2021年07月24日

コロナバブル(メディアにとって)の終焉は近い

https://news.yahoo.co.jp/articles/4178f38400c71fb3ed57d054095fe79d39f2f424
見守る世界、祝祭ムード遠く 「コロナ深刻」「興味ない」 東京五輪
7/23(金) 20:33配信
時事通信

 【ワシントン、パリ、ソウル、北京時事】世界は23日の東京五輪開幕の動きをテレビなどで見守った。

 新型コロナウイルス禍で海外からを含めて「無観客」という異例の事態。反ユダヤ的発言で開会式担当者が解任される混乱も重なり、祝祭ムードには程遠い。

 五輪に参加国最多の600人以上の選手団を送る米国は、独占放映権を持つNBCが史上最長の7000時間の放送をテレビやインターネットで行う。競技に関心は高く、首都などのレストランに五輪観戦用の大型テレビが備え付けられた。ただ、コロナ禍で行動を制約される選手らに関し、ワシントン・ポスト紙はコラムで「顔はマスクで半分しか見えないが、誰も笑っていないのは明らか」と風刺した。

(中略)
最終更新:7/23(金) 23:19 時事通信
コメ欄にもあるとおり、開会式の中継放送を見た人であれば「顔はマスクで半分しか見えないが、誰も笑っていないのは明らか」なる風刺は事実とは異なることが分かるはず。アメリカ選手団が「誰も笑っていない」なんてことはありませんでした。他国に目を向ければ、アルゼンチンやイタリアに至っては悪ふざけ並みのはしゃぎ様でした。

「中継映像は歴史に残らず、それを文字に起こした活字記事だけが歴史に残る」なんてのは15年くらい前までの話。かつてのように、図書館に所蔵されている新聞縮刷版や、新聞のオンライン検索システムに頼らなければならない時代とは異なり今や、後世の人々の「振り返り手段」は活字記事の渉猟だけではありません。

小難しい理屈じみたことは切り取ったり編集したりで如何様にも「操作」できるものですが、この手の、一目瞭然的なことを「操作」するのは、むしろご自分の信頼を損ねることになると思われます。

東京オリンピックについては、最後の最後までグダグダが続いたことは事実です。この点に関しての批判は甘んじて受ける必要があるでしょう。そして、メディアがグダグダ感に乗っかってそれを更に煽り立てて小銭を稼ごうとするのは、彼らの商業主義的傾向、そしてそうせざるを得ない資本主義的環境を鑑みれば仕方のないことであります。

とはいえ、こんなすぐに分かる程度の記事を書き立てるようでは、なによりも商業主義者としての当人たちのためにこそなりません。コロナ禍が始まって1年半、バブルは徐々に引き潮です。
ラベル:メディア
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2021年07月22日

オリンピック開催という「外圧」による日本社会の悪癖というべき「強いもの勝ち」の風潮を正す機会が、失われてしまった

ついに明日はオリンピック開会式。「盛り上がりに欠ける」という報道があり残念に思いますが、私にとって何よりも残念なのが、諸外国からまとまった数の人々が来日することにより、日本の「後進性」に気づかされる機会が失われてしまったことにあります

まだ新型コロナウィルス禍が始まる前の2019年8月、朝日新聞は次の記事を公開しました。
https://www.asahi.com/articles/ASM8871ZQM88UTIL045.html
横断歩道、止まらない車 「五輪対策」で警察が摘発強化
河崎優子、稲垣千駿 八木拓郎
2019年8月10日 23時00分

 東京五輪・パラリンピックを1年後に控え、警察が信号機のない横断歩道で一時停止しない車の取り締まりを強化している。大勢の訪日外国人が見込まれ、お年寄りや子どもが横断歩道上で巻き込まれる事故がなくならない中、歩行者優先の意識は浸透するか。

(中略)
 東京都大田区蒲田5丁目で、横断歩道を渡っていた数人が驚いて足を止めた。その1メートルほど先を車が突っ切って走り抜けた。普段から多くの人が行き交うアーケード街。警戒していた警視庁の警察官が、運転していた男性を道交法違反(横断歩行者妨害)の疑いで摘発した。男性は取材に「横断中の人がいるのはわかっていたが、急いでいた」と答えた。

 「横断歩道の手前で駐車していた車の陰になって歩行者が見えなかった」。JR大塚駅(東京都豊島区)前ではタクシー運転手(72)が警告を受け、警察官に釈明した。横断歩道の直前で車が駐車している場合も一時停止が義務づけられているが、取材に「横断する人が多すぎて待っていたらきりがない。歩行者が止まってくれるはずだ」と話した。同庁によると、この周辺は一時停止しないどころか、横断者にクラクションを鳴らして走行を続ける車が少なくないという。歩行者の女性(72)は「横断歩道だからといって安心して渡れない」、スウェーデンから来た男性(65)は「日本は止まらない車が多すぎる。法律で規制されていないものだと思っていた」と話す。

 警視庁が意識するのは東京五輪だ。「欧米では車が道を譲るのが当たり前。訪日客が事故に巻き込まれないようにしたい」(河崎優子、稲垣千駿)

(以下略)
本件、日本の「後進性」を示す典型的な一例だなと思います。「譲り合いの精神があって礼儀正しい日本人」と言いますが、その「譲り合い」や「礼儀」はあくまでも「同格同輩」の間のものであり、ひとたび両者に「力の強弱関係」があると見れば、途端に「強いもの勝ち」になるわけです。鉄の塊である自動車と、生身の人間の「力関係」は明白です。そして情けないことに、力の強弱関係が、ただちに「上下関係」「卑賎関係」に読み替えられるところ。それ、チンピラの論理じゃないですか

それでいておいて、たとえば対人事故が起こるや否や「歩行者の交通モラルはどうなんだ」と逆切れする始末。「運転者も歩行者も対等だ」と言いたいのでしょうが、鉄の塊としての自動車を運転する側が、生身の人間である歩行者側と対等であるはずがありません。鉄の塊としての自動車に乗り込んだ時点で、もはや「一対一の人格の関係」ではないのです。恐れ入るくらいの虫の良さ・都合のよさ、つまるところ、運転者としての自覚の欠如であります。

ちょっと飛躍しているように感じるかもしれませんが、思い起こせば、生活保護バッシングをはじめとする社会保障バッシングを見ても、自らが「相対的強者」であることを忘却した罵倒が見られるのが、昨今の日本世論の特徴であります

オリンピック開催という「外圧」によって、日本の社会的意識の発展を期待していたのですが、新型コロナウィルス禍に起因する世界的な強度の渡航制限、及びオリンピックの無観客競技の拡大により、来日者数は予定よりも遥かに少なくなってしまいました。日本社会の悪癖というべき「強いもの勝ち」の風潮を正す機会が失われたことは非常に残念に思います
ラベル:社会
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2021年07月17日

「革命家の経済」から「普通の人の経済」への移行期、「超人的な人たちがつくる社会主義」ではなく「普通の人たちがつくる社会主義」への移行期としてのキム・ジョンウン総書記の時代

■キム・ジョンウン時代の社会主義経済、集団主義としての社会主義の経済を特徴づける考え方
7月9日放映、朝鮮中央テレビ「協同農場に広がる二毛作風景 (협동벌에 펼쳐진 두벌농사풍경)」における「農場員は、作況が良く、それが自分の生活と、もちろん大きな範囲で考えれば、国の米瓶を満たすことになりますが、近い範囲で考えれば、自分の子供のための仕事、自分のための仕事だと考えました。これがうまくいってこそ、私も食べていけるし、さらには国の米瓶も満たせるので、農業に対する農場員の精神力はたいしたものです」という黄海南道アナク(安岳)郡の協同農場員発言(5分23秒〜)について。

これこそ、キム・ジョンウン時代の社会主義経済、ブルジョア「自由」主義的な個人主義でもなければ大義名分の押し付け的な全体主義でもない、集団主義としての社会主義の経済を特徴づけるものであると言えるでしょう。かつての共和国であれば、「国の米瓶を満たす」ことが何よりも優先されるべきコトとして位置付けられたはずです。

もちろん、7月11日づけ記事でも言及したとおり、1986年7月15日づけ「チュチェ思想教養で提起されているいくつかの問題について」においてキム・ジョンイル総書記は、個人利益のために集団を蔑ろにしてはならないし、集団利益のためだと言って個人を蔑ろにしてはならないとされたものです。また、2002年の7.1措置以降、従来的制度の枠内で個人の利益追求を位置付ける試みがなされてきました。しかしながら、対米対決をはじめとする厳しい内外の環境への対応のため引き締めを優先せざるを得なかったところです。

現在、共和国が置かれている環境は、「苦難の行軍」に比肩するものとも指摘される危機的なものであります。「かつてのやり方」であれば、ここで一層の引き締めが行われるはず。全体利益という大義名分が踊り、「すべての人々が英雄のように生き、たたかおう」だの「我々は月給取りではない」だの「革命的ロマン」だのと、仰々しいスローガンが押し付けがましく唱えられるはずであります。

しかし、キム・ジョンウン総書記はそうはなさりませんでした。「これ(増産)がうまくいってこそ、私も食べていけるし、さらには国の米瓶も満たせるので、農業に対する農場員の精神力はたいしたものです」とされたのです。それも、「私も食べていけるし」を先行させたとおり、「農場員自身の利益」をまず挙げられたのです。画期的なことであります

上掲番組に和訳テロップをつけてYou Tubeに投稿されたDPRK NOWの川口智彦氏は、「「協同農場に広がる二毛作農業風景」:多収穫してまずは自分のために、小麦の二毛作、コンバイン (2021年7月9日 「朝鮮中央TV」)において、「悪く考えれば、食料が本当に不足してどうにもならないので、自分たちで何とかしろと言っているようにも解釈できるが、この番組に出てくる小麦畑からは、そのような雰囲気は伝わってこない」としますが、この悲観的解釈の現実的可能性は私は低いと考えます。もしそうであれば、今までもそうであったように、「自力更生」のスローガンが都合よく強調されるはずです。私益と公益の接合には言及しないでしょう。

また、動画では「このように二毛作は、よい土地、悪い土地に関係なく、決心して取り組むとき、科学的農業方法通りにやれば、どこでもできます」とも言っています(7分1秒〜)。ここで語られている「科学的農業方法」が実際にどの程度、国際標準的な科学性を帯びているのかについては私は評価しかねますが、まず、いつもの「チュチェ農法」云々に言及がないところは注目すべきでしょう。

キム・ジョンウン総書記の時代に入ってから、悪平等主義の清算が提唱されていますが、本件もその一環として位置付けることができるでしょう。悪平等主義の清算とは、すなわち、個人の努力に対する積極的評価づけであり、個人的な利益追求の容認に行きつかざるを得ないものであります。協同農場という従来からの社会主義的所有のうちにおいて個人の努力、個人の利益追求を新たに容認する。そして個人の利益追求が全体の利益増進にもつながるという見解を示すことで理論的な整合性をも保つ。個人的利益と全体的利益とを整合性のある形で接合した点において、このことは集団主義としての社会主義の本分に根差したものであると言えるでしょう。

■地方党委員会の「農民たちのせい」を党中央が訂正した!
ところで、この番組は7月9日に朝鮮中央テレビで放映されたものですが、「デイリーNKジャパン」編集長(実際には単なるゴシップ記者)のコ・ヨンギ氏が7月12日になってから「「国民が怠けている」食糧難の責任を押し付ける金正恩の北朝鮮」なる記事を公開しました。実に残念なタイミングと言う他ありませんw

「内部情報筋」なるものの通報に基づいて「農業が不振なのは農民がサボっているから」という咸鏡北道党委員会の見解を取り上げるコ・ヨンギ氏。彼自慢の内部情報筋は、たとえば2017年2月のキム・ジョンナム氏死亡について「金正男氏殺害に対する北朝鮮国内の反応が伝わって来た」を巡る一件に顕著であったとおり、非常に疑わしいものであります。すなわち、かつて「平安北道(ピョンアンブクト)のデイリーNK内部情報筋によると、金正男氏殺害の一報を聞いた人々は「明らかに我が共和国(北朝鮮)の仕業だ」と言った反応を示している」とするコ・ヨンギ氏ですが、ほぼ同時に「(キム・ジョンナム氏は)長らく権力の中枢から遠ざかっており、北朝鮮国内でもほとんど知られていない」と専門家から指摘され、一般紙等もその筋に乗って報じたため、面目丸つぶれになったものでした(それでも未だに当時の記事を公開している彼の「精神力」は凄いですね)。

こういうことがあるので基本的に私は、コ・ヨンギ氏の「内部情報筋」ソースを信用していないのですが、仮に今回ばかりは正確な情報であったとしましょう。そうなるとコ・ヨンギ氏の狙いとは異なり、キム・ジョンウン総書記のマトモさが際立つ結果になります。

時系列を整理しましょう。コ・ヨンギ氏によると6月23日に咸鏡北道の党委員会が「農業が不振なのは農民がサボっているから」としたのに対して、7月9日の朝鮮中央テレビすなわち朝鮮労働党中央委員会は、「増産は何よりも農民自身の利益であり、そしてそれが国全体の利益につながる」と指摘したという流れになります。つまり、地方の党委員会の見解(6月23日)を党中央が訂正した(7月9日)と位置付けることができるのです。

コ・ヨンギ氏・・・もう何日か早く記事にしておけばよかったものをw7月9日以前に書いておけば「相変わらずの北朝鮮」と言えたのに、7月12日なってからノコノコと記事にしているようでは、地方党幹部の旧態依然的な事業方法に対して党中央、すなわちキム・ジョンウン総書記の施政のマトモさがむしろ際立つ結果になります(私はコ・ヨンギ氏の狙いに反して、キム・ジョンウン総書記の施政のマトモさを認識したところです)。また、「北朝鮮専門ニュースサイト」の主宰を称しておきながら、最新ニュースにとんと疎いコ・ヨンギ氏の胡散臭さが更に強まったと感じました。

彼においては、「トンジュ」報道に続く「結果的に北朝鮮当局の宣伝をアシストする結果に終わった失敗」でありましょう。かつて彼は「トンジュ」を闇市の制御不能な拡大・社会主義計画経済を掘り崩すものと位置付けて嬉々として特集していました。しかし、キム・ジョンウン総書記が発想の転換的に「トンジュ」および私的利益の追求を体制内化したことにより、いまや「トンジュ」は新時代の肯定的な象徴になっています。「トンジュ」は日本人には聞き覚えのない朝鮮語ですが、それだけに「トンジュ=北朝鮮の官許個人起業家」という印象が根付き、「北朝鮮にも個人起業って概念があるんだ。意外とマトモなんだな。背に腹は替えられないから、ちょっとずつ『普通の国』になるかも。文革中国がそうだったように」という印象が広まっています。

■「普通の人たちがつくる社会主義」へ
「すべての人々が英雄のように生き、たたかおう」や「革命的ロマン」もよいですが、まずは食わねば始まらないものです。また、大多数の人々は「英雄」というよりも「月給取り」であります(だからこそ革命家と、革命家たちの組織としての党は偉大で尊敬されるべき存在なのです。私は心から党と党員の先生方を尊敬しています)。

「月給取り」だって決して卑しいことはありません。月給取りだって自分自身の利益しか考えていないわけではないからです。たしかに、生活のために働かざるを得ない立場ですが、月給取りだって自分の仕事には社会的な意味・意義があると考えて(信じて)働いているものです。近江商人の「三方よし」や仏教哲学の「自利利他」ほどの高い意識性はないにしてもです。それが普通の人・普通の労働者の労働観であります。

この意味において、キム・ジョンウン総書記の時代とは、「革命家の経済」から「普通の人の経済」への移行期、「超人的な人たちがつくる社会主義」ではなく「普通の人たちがつくる社会主義」への移行期であると言えるでしょう。
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2021年07月11日

全体主義・個人主義に対する集団主義の原則を提起する「7.15談話」発表35周年と、ワクチン接種にかかる「自由」論の問題について

近く迎える7月15日。キム・ジョンイル同志の不朽の古典的名著:『チュチェ思想教養において提起される幾つかの問題について』発表から35年の名節であります。同談話はチュチェ思想の形成史において画期的な談話ですが、今回、以下に述べる論旨に関して言えば、全体主義や個人主義と集団主義の差異、チュチェ思想において自由・平等の原理はどのように理解・内包されるかという点において原則的理解が提示されている重要な談話であると言えます。

全3節で構成されていると伝わる同談話のうち、第1・2節についてはこちらで邦訳が提供されていますが、全体主義や個人主義と集団主義の差異については次のように言明されてます。
 もし、社会的集団の統一をはかるからといって人間の自主性と創意性をおさえるならば、集団内の真の統一ははかれず、逆に人間の自主性と創意性を保障するからといって集団の統一を破壊するならば、個人の生命の母体である社会的集団の生命が弱体化され、個人の自主性と創意性そのものを保障することができなくなります。社会的集団の統一は、人間の自主性と創意性を高く発揮させることに寄与できるようにはかられるべきであり、人間の自主性と創意性は、あくまでも集団の統一をはかる枠内で実現されるべきです。これは、平等の原理と同志愛の原理を統一的に具現することによってのみ、個人の自主性と創意性を高く発揮させる問題と、集団の統一を強化する問題がともに解決されるということを示しています。もちろん、これは容易なことではなく、おのずとなるものでもありません。それで私は、社会的集団のあるところには必ず指揮が必要であることを重ねて強調しているのです。
全体主義及び個人主義を乗り越えるための原則論が提示されていると言えると思われます。

その点、いま日本の地で展開されている、新型コロナウィルスのワクチン接種にかかる忌避の問題は、より多くの人々を巻き込まなければならない防疫事業という場面における日本当局者のアプローチの拙さを如実に示しているといえます。このことは、突き詰めると結局のところ、日本社会における集団主義思想が定着していないことを示すものであります。

今回は、このことを以下に論じたいと思います。まずは記事の引用。
https://news.yahoo.co.jp/articles/faf98b79c65060f4f65f864b1684026d9d365f88
ワクチン否定派の声「打ちたくない人はいないはずという風潮が怖い」
6/14(月) 16:05配信
NEWSポストセブン

(中略)
この狂騒のなか、「打てない人」の声がかき消されている。大学病院に勤務する40代の看護師は、こう胸の内を明かす。

「個人の打つ・打たないの選択に批判が出るのはおかしいし、何より“打ちたくない人はいないはず”という風潮がつくられてしまうことが怖い。私が勤めている病院も同様で、接種時期や順番について説明があったときに、『副反応が怖いからという理由で、接種を拒否することは許されない』と遠回しに言われました。つまりこの病院にいる限り、選択肢は“打つ”一択ということ。

 ですが死亡例があったり、将来的にどんな異変が起きるかわからないことを考えると、接種はもう少し後にしたかったし、何より“打たない”と言えない雰囲気に耐えられなかった。3月いっぱいで退職して、ワクチンが回ってくる順番の遅い別の病院に移ることを決めました」

 また、別の病院に勤務する看護師は、悩んだ末に接種を受けることを決めた。

「病院から『ワクチンを打つか打たないかは個人の問題じゃない。人類を救うためだ』と言われました。確かに、集団免疫がつけば感染が早く収束することは明確です。とはいっても、私たち一人ひとりの意思は尊重してもらえないのかと、悲しい気持ちになったのも事実です。
(以下略)
免疫反応には個人差があるので、実際問題として、ワクチンを打てない人・打たない方がよい人が存在するのは当然であり仕方ないことです。接種率100パーセントとは行かないし、集団免疫という観点から言えば、そもそも100パーセントを目指す必要もありません。

しかしながら、どうしても接種を断りたい理由:「じゃあ仕方ないね」という理由があるわけでもなく、「個人の打つ・打たないの選択に批判が出るのはおかしい」といってのけるその精神は理解困難です。防疫事業への参加は自分自身を守ることであり、他人様を守ることであり、そしてそれは回り回って自分自身を守ることに繋がるからです。自分自身に多少の不都合があっても、より大きな全体利益が見込めるのであれば、その多少の不都合は甘受せざるを得ません(逆にいくら「全体利益が大きい」からと言って、「何人かの人に死を要求すること」もまた間違ったことです)。ブルジョア「個人」主義的な「自由」論も大義名分の押し付けも、いずれも誤った姿勢であります。社会はシステムなのです。

ワクチン接種に対して不安に感じる気持ちはよく分かります。私も未だに不安がないといえばウソになります。そうした不安を和らげるために、そうした不安に寄り添うための対人事業の充実は欠かせないでしょう。おそらく多くの現実的場面・局面では、朝礼の訓示的に接種するよう伝えているだけで、質問などは形式的にしか受け付けていないものと思われます。これではワクチン接種にかかる不安が解消されるはずがありません。その点、「河野太郎氏、ワクチンめぐるデマ7つを完全否定! 不妊、ネズミ死…発信元は「中国やロシア」の報告書も」(6/24(木) 13:57配信 スポーツ報知)に報じられている河野太郎大臣の取り組みは評価できるものです。

社会はシステムであります。システム的なモノの見方とは、全体にも個別にも等しく目配りするものであります。全体利益が個別利益を塗りつぶしてはならないし、個別利益のために全体利益を蔑ろにしてはなりません。その意味で、社会をシステム的に捉えるということは、全体主義や個人主義に対する集団主義的な社会観であると言えます。ワクチン接種について言えば、各個人がワクチンを接種することによる全体利益を重視しつつ、個々人のワクチン接種にかかる不安の緩和に注力する必要があります。より多くの人々がワクチンを接種することが、全体的利益においても個別的利益においても損がないことを啓蒙すべきなのです。

繰り返しになりますが、ワクチン接種を不安に感じるのは理解可能だし、体質的に打てない人・打たない方がよい人は当然に除外すべきであります。しかしそれ以外は、原則として接種して防疫事業に参加すべきです。そうすることは、自分自身のためであり、他人様を守ることであり、そして回り回って自分自身を守ることになるからです。社会はシステムだからです。

そうした客観的事実を飛び越して「個人の打つ・打たないの選択に批判が出るのはおかしい」と言ってのけるその精神、及び、それとは真逆の「打ちたくない人はいないはず」という風潮。普段からしっかりと組織生活を送ってないから、ブルジョア「個人」主義的な「自由」論だったり、全体主義的な大義名分の押し付けが見られるのでしょうね

アメリカ進駐軍の「外圧」によって「内発的動機」なくして天皇制ファシズムから戦後民主主義に一気に転換した日本の歴史的経緯は、いまだに折に触れて問題を引き起こしているというべきなのでしょうか・・・? 集団主義としての社会主義を日本の地において実現せんとする我々チュチェ思想派としては、ブルジョア「個人」主義的な「自由」論と全体主義的な大義名分の押し付けとの間で思想状況が振り子のように左右し、決して集団主義的な方向に向かわないことは、「社会主義実現の主体的基盤なし」という点において極めて憂慮すべきことと考えます・・・「地球上から戦争をなくすためには地球人を団結させるしかなく、そのためには宇宙人の地球侵略か世界的大疫病の発生くらいしかない」とよくいいますが、世界的大疫病が発生してもなおこの有様です・・・
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2021年07月07日

ワクチン職域接種における「不足の経済」の法則発動は「飽食ボケ日本」の必然的末路

https://news.yahoo.co.jp/articles/100106b268e8a9fade58cd250cb9d62d2d81f5c6
関大がワクチン2510回分廃棄へ 職域接種の大学で初
6/30(水) 19:17配信
朝日新聞デジタル

 関西大学は30日、新型コロナウイルスの米モデルナ製ワクチン2510回分が使えなくなったと発表した。保管する医療用冷蔵庫に不具合があったため。ワクチンは余裕をもって国に申請しているため、学内で予定する接種に問題はないという。

(以下略)
コメ欄。
余裕をもって申請してるとのことだが、2500回分破棄しても平気なくらいなのは、余裕を持ちすぎなんじゃ?
こういうとこが多いからモデルナのワクチンが足りなくなってるんでしょう。
21世紀の資本主義市場経済国家である日本で、20世紀の中央集権的計画経済(ソ連や東欧など)で見られた「不足の経済」の法則が発動するとは!

「不足の経済」とは、ハンガリー人民共和国の経済計画当局者だったコルナイ(Kornai, János)が指摘したものであり、詳しくは「基礎研WEB政治経済学用語事典」で解説されているとおりですが、要するに、現場が「くれ」と言えば言っただけ原材料等が供給されるような世界(「ソフトな予算制約」の世界)では「とりあえず、もらっておこう」と考えがちで、必要以上の過剰な在庫を持ちたがるようになるというものです。

仕入れや在庫保管のために身銭を切らなければならない世界では、予算の制約を念頭に置く必要があります。また、身銭を切って取り揃えた在庫を無駄にすれば損をするのは自分自身です。それゆえ、使うあての乏しい過剰な発注を控えようという考え(インセンティブ)が生じます。しかし、予算制約がソフトだとそうしたインセンティブが働かなくなるのです。

ところで、ソ連や東欧などでは生産拡大のための「ニンジン」としてノルマの超過達成にはボーナスが支払われていました。「働いても働かなくても同じ」とよく言われますが、正確には「熱心に働かなくても困らない」だけで(解雇規制が厳しかった上に、怠け者をクビにしたところでその補充労働者もどうせ似たり寄ったりなので敢えてクビにしようとはせず、さらに労働力企業はモノだけでなく人員も過剰に抱えようとしたから)、熱心に働けばその分の褒賞はありました。特に顕著な成果を挙げれば共産党への入党が許され、特権階級として党員専用商店や党員専用保養所の利用ができるようになりました(「社会主義とは『能力に応じて働き、労働に応じて得る』社会である」というのがソビエト流の社会主義解釈でしたが、これはすなわち、非常に強烈な能力主義の表明に他ならず、能力の差に起因する地位や収入の差は肯定されていました)。

このボーナス目当てで、おのおのの生産現場はますます「とりあえず、もらっておこう」の意識を強めたとされます。この過剰在庫志向から過剰な需要が発生し、物不足が引き起こされ、その物不足ゆえに更に「もらえるときに、とりあえずもらっておこう」になり、物不足を慢性化させていったわけです。これが「不足の経済」の法則なのであります。

現在の職域接種のワクチン供給体制は、職域接種を実施する現場からすれば、「くれ」と言えば言っただけ供給される世界であり、「ソフトな予算制約」の世界であります。また、政府から「早く接種しろ」と急かされています。打てば補助金も出ます。予算の制約なしにほぼ無条件的に原材料(ワクチン)が国から供給され、急いで打てば褒賞金が出、ワクチンを無駄にしたところで自分の懐は痛まないのが、現在のワクチン職域接種です。20世紀にソ連や東欧などで見られた「不足の経済」と21世紀の日本で見られている「ワクチン不足」は、この点において瓜二つと言うべきではないでしょうか?

必要以上の在庫を抱えることにコストまたはペナルティが発生する制度設計が必要です。経済学、とくに制度比較に多少なりとも造詣のある人ならば、いまのワクチン職域接種体制とかつての「不足の経済」の類似性に気が付くはずです。ワクチンが全世界的に潤沢にあるのならば何も考える必要はないでしょうが、ワクチンは世界規模の争奪戦という様相を呈しています。制度設計が抱える問題点は目に見えています。しかしそれにまったく気が付かずに、わんこそばの如くワクチンを供給し接種を加速することばかりを考えてきたわけです。

本件に限らず、今回の新型コロナウィルス禍を巡っては、「経済的に豊かな国」であるからこその経済学の浸透の遅れをハッキリと示したものと言えるでしょう。

たとえば昨春の不織布マスク不足。さっさと国を挙げての配給切符制度切り替えれば不織布マスクの流通不全の緩和と正常化がもっと早くなっただろうに、政府がとった策といえば「転売禁止」でした。このやり方の経済政策的誤りについては、当ブログでは昨年3月4日づけ「「北朝鮮」にも劣る稚拙な転売規制要求を展開する日本世論の愚:真の問題である「買占めの発生」には「転売規制」ではなく「配給制の導入」で対応すべき」で指摘したとおりです。

配給品が不足しているからこそ闇市が生まれ、闇市があるからこそますます配給品が不足するわけですが、配給を正常化するためといって闇市に権力的に規制をかけても意味がないとキム・イルソン主席は賢明にも見抜いておられたわけです。慢性的な物不足に悩まされている「北朝鮮」だからこそ、しっかりと現実を分析し対策を練っていたわけです。

翻って日本。途方もない生産力にモノを言わせ、無駄や廃棄をものともせず圧倒的な物量作戦を取ることで、市場機構・資源配分メカニズムの綻び・不十分性・非効率性を押し切り消費者・国民に物不足を感じさせずに来ました。慢性的な物不足に消費者・国民が苦しめば、学問的・実践的な探究の動機になったでしょうが、物量作戦で押し切ってきたためにそういった経験の蓄積がまったくなされて来なかったのです。

「平和ボケ」ならぬ「飽食ボケ」というべきでしょう。
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2021年07月04日

反マルクス・反革命分子の川勝平太・静岡県知事が「毛沢東支持者」??

https://news.yahoo.co.jp/articles/520809f7e887384c5911b010d0ada9ca5c6888df
「川勝平太」静岡県知事は毛沢東支持者 習近平の政策も絶賛
7/2(金) 5:56配信
デイリー新潮

 直接選挙で選ばれる都道府県の知事は、こと地元自治体の中に限れば総理大臣よりも強い権限を持つ。確かに、この度の静岡県知事選を制したこの人は、環境保護を訴えリニア建設に待ったをかけ続けてきた。だが、かの国への愛を隠さない姿を見れば、首を傾げたくもなり……。

(中略)
実際、川勝知事は2010年に訪中して、北京の人民大会堂で当時の副主席である習近平国家主席と会談。一昨年にはG20外相会合で訪日した王毅外相と面会するなど親中派で知られる。

 それだけではない。過去に「人民日報」のインタビューに応じた知事は、こんな中国愛を語ってもいる。

〈20歳のころに『毛沢東選集』(日本語版)全巻を読み、毛沢東の「農村(農民)が都市(ブルジョア)を包囲する」という理論に興味を持ちました〉(「人民日報海外版」12年9月25日号)

 昨年、「レコードチャイナ」の取材に応じた際は、〈この10年の中国人民の力は抜群です。14億の人民をまとめて国力に生かしていくのは、並大抵のリーダーシップではありません〉〈「一帯一路」とした構想力に敬服しています〉などと、習政権への賛辞を惜しまない。だが、世界的に問題視されている中国の排他的な経済政策や、ウイグル族への人権弾圧などには触れずじまいなのである。

 中国出身で拓殖大学客員教授の石平氏はこう憤る。

「毛沢東が主導した文化大革命で、どれだけの中国人民が迫害を受け、殺されたことか。そうした人権侵害の歴史に目をつぶり、独裁者の理論を持てはやす知事が県政を運営することは異様に感じます。彼の政治手法は寛容的精神に欠け、中国共産党を彷彿とさせる。“ミニ毛沢東”と呼んでも過言ではありません」

 白雪が溶けた富士の山は、紅色に染まりつつある。

「週刊新潮」2021年7月1日号 掲載
静岡県知事の川勝平太氏はかつて早稲田大学で経済史を教える経済学者でした。静岡県知事の経歴に興味がある人など少ないでしょうから、あまり知られたことではないかも知れませんが。

経済史学者だった頃の川勝平太氏は独創的な歴史観で一時期話題になったお方でした。たとえば彼の著書『日本文明と近代西洋――「鎖国」再考』では、かつて時代柄マルクス経済学に傾倒した時期があったことを認めつつ、「文化・物産複合論」を提唱し、マルクス主義的な経済史観を否定する内容に仕上がっています。

なお、川勝氏がマルクス経済学に傾倒したのは、彼が「団塊の世代」である(1948年生まれ)という時代的背景を考慮に入れざるを得ないでしょう。あの時代、これから経済学者になろうという人物がマルクスや毛沢東に興味を持たないなど、マルクス主義の理論的完成度の高さや、ソ連・中国の情報統制の高度さの影響もあり、あり得ないといって良かったものです。

マルクス主義、そしてその亜流である毛沢東主義の根本は唯物史観であり、それは突き詰めると『資本論』における理論的分析を根拠とするものです。川勝氏は、『資本論』が冒頭で捨象した「使用価値」に再度注目し、理論的推論ではなく歴史的事実を基に「財の文化的背景」を経済学に取り込み文化・物産複合論を提唱することでマルクス史観の不完全性を指摘しました。この業績はすなわち、唯物史観を揺るがすもの以外の何物でもなく、究極的には反マルクス主義・反毛沢東主義につながるものです

私もかつて『資本論』を読み、共産党系人士と議論を展開しました。使用価値をかくもアッサリと捨て去る所謂「蒸留法」が結論ありきの論理操作にしか見えず、また、労働価値に基づき「普遍的」な議論を展開するマルクスの論理構成があまりにも抽象的にすぎることから、折に触れてマルクスの価値論について疑問を表明したものでした(マルクスの体系は非常に整然としているので、大前提としての価値論がありとあらゆるところに顔を出すのです)が、あるとき、「では、あなたは非科学的な限界効用価値説を支持するのか」(限界効用価値説は非科学的なのか?)とか「労働価値説が成り立たないといっているに等しいが、そうなると搾取は存在しないとでも言うのか」(置塩信雄の「マルクスの基本定理」は労働価値説を前提としないのだが・・・)と言われたものです。価値論への「挑戦」は、マルクス体系を揺るがすものに他ならないのです。

ちなみに、マルクス経済学に限った話ではありませんが、経済学は総じて過度に抽象的であり文化的要素を捨象することこそが経済学だといった風潮さえあるものです。しかしながら、「人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定する」という我らがチュチェ思想に照らせば、「人間の意思決定」を分析する学問としての経済学は文化的要素も考慮に入れなければならないはずです。とりわけ価値論は、「人間にとっての価値」という意味で特に文化的要素への考慮が求められるはずです。

主体的経済学を志して早幾年・・・日銭を稼ぐのに忙しくてなかなか理論化できませんが、死ぬまでに少なくとも後継者を見出したいものです。

マルクス主義者(その亜流としての毛沢東主義者を含む)からすれば、川勝平太氏は、その理論の根底を掘り崩すような「反革命」的書物の著者であるわけです。にもかかわらず「静岡県知事は毛沢東支持者」とは・・・ちょっと超国家連合主義的なところがある川勝氏ですから、リップサービス的に一帯一路に共感しているのでしょうが、その根本は「反革命」です。実に底の浅い記事ですね。まあ、「反中国共産党」の流れに乗っかって小銭を稼ごうという魂胆なのでしょうけど。

石平氏も、小銭を稼ぐためにつまらない記事に寄稿しちゃって・・・川勝氏が「ミニ毛沢東」だなんて、これは逆に持ち上げすぎw川勝氏は、そこまでの「大物」ではありませんよw学者としては立派でも器の小さいおじいさんです。こんなくだらないことやっているようじゃ、中国の民主化なんて夢のまた夢ですよ・・・なんだかんだで中国共産党結党100年じゃないですか。
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2021年07月03日

「環境問題への関心を持つきっかけ」を得るためならば、もっと別の方法があるだろうに:レジ袋有料義務化から1年

https://news.yahoo.co.jp/articles/d58286857cc3af9effd4a36f0d2f9906b39cc5ff
「レジ袋を買って複数回使うほうがエコ」専門家が指摘 実はエコバッグ使用で環境負荷に〈AERA〉
6/13(日) 11:30配信
AERA dot.

 レジ袋有料化が始まって間もなく1年。エコバッグを持参して買い物に行く人は多い。だが、それは本当にエコなのだろうか。AERA 2021年6月14日号の記事を紹介。

*  *  *

 レジ袋有料化で実際にポリ袋の使用量は減らせているのだろうか。サステナビリティコンサルタントの安藤光展さん(39)は悲観的だ。

「有料化以降のプラスチックごみ発生量について、データはまだ出ていないのですが、エコバッグの使用が広まってもポリ袋を使う機会は相変わらず多く、『何割かは減っている可能性があるが、正直あまり期待できない』が私の見解です」

 さらに安藤さんは、「エコバッグを持つこと自体」にも警鐘を鳴らす。環境省の調査では、エコバッグを「複数持っている」と回答した人は7割以上。

 英国の環境庁が2011年に発表した調査では、「地球温暖化の可能性」をレジ袋より少なくするには、エコバッグを131回使う必要があるとの報告もあるという。安藤さんは言う。

「つまり、100回以上使ってやっと『元がとれる』ということです。理由は、エコバッグを作ること自体の環境負荷です」

(中略)
 エコバッグを持っていればエコ。その考えもまた、近視眼的なのだ。「視野を広げ、トータルでエコを考えること」。その大切さを指摘するのは、日本総合研究所・創発戦略センターシニアマネジャーの村上芽さんだ。

■個人のささやかな行動
 有料化でエコバッグ持参が増えることは、プラスチックごみに興味を持つ「きっかけ」として悪くない。ただ、それだけでエコを達成しようと思う必要もないとして、こう続ける。

「レジ袋をもらい続けている人も、『私はこういう理由で、最低何枚か生活でごみ袋が必要なので、もらいます。一方で車の利用を減らし自転車にしたり、別のエコの努力をします』など、『トータルでエコを意識できているか』が大事です。そこを見直し、意識を広げるきっかけになるなら、モヤモヤするのはとてもいいことだと思います」

 すっきりとした「正解」はなかなか出ない。ただ確かなことは、いまがプラスチック削減に向けた大切な岐路だということだ。作家で生活史研究家の阿古真理さん(52)は言う。

「有料化からの1年は、期せずしてコロナ禍と重なりました。職場にも行けず、人とも会えず、結果、自分の生活にいままで以上に関心を向けるようになっています。感染の危機も身近にあり、一人ひとりのささやかな行動が大事だということをこれほど身に染みて認識しているときはありません。いまは本当にチャンスだと思います」

 もうしばらく、レジ袋にモヤモヤしてみますか!(編集部・小長光哲郎)

※AERA 2021年6月14日号より抜粋
■「きっかけ」を得るためならば、もっと別の方法があるだろうに
レジ袋有料義務化から1年経つのに合わせて近頃、政策目標を達成するうえでこの義務化には意味があるのかを問い直す複数見られるところです。上掲記事はこの1年間に語られてきたことが非常によくまとまっていると言えます。

早くから「エコバッグを使うことは環境配慮的な行動だ」という主張(その「ご本尊」が小泉環境大臣でした)には、量的情報に基づく否定的な指摘が相次いでいました。また、「ポイ捨てする人は何を言ってもポイ捨てするだろう」という質的情報に基づく懐疑論も根強いものでした(たしかに数円程度の有料化ではポイ捨てを抑止するインセンティブにはなり得ないでしょう)。レジ袋有料義務化政策は、始まる前から懐疑的な見解が強かったものでした。

こうした相次ぐ指摘にじりじりと後退を強いられた義務化推進派は、当ブログでも昨年7月5日づけ「「レジ袋有料化」を無邪気に推す「建前・宣伝・格好つけを真に受けすぎている、お人よしな社会運動」を乗り越えて」で取り上げたように、早々と「ひとり一人が環境問題に対して関心を持つこと、きっかけになることが大切なんだ」と論旨を変更。「きっかけ」を得るためならば、もっと別の方法があるだろうに。苦し紛れの言い訳にしても苦し過ぎると言わざるを得ません。

早々に白旗をあげた義務化推進派は、レジ袋有料を義務化したところで政策目標を達成することはできないことを認めたのと同時に、自分たちがいかに無邪気な社会観の持ち主であるかを白日の下に曝け出したのでした。

■大した成果はなかった模様
それから1年。未だに多くのレジ袋有料義務化を肯定する立場は新しい理屈を捻りだせておらず、むしろ「それだけでエコを達成しようと思う必要もない」などと守勢に立たされています。せめて「これだけ成果があった!」と喧伝できればよかったものの、それさえもないということは、トータルの環境負荷(使い捨てプラ袋が引き起こす環境負荷に対するエコバッグを洗うための浄水にかかる環境負荷、排水処理にかかる環境負荷、及び洗剤等がもたらす環境負荷)軽減はおろか、マイクロプラスチック問題の限定しても大した成果がなかったということでしょう

オーサーコメント欄で、無邪気な優等生的なコメントを残す今井佐緒里氏が「ミスリードな記事に見える。ご指摘の英国公式レポートで「131回の利用が必要」とあるのは、エコバッグ全般ではなく、綿製バッグのみ。エコバッグとして日本でも大変普及しているポリプロピレン不織布バッグなら「11回」だ。11回使って捨てる人は多いのだろうか。元々プラスチック対策(レジ袋含む)は、温暖化より海洋ゴミ対策だ」などと、あくまでも「エコバッグは環境保護にとって悪くない!」と主張し続けていますが、どうせエコバッグのリユースだって「お願い」ベースでしかないのだから、無料でレジ袋を配布した上で「使いまわしてくださいね。せめてマイクロプラスチック対策としてポイ捨ては止めてくださいね。捨てるなら可燃ごみとして出してください」と「お願い」すればよいのでは?(笑)

要するに、これだけ全国民的に不便を強いておいて、そしてまたマイクロプラスチック対策としての客観的根拠もないのに、ほんの一握りの人たちが環境問題に目覚める「きっかけ」にしかならないコトをやってきたわけです。大増税でさえ黙って従う日本国民、たかだか1枚数円程度の消費者負担ゆえに再無料化運動がまったく高まっていないのが肯定・推進派のメンツにとっては「幸い」でしょう。

■意識重視のエコロジー運動の誤り
「きっかけ」――リベラリストをはじめとする意識重視派は、とくに「きっかけ」を重視します。しかし、個人がいかに覚醒して行動を変化させたところで、身の回りの日常生活に変化はあっても社会全体に変化が起こるとは限りません

繰り返しになりますが、「人間が意識を変え行動を変えれば社会システムが変わる」という想定は、物事を個人レベルに還元し過ぎています。人間が意識を変え行動を変えることで達成できるのは、あくまでも個人レベルの課題に留まります。脳味噌一個・腕二本・脚二本で出来得る仕事の範囲は限定的なのです。

社会システムはもっと巨大で、社会的の課題は個人レベルの課題とは質的にまったく異なります。当然、解決方法も異なります。「啓蒙され覚醒した個人」が個人レベルで最適な行動をとったからといって、それで社会全体が最適化されるわけではないのです。

社会レベルの運動法則に合致した方法論に則り組織的に対応する必要があります。社会のうちにおいて個々人が自主性を輝かせるためにこそ組織的指導体系が必要だというのは、この点に根拠があります。

「小さなことから始めることが社会全体を変える」という言説は、ミクロレベルでの思考・方法論をマクロレベルに不適切に適用しています。人間が「意識」を変え行動を変えることによって具体的にどのような経路をたどって社会システムが変わってゆくのかが曖昧で描き切れていないので、具体性のない空想・単なる観念論になってしまうのです。

■個人的意思を社会レベルに昇華し得る唯一の方法としての「市場メカニズム」
中学校や高校の生徒会委員でも言えるような内容の記事ばかりが目立つ昨今ですが、唯一下記だけは目に留まりました。
https://news.yahoo.co.jp/articles/bbc073ccf50a6b786663a0a379fcc492acdd3917
SDGsのために個人ができる身近なことは「買い物を考える」ということ
6/9(水) 11:10配信
ニッポン放送

黒木瞳がパーソナリティを務めるニッポン放送「あさナビ」(6月2日放送)に、一般社団法人 SDGsアントレプレナーズ 代表理事の青柳仁士が出演。SDGsのために1人ひとりができることについて語った。

黒木)今週のゲストは元国連職員で一般社団法人SDGsアントレプレナーズ 代表理事の青柳仁士さんです。個人での取り組みは何をすればよいのでしょうか?

青柳)SDGsは、持続不可能になってしまった世界を持続可能にするための人類みんなでの協力活動ということなのですが、個人でやれることでいちばん簡単なのは、手洗いうがいをしっかりやる、コンビニ募金をやる。またはマイボトルを持参するなどの身近な活動だと思います。

黒木)個人でできることがいろいろあるのですね。

青柳)たくさんあると思います。

(中略)
黒木)人任せ、政治任せだけではダメだという。1人ひとりの意識を変えて行かなければいけないということですよね。個人でできることがたくさんある。まずは始めてみることということですね。

青柳)個人ができることでは、買い物が大事だと思います。現在は「持続可能な商品」はたくさん売っております。途上国で森林伐採をしながらつくられている油を使った商品と、そういうものを使わない製品を両方扱うようなスーパーや小売業者が増えています。「なぜそういうことをするのか」と彼らに話を聞くと、「並べることによって、消費者に選んでもらいたい」と。彼らは「買い物はある意味投票だ」と言うのです。「自分が何を買うか」ということは「将来、どのような会社に盛り上がってもらいたいか。どんな会社に成長してもらいたい」か。あるいは「将来の世界をどうしたいか」ということを意思表示する行為だと言います。ですから、そういう意識で、ぜひ普段の買い物を考えていただくことが大事だと思います。

(以下略)
SDGsキャンペーンも、エコロジー運動と並んで精神論的・観念論的色彩が極めて強いキャンペーンです。国連が標榜するSDGsのお題目はいずれもブルジョア社会の枠組みを温存しつつ精神論的なキャンペーンで「地球の危機」に対応しようとするものに過ぎません。

しかしながら、唯一の例外と言いうるのが「買い物を考える」であります。かつてハイエク(Friedrich August von Hayek)が指摘したように、市場メカニズムは、個々人が分散的に所有している知識と意思を個人を超えた社会レベルで調整し得るメカニズムであります。個々人が各々で「買い物を考える」ことによって消費行動に変容が起こり、それが積もり積もることで需要供給の法則が作用し、結果的に社会的なレベルでの変容が起こり得るわけです。

市場メカニズムは、個々人の個別的意思を社会的ダイナミックスに昇華させるという点において非人為的・自然発生的な社会組織化機構と言えるものです。市場メカニズムという実体的なメカニズムを利用するという点において「買い物を考える」というアプローチは、精神論・観念論的な方法論とは完全に異なるものなのです。

■市場メカニズムの限界と協同社会の必要性
しかしもちろん、市場メカニズムは、市場という点においてその限界もあります。市場メカニズムは必然的に競争環境でもある点において、その参加者たちは「競争の強制法則」に直面するからです。いかに高尚な理論を掲げても価格競争に勝たなければ「持続可能な開発」どころか「自社の持続性」さえも覚束ないのです。

地球環境の未来のために自ら競争淘汰され飯のタネを喪失して飢えて死ぬ――そんなご立派な人がいるとは思えません。そもそもそういう自己犠牲精神に富んだ人は、決して資本主義を是とはしないでしょう。初めからブルジョア「自由」主義を乗り越えて協同社会を志向するものと思われます。

まとめましょう。「個人の覚醒」を重視するエコロジー運動やSDGsキャンペーンは、脳味噌一個・腕二本・脚二本で出来得る仕事の範囲は限定的であるという事実を捨象し、「人間が意識を変え行動を変えれば社会システムが変わる」という無邪気な発想に基づいています。この手の運動において唯一例外的な「買い物を考える」は、客観的実在としての市場メカニズムを利用する点において科学的な見解ではあるものの、「競争の強制法則」という限界への考慮が至っていないためにやはり依然として不足があると言わざるを得ません。

「競争の強制法則」が存在する以上は、環境負荷を軽減させるためのコストを内部化することは困難が伴うと言わざるを得ないでしょう。もちろん、私が掲げている協同社会としての社会主義社会とて万能特効薬であるとは言えないでしょう。協同社会は要するに協議を中心とする社会ですが、価値観と利害関係が大きく異なる人どうしの協議は難航するものと思われます。話し合いで何でも解決できるというほど私はナイーブではありません。

しかし、かつてポランニー(Polányi Károly)が指摘したように、現代資本主義は経済が社会を超越しています。まずは経済を社会システムのサブシステムとして位置づけ直す必要があります。市場メカニズムの限界と協同社会の必要性を再度強調したいと思います。
posted by 管理者 at 20:00| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする