2020年12月31日

チュチェ109(2020)年を振り返る(4):社会政治的生命体論にスポットライトを当てた一年間

「チュチェ109(2020)年を振り返る」第4弾として、朝鮮民主主義人民共和国の動向及びチュチェ思想について、今年1年間当ブログで執筆した内容と関連事項を振り返りたいと思います。

■いわゆる「三重苦」を同志愛と革命的義理、集団主義原理に基づく政治姿勢で乗り越えることを鮮明にされた元帥様
共和国の年の初めは、最高指導者同志の言動から始まります。今年は「新年の辞」がなく、昨年末に行われた朝鮮労働党第7期第5回総会の報告がその代わりになりました。「我々の前進を阻害している全ての難関を正面突破戦で突き抜けよう!」のスローガンが掲げられ、そのうえで、経済分野での施政方針と、それを支える外交・国防分野での施政方針が示されました。

2月5日づけ「朝鮮労働党第7期第5回総会報道について:社会主義の革新へ」で私は、総会報告の内容について、「内閣中心制の強化は分権型社会主義の実践になる」「消費社会主義への転換が示された」そして「社会主義版の『所有と経営の分離』が進む」と予測しました。対米交渉が膠着化するなかで、対外的には持久戦を展開しつつ対内的には社会主義をそのものを革新させつつ体制固めが進むだろうと予測しました。

この予測は、世界的な新型コロナウィルス禍及び夏に共和国を襲った台風による被害によってすっかり吹き飛んでしまいました。いわゆる「三重苦」:経済封鎖(経済制裁)・コロナ禍・台風被害によって、まったくそれどころではなくなってしまいました。

今年の共和国は、度重なる惨禍をうけて国内の結束、特に人心を結束しつつ復旧復興作業に注力したと総括できるでしょう。

たとえば9月25日づけ「同志愛と革命的義理、集団主義原理の発露としての元帥様公開書簡」では、台風被害復旧作業に動員された首都党員師団のメンバーにむけたキム・ジョンウン同志による慰労の情深い書簡について取り上げました。

共和国においては、首領と各個人が愛と忠誠の関係を媒介にして疑似的な血縁関係を結び、全人民が首領を中心とする疑似的血縁集団を形成し、そうした疑似的血縁集団のうちで全人民が同志愛と革命的義理の原理に基づいて共に暮らす社会を形成しようと目指しています。この疑似的血縁集団を「社会政治的生命体」といい、社会政治的生命体を構築するための運動こそが朝鮮式社会主義であります。そして、こうした考えを支えるのがチュチェ哲学・チュチェ思想であります。

この見方からキム・ジョンウン同志による慰労の情深い書簡を位置付ければ、まさに愛と忠誠・同志愛と革命的義理に根差した書簡、朝鮮式社会主義の原則にのっとった書簡であると言えます。長年続く経済封鎖と年初からのコロナ禍、その上に襲い掛かった台風被害というあまりにも重すぎる三重苦を「正面突破」するためにキム・ジョンウン同志は、社会政治的生命体の構築という共和国・朝鮮式社会主義の原点を踏まえ、共和国における人間関係の基本としての「情」に立ち戻ったというわけです。

緊急事態においては、しばしば原点が見失われがちですが、そんな中でも「情」を示すことを忘れなかったキム・ジョンウン同志。同志愛と革命的義理、集団主義原理に基づく政治を継続する姿勢がこの一件から見出せたのではないでしょうか。

こうした姿勢は、朝鮮労働党創建75周年記念の演説において更に明確に示されました。10月13日づけ「原理を更に鮮明に表明するいう意味で一種の「原点回帰」をしている朝鮮労働党:党創建75周年記念演説について」で特に重要な部分を和訳して取り上げました。

最高領導者が演説冒頭に最前線の戦士たちを労うことは、最前線の戦士たちにあっては、自らの努力・奮闘を社会が高く評価しているサインに他なりません。自らの努力・奮闘が隣人・同胞・仲間たちから高く評価されること、社会の一員として隣人・同胞・仲間たちのために役に立つことほど名誉なことはありません。隣人・同胞・仲間たちから温かく受け容れられることほど人間的な喜びはありません。

こうした人間的喜びは、同志愛・革命的義理として首領を中心とする全人民の疑似的血縁集団を支える心理状況になります。隣人・同胞・仲間たちから温かく受け容れられることはすなわち、社会政治的生命体との結びつきを実感させるものなのです。

党創建75周年という重要な節目において、社会政治的生命体との結びつきを実感させる名文的内容を演説の中心に据えたあたり、やはりキム・ジョンウン同志の同志愛と革命的義理、集団主義原理に基づく政治姿勢が見て取れるのではないでしょうか。

また、演説でキム・ジョンウン同志はしきりに党と指導者の政策努力に対する人民の献身に≪고맙습니다≫と感謝を述べておられました。党の偉大性とは、人々の多様な要求と能力を共同の要求と能力に統一する見事な技量:リーダーシップに他なりませんが、これはリーダーシップが上手くいくためには必ずフォロワーシップがなければなりません。つまり、党の偉大さとは人民の偉大さがあって初めて成り立つものです。キム・ジョンウン同志の≪고맙습니다≫発言は、主体的、社会政治的生命体の本質を鋭く指摘するものであるといえます。

党創建75周年記念演説もまた、朝鮮労働党が変わらずチュチェの原理に根差しており、それどころか原理を更に鮮明に表明するいう意味で一種の「原点回帰」をしていることを示したものであると言えました。緊急事態において原則に立ち返ったということは、この原理を基に危機を乗り越えようとする姿勢に他ならないでしょう。

■社会政治的生命体論について探求を試みた当ブログの一年間
社会政治的生命体論は、1980年代に定式化され、それ以降発展し続けている理論です。その大本のモデルは、キム・イルソン同志の抗日遊撃隊における指揮官と兵士、兵士同士の関係性にあるとされていますが、思想理論として整備されるようになったのは建国後でした。初期のうちは、共産主義政党にありがちな「党性」を強化するための「革命への献身を人生の生き甲斐にしよう」というくらいの意味としての「政治的生命論」、及びキム・イルソン指導体制構築に関連しての「チュチェの首領観」でしたが、朝鮮の伝統的思惟との接近の中で儒教性を帯びるようになり、社会政治的生命体論として統合・定式化されるに至りました。

社会政治的生命体論は、その構造は大きく言うと、首領中心の組織論(チュチェの首領観)と世代交代・権力継承論(政治的生命論)の2つから成り立っているといえます。その内容は平たく言うと、首領・党・人民大衆を三位一体とした疑似的血縁集団形式の運命共同体が革命の主体となり、代を継いで社会主義建設を継続し人類史を開拓してゆくというものです。この疑似的血縁集団内部では、自由と平等の原則に加えて同志愛と革命的義理の原則が作用します。なお、なぜ疑似的血縁集団を「生命体」と呼ぶかと言えば、これは儒教的世界観における文化的意味での生命論に基づく呼称であり、生物科学的な意味での生命論とは無関係です。

社会政治的生命体内部では同志愛と革命的義理の原則が人間関係・社会関係の基礎となるため、形式的な自由と平等だけでは往々にして生じがちな「自由」の名を借りた放蕩が防止され、個人の自主性と集団の自主性が両立されるようになるといいます。そしてこの先に築かれる社会こそが社会主義社会であるというのがチュチェの社会主義・朝鮮式社会主義です。

朝鮮式社会主義においては、階級的対立は清算され、あらゆる支配と隷属がなく、すべての人々が首領と党の周りにかたく団結して平和的に暮らすとされています。集団主義的社会関係が原理として作用している社会政治的生命体内部においてのみ、人間の自主的・創造的な本性が実現できるとされています。すべての人々が首領と党の周りにかたく団結するからこそ、社会から疎外されて孤立する人がなくなるでしょう。また、社会の主人が人民大衆になることから生産が人民的に管理されるようになり、利潤拡大目的に基づく不必要な需要喚起、生産の奢侈化・浪費化に歯止めがかかるでしょう。

■資本主義に対する社会政治的生命体を基盤とする社会主義の優位性
資本主義社会がいかに高度な生産力を誇っていたとしても実現できるのは個人の肉体的生命の保障にとどまります。資本主義社会では「自由と平等」の関係は実現され得ても、同志愛と(革命的)義理の関係性が実現されることはありません。いま資本主義社会では盛んに「社会的包摂」というキャンペーンが展開されていますが、「自由と平等」という原理しかない状況下では極めて難航しています。それどころか「自己責任」論の隆興により逆に事態は悪化の一途をたどっています。

また、利潤機会拡大のために販路拡大に迫られがちな資本主義社会においては、半ば強引に需要喚起が要請されるので、人々の物質生活は奢侈的・浪費的に奇形化しがちで、それと軌を一にする形で人々の精神生活は退廃化・貧困化してゆくものです。物質的富が増大するにつれて文化的・精神的富は縮小してゆく、物質生活とそれ以外の生活のアンバランスが深刻化してゆくのです。本来、人間の自主的・創造的な本性が開花した豊かな生活とは物質的生活と文化・精神的生活とのバランスの上で成り立つものであるはずです。

かつて「資本主義に対する社会主義の優位性」といえば、5か年計画による資源の計画的で効率的な運用が筆頭でした。しかし今や、「社会から疎外されて孤立する人をなくすこと」や「物質生活とそれ以外の生活のアンバランスを是正すること」が資本主義に対する社会主義の優位性になったわけです。当ブログでも再三指摘してきたように、最近は資本主義陣営が"SDGs"なるお題目・キャンペーンを張るようになり始めました。"SDGs"が掲げるお題目はまさに朝鮮式社会主義が以前から「資本主義の宿痾」として指摘してきたものに他なりません。つまり、"SDGs"なるお題目が盛んに取り沙汰されているという事実は、いまや資本主義陣営さえも朝鮮式社会主義が指摘してきた問題を問題として認め、取り組まなければならなくなったということを意味しています。

私は"SDGs"は上手く行かないと考えています。結局のところ、現代の世界的な諸問題はいずれも現代の資本主義制度の本質的特徴から生じた結果であり、これらの問題を除去・解決するためには現代資本主義を大胆に変革しなければならないと考えてます。しかし、"SDGs"は制度の大胆な変革ではなく、いずれも表面的な改善が主になっています。単なる「意識改革」キャンペーンにとどまっているケースさえあります。リベラリストの道徳講釈として盛んに"SDGs"が取り沙汰されている事実一つとっても、この動きに希望が見いだせないところです。

■社会政治的生命体論の魅力とは
こうした観点から私は5月29日に「社会政治的生命体論の魅力と論理の飛躍について」という記事において社会政治的生命体について論じました。ツイッターで知り合った@blog_juche_ideaさんとの議論を踏まえつつ、掲題の内容を論じた記事です。

当該記事でも論じたように私は、第一に社会政治的生命体における人間関係の原理、すなわち、同志愛と革命的義理心に基づいた道徳義理的団結が社会政治的生命体の根本であることに魅力を感じています。これは「自由と平等」を前提としつつも、それよりも一段高みにある関係性です。社会的存在としての人間が幸福に生きるための人生観の基礎です。

また第二に、首領・党・人民大衆を三位一体とした疑似的血縁集団形式の運命共同体が革命の主体となり、代を継いで社会主義建設を継続し人類史を開拓してゆくという見解は、システム的な主体の定義であり、とても納得がいくものです。近代的な個人は、あくまでも日常生活における主体であり、社会歴史的なスケールでは主体にはなりません。一人の個人が決意して行動することで達成できるものは限定的で、あくまでも個人レベルの課題にとどまります。社会システムはもっと巨大で、社会的の課題は個人レベルの課題とは質的にまったく異なります。当然、解決方法も異なります。個人は組織化されたときに初めて社会の力ある主人になることが出来ます

さらに第三に、労働者階級が知識労働に従事する機会・割合が増加するのに伴い、各自の担当職務が高度な専門性を必要とするようになると、長い時間と努力によって血肉化した専門的知識をもとに自分自身の判断で仕事を進める場面が多くなった人々は、独り親方・個人事業主的なブルジョア「個人」主義傾向を強めるようになります。そのため、「自分の地位や財産は自分独りの力で築いたものだ」などと「私」中心の自信過剰になりがちで、その反面で「我々」意識が衰退して他者の貧困について「自己責任」と突き放すようになりがちになります。結果として社会の集団的・共同体的結束が分解・瓦解してゆくのです。このことは、12月5日づけ「リベラリズム×メリトクラシー=社会の分断、自己の自主性・自主的要求の麻痺」でも取り上げたとおり、もはやアメリカでさえ無視できないような社会的宿痾となっています。

社会政治的生命体論に基づく資本主義分析は早くも30年以上前からこうした傾向に警鐘を鳴らし、精神的に踏みにじられた知識・技術労働者らの自主性の回復のためには、社会主義の道しかないと指摘してきました。

このように、(1)同志愛と革命的義理心に基づいた道徳義理的団結に基礎づけられた人間関係論、(2)システム的な主体の定義、及び(3)情勢分析の3点において私は社会政治的生命体論に魅力を感じ、原則として支持しているのです。

■社会政治的生命体論における論理飛躍と日本的非現実性、そしてその解消方途とは
他方、当該記事でも書いたとおり、首領の位置づけと実際との間に「飛躍」があるとも考えています。一般論として正しい「首領の理論的位置づけ」と、いままさに共和国で展開されている「実際の首領の在り方」との間には飛躍があるというべきです。平たく言えば、「いくら首領が必要だといっても、あれほどまでに権威と権力を一元的に手中に収める必要があるのか?」と言わざるを得ないのです。現実は、革命的首領論が「首領独裁正統論」とも言えるものに転化してしまっています。

革命的首領論が「首領独裁正統論」とも言えるものに転化している背景に階級主義の影が色濃く見られることは、注目すべきであります。階級主義は、プロレタリア階級という「全体」を優先させてしまい個人の存在を塗りつぶすが如く超越してしまいがちなのです。

また、チュチェ思想を参考にしつつ日本の自主化を探究する立場、「日本革命の主人」としての立場から申せば、日本的な関心から社会政治的生命体論及び革命的首領論を再整理する必要も生じているといえます。

なぜならば、社会政治的生命体を基礎づける同志愛と革命的義理心に基づいた道徳義理的団結の実現条件が、ブルジョア「個人」主義が蔓延している今日の日本社会において存在しているとは到底思えないからです。ブルジョア的人間関係にドップリと浸かった日本人が、革命的首領論を抵抗なく受け付けるとも思えません。それゆえ、社会政治的生命体論そのものを日本の現実に合わせて調整する必要が生じると考えます。

日本的な関心から社会政治的生命体論を再整理するということは、本質的には、日本社会の現実から出発して集団主義概念を深化させることであり、具体的には、集団主義の実現方法を首領との関係性の内に探求すること・首領の役割を見直すということになると思われます。

そういった問題意識から当該記事では、首領が社会的課題の解決を集中処理するのではなく、人民大衆の自発性を生かして社会的課題の解決を分散処理しつつそれを首領が全体プロデューサー的な立ち位置から調整するというのが現実解であるとしました。また、「首領・党・人民大衆の統一体をシステムとして捉える」という切り口から、さまざまな場面について詰めてゆく必要があるともしました。そしてこうした実践例は、すでに協同組合運動などで表れつつあるものだとも指摘しました。

■リベラリズム批判はかなり深めることができたが・・・
社会政治的生命体論の見方を導きの糸とすることで今年は、リベラリズム批判についてはかなり深めることができました。たとえば12月7日づけ「落ち目であるはずのトランプ氏が依然として強大な権力・影響力を維持している事実は、トランプ支持者」の分厚い層の存在を示している」では、トランプ氏のカルト的人気に注目して「トランプ-共和党-支持者の三位一体」という構図から分析し、リベラリストの「個人」過剰な解説を批判しました。また、11月21日づけ「「バイデン勝利」に浮かれ、社会主義にもプログレッシブにも一切触れないリベラリストの牽強付会・観念論的英雄物語について」ではリベラリズムの社会歴史観の観念論性について社会主義・社会政治的生命体論の立場から踏み込んだ批判を紡ぎだせたように思います。

しかし、こうして年末に一年間を振り返ってみると、あくまでもリベラリズムに対する社会主義の優位性、すなわち、「リベラリズムに比べればマシ」ということは繰り返し述べてきたように思いますが、あくまでも相対的な優位性に関する主張にとどまったようにも思えてきます。

先に公開した振り返り記事第3弾:リベラリズム批判総括では、「リベラリズムの根底にある『啓蒙主義・合理主義』は、社会の集団的・共同体的結束を分解・瓦解を崩壊させるブルジョア『個人』主義の出発点になるので、これを乗り越える必要を提起したい」とか「『私の努力』の実態は『主客の相互作用の賜物』という正しい世界観を身に着け、『私』過剰の啓蒙主義・合理主義を乗り越える必要がある」などと課題は提示したものの、その解を提示するにあたっては、それほど前進が見られた一年ではなかったと総括します。

■新しい課題は見出せたが・・・
また、「『個々の人間存在における主観的思考・願望や行動を過剰に重視する啓蒙主義』を正すことは、自由主義を、人間の存在・人間の生命を個人的な側面からのみ捉える個人主義から切り離し、人間を個人でありながら集団をなして生活する存在としてシステム的世界観及び集団主義的社会歴史観から基礎づけなおすことをも意味」するので、「自由主義を個人主義的なものから集団主義的なものにアップデートする、20世紀以前の自由主義を21世紀水準にアップデートすることをも意味する」などと、従前からの課題を解決しないままに新しい課題までもブチ挙げてしまいました。

米中対立に「民主主義」という価値観が持ち込まれ、あたかも冷戦期のような対決構図が再来している昨今、たしかに社会主義陣営においては「個人の自由」についてしっかりと理屈を揃える必要があります。前掲5月29日づけ「社会政治的生命体論の魅力と論理の飛躍について」でも私は、猪木正道氏の名著『共産主義の系譜』の次のくだりを引いたうえで階級主義批判を展開しました。
マルクスのヒューマニズムはその発端――現存社会における人間の自己疎外に対する憤激――とその結末――人間性の完全なる実現としての共産主義――とに局限されており、共産主義の実現過程そのものは物質的生産関係を基盤とする階級闘争にゆだねられている。この過程において主体的なものはプロレタリアートであるが、プロレタリアートは前述のように形而上学的範疇であることを度外視してもなお個性を没却した集団であり全体であって、一回生起的な人格の尊厳は集団としてのプロレタリアートの階級意識の中へと完全に埋没されてしまっている。こうしてマルクスは人間を自己疎外の魔術性から解放しようとしながら、かえって物質的生産力やプロレタリアートという集団の魔術性に呪縛してしまった。ここにマルクス主義が”プロレタリアートの独裁”の名において、全体主義的な奴隷制を生み出す危険性が潜んでいる。これはマルクスが人間を社会関係の中へと歴史的に解消したことから来る必然の帰結
自由主義と社会主義との接点を探ることは極めて21世紀的な課題であり、特に社会主義陣営こそがこの問題に真摯に取り組む必要があります。しかし、大風呂敷を広げて収拾がつかなくなっては意味がありません。

ここはポイントを絞り「集団主義の哲学的探究」と「自由主義と社会主義との接点探し」に注力することが来年の課題だと考えています。前者については、社会政治的生命体論における主体論及び社会・人間関係論とシステム工学とを擦り合わせることで進めたいと思います。後者については、啓蒙主義的自由主義は20世紀型社会主義と実は親和的なので、あえてそれとは「水と油」の関係にあるバーク流の自由主義を探求し、なにか拾えるものはないか地道に探したいと思います。

システム工学的な集団主義の哲学的探究については、ツイッターの方で@blog_juche_ideaさんとの議論のなかで幾らかは展開しようと試みたのですが、厳しい文字数制限が課せられているツイッターならではの難しさ、及び@blog_juche_ideaさんがお相手であるからこその難しさゆえに、あまり深まったようには思われないところです。

要するに、お互いの意見に大きな隔たりがあるのはよくわかるのですが、語句の定義・指し示す意味が相当異なるのに、その擦り合わせ・認識の一致が満足にできず、実りある議論にならなかったのです。本稿で振り返ろうかなと思っていたのですが、振り返るほどの中身がありませんでした(特に8月に展開した意見交換は途中からガッカリする内容でした)。今後も@blog_juche_ideaさんだけではなく多くの方々と意見交換を続けたいとは思っていますが、やり方も考えないといけないなとも思っています。

この基本方針から私は、引き続き社会主義擁護の論陣を立ててゆきたいと考えています。
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チュチェ109(2020)年を振り返る(3):バイデン氏勝利にはしゃぎ回るリベラリストたちの「特徴」と「リベラル禍」、そしてそれを社会主義的に乗り越えることの必要性

「チュチェ109(2020)年を振り返る」第3弾として、今年1年間かけて書き進めてきたリベラリズム批判について振り返ってみたいと思います。
■目次
・社会主義を目指す立場からのリベラリズム批判――アメリカ大統領選挙の見方
・トランプ氏はどんなに過大に評価しても「オピニオンリーダー」止まり
・リベラリストたちは19世紀以来の古典的な詐欺手口で相変わらず人民大衆を騙そうとしている
・「トランプ文化大革命」を生んだ「分断の構造」は依然として残っている
・予感的中・・・はしゃぎ回るリベラリストたちの「特徴」と「リベラル禍」
・「理想優先・生活軽視」のリベラリストはどこが間違っているのか
・どのように「生活」において理想の問題を展開すべきなのか
・「個人」過剰と「英雄物語風な認識」のリベラリストはどこが間違っているのか
・NHK大河ドラマはいかなる意味で観念論的な英雄物語なのか
・リベラリストの「理想優先・生活軽視」には、彼らがリベラリストであるがゆえの啓蒙主義及び合理主義が根底にある
・リベラリストの「英雄物語風な認識」には、彼らがリベラリストであるがゆえの啓蒙主義及び合理主義が根底にある
・その他のリベラル禍(1):ミクロレベルでの思考・方法論をマクロレベルに不適切に適用する
・その他のリベラル禍(2):主観的見方の過剰・客観的見方の後退
・その他のリベラル禍(3):表面的なことに一喜一憂するようになる
・その他のリベラル禍(4):単なる道徳講釈にとどまる
・「現代資本主義」を思想面から積極的に支えるリベラリズム
・リベラリズムを克服し自由主義をアップデートしよう、自由主義と社会主義との接点を探ろう

■社会主義を目指す立場からのリベラリズム批判――アメリカ大統領選挙の見方
当ブログでは数年来、生活者たちの貧困・格差問題を解消し社会的抑圧と分断を克服するため、集団主義的な協同社会:自主・対等・協同の社会関係が成立している社会としての社会主義を目指す立場から、「現代資本主義」とそれを思想的に支える「ブルジョア『個人』主義」及び「主観観念論としてのリベラリズム」を乗り越えるべく批判的主張を展開してきました。この立場から、今年のリベラリストたちの言説を振り返ると、特にアメリカ大統領選挙におけるバイデン氏勝利にはしゃぎ回る著しい観念論っぷりが目につきました。

まず、アメリカ政治及びリベラリズムに対する基本的な私の認識、そして大統領選挙の見方について立場を明らかにしたいと思います。

■トランプ氏はどんなに過大に評価しても「オピニオンリーダー」止まり
アメリカ政治について申せば、特に「社会の分断」と絡めれば、10月3日づけ「アメリカ大統領選挙は主体的にはどう見るべきか」で述べたとおり、「トランプ大統領が分断を作った」のではなく「すでに以前からあった分断がトランプ氏を大統領に押し上げた」と見ます。今回の大統領選挙の接戦を見るに、この基本的構図に違いはないとみるべきです。それゆえ、バイデン氏が大統領に就任したところで、アメリカ社会の分断構造に大きな変化はないとみるべきです。

トランプ氏は、しばしば「世論を操作している」と批判されてきましたが、大統領がその権限で自己の意思を貫徹し得るのは行政組織内にとどまります。トランプ氏はどんなに過大に評価しても「オピニオンリーダー」どまりであり、支持者らの意見形成に「影響」を与えることはあっても、古典的な弾丸理論・皮下注射論が考えるようなこと、すなわち、人々が考えること自体を意のまま「操る」ことはできません

トランプ氏が大衆が信じたいこと・都合の良いことを上手く代弁するからこそ大衆が彼を支持し、その結果としてトランプ現象が起きているのです。支持者らがこれからも残り続ける限りトランプ氏が大統領の座から去ってもトランプ現象がなくなることはなく、トランプ氏が生物学的な寿命を迎えこの世を去ったとしても支持者たちは似たような主張を展開する人物を探し出すことでしょう。バイデン氏が、たとえば人種差別反対キャンペーンを展開したところでトランプ氏支持の差別主義者たちが劇的に改心するはずがないので、その強烈な差別意識は単に地下化して「見えなくなる」だけでしょう。

アメリカ社会の客観的な制度や構造と、一人一人の国民の意識が重層的に織りなした「システム」が差別や格差といった社会問題の正体なのです。

■リベラリストたちは19世紀以来の古典的な詐欺手口で相変わらず人民大衆を騙そうとしている
リベラリズムについて申せば、リベラリストは「弱者の味方」という自己演出を好みますが、11月1日づけ「リベラリズムは没落し、プログレッシブは芽の段階」で述べたとおり、社会的弱者にとっての現状における災禍の根底にある「資本主義制度そのもの」には彼らは決して手を触れようとせず、「政策的調整」でお茶を濁そうとしていると言わざるを得ません。フランス革命以来、リベラリストたちが「人権」を云々しつつ現実の人権侵害の根本にある「資本主義制度そのもの」には決して手を触れようとしなかったことは、彼らが一貫して詐欺師であったことを示すものです。

本当に人権を尊重しようとすれば、労働力の商品化という制度自体の再検討がどうしても必要ですが、それはまさに資本主義の根本といっても過言ではない「聖域」です。19世紀のリベラリストたちは、資本主義化の進展に伴う生活者としての労働者階級の境遇悪化、フランス革命の「自由・平等・博愛」が実現しているとは到底言えない現実の根本にある「資本主義制度そのもの」に対して頬かむりしました。

そして現代、グローバル化の進展により生活者としての労働者階級の境遇は再び悪化しつつあります。しかし、21世紀のリベラリストたちは「資本主義制度そのもの」、より正確に言えば資源と利益の分配について何ら本質的・構造的な批判を展開しようとせず、せいぜい"SDGs"なる取ってつけたようなキャンペーンを展開して現実の災禍を誤魔化そうとしています。あるいは、「資本主義制度そのもの」を脅かすものではない女性やLGBTといった性の問題や人種の問題に衆目を逸らさせ、「自由・平等・博愛の旗手」を演じることで誤魔化そうとしています。

このように、リベラリストたちは資本主義による災禍、自由・平等・博愛という根本理念が侵されている事実について見て見ぬふりをしてきました。キレイゴトを並べて事実を覆い隠してきました。それどころか、実は自らも搾取者だったことさえありました。政治の「民主化」には取り組むポーズは見せても、経営と利益配分の民主化(協同化)には取り組もうとせず、せいぜい資源配分のゆがみを政策的に微調整することで「アリバイ作り」をしてきました。リベラリストたちは、19世紀以来の古典的な詐欺手口で21世紀になっても相変わらず人民大衆を騙そうとしているのです。

■「トランプ文化大革命」を生んだ「分断の構造」は依然として残っている
大統領選挙の見方については、トランプ氏の「当落」だけではなく「彼がどの程度の国民から支持を得られたのか」、特に「対立候補とどの程度の差をつけたのか・つけられたのか」にこそ注目すべきだと考えます。両者にそれほど差がなければ、「トランプ文化大革命」を生んだ「分断の構造」は依然として残っていると言わざるを得ないわけです。

■予感的中・・・はしゃぎ回るリベラリストたちの「特徴」と「リベラル禍」
さて、こうした基本的な立場から今回のアメリカ大統領選挙を見てきた私ですが、11月5日づけ「極左・チュチェ思想派なのにトランプ氏の劣勢が素直に喜べない自分がいる」では、「今回、バイデン氏が勝利しようものなら、リベラリストたちは間違いなく「やはり我々が正しかった」「トランプは徒花だった」などと胸を張ることでしょう。詐欺師が自己正当化に走ることでしょう。そう考えると、「これでようやく『トランプ文化大革命』に一区切りがつく」と分かっていても、素直に喜べないのです」と書きました。

この危惧は、バイデン氏優勢が揺るがなくなるや否や、残念ながら現実のものになってしまいました。

あまりにも多くのリベラリストがはしゃぎ回っていたものですが、当ブログでは飯塚真紀子氏及び猪瀬聖氏(11月8日づけ「「トランプ落選」だけを切りとり浮かれる人たちは、トランプ氏が得票率において2%弱伸び、マケイン氏やロムニー氏を上回った衝撃的事実を見落としている:「トランプ文化大革命」を生んだ「分断の構造」は依然として残っている」)、津山恵子氏(11月21日づけ「「バイデン勝利」に浮かれ、社会主義にもプログレッシブにも一切触れないリベラリストの牽強付会・観念論的英雄物語について」)、草薙厚子氏(11月23日づけ「「生活」という視点が抜け落ち「ラスボス」を倒したかのような浮かれ具合:「バイデン勝利」で変な成功体験をもってしまったリベラリストたち」)らの言説を取り上げました。これらの言説の共通点は、次のとおりです。

(1)「トランプ劣勢」「トランプ落選」だけを切りとり、トランプ氏も相当得票した事実を無視している
(2)左派プログレッシブの勢力拡大やアメリカにおける社会主義のかつてない隆興には一切触れず、「リベラルの勝利」などとコジツケる
(3)"BLM"や"LGBT"由来の理想問題・価値観問題への過剰なクローズアップ、それに対する「生活」という判断基準の軽視。
(4)大統領選挙は政策競争であり政党間の政権獲得競争なのに、トランプ氏個人の下品な性格やワンマン経営者的パーソナリティを過剰にクローズアップしている
(5)バイデン氏の勝利について「啓蒙された個人が世を動かす」という英雄物語風に認識している

ここで重要なのは(3)及び(5)、つまり「理想優先・生活軽視」と「英雄物語風な認識」です。本来「弱者の味方」であるべきリベラリストがこのような姿勢をとっているせいで貧困と格差、社会的抑圧と分断が長期化しています。本来「資本家の味方」であるはずの共和党・トランプ氏に相当数の労働者大衆の支持が集まっている原因にもなっています。「リベラル禍」というべきものです。

■「理想優先・生活軽視」のリベラリストはどこが間違っているのか
順番に見てゆきましょう。(1)については、4年間やりたい放題やっても尚、あれだけの得票率を叩き出して支持を集めたことは、トランプ現象が、根っこのある一定の民意に基づいていることを示しています。単なるブーム・単に偏狭な意見の寄せ集めだけで40パーセント台後半の得票はできません。(2)については、予備選挙のときにあれだけ苦戦したバイデン氏が、バーニー・サンダース氏らの支援を取り付けてやっと民主党の候補者になることができたわけですから、今回の大統領選挙において左派プログレッシブの勢力拡大やアメリカにおける社会主義の隆興を踏まえないわけにはいきません。

トランプ氏の底堅い支持と左派プログレッシブの勢力拡大・アメリカにおける社会主義のかつてない隆興という事実からは、生活者大衆が第一に関心を寄せる「生活」が懸案になっていることが見えてきます。「11月5日づけ記事」では「共感力? そんな乙女チックな甘い言葉でいったい何人の国民が騙されてきたと思う? 選挙前に優しい言葉をかけるだけで、実際は何もしない。それがリベラルの常套手段だ。トランプは、言っていることはきついが現実的だ」というトランプ氏支持者の声を取り上げました。

しかしリベラリストは、"BLM"や"LGBT"由来の理想問題・価値観問題を過剰にクローズアップし、「生活」という判断基準を軽視します。続いて(3)について、リベラリズムの「理想優先・生活軽視」について検討してみましょう。

政治は、生身の人間にとっての現実で発生する諸問題を解決するためのものです。政治は現実に立脚する必要があります。ここでいう「現実」、政治が処方箋を出すべき現実とは、「衣食住の問題を筆頭とする日常生活」です。人間は、生物としての命を繋ぐために衣食住の欲求をまずは満たす必要があります。加えて社会的存在としての人間、生物学的生命とともに社会政治的生命をもつ人間は、コミュニケーションを取って社会政治的・思想文化的な欲求を満たすことも必要です。こうした日常生活の問題だけ考えればよいわけではありませんが、こうした問題から遊離したあらゆる言説はすべて空理空論です。現代社会は、古代ギリシャの都市国家のように市民が日常生活について何も心配することなく政治や文化に没頭できるような社会ではありません。

人間は、まず衣食住を満たすことを筆頭として「日常生活」を営みながら、それを営めて初めて「よりよい自主的で理想的な明日の生活」を追求するわけです。その事実を鋭くとらえて成功したのが、11月23日づけ「「生活」という視点が抜け落ち「ラスボス」を倒したかのような浮かれ具合:「バイデン勝利」で変な成功体験をもってしまったリベラリストたち」で述べたように、1992年の大統領選挙で"It's the economy,stupid."をスローガン化した新人・クリントン氏であり、今回の大統領選挙で生活上のこの上ない危機である「コロナ」をテーマにしたバイデン氏です。

バイデン氏の選挙戦略を冷静に見返せば、彼は、有権者の日常生活に直結する経済政策についてかなり「慎重」な物言いをしていたことが直ちにわかります。たとえば11月18日づけ「グローバリズムの提灯持ちとしての「役に立つバカ」か「確信犯」かのどちらか」で取り上げたとおり、バイデン氏は勝利のためにトランプ氏の保護主義的政策をコピーせざるを得ませんでした。

また、大統領候補者ディベートにおいてバイデン氏がフラッキング規制について踏み込んだ発言をしたところ大騒ぎになり、バイデン陣営がただちに火消しに追われたということがありました。「ラストベルト」奪還のためバイデン氏は、ときに自由貿易の問題や環境の問題を差し置いても日常生活の問題に配慮した慎重な物言いをせざるを得なかったのです。

さらに、繰り返しになりますが、バイデン氏は手厚い社会政策の実現を訴えることで若者層から絶大な支持を集める社会主義者サンダース氏から支持を取り付け、プログレッシブと呼ばれる社会主義志向の有権者たちを取り込むことで陣営を固めました。プログレッシブの第一関心事は社会政策、つまり日常生活の問題です。ここからも、日常生活の問題に配慮するというバイデン氏の戦略は明らかです。

しかしながら、バイデン氏勝利に浮かれるリベラリストは、お気楽にも「BLMの勝利」だの「リベラリズムの勝利」だのとはしゃぎ回っています。妥協に妥協を重ねたバイデン氏の苦労も知らずに。

たとえば、11月21日づけ「「バイデン勝利」に浮かれ、社会主義にもプログレッシブにも一切触れないリベラリストの牽強付会・観念論的英雄物語について」では、「鍵を握ったのは若者層と黒人層。この異なる有権者層にブリッジをかけたのが、2020年5月末に始まったブラック・ライブズ・マター(BLM、黒人の命は大切だ)だった可能性が大きい」だの「若者層のリベラル志向が際立つ」だのと「分析」する津山恵子氏の言説を取り上げて批判しました。

CNN等の出口調査を見る限り、BLM等の人種差別問題を投票の決め手にした人物の比率は「小さくはないが、そこまで大きくクローズアップしてよいものか判断に苦しむ要素」でした。人種差別問題は、社会的には大きなムーブメントではありつつも大統領選挙の争点としては浮上してきていないと早くから報じられていましたが、結局その大きな流れは変わらなかったのです。また、若者層がバイデン氏支持に傾いた要因は、サンダース氏が自ら身を引いたことが要因だと考えられます。「トランプでなければ誰でもいい」という動機も指摘されたものでした。

それゆえ、民主党を支持する若い有権者の投票率が上がったことがバイデン氏勝利の要因だったとしても、「急速にリベラル化が進む若者層」とするのは牽強付会と言わざるを得ないでしょう。ましてそれとBLMを結び付けるだなんて、裏付ける根拠がまったくないのです。

11月23日づけ「「生活」という視点が抜け落ち「ラスボス」を倒したかのような浮かれ具合:「バイデン勝利」で変な成功体験をもってしまったリベラリストたち」では、生活という視点がストンと抜け落ち、「女性で黒人で、インドとジャマイカにルーツがある。彼女のような女性が副大統領、いずれ大統領になるかもしれないっていうことがアメリカの先進性・・・トランプのままだとカッコよくない、ダサイ国なってしまう」などと浮世離れした言説を取り上げる草薙厚子氏を批判しました。

生活の問題から離れて理想の問題や価値観の問題ばかりを論じられるのは、古代ギリシャの都市国家の市民くらいです。現代社会はそのような恵まれた社会ではないので、ほとんどの人は生活の問題を重視せざるを得ません。生活という視点が抜け落ちて浮世離れした言説は、大統領選挙の情勢報告としては何の参考にもなりません。もし本気でこうした「意識」がバイデン氏勝利の原動力だったなどというのであれば、現実がまったく見えていないと言わざるを得ません。

本来、BLMを筆頭とする人種差別の問題やLGBTを筆頭とした多様性の問題は、生活と無関係の問題ではないはずです。

白人至上主義者による黒人に対するリンチなどは、黒人の命の危機そのものです。LGBTを筆頭とした多様性の問題は、当事者にとっては生活様式の問題そのものです。しかしリベラリストは、人種差別問題や多様性問題を生活の問題に組み込むべきところ、生活の問題から切り離して尊厳の問題・理想の問題・価値観の問題として位置付けてしまっています。その結果、「生活感」のない空理空論になってしまっており、衣食住の問題・日常生活に直面している有権者の目からは「またそんな腹の足しにもならないことを言って・・・」と冷ややかに見られてしまうのです。

かつてマルクス主義は、理想の問題・尊厳の問題・価値観の問題を軽視し、日常生活の問題を根本的に規定するという意味で経済の問題ばかりに注目しました。これは大きな誤りです。しかし、経済の問題を軽視し、理想などの問題ばかりに注目するリベラリズムもまた、マルクス主義と同じくらい重大な誤りを犯しています。経済の問題と理想などの問題は、生活というフィールドにおいてのみ接合されるものです。

■どのように「生活」において理想の問題を展開すべきなのか
では、どのように「生活」というフィールドの上で理想の問題を展開すべきなのでしょうか?

繰り返しになりますが、人間は、まず衣食住を満たすことを筆頭として「日常生活」を営みながら、それを営めて初めて「よりよい自主的で理想的な明日の生活」を追求します。「日常生活」においては理想の問題は直ちに重要な要素にはなりませんが、「よりよい自主的で理想的な明日の生活」の探求においては理想の問題が重要な要素になってきます。それゆえ、「日常の生活に根差し、その延長線上にある理想の問題」というように問題を描きなおせば、生身の人間にとっての現実としての生活に根差すことができ、浮世離れ・観念論の誹りを免れることができるでしょう。。

「金持ちの道楽」と化しつつあるリベラリズムは、理想の問題を生活の問題の一部とすることを怠ってきました。それが4年前の大統領選挙でのトランプ氏の勝利でしたが、今回のリベラリストたちのはしゃぎ様を見るに、「下手に勝ってしまった」ために、残念ながら彼らは反省しそうにありません。

■「個人」過剰と「英雄物語風な認識」のリベラリストはどこが間違っているのか
次に(4)トランプ氏個人の下品な性格などを過剰にクローズアップしている、及び(5)「英雄物語風な認識」について考えてみましょう。

一昨年の第1回朝米首脳会談直後、ハーバード大学ケネディ行政大学院教授のスティーブン・ウォルト氏は、「米朝会談「アメリカは高潔・聡明、敵はクレイジー」外交のツケ」という記事を『ニューズウィーク日本版』に寄稿しました。曰く「アメリカでは経験豊富な政府高官や聡明な専門家でさえ、外交摩擦を利害の対立や政治的価値観の衝突として理解するのではなく、個人の欠点や被害妄想、現実に対するゆがんだ見方を反映していると捉えたがる」と。これはあまりにも「個人」を強調し過ぎている見方です。

キム・ジョンイル総書記はかつて、「我が党には自己の指導者に忠実な中核が多くいます。党に忠実な中核が私を積極的に支持し助けてくれるので、キム・ジョンイル将軍も存在しているのです。一人では将軍になることはできません。私は中核の知恵をまとめて、彼らに依拠して政治をおこなっています」と仰いました(『党のまわりに固く団結し新たな勝利のために力強くたたかっていこう―朝鮮労働党中央委員会の責任幹部との談話―』1995年1月1日)。

政治の力は組織の力にあります。「個人」が何らかの意図や決意を持っていたとしても、政治というものは組織的に展開するものです。個人の決意は組織を通して実現するのです。しかしリベラリストたちは、政治的出来事を関係者個人の人間的長所または短所、物の見方の良し悪しに帰したがるものです。

こうした傾向は、トランプ政権4年間におけるリベラリストの振る舞いにおいても顕著に表れていたといえるでしょう。トランプ政権が組織的に打ち出して実行したことなのに、大統領選挙は政策競争であり政党間の政権獲得競争なのに、すべてトランプ氏個人の下品な性格やワンマン経営者的パーソナリティに話が行きつくのです。側近は? 組織は? トランプ政権にはトランプ氏一人しかいない、トランプ政権では大統領が超人的に活躍してすべてを独りで切り盛りしているとでもいうのでしょうか? あまりにも「個人」過剰です。

こうした「個人」過剰は、問題の本質を捉え損ねることに繋がります。かつてマルクスは『資本論』で次のように指摘しました。
ここで諸人格が問題になるのは、ただ彼らが経済的諸カテゴリーの人格化であり、特定の階級諸関係や利害の担い手である限りにおいてである。経済的社会構成体の発展を一つの自然史過程と捉える私の立場は、他のどの立場にもまして、個々人に諸関係の責任を負わせることはできない。個人は主観的にどんなに超越しようとも、社会的には依然として諸関係の被造物なのである。
マルクス『資本論』第1巻第1分冊、新日本出版社、1982年、p12

トランプ氏の施政を「たまたま出てきた悪意の男のデタラメ」と捉えることは、トランプ氏を生んだ土壌、つまり、トランプ氏支持者の生活問題を見落とすことになります。極めて危険なことです。

今回トランプ氏は落選しましたが、リベラリストはいまだにトランプ氏の個性・パーソナリティ批判に注力し、彼が二度と再起できないように徹底的に叩いています。それが彼らなりの「先を見据えた対応」なのでしょうが、トランプ氏はデタラメだとしても大量得票したということは、「もう少し洗練されたトランプの弟子」が登場すれば、ただちに共和党が政権を取り戻し得るということです。その点、トランプ氏個人を叩くことなど傍から見れば何の先見性もありませんが、リベラリストにはこれが世界観的に思考の限界なのでしょう。

こうした「個人」過剰は、「英雄物語風な認識」の下地になります。

「英雄物語風な認識」については11月21日づけ「「バイデン勝利」に浮かれ、社会主義にもプログレッシブにも一切触れないリベラリストの牽強付会・観念論的英雄物語について」で、津山恵子氏批判の形で取り上げました。当該記事で取り上げた津山恵子氏の記事は、バイデン氏勝利の原動力に黒人票があるとした上で、激戦州:ジョージア州での黒人票掘り起こしにステイシー・エイブラムズ氏という「1人の女性」が大きく貢献したという内容になっています。これは残念ながら「啓蒙された個人が世を動かす」という英雄物語、個人の主観的願望が世界を動かすという典型的な観念論物語になってしまっています。

一人の個人が決意して行動することで達成できるもの限定的で、あくまでも個人レベルの課題にとどまります。社会システムはもっと巨大で、社会的の課題は個人レベルの課題とは質的にまったく異なります。当然、解決方法も異なります。個人は組織化されたときに初めて社会の力ある主人になることが出来ます。それゆえ、一人の個人にスポットライトを当て、その人物が社会変革に取り組む姿を描くためには、その人が如何にして周囲の人々を同志的に組織化し、時の客観的条件・生活の現実を認識して創造的かつ組織的に利用してゆくかを詳細に叙述する必要があります。そうして初めて、観念論的英雄物語を脱して主体唯物論的分析になります。

同志的組織化を描くにあたっては、リーダーシップだけに注目するのではなくフォロワーシップにも十分に言及する必要があります。リーダーシップとフォロワーシップがいかにハーモニーを作り組織化が実現したのかを描く必要があります。その点、津山氏の記事ではフォロワーシップへの言及がありませんでした。まるでエイブラムズ氏が超人的な大活躍をして、独りないしは啓蒙された少数の前衛部隊だけで大業を英雄的に成し遂げたかのように読めてしまいます。

フォロワーシップへの言及は、紙幅の制約があったとしても決して割愛してはならない要素です。

客観的条件・生活の現実の認識と利用という点については、津山氏は、前回2018年の州知事選ではどういった客観的条件・生活の現実が共和党候補の勝利に結びついたのかを分析し、それに対して今回の選挙でエイブラムズ氏がどのようなアプローチを展開したのかを描くべきでした。言い換えれば、ジョージア州のマイノリティたちはどのような生活実態を持っており、そうしたマイノリティ有権者たちの生活上の要求に対してエイブラムズ氏がどのようなアプローチを展開したのか、生活上の問題と人種差別の問題をどのように接続させたのかを明らかにすることこそが客観的条件・生活の現実に根差した分析なのです。

このように、人種差別問題が社会の変革(政権交代)につながったというのであれば、人種差別の問題と生活の現実がどのように関連しているのかを描き出し、生活の現実の一部として描きなおす必要があったのです。

■NHK大河ドラマはいかなる意味で観念論的な英雄物語なのか
このように述べた上で当該記事で私は、津山氏の描き方がNHKの大河ドラマ風になってしまっていると指摘しました。

NHKの大河ドラマの基本的構成は、「啓蒙された個人が世を動かす」という英雄物語です。幕末・明治維新をテーマにした年が特に顕著ですが、一人の歴史的登場人物が何かのきっかけで啓蒙されて「志」を持つようになり、ほんの一握りの歴史的登場人物との間で人間ドラマを振り広げながら「志士団」を作り、その志士団が志・決意と努力の結果、新時代を切り開くという筋書きです。

これは、個人ないしは少数の徒党の主観的願望、志・決意と努力が世界を動かすという典型的な観念論物語です。NHKの大河ドラマは時代背景、出来事の歴史的必然性にはほとんど触れません。志を支える物質的基盤、たとえば資金の問題ひとつ取っても、都合の良いタイミングで突拍子もなくパトロン的な人物からの資金提供があるというストーリーに仕立てています。同志的組織化については、あくまでも一握りの歴史上のビッグネーム同士のそれを描写するに留まっており、一般庶民など一顧だにされていません。客観的条件・生活の現実について、いっさい描かれないのです。

津山氏の描き方は、大河ドラマと同じようなレベルになってしまっていました。

■リベラリストの「理想優先・生活軽視」には、彼らがリベラリストであるがゆえの啓蒙主義及び合理主義が根底にある
このように、アメリカ大統領選挙でのバイデン氏勝利にはしゃぎ回るリベラリストたちは、浮かれるあまり「理想優先・生活軽視」と「英雄物語風な認識」という重大な過ちを犯しています。ではなぜリベラリストたちは、このような見方をしてしまうのでしょうか?

「リベラリズムは資本主義擁護のためのハリボテに過ぎない」という可能性、「リベラリストはエスタブリッシュメントだから、庶民生活のことなど分からない」という可能性は一旦除外しましょう。その上でリベラリストのルーツからその思考様式を探究すると、9月12日づけ「今日的なリベラリズムの本性は「破邪顕正」、「自由」や「多様性」は二次的なもの」で論じたとおり、リベラリズムが「啓蒙主義」及び「合理主義」の系譜に位置しているという事実が目に留まります。

ルネサンス以降のリベラリズムの有力流派は「啓蒙主義」でした。人間の理性に無限の信頼を置き、伝統的な因習や束縛を打破し理性に基づいて合理的に捉えなおそうとする思想潮流であり、その根底には近代的な合理主義が存在しています。啓蒙主義及び合理主義をキーワードとして私は、チュチェ105(2016)年4月7日づけ「自称「革命家」の観念的時間感覚と、生活者の現実的時間感覚――日本共産党の数年以内の認可保育所「緊急」増設」及び同年6月24日づけ「「生活の現実」とEU離脱派の主張」で論じた「高学歴者の陥りがちな『感覚』」を再度主張したいと思います。

すなわち、高い教養、広く長期的な視野、歴史への深い造詣を持つ啓蒙主義的で合理主義的な人たちは、「現実の日常生活」をまったく無視するわけではないが、合理的な思考から紡ぎだした「理想の未来社会」にむしろ強い関心を寄せ、「現実の日常生活の問題を解決すめためにこそ、まず理想の未来社会の実現が必要だ」などと考えがちです。その結果「理想優先・生活軽視」になってしまうというわけです。そして歴史への深い造詣ゆえに「歴史年表の感覚」で物事を考えがちであり、短くて半年、長ければ10年単位の時間軸で理想社会を論じてしまうため、生身の人間の生活としての現実とは懸け離れた感覚で物事を語ってしまうというわけです。

今回バイデン氏の勝利に浮かれているリベラリストも、個別具体的な問題を取り上げることよりも、もっと包括的で抜本的な対策の実現によって、それらが解決されると考えているのではないでしょうか? たとえば、11月30日づけ「生活問題から遊離した歴史オタクの自己満足にすぎない戯言、スターリン主義者、ポル・ポト主義者に「エサ」を与え得るモーリー・ロバートソン氏の危険言説について」では、モーリー・ロバートソン氏の「アメリカは社会の体質を1、2世代かけて改善し、人々が新たな社会契約を結ぶ必要がありそう」という発言を取り上げました。「世代交代」は、人間を入れ替えるわけだからもっとも包括的で抜本的な対策です。

もちろんロバートソン氏の主張は、「今を生きる世代に見切りをつける」という点で、生身の生活者大衆の待遇改善を諦めていると言うべき戯言です。悠久の歴史と自らの生を同一化させた革命家とは異なり、生活者大衆は一分一秒でも早く待遇改善を望んでいます。

社会改造は今日明日のうちには成就しませんが、人々の生活は今日も明日も不断に続きます。包括的で抜本的な政策を待っている余裕はありません。そうした人々の生活上の欲求に応える「生活主義」の立場に立てば、「生活者は、『遠大な構想』ではなく『直近のパッチ対応』を求めている」と言うべきでしょう。そして仮に「遠大な構想」を立てたとしても、それはあくまで「直近のパッチ対応」の積み重ねの上に花咲くもの、漸進的なものになるほかありません。

漸進的な改革を重ねつつ少しでも早く生活改善を目指す「生活主義」の立場からすると、リベラリストの看板は「御題目」にしか見えません。今日明日の衣食住の問題が喫緊の重要課題である生活者大衆も同様の感覚でしょう。こういう「温度差」が、弱者の味方を自任するリベラリストが、いまひとつ弱者の支持を集めきれていない要因であると思われます。

リベラリストの「理想優先・生活軽視」には、彼らがリベラリストであるがゆえの啓蒙主義及び合理主義が根底にあると考えられるわけです。

■リベラリストの「英雄物語風な認識」には、彼らがリベラリストであるがゆえの啓蒙主義及び合理主義が根底にある
「英雄物語風な認識」もまた、啓蒙主義及び合理主義が根底にあると考えられます。

朝鮮大学校校長で最高人民会議代議員(総聯選出)のハン・ドンソン(韓東成)先生は、著書『哲学への主体的アプローチ Q&Aチュチェ思想の世界観・社会歴史観・人生観』(2007年、白峰社)において、人生観に関連して啓蒙主義の特徴を次のように指摘しています(p164-165)。
個人主義的人生観は、社会歴史に対する主観主義的観点にもとづいていました。それは、人々の生活や社会的運動が客観的な物質的条件に制約される面があることを見ずに、理性の要求と力に依拠して行動することによって、人間は、歴史と自らの運命を開拓することができるとしました。(中略)人間の本性にあった幸福な生活をおくる方途を、啓蒙に求めました。
啓蒙主義そして合理主義は、個人の理性と力を過信するあまり客観的・物質的制約を軽視するといいます。これこそが、歴史的登場人物の個人的な志・決意と努力が歴史を切り開くという、NHK大河ドラマ風英雄物語の哲学的基礎になっていると言えるでしょう。

■その他のリベラル禍(1):ミクロレベルでの思考・方法論をマクロレベルに不適切に適用する
啓蒙主義及び合理主義は、当事者が高い教養の持ち主であれば、ある程度は読むに堪えるものになりますが、中途半端な人物が啓蒙主義者の振る舞いをすると「素人の浅知恵」というべきとんでもないことになります。今年それはコロナ禍でいやというほど見せつけられ、振り返り第1弾及び第2弾の記事で触れましたが、続いてここではリベラル界隈でのそれを振り返り、教訓を拾いたいと思います。

まずは7月5日づけ「「レジ袋有料化」を無邪気に推す「建前・宣伝・格好つけを真に受けすぎている、お人よしな社会運動」を乗り越えて」。今年7月から環境問題を名目に小売店でのレジ袋無料配布に厳しい法的制限がかかり、コンビニを中心に有料販売されるようになりました。環境負荷軽減という政策目標の実現においてその効果は極めて疑わしいところですが、こうした政策を支持する立場の人たちによると「小さなことから始めることが社会全体を変える」とのこと。

レジ袋無料配布を中止し、一人一人の個人がミクロレベル「行動を変える」ことによって、いったいどのような経路をたどって社会全体というマクロレベルの「変化」につながるのかまったく論証されていません。「啓蒙され覚醒した個人」が足並みを揃えて個人レベルで最適な行動をとったからといって、それで社会全体が最適化されるわけではありません。

このように、中途半端に合理主義的だとミクロレベルでの思考・方法論をマクロレベルに不適切に適用してしまうのです。「素人の浅知恵」というべきものです。

こうした「素人の浅知恵」に依拠した社会変革運動は、まず何よりもこれは歴史的大失敗としての計画経済の思想的原点でもありますが、同時に多様性を追求しながらむしろ多様性を殺す結果になるという点において、二重に危険なものであると言うべきです。昨年の総括記事での「しっかりとした新しい価値観が定立される前に既存の価値観を破壊するようでは、デュルケム的意味でのアノミーになるのがオチ」という見解を踏まえつつ12月17日づけ「逆に多様性を殺すことにつながるリベラル流の「多様性」重視及び支離滅裂な社会歴史観について」で言及しました。

リベラリズムが実現を目指す多様性ある社会の秩序は「自生的秩序」になるでしょう。特定個人や特定集団が一方的に押し付けるものではなく、皆が歩み寄ることですり合わされる形で出てくるものだからです。自由主義哲学者のF.A.ハイエクが指摘していることですが、自生的秩序は「壊れやすい」ものであり、制度的な枠組みやルールによって保護される必要があります。自由放任では自生的秩序は守られません。そうした制度的な枠組みやルールの代表例が、ほかでもない「伝統」であります。

しかし、多様性を掲げる昨今のリベラリストは、「自分の頭で合理的に考える」などと称しつつ素人の浅知恵で、数世代に渡って人々が試行錯誤を重ねつつ生命力を実証してきた伝統をいとも簡単に破壊しようとします。その結果は容易に想像できるものです。リベラル流の「多様性」重視は、結果的にはデュルケム的な意味でのアノミーにつながり、逆に多様性を殺すことにつながるのです。

つまり啓蒙主義・合理主義的リベラリストたちは、ご自分では多様性を実現させようとしているが、実際にはそれが実現しえない方法論にしがみついているのです。啓蒙主義は常にこうした危険性と隣り合わせです。

■その他のリベラル禍(2):主観的見方の過剰・客観的見方の後退
続いて7月14日づけ「「私は」が先行すぎていて「事実として」が乏しい主観観念論としてのリベラリズムの克服へ、ブルジョア社会・資本主義社会の枠内での「改革」を超えて」を振り返りたいと思います。

夫が戸籍上の「世帯主」となり、私は「続柄:妻」となったこと。結婚早々、上下関係が決定づけられたような気がして大きな抵抗感を覚えた」から「改姓すると、時間もお金もかかるものだ……。区役所での手続き中、身体の奥底からふつふつと言い得ぬ怒りが湧いてきた」という方向に展開する記事は、昨今のリベラルな社会的ムーブメントに典型的かつ顕著に見られる大きな弱点を示していました。

このように、中途半端に合理主義的だと「自分のオツムで理解できるか否か」で判断してしまうようになります。「私は」という主観的見方が先行し過ぎ、「事実として」という客観的見方が後退してしまうのです。

「合理性」という言葉を「私が理解できる」という意味ではなく「事実から出発し事実に合致している」という意味に引き戻す必要があります。このことはすなわち、主観観念論としてのリベラリズムの克服です。

■その他のリベラル禍(3):表面的なことに一喜一憂するようになる
そして11月23日づけ「「生活」という視点が抜け落ち「ラスボス」を倒したかのような浮かれ具合:「バイデン勝利」で変な成功体験をもってしまったリベラリストたち」。草薙厚子氏にはもう一度ご登場いただきましょう。この記事では、トランプ氏落選について「待ちわびていた春が来たと思い涙があふれました。人間的でない、冷酷な差別主義者の大統領が変わるというよろこびです」という民主党支持の50代アメリカ人女性の発言が取り上げられています。

目の前の不都合な事実が覆い隠されればそれだけで「社会の進歩」とはしゃぎ回る「民主党支持の50代女性」さんは、「自分の眼に見え、脳みそで理解できることだけを信じる」という意味では、リベラリスト的発想のうち最もレベルの低い部類といえるでしょう。オノレのオツムに理解できる程度のストーリーで「納得」してしまい、表面的な取り繕いに過ぎないものを「歴史の進歩」などと無邪気に評価してしまうのでしょう。

■その他のリベラル禍(4):単なる道徳講釈にとどまる
11月3日づけ「資本主義がもたらす問題の解決を資本主義の枠内で、若者世代の意識の変化に期待して行おうとすると如何なる無理筋になるか;モーリー・ロバートソン氏の言説を通じて」では現代社会における格差・貧困・社会の分断の元凶に現代資本主義があると正しく理解しているモーリー・ロバートソン氏が、しかしあくまでも資本主義の枠内で是正しようと藻掻くあまり無理筋を展開するに至る姿を取り上げました。

ロバートソン氏は以前から、「左派ポピュリズム」について「資本主義によって世界が回っているという事実も、その仕組みをスクラップしたらどれほど多くの人が"返り血"を浴びることになるかという議論も無視」していると主張してきました。おそらく社会主義もそれに当てはまるのでしょう。

たしかにこの主張には一理ありますが、しかし、その結果ロバートソン氏は、「ファストフードやファストファッションは搾取の上に成り立つ」としつつ「その原因を、われわれが自らの内に抱える怠惰さ、そしてその表れである現在のライフスタイルに見るべき」などとして終わらせてしまっています。単なる道徳講釈と言わざるを得ません。

あくまでもリベラリズムの枠内に収めようとすると、ついには道徳講釈になってしまうのです。これで社会が変わるならば世話ありません。

■「現代資本主義」を思想面から積極的に支えるリベラリズム
啓蒙主義・合理主義がもたらす災禍は、「理想優先・生活軽視」と「英雄物語風な認識」、そして「素人の浅知恵」だけではありません。誤った戦略の理論的支柱になることで貧困と格差、社会的抑圧と分断の問題を結果的に放置させて長期化させるだけではなく、「現代資本主義」を思想面から積極的に支えてもいます

12月5日づけ「リベラリズム×メリトクラシー=社会の分断、自己の自主性・自主的要求の麻痺」で取り上げたとおり、啓蒙主義・合理主義は、個々の人間存在における主観的思考・願望や行動を過剰に重視するがゆえに個人主義的人生観を助長しつつ、人々を「行き過ぎた能力主義」に至らしめます

個人主義にはどうしても、人間を孤立した個人的存在と見なし、人間の生命を個人的な面からのみ捉える傾向があります。そのため「個人の成功は、本人独りの力で築いたもの」という主観主義に人々を転落せしめ、人々は「他人は他人、自分は自分」という観念を持つようになり、個人の存在を社会集団から孤立して単独で存在しているかのように思い込むに至ります。「我々」意識が弱まり、「我々」意識に欠ける人々が増えるにつれて社会が分断される、社会の集団的・共同体的結束が分解・瓦解して行くに至るのです。

つまり、啓蒙主義・合理主義は、社会を崩壊させるブルジョア「個人」主義の出発点になるのです。

もちろん、いわゆる「個人の成功」は、「自分独りの力で築いたもの」などでは決してありません。もとより人間は、個人でありながら集団をなして生活しており、また、客観的な条件に制約されています。いわゆる「個人」は、事実・ファクトとして社会システムの不可分な要素として組み込まれているわけです。「自分独り」というシチュエーションがそもそもあり得ず、「そう思っているだけ」なのです。

社会主義を目指す立場から、社会の集団的・共同体的結束を分解・瓦解させるブルジョア「個人」主義、そしてその起点としての啓蒙主義・合理主義を乗り越える必要を提起したいと思います。「私の努力」の実態は「主客の相互作用の賜物」という正しい世界観を身に着け、「私」過剰の啓蒙主義・合理主義を乗り越える必要があるのです。

■リベラリズムを克服し自由主義をアップデートしよう、自由主義と社会主義との接点を探ろう
「個々の人間存在における主観的思考・願望や行動を過剰に重視する啓蒙主義」を正すことは、自由主義を、人間の存在・人間の生命を個人的な側面からのみ捉える個人主義から切り離し、人間を個人でありながら集団をなして生活する存在としてシステム的世界観及び集団主義的社会歴史観から基礎づけなおすことをも意味します。

つまり、この取り組みは、社会の分断を糺す取り組みであると同時に、自由主義を個人主義的なものから集団主義的なものにアップデートする、20世紀以前の自由主義を21世紀水準にアップデートすることをも意味するのです。

なお、チュチェ思想に基づく社会主義においては、社会主義の本質は集団主義にあり、社会政治的生命体の構築こそが社会主義の目標であります。自由主義を個人主義的なものから集団主義的なものにアップデートすることはすなわち、自由主義と社会主義との接点を探ることに他なりませんきわめて21世紀的な課題であるといえるでしょう
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チュチェ109(2020)年を振り返る(2):新型コロナウィルス禍によって世論が「クレーマー化」及び「駄々を捏ねるおこちゃま化」した

「チュチェ109(2020)年を振り返る」第2弾として、チュチェ109(2020)年の世界史的大事変である新型コロナウィルス禍に関連した記事(新型コロナウィルス禍を巡って炙り出された世相)のうち、緊急事態宣言の発出以降を振り返ります。

緊急事態宣言の発出までの振り返りは、第1弾の記事で行っています。

振り返り第1弾:チュチェ109(2020)年を振り返る(1):新型コロナウィルス禍によって炙り出されたブルジョア「個人」主義者の統制派への大変節とその正体

■4月:「現金給付1人10万円」の実現が示す2つの重要事実――日本における政権交代の可能性と「自己責任」論の論理的破綻
4月7日、緊急事態宣言が感染が拡大している7都府県に対して発出されました。実際のところこの宣言がどの程度の実効性があったのかについては依然として研究対象でありますが、「給付」や「補償」が政策課題として俎上に上がってきたという点において、一応、ひとつの節目にはなったといえるでしょう。

「給付」や「補償」という単語が飛び交ったのも新型コロナウィルス禍の一つの特徴であると言えるでしょう。リーマンショック伴う大不況のときに本当によく見られた「アリとキリギリス主義」はいったいどこへ行ってしまったのでしょうか?

まず4月10日づけ「「休業補償」の当否および程度の調整にあたっては、集団主義の哲学的解明が不可欠」を振り返りましょう。高級クラブ経営会社の役員を名乗る男性が、「国や東京都が一方的にクラブに行くなと言いつつ、あとは放っておく姿勢にどうしても納得いかない」といったそうです。リスク及び不確実性を一身に担うからこそ、その成果としての利益を「正統」に自らのものにできるのが資本主義。それにも関わらず、儲けているときは「自分のカネ」・損したときは「国が補償せよ」とは、道理に沿っているとは言い難い主張であります。

4月14日づけ「資産階級にも給付金を与えようとする「労働者階級の党」」では、自民党が所得制限の枠内で現金給付を模索していたのに対して、共産党が資産階級も対象になってしまう「国民全てに1人10万円以上の給付金を届けるべき」という「ねじれ現象」が発生していることを取り上げました。

かくして「10万円寄越せ」の大合唱が大々的に展開され、それを受けた連立与党公明党の強硬な申し入れに折れる形で安倍首相は「全国民一律10万円給付」に一転しました。これをうけて、世論も一転。4月20日づけ「「現金給付1人10万円」を巡って:「国民の声による政策転換」が野党ではなく与党のポイントになったこと、納税は投資ではないということ等について」でも指摘したとおり、それまで「カネを寄越せ、安倍は辞めろ」という声が氾濫していたのとは打って変わって「分かればいいんだ」とばかりに、倒閣意見が急に止みました。ヒステリックに政府批判・内閣批判を展開してきた平日日中の情報番組のコメンテーターもトーンダウンしたものでした。

○「現金給付1人10万円」の実現から見える日本における政権交代の可能性について
この「現金給付1人10万円」の実現は、日本社会を見るうえで2つの重要な事実を示しています。

第一に、「現金給付1人10万円」への急展開は、この国の政権交代の可能性について重要なことを教えてくれています

「現金給付1人10万円」への急展開は、明らかに「国民の声が政府の考えを改めさせ、正しい方向性に事態が向かい始めた」という筋書きで理解できるものであり、民衆の勝利・民主主義の成果そのものです。そしてその過程においては、連立与党公明党の強硬な申し入れが大きな契機になったとはいえ、野党勢力の尽力にも一定の意義がありました。野党勢力の世論察知能力すなわち政権担当能力が珍しく証明された一幕でした。しかしながら、国民はこの展開を野党の「政権担当能力を示すポイント」としてではなく、受け入れた政府与党の「国民の声を聴いていることを示すポイント」として計上しました

政府が一転して一律給付に舵を切るや否や、「安倍降ろし」的な言説を展開してきた世論が「分かればいいんだ」とばかりに政府批判の矛を収め、また、野党勢力ではなく安倍首相に対して強硬に政策変更を迫った連立与党の公明党が株を上げているのを見ると、「この国で政権交代が起こる条件とは、いったい何なのだろう」と思わずには居られません。

今般の展開を見るに、日本における政権交代は、自民党・公明党の立場ではどう頑張っても実現させられない要求が湧き上がるとき、実現させようとすれば自民党・公明党の存在意義が揺らぐような社会総体の徹底的変革を求める声が国民から湧き上がる「革命情勢」でもない限りは起こり得ないとも考えられるのです。

○「現金給付1人10万円」の実現から見える「自己責任」論の論理的破綻
第二に、国から10万円受け取ったことによって、古くからの「自己責任」論が論理的に破綻し崩壊しました。

おおむね100年に1回の経済危機だったリーマンショック時に蔓延った「アリとキリギリス主義」が、同じくおおむね100年に1回程度の頻度で発生する今回の新型コロナウィルス禍ではそれほど見られませんでした

リーマンショックのとき、特に年越し派遣村について、世論は困窮者たちに対して「不況に備えて正社員になったり貯金したりしなかった、努力しなかった自己責任」として突き放そうとしました。その理屈でいけば、今回の新型コロナウィルス禍は当然、「エッセンシャルワーカーになったり貯金したりしなかった、努力しなかった自己責任」とすべきでしょう。自転車操業と言う他ないローンが案の定、早々に破綻したことを以って「国はローン払いの補償をしてほしい!」という声まで出てきた始末です。しかし、そんな過去はお構いなしに「10万円寄越せ、いますぐ寄越せ」の大合唱が展開され、実際に10万円を手にするに至った日本国民でした。

まったく理屈として筋が通っていないと言わざるを得ません。苦し紛れに世論は、納税と投資を同一視する新手の理屈を持ち出して合理化しようと試みています。曰く「納税しているのだから、給付対象になって当然」とのこと。

しかし、その理屈が成り立つのであれば、12月30日づけ「コロナ禍でまたしても台頭する「自己責任」論はリーマンショック・年越し派遣村の頃よりも劣化していた」でも述べたとおり、リーマンショックのときだって今回の新型コロナウィルス禍においてだって、困窮者たちは困窮する直前まではしっかり納税していたケースがほとんどであるはずです。

かつて年越し派遣村に身を寄せていた派遣労働者たちは、切られる直前まで労働に従事し、給与天引きという形で納税義務を果たしていたはず。納税できる時期には納税義務を果たしていた人たちが、いざ担税能力を喪失したときに逆に国家から支援を受けることは「納税しているのだから、給付対象になって当然」理論そのものであるはずでしょう。そんな彼らを「自己責任」としておいて、いざ自分については「納税しているのだから、給付対象になって当然」とは、まったく理屈として成立していません。破綻しています。

なお、消費税だって納税です。消費税を含めれば、いまだかつて納税したことがない成人はこの日本には一人もいないでしょう。もしここでなおも「消費税しか払っていないやつらよりも多く納税した自分にこそ資格がある」などと悪あがきを展開し、ついに「納税額の多寡」に足を踏み込んでしまうようであれば、以前からの繰り替えにしなりますが、いわゆる高所得者のほうが納税貢献度が高いので、それこそ「貧乏人は道路の端を歩け」とか「貧乏人は消防車・救急車を呼ぶな」といった話になってしまうでしょう。それは何よりもご自身の立場を悪くするものであります。

「自己責任」論の旗振り役だった辛坊治郎氏の遭難騒動を見れば、「自己責任」論なんて所詮はその程度のものだろうとは思ってはいましたが、著しく首尾一貫しない主張です。

どうあがいても古くからの「自己責任」論は、10万円を受け取ってしまった時点で破綻・崩壊しているのです。「自己責任」論は、かくして「自己責任」論者の手によって破綻・崩壊したのです。これはエポックメイキングな出来事であると言えるでしょう。

■4月〜:一億総禁欲・一億総耐乏の自粛旋風
これは今日にも続く新型コロナウィルス禍の最大の悪弊です。「みんなで団結して乗り越えよう」ならよかったものの、単に「あいつだけ得するのは許せない」に過ぎないシロモノです。

早くも3月末、記事にはしませんでしたが、日本俳優連合の理事長を務める西田敏行氏が、俳優の窮状を訴える要望書を国に提出したところ、「大変なの俳優だけじゃない」だの「西田さんがお金の支援したらいいじゃない」といった話にもならないアホな主張が噴出しました(「俳優の窮状「直訴」したら…西田敏行、思わぬ“炎上” 一般の個人事業主たちから反発」 3月26日づけ『夕刊フジ』)。「大変なの俳優だけじゃない」なら、西田氏の訴えに合流して国民一丸が一致団結して政府に要求すればよいではありませんか。「西田さんがお金の支援したらいいじゃない」などという意見については、マクロ的な災禍を、いくら稼いでいるとはいえたかだか一個人のミクロ的な努力で乗り越えようする点において、まさに主観観念論と言う他ない荒唐無稽な主張です。

4月27日づけ「一億総禁欲・一億総耐乏の自粛旋風は、BCP及びBCRP的発想の欠如、分析的・戦略的思考の欠如」では、コメダ珈琲を訪れた高須クリニックの高須克弥院長に対して、平たく言えば「みんな我慢しているのに、お前だけコメダ珈琲に行きやがって!」と言っているに過ぎない言説について取り上げました。「みんなが一斉にやったら困ることは、自分ひとりでもやるべきでないでしょう」とのことです。まさしく一億総禁欲・一億総耐乏の自粛旋風であります。

「みんなが一斉にやったら困ること」であれば、「順番」にやればよいだけではないでしょうか? なぜそこで一億総禁欲・一億総耐乏になるのか。まったく理解不能であります。しかし、今日にも続く新型コロナウィルス禍の最大の悪弊としての自粛旋風は、突き詰めればその程度に過ぎないものであります。

「みんなが一斉にやったら困ること」について対策を考えることは大切なことですが、早い者勝ち又は予約割当制の導入等、人数を絞って順番に消費生活を楽しめばよいだけ。にも関わらず、「公平」性を履き違えたのか「順番に」という発想に至らず、なぜか「楽しむこと自体が悪いこと」に摩り替り、そこにムラ社会メンタリティも合わさって「抜け駆け憎し」になった結果、「みんな公平に不幸せ」になろうとしているのが、今回の一億総禁欲・一億総耐乏の自粛旋風のバカバカしい特徴です。

その後も、たとえばGoToトラベル事業の是非について論じた8月3日づけ「だからといって観光業界を助けてはならない理由にはならない:嫉妬まみれのみっともない貧乏性と笑ってしまうらいの不見識」でも触れたとおり、「他人の得は許せない」という、見ている側が恥ずかしくなるような日本的メンタリティが折に触れて噴出したものでした。

日本人にはBCP及びBCRP(事業継続計画及び事業継続・復旧計画)の発想が足りないと私は以前から指摘してきました。異なる状況下においても平生どおりの活動を可能な限り継続させるという発想が足りないのです。非常事態だからといって「いつもどおりの生活」という達成目標までも放棄する必要はありません。

BCP及びBCRP的発想の欠如は、つまるところ、分析的・戦略的に物事を考えていないために、目標達成のための「方法」を変更すれば事足りるのに「目標」自体を放棄しようとしてしまうからでしょう。何も考えていないから「我慢」という誰でも思いつくような安直な結論に至るのです。

新型コロナウィルス禍に起因する一億総禁欲・一億総耐乏の自粛旋風は、相当程度において、単に「何も考えていない」だけであると思われます。何も考えていないから「我慢」という誰でも思いつくような安直な結論、工夫すればいいだけなのに「いつもどおりの生活」という達成目標の放棄に至るのでしょう。

■4月〜5月:自粛警察・道徳自警団による非国民狩り・文化大革命騒ぎ
緊急事態宣言は一種の「錦の御旗」でありました。統制派への大変節を遂げたブルジョア「個人」主義者たちは、虎の威を借る何とやらというべき自粛警察・道徳自警団という形で非国民狩り・文化大革命騒ぎを起こすに至りました。そして、一部政治家が自らの求心力を高めるために、この非国民狩り・文化大革命騒ぎを利用する挙に出ました。

このことについては、4月29日づけ「憎悪と分断をもたらす「維新」の文化大革命路線・非国民狩り路線は、人民大衆の「命」を守れない」及び4月30日づけ「どんなに経済発展し都市化を達成しても、人心の根底は「ムラ社会」:憎悪と分断をもたらす大阪「維新」の文革路線・非国民狩り路線が「勝利宣言」」で集中的に取り上げました。

もともと「大阪維新の会」は、敵を仕立て上げてそれへの闘争を仕掛ける形でしか自己の存在意義を打ち立てられない徒党であります。そんな「維新」出の吉村洋文・大阪府知事は、休業要請応じない施設名公表することで熱心な「維新」シンパを扇動し、抗議の飽和攻撃を仕掛けさせることで、自らは直接的には手を下さずに政策目標を達成しようとしました。まさに「維新」の非国民狩り路線・文化大革命路線の典型的手口です。

非国民狩り路線・文化大革命路線は、想像以上に社会に深い爪痕を残す
ものです。大義名分を掲げて異論を力づくで沈黙させて表面的には結束を固めたとしても、人心には憎悪、社会には深い溝と分断が残り、それは以後の積極的な団結を弱めることになります。かつてキム・イルソン同志は、中国の文化大革命を念頭に朝鮮式の階級闘争について次のように教示されました。
社会主義革命を行うときの階級闘争は、ブルジョアジーを階級として一掃するための闘争であり、社会主義社会での階級闘争は、統一団結を目的とする闘争であって、それは決して社会の構成員を互いに反目し、憎みあうようにするための階級闘争ではありません。社会主義社会でも階級闘争を行うが、統一と団結を目的とし、協力の方法で階級闘争を行うのであります。
『資本主義から社会主義への過渡期とプロレタリアート独裁の問題について』1967年5月25日

文化大革命は多数派による暴力に他なりませんが、諸外国と比べて「礼儀他しく秩序だっている」といわれる日本社会の正体は、「自分本位」の統制要求によって抑えつけられた社会に過ぎないとも言えそうです。

■5月:自粛警察研究
「維新」の扇動の影響もあって、4月以降暴れ回っていた自粛警察の行き過ぎについて5月以降、注目が集まるようになりました。自粛警察の動機には単なるフラストレーションの解消に過ぎないケースもあり得るでしょうが、すべてをそれに帰することは誤りでしょう。しかし、5月9日づけ「自粛警察は、単なるフラストレーションの解消なのか?:自粛警察の弊害を乗り越えるために問題の所在を正しく設定しよう」でも取り上げたとおり、自粛警察を単なるフラストレーションの解消として位置付ける言説が飛び出してきました。

「心に余裕がないから、他人を攻撃する。心に余裕があれば、他人を攻撃することはない」――心に余裕がないから八つ当たり的に他人を攻撃するという理解は、科学的に正しく理解も可能な見立てです。しかし、「心に余裕があるからこそ、他人の行動に目をやって、それについて自分なりの善悪判断ができる」とも考えられないでしょうか?

当該記事で私は、心に余裕があって自分が絶対的に正しいと確信している人が心に余裕があるからこそ、他人の行動に目を向ける余裕があり、そして「正義は何をしても許される」と思い込んでいる(歪んだ正義感)からこそ、手加減せず徹底的に「敵」を叩き潰すゆえに、炎上騒ぎが起こると考えているとしました。

こうした私の主張と軌を一にする記事は6月に入って配信されました。6月16日づけ「「正義の暴走」への注目、すなわち「ポジティブな感情に基づく行動がネガティブな結果を生んでいる」ということにスポットライトが浴びるようになった」では、道徳自警団的現象の背景について「正義の暴走と嫉妬の発散」という2つの動機から説明する記事を取り上げました。永く嫉妬の発散としてしか位置付けられなかった自粛警察的現象について、両論併記的ではあるものの、正義の暴走としても位置付けられるようになったのです。

正義感の暴走は、歴史的事実に照らしても重要なことです。特に我々社会主義者としては、社会正義を実現しようとするあまり暴走してはならないということを肝に銘じる必要があります。

緊急事態宣言の状況下でも開店している店舗等に対して「営業を自粛するべきではないか」という意見を持ちかけること自体は、そこまで非難されるような話ではないように思います。自粛警察が問題になっているのは、結局のところ、「やり方」でありましょう。非難すべきは、文化大革命を彷彿とさせる吊るしあげや戦時中の非国民狩りのような「方法」および追及の「程度」こそが真に非難されるべきものであります。社会共通の課題を達成すべきときに「他人は他人だから、私の知ったことではない」という心構えが増殖するのは、逆に大問題です。

「なぜ、動機においてはそこまで非難されるようなことではない自粛警察官たちが問題視せざるを得ないような結末を引き起こすのか」という問いを設定し、彼らの動機、それに基づく行動、そしてその結末をそれぞれ分析・評価する必要があります。ここにおいて「自己の不安やフラストレーションを解消するための手段として他者への攻撃がなされている」といった具合に、自粛警察官たちの動機を扱き下ろすような見方をすることは、事実を明らかにするうえで障害となることでしょう。

人の役に立ちたい」や「みんなに貢献したい」といった感情自体は、とてもポジティブな感情です。「ポジティブな感情に基づく行動がネガティブな結果を生んでいる」ということにスポットライトが浴びるようになったことは、自粛警察の正体を明らかにする上で大切な観点になります。また、それに留まらず、「善意が善なる結果をもたらすわけではない」という古くから言われてきた格言の正しさを再確認し得る点において、社会の理解・社会観の発展においても大きな前進であると言えるでしょう。

自粛警察官たちへの処方箋は「自分にとっての正義だけが正義ではない」こと、「問題のある行動をとっている他人にも、それなりの事情・理由があってやっている可能性がある」ことを深く理解することでしょう。このことを理解すれば、追及するにしても、その方法と程度に常識性が担保されるでしょう。そしてそれを実現させるためには、一呼吸置いて気持ちを落ち着かせてから「落ち着いた対話」を展開する必要があるでしょう。落ち着いた対話をする中でのみ、どちらに非があるのかケース・バイ・ケースで見えてくることでしょう。

■5月:進む人心の荒廃
5月にもなってくるとだんだんと、みんな疲れてきます。このころになると「おうち時間」や「リモートワーク」に起因する、いままでにない新手のストレスにまつわる問題が顕在化してきました。長期化しつつあり、終息の見えない新型コロナウィルス禍により人心の荒廃が更に進むようになりました。

そんな中、5月1日づけ「ごみ袋に感謝のメッセージをしたため、社会共同体の懐の中で社会政治的生命を輝かせよう」では、「そんなことに目くじら立てるなよ」と言わざるを得ない事象を取り上げました。小泉環境大臣が、新型コロナウィルス禍においても収集業務を継続してくれる人たちに対して、激励と感謝の気持ちを伝えるメッセージや絵をゴミ袋に描くことを提案したことについて突っかかる、つまらない人たちについて取り上げました。

「人間が働く」ということは、第一義的には生活のため・生存のためですが、決してそれだけではありません。社会への参加という側面もあります。貨幣価値では測定できない「やり甲斐・生き甲斐」を併せて持ち、社会共同体の懐の中で社会政治的生命を輝かせることもまた、「人間が働く」ということであります。

無理もないとはいえ、「感謝のメッセージを送ろう」くらいで反発が湧いてくるとは、人心がかなり荒んでいることが推察できるところです。また、「人間が働く」ということが如何いうことであるのかについて、深く探究されていないことが推察される反応でした。人間の類としての、社会的存在としての本質的な集団性・連帯性が新型コロナウィルス禍により寸断され、人々の心理的孤立が進んでしまったわけです。

■5月:経済活動が人間存在の維持の基本的手段であるという当たり前の事実が再確認される
5月中旬には、新規感染者数はゼロとは行かないまでも増加ペースが鈍るようになりました。それに伴い全国39県への緊急事態宣言が解除されるに至り、社会経済活動が再び動き始めました。

ここにおいて問題になったのは、「命か経済か」という誤った議論でした。4月の7都府県に対する緊急事態宣言の先行布告の頃には「経済なんかより命」の大合唱でしたが、5月15日づけ「働くということはすなわち、生きることそのもの:「命を守るステイホームか経済活動か」の二者択一ではない」で論じたとおり、経済活動を「金儲け」くらいにしか位置付けておらず、それが人間存在の維持の基本的手段であると理解していない人が一定数いたものの、自粛の1か月間で風向きは明らかに変わったわけです。

事実から出発する立場及びチュチェ哲学的に考えると、そもそも働くということはすなわち、生きることそのものです。「命を守るステイホームか経済活動か」の二者択一ではありません。今振り返ると、この風向きの変化は、良くも悪くも今(12月末)にも続いています。今、医師会が「医療崩壊の瀬戸際」などと大騒ぎし、再びの緊急事態宣言発出が取り沙汰されていますが、4月頃に見られた大合唱は一切見られないし、仮に発出したところでもはや経済活動があれほとまでに縮小するとは思えない状況にあります。

いささか緩みすぎにも思われるところですが、経済活動が人間存在の維持の基本的手段であるという当たり前の事実が人々に定着したものと思われます。

■5月:少し落ち着くと「そもそもただのアホ」が浮かび上がってくる
すこし落ち着いてくると、恐怖のあまり錯乱した言説が減ってくるために、「そもそもただのアホ」が浮かび上がってきます。5月18日づけ「1億3000万人を対象とした国の仕事と、芸能人のマネジメントが同じ難易度なわけがないw:教養としての物理学のススメ」では、ひとりの芸能人のマネジメントと1億3000万人を対象とした国の仕事とを同じ土俵・同じ感覚で論じるアホ発言の最たるものを取り上げました。

さすがバカバカし過ぎる話ですが、第1弾記事でも取り上げたとおり、一個人・一部署・一企業といったミクロレベルのマネジメントと一国家すなわちマクロレベルのマネジメントとの質的差異を無視した言説は3月から見られていました。

こうした手合いに対して私は、「自分の「等身大」の感覚で天下国家を語る手合いは、教養として物理学を学んだ方がよい」と述べました。詳しくは振り返り第3弾のリベラリズム批判で論じる予定ですが、こうした自分の「等身大」の感覚で天下国家を語る手合いこそがまさしく主観観念論者としてのリベラリストに他なりません。この新型コロナウィルス禍でバカをさらした手合いは、発想の面において主観観念論者としてのリベラリストと相当通ずるところがあるわけです。

■5月下旬〜:世論が本格的にクレーマー化する
未知の感染症であるからこそ、政府や各自治体の施策は一見して「迷走」しているように見えます。それが積もり積もってくると突っ込みどころもまた増えて来、人様にケチをつけようと虎視眈々とチャンスを狙っている手合いが水を得た魚のように活発になるものです。

新型コロナウィルス禍では、第1弾の記事で述べたように4月中旬の時点で既に世論はクレーマー化しつつありましたが、だいたい5月下旬ごろまでには「迷走」が積もり積って来、クレーマーの季節になってしまいました。そのことについては、5月31日づけ「ここまでくると立派なクレーマー:クレーマーの大声が目立つ新型コロナウィルス禍の世相」で触れました。

いまやまったく言及されなくなった「9月入学」問題。はっきり言って最初から実現可能性ゼロの夢物語でしたが、一部の人々は声高に導入を主張していたものです。これに対して安倍首相(当時)は、「門前払いにはしないので、みなさん意見を出してください」くらいのスタンスで「前広」と述べていましたが、結局、当たり前のことですが、俄かに導入できるような話ではないので不採用となりました。これに対して一部のクレーマーたちは、政府、与党、そして安倍首相はそこまで前のめりではなかったのにも関わらず、「焦って進めた「9月入学」でまた墓穴」などと書き立てました。

これ以降今に至るまで、事あるごとにありとあらゆる手を使って常に政府批判を展開しようとするクレーマー気質の手合いが喚き散らしています。ごく最近では、12月19日づけ「そこに主権者としての矜持はない「Go Toやめろ」→「本当にGo Toをやめるとこんなに困ったことになる!」というマスコミの報道姿勢について」でも取り上げたとおり、初めから両論併記的に論じていればいいものを、GoToトラベル事業の一部停止を声高に主張してきた手合いこそが、いざ一時停止されるや否や「GoToトラベル事業が停止されるとこんなに困ったことになる!」と掌を反すように主張し始めています。

まさに「批判ための批判」であり、ここまでくると立派なクレーマーと言わざるを得ないシロモノであります。新型コロナウィルス禍において社会に潜むクレーマーが自ら名乗りを上げるようになったわけです。予想以上に日本社会にはクレーマー気質の手合いが潜んでいることが判明しました。主権者として相応しくないと言わざるを得ません

■6月〜7月:アノミーの萌芽にもなりかねない妙な「公平感」談義
いわゆる「新しい日常」の名のもとに社会経済活動が再開されるようになると、いままで職場に一堂に会していた同僚たちも、職種や担当によってある人はリモートワーク、別の人はやむを得ず出勤勤務という風に「違い」が生まれるようになりました。これらの「違い」は、何よりも担当職務の質的な違いに他なりませんが、そのあたりをよく踏まえていない手合いが安直にも「不公平」を主張するようになってきたのが、6月〜7月でした。

7月8日づけ「新型コロナウィルス禍と集団主義の哲学的解明問題:キム・イルソン同志逝去26周年追悼」でも触れましたが、新型コロナウィルス禍の経験以降、日本社会は以前とは異なり、少しずつではありますが、「不公平」を公然と口にするようになってきました。そしてそれと関連して、補償や保証、保障を自分から公然と要求する声も出てくるようになって来ました。いままではいずれも、「出る杭を叩く」文化であり、それゆえに「空気」を読む日本社会ゆえに、自分から口にすることは憚られる内容でしたが、様相は大きく変わりました。

しかし、いままで口にすることさえ憚られてきた事柄であるだけに社会的な議論の蓄積が乏しく、「それは不公平なの?」や「どういう根拠でそこまでの補償等を求めるの?」と疑問に思わざるを得ないような言説も見られるところです。「みんなはリモートなのに、自分だけ・・・」くらいの理由でしかない不公平感であったり、あるいは、事業継続に必要な最低額や従業員の生活維持に必要な最低額を超える「売上の完全な補償」を要求する言説などです。

これらは下手をするとデュルケーム的意味でのアノミーの萌芽にもなりかねないものです。個人と集団の関係を定立させる必要、言い換えれば集団主義の哲学的解明が喫緊の課題になってきたと言えそうです。

■7月中旬〜:GoToキャンペーンと「ゼロリスク真理教」
7月中旬以降は、なんといっても話題の中心はあの「GoToキャンペーン」に移り今日に至っています。ありとあらゆる「日本的な反応」がここに濃縮されています。

7月16日づけ「Go Toキャンペーン反対論に見られる「日本的な風景」:リスク評価概念の欠如、二択主義、目標達成のための方法改善型・問題解決型思考の欠如」では、「ゼロリスク真理教」について取り上げました。

「GoToキャンペーン」推進派は必ず「感染防止対策の徹底」をセットにして主張しているにも関わらず、感染防止対策の具体的問題点を指摘するわけでもなく、ただ漠然と「主に東京都で感染が再拡大している」という理由だけで「一億総引きこもり」を提唱していたのが「ゼロリスク真理教」です。

リスクが完全にゼロになることはありません。ある程度は残ってしまうリスクをどう引きうけるかが問題なのです。漠然とした可能性でいけば、「エボラ出血熱の東京大流行」や「宇宙人の地球侵略」もあり得るはずです。

「ゼロリスク真理教」の特徴は当該記事でも書いたとおり、「一律でやるかやらないか」の二択でしか考えられない点であり、また、「その『方法』ではできない理由・やるべきでない理由」ばかりを並べ立て、「ではどうすれば、『目標』を実現できるようになるのか」という方法改善型・問題解決型の思考が見られない点でした。

目的意識の希薄さは、新型コロナウィルス禍以前からの「日本的な反応」の典型的な特徴であると言えるでしょう。これもまた、BCP及びBCRP的発想の欠如、分析的・戦略的思考の欠如ゆえと言えるかもしれません

■7月中旬〜:駄々を捏ねるおこちゃまの出現
7月17日づけ「Go Toキャンペーン反対論に見られる「日本的な風景」(2):批判のための批判、政策マインドの欠如」で触れましたが、世論等の強い反発をうけて政府は一部自治体についてキャンペーンから一時除外することを決定しました。世論の勝利です。しかし、中止したにも関わらず文句を言う手合いが出現しました。

既に開始されている制度がコロコロと変更されているのであれば「混乱」と言えるでしょうが、まだ開始前の検討段階での変更であれば、そうした誹りは失当でしょう。社会的・国民的な闊達な議論の展開を「混乱」と言ってのけるあの手の言説は、これこそ「批判のための批判」というべきものです。国民主権の国家において「批判のための批判」は相応しくありません。4月以降徐々に深刻化しつつあったクレーマー的な世相のさらなる深刻化を反映していると言える反応でした。

ところで、感染拡大当初、「梅雨になり湿度が上がり、夏になり暑くなればコロナは流行らなくなる」といった希望的観測が割と広く信じられていました。しかし、その希望は7月にはどうやらガセだったと多くの人が気づきました。その可能性に期待を寄せていた人は多かったのでしょうか、7月以降、以前にもまして錯乱状態で喚き散らす言説が出てくるようになりました。

7月26日づけ「コロナパニックと「駄々を捏ねているお子ちゃま」」では、一向に新型コロナウィルスの猛威が沈静化しない(いま振り返れば減少傾向だったんだけどね)現実に対して、「あまりに対応が遅すぎる」「日本の政府は何もしていない」とするコメントを取り上げて批判しました。

「政府の対応が遅い」というのであれば、「これ以上スピードアップできる可能性は、現実問題としてあり得るのか?」ということを問わねばならないでしょう。しかし結局今日にいたるまで、具体的にどこをどうすれば更にスピードアップし得る現実的可能性があるのかについて、説得力のある提案はただの一つも出てきていません

実現可能性のないことを騒ぎ立ててている点において「駄々を捏ねているお子ちゃま」というべきでしょう。「消費者意識」が妙な方向に肥大化して「丸投げ」が当然視され、また、「お客様」であればどんな要求でも許されるとでも言わんばかりの昨今の世相に加え、「この程度の仕事には、だいたいxx日程度かかるだろう」といった常識的な「相場観」というものが失われている世相を反映しているコメントでした。

8月4日づけ「敗戦75年目のコロナ禍;懲りない精神主義、「科学的な現状分析」と「叱咤激励」との混同」では、ワクチン及び治療法の開発に藁にも縋る思いでいると思われる手合いによる、「科学的な現状分析」に対する常軌を逸した罵声について取り上げました新型コロナウィルスに効く「魔法」のような治癒手段はなく、もしかすると存在しえないのかもしれないと述べたテドロス事務局長に対して「WHOのトップが冷や水を浴びせるな」などという罵声がでてきたのです。

WHOはそもそも治療法の研究機関ではありません。そしてまた、「科学的な現状分析」と「叱咤激励」はまったく別次元のものです。好意的に解釈すれば「言霊信仰」、意地悪に解釈すれば「現実逃避」的な動機に基づく言い分かと思いますが、こうした混同が先の対米大戦において、事実に即した戦況分析を妨げて精神主義的な徹底抗戦論を主導した核心的発想であったことを、敗戦75年目に今一度自覚すべきでしょう。

■12月〜:「お上」は「下々」を操れるとでも考えているのだろうか
新型コロナウィルス禍振り返りのラストとして、政府が国民を操ることができるなどと思い込んでいる言説について批判的に振り返りたいと思います。

コロナ防疫戦争の長期化によって国民意識は明らかに「飽きて」きています。徐々に国民の防疫意識は低下してきており、このことは医師会をはじめとする医療関係者や、危機意識の高い一部国民から深刻に捉えられているところです。

12月11日づけ「国民はそんなに言うことを聞かない、国民はそんなに操れない」では、GoToキャンペーンを一時停止したくらいで感染拡大防止に有意な水準で人々の移動が抑制できると考え医療関係団体の発想について、「お上」は「下々」を操れるとでも考えているのだろうか、と述べました。

診療の場面で「治療方針」という医者の「呼びかけ」に対して患者が自発的に従うのは、既に疾病により苦痛を感じており、それを和らげたいからです。そのため、たとえば、ほぼ症状が治まった患者は医者が「薬は最後まで飲み切るように」と指導しているにも関わらす飲み残すことがよくあります。健康診断で医者の勧めを聞かない患者も多いものです。医者や政府が幾ら「呼びかけ」を展開したところで、健康診断で医者の勧めを聞かない患者に対するように、あまり響かないと思われるのです。

このご時世に旅行に行こうとする人は元々アウトドア派でしょうから、遠くに行けなければ近場に外出するだけでしょう。国境封鎖・都市封鎖を提唱して強制的に人の往来を停止させるべきだというのならば、まだしも、キャンペーンでしかないGoToキャンペーンを一時停止したところで人の往来が減るとは思えず、むしろ都市部を中心に「近場で楽しむ」が増え、問題の感染拡大防止・医療資源逼迫阻止には、さしたる効果があるようには思われないと書きました。

■総括
緊急事態宣言の発出により「給付」や「補償」が政策課題として俎上に上がってくるようになりました。「現金給付1人10万円」の実現は、日本社会を見るうえで2つの重要な事実を示しています

第一に、「現金給付1人10万円」への急展開は、この国の政権交代の可能性について重要なことを教えてくれています。与党の立場ではどう頑張っても実現させられない要求が湧き上がるとき、実現させようとすれば与党の政党としての存在意義・基盤が揺らぐような社会総体の徹底的変革を求める声が国民から湧き上がる「革命情勢」でもない限りは起こり得ないと思われます。

第二に、国から10万円受け取ったことによって、古くからの「自己責任」論が論理的に破綻し崩壊しました。苦し紛れに世論は、「納税しているのだから、給付対象になって当然」などという新手の理屈を持ち出して合理化しようと試みていますが、論じたとおり、まったく理屈として成立していません。「自己責任」論は、かくして「自己責任」論者の手によって崩壊したのです。これはエポックメイキングな出来事であると言えるでしょう。

コロナ禍の長期化により人心の荒廃が進み、さまざまな現象がみられるようになりました。

第一に、緊急事態宣言を一種の「錦の御旗」とした自粛警察・道徳自警団による非国民狩り・文化大革命騒ぎが4月以降全国的に騒動を引き起こしました。

非国民狩り路線・文化大革命路線は、想像以上に社会に深い爪痕を残すものです。大義名分を掲げて異論を力づくで沈黙させて表面的には結束を固めたとしても、人心には憎悪、社会には深い溝と分断が残り、それは以後の積極的な団結を弱めることになります。

そんな自粛警察・道徳自警団については、5月以降探究が深められました。その結果、今までこうした手合いについては、単に「フラストレーションの解消」として位置付ける言説が主流でしたが、「正義の暴走と嫉妬の発散」という2つの動機から説明されるに至りました。画期的なことです。「正義感の暴走」という見方は、歴史的事実に照らしても重要なことです。特に我々社会主義者としては、社会正義を実現しようとするあまり暴走してはならないということを肝に銘じる必要があります。

もちろん、振り返り第1弾記事でも論じたように、今回の自粛警察・道徳自警団の出自は、「統制派への大変節を遂げたブルジョア『個人』主義者たち」すなわち、社会正義・社会秩序の名を騙り自分たちの私的利益を実現させようとしているに過ぎません。非国民狩り路線・文化大革命路線で沈黙させることで少数派の意見や必要を無視・抑圧している点において、連中の掲げている社会正義・社会秩序は、真のそれではありません。しかしながら、連中にはそうした自覚はなく、それが真の社会正義・社会秩序だと思い込んでいます。その意味で、ブルジョア「個人」主義者あがりの自粛警察・道徳自警団連中についても「正義感の暴走」だと言えるのです。

自粛警察・道徳自警団の所業は、「多数派による暴力」に他なりません。今春は、多数派の暴力の嵐が荒び表面的に「一億総自粛」が一時的ではあるものの実現したわけですが、このことはすなわち、諸外国と比べて「礼儀他しく秩序だっている」といわれる日本社会の正体は、多数派の「自分本位」な統制要求によって抑えつけられた社会に過ぎないとも言えそうです。

第二に、新型コロナウィルス禍においてもゴミ収集業務を継続してくれる人たちに対して激励と感謝の気持ちを伝えるメッセージや絵をゴミ袋に描くことが提案されたことについて突っかかる、つまらない人たちの出現に端的に表れているように、人間の類としての、社会的存在としての本質的な集団性・連帯性が新型コロナウィルス禍により寸断され、人々の心理的孤立が進んでしまいました

こんなことは、わざわざ目くじらを立てるような話ではありません。「たいへんな中、ありがとうございます」「いえいえ、どういたしまして」というやりとりは、もっとも基本的な人間的なコミュニケーションです。それに対して色をなして批判するなど、まったく異常というほかない反応です。それだけ新型コロナウィルス禍が人心を著しく荒廃させているということなのでしょう。

第三に、一億総禁欲・一億総耐乏の自粛旋風が4月以降、広範に広まりました。このことについて私は、異なる状況下においても平生どおりの活動を可能な限り継続させるというBCP及びBCRP(事業継続計画及び事業継続・復旧計画)の発想が足りないことによると主張しました。平たく言うと、何も考えていないから「我慢」という誰でも思いつくような安直な結論に至るわけです。

人心の荒廃に伴って世論の「クレーマー化」が進み、ついには「駄々を捏ねるおこちゃま化」するようになりました。

「政府の対応が遅い」というのであれば、「これ以上スピードアップできる可能性は、現実問題としてあり得るのか?」ということを問わねばならないでしょう。しかし結局今日にいたるまで、具体的にどこをどうすれば更にスピードアップし得る現実的可能性があるのかについて、説得力のある提案はただの一つも出てきていません。実現可能性がない願望を喚き散らす点において、「ホンモノのおこちゃま」と言わざるを得ません

仮にでてきたとしても、せいぜい台湾やニュージーランドといった人口小国の実例を引き合いに出すくらいのものです。しかし、先ほども振り返ったとおり、5月18日づけ「1億3000万人を対象とした国の仕事と、芸能人のマネジメントが同じ難易度なわけがないw:教養としての物理学のススメ」でも書きましたが、物理的世界においては、観察対象のスケール・階層によって適用すべき物理法則が異なってくるので、異なるスケール・階層の物理学研究及び人為的改造のためには異なるアプローチが必要になります。

もっと平易に言えば、中小企業のマネジメント方法と大企業のマネジメント方法は、従業員数の著しい違いのため、異なる方法で取り組まなければならないのと同様に、人口小国の統治と人口大国の統治もまた異なる方法で取り組まなければならないのです。こうした量的及び質的な差異を混同・無視した比較からは何の科学的な見地も出てきません

こうした非科学的な見解が大手を振って出てきた事実は、まず何よりも科学的世界観が日本世論において欠如していることを示していますが、同時に、興味深くも頭が痛いことに、当の本人はこれが科学的だと信じて疑っていません。こうした、よく言えば「等身大の感覚」、悪く言えば「素人考え」を信じて疑わず、非科学的な比較をあたかも科学的だと致命的にも思いあがっている風潮は、昨年10月12日づけ「「地球平面説」支持者が増えている事実が示すこと」でも論じたとおり、「近代理性主義の副作用」と言えるでしょう。

つまり、世論の「クレーマー化」及び「駄々を捏ねるおこちゃま化」は、実現可能性がない願望を喚き散らす「ホンモノのおこちゃま」であるケースと、異なるスケール・階層の違いを混同した非科学的な比較を科学的だと信じて疑わない「近代理性主義者」のケースがあるというわけです。

量的及び質的な差異を混同・無視した比較、つまり、よく言えば「等身大の感覚」、悪く言えば「素人考え」で天下国家を論ずる風潮は、この新型コロナウィルス禍で本当によく見られましたが、こうした風潮は、ミクロレベルの感覚でマクロレベルのマネジメントを主張した風潮として位置づけなおすことが可能です。

このことについて私たちは、歴史の経験として「20世紀社会主義の失敗した計画経済」を思い起こす必要があります。これと同様の過ちが繰り返されようとしていることが、この新型コロナウィルス禍で明らかになったのです。計画当局者は当時、計画経済こそが科学的な経済管理だと信じて疑いませんでした。こうした姿勢について、一貫して計画経済を批判してきたF.A.ハイエクは「致命的な思い上がり」だと非難してきましたが、まさにそれと同様の思考傾向がいま再び眼前で展開されていることに我々は注視しなければならないでしょう。

世論の「クレーマー化」の矛先は、政府に対するものだけではなく、自分以外のすべてに向かいつつあるようです。

いわゆる「新しい日常」の名のもとに社会経済活動が再開されるようになると、アノミーの萌芽にもなりかねない妙な「公平感」談義までもが出てくるようになってきました。担当職務の質的な違いによってリモートワークができたりできなかったりするのは当然のことですが、その点を無視して妙な「公平感」談義を持ちこむ手合いが出てきたのです。

これは下手をするとデュルケーム的意味でのアノミーにつながりかねないものです。個人と集団の関係を定立させる必要、言い換えれば集団主義の哲学的解明が喫緊の課題になってきたと言えそうです。

そのほか、「ゼロリスク真理教」の出現やまったく別次元のものである「科学的な現状分析」と「叱咤激励」とを混同する、「神州日本」の劣勢を認めたくない、負けを認めたくない75年前の発想がよみがえったというべき反応さえも見られました。秋以降の感染再拡大局面では、「お上」は果たして「下々」を操れると言わんばかりの言説:ある種の政治万能論――強権待望論にもつながる――も再燃するようになってきています。

新型コロナウィルス禍から見えてきた世相は、20世紀から21世紀前半にかけての世界観・社会歴史観の総決算であると言えそうです。
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チュチェ109(2020)年を振り返る(1):新型コロナウィルス禍によって炙り出されたブルジョア「個人」主義者の統制派への大変節とその正体

今年も例年どおり、過去ログの読み返しを通して一年間の出来事を振り返りたいと思います。第1弾として、チュチェ109(2020)年の世界史的大事変である新型コロナウィルス禍に関連した記事(新型コロナウィルス禍を巡って炙り出された世相)のうち、緊急事態宣言の発出までを振り返ります。

■2月〜3月:「マスク不足」で始まった日本の新型コロナウィルス禍は早くも「強権待望論」と「道徳講釈」を鮮明にしていた
さて、日本の新型コロナウィルス禍はまず「マスク不足」という形で人々を直撃しました。

マスク不足を事実から出発するスタイルで振り返る必要があります。あのときのマスク不足は「世界的な急激な需要の拡大」が根本的な原因でした。新型コロナウィルスの出現によって全世界のそれまでマスクなど着けようともしなかった人たちまで我も我もとマスクを買い求めるようになれば品不足になるのは自明すぎることです。

あのとき国民の憎しみを一手に集めた「転売ヤー」は、あくまでもそうした「世界的な急激な需要の拡大」を機敏に捉えて小遣い稼ぎをしていたにすぎません。しかし、「転売ヤー許すまじ」は「行政は取り締まるべきだ」といった「強権待望論」や、あるいは「転売ヤーが跋扈する日本の国民道徳性・民度は低い」といった単なる「道徳講釈」の方向に向かってしまいました。

果たして闇市は権力的取り締まりで廃絶し得るでしょうか? また、闇市は道徳講釈で廃絶し得るでしょうか? 世論が感情のままに求める政策が実効的であるかどうかを検討する必要がありました。転売規制政策の当否・是非を「善悪」基準で測る議論が広く展開されていましたが、そうした議論は根本的に間違っていました。「転売規制政策は善か悪か」ではなく「転売規制政策は意味があるかないか」だからです。

○「北朝鮮」にも劣る稚拙なマスク転売規制
そこで私は、以下のとおり複数回にわたって検討記事を執筆しました。
・2月10日づけ「キム・イルソン主席の闇市対策に学ぼう:マスク買占め・高額転売を「道徳」や「民度」の問題とし、「権力的取り締まり」を求める言説の低レベルさについて
・3月4日づけ「「北朝鮮」にも劣る稚拙な転売規制要求を展開する日本世論の愚:真の問題である「買占めの発生」には「転売規制」ではなく「配給制の導入」で対応すべき
・3月10日づけ「経済政策の点においても防疫措置の点においても日本政府の政策センスは「北朝鮮」に劣っていると言わざるを得ない:「取得価格を超えるマスク転売」を権力的に禁止する愚かさ等について

当該記事でも言及したとおり、キム・イルソン同志におかれては、チュチェ58(1969)年3月1日づけ「社会主義経済のいくつかの理論的問題について―― 科学・教育部門の活動家の質問にたいする回答」において、闇市・闇取引の存在は好ましくないことであるとしつつも、それを活用せねばならない局面もあるとし、権力的に取り締まったとしても闇取引を根絶させることはできないともした上で、品薄な商品に対する政策を論じておられました。キム・イルソン同志は、行政が権力的に取引に介入しようとしても、買い溜めと高額闇転売は避けられず、そんな取り締まりをしたところで、商品が一部の人たちに集中する現象をある程度調整できるだけで闇取引を根本的になくすことは決してできないと言明されていたのです。

その上でキム・イルソン同志は、問題解決のためには、結局は品物を多く生産するほかにないとして、人民の需要をみたすほど大量に生産されるようになれば闇取引は自ずとなくなるだろうと指摘されました。道徳講釈を垂れても権力的取り締まっても、そんなことでは闇取引の根本的な解決には至らないというわけなのです。

マスク問題もまったく同じです。いくら「転売ヤー」を叩いたところで事態が改善するはずがないのです。需要に対して供給が限定的だからこそ市場ができるわけです(だから「空気」は、人間の生存に絶対不可欠ですが、需要に対して供給がほぼ無限大なので「市場」は存在しません)。闇市的転売に対する対抗策は、一刻も早く生産を増やす他になく、生産拡大が軌道に乗るまでの間については配給切符制度を導入するのが効果的なのです。配給切符制度によって物資が公平に分配されるようになります。

配給切符制度を導入しないままに購入制限だけ実施すると、4月1日づけ「マスクの分配は、「金持ち順」ではなく「暇人順」でもない「配給制」での対応が必要――たとえ「布マスク1家庭2枚」でも配給制導入という点で進歩」でも論じたとおり、金持ちが財力にモノを言わせて重要物資を買い占めたのに替わって今度は、暇人が暇に任せて行列を作って重要物資をせっせと買い溜めるようになるのがオチです。実際、暇そうなご老人たちが朝から薬局前で行列を作ってせっせとマスクを買い溜めしていたことは、全国津々浦々で目撃証言がありました。やはり、「金持ち順」ではなく「暇人順」でもない「配給切符制度」の導入が必要なのです。

4月19日づけ「ついに「マスク切符制」が導入される!」で取り上げたとおり、幸いにして福井県では配給切符制度が導入され、希少な資源が広範の県民にいきわたるに至りました。残念ながら全国的に大々的に広まることはありませんでしたが、福井県の決断は経済政策上、貴重な経験になったことでしょう。

配給切符制度の導入が大切です。ここにおける対策は決して転売ヤー狙い撃ちの権力的取り締まりではありません。そんなことをしても状況を劇的に改善することはできず、むしろ闇取引が更に地下に潜行して厄介になるだけです。また、決して道徳講釈ではありません。道徳を説かれたところで転売ヤーが改心するはずがありません。経済活動に倫理を求めるのであれば、3月5日づけ「それを資本主義制度において実現させようとすることが、そもそも間違っている:資本主義としても中途半端、社会主義としても中途半端な日本世論」でも論じたとおり、社会主義を目指すべきであります。

○品薄問題における転売行為は枝葉的な問題に過ぎない
そもそも転売ヤーが存在するがゆえの問題は何であるかというと、結局のところ「買占めの発生」です。買占めが起こることによって品薄になる、物資が十分に行きわたらなくなることが問題なのです。しかし、買占めの発生は転売ヤーだけが原因ではありません。「世界的な急激な需要の拡大」が根本的な原因だからです。マスク不足とほぼ同時にトイレットペーパー不足も発生しましたが、こちらは転売意図の買い占めというよりも、一般消費者のパニック的買占めが主要因だったようです。

買占めの発生が問題の本質であるならば、「買占めをいかに防止するか」こそ政策目的に据えるべきです。買占めの発生という根幹的な問題からすれば、転売は枝葉的な問題に過ぎないのです。

3月4日づけ記事でも書いたとおり、転売規制は実運用的には、官僚の思い付き的な「標準価格」の設定が関の山になるものと思われます。しかし、20世紀の社会主義計画経済の失敗は、まさに官僚が思い付き的な命令・行政処分を乱発して経済が混乱したためでした。そして、こうした混乱こそ転売ヤーが跳梁跋扈する温床になります。

また、3月10日づけ記事で書いたとおり、市場(オークションサイト・フリマサイト)は必ずしも単一ではなく、その価格もまた単一ではありません。割安な市場で仕入れ、仕入れ元を誤魔化しながら(そもそも、大量生産品の仕入れ元・購入元を厳密に追跡することは不可能的に困難です)割高な市場で売り抜けるアービトラージ(裁定取引)的な利ザヤ目的の投機は、この規制が導入されたとしても依然として存在する余地があります。また、単一市場(同じオークションサイト・フリマサイト)内部においても、その価格は常に上下に変動しています。官僚はどのようにして「違法な価格」での転売だと判断するつもりなのでしょうか? 当のマスクがいつ幾らで仕入れられたものなのか、どうやって追跡するのでしょうか?

つまり、アマチュアの転売ヤーは駆逐できるかも知れませんが、裏社会とタッグを組んでいるようなプロの転売ヤーにとっては、この規制導入は、むしろ「商機到来」といったところでしょう。厳格な転売規制によって社会経済が混乱することで、むしろ転売行為が加速するわけです。世論は、自らが提案する政策によって逆に望ましくない結果を得ようとしているわけです。

○結局「転売規制」は効果がなかった
残念ながら転売規制は世論の圧力に負けて導入されましたが、その末路はさっそく現れました。3月12日づけ「さっそく予想どおり。「闇市的なマスク転売を権力的に規制して根絶することは出来ない」という真理にいたるべき」及び3月15日づけ「やはり「転売規制政策は意味があるかないか」こそが核心だった」で取り上げたとおり、予想どおり、隠語を駆使する闇取引に移行し、あっという間に地下化しました。

そんな中、3月28日づけ「よく言えば「等身大の感覚」、悪く言えば「素人考え」でコロナウィルス対策を考える風潮について:経済政策編」では、そもそも上手く行くはずのない転売規制を更に強化することを求める言説の登場について取り上げました。一個人・一部署・一企業といったミクロレベルのマネジメントと一国家すなわちマクロレベルのマネジメントとの質的差異を無視している点において、こうした主張の核心には、ミクロレベルの感覚でマクロレベルの課題を論じている誤った見解があることを見出しました。

ミクロレベルの感覚でマクロレベルのマネジメントを主張した言説として、私たちは歴史の経験として「主観観念論としてのリベラリズム」と「20世紀社会主義の失敗した計画経済」を思い起こす必要があります。特に純粋な計画経済については既に「死んだ」と思われてきましたが、「素朴」なアイディアの中では依然として生き残っていたわけです。20世紀社会主義の轍を踏むことなく社会主義を実現させようとする立場に立つ者として、新たな課題を発見した思いです。

結局マスク不測の解消は、転売規制導入からかなり経過した後、5月〜6月ごろ(ちょうど「アベノマスク」がようやく届いたころ)になりました。予想どおり転売規制に効果はなかったわけです。

なお、マスク転売規制は現在は解除されていますが、解除直前にはまたひと悶着あったことは記憶に新しいところかと思われます。そもそも資本主義市場経済を採用している以上、具体的なで差し迫った危険がない限り、国民の財産権の自由な処分を国家権力が規制することはできません。しかし、「また不足するかもしれない」くらいの理由で転売規制を継続させようとした主張が市井から上がったものでした。

○マスク不足騒動の教訓
今回のマスク買占め騒動を見るに、日本社会は、キム・イルソン同志が1960年代には既に認識していた水準にも追いついておらず、お手軽な権力的取り締まり待望論及び初歩的な善意悪意論の水準に留まっていることが判明しました。周回遅れの時代錯誤的言説という他ありません。また、転売ヤーが存在するがゆえの問題の本質を見抜くことなく、目の前の表面的な事象に囚われがちであることも判明しました。さらに、資本主義市場経済を採用しているくせに国家権力の導入を求める一方で、統制経済とするには詰めが甘い、まさに3月5日づけ「それを資本主義制度において実現させようとすることが、そもそも間違っている:資本主義としても中途半端、社会主義としても中途半端な日本世論」のタイトルどおりの反応がでてきたものでした。

これですっかり「火が付いた」私は、これ以降、今年1年を通して「新型コロナウィルス禍を巡って炙り出された世相」というテーマを掲げて世論分析を始めるに至りました。

■2月:個人レベルで済まない問題を「自己責任」に位置付けようとする言説が飛び出した
2月も下旬になってくると国内感染者数がじわじわと増加を始め、社会的不安感が増大し始めました。ただ、まだ危機感のない人はまったく平気な顔しており、国民の間でも新型コロナウィルスに対する「温度差」がみられた時期でした。そんな中、感染拡大防止のためのイベント中止について「イベントも自己責任で見に行きたい人は行けば良い」と宣う発言を取り上げて2月25日づけ「伝染病に「自己責任」論は馴染むか?:「社会」意識の崩壊」を書きました。

事態は個人的な風邪症状の問題ではなく、公衆衛生上の深刻な伝染病(感染症)です。よって「イベントも自己責任で見に行きたい人は行けば良い」とはならないでしょう。どのような経路で伝染してゆくのかは当時はまだ不明瞭でしたが、人から人への伝染が連鎖していることは確かでした。そうなれば、「自己責任」で腹を括ったイベント参加者にだけ伝染するわけではない以上は、もはや「自己責任」の問題では済まなくなります。

個人レベルで済まない問題を「自己責任」に位置付けようとする言説が飛び出してくるという事実は、ある種の人たちの間では、いよいよ「社会とは何か」という基本的な認識・理解さえもが崩壊していることを端的に示していると言わざるを得ないでしょう。まさにアノミーと言う他ない一幕でした。

ただ、感染の拡大につれてこうした「自己責任」論は、さすがに徐々にしぼんで行き、いまやほとんど見かけることはありません。このことから、日本の「自己責任」論がどの程度の根深さなのかが見えてくるのではないでしょうか?

■2月〜3月:恐怖の支配と科学「者」不信
止まぬ感染拡大に伴い恐怖が人々を支配するようになりました。恐怖というものは、これからどうなってしまうのか分からないために生じる不安の感情です。その点、恐怖の緩和には科学的な知見に基づく見通しを立てることが有効であります。科学と科学者は人々の恐怖を和らげる重大な役割を担っているはずです。しかし、今回の新型コロナウィルス禍では、人々は科学「者」の見解をなかなか信用しようとはしませんでした

これについては、2月20日づけ「新型肺炎を巡る「不安」の正体は、科学的見地が軽視されているためではなく、科学「者」が軽視されているため」及び3月20日づけ「「なぜ岡田教授や大谷医師がテレビで重宝されるのか」を探究するようになってこそ対人活動としての科学普及活動が再興する」で論じました。いずれも筑波大学の原田隆之教授に対する突っ込みです。

原田教授は、科学者の発信が一般人に届かない理由について心理学的な分析を試みましたが、一般人の「非合理性」に関する分析に留まっていました。

専門家が科学的見地に則って正しく事態を分析し広報しているにも関わらず、一般人がそれに耳を傾けようとしないいうことは、コミュニケーションが成り立っていないということに他なりません。このことを分析するにあたっては、情報の「受け手」である一般人の心理状況等を分析することはもちろん大切なことではありますが、「コミュニケーションが成り立っていない」という点においては、それだけでは中途半端・不十分です。情報の「送り手」である専門家の側についても分析が必要があるはずです。

大学教授の分析に対してヤフコメを論拠にするのもどうかとは自分でも思いますが、当時ヤフコメでは「二転三転する専門家やWHOの発表を聞いて安心できる要素があるのなら教えて頂きたい」や「もしも家族が感染したらと思うと気が気ではない。この一言に尽きる。未知のウィルスに専門家もクソもないわけで、信用してはいけない。」といった意見があふれかえっていました(たしかにそうだった。私も錯乱はしなかったけど心配ではあった。今のところ新型コロナウィルス禍を生きのびている者として、当時の空気感を肌で知っている者として私は、こうした気持ちはよく分かる)。

つまり、科学が信用されていないというよりも、科学「者」が信用されていないというのが実態だったのです。

そしてこのことは、科学者たちの普段からの情報発信の姿勢に問題があると私は論じました。科学者の「対人活動」が不十分だと考えられるのです。特に3月20日づけ記事の方で詳しく述べましたが、一般人は、「いま自分たちは何をなすべきか」ということを端的に知りたいという欲求を持っています。しかし、いわゆる科学者は、よく言えば「理路整然」と、悪く言えば「いつまでも結論が出てこないダラダラ長い話」を展開しがちなものです。特に今年2月〜3月ごろにテレビ等でよく見かけた科学者たちは、そうした傾向が強かったものでした。

一般人が求めている情報と専門家が発信している情報に「需給のズレ」があるので、需要サイドとしての一般人が不信感を持つということです。「歯切れのよい結論」を欲している人に対して、「いつまでも結論が出てこないダラダラ長い話」をすれば、反発や不信感が募るのは自然な流れでしょう。岡田晴恵・白鷗大学教授や医師の大谷義夫氏のようなごく一部の例外的に「歯切れのよい人」が、科学者としての業績が乏しく、どことなく胡散臭いながらも重宝されたことがこのことを物語っています。もし、岡田教授や大谷医師のような人が存在しなかったとしても、だからといって話が分かりにくい正統派科学者がテレビに出てくることはないでしょう。ダラダラと話すような専門家は、いかに研究の世界で優秀であっても一般庶民にとっては「お呼びでない」ということなのです。

科学「者」への不信感とは、平たく言ってしまえば、一般人が求めていることに対して科学者が正面から応答しきれていないことに起因しているのです。

このように、科学者は、証拠を論理的に説明すればよいというわけではないのです。科学者同士であればそれでも通じるのかも知れませんが、一般人に知識を浸透させるためには、それだけでは不足なのです。広報活動を対人活動として捉え、その特性に合わせた「伝え方」に注意する必要があるのです。「伝え方」上手のエセ科学が、しばしば本家科学を上回る浸透っぷりを見せるのも、本家科学の足りないところを示しているといえるでしょう。

■3月〜4月:安直な強権待望論・救世主待望論の登場
感染拡大が深刻化するにつれて、強権待望論・救世主待望論が日増しに強くなっていきました。3月10日づけ「世論は「権力行使」がお好き」で取り上げたとおり、金銭的インセンティブの付与という、角の立ちにくいマイルドな方法でも済みそうな場面でも、仮借のない権力行使を求める声さえありました。

他人に何かをさせるorさせない、つまり他人に対して権力を行使するということは、本当は相当に難しいことであります。権力的強制措置は、まさに「強制」である点において強力な方法論ではありますが、揉めやすい・イザコザが起こりやすいので実運用のハードルが高い方法論なのです。とりわけ「お客様は神様」と言われている現代日本の客商売においては、揉めるのが必至な権力的強制措置を取りがたいのが現実です。

国家権力が強力なのは、警察力などの実力(暴力)を持っているからであり、究極的には絞首台(死刑台)を持っているからであります。また、国家権力はちょっとやそっとの市井での批判ではビクともしません。これに対して単なる商売人には暴力はないし、SNSが炎上すれば容易に会社存亡の危機になってしまいます。単なる商売人がお客様に対して強くでることは、現実的ではないのです。

このように、他人に対して当人の意思を捻じ伏せて特定の行動を「強いる」権力的強制措置は実運用のハードルが高いので、金銭的インセンティブの付与によって特定の行動に「誘導」する方が効果的であると言えるのです。

「ザ・お役人」でもない限りは、まともに社会参加していれば何となく察しがつきそうなことであるにもかかわらず、安直な強権待望論・救世主待望論が飛び出してくるあたり、「恐怖のあまり錯乱し始めているのかもしれない・・・」と記事執筆当時は直感的に感じたものですが、その予想は3月中旬以降、本格化しました。

3月28日づけ「よく言えば「等身大の感覚」、悪く言えば「素人考え」でコロナウィルス対策を考える風潮について:経済政策編」では、「政治万能論」というべき政治に対する過剰な期待を取り上げました。当時深刻だった「マスク不足」を解消するためには生産能力の増大に取り組まなければ根本的には解決し得ず、工場等の新設による生産能力の増大には数か月から年単位の時間が必要であるにも関わらず、あたかも政治が魔法のようにマスク不足を直ちに解決できるかのような過剰な期待と、その裏返しとしての激しい政府批判がみられました。

まさしく「ないものねだり」ですが、こういう大衆の「ないものねだり」に便乗して登場するのが所謂ポピュリストです。そして、「悪人黒幕論」は容易に「粛清論」および「救世主による設計主義論」に転化するものです。極めて危険な兆候が早くも見られていました。

7月11日づけ「コロナパニックの裏返しとしての「キレイな独裁」論」では、主に3月から4月ごろの世論を意識する形でパニック・ヒステリーの裏返しとして強権待望論・救世主待望論が日本世論を覆ったと総括しました。「清廉潔白・公平無私な権力が正確無比に強権を振るい、国民の命と生活を守り抜く」ことが渇望されてきたわけです。

新型コロナウィルスに恐れ戦く人々は、その不安を解消するために「魔法」のように良く効く事態打開策を渇望していたものと思われます。不安が大きくなればなるほど、更に大胆に事態を打開してくれる「奇跡」を求めるようになり、結果として「奇跡」を起こしてくれる「救世主」の登場を渇望するようになったものと思われます。「キレイな独裁」論というべきものが人気を博しました。不正と腐敗、貧困が蔓延るロシアの一部国民の間でいま「スターリン人気」が再燃しているのと関連して考察すると興味深いものが見えてきます。

たとえば、まだマスク不足騒動が起こる以前、マスクの有効性が議題になっていた頃を思い起こしましょう。医師等専門家の意見を基に行政が、感染予防の基本中の基本である「手洗い・うがい・マスク」の重要性を改めて周知したところ、少なくない人々が「未知の新型ウィルスだというのに、その対策が『手洗い・うがい・マスク』だなんて信用できない!!」と騒ぎたてました。他方、「27度程度のぬるま湯でコロナが死ぬ」などという出所不明の明らかに胡散臭い話に飛びつく人たちが一定数見られました。

しかし、行政の担当者は、社会的分業・社会的専従としての専門性を持っているとはいえ「人間」。「魔法」や「奇跡」など繰り出せるはずがありません。無責任なポピュリスト連中でさえ「こうすればコロナは退治できる!」や「こうすればマスクや消毒液不足は解消され、病床は確保され、収入は保障され、パンデミック下でも憂いなく生活できる!」などという魔法的な施策は提案できなかったわけです。強権待望論・救世主待望論は実に安直で底の浅いものだったわけです。

なお、絶対に実現することのない強権待望論・救世主待望論は、案の定まったく実現することはなかったわけですが、願望の強さの裏返しとして、「魔法」が効かなかったときの失望は大きくなるものです。昨今の何をしても政府批判は、このときの、そもそも果たされるはずのない勝手で過剰な「期待感」の裏返しであるとも考えられるでしょう(勝手に無理を期待して、当然のことながら実現しなかったからと言って逆ギレするって・・・呆)。

■4月:恐怖の支配と「お上任せ」――成熟した市民社会からは程遠い
恐怖の支配と軌を一にし、安直な強権待望論が拡大するのと連動する形で日本世論の「指示待ち人間」化が著しくなってきました。4月6日づけ「新型コロナウィルス禍によって炙り出されてきた日本世論の「指示待ち人間」化」でも取り上げたとおり、自分の命の問題だというのに、「あれをしても大丈夫か」「これをしても問題はないか」といった「教えて君」が激増しました。

また、いわゆるアベノマスクについて、「私はいらないから『国は』必要だという人に届けてほしい」や「私はいらないので、『国は』我が家を送付先から除外してほしい」という声が上がりました。4月12日づけ「新型コロナウィルス禍によって炙り出されてきた日本世論に染みついた「他力本願」精神」でも述べたとおり、受け取る側の意向を調査し、その結果をデータベース化した後に宛先ラベルを準備するとなると、特に意向調査の段階で時間と費用が掛かることでしょう。今回の布マスク配布のようにスピードを重視しなければならないケースにおいては、このようなタイムロスはかなり大きな問題になります。それゆえ、受け取る側の意向を敢えて「無視」して「押し付け」ることも一つの方法でしょう。

「いらない」のであれば、腐るものではないし必要としている人もいるわけだから、「いらない」と思う人同士で不用品市を開けばよいだけであるように思えるのですが、その面倒まで国・行政が見なければならないのでしょうか? 国・行政は、国・行政にしかできないことに注力して、それ以外の民間組織・個人でも取り組める事業は、民間組織・個人の自発的社会活動として分業的に展開するというのが成熟した市民社会なのではないかと思うのです。

古くからの「お上が何とかしてくれる」観念が依然として根強いことを伺わせる展開でした。厄介なのは、こうした「お上任せ」が「民主主義」という概念によって「行政なんだから何とかすべきだ」といった形で正当化されて現代でも生き延びていることでしょう。成熟した市民社会に主体面でなり切れていない様子が見て取れました。

■4月:自分の無知を棚に上げた政府批判――世論のクレーマー化の初期症状
「お上任せ」かと思えば、逆に自分の無知を棚に上げた政府批判が展開されたことも記録しておきたいと思います。いわゆる「アベノマスク」についてです。

4月17日づけ「マスクがどういうものなのかも分かっていないのに、布だ不織布だと大騒ぎしている:大衆教育について」では、昔ながらの給食型布マスク着用方法も知らない教養に欠けた人物による「小さい!」という文句を取り上げました。そもそも給食型の布マスクはそもそも顎まで隠す設計になっていません。また、布という素材について「ウイルスの侵入を防げない」と今更ケチをつける言説も飛び出してきました。そもそも布でも不織布でも一般的に市井で手に入るマスクは「ウィルスの侵入を防いで自分が感染することを避ける」ための道具ではありません。飛沫感染対策であれば布マスクでも効果はあります。

マスクがどういうものなのかも分かっていないのに布だの不織布だのと大騒ぎし、自分が無知なのを棚に上げて政策を批判していたわけです。傍から見れば滑稽であり、なんだか見ているこちらが恥ずかしくなってくる展開でした。

中途半端に「お上任せ」でありつつ、中途半端に政策批判を展開する世論・・・今思い返せば、もうすでに世論のクレーマー化はこの時点で始まっていたのでしょう。

■3月〜4月:素人の浅知恵が陰謀論と結びついた
さて、素人の浅知恵が陰謀論と結びついたのは、新型コロナウィルス禍の一つの特徴であると言えるのではないでしょうか? 3月17日づけ「世論は陰謀論がお好き」及び7月3日づけ「世相を反映する典型的「陰謀脳」について」では、コロナ時代の陰謀論の特徴を指摘しました。

陰謀論は古代からあり続けてき、歴史上人間は陰謀論に振り回されてきました。いままでの歴史上の陰謀論を振り返ると、断片的真実を都合よく継ぎ接ぎしてデッチあげられた物語であった、つまり、ところどころに真実の欠片が散りばめられていたことに気が付かされます。陰謀論は登場人物の利害関係をベースとするものですが、いままでの陰謀論は、眉唾であっても一応「証拠」と言われるものが提示されていたものです。

それに対して、今回の新型コロナウィルス禍において展開されている「WHOは、中国からカネをもらっているに違いない」とか「都知事選挙前だから観戦者数が操作されているに違いない」いった類の陰謀論は、何の証拠もない妄言というべきものです。唯一論拠と言いうるものがあるとすれば、利害関係の存在くらいです。しかし、そうする/そうしないことによって結果的に得する人物や組織が存在するからといって、それがその人物や組織によって仕組まれたものであることにはなりません。全く別問題であります。たまたま得することなどザラにあることです。

かつての陰謀論であれば、かなり胡散臭くとも「中国からカネが流れる決定的証拠」や「感染者数が操作されている証拠文書」なるものが一応は添付されていたはずですが、それさえもないのが今回の陰謀論の特徴です。胡散臭い「証拠」さえもなく、ここまで見事に無根拠を貫いている陰謀論の蔓延は、いままでには見られなかった新たなる異常事態というべきです。

この世の中には、一見して「理解に苦しむ」ことは決して少なくはありませんが、しかし実際のところ、陰謀論者が考えているほどには陰謀は張り巡らされてはいません。多くの場合、陰謀論者たちの低水準な知識・知能では事態が理解できないだけに過ぎません。要するに、陰謀論者たちは、単に自分たちがアホだから現実を理解できないだけなのに、自分がアホであることに向き合わず、むしろアホだからこそ陰謀物語を紡ぎ出して現実を理解しようとしているわけです。しかし、そのデッチ上げストーリーさえもマトモな筋書きで仕立て上げられなくなっている

4月7日づけ「よく言えば「等身大の感覚」、悪く言えば「素人考え」でコロナウィルス対策を考える風潮について:組織論・社会歴史観編」では、WHOのテドロス事務局長「個人」が親中派だからWHOも中国政府に忖度しているという荒唐無稽な主張を取りあげて批判しました。

たかだか一個人の意志程度でWHOほどの国際的大組織が操られて大きく揺らぐなど、まさに主観観念論的と言う他ない見方です。もし仮にWHOに中国の影響・中国に忖度する風潮が及んでいるとすれば、中国共産党がWHO内部に相当浸透しており、既に大きく強固な足場を築いているということでしょう。いくら事務局長と言えどもその個人の意志では操作できないものです。

いかにも素人の浅知恵というべき見解が大氾濫したのが、新型コロナウィルス禍の一つの特徴であると言えるでしょう。

■総括
こうして振り返ってみると、「マスク不足」で始まった日本の新型コロナウィルス禍は早くも「強権待望論」と「道徳講釈」を鮮明にしていました。

日本社会は、キム・イルソン同志が1960年代には既に認識していた水準にも追いついておらず、お手軽な権力的取り締まり待望論及び初歩的な善意悪意論の水準に留まっていることが判明しました。周回遅れの時代錯誤的言説という他ありません。また、転売ヤーが存在するがゆえの問題の本質を見抜くことなく、目の前の表面的な事象に囚われがちであることも判明しました。さらに、資本主義市場経済を採用しているくせに国家権力の導入を求める一方で、統制経済とするには詰めが甘い、まさに3月5日づけ「それを資本主義制度において実現させようとすることが、そもそも間違っている:資本主義としても中途半端、社会主義としても中途半端な日本世論」のタイトルどおりの反応がでてきたものでした。

感染拡大が深刻化するにつれて、「強権待望論」が日増しに強くなり、ついに「救世主待望論」になりました。

新型コロナウィルスに恐れ戦く人々は、その不安を解消するために「魔法」のように良く効く事態打開策を渇望していたものと思われます。不安が大きくなればなるほど、更に大胆に事態を打開してくれる「奇跡」を求めるようになり、結果として「奇跡」を起こしてくれる「救世主」の登場を渇望するようになったものと思われます。「キレイな独裁」論というべきものが人気を博しました。

感染拡大の恐怖が人々を支配した結果、自分の命の問題だというのに、「あれをしても大丈夫か」「これをしても問題はないか」といった「教えて君」が激増しました。他方、逆に自分の無知を棚に上げた政府批判が展開されもしました。中途半端に「お上任せ」でありつつ、中途半端に政策批判を展開する世論・・・今思い返せば、もうすでに世論のクレーマー化は4月の時点で始まっていたのでしょう。

個人レベルで済まない問題を「自己責任」に位置付けようとする言説が飛び出したように、初めのうちはいつもどおりブルジョア「個人」主義的だったものの、感染が拡大するにつれて強権待望論や救世主待望論のような強度の統制を求めるように変化したことも見て取れるでしょう。自由と放蕩をはき違えるブルジョア「個人」主義者も、いざ危機に直面すると大変節の末に「統制派」になるというわけです。

しかし、この統制派への大変節は、その内実を見る限り「自分本位」の統制要求であることが直ちにわかるものでした。決して広い政策的視野をもって利害を調整するわけではありませんでした。このあたり、依然としてブルジョア「個人」主義的な身勝手さが残っているというべきでしょう。特定の階級・階層が、他の階級・階層の都合を顧慮せずに一方的に政策を押し付けることは、まさに独裁以外の何物でもありません

「第3波」が指摘されている昨今、来年は公衆衛生の名のもとに「私権制限」が盛んに取り沙汰されることと思われます。今こうして振り返ってきたように、「統制派」が如何なる変節を遂げていまのような主張に至ったのかを踏まえると、来年の議論はかなり慎重に行う必要があると言えるのではないでしょうか?

第2弾記事では緊急事態宣言発出以降について振り返りますが、自粛警察・自警団による非国民狩り・文化大革命騒ぎを経て世論は日に日にクレーマーと化してゆき、ついには「駄々を捏ねるおこちゃま」になってゆきます。ブルジョア「個人」主義の正体は、突き詰めると「駄々を捏ねるおこちゃま」に過ぎないのかもしれません
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2020年12月30日

コロナ禍でまたしても台頭する「自己責任」論はリーマンショック・年越し派遣村の頃よりも劣化していた

https://news.yahoo.co.jp/articles/92a86cee0b0983ab582fc294b50245578ec5a460
コロナ禍、届かなかった10万円 路上で聞いた諦めの声
12/23(水) 15:29配信
朝日新聞デジタル

 街の様子を一変させた、新型コロナウイルスの感染拡大。神奈川県の路上で暮らす人々にどんな影響を与えたのか、春から取材を続けてきた。

(中略)
■「誰にでもクリスマスがあっていいじゃないですか」
 「住民登録がないから、10万円が受け取れない」。1人10万円の特別定額給付金の支給期間中、取材で出会った路上生活者の多くが抱えていた悩みだ。給付金を受け取るためには、住民登録をしている自治体から住所地に届いた書類で申請する必要があるが、路上生活者は住民登録をしている自治体を離れて生活していたり、そもそも登録地がなかったりする場合が多い。

 「仕方ないよ」「元々もらえると思ってない」。聞こえてくるのは怒りよりも、諦めの声だった。最も支援を必要とする人々に支援が届かない実態が、コロナ禍で浮き彫りになった。

 横浜市によると、今年1月時点で、約380人が市内の路上で生活。コロナ禍を経ても、その数が大きく増えたわけではないという。一方、家賃を補助する住居確保給付金の申請件数は4月以降激増した。目に見えないだけで、路上生活の手前で踏みとどまっている人は少なくないのだ。

 取材を重ねると、街の見え方が少し変わった。ひじかけを設置して人が横たわれないようになっているベンチや、フェンスで囲われた高架下のスペースなどが目に付くようになった。どれも、路上生活者を排除する役割を果たしている。ベンチで寝ることも許さないという街のあり方が、「10万円をもらえるわけがない」という諦めにつながっているようにみえる。

 今月上旬、藤沢市内の路上生活者の「クリスマス会」に参加した。教会の一室に15人ほどが集まり、カレーに舌鼓を打ったり、歌を歌ったり。ビンゴの景品として用意されたのは、保温効果のある下着やレギンス、靴下、カイロなどだ。銀色の保温シートをうれしそうに抱いて帰って行く男性の姿が印象的だった。

 「彼らはこういう季節のイベントからも排除される。でも、誰にでもクリスマスがあっていいじゃないですか」。支援団体の男性の言葉がずしりと響いた。彼らのために何ができるか、自問しながら取材を続けたい。(土屋香乃子)

(以下略)
■コロナ禍でまたしても台頭する「自己責任」論
もともと「その日暮らし」の人たちにとっては厳しい時期である年末年始の時期が、年内にコロナ禍が終息しなかったために更に厳しいものになっています。行政や支援団体による年末年始の困窮者支援活動は、注目を集めないだけで毎年行われていることですが、ことしは「100年に1回のパンデミック」であるだけに「100年1回の経済危機」であったリーマン・ショック以来の注目を集めています。そして、またしても「自己責任」論が台頭してきています。

以下、私の方で3種類に分類してそれぞれ代表的なものをサンプルとしてピックアップしました。パッと見、リーマンショック後の「年越し派遣村」の頃からほとんど変化が見られず、むしろリーマンショック以上の勢いですべてを飲み込もうとする今般のコロナ禍に際してもなお、それと比べればまだ「軽微」だった頃の理屈を繰り返すあたり、ますます無理筋の度合いは高まっていると言わざるを得ないところです。ひとつずつ検討してゆきましょう。

■何知らないアホが背伸びをしようと想像でモノを語っているが、経験の浅さゆえに粗雑極まる主張にとどまっている
まず、当人たちと面接したわけでもないのに「この手のタイプ」と十把一絡げに取り扱おうとする手合いが最初に目につきました。リーマンショック・年越し派遣村のときにもよく見かけたものです。
この手のタイプに援助というか住み込みバイトあるよとアドバイスしてもなんやかんや断る。生活保護やっても親類に手紙くるから嫌だという。もはやどうしようもないわがままちゃんもいるということがわかった。本当変えようとしたら工場の派遣なり高原野菜の住み込みなりNPOの人と生保申請なりある。
当人と時間をかけて面接し、根掘り葉掘り聞いた末に「こいつは本当にどうしようもない奴だ」となったのであればまだしも(もちろん、そういう場合もあるでしょう)、どこぞで聞きかじった怪しい話を基に作り上げたステレオタイプを基に「この手のタイプ」を論ずるほどバカげた主張はありません

類似品として次のようなやりとり(のうち、自己責任論者側のコメント)も取り上げたいと思います。
> 路上生活になる人には本当に色々いて、妻子を捨てて借金から逃げてたり、何らかの精神疾患を持っていて家族から見捨てられていたり、前科があったり、病気だったり、その全部だったり。
家族や友人知人と縁が切れてる人たちだから、まあ、そりゃ、人に言えないことが山ほどあるよ。

それでも頑張って働いてるのが私達で、働く事を諦めたのがこの路上生活者ですよ。
子どもの場合は仕方ない、まだ働く能力がないから。
でも大半の路上生活者は成人です。頑張れば働けるのに働かない人の肩を持つ必要はないと思います。

それでも頑張って働いてるのが私達で、働く事を諦めたのがこの路上生活者」――これにはDV被害者に往々にして浴びせかけられる心ない発言にも通ずる発想が透けて見えます。常人が想像し得る「人に言えないこと」など、本当に福祉を必要としている人にとっては「天国のように恵まれた環境」であります。

上掲2つのコメントに共通しているのは、身も蓋もないことを言ってしまえば、「何知らないアホが背伸びをしようと想像でモノを語っているが、経験の浅さゆえに粗雑極まる主張にとどまっている」といったところでしょうか。

自分を中心として半径数メートルの世界だけが現実世界であり、自分は知らない世界や容易には想像もできないような世界が現実問題として存在しているなど夢にも思わない人が、依然として少なくないようです。私はよく揶揄の意味を込めて「よく言えば『等身大の感覚』、悪く言えば『素人考え』」という表現を使ってきました。今年のコロナ禍は、そうした発想の人たちが大々的に炙り出される機会でしたが、一年の最後の最後になってこれまた大規模に沸いて出てきたものです。

私はあまり「知ることから始めよう」や「想像力の欠如・視野の狭さ」、あるいは「当事者性」といったお説教は好かないタイプです。「知ることから始めよう」や「想像力の欠如・視野の狭さ」を云々とお説教する人の中には、そういう自分自身も相当に無知で、想像力が欠如していたり視野が狭かったりするものです。特に、「よく知っている」「想像力を膨らませている」というよりも「特定分野以外はまるで無知」や「感情移入している」と言った方が正確な場合、その自称「博識」「想像力」ゆえに逆に現実を見る目が曇ってしまい、全身全霊をかけて底の浅い政策提言を展開してしまうわけです。

そもそも全知全能の人間などいないのだから、あまり偉そうに他人様の知識量や想像力、視野を論評するのは、私は気が引けます。この言い草は、単なるマウント取りのための口実として使われることがあるものですが、私にとってマウント取りというのは、見ているこっちが恥ずかしくなってくることの最たるもの。万に一つも「あいつマウント取ってきたな」と相手に思われたくないので、なるべくさけたいものです。

また、「当事者性」は最近流行りのフレーズですが、当事者だからといって全てを知り尽くしているわけではありません(これもある種のマウント取りの口実なのでしょうね)。むしろ「他人」として少し引いたところから鳥瞰的に物事を観察したほうが、当事者では気が付かないような視点で物事を考えることができるでしょう。「当事者性」を強調し過ぎることは、私は問題解決において逆効果にもなり得ると考えています。

しかしながら、そんな私でも上掲2つのコメントについては、「あなたの知らない現実を知ることから始めましょう」、「現時点で知らないことは仕方のないことだけれども、少なくとも、想像を絶する人生を送ってきた人がいること、そして自分なりにいろいろと想像力を巡らせてもどうしてもイメージがわかない人生、考えても考えても分からない現実が存在しているということに衝撃を受けてみてほしい」、「当事者の言い分を金科玉条のごとく扱う必要はないが、重要資料として扱ってほしい」と申し上げたいところです。

せめて、「生活保護を受けて1年365日すべての衣食住を国家に依存している人たちよりも、1年の約360日を自活的路上生活でしのぎ、年末年始の1週間程度だけ国家のお世話になる人の方が財政負担が少ないのでマシ」という発想になればまだ議論・意見交換を展開する余地がありますが、自己責任論者は叩くこと自体が目的と化しているので、そういう論調にさえなりません。

日本の社会政策をめぐる議論が、そもそも議論を展開し得る余地さえないという絶望的な状況は、基本的にそう大きくは変わっていないように思われます。

■滑稽極まる「支援を受けるに値する資格」談義――そういうあなたも「資格なし」になるが・・・
自己責任論を声高に主張する人たちは、しばしば、「支援を受けるに値する資格」なるものを持ち出してきます。このことは日本国憲法が人権規定として明白に示しているので、いまさら素人があれこれ論ずる余地などないのですが、少なくない自己責任論者は本当にこの議論が大好きです。もちろん、屁理屈をこねまわしてどうにか「資格なし」と結論付けるために他なりませんが。

そうした魂胆がミエミエなのが、次のグループです。
一律給付って、ただで貰えるんじゃなく
自分たちが払ってる税金を
少し返してもらってるようなもんだから
税金払ってない人にまで行き渡るのは違う気もする。
「納税したから国から支援してもらえる」論です。今般のコロナ禍、特に春先に展開された「国民全員に一律10万円は必要か? 一定の条件を満たした人に30万円でよいのではないか?」という議論において本当によく見られた主張であります。

これにはコメ欄で秀逸な突っ込みがなされているので、そちらをご紹介しましょう。
>一律給付って、ただで貰えるんじゃなく
>自分たちが払ってる税金を
>少し返してもらってるようなもんだから
>税金払ってない人にまで行き渡るのは違う気も
>する。

ほぉ。
その払ってる人間だけに権利があるという論理なら…
「ガソリン税をたくさん支払うトラック以外道路の端を走れ」
「税金たくさん収めてる富裕層以外インフラ使うなら一礼してからにしろ」
って事で君はいいんだよな?
税金は富の再分配。
多く払おうが
払ってなかろうが
平等でなければ税制自体無意味なんだよ。
>自分たちが払ってる税金を
>少し返してもらってるようなもんだから

それを言うなら、払った比例分にしなきゃな。。
ホームレスだろうが物買ったら消費税かかるしな
普通の人は1万返ってくるかも怪しいよ
大して払ってない人間に限って税金払ってるからというからタチが悪い

私が言いたいことをほぼ言ってくれています。

4月20日づけ記事でも書いたように、納税は再分配のためのものであり投資ではありません。納税額の多寡によって再分配の多寡が決まるというのは再分配論としては邪道です。税と再分配の関係は根本的には「能力に応じて納め、必要に応じて給付される」という、ある種の共産主義的な原理に基づいているものなのです。

また、7月17日づけ記事でも書いたように、富裕層は常日頃からたくさん取られて、大してリターンがあるとは思えない境遇にあります。それでも渋々納税しています。一般庶民が路上生活者の当座の生活費にグダグダ言うのであれば、富裕層だって「お前らだってオレたちが稼ぎをガッポリと持って行って、『公共財』だとか言いながら好き勝手に使いやがって・・・」といいたいでしょう。たかが知れた金額を取り上げて「不公平」云々とは、いかに己の視野・感覚でしか物事を考えていないかの証拠であります。

加えて申せば、たしかに現時点では納税していないかもしれませんが、路上生活に入る直前まで納税していた可能性は高いでしょう。おそらくコロナ禍で失業して家を失った人のうち多くは、自営業者ではなく雇われ人だったと思われます。そうであれば、税などは給与から天引きされていたはずなので、納税の義務を怠っていた可能性は低いでしょう。納税できる時期にはキチンと納税義務を果たしていた人たちが、いざ担税能力を喪失したときに逆に国家から支援を受けることは、自分たちが払ってる税金を少し返してもらってるようなもん」などとノタマうこの理論においても正当なものだと思われますが・・・そうならないあたり、もはや自己責任論にマトモな理屈などないことの証左なのでしょう。

そもそも税金というものがどういった性質のものであるのか分かっていない人たちが、己の視野・感覚だけで公平か不公平かを論じているという、傍から見れば滑稽極まる展開であります。まさに半径数メートルの感覚でモノをいう、よくいえば「等身大」で悪く言えば「素人考え」で天下国家を語る世相を反映した言説。そしてまた、そもそも自分が打ち立てた理論にさえ矛盾しているムチャクチャさ。ここに国家と社会の主人として成熟した人民大衆の姿はありません。

■リベラリスト並みに底の浅い自己責任論者たちの社会歴史観
最後に、リベラリスト並みに底の浅い自己責任論者たちの社会歴史観について触れておきたいと思います。
ホームレスねぇ。
仕事選ばずに努力してる人はそこから抜け出せるよ。
コンビニのフリーペーパーを片っ端から当たった事あるのか?
むしろそこまで努力する人は、何処かの面接官の目に必ず止まる。
格好はぼろぼろでも目が活きているはず。

働かざるもの食うべからず
これが資本主義です。
これもまたリーマンショック・年越し派遣村のときにもよく見かけました。マクロ的な環境はミクロ的な決意・努力で乗り越えられるという荒唐無稽な発想です。客観的条件の制約を無視し、人間の意識や決意を過大評価して「啓蒙された意識の高い個人が決心して行動すれば運命は変わる」と言わんばかりの主張。まさにグレタ・トゥンベリさん及び彼女を絶賛するリベラリスト並みに底の浅い主観観念論的な社会歴史観であると言わざるを得ません

この発想の特徴に関しては、詳しくは昨年10月21日づけ「グレタ・トゥンベリさんを持ち上げている場合ではない」で論じました。掻い摘んで申せば、リベラリストを筆頭とする底の浅い啓蒙主義的な個人主義的自由主義は、個人の主観的思考・願望や行動を過剰に重視するため、社会組織・社会システムが個々人に与える客観的・構造的制約というものを軽視ないしは無視します。換言すれば、リベラリストらは、啓蒙−決心−行動−成果が連続的で「個人が改心すれば世界は変わる」と言わんばかりのビジョンを持っているため、啓蒙と決心との間の葛藤、決心と行動との間にある客観的・構造的制約、行動と成果との間にある因果関係に対してまともに分析を加えようしません。それゆえ、問題の所在を「決心したか否か」や「関係者が善人であるか悪人であるか」に設定してしまうのです。

しかし、人間の存在は社会的・経済的・制度的に規定されているので、個人が決意して努力したくらいで社会的に規定された運命が変わるわけがありません。個人が意識を変え行動を変えることで達成できるのは、あくまでも個人レベルの課題に留まります。脳味噌一個・腕二本・脚二本で出来得る仕事の範囲は限定的です。ましてや、たまたま上手く行ったアメリカンドリーム的なサクセスストーリーを取り上げて一般化するようであれば、社会歴史観どころか世界観レベルでデタラメ(統計学さえも分かっていない)だと言わざるを得ないものです。

社会システムはもっと巨大で、社会的な課題は個人レベルの課題とは質的にまったく異なります。当然、解決方法も異なります。リベラリストらの発想は、社会的に規定される社会的行為と、そういった力学にさらされることのない個人的・家庭内的行為を混同しています。リベラリストらはミクロレベルでの思考・方法論をマクロレベルに不適切に適用しているわけなのです。

上述したリベラリズムの誤りは、主張の要点と構造がまったく同一である点において、上掲コメントにそのまま適用できるでしょう。特にこのコロナ禍は、リーマンショックなどとは比較にならないくらい甚大な社会経済的混乱を巻き起こしている点、個人の決意や努力くらいで社会的に規定された運命を変えられるわけがないことを更に明白に示しています。その厳然たる事実が理解できないあたり、もはや幼児的万能感にも近い「自己責任」論がいかに荒唐無稽であるかがリーマンショック当時以上に明白になったといえるでしょう。

なお、12月5日づけ「リベラリズム×メリトクラシー=社会の分断、自己の自主性・自主的要求の麻痺」でも論じたとおり、自己責任論と観念論としてのリベラリズムは元々かなり親和的です。アメリカにおける貧富の格差の拡大とそれに起因する社会の分断拡大には、実はリベラリズムの教義が大きく変わっていると近年、(ようやく)さまざまな立場の人たちから異口同音に指摘されるようになってきました。そのことを併せて考えると、必ずしもリベラリズムの立場を取らないであろう人にも、リベラリズムの教義は深く浸透していることが推察されます。リベラリストを筆頭とする底の浅い啓蒙主義的な個人主義的自由主義を乗り越え、自由主義を個人主義的なものから集団主義的なものにアップデートする、20世紀以前の自由主義を21世紀水準にアップデートすることを目指す私の立場にとっては、現状は予想以上に深刻であるようです。

ちなみに、上掲コメントには次のような突っ込みが寄せられています。
まあ、その通りなんだけど現状は自助努力だけじゃ無理だから、給付金の10万も届かないんでしょ?

何でもかんでも資本主義でまとめるのは、何も考えてない証拠。
「xxだから仕方ない」というのは、思考停止を自白しているようなもの。「自分は、『働かざるもの食うべからず』だと思う」であれば、内容の当否はさておき意見としては成立していますが、「これが資本主義」は意見ではないでしょう。

■総括
3つの種類はそれぞれ、リーマンショック・年越し派遣村のころからそう大きくは変わっていません。リーマンショック以上の勢いですべてを飲み込もうとする今般のコロナ禍に際してもなお、それと比べればまだ「軽微」だった頃の理屈を繰り返すあたり、ますます無理筋の度合いは高まっていますが、それに気が付かずに依然として強弁が続けられているわけです。

■余談
このポエムな表現って要るのかな? すごく違和感。
 取材を重ねると、街の見え方が少し変わった。ひじかけを設置して人が横たわれないようになっているベンチや、フェンスで囲われた高架下のスペースなどが目に付くようになった。どれも、路上生活者を排除する役割を果たしている。ベンチで寝ることも許さないという街のあり方が、「10万円をもらえるわけがない」という諦めにつながっているようにみえる。

中学か高校の優等生的なコメントだけれども、何か結論は出たんでしょうか?
 「彼らはこういう季節のイベントからも排除される。でも、誰にでもクリスマスがあっていいじゃないですか」。支援団体の男性の言葉がずしりと響いた。彼らのために何ができるか、自問しながら取材を続けたい。
そんなつもりはないのだろうけれども、実際問題として新聞記者ができることなど限られているのだから、できる見込みのないことを敢えて書いたり、妙なポエム調のものを捻じ込んだりすると、結果的に「弱者に寄り添っているワタシ」を強調するだけになってしまうでしょう。

思いやりは大切ですが、実際に役に立たない「思いやり」は単なる自己満足にすぎず、逆に反感を買うことさえあるので、役に立たなそうであれば最初から表明しないほうがよいでしょう。悲しいことですが、厳しい状況に置かれている人たちは気が立っていることがあるので・・・
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2020年12月22日

政権交代情勢?

https://news.yahoo.co.jp/articles/214d93382edb662e7e14c6ec5fb05dfb5a47a152
菅政権、麻生政権と似てきた?  支持率急落、解散先送り
12/21(月) 7:12配信
時事通信

 菅義偉政権が12年前の麻生太郎政権に「似てきた」との見方が広がっている。

 ともに発足時は高水準だった内閣支持率が急落。それぞれ新型コロナウイルス禍、リーマン・ショックの影響を受け、就任直後の衆院解散を見送った。当時の麻生首相は追い込まれた末の衆院選で大敗し、野党に転落した。菅首相もこの轍(てつ)を踏むことになるのか。

 「麻生さんの時と似ている。麻生さんも高い支持率から始まって、がくっと落ちた」。自民党中堅は菅政権の現状をこう指摘した。立憲民主党幹部も「麻生政権と似てきた。首相に就任した時が最大の(衆院解散の)チャンスだった」と振り返った。

(以下略)
目を疑うような情勢判断。ジャーナリストという生き物は、個々の事象同士の関連性を見出して「時代の大きな流れ」を描きたがる傾向にあります。それ自体は間違ったことではありませんが、願望が過ぎるのか科学的なモノの見方が身についていないのか、「仲間内で盛り上がる分にはそれでも良いだろうが、そうは思わない人を説得するには理屈として弱すぎる」というべき代物が横行しています。今回はまさにその類の記事であると言わざるを得ません。

麻生内閣発足当時を、事実から出発する立場から振り返ってみましょう。2007年2月以来の年金記録問題により自民党への支持が大きく下がる中、7月の参議院選挙の結果、「ねじれ国会」が出現しました。広く国民の間で、時の首相だけではなく自民党政権そのものに反対する雰囲気、政権交代の雰囲気が醸成されつつあったのです(NHK放送文化研究所の「政治意識月例調査」参照)。調査月によって自民・民主(当時)両党の支持率が接近したり離れたりすることはあっても、なにか政治的な事件が起これば両党の支持率がかなり接近する緊張状態にあり、政権交代が現実的にじゅうぶんあり得る状況にありました。こうした政治状況をうけて民主党内では、政権交代の選挙戦に対する士気が高く、いつでも政権を獲得する備えができていました。第1次安倍内閣末期から福田内閣を経て麻生内閣に至るまでの大まかな政治の流れは上記のようなものでした。

これに対して今の菅内閣を取り巻く状況はどうでしょうか? 自民党の政党支持率は、他の野党のそれを合計してもダントツであります。国民の間に政権交代の機運などまったくありません。また、野党第一党の立憲民主党を見るに、彼ら自身がいますぐ政権を獲得しようという気概と備えがあるようには到底見えないところです。ほんとうにまずくなってくれば、各派閥が自派の利益のために政略的に担ぎ上げたに過ぎない菅氏などあっという間にお払い箱でしょう。そこが麻生派トップだった麻生元首相と大きく異なるところです。

「ジャーナリスト村」では政権交代情勢なのかもしれませんが、「村の外」にそんな雰囲気はまったくないのです。

「内閣支持率の急落」と「首相のリーダーシップへの疑問」という断片的な事実を取り出し、さしたる根拠もなくストーリー継ぎ接ぎして仕立て上げるというほかない代物です。ここに事実から出発した科学的な因果関係の論証など片鱗もありません。本気で政権交代情勢だと思っているのであれば、とんでもないことです。極左過激派は荒唐無稽な「革命情勢」を数十年来唱えてきましたが、それと同じくらい荒唐無稽な時事通信記事です。

スポニチの記事は更にすごい。
https://news.yahoo.co.jp/articles/4ce0500be2e6db7b626d959d81d6caf1114a3985
再び政権交代?菅内閣、発足わずか3カ月で支持率急降下、08年麻生内閣と状況そっくり
12/22(火) 5:30配信
スポニチアネックス
(中略)
 だが首相の「未来」には暗雲が漂う。政界関係者は「答弁力、発信力に加え、国民の神経を逆なでする振る舞いが目立ち、共感力にも欠ける。これじゃ3密ならぬ“3欠”だ」と指摘した。

 安倍晋三前首相からバトンを引き継いだのは9月16日。発足当初の内閣支持率は、共同通信の世論調査で66・4%と歴代内閣と比べても高水準だった。それが今月7日の最新支持率は50・3%と急落。毎日新聞は40%、朝日新聞は39%と11月からいずれも17ポイントも下落した。

 急落の背景は明らかだ。日本学術会議任命拒否問題で説明責任を果たす姿勢を見せず、首相として初めて臨んだ41日間の臨時国会では棒読み答弁を連発。記者会見をしても下を向いてメモを読む姿が酷評された。12月に入ってからは、インターネット番組で「ガースーです」とあいさつし「国民の空気感が読めてない」(立憲民主党幹部)と反感を買った。さらに大人数での会食を控えるよう求めておきながら8人でステーキ会食をしたことで「危機管理能力が低すぎる」と自民党内からも苦言が漏れた。

 この状況について政界関係者は「2008年に発足した麻生政権に状況が似通う」と言う。ともに衆院議員の任期が残り約1年のタイミングで前任者からバトンを引き継いだ。リーマン・ショックとコロナ禍で対策に追われたり、発足直後に高水準だった内閣支持率が急落した点も重なる。

 麻生太郎首相は衆院議員任期満了まで1カ月を切る中で総選挙に臨み、民主党に政権を明け渡した。今度は菅首相にその“悪夢”が忍び寄る。

(以下略)
内閣支持率急落の背景に学術会議問題を位置付け、政権交代の可能性に話をつなげています。マスコミは大々的に報じた本件ですが、国民の間では第一関心事にはなっていません。もちろん世論調査で「どう思いますか」と聞かれれば、回答者は「政府の対応に問題はない」とはなかなか答えないでしょう。しかし、だからといってそれが政権交代につながるような投票判断において、優先度の高い中心的な基準にはならないでしょう。衣食住の問題・社会保障の問題、つまり生活上の問題ではないからです。

こんなことが「背景」としてクローズアップされている事実は、「ジャーナリスト村」がいかに国民の第一関心事から離れたところを見ているのかということを示していると言わざるを得ないでしょう。国民と同じ空気を吸ってはいないというべきでしょう。

また、こんなことで政権交代の可能性が出てきたなどと口走っている事実は、「ジャーナリスト村」に政治を正しく見通す科学的な眼がないことをも示していると言わざるを得ないでしょう。国民が、人民大衆が何を望み、何を判断基準としているのかが見えていないのです。

さらに、与党が失点を重ねれば野党に政権が転がり込んでくると思い込んでいるフシがあるようです。しかし、野党に政権を担当する備えとその気概がなければ、政権が転がり込んでくることはあり得ません。社会を統一指揮しようとするのが政治の本質(≪사람들을 관리하는것이 다릉아닌 정치이며 정치를 하는 사회적조직이 바로 정치조직입니다.≫――김정일)ですが、分裂ばかりの野党にそのような能力があるとは到底思えないところです。そうした辺りも「ジャーナリスト村」では共通理解に至っていないようです。
ラベル:メディア
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2020年12月19日

そこに主権者としての矜持はない「Go Toやめろ」→「本当にGo Toをやめるとこんなに困ったことになる!」というマスコミの報道姿勢について

https://news.yahoo.co.jp/articles/23c3370a27307735cc581db7c9725795cd2e6047
「もう出ていくお金しかないですよね。そういう状況なんです」 GoTo停止で旅行会社員が「知ってもらいたいこと」
12/16(水) 6:00配信

J-CASTニュース

(本文省略)
「さすがに今回は・・・」と思っていたのが甘かった。「Go Toやめろ」と散々言っておいて、いざ政府が一時停止を表明した途端にこれ。春先の「一人一律10万円」を思い出さざるを得ません。4月20日づけ記事で取り上げましたが、マスコミは「全国民に一律配れ!」と言っておいて、政府が「分かったよ、配るよ」と言った途端に「金持ちにまで配る必要はないだろう!」という声を報じ始めたものでした。政府が何をやっても手を変え品を変え批判を続ける。ここに主権者としての矜持はなく、ただのクレーマーでしかありません

懲りもせずにマスコミは同じ手口を使っているわけですが、おそらく短期的には話題になるでしょうが大局的には倒閣には繋がらないでしょう。なぜならば、タイミングはさておき、Go Toキャンペーンの一時停止は少なくない国民が求めていることだからです。まさに春先の緊急事態宣言のように、「ちょっと遅かったけれども、分かればいいんだよ」になるでしょう。そもそもクレーマーに勝機などありません。

テレビ朝日・玉川徹氏の言説を見るに、マスコミは次は緊急事態宣言の再発出要求で行くつもりのようです(「玉川徹氏、感染者止まらなければ「やっぱり緊急事態宣言。だったら、なぜ今出さなかったか」」 12/15(火) 11:00配信 スポーツ報知)。いかにも彼らが考えそうなことです。しかし、春先の緊急事態宣言発出には実際にどの程度の費用対効果があったのかについて、科学的な検証は済んでいて、玉川氏らマスコミ関係者はそれを踏まえているのでしょうか?

テレビ司会者の小倉智昭氏は「移動する人が多くなったら増えるに決まっている」などと言いました(「小倉智昭氏、「GoTo」と感染者数の因果関係ぼかす政府に「移動する人が多くなったら増えるに決まっている」」 12/9(水) 9:41配信 スポーツ報知)が、その程度の理屈で許されるのは素人同士の会話だけであります。

かつて最高裁判所は、薬局距離制限事件での違憲判決のとき、「薬局が乱立して競争の激化すると、薬局の経営が不安定になり、不良医薬品が流通するようになりかねない!」という、いかにもそれらしい薬事法の前提に対して「競争の激化―経営の不安定―法規違反という因果関係に立つ不良医薬品の供給の危険が、薬局等の段階において、相当程度の規模で発生する可能性があるとすることは、単なる観念上の想定にすぎず、確実な根拠に基づく合理的な判断とは認めがたいといわなければならない」として論破しました。小倉氏の主張は、まさに「単なる観念上の想定にすぎず、確実な根拠に基づく合理的な判断とは認めがたい」ものです

興味深い記事があります。「そもそも「緊急事態宣言」は必要だったのか? データから見えてきた“真の評価”」(12/17(木) 11:41配信 PHPオンライン衆知)です。ひとつの記事・ひとりの識者の言説に飛びつくほど私は非科学的ではありませんが、こういう言説がでてくるあたり、緊急事態宣言の再発出には慎重であらざるを得ないでしょう。少なくとも、目下のマスコミ報道レベルの言説では、まさに「単なる観念上の想定にすぎず、確実な根拠に基づく合理的な判断とは認めがたい」というべきでしょう。

むしろ、マスコミが「Go Toやめろ」→「本当にGo Toをやめるとこんなに困ったことになる!」と報じることは、彼らが意図することは逆に、「ある程度の感染拡大は仕方ないのかもしれない」という雰囲気が形成される可能性があるでしょう。国民意識は明らかに緩んでいます
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2020年12月17日

逆に多様性を殺すことにつながるリベラル流の「多様性」重視及び支離滅裂な社会歴史観について

https://news.yahoo.co.jp/articles/33e7e61a3ecb5722ac6ba782e6ff45b654132623
モーリー・ロバートソン氏が「ネトウヨ」批判「どうせ多様性が勝つ」
12/3(木) 14:47配信
東スポWeb

 国際ジャーナリストでミュージシャンのモーリー・ロバートソン氏(57)が3日、ツイッターで「ネトウヨ」や「Qアノン」を批判した。

 モーリー氏は「ネトウヨやQアノンを論破するのは容易」と断じた。これはネット上で展開されるトランプ大統領支持者たちの動きを指しているようだ。

 続けて「日本の多様性、グローバライゼーションを推し進めるのも自民党政権および経済界の既定路線。負け組がどんな罵声を浴びせても所詮は尊王攘夷。どうせ多様性が勝つからお話にならない」とし、勝負はもう決まったとしている。

(以下略)
元のツイートはこちら
ネトウヨやQアノンを論破するのは容易。日本の多様性、グローバライゼーションを推し進めるのも自民党政権および経済界の既定路線。負け組がどんな罵声を浴びせても所詮は尊王攘夷。どうせ多様性が勝つからお話にならない。今一番緊張するのは大河でペリーを演じること。
■ネトウヨって誰のこと?
モーリー・ロバートソン氏のように、内容はさておき紙幅に余裕があるときには丁寧な主張を展開される方でさえ、厳しい文字数制限があるツイッターになった途端にここまで論理展開が雑でケンカ腰のような主張になるとは・・・

まず、ここでいう「ネトウヨ」とはいったいどういう人たちを指しているのでしょうか? きちんと定義づけられるような特徴のある存在なのでしょうか?

もちろん、「いわゆるネトウヨ」であれば私は、それこそ桜井誠氏が"Doronpa"を名乗っていたころから知っていますが、通俗的な意味ではなく、批判的主張の対象とするのであれば、きちんと定義づけられる必要があるでしょう。

■何を根拠に「どうせ多様性が勝つ」と断言しているのか?
また、「どうせ多様性が勝つ」というのは、いったいどのスパンの話なのでしょうか?

負け惜しみの典型として、具体的な期間を明示せずに「いつか必ず・・・になる」という論法があります。以前にも論じましたが、この論法は、いくら持論への反証になるような事実が出てきても、「いや、これは一時的な現象にすぎない。いつか必ず・・・になる」と言い逃れし続けることができるものです。

Qアノンが話題になっているのでアメリカ大統領選挙を例にとって考えてみましょう。「多様性」を掲げるバイデン氏を支持するリベラリストたちと、それに反対するトランプ氏支持者たち(Qアノンを含む)の対決は、両氏の得票率を見るに激しく競り合っています。現時点では一進一退であり、どちらが勝利するのかを確言することは困難です。「多様性」は、人々の間で完全には定着しきっていないのです。

そもそも社会というものは、人間が社会的財貨をもち社会的関係性を取り結びつつ主人として生活を送る集団のことであり、社会は、主人・主体としての人間の自主性・創造性・意識性の水準に基づき、人間の活動によって変化・発展してゆくものです。この変化・発展の軌跡こそが人類史であります。

繰り返しになりますが、「多様性」は、人々の間で完全には定着しきっていません。現代人は「その程度」なのです。そうであるにも関わらず、なぜ「どうせ多様性が勝つ」と断言できるのでしょうか? ロバートソン氏の主張は、社会は本質的に、主人・主体としての人間の自主性・創造性・意識性の水準に基づき、人間の活動によって変化・発展してゆくものであるにも関わらず、人間を超えた「神意」や「宿命」のようなものが人類史を規定しているとでも言わんばかりの主張なのです。なんら科学的根拠のない願望にすぎません。

なお、上掲過去ログでも触れたとおり、具体的なタイムスパンを明言せずとも科学的な展望を示すことは絶対に不可能というわけではありません。たとえばキム・ジョンイル総書記の『社会主義は科学である』は、人間の本質的特性と社会主義の親和性を指摘し、人間の社会と歴史の主人としての地位・役割を根拠に大雑把な歴史の流れとして社会主義の勝利を論じています。

しかし、ロバートソン氏の今回のツイートでは根拠らしいものといえば「自民党政権および経済界の既定路線」くらいのものです。いまの権力者たちが永遠に同じ利害関係を保ちつつ権力を握り続けるというのであればまだしも、そのような根拠はどこにもありません。

そもそも自民党政権および経済界が目指す「多様性」など、その利益を実現する範囲内の「多様性」であり、官許のものに過ぎません。「グローバライゼーション」に至っては、多国籍企業・国際資本の利潤拡大意図を体よく隠蔽するためのハリボテであり、現実の災禍を誤魔化すためのイデオロギーに他なりません。彼らの利潤拡大において「多様性」や「グローバライゼーション」が障害になれば、それこそ19世紀末から20世紀初頭には積極的に自由貿易を展開してきた欧米列強が世界大恐慌を迎えるや否やブロック経済の殻に閉じこもったように、いとも簡単にお題目を引っ込めることでしょう。そう考えると、「自民党政権および経済界の既定路線」というのは、とても科学的な展望とは言えないものです。

ここにリベラリズムの社会歴史観が支離滅裂である典型的な実例がみられます。リベラリズムは、あるときは客観的条件の制約を無視し、人間の意識や決意を過大評価して「啓蒙された意識の高い個人が決心すれば世界は変わる」といった主観観念論と言う他ない主張を展開します。かと思えば、各時代の人々の思想意識の発展水準を超越して、まるで宿命であるかのように「歴史の流れ」を論じ始めるのです。

■逆に多様性を殺すことにつながるリベラル流の「多様性」重視
それはさておき、「多様性の勝利」については私は以前から、F.A.ハイエクの自生的秩序論の立場から基本的に肯定的に見通しているものの、多様性を生命力とする自生的秩序は元来「壊れやすい」ものであり、制度的な枠組みやルールによって保護される必要があるものです。そして、そうした制度的な枠組みやルールの代表例が、ほかでもない「伝統」であります。

しかし、「多様性」を掲げる昨今のリベラリストは、「自分の頭で合理的に考える」などと称して素人の浅知恵で、数世代に渡って人々が試行錯誤を重ねつつ生命力を実証してきた伝統をいとも簡単に破壊しようとします。リベラル流の「多様性」重視は、結果的にはデュルケム的な意味でのアノミーにつながり、逆に多様性を殺すことにつながるでしょう。

また、真の意味で多様性を実現させるためには、消費生活における多様性を保障する必要があります。人間は財やサービスを消費する過程で多様な人格を開花させるからです。消費生活が多様であるためには、生産と流通においても多様性を保障し、人々に「選択の自由」を保障する必要があります。たとえば、食の世界で多様な感性を花開かせるためには、それを支える多様な食材の生産と流通が必要になります。現時点では、人々に選択の自由を保障する経済システムは、市場メカニズムを活用する方法しか知られていません。市場メカニズムを活用する方法論を取る必要があります。

しかし、ブルジョア的市場経済は自由放任かつ形式的平等ゆえに富益富・貧益貧が避けられません。それゆえ、市場メカニズムを活用しつつも、すべての人々の消費生活における多様性を期するためには規制が一定程度必要になります。一国においては生活防衛のための国家権力、国際的にはインターナショナルな機構が必要になるでしょう。

リベラリストたちが愛してやまないグローバリズムは、そうしたベクトルの反対であります。グローバリズムが「述べてきた理想」ではなく「行ってきた結果」を見るに、これは、多国籍企業・国際資本の利潤拡大意図を体よく隠蔽するためのハリボテであり、現実の災禍を誤魔化すためのイデオロギーに過ぎぬというべきであります。私は以前から、国際資本・多国籍企業の儲けを実現するための方便に過ぎない「グローバリズム」と、諸国民・諸民族の友好と団結を保障する「インターナショナリズム」を混同して「グローバリズム」の旗振り役を率先する一種の「役に立つバカ」がいると述べてきましたが、リベラリストは、「確信犯」でない限りは、まさに「役に立つバカ」であると言わざるを得ないでしょう。

つまりロバートソン氏は、ご自分では多様性を実現させようとしつつも実際にはそれが実現しえない方法論にしがみついているのです。
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2020年12月11日

国民はそんなに言うことを聞かない、国民はそんなに操れない

https://news.yahoo.co.jp/articles/25472dcba11408dcafb640f2e4bcb7dccbcf5e48
GoTo「即刻中止を」 病院団体
12/11(金) 15:52配信
時事通信

 日本病院会(相沢孝夫会長)は11日、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、需要喚起策「Go To」キャンペーンの「即刻中止」などを国に求める声明を発表した。

(以下略)
果たしてGoToキャンペーンを一時停止すれば人の往来が減少するのか、疑わしいようにも思われます。

GoToキャンペーンはあくまでもキャンペーンであり、補助金を出すから旅行に行こうという「呼びかけ」です。このご時世に旅行に行くという意思決定をしているのは各個人です。まさか医師会の医者たちは、普段の診療のように「先生」がいうことであれば、国民は自発的に従うとでもお考えなんでしょうか? 政府が「呼びかけ」をすれば国民は言うことを聞く、「お上」は「下々」を操れるとでもお考えなんでしょうか?

診療の場面で「治療方針」という医者の「呼びかけ」に対して患者が自発的に従うのは、既に疾病により苦痛を感じており、それを和らげたいからです。そのため、たとえば、ほぼ症状が治まった患者は医者が「薬は最後まで飲み切るように」と指導しているにも関わらす飲み残すことがよくあります。夜間救急外来で「一晩分の薬は出すので、明日必ずかかりつけ医に診てもらってくださいね」と言われて守らない人も多いものです。健康診断で医者の勧めを聞かない患者も多いものです。

1億3000万人の国民のうちほとんどは新型コロナウィルスには罹患しておらず、内心どこかで「そうはいっても自分は罹患しないだろう」と思い込んでいます。「誰もがかかりうる病気なんです!」と声高に指摘されていること自体がその証左でありましょう。

だからこそ、医者や政府が幾ら「呼びかけ」を展開したところで、健康診断で医者の勧めを聞かない患者に対するように、あまり響かないと思われるのです。

もちろん、財布のひもが固くなったことによりある程度の遠出は減るでしょうが、このご時世に旅行に行こうとする人は元々アウトドア派でしょうから、遠くに行けなければ近場に外出するだけでしょう。わずかな人出を減らすためにGoToをやめるのは、費用対効果の面で意味があるのでしょうか?

他者にその意思に反しても一定の行動させる/させないように強いる力を政治学では「権力」といいます。かつてダール(Robert Alan Dahl)は「Aの働きかけがなければBは行わないであろうことを、AがBに行わせることができたとき、AはBに対して権力を持つ」と指摘しました。権力行使のためには、強制力と権威が必要だとされます。「組織」というものは、その内部が強制力と権威によって規定された典型的な社会集団ですが、日本社会はそこまで高度に組織化されていません。

携帯電話の位置情報データから推測される繁華街等への人出を見るに、国民はもうGoToがなくても外出をやめることはないでしょう。東京都民が新宿に行くのにGoToは使わないし、大阪府民が梅田に行くのにGoToは使いません。

国境封鎖・都市封鎖を提唱して強制的に人の往来を停止させるべきだというのならば、まだしも、キャンペーンでしかないGoToキャンペーンを一時停止したところで人の往来が減るとは思えず、むしろ都市部を中心に「近場で楽しむ」が増え、問題の感染拡大防止・医療資源逼迫阻止には、さしたる効果があるようには思われません

単なる「象徴」にしかならないように思われます。それともむしろ、国境封鎖・都市封鎖に向けた地ならし?(さすがにそんなわけないか)
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2020年12月07日

落ち目であるはずのトランプ氏が依然として強大な権力・影響力を維持している事実は、トランプ支持者」の分厚い層の存在を示している

https://news.yahoo.co.jp/byline/iizukamakiko/20201207-00211248/
トランプ氏の支配が続く共和党 「バイデン氏の勝利を認めた共和党議員は27人だけ」米紙 米大統領選
飯塚真紀子 | 在米ジャーナリスト
12/7(月) 9:06

(中略)
共和党を支配し続けるトランプ
 もっとも、共和党議員の約88%に当たる220人がどちらが勝者かという質問には無回答で、トランプ氏が勝利したと回答した共和党議員は2人だけだった。

 この調査結果について、同紙はこう分析している。

「この調査結果は、トランプ氏が80年ぶりに、3人目の再選しなかった現職大統領になったにもかかわらず、多くの共和党議員が去りゆく大統領と彼の共和党支配力に対して、恐れを抱いていることを証明している」

 つまり、トランプ氏の共和党支配はまだまだ続いているというのだ。12月14日に行われる選挙人団による投票ではトランプ氏の232票に対し、バイデン氏が306票獲得すると予想されているにもかかわらず、トランピズムは健在なのである。

 実際、共和党のミッチー・マコーネル上院議長も、トランプ氏が不正選挙を訴え、バイデン氏の勝利を認めていない状況について記者団から質問された際、直接回答するのを避け、「明日は明日の風が吹く」とはぐらかした。

 共和党としては、2024年の大統領選を見据え、トランプ氏を再出馬させて政権を取り戻そうという目論見があるのかもしれない。

(以下略)
さすがに最近は下火になりつつあった「D.J.トランプ個人のせいで・・・」「D.J.トランプ個人が・・・を操っている」論の再来・・・もうまもなく退場する公算が高いD.J.トランプ氏「個人」に、いったいなぜ共和「党」員たちが恐れるというのでしょうか? トランプ氏が「人心を操ることができる超能力者だ」というのならばまだしも、そうでないのならば、冷静に考えておかしいと思わない・・・あたりが底の浅い観念論者なんでしょうね(呆)。

飯塚真紀子氏は、「トランプ氏の支配」ではなく「トランプ支持者の支配」というべきでした。党員歴が浅いトランプ氏「個人」の共和党内の政治生命は、いまや「余命1か月あまり」です。「4年後」についてだって、日本の立憲民主党ではあるまいし、そこまで人材不足ではありません。それゆえ、普通だったらトランプ氏はもう「過去の人」扱いをして然るべき人物であります。しかし、共和「党」員たちがそんなトランプ氏「個人」の顔色を依然として伺っている事実にこそ注目すべきであります。

もともと党内基盤がなく政治的には明らかに落ち目のトランプ氏がなぜ、依然として権力的な影響力を持っているのでしょうか? 彼の権力の源泉は、トランプ氏「個人」のリーダーシップ・パーソナリティにあるのではなく、彼を支える支持者たちのフォロワーシップにこそあるとみるべきです。

キム・ジョンイル総書記は、『党のまわりに固く団結し新たな勝利のために力強くたたかっていこう』(チュチェ84――1995年1月1日)において「党に忠実な中核がわたしを積極的に支持し助けてくれるので、キムジョンイル将軍も存在しているのです。一人では将軍になることはできません」と仰いました。また、権力論・リーダーシップ論によると、権力者によるリーダーシップの発揮は、フォロワーシップがあってこそのものだと指摘されています。つまり、トランプ氏個人の政治的リーダーシップは、それに対する支持者たちのフォロワーシップの賜物であり、トランプ氏個人がいくら喚き散らしていても、周囲の人々が相手にしない限りは、何の実効性もないのです。

依然としてトランプ氏は、さしたる根拠もなく「大統領選挙の不正」を主張していますが、熱心なトランプ支持者は、それを信じて疑いません。このことこそが落ち目のトランプ氏の権力の源泉であります。つまり、トランプ氏は、依然として支持者が熱心に支持しているからこそ共和党内における権力および全米的影響力を保持しているのです。支持者あってこそのトランプ氏なのです

飯塚氏の言説には、そうした視点が欠落しています。せいぜい「トランプ氏を再出馬させて政権を取り戻そうという目論見があるのかもしれない」にとどまっており、そうした見込みが実際にあるのかについては触れようともしていません。実に中途半端です。11月21日づけ「「バイデン勝利」に浮かれ、社会主義にもプログレッシブにも一切触れないリベラリストの牽強付会・観念論的英雄物語について」でも論じたとおり、「意志力」過剰なNHK大河ドラマの見過ぎというべき観念論的世界観です。

落ち目であるはずのトランプ氏が依然として強大な権力・影響力を維持している事実は、なによりも「トランプ支持者」の分厚い層の存在を示しています。

もっとも、飯塚氏においては、トランプ氏が返り咲きし得る支持者たちの思想意識的動向を今更指摘できないのかもしれません。11月8日づけ「「トランプ落選」だけを切りとり浮かれる人たちは、トランプ氏が得票率において2%弱伸び、マケイン氏やロムニー氏を上回った衝撃的事実を見落としている:「トランプ文化大革命」を生んだ「分断の構造」は依然として残っている」でも指摘したとおり、「アメリカの良識が回復したからトランプ氏は負けた」という構図を描きバイデン氏勝利に浮かれていた飯塚氏にとって、現実問題としての根強いトランプ氏人気を認めることは、自己の不見識を1か月遅れで認めるようなものですから。

いずれにせよ、先の大統領選挙での両候補の得票率(得票数ではない!)が示しているとおり、トランプ氏も相当に支持を集めています。トランプ氏支持者はアメリカにおいて相当なる勢力を維持しています。私はチュチェの社会主義者であるがえにトランプ氏を支持するはずがない立場ですが、「事実から出発する」を信条としているがために、「依然して根強いトランプ氏人気が、本来であれば落ち目であるはずのトランプ氏の権力・影響力の源泉であり続けている」という事実は、決して軽視してはならないと考えています。このままであれば、2024年には、まだ生物学的に余命があるトランプ氏個人はもちろん、「トランプ氏的な人物」は十分に当選圏内であるでしょう(関連的参考:『米国はバイデン政権で「正常に戻る」べきでない─ロバート・ライシュ元米労働長官が警告』 11/30(月) 19:00配信 クーリエ・ジャポン)。

底の浅い連中は、そこが分かっていないようです。トランプ氏的なものは滅びず、混沌は続くでしょう。
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2020年12月05日

リベラリズム×メリトクラシー=社会の分断、自己の自主性・自主的要求の麻痺

https://news.yahoo.co.jp/articles/de329f36c35fc64d9ff2b3e580d3038e8d17936f
トランプ氏の前回上回る7000万票獲得はなぜ?…マイケル・サンデル教授が鳴らす警鐘
12/2(水) 19:35配信
読売新聞オンライン

(中略)
 民主党はトランプ氏を選挙で破り、民主的な手続きで排除することに成功したので、自らの政策やメッセージを見直す必要はないと結論づけるかもしれないが、それは誤りだ。

 バイデン氏が大統領になっても、行き過ぎた能力主義が生み出した格差と深い溝が消えてなくなることはない。

「尊厳」の話をしよう(以下インタビュー) ――9月発刊の新著で、米社会の過度な「能力主義」を批判的に論じている。 ハーバード大の授業で「公正な大学入試制度とは何か」を議論している時、多くの学生が「自分の成功は自らの努力の結果だ」と思い込んでいることに気付いた。ハーバードはたしかに狭き門だが、そこに入学できたのは、自分の実力だけではない。生まれた家庭や周辺からの支援、受験の準備を手伝う家庭教師の存在なども左右している。

 アイビー・リーグの学生の3分の2は、米国の上位20%の収入の家庭出身だ。米社会は学歴による分断を深めている。大統領もジョージ・ブッシュ氏(父、任期1989〜93年)以降、アイビー・リーグ出身者が続いてきた。ただ、ジョー・バイデン次期大統領は違う。中流家庭出身の大統領として、問題の是正に力を尽くすかもしれない。

最終更新:12/5(土) 10:56
読売新聞オンライン
■リベラリズム×メリトクラシー=社会の分断
メリトクラシー(能力主義)の問題・・・一部では以前から指摘されてきたことですが、サンデル氏のよう方の口から飛び出してくるようになり、商業主義メディアであるヤフーニュースの記事にもなったことには、感慨深いものがあります。

メリトクラシーは、身分で人生が決まっていた前近代を乗り越えて近代リベラリズム(自由主義)の時代を切り開くにあたって歴史的に大きな功績がありました。今も尚、有能な人物の登用において社会の活力の源泉であり続けています。近代のリベラルな社会構造と高度な産業社会はメリトクラシーの土台の上に成立していることは疑いないことです。そのため、メリトクラシーに問題があるとしても、決してメリトクラシーごと廃絶すべきではなく、改善すべきものであります。

では、メリトクラシーにおいて改善すべきポイントとは何でしょうか? 記事中でも明白に指摘されているとおり、行き過ぎた能力主義」であります。「多くの学生が「自分の成功は自らの努力の結果だ」と思い込んでいることに気付いた。ハーバードはたしかに狭き門だが、そこに入学できたのは、自分の実力だけではない。生まれた家庭や周辺からの支援、受験の準備を手伝う家庭教師の存在なども左右している」というサンデル氏の指摘は正しいものです。

キム・ジョンイル総書記は『反帝闘争の旗を高くかかげ、社会主義・共産主義の道を力強く前進しよう』(チュチェ76・1987年9月25日)において、チュチェの現代階級分析(知識労働化に伴う現代資本主義社会の階級構成変化)として、科学技術の発展に伴いインテリ・知識労働者が労働者階級の圧倒的部分を占めるようになると労働者階級はブルジョア思想の影響を強く受けるようになってゆき、従来どおりの方法では労働者階級を革命陣営側に取り込むことは困難になってゆくと指摘されました。

これを受けて当ブログでは、たとえば昨年12月31日づけ「チュチェ108(2019)年を振り返る(4):協同経営化・自主管理化を突破口とする社会主義建設の課題」を筆頭に、現代におけるいわゆる社会の分断(社会の集団的・共同体的結束の分解・瓦解)や「自己責任」論の拡大には、社会的分業の進展と産業構造の専門的知識労働化・精神労働化に起因するブルジョア「個人」主義の拡大という背景があると分析しました。

すなわち、社会的分業が進展して各自の担当職務が高度な専門性を必要とするようになると、長い時間と努力によって血肉化した専門的知識をもとに自分自身の判断で仕事を進める場面が多くなった人々は、職務経験を積み成功体験を重ねるにつれて独り親方・個人事業主的なブルジョア「個人」主義傾向を強めるようになります。そのため、「自分の地位や財産は自分独りの力で築いたものだ」などと「私」中心の自信過剰になりがちで、その反面で「我々」意識が衰退して他者の貧困について「自己責任」と突き放すようになるのです。

言い換えれば、職務経験を積み成功体験を重ねるにつれてある種の人々は主観主義に転落し、「他人は他人、自分は自分」という観念を持つようになり、個人の存在を社会集団から孤立して単独で存在しているかのように思い込むようになるのです

しかし、いわゆる「個人の成功」は、「自分独りの力で築いたもの」などでは決してありません。もとより人間は、個人でありながら集団をなして生活しており、また、客観的な条件に制約されています。いわゆる「個人」は、事実・ファクトとして社会システムの不可分な要素として組み込まれているわけです。「自分独り」というシチュエーションがそもそもあり得ず、「そう思っているだけ」なのです。

結果的に「我々」意識が弱まり、「我々」意識に欠ける人々が増えるにつれて社会が分断される、社会の集団的・共同体的結束が分解・瓦解して行くわけです。

サンデル氏の上掲指摘は、内容面において総書記の指摘と同一であると言えるでしょう。

■リベラリズム×メリトクラシー=自己の自主性・自主的要求の麻痺
人々の間で蔓延しつつある「自分の地位や財産は自分独りの力で築いたものだ」という認識・社会歴史観は、「自分の成功は自分の努力にのみ拠るものだ」という点において主観主義的というべきです。物事を個人レベルに還元し過ぎています。

この過度な主観主義は、他者の貧困を突き放すにとどまらず、自分自身の首をも絞めるようになります。昨年7月4日づけ「こき使われている勤務医が「自己研鑽」のインチキ理論に毒されているのは何故か、知識労働者を核心とした自主化運動・抵抗運動の展望はどこにあるのか」で指摘したとおり、独り親方・個人事業主的なブルジョア「個人」主義傾向によって、搾取される側が搾取する側のインチキ理論に毒されて、黙々と無給に耐えるようにもなります。雇われる側が雇う側の理屈を受容してしまい、自己の自主性・自主的要求を麻痺させられてしまう恐れもあるのです。

人々が「自分の地位や財産は自分独りの力で築いたものだ」とか「自分の成功は自分の努力にのみ拠るものだ」などと考えるようになって行くにつれて、「我々」意識に欠ける人々が増えるにつれて社会の分断が深まる、社会の集団的・共同体的結束が分解・瓦解してゆくだけでなく、搾取される側が搾取する側のインチキ理論に毒されて自己の自主性・自主的要求を麻痺させられてしまう恐れもあるのです。

抑圧が強くなりながらも連帯が高揚してゆかない現状を説明する図式ではないでしょうか? 

■メリトクラシーの原理をいかに改善してゆくべきか
こうした主観主義的な社会歴史観は、個々の人間存在における主観的思考・願望や行動を過剰に重視する啓蒙主義的な個人主義的自由主義と極めて近しい関係にあると言えます。

先に「近代のリベラルな社会構造と高度な産業社会はメリトクラシーの土台の上に成立している」と述べましたが、彼我を断絶させて個人を社会集団から孤立した存在と見なすことは、人間の存在・人間の生命を個人的な側面からのみ捉える一種の「個人」主義と通底するものです。「個人」主義にはどうしても、人間を孤立した個人的存在と見なし、人間の生命を個人的な面からのみ捉える傾向があります。もちろん実際のところ、いわゆる「個人」は、事実・ファクトとして社会システムの不可分な要素として組み込まれています。

「メリトクラシー」の原理が「個々の人間存在における主観的思考・願望や行動を過剰に重視する啓蒙主義的な個人主義的自由主義」的に解釈・利用されることで「近代社会」が成立し、その必然的結果として社会が今まさに「分断」を深めています。しかし、メリトクラシーごと廃止するのは余りにもコストが高すぎるので、メリトクラシーの「改善」が求められています。となれば、「啓蒙主義的な個人主義的自由主義」という解釈・利用方法に着目し、その点を是正することに取り組むべきでしょう。

そのためには、「私の努力」の実態は「主客の相互作用の賜物」という正しい世界観を身に着け、独り親方・個人事業主的なブルジョア「個人」主義を乗り越える必要があります。天狗の鼻をへし折り主観主義的社会歴史観から卒業させ、社会の集団的・共同体的結束の再興を図り、抑圧された働き方ではなく自主的な働き方を達成する必要があるのです。

社会の集団的・共同体的結束を再興させ、同時に抑圧された働き方ではなく自主的な働き方を達成するためには、社会制度革命(社会的分業の進展に伴う有機的連帯の深化が社会の集団的・共同体的結束を再興すること)と思想革命(独り親方・個人事業主的なブルジョア意識の一掃すること)とを同時的に遂行し、社会制度と思想意識の両面において社会をシステム・共同体として再構築する必要、いわゆる「個人」を社会システム・社会共同体の不可分な一員として再組織化する必要があります。

この課題に関する詳しい検討内容は、上掲の昨年7月4日づけ記事及び昨年12月31日づけ記事で論じましたが、社会制度革命と思想革命とを同時的に遂行することで、思想生活においては、人々をして「私の努力」の実態は「主客の相互作用の賜物」という正しい世界観を身に着けせしめることができるでしょう。これにより「集団の中の個人」という集団主義的社会歴史観を身に着ける契機を獲得した人々は、「私の努力」を独り占めしたり、過剰な「自己責任」論を展開することで他人を突き放すことにも躊躇を覚えたりするようになるでしょう。また、社会制度においては、社会構成員同士の有機的連帯が深化してゆくことでしょう。この結果、社会制度と思想意識の両面において社会の集団的・共同体的結束が再興することでしょう。

■社会制度革命と思想革命を同時的に遂行する必要性
なおここで重要なのは、人間存在は社会的・経済的・制度的に規定されたものであり、社会制度を根本から変革しない限りは「改心」だけでは社会は変革され得ないことを十分に理解することにあります。

以前から批判してきたとおり、人間は、社会組織・社会システムに組み込まれているがゆえに、その制約を受けるのが常です。みんながみんな己の正義感に忠実に行動できるわけではなく、みんながみんなファクトに即した情勢把握をしているわけでもありません。このことを無視して「個人が改心すれば社会が変わる」などとすると、昨年10月21日づけ「グレタ・トゥンベリさんを持ち上げている場合ではない」や同12月15日づけ「香港情勢における啓蒙主義的な個人主義的自由主義・リベラリズム的発想の悪しき影響」などて論じたように、根拠薄弱な観念論になってしまうでしょう。また、しっかりとした新しい制度が定立される前に「改心」だけが先走ってしまうと、社会はアノミー状態になってしまうでしょう。

他方、社会制度変革したからといって自動的に人々が「改心」するわけではないことも十分に理解する必要があります。キム・ジョンイル総書記は『社会主義建設の歴史的教訓とわが党の総路線』(チュチェ81・1992年)で次のように指摘されています。
ところが一部の国では、国家主権と生産手段を掌握して経済建設さえ進めれば社会主義が建設できると考え、人びとの思想・意識水準と文化水準をすみやかに高め、人民大衆を革命と建設の主体にしっかり準備させる人間改造事業に第一義的な力をそそぎませんでした。その結果、社会主義社会の主人である人民大衆が主人としての役割を果たせなくなり、結局は経済建設も順調にいかず、社会のすべての分野が停滞状態に陥るようになったのです。
社会制度の変化がそのまま直ちに人々の思想意識を変化させるわけではありません。自生的・自然発生的な変化を無視するわけではありませんが、人為的で積極的な活動は不可欠なのです。

■自由主義のアップデートは社会主義との接点の探求にもなる
「個々の人間存在における主観的思考・願望や行動を過剰に重視する啓蒙主義的な個人主義的自由主義」の誤った部分を是正することは、いわゆるリベラリズム・自由主義を、人間の存在・人間の生命を個人的な側面からのみ捉える一種の「個人」主義から切り離し、人間を個人でありながら集団をなして生活する存在としてシステム的世界観及び集団主義的社会歴史観から基礎づけなおすことをも意味します。

つまり、この取り組みは、社会の分断を糺す取り組みであると同時に、自由主義を個人主義的なものから集団主義的なものにアップデートする、20世紀以前の自由主義を21世紀水準にアップデートすることをも意味するのです。

なお、チュチェ思想に基づく社会主義においては、社会主義の本質は集団主義にあり、社会政治的生命体の構築こそが社会主義の目標であります。自由主義を個人主義的なものから集団主義的なものにアップデートすることはすなわち、自由主義と社会主義との接点を探ることに他なりません。きわめて21世紀的な課題であるといえるでしょう。

■革命の主体は誰か
ちなみに、サンデル氏は「ジョー・バイデン次期大統領は違う。中流家庭出身の大統領として、問題の是正に力を尽くすかもしれない」といいますが、この点についてはチュチェ思想とは大きく異なっていると言わざるを得ないでしょう。かつてキム・ジョンイル総書記は「革命は階級的出身によってではなく、人の思想によって行うものである」と指摘されました。また、「わが党には自己の指導者に忠実な中核が多くいます。党に忠実な中核がわたしを積極的に支持し助けてくれるので、キムジョンイル将軍も存在しているのです。一人では将軍になることはできません。」とも指摘されました。バイデン氏個人が仮にそうした意欲に燃えていたとしても、側近たちがそうでなければ、政治は動かないのです。

このあたり、どうも観念論的なのが気になるところです。一昨年9月30日づけ「김정은위원장 문재인대통령과 백두산에 오르시였다」なとで論じてきたとおり、個人の「思い」は、半径数メートル範囲内であれば「努力」すればそのまま実現するでしょうが、数億人の人々を対象にする場合、組織的に意思統一を図って仕事に取り掛かる必要があります。

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