命的首領論が「首領独裁正統論」に転化している
しかしながら、社会政治的生命体論を「原則として支持」していると書いているとおり、すべてを無条件に支持しているわけではありません。とりわけ、首領の位置づけと実際との間に「飛躍」があると考えています

7.15労作において首領の位置づけは、次のように説明されています。いわゆる「革命的首領観」です。
사회정치적 생명체는 많은 사람들로 이루어져 있는 것만큼 거기에는 사회적 집단의 생명활동을 통일적으로 지휘하는 중심이 있어야 합니다. 개별적 사람들의 생명의 중심이 뇌수인 것처럼 사회정치적 집단의 생명의 중심은 이 집단의 최고뇌수인 수령입니다. 수령을 사회정치적 생명체의 최고뇌수라고 하는 것은 수령이 바로 이 생명체의 생명활동을 통일적으로 지휘하는 중심이기 때문입니다. 수령은 인민대중의 자주적인 요구와 이해관계를 분석종합하여 하나로 통일시키는 중심인 동시에 그것을 실현하기 위한 인민대중의 창조적 활동을 통일적으로 지휘하는 중심입니다.
社会的集団の活動を指揮するための中心が必要だという理屈自体は一般論としては正しいものです。欧米流リベラリズム――その最たるものが経済的な自由放任主義――のように、個々人の「自由」な行動が社会的に予定調和を達成するという無邪気な想定は、歴史的事実を踏まえればこそ到底受け入れることが出来ないものです。社会には指揮・調整のための中心が必要です。この意味で革命的首領観には一定の真理があると考えられます。

しかし、一般論として正しい「首領の理論的位置づけ」と、いままさに共和国で展開されている「実際の首領の在り方」との間には飛躍があるというべきです。平たく言えば、「いくら首領が必要だといっても、あれほどまでに権威と権力を一元的に手中に収める必要があるのか?」と言わざるを得ないのです。

7.15労作で首領の権威と権力が絶対化されてからというもの、共和国ではありとあらゆる場面で首領の構想と意図を無条件で実現させることが求められるようになってしまいました。たとえば、『建築芸術論』のような著作においてさえ、このことが至上命題として要求されるに至っています。ここまでする必要があるとは思えないところです。革命的首領論が「首領独裁正統論」とも言えるものに転化してしまっています

7.15労作においては、正しくも「당과 수령의 영도를 떠난 대중이 역사의 자주적인 주체로 될 수 없는 것처럼 대중과 떨어진 당과 수령도 역사를 향도하는 정치적 영도자로서의 생명을 가질 수 없습니다. 대중과 떨어진 수령은 수령이 아니라 하나의 개인이며 대중과 떨어진 당은 당이 아니라 하나의 개별적인 집단에 지나지 않습니다.」と記されています。実にシステム的な見方であり理屈としては完全に支持するものですが、このくだりと現実との間のギャップはあまりにも大きいのではないかと思えてなりません

■階級主義を清算し、革命的首領論と「首領独裁正統論」を切り離す必要性
私の目には「飛躍」に映るこの理屈について共和国当局は、まず、儒教の家父長的伝統の思惟を持ち出して合理化してきました。これについては、前述の鐸木(2014年)で綿密に論じられているので未読の方には是非ともご一読いただきたいと思います(ただし、本書前半の出来が素晴らしいのと比較すると、補章の出来が、韓「国」の左翼労組が運営しているBBSの書き込みを出典にしてしまう等、壊滅的に酷いのが惜しいところ)。チュチェ思想を参考にしつつ日本の自主化を実現したい私としては、あくまでも日本の問題解決のためにチュチェ思想を活用するというスタンスであり、朝鮮儒教の家父長的伝統の思惟を深く掘り下げることは優先度の低い話なので、ここでは具体的な指摘は割愛したいと思います。

共和国当局は、また、祖国解放戦争(朝鮮戦争)が休戦中であり対米対決の最中にある国際的環境も理由として合理化してきたように見受けられます。革命的首領観を極端に誇張した末にあるというべき「先軍政治」は、その代表例と言えるでしょう。「自然の征服と社会の進歩をめざす人民大衆の創造的活動は闘争をともないます(中略)とくに古い社会制度を新しい社会制度に変え、人民大衆の社会的解放を達成する過程は激しい階級闘争の過程です」(『チュチェ思想について』)という「階級主義」的見解も手伝って当然視されてきました。

チュチェ思想における革命的首領論が「首領独裁正統論」とも言えるものに転化している背景に階級主義の影が色濃く見られることは、注目すべきであります。

階級主義について、猪木正道氏の名著『共産主義の系譜』では、次のように論じられています(猪木正道『新版増補共産主義の系譜』2018年、角川ソフィア文庫、P75)
マルクスのヒューマニズムはその発端――現存社会における人間の自己疎外に対する憤激――とその結末――人間性の完全なる実現としての共産主義――とに局限されており、共産主義の実現過程そのものは物質的生産関係を基盤とする階級闘争にゆだねられている。この過程において主体的なものはプロレタリアートであるが、プロレタリアートは前述のように形而上学的範疇であることを度外視してもなお個性を没却した集団であり全体であって、一回生起的な人格の尊厳は集団としてのプロレタリアートの階級意識の中へと完全に埋没されてしまっている。こうしてマルクスは人間を自己疎外の魔術性から解放しようとしながら、かえって物質的生産力やプロレタリアートという集団の魔術性に呪縛してしまった。ここにマルクス主義が”プロレタリアートの独裁”の名において、全体主義的な奴隷制を生み出す危険性が潜んでいる。これはマルクスが人間を社会関係の中へと歴史的に解消したことから来る必然の帰結
階級主義的立場の根本的欠陥を鋭く指摘しています。本書の初版は1949年に上梓されたもので、上掲部分は初版からあるようですが、1949年といえば中国では人民共和国が建国された年、ソ連ではスターリンが健在だった頃。その頃から既に階級主義はここまで見抜かれていたわけです。階級主義は、プロレタリアート階級という「全体」を優先させてしまい個人の存在を塗りつぶすが如く超越してしまいがちだというわけです。

階級主義の著しい弊害を鑑みるに、これを清算する必要があると考えられます。階級主義を清算し、革命的首領論と「首領独裁正統論」を切り離す必要があると考えられるのです。

階級主義の清算については、実はチュチェ思想内部に既にその取っ掛かりが存在しています。かつてキム・イルソン主席は、『資本主義から社会主義への過渡期とプロレタリアート独裁の問題について』(チュチェ56・1967年5月25日)において、中国の文化大革命を念頭に、それと対比する形で朝鮮式の階級闘争について次のように教示されました。
社会主義革命を行うときの階級闘争は、ブルジョアジーを階級として一掃するための闘争であり、社会主義社会での階級闘争は、統一団結を目的とする闘争であって、それは決して社会の構成員を互いに反目し、憎みあうようにするための階級闘争ではありません。社会主義社会でも階級闘争を行うが、統一と団結を目的とし、協力の方法で階級闘争を行うのであります。
尾上健一氏のような「大物正統派」も、この認識をしばしば持ち出している点、チュチェ思想における階級主義の清算の取っ掛かりは、思想的に重要な要素として存在していると考えられます。

とくに21世紀に入ってからというもの、キム・ジョンイル総書記の『民族主義にたいする正しい認識をもつために』(チュチェ91・2002年2月26日及び同28日)を筆頭に、民族概念の地位がイデオロギー的向上し階級概念が相対的に地位を下げていることも階級主義の清算にとっては有利な傾向にあると言えるでしょう。

■日本革命の主人として日本的な関心から社会政治的生命体論を再整理する必要性
チュチェ思想を参考にしつつ日本の自主化を探究する立場、「日本革命の主人」としての立場から申せば、昨年12月18日づけ「社会政治的生命体形成の構想」で論じたとおり、日本的な関心から社会政治的生命体論を再整理する必要も生じます

なぜならば、社会政治的生命体を基礎づける同志愛と革命的義理心に基づいた道徳義理的団結の実現条件が、ブルジョア「個人」主義が蔓延している今日の日本社会において存在しているとは到底思えないからです。朝鮮式の社会政治的生命体を日本において形成することは相当困難であると考えられます。それゆえ、社会政治的生命体論そのものを日本の現実に合わせて調整する必要が生じると考えます。

また、ブルジョア的人間関係にドップリと浸かった日本人が、革命的首領論を抵抗なく受け付けるとも思えません。よって、これについても日本の現実に合わせて調整する必要が生じるでしょう。首領の役割を日本の現実に合わせて調整することはすなわち、社会政治的生命体論そのものを日本の現実に合わせて調整することを意味します。

社会政治的生命体における人間関係の基本原理である「同志愛と革命的義理心に基づいた道徳義理的団結」を更に抽象化すると、それは「集団主義的な社会的人間関係の原理」と言えそうです。たしかに、7.15労作を筆頭にチュチェ思想の諸労作においては、端的に「集団主義」という言葉を使って表現していることが多いのに気が付きます。

つまり、日本的な関心から社会政治的生命体論を再整理するということは、本質的には、日本社会の現実から出発して集団主義概念を深化させることであり、具体的には、集団主義の実現方法を首領との関係性の内に探求すること・首領の役割を見直すということなのです。

■首領の役割とは――革命の主体は首領・党・人民大衆によって構成されたシステム
実は私は、当ブログで以前から述べてきたとおり、認識論などの哲学的世界観としてはマルクス主義的唯物論を信奉しておらず、物理学におけるカオス力学の見地、F.A.ハイエク(Friedrich August von Hayek)的な知識論・認識論及びシステム工学的な見方が融合されたような立場に立っています。

経済政策に関する記事を幾つかご覧いただければお分かりいただけるかと思いますが、自由放任論には反対だが設計主義(計画経済)にはもっと反対であり、一定の管理の下での市場における自生的秩序を重視する立場を取っています。いかなる人間も万事・悉皆を知り尽くすことはできないからです。

首領といっても生身の人間です。いかに首領が天才的であったとしても物理的世界のスケールから見れば甚だ限定合理的な頭脳であり、よって一個人が合理的に取り仕切れることは、あまりにも少ないというべきであります。首領が社会的課題の解決を集中処理するのではなく、人民大衆の自発性を生かして社会的課題の解決を分散処理しつつそれを首領が全体プロデューサー的な立ち位置から調整するというのが、現実解であると考えています。

こうした考えは既に当ブログではチュチェ102(2013)年12月22日づけ「市場競争の効用は「効率性」よりも「多様性」」を筆頭とする経済政策に関する記事で主張してきました。市場における自由競争の真の効用は、費用最小化・利潤最大化という効率性ではなく、多くのプレイヤーが参加し自由にアイディアを市場に提案することによって生まれる多様性なのです。多様なアイディアの中から相互作用が生じ、一人では思いつかなかったような視野が広く豊かなアイディアが生まれてくるのです。

また、「自主権の問題としての労働問題」というタグでも展開してきました。いわゆる「ブラック企業」の淘汰について、個々人の「嫌だから・無理だから辞める」といったミクロ的なアクションが恰もベクトルの合成のようにマクロ的には大きなウエーブになり得るので、労働組合の組織的な要求運動ばかりに注目するのではなく、個々人のミクロ的なアクションを大切にしつつ、労働組合等は組織的・戦略的・意識的にそうした動きを支援・調整する役割を果たすべきだと述べてきました。

その点、当ブログでも数年来、その動向に注目して来た「社会主義企業責任管理制」及び「圃田担当責任制」は、内閣(党ではなく内閣)の全体的管理下におけるボトムアップ的な経済運営であります。まだまだ漸進的に形成されつつある制度ですが、方向性としては注目に値するものであり、将来的な首領像を形作るものになるかも知れないと考えています。

■集団主義概念に関する試案
ここでいう「集中処理」及び「分散処理」は、既にお気づきの方もいらっしゃると思いますが、システム工学におけるそれと同じ意味です。社会政治的生命体論は、革命の主体を首領・党・人民大衆の三位一体的な統一体としていますが、ここでいう「統一体」とはまさに「システム」のことだというべきです。チュチェ革命の主体は首領・党・人民大衆によって構成されたシステムなのです。

ちなみに、本記事冒頭でも少し論じましたが、「主体」をどのスケールに見出し、「主体」をどう定義するのかは、実に難しい問題です。近代主義感覚でいくと主体=個人と考えがちですが、朝鮮の歴史的思惟でいくと、主体≠個人です。「主体とは何か」を探究することこそがチュチェ思想探究の第一歩になるでしょう。私は、歴史の自主的主体は、近代主義な意味での個人ではなく、組織化された人間集団であると考えています。それゆえ、繰り返しになりますが、「首領・党・人民大衆の統一体」をシステムとして捉える社会政治的生命体論を原則として支持しているのです。

そこで、集団主義概念を「首領・党・人民大衆の統一体をシステムとして捉える」という切り口から深化させてみると、その統一体内部の構成要素同士の関係もまた、システム的な関係性であるべきだと言えるでしょう。すなわち、各構成要素の影響範囲はそれぞれに異なるものの、すべてが不可欠的な役割を果たしている点において単に影響範囲の大小のみで貢献度や発言力を測るわけには行かないということや、「鶏が先か卵が先か」的な相互関係ゆえに、どれか一要素だけを取り出して優劣をつけたりするのではなく、すべてをトータルに捉える必要性が生じることなどが見えてきます。

こうした原理は、すでに協同組合運動などで見られつつあるものです。当ブログでも協同経営化・自主管理化を突破口とする社会主義建設について構想してきました(昨年12月31日づけ「チュチェ108(2019)年を振り返る(4)――協同経営化・自主管理化を突破口とする社会主義建設の課題」など)。

その点、「首領独裁正統論」と化した現状の革命的首領論は、三位一体的な統一体といいつつも「頭脳」にあたる首領が権威・権力の両面であまりにも強調され過ぎており、三位一体でもなければシステムでもなくなってしまっています。かつてキム・ジョンイル総書記は、『社会主義に対する誹謗は許されない』(チュチェ82・1993年3月1日)において「社会主義の敵は、社会主義を「全体主義」「兵営式」「行政命令式」だと誹謗し」ているなどと憤慨しておられましたが、敵どもからそう言われても仕方ないように思われるところです。

集団主義概念を深化させることは、この問題の進展が社会思想の人類史的な画期的出来事になり得るフロンティアである点において、古今東西の社会理論に通暁し、さらに学際的にも考える必要があると言えます。上述のことはあくまでも一つの試案に過ぎませんが、このように集団主義概念を深化させることが社会政治的生命体論を再整理することに繋がると考えます。

■総括
同志愛と革命的義理心に基づいた道徳義理的団結を社会形成の根本原理と位置付ける社会政治的生命体論。これを日本の地において実現させるためには、階級主義の清算によって革命的首領論の「首領独裁正統論」への転化を解決し、また、社会政治的生命体論を再整理することが必要です。日本社会の現実に即した関心から出発して集団主義概念を深化させ、集団主義の実現方法を首領との関係性の内に探求すること・首領の役割を見直すということが必要なのです。

ここにおける首領の役割は、社会的課題の解決を集中処理するのではなく、人民大衆の自発性を生かして社会的課題の解決を分散処理しつつそれを全体プロデューサー的な立ち位置から調整するものであるべきでしょう。より具体的には、「首領・党・人民大衆の統一体をシステムとして捉える」という切り口から、さまざまな場面について詰めてゆくことになるでしょう。

■編集後記
はじめて体系的にチュチェ思想に関して論じてみたかも知れません。いつも報道記事に対してチュチェ思想的観点から論評するのが当ブログのスタイルだったからです。こういうのも、たまには良いのかもしれません。

最近すこし哲学探究から離れていましたが、私はシステム的な世界観を持っているとはいえ、ハイエク知識論・自生的秩序論の影響もあって、ミクロレベルのダイナミックスを比較的重視する立場です。

他方、やはり私は価値判断として社会主義の立場に立ちます(ちなみに、ハイエクは自由主義者ですが、自由そのものに価値があるから自由主義者というわけではなく、その知識論・自生的秩序論から導出される唯一の解が「自由」だったのです)。社会主義諸潮流を概観するに、マルクス主義があまりにも物質的条件に偏重しているのに対して、チュチェ思想には人間が見えます。人間が見える社会主義・共産主義思想は、あまり多くはないように思います。

そんなわけで、チュチェ思想的な人間中心主義とハイエク的なミクロ重視からそれぞれ利点を摘まみ取り、何とか折り合いを付けられないだろうかと色々考えてきました。

久しぶりに原点に立ち返りました。
ラベル:チュチェ思想
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2020年05月25日

安倍内閣も野党もそろって末期的

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200525-00000538-san-pol
埼玉・深谷市立中が政府配布マスクの着用求める
5/25(月) 16:38配信
産経新聞

(中略)
 プリントの写真は25日、学校関係者とみられる人物のツイッターに投稿されていた。プリントには27日の予定などが記載されており、新型コロナウイルスの感染防止の観点から、「アベノマスク着用(別のマスク着用生徒については携帯しているか)の確認」「アベノマスクを忘れた生徒は少人数教室に残る」などと記載されていた。
(中略)
 プリントが配布された背景について、川内氏は「安倍晋三首相は国家主義的な思想、政治哲学を前面に押し出しながら、これまで政権運営をしてきた。『アベノマスク』をあがめ奉っているごとくな書き方がしてあることにも、そういう一端が出ているのではないか」と語った。

 立民の黒岩宇洋国対委員長代理は「一国の首相に忠誠心を無理強いするようなことが現代に起こっている」と批判した。

 一方、無所属の山井和則衆院議員は「不織布マスクの方が感染防止効果が高いにも関わらず、感染防止効果のより低い布マスクを義務化するのは問題がある」と訴えた。山井氏によると、文科省担当者は「特定のマスクの着用は義務付けていない」と説明したという。

最終更新:5/25(月) 18:36
産経新聞
アベノマスク着用(別のマスク着用生徒については携帯しているか)の確認」というチェックポイントが理解しがたい(マスクなら何でもよくない?)ので、訳の分からない内部文書ですが、それに対する野党勢力の追及もまた訳が分からん・・・

安倍晋三首相は国家主義的な思想、政治哲学を前面に押し出しながら、これまで政権運営をしてきた。『アベノマスク』をあがめ奉っているごとくな書き方がしてあることにも、そういう一端が出ているのではないか」とする立憲民主党の川内博史衆院議員。「一国の首相に忠誠心を無理強いするようなことが現代に起こっている」という同党の黒岩宇洋国対委員長代理。なにその解釈w

山井和則衆院議員。無所属といっても旧民主党。「不織布マスクの方が感染防止効果が高いにも関わらず、感染防止効果のより低い布マスクを義務化するのは問題がある」だなんて、まだ言っているんですね。飛沫感染防止であれば布マスクで十分です。

ついに安倍内閣に対する支持率が3割を切ったという報道も出ていますが、対する野党側がこういうトンデモ解釈を連発するようだと、たとえ安倍降ろしは上手くいっても自民党政権は続くでしょうね・・・
ラベル:政治
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2020年05月24日

首領様の「縮地法」は、人民大衆の「縮地法」:『労働新聞』記事の意味について

https://www.donga.com/jp/article/all/20200521/2068724/1/%E5%8C%97%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%8A%B4%E5%83%8D%E6%96%B0%E8%81%9E%E3%80%81%E3%80%8C%E9%87%91%E6%97%A5%E6%88%90%E4%B8%BB%E5%B8%AD%E3%81%AE%E7%B8%AE%E5%9C%B0%E6%B3%95%E3%80%81%E5%AE%9F%E3%81%AF%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E8%83%BD%E3%80%8D
北朝鮮労働新聞、「金日成主席の縮地法、実は不可能」
Posted May. 21, 2020 08:16, Updated May. 21, 2020 08:16

北朝鮮官営メディアが、韓国国内にも知られている「金日成(キム・イルソン)主席の縮地法」について、「実際は可能ではない」という内容の記事を掲載し、その背景が注目される。

北朝鮮の労働新聞は20日、「縮地法の秘訣」と題する記事で、金氏が1945年11月、平安北道龍川郡(ピョンアンプクト・ヨンチョングン)の住民と会って話を交わした際、「そこにいた人がいなくなり、いなくなった人が再び現れるというような、地面を折りたたんだように(長距離を)行き来することはできない」と話したと伝えた。その場にいた住民が、「抗日遊撃隊時代に使ったという縮地法の話を聞きたい」と言ったところ金氏がこのように答え、「(当時)日帝と戦って勝つことができたのは、人民大衆の積極的な支持を得たためだ。『縮地法』があるなら、それは人民大衆の『縮地法』だろう」と話したという。

(中略)
このような状況は、金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長が自身を神格化することに距離を置いていることにもつながるとみられる。正恩氏は昨年3月、「第2回全国党初級宣伝活動家大会」に送った書簡で、「首領の革命活動と風貌を神秘化すれば真実を隠すことになる」と述べた。金日成、金正日(キム・ジョンイル)時代の神格化された指導者よりも人間的指導者であることを強調したのだ。これは、北朝鮮にスマートフォンが600万台以上普及するなど制限的ではあるが情報が交わされている状況で、最高指導者の神格化自体が難しいという現実的な判断も作用したとみられる。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200522-00000057-asahi-int
金正恩氏、また雲隠れ 「現実主義」との関連指摘も
5/22(金) 17:02配信
朝日新聞デジタル

(中略)
 こうしたなか労働新聞が20日、最高指導者の偶像化に用いてきた「神話」を否定する記事を載せたことが、韓国の北朝鮮専門家らの間で注目された。正恩氏の祖父の金日成主席や父の金正日(キムジョンイル)総書記は、落ち葉に乗って大きな川を渡るといったような宣伝を行い、偶像化を進めてきた。これについて記事は「実際は人間が、いたところから消えたり再び現れたりできない」とした。北朝鮮では、最高指導者に言及する際に独断で行うことはありえず、記事は正恩氏の意向が反映されているとみられる。

 また、労働新聞の昨年3月の記事では正恩氏自身も「もし偉大さを強調するなどといって、首領(最高指導者)の革命活動や風貌(ふうぼう)を神格化すれば、真実を隠すことにつながる」と述べた。韓国の北朝鮮専門家は「正恩氏が先代の神話による統治を薄め、現実主義や実用主義で政治を行おうとしている」とみる。

 北朝鮮の内情に詳しい別の関係者は、健康悪化説の発端となった「太陽節」行事の不参加も、正恩氏の現実的な行動の一つだったとみている。この関係者によると、北朝鮮は4月初めの時点で、新型コロナウイルスの影響から行事を中止か縮小すると事前に決めていたという。(ソウル=神谷毅)

最終更新:5/22(金) 19:52
朝日新聞デジタル
こういう重要なニュースについては原典に当たることが重要なので、우리민족끼리に掲載されているのをチェックしておきましょう。
http://www.uriminzokkiri.com/index.php?ptype=cgisas&mtype=view&no=1192341
주체109(2020)년 5월 20일 《로동신문》
チュチェ109(2020)年5月20日「労働新聞」

《축지법》의 비결
「縮地法」の秘訣

경애하는 최고령도자 김정은동지께서는 다음과 같이 말씀하시였다.

敬愛なる最高領導者:キム・ジョンウン同志におかれては次のようにおっしゃた。

《일군들은 〈모든것을 인민을 위하여, 모든것을 인민대중에게 의거하여!〉라는 구호를 높이 들고 헌신적으로 투쟁하여야 합니다.》
「活動家は、<すべてを人民のために、すべてを人民大衆に依拠して!」というスローガンを高く掲げて献身的に闘争すべきです」

주체34(1945)년 11월 어느날 당시 룡천군의 소재지였던 룡암포를 찾으신 위대한 수령님께서는 군인민자치위원회에서 마련한 소박한 연회에 참석하게 되시였다.
チュチェ34(1945)年11月のある日、当時、リョンチョン(龍川)郡の所在地であったリョンアムポ(龍岩浦)を訪れられた偉大な首領様におかれては、郡人民自治委員会が用意した素朴な宴会に参加なさった。

그이를 한자리에 모시고 함께 식사를 하게 된 이곳 일군들의 가슴은 격정으로 한없이 설레이고있었다.
首領様を一堂に戴き共に食事をとることなった。当地の活動家たちの胸は躍っていた。

연회가 한창이던 때였다. 한 농민조합의 위원장이 자리에서 불쑥 일어나더니 위대한 수령님께 만주광야에서 일제놈들과 싸울 때 쓰시던 축지법이야기를 좀 해주셨으면 하는 의향을 말씀드리였다. 그의 말이 끝나기 바쁘게 연회참가자들은 열렬한 박수로 공감을 표시하였다.
宴会が盛り上がっていたときだった。ある農民組合の委員長が席から突然立ち上がり、偉大な首領様に、満州の荒野で日帝どもと戦うときに使われた縮地法の話を少々していただきたいとお願い申し上げた。彼の言葉が終わやいなや宴会参加者たちは熱烈な拍手で共感を示した。

위대한 수령님께서는 정깊은 시선으로 좌중을 둘러보시다가 여러분의 소원이 정 그렇다면 말하겠다고 하시면서 다음과 같은 이야기를 들려주시였다.
偉大な首領様は、情深い眼差しで一座をご覧になり、皆さんが望むならお話しましょうと言って、次のような話を聞かせてくださった。

그때 일제는 방대한 병력을 동원하여 항일유격대에 대한 《토벌》을 감행하였는데 이르는 곳마다 밀정들을 박아넣고 유격대가 있는 곳을 탐지해가지고는 사면팔방으로 공격해왔다.
あのとき日帝は膨大な兵力を動員して抗日遊撃隊の「討伐」を敢行したが、いたるところに密偵を送り込み遊撃隊がいるところを探知しては四方八方に攻撃を仕掛けてきた。

그렇지만 놈들이 나타나기만 하면 인민들이 얼마나 되는 《토벌대》병력이 언제 어디를 떠나 어느 골짜기로 들어간다는것을 지체없이 우리 사령부에 알려주군 하였다.
しかし、奴らが現れれば人民たちは、どのくらいの「討伐隊」兵力が、いつ、どこを発ちどの谷に進むのかを直ちに我が司令部に知らせてくれた。

그러면 우리는 지휘관회의를 열어 면밀한 작전계획을 세웠다.
そこで私たちは、指揮官会議を開き、綿密な作戦計画を立てた。

우리는 유격대가 그 자리에 그냥 있는것처럼 위장을 하고 실지 부대는 슬쩍 빠져서 매복하게 하였다.
私たちは、遊撃隊の所在地を偽装して実地部隊はこっそり抜け出して待ち伏せした。

이것을 알리 없는 일제놈들은 이번에는 틀림없다고 호언장담하면서 들어왔다가 유격대가 한명도 없는것을 알고 아연실색하여 황황히 돌아서는데 이때 유격대가 불의에 불벼락을 안겨 몰살시키군 하였다.
これを知る由もない日帝どもは、「今度は間違いない」と大言壮語しながらやってきたが、遊撃隊が一人もいないことを知って啞然失色し、途方に暮れて踵を返そうとするが、この時、遊撃隊が猛射撃を加えて全滅させたのだ。


이렇게 되자 일제놈들은 유격대가 축지법을 쓰고 신출귀몰한다고 비명을 올리군 하였다.
こんなわけで日帝どもは、「遊撃隊が縮地法を使い神出鬼没する」と悲鳴を上げたのだ。

사실 사람이 있다가 없어지고 없어졌다가 다시 나타나며 땅을 주름잡아다닐수는 없는것이다.
実際のところ、人間がいなくなったり、いなくなった人間が再び現れ、時空を縮めることはできないのだ。

우리가 항일무장투쟁시기에 발톱까지 무장한 강도 일제와 싸워이길수 있은것은 인민대중의 적극적인 지지와 방조를 받았기때문이다. 만일 《축지법》이 있다면 그것은 인민대중의 《축지법》일것이다.
我々が抗日武装闘争の時期に爪まで武装した強盗日帝どもと戦って勝てたのは、人民大衆の積極的な支持と援助を受けたからだ。もし「縮地法」がある場合、それは人民大衆の「縮地法」である。

조선인민혁명군의 신비스러운 축지법의 비결이 결국은 인민대중과 일심일체가 된데 있다는 어버이수령님의 뜻깊은 가르치심은 연회참가자들의 심금을 세차게 울려주었다.
朝鮮人民革命軍の神秘的な縮地法の秘訣が、結局のところ、人民大衆との一心一体であるという父なる首領様の意味深い教えは、宴会参加者の心の琴線に触れた。

인민대중의 《축지법》, 비록 길지 않은 말이지만 바로 여기에 위대한 수령님께서 지니시였던 필생의 좌우명이 응축되여있고 혁명과 건설에서 언제나 승리만을 이룩할수 있게 하는 근본비결이 무엇인가 하는 명백한 대답이 있다.
人民大衆の「縮地法」、長くはない言葉だが、まさにここに偉大な首領様が身につけておられた畢生なる座右の銘が凝縮されており、革命と建設で常に勝利だけを達成するため根本的秘訣が何であるかについての、明白な答えがある。
(以下略)
形式的には、労働新聞ではよく見られる「首領様エピソード集」のひとつに過ぎませんが、あまたあるテーマの中からあえて縮地法について言及していることは、やはり注目されてしかるべきでしょう。「人民大衆との一心一体」を語るのであれば、他にも幾らでもテーマはあるはずだからです。

「首領の革命活動と風貌を神秘化すれば真実を隠すことになる」という元帥様のお言葉と関連させつつ、この記事を理解するのが順当だと思われます。縮地法云々の宣伝は、いくら何でも荒唐無稽すぎるので、徐々にでも変更してゆくことは支持できるものです。

縮地法をワープ・瞬間移動として理解している人は、共和国においてもそもそもいないとは思います。有名な≪장군님 축지법 쓰신다≫(将軍様、縮地法をお使いになる)という宣伝音楽においてさえ、縮地法はワープ・瞬間移動としては表現されていない(正確には、ハッキリ何であるのかは表現していない)点、当局の宣伝担当者も「首領様・将軍様はワープ・瞬間移動できる」などというのはバカバカしい話であると分かっており、そんなことを表立って宣伝すると逆効果になると既に久しい前から悟っていると思われます。みんな表立っては敢えて口にせず、ある意味「放置」してきたことについて今回、革命の首脳部たる元帥様が直々に取り組みだしたということなのでしょう。

それゆえ、このことが直ちに共和国の社会に与える影響はほとんどないでしょう。このことは、元帥様色の統治スタイルの構築状況:キム・ジョンウン体制構築の進展度合いを示す指標的出来事として理解すべきものであるでしょう。

ところで、≪장군님 축지법 쓰신다≫は、これで封印されてしまうのでしょうか? あれは息抜きにはちょうどいい、ほとんど電波ソングの域に達している面白ミュージックだから好きなんだけどなw

とばっちりを受けて≪장군님은 빨찌산의 아들≫(将軍様はパルチザンの息子)の歌詞:≪동에번쩍 서에번쩍 적진에 번개치며 위대한 백두전법 전선길에 빛내시네≫のくだりが変更されたら嫌だな・・・
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2020年05月23日

振り返れば「休業要請」は「第二の真珠湾攻撃」だった

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200522-00000080-mai-soci
飲食店「ありがたい」「元に戻るか不安」 東京都が緩和基準 25日にも解除判断
5/22(金) 20:37配信
毎日新聞

 東京都が22日に公表した休業要請の緩和・解除に向けたロードマップ(行程表)は、都内が感染拡大の局面から抜け出しつつあることなどを踏まえ、当初は6月以降とした緩和の判断時期を早めた。営業時間が限定されて苦しむ飲食店などからは歓迎の声も上がった。

(中略)
 都内の飲食店は、要請緩和が第1段階の「ステップ1」に進めば、営業や酒類の提供が午後10時まで認められる。さらに「ステップ2」で、学習塾や映画館など幅広い業種の営業が可能となる。落ち着いた状況が続いて「ステップ3」に移行すれば、飲食店の営業時間は午前0時までさらに延長される。江東区で居酒屋「ふかし」を経営する窪田芳郎さん(72)は営業時間短縮の要請に従い、午後8時までしか営業していない。緩和の見通しになり「売り上げが半分程度に落ち込んでいたのでありがたい」と喜ぶ一方、周辺の企業は在宅勤務が進み「お客さんが元に戻ってくれるか不安は尽きない」と漏らした。
(中略)
 ◇神奈川・埼玉・千葉も基準公表
 隣接する3県も22日、休業要請の緩和に向けた基準などを公表した。神奈川県は2段階で緩和を実施。「ステップ1」は緊急事態宣言が解除された翌々日の午前0時以降、適切な感染防止対策を講じた事業者の要請を解除し、同時に午後10時までの時短営業を要請する。「ステップ2」では時短営業を解除する。黒岩祐治知事はステップ2への移行について「東京都との連動で総合的に判断する」としている。

 埼玉県は事業者・施設を5分類し、それぞれ県内の新規陽性者数や感染経路不明者の割合、重症ベッド占有率、東京都の感染者数――の4指標をもとに解除の検討を始める。大野元裕知事は「首都圏は一体」としており、都の感染者数を指標に加えた点が特徴だ。

 千葉県は施設を感染リスクに応じてA〜Dに区分し、Aの図書館、博物館などへの要請の解除を決めた。大学や映画館を含むBは1週間後、水族館、体育館などのCは約2週間後に解除を検討する。宣言が25日に解除されれば、直ちにBの解除を判断する。スポーツクラブなどはDに分類し、解除時期は未定。【木下翔太郎、鷲頭彰子、宮本翔平】
緊急事態宣言に伴う休業要請について、ようやく「出口戦略」という言葉が見られ、内容が具体化されるようになって来ました。2〜3日で思いつけるような話ではないので、それなりに時間を掛けて練ってきたとは思われますが、形になってきたのは最近でしょう。つまり、休業要請を出した当初は、こうした見通しがなかったと思われます

「接触8割削減」などの感染症専門家が中心になって練られたプランは、科学的なシミュレーションに基づくもので、当初から「出口」が見えていたものでしたが、「休業要請」などの政治家や役人が中心になって練られたプランは、先行きの見通しに欠けており「とりあえず始めた」に過ぎなかったわけです。

こうした展開を見るに、先の大戦の展開を連想的に思い出さざるを得ません。すなわち、戦力や資源備蓄量などの数値指標においては当初から日本の継戦能力は概ね分かっており「止め時」も見えていたにもかかわらず、それを前提として下すべき政治判断に先見性がなく、結局「とりあえず真珠湾を攻撃してしまった」のが先の大戦でありました。

もちろん、休業要請が出た当初は、感染の爆発的拡大が目前に迫っていた(と思われていた)時期で、猶予はありませんでした。また、事前にすべての展開を読めるはずがなく、プランを実行しながら調整していくのが大抵のケースであります。人間は意識性を持っているとチュチェ思想では定義していますが、意識性とは、人間の活動が合理的に展開されるように構想・計画する性質であると同時に、予見しなかった事態に際して活動を能動的に調整する性質であります。

しかし、出口戦略もなく取りあえず突入してしまうと、どうなるのかについては日本人は歴史においてよく知っていたはず。新規感染者数が全体的に尻すぼみになってきてから「さて、出口戦略についてですが」というのは、責任を負わない気楽な立場から申していることは重々承知しているものの、違うのではないかと言わざるを得ないところであります。

とりわけ、経営体力のない中小企業経営者及び従業員らにとっては、このたびの「とりあえず始めてみた休業要請」は、いつ晴れるかまったく分からない霧の中に投げ込まれていたようなものでした。

このことは、昨年10月13日づけ「BCPよりBCRP;グダグダ計画運休を巡って」及び同21日づけ「たまたま3連休中で混乱しなかっただけ;「計画運休の浸透」などではない」でも論じたとおり、日本人の発想においてBCP(事業継続計画)及びBCRP(事業継続および復旧計画)の概念が定着していないことによるものと思われます。近年導入されるようになってきた台風等による鉄道の計画運休においても、「とりあえず止める」ことばかりが優先され、運転再開見込みのアナウンスについては、まだまだ注目されるに至っていない現実があります。

人間は先行きを知りたがります。社会運営は、人心の安定も課題であります。日本は科学的分野における予測においては、やはり高い技術力を持っているだけにある程度正確で信用できるものですが、依然として政治家及び官吏における先見性の欠如は深刻であることが、出口戦略がようやく出てきたこと一つとっても分かりました
ラベル:社会
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2020年05月20日

チュチェ思想の文脈における「血統」の意味について

https://www.youtube.com/watch?v=h3InKTW8KDk

個人言論(ブログやTwitter)をあまりチェックしておらず、ましてYoutube等の動画サイトはほとんど視聴していない私ですが、上記動画は例外的に最後まで(そんなに長くないけれど)視聴しました。朝鮮作家同盟に所属していたキム・ジュソン氏の「白頭山血統」に関する解説。かつて将軍様は『チュチェの文学論』において、「作家は党と運命をともにする革命家である」と指摘されましたが、キム・ジュソン氏は、まさにその任務を担当していたわけです。

この短編動画で何に注目したかと言うと、いわゆる「白頭山血統」の定義についてです。この言葉自体は、日本のマスメディア等でもよく聞くものですが、ほとんどの場合、生物学的な意味での「血統」:DNA鑑定でシロクロつく意味での「血統」として用いられています。

しかし、チュチェ106(2017)年2月24日づけ「「白頭の血統(ペクドゥの血統)」における「血」は生物学的な親子関係のことではない」においても論じたとおり、チュチェ思想での「血縁」は、「生物学的な意味での関係性」ではなく「想像上の一体感をもたらす関係性」であります具体的に言えば、キム・イルソン将軍率いる抗日パルチザン部隊を形作っていた、単なる軍隊的指揮命令関係を超えた人格的結びつきによる関係性こそが、チュチェ思想が理想像として掲げる「血縁」的関係なのです。日本的理解に即していえば、任侠界隈での擬似家族的関係性に近いものというと理解しやすいかも知れません。いずれにせよ、生物学的意味での血縁ではなく、擬似的な意味での血縁であります。

朝鮮大学校教授から今や総連幹部に出世なさったハン・ドンソン(韓東成)氏の著書『哲学への主体的アプローチ―Q&Aチュチェ思想の世界観・社会歴史観・人生観』では、民族という概念の理解に関連して、チュチェ思想における「血縁」の意味を次のように解説しています(同書99ページ)。念のため、再掲しておきます。
血縁の共通性は、民族形成の基礎です。
 ここでの血縁の共通性とは、人種のような生物学的なものではなく、社会歴史的に形成された血縁的関係を意味します。
 血縁的関係は、人々に身体的および心理的な共通感を抱かせ、民族という堅固な集団とに結合させるうえで重要な作用をします

朝鮮民主主義人民共和国は、傍から見れば何が如何違うのか理解に苦しむような定義・建前に拘る御国柄です。「血」という、彼らにとっては極めて重要な単語をイイカゲンに使うはずがありません。「白頭山血統」という表現における「血」とは、イデオロギー的に考え抜かれた文脈でのみ使われるものであり、生物学的な意味での親子の血縁関係ではなく、擬似的な意味での「血縁」関係と見るべきです。

そもそも、キム・ジョンウン委員長が持つ権力の正統性が生物学的な意味での血統によるものであれば、一人の人間に対して覚え切れないくらい沢山の敬称・美称をつける朝鮮の御国柄なのだから、もっと積極的に生物学的血縁関係の事実を押し出すはず。「白頭山血統」なる妙に婉曲な表現だけに留まるはずがありません。やはり「白頭山血統」の意味は生物学的なそれではないと見るべきでしょう。

こうした解説が「FNNプライムオンライン」つまりフジテレビ系列のチャンネルで公開されたことは注目すべきであります。白頭山血統の意味をDNA鑑定でシロクロつく生物学的な意味としがちな日本言論ですが、単なる無知ゆえにそうしているわけではなく、実は真相が分かっているのにもかかわらず、あえて確信犯的にそうした誤った報道をしているというわけです。

そうした方がエンターテイメント的に「面白い」のかもしれません。いまやニュース報道でさえエンターテイメント・コンテンツ化が著しい時代です。しかしこれは、メディアの姿勢としては邪道と言わざるを得ないでしょう。
ラベル:チュチェ思想
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2020年05月18日

1億3000万人を対象とした国の仕事と、芸能人のマネジメントが同じ難易度なわけがないw:教養としての物理学のススメ

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200512-01848441-tospoweb-ent
高嶋ちさ子 届かないアベノマスクに苦言も「政治的な発言ではありません」
5/12(火) 14:11配信
東スポWeb

(中略)
「誰でも買える状態になってから届くとかってあるのかな? 素朴な疑問が頭をよぎる…それでもお金は発生するのか…こんなに動きが鈍い人は、私のマネージャーは務まらないです。解雇したいが、誰を解雇すれば良いのか」と一刀両断しつつ「あ、政治的な発言ではありません。あくまで素朴な疑問と妄想です」とただし書きを付け加えた。
(以下略)
1億3000万人を対象とした国の仕事と、おたくさんのマネジメントが同じ難易度なわけないでしょうwどうしてこういう少し考えれば分かるようなアホな発言が出てくるのか・・・

自分の「等身大」の感覚で天下国家を語る手合いは、教養として物理学を学んだ方がよいでしょう。物理的世界においては、観察対象のスケール・階層によって適用すべき物理法則が異なってくるので、異なるスケール・階層の物理学研究及び人為的改造のためには異なるアプローチが必要になります。

このことからアナロジー的に推理すれば、個人レベルと国家レベルとでは、物事のスケールが全く異なるので、アプローチも全く異なることが推測できるでしょう。

事実、たとえば経済活動においては、一企業であれば経営層をトップとしたピラミッド型組織によって十分に管理可能ですが、一国家を企業マネジメントの感覚と方法で取り仕切ろうとすると、20世紀社会主義の計画経済がそうであったように管理しきれずに失敗に終わります

よくいえば「等身大」の感覚・悪く言えば「素人の浅知恵」で天下国家を語ってしまう風潮もここまで来たようです。
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2020年05月16日

新型コロナウィルス禍で明らかになった自立的民族経済路線の正当性

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200512-00000027-zdn_mkt-bus_all&p=3
「日本人なら国産」のこだわりが、”マスクパニック”を再燃させてしまうワケ
5/12(火) 8:35配信
ITmedia ビジネスオンライン

(中略)
世界中からマスクを調達できるルートを
(中略)
 では、ここまで深刻な「中国依存」が進行している今の日本で、確実にやってくるコロナの第2波、第3波でマスクパニックにならないためにはどうすべきか。

 不織布の生産量をあげて、内製化率を高めることはもちろん大切だが、これまで述べてきたような現実からも、いきなりそちらへシフトチェンジすることは難しい。ならば、これまで通りに中国産の部品や原材料を利用しつつ、東南アジアやその他の国からも調達できるルートを広げていくほうがよほど現実的ではないか。

 つまり、中国に偏っているサプライチェーンを危機に対処できるように強化していくのだ。
(中略)
 なぜ「物流軽視」したのか
 このようなサプライチェーンのリスクマネジメントこそが、実はコロナとの「戦争」において最も重要だ。

 著名な戦史家、マーチン・ファン・クレフェルトは、『補給戦――何が勝敗を決定するのか』(中央公論新社)の中で、「戦争という仕事の10分の9までは兵站だ」と述べている。

 「兵站」とは前線の部隊に食料や武器などを供給する後方部隊のこと、要はサプライチェーンだ。クレフェルトの言葉は「戦争」の本質をついている。日本が先の戦争で負けたのもつきつめていけば、サプライチェーンの敗北だ。旧日本軍の兵站(へいたん)は馬車が中心で、大量輸送できるトラックが少なくあまり稼働していなかった。結果、最前線の兵士たちに物資が届かなかった。事実、230万人といわれる軍の戦没者の6割以上の140万が「餓死」だったといわれている。

 では、なぜ日本はそんな「物流軽視」をしてしまったのかというと、「国産」への強いこだわりが物流構築を妨げたからだ。

 陸軍は早くから兵站の自動車輸送化に注目していたが、純国産での自動車開発にこだわった。戦争が長期化した場合、国内で技術開発ができなければ連合国には勝てない。そのような考えから、自国内ですべて完結できるような自動車工業を育成していた。考え方は素晴らしいが、当時の日本の技術はその理想を実現できなかった。その結果が自動車化の遅れにつながってサプライチェーンの敗北を招いたのである。

 つまり、「戦争」というシビアな現実の中で「理想」にこだわり続けたことで、すさまじい数の犠牲者を生んでしまったのだ。

(以下略)
「仕入れ元を多様化させたものの、各国が自国消費を優先させて日本には回ってこない」という結末が容易に目に浮かびます

キム・ジョンイル
同志は、不朽の労作『チュチェ思想について』で次のように指摘されています。
経済は社会生活の物質的基礎です。経済的に自立してこそ、国の独立を強固にして自主的に生活し、思想における主体、政治における自主、国防における自衛をゆるぎなく保障し、人民に豊かな物質・文化生活を享受させることができます。

経済における自立の原則を貫くためには、自立的民族経済を建設しなければなりません。

自立的民族経済を建設するというのは、他国に従属せず独り立ちできる経済、自国人民に奉仕し、自国の資源と人民の力によって発展する経済を建設することを意味します。

(中略)
自立的民族経済を建設するためには、国内の原料・燃料基地を強固なものにしなければなりません。

原料と燃料を他国に依存するのは、経済の命脈を他国に委ねるにひとしいことです。経済的に自立して経済を安全かつ展望的に発展させるためには、必ず国内の原料・燃料基地に依拠し、原料と燃料の需要を基本的に自力で充足させなければなりません。

(中略)
自力更生の原則で自立的民族経済を建設するということは、決して門戸を閉ざして経済を建設することを意味するものではありません。自立的経済は、他国による経済的支配と従属に反対するものであって国際的な経済協力を否定するものではありません。(以下略)
記事中で筆者(窪田順生氏)は、旧日本陸軍の自動車輸送化の失敗原因を「国産への強いこだわり」としていますが、これは少し理屈としておかしいですね。ブロック経済と帝国主義の時代条件において、日本の対外戦略を展開する上で敵対関係になり得る国々をリストアップしてみれば、当時「ABCD包囲網」という認識があったように、戦時下においても安定的に自動車輸送用の部品を供給してくれる友好国は、存在しなかったでしょう。

唯一例外と言い得るのが高い技術力を持った同盟国・ドイツでしたが、ドイツとの連絡は、シベリア鉄道頼りと言う意味においてソ連次第。日本にとってソ連はロシア帝国以来の仮想敵国である点において、敵性国家にサプライチェーンをゆだねる訳にはいかなかったでしょう。

当時の日本は、まさに今日の共和国のように周辺国家と敵対的関係にあったわけで、それゆえ、当時の日本が自動車輸送を強化するために必要な部品等を安定的に供給してくれる国はなかったわけです。「国産化せざるを得なかった」わけです。

今回の新型コロナウィルス禍において、アメリカ等、普段マスクをつける国民的習慣がなかった国々でも需要が爆発的に増加し、世界的なマスク争奪戦になりました。中国はもちろんアメリカやヨーロッパ諸国も、一番深刻だった時期にはマスクの国外持ち出しを権力的に禁止しました。平時からせっせとサプライチェーンを構築しておいたとしても、諸外国はいざというときには形振り構わず権力的に物資を統制するわけです

いきなりそちら(国産化)へシフトチェンジすることは難しい」というのは現実論として理解可能ではありますが、しかし、「これまで通りに中国産の部品や原材料を利用しつつ、東南アジアやその他の国からも調達できるルートを広げていくほうがよほど現実的ではないか」というのは、他国に自国の命脈を握らせる点において、極めて危険なのであります。

サプライチェーン上で発生した、ちょっとしたトラブルをカバーするためであれば、システムの冗長化という意味で仕入れ元の多様化は危機対策として有効な選択肢でしょう。しかし、世界史的な大事件である今回の新型コロナウィルス禍は「危機」ではなく「戦争」、それも「同盟国のいない戦争」であり、そうなれば、自力更生をメインとせざるを得ないでしょう。
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2020年05月15日

働くということはすなわち、生きることそのもの:「命を守るステイホームか経済活動か」の二者択一ではない

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200515-00000047-kyodonews-soci
39県、感染防止図り日常再始動 宣言解除、気を引き締め仕事へ
5/15(金) 9:58配信
共同通信

 新型コロナウイルス特別措置法に基づく緊急事態宣言が39県で解除されてから一夜明けた15日、各地で日常を取り戻そうとする動きが本格化した。「解除されても、油断はできない」。通勤者は気を引き締め職場へ向かった。感染防止を意識したライフスタイルへ、手探りの日々が続く。

 
(以下略)
全国に発令されていた緊急事態宣言が、多くの県で解除されました。それほど反対意見は多くなく、おおむね歓迎ないしは受け入れの風潮のようです。「経済なんて止めても構わない。命を守ることが優先だ!」などと声高に主張されていたのは、たった1か月半前の4月上旬。少なくない芸能人もこうした主張を展開し、拍手喝さいを受けていたものですが、世論は大きく変化しました

「経済なんて止めても構わない。命を守ることが優先だ!」といった言説が声高に主張されるのは、日本においては、「経済活動」が一段低いものと捉えられていることを示しているでしょう。経済活動を「金儲け」くらいにしか位置付けておらず、それが人間存在の維持の基本的手段であると理解していない人が一定数いることが推察されるのです。

もっと言ってしまえば、近代的工業に裏打ちされた都市的生活様式に対する蔑視のようなものさえあるといえます。かつて音楽家の坂本龍一氏は「たかが電気のために命を危険に晒してはいけない」と言ってのけました(かつてレーニンが「共産主義とは、ソビエト権力プラス全土の電化である」といったのとは対極的です)。

しかし、そもそも、働くということはすなわち、生きることそのものであります「命を守るステイホームか経済活動か」の二者択一ではありません。キム・ジョンイル総書記は次のように指摘されました。
経済生活において創造的労働生活は重要な位置をしめます。人間は労働によって自分の生活に必要な物質的・文化的富を創造し、その過程でみずからをさらに有力な存在に育てます。
『人民大衆中心の朝鮮式の社会主義は必勝不敗である』(チュチェ80・1991年5月5日)

総書記の定義を踏まえて、朝鮮大学校のハン・ドンソン学長は、次のように解説しました。
経済生活は、物質的生活手段を生産し、分配し、交換し、消費する生活です。そこには、物質的富を創造する過程と、創造された物質的富を享受する過程が含まれます。

自然を改造し物質的富を生産する生活を労働生活と言います。

物質的富が生産されてこそ、分配と交換、消費が成り立ちます。したがって労働生活は、経済生活において優先的な意義を持ち、生産の発展はすなわち経済の発展とされます。

『哲学への主体的アプローチ』(チュチェ96・2007年4月15日、白峰社)

上記のような主体的見解に基づけば、「命を守ること」と「経済活動を展開すること」は、決して二者択一の問題ではないことが理解できると思われます。

1か月半にわたって「実際に」経済活動を大きく縮小させてみて初めて「働くということはすなわち、生きることそのもの」が体感的に理解したのでは、いささか遅すぎるようにも思いますが、これを機に正しい認識を持てるのであれば、まだよかったのかもしれません。この哲学に根差した基本的認識が定着することを願います。

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2020年05月11日

文章を漫然と読んではいけない:法の定めを盾に、論理を操作し、己の不作為を誤魔化す吉村・大阪府知事

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200509-00000104-dal-ent
吉村知事 たけしから質問攻め「パチンコ店名前出すのはなぜ?」
5/9(土) 21:20配信
デイリースポーツ

(中略)
 同局の安住紳一郎アナウンサーに「(西村)大臣とのケンカも大車輪」と紹介された吉村知事に、たけしはオープニング早々から質問攻め。「パチンコ営業店の名前を出すのはどういう意味なの?かえって(名前を知った客から)行ってしまうんでは?」と声を掛けた。

 吉村知事は「公表は『行かないで』という公表。特措法では公表しないといけないという義務なんです。大阪で緊急事態発令後、最後まで営業しているお店は公表しないといけない。お願いベースですが、公表しないといけない」と説明した。

(以下略)
■法的義務を履行するためにこそ、副作用的展開に対して対応を講ずるべきだった
民事弁護士(サラ金大手:武富士の顧問弁護士)が政治家になると、どういうコトになるのかが良くわかる記事です。

「特措法では公表しないといけないという義務」というのは、そのとおりではあります。しかしながら、ムラ社会的意識が依然として濃厚である上に新型感染症の恐怖で冷静さを失っている現代日本社会において、「店名公表」をすれば一体どういう世論反応が副作用的に見られるのかは、あまりにも容易に予想できるコトです。既に自粛警察(自粛ポリス)の暴走が指摘され始めていた段階でもありました。文化大革命や非国民狩りを彷彿とさせる恫喝的・脅迫的な吊るしあげが発生する危険性が高いことは、容易に予想できたでしょう。これは後出しジャンケンでも何でもない、明々白々なことです。

それゆえ、法的義務を履行するためにこそ、こうした副作用的展開に対して行政の長が政策的に予防対応を講ずるべきでした。そのためには、たとえば、4月29日づけ「憎悪と分断をもたらす「維新」の文化大革命路線・非国民狩り路線は、人民大衆の「命」を守れない」においてご紹介した記事で、タレントの太田光さんが次のように述べていた方法があり得たでしょう。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200426-04260055-sph-ent
爆笑問題・太田光、小池都知事の休業応じないパチンコ店の公表意向に「さらし者にして何がしたいのかなと思う」
4/26(日) 12:28配信
スポーツ報知

(中略)
ただでさえ分断が起きやすい状況(中略)政治家がやるべき事は、この店がやってますよ、皆さんどうですかっていう事じゃなくて、引き続き休業要請は私たちはしますと。だから皆さんはパチンコ屋さんを誹謗(ひぼう)中傷しないでくださいと。もし混雑したら、安全に営業できる様に私たちが指導をしますと。そういう風に言わないと、つるし上げみたいな状況になる(以下略)
にもかかわらず、吉村・大阪府知事はそうした対応をせずに「店名公表」だけを実施し、案の定、文化大革命や非国民狩りを彷彿とさせる恫喝的・脅迫的な吊るしあげが発生しました。これは、行政の長として相応しくない不作為であると言わざるを得ません。「吉村知事が吊るしあげを止めるよう呼びかければ、吊るしあげが実際にゼロになったはず」とまでは言いませんが、行政の長として出来る限りのことはすべきでした。それを怠ったのだから、やはり非難されるべきでしょう。

■法の定めを盾に、うまいこと論理を操作し、己がすべきことを誤魔化している吉村知事
もっとも、上掲4月29日づけ記事に書きましたが、おそらく吉村知事は「わざと対策を打たなかった」のだと私は見ています。熱心な維新支持者を扇動して飽和攻撃を仕掛けさせ、自らは直接的には手を下さずに当該パチンコ店を休業に追い込もうと目論んでいたのでしょう。維新の文化大革命路線・非国民狩り路線の典型的手口です。

サラ金大手:武富士の顧問弁護士として法律と理屈を駆使して活躍していた吉村知事が、「店名公表は法的義務だから、このたび公表した」という粗雑な論理を本気で展開するはずがありません。「どうせ素人に論理は分かるまい」とタカをくくっているのでしょう。法の定めを盾に、うまいこと論理を操作し、己がすべきことを誤魔化し、大衆を焚き付けて自らは手を汚さずに目標を達成させたというわけです。

■文章を漫然と読んではいけない
こうした論理的手口を見抜く眼を持つ必要があります。屁理屈には色々ありますが、生活場面で頻回に接し得る身近なものに絞ると、次のようなものが挙げられるでしょう。
1.矛盾(接続詞の使い間違い含む)
2.無視(見落とし含む)
3.飛躍
このうち、今回に関係するのは「無視」と「飛躍」であります。

文章を漫然と読んではいけません。ふつう文章には意味的・論理的な境界に読点(「、」)が打ってあるので、読点を区切りとして前後の論理関係を吟味する必要があります。また、その文章の前提条件の有無や、文末結論の以降の展開・帰結を想像することで文章の荒唐無稽性を吟味する必要があります。5W1Hも念頭に置いて適宜補って読むとよいでしょう。

たとえば、
・読点前後で接続詞の使い間違い含む矛盾はないだろうか(例:「今日は晴れているので、雨傘を持っていく」――「ので」の使い方がおかしい)
・読点の部分に幾つかの場合分け・条件が入る余地はないだろうか(例:「モスクワは緯度が高いので、コートが手放せない」――冬ならね。夏はいらないよ)
・読点の部分により詳しく説明する別の文章が入る余地はないだろうか(例:「風が吹けば、桶屋が儲かる」――より詳しく説明する別の文章が必要)
・文の書き始め以前にも場合分けが入り得ることはないだろうか(例:「水はセ氏100度で沸騰して水蒸気になる」――1気圧の条件下であればね)
・文末結論の以降の展開・帰結を想像し、その文章が言っていることが全体として荒唐無稽になっていないだろうか(例:「ゴミのポイ捨ては犯罪だから、死刑にすべきだ」――モノには程度があるんだよ)
こうしたことを慎重に吟味する必要があります。
と言った具合に。

「店名公表は法的義務だから、このたび公表した」という主張においても、読点に注目する必要が生じます。「店名公表は法的義務だから、このたび公表した」などと短絡的対応で良かったのか、起こり得る世論反応を想定して同時に講ずるべきことはなかったのかということを慎重に判断する必要があります。

■本来であれば立ち止まるべき所で立ち止まらず、不作為の結果、案の定の結果になった
そう考えると、吉村知事は、「店名公表は法的義務だから、このたび公表した」以降の展開・帰結を想像すれば、日本社会のことだからどういう展開になるのかは容易に想像できたはずなのに、起こり得る世論反応を「無視」し、本来であれば立ち止まるべき「店名公表は法的義務だから、このたび公表した」の読点の部分で立ち止まらず、講ずるべき予防策を取らず「飛躍」してしまったわけです。そして案の定、文化大革命や非国民狩りを彷彿とさせる恫喝的・脅迫的な吊るしあげが発生したのです。

これは非難されてしかるべき不作為であります。
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2020年05月09日

自粛警察は、単なるフラストレーションの解消なのか?:自粛警察の弊害を乗り越えるために問題の所在を正しく設定しよう

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200508-00000005-pseven-soci
「自粛警察」が暴走 正義中毒に陥らないためにすべきこと
5/8(金) 7:05配信
NEWS ポストセブン

 コロナ自粛の長期化により、営業する店舗に匿名で貼り紙をしたり、外出する人たちに過剰に自粛を求めたりする市民の行為がエスカレートしている。過去の震災時にも起きたこうした“不謹慎厨”がこれ以上広がらないためにはどうすればいいのか──。同志社大学政策学部教授の太田肇氏が持論を展開する。
 * * *
 新型コロナウイルスの蔓延により長引く自粛生活で、国民のイライラが募ってきた。それをぶつける先が、世間で「悪者」扱いされている人たちだ。

(中略)
 正義の名のもとに相手の落ち度や非協力な態度をとらえて一方的に叩くのは、学校や職場で起きるイジメの典型的なパターンである。

 学校では校則を破る子や共同作業をサボる子が、職場では残業せずにサッサと帰る社員や、空気を読まない社員が周りから仲間外れにされたり、嫌がらせを受けたりする。それと同じことが、いっそう危険な形でいま各地に広がっているのである。

◆日本文化、日本人の美徳に潜むリスク
 人は自分の価値観や行動規準に合わないものを排除することによって心の安定を保とうとする。また共通の敵を見つけ、一緒に攻撃することで仲間どうしの結束を強めようとする。そこに「正義」という後ろ盾があり、「正しいことをしている」という思い込みがあれば良心の呵責はなく、他人の攻撃にブレーキがかからない。「正義中毒」と呼ばれるように、正義感の暴走は一種の病理現象である。

 考えてみれば、それは日本文化、日本人の美徳とされているものと隣り合わせだということがわかる。文化や美徳のなかに、「正義中毒」に陥りやすい危険性が潜んでいるのである。

(中略)
 では、私たちが「正義中毒」にかからないようにするにはどうすればよいのか。

 まず自分の確信している「正義」が、実は絶対的なものではないと自覚することである。たとえばパチンコ店に通う客を非難する一方で、自分も感染リスクのある満員電車で通勤しているかもしれない。また他人の問題発言をネット上で罵倒する行為が、個人の人権侵害という、問題発言よりはるかに重大な「不正義」に当たる場合もある。

(中略)
◆暴走にブレーキをかけるのは誰か

 問題は、誰がその役割を果たすべきかである。

 行政が強制的な命令や罰則ではなく、「お願い」や「自粛」という方法をとる以上、「自粛警察」や「正義中毒」のような存在が現れることは当然予想できたはずだ。さらに自粛に従わず営業を続けるパチンコ店の名前を公表したり、高速のパーキングエリアで職員が他府県から来た人の検温を実施したりするなど、行政がある意味で行き過ぎた行為を誘発するようなことを行ってきた。

 またマスコミも、自粛要請にしたがわない人たちを執拗に追いかけて詰問するなど、彼らを「悪者」扱いしているケースが多々見られる。したがって「正義」の暴走にブレーキをかけるのも彼らの責任ではないだろうか。

 いずれにしろ日本社会はその性質上、このようなリスクを常にはらんでいること、そして今回の場合、憎むべき敵はコロナだということを改めて確認しておく必要がある。
■自粛警察は、単なるフラストレーションの解消なのか?
評価が難しい論考です。「正義の名のもとに相手の落ち度や非協力な態度をとらえて一方的に叩くのは、学校や職場で起きるイジメの典型的なパターン」と言うのは、そのとおりであるし、「自分の確信している「正義」が、実は絶対的なものではないと自覚する」というのも、私も常日頃から申し述べていることであります。しかしながら、これだけ多くの人々が「自粛警察(自粛ポリス)」に乗り出している背景を単に「長引く自粛生活で、国民のイライラが募ってきた」とすべきなのか、自粛警察を単なるフラストレーション解消の手段として位置付けてしまってよいのかという強い疑問があります。

今回に限らずSNS全盛時代の近年は、容易に炎上騒ぎになるものですが、その動機としてしばしば、「自己の不安やフラストレーション解消の手段として他者を攻撃しているのだ」といった解説がなされているように見受けられます。

「心に余裕がないから、他人を攻撃する。心に余裕があれば、他人を攻撃することはない」――心に余裕がないから八つ当たり的に他人を攻撃するという理解は、科学的に正しく理解も可能な見立てです。しかし、「心に余裕があるからこそ、他人の行動に目をやって、それについて自分なりの善悪判断ができる」とも考えられないでしょうか?

炎上騒ぎというものは、間近で見てみれば分かりますが、「お祭り」騒ぎです(そもそも、いまでこそ「炎上」と言いますが、一昔前は本当に「祭り」と呼んでいたくらいです)。2ちゃんねるの専門スレを中心に炎上騒ぎが展開されていた一昔前を振り返ると分かり易いと思いますが、炎上騒ぎの現場には妙な高揚感があるものです。決して、心に余裕のない人たちが八つ当たり的に攻撃しているといった「暗い」ものではありません

私などは、心に余裕があって自分が絶対的に正しいと確信している人が、心に余裕があるからこそ、他人の行動に目を向ける余裕があり、そして「正義は何をしても許される」と思い込んでいる(歪んだ正義感)からこそ、手加減せず徹底的に「敵」を叩き潰すゆえに、炎上騒ぎが起こると考えています。「あの」高揚感は、己が確信している正義を自らの手で実現させつつあることに対する高揚感であると考えています(よかれと思って、正しいと思ってやっていることが実現しそうなときって、ワクワクしますよね?)。

■文化大革命的吊るしあげや戦時中の非国民狩りのような「方法」および追及の「程度」こそが真に非難されるべきもの――他人に無関心になったらそれそれで大問題
問題の所在がどこにあるのかを注意深く設定する必要があります。

私は、社会共通の課題に対して草の根レベルで庶民が結束し、互いに不備・不足を指摘し合う関係性自体は、重要なことだと思います。SNS等で見られる道徳的糾弾行為に対して「リベラル」な人たちはよく、「他人のことに口出しするべきではない」という主張を展開しますが、私はそうは思いません。違うと思うことは「私は、それは違うと思います」と言ってよいと思います。社会共通の課題を達成すべきときに「他人は他人だから、私の知ったことではない」という心構えが増殖するのは、逆に大問題です。

「他人のことに口出しするべきではない」などと言うのは、お上品ぶっているだけ。この手のブルジョア「個人」主義的な人間観・社会観は人間存在の社会性を希薄化させるものであり、その行き着く先は社会的存在としての人間性の喪失及び社会共同体の瓦解でありましょう。

この観点を自粛警察問題についても適用すれば、この状況下でも開店している店舗等に対して「営業を自粛するべきではないか」という意見を持ちかけること自体は、そこまで非難されるような話ではないように思います。自粛警察が問題になっているのは、結局のところ、「やり方」でありましょう。非難すべきは、社会共通の課題達成のために互いに不備・不足を指摘し合う関係性でありません。文化大革命を彷彿とさせる吊るしあげや戦時中の非国民狩りのような「方法」および追及の「程度」こそが真に非難されるべきものであります。

思い起こせば、いわゆるバイトテロに対する吊るしあげは、もとはと言えば確かにバカなtweetをした人が悪いに決まっていますが、「だからといって、そこまでやらなくても・・・」というような徹底的な追い詰めが展開されることが多々あります。あれは、方法と程度が度を過ぎています。

その点、「自分の確信している「正義」が、実は絶対的なものではないと自覚する」という処方箋には全面的に賛成であります。自粛警察官に「なる」過程はさまざまあれども、自粛警察官は「俺様正義の絶対視」という点では共通点を持っているので、それへの処方箋は「自分にとっての正義だけが正義ではない」こと、「問題のある行動をとっている他人にも、それなりの事情・理由があってやっている可能性がある」ことを深く理解することなのです。このことを理解すれば、追及するにしても、その方法と程度に常識性が担保されるでしょう。

■「自覚」だけでは足りず、対話が必要だ
ただ、これはとても難しいことであります。これらの処方箋は結局のところ、「自分の知識や理解力、想像力では思いも及ばないケースがあり得る」ことを前提にする心構え、もっと言ってしまえば、「自分は物の道理が分からないバカである」という前提に立つ心構えだからです。これは、「自分の頭で合理的に考え、理解できることだけを基に判断する」という近代理性主義の考え方とあまり上手く合致しません。それ以前に、自分自身を「バカである」と位置づける心構えというのは、なかなかできるものではありません。

また、「自分の知識や理解力、想像力では思いも及ばないケースがあり得る」と思って色々と可能性を検討してみたが、他人の側が本当の意味で問題児だったということだってあり得るでしょう。社会は共同体なのだから、なんでもかんでも「寛容」に許せばよいというものではありません。

「自分がバカだ」という可能性もあれば「他人が問題児だ」という可能性もある――ひとつひとつのケースがどちらに該当するのかは、一概には言えないものです。この2つの可能性に配慮しながら、社会共通の課題達成のために互いに不備・不足を指摘し合う関係性を構築するためには、私は「落ち着いた対話」しかないと考えます。落ち着いた対話をする中でのみ、自分の方がバカなのか相手の方が問題児なのかがケース・バイ・ケースで見えてくることでしょう。

その点、この記事は「対話」というキーワードが出てきていないのは、極めて残念であります。「暴走にブレーキをかけるのは誰か」という小見出しを付けておきながら、ウヤムヤな内容に終わっています。これはおそらく、記事が評論家的・鳥瞰図的な立脚点に立っており、抽象的で具体性に欠けているからでしょう。「人は…」とか「日本人は…」といったかなり大雑把な概念ばかりを持ち出しているのがちょっと気になってはいましたが、案の定、分析としては何となくそれっぽく出来上がってはいるものの、解決策において具体性のない話に終わってしまいました。

対話に乗り出すためには、まず「気持ちを落ち着ける」ことが必要です。頭に血が上っているときに「対話」を始めようものなら、単なる罵り合いになるだけでしょう。「怒りのピークは6秒間」といいます。何事においても大切なことだと思いますが、まず一呼吸置くことが必要です。第一歩は意外と簡単なことです。
posted by 管理者 at 22:44| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

自粛警察を焚き付け、非国民を叩き潰す吉村・大阪府知事の政治手法が「文句なしの「○」です」?

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200505-00037690-bunshun-soci
大阪吉村、和歌山仁坂、鳥取平井は○、広島△、兵庫、福岡は×…政治学者・御厨貴「知事たちの通信簿 西日本編」
5/5(火) 18:00配信
文春オンライン

(中略)
大阪府・吉村洋文「○」 若さでピンチをチャンスに変えた
 ここまでの日本の新型コロナウイルス対策を振り返ると、3月20日〜22日の3連休、兵庫―大阪間で「往来自粛」の要請が出されたことは特筆すべき出来事です。首都圏において、小池百合子都知事が会見で「外出自粛」を強く要請するのは、その3連休明けのこと。関西はより早い段階で対応をとっていた。その判断を下したのが、大阪の吉村洋文知事(44)です。

 大阪くらいの大都市になると、行政にさまざまな要素が絡み合っている。なにか動かそうとしても、一気に物事が動かないものです。にもかかわらず、吉村知事は他県まで巻き込んだ移動制限をいち早く訴えるなど、これまで緩急自在にやってきています。文句なしの「○」です。

(中略)
 さらに吉村知事の活躍は、「維新」という政党のピンチをチャンスに変えたとも言えます。これまで維新は市と府の二重行政を解消するとして、病院や感染症の研究施設などの統廃合を進めてきました。その結果が、現状の大阪における医療現場の逼迫の一因になっています。

 実際に大阪府知事、大阪市長を務めた元維新代表の橋下徹氏(50)は、〈大阪府知事時代、大阪市長時代に徹底的な改革を断行し、有事の今、現場を疲弊させているところがあると思います。保健所、府立市立病院など。そこは、お手数をおかけしますが見直しをよろしくお願いします〉(4月3日)とツイートしています。

 いつ維新批判が起こってもおかしくないピンチでしたが、“緊急事態なんだから今更そんなこと言っても仕方ない”と言わんばかりに、厳しい措置を矢継ぎ早に打ち出して、停滞している中央を尻目に物事をどんどんと動かしていき、活路を見いだしました。

 そうした維新が持っている“なんだか訳のわからないパワー”が、「やっぱり維新はやってくれる」と、市民にアピールする契機になっている。維新は吉村知事の馬力に救われました。
■自粛警察を焚き付け、非国民を叩き潰す文化大革命・非国民狩りの政治手法が「文句なしの「○」です」?
ついに御厨貴氏のような学者までもが維新と吉村・大阪府知事に擦り寄るようになりましたか・・・

ここ数日、「自粛警察(自粛ポリス)」の行き過ぎた吊るしあげ行為が問題視される風潮にようやくなってきましたが、つい先日展開された大阪府内のパチンコ屋への吉村知事の対応手法は、政治および行政が自粛警察たちを焚き付けて攻撃するよう仕向け、非国民を叩き潰す行為でした。このような政治手法をとる人物について、「文句なしの「○」です」とは、驚くべき評価であります。

たしかに政治は結果です。しかし、結果さえ出れば何でもよいわけではなく、結果の前提として正しい方法論が必要になります。「目的は手段を正当化する」というのは、スターリンの手口であります。

吉村知事が手を染めたこの手法は、政治と行政が大衆を暴力に扇動した点において、文化大革命路線・非国民狩り路線以外の何物でもありません。また、4月29日づけ「憎悪と分断をもたらす「維新」の文化大革命路線・非国民狩り路線は、人民大衆の「命」を守れない」で論じたように、大義名分を掲げて異論を力づくで沈黙させて表面的には結束を固めたとしても、人心には憎悪、社会には深い溝と分断が残り、それは以後の積極的な団結を弱めることになるでしょう。この方法は、想像以上に社会に深い爪痕を残すものなのです。

にもかかわらず、「文句なしの「○」です」と手放しで賞賛する御厨氏。「擦り寄っている」と言う他ないでしょう。

■学者としての格を落としてまで、御厨氏は維新と吉村知事に擦り寄る御厨貴氏
また、大阪における医療キャパシティ逼迫の一因に、歴代の維新施政があったことは、記事でも触れられているとおりですが、それを推し進めてきた張本人たる橋下徹氏の他人事のような「よろしくお願いします」発言を取り上げておきながら無批判に受け流しているのは、維新信者ならまだしも「学者のやることか?」と疑問符を付けざるを得ないでしょう。もちろん、「緊急事態なんだから今更そんなこと言っても仕方ない」というのは私も理解可能ですが、あとで追及・検証すべく保留にする姿勢は、すくなくとも学者は見せておかなければなりません。

自らの学者としての格を落としてまで、御厨氏は維新と吉村知事に擦り寄っているわけです。

■異様な「擦り寄り」の風潮
政策の肯定的評価を越えた「擦り寄り」というべき現象が多発しています。売文屋がブームに乗っかる形で駄文を大量生産するのは彼らの性分であるとはいえ、露骨に過ぎるところです。たとえば、最近ホットな話題だった吉村知事と西村大臣との議論を巡る外野の反応が典型的であります。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200507-00026179-asahibcv-soci
大阪府の吉村知事「国と地方の役割分担が明確になった」との認識示す 西村担当大臣の批判受け
5/7(木) 12:39配信
ABCテレビ

大阪府の吉村知事は、休業要請を解除する基準についての自らの発言が批判を受けたことについて、「国と地方の役割分担が明確になった」との認識を示しました。

大阪府の吉村知事は、飲食店などへの休業要請について、「本来は、国が解除基準を示すべきだった」と対応を批判しましたが、新型コロナウイルス担当の西村大臣は6日、「休業要請の解除の基準を示すのは知事の責任」「何か勘違いをされているのではないか」などと知事の発言に不快感を示していました。それに対し吉村知事は7日「決して勘違いしている訳ではない。休業要請については知事の裁量・権限の範囲内だと、明確に(西村)大臣にも言っていただいた。(国が緊急事態宣言の)出口戦略を示すべきじゃないかという考え方は変わらないし、それに基づいて『大阪モデル』というのが出てきている」と話しました。

この一連のやりとりについて、次のような外野意見が出ています。
坂上忍が『吉村知事VS西村大臣』で吉村知事の潔さを絶賛「いい意味でしたたか」「すぐ謝るって、僕も基本にしてる。お見事」(5/7(木) 13:56配信 中日スポーツ)
大桃美代子、吉村府知事の謝罪ツイートに私見「よく読むと…相手をたてることでネット民を収めた対応」(5/7(木) 15:12配信 スポーツ報知)
ヨネスケ 吉村府知事のSNS駆使を称賛「最後に謝る…ツイッター慣れしてますね」(5/7(木) 16:37配信 スポニチアネックス)
陳謝した吉村知事に苦言?元三重県知事「けんかしようと思えばいくらでもできた…賢すぎる、若いのに」(5/7(木) 22:40配信 中日スポーツ)

「褒め殺しを狙っているのか?」というくらいに異様なまでの礼賛・擦り寄りが展開されています。

そもそも、おおもとの吉村知事と西村大臣とのやり取りを振り返れば、これについて「知事が大臣から言質を取った」という評価が見られますが、言質も何も既に明確に定義されていることであります。いまさら言質を取らなければならないような話ではありません

実際のところ、吉村知事は、誤解を与える余地のある表現だったのを取り繕っている(文字数制限が厳しいTwitterゆえに理解できないことはありません)のか、本当に勘違いしていたのを隠すために取り繕っているのかのどちらかだと思われます。

そう考えると、これは、維新お得意の「論点すり替え」としてみた方が自然に思えます。つまり、分が悪くなると急に論点を変えてコジツケ的に「成果」を誇りだすというやつです。民事裁判の「和解」を下敷きにしているんでしょうか、相手からの追撃を受けない程度に相手側をたたせつつ、自分も「負け」ではないくらいのポジションを獲得しています。そして、そもそも別の論点をコジツケ的に持ち込んだが故に、尚も話が長引くと取り繕いのボロが出てしまうので、謝罪を含めたあらゆる手段を駆使して早々と幕引きしているわけです。

はっきり言ってしまえば、吉村−西村論争は、メッセージのやり取りの過程で発生した齟齬であり、普通だったらスルーして然るべき程度の話に過ぎないのです。にもかかわらず、その程度の話がベタぼめされているわけです。これは吉村知事をヨイショし、維新及び維新信者の歓心を買おうと擦り寄ろうとする魂胆があまりにも露骨であると言わざるを得ません。

■更に信仰純化する維新信者
売文屋の擦り寄りも目に余りますが、それに呼応する信者たちのコメントは危険な水準に達しつつあります。
これは当初、知事が決めるべきことに偉そうに口出ししてきた国に対して、吉村知事からの「二度とこっちの決めたことに口出しするなよ」という念押しなので、正直吉村知事の完全勝利。
吉村さんと西村のやりとり、言うまでもないが吉村知事の圧勝だった。
これを勝ち負けの問題だと位置づける維新信者たち・・・当の吉村知事から「同じ日本国民でしょ」って言われちゃいますよw

現段階において、大阪府と中央政府が勝ち負けを争うような対立構図を描くことには、パフォーマンス的効果を除いては何の得もありません。新型コロナウィルス禍は、中央政府と地方政府が協力し、おのおのの役割を果たすことが絶対的に必要であり、それは吉村知事も十分に分かっているはずです。

文革路線を取る吉村知事も危険ですが、嬉々として紅衛兵になる信者たちはもっと危険。維新信者たちが徐々に維新本体の意思と離れつつあるように見受けられます。制御できていないように見受けられます。
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2020年05月07日

自分が愚かだという可能性を少しも考慮しないほどに高慢なのか、病的なレベルの猜疑心なのか・・・

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200507-00000008-ykf-int
正恩氏「20日ぶりに公の場」報道の違和感 脱北者議員「死亡を99%確信」 「影武者」存在の指摘も
5/7(木) 16:56配信
夕刊フジ

 北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長が1日、肥料工場の完工式に出席したと、朝鮮中央通信が2日、写真付きで報じた。正恩氏には「心臓手術説」や「重篤・脳死説」が流れており、公開活動が伝えられるのは20日ぶり。ただ、例年、大規模な催しが行われてきたメーデーの動向としては違和感がある。韓国の脱北者議員は「(正恩氏の)死亡を99%確信している」と主張している。

(中略)
 こうしたなか、久しぶりに正恩氏の公開活動が報じられた。ただ、現体制下では5月1日のメーデーには例年、大規模な催しが行われていただけに、「工場の完工式出席」には、釈然としない面もある。正恩氏には「影武者」が存在するとの指摘もある。

 先日の韓国総選挙で初当選した、脱北者で野党「未来韓国党」の池成浩(チ・ソンホ)氏は1日、聯合ニュースの取材に対し、「(正恩氏は)心血管疾患の手術後、予断を許さない状態だったが、先週末に死亡したことを確認した」「99%確信している」と述べた。

 ドナルド・トランプ米大統領は1日、正恩氏について「まだコメントは控える。適切な時期にする」と記者団に答えた。
見事なまでに徹頭徹尾、デタラメな見方で貫かれています。ここまでくると逆に「立派」だとさえ言えるかもしれません。これが5月7日、つまり今日公開されたものとは驚くべきことです。

突っ込んでまいりましょう。「韓国の脱北者議員は「(正恩氏の)死亡を99%確信している」と主張している」というくだり。当の脱北者議員:チ・ソンホ(池成浩)氏は既に4日に謝罪しているのですがw
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200504-00257783-yonh-int
正恩氏の健康悪化説主張 韓国の脱北者議員2人が謝罪
5/4(月) 16:29配信
聯合ニュース

【ソウル聯合ニュース】韓国で4月15日に行われた総選挙で当選した北朝鮮脱出住民(脱北者)の太永浩(テ・ヨンホ)氏と池成浩(チ・ソンホ)氏が4日、北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)国務委員長(朝鮮労働党委員長)の健康悪化説を主張したことを謝罪した。

 金委員長の健在ぶりが伝えられた2日、2人は自らが主張していた健康悪化説について釈明したが、批判的な世論が収まらないことを受けて公式謝罪した。

(中略)
 元人権団体代表で、未来統合党の比例政党「未来韓国党」から出馬して当選した池氏も声明を出し、「国民の皆さんに深くおわび申し上げる」と謝罪。「(国会議員という)私のポストの重さを深く感じた」とし、「今後、公人として慎重に行動する」と強調した。
陰謀論的に物事を見る人の特徴として私は、「時系列の前後関係がめちゃくちゃ」が挙げられると考えています。これは、陰謀主義者は、事実以前にストーリーがすでに出来上がっており、そのストーリーにとって都合の良い断片的事実が浮かび上がるや否やそれに飛びつき、都合よく切り貼りするという習性があるためです。

上掲記事は、まさにその典型例といってよいでしょう。持論にとって都合の良い情報も悪い情報も区別なく消化する姿勢をとっていれば、きちんと物事の発生順序が整理され、古い情報が適宜アップデートされるはずですが、ニュースに「飛びつく」手合いは、そういったことをしないので、こうして古い情報でいつまでも判断してしまうわけです。

例年、大規模な催しが行われてきたメーデーの動向としては違和感がある」についても、記者が何も取材していないことが分かってしまうくだりです。「元帥様、ご健在! なおもしぶとい死亡説について」でも書きましたが、共和国においては、たしかにメーデーは祝賀イベントは開催されるものの、最高指導者はこれに出席しないのが通例です。

他方、キム・ジョンウン委員長が出席したスンチョン(順川)燐酸肥料工場は、今年最初の現地指導先であり、目下のスローガンである自力更生・正面突破戦の象徴として位置付けられている重要施設です。そんな重要施設の完工式を、労働者階級の祝日である5月1日に設定することは、いかにも共和国がやりそうなこと。メーデー記念イベントへの出席よりも自力更生・正面突破戦の象徴であるスンチョン燐酸肥料工場の完工式への出席を優先させることは、じゅうぶんに考えられることです。

最高指導者臨席のもと大規模なパレードを繰り広げていたソ連などの「イメージ」で記事を書いている様子が手に取るように分かるくだりです。夕刊紙とはいえ新聞記者なんだから、ちゃんと調べなさい!

こんなアホな記事だから、コメ欄にもアホが集る始末。
この件は死亡説の方が信憑性があるが、マスコミやコメンテータ、政府関係者がいるある時を境に手術もしてなくて健康だと言い始めた。取って付けたような理由を並べている。全くと言っていいほど釈然としない。隠そう隠そうとしている。
ある時を境に」――そういう確証が取れたから言い始めたのでは? そこは何か訝しがるところなのでしょうか?

全くと言っていいほど釈然としない」――まず、今回の騒動は「理由は不明ながら、4月中旬に表に出て来られなくなる出来事が発生したが、5月1日には再び登場できるようになった」という単純な筋書きで無理なく理解可能でしょう。「釈然としない」のは、単にあなたの頭が悪いからだと思われます。

また、そもそもキム・ジョンウン委員長の健康状況は、トップクラスに重要な情報であり、その情報の精度は、共和国国内に展開されているであろうスパイ網の規模や西側諸国の情報収集能力を示すものです。そう詳しく手の内を明かすはずがありません。「釈然としない」のも当然といえば当然でしょう。

隠そう隠そうとしている」――疑い過ぎて頭がおかしくなっちゃった? いったい「何を」「どうして」隠そうとしているというのでしょうか。

最近、新型コロナウィルス禍においては、具体的な証拠を一切挙げず利害関係のみを根拠に陰謀が存在すると主張する言説が見られますが、いよいよ、具体的証拠は勿論、そうすることによって誰が得するのかも言えずに、ただ漠然と「陰謀」の存在を主張する言説までも出てきたわけです。

まともな思考ができる人であれば、ここで「自分の思考力では考え付かないだけかもしれない」とか「自分はまだ知らない別情報があるのかもしれない」などと自分の側に何か不足があると考えるものですが、そういう方向には思考が向かわず、「誰かが隠しているに違いない」などと騒ぎたてているわけです。自分が愚かだという可能性を少しも考慮しないほどに高慢なのか、はたまた病的なレベルの猜疑心なのか・・・
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2020年05月04日

調整と指揮の中核である首領の不在ゆえ!

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200503-00000065-dal-ent
ウイルス研究専門の北村教授、PCR検査数が伸びない原因「誰も分かってない」
5/3(日) 12:41配信
デイリースポーツ

 ウイルス研究の専門家である長野保健医療大学の北村義浩特任教授が3日、TBS系バラエティー番組「アッコにおまかせ!」(日曜、前11・45)に出演。PCR検査件数が1日1万件に届かない原因について「誰もよく分かってない」とした。

 MCの和田アキ子に「検査をやる人が少ないんですか」と尋ねられ、「いろんな説があって、実は誰もよく分かっていないんです」と答えた。「人が少ないんじゃないかとか、検査の試薬が少ないとか、鼻の奥の分泌物を取ってそれを運ぶ人が少ないんじゃないかとか、場合によっては鼻の奥の分泌物を取る特殊な綿棒が足りないんじゃないかとか、ありとあらゆるものが足りないといううわさがあってよく分からないんです」と説明した。

(以下略)
そりゃもう、調整と指揮の中核である首領が不在だからでしょう! 将軍様は次のように教えられています。
社会政治的生命体は多くの人々で成り立っているため、そこには社会的集団の生命活動を統一的に指揮する中心がなければなりません。個々人の生命の中心が脳髄であるように、社会政治的集団の生命の中心はこの集団の最高脳髄である首領です。首領を社会政治的生命体の最高脳髄というのは、首領が正にこの生命体の生命活動を統一的に指揮する中心であるためです。首領は人民大衆の自主的要求と利害関係を分析総合し、一つに統一させる中心であると同時に、それを実現するための人民大衆の創造的活動を統一的に指揮する中心です。
『チュチェ思想教育で提起されるいくつかの問題について――朝鮮労働党中央委員会の責任幹部との談話』(1986年7月15日)

残念で悩ましいのは、首領不在というのは日本社会の構造的問題ゆえに、仮に安倍首相が退陣したところで根本的解決には至らないというところ。一事が万事、合議主義(←民主主義とは少し違う)に基づいて何となく決まる社会構造の限界なのです。

よく「日本は個人の力量ではなく組織的力量が自慢で、それでで勝負している」といわれますが、世界でもっと組織的な社会を構築している朝鮮民主主義人民共和国および、組織の重要性を哲学の中心に据えるチュチェ思想の立場から申せば「日本如きが何を言っているのか」と呆れてしまうところです。

組織というものは、指揮命令系統が確立した集団です。その点、日本社会は指揮命令系統が曖昧であり、これはすなわち、日本社会は本当の意味で組織化されていないということであります。いわゆる「空気」で何となくムラ社会的に統制されているに過ぎないのでしょう。
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2020年05月02日

元帥様、ご健在! なおもしぶとい死亡説について

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200502-00000026-kyodonews-int
金正恩氏、20日ぶり活動と報道 重体説打ち消し健在誇示
5/2(土) 6:35配信
共同通信

 【北京共同】北朝鮮の朝鮮中央通信は2日、金正恩朝鮮労働党委員長がメーデーの1日、中部の平安南道順川の「順川リン酸肥料工場」の完工式に出席し、テープカットを行ったと報じた。重体説も出ていた正恩氏の公開活動が伝えられたのは20日ぶり。党機関紙、労働新聞は1面に写真を掲載して大々的に報道、健在を誇示した。

(以下略)
キム・ジョンウン元帥様、ご健在でおられました!

ここまでの経緯を素直に読み解けば、「理由は不明ながら、4月中旬に表に出て来られなくなる出来事が発生したが、5月1日には再び登場できるようになった」という解釈以外、何物も出てくるはずがありません。

しかし、「太陽節に出てこないのに地方視察には出てくるとはおかしい、やはり死んでいるはずだ」、「マスクをしていないので、過去映像の使いまわしだ、やはり死んでいるはずだ」、「メーデーなのに式典出席ではなく地方視察はおかしい、やはり死んでいるはずだ」、極めつけは「北朝鮮の発表だから信用できない、やはり死んでいるはずだ」と言った具合に、どうしても死亡説にしがみつこうとする言説が往生際悪く出てきています

■「太陽節に出てこないのに地方視察には出てくるとはおかしい」?――治ったんじゃない?
「太陽節に出てこないのに地方視察には出てくるとはおかしい」というのは、現時点では一番多く見られる陰謀論的見解ですが、これについては「4月中旬に表に出て来られなくなる出来事が発生したが、5月1日には再び登場できるようになっただけでしょ?」という簡単な反論で処理できると思うので、まともに取り合わないコトにしましょう。

人間なんだから病気になることだってケガをすることだってあるでしょう。最近、共和国ウォッチャー界隈は、「元帥様の側近から新型コロナウィルスを疑わせる症状の者が出たので、元帥様は大事を取って自己隔離なさった」という筋書きで事態を理解していたところです。姿を消してから3週間弱となると、元帥様ご自身については新型コロナウィルスに感染していないことが判明し得る時期。それゆえ、5月1日を機に活動を再開されたというのが、一番順当な理解でしょう。中国人民解放軍の軍医云々という情報も、新型コロナウィルス対策として急遽応援に駆け付けたご一行と考えれば、素直に理解可能です。

とにかく、4月15日にご登場なさらなかったことと5月1日に登場なさったことは、4月中旬に何事かあったことは推察させるものですが、「やはり死んでいるはずだ」という結論には至り得ないでしょう。論理が飛躍しています。

■「マスクをしていないので、過去映像の使いまわしだ」?――最近はマスク未着用の幹部が増えている
「マスクをしていないので、過去映像の使いまわしだ」という言説については、実は最近、共和国ではマスク着用が「緩んで」きています。マスクで大騒ぎになっている日本では考えられないコトかもしれませんが、このことを時系列的に分析しているのが、日大の川口智彦氏が運営する「北朝鮮報道で書かれないこと (dprknow.jp)」の「トランプ、金正恩の健康状態に関する質問に「彼がどうしているか知っている」、「まもなく発表があるだろう」とも、「元帥様」の気の緩み、平壌と地方の様子、幹部の動向、 (2020年4月28日)」です。

当該記事を読むと、3月中旬以降、マスクを着用せず元帥様に近づく幹部たちが出てきたことが確認できます。それまでは、元帥様に近づく者は例外なく首脳部保衛のためにマスクを着用することが絶対的義務でしたが、3月中旬を機にそうした警戒態勢が緩んでいたわけです。「うっかり着け忘れて近づいちゃった」なんてことが許される国ではありません。

現地指導先が「スンチョン燐酸肥料工場」だったというのも鍵になります。当地は建設中の工場であり、また、自力更生・正面突破戦の象徴として今年1月最初の現地指導先でもありました。物理的に考えて、元帥様の訪問は最近の出来事で間違いありません。マスク未着用要素と絡めて考えると、もし過去に収録した映像だとすると、3月中旬以降〜4月中旬までの1か月間に収録されたものになるでしょう。

しかしながら、前述のとおり当地は今年1月最初の現地指導先であり、自力更生・正面突破戦の象徴です。そんな重要工場での完工式の様子を収録しておきながら、短ければ半月、長ければ1か月半もお蔵に入れておくというのは考えにくいところです。仮に共和国が、最高指導者の身辺事変を攪乱するために幾つかの「現地指導の報道ストック」を作っていたとしても、スンチョン燐酸肥料工場の完工式はストックにはならないでしょう。

それゆえ、過去映像の使いまわしというのは、考えにくいところです。

■「メーデーなのに式典出席ではなく地方視察はおかしい」?――元帥様はメーデー記念大会には出席しない
「メーデーなのに式典出席ではなく地方視察はおかしい」については、例年メーデー記念中央報告大会が開かれるものの、元帥様ご自身は出席なさらないのが通常です。

かつてソ連が大規模なパレードを実施したことや中国がいまでもメーデー前後は大型連休になっている点、共和国においても指導者臨席の大規模祝賀がありそうに思えるのもか知れません。しかし、それは「朝鮮民主主義人民共和国そのもの」を見ているのではなく、「社会主義国という属性」から述べている「憶測」に過ぎません。

この点、「5月1日はメーデーですので、北朝鮮において例年、現体制下で大規模な催しが行われており、ここに金正恩氏が登場するかしないかは1つの大きな判断基準」などと得意気に語っていた元航空自衛官で評論家の潮匡人氏の不見識が笑えるところです(北朝鮮のメーデーの催しに登場しなければ〜金正恩氏に重大な事態が 5/1(金) 17:45配信 ニッポン放送)。

「メーデーなのに・・・」論については、「そもそも共和国はそういう御国柄ではないので、異変ではありません」という回答ができるでしょう。

前述のとおり、スンチョン燐酸肥料工場は自力更生・正面突破戦の象徴です。その完工式を、労働者階級の祝日である5月1日に設定することは、いかにも共和国がやりそうなこと。メーデー記念中央報告大会への出席よりも自力更生・正面突破戦の象徴であるスンチョン燐酸肥料工場の完工式への出席を優先させることは、じゅうぶんに考えられることです。

■「北朝鮮の発表だから信用できない、やはり死んでいるはずだ」?――自分が信じたい公式発表は信じて、そうでないのは信じないつもり?
「北朝鮮の発表だから信用できない、やはり死んでいるはずだ」について。バカバカしいにもほどがある言説です。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200502-05020050-sph-soci
辛坊治郎氏、金正恩氏が20日ぶりに姿を見せた写真に疑問…「この写真をどの程度信じていいのかと言わざるを得ない」
5/2(土) 10:02配信
スポーツ報知

(中略)
 番組では朝鮮中央通信が公開したテープカットする正恩氏の写真を放送したが、辛坊治郎キャスターは「この写真をどの程度信じていいのかと言わざるを得ない」と見解を示した。

 その上で「少なくともこの写真を北朝鮮当局が出してきたということは、巷間(こうかん)伝えられているように、すでに亡くなっているとかという話ではなさそうなんですかね」と明かしたが「最高指導者の健康状態が20日ぐらいも分からない国と実は我々はすぐ側で付き合っていなきゃならないという現実を改めて見せつけられた気がします」とコメントしていた。

さすがは辛坊治郎氏。よりによって一番レベルの低いコメントを出してしまいましたw自分が信じたい公式発表は信じて、そうでないのは信じないというわけですw「いつもはホンモノ、今回は影武者」と断ずる根拠はありません。「いつもが影武者、今回はホンモノ」という可能性もあるわけです。

元帥様が表舞台に出てこなかったケースはいままで何回もありましたが、ホンモノの元帥様はとっくにお亡くなりになっていて長いこと影武者が元帥様を演じている可能性はスルーなんでしょうか?w「いつもは影武者、今回も影武者」という可能性です。

プライドの高いある種の人々は、信じていた見解が間違っていたという事実を突きつけられたとき、素直に認めようとしないケースがあります。明らかに嘘くさい話を信じ、案の定間違いだったのであれば、恥を知る必要もあるかも知れませんが、それなりの理由があって信じていことが新たに判明した事実によって否定されたのであれば、恥じることもないように思います。しかし、プライドが高い人は、そうした場合でも間違いを認められないことがあります。今回もそういうことなんでしょうかね。
posted by 管理者 at 17:47| Comment(6) | 時事 | 更新情報をチェックする

2020年05月01日

ごみ袋に感謝のメッセージをしたため、社会共同体の懐の中で社会政治的生命を輝かせよう

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200428-00000049-jij-pol
ごみ袋にメッセージを 収集員への激励呼び掛け 小泉環境相
4/28(火) 12:16配信
時事通信

 小泉進次郎環境相は28日の閣議後の記者会見で、新型コロナウイルスの感染リスクが高い状況下で働くごみ収集作業員のため、激励と感謝の気持ちを伝えるメッセージや絵をごみ袋に描くことを提案した。

 小泉氏は「感謝の輪に加わっていただけたらありがたい。作業員の方々に大いに励みになる」と呼び掛けた。

(以下略)
「それだけ」だったら足りなすぎる提案ですが、「それも」だったらアリでしょうね。

「人間が働く」ということは、第一義的には生活のため・生存のためですが、決してそれだけではありません。社会への参加という側面もあります。貨幣価値では測定できない「やり甲斐・生き甲斐」を併せて持ち、社会共同体の懐の中で社会政治的生命を輝かせることもまた、「人間が働く」ということであります。少なくとも私(たち)、主体的社会主義信奉者はそう考えています。

なお、まっとうな労働条件や正当な対価の支給がなく、劣悪な環境下で「やり甲斐・生き甲斐」しか得られないことを「やりがい搾取」といいます。

その観点から言うと、下記は「荒んでいるな」という感想さえ出てくるものです。哀れ哀れ。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200428-00000116-dal-ent
小泉環境相のごみ袋メッセ案にツッコミ「善意より支給や手当」「小学生の1日大臣?」
4/28(火) 18:38配信
デイリースポーツ

 小泉進次郎環境相が28日の会見で新型コロナウイルス感染リスクの中で働くごみ収集作業員に向けた感謝のメッセージや絵をごみ袋に描くことを提案したが、SNSでは「子どもがやるのはいいが、政権与党の大臣がやることはこれじゃない」「求められているのは作業員への装備支給や増員、手当」といったツッコミが殺到し、ツイッターで「激励呼び掛け−小泉環境相」がトレンドになった。

(中略)
 さらに、政治家としての在り方を問う厳しい意見も。「感染リスクが高い状況下で働くごみ収集作業員が、政府に求めているのは『カネのかからない善意』ではなく、感染防止の装備支給や、職を失った人々の臨時雇用による作業員の増員、休養、そして手当」「この発言、小学生の1日環境大臣じゃなくて、ポスト安倍に名前が上がる大人の政治家だからキツい」「どうしてこうタダで済む提案ばかりするかね?」などと批判が続いた。
「感染防止の装備支給」等々は大切ですが、上述のように「感謝のメッセージ」というのも、人間が働く上ではとても大切なことだと思いますが。そもそも小泉環境相及び環境省は、感謝のメッセージ「だけ」でこの難局を乗り越えるなどと宣言しているのでしょうか? 「感謝のメッセージだけ」だったら足りなすぎる提案ですが、「感謝のメッセージも」だったらアリだと思いますよ。「感染防止の装備支給」等々には手配の時間が掛かりますが、「感謝のメッセージ」であれば、今すぐにでもできることです。できることから順次着手するのが現況では大切なことでしょう。

「感謝のメッセージを送ろう」くらいでこんな反発が湧いてくるとは、人心がかなり荒んでいることが推察できるところです。また、「人間が働く」ということが如何いうことであるのかについて、深く探究されていないことが推察される反応です。

「人間が働く」ということ環境や条件の良しあしだけで説明しようとする風潮は、実は労働界にこそ強かったりします。資本主義社会において真っ先に切り詰められ、労働者階級が苦しむのは、今も昔も労働の環境や条件の面においてである点、こうした風潮は無理もないのです。しかし、新しい社会というものは、単に労働環境・労働条件といった物質的側面が改善した社会なのではなく、働く人たちの心情の側面においても大きく改善した社会である必要があります。

生産の附属物としてではなく生産の主体として、社会から疎外された存在としてではなく社会の一員として人倫を取り戻した存在として生き発展できる社会こそが目指すべき新しい社会です。その究極的な姿が、社会政治的生命体を構築した社会:主体的社会主義・共産主義社会であると考えます。

小泉環境相のポエム調な発想・発言については、こちらが恥ずかしくなってくることも珍しくなく、あれはちょっと「行き過ぎ」かも知れません。しかし、これだけ荒んでいるご時世、あれくらい印象に残った方が良いのかもしれません。

今日は国際労働節です。新しい社会を創造する自主的主体は、勤労人民大衆です!
posted by 管理者 at 22:12| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする