https://news.yahoo.co.jp/articles/c28afe46aeaac5d7b0afcaa5609e04f6823a8efc?page=1ユーミンへの暴言騒動で、リベラルが寛容性持たないこと露呈
9/8(火) 16:05配信
NEWS ポストセブン
(中略)
まぁ、左翼の劣化ぶりってひどいもんだな。アベにシンパシーを感じたり、愛国的発言をすると「がっかりしました!」と猛烈にツイッターで叩く芸風が定着した。これまでその毒牙にかかったのはRADWIMPS野田洋次郎、つるの剛士、糸井重里、佐々木俊尚、三浦瑠麗、野口健、松本人志など。
彼らは別にネトウヨでも何でもないのだが、「リベラル」を名乗る皆様方からは「ネトウヨ」「極右」認定を受けている。松本に至っては「アベとメシを食った」というだけで非難された。
本来寛容性を重視するはずだったリベラルがまったく寛容性を持たないことが分かったユーミン騒動である。
■今日的なリベラリズムの本性は「破邪顕正主義」
今日的なリベラリズムの本性を見極める必要があるでしょう。すなわち、
「破邪顕正」こそが本質であり、「自由」や「多様性」は二次的なものに過ぎないわけです。
ルネサンス以降の近代リベラリズムには幾つかの流派・派閥がありましたが、その有力な流派・派閥は「
啓蒙主義」でした。いわゆる「合理主義」に依拠し、宗教や伝統が支配してきた中世的価値観への反発、非合理的な宗教的世界観に対する「破邪顕正」こそが啓蒙主義的リベラリズムの根本動機でした。
今日のリベラリズムも、合理主義・啓蒙主義的な破邪顕正を引き継いでいます。しばしば、「素人の思い付き」レベルの屁理屈を並べ立てて、数世代にわたって生き延び、それゆえに超時代的な有効性が実証された方法論にケチをつけています。
彼らにとって大切なのは、自分のオツムに理解できるか否かなのです。
彼らが言う「自由」や「多様性」は、「自分のオツムで理解できる」という意味での合理主義・啓蒙主義の枠内で、伝統価値を相対化・無価値化する限りのものであり、何でも許容するつもりはサラサラないのです。
たとえば、最近では自民党総裁選に立候補した岸田文雄・同党政調会長が「妻を立たせたまま飯を食っていた」などとして、「時代錯誤」などと炎上(ほとんど放火)騒ぎになっています(
岸田氏“時代錯誤”批判された食事写真 Nスタ取材合間だった…室内にホラン千秋 9/5(土) 22:25配信 デイリースポーツ)が、この手の人たちは、たとえば不倫報道においては「他人の家庭の価値観に口出しすべきではない」に始まり、甚だしくは「一夫一妻は古い! 多様な家族の在り方を!」などと言っているわけです。連中が言う「自由」や「多様性」が、いかに恣意的でイイカゲンなものなのかは、この一件を見ていも明々白々でしょう。
啓蒙主義的リベラリストのオツムに理解できるか否かが判断基準になってしまっていることが、「リベラリストこそが非寛容」である根本的原因であります。
彼らが理解できれば「合理的」であり生存が許され、彼らに理解できないことは「非合理的」であるがために是正指導の対象になってしまうのです。どうしても迷信的な非合理的主張に固執する人物・勢力には、いくらか手荒い手段を講じても主張を改めさせる必要がある、吊るし上げも許容されると考えるわけです。
■啓蒙主義的リベラリズムとマルクス主義は同根
こうした啓蒙主義的リベラリズムに対して、人間理性・合理性の限界に根差したE.バーク流・ホイッグ党的なリベラリズムは、まったく異なるものです。人間理性の限界・個人のオツムで理解し得ることの限定性を前提としているがゆえに、本質的に謙虚であり破邪顕正主義の対極に位置するものであります。
バークの後継者として反共・反設計主義の雄たるF.A.ハイエクが位置していることは注目に値するでしょう。ハイエクは、バーク以来の人間理性の限界に対する認識を出発点として、理性と科学に基づいて世界を全面的に改変しようとする設計主義・計画主義、そしてそれを未来ビジョンの根幹として据えるマルクス主義を徹底的に批判しました。
ハイエク的に言えば、
啓蒙主義的リベラリズムとマルクス主義は、理性信仰と、それに伴う破邪顕正主義において同根であります。その点、今日のリベラリズムとかつてのマルクス主義との類似性を指摘する主張は、ある意味で正しいと言えます。
更に、今日のリベラリストをも含む
「被害者意識」もまた、かつてのマルクス主義ブームと今日的リベラリズムとの深い類似性を示していると言えるでしょう。
https://news.yahoo.co.jp/articles/10dbeeda9674b0e4a678a6a6751211b8445ca6bf世界的な分断の背景に被害者意識の拡大 「奴ら」のせい…SNSで負の感情も増幅〈AERA〉
9/11(金) 8:00配信
AERA dot.
(中略)
世界中でこうした社会の分断が進む理由は何なのか。大きな要因として渡辺教授が指摘するのは、格差拡大によって、「自分こそが被害者だ」という意識を持つ人が増えたことだ。
「多くの人が、自分たちが割を食っているのは『奴ら』のせいだと思っている。その『奴ら』が誰なのかは個人の立場によってさまざまで、政府だったり富を牛耳る大企業だったり、知的エリートだったりするわけです。欧米の場合、『奴ら』には移民・難民も加わり、日本では、プレゼンスを増す中国や韓国が入ってくる」(同)
(以下略)
マルクス主義の暴力性の根本は、怨念であり恨みであります。永き搾取に苦しめられてきた被抑圧大衆の怨念・恨みが、異様な攻撃性として爆発するわけです(新中国――中国共産党政権――誕生直後の地主吊るし上げなど)。今日的リベラリズムが被害者意識に基づいて異様な攻撃性を有しているとすれば、そこにはマルクス主義的な攻撃性との類似性を見出さなければなりません。
■リベラリズム再興の道
斯くもマルクス主義の悪しき側面を継承しておきながらも、
かつてのマルクス主義と比して今日のリベラリズムが新社会の具体的ビジョンとプランを示せておらず、単なるアンチテーゼに留まっていることには注目すべきでしょう。
かつてのマルクス主義は、曲がりなりにもビジョンとプランを示せていたのに、今日のリベラリズムは「反保守」「反トランプ」「反アベ」といった具合に、何かに反対するばかりなのです。そうかと思えば「互いに尊重し合う」といった程度の、中学校の学級委員・生徒会委員でも言えるような抽象的なお題目を並べることに終始しています。かつては保守こそが、単なる「反啓蒙・反進歩礼賛」の守勢だったのに、すっかり攻守が逆転してしまっています。
こうした状況を突破するには、まず、
リベラリストもマルクス主義者も啓蒙主義及び理性礼賛を脱し、初期マルクスに立ち戻って地道な実践と、それに基づく教訓をベースとするべきでしょう。理想の未来社会を構想する過程で、いつの間にか現実よりも理想が先行して
「である」ことよりも「とすべき」が先行してしまったことが、具体的なビジョンとプランの欠如の原因であり、謙虚さの欠片もない偏狭な破邪顕正主義化の原因でもあると言えるでしょう。
また、
他人との相違点を探し出して敵を打倒することよりも、一致点を見つけ出して協力関係を構築することに注力すべきでもあります。
6月22日づけ記事などでも言及しましたが、中国で文化大革命の嵐が吹き荒れていた時代、偉大な首領:
キム・イルソン同志は、それと対比する形で朝鮮式の階級闘争について次のように教示されました。
階級闘争の形式はいろいろあります。資本主義を打倒するときの階級闘争と、資本主義を打倒したのちの階級闘争とはその形態が異なります。このことは我が党の文献で、既に明白に解明されています。ところが少なからぬ人々が、これをはっきり理解していないために、極左的あるいは右傾的な誤りをおかしています。
社会主義革命を行うときの階級闘争は、ブルジョアジーを階級として一掃するための闘争であり、社会主義社会での階級闘争は、統一団結を目的とする闘争であって、それは決して社会の構成員を互いに反目し、憎みあうようにするための階級闘争ではありません。社会主義社会でも階級闘争を行うが、統一と団結を目的とし、協力の方法で階級闘争を行うのであります。
『資本主義から社会主義への過渡期とプロレタリアート独裁の問題について』(チュチェ56・1967年5月25日)
こうした立て直しに取り組まない限り、「リベラリストこそが非寛容」という誹りをな脱がれることはできないでしょう。
■ところで白井聡氏ってリベラルだったっけ?
ところで白井聡氏はいつからリベラリストになったのでしょうか? あまり有名な学者ではなく知る人ぞ知る名前でしかないのですが、著作等を読む限りとてもリベラリストとはいえない立場であります。時代錯誤なマルクス・レーニン主義者といってもよいくらいのお方です。
日本ではついに、マルクス・レーニン主義の立場がミエミエな人物さえもがリベラル扱いされるようになってしまったわけです。マルクス主義及びマルクス・レーニン主義とリベラリズムは、上述のとおり思考回路においてかなり似てはいるものの、「共産主義を目指すか否か」という未来社会論において水と油であります。一昔前であれば、この違いは誰もが知っていることであり、両者を混同することはあり得ないことでした。
マルクス・レーニン主義の立場がミエミエな白井氏がリベラリスト扱いされた本件は、いよいよ「共産主義」が人々の頭の中から消え始めたことを示しているのかもしれません。
そしてまた、マルクス・レーニン主義者にとってリベラリスト扱いは、ほとんど侮辱に近いようなものであります。マルクス・レーニン主義者及び共産主義者は決してリベラリズムを目指しません。にもかかわらず、マルクス・レーニン主義界隈及び共産主義界隈から、白井氏に対してリベラリストというレッテルを貼るという侮辱行為に対して抗議する動きがみられません。
マルクス・レーニン主義者及び共産主義者が人的に相当減少していることを感じさせる一コマです。