2021年03月28日

ブーメラン的な報ステ炎上が「自業自得」と突き放されてはいない事実は、ポリコレ風潮を押しとどめ押し返す風潮が芽吹きだした兆候?

https://news.yahoo.co.jp/articles/e2192a24c2bd6b49a49cd825d185b8c957260b89
報ステのCMが「悪質」な理由。「ジェンダー平等を掲げるのは時代遅れ」と描き、批判が集まっている
3/24(水) 11:14配信
ハフポスト日本版

テレビ朝日の報道番組『報道ステーション』のCMに、ネット上で批判の声が上がっている。

(中略)
「一番の問題は、ジェンダー平等が達成されているという間違った認識に立っていること」
ジェンダー問題に詳しいジャーナリストの治部れんげさんは、今回のCMについて、主に3つの問題点を指摘する。

「一番の問題は、ジェンダー平等が達成されているという間違った認識に立っていることです。番組CMとはいえ、報道機関のものなので、事実に基づかなければいけない。なぜ、『ジェンダー平等は達成されている』かのように描いたのかを問いたいです」

日本のジェンダーギャップ指数は世界153カ国中121位であり、政治や企業、地域社会などさまざまな分野における格差解消は喫緊の課題となっているのが現状だ。

また、CMの中に「どっかの政治家が『ジェンダー平等』とかってスローガン的に掲げてる時点で、何それ、時代遅れって感じ」と笑うセリフがあることについて治部さんは、「現状ある差別の解消に取り組む人を『笑う』のは、差別の上塗りです」と指摘する。

そして3つ目の問題点として指摘するのは、こういったセリフを「女性に言わせる」という構図だ。

「『ジェンダー平等は達成されている』という間違った認識にたったセリフを女性を起用して『言わせて』いる。『若い世代は、女性は、“差別なんてない”って言ってますよ』という構図にしているのは、本当に悪質だと思います」

湊彬子/Akiko Minato・ハフポスト日本版

最終更新:3/24(水) 17:42
女性自身
■ポリコレ風潮を押しとどめ押し返す風潮が芽吹きだした兆候?
ジェンダー平等という当たり前のことをわざわざスローガン化する政治家たちへの皮肉が伝わらず、それどころか「ジェンダー平等が達成されているという間違った認識に立っている」と真逆の説教を食らうに至った、コミュニケーション不成立の見本のような出来事です。

もっとも、批判側がもう少し「こういう意図の可能性は・・・」というふうに考えれば、ここまで一方的な炎上にはならなかったでしょう。「こうだと『私が』思えばそれ以外にあり得ない」とばかりに猪突猛進してしまう近年のポリコレ的リベラリストの典型的反応です。

これに対して本件を報じる各記事のコメ欄が興味深い。ひとつひとつ取り上げはしませんが、総じて、「ブーメラン直撃」だとか「この風潮を煽って推進してきたのは自分たちだろう」、「自業自得」といった嫌味を込めつつも、報道ステーション側が伝えたかった真意を酌んでやっています。鼻で笑って突き放してもよいところ、「いや、たとえ相手が報ステだといえども、そんな理由で吊るし上げるのは変だ」とは、昨今のポリコレ文化大革命の風潮を本当に憂いているのでしょう

以前にも述べたとおり、リアル文化大革命がそうだったように、ポリコレ文化大革命の嵐が止むための出発点は「こんなのは変だ」という素朴な違和感になるでしょう。通常、ブーメラン直撃は「笑える」ものですが、あのように報ステの肩を持つ言説が自然発生的に出てくる現状は、激しさを増すポリコレ風潮を押しとどめ押し返す風潮が芽吹きだした兆候と言えるのかも知れません

■リベラリストどうしの不毛な責任論争
他方、報ステの「謝罪」が火に油を注いでいる模様。
https://news.yahoo.co.jp/articles/7e83e66fac5cacb420a59f6624a1c2c70658828f
報ステのCMが「女性蔑視的」と大炎上…謝罪するも火に油状態
3/24(水) 16:02配信
女性自身

(中略)
■CMを削除、謝罪するも火に油状態

番組は24日、TwitterとYouTubeにアップしたCMを削除。Twitterを更新し、「今回のWebCMは、幅広い世代の皆様に番組を身近に感じていただきたいという意図で制作しました」と謝罪文を掲載した。

ジェンダーの問題について、「世界的に見ても立ち遅れが指摘される中、議論を超えて実践していく時代にあるという考えをお伝えしようとした」「意図をきちんとお伝えすることができませんでした」と釈明。そして「不快な思いをされた方がいらしたことを重く受け止め、お詫びするとともに、このWebCMは取り下げさせていただきます」と締め括った。

だが謝罪文を発表したものの、“受け取り側が誤解して、不快になった”という説明に批判は収まらないようだ。

《お詫びかこれ? 批判されて言い訳してるみたいに見えるけど。 だって「ジェンダー問題も遅れている中議論を超えて実践していく時代だと伝えようとした」って具体的にどこの台詞のこと言ってるの? 見たい人は不快な思いしたのではなく、ただ貴方たちが女性蔑視と時代遅れなCMを作ったんですよ》
《「不快な思いをした方がいらした」って、結局他人のせいじゃないですか かつ、意図を正しく伝えられないのって報道機関としては致命的な欠陥だと思いますよ》
《悪気は無かったと言い訳をさんざん並べてご不快構文、取り下げて終わりにできると思ってんなら無敵だな。今まで何度となく繰り返されてきた火に油を注ぐ謝罪文まんまじゃん》

最終更新:3/24(水) 17:42
女性自身
ここまで炎上してしまえば、もはや謝罪は不可避でした。早々に問題の焦点は「いかに謝罪文をしたためるか」になったわけですが、私は内心、「リベラリストのことだから、『謝罪』するにしても『誤解があった』とか言うんだろうな。プライド高いから、平謝りしておけばいいところ余計な一言を言っちゃうんだろうな」と勝手に(一種の偏見的に)想像していたところです。もちろん、そうなる証拠はどこにもないので内心に留めておきましたが、まったく予想どおりの展開にw 「偏見丸出しじゃないか!」と言われれば反論できない見立てどおりになってしまいましたw

結局他人のせいじゃないですか」という批判はとくに手厳しいものですが、しかしながら、コミュニケーション不成立は通常は「両者の歩み寄りの不足」であり、どちらかが一方的に悪いものではありません。本件も、批判者流の解釈も理解可能ですが、報ステ側の意図も理解可能でした。「どっちが悪い」という問題ではないように私は考えています。「結局他人のせいじゃないですか」という批判は、私から見れば、双方に当てはまるように思われます。リベラリストどうしが非難合戦を始めると、こういった不毛な責任論争になるんでしょうね・・・

■なぜ内ゲバ的な炎上が起こってしまったのか?
ところで、報ステといえば、テレビ朝日系列の看板情報番組であり同局のリベラルな論調を決定づけるものです。その点、リベラリストにしてみれば「味方」であるはずなのに、本件がここまで内ゲバ的に大炎上していることからは、2つの推測ができるでしょう。

一つ目が、昨今のこの手のポリコレ文化大革命が、「わざと曲解して言いがかりをつけている」のではなく「本気でやっている」という可能性です。

ジェンダー問題をめぐる対立は、かつての労使階級闘争における対立に比肩する構図です。こうした構図においては、「味方」が少々まずい言動は全力で擁護されるのが常です。たとえば、クオモ・米ニューヨーク州知事は、「対トランプの新型コロナ対策戦線」の構図において英雄として持ち上げられましたが、トランプ氏が落選して「用済み」になった途端に、過去のセクハラ疑惑(コロナ以前である模様)とコロナ死者過小報告疑惑で破滅が迫っています。

昨今頻発している自民党政治家の「不適切発言」の炎上を見ていると、「わざと曲解して言いがかりをつけている」ように見えることが少なくありません。リベラリストと自民党政治家は水と油の関係なので、前者が後者を攻撃する動機は十分にあり、それゆえに攻撃の機会を虎視眈々と狙っている可能性は十分にあります。

しかし、リベラリストと報ステは思想的に同系列であり基本的に同志であるはず。保守・ネトウヨとの対決の手前、多少のことならば目をつぶるであろう場面で、いつもの調子での大炎上が展開されている眼前の事実は、日頃から「わざと曲解して言いがかりをつけている」のではなく、本気でそう思って本気で攻撃している可能性を示すものです。

いくら「基本的に味方」だといっても流石に擁護・弁護できないような決定的な失言は、味方からも非難されるのが常です。「こうだと『私が』思えばそれ以外にあり得ない」とばかりに猪突猛進してしまう近年のポリコレ的リベラリストのこと、「あの報ステまでもが!」と本気で思い込んでいる可能性は決して低くないでしょう。

もう一つは、少々陰謀論じみてしまいますが、報ステは、本件以前に何か決定的な誤りを犯してしまったために攻撃対象になってしまったという可能性です。

SNS上には色々な意見があり、炎上騒ぎは日常的に起こっていることです。攻撃している方がズレている「炎上」案件は幾らでもあります。しかし本件は、大衆紙やスポーツ紙等が面白おかしく報じるに留まるSNS上の炎上騒ぎではありません。毎日新聞や東京新聞などが「深刻な問題」として取り上げている事象です。

近年のポリコレ的リベラリストがいくら脊髄反射的であったとしても、毎日新聞や東京新聞までもがそうだとは考えにくいものです。SNS上の炎上は、報じられることでさらに炎上が拡大するのが常。毎日新聞や東京新聞は、そのことを十分に承知しているはずです。それでも報ステの肩ではなく炎上させているポリコレ勢の肩を持ったという事実に、「何かしらの事情」を感じ取らざるを得ません

もっとも、私は昨今の陰謀論者のように具体的な「証拠」も上げずに、状況の「不自然さ、怪しさ」だけで陰謀の存在を確証的に主張したりはしません。そしてまた、そこまで報ステの論調をつぶさに確認しているわけではないので、具体的に何がまずかったのかまでは立証できません。そういう線があり得るのではないかという推測であります。
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2021年03月23日

まったく何も進歩していない

https://news.yahoo.co.jp/articles/ecd3681d6961af31b86037fc8a2cf754f8e605b7
制服に「選択の自由」を! コロナが変えた学校生活の“先入観”〈AERA〉
3/14(日) 8:02配信
AERA dot.

 校則の象徴の一つともいえる「制服」に、大きな変革の波が押し寄せている。多様性に対応した「服の選択制」を──そんな考え方が、形になって表れ始めた。AERA 2021年3月15日号から。

(中略)
■学校運営に生徒参加を

 1月28日、若者の声を政策に反映させる「日本若者協議会」は、文科省に校則についての提言書を提出。「校則の改正プロセス明文化」「学校運営への生徒参加」など9点を要望した。代表で慶應義塾大学大学院2年の室橋祐貴さん(32)はこう話す。

「制服や校則に法的な根拠はありません。『たまたま理解のある校長や教員のいる学校なので変えられた』というのではなく、どこの学校でも生徒、教員、保護者の3者で民主的に見直しができる仕組み作りが重要です」

 同協議会では、高校生と大学生による「学校内民主主義を考える検討会議」を立ち上げ、2020年11月にアンケートを実施。「児童や生徒が声を上げて学校が変わると思うか?」の質問に対し、回答した生徒や学生779人のうち約7割が「(どちらかというと)そう思わない」と否定的だった。

「日本の若者は政治への関心は低くないが、『自分の参加により社会を変えられるかもしれない』という意識が他国に比べ著しく低い。学校生活の中で経験がなかったり、試みたものの学校に取り合ってもらえなかったりといったことが背景にあることが、アンケートからも明らかになりました。健全で民主的な社会を築いていくためにも改善が不可欠です」(室橋さん)

 生徒ががんじがらめに管理されるのでなく、風通しのいい環境のなか主体性を持って、教員、保護者と制服や校則を見直すプロセスを経験する。それこそが、生きた教育になるのではないだろうか。

(編集部・石田かおる)

※AERA 2021年3月15日号
「選択の自由」というと、どうしてもネオ・リベラリズム(新自由主義)経済学者のミルトン・フリードマンをまず思い出すところです。リベラリズムとネオ・リベラリズムはまったく異なります。アエラが選択の自由とは、転向したのか最低限の教養さえもなくなったのか・・・

それはさておき、画像説明で「制服についての「議論」はこれまでも続いてきたことだ」という指摘、確かに本件は、昔からの定番ネタです。その上でアエラ編集部は「生徒や教員からの声が可視化されたことで、大きなうねりになっている」などとして社会状況に進歩がみられている強調しています。

しかしながら、この記事を読む限り、まったく何も進歩していないと言わざるを得ないでしょう。なぜならば、この記事で述べられている・触れられていることを総合すると、結局のところ、「自分にはこのルールは理解できない、だから改めよう」に過ぎず、そのルールが形成された経緯には触れないし、既存のルールを支持する人たちの意見(異論)にも一切触れていないからです。歴史的な視点、異なる視点を一顧だにせず、ひたすら「私は・・・と思う」なのです

「私」過剰――まさしくリベラリズムの悪しき特徴と言わざるを得ません。リベラリストたちの偏狭さ:包容力のなさと思慮の浅さ=素人の浅知恵は、やはりここからきているのでしょう。かつてハイエクが指摘した合理主義的設計主義者の「致命的な思い上がり」と通底するものがあるとみるならば、20世紀からまったく何一つ進歩していないと言うべきでしょう。

そして案の定出てきました「学校内民主主義」。「素人の浅知恵」という批判への対抗としてリベラリストたちは「民主主義」を持ち出します。しかし、真の民主主義は教養があり思慮深い「市民」による討議の上に立つものであり、素人の思い付きの寄せ集めではありません。思えば20世紀社会主義=合理主義的設計主義も「民主主義」という言葉を殊に愛用していました。「科学」の名の下に素人の思い付きを「民主的」に討議して実行に移したものでした。

最近では、ジェンダーフリーとジェンダーレスの違いもつかないようなド素人の思い付きが持て囃される始末です(「学校の制服選択を「ジェンダーレス」に 生徒の声が校則変える 防寒対策や性的少数派に配慮も【高知発】」 3/22(月) 8:01配信 FNNプライムオンライン)。もう少し教養と思慮深さを身に着けてから論じてほしいものです。

「私」過剰の事情は海外でも同様であるようです。カナダでの事例。
https://news.yahoo.co.jp/articles/0f399c02341a69c177621aeac7cfc7391f1223c5
教師が「不適切で気が散る」と批判…高校生の服装が議論に
3/11(木) 23:01配信
コスモポリタン

カナダ・ブリティッシュコロンビア州カムループスの高校に通う17歳のカリス・ウィルソンさん。ある日、登校した彼女は「洋服が不適切」と教員に言われ、帰宅することに。この事態に問題意識を感じた父親がSNSに動画をアップしたことで、議論が巻き起こっている。

(中略)
自分自身は保守的な方だと語る、カリスさんの父親クリストファー・ウィルソンさんは、これに対して、抗議の動画をSNSにアップ(現在は非公開)。カリスさんも「後輩たちのために変化を起こせるなら、意味があると思う」と賛成した。

「娘は女性の教員に『あなたの洋服を、私や男性の補助教員が不快に感じるかもしれない』と言われたんです」
学校には「教えることや学ぶことの妨げにならない格好をする」という校則はあるそう。カリスさんは「服装に関する校則は必要だけれど、その規則の範囲内で生徒たちが自分自身を表現するのは許可されるべき」と『CityNews1130』にコメントした。

またクリストファーさんは、2021年にこんなことが起きるなんてがっかりすると心境を語った。

「これを許してはいけないと思います。女性に対してこんな扱いをするべきではありませんし、ある特定の格好をしてはいけないと伝えるべきではありません。これは不合理です」

「今こそ変化を起こすときです。友達や周りの人と議論してほしい。教員の知り合いがいるなら、生徒にこんな風に話すべきではないと言ってください。生徒たちは学ぶことを楽しむ若い人間です。自信を失い、非難され、家に帰るのはおかしいと思います」

これを受けて学校では、「カリスの味方」「何を着ているかよりも教育が重要」などのプラカードを持った生徒たちが抗議。またSNSでも「#imwithkaris」というハッシュタグでサポートしたり、同じような経験をした人が声を上げたりするなど多くの意見が集まっている。

(以下略)
人間は個人として孤立しているわけではなく、社会のうちで生きて活動しているものです。ある人の「自由」は、周囲との調整のうちにあります。「他人を不快にさせないか」という相手側の視点を持たなければならず、そして、忌憚のない意見交換で、「程度」を調整する必要があります。それが社会的存在としての人間の本質に照らしたときに、各個人が持つべき姿勢であります。

これに対して記事中の出来事はどうでしょうか。双方の意見は出揃っていますが調整過程とは程遠い印象を受けます。

プラカードを持ち出す手合いが出現したようです。そして、この事態をアエラ編集部は、必ずしも悪い展開ではないと思っているようです。プラカードが意見交換の場面に馴染まないのは、おそらく、日本でもカナダでも大きく違わないと思われます。プラカードというものは、要求や主張を書き連ねて集団的示威(デモ)において気勢を上げるときに使うというのが「国際標準」だからです。やはり、調整過程とは程遠い印象を受けます。

歴史的な視点や異なる視点を一顧だにせず、ひたすら「私は・・・と思う」だけの報道、冷静な意見交換で「程度」を調整すべき場面でプラカードが出てくる状況、そしてそれを問題視しない報道――まったく何も進歩していません。
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2021年03月21日

文化大革命的な様相を呈し始めた行き過ぎた「キャンセル・カルチャー」からの揺り戻し?

https://news.yahoo.co.jp/articles/72f84be1ada77ed3785eae9a9f6264c1d6db5e89
松本人志が「渡辺直美の容姿侮辱問題」で週刊文春に物申す!!「なぜ1年も前の言わば陰口みたいなことを、一番損するのは彼女」
3/21(日) 10:46配信
中日スポーツ

 お笑いコンビ「ダウンタウン」の松本人志(57)が21日、フジテレビ系の情報バラエティー番組「ワイドナショー」に出演。東京五輪・パラリンピックの開閉会式でタレント渡辺直美(33)の体型をやゆする演出案に関する問題で、騒動の発端となった週刊文春の報道に疑問を呈した。

 昨年3月に関係者内で行われたLINE(ライン)のやり取りが実名で表沙汰になったことに「文春はあるタレントの『A子さん』でよくないですか。なぜ1年も前の言わば陰口みたいなことを、なぜわざわざ名前を全部出してまで言うのか」と文春砲に対して苦言を述べた。

 さらに「一番損するのは彼女と言うか、嫌な思いをするのは彼女ですよね」と吉本の後輩をおもんぱかった。
(以下略)
https://news.yahoo.co.jp/articles/00dccfcbb8124ffd6264020beb91c6f028c89a31
慶大准教授が渡辺直美“侮辱問題”に私見「マジだるい」「謝罪撤回を許さない社会になった」
3/18(木) 22:49配信
東スポWeb

(中略)
 慶應大学特任准教授でプロデューサーの若新雄純氏が18日、ニュース番組「ABEMA Prime」(ABEMA TV)に出演。東京五輪・パラリンピックの開閉会式の演出を統括するクリエーティブディレクターの佐々木宏氏(66)による、渡辺直美“侮辱問題”に私見を述べた。

 若新氏は「僕、このご時世、嫌になっちゃったけどね。マジだるいなと思って」と切り出し「このニュース見てゲンナリしたのは、発言は問題なんだけど、謝罪と撤回を許さない社会になったこと」と指摘した。

 佐々木氏は昨年3月、グループLINE内で当該発言をしたが、他のメンバーから非難されすぐに謝罪、撤回している。それだけに「『自分の感覚間違ってた』ってことを素直に謝って、良くしていくことが大事。なんで過去の話で謝って撤回してるのに、今の仕事を辞めなきゃいけないのか」と憤まんやるかたない様子。

 続けて「謝罪せず認めなかったとかだったら、まだ分かる。『そうなんだ』って分かったケースはむしろ見習うべき…はおかしいかもしれないけど、そうやって『私ズレてた』ってことを、認めていける年配の人が増えていく社会が理想。だから、何なのかな?って」と首をかしげた。

 さらに「謝罪撤回が許されない社会になってしまうと『何も言わない』ってなるから、かっ達な議論もできなくなるし、アイデアも出ない社会になる」と指摘。「何か間違ったことやっちゃって『時代錯誤だ』って言われて、謝罪撤回しても許されないぐらいなら、何もしないほうがいいってことになる。
(以下略)
https://news.yahoo.co.jp/articles/25eabb5334fd990e34765f6840ce61a4fbd6f25f
北村晴男氏 渡辺直美への侮辱問題≠語る「生きづらい世の中になったな」
3/18(木) 14:20配信
東スポWeb

(中略)
 これについてコメンテーターの弁護士の北村晴男氏(66)は「LINEで自由なアイデアのやりとりを出している中での発言なので、問題だとは思わない。生きづらい世の中になったな、と感じる。森(喜朗)さんが叩かれた時も異常だと思ったけど、これもそんな叩かれることなのか」と私見を述べた。

 また、お笑いタレントの松嶋尚美も「やめなきゃいけないような問題なのか。やりとりが表に出ちゃうことが怖い」などと語った。

https://news.yahoo.co.jp/articles/9afcc8da5aab7d07485a44461fbe2e2e6e2414a3
アンミカ「1年も温めていた不気味さ感じる」…五輪“ブタ演出”発言に困惑
3/19(金) 8:31配信
デイリースポーツ

 モデルのアンミカが19日、TBS系「グッとラック!」で、タレントの渡辺直美の容姿を侮蔑する発言で、東京五輪・パラリンピック開閉会式の責任者である佐々木宏氏が辞任した問題に、1年後にこの問題が表沙汰になったことに「不気味さを感じる」と発言した。

(中略)
 その上で「不気味なのは(この発言が)1年後に出ていること。渡辺さんも戸惑いますし、世の中には普通、出ないもの。わざわざ表に出すことで傷つく人がいたり、困る人ががいるものを(なぜ出すのか)」と困惑しきりだ。

 内々でアイデアを出す中でブタ演出が「出るのも失礼」としたが「それをわざわざ1年後に出す人がいることが気味が悪い」「本当に許せないと1年も温めていたのかっていう不気味さは感じる」とも語っていた。
上掲の各記事で述べられていることに尽きるでしょう。別報道によると、渡辺直美さんは文春報道に深く傷ついているとのこと(「渡辺直美、泣きながら「自分の体型もポジティブに伝えてきているつもりだったのに昔に戻された」」 3/19(金) 19:37配信 スポーツ報知)。彼女が容姿云々を超えた表現者になろうとしていることは、よく知られた話であります。その心中は察するに余りあります。

しかしながら、そのことからは一旦離れて考える必要があります。いわば「内輪の陰口」のようなことを、わざわざ密告的に暴く必要があったのかについては、依然として別件として問わねばならないことでしょう。上掲記事で松本人志さんがいうように、この密告的・暴露的報道によって渡辺さんは、知らなかったことをわざわざ知らされて傷つきました。

また、佐々木氏はとっくに発言の非を認めて反省しています。今になってから蒸し返して吊るし上げる必要はあるのでしょうか? 上掲、慶大の若新准教授や北村弁護士が言うことはもっともなことです。先日の森喜朗氏の女性蔑視発言は、釈明会見の態度を以って「本当は反省していないのではないか?」という突っ込みが可能でしたが、今回はあの時とは異なると思われます。

文春記事の執筆思想に、文化大革命的なものを感じ取らざるを得ないところです。佐々木氏の発言は不快ですが、それをこのように報じる文春編集部もまた不快です。上掲各記事のような反応が数多く出てきている事実は、同じように考えている人が少なくないことを示していると思われます。

近年、いわゆる「キャンセル・カルチャー」の行き過ぎへの懸念が、それを支持し推進する立場をとってきた人たちの間からさえも出始めています。
https://front-row.jp/_ct/17439116
“名前を言ってはいけないあの人”役、ハリポタ作者の炎上発言めぐる騒動に持論
2021-03-19

映画『ハリー・ポッター』シリーズで“名前を言ってはいけないあの人”ことヴォルデモート卿を演じた俳優のレイフ・ファインズが、同作の原作小説の著者J.K.ローリングの「トランスフォビア発言」をめぐる世間の反応に関して、自身の率直な考えを語った。(フロントロウ編集部)

(中略)
ローリング氏に対する批判は「理解できない」
 トランスフォビア発言がきっかけで、殺害予告やレイプをほのめかす脅迫まで受けたとを明かしているローリング氏。

 英The Telegraphとのインタビューでローリング氏の炎上騒動に言及したレイフは、「彼女に向けられる辛らつな批判は私には理解できない」と、ローリング氏に対する世間の烈火のごとき怒りは理解しかねるとコメント。

 「議論が白熱するのは理解できるが、誰かを非難したり、糾弾しなくては気が済まないという今の時代は非合理的だと感じる。自分たちとは異なる視点を持つ人に対して、人々が放つ憎悪の度合いや、浴びせる言葉の暴力には心をかき乱される」と続け、自身はローリング氏の視点に共感するわけではないものの、俗にいう、キャンセル・カルチャーの悪しき部分には賛同できないと苦言した。

キャンセル・カルチャーとは?
 不適切な言動を行なった個人や企業などに対し、SNSなどを通じて責任を追及し、「抹殺(キャンセル)」しようと呼びかける行為 。これまで暗黙の了解として解決されずにきた問題に焦点を当て、当事者に責任を負わせたり、社会の風潮に変化をもたらすことができる方法の1つである一方で、問題提起や解決の域を超え、そもそもの論点からはズレが生じてしまったり、集団の力での団体や個人に対して誹謗中傷を行なう事態にまで発展するケースが増え、昨今、問題視されている。

(中略)
 ローリング氏のトランスフォビア発言の内容や、それを擁護するかしないかというよりも、不適切とみなされる発言をした人物に対する世間の反応を憂いていると述べたレイフ。

 『ファンタビ』シリーズでニュート・スキャマンダーを演じる俳優のエディ・レッドメインも、ローリング氏のトランスフォビア的発言には「同意しない」と明言したうえで、彼女に対する誹謗中傷は「本当におぞましい」と指摘。

 「同様に、オンラインでも実社会でも、トランスジェンダーの人々へ向けた酷く激しい攻撃が続いており、それはおそろしいことです」と、ターゲットにかかわらず、誹謗中傷となる発言は不適切だと考えているという立場を明確にしている。(フロントロウ編集部)

キャンセル・カルチャーが文化大革命的な吊るし上げに成り下がる例、吊るし上げが行き過ぎる例は、歴史上枚挙に暇がありません。キャンセル・カルチャーが「正義の執行」であるとすれば、その行き過ぎを懸念して歯止めをかけることは、見ようによっては「悪に対して手加減を加えること」になるからです。

「自分の頭で考えること」を優先し、歴史的経験の上に編み出された伝統的英知を軽視しがちな手合いも、いよいよ眼前に繰り広げられるようになった行き過ぎを看過できなくなってきたのでしょう(「体験しないと分からない」だなんて典型的な愚か者だと思いますけどね)。

佐々木氏の発言を批判しつつも文春報道についても批判についても展開する、上掲記事をはじめとする多くの記事・意見は、キャンセル・カルチャーの行き過ぎに違和感を覚え懸念する最近の流れに則ったものであると言えそうです。

こうした最新の流れに対して、TBS系報道番組「ニュース23」コメンテーターの星浩氏の下記発言が浮いて見えます。
https://news.yahoo.co.jp/articles/29fde808e0d7c8f5c5aeebaf04fe2bd4dc340ce3
「news23」星浩氏、容姿侮辱問題で辞任の佐々木宏氏へ「誤解を解きたいんであれば、記者会見を開いて謝罪するのが絶対に大事」
3/19(金) 7:21配信
スポーツ報知

 18日放送のTBS系「news23」(月〜木曜・午後11時、金曜・午後11時半)で、東京五輪・パラリンピックの開閉会式を巡り、クリエイティブディレクターの佐々木宏氏がタレントの渡辺直美の容姿を侮辱する演出を提案し辞任したことを報じた。

(中略)
 スタジオで小川彩佳キャスターは「お互いのことを当たり前のように尊重できる場所、国になれるのかどうか。オリンピックを通して岐路に立たされているような気がします」と明かした。このコメントを受け、リモート出演したジャーナリストの星浩氏は、今回の問題に「開会式、閉会式はある意味ではオリンピックの思いを伝える非常に大事な場ですよね。その演出をする人がこういうことではまったく困ったことで、外国から見ると一体、日本、大丈夫かな、と。森発言に続いてですからね」と指摘した。

 さらに「佐々木さん本当に誤解を解きたいと思うんであれば、記者会見を正式に開いて正式に謝罪するのが絶対に大事だと思います」とコメントしていた。
表層的なリベラリズム・ブームの乗っかったビジネスライクな発言であってくれれば幸いですが、もし本気で言っているとすれば恐るべきことであります。文革精神に何の疑問も抱いていないということになるからであります。

「新世代のSDGsリーダー」「環境問題・ジェンダーレスを発信」を名乗る(自称? 他称? よく知らないけど)長谷川ミラさんの下記発言は薄っぺらい。
https://news.yahoo.co.jp/articles/c7db099253ee7ebdfc43a2846b86124257e4a88e
「ブタ」は嫌でも「ネコ」なら可愛い? 渡辺直美「容姿侮辱」LINE問題、サンジャポのモデル発言で議論
3/21(日) 14:38配信
J-CASTニュース

 お笑いタレント・渡辺直美さんに関する「容姿侮辱LINE」などで東京五輪・パラリンピック開閉会式演出企画チームの佐々木宏氏が辞任した問題をめぐり、2021年3月21日放送の『サンデー・ジャポン』(TBS系)で、モデルの長谷川ミラさんが発言した内容が議論を呼んでいる。

 長谷川さんはLINEの内容を「誰でも『豚』って言われたら嫌」と批判。一方、元衆院議員でタレントの杉村太蔵さんが、仮に藤田ニコルさんを『猫』にする演出だったらどうかと問うと、「猫は可愛くないですか?」と肯定的な反応を見せた。

 この発言をめぐり、ツイッター上では「ダブスタ」ではないかという指摘が聞かれている一方で、「猫の方がいい」と同意する声も出ている。

(中略)
 こうした中、「新世代のSDGsリーダー」「環境問題・ジェンダーレスを発信」という紹介のもと議論に参加した長谷川さんは、

「誰でも『豚』って言われたら嫌じゃないですか。『豚って言ったか言ってないか』とか、『こういう演出だったかもしれない』ではなくて、言った事実がある。ここの議論をしていること自体がちょっともう、ナンセンスだなって」

 と主張した。

本人は放送後に釈明「猫か豚か。ではないんだよなぁ」
 この長谷川さんの意見に対し、杉村さんは「例えば僕が演出(担当者)で、にこるん(藤田ニコルさん)に猫になってもらいましょう、と。世界中に『にこるんビーム』を発してもらいましょう、と言ったら、これは...全く侮辱はないんですけれども」と問う。

 すると長谷川さんは「猫は可愛くないですか?」と反応。これに、藤田さんは「そうしたら豚は豚でかわいそうな気がする」と意見を示した。

 ツイッター上では長谷川さんの発言をめぐり、「豚はダメなの?犬や猫は良いの?」「完全にダブスタ」と首をかしげる声が。その一方で「ブタって言われるなら猫の方がいい」「(豚という言葉が)侮辱するための言葉以外に何があんだよ」と同意する意見もあった。

 長谷川さんは番組終了後に自身のツイッターを更新し「ごめんなさい、猫か豚かっていう話がしたかったわけじゃない。猫か豚か。ではないんだよなぁ議論するべきなのは...」と釈明している。
おそらく「自分は正しく、時代の最先端を走っている」と思い込んでいたために、まさか反論が寄せられるとは思ってもいなかったのでしょう

猫か豚か。ではないんだよなぁ議論するべきなのは...」というのは、そのとおりであります。「豚」に込められた意味、「猫」に込められた意味が問題なのです。そうビシッと言い返せばいいのに問答の想定をしていないから、つまり相手の立場や言い分を踏まえていないから、効果的な反論を繰り出せないのです。

もっとも、「豚」に込められた意味という点においては、話の文脈・ストーリーが大切になってくるので、そうなると「豚って言ったか言ってないか」といった表面的なことよりも「こういう演出だったかもしれない」という意図を探ることが大切になるんですけどね・・・

以前から指摘してきたように、「私」過剰のリベラリズム・ブームの弱さがここにも表れています。「私は・・・」ばかりで相手のことをよく見ていない、相手の話をよく聞いていないから、その主張には厚みがなく、いざというときに効果的な対応ができないわけです。

今回の反応が、文化大革命的な様相を呈し始めた行き過ぎた「キャンセル・カルチャー」からの揺り戻しであることを願っています。
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2021年03月20日

立憲君主制の存否問題の優先度は、限りなく最下位に近い

https://news.yahoo.co.jp/articles/25c12240770dd2868b84f634feab8630b6942c64
英王室「85年来の危機」 メーガン妃告白で議論噴出
3/16(火) 7:11配信
時事通信

 【ロンドン時事】ヘンリー英王子の妻メーガン妃が、王室で活動中に人種差別的な扱いを受けたなどとテレビのインタビューで「暴露」したことが、英国内で大きな波紋を呼んでいる。

(中略)
 昨年3月に夫と王室を去ったメーガン妃は今月8日、米テレビの対談番組で、王室内で孤立して自殺願望を抱えたり、長男の「肌の色の濃さ」について懸念する声が王族から上がったりしたなどと告白。赤裸々な告発と王室への痛烈な批判は国全体に衝撃を与え、各界を巻き込む議論に発展した。

 一部議員は王室の人種差別問題の調査を要求し、ソーシャルメディアでは君主制廃止論が再燃。新聞各紙も連日数ページを割いて問題を大きく報じ、ガーディアン紙は「破壊的な人種差別発言で王室が危機に陥った」と伝えた。

(中略)
 ただ、王室の伝統と歴史を誇りに思う国民も多く、「高齢のエリザベス女王の健康の方が(妃が提起した)一連の問題より重要」(ロンドン郊外在住の40代男性)と過熱する議論に冷めた視線を送る向きもある。インタビュー放映後のユーガブ社の世論調査では、「女王と王族に同情する」と回答した割合が36%と、「ヘンリー王子夫妻に同情」(22%)を上回った。
本件を奇貨として立憲君主制廃止論にコジツケようとする言説が出てくるだろうとは思っていましたが、案の定、沸いて出てきました。

時事通信の描き方とは異なり今、英大衆紙はメーガン妃に対して集中砲火を展開しています。大衆紙だからといって侮ってはならず、むしろ大衆紙の動向には注視すべきであります。なぜならば、大衆紙編集部の最大関心は「社会の木鐸たること」ではなく「売れるかどうか」にあり、それゆえに、大衆紙はしばしば節操なく世論動向を追い媚びるからであります。一般紙・高級紙と呼ばれるメディアであれば、編集部としての意見があり、それに沿った論調を統一するものですが、大衆紙にはそういったものはありません。瞬間的な売れ筋に沿った内容を書き立てるのが大衆紙というものです。

そんな商業第一主義的な英大衆紙がメーガン妃に対して集中砲火を展開しているという事実は、相当数のイギリス国民がメーガン妃に厳しい視線を送っているということを意味します。「ソーシャルメディアでは君主制廃止論が再燃」などという時事通信ですが、おそらく、ごくごく一部で挙がった声を針小棒大的に書き立てているに過ぎないものと思われます。だいたい、メーガン妃に対する人種差別が事実だとして、それが君主制廃止論に発展するのは論理の飛躍が過ぎるというべきものです。

常日頃から君主制廃止論を盛り上げたくて悶々としている時事通信編集部が、たまたま出てきた限定的事象を針小棒大に取り上げているに過ぎないのではないでしょうか?

それにしても、立憲君主制など、ほとんど「単なる文化遺産」に過ぎないのに、真っ先に対応すべき人民大衆の生活問題を差し置いてこんなことに血眼になる心理とは一体何なのでしょうか?

“打ち出の小づち”サセックス公爵称号剥奪の危機 ヘンリー王子とメーガンさんの「王室すり寄り」〈AERA〉」(2/25(木) 17:00配信 AERA dot.)という記事にオーサーコメントとして意見を寄せている今井佐緒里氏の主張に答えがありそうです。
今井佐緒里 | 2/25(木) 19:05
欧州/EU・国際関係の研究者・執筆家・編集者

ヘンリー王子夫妻の問題は、とどめの⼀撃という感じがする。英王室は王族と平民を分ける価値観だ。王室の慶事では、昼間の儀式には世界の元首が招待されても、王室主催の晩餐会は、アメリカ平民大統領すら招かれない。その際は米大使館でパーティーが開かれて、招かれない平民元首が集まるのが慣例である。今でこそ女王の三男でまともなエドワード夫妻が活躍するが、貴賎結婚として、あからさまに見えない配慮はあったものの、爵位等で冷遇されていた。

エリザベス女王まで王族と貴族の区別もあった。特に世継ぎは王族と結婚するものだった(外国人でも問題なし)。国内の貴族(ダイアナさん)と結婚した世継ぎはチャールズ皇太子が初めて、民間出身者とはウイリアム王子が初めてだ。

世界には約200カ国あるが、英連邦王国を除けば、王室がある国は30に満たない。圧倒的少数派だ。英国も日本も、今どう特権階級があるべきかが問われているのだと思う。
とどめの⼀撃」からの「英国も⽇本も、今どう特権階級があるべきかが問われているのだと思う」とは、氏の言説としては「いつものこと」ではありますが、今回もまた物凄い世論音痴であります。すくなくとも、メーガン妃問題と日本は何も関係ないよね? 日本皇族に人種差別発言あったの?? 皇族が反論できない立場だからといっても、いくらなんでもむちゃくちゃ過ぎない??

要するに、本件を奇貨とした君主制廃止論など、まったくを以って単なるシンボル的な意味合いしかないということなのでしょう。「王室主催の晩餐会は、アメリカ平民⼤統領すら招かれない」からといって、人民大衆の生活において何か不都合が生じるのでしょうか? 絶対君主制の時代ならば、こういう場で世界史的な政治外交の交渉が展開されたでしょうが、もはやそんな時代ではありません。

人種差別問題は、昨年のBLM運動はあまりにも理想理念を前面に押し出し過ぎており生活から遊離した観念論的運動に堕していましたが、本来は、衣食住問題ほどではありませんが生活の問題として位置付けることが可能です。人種平等は生活の問題として重要なテーマです。しかし、ほぼ「文化遺産」であり、それに対する予算措置などは「文化財保護」に過ぎぬというべき立憲君主制を仮に廃したところで、人民大衆の生活問題において何の足しにもなりません。象徴的な「特権階級」の存在など、まったくどうでもよいことです。

どうしても立憲君主制を廃するのであれば、学芸員に丁寧に説明されなければ何なのか理解できないような遺跡・史跡の保護から先に止めた方がよほど経済効率的であります。

こういった何の足しにもならないことを最優先的に取り組もうとするから、リベラリズムは「金持ちの道楽」と化すのでしょうね。私は以前から立場を鮮明にしているとおり、チュチェ思想を信奉する社会主義者であります。人民大衆の生活の自主化を何よりも重視する立場であります。それゆえに、ほとんどシンボル的な意味合いしか持ちえない立憲君主制の存否問題の優先度は、限りなく最下位に近いと考えています。

現代資本主義体制における人民大衆の自主権の問題、貧困の問題を解決することことが喫緊の課題です。抑圧と貧困がある共和制(アメリカなど)よりも、それが緩和されている王政(スウェーデンなど)のほうが遥かに望ましい!

ちなみに、物事の本質を見抜かず、重要事項とそうでもないことを同列視し、優先順位をつけられないのは、社会人においては無能の典型例というべきものです。新人ならまだしも、いい歳して優先順位をつけられないのは大問題ですよ。いるんだよねー、この忙しいときに、どうでもいいことに全力投球している人。
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2021年03月14日

それを資本主義で実現するつもりなのか、実現できると思っているのか

https://bunshun.jp/articles/-/43865
バイデンの告白で話題に…「就活の面接、時間内に名前を言うのがやっと」光が当たらない“吃音”のリアル
ダブル手帳
2021/03/12

 バイデン大統領が吃音に苦しんだ過去を持つことは日本でも話題となった。

 しかし吃音は決して遠くから眺めるような特殊な問題ではない。実は私達の日常生活に直結する身近な現象なのだ。

(中略)
 コミュニケーションとは本来は双方向的な交流であり、語る側と聞く側が共に形作るものであるはずだ。「コミュ力」の問題点は、就活の面接のように聞く側が語る側を一方的にジャッジするのがコミュニケーションの基本形であるかのように人々に思い込ませてしまうことなのではないか。

 そこでは聞く側の姿勢は不問に付される。もし制限時間内に名前しか言い終わらない就活生がいても、面接官は淡々とバツ印を付けて忘却の彼方へと追いやるだけであり、まかり間違っても自分達や採用試験の在り方を問い直す事はないだろう。掬い取ろうとしなければ、聞き漏らしてしまった言葉がそこに存在するということにさえ気付けないのだ。

(中略)
 これは何も吃音者との関わりに限った話ではなく、言葉を受け取るということが持つ普遍的な性質だと思う。言葉は聞かずに済ましてしまえる場合も多いし、その方が遥かに楽だ。聞くということは、相手の言葉に対して、お客さんであることをやめ、責任を分かち合い、共に紡いでいく行為である。そしておそらく今の社会が最も切実に必要としている営みだろう。
読み応えのある記事! しかし、問題提起的記事・啓蒙的記事にありがちな「ではなぜ、こんな不条理が罷り通っているのか?」に対する分析が浅い記事でもあります。

なぜ、「もし制限時間内に名前しか言い終わらない就活生がいても、面接官は淡々とバツ印を付けて忘却の彼方へと追いやるだけであり、まかり間違っても自分達や採用試験の在り方を問い直す事はない」のでしょうか。それは、これが「資本主義経済における商売」だからであります。かつてマルクスは「競争の強制法則」という重要な指摘を遺しました。

記事中の「聞くということは、相手の言葉に対して、お客さんであることをやめ、責任を分かち合い、共に紡いでいく行為である。そしておそらく今の社会が最も切実に必要としている営みだろう」という指摘は、正しいものであります。しかし、「お客さんであることをやめ」ることを、資本主義おいて道徳講釈で実現するつもりなのでしょうか? 実現できると思っているのでしょうか?

ここに観念論としてのリベラリズムそっくりな道徳論のどうしようもない底の浅さが見えてきます。企業もまた競争に構造的・制度的に追い立てられているわけです。そしてこの構造的・制度的問題は小手先の「政策的」対応で間に合うものではありません

ツイッター界隈をフラフラしていたところ、次のような厳しい意見を発見しました。
https://twitter.com/GurenGaeshi/status/1370646927239352320
“聞くということは相手の言葉に対してお客さんであることをやめ、責任を分かち合い共に紡いでいく行為である”

残念ながら『この人の話を聞いて時間と労力を割く価値があるか』を決める権利は聞き手にあるんだよ

そう思わせるのが話術でありコミュ力。他人はママでも保母さんでもないから甘えないで…
午後5:04 ・ 2021年3月13日
他人はママでも保母さんでもないから甘えないで…」――とても厳しい指摘であるものの、現社会においては「事実である」というべき指摘であります。

「あれっ、あなたは全社会が一つの家族のように結束することを目指す社会政治的生命体論の信奉者ではなかったの?」という疑問が沸く方もいらっしゃるかもしれません。もちろん、そのとおりです。昨年、ツイッター上で社会政治的生命体論をはじめとするチュチェ思想に関する議論に参加してきた私ですが、結局のところ持論が変わるには至らず、むしろ確信を深めたところであります。

改めて強調しておきたいと思いますが、以前から述べてきたとおり私は、社会政治的生命体が資本主義の制度において実現するとは思っていません。社会政治的生命体は、協同的な社会制度の上にのみ構築可能なものなのです。

かつてのマルクス主義は、「存在が意識を規定する」という教義に従い、なによりも社会制度とりわけ経済及び労働の制度における社会主義化に注力し、以って人間による人間の支配を廃絶し平等な社会の構築を目指してきました。しかし、そうしたマルクス主義的な社会主義化は、失敗に終わったというのが今日の一般的共通的理解です。

こうした事態に対してキム・ジョンイル総書記は、『社会主義建設の歴史的経験と我が党の総路線』(チュチェ81・1992年1月3日)において、次のように指摘されました。
社会主義経済制度は社会主義政権をぬきにしては、維持することも、この本性に即して管理することもできず、また社会主義政権は社会主義思想をもった人間をぬきにしては、維持することも、その本性に即して自己の機能を遂行することもできません。このように見れば、社会主義社会の発展とその運命を決める決定的要因は、あくまでも社会主義思想で武装した人民大衆であることが明らかになります。ところが一部の国では国家主権と生産手段を掌握して経済建設さえ進めれば社会主義が建設できると考え、人々の思想・意識水準と文化水準をすみやかに高め、人民大衆を革命と建設の主体にしっかり準備させる人間改造事業に第一義的な力をそそぎませんでした。その結果、社会主義社会の主人である人民大衆が主人としての役割を果たせなくなり、結局は経済建設も順調にいかず、社会のすべての分野が停滞状態に陥るようになったのです。
この指摘は、社会主義復権を目指すうえで綱領的な指摘であります。社会主義に限らず、今の社会とは根本的に異なる新しい社会を構築するためには、単に制度的条件を整えればよいわけではなく、その新しい社会を維持・運営し得る主体としての人間を、主に思想的に育成する必要があります。

しかし、最近のリベラリズム運動やSDGs運動などは、逆に思想的覚醒に力点を置き過ぎていると言わざるを得ません。リベラリズム運動やSDGs運動で語られている内容や使われているキーワードを見るに、夢破れた元マルキストが新天地として流入してきていることが推察されるところですが、いくらかつての「存在が意識を規定する」という教義が一面的すぎたからといって、逆に「意識が存在を規定する」といわんばかりの思想意識偏重は、観念論への転落というべきであります。

個人を大切にするからこそ我々チュチェ思想派は、道徳講釈ではなく協同社会への制度的移行の必要性を訴えるものです。また、その制度的移行と完全に軌を一にする形で各種の意識革命・啓蒙を展開しなければならないと考えます。客観的な制度と主体的な意識は相互作用的関係にあり、社会は制度と人間が織りなすシステムであると考えます。もっと言ってしまうと、人間と制度とを二分する見方自体が誤りであり両者は渾然一体なのかもしれません(ここまでくるとチュチェ思想の枠を超えて仏教哲学的になってきますけど)。

吃音等、社会的に不利になる条件に直面した人たちを置き去りにするのが今の資本主義社会・市民社会であるという見立ては正しいと考えます。SDGsは理念としては正しいでしょう。しかし、それを道徳講釈で資本主義の枠内で改善しよう・できると考えるのは観念論的であると言わざるを得ません。協同社会への移行とセットにする必要があるのです。
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2021年03月13日

バイデン政権下における御用メディア化

https://news.yahoo.co.jp/articles/1ee0af4795e01294798a3f1b96765af778a370ea
7月には「平常」目指す 新型コロナのワクチン接種加速 バイデン米大統領
3/12(金) 9:55配信
時事通信

 【ワシントン時事】バイデン米大統領は11日、ホワイトハウスで国民向けに演説し、新型コロナウイルスのワクチンに関し、5月1日までに米国の全成人が接種を受けられるよう知事らに指示すると表明した。

 また「7月4日の独立記念日までに国を平常の状態に近づける」と目標を発表した。

(中略)
 バイデン氏は演説で、マスク着用や社会的距離の確保など感染防止策を続けるよう呼び掛けるとともに、感染拡大を受けたアジア系住民への嫌がらせ増加を「米国らしくない」と非難した。その上で、ワクチン接種が進めば「皆さんの協力で、素晴らしい独立記念日を祝うことができる」と訴えた。
(以下略)
コメ欄。
飯塚真紀子
在米ジャーナリスト

バイデン氏が演説の中で、独立記念日の7月4日を「新型コロナウイルスからの独立」と表現したことが印象に残りました。7月4日にみなが愛する人と一緒に過ごせるようにすることが目標だと話しました。さらには、感染状況が悪化する可能性にも言及し、そうならないためにもファウチ博士の言葉に耳を傾けてワクチンを接種し、友人や家族にも接種を促すよう協力を仰ぎ、団結を求めました。

このように、国の指導者が目標を設定し、展望を国民に伝えるとは非常に重要だと思います。目標に向かって、国民も指導者についていこうという前向きな気持ちになれるからです。
ワクチンの供給体制に問題があるからかもしれませんが、残念ながら、菅首相からは、こういった目標や展望が国民に向けて十分に発せられていないような気がします。国民を引っ張っていくことができるような力強いメッセージがほしいところです。
先の大統領選挙であれだけ深刻な分断が露呈し、未だにまったく癒えていないのに、「アメリカでは大統領自らが目標や展望を示した! 国民に団結を求めた! 国を引っ張っている! それに比べて日本の菅首相は・・・」とは、まったく恐るべき見方であると言わざるを得ません。

とてもジャーナリスト、すなわち言葉・文章を操る職業についているとは思えない対比をしています。飯塚氏は、バイデン大統領が「団結を求めた」のに対して、菅首相の「メッセージ伝わってこない」といいます。前者は仕手側の行為であり、後者はその結果です。異なる事柄を不正にも対比しています

訴えかけるだけならば、バイデン大統領のみならず菅首相も連日繰り返し行っています。菅首相の「メッセージ伝わってこない」というのならば、それと対比すべきは、バイデン大統領のメッセージの「伝達・浸透の程度」でしょう。その点、荒唐無稽な陰謀論にのっとり、未だに先の大統領選挙で結果を歪めるほどの大規模不正があったと信じ切っている手合いが無視しえない程度存在しているアメリカにおいて、党派対立の最前線であった新型コロナウィルス問題に関するバイデン大統領のメッセージが「響いている」とは考えにくいところです。

すくなくとも、バイデン大統領のメッセージの「伝達・浸透の程度」に触れなればならないところ、飯塚氏のコメントはそうはなっていません。論理的に破綻したコメントを寄せています。こんな基本的な作文作法も無視し文章として論理的に成立していない対比を平気で繰り出してきているわけです。

ある人の言葉が「響く」か否かは、結局のところ、その人を個人的に好いているか否かによります。菅首相がいかに心と力を込めて語りかけたところで、もともと菅首相を嫌っている人には、彼の言葉が「響く」ことは絶対にありません。私自身がそうですから。菅首相をはじめとする政府関係者や日本医師会の大センセー方の危機感を煽るばかりのご高説には反感を抱くことが多いものの、同じように危機感を最大限に強調する論調の朝鮮中央通信や朝鮮中央テレビ報道は、そんなことはありませんからね。

上記飯塚氏の作文作法無視・無茶苦茶な対比は、さすがに本気でやっているとは私は考えていません。すこし注意深く文章を推敲すれば論理的に成立していないことに直ちに気が付くはずだからです。また、少し注意深く文章を読む人であれば直ちに見抜ける程度のシロモノなので、おそらく、おっちょこちょいを引っ掛けることを狙った意図的で戦略的なものなのでしょう。メッセージが「響く」か否かは完全に受け手側の匙加減次第であることを十分に承知したうえで、「私には伝わってこないよ!」と繰り返す限りは「絶対に論破されることがないケチの付け所」として言っているのでしょう

ところで本件、もしトランプ前政権下の出来事であればどのような反応がみられたのでしょうか? おそらく、ファクトチェックと称して悲観的なデータを寄せ集めて「またデタラメを言っている」とされたでしょう。大統領選挙期間中、トランプ氏が「もうすぐワクチンができるから大丈夫だ」と主張した(後から振り返れば、そのとおりになりました)とき、当時対立候補だったバイデン氏は「いい加減なことを言うな」と応じられ、それが大々的に報じられたものでした。

しかし今やメディア・ジャーナリストは誰もそんな論調では報じません。バイデン政権になって、メディアと政権がイデオロギー的に「同志」になってからというもの、大本営発表垂れ流しの御用メディア化が進んでいます。
ラベル:メディア
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2021年03月08日

あなたの心の中のブラック企業経営者マインドと組織運営における組織指導、とくに人事権行使の死活的重要性

https://news.yahoo.co.jp/articles/5e495b215e65cfe90393941f31958037c5afc498
みずほ銀、3度目のシステム障害 揺らぐ信頼性
3/1(月) 21:41配信
産経新聞

 みずほ銀行は2度の大規模障害を経て、10年近く費やして刷新した基幹システムを一昨年に稼働させたが、3度目を防ぐことができなかった。昨年には複数の電子決済サービスを使った不正な預金引き出しがあったことも明らかになり、金融機関に最も求められる“信頼性”は揺らいだままだ。

(以下略)

■あなたの心の中のブラック企業経営者マインド
大騒ぎになった先週のみずほ銀行のシステムトラブル。騒ぎがここまで大きくなってしまったのは、非常時の社員動員体制、つまりBCPが徹底されていない点(さすがに「BCPが存在しない」なんてことはないはず・・・)にあったように思われます。会社組織の問題ということです。

この点を追及しなければならないはずであるところ、しかし、「社員は、会社の非常時には自発的に駆けつけるべきだ」といった職業倫理・道徳論的なコメントが目立っています
何よりも論外なのはトラブルが起きているのに行員が対応せず、カードや通帳を呑み込まれた被害者が他の来店者に「故障している」と注意して更なる被害を食い止めていたという事実

トラブル対応のための日曜日出勤がそんなに嫌なのですか
トラブルが起きた事よりも、トラブルを軽視している姿勢の方が問題だわ
単に使用不能なだけじゃなくカードや通帳が呑み込まれたんだから、行員が駆けつけてお客様対応するのは普通だろ。
連絡先を聞いて後日自宅まで届けるぐらいは普通の民間企業はするよ。
どんな担当職であっても、トラブルがあったらまっさきに自分の担当支店や本店にかけつけるのが当たり前だと思います。それで何ができるかわかりませんが、少なくとも謝罪し、お名前と連絡先をメモして、通帳やカードを速やかに戻すことを約束するだけでも違います。

一般的に銀行の支店長は偉そうで、とてもそんなことをしそうもない人を見かけますけれども……

休みとか関係ないですね。
トラブルの時は寝食を削ってでも即応するのが基本です。
この手の主張の背後にあると思われる「『普段の担当職務』なんて客には関係ない、客からすれば『みんな、みずほの社員』だ」というのは、一面においては疑いのない正しい言い分です。以前から、戦闘的な左翼労働運動批判などにおいて繰り返してきたように、こんにちの市場経済においては、企業と従業員は「呉越同舟」に会社共同体を形成しており、顧客を無視した労使の内紛は「企業そのものの競争淘汰」という形で「呉越共倒れ」になりかねません。「普通の会社」であれば、顧客無視は回り回って自分の首を絞めることになるので、各従業員は、会社共同体単位で行動するものです(そういった「経済システム」を理解できない手合いが、安易にストライキ云々と騒いでいるわけです)。

しかし同時に、この手の言い分は、ブラック企業の経営者の発想と寸分もたがわないものであるというのも疑いのない事実です。ワタミ会長が典型的ですが、彼らは雇用が労働市場における商売であることを無視し、際限のない労働を職業倫理や道徳の問題として正当化してきました。

近年、一般論的な文脈では、「土日時間外の労働には、それ相応の対価・待遇があってしかるべきだ」という機運が高まりつつあったところですが、自分自身が割を食う展開になるや否やこのように、職業倫理や道徳論的な説教が噴出するあたり、依然として日本社会そのものが「ブラック企業」的な価値観:商売相手の都合などお構いなしに自分の都合しか考えない風潮が蔓延していることが推察されるところです。

チュチェ104(2015)年10月26日づけ「学校教育がブラック経営者・ブラック資本家を人格的に準備する;教育カリキュラムとしての、軍隊社会としての「ブラック部活」」でも論じましたが、そもそも同じ社会で同じ教育を受けてきた人々がのうち、ある人々はブラック経営者・ブラック資本家になり、ある人々は奴隷的労働者になっている事実は、現代日本の教育課程・学校社会段階にこそ、企業社会段階におけるブラック経営者・ブラック資本家を人格的に準備する要素があると言わざるを得ないことを示しています。そのことはすなわち、いまブラック企業において奴隷的労働に就かされている人物も、いざ事情が変われば、ブラック経営者・ブラック資本家のような搾取階級になり得るといわざるを得ないということ、より平たく言えば、日本社会そのものがブラックな価値観で動いているということに他ならないわけなのです。

■労使も商売、従業員に開き直られて辞められたら終わり
だいたい、「『普段の担当職務』なんて客には関係ない、客からすれば『みんな、みずほの社員』だ」というのならば、「『みんな、みずほの社員』だなんて関係ない、自分は与えられた職務を担当するだけの権限と給料しかもらっていない」とも言えます。もとよりメガバンクは以前から大量採用・大量離職が大前提。全員が全員そうだと言うわけでは決してありませんが、勤め先が商売上の信用を失ったところで、どうせ遠からず足を洗う予定の社員にとっては関係のないことで、会社のトラブルだからといって自発的に馳せ参ずることはないでしょう。

企業と顧客の関係が商売の関係であることは勿論ですが、企業と従業員の関係もまた商売の関係であるということを忘却してはなりません。「客には関係ない! 会社の一員として働け!」と顧客が吠えたところで、「私にも関係ない! 会社なんか潰れてしまえ!」と返されたら、それまでです。「お客様は神様」などと持ち上げている消費資本主義社会において忘却されがちなことですが、「他人に何かを実行させる」というのは本来的には難しいことなのです。

■組織運営における組織指導、とくに人事権行使の死活的重要性
組織のパフォーマンスはひとり一人の構成員の士気や能力に大きく負っており、彼らの士気・能力をいかに「引き出す」のかが重要になりますが、BCPの次元で考えた場合には、ひとり一人の構成員の士気や能力に頼るのではなく、士気や能力が低い人材をいかにして「使う」かが重要になります。BCPは「成果を挙げること」を目的としているのではなく非常事態における「業務の継続」が目的なので、いまあるリソースを、どのように応急運転的に使うのかが焦点になります。

こうした現象を職業倫理や道徳問題として批判することには、とくにBCPが発動するような非常事態においては、なんら意味のないことでしょう。与えられた条件:士気や能力の低い構成員を使いこなして「業務継続」という組織目標を達成すること以外に頭を使うのは、ましてや職業倫理や道徳問題の説教に時間を費やすのは、非常事態において為すべきことではありません。

また、非常事態に一段落付き「反省会」を開く段階においても、大活躍した構成員を表彰することに意味はあっても、士気・能力を十分に生かしていたとは言い難い構成員に職業倫理や道徳問題の説教を垂れることには、あまり意味はないでしょう。士気の低い人にいくら説教を垂れたところで改心するはずがないし、能力の低い人にそのことを責めたところで努力する決心を抱くことはあっても急に有能になるはずがありません。辞めさせることができないのなら、そういう人材を抱えた条件のもとで組織運営を続けるしかないのです。

もとより組織運営の要点は、「使えない人」に「おまえは使えない奴だ!」と言うことではなく、使えないなりに配置を工夫して使いこなすことで、少しでも組織全体の利益にとってプラスの結果を搾りだすところにあります。ここに組織運営における組織指導、とくに人事権行使の死活的重要性があります。

平時における士気・能力の発掘によるパフォーマンスの向上、非常時における所与の条件をフル活用することによる最低限の業務継続。すべて組織としての体制づくりが根本にあります。個人の滅私奉公的な努力や超人的な頑張りに目が行きやすいものですが、その背景には組織運営・組織指導があるのです。

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12月29日づけ「ニッポンのブラック企業は、この国の「文化」的な帰結
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2021年03月06日

危機克服のためにこそ社会主義企業責任管理制と社会主義競争熱風を推進する元帥様

https://news.yahoo.co.jp/articles/10c64562c6c9937eeb3d3bfec730c5b3610f78de
北朝鮮 企業の独自経営保障検討=内閣拡大会議で
2/26(金) 15:22配信
聯合ニュース
【ソウル聯合ニュース】北朝鮮の朝鮮中央通信は26日、内閣全員会議拡大会議が25日、テレビ会議形式で開かれ、企業の独自生産・経営活動を法で保障する案を検討する方針を明らかにしたと報じた。

(中略)
 また、会議では北朝鮮版市場経済の代表とされる「社会主義企業責任管理制」に合わせた改善案について議論した。社会主義企業責任管理制は生産、販売、投資など経営活動に関する企業の自律性と裁量権を拡大したもので、市場経済システムを一部反映したとされる。
(以下略)
http://www.kcna.co.jp/calendar/2021/03/03-03/2021-0303-004.html
로동신문 사회주의경쟁은 경제건설 추동하는 위력한 수단

(평양 3월 3일발 조선중앙통신)3일부 《로동신문》은 개인필명의 론설에서 사회주의경쟁은 사회주의근로자들의 자각성과 적극성, 창발성에 기초하여 로동생산능률을 높이며 생산과 건설을 더한층 빨리 밀고나가기 위하여 근로자들사이 또는 집단들사이에 서로 돕고 이끌면서 진행하는 경쟁운동이라고 밝혔다.

론설은 사회주의경쟁열풍으로 생산과 건설에서 비약과 혁신을 이룩해나가는것은 우리 당의 전통적인 사업방법이라고 하면서 다음과 같이 지적하였다.

우리 당은 언제나 경제활성화와 생산장성을 이룩하는데서 사회주의경쟁을 중시하여왔다.

온 나라에 료원의 불길처럼 타번진 사회주의경쟁을 떠나서 수세기를 도약하여 사회주의공업화의 력사적과업을 빛나게 실현하고 속도전의 진공나팔소리높이 로동당시대의 일대 전성기를 펼쳐놓은 긍지높은 력사에 대하여 생각할수 없다.

사회주의경쟁은 생산자대중의 혁명적열의와 창조적적극성을 불러일으켜 모든 부문, 모든 단위에서 끊임없는 혁신과 창조, 전진을 이룩하게 하는 힘있는 수단이다.

(以下略)
新型コロナウィルス禍により全世界的に経済苦境にある今日。数年来、社会主義企業責任管理制と社会主義競争熱風の両輪で経済改革を推進してきた共和国ですが、体制維持のために統制強化の「逆コース」を歩まないだろうかと内心で危惧していたところですが、ここ最近の報道を見る限り、むしろ危機克服のためにこそ社会主義企業責任管理制と社会主義競争熱風を推進するという元帥様の確固たる意志を感じ取るところです。
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