豊田真由子、実は男性も大きな重荷を背負っている… 男性に対するジェンダーバイアス■女もつらいが、男もつらい
2/23(火) 16:35配信
まいどなニュース
(中略)
■男性も女性も同じ、弱いところもある
私は、男性ばかりの職場で仕事を続けていくうちに、男性もまた、別の大きな重荷を背負っているのでは、と考えるようになりました。「男は、生涯働いて、大黒柱として家族を養わなくてはいけない。常に強くかっこよく、決して弱音を吐いてはいけない。」――多くの男性はずっと、こういう暗黙のプレッシャー・ジェンダーバイアスの中で、生きて来ざるを得なかったのではないでしょうか。
でも、本来は、男性も女性も同じ、弱いところもある人間のはずです。仕事の重圧や人間関係や経済的負荷、その他いろいろ、人生苦しいことがたくさんある中で、それでも、職場でも家庭でも、常に“頼られる存在”として、強くあらねばならないとしたら、気を張って生きていなければならないとしたら、それは、とてもしんどいことなのではないでしょうか。
(中略)
「男の子だから、泣いちゃいけない。将来のことを考えた進路を」「女の子だから、この習い事、この服装」――男女平等を希求し、子どもたちにはさらに生きやすい社会を、と願っている同年代のお母さんたちが、こう口にするのを聞くたびに、モヤモヤし、ジェンダー問題の深さを実感します(言えないけど…)。
◇ ◇ ◇
ジェンダーの問題というのは、非常に多様・複雑で奥が深く、一筋縄ではいきません。その実効的な解決・改善のためには、様々な角度から、いろいろな立場のいろいろな方の気持ちを慮ることが、求められていると、改めて実感します。
全面的に同感です。
女性に対して当為を要求する価値観が、同様に男性に対しても要求しているであろうことは、容易に想像可能です。そして、事実として「女は・・・」の裏には「男は・・・」が存在しました。
たとえば、チュチェ107(2018)年8月4日づけ「女性差別の問題は自主権の問題、女性の解放は男性を含めた勤労人民大衆の解放運動」で取り上げた、東京医科大学での入試差別事件においては、「緊急の手術が多く勤務体系が不規則な外科では、女性医師は敬遠されがちで、「女3人で男1人分」との言葉もささやかれている」という背景があったといいます。
たしかに、結婚・出産・子育てを迎えれば、独身時代のようには働けなくなるでしょう。しかし、ワーク・ライフ・バランスの観点から見れば、そもそもそれが普通の人間的な生活です。東京医大の言い分は、女性に対する当為の押し付けであるのは勿論ですが、同時に「男は女の3倍働け」という意味では男性に対する当為の押し付けでもあったのです。
※ちなみに、当該記事でも書きましたが、東京医大入試差別事件の真相は、「3浪以下の男性受験者への特別加点」であり、不当な取り扱いを受けたのは「女性受験者」だけではなく「3浪を超える男性受験者」もそうでした。本件は単なる「女性差別」事件ではないということです。
■主観過剰のジェンダー平等運動界隈
しかし、最近のジェンダー平等運動界隈はそういった見方をしようとしません。あくまでも「女性に対する当為の押し付け」「女性差別」という観点から主張を展開しています。ジェンダー平等運動界隈が「当事者」と言う言葉を好み、盛んに用いている事実にこの原因が見え隠れしています。つまり、「私は」過剰・主観過剰なのです。
ジェンダー平等運動界隈が組み立てるストーリーは、概ね「不当差別的構造に対して当事者が立ち上がり、闘争の結果、平等を勝ち取る」といったところです。一事が万事、主語が「当事者」であり、社会構造について論じている場合でさえ、あくまでも「当事者にはそう見えた」に過ぎないものです。「分析・論評」というよりも「エッセイ」と言った方が正しいシロモノがあまりにも多くみられるところです。
たしかに、「事実から出発する」ことを重視するためには、現場にいる「当事者」の声を聴くことがとても大切です。しかし、当事者性をあまりにも重視し過ぎると、鳥瞰的な視点・客観的な視点を欠くケースが出てきます。チュチェ105(2016)年3月12日づけ「でた! 「当事者優越主義」――左翼にあるまじき小池晃の大暴言」でも述べたとおり、当事者だからこその感情という問題や、あるいは「井の中の蛙」状態でしかないというケースもあり、決して「当事者」だからといってそのまま無条件に正確な主張を提供するとは限らないのです。
当事者だからこその感情、とりわけ「被害者意識」は、特に厄介な問題です。チュチェ106(2017)年2月11日づけ「被害者意識の暴走は自らの客観的位置を分からなくし、怪しげな連中に付け入る隙を与える――沖縄危機」ではこの点について突き詰めて論じました。被害者意識は、はじめのうちは「加害者としてのアイツらと、被害者としての我々」という構図で把握するものですが、被害者意識が深く激しくなるにつれて「被害者としてのワタシと、それ以外」という構図になって行きがちです。自分以外が見えなくなってゆくわけです。この結果、自分の客観的立ち位置が見えなくなり、周りで同じように苦しめられている人たちを認識から捨象してしまい、あたかも自分だけが苦しんでいるかのように錯覚するようになります。公平性に配慮した解決策を提案できなくなるわけです。
結果として、昨年7月14日づけ「「私は」が先行すぎていて「事実として」が乏しい主観観念論としてのリベラリズムの克服へ、ブルジョア社会・資本主義社会の枠内での「改革」を超えて」でも言及したとおり、「自分がどう思うか」ではなく「客観的にどうなっているのか」という視点を持つことをお勧めしたい反応、「合理性」という言葉を、「私が理解できる」という意味ではなく「事実から出発し、事実に合致している」という意味に引き戻す必要を痛感せざるを得ない反応が氾濫しています。
■主観過剰を脱するには(1)
「私は」過剰・主観過剰を脱する方法について考えてみたいと思います。その材料として、新たに以下の記事を取り上げます。
https://news.yahoo.co.jp/articles/67340e9199b6c557f732b2e32cd15fe648285b73
森喜朗氏の「女性蔑視発言」、本質は日本の「上下関係」ではないかと米在住者が感じたワケ安部かすみ(NY在住ジャーナリスト/編集者)さんの論考。私は今回の森氏の舌禍について「体育会系文化」の存在を感じ取ったところですが、そう大きく変わらないと思われます。単なる男尊女卑の問題ではなく広く階級社会的な問題なのです。
2/22(月) 7:01配信
現代ビジネス
(中略)
今回の騒動の本質
森氏は辞任したが、これで日本にある根深い問題が解決するわけではない。そしてなぜ今回、日本での騒動がこんなに世界中で注目され、騒がれてしまったのだろうか。
筆者は、今回の騒動の裏には、厳格すぎるほどの「縦社会」「上下関係」や弱者を蔑む意識が存在し、それが日本の差別問題をさらに厄介にしていると考える。
例えば、森氏が言ったとされる「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」や「女性は競争意識が強い」という発言。話が長かったり競争意識が強いのは人の性格によるものだから、筆者は真に受けなかった。「(森氏)は男性、女性で物事を区別する考えの人なんだな」という感想を持ったくらいだった。
それよりも気になったのは「組織委員会のみんな(女性7人)はわきまえておられる」と発言した方だ。「わきまえる」という言葉には、「言わなくてもわきまえろよ」という無言の圧力が見え隠れする。
ニューヨーク育ちの知り合いが、日本に就職した時のエピソードがある。
人生経験のために親のルーツである日本に住んでみようと決めた日系二世の彼は、住み慣れたニューヨークを旅立ち、東京にある金融系大企業に就職した。しかし、日本の上下関係やしきたりを初めて体験し、辟易したという。半年ほどで退職し、アメリカにとんぼ帰りした。
「日本の上下関係は厳格すぎて肩が凝る。自分の居場所ではないと感じた」と言っていたのが印象的だった。
また、アメリカで通訳をしている別の知人(女性)は、「ある日本の大企業の幹部らと初めて会った際に、きちんとした挨拶がないなど明らかな上から目線で、ばつの悪い会合だった」と愚痴を漏らしていた。
(以下略)
その意味で、記事全体の論旨は概ね同感ではあります(もっとも、引用外ですが、「完全実力制にするのは賛成」というのは、「「序列のある社会は本来、女性にはプラス」東大初の女性教授・中根千枝氏の助言」に照らすと短絡的にすぎると思うので全面賛同はできません)。
しかしながらこの記事は、意見を同じくする人には通じるでしょうが異なる人に対してはまったく説得力を持たないと言わざるを得ないでしょう。異なる見方・意見に十分に触れず、ひたすら自分の意見を述べるのみだからです。仲間内で盛り上がり共感を得ることはできても、それを超えた広がりの可能性がないのです。つまり、単なるエッセイなのです。
どうすれば、異なる意見の人に対しても説得力のある主張を展開できるようになるのでしょうか? 一つに「たしかにA、しかしB」論法の習慣化があるでしょう。当ブログでも多用しているところです。手順としては、結論として持ってきたい持論をBとして予め設定したうえで、それに対する反論をAとして想定します。想定反論Aについては一定の正当性を認めつつもその不足点を指摘し、持論Bに結論を持っていくという論法です。
この論法の習慣化は、すなわち持論に対する反論探しの習慣化であります。主張の展開に際して必ずこの論法を採用するよう心掛けることで、常に反論を想定する姿勢が身に付くのです。この結果、「私はこう思う」をつらつらと重ねるだけの文章スタイル、身内にしかウケない文章スタイルではなく、ある程度、鳥瞰的視野・客観的視点を持った文章スタイルになるでしょう。
■主観過剰を脱するには(2)
もう一つに、「概念・キーワードからの連想・横展開することによる正しさの検証」が考えられます。ジェンダー平等問題とは直接関係ありませんが、次の記事を題材にしたいとも思います。
https://news.yahoo.co.jp/articles/cc40e94bc01dd6661107957340ad07e93bb0936e
田原総一朗「調査5カ国で『感染は自業自得』が突出して高い日本」〈週刊朝日〉新型コロナウィルス感染について「自業自得」と断ずる人が多い問題を単独でみれば、「同調圧力の強さ」という見方もできるかも知れません。しかし、「自業自得」というキーワードから連想するとき、このように断ずるには論拠が弱いようにも思われます。
2/24(水) 7:00配信
AERA dot.
新型コロナウイルスに感染するのは「自業自得」と考える人の割合が、日本は他国に比べて突出して高い――。ジャーナリストの田原総一朗氏は、新型コロナに関する興味深い調査結果を紹介。その背景に日本社会の同調圧力の強さがあるとみて、持論を展開する。
(以下略)
「自業自得」というのは日本文化を理解する際には欠かせないキーワードであり、ありとあらゆる場面で出くわすキーワードです。たとえば、夜道で強盗やひったくり等の諸犯罪の被害に遭ったとき、「夜更けにあんな道を歩くだなんて不注意だ」という指摘が被害者に浴びせられることは、決して珍しくはありません。
このように、「自業自得」というキーワードについて、それが使われる他の場面を思い浮かべると「不注意」という言葉とセットになっていることに気が付くのではないでしょうか。
その点を踏まえて新型コロナウィルス感染症に関わる巷の主な言説を思い起こすと、「3密を避け、ステイホームを心掛け、手洗いうがいを徹底すれば、かなり高い確率で感染予防になる」といったキャンペーンの存在が浮上してきます。また、少し前の話になりますが、「夜の街での感染拡大が顕著」といった分析が氾濫していました。最近でも「気のゆるみが懸念される」といった警鐘が鳴らされているところです。
これらの言説を総合するに、新型コロナウィルス感染症は、「気を付ければ感染予防になる、気を抜けば感染する」という構図が、主にメディア報道を通して形成され、人口に膾炙していることが容易に想像できます。感染してしまった人を「自業自得」だとするのは「気を抜いたから」であり、「同調圧力の強さ」ではないように思われます。
田原総一朗氏に鳥瞰的視点・客観的視点を要求するのは「筋違い」レベルに無意味なことですが、彼が主観に凝り固まっているのは、結局このように、思い付きで突っ走るところにあるのです。せっかく連想や横展開が可能な一般的概念・キーワードを持ち出したのにそれを十分に生かし切れていない、「AとBは似ている!」という直感的思考で話が終わってしまい、「では、Bと似たCと、Aとの関係は・・・?」という発想に至っていないからなのです。
■総括:真に社会を変革するためには
主観過剰を脱するための方法は、これ以外にもたくさんありますが、今あげたのは極めて初歩的なものです。しかし、そんな初歩的な方法でさえ昨今のエッセイ氾濫の時代には徹底されていないのです。
冒頭でも述べたとおり、女性に対して当為を要求する価値観が、同様に男性に対しても要求しているであろうことは、容易に想像可能です。その点、豊田氏の視点は正しいものです。
もちろん豊田氏は、あくまでも自らの経験からそう述べているだけであり、社会一般レベルでの議論に拡張しているわけではなく、これもまた「エッセイ」の類です。しかし、ジェンダー平等の文脈で「男もつらい」という指摘が出てくるのは極めて珍しく、たとえエッセイでも取り上げたくなるレベルであります。
真に社会を変革するためには、少なくとも建前上は、社会の全成員の共通的利害を示す必要があります。若き日のマルクスとエンゲルスは、『ドイツ・イデオロギー』で次のように述べていました。
自分より先に支配していた階級にとってかわるどの新しい階級も、その目的を遂行するためにだけでも、その利害を社会の全成員の共通の利害としてしめさざるをえない、すなわち、観念的に表現すれば、その諸思想に普遍性の形式をあたえ、それらの思想をただひとつの理性的で、普遍妥当的な諸思想としてしめさざるをえないからである。革命をおこなう階級は、それがある階級に対抗するという理由からだけでも、最初から階級としてではなく、社会全体の代表者として登場し、ただひとつの支配的階級にたいする社会の大衆全体として現れる。マルクス/エンゲルス著、服部文男訳『[新訳]ドイツ・イデオロギー』新日本出版(1996)p61より
「女もつらいが、男もつらい」――ジェンダー平等運動界隈が「私は」を乗り越える日が一日も早く訪れ、人民大衆の自主化偉業の一環としてのジェンダー平等運動に進化することを願ってやみません。
ラベル:社会