■チュチェ思想信奉者に出会えた!
最近、Twitterを作った私ですが、同じく共和国やチュチェ思想などに関心を持っている方々と少しずつ交流の機会を持たせいいただくようになりました(この場を以って感謝申し上げます)。そのうちのお一人に、在日朝鮮人3世でチュチェ思想研究家の
@blog_juche_ideaさんがいらっしゃいます。Twitterだけでなく
チュチェブログというブログを開設し、精力的に執筆を展開されています。個人ブログ等をほとんどチェックしていない私も、その発信内容が実に興味深いためにTwitterで出会って以来、頻繁にチェックさせていただいているところです。
ことの発端は
Twitterの投稿でした。「
ミクロとマクロの関係は相互に作用するので、一方向からのみ決まることではないが、ミクロの集合体がマクロとして表れる、という原理がある。ミクロ(個人)の主体性・発展が重要だとするのがチュチェ思想の本質だ」というご意見に対して私が≪주체사상교양에서 제기되는 몇가지 문제에 대하여≫(『チュチェ思想教育(教養)において提起される幾つかの問題について』――以下、「7.15労作」といいます)を下敷きに「
チュチェ思想は「ミクロかマクロか」という議論ではないと思います」とコメントさせていただいたのです。
激論というような議論ではなかったのですが、双方の考え方の違いはハッキリとあらわれていました。私は、
キム・ジョンイル総書記の見解をチュチェ思想体系から分離するのは困難であると考えているのに対して、@blog_juche_ideaさんは「
金正日の独自の解釈とその流れをくむ「金日成・金正日主義」は「チュチェ思想」として認めない」と言明されたのです。
私のコメントも幾らかの刺激になったのでしょうか、その後、@blog_juche_ideaさんはご自身のブログにおいて「
家父長制からの脱却とチュチェ思想の飛躍」という記事を公開されました。「
当ブログは「社会政治的生命体論」に代表される金正日の独自の解釈は「チュチェ思想」として認めない立場である」と言明されています。
社会政治的生命体論の評価は、チュチェ思想を考える上で避けられない重要な問題です。私は、チュチェ思想研究を志しており、また、チュチェ思想を参考にしつつ日本の自主化を実現したいと考えています。そこで今回は、Twitter上でのやり取り及び上掲「家父長制からの脱却とチュチェ思想の飛躍」を出発点として、私なりに社会政治的生命体論について考えてみたいと思います。
■社会政治的生命体論の魅力
@blog_juche_ideaさんと異なり
私は、7.15労作を中心に展開されている社会政治的生命体論を原則として支持しています。また、社会政治的生命体論の形成こそが朝鮮式社会主義・主体的社会主義であると提起した『人民大衆中心の朝鮮式の社会主義は必勝不敗である』の内容も原則として支持しています。この立場から私は数年来にわたって、当ブログにおいて主張を展開してきました。
私が社会政治的生命体論を原則として支持しているのは、なによりも、
社会政治的生命体における人間関係の原理に魅力を感じているためです。「
혁명적 의리와 동지애는 개별적 사람들을 하나의 사회정치적 생명체로 결합시키는 작용을 합니다」と総書記が指摘されているとおり、
同志愛と革命的義理心に基づいた道徳義理的団結が社会政治的生命体論の根本であることに私は魅力を感じているのです。これは「自由と平等」を前提としつつも、それよりも一段高みにある関係性です。社会的存在としての人間が幸福に生きるための
人生観の基礎であります。それゆえ、当ブログでは折に触れてブルジョア「個人」主義的な世相を取り上げて批判的に論評し、同時に、同志愛と革命的義理心に基づいた道徳義理的団結に基礎づけられた人間関係論の優越性を主張して参りました。
社会政治的生命体論は、人倫・人間性の回復を掲げた初期マルクスの問題意識と通底していると考えられます。それでいながら社会政治的生命体論は、いわゆる「リベラリズム」のような主観観念論的な博愛主義的言説とは明確に一線を画してもいます。つまり、
チュチェの革命論がマルクス主義の科学性と革命性を継承しつつも発展させているというわけなのです。
また、社会政治的生命体論においては、「首領・党・人民大衆が三位一体的な統一体を構成することで革命の主体が形成され、そうした統一体が主体として運動を展開することで人類史が前進する」という見解があります。後述のとおり私は、システム工学的な世界観を持っているので、
革命の主体を「首領・党・人民大衆の統一体」と定義し、それが運動することで人類史が前進するという見方:ミクロとマクロを一体化させたシステム的な「主体」の定義には、とても納得がいくのです。
人類史を振り返るに、私は歴史の自主的な主体は、いわゆる「個人」:近代主義的な個人ではなく、組織化された人間集団であると考えています。近代主義的な個人は、あくまでも日常生活における主体であり、社会歴史的なスケールでは主体にはならないと考えています。社会歴史的なスケールとは、社会学でいう社会集団論を下敷きとしたものであり、3人以上で構成される集団であるがために一個人の決意や主観的意思と行動だけでは自由に操作できない空間スケールを「社会」、世代を超える時間スケールを「歴史」として考えています。
ちなみに、チュチェ思想には朝鮮哲学の伝統的内容が色濃く反映されていますが、朝鮮の伝統的思惟においては、主体は近代的な意味での「個人」ではありません。7.15労作で最も儒教的な部分と言い得る次のくだりは、鐸木昌之氏の『北朝鮮 首領制の形成と変容――金日成、金正日から金正恩へ』(明石書店・2014年)によると、ほぼ同じ理屈の内容が韓「国」の倫理道徳の教科書にもあるといいます(P181−182)。
자식들이 자기 부모를 사랑하고 존경하는 것은 자기 부모가 반드시 다른 부모들보다 낫거나 그들로부터 어떤 덕을 입을 수 있기 때문이 아니라 바로 자기를 낳아키워준 생명의 은인이기 때문입니다. 혁명적 의리를 지키는 사람이라면 좋을 때나 나쁠 때나 변함없이 오직 자기 생명의 모체인 수령, 당, 대중과 생사운명을 같이해나갑니다. 만일 그 누가 자기 나라가 뒤떨어졌다고 하여 실망하고 자기 조국에 대하여 다른 마음을 먹거나 조국이 위험에 처하였을 때 자기를 키워준 어머니 조국을 배반하고 자기 한 몸만을 건지려고 한다면 그 어느 나라 인민도 그러한 인간을 양심을 가진 사람이라고 보지 않을 것입니다. 혁명적 의리를 가진 사람이라면 어떤 바람이 불어와도 사대주의를 하거나 자기 수령, 자기 당, 자기 조국을 배반하는 일이 없을 것입니다.
ブルジョア「自由」主義が「進んでいる」日本の感覚からいえば、かなり「強烈」な内容ですが、ほぼ同じ理屈の内容が韓「国」の倫理道徳の教科書にもあるとなると、これは民族文化的なものであると言わざるを得ないでしょう。
さらに、『反帝闘争の旗を高くかかげ、社会主義・共産主義の道を力強く前進しよう』において提起されている、
社会政治的生命体論を前提とするキム・ジョンイル総書記の情勢分析は、知識労働者が労働者階級の圧倒的部分を占める現代社会における革命の道・解放の道を明らかにしているものと考えられるので支持しています。肉体労働者を前提とし生産力ばかりに注目する無味乾燥なる古典的マルクス主義が産業構造・社会構造の劇的変化にうまく対応できておらず、思想としての生命力を失いつつあるのとは対照的なのです。
つまり、
(1)同志愛と革命的義理心に基づいた道徳義理的団結に基礎づけられた人間関係論、
(2)システム的な主体の定義、及び
(3)情勢分析の3点において、社会政治的生命体論に
魅力を感じ、原則として支持しているのです。
チュチェ思想を参考にしつつ日本の自主化を実現したいと考えています。
■首領の位置づけと実際との間の「飛躍」:革命的首領論が「首領独裁正統論」に転化している
しかしながら、社会政治的生命体論を「原則として支持」していると書いているとおり、すべてを無条件に支持しているわけではありません。とりわけ、
首領の位置づけと実際との間に「飛躍」があると考えています。
7.15労作において首領の位置づけは、次のように説明されています。いわゆる「
革命的首領観」です。
사회정치적 생명체는 많은 사람들로 이루어져 있는 것만큼 거기에는 사회적 집단의 생명활동을 통일적으로 지휘하는 중심이 있어야 합니다. 개별적 사람들의 생명의 중심이 뇌수인 것처럼 사회정치적 집단의 생명의 중심은 이 집단의 최고뇌수인 수령입니다. 수령을 사회정치적 생명체의 최고뇌수라고 하는 것은 수령이 바로 이 생명체의 생명활동을 통일적으로 지휘하는 중심이기 때문입니다. 수령은 인민대중의 자주적인 요구와 이해관계를 분석종합하여 하나로 통일시키는 중심인 동시에 그것을 실현하기 위한 인민대중의 창조적 활동을 통일적으로 지휘하는 중심입니다.
社会的集団の活動を指揮するための中心が必要だという理屈自体は一般論としては正しいものです。欧米流リベラリズム――その最たるものが経済的な自由放任主義――のように、個々人の「自由」な行動が社会的に予定調和を達成するという無邪気な想定は、歴史的事実を踏まえればこそ到底受け入れることが出来ないものです。社会には指揮・調整のための中心が必要です。この意味で革命的首領観には一定の真理があると考えられます。
しかし、
一般論として正しい「首領の理論的位置づけ」と、いままさに共和国で展開されている「実際の首領の在り方」との間には飛躍があるというべきです。平たく言えば、
「いくら首領が必要だといっても、あれほどまでに権威と権力を一元的に手中に収める必要があるのか?」と言わざるを得ないのです。
7.15労作で首領の権威と権力が絶対化されてからというもの、共和国ではありとあらゆる場面で首領の構想と意図を無条件で実現させることが求められるようになってしまいました。たとえば、『建築芸術論』のような著作においてさえ、このことが至上命題として要求されるに至っています。ここまでする必要があるとは思えないところです。
革命的首領論が「首領独裁正統論」とも言えるものに転化してしまっています。
7.15労作においては、正しくも「
당과 수령의 영도를 떠난 대중이 역사의 자주적인 주체로 될 수 없는 것처럼 대중과 떨어진 당과 수령도 역사를 향도하는 정치적 영도자로서의 생명을 가질 수 없습니다. 대중과 떨어진 수령은 수령이 아니라 하나의 개인이며 대중과 떨어진 당은 당이 아니라 하나의 개별적인 집단에 지나지 않습니다.」と記されています。実にシステム的な見方であり理屈としては完全に支持するものですが、
このくだりと現実との間のギャップはあまりにも大きいのではないかと思えてなりません。
■階級主義を清算し、革命的首領論と「首領独裁正統論」を切り離す必要性
私の目には「飛躍」に映るこの理屈について共和国当局は、まず、
儒教の家父長的伝統の思惟を持ち出して合理化してきました。これについては、前述の鐸木(2014年)で綿密に論じられているので未読の方には是非ともご一読いただきたいと思います(ただし、本書前半の出来が素晴らしいのと比較すると、補章の出来が、韓「国」の左翼労組が運営しているBBSの書き込みを出典にしてしまう等、壊滅的に酷いのが惜しいところ)。チュチェ思想を参考にしつつ日本の自主化を実現したい私としては、あくまでも日本の問題解決のためにチュチェ思想を活用するというスタンスであり、朝鮮儒教の家父長的伝統の思惟を深く掘り下げることは優先度の低い話なので、ここでは具体的な指摘は割愛したいと思います。
共和国当局は、また、
祖国解放戦争(朝鮮戦争)が休戦中であり対米対決の最中にある国際的環境も理由として合理化してきたように見受けられます。革命的首領観を極端に誇張した末にあるというべき「先軍政治」は、その代表例と言えるでしょう。「
自然の征服と社会の進歩をめざす人民大衆の創造的活動は闘争をともないます(中略)
とくに古い社会制度を新しい社会制度に変え、人民大衆の社会的解放を達成する過程は激しい階級闘争の過程です」(『チュチェ思想について』)という
「階級主義」的見解も手伝って当然視されてきました。
チュチェ思想における
革命的首領論が「首領独裁正統論」とも言えるものに転化している背景に階級主義の影が色濃く見られることは、注目すべきであります。
階級主義について、猪木正道氏の名著『共産主義の系譜』では、次のように論じられています(猪木正道『新版増補共産主義の系譜』2018年、角川ソフィア文庫、P75)
マルクスのヒューマニズムはその発端――現存社会における人間の自己疎外に対する憤激――とその結末――人間性の完全なる実現としての共産主義――とに局限されており、共産主義の実現過程そのものは物質的生産関係を基盤とする階級闘争にゆだねられている。この過程において主体的なものはプロレタリアートであるが、プロレタリアートは前述のように形而上学的範疇であることを度外視してもなお個性を没却した集団であり全体であって、一回生起的な人格の尊厳は集団としてのプロレタリアートの階級意識の中へと完全に埋没されてしまっている。こうしてマルクスは人間を自己疎外の魔術性から解放しようとしながら、かえって物質的生産力やプロレタリアートという集団の魔術性に呪縛してしまった。ここにマルクス主義が”プロレタリアートの独裁”の名において、全体主義的な奴隷制を生み出す危険性が潜んでいる。これはマルクスが人間を社会関係の中へと歴史的に解消したことから来る必然の帰結
階級主義的立場の根本的欠陥を鋭く指摘しています。本書の初版は1949年に上梓されたもので、上掲部分は初版からあるようですが、1949年といえば中国では人民共和国が建国された年、ソ連ではスターリンが健在だった頃。その頃から既に階級主義はここまで見抜かれていたわけです。
階級主義は、プロレタリアート階級という「全体」を優先させてしまい個人の存在を塗りつぶすが如く超越してしまいがちだというわけです。
階級主義の著しい弊害を鑑みるに、これを清算する必要があると考えられます。
階級主義を清算し、革命的首領論と「首領独裁正統論」を切り離す必要があると考えられるのです。
階級主義の清算については、実はチュチェ思想内部に既にその取っ掛かりが存在しています。かつて
キム・イルソン主席は、『資本主義から社会主義への過渡期とプロレタリアート独裁の問題について』(チュチェ56・1967年5月25日)において、中国の文化大革命を念頭に、それと対比する形で朝鮮式の階級闘争について次のように教示されました。
社会主義革命を行うときの階級闘争は、ブルジョアジーを階級として一掃するための闘争であり、社会主義社会での階級闘争は、統一団結を目的とする闘争であって、それは決して社会の構成員を互いに反目し、憎みあうようにするための階級闘争ではありません。社会主義社会でも階級闘争を行うが、統一と団結を目的とし、協力の方法で階級闘争を行うのであります。
尾上健一氏のような「大物正統派」も、この認識をしばしば持ち出している点、チュチェ思想における階級主義の清算の取っ掛かりは、思想的に重要な要素として存在していると考えられます。
とくに21世紀に入ってからというもの、
キム・ジョンイル総書記の『民族主義にたいする正しい認識をもつために』(チュチェ91・2002年2月26日及び同28日)を筆頭に、
民族概念の地位がイデオロギー的向上し階級概念が相対的に地位を下げていることも階級主義の清算にとっては有利な傾向にあると言えるでしょう。
■日本革命の主人として日本的な関心から社会政治的生命体論を再整理する必要性
チュチェ思想を参考にしつつ日本の自主化を探究する立場、「日本革命の主人」としての立場から申せば、昨年12月18日づけ「
社会政治的生命体形成の構想」で論じたとおり、
日本的な関心から社会政治的生命体論を再整理する必要も生じます。
なぜならば、社会政治的生命体を基礎づける同志愛と革命的義理心に基づいた道徳義理的団結の実現条件が、
ブルジョア「個人」主義が蔓延している今日の日本社会において存在しているとは到底思えないからです。朝鮮式の社会政治的生命体を日本において形成することは相当困難であると考えられます。それゆえ、社会政治的生命体論そのものを日本の現実に合わせて調整する必要が生じると考えます。
また、
ブルジョア的人間関係にドップリと浸かった日本人が、革命的首領論を抵抗なく受け付けるとも思えません。よって、これについても日本の現実に合わせて調整する必要が生じるでしょう。
首領の役割を日本の現実に合わせて調整することはすなわち、社会政治的生命体論そのものを日本の現実に合わせて調整することを意味します。
社会政治的生命体における人間関係の基本原理である「同志愛と革命的義理心に基づいた道徳義理的団結」を更に抽象化すると、それは「集団主義的な社会的人間関係の原理」と言えそうです。たしかに、7.15労作を筆頭にチュチェ思想の諸労作においては、端的に「集団主義」という言葉を使って表現していることが多いのに気が付きます。
つまり、
日本的な関心から社会政治的生命体論を再整理するということは、本質的には、日本社会の現実から出発して集団主義概念を深化させることであり、
具体的には、集団主義の実現方法を首領との関係性の内に探求すること・首領の役割を見直すということなのです。
■首領の役割とは――革命の主体は首領・党・人民大衆によって構成されたシステム
実は私は、当ブログで以前から述べてきたとおり、認識論などの哲学的世界観としてはマルクス主義的唯物論を信奉しておらず、物理学におけるカオス力学の見地、F.A.ハイエク(Friedrich August von Hayek)的な知識論・認識論及びシステム工学的な見方が融合されたような立場に立っています。
経済政策に関する記事を幾つかご覧いただければお分かりいただけるかと思いますが、自由放任論には反対だが設計主義(計画経済)にはもっと反対であり、一定の管理の下での市場における自生的秩序を重視する立場を取っています。いかなる人間も万事・悉皆を知り尽くすことはできないからです。
首領といっても生身の人間です。いかに首領が天才的であったとしても物理的世界のスケールから見れば甚だ限定合理的な頭脳であり、よって一個人が合理的に取り仕切れることは、あまりにも少ないというべきであります。
首領が社会的課題の解決を集中処理するのではなく、人民大衆の自発性を生かして社会的課題の解決を分散処理しつつそれを首領が全体プロデューサー的な立ち位置から調整するというのが、現実解であると考えています。
こうした考えは既に当ブログではチュチェ102(2013)年12月22日づけ「
市場競争の効用は「効率性」よりも「多様性」」を筆頭とする経済政策に関する記事で主張してきました。市場における自由競争の真の効用は、費用最小化・利潤最大化という効率性ではなく、多くのプレイヤーが参加し自由にアイディアを市場に提案することによって生まれる多様性なのです。多様なアイディアの中から相互作用が生じ、一人では思いつかなかったような視野が広く豊かなアイディアが生まれてくるのです。
また、
「自主権の問題としての労働問題」というタグでも展開してきました。いわゆる「ブラック企業」の淘汰について、個々人の「嫌だから・無理だから辞める」といったミクロ的なアクションが恰もベクトルの合成のようにマクロ的には大きなウエーブになり得るので、労働組合の組織的な要求運動ばかりに注目するのではなく、個々人のミクロ的なアクションを大切にしつつ、労働組合等は組織的・戦略的・意識的にそうした動きを支援・調整する役割を果たすべきだと述べてきました。
その点、当ブログでも数年来、その動向に注目して来た「社会主義企業責任管理制」及び「圃田担当責任制」は、内閣(党ではなく内閣)の全体的管理下におけるボトムアップ的な経済運営であります。まだまだ漸進的に形成されつつある制度ですが、方向性としては注目に値するものであり、将来的な首領像を形作るものになるかも知れないと考えています。
■集団主義概念に関する試案
ここでいう「集中処理」及び「分散処理」は、既にお気づきの方もいらっしゃると思いますが、
システム工学におけるそれと同じ意味です。社会政治的生命体論は、革命の主体を首領・党・人民大衆の三位一体的な統一体としていますが、ここでいう「統一体」とはまさに「システム」のことだというべきです。
チュチェ革命の主体は首領・党・人民大衆によって構成されたシステムなのです。
ちなみに、本記事冒頭でも少し論じましたが、「主体」をどのスケールに見出し、「主体」をどう定義するのかは、実に難しい問題です。近代主義感覚でいくと主体=個人と考えがちですが、朝鮮の歴史的思惟でいくと、主体≠個人です。「主体とは何か」を探究することこそがチュチェ思想探究の第一歩になるでしょう。私は、歴史の自主的主体は、近代主義な意味での個人ではなく、組織化された人間集団であると考えています。それゆえ、繰り返しになりますが、「首領・党・人民大衆の統一体」をシステムとして捉える社会政治的生命体論を原則として支持しているのです。
そこで、集団主義概念を「首領・党・人民大衆の統一体をシステムとして捉える」という切り口から深化させてみると、
その統一体内部の構成要素同士の関係もまた、システム的な関係性であるべきだと言えるでしょう。すなわち、各構成要素の影響範囲はそれぞれに異なるものの、すべてが不可欠的な役割を果たしている点において単に影響範囲の大小のみで貢献度や発言力を測るわけには行かないということや、「鶏が先か卵が先か」的な相互関係ゆえに、どれか一要素だけを取り出して優劣をつけたりするのではなく、すべてをトータルに捉える必要性が生じることなどが見えてきます。
こうした原理は、すでに協同組合運動などで見られつつあるものです。当ブログでも協同経営化・自主管理化を突破口とする社会主義建設について構想してきました(昨年12月31日づけ「
チュチェ108(2019)年を振り返る(4)――協同経営化・自主管理化を突破口とする社会主義建設の課題」など)。
その点、
「首領独裁正統論」と化した現状の革命的首領論は、三位一体的な統一体といいつつも「頭脳」にあたる首領が権威・権力の両面であまりにも強調され過ぎており、
三位一体でもなければシステムでもなくなってしまっています。かつて
キム・ジョンイル総書記は、『社会主義に対する誹謗は許されない』(チュチェ82・1993年3月1日)において「
社会主義の敵は、社会主義を「全体主義」「兵営式」「行政命令式」だと誹謗し」ているなどと憤慨しておられましたが、敵どもからそう言われても仕方ないように思われるところです。
集団主義概念を深化させることは、この問題の進展が社会思想の人類史的な画期的出来事になり得るフロンティアである点において、古今東西の社会理論に通暁し、さらに学際的にも考える必要があると言えます。上述のことはあくまでも一つの試案に過ぎませんが、このように集団主義概念を深化させることが社会政治的生命体論を再整理することに繋がると考えます。
■総括
同志愛と革命的義理心に基づいた道徳義理的団結を社会形成の根本原理と位置付ける社会政治的生命体論。これを日本の地において実現させるためには、
階級主義の清算によって革命的首領論の「首領独裁正統論」への転化を解決し、また、
社会政治的生命体論を再整理することが必要です。日本社会の現実に即した関心から出発して
集団主義概念を深化させ、
集団主義の実現方法を首領との関係性の内に探求すること・
首領の役割を見直すということが必要なのです。
ここにおける首領の役割は、社会的課題の解決を集中処理するのではなく、人民大衆の自発性を生かして社会的課題の解決を分散処理しつつそれを全体プロデューサー的な立ち位置から調整するものであるべきでしょう。より具体的には、「首領・党・人民大衆の統一体をシステムとして捉える」という切り口から、さまざまな場面について詰めてゆくことになるでしょう。
■編集後記
はじめて体系的にチュチェ思想に関して論じてみたかも知れません。いつも報道記事に対してチュチェ思想的観点から論評するのが当ブログのスタイルだったからです。こういうのも、たまには良いのかもしれません。
最近すこし哲学探究から離れていましたが、私はシステム的な世界観を持っているとはいえ、ハイエク知識論・自生的秩序論の影響もあって、ミクロレベルのダイナミックスを比較的重視する立場です。
他方、やはり私は価値判断として社会主義の立場に立ちます(ちなみに、ハイエクは自由主義者ですが、自由そのものに価値があるから自由主義者というわけではなく、その知識論・自生的秩序論から導出される唯一の解が「自由」だったのです)。社会主義諸潮流を概観するに、マルクス主義があまりにも物質的条件に偏重しているのに対して、チュチェ思想には人間が見えます。人間が見える社会主義・共産主義思想は、あまり多くはないように思います。
そんなわけで、
チュチェ思想的な人間中心主義とハイエク的なミクロ重視からそれぞれ利点を摘まみ取り、何とか折り合いを付けられないだろうかと色々考えてきました。
久しぶりに原点に立ち返りました。