2021年02月27日

「私はこう思う」を乗り越え、真に社会を変革し得る人民大衆の自主化偉業としてのジェンダー平等運動に進化するために

https://news.yahoo.co.jp/articles/52723b8d02c58409bb037fd9e7177520c198a135
豊田真由子、実は男性も大きな重荷を背負っている… 男性に対するジェンダーバイアス
2/23(火) 16:35配信
まいどなニュース

(中略)
■男性も女性も同じ、弱いところもある

私は、男性ばかりの職場で仕事を続けていくうちに、男性もまた、別の大きな重荷を背負っているのでは、と考えるようになりました。「男は、生涯働いて、大黒柱として家族を養わなくてはいけない。常に強くかっこよく、決して弱音を吐いてはいけない。」――多くの男性はずっと、こういう暗黙のプレッシャー・ジェンダーバイアスの中で、生きて来ざるを得なかったのではないでしょうか。

でも、本来は、男性も女性も同じ、弱いところもある人間のはずです。仕事の重圧や人間関係や経済的負荷、その他いろいろ、人生苦しいことがたくさんある中で、それでも、職場でも家庭でも、常に“頼られる存在”として、強くあらねばならないとしたら、気を張って生きていなければならないとしたら、それは、とてもしんどいことなのではないでしょうか。

(中略)
「男の子だから、泣いちゃいけない。将来のことを考えた進路を」「女の子だから、この習い事、この服装」――男女平等を希求し、子どもたちにはさらに生きやすい社会を、と願っている同年代のお母さんたちが、こう口にするのを聞くたびに、モヤモヤし、ジェンダー問題の深さを実感します(言えないけど…)。

  ◇   ◇   ◇

ジェンダーの問題というのは、非常に多様・複雑で奥が深く、一筋縄ではいきません。その実効的な解決・改善のためには、様々な角度から、いろいろな立場のいろいろな方の気持ちを慮ることが、求められていると、改めて実感します。
■女もつらいが、男もつらい
全面的に同感です。

女性に対して当為を要求する価値観が、同様に男性に対しても要求しているであろうことは、容易に想像可能です。そして、事実として「女は・・・」の裏には「男は・・・」が存在しました

たとえば、チュチェ107(2018)年8月4日づけ「女性差別の問題は自主権の問題、女性の解放は男性を含めた勤労人民大衆の解放運動」で取り上げた、東京医科大学での入試差別事件においては、「緊急の手術が多く勤務体系が不規則な外科では、女性医師は敬遠されがちで、「女3人で男1人分」との言葉もささやかれている」という背景があったといいます。

たしかに、結婚・出産・子育てを迎えれば、独身時代のようには働けなくなるでしょう。しかし、ワーク・ライフ・バランスの観点から見れば、そもそもそれが普通の人間的な生活です。東京医大の言い分は、女性に対する当為の押し付けであるのは勿論ですが、同時に「男は女の3倍働け」という意味では男性に対する当為の押し付けでもあったのです。

※ちなみに、当該記事でも書きましたが、東京医大入試差別事件の真相は、「3浪以下の男性受験者への特別加点」であり、不当な取り扱いを受けたのは「女性受験者」だけではなく「3浪を超える男性受験者」もそうでした。本件は単なる「女性差別」事件ではないということです。

■主観過剰のジェンダー平等運動界隈
しかし、最近のジェンダー平等運動界隈はそういった見方をしようとしません。あくまでも「女性に対する当為の押し付け」「女性差別」という観点から主張を展開しています。ジェンダー平等運動界隈が「当事者」と言う言葉を好み、盛んに用いている事実にこの原因が見え隠れしています。つまり、「私は」過剰・主観過剰なのです

ジェンダー平等運動界隈が組み立てるストーリーは、概ね「不当差別的構造に対して当事者が立ち上がり、闘争の結果、平等を勝ち取る」といったところです。一事が万事、主語が「当事者」であり、社会構造について論じている場合でさえ、あくまでも「当事者にはそう見えた」に過ぎないものです。「分析・論評」というよりも「エッセイ」と言った方が正しいシロモノがあまりにも多くみられるところです。

たしかに、「事実から出発する」ことを重視するためには、現場にいる「当事者」の声を聴くことがとても大切です。しかし、当事者性をあまりにも重視し過ぎると、鳥瞰的な視点・客観的な視点を欠くケースが出てきます。チュチェ105(2016)年3月12日づけ「でた! 「当事者優越主義」――左翼にあるまじき小池晃の大暴言」でも述べたとおり、当事者だからこその感情という問題や、あるいは「井の中の蛙」状態でしかないというケースもあり、決して「当事者」だからといってそのまま無条件に正確な主張を提供するとは限らないのです。

当事者だからこその感情、とりわけ「被害者意識」は、特に厄介な問題です。チュチェ106(2017)年2月11日づけ「被害者意識の暴走は自らの客観的位置を分からなくし、怪しげな連中に付け入る隙を与える――沖縄危機」ではこの点について突き詰めて論じました。被害者意識は、はじめのうちは「加害者としてのアイツらと、被害者としての我々」という構図で把握するものですが、被害者意識が深く激しくなるにつれて「被害者としてのワタシと、それ以外」という構図になって行きがちです。自分以外が見えなくなってゆくわけです。この結果、自分の客観的立ち位置が見えなくなり、周りで同じように苦しめられている人たちを認識から捨象してしまい、あたかも自分だけが苦しんでいるかのように錯覚するようになります。公平性に配慮した解決策を提案できなくなるわけです。

結果として、昨年7月14日づけ「「私は」が先行すぎていて「事実として」が乏しい主観観念論としてのリベラリズムの克服へ、ブルジョア社会・資本主義社会の枠内での「改革」を超えて」でも言及したとおり、「自分がどう思うか」ではなく「客観的にどうなっているのか」という視点を持つことをお勧めしたい反応、「合理性」という言葉を、「私が理解できる」という意味ではなく「事実から出発し、事実に合致している」という意味に引き戻す必要を痛感せざるを得ない反応が氾濫しています。

■主観過剰を脱するには(1)
「私は」過剰・主観過剰を脱する方法について考えてみたいと思います。その材料として、新たに以下の記事を取り上げます。
https://news.yahoo.co.jp/articles/67340e9199b6c557f732b2e32cd15fe648285b73
森喜朗氏の「女性蔑視発言」、本質は日本の「上下関係」ではないかと米在住者が感じたワケ
2/22(月) 7:01配信
現代ビジネス

(中略)
今回の騒動の本質
 森氏は辞任したが、これで日本にある根深い問題が解決するわけではない。そしてなぜ今回、日本での騒動がこんなに世界中で注目され、騒がれてしまったのだろうか。

 筆者は、今回の騒動の裏には、厳格すぎるほどの「縦社会」「上下関係」や弱者を蔑む意識が存在し、それが日本の差別問題をさらに厄介にしていると考える。

 例えば、森氏が言ったとされる「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」や「女性は競争意識が強い」という発言。話が長かったり競争意識が強いのは人の性格によるものだから、筆者は真に受けなかった。「(森氏)は男性、女性で物事を区別する考えの人なんだな」という感想を持ったくらいだった。

 それよりも気になったのは「組織委員会のみんな(女性7人)はわきまえておられる」と発言した方だ。「わきまえる」という言葉には、「言わなくてもわきまえろよ」という無言の圧力が見え隠れする。

 ニューヨーク育ちの知り合いが、日本に就職した時のエピソードがある。

 人生経験のために親のルーツである日本に住んでみようと決めた日系二世の彼は、住み慣れたニューヨークを旅立ち、東京にある金融系大企業に就職した。しかし、日本の上下関係やしきたりを初めて体験し、辟易したという。半年ほどで退職し、アメリカにとんぼ帰りした。

 「日本の上下関係は厳格すぎて肩が凝る。自分の居場所ではないと感じた」と言っていたのが印象的だった。

 また、アメリカで通訳をしている別の知人(女性)は、「ある日本の大企業の幹部らと初めて会った際に、きちんとした挨拶がないなど明らかな上から目線で、ばつの悪い会合だった」と愚痴を漏らしていた。

(以下略)
安部かすみ(NY在住ジャーナリスト/編集者)さんの論考。私は今回の森氏の舌禍について「体育会系文化」の存在を感じ取ったところですが、そう大きく変わらないと思われます。単なる男尊女卑の問題ではなく広く階級社会的な問題なのです。

その意味で、記事全体の論旨は概ね同感ではあります(もっとも、引用外ですが、「完全実力制にするのは賛成」というのは、「「序列のある社会は本来、女性にはプラス」東大初の女性教授・中根千枝氏の助言」に照らすと短絡的にすぎると思うので全面賛同はできません)。

しかしながらこの記事は、意見を同じくする人には通じるでしょうが異なる人に対してはまったく説得力を持たないと言わざるを得ないでしょう。異なる見方・意見に十分に触れず、ひたすら自分の意見を述べるのみだからです。仲間内で盛り上がり共感を得ることはできても、それを超えた広がりの可能性がないのです。つまり、単なるエッセイなのです。

どうすれば、異なる意見の人に対しても説得力のある主張を展開できるようになるのでしょうか? 一つに「たしかにA、しかしB」論法の習慣化があるでしょう。当ブログでも多用しているところです。手順としては、結論として持ってきたい持論をBとして予め設定したうえで、それに対する反論をAとして想定します。想定反論Aについては一定の正当性を認めつつもその不足点を指摘し、持論Bに結論を持っていくという論法です。

この論法の習慣化は、すなわち持論に対する反論探しの習慣化であります。主張の展開に際して必ずこの論法を採用するよう心掛けることで、常に反論を想定する姿勢が身に付くのです。この結果、「私はこう思う」をつらつらと重ねるだけの文章スタイル、身内にしかウケない文章スタイルではなく、ある程度、鳥瞰的視野・客観的視点を持った文章スタイルになるでしょう。

■主観過剰を脱するには(2)
もう一つに、「概念・キーワードからの連想・横展開することによる正しさの検証」が考えられます。ジェンダー平等問題とは直接関係ありませんが、次の記事を題材にしたいとも思います。
https://news.yahoo.co.jp/articles/cc40e94bc01dd6661107957340ad07e93bb0936e
田原総一朗「調査5カ国で『感染は自業自得』が突出して高い日本」〈週刊朝日〉
2/24(水) 7:00配信
AERA dot.

 新型コロナウイルスに感染するのは「自業自得」と考える人の割合が、日本は他国に比べて突出して高い――。ジャーナリストの田原総一朗氏は、新型コロナに関する興味深い調査結果を紹介。その背景に日本社会の同調圧力の強さがあるとみて、持論を展開する。

(以下略)
新型コロナウィルス感染について「自業自得」と断ずる人が多い問題を単独でみれば、「同調圧力の強さ」という見方もできるかも知れません。しかし、「自業自得」というキーワードから連想するとき、このように断ずるには論拠が弱いようにも思われます

「自業自得」というのは日本文化を理解する際には欠かせないキーワードであり、ありとあらゆる場面で出くわすキーワードです。たとえば、夜道で強盗やひったくり等の諸犯罪の被害に遭ったとき、「夜更けにあんな道を歩くだなんて不注意だ」という指摘が被害者に浴びせられることは、決して珍しくはありません。

このように、「自業自得」というキーワードについて、それが使われる他の場面を思い浮かべると「不注意」という言葉とセットになっていることに気が付くのではないでしょうか。

その点を踏まえて新型コロナウィルス感染症に関わる巷の主な言説を思い起こすと、「3密を避け、ステイホームを心掛け、手洗いうがいを徹底すれば、かなり高い確率で感染予防になる」といったキャンペーンの存在が浮上してきます。また、少し前の話になりますが、「夜の街での感染拡大が顕著」といった分析が氾濫していました。最近でも「気のゆるみが懸念される」といった警鐘が鳴らされているところです。

これらの言説を総合するに、新型コロナウィルス感染症は、「気を付ければ感染予防になる、気を抜けば感染する」という構図が、主にメディア報道を通して形成され、人口に膾炙していることが容易に想像できます。感染してしまった人を「自業自得」だとするのは「気を抜いたから」であり、「同調圧力の強さ」ではないように思われます。

田原総一朗氏に鳥瞰的視点・客観的視点を要求するのは「筋違い」レベルに無意味なことですが、彼が主観に凝り固まっているのは、結局このように、思い付きで突っ走るところにあるのです。せっかく連想や横展開が可能な一般的概念・キーワードを持ち出したのにそれを十分に生かし切れていない、「AとBは似ている!」という直感的思考で話が終わってしまい、「では、Bと似たCと、Aとの関係は・・・?」という発想に至っていないからなのです。

■総括:真に社会を変革するためには
主観過剰を脱するための方法は、これ以外にもたくさんありますが、今あげたのは極めて初歩的なものです。しかし、そんな初歩的な方法でさえ昨今のエッセイ氾濫の時代には徹底されていないのです。

冒頭でも述べたとおり、女性に対して当為を要求する価値観が、同様に男性に対しても要求しているであろうことは、容易に想像可能です。その点、豊田氏の視点は正しいものです。

もちろん豊田氏は、あくまでも自らの経験からそう述べているだけであり、社会一般レベルでの議論に拡張しているわけではなく、これもまた「エッセイ」の類です。しかし、ジェンダー平等の文脈で「男もつらい」という指摘が出てくるのは極めて珍しく、たとえエッセイでも取り上げたくなるレベルであります。

真に社会を変革するためには、少なくとも建前上は、社会の全成員の共通的利害を示す必要があります。若き日のマルクスとエンゲルスは、『ドイツ・イデオロギー』で次のように述べていました。
自分より先に支配していた階級にとってかわるどの新しい階級も、その目的を遂行するためにだけでも、その利害を社会の全成員の共通の利害としてしめさざるをえない、すなわち、観念的に表現すれば、その諸思想に普遍性の形式をあたえ、それらの思想をただひとつの理性的で、普遍妥当的な諸思想としてしめさざるをえないからである。革命をおこなう階級は、それがある階級に対抗するという理由からだけでも、最初から階級としてではなく、社会全体の代表者として登場し、ただひとつの支配的階級にたいする社会の大衆全体として現れる。
マルクス/エンゲルス著、服部文男訳『[新訳]ドイツ・イデオロギー』新日本出版(1996)p61より

「女もつらいが、男もつらい」――ジェンダー平等運動界隈が「私は」を乗り越える日が一日も早く訪れ、人民大衆の自主化偉業の一環としてのジェンダー平等運動に進化することを願ってやみません
ラベル:社会
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2021年02月26日

リベラリストは相手が何を言っているのか正確に把握しよう、事実から出発しよう、国語の読解問題をやり直そう

https://news.yahoo.co.jp/articles/f026225e8d56018d604338b7a0f751ea36000b16
夫婦別姓に反対の丸川珠代大臣「自分は旧姓使用」に疑問の声
2/25(木) 22:27配信
女性自身

(中略)
そんな夫婦別姓に反対の立場を示した彼女だが、実は丸川は旧姓。08年6月に自民党の大塚拓議員(47)と結婚し、大塚珠代となっているのだ。2月24日にアップされた「インターネット版 官報」にも「丸川珠代(本名・大塚珠代)」と記されている。

しかし結婚して以降、13年にもわたって丸川珠代という名前で政治活動を続けている。そのため、ネットでは彼女の言動を疑問視する声が相次いでいる。

《ご本人は結婚して「大塚珠代」が本名なのに、夫婦別姓で「丸川珠代」を名乗り続けているという不思議》
《旧姓で仕事してる大塚珠代さんなのにね》
《自分は、別姓を使いながら、それに反対する二枚舌》

民法750条で「夫婦の同氏(=同姓、同名字)」が規定されているため、結婚すると夫婦は同じ姓を名乗らなくてはならない。そして慣習的に、女性が姓を変えることとなっている。

(中略)
選択的夫婦別姓制度は「姓を変えたい人は変えればいい」というものだ。大塚姓でなく、丸川姓を選択している“政治家・丸川珠代”。男女共同参画担当大臣としてジェンダー平等の旗振り役でもあるが、その振る舞いはあらゆる矛盾を孕んでいるのではないだろうか。

最終更新:2/25(木) 22:27

自民党的な夫婦同姓論は、要するに「夫婦は戸籍上は同姓であるべきだが、通称的な旧姓使用はむしろ推進」という立場であるはず。高市早苗前総務相を筆頭とする自民党内のグループは、選択的夫婦別姓について、導入には慎重に対応するとともに、旧姓の通称使用を拡充するよう求める提言書を手渡している(「旧姓の通称使用拡充を 自民党・夫婦別姓慎重派が提言」 2020年12月03日15時25分)ところです。

丸川氏を批判するのは大いに結構ですが、相手の言っていることを正確に捉えた上で批判・反論しないと意味がありません。

我々チュチェ思想派は、こうした姿勢を「事実から出発する」といいますが、昨年7月14日づけ「「私は」が先行すぎていて「事実として」が乏しい主観観念論としてのリベラリズムの克服へ、ブルジョア社会・資本主義社会の枠内での「改革」を超えて」でも指摘したとおり、リベラリストは「私はこう思う」という主観的見方が先行すぎていて、「事実として」という客観的見方が乏しいものです。リベラリストが「全知全能的な天才」であれば、こんな姿勢でもよいのかも知れませんが、相手の主張を正確に読解できないなどという「平均以下」では、いかんともし難いものがあります。

相手が言ってもいないことについて、無意味にも反論・批判を展開している・・・いったい誰と闘っているのでしょうか? 実にくだらない。リベラリストは、相手が何を言っているのか正確に把握する必要、事実から出発する必要、国語の読解問題をやり直す必要がありそうです。
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2021年02月25日

政治指導者は人民の間から、人民に押し上げられる形・推戴される形で表舞台に出てくる

https://news.yahoo.co.jp/articles/869b67481527fe2ab7695acb1cb286eb5527ad1d
「トランプがアメリカ国民を2つに割るという、そこまでの力は1人の人間にはない」米大統領選を振り返り橋下徹氏
2/25(木) 19:01配信
ABEMA TIMES

(中略)
 トランプ氏については、大統領時代のその過激な発言などから社会の分断をあおってきたという評価が多くある。橋下氏は「一部の表面的な所だけを見て分断だとするのは言い過ぎなのではないか」と指摘。「もともと対立や意見の違いがあって、国民の不満がどんどん大きくなってきている中で、そこにトランプさんが出てきた。トランプさんが出てきたからアメリカ国民を2つに割るという、そこまでの力は1人の人間にはなく、なぜそういうふうになったのかという原因を考えないと。直近の選挙で残念だったのは、トランプさんの方に7000万人以上というすごい数の支持者がいる中で、特に日本でコメントしているバイデン支持の人が『トランプに7000万人の支持が集まるということは残念だ』『これはおかしい』と言うのは違うと思う。バイデン支持の人たちがトランプ支持の人をバカにするような、そういうところが積み重なって生み出しているということも考えないといけないと思う」と述べると、長野氏も「本当にそう思う」と頷いた。
(ABEMA/『NewsBAR橋下』より)
珍しく橋下徹氏と意見が完全一致。「トランプさんが出てきたからアメリカ国民を2つに割るという、そこまでの力は1人の人間にはなく、なぜそういうふうになったのかという原因を考えないと」という指摘は完全に正しいものです。

以前から取り返しているとおり、大統領は行政組織の長として絶大な権限を持っているとはいえ、あくまでもその権限を以って自己の意思を貫徹し得るのは行政組織内にとどまります。一個人がその意思を、各自が自由な意思をもつ人間たちの集団としての社会のうちにおいて貫徹させるためには、ときに反対意見を押し切って自らの意思を「押しつける」という意味での権力を行使する必要があります。そのためには、当該人間集団において指揮命令系統を構築・整備する必要があります。すなわち、組織化が必要になります。

アメリカ社会はそれ自体が高度に組織化されているとは言えません。そのため、たとえ大統領といえども個人が組織指導者のように社会そのものを意のままに操ることはできないのです。

キム・ジョンイル総書記は「わが党には自己の指導者に忠実な中核が多くいます。党に忠実な中核がわたしを積極的に支持し助けてくれるので、キムジョンイル将軍も存在しているのです。一人では将軍になることはできません。わたしは中核の知恵をまとめて、彼らに依拠して政治をおこなっています」と仰いました(『党のまわりに固く団結し新たな勝利のために力強くたたかっていこう』)。政治指導者は人民の間から、人民に押し上げられる形・推戴される形で表舞台に出てくるものです。

一個人が国民意識を操ることができるという考え方は、あまりにも一個人の影響力を過大視しており、主観観念論の域に達しているとさえ言えるものです。こうした見方は、是認する側においては「救世主待望論」、否定する側においては「悪人黒幕論」を招来するものであり、突き詰めると、「設計主義的改造論」と「悪人粛清論」に行きつくものです。20世紀社会主義の教訓を見るに、きわめて危険な考え方であると言えます。

https://news.yahoo.co.jp/articles/438233c8402965c01181f9475716010194adf1ba?page=2
バイデンが直面する"ファシズム前夜"というアメリカの現実
2/1(月) 6:00配信
週プレNEWS

(中略)
トランプが利用した白人層の心情は"white grievance(ホワイト・グリーバンス)"と呼ばれています(grievanceは「不当な扱いに対する憤り」のこと)。

従来は堂々と口に出すことがはばかられた彼らの内なる憤りは、油で満たされた沼のようになっていた。トランプはそこにマッチをすって投げ込みました。今後、仮に火をつけた本人が政治の舞台からいなくなったとしても、白人たちの被害者意識や不満は当分の間、"憤懣の沼"として渦巻き続けるでしょう。

(以下略)
翻ってモーリー・ロバートソン氏。彼は筋金入りのリベラリストでありつつも、「トランプは分断の『原因』ではなく『結果』だ」という認識をお持ちで、「トランプが世論を操っている、無垢な庶民がトランプに操られている」という見方に陥りがちな巷のリベラリストとは明らかに一線を画しています。

そんなロバートソン氏ですが、「彼らの内なる憤りは、油で満たされた沼のようになっていた。トランプはそこにマッチをすって投げ込みました」という見方には若干の不足があると言わざるを得ません。この描き方だと、「たまたま通りかかったドナルド・トランプ氏が燃えるマッチを投げ込んだ」というふうにも読めます。では問いたい。なぜトランプ氏は『そこ』にいたのでしょうか? なぜトランプ氏は「マッチ」を持とうと思うに至り、なぜ実際に「マッチ」を持っていたのでしょうか? たまたま? たまたまあのタイミングであんな所には居たとは考えにくいし、たまたま「マッチ」を持とうとは思わないし、実際に持つに至るとも考えにくいものです。

ロバートソン氏の見方では、いったいなぜドナルド・トランプという一個人が2016年に彗星のごとくアメリカ政界に現れたのか、そこにどのような必然性があったのかが見えてきません。トランプ氏もまた時代の産物のひとつであり、民衆が彼を大統領に祭り上げたのです。民衆がトランプ大統領を作ったのです。トランプ氏が大統領になったのは、民衆の要求の必然的結果だったのです。

リベラル派のなかでは比較的冷静かつ事実に即した形でトランプ現象を見ることができているロバートソン氏でさえ十分に描き切れていないようです。社会の指導者は人民大衆の中から必然的に出現する、この主体的な社会観を貫徹する必要性を改めて認識するところです。
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2021年02月23日

この5年間の「不倫の是非」論争と「ニッポンの不倫観」の変遷から見えるもの

https://news.yahoo.co.jp/articles/89d3af5dced79fb8928ee64d0ce2e8795e412063
竹中平蔵氏 ドヤ顔で不倫論≠語るも共演者猛ツッコミ「言ってることが浅いよ!」
2/14(日) 19:39配信
東スポWeb

 菅義偉政権のブレーンで経済学者の竹中平蔵氏(69)が、14日放送の読売テレビ「そこまで言って委員会NP」に出演。不倫問題≠ノついて持論を展開したが、共演者から猛ツッコミを食らった。

 この日は相次ぐ有名人の不倫問題が話題に上り、出演者に「配偶者の不倫は許せるか? 許せないか?」とアンケートがとられた。

(中略)
 ただ続けて「でも、一つのアンケートがありまして『不倫経験がありますか?』って聞いたら、男性の7割があると答えたっていうんです。女性も3割があるって答えたっていうんですよね」と指摘し「これほんとに偏ってるアンケートかもしれませんから分かりませんけども、今の一夫一妻制っていう制度の中で人間の本能みたいなものと、社会の制度との間でのちょっとしたズレみたいな中でこういう問題が起きてる。だけども、社会で律しなきゃいけないから、ま、『許せない それが普通やろ!』という回答」とドヤ顔≠ナ説明。

 これに経済ジャーナリストの須田慎一郎氏が「浅いねー。浅いよ。言ってることが浅いよ、浅い!」と猛クレーム。同志社大学教授・村田晃嗣氏は「竹中さん、今分かったけど、ウソつくときは関西弁使うのね」とイジった。

東京スポーツ
■「不倫の是非」論争の5年間で見えてきた「ニッポンの不倫観」の変遷
毎週出演のレギュラーというわけでもないのに、なぜ「不倫の是非」に関する議論に竹中平蔵氏をぶつけたのか制作側の意図がサッパリ分からないところですが、お笑い芸人に新型コロナウィルスの話や政治とカネの問題の話をさせるのと同じような意味合いなのかも知れません。つまり、それだけ不倫の是非がポピュラーな論題になってきたということなのかも知れません。

不倫報道自体は、昭和の時代からワイドショー的情報番組の定番的話題でしたが、あくまでも不倫という「事実または疑惑」に関する(ほとんど興味本位的な)報道に過ぎませんでした。「不倫の是非」が話題になったのは、やはりチュチェ105(2016)年1月の「ゲス不倫」騒動のあたりからでした。

「SNS時代最初の大型不倫」だった当該事件。昔であればテレビの前で、せいぜい一緒にテレビを見ている家族相手に呟くくらいで消滅していた様々な感想は、いまや即時に全世界に発信できる時代になりました。ひとり一人の瞬間的に浮かんだ感想が、脳裏から消え去る前に全世界に発信できるようになったわけです。そうした瞬間的感想どうしがインターネットネット空間で出くわし合うことで議論が自然発生的に発生し、いままで見られなかった「不倫の是非」という論題が社会的規模で取り上げられるようになったわけです。

この5年間の「不倫の是非」論争を振り返ると、「ニッポンの不倫観」の変遷が見えてきます。不倫批判論はあまり変化しませんでしたが、不倫擁護論は手を変え品を変え出現したので、不倫擁護論の振り返りが効果的です。

■2016年:「不倫は多様な家庭の在り方の一つ」
まず、ゲス不倫騒動によって「不倫の是非」論争の火蓋が切られたチュチェ105(2016)年。同年4月3日づけ「不倫擁護の精神的貧困――不倫は「信頼に対する裏切り」に過ぎぬ。不倫に反対する若者は、「反体制」を気取るエスタブリッシュメントの放縦に反対している。」及び12月31日づけ「チュチェ105(2016)年を振り返る(1)――「ゲス不倫」はパートナー間の問題に留まらない」で取り上げたように、このころはまだ、「不倫は悪いことではない」とか「価値観の多様性を認めろ」といった具合の主張がみられました。「不倫は多様な家庭の在り方の一つ」なんだそうです。

荒唐無稽極まる主張と言う他ないものです。不倫の本質は「信頼に対する裏切り」であり、信頼は社会的人間の根幹であります。上掲記事でも論じたとおり、社会的人間の根幹に反する行動を取りながらも、それは「悪」でないというのならば、いったい何が「悪」なのでしょう? 社会的人間の本質である信頼の裏切りを許容する社会規範は存在しないでしょう。あまりにも軽薄な人間観に基づく不倫擁護論と言わざるを得ないものでした。

幸いにして、こうした擁護論が社会的な支持を得るには至らず、概ね同年中にはほとんど耳にしなくなりました。口にしている側が回心したとは到底思えないので、おそらく相当冷ややかな応対をされたことで「変人・悪者にされたくない」という心理が働き、戦術的に引っ込めるようになったのでしょう。

■2017年〜2019年:「ヨソの家庭内問題だから口出しするな」
つづいて登場したのが、「不倫は悪いことだとは思うが、ヨソの家庭内問題だから口出しするな」論でした。当ブログではチュチェ106(2017)年3月17日づけ「軽薄な人間観に基づく経済還元論、彼我断絶的な人間関係論による無理筋の不倫批判への「批判」」で取り上げました。

こうした新手の議論は、実質的には「不倫は多様な家庭の在り方の一つ」論と違いはなく、それどころか、不倫され傷つき悲しんでいる人に寄り添うことをも「他人の家のことでしょ?」と突き放しかねない冷たい議論です。また、仮に「他人の家」であり直接的被害を受けていないとしても、サザーランド(E. H. Sutherland)の「犯罪行動の分化的接触理論(Theory of differential association)」に照らせば、反社会的行動を「対岸の火事」としてはならず、主に「自分の立場を確認・表明する」という意味で反対するべきであります。

このように「ヨソの家庭内問題」論は、「不倫は多様な家庭の在り方の一つ」論と同程度にレベルの低い主張でしたが、「貧乏人が不満と嫉妬のはけ口を求めて他人の家の不倫問題に口を出す」論とセットで出てきた場合は、さらに酷い論理展開になったものでした。

「貧乏人は、日頃の不満の捌け口として他人の家の不倫問題に口を出す」というのは、裏を返せば「自分の生活に余裕のある人は、ヨソの家庭内問題に口出ししない」ということでになりますが、これは「自分の生活に余裕が出来ると、他人のことに鈍感になる」「自分の利益が守られていれば他人への不当な仕打ち、他人同士のトラブルなど眼中になくなる」と言っているに等しいだと言わざるを得ません。

こういう理屈を展開する手合いは、人間を「社会的集団の一員」という位置づけとしてではなく、「社会との関連性が曖昧な『個人』」として位置づけていることが推察できます。社会においては、たとえ他人同士のトラブルであっても、どこかで必ず繋がっています。特に、信頼関係の問題は社会の基本的紐帯の問題です。それを脅かすような性格をもった人物の行動は、最初は他人同士のトラブルであったとしても、その問題人物が社会生活を送ってゆくことによって、ゆくゆくは各地で問題を引き起こし、自らにも被害が及ぶようになり、ついには全体のシステムにも悪影響を及ぼしかねません。

その意味で、人間同士の信頼関係を基本的紐帯としている我々の社会において、不倫という裏切り行為の最たるものの一つが敢行された事実は、決して「ヨソの家庭内問題」「対岸の火事」では済まされません。この重大な現象を見て見ぬふりをすることは結局、人間を「社会的集団の一員」ではなく「社会との関連性が曖昧な『個人』」として見る軽薄な人間観の発露、すなわち、他人同士のトラブルが永遠に他人同士のトラブルであり続ける、自分は他人と関連していない関係してないという人間観の発露、要するに彼我の断絶という思い込みの発露と言わざるを得ないのです。

このように、私なんかは「ヨソの家庭内問題」論に基づく不倫擁護論は「むしろ悪質性が高まった」と思っていたのですが、「個人」主義が跋扈する現代日本にあっては、かなりの勢力を誇ったのものでした。

■2020年〜:「他人の家のことだけど、私は嫌だ。不快だ。こんなことをする人は嫌いだ。私の好き嫌いを言って何が悪い!」
こうした風潮を一変させたのが、昨年の東出昌大さん(妻:杏さん)の不倫騒動でした。この間もさまざまな不倫報道が定期的にスクープされたことにより、不倫報道に「飽き」がみられつつあったところでしたが、一転して大変な大騒ぎになったものでした。

私も第一報を聞いたときは、「また不倫報道か」と思ったのですが、報道記事を一応読み進めると「これはひどいね・・・いままでとは違って久々の大炎上になりそう」と思ったものでした。最初の子どもが双子で、年子の第三子がいる中で夫が外でかなり若い女を作っていたわけです。特に杏さんは好感度の高い女優で、自らも親の不倫で苦しんだ過去がありました。こうした事情を総合すると、杏さんに感情移入する人は少なくないと思われたのです。案の定、東出さんは袋叩きにあい、芸能界で干されてしまったのは記憶に新しいところだと思います。

杏さんに感情移入した人たちの東出さんへの袋叩き攻勢の前では「ヨソの家庭内問題だから口出しするな」は、なぎ倒されてしまいました。「そうだね、ヨソの家庭内問題だね。でも私は東出が嫌いなの! 私の好き嫌いを言って何が悪い!」といった具合に。

渡部建さん(妻:佐々木希さん)の件も同様でしょう。なかなかインパクトの強い事案ですが「ヨソの家庭内問題」であり、彼の芸能活動に直ちに関係のある話ではありません。しかし、「渡部の顔など二度と見たくない! 私の好き嫌いを言って何が悪い!」という声の前では、やはり東出さんへの袋叩き攻勢のときと同様、あっけなく擁護論は突破されてしまいました。

不倫が「ヨソの家庭内問題」であり「口をはさむべきではない」としても、しかし、「個人的な感想を持ってはいけない」ということにはなりません。「他人の家のことだけど、私は嫌だ。不快だ。こんなことをする人は嫌いだ」というのは十分に成り立つのです。そしてこの個人的感想が人気商売としての芸能人にとっては死活問題になります。

芸能人以外でも程度の差こそあれ同様でしょう。周りの人から嫌われてしまうと生活の難易度は跳ね上がってしまいます。小学校じゃあるまいし「特定個人を嫌うな」というのは無理な要求です。村八分レベルでない限り人間同士の好き嫌いに基づく応対の丁寧さの違いは当然あるものです。

「不倫の是非」論争は、いったんは「不倫は悪いことだとは思うが、ヨソの家庭内問題だから口出しするな」論という相対主義的な魂胆を持った「個人」主義によって議論が沙汰止みになるかに見えました。しかし、「私の好き嫌いを言って何が悪い!」によって再燃するようになったわけです。ただ、後述しますが、「私の好き嫌いを言って何が悪い!」はもはや理屈ではないので、これ以上、議論が深まることはなさそうです。

■少数派意見の立場を固める意図での「多様性」論の危うさについて
ここで、2016年内に自然消滅的に現れなくなった「不倫は多様な家庭の在り方の一つ」に基づく不倫擁護論に話を戻したいと思います。この理屈は、いわゆる「多様性尊重」論をベースに構築された主張です。「何をどう思うのかは、その人それぞれの自由」という原理に基づくものですが、「他人の家のことだけど、私は嫌だ。不快だ。こんなことをする人は嫌いだ。私の好き嫌いを言って何が悪い!」に基づく不倫批判論もまた、「何をどう思うのかは、その人それぞれの自由」に基づくものであると言えます。

「不倫は多様な家庭の在り方の一つ」論は、「何をどう思うのかは、その人それぞれの自由」という御旗を掲げて社会道徳に挑戦状を叩きつけたわけですが、当の社会道徳側が「何をどう思うのかは、その人それぞれの自由」という御旗を掲げ返すことで、圧倒的な数の力で「不倫は多様な家庭の在り方の一つ」論を捻じ伏せたというわけです。

以前から述べていることですが、少数派意見の立場を固める意図で「何をどう思うのかは、その人それぞれの自由」という意味での「多様性」を持ち出すと、数の力で返り討ちに遭う可能性があります

仮に、「あなたはそう考えるんですね。私とは考え方は違いますけど。特に干渉はしないのでご自由にどうぞ」といって貰え、積極的に批判・排斥されることはなくなったとしても、あくまでも「相互不干渉の確認」という意味合いに過ぎないでしょう。相異なる「正しさ」の体系が同じ思想文化空間に併存することは相当困難であり、「価値観の多様性の尊重」というのは、現実的には「棲み分けと相互不干渉」にならざるを得ません

現にヨーロッパではいま、従来のヨーロッパ的価値観とイスラム移民が持ち込んだ新興の価値観との衝突が起きていますが、「棲み分けと相互不干渉」という形での隣人関係構築に落ち着こうとしています。お互いに排斥し合わないが、お互いの思想文化空間に棲み分けし、必要に応じて「異文化交流」するという形です。相異なる二つの価値観体系がヨーロッパにおいて融合統一されるには、数世代以上の時間が必要になるでしょう。

「不倫の是非」はここまで大袈裟ではないとしても、「一夫一妻制を基本とし、お互いの信頼を裏切らない」という価値観体系と「不倫は多様な家庭の在り方の一つ」の価値観体系も論理の問題として両立し得ないものです(ポリアモリーについては、チュチェ106・2017年7月11日づけ「「新しい」ものの魔力」で触れましたが、ここでは関係のない話です)。そうなると、不倫擁護論の考え方や存在を否定されることはなくなったとしても、持論に対して共感を得たり仲間として輪に加わったりすることはできないでしょう。

■社会道徳はどのようにして形成されるのか、社会道徳は単なる好き嫌いの問題の総体なのか
このように、「不倫の是非」論争を通じて形成された「ニッポンの不倫観」の変遷を振り返ると、ひとり一人の「他人に対する好き嫌い」の感情と「他人から嫌われたくない」という感情(利害関係?)によって自由社会にあっても一定の社会秩序としての社会道徳が作られる様が見えてきました。

社会道徳は理屈だけで成り立っているわけではなく、「こうあってほしい」「こんなのは嫌だ」というひとり一人の小さな思いが、ちょうどベクトルの合成のような形で社会的に共通の考え方として形成されるのです。もちろん私は観念論者ではないので、ここに現存社会制度等の客観的制約が影響していることを無視するわけではありませんが、ここでは割愛します。

いま最新の情勢は、上述のとおり「私の好き嫌いを言って何が悪い!」に位置しています。おそらく、「私の好き嫌いを言って何が悪い!」が個人的感想の表明として理解できる範囲内にとどまる限りは、もっと具体的に言えば、よってたかって総攻撃を仕掛けることで当人が自死に追いやられるようなことが頻発しない限りは、この批判論に勝る新しい擁護論は出てきにくいものと思われます。好き嫌いは理屈ではないので、他人が論破できることではないからです。

もちろん、擁護論が批判論を論破できないように批判論も擁護論を論破することはできないでしょう。「好き嫌い」という軸で議論にはならす、永遠に分かり合うことができない平行線をたどり続けることでしょう。そして、その時代時代の人々ひとり一人が、どちらに自らの理想を見出すかによって社会道徳が決まることになるでしょう。

ただ、社会道徳を単なる好き嫌いの問題の総体であるという結論に帰するのには躊躇いがあります。古来から道徳については人智の積み重ねがありますが、社会道徳というものはそんな程度のものではないはずです。キム・ジョンイル総書記は「道徳的信義は、革命家の品格を決定する基本的表徴の一つである」と指摘されましたが、主体的社会主義を考えるには道徳の何たるかを考えることは避けられません。継続的に取り上げたいと思います。

■まだまだ我々の社会は人間同士の信頼関係を基本的紐帯としている
それはさておき、今回の「不倫の是非」論争は、人間同士の信頼関係を基本的紐帯とする我々の社会の姿を再確認できたものだと言えるでしょう。「個人」主義が跋扈する現代日本では「ヨソの家庭内問題」論は大きな「説得力」を持ってしまい、社会道徳が一瞬揺らいだかに見えました。しかし、「他人の家のことだけど、私は嫌だ。不快だ。こんなことをする人は嫌いだ。私の好き嫌いを言って何が悪い!」によって体勢を立て直したわけです。

他人事と相対主義が深刻化の一途をたどる今の世の中ですが、まだまだ(主体的な意味で)社会的存在である人間にとって最も大切な価値観体系は力強く残っているということです。
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2021年02月20日

森喜朗会長辞任・橋本聖子新会長就任にかかるドタバタの主体的総括4題

森喜朗・東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長の舌禍に関する記事について4つほどまとめて処理したいと思います。

■女性会長ありきは「逆差別」ではない
https://news.yahoo.co.jp/articles/77828c4facfe59effca12fc8753d345d6d9d1a7a
藤田ニコル 森氏発言「全文読んでもいやだった」
2/14(日) 11:23配信
日刊スポーツ

藤田ニコルが14日、TBS系「サンデー・ジャポン」(日曜午前9時54分)で、女性蔑視発言で東京五輪・パラリンピック組織委員会の会長を辞任した森喜朗氏(83)について言及した。

(中略)
発言の一部を切り取ったとして、メディアなどへの批判もあがっていることについて藤田は「私も全文読んだんですけど、全文読んでもいやだった」と切り捨てた。

その上で「これは、全文読んでも私はいやだと思ったんですけど、確かに切り取りはマスコミのみなさんやりすぎだなっていう部分はこのニュースだけじゃなくてもすごく思います」と話した。

(以下略)
森喜朗氏の発言全文を見よという主張は早くから上がっていました。私も、マスメディアは「切りとる」ものだというのが骨身にしみてよく分かっている(「北朝鮮」報道はひどいからね)し、最近の記者の破滅的な国語力の低さゆえに、言われる前から自発的に全文をチェックしていたところです。

うん、やっぱり擁護困難であり、不快感を抱かずには居られませんでした。「森喜朗会長の発言の真意は「女性登用」に苦心するJOC山下泰裕会長を擁護するものだった」(ニッポン放送 2/15(月) 15:50配信)という記事は森氏擁護の旗色鮮明な記事ですが、それでも「確かに見方によっては、女性蔑視とも取れるような発言で不用意ですよ、脇が甘いですよ」と言わざるを得ませんでした。女性蔑視的な主張をメインに据えたスピーチでないことは確かですが、主題を述べるにあたって補助的に述べた事柄に「女は・・・」「男は・・・」的な思想が見え隠れしているのが問題なのです。

いっそ「女は話が長くて困る」と正面からケンカを売ってきたほうがよかった。それなら「なにっ?!」と言えますが、さも自明なことであるかのようにサラッと触れられるとますます腹が立つものです。「たけのこの里サイコー、きのこの山はクソ」と言われると「なにっ?!」と思うが、「きのこの山がクソなのはさておき、たけのこの里のビスケット部分とチョコレート部分との比率についてですが・・・」と言われると、「ちょっと待ったぁ! 聞き捨てならないぞぉ!」になるのと同じ感覚かな? えっ、同列視するなって? ごめんなさい・・・ちなみに私は、きのこ党です。なお、朝鮮労働党がきのこ革命を標榜しているから、きのこ党というわけではありません。さすがにそこまでのめり込んではいません・・・

結局、森氏の後任は橋本聖子氏になりました。よりによって橋本聖子かよ。ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)勢は早くから「後任は女性にすべきだ」といい、川淵三郎氏の名が上がると「なぜ女性ではないのか」といいました。

後任の選定をめぐる騒動は、日本の根深い「男性優位社会」に起因する破滅的な女性人材の不足を示していると言えます。日本は、人の上に立てる女性があまりにも少ない徹底した男性優位社会なのです。

ところで、ここのところ、ポリコレ勢の「後任は女性にすべきだ」に対して「それは逆差別であり、能力や実績で選ぶべきだ」という主張がみられました。これは一見して正しいように見えますが、この手の「逆差別」論は、徹底的な男性優位社会から両性平等社会への「過渡期」においては間違った言い分です。

社会の性格は、チュチェ思想の立場から申せば、政治権力の所在とその権力の志向によって決まります。政治とは社会の構成員を統一指揮することであり、権力とは他人に対して自己の意志を貫徹する力です。このとき権力として最も効果的なのは、人事評価に基づく人事権の行使です。つまり政治権力とは、指導者が自己の意志を貫徹するために、人事権を駆使して人材を任免し、以って社会の構成員を統一指揮することに他なりません。

この観点から分析すると、男性優位社会とは、男性たちが人事評価を付け人事権を行使する社会であるといえます。人事評価は、評価者が絶対的に優位なものです。評価者の男性が両性平等に深い理解のある善人であれば幸いですが、そうであるならば今頃とっくに両性平等は実現しているはずです。しかし、いまだにそうなっていない事実こそが、男性優位社会において絶対的に優位であった男性評価者たちが両性平等的でなかった証拠であります。

こうした社会において、女性の「有能さ」を証明する機会、「実績」を挙げる機会が十分に与えられていたと言えるでしょうか? ポテンシャルがあったとしてもそれを発揮・証明する機会が十分にあったとは言えないでしょう。今まで機会に恵まれて経験を積み、能力と実績をあげてきた男性と、そうした機会に乏しかった女性を、いきなり同じスタートラインに立たせてこれを「平等だ」というのは、子どもと大人を同じスタートラインに立たせて徒競走させることを「平等だ」と言うのと同じくらい荒唐無稽な話であります。こういうのをよく「形式的平等」といいますが、持ち上げ過ぎ。「形骸的平等」というのがお似合いなくらいに、くだらない「平等」論です。

徹底的な男性優位社会から両性平等社会への「過渡期」においては、多少能力や実績が「劣って」いたとしても、真の両性平等社会においては「逆差別」とすべきだとしても、「女性」であることが重要になります。積極的に女性に機会を提供し、能力を開発し実績をあげられるように便宜を図る必要があるのです。

しかしながら、それで出てきたのが「橋本聖子」、それしか出てこないというのが、日本の深刻さを示しています

■「老害」云々とくちにした手合いのタプル・スタンダードっぷりについて
https://news.yahoo.co.jp/articles/4864778ae6d7f3afb42382a101130cec0417b057
森喜朗会長が辞意表明 15分ラスト演説は謝罪、回顧、恨み節…「老害」には「極めて不愉快」

2/13(土) 6:00配信
スポーツ報知

(中略)
 組織委で女性理事や職員をたたえ、発言を促してきたと胸を張り「このひと言でこうなったということは、私自身の不注意もあったのかもしれないが、長い83年の歴史の中で本当に情けないことを言ったもんだなと思う」。最後は世間にかみついた。「誰かが老害と言ったが、年寄りは下がれというのは、どうもいい言葉じゃない。老人もやっぱり日本の国、世界のために頑張ってきた。老人が悪いかのような表現をされることも極めて不愉快な話」と意地を示した。
(以下略)
森氏の発言について「老害」という罵倒が少なからず見られました。これに対して「高齢者差別にならないのか」という批判が起こりました。もっともな指摘です。

「女は・・・」に対するジェンダー平等的立場からの批判が「老害・・・」では、ダブル・スタンダードだと言う他ありません。少し立ち止まって考えれば直ちに分かりそうなものですが・・・リベラリストたちの発想が「事実としてどうなのか」ではなく「自分はこう思う」に過ぎないことについては、昨年7月14日づけ「「私は」が先行すぎていて「事実として」が乏しい主観観念論としてのリベラリズムの克服へ、ブルジョア社会・資本主義社会の枠内での「改革」を超えて」を筆頭に以前から指摘してきたところですが、今回は輪をかけて酷い。こんなことを躊躇いもなく口にしてしまうあたり、ポリコレやリベラルな人たちは、自らを客観視できていないことが推察されるものです。

■リベラリストのいう「時代」論の正体
https://news.yahoo.co.jp/articles/f7f9345353ce2f29e47e66d8fb655858e3737151
蓮舫氏、自民幹部の橋本聖子氏は「男みたいな性格」発言に呆然「昭和から令和に時代は移っています」
2/18(木) 18:18配信

スポーツ報知

(中略)
 「この局面でこの発言。昭和から令和に時代は移っています」とつづると、「べき論や決めつけでもない、年齢や性別ではなく個々の能力を伸ばし、評価。多様性溢れ認め合う社会を。それが新しい創造社会をもたらすと思うのです」と続けていた。
蓮舫氏発言。以前から述べてきたところですが、社会とは、人間が社会的富と社会的関係を以って創り上げるものです。キム・ジョンイル総書記は、ソ連崩壊の総括として超重要労作と位置付けられる『社会主義建設の歴史的教訓とわが党の総路線』において、次のように指摘されました。
社会とは一言でいって、人間が集まった集団です。人間が社会的財貨をもち、社会的関係で結ばれて生活する集団がすなわち社会なのです。社会の主人はほかならぬ人間であり、人間は自主性、創造性、意識性をもち、自己の運命を自主的に、創造的に開拓していく社会的存在です。人間の自主性、創造性、意識性の発展水準によって社会の発展水準が決まり、人間の自主的な思想・意識と創造的能力の向上にともなって社会的財貨が増大し、それによって社会関係も発展します。それゆえ、社会は物質的条件を基本にしてではなく、人間を中心にして考察すべきであり、社会の発展過程は自然史的過程としてではなく、社会的運動の主体である人民大衆の自主的で創造的な活動の過程として考察すべきです。
社会の主人はあくまでも、そこに生きる人間なのです。よって、社会意識・時代意識とは、そこに生きる人々の総体的な意識に他なりません

蓮舫氏は、時代は昭和ではなく令和だと言います。だから何だと言うのでしょうか? 令和の時代にあっても日本人のジェンダー意識は、昭和時代の水準のままに過ぎないのです。

リベラリストは「時代遅れの感覚」という言葉を好みます。たしかに、令和の御代に江戸時代のイエ意識を口にすれば「時代遅れ」でしょう。しかしリベラリストは、令和社会でも割とよく見られる主張に対しても「時代遅れの感覚」といいます。「社会意識・時代意識とは、そこに生きる人々の総体的な意識である」という立場から申せば、奇怪極まる主張です。「時代意識」は「その時代に生きる人たちの意識」なのに、その人たちの意識を「時代遅れ」というのは、論理として成り立っていません

蓮舫氏は「べき論や決めつけでもない、年齢や性別ではなく個々の能力を伸ばし、評価。多様性溢れ認め合う社会を。それが新しい創造社会をもたらすと思うのです」といいます。違う意味で「なるほど納得」です。リベラリストがいう「時代遅れ」は、現に生きる人々が持っている意識に対して異なっている・遅れているということではなく、自分が正しいと思う意識・そうあってほしい考え方と異なっているということに過ぎないのです。「虎の威を借る」ならぬ「時代という言葉の威を借る」なんとやらというわけです。

「私はこういう社会をつくりたい。それに対してこの物言いは違うと思う」と言った具合に、リベラリストたるもの、あくまでも主語を「私」にすればいいものを、なぜここにきて急に尻込みをして「時代」を持ち出すのでしょうか? こういう一貫性のなさ・ここぞというところで尻込みするあたりが、リベラリストのリベラリストたる所以で、社会主義者・共産主義者の「断固さ」には及ばないところであります。

■抑圧者側の回心で新時代が開ければ世界史的画期だが・・・
https://news.yahoo.co.jp/articles/0c614d43fae4e040b9375aa88f8933d716599084
仁藤夢乃さん サンモニ出演し「この問題にコメントする女性が私だけなのか」森会長の女性蔑視発言
2/14(日) 13:16配信
スポニチアネックス

(中略)
 そして、この日の番組のコメンテーターが男性3人に対し、女性が仁藤さん1人だけということに、「こういう問題が起きた時に、この問題にコメントする女性が私だけなのかってことも思ってしまいます。もっと女性たちの声を聞いて、おじさん社会の構造を変える必要がありますし、そのためには男性自身が変わることが必要で、自身の言動を振り返ったりだとかこれまで浸ってきた女性差別を前提とした文化から出ていく必要があると思います」と自身の考えを述べた。
仁藤夢乃氏は、「おじさん社会の構造を変える必要がありますし、そのためには男性自身が変わることが必要」といいます。言いたいことは分かりますが、いままでの人類史を振り返るに、被抑圧階級が自己解放を成し遂げたときは必ず、自ら実力をもって抑圧階級に対して抵抗して抑圧階級を打倒するか、あるいは実力の裏打ちを以って抑圧階級から譲歩を勝ち取ったケースばかりであることを思い出さざるを得ません。

ブルジョア階級解放の戦いであったフランス大革命は、アンシャン・レジームを打倒してブルジョア階級が権力を掌握しました。これを見た列強諸国は、首をはねられては困るということで、王族・貴族・聖職者連合権力はブルジョア階級に譲歩し、彼らを取り入るに至りました。また同時に、ブルジョア階級の経済力に注目した王族・貴族・聖職者連合権力は、政治権力の一部をブルジョア階級に分譲することとの交換条件として、ブルジョア階級の経済力の一部を要求する取引を持ち掛け、結果として王族・貴族・聖職者連合権力とブルジョア階級との「利益共同体」を作るに至りました。王族・貴族・聖職者連合権力がブルジョア階級を取り込んだわけです。

労働者階級解放の戦いであったロシア大革命は、レーニンの指導の下、労働者階級がブルジョア階級を打倒して権力を掌握しソビエト連邦が誕生しました。これを見た資本主義諸国は初めは干渉戦争によってプロレタリア革命政権を打倒しようとしたものの、赤軍の抵抗によってあえなく挫折。革命に勇気づけられた世界中の労働者階級が精力的に労働運動・革命運動を展開し、コミンテルンが積極的に支援したことをうけて、資本主義諸国では自国でもロシアのような大革命が起こっては困るということで、労働者階級に譲歩して「福祉国家」の道を歩むにいたりました。また同時に、さらなる経済発展=ブルジョア的利益機会の拡大のためには、労働者階級に対しても一定の譲歩を見せ、彼らの購買力を増強することが効果的であるという見解が広まるに至り、ブルジョア階級と労働者階級との「利益共同体」が形成されるに至りました。ブルジョア階級が労働者階級を取り込んだわけです。

しかし、ソビエトの衰退及び崩壊以後、労働者階級の革命運動を指導する指針の不在をうけて今ふたたび、労働者階級を抑圧する者としてのブルジョア権力は、「新自由主義」の旗の下で搾取を強化しているところであります。

もし、仁藤氏がいうように「男性自身が変わることが必要」で済むのであれば、つまり抑圧ある側が回心することで被抑圧者が解放されるのであれば、これは世界史的画期といえるでしょうね。「道徳講釈で世界は変わらない」と繰り返してきた私ですが、もし本当にそれで変わるのであれば、とてもよいこと。歴史的快挙だと思いますよ。

しかし、仁藤氏の言論活動とはまったく無関係にいま、女性は社会で活躍の場を広げ実力をつけています。これからの時代、女性の更なる参加なくして社会の発展はもちろん維持さえもできないでしょう。そうなれば、男性権力も女性を取り込まざるを得なくなります。アンシャン・レジームがブルジョアを取り込み、ブルジョア社会が労働者階級を取り込んだように。時代を切り開くのは、女性自身の自力自強だと私は思っています
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2021年02月14日

4年間何も学ばなかった

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210214/k10012866161000.html
トランプ前大統領に無罪評決 共和党 距離のとり方で難しい立場
2021年2月14日 14時36分

アメリカの連邦議会への乱入事件をめぐる弾劾裁判で、議会上院は13日、トランプ前大統領に無罪の評決を下しました。野党 共和党は幹部がトランプ氏の責任を認めた一方で、有罪を支持したのは一部の議員にとどまり、根強い影響力があるトランプ氏との距離のとり方で難しい立場に置かれていることが浮き彫りになりました。

(中略)
評決で有罪と判断したのは、100人の議員のうち、与党 民主党系の50人に加え、共和党の7人を含む57人にとどまり、有罪評決に必要な出席議員の3分の2には達しませんでした。

議会への乱入事件をめぐっては、世論調査で、共和党の支持者の間でも半数近くがトランプ前大統領に責任があると答えています。

評決について、共和党のマコネル院内総務は「前大統領に責任があるのは疑いようがない」と認める一方で、公職に就いていない人物を弾劾することはできないという憲法解釈を理由に無罪と判断したと強調し、理解を求めました。

弾劾裁判を通じて、共和党内ではトランプ氏の影響力が依然として根強いことが示された一方で、国民に大きな衝撃を与えた乱入事件を踏まえ、トランプ氏との距離のとり方で党として難しい立場に置かれていることが浮き彫りになりました。

民主党 ペロシ下院議長 共和党側の対応を厳しく批判
評決のあと、民主党のペロシ下院議長は記者会見で「われわれが上院で見たのは、職を失うことを恐れ、ほかに選択肢がない臆病な共和党議員たちの姿だ」と述べて、共和党の支持者の間でトランプ氏の人気が根強い中、多くの共和党議員がみずからの選挙への影響を懸念し、無罪の判断をしたと非難しました。

そのうえで、共和党上院トップのマコネル院内総務が、退任した大統領を弾劾裁判で裁くことはできないと主張したことについて「20日まで弾劾裁判を開けない状況をつくったのはマコネル氏だ」と指摘し、先月13日に議会下院で可決された弾劾訴追決議を、当時、議会上院で多数派だった共和党側が、トランプ氏が退任する先月20日までに受け取らなかったため、現職の大統領の責任を追及することができなかったと、厳しく批判しました。

評決後の与野党の演説では
評決のあと、民主党の上院トップのシューマー院内総務は演説し「トランプ前大統領は暴徒をけしかけ、権力の移行を暴力的に妨げようとした。憲法の定める最も厳しい措置である弾劾に値する典型的な行為だ」と述べて、改めてトランプ氏を批判しました。

さらに「共和党議員のほとんどは無罪と判断し、トランプ氏とともに歴史に名前を刻んだ。事件があった1月6日はアメリカの歴史に『屈辱の日』として残り、トランプ氏を有罪にできなかったことは議会の歴史に『屈辱の投票』として記憶される」と述べ、共和党も批判しました。

そのうえで「トランプ氏は有罪に値し、国民からも有罪だと評価されるだろう。そして再び公職に就こうとしても、国民からはっきり拒絶されるだろう」と述べ、政治活動などを行うべきではないと訴えました。

一方、共和党の上院トップのマコネル院内総務は演説で「トランプ氏の支持者たちが議会に乱入したのは、地球上で最も権力があるトランプ氏が選挙の敗北に腹を立て、大それたうそをついたことが原因だ。トランプ氏の暴動直前の行為は恥ずべき職務怠慢であり、暴動を引き起こしたことに責任があるのは疑いようがない」と述べて、トランプ氏を批判しました。

ただ、マコネル氏は「トランプ氏が大統領在任中であったなら弾劾訴追について慎重に検討していただろう。しかし、トランプ氏は退任していて、憲法上、有罪評決を受けるのに適格ではない。われわれには公職を離れた民間人を有罪と評決する権限はない」と述べ、トランプ氏を弾劾することはできないという立場を強調しました。
(以下略)
■さすがにどんな事情があろうとも、議事堂乱入を擁護することは不可能
「トランプ文化大革命」が最後の最後にリアル文化大革命騒ぎになった件を巡る弾劾裁判に無罪の評決が出ました。予想の範囲内のことではあります。

以前から述べてきたように、当ブログにおいて「文化大革命的」というのは最強度の非難の言葉であります。キム・イルソン同志がかつて言明したように「社会の構成員を互いに反目し、憎みあうようにするための階級闘争」は是認できないので、私は文化大革命「的」な政治手法には常に批判的であってきました。

他方、本来は政治的庇護者であるはずの民主党に見捨てられたアメリカの労働者大衆が、本来は資本家の味方である共和党の、労働者性が絶無である大金持ちのトランプ氏に最後の希望を託さざるを得ないというアメリカ政治の絶望的情勢を考えると、文化大革命「的」な政治手法は絶対に容認できないものの徹底的に論難することには些かの躊躇いもありました。当ブログのトランプ氏批判に若干の生ぬるさがあったことを見抜いた方もいらっしゃるかと思いますが、そういう複雑な思いゆえのものでした。

しかし、議事堂乱入はもはや文化大革命「的」ではなく、まさに文化大革命というべき暴挙であると言わざるを得ません。民主党が頼りにならないことには今でも深い同情の念を持っていますが、さすがにどんな事情があろうとも、議事堂乱入を擁護することは不可能なのです。

■結局最後まで、トランプ氏支持者の考えがまったく分からななかった
私の基本的認識を述べたところで、上掲のNHK記事について見てみたいと思います。明らかに、弾劾可決支持の立場に立ちつつトランプ氏に忖度した共和党議員の反対のせいで無罪評決になった、共和党が事実をゆがめたという筋書きで書かれている記事です。しかしながら、すこし詰めが甘いようで、自ら突っ込みどころを埋め込んでいます

記事中、「議会への乱入事件をめぐっては、世論調査で、共和党の支持者の間でも半数近くがトランプ前大統領に責任があると答えています」というくだりがあります。トランプ氏については世論調査主体によってまったく異なる結果が得られる点、また、「トランプ前大統領に責任がある」という回答がすなわち「弾劾されて然るべき重罪である」に結びつくものではない点、そこを明らかにしないNHK記事は不誠実ですが、それらをすべて差し置いたとしても、このことはすなわち、共和党支持者の間でも半数近くがトランプ氏には責任は「ない」と考えている(または分からない)ことを示しています

共和党から立候補して当選した議員であれば当然、こうした共和党支持者の意向に敏感であらねばなりません。民主党のペロシ氏は「われわれが上院で見たのは、職を失うことを恐れ、ほかに選択肢がない臆病な共和党議員たちの姿だ」といいますが、「失職の恐怖」が代議員をして民意に従わしめる最も効果的な要素である点、この罵倒は失当であるように思われます。むしろ民主党は、民意を外した政策が個人的に「正義」だと信ずれば、仮に失職しようとも実現にまい進する代議員たちの集団だというのでしょうか? それはそれで怖いですね。

それでは、トランプ氏に責任は「ない」と考えている共和党支持者たちはいったい何を考えてそのような結論に至っているのでしょうか? 「トランプ氏を擁護する共和党支持者たちの言い分」――これが今回の弾劾裁判で最も重要な点であるはずです。しかし、NHKニュースは、弾劾賛成の民主党関係者の言説は紙幅を割いて取り上げる一方で、共和党関係者については、「トランプ氏に責任はあるが弾劾裁判は違憲」というマコネル院内総務の発言を取り上げるにとどまっています

結局最後まで、トランプ氏を熱心に支持する人たちが何を考えてそうした結論にいたっているのかがまったく分からななかったわけです。

■トランプ氏を生んだ土壌は変わっていない
リベラリストは、トランプ氏の下野について次のような調子で「勝利」を宣言しています。
https://www.cnn.co.jp/usa/35165125.html
ドナルド・トランプ大統領は敗者として去る
2021.01.15 Fri posted at 18:30 JST

(CNN) 伝記作家はこう述べている。かつて、ある冷酷非情なニューヨークの不動産開発業者が悪意のこもった教訓を息子に授けた。やがて米国の大統領となる息子に。

この世には2種類の人間がいる。フレッド・トランプは事業家見習いの我が子にそう説いた。それは相手の息の根を止める者と、敗れ去る者だ。

伝えたいことは明白だった。戦いには必ず勝て。どんな手段を使ってでも。ルール? 基準? それは敗者のためのものだ。フレッド・トランプは敗者など眼中にない。

この教訓を、ドナルド・トランプは嫌というほど叩き込まれた。

生涯を通じて、トランプ大統領はそうした信念に基づき行動してきたように思える。世界は弱肉強食のジャングルで、強い者が勝者となり、望むものを手に入れる。どんなことをしてでも必ず手に入れる。弱い者だけがルールに従って戦い、敗者となる。

トランプ氏の世界では、うそをついて相手の優位に立つ行為はほとんど問題にならず、むしろそうしないことが問題とみなされてしまうらしい。他の連中を出し抜かなくては、間違いなく自分が出し抜かれてしまうからだ。

それこそがトランプ氏の事業経営の考え方だったように思える。行く先々で後に引けない状況を作り出し、仲たがいしたビジネスパートナーからの訴訟沙汰は数知れず。債権者や規制当局、納税の義務を巧妙に逃れているとの疑いをかけられ、業者への未払いや顧客を欺いたといった非難にもさらされている(本人は商取引であれ納税申告であれ不正は一切行っていないと主張する)。

そうした哲学を、同氏は大統領の職務にも持ち込んだ。ルールや基準に著しく違反し、民主主義の機能を守る制度を弱体化させているのだ。

(以下略)
「父の悪意ある教訓」がドナルド・トランプを育て、彼が民主制度を弱体化させたといいます。一人の男の悪意によって弱体化するほどアメリカの制度は脆弱なんだそうですwそんなわけがありません。「個人」を強調し過ぎている、いかにもCNNらしい観念論としてのリベラリズムの典型的な見方であると言わざるを得ません。トランプ氏個人を排除すれば問題は解決するという考え方は、救世主待望論や悪人粛清論と同じ考え方です。

アメリカでは敵を「クレイジー」と見なす癖があるといいます。悪しき現象を関係者の人間的欠点や歪んだ物の見方に帰したがる。この観念論的誤りは朝米首脳会談の時に反省されたはず(「米朝会談「アメリカは高潔・聡明、敵はクレイジー」外交のツケ」 2018年6月19日(火)16時38分 ニューズウィーク日本版)ですが、ここにきて再び沸いてきたようです。

キム・ジョンイル総書記は「一人では将軍になることはできません」と仰いました(『党のまわりに固く団結し新たな勝利のために力強くたたかっていこう』チュチェ84・1995年1月1日)。個人の決意は組織を通して実現するものです。CNN・リベラル派=主観観念論者は「個人」を万能に描き過ぎているわけです。

トランプ氏個人の悪意にすべてをかぶせてもトランプ氏を生んだ土壌は変わりません。こんな調子では、トランプ氏は黄色信号だとしても、「もう少し洗練されたトランプ氏の弟子」が出てくるのは時間の問題であり、そうなれば情勢はすぐにひっくり返ってしまうでしょう。

■今後もしばらくは、トランプ派が勝つこともあればリベラリストが勝つこともある
また、リベラリストは、トランプ氏の下野を以ってアメリカの良識が回復するといいます。

実に不可思議な歴史観です。歴史的に見て二つの相いれない立場が闘争を展開するときは、あるときは一方が勝ち、またある時は他方が勝つことがしばらく(数十年のスパン)で続くものです。片手で数えられる程度の回数の勝敗では、歴史的視野での勝敗は決め難いものなのです。

トランプ氏を生んだ土壌は依然としてまったく変わっていません。今後もしばらくは、トランプ派が勝つこともあればリベラリストが勝つこともあるでしょう。都合の良い断片的事実に飛びつくのではなく、歴史と科学にもとづいて時系列的・体系的に現実を見る必要があります。

■総括
弾劾裁判を巡るトランプ氏支持者の言い分に迫らないNHKの見方、トランプ氏を生んだ土壌の土壌に迫らないCNNの見方、そして都合の良い断片的事実に飛びつく見方。4年間何も学ばなかったようです。
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2021年02月12日

あれだけ毎回毎回大騒ぎしているのに、一向に世の中を変えないポリコレ的吊るし上げ

https://news.yahoo.co.jp/articles/4ffa76c9af17b17aa09250d0e94d6bae480ef721
追い込まれて幕引き 森氏引責、遅きに失す
2/11(木) 17:24配信
時事通信

(中略)
 組織委には危機意識が欠けていた。副会長を兼ねる日本オリンピック委員会(JOC)の山下泰裕会長は続投を後押しし、理事の室伏広治スポーツ庁長官は公式のリリースで問題発言にすら触れなかった。世論と逆行するように森氏を擁護した政治家もおり、ある五輪関係者は「日本は成熟度が低い」と嘆いた。 
SNSの発達・定着により「炎上」の頻発と展開の高速化がみられつつあります。毎日のように何かが炎上し、当事者の謝罪や辞任・更迭が発生しています。そして、その度に上掲のような総括記事が公開されています。

本当にありとあらゆるテーマ・フィールドにおいて炎上が発生していますが、近年一層の隆興を見せているポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)の流れに関連した炎上が目につくところであります。「沈黙は賛同」なる珍概念により、皆が強迫観念に駆られているかのように炎上に参加し、一区切りついたタイミングで半ば強引に「総括」しているように見受けられます。

炎上の度に総括記事が出され、しかしそれでもまた同じような炎上が発生し、その度に総括記事が出されるという展開が短期間で何度もみられる無限ループ的状況である現状を見るに「あれだけ毎回毎回大騒ぎしているのに、一向に世の中は変わらないな」という思いを抱かざるを得ません

それも当然ではあります。飲酒運転が厳罰化されて久しいのに未だに根絶されないように、軽率な人間は世の中の趨勢を「他人事」として捉えてしまう傾向にあります。また、世の中の趨勢を「自分のこと」として捉える慎重な人にあっても、こうした文化大革命的吊るし上げは、結局のところ「口にすると面倒なことになる」という印象だけが残るものであり、何がどう間違いなのかについて教訓を残しにくいのです。さらに、単なる道徳講釈を垂れているに過ぎないポリコレ談義が「トカゲのしっぽ切り」に終わるのは必然的であります。

昨日づけ「赦しあるいは包摂を根本価値観とする手法の必要性――森・東京五輪組織委会長の失言の後始末」の末尾で私は「こうやってずっとモグラ叩きのように、出てきては叩き出てきては叩き・・・を続けるつもりなんでしょうか? これで社会通念の進歩が促進されるとはとても考えられません」と書きました。上掲記事は、総括にしては近年まれにみるレベルで中身がないものですが、その思いがますます強まるところであります。

私にとっては「当然の無限ループ」ですが、頻繁にこの手の総括記事を書いている・書かされている記者の皆さんは、書けども書けども一向に世の中が変化していかないことに疑問や虚しさは感じないのでしょうか? ふと不思議に思ったところです。まさか、心底嫌いな輩の没落に留飲を下げ、勝利宣言としてこの手の総括記事を書いて自らの「政治的正しさ」を再確認して悦に入っているわけではないでしょう・・・

余談。ぜひ言っておきたいのですが、「沈黙は賛同」ではありません。「どう思いますか」と問われたときに「どうでもいい」といった回答をしたのであれば、「賛同しているのと同じ」と論難されても仕方ないとは思います。しかし、言及しないことを直ちに非難される謂れはありません。なぜならば、生身の人間・生活者においては、日々の自分の暮らしを維持することが最優先課題であり、その要求を満たした上で余裕があれば順次、それ以外のことに関心を寄せるというのが致し方ない事実だからです。

世の中の趨勢をしっかりと見極めて、確固たる自分の意見を持ちたいのは山々ですが、多くの人々にとっては、そんなことをしている余裕がないのです。「無関心が差別の温床なんだ!」という指摘が正しいのは、こっちだって重々承知しています。是非とも事実から出発していただきたいと思います。

そんな寛容ささえもないのがポリコレのポリコレたる所以ですが、生活者大衆の生活実態などお構いなくお気楽にも「沈黙は賛同」などと言ってくるあたり、「やっぱりポリコレって『金持ちの道楽』なんだな」という思いを更に強くするところであります。

その点、当ブログでは、たとえば「中国や北朝鮮での人権侵害には舌鋒鋭いのに、日本やアメリカでの人権侵害にはダンマリ」(あるいはその逆)な人については、直ちには「ダブルスタンダードだ!」とは非難しないようにしています。なぜならば、専門性は一朝一夕に身に付くものではないので、「中国や北朝鮮での人権侵害」について詳しく知っている人が「日本やアメリカでの人権侵害」に詳しいとは限らないからです。

専門外のことについて発言を控えることは非難されるべきことではなく、むしろ学問的には是認されるべき姿勢でさえあります。「触れないこと」は問題視すべきではなく「触れ方」を問題視すべきだと考えています。
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2021年02月11日

赦しあるいは包摂を根本価値観とする手法の必要性――森・東京五輪組織委会長の失言の後始末

https://news.yahoo.co.jp/articles/980f1faa7afe819ef2f3d2ab4e4685f7df0e81da
石原良純 森会長発言“不適切”も…「不寛容な時代」危惧 玉川氏は反論「そういう話じゃない」
2/8(月) 22:11配信
スポニチアネックス

 気象予報士でタレントの石原良純(59)が8日、テレビ朝日「羽鳥慎一モーニングショー」(月〜金曜前8・00)にリモート出演。東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長(83)が女性蔑視発言で批判を受けていることを受けて「不寛容」をキーワードに私見を述べた。

(中略)
 石原は「男女不平等に関しては憤られる方もいるし、森さんの影響力を生かさないと(東京五輪へ)立ちゆかなくなってしまうと思われる方もいる」と森会長の発言を巡るそれぞれの立場について言及。そして女性蔑視発言について「今の時代に即していないし、昭和にそういう考え方をされた方がいたのも事実だが、今、責任ある立場の方が言う言葉ではない」と不適切であるとしたうえで、社会から“寛容さ”が失われていると指摘した。

 「今の世の中は何かあった時に“不寛容”って、ひとつのことで何も許さないと。人はトラブルがあったりミスをするけれども、助け合って乗り越えていくっていう部分があまりにもなくなりつつあるっていうのは、森さんのことだけでなくて、危惧するんですよね」

(中略)
 この石原の発言に対して同局の玉川徹氏は「寛容、不寛容、そういう話じゃないと思いますよ」と反論。資質に疑問符が付いた森会長を代えられないどころか慰留した組織委を「昭和だよね、30年以上遅れている」と批判し、「これを日本全体としてどういうふうな形で決着させるんだ、と。辞めないで許すということになれば認めることになっちゃう」と話していた。


■「不寛容」という言葉の選択は不正確
石原良純氏の言いたいことはだいたい分かります。旧ブログ以来15年以上私は、当事者が強い非難を浴びがちな刑事事件に関する世論を追ってきましたが、日本世論は、人格の一側面だけを過剰にクローズアップして、それのみを以ってその人物の全体評価とする傾向、「人物評の過一面化」の傾向があるといえます。また、森氏は発言撤回を表明しているのに尚も責め立てられているように、いったん一面化してしまった評価は容易には覆らず、いつまでも指摘される傾向にもあります。

良純氏は、おそらくこれを「不寛容」という言葉で表現しているものと思われます。その点、寛容さとはまったく無縁である玉川徹氏の「辞めないで許すということになれば認めることになっちゃう」という発言は、まさに良純氏が危惧するものの典型例と言えるでしょう(双方の会話がまったくかみ合っておらず、平行線的なのが印象的です・・・)。

「不寛容」という言葉の選択が不正確であるように思われます。「寛容」というと、「そういう考え方もあるよね」として是認しているように聞こえるからです。しかし、森氏の当該発言は妄言の中でも低レベルの部類に入るものであり是認は難しいところです。

■赦しあるいは包摂を根本価値観とする手法が必要
ここは「赦し」というべきだったのではないでしょうか? 「破邪顕正」が全世界を覆っている現代においてもっとも足りていないのは、赦しであります。間違いを正すことに不十分があってはなりませんが、相手を吊るし上げて叩き潰しす方法、相手の人格や業績などをすべて否定する文化大革命的な方法はとるべきではありません赦しあるいは包摂を根本価値観とする手法が必要でしょう。

キム・イルソン同志はかつて次のように指摘されました。
 社会主義革命を行うときの階級闘争は、ブルジョアジーを階級として一掃するための闘争であり、社会主義社会での階級闘争は、統一団結を目的とする闘争であって、それは決して社会の構成員を互いに反目し、憎みあうようにするための階級闘争ではありません。社会主義社会でも階級闘争を行うが、統一と団結を目的とし、協力の方法で階級闘争を行うのであります。こんにち、我々の行っている思想革命が階級闘争であるのはいうまでもないことであり、農民を労働者階級化するために農村を助けるのも階級闘争の一つの形式であります。なぜならば、労働者階級の国家が農民に機械をつくつて与え、化学肥料も供給し、水利化も行う目的は結局、農民を階級としてなくして完全に労働者階級化しようとするものであるからです。我々が階級闘争を行う目的は、農民を労働者階級化して階級としての農民をなくすだけではなく、かつてのインテリや都市小ブルジョアジーをはじめとする中産階層を革命化して労働者階級の姿に改造しようとするものであります。これが、我々の進めている階級闘争の主要な形式であります。
『資本主義から社会主義への過渡期とプロレタリアート独裁の問題について――党の思想活動部門の活動家に行った演説』チュチェ56(1967)年5月25日

森会長の先の撤回発言が本心からの反省・謝罪に基づくものであれば勿論、仮に反省の色が薄くとも、赦しあるいは包摂を根本価値観として粘り強く対応する必要があります。森氏が抱いているような、今乗り越えるべき古い性差別的意識の克服もまた「統一と団結を目的」としているはずであり、けっして女性階級が男性階級を打倒することを目的としているものではないからであります。

■「辞める」ことで社会通念の進歩が促進されるのか?
ところで、「辞める」ということは「責任を取る」ということになるのか、事態を打開することに繋がるのかについては、常々疑問に思っているところであります。「辞める」ことが単なる面倒な追及から手を打つことに成り下がっているように思えてならないのです。森氏が数十年来の「失言家」であるのも、安易に「辞める」ことで問題を打ち切ってきたからだと考えます。

また、森氏の発言は前述のとおり、妄言の中でも低レベルの部類に入るものですが、これと会長職の遂行にどれほどの関係性があるのかが分かりません。たとえば、新型コロナウィルス軽視の発言を連発し、実際に防疫に失敗したアメリカのトランプ前大統領を辞めさせることは、アメリカの事態打開において重要だったといえるでしょう。しかし、「引責辞任しなければならない」ケースと、「辞めたところで特に意味がない、パフォーマンス・儀式に過ぎない」ケースがあるように思われます。

森氏辞任の方向で調整を始まったとのことですが、本件も結局のところパフォーマンス・儀式性の高い辞任劇に終わりそうです。83歳の老人個人の問題として幕が引かれるということです。これから「ただの老人」になる(元首相として色々活動は続けるでしょうけど)わけだから、森氏本人の誤った思想を正すための追及はこれで沙汰止みになるでしょう。仮に、森氏が劇的に回心したとしても、そのことにスポットライトが浴びることもなくなるでしょう。そうなると、森氏のような発想の人は決して少なくないでしょうが、そうした人々に対するメッセージの機会や、古い性差別思想を持った人が教化され回心していく過程を目にする機会もなくなるでしょう。

誤った考え方をした人を排除・排斥して表舞台から葬るばかり。こうやってずっとモグラ叩きのように、出てきては叩き出てきては叩き・・・を続けるつもりなんでしょうか? これで社会通念の進歩が促進されるとはとても考えられません
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2021年02月07日

客観的条件・構造的制約を重視することで「理解に苦しむ・道徳的に許されない事件・犯人」にも「同質性」の見方を提供するマルクス・レーニン主義的な見方を一定程度再評価する必要性について

https://news.yahoo.co.jp/articles/1acae29672f2474fcf27f2a6b95ed11e82ecd562
イスラム教とテロ結びつけ? 佐賀県模試で不適切な出題 実施団体「素材選定に問題」
1/30(土) 20:11配信
毎日新聞

 「稼ぐことができなかったら彼らは食べ物を求めてモスクへ行き、テロリストとなる」。佐賀県の高校1、2年が受験する「県下一斉模擬試験(県模試)」の1年の英語の設問が、学校関係者らから「イスラム教とテロリストを連想させる」と指摘を受けている。模試は県立高校などで作る任意団体が作成していた。県教委は「不適切な問題だった。教諭の人権意識の問題で、気付けなかったことは非常に残念」と述べた。【竹林静】

(中略)
 文中では生徒がエジプト旅行中、地元少年が「1ドル!」と叫び絵はがきを売ろうとし、父親に理由を尋ねる。それに対し父親が「もし稼ぐことができなかったら、彼らは食べ物を求めてモスクへ行き、テロリストとなるんだよ」と答えた。

 この他、イスラム教徒とテロリストを結びつける表現や、エジプトと英国を比較して「イングランドでは『1ドル!』と叫んでいる少年はいなかった」と貧富の差を示す表現があった。英作文は最終的には「世界から貧困と戦争を終わらせたい」と締めくくっている。

(以下略)
■マルクス・レーニン主義的な社会観・歴史観を一部再評価する必要性
ほんのちょっと前まで教条的な経済還元論的マルクス・レーニン主義者はこのようなことを言って憚らず、それが「科学的」だともてはやされていた時代がありましたが、社会通念は大きく変化しつつあるようです。政治理論としてのマルクス・レーニン主義は既に凋落して久しいものですが、社会観や歴史観においては依然として影響力を保ってきました。しかし、そうした分野においても教義の影響力が大きく下がってきているということです。

昨年6月9日づけ「人種差別問題を経済的格差問題に還元するマルクス主義的言説の終焉」で私は、「経済還元論は人間に対する冒涜といっても良いもの」と述べました。人間は決して、経済環境にだけ反応する「単変数関数」ではありません。人間が人間たる証し:人間性は、もっと豊富な内容であると私は確信しています。その考えは今もまったく変わっていません。私が社会主義の道を歩むにあたってマルクス・レーニン主義ではなく、チュチェ思想を指針としているのは、こうした理由によるものです。

しかし、昨秋の米大統領選挙でのバイデン氏の勝利について「正義と価値観の勝利」などと浮かれてはしゃぎまわる手合いを見てからというもの、マルクス・レーニン主義的な見方に一定程度の再評価が必要だとも思うようになってきました

マルクス・レーニン主義的な社会観・歴史観の特徴を今一度思い返すと、史的唯物論的な見解、すなわち人間の意識や行動、存在そのものが客観的条件・構造的制約に影響されることを強調している点が挙げられます。経済還元論の誤りは、この影響をあまりにも過大評価しているところにあったわけですが、これを逆に軽視・無視することもまた誤りです。

■「悪しき社会現象」の原因を「悪意ある悪党」のせいにする風潮の行きつく先
バイデン氏勝利に浮かれる連中を筆頭として近頃、マルクス・レーニン主義の影響力低下に伴い、個人がその価値観と意志に基づき行動を自由に決定できると提唱し、社会組織や社会システムなどが個人に与える客観的条件・構造的制約を軽視ないしは無視する風潮が強まってきています。主観観念論的な社会歴史観が再び力を盛り返してきているわけです。そして、そうであるがために、不都合な社会的問題の原因を「関係者が善人であるか悪人であるか」などに設定してしまう風潮が強まってきています。その筆頭格がリベラリズムであります。

こうした考え方は、単に事実に基づいていないだけでなく、ある立場に不本意ながらも身を置く人たちを「道徳的」に拒絶・排斥することで社会の分断を深めることなります。「悪しき社会現象」の原因が「悪意ある悪党」の所業であるのならば、相手の弁解には耳を傾けず道徳的に徹底的に非難すべきだという結論に至るのは論理的に必然だからです。

先の米大統領選挙では、4年前と同様「隠れトランプ」という人々の存在が指摘されてきました。たとえ経済政策に限定した支持であっても、「トランプ氏を支持する」と少しでも口にすれば職と友人を失い地域社会で生きていけなくなるので、普段は建前を口にしている人たちのことです。

トランプ氏は経済政策における実績をアピールポイントにしてきました。それに呼応する形で経済政策を重視する有権者を中心にトランプ氏に一票を託した人は非常に多く、最終的には7400万票がトランプ氏に投じられました。人間は、他を差し置いてもまず衣食住を満たして日常生活を営めなければなりません。経済政策は、人々の日常生活の在り方を直接的に左右する超重要テーマです。トランプ氏に一票を投じた人が7400万人もいたとなると、「トランプが人間的にはとんでもない男だというのは分かっているが、バイデン氏の経済政策じゃ生活にならないから仕方ないだろう!」という苦渋の決断を下した人は決して少なくないものと考えられます。

しかし、民主党支持者・バイデン氏支持者にとっては、平気で人種差別・女性差別的な言動を口にし、地球温暖化対策に何の手も打とうとしない「悪魔のような男」であるトランプ氏は全面的に否定されるべき人物なので、たとえ経済政策限定であっても彼を支持することなど「悪魔の手先」に他ならないでしょう。ぜひとも解雇し友人の縁を切ることで全人格的に拒絶・排斥すべき人物です。こうして「仕方なくトランプに投票した人たち」は、拒絶・排斥されてゆくわけです。

個人の価値観と意志を重視するあまり、人間の意識や行動などに与える客観的条件・構造的制約を無視し、「悪しき社会現象」の原因を「悪意ある悪党」の所業と見なすことで、ある立場に不本意ながらも身を置く人たちを「道徳的」に拒絶・排斥し、結果的に社会の分断を深める風潮は、この他にもたとえば、一昨年12月15日づけ「香港情勢における啓蒙主義的な個人主義的自由主義・リベラリズム的発想の悪しき影響」で取り上げた香港の事例が例として挙げられるでしょう。

香港での民主化運動への抑圧について、警察官個人を攻撃する「民主派」も同様に底の浅い反応を見せていました。強権化が日増しに強まる香港において警察組織の一員としての職業警察官が、すべてを投げ捨てて「正義」に走ることは容易なことではありません。当の警察官だって苦悩しながら日々の職務を遂行しているところ、「香港民主派」はあたかも「悪魔」であるかのように拒絶・排斥したわけです。実に浅はかで事実を捉えていない見方であり、警察官個人の背後に控えている香港政府はもとより、本当の「黒幕」である中国共産党は、ほくそ笑んでいることでしょう。のみならず、香港市民同士がこのように対立を深めることは、容易には治癒しない社会の分断につながるものです。

■「あいつは、私たちとは違う」という考え方に安易には飛びつかなくなるマルクス・レーニン主義的な見方
さて、「稼ぐことができなかったら彼らは食べ物を求めてモスクへ行き、テロリストとなる」という本件の表現に引き付けて考えると、「経済的困窮が一般庶民をテロリストに仕立て上げる」という描き方は、「生まれつき頭のおかしいヤツが、ついになるべくしてテロリストになった」という見方を否定し、「ごく普通の一般庶民であっても、客観的条件や構造的制約、境遇次第でテロリストになってしまうことがある」という見方を提供します。そして、こうした見方は「彼らだって好きでテロリストになったわけではない」という見方を導き出すものです。

テロ行為は許されざる所業であるだけに、殺人犯の「言い訳」など聞きたくないように、自らテロに手を染めた人物を拒絶・排斥しようとする心理的作用が働きがちです。「あんな人殺し、私たちはとまったく無縁の生まれつきの異常者に違いない!」と考えたくなるものです。しかし、「正常で善良」な心のなかにも、程度の差こそあれテロや殺人に至るような黒い心理は間違いなく存在します。その意味で「みんな同じ」なのです。

そうした事実から目を背けてはなりません。個人の価値観や意志を過剰に評価する考え方は、理解に苦しむ事件・道徳的に許されない事件であればあるほど、「あいつは、私たちとは違う」として拒絶・排斥しがちになります。

これに対して、マルクス・レーニン主義的な見方は、客観的条件・構造的制約が人間の意識や行動、存在そのものに与える影響を重視するので、理解に苦しむ事件や犯人・道徳的に許されない事件や犯人であったとしても、暮らしている環境が同一である限りは「あいつは、私たちとは違う」という考え方に安易には飛びつかないものです。個人の価値観と意志を重視する考え方が「異質性」を重視するのに対して、客観的条件・構造的制約を重視する考え方は「同質性」に着目します。その結果、「悪しき社会現象」の原因を「悪意ある悪党」の所業と即断せず、安易に相手方を拒絶・排斥しなくなり、結果的に社会の分断を深めなくなるのです。

「稼ぐことができなかったら彼らは食べ物を求めてモスクへ行き、テロリストとなる」という表現は、そもそも論理として厳密性を欠いているので人権意識がどうこう以前の問題です。しかし、テロ行為という許されざる所業に行きつくまでに、「テロリスト」たちがどのような道を歩み、彼らなりにどのように考えてきたのかを考えるキッカケを、マルクス・レーニン主義的な見方は提供します。その意味でマルクス・レーニン主義的な見方にも一定程度再評価する必要があると私は考えます。
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2021年02月02日

「欠陥の原因を客観ではなく主観で求め」と「以民為天」について

当ブログでもよく参考と勉強材料にさせていただいている、数少ない個人言論の一つに、日本大学の川口智彦氏の「北朝鮮報道で書かれないこと (dprknow.jp)」があります。いつも一方的にお世話になっています。1月30日づけ「朝鮮労働党第8回党大会について」の執筆にあたっても、大量の党大会報道の中で「最低限抑えるべき」報道の取捨選択に活用させていただいたところです。

そんなdprknow.jpでちょっと意外な記事がアップされていたので、他人様の勉強不足をことさらに指摘するような形になるのは失礼なのかもしれませんが、重要な話題を取り上げていらっしゃったので、話題として取り上げてみたいと思います。

お互いに指摘し合い学び合うことで共に認識を発展させるというのが学問であり、それを実践する場が教育とくに大学教育だと、末席ながらも学問を志している者のひとりとして私は信じています。素人や半端モノ・俄かモノはすぐに知識をひけらかしてマウントを取りたがるけれども、それは「学の徒」の姿ではありません。

まずは、1月8日づけ「「欠陥の原因を客観ではなく主観で求め」 (2021年1月8日)」についです。読者の疑問コメントに対する川口氏の応答です。次のような内容でした。
コメントでご質問を頂いたので、こちらに書いておく。「欠陥の原因を客観ではなく主観で求め」というのは、普通と逆ではないのかというご質問なのだが、(中略)釈すると以下のような意味だと思う。

「成果」については自己満足することなく客観的に評価する必要があり、「欠陥」については「自分自身」の問題から見いださなければならない。

「朝鮮芸術映画」を見ていると、事業ができない理由をあれこれと自分が置かれている環境(客観)のせいにし、自分の問題(主観)として考えていないことを問題視する台詞が出てくる。恐らく、そのことを言っているのだと思う。
おおむねその通りのご説明だと思います。労作から引用すれば、以下のくだりが当てはまるでしょうか(パッと思い出した限りで)。
金日成同志は日ごろから、事の成否の原因は主体に求め、なすべきことは客観に求めよ、と我々に教えています。革命と建設が成功裏に進められるか否かを決める基本的原因は、その主人である人間にあるのであって、客観的条件にあるのではありません。しかし、革命と建設は、人間が客観的対象を自己の要求に即して改造する創造的活動であるため、客観的対象の特性と運動法則を科学的に見きわめたうえで立てられた、正しい方法によってのみ、成功裏に進められます。革命と建設において人民大衆の創造的役割を高めるためには、大衆の革命的熱意と創造的積極性を十分に発揮させると同時に、それを必ず客観的対象と条件にかなった正しい戦略戦術と結びつけることが重要です。
キム・ジョンイル『チュチェ思想教養において提起される幾つかの問題について』(チュチェ75・1986年7月15日)
我々は常に、革命と建設の勝敗の根本的要因を客観的条件に求めるのではなく、主体に求め、革命と建設をおし進めていく根本的方途も、主体を強化し、その役割を高めることに求めるべきです。
キム・ジョンイル『反帝闘争の旗を高くかかげ、社会主義・共産主義の道を力強く前進しよう』(チュチェ76・1987年9月25日)

「人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定する」という人間観から出発すれば、人間は、直面する課題を創意工夫によって克服する存在・すべき存在であるといえます。事業ができない理由をあれこれと自分が置かれている環境のせいにする姿勢は、主体的な容器夕の対極にあるといえます。

こうした主体的姿勢は、いまの日本において重要な姿勢であるといえるでしょう。当ブログでも再三指摘してきたように、日本社会ではBCP・BCRPの思想が根付いていません。緊急事態における事業継続の計画が「姿勢」のレベルで欠落しています。何かというと「できない理由」を並べたてて、何とかして工夫して実現に漕ぎつけようという姿勢が欠けているのです。

もう一つが1月31日づけ「「以民為天」の意味 (2021年1月30日 「朝鮮中央TV」)」です。党大会報道記事の邦訳は私も参考として拝読させていただいた(ただ、あまりにもタイプミスと変換ミスが多いような・・・)ところですが、≪이민위천≫を「人民中心」と意訳されていたのにはとても違和感がありました。キム・イルソン同志の座右の銘としてあまりにも有名で、「この道」の人士であれば当然知っていることだと思っていたのですが・・・

たしかに党大会報道では、いつもよりは≪이민위천≫が連呼されていたので、「今回は、ちょっと強調している方かな?」くらいには思いました。しかし、≪이민위천≫は「社会主義」並みの決まり文句なので、1月30日づけ「朝鮮労働党第8回党大会について」では敢えて触れるほどではないと思い言及は見送ったところでした。うーん、キム・イルソン同志逝去から30年近くたつと、記憶も風化してくるということなんでしょうか? それとも、専門家といえども労作はそんなには読まないということなのでしょうか? 私のように、ことにつけてパッと出てくるのは異常かもw
ラベル:チュチェ思想
posted by 管理者 at 19:41| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする