■キム・ジョンウン時代の社会主義経済、集団主義としての社会主義の経済を特徴づける考え方
7月9日放映、朝鮮中央テレビ「協同農場に広がる二毛作風景 (협동벌에 펼쳐진 두벌농사풍경)」における「
農場員は、作況が良く、それが自分の生活と、もちろん大きな範囲で考えれば、国の米瓶を満たすことになりますが、近い範囲で考えれば、自分の子供のための仕事、自分のための仕事だと考えました。これがうまくいってこそ、私も食べていけるし、さらには国の米瓶も満たせるので、農業に対する農場員の精神力はたいしたものです」という黄海南道アナク(安岳)郡の協同農場員発言(5分23秒〜)について。
これこそ、
キム・ジョンウン時代の社会主義経済、
ブルジョア「自由」主義的な個人主義でもなければ大義名分の押し付け的な全体主義でもない、集団主義としての社会主義の経済を特徴づけるものであると言えるでしょう。かつての共和国であれば、「国の米瓶を満たす」ことが何よりも優先されるべきコトとして位置付けられたはずです。
もちろん、
7月11日づけ記事でも言及したとおり、1986年7月15日づけ「チュチェ思想教養で提起されているいくつかの問題について」において
キム・ジョンイル総書記は、個人利益のために集団を蔑ろにしてはならないし、集団利益のためだと言って個人を蔑ろにしてはならないとされたものです。また、2002年の7.1措置以降、従来的制度の枠内で個人の利益追求を位置付ける試みがなされてきました。しかしながら、対米対決をはじめとする厳しい内外の環境への対応のため引き締めを優先せざるを得なかったところです。
現在、共和国が置かれている環境は、「苦難の行軍」に比肩するものとも指摘される危機的なものであります。「かつてのやり方」であれば、ここで一層の引き締めが行われるはず。全体利益という大義名分が踊り、「すべての人々が英雄のように生き、たたかおう」だの「我々は月給取りではない」だの「革命的ロマン」だのと、仰々しいスローガンが押し付けがましく唱えられるはずであります。
しかし、
キム・ジョンウン総書記はそうはなさりませんでした。「
これ(増産)
がうまくいってこそ、私も食べていけるし、さらには国の米瓶も満たせるので、農業に対する農場員の精神力はたいしたものです」とされたのです。それも、「
私も食べていけるし」を先行させたとおり、
「農場員自身の利益」をまず挙げられたのです。画期的なことであります。
上掲番組に和訳テロップをつけてYou Tubeに投稿されたDPRK NOWの川口智彦氏は、「
「協同農場に広がる二毛作農業風景」:多収穫してまずは自分のために、小麦の二毛作、コンバイン (2021年7月9日 「朝鮮中央TV」)において、「
悪く考えれば、食料が本当に不足してどうにもならないので、自分たちで何とかしろと言っているようにも解釈できるが、この番組に出てくる小麦畑からは、そのような雰囲気は伝わってこない」としますが、この悲観的解釈の現実的可能性は私は低いと考えます。もしそうであれば、今までもそうであったように、「自力更生」のスローガンが都合よく強調されるはずです。私益と公益の接合には言及しないでしょう。
また、動画では「
このように二毛作は、よい土地、悪い土地に関係なく、決心して取り組むとき、科学的農業方法通りにやれば、どこでもできます」とも言っています(7分1秒〜)。ここで語られている「科学的農業方法」が実際にどの程度、国際標準的な科学性を帯びているのかについては私は評価しかねますが、まず、いつもの「チュチェ農法」云々に言及がないところは注目すべきでしょう。
キム・ジョンウン総書記の時代に入ってから、
悪平等主義の清算が提唱されていますが、本件もその一環として位置付けることができるでしょう。悪平等主義の清算とは、すなわち、個人の努力に対する積極的評価づけであり、個人的な利益追求の容認に行きつかざるを得ないものであります。協同農場という従来からの社会主義的所有のうちにおいて個人の努力、個人の利益追求を新たに容認する。そして個人の利益追求が全体の利益増進にもつながるという見解を示すことで理論的な整合性をも保つ。
個人的利益と全体的利益とを整合性のある形で接合した点において、このことは集団主義としての社会主義の本分に根差したものであると言えるでしょう。
■地方党委員会の「農民たちのせい」を党中央が訂正した!
ところで、この番組は7月9日に朝鮮中央テレビで放映されたものですが、「デイリーNKジャパン」編集長(実際には単なるゴシップ記者)のコ・ヨンギ氏が7月12日になってから「
「国民が怠けている」食糧難の責任を押し付ける金正恩の北朝鮮」なる記事を公開しました。実に残念なタイミングと言う他ありませんw
「内部情報筋」なるものの通報に基づいて「農業が不振なのは農民がサボっているから」という咸鏡北道党委員会の見解を取り上げるコ・ヨンギ氏。彼自慢の内部情報筋は、たとえば2017年2月のキム・ジョンナム氏死亡について「
金正男氏殺害に対する北朝鮮国内の反応が伝わって来た」を巡る一件に顕著であったとおり、非常に疑わしいものであります。すなわち、かつて「
平安北道(ピョンアンブクト)のデイリーNK内部情報筋によると、金正男氏殺害の一報を聞いた人々は「明らかに我が共和国(北朝鮮)の仕業だ」と言った反応を示している」とするコ・ヨンギ氏ですが、ほぼ同時に「(キム・ジョンナム氏は)
長らく権力の中枢から遠ざかっており、北朝鮮国内でもほとんど知られていない」と
専門家から指摘され、一般紙等もその筋に乗って報じたため、面目丸つぶれになったものでした(それでも未だに当時の記事を公開している彼の「精神力」は凄いですね)。
こういうことがあるので基本的に私は、コ・ヨンギ氏の「内部情報筋」ソースを信用していないのですが、
仮に今回ばかりは正確な情報であったとしましょう。そうなるとコ・ヨンギ氏の狙いとは異なり、
キム・ジョンウン総書記の
マトモさが際立つ結果になります。
時系列を整理しましょう。コ・ヨンギ氏によると6月23日に咸鏡北道の党委員会が「農業が不振なのは農民がサボっているから」としたのに対して、7月9日の朝鮮中央テレビすなわち朝鮮労働党中央委員会は、「増産は何よりも農民自身の利益であり、そしてそれが国全体の利益につながる」と指摘したという流れになります。つまり、
地方の党委員会の見解(6月23日)を党中央が訂正した(7月9日)と位置付けることができるのです。
コ・ヨンギ氏・・・もう何日か早く記事にしておけばよかったものをw7月9日以前に書いておけば「相変わらずの北朝鮮」と言えたのに、7月12日なってからノコノコと記事にしているようでは、地方党幹部の旧態依然的な事業方法に対して党中央、すなわち
キム・ジョンウン総書記の施政のマトモさがむしろ際立つ結果になります(私はコ・ヨンギ氏の狙いに反して、
キム・ジョンウン総書記の施政のマトモさを認識したところです)。また、「北朝鮮専門ニュースサイト」の主宰を称しておきながら、最新ニュースにとんと疎いコ・ヨンギ氏の胡散臭さが更に強まったと感じました。
彼においては、「トンジュ」報道に続く「結果的に北朝鮮当局の宣伝をアシストする結果に終わった失敗」でありましょう。かつて彼は「トンジュ」を闇市の制御不能な拡大・社会主義計画経済を掘り崩すものと位置付けて嬉々として特集していました。しかし、
キム・ジョンウン総書記が発想の転換的に「トンジュ」および私的利益の追求を体制内化したことにより、いまや「トンジュ」は新時代の肯定的な象徴になっています。「トンジュ」は日本人には聞き覚えのない朝鮮語ですが、それだけに「トンジュ=北朝鮮の官許個人起業家」という印象が根付き、「北朝鮮にも個人起業って概念があるんだ。意外とマトモなんだな。背に腹は替えられないから、ちょっとずつ『普通の国』になるかも。文革中国がそうだったように」という印象が広まっています。
■「普通の人たちがつくる社会主義」へ
「すべての人々が英雄のように生き、たたかおう」や「革命的ロマン」もよいですが、
まずは食わねば始まらないものです。また、大多数の人々は「英雄」というよりも「月給取り」であります(だからこそ革命家と、革命家たちの組織としての党は偉大で尊敬されるべき存在なのです。私は心から党と党員の先生方を尊敬しています)。
「月給取り」だって決して卑しいことはありません。月給取りだって自分自身の利益しか考えていないわけではないからです。たしかに、生活のために働かざるを得ない立場ですが、
月給取りだって自分の仕事には社会的な意味・意義があると考えて(信じて)働いているものです。近江商人の「三方よし」や仏教哲学の「自利利他」ほどの高い意識性はないにしてもです。
それが普通の人・普通の労働者の労働観であります。
この意味において、キム・ジョンウン総書記の時代とは、「革命家の経済」から「普通の人の経済」への移行期、「超人的な人たちがつくる社会主義」ではなく「普通の人たちがつくる社会主義」への移行期であると言えるでしょう。