2021年08月28日

「階級・階層」等の属性を発想の根本においてしまう危険な習性の存在

https://news.yahoo.co.jp/articles/eaee97824437b01da00a8405f8b27a959a117068
コロナ患者受け入れ拒否なら『病院名公表』に現場は怒りの声も「医療従事者をスケープゴートにするんですね」
8/23(月) 22:45配信
中日スポーツ

 国と東京都が23日、東京都内の全医療機関に新型コロナウイルス患者受け入れを要請すると決めた。従わないと病院名を公表する“踏み絵”の強硬策にSNSを通じて現場からは怒りの声が上がっている。

 小説家で医師の知念実希人さんは自身のツイッターで「もうなんか、燃え尽きかけてきている医療従事者にとどめを刺しに来ましたね」と指摘。「いま入院している患者さんを追い出して病床を作ろうが、感染拡大を止めないと焼け石に水なんですよ。1年半、命がけで頑張ってきた医療従事者をスケープゴートにするんですね」と続けた。

 愛知県医労連も「いま大事なことは医療機関への制裁ではなく支援です。コロナ感染爆発を引き起こした責任を、医療機関に押し付けるのですか。最悪の責任転嫁。許せません」と怒りをぶつけた。
(以下略)
■「階級・階層」等の属性を発想の根本においてしまう危険な習性の存在
この措置は、その経緯を振り返るに、「コロナ患者の病床確保に向けた補助金を受けながら、受け入れに消極的な病院がある」というところにあったはず(「補助金を受けながらコロナ患者受け入れ拒否の病院が…尾身会長のお膝元も“元凶”の一つだった」 8/21(土) 9:06配信 日刊ゲンダイDIGITAL 他)。決して愛知県医労連(愛知県医療介護福祉労働組合連合会)がいうように、「コロナ感染爆発を引き起こした責任を、医療機関に押し付ける」わけではありません。医療従事者をスケープゴート」にするのではなく、むしろ、医療従事者の皮をかぶった「裏切り者」を炙り出して取り締まることに他なりません。

病院名公表という「個別具体的なケース」への批判として「医療従事者をスケープゴートにするんですね」という言説を繰り出してくる愛知県医労連の発想には、「階級・階層」を発想の根本においてしまう危険な習性の存在を指摘せざるを得ないものです。

どんな社会においても、自己が所属する社会・階級・階層の共同利益に反して自己利益だけを追及する手合いが一定数いるものです。所属社会・階級・階層といった属性は、必ずしも個々人の行動を規定するものでありません。それゆえ、所属に対する裏切り者を取り締まることは、正直者がバカを見ないためにこそ行う為政者の務めであると言えます。そして、こうした取り締まりは、あくまでも個別具体的な裏切り者個人を対象とした「狙う撃ち」なのです。

しかしながら、典型的にはマルクス主義者ですが、社会・階級・階層といった属性を発想の根本においてしまう手合いは、該当者の属性を真っ先に考慮に入れてしまうがために、個人としての所業を軽視する傾向にあります。この結果、当人がやっていることは所属に対する裏切り以外の何物でもないのにも関わらず、無茶な擁護を展開してしまうことが往々にしてあります。

たとえば、日本共産党第14回大会(1977年)が定式化した「社会主義生成期論」などは、ソ連や中国といった社会主義の看板を掲げた背信者たちを擁護した点において、マルクス・レーニン主義という「表看板」を引きずられて「実際の行い」を無視したものとして歴史に記憶されるものであります。また、ときどき見られる生活保護不正受給の個別案件に対する無茶な擁護なども、これら一種であると言えるでしょう。

新型コロナウィルス禍について言えば、ほとんどの陽性患者受け入れ病院はすでにフル稼働しているし、仮に陽性患者を受け入れていなかったとしても、それ以外の疾患や怪我などをいつも以上に受け入れてさえいれば、その分、陽性患者受け入れ病院の負担を軽減するので、全体としてはコロナ対応に参画しているといえます。そうした意味では、大多数の医療従事者が所与の条件において最大限に奮闘していることは、疑いのないことです。

しかし、コロナ患者の病床確保に向けた補助金を受けながら受け入れに消極的な病院があるというのは、ごくごく一部ではありますが、残念ながら以前から指摘されてきたことです。今回の国と東京都の共同施策は、燃え尽きかけてきている「大多数の医療従事者」を横目に、ほとんど補助金詐欺のようなことをしている「一部の手合い」を取り締まることに意義があります。

裏切者探しに血眼になった末にパラノイア的な大粛清に手を染めたスターリンは、あれはあれでやり過ぎですが、だからといって誰も疑わないというのも逆にやり過ぎであります。

■政治の責任の内実とは?
さて、愛知県医労連で検索すると、主にTwitterで「医療崩壊は政治の責任」と大騒ぎしています。私も今の状況に対する政治の責任は重いと考えている点、愛知県医労連と「総論的」には同意見です。では、政治は「具体的」には如何に責任を果たすべきだったのでしょうか?

結論から言えば、現況における政治責任は、医療機関を強力に統制し医療体制の確保を急がなかった点にあると考えています。もちろん、以前から指摘してきたように、そんなに簡単に医療従事者を養成できるわけではないので、政治(および行政)を一方的に非難できるものでもありません(私はないものねだりを展開する非現実的なクレーマーではないので)が、それでも所与の条件下で既に奮闘している大多数の医療従事者への「支援の遅れ」、および、ごくごく一部の不届き者が補助金詐欺まがいの所業に手を染めていることに対する「取り締まりの遅れ」は、政治責任として一定程度は追及されるべきものと考えます。その点、繰り返しになりますが、今回の国と東京都の共同政策は、遅ればせながらも正道を歩み始めたものとして評価できるものです。

にもかかわらず、ごくごく一部の不届き者を取り締まる政策について「コロナ感染爆発を引き起こした責任を、医療機関に押し付ける」と喚きたてる愛知県医労連、もはやムチャクチャですいま遅ればせながらその責任を果たすために医療提供体制を再構築しようとしているのにも関わらず! 真面目にやっている大多数の「医療従事者」を横目に、ほとんど補助金詐欺のようなことをしている「一部の手合い」を取り締まろうとしているのにも関わらず! 「コロナ感染爆発を引き起こした責任を、医療機関に押し付ける」と言いますが、医療機関を巻き込まずしてコロナ禍を乗り越える妙案があるというのでしょうか? 沈みかけた船は排水し、燃え上がってしまった火事は消さなければなりません。「お前の操舵ミスだ!」とか「お前の火の不始末のせいだ!」などと非難合戦を展開するのは、危機が去ってからすべきことであります。

医療機関の稼働を高めることこそが目下の政治責任の果たし方であります。なお、人口に膾炙している「強力な水際対策」「補償つき休業要請」「ロックダウン」などは、時間稼ぎでありコロナ禍の根本的鎮静化に資するものではありません。あくまでも正道は、医療提供体制の拡充であります。

たとえば、「強力な水際対策」については、それを一貫して実施してきた「北朝鮮」は、最近になって規制緩和を模索し始めました。水際対策で感染を封じ込めようとすればあのくらい徹底的に実施する必要がありますが、長続きしえないものです。

「補償つき休業要請」や「ロックダウン」も同様です。昨春以来、「全国民が2週間、一歩も外出しなければウィルスは死滅して感染拡大は封じ込める」という言説が燻ぶっていますが、それは社会レベルの感染予防プランにはなり得ないものであります。

たしかに、個人レベルでは対人接触機会を徹底的に削減すれば機会がなくなるので、感染しなくなるでしょう。ウィルスは細菌ではないので宿主がいなければ死滅するものです。その点、個人レベルでは「出歩かない」は感染予防の現実的なプランです。しかしこれは、個人的最適行動を社会的最適行動に不当に拡大させている、半径数メートル以内の論理で天下国家を語る「素人考え」の最たるものというべきシロモノであります。なぜならば、いわゆるエッセンシャルワーカーの存在、社会を維持するためにどうしても出歩く必要がある人たちが世の中にいらっしゃいます。「全国民が2週間、一歩も外出しない」ことなどあり得ません。スーパーマーケット等の小売業を含めて考えたとき、エッセンシャルワーカーは決して少数派ではありません。それゆえ、補償つき休業要請やロックダウンは、コロナ封じ込めの必殺技にはなり得ないのです。

やはり新型コロナウィルス禍を乗り越えるためには、医療提供体制の拡充こそが唯一の正道であります。強力な水際対策や補償つき休業要請、ロックダウンは、感染の拡大を一定程度遅らせるものであり、あくまでも時間稼ぎなのです。

政府・東京都は遅ればせながらも、こうした正道を歩み始めたものと評価することができます。ゾーニングができないような小規模診療所は仕方ないとして、コロナ患者の病床確保に向けた補助金支給を受けておきながら実際のところ陽性・発症患者の受け入れに消極的な病院は、「裏切者」といっても構わないでしょう。政府・東京都の今回の取り組みは正当なものであるといえます

■タイトルだけ見て脊髄反射
「コロナ患者の病床確保に向けた補助金を受けながら、受け入れに消極的な病院がある」に始まる実態調査と、それによって明らかにされた不正な補助受給のケースに限った病院名公表という制裁的措置は、ストーリーとして捉えた場合は何ら問題のないことであります。至極当たり前のことです。

にもかかわらず、「コロナ患者受け入れ拒否なら『病院名公表』」というタイトルだけで脊髄反射的に喚きたてる手合いがいかに多いことか・・・新型コロナウィルス禍を巡っては様々な世相が見えてきたものですが、意外と世論というものは、経緯や詳細を踏まえず、見出し文レベルのたかだか数十文字程度しか読まないものなんだなと改めて気づかされたものです。こういう手合いにとっては、Twitterも「長文」になるんでしょうね。
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2021年08月21日

社会政治的生命を持たない哀れな「個人」、過剰な価値観相対化に毒された哀れな「愚人」、そんな人も愛するのがチュチェ思想

https://news.yahoo.co.jp/articles/0f0b3b425364bc2cb0b7a7582cb7055af0a668e5?page=3
DaiGo炎上問題、「問題提起」だろうと「個人の感想」だろうと許されない意見はある
8/15(日) 18:02配信
ニューズウィーク日本版

<すべての人に生存権があることは正当化も否定もできない大前提の価値の1つだ。「無敵」のインフルエンサーが世論に迎合してそれに異を唱えれば、待っているのはディストピアだ>
8月7日、タレントで「メンタリスト」のDaiGoが、生活保護受給者や、いわゆる「ホームレス」の生の価値を軽んじる趣旨の動画をYouTubeに投稿し、大問題になった。若年層に影響力があるとされるチャンネル登録者数200万以上の配信者が優生思想的・差別的なメッセージを発することは、ヘイトクライムなどを誘発する危険性も考えられ、看過できない。【藤崎剛人(ブロガー、ドイツ思想史)】

(中略)
<人権はフラットなコンテンツではない>
「個人の感想」ということばで連想する人物は、「5ちゃんねる」の原型であるネット掲示板「2ちゃんねる」創設者ひろゆきだろう。ひろゆきも現在、配信者として多くのリスナーを集めており、若年層に人気があるといわれている。ひろゆきと切り離すことができないキーワードに「論破」があるが、その「ディベート」力を評価され、メディア出演も多い。

ひろゆきやDaiGoに共通する問題がある。それは人権問題を含むあらゆるトピックを「ディベート」の俎上にあげて、全てフラットにコンテンツ化してしまうということだ。人権はコンテンツではない。ある人間に生存権があるということが「論破」されたら、その人間の生存権を奪ってよくなるわけではない。

何にでも意見できるという誤った美徳
この点で、DaiGoに対して人権の社会的効用(たとえば弱者を救済することによって治安維持に繋がる、「本当に働けなくなった人」のセーフティネットは必要、など)を理由にDaiGoに反論している人も、筋はよろしくない。それは結局、生存権を主題にした「ディベート」に参加してしまっているからだ。ちなみにひろゆきもDaiGo発言を批判したが、その根拠は普遍的な人権ではなく社会的効用なのであった。しかし生存権は社会的効用とは無関係に存在するのであり、たとえ「問題提起」だったとしても否定されてはならない。これが人権というものについて、妥協できない大前提なのだ。

<譲れない価値を前提にしない議論は危険>
現代日本社会は、ある譲れない価値に基づいて何かを評価することを極端に嫌う。若い世代は特にそうだといわれている。全ての価値が相対化されているのだ。たとえ社会的弱者の生存権を否定するような発言でも、「ひとつの意見」として受け入れなければならないという間違った美徳がある。議論の機会はあらゆる意見に開かれていなければならないというのだ。しかし前述したように、世の中には議論してはいけない意見もある。差別思想を持つ者の「問題提起」に乗ってはいけない。生活保護や「ホームレス」問題に関心があるなら、経験豊富な支援団体にアクセスすればよい。そうすれば、より「建設的」な議論が可能となるだろう。

一方、特定の価値を前提にした議論を嫌う人たちにとっては、DaiGo的な語り口は魅力的なものに映る。価値なき世界において力を振るうのは経済力や発言力といった直接的なパワーだ。今回の炎上事件でDaiGoが経済力でマウントを取ろうとしたこと(自分は高額納税者なのだから批判者よりも生活困窮者支援を行なっているという趣旨の発言)が典型的だろう。これはまた、勝ち負けこそが全てのディベート的手法でもある。

(中略)
<DaiGo「炎上」事件で見えた光明>

8月13日夜、DaiGoは生配信を行い、今回の発言について謝罪し、自分の無知が原因だったとして、今後支援団体などに教えを請う意思を示した。しかし困窮者も頑張っているから差別してはいけないという理解は、差別されても仕方がない人々もいるという余地を残す。本来は、「ホームレス」も生活保護受給者も、DaiGoのために何も証明する必要はない。そもそも根本的に反省すべきは、無知ではなく、前述したような価値の相対化と能力主義によって差別思想が肯定されてしまうことなのだ。14日、生活困窮者支援団体4団体は、DaiGoの「反省と謝罪は単なるポーズの域を出ていない」という声明を出した。その夜DaiGoは自身の謝罪を撤回し、改めて謝罪しなおした。

とはいえ、まったく評価できない「謝罪」だったとしても、当初は強気の態度だったDaiGoを「謝罪」に追い込むほど強い批判が今回SNS等で巻き起こったのは一安心だった。差別思想・優生思想は「ひとつの意見」としても尊重されないということを示すことができたのは、よいメッセージとなる。この事件を何かの「きっかけ」とするならば、価値を相対化し、何でも「ディベート」の俎上にあげる最近の風潮を見直すきっかけにするべきだろう。

最終更新:8/15(日) 18:02
ニューズウィーク日本版
■DaiGoのの暴言・妄言は、知識経済化による大衆意識ブルジョア化の必然的帰結
そもそも根本的に反省すべきは、無知ではなく、前述したような価値の相対化と能力主義によって差別思想が肯定されてしまうことなのだ」――藤崎剛人氏の指摘は正しいものです。DaiGoのホームレス談義・生活保護談義は暴論・妄言と言わざるを得ないものです。しかし、珍しいものでもありません。昨今では巷に溢れかえる「典型的」な言説のひとつであります。

このことは、キム・ジョンイル同志が『反帝闘争の旗を高くかかげ、社会主義・共産主義の道を力強く前進しよう』(チュチェ76・1987年9月25日づけ)で指摘されたように、産業の知識経済化が個人の努力を過剰扇動し、大衆意識がブルジョア化した現代資本主義の必然的帰結と考えるべきものであります。当該労作では次のように指摘されています。
 第2次世界大戦後、資本主義諸国では社会的・階級的構成に大きな変化が起こりました。発達した資本主義諸国では技術が発達し、生産の機械化、オートメ化が推進されるにしたがって、肉体労働に従事する勤労者の数が著しく減り、技術労働と精神労働に従事する勤労者の隊伍が急激にふえ、勤労者の隊伍において彼らは数的に圧倒的比重を占めるようになりました。

 社会の発展に伴って勤労者の技術、文化水準が高まり、知識人の隊伍がふえるのは合法則的現象だといえます。

 もちろん、知識人の隊伍が急速に拡大すれば、勤労者のあいだで小ブルジョア思想の影響が増大するのは確かです。特に、革命的教育を系統的にうけることのできない資本主義制度のもとで、多数の知識人がブルジョア思想と小ブルジョア思想に毒されるのは避けがたいことです。それゆえ、彼らを革命の側に獲得することは困難な問題となります。
サンデルにより能力主義の弊害に注目が集まるようになりましたが、チュチェ思想は久しい前から、熟達がモノをいう知識経済化は、人々を「私の成功は私の努力の賜物」と考えるよう誘導するので、大衆意識が利己主義化して社会が空中分解すると指摘してきました。現状は、まさにそのとおりになりつつあります。

「明日は我が身」なるDaiGo批判がありますが、では今更「我が身の問題」になり得ない生まれつきの障害者は切り捨ててよいのでしょうか? そんなはずはありません。「私は結婚も子育ても予定していない」という話でもありません。その点、「DaiGoに対して人権の社会的効用(たとえば弱者を救済することによって治安維持に繋がる、「本当に働けなくなった人」のセーフティネットは必要、など)を理由にDaiGoに反論している人も、筋はよろしくない。それは結局、生存権を主題にした「ディベート」に参加してしまっているからだ」及び「困窮者も頑張っているから差別してはいけないという理解は、差別されても仕方がない人々もいるという余地を残す」という指摘も正しいものであります。

■過剰な「価値観相対化」を見直すべきとき
現代日本社会は、ある譲れない価値に基づいて何かを評価することを極端に嫌う。若い世代は特にそうだといわれている。全ての価値が相対化されているのだ。たとえ社会的弱者の生存権を否定するような発言でも、「ひとつの意見」として受け入れなければならないという間違った美徳がある。議論の機会はあらゆる意見に開かれていなければならないというのだ。しかし前述したように、世の中には議論してはいけない意見もある。差別思想を持つ者の「問題提起」に乗ってはいけない」に始まる過剰な相対化批判も素晴らしい指摘であります。現代日本の思想状況は、階級性も民族性も人間性もない無秩序無原則、文化大革命とも違うソフィストもビックリのアノミーと言うべき状況にあります

もちろん、キレイゴトの同調圧力もそれはそれで怖いものですが、いまはそういう問題ではありません。価値観の過剰な相対化に対して正面切って批判を展開する藤崎氏の主張に賛同します。

我々の市民社会の根本を揺るがすような「価値観」を信奉する人は、どこか無人島に移住していただくのが宜しいかと思います。我々は、我々の社会の根本を掘り崩すような言説を「自由」や「多様性」の美名の下に許容することはありません。「自由」や「多様性」は無制限ものではないからです。それを「言論弾圧」だの「独裁」だのというのであれば、「言論の自由」が、そもそも如何なる性質のものであるのかを再度、よく学習されることをお勧めしたいと思います。自由とアノミーはまったく異なるものです(思うに、現代日本は「自由」と「アノミー」の区別がついていません)。

■社会政治的生命を持たず、過剰な価値観相対化に毒された哀れなるDaiGoらの精神状況
現代日本を生きる人々の皆が皆、DaiGoの言説に賛同しているわけではない点、「産業の知識経済化」に全責任を被せる訳にはいきません。「環境が原因だから個人には責任はない」というためには、環境と人間行動との間に1対1的、関数的、必然的な関係の存在が必要ですが、本件についてはそのような関係性は確認されていないからです。

産業構造が変化し、人々の思想の健全性に多大な影響を及ぼしているとはいえ、人間性を正しく守り抜いている人も少なくない点、DaiGoの「罪状」には、ある程度の「自己責任」性があると言わざるを得ないのです。「現代資本主義」という不利な環境があるとはいえ、他の人はちゃんと人間性を保っています。彼がここまで人間として堕ちてしまったことについては、環境の問題もありつつ、しかし、彼の人格・人間性固有の問題もかなり大きな比重を占める形で存在していると言わざるを得ません

他方、責任問題云々は別として、ブルジョア「個人」主義に染まり切ったDaiGoらの精神状況は、気の毒にも思います。人間の社会的・類的本質を麻痺させられ人間性を損ねている、社会政治的生命を持たず愛と信頼・義理を知らずただ肉体的生命を維持する為の生存闘争に明け暮れているからです。

彼が己の人格・人間性を正し、社会政治的生命を獲得することを願ってやみません。その点、私はいわゆる「キャンセル・カルチャー」に与するつもりはありません。仮に人の道を踏み外すようなことがあっても、そのような人もまた愛し、社会政治的生命を獲得させ人間性を回復させたいと思っています。いやまあ手遅れなケースもあるかも知れないけど、DaiGoについてはまだ見込みがあるんじゃなかろうか。

ちなみにコレ「上から目線」ではなく「北から目線」ね。「北から目線」で申せば、現代日本の思想状況は、社会政治的生命を持たない哀れな「個人」、過剰な価値観相対化に毒された哀れな「愚人」による、まさにアノミーというべき価値観崩壊状態、社会が空中分解している状態というべきものです。しかしそんな社会でも私は愛しています。
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2021年08月15日

「改心」で解決するのならば、世界はとっくに共産主義――啓蒙主義的アプローチの誤り(再論)

https://news.yahoo.co.jp/articles/ebdff5dde641f643a552d180965f2a9c4796f219
「洗剤をどばどばと…」バーベキュー後に川で食器を洗う若者たち 無知な行為の代償は?専門家「想像力育んで」
8/12(木) 6:55配信
まいどなニュース

(中略)
私たち一人一人が心がけ、対策していくことが大切
向井さんは岐阜大学・大学院にて、生物多様性と保全生物(生物の絶滅を防ぎ多様性を守る) の研究をされています。

工業化・近代化といった人間の活動によって、環境破壊や生態系の乱れが起こり、生物の多様性が失われていく危険性があることは皆さんご存知でしょう。

ここで向井さんは、このような問題について「公共事業や企業による大規模な行為ではなく,個人の行為によってももたらされるもの」と指摘します。

(中略)
大切なのは私たち一人一人が自然の大切さを思い出し、心がけ、対策していくことなのです。そのうえで必要なことについて、向井さんは「知識と想像力」と語ります。

「人間は知らないものに対してとても冷淡で残酷ですが、川にはさまざまなきれいな魚や水生昆虫がいることを知っていれば、そうした生き物を殺すようなことはしなくなるでしょう。『生態系』や『環境問題』について大まかに学ぶのも大切ですが、実際に自然の中で生きている生き物の名前をちょっと知っているだけでも、自然への見え方は変わってきます。

(想像力については)動物園や水族館で見るような生き物が、身の回りの山や川・海にもいるんだと考えることが大切です。そうした生き物がたくさん集まって生態系ができ、きれいな水や空気・食料が得られることを少しでも想像できれば、自分たちが何をすれば良いか考えるきっかけになるのではないでしょうか」(向井さん)

私たち人間も自然の一員であることを皆が理解することが、環境破壊を防ぐ第一歩であることは間違いありません。

(まいどなニュース/Lmaga.jpニュース特約・竹中 友一(RinToris))

まいどなニュース
■「改心」で解決するのならば、世界はとっくに共産主義
中学校の環境作文コンクールのような道徳論・啓蒙主義。「環境破壊を防ぐ第一歩であることは間違いありません」などと予防線を張っているものの、では第二歩・第三歩は如何なる手を用意しているのでしょうか? ひとり一人の意識・想像力で話を終わらせとるとは、本当に驚くべきお手軽さと言わざるを得ないものです。

ひとり一人の啓蒙と覚醒がまったく無意味だとは言いませんが、非協力分子の「改心」を前提とした政治は非常に非効率的かつ不安定なものです。「改心」させられることができるのならば、そしてそれで社会問題が解決するのならば、世界はとっくに貧困も環境破壊もない共産主義社会になっていますって!

川で洗剤を使って食器を洗うような手合いは、自分たち半径数メートルさえ快適であれば後のことは知ったことではないと考える極端なブルジョア的利己分子であると言うべきでしょう。こうした手合いが「想像力」云々で「改心」するはずがありません。少なくとも、再教育のためには非常に長い時間がかかるものと推察できます。環境問題は待ったなしの重大課題なので、ゆっくりと啓蒙している時間的余裕はありません

ここにおいては、極端なブルジョア的利己分子が自己利益しか考えていないことを逆手に取り、川で洗剤を使って食器を洗うという行為が連中にとっての「不利益」にすることが最も手っ取り早く効果的な方策になります。たとえば環境経済学は、ひとり一人にとっての最適な行為が社会的には最適とは言えない結果をもたらすという事実を前提に、環境配慮型行動が個人にとっても社会にとっても最適な選択になるようにインセンティブ付与による誘導のあり方を研究しています(環境経済学は、集団主義の経済的な実現方法を探っている学問と言えるかも)。そしてその見地は、空き缶回収のデポジット制度や不法投棄に対する厳しい取り締まりなど現実の政策に応用されています。

私たち人間も自然の一員であることを皆が理解することが、環境破壊を防ぐ第一歩」などと御託を並べている段階では既にありません。新型コロナウィルス対策にも言えることですが、非協力分子を如何にして直ちに全人民的な環境保護政策に巻き込むのかという科学的方法の提示が必要とされています

■ひとり一人の覚醒・行動の変容が、社会的に有意義な結果につながるとは限らない
また、ひとり一人が覚醒して行動を改めたとしても、それが社会的に有意義な結果に繋がるとは限りません

たとえば、啓蒙されたひとり一人が行動を変化させて非常に環境配慮的な生活を送るとしましょう。一見して万事解決するようにみえるでしょうが、根本的に環境に負荷を掛けざるを得ない産業で生計を立てていた人たちは、消費者行動の変容によって大打撃を受け、猛烈なコスト・カット圧力に晒されるでしょう。彼らも行動を変化させます。つまり、覚醒した個人にとっての所与の条件が変わります。その結果、たとえば排気や排水の清浄といった環境対策に十分な資金を回すことができず汚染を垂れ流しせざるを得なくなるかもしれません。

社会とは相互作用的なシステムなので人々はゲーム的状況におかれています。部分的・一面的な行動の変革は必ずしも総合的・全体的に有意義な結果に繋がるわけではありません。そうした事実を踏まえたうえでゲーム理論的に分析する必要がありますが、この手の中学校の環境作文コンクールのような道徳論・啓蒙主義には、そのような見識は乏しいのが常です

■覚醒した個人がバラバラに行動していては効果的な社会変革には繋がらない
さらに、ひとり一人が覚醒して行動を改めたとしても、彼らがバラバラに行動していては効果的な社会変革には繋がりません。ひとり一人の覚醒が第一段階だとすれば、第二段階として彼らの組織化が重要な課題として浮上してきます。そして、社会の変革を目指すならば、組織化がどうしても必要になります。

キム・ジョンイル総書記は次のように教えられています。
 人民大衆は歴史の主体でありますが、常に自己の運命を自主的に、創造的に切り開いていく歴史の自主的な主体となるのではありません。搾取社会において、人民大衆は少数の支配階級に搾取され抑圧され、歴史の主人としての地位をしめることができませんでした。もちろん、搾取社会においても歴史を発展させたのは人民大衆です。しかし、かれらは自己の意思によってではなく、多くの場合、支配階級の意思に従って歴史を創造する重い負担を担わなければなりませんでした。このような境遇にある人民大衆は、まだ歴史の自主的な主体になったとはいえません。

 歴史の自主的な主体は、先進的な労働者階級が出現し、かれらの自主的な革命思想によって勤労人民大衆が意識化され、組織化されてはじめて、歴史の舞台に広く登場することができました。これは、人類の歴史発展において画期的な転換となります。このときから、勤労人民大衆は自主的な革命思想をもって、自己の運命を自力で切り開いていくようになりました。

 人民大衆が革命の自主的な主体になるためには、党と領袖の指導のもとに一つの思想、一つの組織に結束されなければなりません。組織的、思想的に統一団結した人民大衆であってこそ、自己の運命を自主的に、創造的に切り開いていくことができます。革命の主体は領袖、党、大衆の統一体です。
『チュチェ思想教育において提起される幾つかの問題について』(チュチェ75・1986年7月15日)

人々の多様な考えや要求を共通・共同の考えや要求に集大成し、その実現のために必要な人々の多様な能力を共通・共同の能力に組織化する必要があるのです。

ある種の人々は「予定調和」的な世界観から意識的組織化を軽視するものですが、歴史が示しているとおり「予定調和」は幻想にすぎません。あのハイエクでさえレッセフェールには批判的で、いわゆる「自生的秩序」のためには「庭師」が必要だとしています。

なお、私は以前から立場を鮮明にしているとおりチュチェ思想の立場に立っていますが、社会の組織的指導がどのくらいの強さで必要とされているかについては、昨年5月29日づけ「社会政治的生命体論の魅力と論理の飛躍について」で正直に述べたとおり、共和国本国の公式見解及び実態には違和感を以っています。この点については引き続き探究を深めなければならないと考えています(ちなみに、当該論争の相手方だった@blog_juche_ideaは引退してしまったのでしょうか? 彼については別稿で振り返りたいと思っています)が、原則論としては、社会の変革を目指すならば、組織化がどうしても必要だと考えています。

■総括――啓蒙主義的アプローチの誤り(再論)
以前からの繰り返しになりますが、「人間が意識を変え行動を変えれば社会システムが変わる」という想定は、物事を個人レベルに還元し過ぎています。人間が意識を変え行動を変えることで達成できるのは、あくまでも個人レベルの課題に留まります。脳味噌一個・腕二本・脚二本で出来得る仕事の範囲は限定的なのです。

社会システムはもっと巨大で、社会的の課題は個人レベルの課題とは質的にまったく異なります。当然、解決方法も異なります。「啓蒙され覚醒した個人」が個人レベルで最適な行動をとったからといって、それで社会全体が最適化されるわけではないのです。社会レベルの運動法則に合致した方法論に則り組織的に対応する必要があります。社会のうちにおいて個々人が自主性を輝かせるためにこそ組織的指導体系が必要だというのは、この点に根拠があります

「小さなことから始めることが社会全体を変える」という言説は、ミクロレベルでの思考・方法論をマクロレベルに不適切に適用しています。個人が「意識」を変え行動を変えることによって具体的にどのような経路をたどって社会システムが変わってゆくのかが曖昧で描き切れていないので、啓蒙主義は具体性のない空想・単なる観念論になってしまうのです。

それにしてもなぜ環境部保護分野では、環境経済学的でさえないこの手の道徳論・啓蒙主義的言説が溢れかえっているのでしょうか? さすがに、全部が全部、資本主義と環境保護の両立について「やっている感」を出すためのキャンペーンだとは思いたくありませんが・・・このあたり、おいおい深めていければと思います。
ラベル:チュチェ思想
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2021年08月14日

主観観念論者としてのリベラリストばりの「私は・・・」過剰、要するに「うらやま死刑」に過ぎないバッハ氏銀ブラ批判

https://news.yahoo.co.jp/articles/abca2c55ea48715f2502feb9b33b719cf633582a
バッハ氏の銀座散策 政府は問題視せず「入国後15日経過」
8/10(火) 14:54配信
毎日新聞

 東京オリンピック閉幕翌日の9日に、国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長が東京・銀座の街を散策したことについて、加藤勝信官房長官は10日の記者会見で、政府として問題視しない考えを示した。

 加藤氏は、新型コロナウイルス対策について「大会関係者は入国後14日間は行動範囲が限定され、公共交通機関の不使用などがプレーブック(規則集)で定められている。一方、入国後15日を経過した者は適用を受けない」と説明。7月8日に入国したバッハ氏は行動制限の対象に該当しないとした。「不要不急の外出に当たらないのか」との質問に対しては「各人に、状況に応じて適切に判断していただく」と述べ、当事者に任せているとした。

(以下略)
■防疫的な観点からは目くじらを立てるようなものではない
3日間のホテル隔離、4日目から11日間の制限付き活動を経てからの今回の銀座散策。国の基準には確かに当てはまっていません。

考えてもみれば、オリンピック関係者としてある意味「特権」的にPCR検査ほ受けてきたバッハ氏が来日から14日間を無事に過ごした時点で、海外からウィルスを持ちこんではいないと推察されます。また、来日前に既にワクチン接種しているバッハ氏が、日本国内でウィルスを吸い込んで新たに感染し、それを銀座でバラ撒いたとも考えにくいものです。

批判言説の骨子はだいたい想像できます。端的には「ちくしょう、あいつだけ!」あるいは「気のゆるみに繋がるじゃないか!」といったところなのでしょう。ワクチン未接種者が依然として日本には多い状態です。また、ワクチンを接種したからといって絶対に感染しないわけでもないので、ワクチン接種が少しずつ拡大しつつあるとはいっても、依然として感染の不安が残っている人もいるでしょう。

しかし、ワクチンを接種できた人から、完全ではないとしても『ないよりマシ』精神で順次、生活を元に戻してゆく必要があります。新型コロナウィルスが消えてなくなることなどあり得ないからです。

もちろん、医療体制拡充の度合いとバランスを見ながらの緩和になることは当然のことです。「接種したらもう大丈夫、すべて元通り」にはなり得ません。しかし、医療体制拡充の肝は医療従事者の補充・人材不足の解消にあります。これは第二次世界大戦で日帝軍が戦闘機・爆撃機のパイロット不足に苦労したように、すぐに補充して解決できるものではありません。「ワクチンを全員打ってから、ウィルスを抑え込んでからの緩和」にはなりえません。日本人好みのウォーターフォール・モデル的なフェーズ分けは不可能なのです。

上述のとおり、日本在住者の場合とバッハ氏の場合は、事情・環境が質的に異なっています。その点、バッハ氏の銀座散策は、防疫的な観点からは目くじらを立てるようなものではないように思われます。こうした客観的条件・置かれた環境の違いを無視して「同じ人間」として見るから、むちゃくちゃで非科学的な話になるのです。バッハ氏の場合はリスクがかなり低いと考えられるので「あいつだけ」なのです。この違いは重要です。

■要するに「私は我慢しているのに、一人だけ抜け駆けだなんて、うらやま死刑!」に過ぎないバッハ氏批判
こうした批判言説は、「ある行動を控えることによって、具体的にどの程度の感染リスク縮小に繋がるのか」という科学的分析ではなく「ある行動を控えることによって、どの程度の『我慢』を示せるのか」という「欲しがりません勝つまでは」的な我慢大会の現状を象徴する典型的言説と言わざるを得ません。科学ではなく印象論が軸になってしまっているのです。

そしてまた、こうした批判言説は、一見すると何か公共心に基づくモノのように見えますが、その本心・魂胆は「私は我慢しているのに、一人だけ抜け駆けだなんて、うらやま死刑!」であり、要するに「妬み」であり、つまるところは、自分の利益しか頭にないということを示していると言えるでしょう。

人間行動がもたらす感染症拡大リスクは客観的条件・置かれた環境によって全く異なってきますが、「やりたいことを我慢している自分」ベースで考えてしまうようになると「リスクを測る」のではなく「我慢度合いを測る」ように意識が向いてしまうので、科学的な見地では感染症拡大リスクが低い行動でも「けしからん!」になってしまうものと考えられるのです。

主観観念論者としてのリベラリストばりの「私は・・・」過剰と言うべきものです。


「ぼったくり男爵」の銀ブラを叩きたい・叩きやすいのは分かりますが、このことはより一般的には、「国境防疫をパスした、ワクチン接種済みの来日者」を叩いていることに他なりません。世界的にワクチン接種が進み、人流が回復しつつある中では「時代錯誤」的です。

別記事ですが、関連して取り上げたいと思います。
https://news.yahoo.co.jp/articles/a79862e582af47484d88b6edf9dae3cd302b83d9
小池都知事「帰省はあきらめて」に都民ブチ切れ! 「五輪あきらめてって意見、聞いてくれた?」
8/13(金) 22:50配信
東スポWeb

 東京都の小池百合子知事の発言をめぐり、国民および都民が大激怒している。

(中略)
 これには都民、国民が怒り心頭だ。小池知事の発言がニュースで流されたと同時に、東京五輪を引き合いに出す人が続出。ネット上では「オリンピックあきらめてって意見、聞いてくれたっけ?」「生活に不要な五輪を開催しておいて、ふざけるな!」「その言葉、五輪に対して1年前から言っていた」という声であふれた。特に小池知事の「助かる命も助からなくなる」という発言には「助かる命をそっちのけでオリンピックやってませんでした?」「命を助けるためにパラリンピックを中止にしましょう」と厳しい指摘が入った。

 かねて国民・都民に我慢を強いて、五輪を優先してきた政府と東京都。日本の金メダルラッシュで反五輪ムードは収まりつつあったが、今回の発言で一気に再燃してしまった。
組織委員会がまさに組織指導的な意味でアスリートたちを統制し得たのがオリンピック、母国でワクチン接種をうけた上で来日し、オリンピック村である意味「特権」的にPCR検査を受けつつ一種の「村内隔離」を受けながら競技だけを実施し、終わればさっさと帰国したのがオリンピックでした。

これに対して、国民に対して組織指導できない日本、ワクチン接種が遅れてしまいPCR検査体制も思うように拡充できず(そもそもする必要があるのかは別論)、陽性者・感染者の隔離も十分に整えられていない日本の客観的条件・置かれた環境は根本的に違います。

※以前から述べているとおり私はチュチェ思想派なので、「組織指導」という言葉には当然、主体的な意味が込められています。チュチェ思想は組織を重視する思想ですが、その文脈における「組織指導」には、まさに組織的な指揮命令関係といったニュアンスがあります。違反者には制裁が下されるものです。日本には、政府と国民の間にそのような関係性は、良くも悪くもありません。

これを同一視する言説が噴出していることは、やはり上述のとおり、「自分の我慢ベース」で物事を考えている、つまり、公共心に基づくモノなどではなく、自分の損得感情に基づくモノにずきないというべきでしょう

■統計データ等に現れてくる「声なき声」を重視する必要
前掲の毎日新聞記事コメ欄に戻ります。脊髄反射的反応というべきシロモノです。
菅総理と西村大臣は「お盆の帰省は避けて」
(人流抑制したいなら、オリンピックはどうだったんですか……)
「お盆の帰省」とは、「都市部在住の若年層の地方への移動」に他なりませんが、若い世代へのワクチン接種が遅れてしまっている状況でのお盆の帰省は、ウィルスを東京などから地方にバラ撒きに行くようなものです。帰省して墓参りして、そのあとは各自が部屋に引きこもって食事も別々にするのならばリスクは低いでしょうが、そんなことはしないでしょう。

オリンピックのほとんどの競技を無観客とすることで地方→東京への人流を抑えたように、お盆の帰省自粛で東京→地方への人流を抑えることは、筋が通っているし、理にもかなっています。

最近よく見るこの手の批判は、物事を少しも掘り下げずに印象論的な水準にとどまっているものが少なくありません。

丸川大臣は「不要不急の外出であるかどうかは、ご本人が判断すべきもの」
(あ、自己判断で良いんですね……)
もともと自粛はそういうものなのですが・・・携帯電話の位置情報を基にしたビッグデータによると、すでに少なくない人々は「自己判断」で出歩くようになってきています。

携帯電話の位置情報を基にしたビッグデータの動向は重要な「庶民の声なき声」を示しています。ヤフコメを見ていると依然として「不届き物が遊び歩いている」ように見え、そんな連中を取り締まることができない政府への批判が高まり「政権交代前夜」のような空気が満ち満ちていますが、決してそんなことはなく、確実に「もうどうでもいい」といった厭戦感情的なものが拡大しています。

すでに人々は「自己判断」で外出の要否を判断しています。すでに情勢は、「自粛警察」が跳梁跋扈した昨春とは大きく異なっています実際に聞こえてくる「批判の声」も大切ですが、統計データ等に現れてくる「声なき声」を重視する必要があります
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2021年08月08日

社会政治的生命を実感させる契機となったオリンピック東京大会

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210807/k10013186471000.html
オリンピック「幸せは結果だけではないんだ」
2021年8月7日 14時01分

「小学生の頃から夢みてきたオリンピック、こんな形で終わってしまうなんて」

結果を残せなかった選手がSNSに投稿すると、続々と反響が寄せられました。SNSで選手とファンがつながる新しい形のオリンピック。

「幸せは結果だけではないんだ」

たくさんの励ましに選手はそう返信していました。

(中略)
こんな形で終わるなんて
そして、思うような結果が残せなかった選手の投稿にも、多くに人たちから反響がありました。

トランポリン女子の森ひかる選手。

世界選手権の女子個人で日本選手として初の金メダルを取って代表の座を獲得し、オリンピックに臨みました。

本番前にSNSには、「皆さん、強くなった森ひかるを、そして私の最高の笑顔をみてください」と投稿していました。

しかし、結果は予選の2回目の演技で失敗。

決勝に進むことさえできませんでした。

会見では、肩をふるわせて涙を流した森選手。

SNSに心境をつづりました。

「小学生の頃から夢みてきたオリンピック、まさかこんな形で終わってしまうなんておもってもいませんでした。しっかりした演技をしたかった、笑顔で終わりたかった」

「こんなに何年間も私だけで無くみんなががんばってくれたのに、こうなってしまうことがあるんですね。悲しいし残酷だけどこれがオリンピックの難しさ、トランポリンの難しさ」

するとこの投稿には続々とコメントが寄せられ、その数は200件を超えました。

幸せは結果だけではないんだ
「たくさんたくさん力もらってます。みんなあなたの味方、応援してます」

「私たちファンは結果ではなくて目標に向かって頑張っている姿を応援しています。少しでも背中を押せたらいいな」

「私は看護師で、どちらかというと五輪にはやや否定的な気持ちでした。でも、頑張るひかるちゃんの姿や思いに勇気を与えられた」「一緒にみた患者さんもすごいねー頑張ってるねーって感動してました」

こうした声に森選手は、新たな気持ちを投稿して応えていました。

「皆さん温かいメッセージ本当にありがとうございます。私からパワーをもらったなどのコメントに助けられました。もちろん結果も大事だけど、幸せを感じられるのは結果だけではないんだな、と」

「やってきたことは間違ってなかったんだと思えました。たくさんの方にサポートしてもらいながら頑張れたこと、ずっと忘れません」

SNSを通じて選手とつながることができる時代。

一部では選手個人へのひぼう中傷も課題となりました。

選手と競技を見た人たち、その双方が互いに励まし合える、そうした形をこれから作っていかなければなりません。
以前から述べてきたことですが、スポーツには、単に肉体を鍛えるだけではなく思想的な効用もあるものです。その思想的効用が正しく実現されていることを上掲記事は示しています。今回のオリンピック東京大会では、選手と観客の間での一体感・連帯感が育まれたことによって、人間が持っている社会政治的な生命を実感させる契機になりました

いろいろあった今回のオリンピック東京大会でしたが、単にメダルの色と数の問題だけでなく、こういう報道が出てきたということは、非常に良い結果が残せたと思います。

ところで、今回「リベラリスト」たちは、オリンピック反対運動や政府の新型コロナウィルス対策の追及で大忙しで、オリンピック日本代表選手たちの活躍に対する世論の大盛り上がりには基本的に反応を示していませんが、過去のオリンピック大会ではしばしば、「日本人の活躍ではなく選手個人の活躍だ」なとど強弁していました。基本的に彼らの社会観は、「個人」を社会から切り離した存在として捉えているからでしょう。

このことについて私は、チュチェ108(2019)年7月15日づけ「主観主義的社会歴史観と「個人」主義的人生観に打ち克ち、「我々」意識に基づく社会の集団的・共同体的結束を再興するために」で次のように批判したものです。
「個人」を重視する戦後民主主義的リベラリズムは、むしろ「我々」意識の衰退を歓迎さえしていたのではないのか、ということを問わねばならないでしょう。

人間を社会集団共同体の一員として見なさず、あくまでも「個人」として見なそうとする言説は、たとえば卑近なところでは、スポーツにおけるナショナルチームに対するリベラル派の見解・言説によく現れています。昨年のピョンチャン・オリンピックにおける日本代表選手の活躍には、多くの自然発生的な賞賛が寄せられましたが、江川紹子氏を筆頭とするリベラル派は、「日本人の活躍ではなく選手個人の活躍だ」なとど強弁し、物議を醸しました。

たしかにオリンピックで世界レベルの優秀な成績をおさめたのは、「選手個人」です。しかし、その選手個人の育成には国家的なサポートがあります。もちろん、諸外国と比べて十分な援助を受けられておらず手弁当主体の不遇な競技種目があることは私も承知しています。しかし、その場合でも「みんなの応援」という大きなサポートがあります。「みんなの応援」というものは、人間にとって大きな力になるものです。「我々」意識をベースとする「我が共同体の仲間たちの応援を背に、共に闘っているんだ!」という認識は、「個人」として孤立している哀れな人間には理解できないのかもしれませんが、類的存在としての人間においては、その意欲に火をつけ、持っている能力を十二分に発揮しますキム・ジョンイル総書記は「車はエンジンをかけなければ走らないように、人間も思想にエンジンがかからなければ目的を遂げることはできない。」と仰いましたが、そのエンジンに点火させるのが「みんなの応援」なのです。

先の大戦の反省から官製ナショナリズムに対して警戒するのは当然のことでしょう。オリンピック等のスポーツ大会が政治利用されてきた歴史的事実を見逃すことはできません。しかし、スポーツ選手・アスリートに対する自然発生的な「我々」意識に基づく応援にまで「選手個人の活躍だ」と強弁することは、結果的に「個人」を社会から切り離して孤立した存在に追いやるものです。
今回の東京大会がここまで盛り上がっているのは「自国開催」だという点も大いにあると思われます。国レベルでの一体感・連帯感の高まり、人間が持っている社会政治的な生命を実感させる契機になっている現状を「リベラリスト」たちは、どのように捉えているのでしょうか・・・

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2021年08月06日

あまりにも「先手」を取り過ぎたことが今後に及ぼす影響は測り知れない

https://news.yahoo.co.jp/articles/4c9684e8820aec8525dd26ddecb1aa1abe31e5d0
尾身氏「事前に相談なかった」 自宅療養原則への政府方針転換で
8/4(水) 11:25配信
毎日新聞

(中略)
 この点について、田村憲久厚労相は答弁で「病床のオペレーションの話なので政府で決めた」と理由を述べた。田村氏は「(今年春に)大阪では感染が拡大して中等症で重い方々が病床に入れなくなった。(東京は)今はその感染拡大局面に入りつつある」と指摘。その上で、「このままでいくと中等症で入らないといけない方が病床に入れずに在宅で対応できないことが起こる。中等症で呼吸管理している重い方々は入院するが、中等症でも軽い方は(病床を空けることで)重い方が来た時に入れるような状況を作る。国民の命を守るために必要な対応だ」と理解を求めた。
(以下略)
■「入院トリアージ」が必要になりつつある――いままでの「緊急事態」とは訳が違う
医師会を締め上げるなどして遊休状態にある医療資源を掘り起こせばまだ稼働を高められそうな現時点、少なくとも、そのように考えている国民が一定数存在している現時点(近頃、医師会が目立たないように声を潜めていることに注目!)で、その可能性の探究に取り組まず(取り組んでいるのかも知れないが、見えてこない)に「医療崩壊を防ぐための原則自宅療養」への切り替えは、私は時期尚早に思われますが、厚生労働省の担当者は、遠からず「入院トリアージ」が必要になると見ているのでしょう

もし、いよいよ本当にそうするしか道がなくなってしまったらば、これは政治判断になるでしょう。「救急車お断り」と同じで、医師でもある専門家たちは「結果的に救えないことは仕方ないが、初めから見捨てるような原則にはできない」でしょう。しかし、そうこうしているうちに事態が急激に悪化し、軽症も中等症も重症もごちゃ混ぜに一気に押し寄せてくるようになれば、これもまた「救えるはずの命が救えなくなる」ことに繋がります。

トリアージに対する反感・拒否感が根強い日本。もちろん、「選別」しなくて済むに越したことはありません。「すべての命を救う」という医療の大原則には合致しないのがトリアージの原則であります。しかし、必要なときには頭を切り替えなければならないものです。通常医療から災害医療への切り替えの瀬戸際、医療の原則の天地がひっくり返る瀬戸際に今あるのです。いままでの「緊急事態」とは訳が違うのです。

オーサーコメントで佐藤みのり弁護士が「「中等症の軽い方」を入院させずに守ることができるのか、専門家の意見を聞かないと分からないのではないでしょうか」とか「そもそも「中等症の軽い方」とはどこまでなのか、線引きも現場の医者や専門家でなければ分からない」などと主張しています。

前者については、もはや事態がトリアージの段階に入りつつあるとみるのが妥当だと思われます。トリアージにおいて中等症扱いの黄色タグは、重症扱いの赤色タグに症状が悪化する可能性があるものですが、後回しにされる原則です。「政治は、国民みんなの利益をどう調整し、みんなが幸せに暮らせるようにするか、という問題」ともいう佐藤弁護士ですが、トリアージは「非常事態の政治」というべきものです。

後者については、中等症Tに線引きも何もありません。いまだって臨床医が判断しているものです。同じ患者・症状でも医師によって診断が微妙に異なることはあり得ますが、更に細かい「統一基準」を求めるのだとすれば、それは果たして現実的なのかという疑問が浮かびます。何でもかんでも「事前の基準」を求め、それに杓子定規的に当てはめようとする日本人の悪い癖を感じさせるところです。

それどころか、これはそもそも大枠・総路線の提示として捉えるべきものであり、「線引き」のような具体的なことは今後詰めてゆくべきことです。初めから細部まで作り込もうとする日本人の悪い癖を感じさせるものです。

■あまりにも「先手」を取り過ぎたことが今後に及ぼす影響は測り知れない
公明党のみならず自民党内からも撤回要求が出てきています。他方、意外なことに時事通信が「「入院制限」に広がる不安 病院から「仕方ない」の声も 新型コロナ」(8/5(木) 7:10配信)という記事を公開しています。ヤフコメも「事態がここまで悪化するまで有効な手を打たなかった・打てなかった責任を取れ!スガ辞めろ!」といとか「選挙には必ず行こう!」といったコメントは見られるものの、目下の医療ひっ迫をどうにかするという観点のコメントは乏しく、一種の「諦めモード」に入っています。沈みかけの船で「お前が悪い!」「いやお前が悪い!」とやるのは、もはや万策尽きたときの最後のアクションであります。

※しかし「アベ辞めろ!」で辞めさせ、今度は「スガ辞めろ!」で辞めさせられたとして、次の人が事態を解決できる見込みがあるのか実に不思議なところです。「封じ込めに成功している」と言われてきた海外の国でも感染が急拡大している現状です。以前にも述べましたが、システム開発においてしばしば見られる、「実現可能性の乏しい要求を展開するド素人の発注者が全責任を業者に被せ、次々とシステム開発業者を交代させてゆく典型的な失敗」と瓜二つの展開です。

中等症も原則入院対象と明確化 政府、療養方針の資料を修正」(8/5(木) 20:11配信 産経新聞)というニュースも出てきましたが、よくよく見るとほとんど変わっていません。現時点で最終的にどう落とし前が付くのかは私には占うことはできませんが、私は前述のとおり、観測気球だとしても時期尚早に思います。

もしこの方針が凍結・先送りではなく白紙撤回されるようなことがあれば、あまりにも「先手」を取り過ぎたことが今後に及ぼす影響は測り知れないでしょう。この一見が失敗に終われば、今後は間違いなく政治判断を下すことに尻込みするようになるからです。いまの日本では「批判を受けること」を皆が一番恐れており「守りの姿勢」に入りがちな事態です。これで失敗すれば「決断への恐怖心」がますます増すでしょう。

また、上掲の佐藤弁護士のような批判言説が出たことは、ある意味「非情」なトリアージ的な権力発動を遠のかせることにもなるでしょう。もともとトリアージに対する反感・拒否感が強い傾向にある日本でしたが、ますますそれが増強するということです。

さらに、総路線を提示した段階で「線引き」がどうのといった具体的な細部にかかる批判が出てきてしまったこと、臨地・臨床的な判断基準に「事前」に「細かく」定めることを要求する主張が出てきたことは、「事前に・最初から細部まで作り込もうとし、結果として複雑巧遅で硬直的になる」という日本人の悪い癖を更に強めることになるでしょう。

この悪影響は測り知れません。
posted by 管理者 at 07:24| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2021年08月03日

21世紀にもなって形式的平等を云々するのは、アホ、素人、確信犯のどれか

https://news.yahoo.co.jp/articles/f980d01e3ae1be9a8352b6011cc9c9cae94af669
本多平直衆院議員が辞職 性交同意年齢で不適切発言
7/28(水) 18:16配信
共同通信

 性行為の同意年齢を巡る不適切発言で立憲民主党を離党した本多平直衆院議員(56)=比例北海道=は28日、大島理森衆院議長宛てに議員辞職願を提出した。辞職は同日許可された。衆院の欠員は4となる。本多氏は提出後、記者団に「途中で大切な仕事を辞めざるを得なくなったのは残念だ」と述べた。

(以下略)
「私は」が先行すぎた主観観念論的リベラリズムもついにここまで来たか・・・と思わずにはいられなかった本多平直発言。愛し合っていれば年齢なんて関係ない、思いが大切なんだ・・・とは流石にならなかったのは幸いでした。50歳と14歳では大人と子ども。70歳と24歳とは訳が違います。

しかしながら、立憲民主党が彼を除名等、党組織の方から叩き出さなかったのは気になるところです。リベラリストらしく「思い」を重視するのであれば、つまりまっとうな意味で個人の自由意志を尊重する立場であれば、子どもの精神的・知識的な未熟さ・無知につけ込んで己の欲望を果たそうとする大人の搾取には、きわめて厳しく対応する必要があるはずです。

こんなことを言い始めました。
https://news.yahoo.co.jp/articles/4e4e2177e06a1ea0617c5b794a2407fd5b4f448b
立憲、2030年に女性議員3割に 本多氏問題発言受け改革案
8/3(火) 16:51配信
毎日新聞

 立憲民主党は3日の執行役員会で、2030年に党所属の国会議員・地方議員、候補者、党職員の女性比率3割を目指す方針を決めた。離党・議員辞職した本多平直元衆院議員の性交同意年齢を巡る問題発言を受け、ジェンダー平等に向けた改革案が了承された。

(以下略)
党職員の女性比率を3割に高めるのはよいとして、本多発言を受けて?? 男性でもクエスチョニングでも、まっとうなアタマと判断力があれば十分であるはず。「本多発言をうけて、立憲民主党では女性職員比率を高めることにします!」って、本筋から外れているだけではなく、ある種の新たな性差別であるとさえ言えるものです。

ここまで物事の道理が分かっていないとなると、底抜けのアホ、ニワカのファッションリベラリスト、あるいは立憲民主党がいう「リベラリズム」など所詮はブルジョア流リベラリズム的な形式主義に過ぎないかのいずれかであると言わざるを得ないでしょう。

自由意志を現実の問題として論ずるには、当事者たちの知識や情報、力の非対称性に注目する必要があります。21世紀にもなって形式的平等を云々するのは、アホ、素人、確信犯のどれかです。
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2021年08月01日

石丸次郎氏のお気楽共和国政権批判から見えるもの

https://news.yahoo.co.jp/byline/ishimarujiro/20210714-00247822
<北朝鮮内部>ついに死者が出始めた 深刻な人道危機は金正恩政権による人災
石丸次郎 アジアプレス大阪事務所代表
7/14(水) 11:30

人が死んでいる。食べ物がなくて、薬がなくて。今、私たちの隣国・北朝鮮で起こっている現実である。

6月に入って以降、北朝鮮の人々の暮しが、堰(せき)が切れたように悪化している。その実情がほとんど世界に伝わって来ないのがもどかしい。金正恩政権が新型コロナウイルス対策のために国境を閉じて人の出入りがなくなり、情報が出てこなくなったからだ。筆者は北朝鮮に搬入した中国の携帯電話を使って、何とか取材協力者たちと連絡を維持しているが、現況は、アジアで最悪の人道危機にあると判断している。

(中略)
北朝鮮で起こっている混乱は人災である。コロナ防疫だけに没頭し、民を顧みなかったせいで発生した人道の危機だ。さらに悲惨な事態にならないよう、隣人の窮状に関心を喚起したい。
北朝鮮で起こっている混乱は人災である。コロナ防疫だけに没頭し、民を顧みなかったせいで発生した人道の危機だ」などと宣う石丸次郎氏ですが、逆に共和国政府が今よりも国境の水際対策を緩く行い、陸続きの中国からウィルス流入を許し、結果、国内で多くの死者・重症者を出してしまったとしたら、石丸氏の平生の主張を見るに、間違いなく「水をも漏らさぬ脱北者対策の国境封鎖が可能なのに、コロナにおいてはそれを怠り、国内で感染爆発を起こしたので、これは人災だ」などと書き立てていたことでしょう

予防や治療、検査隔離体制が十分ではない場合、人流拡大と感染拡大はトレードオフの関係にあると考えられます。そして、このトレードオフにおける絶妙なバランス調整は、いまだどこの国も完全には行えていません。各国の当局者が日々、苦心苦労していることを少しも顧みず、魔法のように事態が解決することを夢想し、それが果たされぬや否や子どものように無い物ねだりの駄々を捏ねる展開、クレーマーのように喚きたてる展開は日本においてもよく見られているところですが、石丸氏の言説はこれに類するものであると言わざるを得ません

もちろん、現状のままでよいわけがありません。なので、本気で「さらに悲惨な事態にならないよう、隣人の窮状に関心を喚起したい」というのならば、それこそ実効性のある人道支援を呼びかける必要があるでしょう。「どうせ軍隊の備蓄に回るだけ」などと皮肉屋気取りをしているのではなく! 先代総書記は「騒擾分子は鎮圧せよ」のスタンスでしたが、現総書記同志は「民心の不安は政権の不安」とよく理解されていることが種々の事実から推察されるところです。

しかし、事態打開に資するような呼びかけさえしないのが石丸氏であります。「もっと酷いことになれば政権への打撃になる・・・」と内心では事態の悪化を期待しているのではないかと勘繰りさえします。もしそのような悪意がなく、ひたから誠意に基づく記事だとすれば、ジャーナリズムと事態の改善と歴史の前進においてまったく無力なモノであるということになるでしょう。

コロナ禍をとおしてジャーナリズム・ジャーナリスト不信が増している私ですが、石丸次郎氏のかかるお気楽な共和国政権批判を見るに、更に不信感が深まってしまったところです。
ラベル:メディア
posted by 管理者 at 18:33| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする