https://news.yahoo.co.jp/articles/6657d87b092602b7026c44af39bcf92af101cdeb
【安楽死と呼ぶ前に】「私なら死ぬ」はヘイトスピーチ ネットに堆積する匿名の暴力 障害ある人の受け止めは尊厳死・安楽死の問題。2年前の話ですが、東京都にある福生病院で人工透析を自己中止した終末期患者が程なくして死亡したという事案がありました。まだ民事裁判中ですが、毎日新聞や中日新聞(東京新聞)といった「リベラル系」マスメディアがこぞって反応、特に毎日新聞の力の入れようは大変なもので「医療の枠組みの中で「死の選択」が行われていたことは驚きだ。医療機関は治療する場所のはずだ。ところが今回は医療機関内で死が選ばれ、実行された。透析治療そのものへの批判が外科医の動機だったことにも衝撃を覚える」(チュチェ108・2019年3月7日づけ「どこまで「自己決定」だったのか 人工透析患者「死」の選択」)といった論調を展開していたものです。
3/18(木) 10:02配信
京都新聞
「安楽死」を議論する前に、もっと見つめ直すものがあるのではないか。京都新聞とYahoo!ニュースの共同連載企画「安楽死と呼ぶ前に」を3回掲載したところ、多数の反響が寄せられた。筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者=当時(51)=に医師が薬物を投与し死なせた嘱託殺人事件の報道と同様に、「あんな病気になったら、私だったら死にたい」などと、安楽死を容認する趣旨のコメントが目立った。立岩真也・立命大教授は「私なら死にたい、と公言することはヘイトスピーチ」と指摘する。障害がある人たちの受け止めを聞いた。(京都新聞 岡本晃明)
(中略)
安全圏から発する言葉「犯罪的だ」
ALSは、全身の筋肉が徐々に動かなくなっていく難病で、息する力も衰えるが人工呼吸器を装着して10年以上暮らす人もいる。京都の事件で亡くなったALS女性は発症から7年、24時間介助を受けて独居生活を送っていた。自発呼吸はあり、人工呼吸器は装着していなかった。匿名SNSで安楽死を希望していた。
立岩教授は、京都ALS事件を受けたインタビューの中で、次のように述べた。
―今回の事件で、ネット上には「自分だったら生きたいと思わない」といった匿名投稿が目立つ。
立岩 こうした言葉を発する人は、「自分のことを言っているだけで、他人を非難しているわけではない」と思っているかもしれないが、それは違う。もはやヘイトクライムと言っていい。困難な状況で生きている人に対して、「わたしはあなたの状態が死ぬほどイヤです」というのは、相当強い否定だ。例えば、なんでもいいですよ、「私がもし黒人として生まれたら、生きていられない、死んじゃう」とかね。相手の属性・状態を、命という非常に重いものと比較して、それに劣ると指摘するのは犯罪的だ。しかも、発言者は、目の前にそうした状況が迫っていて、明日にでも死を選ぶのか、と言ったら全然そうではなく、自分は安全圏にいて言っている。
―死をどう迎えたいのか、自らの最期はどういう形が望ましいのか、素朴に言葉にすることはあり得るのではないか。
立岩 それはまったく否定しない。あってしかるべきだ。自らの「死に方」、というより最期の「生き方」について考え、語り、要望することは何らおかしなことではない。でも、ある状況を指して「自分ならこうしたい」と公言することは、常に他人を傷つける恐れがあることを意識するべきだ。自らの死について将来の望みを家族や病院の人に打ち明けることと、SNSなどで「自分はそうならない」ことを知った上で「そうなったら死ぬ」と書き込み、公言することはまったく違う。
(以下略)
その論調自体が「驚き」でした。日本において尊厳死・安楽死の問題が議論の対象になって久しく、世界に目を向ければ厳格な運用ルールの下で実際に尊厳死・安楽死が行われている21世紀において、「医療の枠組みの中で「死の選択」が行われていたことは驚きだ。医療機関は治療する場所のはずだ。ところが今回は医療機関内で死が選ばれ、実行された。透析治療そのものへの批判が外科医の動機だったことにも衝撃を覚える」というのは、尊厳死・安楽死の存在そのものを初めて知った中学生のセリフのようだったからです。
案の定、毎日新聞等のキャンペーンは世論から「なにを今更、初耳のように騒いでいるんだ。尊厳死・安楽死があるではないか」などと突っ込まれて、大して響かずじまいでした。
それから2年。今度は京都新聞が口火を切ってきました。かつて、事前の世論傾向をまったく下調べせず自己の感覚・価値観だけで特集報道に突入してしまった毎日新聞の失敗に学んでか、ある程度主張を練ってから始めていることが推察されます。とても読み応えのある記事シリーズです。とりわけ、生き続けるための諸条件の整備が不十分なまま、安易に「尊厳」死や「安楽」死を口にすることは厳に戒めるべきだという見解は、大きく頷けるものです。
どんなに大金を積んでも現代の医学水準では救いようがなく、苦痛をさけるためには死を選んだ方が良いと思われる場合以外は尊厳死・安楽死には当たらない、死にたい動機の除去に最大限努力した上でのみ尊厳死・安楽死を論ずることができるという考えには一定の説得力があります。
しかし、上掲3月18日づけ記事は、いままでよく練られてきた記事シリーズを自らぶち壊すシロモノでした。「「私なら死ぬ」はヘイトスピーチ」だそうです。また随分と強烈な語句を持ち出してきたものです。
「自らの死について将来の望みを家族や病院の人に打ち明けることと、SNSなどで「自分はそうならない」ことを知った上で「そうなったら死ぬ」と書き込み、公言することはまったく違う」という立岩真也・立命館大学教授の指摘は分からないでもない理屈ですが、しかし、それこそリベラル系メディアが近年「自分のこととして想像力を働かせよう」と盛んに推奨しているところです。ここで槍玉に挙げられている「そうなったら死ぬ」というのは、まさに「想像力を働かせよう」という呼びかけへの呼応ではないでしょうか?
「ある状況を指して「自分ならこうしたい」と公言することは、常に他人を傷つける恐れがあることを意識するべきだ」というのは、そのとおりです。配慮されているとは到底言えない言説が氾濫しているのが昨今のSNS界隈です。「安易な『そうなったら死ぬ』が、いままさに困難に直面している当事者をどれほど傷つけるのか考えろ!」というのならば、100パーセント正しい意見でした。しかし、それを「ヘイトスピーチだ!」と罵倒するのは、とにかく最大級の非難の言葉を浴びせかけたかったのでしょうが、ボキャブラリー貧弱(ボキャ貧)にしても程度が低すぎます。もう少しマトモな語句選択はできなかったのでしょうか?
そもそも、立岩教授の言い様のとおりにした場合、「自らの最期はどういう形が望ましいのか、素朴に言葉にする」ことは現実的に困難ではないでしょうか? 立岩教授の言説は、現に当事者である人物以外が思考実験を行うこと自体に著しい制約をかけるものです。「SNSで発信するからヘイトであり、現実空間で個人的に口にする限りはヘイトではない」わけがないでしょう。誰も読まない日記ノート(机の引き出しに仕舞っておく)に書きこむくらいしか現実にはできないように思われます。しかしそれでは認識は発展しません。
また、一切この問題についてに口にはせず、日記ノートにも書かず、「そうなったら死ぬけどね」を内心に秘めていたとしても、最近は「沈黙は賛同と同じ」だというので、結局は「尊厳死はんたーい、安楽死はんたーい」のシュプレヒコールに合わせないと「ヘイトに加担した」と言われる恐れがあります。
立岩理論に則ろうとするとあまりにも制約が多すぎるように思われます。これでは、いったいどのようにすれば、自らの最期の在り方を表現できるというのでしょうか?
「自らの最期はどういう形が望ましいのか、素朴に言葉にすることはあり得る」として「自由な議論に対する寛容さ」をアピールするかのように見せつつも、一つの確固たる「信念体系」があり、それから外れる異論に対しては罵倒をも辞さない――いくら事前に主張を練って完璧に主張を展開しようとしても詰めが甘いがゆえに追及を受けてしまい、最終的には罵倒で返さざるを得ない・・・「いかにも」な展開です。
人生観問題・哲学問題に多少なりとも首を突っ込んだことのある人であれば通ってきた道だと思いますが、生と死の捉え方について「一分一秒でも長く現世で生き永らえることが善、だからたとえ全身を生命維持装置の管で覆われようと、そうした社会の方が善い社会」という考え方があります。こうした考え方を否定するつもりはありませんが、あくまでも一つの考え方に過ぎません。上掲記事の登場人物たちが確信を持つことは自由だし、それを正しくない意見だと批判する権利はあると思いますが、異なる意見に対して「ヘイトスピーチだ!」などと罵る姿勢は、批判と罵倒はまったく異質なので、問題視しなければならないでしょう。
かつてであれば、実に巧妙な筆致でそれとなく特定の見解を混ぜ込み、世論形成・世論誘導してきた有識者やジャーナリストたちが近年、押しつけがましくて破邪顕正しか能がないのかと疑いたくなるような主張や記事を開陳している事態を目にする機会が増えてきたように思われます。私自身が「大人」を飛び越えて「老化」し始めているのかも知れませんが、それにしても、丁寧な説得を受けていると感じる機会が以前よりも減ってきている感があります。新聞やニュースを目にするたびに、プラカードを掲げたデモ隊に遭遇したような感覚がするのです。
ただひたすら持論をまくしたてるようにしか主張できない、そんな記事しか書けない。仲間内で盛り上がることはできても異論を説得・誘導できない――有識者、そしてマスメディアとジャーナリズムの劣化が進んでいるように思われます。ついに「ヘイトスピーチだ!」と罵声を浴びせかける言説が、地方紙とはいえ紙面に躍り出るようになったのを見て、そう危惧せざるを得ないのです。
言論の劣化、特にマスメディアの劣化は社会の劣化に直結します。チャネルが多様化しているとはいえ、依然としてマスメディアは社会の木鐸としての地位を守っています。先ほど「たとえ全身を生命維持装置の管で覆われようと、そうした社会の方が善い社会」という考え方があるとましたが、これについて、朝鮮哲学が専門でチュチェ思想にも造詣が深い哲学者の小倉紀蔵先生は、著書『北朝鮮とは何か 思想的考察』において次のように指摘されています。とても重要なので少し長い引用になります。
この国のすべての「善」は個人の肉体的生命の時間的長さに依存している。人を長生きさせる社会が「善い」社会であり、すべての価値はそこに焦点を当てている。それだけではない。この国ではさらに、「正義」までもが個人の肉体的生命の時間的長さに依存している。人を長生きさせる社会が「正義」の社会なのである。小倉紀蔵『北朝鮮とは何か 思想的考察』(2015)藤原書店、p34-p38
(中略)
このような状況をもっとも愉しんでいるのは政治権力である。この国の政治権力は、強権をふるわなくても、国民が望むとおりの方向にのっとって、「生権力(biopower)」としての自己を無制限に拡大してゆくことができる。(中略)国民生活のすみずみにまでこの権力は浸透し、国民の肉体的生命の延長に全力を挙げる。単に国民を生かす権力だったこの生権力は、国民およびメディアからの強力な要請を受けて、いまや国民を徹底的に生かす権力にまで成長している。
このような思考に慣れた国民は、「生命とは、個々の人びとの肉体的生命である」という考えから一歩も外に出ることはできないし、また出ることを許されない。そのことがまた、国家の生権力化を極度に推し進める。個々人の生命観の自由は確保されずらくなり、国民の生命はさらに肉体化される。病院のカプセルの中で管と電気によって肉体的生命を維持することが、個人と国家の最終的な接点となる。一分一秒でも国民の肉体的生命を長引かせることができる権力が「善い」権力、「正義」の権力とされているからである。
そのことにより、国民の生は完膚なきまでに「ニセモノ化」する。なぜなら、生命の定義が国家という生権力によって握られ、メディア・産業界・アカデミズムもすべてその定義にしたがっているからである。
(中略)
この感情・意識は、容易に国家主義およびナショナリズムに結びつく。(中略)「日本はよい国だ。なぜなら日本国民は長生きだからだ」という生権力に迎合した認識が、ほかの世界観を駆逐していく。
これに対抗する側、つまり反政府側(左派)も、「日本は悪い国だ。なぜなら国民を自殺に追いやったり、最低水準の生活もできないような状況に陥れているからだ」という。これもまた、「個人の肉体的生命だけが生命である」という世界観であるから、必然的に生権力の強化へと結びつく。
「弱者への思いやりのない権力は悪である」という認識は、「生の肉体化」という世界観と合体して権力を無際限に強化していく。そこに歯止めはすでにかけようがない。政権への反発が、その政権よりもさらに生権力を強化した別の政権への期待を生むという「生権力的悪循環」から逃れるすべはすでにない。
(中略)
このことは、さらにどんな事態をもたらすのだろうか。
ひとつは、世界全体をアメリカが支配することへの無意識的容認である。
そもそも、日本人が「生の個人化」「生の肉体化」という排他的な小部屋に閉じこもっていることができる理由は、自国の安全保障をアメリカに肩代わりさせているという点が大きい。
(中略)
また、北朝鮮によって日本の国民が拉致されたという事態は、思考停止をますます増大化させることになった。自国民の生命と肉体の安全のためには、国家権力に全権を委任するという政治的状態すら望まれ、実際にそのようになったのである。拉致問題を契機として、国家権力はそのことを口実に国民の生と肉体への関与をさらに強化することに成功した。むしろ国民がそのことを自ら希望したのである。
かくして日本は、国民の肉体的生命を守ることができない北朝鮮を糾弾することにより、自らも北朝鮮と同じく国民の肉体的生命をコントロールする権力として肥大化することに成功したのである。
小倉先生の著書にいつも勉強させてもらっている私は、本書も出版直後に購入し読みました。「思想的考察」というだけあって哲学的分析の書である本書。哲学という学問は「常識を疑い、問い直す学問」なので、ある意味で「非常識」な内容・論理展開になりがちです。チュチェ104・2015年当時の私は「哲学的考察としては理解可能だけど『非常識』な内容だから、ブログの社会論評の文脈では引用しづらいな」と判断し、それ以来「塩漬けの知識」のままでした。
しかし、新型コロナウィルス禍において、一部都府県では3度目の緊急事態宣言が発出されるに至りました。さらに大阪府知事つまり行政府当局者自らが「私権制限の必要性」を公然と口にするようになり、それに対して懸念する声があまり聞こえて来ないという、戦後日本で初めての事態が現実のものになっています。小倉先生の「哲学的」分析が、眼前の事態の「現実的」分析に直接使用できる事態になっているわけです。
上掲のとおり、「生権力」の肥大化にマスメディアは多大な「貢献」をしてきました。マスメディア自身が「生権力」の肥大化こそが善と正義の実現に不可欠であるという一面的思考に凝り固まっています。これはありとあらゆる場面で見られる現象でしたが、ついに「生権力」の肥大化への欲求は、尊厳死・安楽死問題について「ヘイトスピーチだ!」などと罵らずには居られないほどに強く、かつ感情レベルにまで浸透しきっています。「生権力」の肥大化への欲求が究極的な段階に至っているということに他なりません。
これは「丁寧な説得や誘導を放棄し、持論をまくしたてる存在に成り下がった」という言論・マスメディアの劣化に留まらず、小倉先生が予言的に展望しているように、「世界全体をアメリカが支配することへの無意識的容認」及び「国民の肉体的生命をコントロールする権力としてのさらなる肥大化」に繋がるものです。普段「平和と民主主義」を重視するリベラリズムが、自らそれとは真逆の方向性を要求しつつ、しかしその言行不一致に気が付いていないということなのです。
すべてが繋がっています。新型コロナウィルス禍においてリベラリストたちが権力の無制限肥大化を自ら求めるようになったのは必然的帰結なのです。