2021年04月29日

言論が「私なら死ぬ」を「ヘイトスピーチだ!」と罵倒する時代、コロナ禍でリベラルが権力の無制限肥大化を自ら求めるのは必然的帰結

かなり古い記事ですが、後述のとおり「3度目の緊急事態宣言」そして「いのちを守るために私権制限を」の今だからこそ取り上げたい内容です。
https://news.yahoo.co.jp/articles/6657d87b092602b7026c44af39bcf92af101cdeb
【安楽死と呼ぶ前に】「私なら死ぬ」はヘイトスピーチ ネットに堆積する匿名の暴力 障害ある人の受け止めは
3/18(木) 10:02配信
京都新聞

「安楽死」を議論する前に、もっと見つめ直すものがあるのではないか。京都新聞とYahoo!ニュースの共同連載企画「安楽死と呼ぶ前に」を3回掲載したところ、多数の反響が寄せられた。筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者=当時(51)=に医師が薬物を投与し死なせた嘱託殺人事件の報道と同様に、「あんな病気になったら、私だったら死にたい」などと、安楽死を容認する趣旨のコメントが目立った。立岩真也・立命大教授は「私なら死にたい、と公言することはヘイトスピーチ」と指摘する。障害がある人たちの受け止めを聞いた。(京都新聞 岡本晃明)

(中略)
安全圏から発する言葉「犯罪的だ」
 ALSは、全身の筋肉が徐々に動かなくなっていく難病で、息する力も衰えるが人工呼吸器を装着して10年以上暮らす人もいる。京都の事件で亡くなったALS女性は発症から7年、24時間介助を受けて独居生活を送っていた。自発呼吸はあり、人工呼吸器は装着していなかった。匿名SNSで安楽死を希望していた。
立岩教授は、京都ALS事件を受けたインタビューの中で、次のように述べた。

―今回の事件で、ネット上には「自分だったら生きたいと思わない」といった匿名投稿が目立つ。

立岩 こうした言葉を発する人は、「自分のことを言っているだけで、他人を非難しているわけではない」と思っているかもしれないが、それは違う。もはやヘイトクライムと言っていい。困難な状況で生きている人に対して、「わたしはあなたの状態が死ぬほどイヤです」というのは、相当強い否定だ。例えば、なんでもいいですよ、「私がもし黒人として生まれたら、生きていられない、死んじゃう」とかね。相手の属性・状態を、命という非常に重いものと比較して、それに劣ると指摘するのは犯罪的だ。しかも、発言者は、目の前にそうした状況が迫っていて、明日にでも死を選ぶのか、と言ったら全然そうではなく、自分は安全圏にいて言っている。

―死をどう迎えたいのか、自らの最期はどういう形が望ましいのか、素朴に言葉にすることはあり得るのではないか。

立岩 それはまったく否定しない。あってしかるべきだ。自らの「死に方」、というより最期の「生き方」について考え、語り、要望することは何らおかしなことではない。でも、ある状況を指して「自分ならこうしたい」と公言することは、常に他人を傷つける恐れがあることを意識するべきだ。自らの死について将来の望みを家族や病院の人に打ち明けることと、SNSなどで「自分はそうならない」ことを知った上で「そうなったら死ぬ」と書き込み、公言することはまったく違う。

(以下略)
尊厳死・安楽死の問題。2年前の話ですが、東京都にある福生病院で人工透析を自己中止した終末期患者が程なくして死亡したという事案がありました。まだ民事裁判中ですが、毎日新聞や中日新聞(東京新聞)といった「リベラル系」マスメディアがこぞって反応、特に毎日新聞の力の入れようは大変なもので「医療の枠組みの中で「死の選択」が行われていたことは驚きだ。医療機関は治療する場所のはずだ。ところが今回は医療機関内で死が選ばれ、実行された。透析治療そのものへの批判が外科医の動機だったことにも衝撃を覚える」(チュチェ108・2019年3月7日づけ「どこまで「自己決定」だったのか 人工透析患者「死」の選択」)といった論調を展開していたものです。

その論調自体が「驚き」でした。日本において尊厳死・安楽死の問題が議論の対象になって久しく、世界に目を向ければ厳格な運用ルールの下で実際に尊厳死・安楽死が行われている21世紀において、「医療の枠組みの中で「死の選択」が行われていたことは驚きだ。医療機関は治療する場所のはずだ。ところが今回は医療機関内で死が選ばれ、実行された。透析治療そのものへの批判が外科医の動機だったことにも衝撃を覚える」というのは、尊厳死・安楽死の存在そのものを初めて知った中学生のセリフのようだったからです。

案の定、毎日新聞等のキャンペーンは世論から「なにを今更、初耳のように騒いでいるんだ。尊厳死・安楽死があるではないか」などと突っ込まれて、大して響かずじまいでした。

それから2年。今度は京都新聞が口火を切ってきました。かつて、事前の世論傾向をまったく下調べせず自己の感覚・価値観だけで特集報道に突入してしまった毎日新聞の失敗に学んでか、ある程度主張を練ってから始めていることが推察されます。とても読み応えのある記事シリーズです。とりわけ、生き続けるための諸条件の整備が不十分なまま、安易に「尊厳」死や「安楽」死を口にすることは厳に戒めるべきだという見解は、大きく頷けるものです。

どんなに大金を積んでも現代の医学水準では救いようがなく、苦痛をさけるためには死を選んだ方が良いと思われる場合以外は尊厳死・安楽死には当たらない、死にたい動機の除去に最大限努力した上でのみ尊厳死・安楽死を論ずることができるという考えには一定の説得力があります。

しかし、上掲3月18日づけ記事は、いままでよく練られてきた記事シリーズを自らぶち壊すシロモノでした。「「私なら死ぬ」はヘイトスピーチ」だそうです。また随分と強烈な語句を持ち出してきたものです。

自らの死について将来の望みを家族や病院の人に打ち明けることと、SNSなどで「自分はそうならない」ことを知った上で「そうなったら死ぬ」と書き込み、公言することはまったく違う」という立岩真也・立命館大学教授の指摘は分からないでもない理屈ですが、しかし、それこそリベラル系メディアが近年「自分のこととして想像力を働かせよう」と盛んに推奨しているところです。ここで槍玉に挙げられている「そうなったら死ぬ」というのは、まさに「想像力を働かせよう」という呼びかけへの呼応ではないでしょうか?

ある状況を指して「自分ならこうしたい」と公言することは、常に他人を傷つける恐れがあることを意識するべきだ」というのは、そのとおりです。配慮されているとは到底言えない言説が氾濫しているのが昨今のSNS界隈です。「安易な『そうなったら死ぬ』が、いままさに困難に直面している当事者をどれほど傷つけるのか考えろ!」というのならば、100パーセント正しい意見でした。しかし、それを「ヘイトスピーチだ!」と罵倒するのは、とにかく最大級の非難の言葉を浴びせかけたかったのでしょうが、ボキャブラリー貧弱(ボキャ貧)にしても程度が低すぎます。もう少しマトモな語句選択はできなかったのでしょうか?

そもそも、立岩教授の言い様のとおりにした場合、「自らの最期はどういう形が望ましいのか、素朴に言葉にする」ことは現実的に困難ではないでしょうか? 立岩教授の言説は、現に当事者である人物以外が思考実験を行うこと自体に著しい制約をかけるものです。「SNSで発信するからヘイトであり、現実空間で個人的に口にする限りはヘイトではない」わけがないでしょう。誰も読まない日記ノート(机の引き出しに仕舞っておく)に書きこむくらいしか現実にはできないように思われます。しかしそれでは認識は発展しません。

また、一切この問題についてに口にはせず、日記ノートにも書かず、「そうなったら死ぬけどね」を内心に秘めていたとしても、最近は「沈黙は賛同と同じ」だというので、結局は「尊厳死はんたーい、安楽死はんたーい」のシュプレヒコールに合わせないと「ヘイトに加担した」と言われる恐れがあります。

立岩理論に則ろうとするとあまりにも制約が多すぎるように思われます。これでは、いったいどのようにすれば、自らの最期の在り方を表現できるというのでしょうか?

自らの最期はどういう形が望ましいのか、素朴に言葉にすることはあり得る」として「自由な議論に対する寛容さ」をアピールするかのように見せつつも、一つの確固たる「信念体系」があり、それから外れる異論に対しては罵倒をも辞さない――いくら事前に主張を練って完璧に主張を展開しようとしても詰めが甘いがゆえに追及を受けてしまい、最終的には罵倒で返さざるを得ない・・・「いかにも」な展開です。

人生観問題・哲学問題に多少なりとも首を突っ込んだことのある人であれば通ってきた道だと思いますが、生と死の捉え方について「一分一秒でも長く現世で生き永らえることが善、だからたとえ全身を生命維持装置の管で覆われようと、そうした社会の方が善い社会」という考え方があります。こうした考え方を否定するつもりはありませんが、あくまでも一つの考え方に過ぎません。上掲記事の登場人物たちが確信を持つことは自由だし、それを正しくない意見だと批判する権利はあると思いますが、異なる意見に対して「ヘイトスピーチだ!」などと罵る姿勢は、批判と罵倒はまったく異質なので、問題視しなければならないでしょう。

かつてであれば、実に巧妙な筆致でそれとなく特定の見解を混ぜ込み、世論形成・世論誘導してきた有識者やジャーナリストたちが近年、押しつけがましくて破邪顕正しか能がないのかと疑いたくなるような主張や記事を開陳している事態を目にする機会が増えてきたように思われます。私自身が「大人」を飛び越えて「老化」し始めているのかも知れませんが、それにしても、丁寧な説得を受けていると感じる機会が以前よりも減ってきている感があります。新聞やニュースを目にするたびに、プラカードを掲げたデモ隊に遭遇したような感覚がするのです。

ただひたすら持論をまくしたてるようにしか主張できない、そんな記事しか書けない。仲間内で盛り上がることはできても異論を説得・誘導できない――有識者、そしてマスメディアとジャーナリズムの劣化が進んでいるように思われます。ついに「ヘイトスピーチだ!」と罵声を浴びせかける言説が、地方紙とはいえ紙面に躍り出るようになったのを見て、そう危惧せざるを得ないのです。

言論の劣化、特にマスメディアの劣化は社会の劣化に直結します。チャネルが多様化しているとはいえ、依然としてマスメディアは社会の木鐸としての地位を守っています。先ほど「たとえ全身を生命維持装置の管で覆われようと、そうした社会の方が善い社会」という考え方があるとましたが、これについて、朝鮮哲学が専門でチュチェ思想にも造詣が深い哲学者の小倉紀蔵先生は、著書『北朝鮮とは何か 思想的考察』において次のように指摘されています。とても重要なので少し長い引用になります。
この国のすべての「善」は個人の肉体的生命の時間的長さに依存している。人を長生きさせる社会が「善い」社会であり、すべての価値はそこに焦点を当てている。それだけではない。この国ではさらに、「正義」までもが個人の肉体的生命の時間的長さに依存している。人を長生きさせる社会が「正義」の社会なのである。
(中略)
このような状況をもっとも愉しんでいるのは政治権力である。この国の政治権力は、強権をふるわなくても、国民が望むとおりの方向にのっとって、「生権力(biopower)」としての自己を無制限に拡大してゆくことができる。(中略)国民生活のすみずみにまでこの権力は浸透し、国民の肉体的生命の延長に全力を挙げる。単に国民を生かす権力だったこの生権力は、国民およびメディアからの強力な要請を受けて、いまや国民を徹底的に生かす権力にまで成長している。

このような思考に慣れた国民は、「生命とは、個々の人びとの肉体的生命である」という考えから一歩も外に出ることはできないし、また出ることを許されない。そのことがまた、国家の生権力化を極度に推し進める。個々人の生命観の自由は確保されずらくなり、国民の生命はさらに肉体化される。病院のカプセルの中で管と電気によって肉体的生命を維持することが、個人と国家の最終的な接点となる。一分一秒でも国民の肉体的生命を長引かせることができる権力が「善い」権力、「正義」の権力とされているからである。

そのことにより、国民の生は完膚なきまでに「ニセモノ化」する。なぜなら、生命の定義が国家という生権力によって握られ、メディア・産業界・アカデミズムもすべてその定義にしたがっているからである。

(中略)
この感情・意識は、容易に国家主義およびナショナリズムに結びつく。(中略)「日本はよい国だ。なぜなら日本国民は長生きだからだ」という生権力に迎合した認識が、ほかの世界観を駆逐していく。

これに対抗する側、つまり反政府側(左派)も、「日本は悪い国だ。なぜなら国民を自殺に追いやったり、最低水準の生活もできないような状況に陥れているからだ」という。これもまた、「個人の肉体的生命だけが生命である」という世界観であるから、必然的に生権力の強化へと結びつく。

「弱者への思いやりのない権力は悪である」という認識は、「生の肉体化」という世界観と合体して権力を無際限に強化していく。そこに歯止めはすでにかけようがない。政権への反発が、その政権よりもさらに生権力を強化した別の政権への期待を生むという「生権力的悪循環」から逃れるすべはすでにない。

(中略)
このことは、さらにどんな事態をもたらすのだろうか。

ひとつは、世界全体をアメリカが支配することへの無意識的容認である。

そもそも、日本人が「生の個人化」「生の肉体化」という排他的な小部屋に閉じこもっていることができる理由は、自国の安全保障をアメリカに肩代わりさせているという点が大きい。

(中略)
また、北朝鮮によって日本の国民が拉致されたという事態は、思考停止をますます増大化させることになった。自国民の生命と肉体の安全のためには、国家権力に全権を委任するという政治的状態すら望まれ、実際にそのようになったのである。拉致問題を契機として、国家権力はそのことを口実に国民の生と肉体への関与をさらに強化することに成功した。むしろ国民がそのことを自ら希望したのである。

かくして日本は、国民の肉体的生命を守ることができない北朝鮮を糾弾することにより、自らも北朝鮮と同じく国民の肉体的生命をコントロールする権力として肥大化することに成功したのである。
小倉紀蔵『北朝鮮とは何か 思想的考察』(2015)藤原書店、p34-p38

小倉先生の著書にいつも勉強させてもらっている私は、本書も出版直後に購入し読みました。「思想的考察」というだけあって哲学的分析の書である本書。哲学という学問は「常識を疑い、問い直す学問」なので、ある意味で「非常識」な内容・論理展開になりがちです。チュチェ104・2015年当時の私は「哲学的考察としては理解可能だけど『非常識』な内容だから、ブログの社会論評の文脈では引用しづらいな」と判断し、それ以来「塩漬けの知識」のままでした。

しかし、新型コロナウィルス禍において、一部都府県では3度目の緊急事態宣言が発出されるに至りました。さらに大阪府知事つまり行政府当局者自らが「私権制限の必要性」を公然と口にするようになり、それに対して懸念する声があまり聞こえて来ないという、戦後日本で初めての事態が現実のものになっています。小倉先生の「哲学的」分析が、眼前の事態の「現実的」分析に直接使用できる事態になっているわけです。

上掲のとおり、「生権力」の肥大化にマスメディアは多大な「貢献」をしてきました。マスメディア自身が「生権力」の肥大化こそが善と正義の実現に不可欠であるという一面的思考に凝り固まっています。これはありとあらゆる場面で見られる現象でしたが、ついに「生権力」の肥大化への欲求は、尊厳死・安楽死問題について「ヘイトスピーチだ!」などと罵らずには居られないほどに強く、かつ感情レベルにまで浸透しきっています。「生権力」の肥大化への欲求が究極的な段階に至っているということに他なりません

これは「丁寧な説得や誘導を放棄し、持論をまくしたてる存在に成り下がった」という言論・マスメディアの劣化に留まらず、小倉先生が予言的に展望しているように、「世界全体をアメリカが支配することへの無意識的容認」及び「国民の肉体的生命をコントロールする権力としてのさらなる肥大化」に繋がるものです。普段「平和と民主主義」を重視するリベラリズムが、自らそれとは真逆の方向性を要求しつつ、しかしその言行不一致に気が付いていないということなのです

すべてが繋がっています。新型コロナウィルス禍においてリベラリストたちが権力の無制限肥大化を自ら求めるようになったのは必然的帰結なのです
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2021年04月25日

韓「国」政権には正統性がないから、キム・イルソン回顧録程度で躍起になる

https://news.yahoo.co.jp/articles/2bf05fb37ff556f78aae2de10bd751f7611bc6cc
利敵表現物「金日成回顧録」、韓国書店で販売開始
4/22(木) 9:31配信
朝鮮日報日本語版

(中略)
 同書は、社団法人「南北民間交流協議会」の理事長を務めたキム・スンギュン氏(83)が昨年11月に出版社として登録した民族サラン房から、全8冊の洋装本として出版された。定価は8冊セットで28万ウォン(約2万7000円)。キム氏は北朝鮮関連の貿易などを行う中小企業「南北交易株式会社」の代表も務めている。金日成の抗日武装闘争史を描いたとされる「世紀と共に」は1992年4月15日、金日成の80回目の誕生日をきっかけに同年4月から97年8月まで平壌の「朝鮮労働党出版社」から対外宣伝用として出版された。
(中略)
 現行の国家保安法第7条(賞賛・鼓舞など)は反国家団体やその構成員あるいはその指令を受けた者の活動への称賛・鼓舞・宣伝、あるいはこれに同調する行為をした者に対しては7年以下の懲役に処すると定めている。2011年に大法院は平素から北朝鮮体制に追従し、政府の許可なしに訪朝した容疑などで起訴されたチョン某氏の上告審で「チョン氏が所持していた『世紀と共に』などは利敵表現物に該当する」と判断し、懲役1年と資格停止1年を宣告した高裁の判決を確定した。16年には学生たちに「金日成回顧録」の感想文提出を要求した蔚山大学教授のイ某氏に国家保安法違反で懲役6カ月に執行猶予1年、資格停止6カ月を宣告した原審が確定した。金日成死亡直後の1994年8月には図書出版カソ院が「世紀と共に」を出版しようとした際に社長が逮捕された。
首領様の祖国解放までの回顧録が「利敵」だとのこと。バカバカしい。韓「国」政権には正統性がないから、回顧録程度で躍起になるのでしょうね。

人間、自分の人生の回顧は美化しがちで、真の歴史的評価は第三者によるものであります。回顧録は一次資料としては有用ではあるが、あくまでも史料批判の対象であり、それを「一言一句、真に受ける」べきものではありません。

共和国政権のルーツとして首領様は確かに抗日武装闘争を展開しておられましたが、韓「国」政権のルーツとされる面々がいったい何をしていたのかと問われれば、グウの音も出てこないと思われます。その点、回顧録が「利敵表現物」とは、韓「国」政権の器の小ささ・余裕のなさを自白したような反応であります。

考えても見れば、韓「国」が誇れることと言えば「漢江の奇跡」くらいですが、あくまでも開発独裁的な成功に過ぎません。韓「国」政権の歴史的成果は、あくまでも「人類史における開発独裁の段階を運営した」に過ぎないわけです。それくらいしか誇ることのない韓「国」政権。ここまでくると少し可哀そうなレベルですね。
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2021年04月18日

ワクチン接種の混乱が斯くも問題になるのは、「事前の緻密な計画」及び「計画の忠実な執行」にこだわる日本の教育制度・受験制度・就活慣習のため

https://news.yahoo.co.jp/articles/2cc8952f479ecb6e7762bdbda3dc8e8212f93447
高齢者用ワクチン、医療従事者に転用の動き…配分足りない自治体「医師ら感染なら接種進まない」
4/14(水) 23:03配信
読売新聞オンライン

(中略)
 厚生労働省などによると、転用が行われるのは、医療従事者用の配分量が十分でないことなどが原因だ。13日時点でワクチンを2回打った医療従事者は、接種対象(約470万人)の13%にあたる約60万人にすぎない。

 一方、3月29日までに輸入されたワクチンの総量は約235万人分で、厚労省は同日の週までに医療従事者用として約126万人分だけを配送した。4月5日の週からは高齢者用が自治体に届いた。

 その結果、医療従事者の接種が終わっていない自治体に高齢者用が到着する事態が起きた。厚労省は4月12日から自治体に対して転用を容認している。

(以下略)
コメ欄。
なんで非難するのかわからん。
医療従事者に接種してかまわんだろ。
計画通りにいかないことなんか仕事をしてたら経験することだろ。それを修正していい方向にしていくんじゃないのか。
仕事したことごないのなら、わからんだろうけど。
これだけの大掛かりなプロジェクトを行っているのに、完璧な計画が出来て、全てがその計画通りに進むとでも思っているのですか?
大方針はトップが決めていますが、その中で想定しきれない部分を現場で柔軟に対応する必要がある、というのは、社会では一般的な姿かと思いますが。
メーカーで、配台作業のやりくりをしている状況を見て、社長が情けないなんて発想にはならないけどな。
概ね同感のコメントですが、この混乱っぷりを批判的に見る発想の手合いは「仕事をしたことのない人」だけでなく、名だたる企業や官公庁などで企画・調整業務に従事しているような人たち、いわゆる「エリート」なども含まれると思われます。そして、エリートこそこういう発想に至りがちであることは、今日の情勢において重要な事実であります。

奇しくも下記のような記事が公開されています。エリート的発想の形成経路が下記記事をとおして理解できます。
https://news.yahoo.co.jp/articles/e44e895a025b128329605c298d6bbcac8514b8ce
「なぜ受験勉強をしなければいけないか」橋下徹が出した納得の理由
4/16(金) 11:16配信
プレジデントオンライン

インターネットを調べれば、ほとんどのことはすぐに答えがみつかる。それなのに受験勉強をして、大学で学ぶ意義はどこにあるのか。元大阪市長の橋下徹弁護士は「大学に行く意義は、受験勉強を通じて事務処理能力を高めることにある」という――。

(中略)
■大学に行く意義は「受験勉強を通じて事務処理能力を高めること」

 では大学、特に文系の意義は何か? 

 僕は専門知識を習得するというより、受験勉強を通じて事務処理能力を高めることにつながるのではないかと思っている。

 すべてだとは言わないが、僕の個人的経験では、高学歴の人はそれなりに事務処理能力が高い。

 会議の内容を要領よくまとめて、文書を作成する。プロジェクトを遂行するためには何が必要か考えて、計画どおりに実行する。連絡網を作り、コミュニケーションが円滑に進むようにする。予算管理を適切に行う。

 こうした事務処理能力は、一見すると地味だが、組織運営には欠かせない貴重な能力だ。これからはクリエイティブな発想が求められるとはよく言われることで、もちろん僕もそのとおりだと思う。事務処理能力を高めたところで創造力が高まることはない。

 しかし、創造力だけを極めればいい一部の天才でもないかぎり、普通の人間にとって仕事を円滑に進めるうえで事務処理能力が必要となることも現実だ。

 つまり事務処理能力もそれはそれでひとつの才能であることに間違いないのだ。

 いまの大学入試、その前の高校入試で得る知識は、社会人になって役に立つことはほとんどない。ではなぜ受験勉強をするのか。

 それは事務処理能力を高めるからだ。入試は、知識の量を問うというよりも事務処理能力を測っている。

 受験勉強に長けているというのは、要領が良いということだ。試験に出そうなところを大まかに予測して、集中的に覚える。

 覚え方にもコツがある。大きな流れをつかんで細かなことに進む。共通性をつかんで差異に注視する、など。

 いずれにせよ受験戦争に勝ってきた者は事務処理能力が高いことが多い。

(以下略)
受験勉強を通じて事務処理能力を高める」という橋下氏の主張は、高卒者向け公務員試験でも十分に満たせる(大学の文系学部受験に比べれば、公務員試験の試験範囲は遥かに広い)ので、厳密にはこの理屈は成り立っていませんが、新卒者の就職活動においてしばしば指摘される「学歴フィルター」は、まさに橋下氏のような発想で設定されているものである点、多くの日本企業は、橋下氏的発想に則っているものと考えられます。

しかしながら、こうした学歴主義的なスクリーニングで分かるのは、あくまでも、「事前に緻密な計画を立案し、その計画どおりにテキストや問題集を遂行する能力」に過ぎません。高校生・受験生が直面するような「想定外」など、せいぜい発熱・体調不良ぐらいのもの。社会人が仕事の上で出くわすような緊急事態など、彼・彼女らに降りかかることなどまずあり得ないものです。

「受験勉強程度も裁けないようでは社会人はやっていけない」というのは分からないでもない理屈ですが、受験勉強を裁けたところで社会人として通用するかはまったく別問題です。しかし、受験勉強的事務処理能力がそのまま社会人的事務処理能力として扱われてしまっています

このように、日本の学校教育及び受験制度並びに就職活動、つまり日本の人材登用システムは、なによりも労働者たちが「計画性」を身に付けることを重視しています。緻密な計画立案能力と、計画どおりタスクを遂行する能力を重視するわけなのです。これは、ハイエク的な意味合いにおいては「設計主義的教育」、ソフトウェア・エンジニアリング的な意味合いにおいては「ウォーターフォール・モデル的教育」と言えるでしょう。

こうした学校教育及び受験制度並びに就職活動にもっとも忠実に育った「エリート」たちは、こうした一種の設計主義・ウォーターフォール主義を血肉化し、社会に出てからも「事前の緻密な計画」及び「計画の忠実な執行」にこだわるものです。その結果、まさに設計主義およびウォーターフォール・モデルの宿痾と言うべき事態が発生します。予定外・予測外の事態に対する無能っぷりが露呈されるわけです。

緻密な計画立案能力と、計画どおりタスクを遂行する能力を重視においては、予定外・予測外の事態への対応能力はそもそも評価対象外であります。しかし、現実の社会的職業生活においては、さまざまな事情によって事前の計画どおりには行かないのが常です。このとき、設計主義的教育およびウォーターフォール・モデル的教育に小学校から大学まで染まり切ってきた「エリート」は、さらに計画を緻密化しようと悪戦苦闘した上に大失敗をおかすか、あるいは、いままでの人生において教え込まれてきた考え方とまったく正反対の事態に直面することにより、どう対処してよいかわからなくなってフリーズしてしまうか、あるいは、自分以外の他者のせいだとして喚きたてるものです。そもそも「緻密な計画」を立てようとすることが間違いなのに、計画立案に失敗した自分を責めたり、理想どおりに動かなかった部下や取引先・下請け業者等にパワハラまがいに迫ったりするわけです

これはまさに、「設計主義」すなわち20世紀の社会主義計画経済の失敗、およびデスマーチとしてのソフトウェア・システム開発において往々してみられるものです。社会主義計画経済は、計画どおりにいかなかったことで経済システム全体が麻痺に陥って崩壊しました。ソフトウェア・システム開発は、計画どおりにいかなかったことでデスマーチ化しました。

今日の新型コロナウィルス禍においては、ウィルス変異の問題を筆頭に日々変化する情勢にいかに機敏に即応的に対処できるかがカギになっています。新型コロナウィルス禍は、「事前の緻密な計画」及び「計画の忠実な執行」で対処できるような問題ではありません。設計主義的教育およびウォーターフォール・モデル的教育の限界が露呈している事態です。

そんな事態においても尚、ワクチン接種が「予定どおり」に行われないことを設計主義的・ウォーターフォール・モデル的な発想に基づいて責め立てるような意見が沸いて出てきているのが日本社会の現状です。設計主義・ウォーターフォール主義的な発想がいかに日本社会において根付いてしまっているのか、その根深さが示されています

近年、「完璧主義」の息苦しさ、および、完璧主義を前提とするクレーマーの跳梁跋扈が問題視されるようになってきましたが、しかし依然として、「ではなぜ、日本社会が完璧主義化したのか」までは問い詰め切れていないように思われます。私は「日本社会が完璧主義化」の根本原因に、「事前に緻密な計画を立案し、その計画どおり課題を遂行する能力」を要求する設計主義的教育およびウォーターフォール・モデル的教育があると考えます

関連記事;5月29日づけ「日本人ほど合理主義的設計主義・計画経済主義が国民性的に合う国は珍しい・・・精神のペレストロイカはいつになることやら
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2021年04月15日

社会的分業を見つめ直す必要:キム・イルソン同志生誕記念

https://news.yahoo.co.jp/articles/69013a618fdb17272cf688293e0da34a7fd7cc87
玉川徹氏、吉村府知事の「医療非常事態宣言」に「予想できることに対して準備できなかった」
4/8(木) 9:40配信
スポーツ報知

(中略)
 コメンテーターで同局の玉川徹氏は、大阪だけでなく宮城県も医療体制が逼迫していることを指摘した上で「こういう風になり得ることは散々、言われていたわけじゃないですか。想像もできないことが起きているんじゃなくて、むしろ予想通りのことが起きているんです。じゃあ、なぜ予想ができることに対して準備できていなかったんだっていう話なんです。何をやっていたんだ、と」と指摘した。

 さらに「変異株だってイギリスで大変なことになっているっていうのは、2月の時点で分かってて、いずれ入ってくるだろうって分かっていて、入ってきて案の定。こんな状態になってて、変異株のせいですって。今頃、言ったって、そんなのずっと前から分かっているでしょうって。何の準備もしてないで。医療非常事態宣言ですか?」と疑問を呈した。
■想像力・推理力の欠落
なぜ予想ができることに対して準備できていなかったんだっていう話なんです。何をやっていたんだ」――「言うは易く行うは難し」の典型。医療のように高度な専門性と熟練を必要とする知識集約産業は、人手を増やそうとしても短期間では達成できないものです。たしかに行政サービス・公衆衛生サービスを「受ける側」としては、ふと疑問に思うこともあるでしょう。しかし、サービスを「提供する側」の事情に少しでも想像力や推理力が働けば、ここまでお気楽で一方的な物言いはできないでしょう。

この手のお気楽で一方的な物言いは決して玉川氏に固有のものではなく、昨今では分野・場面を問わず割とありふれたものになりつつあります。この手のお気楽で一方的な物言いは消費者意識の奇形的肥大化としてのクレーマーによくみられるものです。その点、日本社会はクレーマー気質的になりつつあると言えるかもしれません。

また、批判ばかりで具体的な提案が出てこないというのは、人民主権の国家としてあるべき姿ではありません。主権者みずからが考えて提言し、事態打開の可能性に乏しい問題についてヒステリックに喚きたてるべきではないのです。その点、日本社会は「口を開けてエサを求める雛鳥」あるいは「駄々を捏ねているおこちゃま」化が進んでいるとも言えるかもしれません。

■社会的分業の徹底的な専門細分化が個々人を「バカ」にしている
ところで、ではなぜこのようなお気楽で一方的な物言いが蔓延しつつあるのでしょうか。その原因として私は、社会的分業の徹底的な専門細分化による超知識労働社会への社会変化があると考えています。

かつて、まだ社会的分業が未熟で専門的細分化が進んでいない時代においては、人々は、取引相手側の事情についておおよその察しをつけることができました。材料の仕入れや運搬、各種調整にかかる所要時間はだいたい見当がつくので、詳しい段取りまでは分からなくても自分の注文が満たされるのにかかる日数は推測可能だったわけです。また、それらにかかる手間暇や各方面への根回し・気遣いの大変さについても、だいたいどの世界・業界でも同じなので、仮に個人的に急いでいたとしても無理筋な要求を突きつけるには躊躇いが生じるものでした(突きつけたところで仕方がない)。

しかし昨今は、社会的分業が徹底的に専門細分化されたことにより、他人の仕事内容への想像力や推理力が働きにくくなっています。また、BtoCレベル・日常的購買のレベルでは即日配送のようなスピーディなサービスが溢れかえっているので、量産品消費者としてのスピード感ですべてを判断しがちになっています。結果、モノの道理が分からなくなってきた人々、ある意味で「バカ」になってしまったサービスを「受ける側」は、ただひたすら自分の都合を並べ立てるようになり、サービスを「提供する側」の事情を踏まえなくなるというわけです。

■一億総「お役人」化
少し前ですが、こんなこともありました。
https://news.yahoo.co.jp/articles/3abc7c8645bade7613b2f9a7702187330de07143
青木理氏が机をたたいて憤慨 麻生財務相の「いつまでマスク?」発言に
3/21(日) 14:11配信
デイリースポーツ

(中略)
 麻生氏は、新型コロナウイルス対策の長期化にからめて「マスクなんて暑くなって口の周りがかゆくなって最近えらい皮膚科がはやっているそうだけど。いつまでやるの?」と逆質問。「真面目に聞いてるんだよ、俺が。あんたら新聞記者だから、それくらい知ってんだろ」と付け加えた。

 青木氏はこの日、「政権のナンバー2が…」とこのくだりを持ち出し、「いやいや、政府の対策とワクチンの接種次第で変わるわけですよね」と口調は穏やかながら、右手で机をたたきながら指摘。「そんなことを冗談なのかもしれないけど、おっしゃっている人がナンバー2なのかと思うと、(日本が)先進国なのかという議論がありましたが、残念ながらこれが今の現実なのかな」とあきれたように語った。
「その道筋をつけるのが政府の仕事だ」という青木氏の指摘は、原則としてそのとおりです。しかしながら、新型コロナウィルス禍を劇的に打開する秘法が全世界的にいまだ見出されていない事実を踏まえるに、この任務は果たして政府だけが担うべきものなのか、全国民が一丸となって探究模索すべきものではないのかという疑問が沸いてこざるを得ません。

これもまた社会的分業の徹底的な専門細分化による事象であると言えるでしょう。つまり、「それは私(国民)の担当ではない」というお役所的発想の社会的蔓延です。「縦割り行政」という言葉があるように、お役所仕事は基本的に高度に専門的に細分化されているものである点、こうした発想の社会的蔓延は、一億総「お役人」化と言えるでしょう。

これも結局のところサービスを「受ける側」の都合を並べ立てているものであり、サービスを「提供する側」の事情を踏まえていないわけです。このことは、現代社会における、他者の事情に対する想像力と推理力の深刻な欠落を示す更なる証拠であります。

■社会的分業を見つめ直す必要
日本社会のクレーマー気質化の根底には、社会的分業の徹底的な専門細分化による超知識労働社会への社会変化があるわけです。現代を生きる我々にとって社会的分業はあまりにも当然のことであり、わざわざそれを問い直すことはしないものです。しかし上述の理由から、いまこそ社会的分業を見つめ直す必要があります。

社会的分業の徹底的な専門細分化による超知識労働社会への社会変化、そしてそれによる相手の事情を踏まえなくなるという現象は、新型コロナウィルス禍を乗り越えるにあたっては意味のない負担を行政や保健医療の担当者に強いることになり、それだけリソースの無駄遣いになります。新型コロナウィルス禍収束の足枷になるわけです。

またそれにとどまらず、こうした現象を野放しにし、むしろ勢いづけることは、現代社会の次に来るべき新しい社会としての「協同社会としての社会主義社会」の実現においても有害であります。というのも、協同社会としての社会主義社会を実現するためには個々人のプチ・ブルジョア的な発想を超克する必要があります。協同社会は、まさに人々が協同的に連合する社会ですが、ここにおいては「お互いさま」の精神が必要不可欠です。お互いに事情を踏まえ合い、無理筋な要求を突きつけないように調整する必要があるのです。

この点、キム・ジョンイル総書記はかつて労働者大衆のプチ・ブル化について次のように指摘されました。
 第2次世界大戦後、資本主義諸国では社会的・階級的構成に大きな変化が起こりました。発達した資本主義諸国では技術が発達し、生産の機械化、オートメ化が推進されるにしたがって、肉体労働に従事する勤労者の数が著しく減り、技術労働と精神労働に従事する勤労者の隊伍が急激にふえ、勤労者の隊伍において彼らは数的に圧倒的比重を占めるようになりました。

 社会の発展に伴って勤労者の技術、文化水準が高まり、知識人の隊伍がふえるのは合法則的現象だといえます。

 もちろん、知識人の隊伍が急速に拡大すれば、勤労者のあいだで小ブルジョア思想の影響が増大するのは確かです。特に、革命的教育を系統的にうけることのできない資本主義制度のもとで、多数の知識人がブルジョア思想と小ブルジョア思想に毒されるのは避けがたいことです。それゆえ、彼らを革命の側に獲得することは困難な問題となります。
『反帝闘争の旗を高くかかげ、社会主義・共産主義の道を力強く前進しよう』(チュチェ76・1987年9月25日)

社会的分業が進展して各自の担当職務が高度な専門性を必要とし、人々が知識労働者化するようになると、長い時間と努力によって血肉化した専門的知識をもとに自分自身の判断で仕事を進める場面が多くなった人々は、職務経験を積み成功体験を重ねるにつれて独り親方・個人事業主的なブルジョア「個人」主義傾向を強めるようになります。

そして、「自分の地位や財産は自分独りの力で築いたものだ」などと「私」中心の自信過剰になりがちで、その反面で「我々」意識が衰退して他者の貧困について「自己責任」と突き放すようになるのです。結果的に社会の集団的・共同体的結束の分解・瓦解が進み、協同社会としての社会主義社会が遠のくことになります。

いまこそ社会的分業そのものを見つめ直し、その弊害を取り除くべきです。そのためにはアダム・スミスやカール・マルクス、フリードリッヒ・エンゲルスといった近代の古典を読み返す必要があるでしょう。スミスは『国富論』などにおいて近代社会の特徴として社会的分業の公用を指摘しつつも、それによる人間存在の部分化・不具化を指摘しました。マルクスとエンゲルスは『ドイツ・イデオロギー』などの若かりし時代の著作において、社会的分業が意識の実践からの乖離をもたらすこと、私的所有の起源になること、及び自己疎外の契機になることを指摘しました。

新型コロナウィルス禍において、お気楽で一方的な物言いを控え全国民が一丸となって効果的・効率的に乗り越えるためにこそ、そしてその先に来るべき協同社会としての社会主義社会の実現のためにこそ「社会的分業」を見つめ直す必要があると言えるでしょう。

今日は4月15日、太陽節です。偉大な首領、キム・イルソン同志の生誕記念日です。チュチェ思想は、スミスに始まるイギリス古典派経済学を批判的に取り込んだマルクス主義を継承しつつ独自に発展させた思想です。キム・イルソン同志の生誕記念日にこそ、スミス並びにマルクス・エンゲルスの共通的研究対象だった「社会的分業」に現代的な視点から注目することを訴えたいと思います。
ラベル:チュチェ思想
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2021年04月14日

社会主義の実現のためには、嫉妬や欲望、個人的な好き嫌いといった感情的問題に正面から立ち向かう必要がある

https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/541929
市のハラスメント担当課長、別の課長の不適切発言を注意せず 部下に「子育てで休み出してほしくない」
2021年4月5日 7:00

(中略)
 市によると、昨年4月上旬、セクハラ問題の心労で病気療養していた女性職員の職場復帰に向け、上司の女性課長と話し合いをした。女性職員が育児を理由に2日間の休暇を申し出ると女性課長は「課にはたくさんの女性がいて、子どもがほしくて得られなかった人、子どものいない人もいる。子育てを前面に休みを出してほしくない」などと発言したという。
(以下略)
本件、市の担当課長の対応が「不適切」であることは論じするまでもないことです。理想を言えば、子育てを前面に出して休暇を取得する人にアレコレ言う手合いに対して、担当課長自身が先陣を切って「それは正しくない考え方だ」として啓蒙的指導を行うべきなのでしょう。近年、世界的な破邪顕正(またはポリティカル・コレクトネス)の旋風が巻き起こっているところです。ますますそうした「正しい行い」が求められているといえます。

他方、道徳講釈を垂れて「正しさ」を押し付けるとどうなるのかについて我々現代人は、アメリカのトランプ現象やヨーロッパ諸国での極右勢力の隆興など、すでに多くの経験を持っています。我々の日常生活は「正しさ」で割り切れるものではなく醜い感情論が渦巻くものであります

課にはたくさんの女性がいて、子どもがほしくて得られなかった人、子どものいない人もいる。子育てを前面に休みを出してほしくない」というのは、不適切であることは間違いありませんが、生身の人間の醜い感情的軋轢を考えたとき、「正しさ」の押し付けで改善できるほど簡単な問題ではないと言うべきでしょう。

以前より私は、現代社会を乗り越えた先の来るべき協同社会としての社会主義社会は「生活に根差したもの」であるべきだと述べてきました。現実の課題・問題を解決するためには「事実から出発する」必要がありますが、生身の人間にとっての事実とは、一秒たりとも中断されることなく連綿と続く生活に他ならないからであります。

この基本姿勢を私は貫徹したいと思います。繰り返しになりますが、我々にとっての現実としての日常生活は「正しさ」で割り切れるものではなく醜い感情論が渦巻くものなのです。

それゆえ、社会主義の実現のためには、嫉妬や欲望、個人的な好き嫌いといった感情的問題に正面から立ち向かい、そうした醜い現実を包摂した制度設計が必要なのです。これもまた「事実から出発する」ことに他なりません。

では今回はどうするべきだったのでしょうか。

以前から述べていることですが、「社会の時代的特徴」というものは、その瞬間瞬間を生きる生身の人間が形成するものです。「子どもがほしくて得られなかった人、子どものいない人」たちが、子育てを前面に出した他人の休暇取得に対して眉を顰めるのであれば、現代日本社会は「その程度」のレベルであるということなのです。これは善い悪いの問題ではなく事実としてそうであると受け止める必要があります。そして上述のとおり、道徳講釈を垂れて「正しさ」を押し付けると逆に大きな反動が生ずるものです。

処世術・戦略として、子育てを前面に出した休暇取得は悪手であると言わざるを得ないのかもしれません。もちろん、私個人としては極めて不愉快なことです。生きるために働いているのに、働くために生きることに制約が生じるのは本末転倒であり自己疎外的なことです。しかし、現代日本とは「その程度」のレベルなのです。
ラベル:チュチェ思想
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2021年04月10日

自主権の問題としてのジェンダー平等

https://news.yahoo.co.jp/articles/a497bcde6916444c8f7e961430ca5b4b9e338e66
報ステのCM炎上、「批判する人は“読解力”が足りない」と言う人に伝えたいこと
4/4(日) 9:01配信
現代ビジネス

(中略)
 この表現によって報道ステーションが「「ジェンダー平等」なんて必要ないのだ」と反フェミニズム的なスローガンを主張したかったわけではない――ということなど、このCMを視聴した人たちは十分に理解している。

 視聴した人々は正しく、この女性の台詞からCMのメッセージを読み取った。それは、「わざわざスローガンに掲げる必要がないくらい、「ジェンダー平等」を政治目標に掲げることは、すでに当たり前になってるよね! (だから私は安心して、お肌の手入れに専念できる)」ということだ。

 今回のCMの作り手たちに勘違いしてほしくないのは、「ジェンダー平等」というワードを組み込んだせいで、このCMが批判されたわけではないということだ。

 そうではなく、若い女の子に、「ジェンダー平等」を政治目標に掲げるのが「当たり前になってほしい」と言わせるのではなく、「(すでに)当たり前になってるよね」という前提の台詞を語らせたことに、視聴した人々の怒りと批判の声が殺到したのである。

 なぜなら、私たちの生きるこの社会で「ジェンダー平等」はいまだ達成されていないと、多くの女性たちが考え、日々、不平等な世界を生きているからだ。

(中略)
「ポストフェミニズム」の感性
 YouTubeにアップされていた30秒バージョンのCMを最初に見た時、もし今が30年前の1990年だったなら、共感できていたかもしれないな……と感じた。端的に言えば「センスが古い」ということだ。

 確かに1990年頃の時代の気分としては、「男女平等」というスローガンやフェミニズムなんてもう古いのだ、女性たちはいまやジェンダー平等に向かって自分ひとりの力で邁進できているのだから、という個人主義的な考えが蔓延していたように思う。

 このように、「フェミニズムの目標はすでに達成されてしまったのだから、もはや必要のないものだ」という考え方が社会の中に広がり、(じつのところ事態はそこまで改善していないにもかかわらず)女性たち自身でさえそのように考えるようになった時代を、イギリスのフェミニスト・カルチュラル・スタディーズの研究者であるアンジェラ・マクロビーは2000年代の終わりに「ポストフェミニズム」と呼んで批判した。

 そして、この「ポストフェミニズム」的な感性は、現在、いたるところで批判されるようになり、まさにポストフェミニズム的に生き、ガラスの天井を突き破るために突き進んできた女性たちでさえ自己批判し始めているものなのである。

 ポストフェミニズム的な女性たちは、女性であっても自分自身の力で運命を切り開いて自己実現できると信じてきた。仕事をし、収入を得て消費をし、身ぎれいでありつつ社会問題にもそれなりに関心を持ち、おじさん中心の組織ともうまくやれる柔軟さとしたたかさをもち、おじさんたちに脅威をあたえないていどに「わきまえた」行動を選択することが正しい道であるのだ、と。

 当初、それは女性にとって「可能性」のように見えていた。しかし実際のところ、彼女たちは(多くの場合、男性には求められることがない)「美貌も実力も」「仕事も家庭も」「自分の仕事もおじさんのケアも」「あれもこれも」を求められるという不平等にさらされていたのである。そのうえ、大学入試や昇進など、さまざまなシーンで相変わらず性差別が行われていることも明らかになっているのだから、批判が出てくるのは当然だ。

 そうしたポストフェミニズム的な女性であるということを、このCMに登場する女性はしっかりと語らされている――「化粧水買っちゃったの。もうすっごいいいやつ。それにしても消費税高くなったよね。国の借金って減ってないよね?」という台詞によって。

 この台詞を最初に聞いたとき、この女性に背負わされた分裂気味の感性に、ぞっとするような恐怖を感じた。仕事をし、収入を得て消費をし、身ぎれいでありつつ社会問題にもそれなりに関心を持っているこの若い女性は、まさにオーストラリアのメディア文化研究者であるアニタ・ハリスが「意欲的な女の子(Can-Do Girl)」と名付けたポストフェミニズム的な主体である。

 そしてまた、(男性には求められることのない)あれもこれもすべてを手に入れるプレッシャー――「あれもこれも」を手に入れなければ、この社会で男性と同等に扱われないという不平等――を宿命づけられた若い女性に、「『ジェンダー平等』とかってスローガン的にかかげてる時点で、何それ、時代遅れって感じ」と無邪気に言わせるセンス(の古さ)に唖然とした。

 同時に思い出したのが、現在、人気沸騰中のマンガ『呪術廻戦』の中で、呪術師である西宮桃というキャラクターが親友の少女の心を代弁した台詞である。「女はね、実力があってもカワいくなければナメられる。当然、カワいくっても、実力がなければナメられる。分かる? 女の呪術師が求められるのは、”実力”じゃないの。”完璧”なの。」〔読みやすくするために句読点を挿入〕。

 この「呪術師」という特殊な職業を、たとえば「会社員」と置き換えみてほしい。

 このCMの女性のように(おそらく)総合職として働き、肌のお手入れにも余念がなく、甘えたようなカワイイ声で話し、「消費税」や「国の借金」の心配もする、カワいさと実力の双方を得て、完璧であることを示そうと突っ走った結果、女性たちは何を得ることができたのだろうか?

 その答えが、このCMへの多くの批判であることは間違いないだろう。

(以下略)
■風刺が通じなかった
コンテンツとして「消費」し尽くされ、忘却の彼方に去りつつあった本件を4月4日になってから「読解力不足などではない!」と言い出す本記事。「若い女の子に、「ジェンダー平等」を政治目標に掲げるのが「当たり前になってほしい」と言わせるのではなく、「(すでに)当たり前になってるよね」という前提の台詞を語らせたことに、視聴した人々の怒りと批判の声が殺到したのである。なぜなら、私たちの生きるこの社会で「ジェンダー平等」はいまだ達成されていないと、多くの女性たちが考え、日々、不平等な世界を生きているからだ」とは、議論が堂々巡りしていると言わざるを得ません。

ジェンダー平等が現実的として実現「していない」ことは、本件炎上騒動で騒ぎ立てた側について「読解力不足」を指摘した側も十分に承知していることです。

当該CMのメッセージを制作側の意図に即して読み取った人たちは、ジェンダー平等という至極当然のことが先進的・先覚的であるかのように位置づられている「日本社会の現実」、そして、とっくに取り組みを「実行」していて当然のことを最先端の「概念」であるかのように喧伝する「日本の政治家たちの程度の低さ」に対する痛烈な風刺として受け止めたわけです。当たり前のことが「スローガン」になっている日本のどうしようなもない「現実的後進性」を言外に批判しているものと受け止めたわけです。

なぜ正面から批判しないのかといえば、一般社会においては「正面から批判」するという方法は、相手に対して敬意を持っていることを示すからです。社会人は忙しいでバカの相手をしている暇はありません。相手の意見を取り上げ正面からその誤りを指摘するのには時間資源を消費します。それゆえ一般社会では、あまりにも程度が低い人や時代遅れ甚だしい人については、「正面から相手をする時間が勿体ない」として、面と向かって相手の程度の低さや時代錯誤を指摘するのではなく、「それってxxだよね・・・えっ、知らないの?w」といった具合に軽くバカにすることで対処するものです。

それゆえ、一般的な社会人の感覚としては、あの短いフレーズから「ジェンダー平等化を推進するだなんて当たり前になってるよね。でも自民党の政治家を筆頭にそうじゃないのもまだまだ多いよね。ほんと自民党ってのは、いちいち取り上げて言い分の誤りを指摘する価値もないほど程度の低い連中の集まりだよね」といったニュアンスを汲み取るのです。

こうしたわけで、当該CMを痛烈な風刺として捉えた人たちは、逆に当該CMを炎上化させた人たちについて、「CM制作側の意図を汲んでいない」という意味で「読解力不足」としたわけです。より正確には「風刺が通じなかった」と言った方がよかったのかもしれません。

■そこまで考え抜かれていたのか?
さて、田中教授は当該CMからポストフェミニズム的な思想を見出し「このCMの女性のように(おそらく)総合職として働き、肌のお手入れにも余念がなく、甘えたようなカワイイ声で話し、「消費税」や「国の借金」の心配もする、カワいさと実力の双方を得て、完璧であることを示そうと突っ走った結果、女性たちは何を得ることができたのだろうか? その答えが、このCMへの多くの批判であることは間違いないだろう」としています。

しかし、あの炎上騒ぎでそこまで考え抜かれた主張がとれほどあったのでしょうか? 当ブログでも3月28日づけ記事で取り上げたように、ジェンダーギャップの国際比較資料などを持ち出して「日本はこれだけ遅れているのに、ジェンダー平等が実現したという誤った見地に立っているCMだ! フェイクだ!」といった批判(たとえば、治部れんげ氏)が大部分ではなかったでしょうか? 脊髄反射的な批判が相当目立ったように思われます。そして上述のとおり、「読解力」云々「風刺」云々は、そうした脊髄反射的な反応を念頭に置いたものでした。

やはり総じてあの炎上騒動は、風刺の通じない人たちが引き起こした脊髄反射的な反応による炎上騒ぎだったと言えるのではないでしょうか?

■ジェンダー平等問題を「自主権の問題」として位置付け、協同管理的手法によって
ところで、ポストフェミニズムが結局、差別構造の温存の一助になっていたという見立ては私も異論はありません。報ステの風刺描写の背後に潜むポストフェミニズム的発想に斬り込む田中教授の主張部分は読みごたえのあるものでした。「忘れられた論点――報ステの風刺描写の背後に潜むポストフェミニズム的発想」といった風合いの記事だったらよかったのに、脊髄反射的な手合いを無理に弁護したせいで記事の価値が下がってしまっています。

ただ、おそらく田中教授が気が付いていないはずがなく文脈的に割愛しただけだとは思いますが、「ジェンダー平等」を論じながら「女性の地位向上」に主眼を置いた話になってしまっており、それゆえに、ジェンダー平等問題を「自主権の問題」として位置付けるときに、著しい中途半端さがあると言わざるを得ない記事であります。

田中教授はポストフェミニズムが実際に実現したことについて「)「美貌も実力も」「仕事も家庭も」「自分の仕事もおじさんのケアも」「あれもこれも」を求められるという不平等にさらされていたのである」とします。このことは一面においては紛れもない真実です。

しかしながら、では男性はどうだったのでしょうか? 男性もまた、決して「ありのまま」であることは許されませんでした。稼ぐのに役に立つ男性、剰余価値の生産に役に立つ男性のみが「男らしい男」「立派な男」として称揚されたわけです。

「仕事も家事も」で女性が苦しんできたこと、そして今も苦しんでいることは否定できない事実です。では男性は? 「家事に参加しない特権階級」としてではなく、「男らしい男・立派な男たるべし」という通念により「家事から徹底的に疎外された存在」としてみるべきではないのでしょうか?

2月27日づけ「「私はこう思う」を乗り越え、真に社会を変革し得る人民大衆の自主化偉業としてのジェンダー平等運動に進化するために」でも述べたとおり、女性に対して当為を要求する価値観は、同様に男性に対しても当為を要求するものです。抑圧されているのは女性だけではなく、取り組むべきは「女性の権利拡大によるジェンダー平等」ではなく「自主権の問題としてのジェンダー平等」、階級闘争的手法によってではなく協同管理的手法によってなのです。
ラベル:チュチェ思想
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2021年04月04日

経営者は「人間の尊厳」の守護者か、資本主義に自浄作用はあるのか

https://news.yahoo.co.jp/articles/efeae8663afa13683bc574b758ccd976615bc879
ブルネロ・クチネリ=資本主義を正しく使おう
4/1(木) 12:01配信
JBpress ブルネロ・クチネリ氏がビジネス書『人間主義的経営』を通じて提唱する、新しいラグジュアリーとブランドビジネスの概念。

 文=中野香織

(中略)
■ 経営者とは「人間の尊厳」の守り人である
 ブルネロ・クチネリは、イタリア・ウンブリアのソロメオ村に本社をおくアパレル企業の経営者である。1978年に、色鮮やかなカシミアのセーターを製造することから事業を始め、82年にソロメオ村に拠点を移し、この場所を「人間のための資本主義」を実現する場所と決める。朽ち果てていた村の古城を買い取って本社としたり、古い工場を買い取って改修したり、職人のための学校を作ったりといったビジネスの延長での貢献をしただけではない。ソロメオ村の人々の文化的で豊かな暮らしの基盤を作るため、劇場、図書館、公園も作り上げた。

 そんなクチネリは、自身を「保護者、管理人、番人」と位置付けている。人間と会社の所属する世界との関係を守り、管理し、育むことこそ経営者の仕事という自覚があるのだ。

 「保護者」が守る第一のものが、「人間の尊厳」である。人間の尊厳を第一に掲げ、人間の手仕事の価値を磨き、自然環境に投資することによって手仕事の価値をさらに高め、働くすべての人を幸福にするという好循環を生んでいる。与えれば与えるほど大きな利益を生むというクチネリの経営は、広く海外からも注目され、大十字騎士勲章を受勲するほか、数々の賞を受賞している。

■ ラグジュアリーとは、正しき資本主義から生まれる
 こういう経営姿勢を知ると、ブルネロ・クチネリの服がなぜあれほど心を揺さぶるのかも納得できる。倫理的にも経済的にも尊厳を大切にされた職人が責任感をもち、彼らの創造性が自由に誇らしく発揮されているからなのだ。30時間以上もかけて手作業で仕上げられたオペラニットの存在感は、服の機能とか価格といった現実的な問題をまったく無意味にしてしまう。別格のアートのような迫力を湛えるニットに、かくも精緻な手仕事をやってのける人間のすばらしさを重ね見て、畏怖の念さえ起きてくることがある。

 ここ30年くらいの間に資本主義が暴走し、異様なまでの富の集中と格差問題が生まれ、環境問題が切迫した。こうした問題の元凶が、資本主義そのものにあるかのように批判されている。

 だが、クチネリは資本主義を信じている。資本主義を正しく使うことで、働く人々を幸せにし、次の世代へ良い世界を引き渡していけると信じている。資本主義は、たとえていえば車のような道具であり、乗る人間が間違った乗り方をすれば事故も起きるが、知恵を絞って正しく乗りこなせば、人間を幸せにできるはず、と。

 人を幸福にするための、資本主義の正しい使い方。その使い方を知るための基本的な心構えがちりばめられたこの本は、未来への希望の書でもある。

 全体を通して教えにあふれているのに教条主義的なところが全くなく、読みながら心が洗われ、癒されていく。すべてのもの、あらゆる現象は何らかの形でつながっており、だからこそ自分から働きかける行為や投げかける感情が、何倍にも大きくなって自らに還ってくる。そんな気づきへも促してくれる。
ここ数年のエイプリルフールのジョーク記事で一番笑えた記事でしたwえ、本気だったの? じゃあ、2点指摘しておきたいと思います。

第一。「経営者とは「人間の尊厳」の守り人である」――こんな言葉に感動するとは、中野香織さんの奴隷根性は大したものです。ここには主体的自主性など欠片もありません。他人に依存し他人によって守られることによってのみ実現する「人間の尊厳」は、果たして真の意味のそれなのでしょうか?

第二。「ここ30年くらいの間に資本主義が暴走し、異様なまでの富の集中と格差問題が生まれ、環境問題が切迫した。こうした問題の元凶が、資本主義そのものにあるかのように批判されている。だが、クチネリは資本主義を信じている。資本主義を正しく使うことで、働く人々を幸せにし、次の世代へ良い世界を引き渡していけると信じている」――「異様なまでの富の集中と格差問題が生まれ、環境問題が切迫した」のは、「ここ30年くらいの間」が歴史上初めてのことではなく、19世紀の方がもっと酷いものでした。

歴史的事実を振り返れば、人民大衆の社会主義運動がブルジョアジー連中に対して「改良か革命か」を迫ることで事態を改善せしめました。そして、社会主義の影響力が衰微するにつれてブルジョアジー連中の利殖第一主義は力を増し、社会主義政権が世界に数えるほどしかなくなってしまった現在においては、19世紀当時ばりに資本主義は我が世を押下しているところです。そう、価値の増殖を最大目的とする資本主義に自浄作用などなく、社会主義というオルタナティブがある場合に限り「自律」することができるのです。

こんな無茶苦茶な理屈を捻り出しでもしないと、資本主義の擁護ができないほど事態は深刻化しているということなのでしょう。そしてまた、これほどまでに事態が深刻化しているにも関わらず、社会主義に希望を託す運動が必ずしも盛り上がっているとは言えないところです。社会主義の立場をとる者として、一刻も早く社会主義を再生せねばならないと痛感しているところです。
ラベル:チュチェ思想
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2021年04月03日

ジェンダー平等を導くチュチェ思想

https://news.yahoo.co.jp/articles/a45f766b1cce95c69f132c789f09539f4d01c94c
『報道ステーション』CMに見え隠れする「ポストフェミニズム」の悪質性
3/29(月) 8:34配信
HARBOR BUSINESS Online

(中略)
 ただ、それ以上にこのCMからは、現在の日本ないし世界中で一般的になりつつある風潮が見えてくる点こそ不気味だと筆者は考える。その風潮とは、ポストフェミニズムである。

ポストフェミニズムとネオリベラリズム、女性性
 ポストフェミニズムとは、「フェミニズムはもう終わったもの、古いものと認識させる言説とそれによって構成される社会」と定義づけられる。

 もちろん、フェミニズムは終わっていない。女性差別もジェンダー不平等もまだ残っている。それなのに、終わったものとしてしまうことで、いわゆる「古い価値観」に立つ復古主義とは異なる権力構造に基づく女性差別が生まれているのである。

 その異なる権力構造とは、新自由主義である。新自由主義とは、市場への国家の介入を最小限にするべきと考え、自由競争や能力主義を重んじる経済思想のことだ。フェミニズムと新自由主義は複雑な関係にある。このことについて、2つの側面から説明したい。

 まず1つ目は、経済的な側面だ。これまでフェミニズムは女性にも男性と同様に能力に応じて賃金を支払うように要求してきた。これは、一見すると新自由主義の能力主義と整合性があるように見える。実際フェミニズムが歴史のなかで新自由主義に加担しなかったというのは嘘になる。たとえば日本の「女性活躍」政策はまさにこの文脈に位置付けられる。

 しかし、本当にフェミニズムは新自由主義を正当化してよいのだろうか。新自由主義は男性にとっても女性にとっても経済的格差を拡大した。

 また、後に述べるように新自由主義のなかでも文化的な性別役割規範は消滅しないため、女性たちは家事をこなしながら、家事をしない男性と同じ基準で能力競争していかなければならないという男性優位の構造は残ったままだ。

 さらに、そのなかで新自由主義は女性たちの連帯よりも個人主義的な「成功」を目指すことを女性たちに求める。「女性が輝く」などと叫ばれるなかで、女性たちに実際かけられている身体的・精神的負荷の大きさは察するに余りある。

 次に2つ目の文化的な側面について述べる。文化的な女性性の強制は、外部からも内部からも女性たちを呪縛している。

 まず外部からの呪縛について、重要なのは新自由主義は多くの国で新保守主義とセットになっているということだ。新保守主義の政治家が新自由主義の旗を掲げて改革を進める際、自分たちの支持基盤である保守的な人々の生活も掘り崩すということになりかねないため、性別役割規範を含む伝統的な価値観を必要以上に強調することになる。

 次に内部からの呪縛について、新自由主義の文化的な特徴には、経済的主体としての自己管理や自己監視がある。一方、フェミニズムのもたらした果実の1つとして、女性が性的対象から欲望する性的主体へ変容したことが挙げられる。それらが組み合わさった結果、男性の視線によって客体的に評価されるのではなく、女性自身の視線によって自己検閲される形での女性性の強制が起こっているのである。

 このように、フェミニズムと複雑な関係を持つ新自由主義という権力構造の上に、ポストフェミニズム下での女性差別は起こっているのである。女性たちは男性と同じように市場に参加して競争に勝たねばならないと同時に、伝統的な女性性をより主体的に体現しなければならないというダブルバインドの状況に立たされている。

(中略)
 つまり、全体をまとめると、新自由主義の政治経済体制を背景に、女性は都合の良い労働者/消費者として「活躍」しつつ、しかも女性性を主体的に体現しているべきだというポストフェミニズム的なメッセージが読み取れるのである。

分断を超えた連帯
 もちろんこのCM作成者が狙ってポストフェミニズム的なメッセージを発した訳ではないだろう。それにしてはあまりにも短絡的な物言いだと思われるからだ。とはいえ、このようなメッセージがついうっかり世に出てきてしまうということは、日本にもポストフェミニズムの風潮が深く根付いているということを示しているといえるだろう。

 だから、そんな今こそフェミニズムの連帯が必要なのではないだろうか。雇用形態、階級、セクシュアリティ、人種、障碍など様々な違いを越えて、女性たちが互いをサポートすることが今求められている。

 もちろん今回のCMは分かりやすい例だったから、誰もがその悪質性に気が付くことができた。だが、大抵のポストフェミニズムの言説はもっと巧妙だ。その巧妙な言説に騙されず、わたしたちは共に連帯していくべきだ。

【参考文献】
菊地夏野『日本のポストフェミニズム 「女子力」とネオリベラリズム』(大月書店)
早稲田文学会『早稲田文学 〈2019年冬号〉 シリーズ特集第1回:ポストフェミニズムからはじめる』(筑摩書房)

<文/川瀬みちる>

最終更新:3/29(月) 8:34
HARBOR BUSINESS Online

最近のお気楽なリベラリズム的フェミニズムを鋭く批判する良質な記事! いままでのフェミニズムが結果的に新自由主義と共闘関係にあったこと、連帯よりも個人主義的な「成功」を目指すことを推進してきたという歴史的事実を明快に説明しています。

マルクス、そしてキム・ジョンイル同志がかつて指摘したとおり、ブルジョアジーは己の経済的利益を実現するために「世界の均質化」を志向します。この結果、一面においてはブルジョア革命によって身分制度が打破されて近代化・文明化が進むが、他方においては各自・各民族の自主性が毀損することにもなるものです。

近年、フェミニズムとリベラリズムが接近しています。もとよりリベラリズムとネオ・リベラリズムとは近縁関係にあるため、これによりフェミニズムとネオ・リベラリズムとが接近するに至っています。また、ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)的なジェンダーレス潮流、そしてそれを更に先鋭化させた生物学的性差をも無視する絶対的平等主義とフェミニズムとが接近する事態にもなっています。結果的に、ネオ・リベラリズム=リベラリズム=フェミニズム=ポリコレ的ジェンダーレス潮流=生物学的性差絶対的平等主義のラインが形成されつつあります。

このラインが形成されることによって最も得するのは、自己の経済的利益を実現するために「世界の均質化」を志向するブルジョアジーたちです。異なるものを異なる待遇・配慮で取り扱うという相対的平等主義は、ブルジョアジーたちの利益にとっては「持ち出し」を増やすものです。ブルジョアジーたちは経済効率性を重視するからこそ絶対的平等を好むものです。このとき、絶対的平等主義と親和的なフェミニズムの旗印は、連中にとって極めて都合のよいものでしょう。

こうしたカラクリに気が付かないまま、いままでのフェミニズム運動はブルジョア的利益をアシストしてきました。たとえば、かつて日本の労働法は、女性保護として各種規制を敷いていたものですが、フェミニズム運動の高まりを受けた「男女共同参画」の盛り上がりを奇禍とした自民党ブルジョア政権は、これを口実に女性保護規制を撤廃し「男女仲良く」地獄に突き落としました。

また、海外の事例になりますが、「女性の社会進出・男女平等先進国」として持て囃されがちなスウェーデンでは、チュチェ106・2017年11月19日づけ記事でも触れたとおり、推進担当の当局者自身が女性の社会進出には労働力確保という目的があり、決して単なる「女性への贈り物」ではないと言明しています。女性の社会進出による女性の労働力化は、労働市場への労働力供給の増大であり、労働者個人同士の競争の激化、一人当たりの労賃の低下、そして雇用主に対する労働者の地位・交渉力の低下につながるものです。これは、労働力を安く買い叩くことで利潤機会を更に拡大しようとするネオ・リベラリズムの方向性と軌を一にするものに他なりません。

※近年ようやく日本でも「北欧幻想」が解かれ始めてきました。「北欧福祉国家」と呼ばれる国々は、経済政策においてはネオ・リベラリズム的な方向性を採用しており、決して手放しで称賛できるものではありません。

本稿はこうした歴史的事実を見据えたとき、「実際フェミニズムが歴史のなかで新自由主義に加担しなかったというのは嘘になる」というくだりに最も顕著に表れているとおり、重要な指摘をしていると言えます。「役に立つバカ(Useful idiot)」レベルのお気楽なフェミニズム言説、結果的にネオ・リベラリズムの利益を擁護している言説とは明らかに一線を画した良質な記事です。

しかしながら、「そんな今こそフェミニズムの連帯が必要なのではないだろうか。雇用形態、階級、セクシュアリティ、人種、障碍など様々な違いを越えて、女性たちが互いをサポートすることが今求められている」という最終的な主張は、あくまでも「女性階級」の内部における「連帯」を提唱する点において「階級闘争主義」に留まっていると言わざるを得ません。リベラリズム及びネオ・リベラリズム的な発想を乗り越えつつもマルクシズム・マオイズム的な発想までは乗り越えられなかった点において、とても残念な出来に留まってると言わざるを得ません

偉大な首領:キム・イルソン同志はかつて次のように指摘されました。
 社会主義革命を行うときの階級闘争は、ブルジョアジーを階級として一掃するための闘争であり、社会主義社会での階級闘争は、統一団結を目的とする闘争であって、それは決して社会の構成員を互いに反目し、憎みあうようにするための階級闘争ではありません。社会主義社会でも階級闘争を行うが、統一と団結を目的とし、協力の方法で階級闘争を行うのであります。
キム・イルソン『資本主義から社会主義への過渡期とプロレタリアート独裁の問題について』チュチェ56・1967年5月25日)

キム・イルソン同志のこの談話は、ちょうどこの当時に中国で展開されつつあった文化大革命を批判する内容として理解できるものです。キム・イルソン同志が仰る社会主義社会とは、人民大衆の協同社会のことであります。いま私たち現代日本人がジェンダー平等の文脈で実現するべきは男女間の協同社会を構築することであり、決して一方が他方を打倒して天下を取って敗れた他方を使用人的に使役する社会ではないはずです。

その意味において、キム・イルソン同志が仰る社会主義社会のための階級闘争とジェンダー平等のための運動とは原理原則の面において一致するはずであります。

その点、繰り返しになりますが、川瀬みちるさんの主張はあくまでも「女性階級」の内部における「連帯」を提唱する点において「階級闘争主義」に留まっていると言わざるを得ず、男女間の協同社会を構築するという目標にあっては不足があると言わざるを得ないのです。

リベラリズム、ネオ・リベラリズムを乗り越えるだけではなく、さらにマルクシズム、マオイズムをも乗り越えて真の男女の「協同」社会を構築する必要があります。このとき、チュチェ思想は必ず有用な指針になることでしょう。
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