「チュチェ109(2020)年を振り返る」第3弾として、今年1年間かけて書き進めてきたリベラリズム批判について振り返ってみたいと思います。
■目次
・社会主義を目指す立場からのリベラリズム批判――アメリカ大統領選挙の見方
・トランプ氏はどんなに過大に評価しても「オピニオンリーダー」止まり
・リベラリストたちは19世紀以来の古典的な詐欺手口で相変わらず人民大衆を騙そうとしている
・「トランプ文化大革命」を生んだ「分断の構造」は依然として残っている
・予感的中・・・はしゃぎ回るリベラリストたちの「特徴」と「リベラル禍」
・「理想優先・生活軽視」のリベラリストはどこが間違っているのか
・どのように「生活」において理想の問題を展開すべきなのか
・「個人」過剰と「英雄物語風な認識」のリベラリストはどこが間違っているのか
・NHK大河ドラマはいかなる意味で観念論的な英雄物語なのか
・リベラリストの「理想優先・生活軽視」には、彼らがリベラリストであるがゆえの啓蒙主義及び合理主義が根底にある
・リベラリストの「英雄物語風な認識」には、彼らがリベラリストであるがゆえの啓蒙主義及び合理主義が根底にある
・その他のリベラル禍(1):ミクロレベルでの思考・方法論をマクロレベルに不適切に適用する
・その他のリベラル禍(2):主観的見方の過剰・客観的見方の後退
・その他のリベラル禍(3):表面的なことに一喜一憂するようになる
・その他のリベラル禍(4):単なる道徳講釈にとどまる
・「現代資本主義」を思想面から積極的に支えるリベラリズム
・リベラリズムを克服し自由主義をアップデートしよう、自由主義と社会主義との接点を探ろう
■社会主義を目指す立場からのリベラリズム批判――アメリカ大統領選挙の見方
当ブログでは数年来、生活者たちの貧困・格差問題を解消し社会的抑圧と分断を克服するため、集団主義的な協同社会:自主・対等・協同の社会関係が成立している社会としての社会主義を目指す立場から、「現代資本主義」とそれを思想的に支える「ブルジョア『個人』主義」及び「主観観念論としてのリベラリズム」を乗り越えるべく批判的主張を展開してきました。この立場から、今年のリベラリストたちの言説を振り返ると、特に
アメリカ大統領選挙におけるバイデン氏勝利にはしゃぎ回る著しい観念論っぷりが目につきました。
まず、アメリカ政治及びリベラリズムに対する基本的な私の認識、そして大統領選挙の見方について立場を明らかにしたいと思います。
■トランプ氏はどんなに過大に評価しても「オピニオンリーダー」止まり
アメリカ政治について申せば、特に「社会の分断」と絡めれば、10月3日づけ「
アメリカ大統領選挙は主体的にはどう見るべきか」で述べたとおり、「トランプ大統領が分断を作った」のではなく「すでに以前からあった分断がトランプ氏を大統領に押し上げた」と見ます。今回の大統領選挙の接戦を見るに、この基本的構図に違いはないとみるべきです。それゆえ、
バイデン氏が大統領に就任したところで、アメリカ社会の分断構造に大きな変化はないとみるべきです。
トランプ氏は、しばしば「世論を操作している」と批判されてきましたが、大統領がその権限で自己の意思を貫徹し得るのは行政組織内にとどまります。
トランプ氏はどんなに過大に評価しても「オピニオンリーダー」どまりであり、支持者らの意見形成に「影響」を与えることはあっても、古典的な弾丸理論・皮下注射論が考えるようなこと、すなわち、
人々が考えること自体を意のまま「操る」ことはできません。
トランプ氏が大衆が信じたいこと・都合の良いことを上手く代弁するからこそ大衆が彼を支持し、その結果としてトランプ現象が起きているのです。支持者らがこれからも残り続ける限り
トランプ氏が大統領の座から去ってもトランプ現象がなくなることはなく、トランプ氏が生物学的な寿命を迎えこの世を去ったとしても支持者たちは似たような主張を展開する人物を探し出すことでしょう。バイデン氏が、たとえば人種差別反対キャンペーンを展開したところでトランプ氏支持の差別主義者たちが劇的に改心するはずがないので、その強烈な差別意識は単に地下化して「見えなくなる」だけでしょう。
アメリカ社会の客観的な制度や構造と、一人一人の国民の意識が重層的に織りなした「
システム」が差別や格差といった社会問題の
正体なのです。
■リベラリストたちは19世紀以来の古典的な詐欺手口で相変わらず人民大衆を騙そうとしている
リベラリズムについて申せば、リベラリストは「弱者の味方」という自己演出を好みますが、11月1日づけ「
リベラリズムは没落し、プログレッシブは芽の段階」で述べたとおり、
社会的弱者にとっての現状における災禍の根底にある「資本主義制度そのもの」には彼らは決して手を触れようとせず、「政策的調整」でお茶を濁そうとしていると言わざるを得ません。フランス革命以来、リベラリストたちが「人権」を云々しつつ現実の人権侵害の根本にある「資本主義制度そのもの」には決して手を触れようとしなかったことは、彼らが一貫して
詐欺師であったことを示すものです。
本当に人権を尊重しようとすれば、労働力の商品化という制度自体の再検討がどうしても必要ですが、それはまさに資本主義の根本といっても過言ではない「聖域」です。19世紀のリベラリストたちは、資本主義化の進展に伴う生活者としての労働者階級の境遇悪化、フランス革命の「自由・平等・博愛」が実現しているとは到底言えない現実の根本にある「資本主義制度そのもの」に対して頬かむりしました。
そして現代、グローバル化の進展により生活者としての労働者階級の境遇は再び悪化しつつあります。しかし、
21世紀のリベラリストたちは「資本主義制度そのもの」、より正確に言えば資源と利益の分配について何ら本質的・構造的な批判を展開しようとせず、せいぜい"SDGs"なる取ってつけたようなキャンペーンを展開して現実の災禍を誤魔化そうとしています。あるいは、
「資本主義制度そのもの」を脅かすものではない女性やLGBTといった性の問題や人種の問題に衆目を逸らさせ、「自由・平等・博愛の旗手」を演じることで誤魔化そうとしています。
このように、リベラリストたちは資本主義による災禍、自由・平等・博愛という根本理念が侵されている事実について見て見ぬふりをしてきました。キレイゴトを並べて事実を覆い隠してきました。それどころか、実は自らも搾取者だったことさえありました。政治の「民主化」には取り組むポーズは見せても、経営と利益配分の民主化(協同化)には取り組もうとせず、せいぜい資源配分のゆがみを政策的に微調整することで「アリバイ作り」をしてきました。
リベラリストたちは、19世紀以来の古典的な詐欺手口で21世紀になっても相変わらず人民大衆を騙そうとしているのです。
■「トランプ文化大革命」を生んだ「分断の構造」は依然として残っている
大統領選挙の見方については、トランプ氏の「当落」だけではなく「彼がどの程度の国民から支持を得られたのか」、特に「対立候補とどの程度の差をつけたのか・つけられたのか」にこそ注目すべきだと考えます。
両者にそれほど差がなければ、「トランプ文化大革命」を生んだ「分断の構造」は依然として残っていると言わざるを得ないわけです。
■予感的中・・・はしゃぎ回るリベラリストたちの「特徴」と「リベラル禍」
さて、こうした基本的な立場から今回のアメリカ大統領選挙を見てきた私ですが、11月5日づけ「
極左・チュチェ思想派なのにトランプ氏の劣勢が素直に喜べない自分がいる」では、「
今回、バイデン氏が勝利しようものなら、リベラリストたちは間違いなく「やはり我々が正しかった」「トランプは徒花だった」などと胸を張ることでしょう。詐欺師が自己正当化に走ることでしょう。そう考えると、「これでようやく『トランプ文化大革命』に一区切りがつく」と分かっていても、素直に喜べないのです」と書きました。
この危惧は、バイデン氏優勢が揺るがなくなるや否や、残念ながら現実のものになってしまいました。
あまりにも多くのリベラリストがはしゃぎ回っていたものですが、当ブログでは飯塚真紀子氏及び猪瀬聖氏(11月8日づけ「
「トランプ落選」だけを切りとり浮かれる人たちは、トランプ氏が得票率において2%弱伸び、マケイン氏やロムニー氏を上回った衝撃的事実を見落としている:「トランプ文化大革命」を生んだ「分断の構造」は依然として残っている」)、津山恵子氏(11月21日づけ「
「バイデン勝利」に浮かれ、社会主義にもプログレッシブにも一切触れないリベラリストの牽強付会・観念論的英雄物語について」)、草薙厚子氏(11月23日づけ「
「生活」という視点が抜け落ち「ラスボス」を倒したかのような浮かれ具合:「バイデン勝利」で変な成功体験をもってしまったリベラリストたち」)らの言説を取り上げました。これらの言説の共通点は、次のとおりです。
(1)「トランプ劣勢」「トランプ落選」だけを切りとり、トランプ氏も相当得票した事実を無視している
(2)左派プログレッシブの勢力拡大やアメリカにおける社会主義のかつてない隆興には一切触れず、「リベラルの勝利」などとコジツケる
(3)"BLM"や"LGBT"由来の理想問題・価値観問題への過剰なクローズアップ、それに対する「生活」という判断基準の軽視。
(4)大統領選挙は政策競争であり政党間の政権獲得競争なのに、トランプ氏個人の下品な性格やワンマン経営者的パーソナリティを過剰にクローズアップしている
(5)バイデン氏の勝利について「啓蒙された個人が世を動かす」という英雄物語風に認識している
ここで重要なのは(3)及び(5)、つまり
「理想優先・生活軽視」と「英雄物語風な認識」です。本来「弱者の味方」であるべき
リベラリストがこのような姿勢をとっているせいで貧困と格差、社会的抑圧と分断が長期化しています。本来
「資本家の味方」であるはずの共和党・トランプ氏に相当数の労働者大衆の支持が集まっている原因にもなっています。
「リベラル禍」というべきものです。
■「理想優先・生活軽視」のリベラリストはどこが間違っているのか
順番に見てゆきましょう。(1)については、4年間やりたい放題やっても尚、あれだけの得票率を叩き出して支持を集めたことは、トランプ現象が、根っこのある一定の民意に基づいていることを示しています。単なるブーム・単に偏狭な意見の寄せ集めだけで40パーセント台後半の得票はできません。(2)については、予備選挙のときにあれだけ苦戦したバイデン氏が、バーニー・サンダース氏らの支援を取り付けてやっと民主党の候補者になることができたわけですから、今回の大統領選挙において左派プログレッシブの勢力拡大やアメリカにおける社会主義の隆興を踏まえないわけにはいきません。
トランプ氏の底堅い支持と左派プログレッシブの勢力拡大・アメリカにおける社会主義のかつてない隆興という事実からは、
生活者大衆が第一に関心を寄せる「生活」が懸案になっていることが見えてきます。「
11月5日づけ記事」では「
共感力? そんな乙女チックな甘い言葉でいったい何人の国民が騙されてきたと思う? 選挙前に優しい言葉をかけるだけで、実際は何もしない。それがリベラルの常套手段だ。トランプは、言っていることはきついが現実的だ」というトランプ氏支持者の声を取り上げました。
しかし
リベラリストは、"BLM"や"LGBT"由来の理想問題・価値観問題を過剰にクローズアップし、「生活」という判断基準を軽視します。続いて(3)について、リベラリズムの「理想優先・生活軽視」について検討してみましょう。
政治は、生身の人間にとっての現実で発生する諸問題を解決するためのものです。政治は現実に立脚する必要があります。ここでいう
「現実」、政治が処方箋を出すべき現実とは、「衣食住の問題を筆頭とする日常生活」です。人間は、
生物としての命を繋ぐために衣食住の欲求をまずは満たす必要があります。加えて社会的存在としての人間、生物学的生命とともに
社会政治的生命をもつ人間は、コミュニケーションを取って社会政治的・思想文化的な欲求を満たすことも必要です。こうした日常生活の問題だけ考えればよいわけではありませんが、
こうした問題から遊離したあらゆる言説はすべて空理空論です。現代社会は、古代ギリシャの都市国家のように市民が日常生活について何も心配することなく政治や文化に没頭できるような社会ではありません。
人間は、まず衣食住を満たすことを筆頭として「日常生活」を営みながら、それを営めて初めて「よりよい自主的で理想的な明日の生活」を追求するわけです。その事実を鋭くとらえて成功したのが、11月23日づけ「
「生活」という視点が抜け落ち「ラスボス」を倒したかのような浮かれ具合:「バイデン勝利」で変な成功体験をもってしまったリベラリストたち」で述べたように、1992年の大統領選挙で"It's the economy,stupid."をスローガン化した新人・クリントン氏であり、今回の大統領選挙で生活上のこの上ない危機である「コロナ」をテーマにしたバイデン氏です。
バイデン氏の選挙戦略を冷静に見返せば、彼は、有権者の日常生活に直結する経済政策についてかなり「慎重」な物言いをしていたことが直ちにわかります。たとえば11月18日づけ「
グローバリズムの提灯持ちとしての「役に立つバカ」か「確信犯」かのどちらか」で取り上げたとおり、バイデン氏は勝利のためにトランプ氏の保護主義的政策をコピーせざるを得ませんでした。
また、大統領候補者ディベートにおいてバイデン氏がフラッキング規制について踏み込んだ発言をしたところ大騒ぎになり、バイデン陣営がただちに火消しに追われたということがありました。「ラストベルト」奪還のためバイデン氏は、ときに自由貿易の問題や環境の問題を差し置いても日常生活の問題に配慮した慎重な物言いをせざるを得なかったのです。
さらに、繰り返しになりますが、バイデン氏は手厚い社会政策の実現を訴えることで若者層から絶大な支持を集める社会主義者サンダース氏から支持を取り付け、プログレッシブと呼ばれる社会主義志向の有権者たちを取り込むことで陣営を固めました。プログレッシブの第一関心事は社会政策、つまり日常生活の問題です。ここからも、日常生活の問題に配慮するというバイデン氏の戦略は明らかです。
しかしながら、
バイデン氏勝利に浮かれるリベラリストは、お気楽にも「BLMの勝利」だの「リベラリズムの勝利」だのとはしゃぎ回っています。妥協に妥協を重ねたバイデン氏の苦労も知らずに。
たとえば、11月21日づけ「
「バイデン勝利」に浮かれ、社会主義にもプログレッシブにも一切触れないリベラリストの牽強付会・観念論的英雄物語について」では、「
鍵を握ったのは若者層と黒人層。この異なる有権者層にブリッジをかけたのが、2020年5月末に始まったブラック・ライブズ・マター(BLM、黒人の命は大切だ)だった可能性が大きい」だの「
若者層のリベラル志向が際立つ」だのと「分析」する津山恵子氏の言説を取り上げて批判しました。
CNN等の出口調査を見る限り、BLM等の人種差別問題を投票の決め手にした人物の比率は「小さくはないが、そこまで大きくクローズアップしてよいものか判断に苦しむ要素」でした。
人種差別問題は、社会的には大きなムーブメントではありつつも大統領選挙の争点としては浮上してきていないと早くから報じられていましたが、結局その大きな流れは変わらなかったのです。また、
若者層がバイデン氏支持に傾いた要因は、サンダース氏が自ら身を引いたことが要因だと考えられます。
「トランプでなければ誰でもいい」という動機も指摘されたものでした。
それゆえ、
民主党を支持する若い有権者の投票率が上がったことがバイデン氏勝利の要因だったとしても、「急速にリベラル化が進む若者層」とするのは牽強付会と言わざるを得ないでしょう。ましてそれとBLMを結び付けるだなんて、裏付ける根拠がまったくないのです。
11月23日づけ「
「生活」という視点が抜け落ち「ラスボス」を倒したかのような浮かれ具合:「バイデン勝利」で変な成功体験をもってしまったリベラリストたち」では、生活という視点がストンと抜け落ち、「
女性で黒人で、インドとジャマイカにルーツがある。彼女のような女性が副大統領、いずれ大統領になるかもしれないっていうことがアメリカの先進性・・・
トランプのままだとカッコよくない、ダサイ国なってしまう」などと浮世離れした言説を取り上げる草薙厚子氏を批判しました。
生活の問題から離れて
理想の問題や価値観の問題ばかりを論じられるのは、古代ギリシャの都市国家の市民くらいです。現代社会はそのような恵まれた社会ではないので、ほとんどの人は生活の問題を重視せざるを得ません。
生活という視点が抜け落ちて浮世離れした言説は、大統領選挙の情勢報告としては何の参考にもなりません。もし本気でこうした「意識」がバイデン氏勝利の原動力だったなどというのであれば、
現実がまったく見えていないと言わざるを得ません。
本来、BLMを筆頭とする人種差別の問題やLGBTを筆頭とした多様性の問題は、生活と無関係の問題ではないはずです。
白人至上主義者による黒人に対するリンチなどは、黒人の命の危機そのものです。LGBTを筆頭とした多様性の問題は、当事者にとっては生活様式の問題そのものです。
しかしリベラリストは、人種差別問題や多様性問題を生活の問題に組み込むべきところ、生活の問題から切り離して尊厳の問題・理想の問題・価値観の問題として位置付けてしまっています。その結果、
「生活感」のない空理空論になってしまっており、衣食住の問題・日常生活に直面している有権者の目からは「またそんな腹の足しにもならないことを言って・・・」と冷ややかに見られてしまうのです。
かつてマルクス主義は、理想の問題・尊厳の問題・価値観の問題を軽視し、日常生活の問題を根本的に規定するという意味で経済の問題ばかりに注目しました。これは大きな誤りです。しかし、経済の問題を軽視し、理想などの問題ばかりに注目するリベラリズムもまた、マルクス主義と同じくらい重大な誤りを犯しています。経済の問題と理想などの問題は、生活というフィールドにおいてのみ接合されるものです。
■どのように「生活」において理想の問題を展開すべきなのか
では、どのように「生活」というフィールドの上で理想の問題を展開すべきなのでしょうか?
繰り返しになりますが、人間は、まず衣食住を満たすことを筆頭として「日常生活」を営みながら、それを営めて初めて「よりよい自主的で理想的な明日の生活」を追求します。「日常生活」においては理想の問題は直ちに重要な要素にはなりませんが、「よりよい自主的で理想的な明日の生活」の探求においては理想の問題が重要な要素になってきます。それゆえ、
「日常の生活に根差し、その延長線上にある理想の問題」というように問題を描きなおせば、生身の人間にとっての現実としての生活に根差すことができ、浮世離れ・観念論の誹りを免れることができるでしょう。。
「金持ちの道楽」と化しつつあるリベラリズムは、理想の問題を生活の問題の一部とすることを怠ってきました。それが4年前の大統領選挙でのトランプ氏の勝利でしたが、今回のリベラリストたちのはしゃぎ様を見るに、「下手に勝ってしまった」ために、残念ながら彼らは反省しそうにありません。
■「個人」過剰と「英雄物語風な認識」のリベラリストはどこが間違っているのか
次に(4)トランプ氏個人の下品な性格などを過剰にクローズアップしている、及び(5)「英雄物語風な認識」について考えてみましょう。
一昨年の第1回朝米首脳会談直後、ハーバード大学ケネディ行政大学院教授のスティーブン・ウォルト氏は、「
米朝会談「アメリカは高潔・聡明、敵はクレイジー」外交のツケ」という記事を『ニューズウィーク日本版』に寄稿しました。曰く「
アメリカでは経験豊富な政府高官や聡明な専門家でさえ、外交摩擦を利害の対立や政治的価値観の衝突として理解するのではなく、個人の欠点や被害妄想、現実に対するゆがんだ見方を反映していると捉えたがる」と。これはあまりにも「個人」を強調し過ぎている見方です。
キム・ジョンイル総書記はかつて、「
我が党には自己の指導者に忠実な中核が多くいます。党に忠実な中核が私を積極的に支持し助けてくれるので、キム・ジョンイル将軍も存在しているのです。一人では将軍になることはできません。私は中核の知恵をまとめて、彼らに依拠して政治をおこなっています」と仰いました(『党のまわりに固く団結し新たな勝利のために力強くたたかっていこう―朝鮮労働党中央委員会の責任幹部との談話―』1995年1月1日)。
政治の力は組織の力にあります。「個人」が何らかの意図や決意を持っていたとしても、政治というものは組織的に展開するものです。個人の決意は組織を通して実現するのです。
しかしリベラリストたちは、政治的出来事を関係者個人の人間的長所または短所、物の見方の良し悪しに帰したがるものです。
こうした傾向は、トランプ政権4年間におけるリベラリストの振る舞いにおいても顕著に表れていたといえるでしょう。トランプ政権が組織的に打ち出して実行したことなのに、大統領選挙は政策競争であり政党間の政権獲得競争なのに、
すべてトランプ氏個人の下品な性格やワンマン経営者的パーソナリティに話が行きつくのです。側近は? 組織は? トランプ政権にはトランプ氏一人しかいない、トランプ政権では大統領が超人的に活躍してすべてを独りで切り盛りしているとでもいうのでしょうか?
あまりにも「個人」過剰です。
こうした
「個人」過剰は、問題の本質を捉え損ねることに繋がります。かつてマルクスは『資本論』で次のように指摘しました。
ここで諸人格が問題になるのは、ただ彼らが経済的諸カテゴリーの人格化であり、特定の階級諸関係や利害の担い手である限りにおいてである。経済的社会構成体の発展を一つの自然史過程と捉える私の立場は、他のどの立場にもまして、個々人に諸関係の責任を負わせることはできない。個人は主観的にどんなに超越しようとも、社会的には依然として諸関係の被造物なのである。
マルクス『資本論』第1巻第1分冊、新日本出版社、1982年、p12
トランプ氏の施政を「たまたま出てきた悪意の男のデタラメ」と捉えることは、トランプ氏を生んだ土壌、つまり、
トランプ氏支持者の生活問題を見落とすことになります。極めて危険なことです。
今回トランプ氏は落選しましたが、リベラリストはいまだにトランプ氏の個性・パーソナリティ批判に注力し、彼が二度と再起できないように徹底的に叩いています。それが彼らなりの「先を見据えた対応」なのでしょうが、トランプ氏はデタラメだとしても大量得票したということは、「もう少し洗練されたトランプの弟子」が登場すれば、ただちに共和党が政権を取り戻し得るということです。その点、トランプ氏個人を叩くことなど傍から見れば何の先見性もありませんが、リベラリストにはこれが世界観的に
思考の限界なのでしょう。
こうした
「個人」過剰は、「英雄物語風な認識」の下地になります。
「英雄物語風な認識」については11月21日づけ「
「バイデン勝利」に浮かれ、社会主義にもプログレッシブにも一切触れないリベラリストの牽強付会・観念論的英雄物語について」で、津山恵子氏批判の形で取り上げました。当該記事で取り上げた津山恵子氏の記事は、バイデン氏勝利の原動力に黒人票があるとした上で、激戦州:ジョージア州での黒人票掘り起こしにステイシー・エイブラムズ氏という「1人の女性」が大きく貢献したという内容になっています。これは残念ながら
「啓蒙された個人が世を動かす」という英雄物語、個人の主観的願望が世界を動かすという典型的な観念論物語になってしまっています。
一人の個人が決意して行動することで達成できるもの限定的で、あくまでも個人レベルの課題にとどまります。社会システムはもっと巨大で、社会的の課題は個人レベルの課題とは質的にまったく異なります。当然、解決方法も異なります。個人は組織化されたときに初めて社会の力ある主人になることが出来ます。それゆえ、一人の個人にスポットライトを当て、その人物が社会変革に取り組む姿を描くためには、
その人が如何にして周囲の人々を同志的に組織化し、時の客観的条件・生活の現実を認識して創造的かつ組織的に利用してゆくかを詳細に叙述する必要があります。そうして初めて、観念論的英雄物語を脱して主体唯物論的分析になります。
同志的組織化を描くにあたっては、リーダーシップだけに注目するのではなくフォロワーシップにも十分に言及する必要があります。
リーダーシップとフォロワーシップがいかにハーモニーを作り組織化が実現したのかを描く必要があります。その点、津山氏の記事ではフォロワーシップへの言及がありませんでした。まるでエイブラムズ氏が超人的な大活躍をして、独りないしは啓蒙された少数の前衛部隊だけで大業を英雄的に成し遂げたかのように読めてしまいます。
フォロワーシップへの言及は、紙幅の制約があったとしても決して割愛してはならない要素です。
客観的条件・生活の現実の認識と利用という点については、津山氏は、前回2018年の州知事選ではどういった客観的条件・生活の現実が共和党候補の勝利に結びついたのかを分析し、それに対して今回の選挙でエイブラムズ氏がどのようなアプローチを展開したのかを描くべきでした。言い換えれば、
ジョージア州のマイノリティたちはどのような生活実態を持っており、そうしたマイノリティ有権者たちの生活上の要求に対してエイブラムズ氏がどのようなアプローチを展開したのか、生活上の問題と人種差別の問題をどのように接続させたのかを明らかにすることこそが客観的条件・生活の現実に根差した分析なのです。
このように、人種差別問題が社会の変革(政権交代)につながったというのであれば、人種差別の問題と生活の現実がどのように関連しているのかを描き出し、生活の現実の一部として描きなおす必要があったのです。
■NHK大河ドラマはいかなる意味で観念論的な英雄物語なのか
このように述べた上で当該記事で私は、津山氏の描き方がNHKの大河ドラマ風になってしまっていると指摘しました。
NHKの大河ドラマの基本的構成は、「啓蒙された個人が世を動かす」という英雄物語です。幕末・明治維新をテーマにした年が特に顕著ですが、一人の歴史的登場人物が何かのきっかけで啓蒙されて「志」を持つようになり、ほんの一握りの歴史的登場人物との間で人間ドラマを振り広げながら「志士団」を作り、その志士団が志・決意と努力の結果、新時代を切り開くという筋書きです。
これは、個人ないしは少数の徒党の主観的願望、志・決意と努力が世界を動かすという典型的な観念論物語です。NHKの大河ドラマは時代背景、出来事の歴史的必然性にはほとんど触れません。志を支える物質的基盤、たとえば資金の問題ひとつ取っても、都合の良いタイミングで突拍子もなくパトロン的な人物からの資金提供があるというストーリーに仕立てています。同志的組織化については、あくまでも一握りの歴史上のビッグネーム同士のそれを描写するに留まっており、一般庶民など一顧だにされていません。客観的条件・生活の現実について、いっさい描かれないのです。
津山氏の描き方は、大河ドラマと同じようなレベルになってしまっていました。
■リベラリストの「理想優先・生活軽視」には、彼らがリベラリストであるがゆえの啓蒙主義及び合理主義が根底にある
このように、アメリカ大統領選挙でのバイデン氏勝利にはしゃぎ回るリベラリストたちは、浮かれるあまり「理想優先・生活軽視」と「英雄物語風な認識」という重大な過ちを犯しています。ではなぜリベラリストたちは、このような見方をしてしまうのでしょうか?
「リベラリズムは資本主義擁護のためのハリボテに過ぎない」という可能性、「リベラリストはエスタブリッシュメントだから、庶民生活のことなど分からない」という可能性は一旦除外しましょう。その上でリベラリストのルーツからその思考様式を探究すると、9月12日づけ「
今日的なリベラリズムの本性は「破邪顕正」、「自由」や「多様性」は二次的なもの」で論じたとおり、リベラリズムが
「啓蒙主義」及び「合理主義」の系譜に位置しているという事実が目に留まります。
ルネサンス以降のリベラリズムの有力流派は「啓蒙主義」でした。人間の理性に無限の信頼を置き、伝統的な因習や束縛を打破し理性に基づいて合理的に捉えなおそうとする思想潮流であり、その根底には近代的な合理主義が存在しています。啓蒙主義及び合理主義をキーワードとして私は、チュチェ105(2016)年4月7日づけ「
自称「革命家」の観念的時間感覚と、生活者の現実的時間感覚――日本共産党の数年以内の認可保育所「緊急」増設」及び同年6月24日づけ「
「生活の現実」とEU離脱派の主張」で論じた
「高学歴者の陥りがちな『感覚』」を再度主張したいと思います。
すなわち、高い教養、広く長期的な視野、歴史への深い造詣を持つ啓蒙主義的で合理主義的な人たちは、「現実の日常生活」をまったく無視するわけではないが、
合理的な思考から紡ぎだした「理想の未来社会」にむしろ強い関心を寄せ、「現実の日常生活の問題を解決すめためにこそ、まず理想の未来社会の実現が必要だ」などと考えがちです。
その結果「理想優先・生活軽視」になってしまうというわけです。そして歴史への深い造詣ゆえに
「歴史年表の感覚」で物事を考えがちであり、短くて半年、長ければ10年単位の時間軸で理想社会を論じてしまうため、
生身の人間の生活としての現実とは懸け離れた感覚で物事を語ってしまうというわけです。
今回バイデン氏の勝利に浮かれているリベラリストも、個別具体的な問題を取り上げることよりも、もっと包括的で抜本的な対策の実現によって、それらが解決されると考えているのではないでしょうか? たとえば、11月30日づけ「
生活問題から遊離した歴史オタクの自己満足にすぎない戯言、スターリン主義者、ポル・ポト主義者に「エサ」を与え得るモーリー・ロバートソン氏の危険言説について」では、モーリー・ロバートソン氏の「
アメリカは社会の体質を1、2世代かけて改善し、人々が新たな社会契約を結ぶ必要がありそう」という発言を取り上げました。「世代交代」は、人間を入れ替えるわけだからもっとも包括的で抜本的な対策です。
もちろんロバートソン氏の主張は、「今を生きる世代に見切りをつける」という点で、生身の生活者大衆の待遇改善を諦めていると言うべき戯言です。悠久の歴史と自らの生を同一化させた革命家とは異なり、生活者大衆は一分一秒でも早く待遇改善を望んでいます。
社会改造は今日明日のうちには成就しませんが、人々の生活は今日も明日も不断に続きます。包括的で抜本的な政策を待っている余裕はありません。そうした人々の生活上の欲求に応える「生活主義」の立場に立てば、「
生活者は、『遠大な構想』ではなく『直近のパッチ対応』を求めている」と言うべきでしょう。そして
仮に「遠大な構想」を立てたとしても、それはあくまで「直近のパッチ対応」の積み重ねの上に花咲くもの、漸進的なものになるほかありません。
漸進的な改革を重ねつつ少しでも早く生活改善を目指す「生活主義」の立場からすると、
リベラリストの看板は「御題目」にしか見えません。今日明日の衣食住の問題が喫緊の重要課題である生活者大衆も同様の感覚でしょう。
こういう「温度差」が、弱者の味方を自任するリベラリストが、いまひとつ弱者の支持を集めきれていない要因であると思われます。
リベラリストの「理想優先・生活軽視」には、彼らがリベラリストであるがゆえの啓蒙主義及び合理主義が根底にあると考えられるわけです。
■リベラリストの「英雄物語風な認識」には、彼らがリベラリストであるがゆえの啓蒙主義及び合理主義が根底にある
「英雄物語風な認識」もまた、啓蒙主義及び合理主義が根底にあると考えられます。
朝鮮大学校校長で最高人民会議代議員(総聯選出)のハン・ドンソン(韓東成)先生は、著書『哲学への主体的アプローチ Q&Aチュチェ思想の世界観・社会歴史観・人生観』(2007年、白峰社)において、人生観に関連して啓蒙主義の特徴を次のように指摘しています(p164-165)。
個人主義的人生観は、社会歴史に対する主観主義的観点にもとづいていました。それは、人々の生活や社会的運動が客観的な物質的条件に制約される面があることを見ずに、理性の要求と力に依拠して行動することによって、人間は、歴史と自らの運命を開拓することができるとしました。(中略)人間の本性にあった幸福な生活をおくる方途を、啓蒙に求めました。
啓蒙主義そして合理主義は、個人の理性と力を過信するあまり客観的・物質的制約を軽視するといいます。これこそが、歴史的登場人物の個人的な志・決意と努力が歴史を切り開くという、
NHK大河ドラマ風英雄物語の哲学的基礎になっていると言えるでしょう。
■その他のリベラル禍(1):ミクロレベルでの思考・方法論をマクロレベルに不適切に適用する
啓蒙主義及び合理主義は、当事者が高い教養の持ち主であれば、ある程度は読むに堪えるものになりますが、中途半端な人物が啓蒙主義者の振る舞いをすると「素人の浅知恵」というべきとんでもないことになります。今年それはコロナ禍でいやというほど見せつけられ、振り返り第1弾及び第2弾の記事で触れましたが、続いてここではリベラル界隈でのそれを振り返り、教訓を拾いたいと思います。
まずは7月5日づけ「
「レジ袋有料化」を無邪気に推す「建前・宣伝・格好つけを真に受けすぎている、お人よしな社会運動」を乗り越えて」。今年7月から環境問題を名目に小売店でのレジ袋無料配布に厳しい法的制限がかかり、コンビニを中心に有料販売されるようになりました。環境負荷軽減という政策目標の実現においてその効果は極めて疑わしいところですが、こうした政策を支持する立場の人たちによると「小さなことから始めることが社会全体を変える」とのこと。
レジ袋無料配布を中止し、一人一人の個人がミクロレベル「行動を変える」ことによって、
いったいどのような経路をたどって社会全体というマクロレベルの「変化」につながるのかまったく論証されていません。「啓蒙され覚醒した個人」が足並みを揃えて個人レベルで最適な行動をとったからといって、それで社会全体が最適化されるわけではありません。
このように、
中途半端に合理主義的だとミクロレベルでの思考・方法論をマクロレベルに不適切に適用してしまうのです。「
素人の浅知恵」というべきものです。
こうした「素人の浅知恵」に依拠した社会変革運動は、まず何よりもこれは歴史的大失敗としての
計画経済の思想的原点でもありますが、同時に
多様性を追求しながらむしろ多様性を殺す結果になるという点において、
二重に危険なものであると言うべきです。
昨年の総括記事での「
しっかりとした新しい価値観が定立される前に既存の価値観を破壊するようでは、デュルケム的意味でのアノミーになるのがオチ」という見解を踏まえつつ12月17日づけ「
逆に多様性を殺すことにつながるリベラル流の「多様性」重視及び支離滅裂な社会歴史観について」で言及しました。
リベラリズムが実現を目指す多様性ある社会の秩序は「
自生的秩序」になるでしょう。特定個人や特定集団が一方的に押し付けるものではなく、皆が歩み寄ることですり合わされる形で出てくるものだからです。自由主義哲学者のF.A.ハイエクが指摘していることですが、自生的秩序は「壊れやすい」ものであり、制度的な枠組みやルールによって保護される必要があります。
自由放任では自生的秩序は守られません。そうした制度的な枠組みやルールの代表例が、ほかでもない「
伝統」であります。
しかし、
多様性を掲げる昨今のリベラリストは、「自分の頭で合理的に考える」などと称しつつ素人の浅知恵で、数世代に渡って人々が試行錯誤を重ねつつ生命力を実証してきた
伝統をいとも簡単に破壊しようとします。その結果は容易に想像できるものです。リベラル流の「多様性」重視は、結果的には
デュルケム的な意味でのアノミーにつながり、逆に多様性を殺すことにつながるのです。
つまり啓蒙主義・合理主義的リベラリストたちは、ご自分では多様性を実現させようとしているが、
実際にはそれが実現しえない方法論にしがみついているのです。啓蒙主義は常にこうした危険性と隣り合わせです。
■その他のリベラル禍(2):主観的見方の過剰・客観的見方の後退
続いて7月14日づけ「
「私は」が先行すぎていて「事実として」が乏しい主観観念論としてのリベラリズムの克服へ、ブルジョア社会・資本主義社会の枠内での「改革」を超えて」を振り返りたいと思います。
「
夫が戸籍上の「世帯主」となり、私は「続柄:妻」となったこと。結婚早々、上下関係が決定づけられたような気がして大きな抵抗感を覚えた」から「
改姓すると、時間もお金もかかるものだ……。区役所での手続き中、身体の奥底からふつふつと言い得ぬ怒りが湧いてきた」という方向に展開する記事は、昨今のリベラルな社会的ムーブメントに典型的かつ顕著に見られる大きな弱点を示していました。
このように、中途半端に合理主義的だと「自分のオツムで理解できるか否か」で判断してしまうようになります。
「私は」という主観的見方が先行し過ぎ、「事実として」という客観的見方が後退してしまうのです。
「合理性」という言葉を「私が理解できる」という意味ではなく「事実から出発し事実に合致している」という意味に引き戻す必要があります。このことはすなわち、主観観念論としてのリベラリズムの克服です。
■その他のリベラル禍(3):表面的なことに一喜一憂するようになる
そして11月23日づけ「
「生活」という視点が抜け落ち「ラスボス」を倒したかのような浮かれ具合:「バイデン勝利」で変な成功体験をもってしまったリベラリストたち」。草薙厚子氏にはもう一度ご登場いただきましょう。この記事では、トランプ氏落選について「
待ちわびていた春が来たと思い涙があふれました。人間的でない、冷酷な差別主義者の大統領が変わるというよろこびです」という民主党支持の50代アメリカ人女性の発言が取り上げられています。
目の前の不都合な事実が覆い隠されればそれだけで「社会の進歩」とはしゃぎ回る「民主党支持の50代女性」さんは、「自分の眼に見え、脳みそで理解できることだけを信じる」という意味では、リベラリスト的発想のうち最もレベルの低い部類といえるでしょう。
オノレのオツムに理解できる程度のストーリーで「納得」してしまい、表面的な取り繕いに過ぎないものを「歴史の進歩」などと無邪気に評価してしまうのでしょう。
■その他のリベラル禍(4):単なる道徳講釈にとどまる
11月3日づけ「
資本主義がもたらす問題の解決を資本主義の枠内で、若者世代の意識の変化に期待して行おうとすると如何なる無理筋になるか;モーリー・ロバートソン氏の言説を通じて」では現代社会における格差・貧困・社会の分断の元凶に現代資本主義があると正しく理解しているモーリー・ロバートソン氏が、しかしあくまでも資本主義の枠内で是正しようと藻掻くあまり無理筋を展開するに至る姿を取り上げました。
ロバートソン氏は以前から、「左派ポピュリズム」について「
資本主義によって世界が回っているという事実も、その仕組みをスクラップしたらどれほど多くの人が"返り血"を浴びることになるかという議論も無視」していると主張してきました。おそらく社会主義もそれに当てはまるのでしょう。
たしかにこの主張には一理ありますが、しかし、その結果ロバートソン氏は、「
ファストフードやファストファッションは搾取の上に成り立つ」としつつ「
その原因を、われわれが自らの内に抱える怠惰さ、そしてその表れである現在のライフスタイルに見るべき」などとして終わらせてしまっています。単なる道徳講釈と言わざるを得ません。
あくまでもリベラリズムの枠内に収めようとすると、ついには道徳講釈になってしまうのです。これで社会が変わるならば世話ありません。■「現代資本主義」を思想面から積極的に支えるリベラリズム
啓蒙主義・合理主義がもたらす災禍は、「理想優先・生活軽視」と「英雄物語風な認識」、そして「素人の浅知恵」だけではありません。誤った戦略の理論的支柱になることで貧困と格差、社会的抑圧と分断の問題を結果的に放置させて長期化させるだけではなく、
「現代資本主義」を思想面から積極的に支えてもいます。
12月5日づけ「
リベラリズム×メリトクラシー=社会の分断、自己の自主性・自主的要求の麻痺」で取り上げたとおり、
啓蒙主義・合理主義は、個々の人間存在における主観的思考・願望や行動を過剰に重視するがゆえに個人主義的人生観を助長しつつ、人々を「行き過ぎた能力主義」に至らしめます。
個人主義にはどうしても、人間を孤立した個人的存在と見なし、人間の生命を個人的な面からのみ捉える傾向があります。そのため「個人の成功は、本人独りの力で築いたもの」という主観主義に人々を転落せしめ、人々は「他人は他人、自分は自分」という観念を持つようになり、個人の存在を社会集団から孤立して単独で存在しているかのように思い込むに至ります。「我々」意識が弱まり、「我々」意識に欠ける人々が増えるにつれて社会が分断される、社会の集団的・共同体的結束が分解・瓦解して行くに至るのです。
つまり、啓蒙主義・合理主義は、社会を崩壊させるブルジョア「個人」主義の出発点になるのです。もちろん、いわゆる「個人の成功」は、「自分独りの力で築いたもの」などでは決してありません。もとより人間は、個人でありながら集団をなして生活しており、また、客観的な条件に制約されています。
いわゆる「個人」は、事実・ファクトとして社会システムの不可分な要素として組み込まれているわけです。「自分独り」というシチュエーションがそもそもあり得ず、「そう思っているだけ」なのです。
社会主義を目指す立場から、
社会の集団的・共同体的結束を分解・瓦解させるブルジョア「個人」主義、そしてその起点としての啓蒙主義・合理主義を乗り越える必要を提起したいと思います。「私の努力」の実態は「主客の相互作用の賜物」という正しい世界観を身に着け、「私」過剰の啓蒙主義・合理主義を乗り越える必要があるのです。
■リベラリズムを克服し自由主義をアップデートしよう、自由主義と社会主義との接点を探ろう
「個々の人間存在における主観的思考・願望や行動を過剰に重視する啓蒙主義」を正すことは、自由主義を、人間の存在・人間の生命を個人的な側面からのみ捉える個人主義から切り離し、人間を個人でありながら集団をなして生活する存在としてシステム的世界観及び集団主義的社会歴史観から基礎づけなおすことをも意味します。
つまり、この取り組みは、
社会の分断を糺す取り組みであると同時に、自由主義を個人主義的なものから集団主義的なものにアップデートする、20世紀以前の自由主義を21世紀水準にアップデートすることをも意味するのです。
なお、チュチェ思想に基づく社会主義においては、社会主義の本質は集団主義にあり、社会政治的生命体の構築こそが社会主義の目標であります。自由主義を個人主義的なものから集団主義的なものにアップデートすることはすなわち、
自由主義と社会主義との接点を探ることに他なりません。
きわめて21世紀的な課題であるといえるでしょう。