新型コロナウィルス禍について。以前であれば、「ロックダウンを!」だの何だのと、具体的な段取りについては言及はなくとも一応の総路線的な要求は出てきたものでした。
しかし今や総路線的要求さもなく、ただ「とにかく政府はコロナ禍を今すぐ何とかしろ!」程度のものしか出て来なくなりつつあります。
たしかに、「それを考えるのが政治家や役人の仕事」というのは一面においては正しい指摘です。社会的分業の時代だからです。しかし、専門知識をもった担当者・専門家たちが考え抜き、実現可能な手を尽くした末に今があります。
専門家とて神ではありません。「専門家たちが手を抜いている」というのであれば、そう主張する側に具体的な証拠をを提示する義務があります。それができないのならば、トランプ前アメリカ大統領の「不正選挙」の訴えにも劣る言いがかりです。
近頃の世論はこのように、
「自分から見えるもの」にのみ依拠し、「公平な観察者」どころか「他人から見えるもの」=他人の側の都合に思慮が至らない一方的な物言いがしばしば出てきます。今回は、この背景について過去に述べてきたことを総合しつつ纏めてゆきたいと思います。
今回は、昨今しばしば見られる一方的な物言いを次の3つに分類することを試みます。
(1)中途半端な「御上」意識と国民主権・社会的分業意識のハイブリッドのケース
(2)時代錯誤的な要求運動のケース
(3)消費者意識の奇形的肥大化による無い物ねだりの駄々っ子的クレーマーのケース
■神ではないので出来ることと出来ないことがある、社会的課題の解決のためには自分自身も積極的に協力や・参画する必要がある
まず、(1)中途半端な「御上」意識と国民主権・社会的分業意識のハイブリッドのケースについてです。
○社会的分業の徹底的な専門細分化に伴う超知識労働社会への社会変化
社会的分業の時代において、社会を維持発展させることを職業とする政治家や役人たち対して社会的課題の解決策を編み出すよう求めること自体は間違ってはいません。「自分自身は個人レベルでの感染拡大防止対策をしっかり講じているが、世の中にはそれが不十分な人たちもいあるので国にはしっかり啓蒙指導、場合によっては取り締まってもらいたい」というのは当然の求めです。現代は国民主権の時代であり君主が慈悲的に統治する時代ではありません。
しかし、
彼らも神ではないので出来ることと出来ないことがあります。
社会有機体の中で「がん細胞」のように勝手な振る舞いを展開する手合いを常勝的に制圧・鎮圧できるわけではありません。
神でもなければ実現し得ないような無茶で現実性の乏しい要求が展開されている現実については、まず、昨年7月26日づけ「
コロナパニックと「駄々を捏ねているお子ちゃま」」や4月15日づけ「
社会的分業を見つめ直す必要:キム・イルソン同志生誕記念」で述べたとおり、
社会的分業の徹底的な専門細分化に伴う超知識労働社会への社会変化、そしてそれによる各自の仕事内容のブラックボックス化が大きく関係していると考えられます。
社会的分業が高度化・専門化されている現代においては、他人の仕事内容の現実的な妥当性;「このご時世、この程度であれば、手を抜かずに力を尽くしたと言えるだろう」といった常識的な相場感覚と評価付けが難しくなりつつあります。そうした背景ゆえに、
自分の物言いが妥当なのか行き過ぎているのかが自分でも分からず結果的に一方的な物言いになってしまうのだとも考えられるのです。
かつて、まだ社会的分業が未熟で専門的細分化が進んでいない時代においては、人々は、取引相手側の事情について凡その察しをつけることができました。材料の仕入れや運搬、各種調整にかかる所要時間や仕事の進め方、そして仕上がり具合はだいたい見当がつくので、詳細までは分からなくても受注側が最善を尽くしているのかは、推測可能だったわけです。また、所要の手間暇や各方面への根回し・気遣いの大変さについてもだいたいどの世界・業界でも同じなので、無理筋な要求を突きつけるには躊躇いが生じるものでした(突きつけたところで仕方がない)。
しかし昨今は、社会的分業が徹底的に専門細分化されたことにより、他人の仕事内容への想像力や推理力が働きにくくなっています。また、BtoCレベル・日常的購買のレベルでは即日配送のようなスピーディなサービスが溢れかえっているので、量産品消費者としてのスピード感ですべてを判断しがちになっています。
そして、4月18日づけ「
ワクチン接種の混乱が斯くも問題になるのは、「事前の緻密な計画」及び「計画の忠実な執行」にこだわる日本の教育制度・受験制度・就活慣習のため」で指摘したことですが、ここに「『緻密な計画立案能力』と『計画どおりタスクを遂行する能力』を持つ者こそがエリート」という日本的な観念が合流すると、前代未聞のパンデミックにおいても「事前の緻密な計画」と「計画の忠実な執行」が当然のごとく要求されるようになるわけです。
結果、
モノの道理が分からなくなってきた人々、ある意味で「バカ」になってしまった「サービスを受ける側」は、ただひたすら自分の都合を並べ立てるようになり、サービスを「提供する側」の事情を踏まえなくなるというわけです。
○「救世主」願望が伝統的な「御上」意識と融合した
また、昨年7月11日づけ「
コロナパニックの裏返しとしての「キレイな独裁」論」で述べたとおり、
「救世主」願望が伝統的な「御上」意識と融合したと見ることも可能でしょう。
すなわち、新型コロナウィルスに恐れ戦く人々は、その不安を解消するために「魔法」のように良く効く事態打開策を渇望していたものと思われます。不安が大きくなればなるほど、更に大胆に事態を打開してくれる「奇跡」を求めるようになり、結果として「奇跡」を起こしてくれる「救世主」の登場を渇望するようになったものと思われます。不正と腐敗、貧困が蔓延るロシアの一部国民の間でいま「スターリン人気」が再燃しているのと関連して考察すると興味深いものが見えてきます。
ここで「相場感覚」が失われてしまうと、「救世主」や「御上」に対する願望・希望に歯止めが掛からなくなります。
もちろん為政者が「魔法」や「奇跡」を操れるわけがないので、過剰な願望・希望が「裏切られた失望」は大きくならざるを得ません。この「失望」が一方的な物言いになっているわけです。
○「近代理性主義の副作用」
さらに、一方的な物言いにおいては、台湾やニュージーランドなどとの「比較」、すなわち「台湾やニュージーランドでは上手く行っているのに、なぜ日本ではできないのか」といった批判が氾濫したものです。こうした物言いの誤りについては、
結論から言ってしまうと、「これらの国・地域は人口小国だから上手く行った」のであり、人口大国である日本にそのまま適用できるものではありません。物理的世界においては、観察対象のスケール・階層によって適用すべき物理法則が異なってくるので、異なるスケール・階層の物理学研究及び人為的改造のためには異なるアプローチが必要になります。昨年5月18日づけ「
1億3000万人を対象とした国の仕事と、芸能人のマネジメントが同じ難易度なわけがないw:教養としての物理学のススメ」などでも述べたとおりです。
もっと平易に言えば、中小企業のマネジメント方法と大企業のマネジメント方法は、従業員数の著しい違いのため異なる方法で取り組まなければならないのと同様に、人口小国の統治と人口大国の統治もまた異なる方法で取り組まなければならないのです。こうした量的及び質的な差異を混同・無視した比較からは何の科学的な見地も出てきません。
こうした非科学的な物言いが大手を振って出てきた事実は、科学的世界観が日本世論において欠如していることを示していますが、同時に興味深くも頭が痛いことに当の本人はこれが科学的だと信じて疑っていません。こうした、
よく言えば「等身大の感覚」、悪く言えば「素人考え」を信じて疑わず非科学的な比較をあたかも科学的だと致命的にも思いあがっている風潮は、「近代理性主義の副作用」と言えるでしょう。
○「やる主体」は国民自身;社会的課題の解決のためには自分自身も積極的に協力や・参画する必要がある
ところで、
社会的課題の解決のためには自分自身も積極的に協力や・参画する必要があります。
キム・ジョンイル総書記が『社会主義建設の歴史的教訓とわが党の総路線』(チュチェ81・1992年1月3日)で指摘されたように、「
人間が社会的財貨をもち、社会的関係で結ばれて生活する集団がすなわち社会」であり「
社会の主人はほかならぬ人間」であるからです。
しかし中途半端な「御上」意識の持ち主には、「御上が何とかしてくれるに違いない」といった
親方日の丸意識のようなものがあるようです。最近物議を醸しているロックフェス騒ぎでも「感染対策は政治家が考えることであり、オレたちの仕事は楽しむことだ」という趣旨の主張がありましたが、これもまた一種の「御上」意識というべきものです。
いくら国の責任は重いとはいえ、津々浦々を常に監視しているわけではないし、なによりも、
国の啓蒙や指導・取り締まりは、あくまで国民各自に「やれと命ずる」ものであり「やる主体」は国民自身であります。そして、システムとしての社会・社会有機体の中で「がん細胞」のように勝手な振る舞いを展開する手合いを国が常勝的に制圧・鎮圧できるわけではありません。この点で「御上」意識は間違ったものであると言うべきであります。
○設計主義的な社会観の影
なお、この「御上」意識には、おそらく設計主義的な社会観が潜んでいるものと思われます。優秀な政治家や役人たちであれば社会を意のままに操ることができるという夢想です。こうした夢想があるからこそ「優秀な政治家や役人たにだって、出来ることと出来ないことがある」とは考えられず、要求が実現しない場合に「なぜ、やらないんだ」という批判をしてしまうのだと思われます。
たとえば昨春の「マスク不足」。これを解消するためには生産能力の増大に取り組まなければ根本的には解決し得ず、工場等の新設による生産能力の増大には数か月から年単位の時間が必要であるにも関わらず、あたかも政治が魔法のようにマスク不足を直ちに解決できるかのような過剰な期待が生じ、その裏返しとしての激しい政府批判がみられました。
結局、古くからの「お上が何とかしてくれる」観念が「国民主権」と合流することによって「行政なんだから何とかすべきだ」といった形で正当化されて現代でも生き延びているのでしょう。成熟した市民社会に主体面でなり切れていないわけです。
■いまどき「市民革命」を運動スローガンにしているようでは白けるだけ
○社会はシステムでありそのメンバーは少なくとも呉越同舟的な関係
次に、(2)時代錯誤的な要求運動のケースについてです。このケースは実際にはあまり頻度高くお目にかかるものではありませんが、
未だに封建時代や絶対王政時代の社会観、一揆や直訴、あるいは「市民革命」のノリで為政者に要求を展開するケースがまれに見受けられます。
参政権が保証されておらず人民が正に被支配者であった時代であれば、一方的な物言いで要求を強硬に展開したり責任を追及したりするスタイルもあったでしょう。何といっても、自分たちは権力に指一本も触れることが許されていない以上は、失政にはまったく責任はないのだから。
他方、
参政権が保証された国民主権の時代にあっては、もはや国家は建前上は共同社会と化しています。
もちろん実際には、たとえば経済生活においては階級が厳然として残存しており、それが政治生活にも深刻な影響を及ぼしています。決して「真の」共同社会ではありません。
しかし、
社会はシステムでありそのメンバーは少なくとも呉越同舟的な関係にあります。
階級の区別はあっても社会共同の利益がまったく存在しないなどということはあり得ません。
キム・ジョンイル総書記も『民族主義にたいする正しい認識をもつために』(チュチェ91・2002年2月26日及び同28日) において「
もちろん、民族を構成する各階級、各階層はかれらの相異なる社会的経済的地位からして、階級的要求と利害関係が異なります。しかし、各階級、各階層の利害を超越して民族の自主性と民族性を固守し、民族の隆盛と発展を遂げることに関しては民族の構成員全体が共通の利害関係をもっています。それは、民族の運命はすなわち民族構成員の運命であり、民族の運命そのものに個人の運命があるからです」と指摘されているところです。
また、
階級の区別があり真の共同社会とは言い難いとしても、少なくとも現段階は政治生活においては形式的な平等が達成されるようになった
過渡期初期として捉えるべきであり、きたるべき完全な共同社会の第一段階として捉えるべきであります。
チュチェ思想国際研究所事務局長の尾上健一氏は、『自主・平和の思想』で過去の社会主義運動について次のように指摘しています。
レーニンが指導したロシアで、1917年、革命が勝利し、労働者階級が政権を握る社会主義社会が史上はじめて誕生しました。
政権を獲得するまえの労働者たちの闘争課題は、賃金を上げることを中心とする労働条件の改善でした。労働者たちは政権につくまえは、社会主義思想を身につけていたわけでもなく、国家全体のことを考えたこともありませんでした。主に個人の要求を実現するためにたたかってきたため、運動の過程で民衆のことを思う気持ちは十分に形成されませんでした。
(中略)
またマルクスは、社会主義的生産様式が樹立されれば、人間関係も豊かになっていくとしましたが、現実にはそのようにはなりませんでした。生産関係をかえればおのずと人間がかわるわけではないということは明らかなことです。
いまから始める必要があります。
いまから、自らも共同社会の主人であるという姿勢で臨むべきと考えます。いつまでも封建領主や絶対的王権と闘うようなスタイルで臨むのは時代錯誤的であります。市民革命が依然として不完全であり、自由・平等・博愛が完全には実現していないことは私も認めるところですが、かといって今どき「市民革命」を運動スローガンにしているようでは白けるだけです。
このご時世に「市民革命」を云々する手合いは、裏を返せば、依然として「被支配者根性」、つまり「『される側』の根性」を引きずっているということに他なりません。しかし、
人民大衆は不完全な境遇であっても既に主体として歴史の発展の道を歩み始めています。
○社会的課題の解決のためには自分自身も積極的に協力や・参画する必要がある
そもそも、社会的課題の解決のためには自分自身も積極的に協力や・参画する必要があります。
為政者に要求するだけではなく、自分たちの問題として積極的に取り組み、取り組みが不十分な隣人に対しては為政者の指導を補完する形で社会的課題の解決に協力する必要があります。
このことは、参政権の保証などといった制度的な問題に先立つ、社会システムの本質的な特徴であります。その意味では「要求運動」というものは、社会を科学的に分析した上での方法論とは言い難いものとみなすべきかも知れません。
■主権者でありながらクレーマーのように喚きたてることは、特大ブーメランに繋がる
○真の意味での国民主権の国とは到底言えない
(3)消費者意識の奇形的肥大化による無い物ねだりの駄々っ子的クレーマーのケースについて。これは、
「お客様は神様」をここにも持ち込んで当然のごとく要求を丸投げし、そして要求が満たされぬや否やクレーマーのように喚きたてるものです。
基本的にクレーマーと考えればよいものですが、前述の、知識経済化と社会的分業の高度化・専門化による各個人が従事する仕事内容のブラックボックス化という背景ゆえに、
往々にして無い物ねだりの駄々っ子になっているものです。
こうした手合いは、
消費者と主権者との違いを理解していません。消費者は、対価の支払いと引き換えに一定水準の成果物やサービスを一方的に要求することができる者です。他方、
主権者は、サービス等を受ける側でありつつ同時にそれを供給する側でもあります。主権者は社会の共同運営者なのです。
それゆえ、一方的な物言いは特大ブーメランになります。知識経済化と社会的分業の高度化・専門化による各個人が従事する仕事内容のブラックボックス化という背景があるとはいえ、サービス供給側でもあるのだから一方的な物言いは避けるべきなのです。自分たちの社会の主人としての責任と矜持を持てばこそ、批判のための批判などは最も恥じるべきでありクレーマー気質の喚きとは一線を画すべきと考えます。
この点、
一方的なクレーマー気質の言説が全社会的課題としての新型コロナウィルス禍において出てくることは、現代日本が真の意味での国民主権の国とは到底言えないことを示していると言えるでしょう。
依然として「被支配者根性」、「『される側』の根性」であるわけです。
政治における国民主権は、未来社会としての協同社会・社会主義社会;政治・経済・思想文化において人民大衆が主人としての地位と役割をまっとうする社会の第一歩であります。協同社会とは国民主権・民主主義の全面的な実践に他なりません。
その点、現代日本の協同化は依然として厳しいものがあると言わざるを得ないところであります。
○主権者どころか消費者としても「失格」、資本主義社会の維持さえも困難にする
「カスハラ」が問題視されている昨今においては、消費者といえども広い視野、相手の立場や事情を踏まえる姿勢、「公平な観察者」としての振る舞いが求められています。もともとアダム・スミスが指摘したとおり、市場経済においては参加者たちは公平な観察者としての振る舞いが求められているものです。
「公平な観察者」は市場主義の主体面での前提です。
この意味で
消費者意識を奇形的肥大化した手合いは、主権者どころか消費者としても「失格」と言わざるを得ません。「日本人は社会主義なんか目指していないからコレいいんだ、未来永劫、資本主義でいいんだ」としても「そもそもあんたらは、資本主義が前提にしている人物像にさえ及んでいない」と言わざるを得ません。
こういう手合いが幅を利かせているようでは、協同社会化・社会主義化が無理なのは勿論ですが、資本主義社会の維持さえも困難にすることでしょう。
○再三の指摘;社会的課題の解決のためには自分自身も積極的に協力や・参画する必要がある
再三の指摘になりますが、
やはり、「やる主体」は国民自身であり、社会的課題の解決のためには自分自身も積極的に協力や・参画する必要があります。
社会はシステムである以上は、すべてのシステム構成要素がそれぞれの地位と役割に応じ、社会システム全体の挙動に注意を払う必要があります。
為政者とて神ではないので、社会有機体の中で「がん細胞」のごとく勝手な振る舞いをする手合いを常勝的に制圧・鎮圧できるわけではありません。決して為政者の政策だけで社会的課題が解決し得ないのです。
○消費者意識の奇形的肥大化が政治生活にも侵食してきている背景
消費者意識の奇形的肥大化が経済生活に留まらず政治生活にも侵食してきていることについては、カール・ポランニーの経済人類学的な見解を引いて検討しておきたいと思います。すなわち彼は、資本主義社会は、社会活動の一部分して経済活動が組み込まれていた前資本主義社会とは逆に、経済活動が社会活動を呑み込んでしまい経済の論理が政治などにも波及してしまっているといいます。
そうした現代資本主義の在り方が大衆意識にまで刷り込まれてしまっていると考えられないでしょうか?これら様々な理由により、現代日本では、自分ではとてもできないような大層な話を平然と、それも偉そうに要求することを憚りもしない風潮、「無知無能」な手合いが専門家たちを罵倒する倒錯した異常事態になっているのであります。
■各ケースに共通することと、そこから見えてくるもの(1):疑心暗鬼
上述の各ケースに共通することと、そこから見えてくるものは次のとおりです。
第一にやはり、「誰かがやってくれるに違いない」や「やって当然」という
過度な期待の存在です。
もちろん、再三述べているとおり「ブラックボックス化」という背景があるのである程度は仕方のないことです。しかし、
専門知識を持った担当者たちが考え抜き手を尽くした末に現状があると考えれば、一方的な物言いはできないはずです。
他人を斯くも信用できない現代日本の様相を見て取るところであります。そして、めったやたらに「他人が手を抜いている」ことを疑うということは、実は自分自身が手抜き気質であることを自白しているようなものであります。
「隙あらば手抜き」が実は真の日本精神なのかもしれません。
■各ケースに共通することと、そこから見えてくるもの(2):精神年齢の低さ
自分の要求が満たされぬや否やクレーマーのように喚きたてるというのは、
精神年齢があまりにも低すぎると言わざるを得ないものです。
資本主義がもたらした消費社会が消費者意識の奇形的肥大化を引き起こしたとすれば、資本主義の市場経済が人間精神にもたらす悪影響は極めて甚大であると言わざるを得ません。
また、資本主義の市場経済にこれを是正する展望が非常に乏しいという事実に正面から立ち向かう必要があると言えます。
■各ケースに共通することと、そこから見えてくるもの(3):正しい社会観の欠如
第二に、正しい社会観の欠如が見えてきます。
上述したとおり、「人間が社会的財貨をもち、社会的関係で結ばれて生活する集団がすなわち社会」であり「社会の主人はほかならぬ人間」であります。つまり、社会の本質は「人間同士の関係性」なのです。
そしてこの関係性はシステム的であるというべきであり、その構成要素は個々人であります。
システムとしての社会の目標達成のためには、まさにそれがシステムであるがゆえに、それを要求する側つまり自分自身も積極的に協力・参画する必要があり、決して一方的に要求ばかりしていて済むものではありません。
社会はシステムである以上は、すべてのシステム構成要素がそれぞれの地位と役割に応じ、社会システム全体の挙動に注意を払う必要があります。
為政者とて神ではないので、社会有機体の中で「がん細胞」のごとく勝手な振る舞いをする手合いを常勝的に制圧・鎮圧できるわけではありません。決して為政者の政策だけで社会的課題が解決し得ないのです。
このことを理解せず、正しい社会観を持たず、国のコロナ対策以上に破滅的な状況にあるのがシステムトラブルを短期間で連発しているみずほ銀行であります。また、あまたある失敗したコンピューターシステムの導入プロジェクトであります。
まさに全員が全員「他人事」。丸投げと無責任が蔓延った末の失敗、実現可能性の乏しい要求を展開するド素人の発注者が全責任を業者に被せ次々とシステム開発業者を交代させてゆく展開です(関連記事:今年5月3日づけ「
한사람같이 떨쳐나서자!」)。
その点、新型コロナウィルス対策に比較的成功している
朝鮮民主主義人民共和国は、≪한사람같이 떨쳐나서자!≫(一丸となって立ち上がろう!)のスローガンの下、すべて人民が社会の主人としての意識高く防疫戦に参加することで対応しています。
アメリカによる長年の封鎖によって世界的にも医療体制が脆弱な部類に入る朝鮮民主主義人民共和国ですが、しかし、朝鮮人民はああだこうだと文句を垂れるのではなく、所与の条件下において一丸となって自分事として防疫戦に参加しています。もちろん、党や政府、最高指導者に対して文句は言いにくいでしょうが、
アメリカへの文句であればいくらでも口にする事ができます。しかし、朝鮮の人民は「文句ばかり言って自分では何もしない」のではなく、自らの力に依拠して一人残らず全員が一丸となって事態の打開に取り組んでいるのです。これは、政府の呼びかけ云々以前に、
何よりも社会の主人としての個々人の自覚に他なりません。自分自身も社会の共同主人なのです。
朝鮮民主主義人民共和国における国家防疫事業の展開は、日本のにおける国家防疫事業の深刻な混乱状況に対して「いかにして主体を社会制度的に養成して対応すべきか」という課題を提起しています。もはや空中分解寸前の状況に対して重要な提起をしています。
■総括
新型コロナウィルス禍は日本の世相をよく示しています。
百年に一度のパンデミックにおいてさえ団結しきれない国民が未来の共同社会・協同社会を築く主体になれるとは到底思えないところです。また、
この世相は、20世紀から21世紀前半にかけての世界観・社会歴史観の総決算であると言えそうです。
その点、
協同社会を築く主体の準備においては、朝鮮民主主義人民共和国の先進性は目を見張るものがあります。
朝鮮民主主義人民共和国創建73年を熱烈に祝賀します!