2021年09月26日

日本人の良識・良心をこのまま守り抜けるかの正念場

少し前の記事ですが、振り返り的に新型コロナウィルス禍にかかる世論動向の情勢をまとめて見たいと思います。
https://news.yahoo.co.jp/articles/b097d5d337ac4983ddf96cbeea41e4820dd277d4
コロナ入院で「綾瀬はるか」がトレンド入り 『芸能人だから』一部での”叩かれ方”に「本当に世も末」の意見も
8/31(火) 20:46配信
中日スポーツ

 女優の綾瀬はるか(36)が31日、新型コロナウイルスによる肺炎で入院中だと発表され、ツイッターでは「綾瀬はるか」がトレンド入りした。

(中略)
 「綾瀬はるかが入院しただけで一部の人に叩かれてるのを見ると、本当に世も末だと思うわ」という意見や「『大丈夫?』『心配だ』って言葉と同じくらい『芸能人だから入院できていいな』『自宅療養で苦しんでる人もいるのに何で芸能人は…』って言葉が出てくる時点で色々とお察し 確実に言えるのは『コロナ対策は失敗した』」と指摘する人もいた。
私も確かに「世も末」と思いましたが、しかし、このように「世も末」という同意見の方々が少なくなく、そうした記事が出てきたあたり、「まだまだマトモな人は残っている」と心強く思ったところです。また、最近になって夕刊フジは「今度は1億円の金銭トラブル浮上 綾瀬はるか、逆風和らぐか コロナ感染での入院報道では“上級国民”と揶揄も」(9/21(火) 16:56配信 夕刊フジ)という記事を書き立てていますが、大してコメントが寄せられていないあたりPVも稼げていないことが推察され、それどころか記者の人格が疑われているようで幸いに思います。

新型コロナウィルス禍においては、とりあえず「何か書いておけばPVを稼げる」という意味で、商業メディアにとっては一種の「バブル」といっても過言ではないものでした。とりわけ、人々の不安が増大している中では、「不安を煽るような記事」を書き立てたり「フラストレーションの捌け口になるような記事」を書き立てたりすることには大量のアクセスが見込めるものでした。

「商業メディアはコロナ禍を奇貨として、これを煽りに煽ることで政権批判を展開しようとしている!」という恨み言については、そういう動機もあるかもしれませんが、より根本的な動機は、あくまでも視聴率やPV目当て、つまり利潤動機の扇動だと私は見ています。ますます不潔不浄です。

残念ながら、「不安を煽るような記事」や「フラストレーションの捌け口になるような記事」は大抵が「当たり」となり、世論は、商業メディアの利潤動機の扇動にまんまと乗せられています。しかしながら、唯一の救いとして、「上級国民」を引き合いに出した記事だけは、それほど「当たり」になっていません

「上級国民」を引き合いに出した記事の嚆矢は、私が記憶している限りでは、今春に朝日新聞系雑誌『AERA』が書き立てた、茨城県城里町長のワクチン先行接種でした(「【独自】42歳町長らが高齢者そっちのけでワクチン接種 茨城県城里町で「上級国民か」と問題化」 2021/05/12 20:30)。その後、畳みかけるように今度は『週刊朝日』が「【独自】東京都多摩市職員約800人中、300人超がワクチン優先接種 「多すぎる」専門家も疑問視」(2021/05/13 23:18)と報道。夕刊紙なども追随しました。当時はまだ医療従事者へのワクチン接種も完了しておらず、高齢者へのワクチン接種が始まったばかり。そんな中で42歳の町長や現役世代の市役所職員が先行接種していたわけです。やっかみを煽ってPVを稼ぐには絶好のタイミングでした。

もとより「上級国民」というスラングは、その誕生からいって「やっかみ」以外の何物でもありません。Wikipediaによくまとめられていますが、東京オリンピック・パラリンピックのエンブレムの策定での剽窃疑惑において、選定委員らの「(デザインの)専門家にはわかるが、一般国民は残念だが理解しない」という趣旨の発言にヘソを曲げた手合いらが、デザイン界の「選民意識」を揶揄する意図で生み出したのが「上級国民」でした。

「上級国民」は日本語的におかしな言葉です。なぜならば、「一般」の対義語は「特殊」であり決して「上級」ではないからです。「一般国民」呼ばわりに気分を害したからといっても、だったら「特殊国民」と返せばよかったはず。「訳の分からない理屈、ジャーゴンを連発し、屁理屈を捏ね繰り回す『特殊国民』」といって嗤ってやるのが筋でした。しかしなぜかここで「一般国民」の対義語として「上級国民」というワードを作り出したその動機には、劣等感・やっかみのようなものの影を強く推認するものです。

それだけ、劣等感・やっかみが世相を覆っているということなのでしょうが、しかしながら、そうした風潮に乗っかりつつコロナ禍にも持ち込むことでPVを稼ごうとするこの手のキャンペーンについては、幸いにして週刊誌や夕刊紙の「精力的な報道」の甲斐なく、驚くほど反響なくスルーされてしまいました。

むしろ、依然としてカルト的な人気を保つ橋下徹氏が「町長や知事、もっといえば総理大臣は真っ先に打つべきだと思っていますね」(「橋下徹氏、茨城県城里町長らワクチン接種に見解「町長や知事、総理大臣は真っ先に打つべき」」 2021年5月13日14時56分 スポーツ報知)と述べたように、町長ら擁護の言説まで出る始末。その後も「抜け駆け接種」だの「ズル接種」だのと週刊誌は何とかして火を付けようと定期的に報じており、最近は、医療従事者枠で2回接種した上で地域枠でも2回接種することで「勝手にブースター接種」しているごくごく一部の手合いの所業を針小棒大に取り上げています(「医療従事者ら「3回目ズル接種」発覚!東京・港区内の会場でこっそり…罪になるのか、防止策は?」 2021/08/27 09:26 日刊ゲンダイDIGITAL)が、それでもまったく世論は盛り上がっていません。東京オリンピックに絡めて「五輪楽しめるのは“上級国民”だけ? ワクチン格差のリアル」(2021/06/23 07:00 週刊朝日)も出ましたが、これも不発。毎日新聞のような一般紙は、城里町長の件については報じたものの、その後も相次いだ自治体首長の先行接種には距離を置いたものでした。「火が付かなかった」といってよいでしょう。

このことは、「PV目当ての商業メディアの不潔不浄な魂胆が見透かされた結果」や「騒いだところで仕方なく黙って順番を待つ」であれば非常に幸いなことに思います。必ずしも、「上級国民」というワードを生み出したような劣等感・やっかみが全社会を覆いきるほどのものではないことを示していると思われます。

しかしながら、世間が期待しているほどにはワクチン接種が進んでいないことに対する政府批判は強烈であり、「無い物ねだりのクレーマー」の域に達している点、必ずしも「騒いだところで仕方なく黙って順番を待つ」だけではなく、「ごくごく一握りの他人がズルをして得したことを取り締まったところで、自分のワクチン接種の順番が早まるわけではないので、正直どうでもいい」という動機も考えられます。もしそうであれば、いよいよブルジョア「個人」主義も行きつくところにまで行ってしまったという意味で、非常にまずいことであります。

総合的に考えるに、情勢は均衡状態にあるように思われます。日本人の良識・良心をこのまま守り抜けるか。正念場です。

【編集後記】
敢えて少し前の記事の記事を取り上げました。単純に最近多忙だったこともありますが、週末には必ずそれなりのボリュームで更新してきたように、まったくブログに取り掛かれないほどでもありませんでした。

デルタ株という新たな深刻な脅威が生じても世論動向は大して変わりがなかった点、コロナ禍を日々逐次的に追っても、世論分析と言う意味ではあまり意味がないことが見えてきたように思います。むしろ、少しネタをためて傾向を見極めたうえで一気に消化した方がよいと思っています。

つきましては今後は、特筆的に注目すべき出来事がない限りは、このように1カ月に1回程度の頻度で振り返り記事を書くことでコロナ禍について触れてゆくことにしたいと思います。当ブログも「コロナ出口戦略」を考える時期になりました。
posted by 管理者 at 20:16| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2021年09月25日

「能力主義を暗黙の前提としたリベラリスト」が社会運動の推進主体であることに対する不安

https://news.yahoo.co.jp/articles/aa6602362daaba4b84e107eefadb0cf9f2683220
橋下徹氏、「親ガチャ」論争で私見「親ガチャ失敗って言いたくなるような子どもがいるのは確かなんで…」
9/21(火) 15:43配信
スポーツ報知

 21日放送のTBS系情報番組「ゴゴスマ」(月〜金曜・午後1時55分)では、「子どもの立場からは親が自分では選べない」、「どういう境遇に生まれるかは全くの運任せ」などを表現した若い世代で流行している言葉「親ガチャ」について議論した。

(中略)
 その上で「親ガチャ失敗って言いたくなるような子どもがいるのは確かなんで、やっぱり社会で支える仕組みが必要ですよ。教育は無償化しなきゃいけないし、家庭の環境で進学が制限されるなんてことはあっちゃいけないし。親ガチャ失敗と言われる子どももいることを前提にそういう社会制度を総裁選でも衆院選でもしっかり訴える政治家に出てもらいたいですね」と続けていた。
昨今の「過度な能力主義」への懸念・批判を踏まえると、「親ガチャ」には、生まれつきの能力差なども含めるべきと思われます。その点、親の経済力云々に帰結する橋下氏の言説には物足りなさを感じるところです。

関連して、「女子受験生に不利な都立高入試の男女別定員制、見直しへ。「意義深い決定」と歓迎の声も」(9/22(水) 19:10配信 BuzzFeed Japan)のコメ欄。
ぜひこの機会に、内申点制度の見直しもセットでお願いします

伸び盛りの中学時点では、一般的にやんちゃで幼い男子と成長が早い女子の成熟度合いの違いは生物学的にもあきらかであり、またコミュニケーション能力や印象を良くするスキルも女子の方が圧倒的に高いため、内申点に相対的格差が生じるのは当然のこと

気に入られるスキルも社会に出れば役に立つと男子に不利な制度を正当化する人もいますが、そんなものはクラス内の人間関係や部活での上下関係を通して育てるべきもので、教師の一方的支配下で点数稼ぎをさせながら歪に育てるものではないと思います

政治的な思惑も多大にあるかとは思いますが、その後の人生を決めかねない高校入試における公平性の確保は、表面的なごまかしではなく、内実を伴うものにしていただけると良いのですが…
重要な指摘です。総じて精神的成長が早い女子の方が高い内申点を得やすいので、高校入試の男女平等実現には、内申書問題にも斬り込む必要があるということです。

男女平等は正しい方向性であることは間違いのないことです。しかし、その推進主体が「能力主義を暗黙の前提としたリベラリスト」であることに不安を覚えざるを得ません。実質的平等を目指す科学的な社会主義者は、場合によっては「ゲタを履かせる」ことも必要と考えます。
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2021年09月23日

アメリカの「個人」主義的な社会歴史観が非常によく現れている

https://news.yahoo.co.jp/articles/49d2ab771e43c41a5a70e22708758d068b8cb980
米軍トップ「攻撃なら事前通知」 中国側に、トランプ氏暴走懸念 著名記者が内幕本
9/15(水) 13:32配信
時事通信

 【ワシントン時事】米軍制服組トップのミリー統合参謀本部議長が昨年10月と今年1月、トランプ大統領(当時)の暴走を懸念し、中国側に米軍が攻撃を行う際は事前に通知すると念押ししていたことが14日、明らかになった。

(中略)
 それによると、ミリー氏は大統領選直前の昨年10月末、中国共産党中央軍事委員会の李作成・統合参謀部参謀長との極秘電話で「米政府は安定しており、すべて正常になる。米国が中国に軍事作戦を起こすことはない」と強調。「攻撃するようなことになれば、事前に通知する。奇襲攻撃にはならない」と述べた。

 トランプ支持者らによる1月の連邦議会襲撃事件の2日後にも電話をかけ「われわれは100%安定している。すべて大丈夫だ」と繰り返し、トランプ政権の暴発を危惧する李氏を落ち着かせようとしたという。

(中略)
 民主党のペロシ下院議長との電話では、トランプ氏を「正気を失っている」などと評したペロシ氏に「完全に同意する」と応じ、ミリー氏がいかにトランプ氏を危険視していたかが浮き彫りになった。ウッドワード氏は「ミリー氏の越権行為を非難する人もいるだろう」としつつも、同氏が中国との偶発的な軍事衝突や核兵器の使用を防ぐために対策を講じる必要があると誠実に考えていたと指摘した。

最終更新:9/15(水) 18:04
時事通信
ミリー氏の行動の当否・善悪以前に、「狂った大統領が核のボタンを押し、実際に発射されてしまう」というミリー氏とその擁護者たちの発想に注目したいと思います。アメリカの「個人」主義的な社会歴史観が非常によく現れています。「個人の意思」が社会と歴史を拓くという主観的観念論です。

以前に当ブログでもご紹介したとおり、「我々は聡明、敵はクレイジー」という見方を、アメリカでは専門家でさえしていると指摘されています(「米朝会談「アメリカは高潔・聡明、敵はクレイジー」外交のツケ」 2018年6月19日 Newsweek日本語版)が、ここでも「遺憾なく」発揮されています。

「共産党の独裁」ではあっても「個人の独裁」ではない中国の軍人としては、「狂った大統領が核のボタンを押し、実際に発射されてしまう」という筋書きは、言われるまで思いもよらない発想ではないでしょうか? このような連絡を受けた中国軍幹部の方が驚いたのではないでしょうか? アメリカは、居並ぶ側近たちを抜いて「正気でない個人」がその意思を貫徹させることができるような「個人独裁国家」なのかと。

歴史上の「個人独裁」をみても、本当に個人がその意思を意のままに発揮していたことは滅多にありません。たとえばスターリンの「個人独裁」は、まず「共産党独裁」があり、その上で「反対派は徹底的に粛清・排除する」及び「党政治局を自分のお友達とお気に入りで固める」という手法で実現したものでした。徹底的な社会の組織化の上で初めて実践可能だったものです。

ヒトラーにしても、暗殺事件(1944年7月)が起こされたことが明白に示しているとおり、絶対的な権力に見えて実は反対派が相当人数居たわけです。この暗殺事件の返す刀で反対派を根絶やしにしたヒトラーはようやく「だれも反対する者がいない完全なる独裁者」になり、最終的に絶望的なベルリン決戦ですべてを灰燼に帰さしめたわけですが、逆に言うと、徹底的な大粛清でもやらない限り「個人独裁」などできないのです。

チャウシェスクの場合を見てみましょう。20年以上も強力な個人独裁をしてきたわけですが、最後の最後、民衆にも軍隊にも側近にも見放され、すべての不都合の責任を押し付けられた末に刑場の露と消えました。このことは、「個人独裁」といっても、少なくとも軍隊や側近の支持(積極的か消極的かはさておき)がなければそもそも成り立たないことを示唆しています。

最後に、幾度となく引用しているキム・ジョンイル同志の次のお言葉を再掲したいと思います。
わが党には自己の指導者に忠実な中核が多くいます。党に忠実な中核がわたしを積極的に支持し助けてくれるので、キムジョンイル将軍も存在しているのです。一人では将軍になることはできません。わたしは中核の知恵をまとめて、彼らに依拠して政治をおこなっています。
『党のまわりに固く団結し新たな勝利のために力強くたたかっていこう』チュチェ84(1995)年1月1日
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2021年09月19日

中学生でも日本の立憲民主党でも言えるレベル

https://news.yahoo.co.jp/articles/78bcc6756a7ee3a67ff6587459c0911ffa4de0d8
北「なぜ我々の防疫だけが『人権蹂躙』なのか」…国連報告書を批判
8/26(木) 8:06配信
WoW!Korea

北朝鮮が25日、コロナ渦の人権状況を指摘したグテーレス国連事務総長の報告書を「国が自国人民の生命の安全を守るための措置をとることは徹底的にその国の内政に属する問題だ」と猛非難した。

北朝鮮外務省は同日、ホームページに掲載したチョ・チョルス国際機関局長名義の記事でグテーレス総長の報告書について、「すべての国の緊急防疫措置をとる中で唯一、私たちの緊急防疫措置だけが『人権蹂躙』とされるのか、まったく理解ができない」と述べ批判した。

(以下略)
同感。共和国が置かれている政治的・経済的境遇において、現在共和国政府によって実践されている政策以外の道で、現実的に新型コロナウィルス感染症を抑え込む道を見出してから言え。国連事務総長グテーレスの言い分なんて、中学生でも日本の立憲民主党でも言えるレベルだぞ。実際のところ、WHOにしても国連にしても何もできていないじゃないかw

ただ、チョ・チョルス同志の批判にあえて苦言を申し上げれば、「徹底的にその国の内政に属する問題だ」という返答は上手くなかったかも。「内政の問題」としてではなく「現実性の問題」として提起すべきだったと思います。
ラベル:共和国
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2021年09月18日

「アジャイル推し」と「45歳定年制」の導入でシステムとしての会社は機能低下・機能不全に陥る

https://news.yahoo.co.jp/articles/6c5dcaa565e140d715954e832f434ee00196e820
『45歳定年制』? 進む、人材の新陳代謝
9/12(日) 13:48配信
日本テレビ系(NNN)

雇用市場の変化がコロナ禍で後押しされている。政府の会議のメンバーも務め、論客の新浪剛史サントリーホールディングス社長の口から飛び出した「45歳定年制度」。その背景は? 実現性は?

◇ ◇ ◇

9月9日。緊急事態宣言の最中ということでオンラインで開催された「経済同友会・夏季セミナー」。経済界だけでなく一般にも名の知られた経営者らが参加し、「日本が三流国に落ちていかないようどう変わるべきか」という危機意識のもとに議論が行われた。ここではその中で出た2つのキーワードに注目したい。

■キーワード1「アジャイル」
オイシックスの創業者でオイシックス・ラ・大地の社長を務める高島宏平氏(48)の発言。「先の見通せない時代にはいかに社会をアジャイル化するかだと思う」。

アジャイル…。もともとは開発の現場で使われてきた言葉で「すばやい」「俊敏な」という意味だ。完成図ありきの「ウォーターフォール」と対比される手法で、「アジャイル」はテスト版ができたらすぐにオープンにして、走りながらどんどん開発し直していく手法だ。

高島氏いわく、先の見通せない社会で、しっかり考え抜いてから実行するというのは難しいので「まずやってみて」というアジャイルが向いているという。「たくさん失敗して、方向転換して、正しい方向に」という考え方なので「失敗を許容する文化」が必要だという。

高島氏の「アジャイルの重要性」の発言を受けて、森トラストの伊達美和子社長は、コロナ禍での行動制限の緩和がワクチンを接種した順にとなってしまうと不公平が生じる、などといった議論について「アジャイル型の対応が生きる」との見解を示した。

(中略)
■キーワード2「45歳定年制度」
「定年を45歳にすれば、30代、20代でみんな勉強するんですよ。自分の人生を自分で考えるようになる」。―これまでも「最低賃金大幅引き上げ」などで世の中の議論をかき混ぜる役割を担ってきたサントリーホールディングス新浪剛史社長(政府の経済財政諮問会議議員)はこう提案した。

日本を眠れる獅子のまま終わるわけにいかない、そのためには成長産業への人材移動が必要。企業の新陳代謝を高めるためには、雇用市場は従来モデルから脱却しなくてはいけない。その一環として定年退職の年齢を45歳に引き下げる、個人は会社に頼らない、そういう仕組みが必要だ、と力説した。その上で今の社会では転職のチャンスも十分あるとの見方を示した。

■退職、転職の動向は…
制度として“40歳定年”を入れていなくても、実は40代以上を対象とした退職の募集はすでに始まっている。東武百貨店の例を見てみよう。6月に40歳から64歳の従業員750人を対象に希望退職を呼びかけたところ、約4分の1が応じたという。

(中略)
退職募集の増加は新型コロナの感染拡大前からすでに始まっていたのだ。さらに、東京商工リサーチの二木章吉氏は、景気が回復すれば今度は業績の悪くない企業による早期退職の募集も増える可能性があるという。多くの企業が、40代、50代のボリューム減らし、全体の若返りを図りたいからだ。
(以下略)
■アジャイル・モデルは国や社会レベルでは大きすぎる
社会のアジャイル化が重要な論点であるのは間違いないことです。当ブログでも繰り返し、ウォーターフォール・モデルを批判してきたところです。

しかし、ウォーターフォール・モデルに問題点が多いとはいえ、アジャイル・モデル的な発想にも当然問題点があり、そしてそれはウォーターフォール・モデルが抱える問題以上に本質にかかわる根深いものであると私は考えます。

国レベル・社会レベルの大きなプロジェクトは、アジャイル・モデル的な試行錯誤には些か「大きすぎる」のです。それゆえ、適切にダウンサイジングやサブ・システム化をしないとプロジェクトの収拾がつかずに破綻してしまうのですが、サブ・システム同士の連携構築は、国や社会レベルでは規模が大きすぎるがゆえに、非常に困難なのです。

分割しなければ手に負えなくなって失敗してしまうが、分割したらしたで今度はまとめ上げられずに失敗してしまうわけです。20世紀は国家の中央集権化が著しく進んだ100年間でしたが、その最後の最後に超中央集権国家であったソビエト連邦が空中分解したことは、歴史的教訓であります。

アジャイル・モデルを実践可能なレベルにまで国家・社会システムをサブ・システム化した上で改革したとして、それを如何にして再度、国家・社会レベルに連携再構築するのか、そのあたりの見通しが記事からは見えず、一企業というミクロレベルの経験をマクロレベルに無邪気に導入しているような気がしてなりません。まさか「お願いベース」ではないでしょうね?? 

ミクロレベルの経験をマクロレベルに無邪気に導入することの失当性は、社会主義者:ペレール兄弟が19世紀に実践した「クレディ・モビリエ」の失敗が明々白々に示しているところです。優秀な経営者は優秀な政治指導者ではないのです。

■社会のアジャイル化は、まさに「文化大革命」的な大事業にならざるを得ない
また、コメ欄で矢萩邦彦氏が指摘しているように、そして、当ブログでも以前から指摘してきたように、日本では学校教育においても日常生活においても「計画性」を非常に重視している点、社会のアジャイル化には著しい障害があるというべきです。

日本「文化」では、緻密な計画を事前に立て、そのとおりに実践することが優秀さの証しとされています。想定外のトラブル発生への反省が、「もっと予見力を高めて、さらに緻密に計画を立てること」とされる始末です。短時間で事態の本質を見抜き、即断即決・即断即応することが尊ばれるような文化ではありません。

このような「文化」は、トライ・アンド・エラーを必然的に伴うアジャイル・モデル的発想とは正反対のものです。そうであるがゆえに、日本「文化」にアジャイル的発想を導入することは、まさに「文化大革命」的な大事業にならざるを得ないでしょう。そこまで考え抜いているのか、甚だ疑問であります。

このこと、「やりながら考える」で済むことではなく、よく戦略・戦術を考えてから取り掛からなければならないものであります。

■行き当たりばったりへの逆行になりかねないアジャイル推し
そもそも、ウォーターフォール・モデルは、もっぱら職人芸的・「目分量」的に業務進捗を管理してきたソフトウェア開発現場に、工業生産のような管理体系を導入するために編み出された手法であります。それを「試行錯誤」の名の下に逆戻りさせないか注視する必要があります。

実際のところ、甘い見積もりや行き当たりばったりを取り繕うために「アジャイル・モデル」が引き合いに出されてきました。しかし、アジャイル・モデルと行き当たりばったりは根本的に異なるものです。

その点、矢萩氏の「アジャイル導入が進む各国では、小学生のうちからプロジェクト型の学びに親しんでいるため、社会に出ても柔軟で素早いプロジェクトチームを作りやすいのですが、日本ではそうはいきません」は、よくある海外出羽守にしても大袈裟ではないでしょうか? ごく一握りの優秀な層はそうであっても、全社会全階層がそのように鍛えられているかのような書き方は、事実に反するでしょう。

全世界的なポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)の風潮の中で黙殺されていることですが、特に欧米では、「努力」では埋めようがないくらいに人々の能力格差が深刻化していると言われます。たとえば、ペーパーテストの設問文が理解できない、何が問題として問われているのかさえも理解できない人たちが日本とは比べものにならないくらいに多いと言われています。これでは、ウォーターフォール・モデルだのアジャイル・モデルだのと言っている場合ではないでしょう。

■ウォーターフォール・モデルかアジャイル・モデルかという設問は、問題所在を取り違えてしまう――行き当たりばったりが正当化されて、ますます混迷が深まるだけ
ウォーターフォール・モデルかアジャイル・モデルかという設問は、問題所在を取り違えてしまうように思われます。そして、良くも悪くも計画を持ち規律ある日本「文化」に「行き当たりばったり」を正当化する口実を与えかねないものであると考えます。繰り返しになりますが、試行錯誤と行き当たりぱったりは全く異なるものなので、両者を峻別する必要があります。そしてこのことは、非常に重要で絶対に押さえなければならないことなので、「やりながら考える」ことではなく、よく戦略と戦術を練ってから取り掛かるべきことであります。

軍事作戦を見てください。戦略・戦術・作戦をよく練ってから行動に移しつつも、現場の戦況に応じて臨機応変に対応しますよね? それと同じことです。作戦等を墨守する必要はありませんが、まったく無計画では討ち死にするだけです。

日本の新型コロナウィルス対策やワクチン接種事業について政府批判の言説を含めて振り返ったとき、ウォーターフォール・モデルとアジャイル・モデルの悪いところだけが発揮されてしまったように思われます。

総路線として比較的に固定的であるべき部分で試行錯誤があったかと思えば、ドタキャン余剰ワクチンの処理のように現場裁量で柔軟に行うべきところで「計画性」が発揮されてしまいました。目的意識を持って本質を見抜く力が欠けているので、枝葉的な批判に動揺して総路線がブレてしまいました。かと思えば、公平・平等の建前に基づいく施策に固執してしまいました。

ここで単純にアジャイル・モデル推しをしようものならば、本質を捉えない滅多矢鱈なダウンサイジングとサブ・システム化だけが進み国家・社会はアノミー化するだけでしょう。行き当たりばったりが正当化されて、ますます混迷が深まるだけでしょう。


■大量の情報を効率よくシンプルに整理することを優先すべき
話がシステム開発上のアイディアの準用であるので、引き続きその線で話を進めると、「ロシアのソフト開発がいろんな意味で凄い」という記事が興味深いところであります。やまもといちろう氏の文体は少しふざけているようにも読めますが、内容は至ってマトモです。

ロシア人は伝統的にシンプルな構造設計のモノを大量生産することに長けています。T−34戦車やAK−47突撃銃など枚挙に暇がありません。その発想における片鱗をこの記事から読み取ることができます。「基幹」や「主系統」といった発想であり、樹形図的な整理であります。

大量の情報を効率よくシンプルに整理することは、ウォーターフォール・モデルでもアジャイル・モデルでも共通して求められることでしょう。そして偶然にも、日本の詰め込み教育的なカリキュラムは、否応なしに高度な情報整理能力を要求します。歴史科目、世界史の通史は顕著であります。

問題解決能力とは、情勢に応じて暗記した内容を思い出し、それらを適切につなぎ合わせる能力であると私は考えています。また、情勢判断とは座学や経験から学んだ過去の類似事例と眼前の現実との間の共通点を瞬間的に見出し、過去の類似事例の経緯を踏まえて現状を判断することであると考えています(本質的に統計学であるAI・人工知能の思考回路もこんなところであります)。それゆえ、暗記力が高いからといって問題解決能力が高いわけではありませんが、問題解決能力の前提には暗記した内容があるのです。つまり、問題解決能力の前提には大量の情報を効率よくシンプルに整理する能力があるわけです。この意味で私は、世界史が得意な人は情報整理能力が高いと個人的に考えています。

ウォーター・フォールモデルかアジャイル・モデルかという議論よりも、大量の情報を効率よくシンプルに整理する方法論を論じた方が遥かに有益だと思われます。アジャイル・モデルが単なる行き当たりばったりの正当化に堕落しないためにも重要なことであるはずです。

■アジャイル推しが行き当たりばったりの正当化にならないために
アジャイル・モデルの名の下での試行錯誤の「昇格」には注意が必要です。前述のとおり、ウォーターフォール・モデルは職人芸的な進捗管理を工業生産の管理水準に引き上げるために導入されたものですが、単純二分法的な「ウォーターフォール・モデルかアジャイル・モデルか」の二択においては、せっかく「工業化」されたものが「職人芸」に逆戻りしかねません。

日本の職場においては、依然として「職人気質」が残っています。「本社は現場のことを分かっていない!」や「コンプライアンス対策なんてやっていられないから、適当に誤魔化しておけ」といった会話はまったく珍しくないでしょう。現場が現実を一番よく知っているから現場の判断が一番正しい、本社は現実を知らない・・・

現場と本社は視点が違うだけでどちらかだけが正しいというものではないはずです。現場が眼前の事実を基に判断するのに対して、本社は各現場を越えた総合的・全体的な最適化を目指して判断するものです。本社が机上の空論を弄することもあるでしょうが、現場が井の中の蛙になっていることもあるでしょう。

試行錯誤は主に現場レベルで行われることですが、必要以上に試行錯誤を持ち上げると「現場の方が正しい」というある種の「職人気質」を助長しかねません。その行く末は「井の中の蛙」であります。単純なアジャイル・モデル推しは、システムとしての会社・職場を損ねかねないのです

ウォーターフォール・モデルかアジャイル・モデルかという設問は間違っています。

■「45歳定年制」は、「トリクルダウン理論」以来のインチキ――問うに落ちず語るに落ちる
すこぶる評判が悪い「45歳定年制」について。

企業レベル(ミクロレベル)の最適化と国家・社会レベル(マクロレベル)の最適化がゴチャ混ぜになっている、「トリクルダウン理論」以来のインチキと言わざるを得ません

「企業の新陳代謝」が進めば、そりゃ当該企業にとっては利益になるでしょうが、それが国家・社会レベルでの「成長産業への人材移動」に繋がるのでしょうか? そしてそれが国民福祉の増大に繋がるでしょうか? 「新陳代謝」というからには「排泄物」が発生するはずですが、その「処分」は誰がどうするのでしょうか? 誰が「食べもの」としての人材を用意するのでしょうか? まったく見えてきません。それぞれバラバラな希望的観測を並べ立てているにすぎず、そこに筋の通ったストーリーなどありません。

本気で「企業の新陳代謝を高め、国の成長産業に人材移動させる」というのであれば、それこそスウェーデンのように国家的な人材投資やソーシャル・ブリッジの構築が必要になるでしょう。いわゆる「北欧の福祉国家」は、通念とは異なり、経済産業政策は左翼が泡を吹いて卒倒するような新自由主義的なものであります。

しかしここで語られているのは、昨今の希望早期退職が引き合いに出されている時点で、労働者の個人的な「自己研鑽」への期待のみであります。何故か、もともとオワコンである東武「百貨店」の例を持ち出すあたり(デパートなんてリストラして延命――生き残りあらず――しかないでしょ)、そして最後の最後に二木章吉氏の「景気が回復すれば今度は業績の悪くない企業による早期退職の募集も増える可能性があるという。多くの企業が、40代、50代のボリューム減らし、全体の若返りを図りたいからだ」で持ち出してきたあたり、よく分かっていない人たちを騙そうとする魂胆はミエミエであります。「問うに落ちず語るに落ちる」とは、まさにこのことをいうものであります。

ここには、国家的な人材投資やソーシャル・ブリッジの構築など、影さえも感じられないものです。焼畑式経営以外の何物でもありません。これ、歴史的に悪質な扇動記事として記憶にとどめるべきですよ、ほんと。

■必死に取り繕っても、元が元だから無意味
ここにきて新浪発言について、その内容を微妙に書き換えながら擁護する言説や記事が複数出てきています。「観測気球」が「地対空ミサイル」で迎撃されたかの如く予想外の猛反発だったので、必死に火消しに追われているのでしょう(実際、不用意な新浪発言で連中の狙いは数年単位で遠のいたでしょうね)。

これらの取り繕いもまだまだ浅い。まあ、浅はかで一方的なプルジョア的利益追求でしかないのだから、深くなるわけがないのですが。「45歳定年制に憤る人に知ってほしい働き方の現実」(9/16(木) 11:31配信 東洋経済オンライン)という記事のコメ欄に付いているコメントが全て言い尽くしています。以下。
この手の制度は、働き方を選択できるオプションを与えるだけだと言って制度を導入し、その実態は肩たたきに都合よく利用されてきたという歴史がある。

仮にその制度自体はいくら正しくても、制度を悪用する連中について何の対策も講じなければ、世の中に納得されるわけがない。

その対策を説明しないのは、説明が下手くそなのか、最初から悪意があって故意に説明しないのかどちらかであろう。
また、経済評論家の門倉貴史氏もいいこと言いますね。「多様性」談義は、ポリコレを見ればわかる通り大抵はロクでもないものですが、今回ばかりは正当です。
門倉貴史
エコノミスト/経済評論家

アフターコロナ時代の経営戦略として注目されているのが「ダイバーシティ経営」だ。多様性が発揮されず、同じような考え方を持つ社員だけで組織が構成されると、新しいアイディアの創出やイノベーションが起こりづらくなり、企業業績や生産性にもマイナスの影響が出てくるだろう。ダイバーシティ経営とは年齢、性別、人種、宗教、職歴、趣味嗜好などの多様性を活かして、企業組織における生産性の改善や競争力の強化を目指す戦略だ。実際にダイバーシティ経営を実践している企業では生産性の改善が確認されてもいる。その点、45歳定年制は、年齢の多様性を尊重しない経営戦略であり、中高年層の経験や考え方が経営に活かされなくなることで、かえって企業の生産性や業績に悪影響が出てくるのではないか。

■労働者も強か、ますます「腰掛化」が進み、システムとしての会社は機能低下・機能不全に陥る
ところで、ブルジョアも悪辣ですが今や労働者も強かです。ますます「腰掛化」が進むでしょう

かつて一世を風靡した「成果主義」は、労働者のヒラメ化、すぐに形に現れる仕事にばかりが人気になる現象を引き起こしましたが、そりよりも酷いことになるでしょう。

成果主義は、評価者の工夫次第でシステムとしての会社組織の維持に必要な、地道で泥臭い仕事に労働者を差し向けることができました。まだ労働者たちが上司の顔色を窺っていたからです。

しかし、労働者が自分のキャリアアップを第一に考えて会社を渡り歩くようになると、もはや労働者は在籍企業の方向ではなく転職市場の方向を向いて行動するようになります。そのマインドは個人事業主のそれに近くなるでしょう。会社内でクリーム・スキミングのようなことが発生するでしょう。他方、何とかしてしがみつこうとするあまり冴えない労働者だって、40歳くらいで自分が有望株かどうかくらいは分かるでしょう。一気にやる気をなくし40歳にして「消化試合」を始めることは、いまの55歳くらいを見れば目に見えることであります。

国家であれば公共部門が尻拭い・後始末をしてくれますが、会社内にそんなものはありません。ある程度はメンバーシップ採用人材を残さざるを得なくなるでしょうが、優秀な人材が企業を渡り歩く時代で、あえて腰を据えて一企業のつまらない火消し業務に奉仕する人が「優秀な人材」なのでしょうか? 結局、システムとしての会社は機能低下・機能不全に陥ることでしょう。

■総括――同じ「フルジョア根性」を持った人間同士なのだから
上に政策あれば下に対策あり。御上が露骨に私的利益追求に乗り出せば、同じように下々も上手く立ち回って私的利益を確保しようとするものです。同じ「フルジョア根性」を持った人間同士なのだから。ハルマゲドンは近い。
ラベル:社会 経済
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2021年09月09日

「とにかく政府はコロナ禍を今すぐ何とかしろ!」はどのように誤っているのか・・・朝鮮民主主義人民共和国の先進性との比較

新型コロナウィルス禍について。以前であれば、「ロックダウンを!」だの何だのと、具体的な段取りについては言及はなくとも一応の総路線的な要求は出てきたものでした。しかし今や総路線的要求さもなく、ただ「とにかく政府はコロナ禍を今すぐ何とかしろ!」程度のものしか出て来なくなりつつあります

たしかに、「それを考えるのが政治家や役人の仕事」というのは一面においては正しい指摘です。社会的分業の時代だからです。しかし、専門知識をもった担当者・専門家たちが考え抜き、実現可能な手を尽くした末に今があります。専門家とて神ではありません。「専門家たちが手を抜いている」というのであれば、そう主張する側に具体的な証拠をを提示する義務があります。それができないのならば、トランプ前アメリカ大統領の「不正選挙」の訴えにも劣る言いがかりです。

近頃の世論はこのように、「自分から見えるもの」にのみ依拠し、「公平な観察者」どころか「他人から見えるもの」=他人の側の都合に思慮が至らない一方的な物言いがしばしば出てきます。今回は、この背景について過去に述べてきたことを総合しつつ纏めてゆきたいと思います。

今回は、昨今しばしば見られる一方的な物言いを次の3つに分類することを試みます。
(1)中途半端な「御上」意識と国民主権・社会的分業意識のハイブリッドのケース
(2)時代錯誤的な要求運動のケース
(3)消費者意識の奇形的肥大化による無い物ねだりの駄々っ子的クレーマーのケース

■神ではないので出来ることと出来ないことがある、社会的課題の解決のためには自分自身も積極的に協力や・参画する必要がある
まず、(1)中途半端な「御上」意識と国民主権・社会的分業意識のハイブリッドのケースについてです。

○社会的分業の徹底的な専門細分化に伴う超知識労働社会への社会変化
社会的分業の時代において、社会を維持発展させることを職業とする政治家や役人たち対して社会的課題の解決策を編み出すよう求めること自体は間違ってはいません。「自分自身は個人レベルでの感染拡大防止対策をしっかり講じているが、世の中にはそれが不十分な人たちもいあるので国にはしっかり啓蒙指導、場合によっては取り締まってもらいたい」というのは当然の求めです。現代は国民主権の時代であり君主が慈悲的に統治する時代ではありません。

しかし、彼らも神ではないので出来ることと出来ないことがあります社会有機体の中で「がん細胞」のように勝手な振る舞いを展開する手合いを常勝的に制圧・鎮圧できるわけではありません

神でもなければ実現し得ないような無茶で現実性の乏しい要求が展開されている現実については、まず、昨年7月26日づけ「コロナパニックと「駄々を捏ねているお子ちゃま」」や4月15日づけ「社会的分業を見つめ直す必要:キム・イルソン同志生誕記念」で述べたとおり、社会的分業の徹底的な専門細分化に伴う超知識労働社会への社会変化、そしてそれによる各自の仕事内容のブラックボックス化が大きく関係していると考えられます。

社会的分業が高度化・専門化されている現代においては、他人の仕事内容の現実的な妥当性;「このご時世、この程度であれば、手を抜かずに力を尽くしたと言えるだろう」といった常識的な相場感覚と評価付けが難しくなりつつあります。そうした背景ゆえに、自分の物言いが妥当なのか行き過ぎているのかが自分でも分からず結果的に一方的な物言いになってしまうのだとも考えられるのです。

かつて、まだ社会的分業が未熟で専門的細分化が進んでいない時代においては、人々は、取引相手側の事情について凡その察しをつけることができました。材料の仕入れや運搬、各種調整にかかる所要時間や仕事の進め方、そして仕上がり具合はだいたい見当がつくので、詳細までは分からなくても受注側が最善を尽くしているのかは、推測可能だったわけです。また、所要の手間暇や各方面への根回し・気遣いの大変さについてもだいたいどの世界・業界でも同じなので、無理筋な要求を突きつけるには躊躇いが生じるものでした(突きつけたところで仕方がない)。

しかし昨今は、社会的分業が徹底的に専門細分化されたことにより、他人の仕事内容への想像力や推理力が働きにくくなっています。また、BtoCレベル・日常的購買のレベルでは即日配送のようなスピーディなサービスが溢れかえっているので、量産品消費者としてのスピード感ですべてを判断しがちになっています。

そして、4月18日づけ「ワクチン接種の混乱が斯くも問題になるのは、「事前の緻密な計画」及び「計画の忠実な執行」にこだわる日本の教育制度・受験制度・就活慣習のため」で指摘したことですが、ここに「『緻密な計画立案能力』と『計画どおりタスクを遂行する能力』を持つ者こそがエリート」という日本的な観念が合流すると、前代未聞のパンデミックにおいても「事前の緻密な計画」と「計画の忠実な執行」が当然のごとく要求されるようになるわけです。

結果、モノの道理が分からなくなってきた人々、ある意味で「バカ」になってしまった「サービスを受ける側」は、ただひたすら自分の都合を並べ立てるようになり、サービスを「提供する側」の事情を踏まえなくなるというわけです。

○「救世主」願望が伝統的な「御上」意識と融合した
また、昨年7月11日づけ「コロナパニックの裏返しとしての「キレイな独裁」論」で述べたとおり、「救世主」願望が伝統的な「御上」意識と融合したと見ることも可能でしょう。

すなわち、新型コロナウィルスに恐れ戦く人々は、その不安を解消するために「魔法」のように良く効く事態打開策を渇望していたものと思われます。不安が大きくなればなるほど、更に大胆に事態を打開してくれる「奇跡」を求めるようになり、結果として「奇跡」を起こしてくれる「救世主」の登場を渇望するようになったものと思われます。不正と腐敗、貧困が蔓延るロシアの一部国民の間でいま「スターリン人気」が再燃しているのと関連して考察すると興味深いものが見えてきます。

ここで「相場感覚」が失われてしまうと、「救世主」や「御上」に対する願望・希望に歯止めが掛からなくなります。もちろん為政者が「魔法」や「奇跡」を操れるわけがないので、過剰な願望・希望が「裏切られた失望」は大きくならざるを得ません。この「失望」が一方的な物言いになっているわけです。

○「近代理性主義の副作用」
さらに、一方的な物言いにおいては、台湾やニュージーランドなどとの「比較」、すなわち「台湾やニュージーランドでは上手く行っているのに、なぜ日本ではできないのか」といった批判が氾濫したものです。こうした物言いの誤りについては、結論から言ってしまうと、「これらの国・地域は人口小国だから上手く行った」のであり、人口大国である日本にそのまま適用できるものではありません。物理的世界においては、観察対象のスケール・階層によって適用すべき物理法則が異なってくるので、異なるスケール・階層の物理学研究及び人為的改造のためには異なるアプローチが必要になります。昨年5月18日づけ「1億3000万人を対象とした国の仕事と、芸能人のマネジメントが同じ難易度なわけがないw:教養としての物理学のススメ」などでも述べたとおりです。

もっと平易に言えば、中小企業のマネジメント方法と大企業のマネジメント方法は、従業員数の著しい違いのため異なる方法で取り組まなければならないのと同様に、人口小国の統治と人口大国の統治もまた異なる方法で取り組まなければならないのです。こうした量的及び質的な差異を混同・無視した比較からは何の科学的な見地も出てきません。

こうした非科学的な物言いが大手を振って出てきた事実は、科学的世界観が日本世論において欠如していることを示していますが、同時に興味深くも頭が痛いことに当の本人はこれが科学的だと信じて疑っていません。こうした、よく言えば「等身大の感覚」、悪く言えば「素人考え」を信じて疑わず非科学的な比較をあたかも科学的だと致命的にも思いあがっている風潮は、「近代理性主義の副作用」と言えるでしょう。

○「やる主体」は国民自身;社会的課題の解決のためには自分自身も積極的に協力や・参画する必要がある
ところで、社会的課題の解決のためには自分自身も積極的に協力や・参画する必要がありますキム・ジョンイル総書記が『社会主義建設の歴史的教訓とわが党の総路線』(チュチェ81・1992年1月3日)で指摘されたように、「人間が社会的財貨をもち、社会的関係で結ばれて生活する集団がすなわち社会」であり「社会の主人はほかならぬ人間」であるからです。

しかし中途半端な「御上」意識の持ち主には、「御上が何とかしてくれるに違いない」といった親方日の丸意識のようなものがあるようです。最近物議を醸しているロックフェス騒ぎでも「感染対策は政治家が考えることであり、オレたちの仕事は楽しむことだ」という趣旨の主張がありましたが、これもまた一種の「御上」意識というべきものです。

いくら国の責任は重いとはいえ、津々浦々を常に監視しているわけではないし、なによりも、国の啓蒙や指導・取り締まりは、あくまで国民各自に「やれと命ずる」ものであり「やる主体」は国民自身であります。そして、システムとしての社会・社会有機体の中で「がん細胞」のように勝手な振る舞いを展開する手合いを国が常勝的に制圧・鎮圧できるわけではありません。この点で「御上」意識は間違ったものであると言うべきであります。

○設計主義的な社会観の影
なお、この「御上」意識には、おそらく設計主義的な社会観が潜んでいるものと思われます。優秀な政治家や役人たちであれば社会を意のままに操ることができるという夢想です。こうした夢想があるからこそ「優秀な政治家や役人たにだって、出来ることと出来ないことがある」とは考えられず、要求が実現しない場合に「なぜ、やらないんだ」という批判をしてしまうのだと思われます。

たとえば昨春の「マスク不足」。これを解消するためには生産能力の増大に取り組まなければ根本的には解決し得ず、工場等の新設による生産能力の増大には数か月から年単位の時間が必要であるにも関わらず、あたかも政治が魔法のようにマスク不足を直ちに解決できるかのような過剰な期待が生じ、その裏返しとしての激しい政府批判がみられました。

結局、古くからの「お上が何とかしてくれる」観念が「国民主権」と合流することによって「行政なんだから何とかすべきだ」といった形で正当化されて現代でも生き延びているのでしょう。成熟した市民社会に主体面でなり切れていないわけです。

■いまどき「市民革命」を運動スローガンにしているようでは白けるだけ
○社会はシステムでありそのメンバーは少なくとも呉越同舟的な関係
次に、(2)時代錯誤的な要求運動のケースについてです。このケースは実際にはあまり頻度高くお目にかかるものではありませんが、未だに封建時代や絶対王政時代の社会観、一揆や直訴、あるいは「市民革命」のノリで為政者に要求を展開するケースがまれに見受けられます

参政権が保証されておらず人民が正に被支配者であった時代であれば、一方的な物言いで要求を強硬に展開したり責任を追及したりするスタイルもあったでしょう。何といっても、自分たちは権力に指一本も触れることが許されていない以上は、失政にはまったく責任はないのだから。

他方、参政権が保証された国民主権の時代にあっては、もはや国家は建前上は共同社会と化しています

もちろん実際には、たとえば経済生活においては階級が厳然として残存しており、それが政治生活にも深刻な影響を及ぼしています。決して「真の」共同社会ではありません。

しかし、社会はシステムでありそのメンバーは少なくとも呉越同舟的な関係にあります。階級の区別はあっても社会共同の利益がまったく存在しないなどということはあり得ませんキム・ジョンイル総書記も『民族主義にたいする正しい認識をもつために』(チュチェ91・2002年2月26日及び同28日) において「もちろん、民族を構成する各階級、各階層はかれらの相異なる社会的経済的地位からして、階級的要求と利害関係が異なります。しかし、各階級、各階層の利害を超越して民族の自主性と民族性を固守し、民族の隆盛と発展を遂げることに関しては民族の構成員全体が共通の利害関係をもっています。それは、民族の運命はすなわち民族構成員の運命であり、民族の運命そのものに個人の運命があるからです」と指摘されているところです。

また、階級の区別があり真の共同社会とは言い難いとしても、少なくとも現段階は政治生活においては形式的な平等が達成されるようになった過渡期初期として捉えるべきであり、きたるべき完全な共同社会の第一段階として捉えるべきであります。

チュチェ思想国際研究所事務局長の尾上健一氏は、『自主・平和の思想』で過去の社会主義運動について次のように指摘しています。
 レーニンが指導したロシアで、1917年、革命が勝利し、労働者階級が政権を握る社会主義社会が史上はじめて誕生しました。

 政権を獲得するまえの労働者たちの闘争課題は、賃金を上げることを中心とする労働条件の改善でした。労働者たちは政権につくまえは、社会主義思想を身につけていたわけでもなく、国家全体のことを考えたこともありませんでした。主に個人の要求を実現するためにたたかってきたため、運動の過程で民衆のことを思う気持ちは十分に形成されませんでした。

(中略)
 またマルクスは、社会主義的生産様式が樹立されれば、人間関係も豊かになっていくとしましたが、現実にはそのようにはなりませんでした。生産関係をかえればおのずと人間がかわるわけではないということは明らかなことです。
いまから始める必要があります。いまから、自らも共同社会の主人であるという姿勢で臨むべきと考えます。いつまでも封建領主や絶対的王権と闘うようなスタイルで臨むのは時代錯誤的であります。市民革命が依然として不完全であり、自由・平等・博愛が完全には実現していないことは私も認めるところですが、かといって今どき「市民革命」を運動スローガンにしているようでは白けるだけです。

このご時世に「市民革命」を云々する手合いは、裏を返せば、依然として「被支配者根性」、つまり「『される側』の根性」を引きずっているということに他なりません。しかし、人民大衆は不完全な境遇であっても既に主体として歴史の発展の道を歩み始めています

○社会的課題の解決のためには自分自身も積極的に協力や・参画する必要がある
そもそも、社会的課題の解決のためには自分自身も積極的に協力や・参画する必要があります。為政者に要求するだけではなく、自分たちの問題として積極的に取り組み、取り組みが不十分な隣人に対しては為政者の指導を補完する形で社会的課題の解決に協力する必要があります。

このことは、参政権の保証などといった制度的な問題に先立つ、社会システムの本質的な特徴であります。その意味では「要求運動」というものは、社会を科学的に分析した上での方法論とは言い難いものとみなすべきかも知れません。

■主権者でありながらクレーマーのように喚きたてることは、特大ブーメランに繋がる
○真の意味での国民主権の国とは到底言えない
(3)消費者意識の奇形的肥大化による無い物ねだりの駄々っ子的クレーマーのケースについて。これは、「お客様は神様」をここにも持ち込んで当然のごとく要求を丸投げし、そして要求が満たされぬや否やクレーマーのように喚きたてるものです。

基本的にクレーマーと考えればよいものですが、前述の、知識経済化と社会的分業の高度化・専門化による各個人が従事する仕事内容のブラックボックス化という背景ゆえに、往々にして無い物ねだりの駄々っ子になっているものです。

こうした手合いは、消費者と主権者との違いを理解していません。消費者は、対価の支払いと引き換えに一定水準の成果物やサービスを一方的に要求することができる者です。他方、主権者は、サービス等を受ける側でありつつ同時にそれを供給する側でもあります。主権者は社会の共同運営者なのです。

それゆえ、一方的な物言いは特大ブーメランになります。知識経済化と社会的分業の高度化・専門化による各個人が従事する仕事内容のブラックボックス化という背景があるとはいえ、サービス供給側でもあるのだから一方的な物言いは避けるべきなのです。自分たちの社会の主人としての責任と矜持を持てばこそ、批判のための批判などは最も恥じるべきでありクレーマー気質の喚きとは一線を画すべきと考えます。

この点、一方的なクレーマー気質の言説が全社会的課題としての新型コロナウィルス禍において出てくることは、現代日本が真の意味での国民主権の国とは到底言えないことを示していると言えるでしょう。依然として「被支配者根性」、「『される側』の根性」であるわけです。

政治における国民主権は、未来社会としての協同社会・社会主義社会;政治・経済・思想文化において人民大衆が主人としての地位と役割をまっとうする社会の第一歩であります。協同社会とは国民主権・民主主義の全面的な実践に他なりません。その点、現代日本の協同化は依然として厳しいものがあると言わざるを得ないところであります。

○主権者どころか消費者としても「失格」、資本主義社会の維持さえも困難にする
「カスハラ」が問題視されている昨今においては、消費者といえども広い視野、相手の立場や事情を踏まえる姿勢、「公平な観察者」としての振る舞いが求められています。もともとアダム・スミスが指摘したとおり、市場経済においては参加者たちは公平な観察者としての振る舞いが求められているものです。「公平な観察者」は市場主義の主体面での前提です。

この意味で消費者意識を奇形的肥大化した手合いは、主権者どころか消費者としても「失格」と言わざるを得ません。「日本人は社会主義なんか目指していないからコレいいんだ、未来永劫、資本主義でいいんだ」としても「そもそもあんたらは、資本主義が前提にしている人物像にさえ及んでいない」と言わざるを得ません。こういう手合いが幅を利かせているようでは、協同社会化・社会主義化が無理なのは勿論ですが、資本主義社会の維持さえも困難にすることでしょう

○再三の指摘;社会的課題の解決のためには自分自身も積極的に協力や・参画する必要がある
再三の指摘になりますが、やはり、「やる主体」は国民自身であり、社会的課題の解決のためには自分自身も積極的に協力や・参画する必要があります。社会はシステムである以上は、すべてのシステム構成要素がそれぞれの地位と役割に応じ、社会システム全体の挙動に注意を払う必要があります。為政者とて神ではないので、社会有機体の中で「がん細胞」のごとく勝手な振る舞いをする手合いを常勝的に制圧・鎮圧できるわけではありません。決して為政者の政策だけで社会的課題が解決し得ないのです。

○消費者意識の奇形的肥大化が政治生活にも侵食してきている背景
消費者意識の奇形的肥大化が経済生活に留まらず政治生活にも侵食してきていることについては、カール・ポランニーの経済人類学的な見解を引いて検討しておきたいと思います。すなわち彼は、資本主義社会は、社会活動の一部分して経済活動が組み込まれていた前資本主義社会とは逆に、経済活動が社会活動を呑み込んでしまい経済の論理が政治などにも波及してしまっているといいます。

そうした現代資本主義の在り方が大衆意識にまで刷り込まれてしまっていると考えられないでしょうか?


これら様々な理由により、現代日本では、自分ではとてもできないような大層な話を平然と、それも偉そうに要求することを憚りもしない風潮、「無知無能」な手合いが専門家たちを罵倒する倒錯した異常事態になっているのであります。

■各ケースに共通することと、そこから見えてくるもの(1):疑心暗鬼
上述の各ケースに共通することと、そこから見えてくるものは次のとおりです。

第一にやはり、「誰かがやってくれるに違いない」や「やって当然」という過度な期待の存在です。

もちろん、再三述べているとおり「ブラックボックス化」という背景があるのである程度は仕方のないことです。しかし、専門知識を持った担当者たちが考え抜き手を尽くした末に現状があると考えれば、一方的な物言いはできないはずです。

他人を斯くも信用できない現代日本の様相を見て取るところであります。そして、めったやたらに「他人が手を抜いている」ことを疑うということは、実は自分自身が手抜き気質であることを自白しているようなものであります。「隙あらば手抜き」が実は真の日本精神なのかもしれません。

■各ケースに共通することと、そこから見えてくるもの(2):精神年齢の低さ
自分の要求が満たされぬや否やクレーマーのように喚きたてるというのは、精神年齢があまりにも低すぎると言わざるを得ないものです。資本主義がもたらした消費社会が消費者意識の奇形的肥大化を引き起こしたとすれば、資本主義の市場経済が人間精神にもたらす悪影響は極めて甚大であると言わざるを得ません。

また、資本主義の市場経済にこれを是正する展望が非常に乏しいという事実に正面から立ち向かう必要があると言えます。

■各ケースに共通することと、そこから見えてくるもの(3):正しい社会観の欠如
第二に、正しい社会観の欠如が見えてきます。

上述したとおり、「人間が社会的財貨をもち、社会的関係で結ばれて生活する集団がすなわち社会」であり「社会の主人はほかならぬ人間」であります。つまり、社会の本質は「人間同士の関係性」なのです。

そしてこの関係性はシステム的であるというべきであり、その構成要素は個々人であります。

システムとしての社会の目標達成のためには、まさにそれがシステムであるがゆえに、それを要求する側つまり自分自身も積極的に協力・参画する必要があり、決して一方的に要求ばかりしていて済むものではありません

社会はシステムである以上は、すべてのシステム構成要素がそれぞれの地位と役割に応じ、社会システム全体の挙動に注意を払う必要があります。為政者とて神ではないので、社会有機体の中で「がん細胞」のごとく勝手な振る舞いをする手合いを常勝的に制圧・鎮圧できるわけではありません。決して為政者の政策だけで社会的課題が解決し得ないのです。

このことを理解せず、正しい社会観を持たず、国のコロナ対策以上に破滅的な状況にあるのがシステムトラブルを短期間で連発しているみずほ銀行であります。また、あまたある失敗したコンピューターシステムの導入プロジェクトであります。

まさに全員が全員「他人事」。丸投げと無責任が蔓延った末の失敗、実現可能性の乏しい要求を展開するド素人の発注者が全責任を業者に被せ次々とシステム開発業者を交代させてゆく展開です(関連記事:今年5月3日づけ「한사람같이 떨쳐나서자!」)。

その点、新型コロナウィルス対策に比較的成功している朝鮮民主主義人民共和国は、≪한사람같이 떨쳐나서자!≫(一丸となって立ち上がろう!)のスローガンの下、すべて人民が社会の主人としての意識高く防疫戦に参加することで対応しています。

アメリカによる長年の封鎖によって世界的にも医療体制が脆弱な部類に入る朝鮮民主主義人民共和国ですが、しかし、朝鮮人民はああだこうだと文句を垂れるのではなく、所与の条件下において一丸となって自分事として防疫戦に参加しています。もちろん、党や政府、最高指導者に対して文句は言いにくいでしょうが、アメリカへの文句であればいくらでも口にする事ができます。しかし、朝鮮の人民は「文句ばかり言って自分では何もしない」のではなく、自らの力に依拠して一人残らず全員が一丸となって事態の打開に取り組んでいるのです。

これは、政府の呼びかけ云々以前に、何よりも社会の主人としての個々人の自覚に他なりません。自分自身も社会の共同主人なのです。

朝鮮民主主義人民共和国における国家防疫事業の展開は、日本のにおける国家防疫事業の深刻な混乱状況に対して「いかにして主体を社会制度的に養成して対応すべきか」という課題を提起しています
。もはや空中分解寸前の状況に対して重要な提起をしています。

■総括
新型コロナウィルス禍は日本の世相をよく示しています。百年に一度のパンデミックにおいてさえ団結しきれない国民が未来の共同社会・協同社会を築く主体になれるとは到底思えないところです。また、この世相は、20世紀から21世紀前半にかけての世界観・社会歴史観の総決算であると言えそうです。

その点、協同社会を築く主体の準備においては、朝鮮民主主義人民共和国の先進性は目を見張るものがあります朝鮮民主主義人民共和国創建73年を熱烈に祝賀します!
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2021年09月03日

菅氏総裁選不出馬表明で総選挙直前に格好の批判相手を失ってしまった野党。組織を中心とした社会観に基づく政治戦略を立てる必要がある。

https://news.yahoo.co.jp/articles/6c968abbf16d9e5b9399206394a84394cf05f6b4
菅首相、辞任へ 自民総裁選に不出馬表明「選挙との両立は莫大なエネルギー必要」
9/3(金) 13:12配信
京都新聞

 菅義偉首相は3日午後1時、記者団に対し、「総裁選に出馬を予定していたが、新型コロナ対策と選挙との両立は莫大なエネルギーが必要。新型コロナ対策に専任したい」と、自民党総裁選(9月17日告示、29日投開票)に立候補しない意向を表明した。菅政権は、就任から約一年で幕引きを迎える。

(以下略)

https://news.yahoo.co.jp/articles/b011479192dba9126ecd607d855a88a8d12cbe48
田崎史郎氏 菅首相の総裁選不出馬のワケを推測「菅さんを支持する派閥が総崩れしている状況」
9/3(金) 13:04配信
スポニチアネックス

(中略)
 その上で「しかしながら僕が見ていると、気持ちは揺れていましたね、続けるか、それとも引くか」と言い「その大きな要因は議員の支持をどれくらい固められるかということを見ていたんだと思います。党員党友選挙では多少不利だろうなっていう予測はつくんですが、議員票を固められるかどうかってことです。前回支持した細田派、麻生派、竹下派、二階派。支持するって声が二階さん以外から上がってこないんですよね。主要な派閥が様子見状態に陥っていた。そうすると、どうも固まらなんじゃないかと。いわば菅さんを支持する派閥が総崩れしている状況。そこでこれは出ても勝てないという判断を下されたのでは」と自身の見解を述べた。
「失敗の責任を取って職を辞する」という風習は、日本ではあまりにも自然の流れになってしまっています。為政者も反対者も「失敗したら辞めるもの」という考えに染まり切っています。それゆえに今更この風習に疑問は出てきにくいものですが、考えてみれば奇妙な話です。

幾つかの取り得るプランがある中で、リーダーが敢えて特定のプランに固執したところ失敗したというのならば、事態打開のための辞職申し出を歓迎してメンバーの一新を図るべきでしょう。しかし、我々が直面している新型コロナウィルス対応は世界的に見ても非常に困難な問題であり、誰も抑え込みに成功していません。プランの選択肢はほとんどないと言ってよい状態にあります。よって、菅氏が辞職したところで事態が打開できるとは到底思えないものであります。だれが首相でも大差ないものと考えられます。

このあたり、安倍一強による忖度構造の打破や、公文書管理体制立て直しとは違います。これらについては、さすがに自民党内でも異論があり、そして異論派が実権を握れば状況が大きく変わる見通しがありました。それゆえ、コロナ禍以前の安倍おろしには意義がありました。

とくに、自民党総裁(+幹事長?)が職を辞したところで、政権は依然として自民党にあります。また、「政治主導」のスローガンが提唱されて久しい日本ですが、未だ以って政策は「官僚主導」で推進されているところです。あの民主党政権だって官僚主導を廃絶できなかったのですから。このあたりに一切メスを入れずに神輿だけ挿げ替えたところで事態の打開が生じるはずもありません

こんな状況下で「コロナ抑え込みに失敗したのだから辞めろ」とか「たしかに失敗したので辞めさせていただきます」を繰り返したところで何か抜本的に変わるわけでもないので、当然、その結果が変わるわけがありません。むしろ、政権引き継ぎに伴う権力の空白期間・スタートアップに伴う低空飛行期間が繰り返されることによって、一時も緩めてはならないはずの諸々の対策が疎かになりかねないものであります。

この展開、まさに5月3日づけ「한사람같이 떨쳐나서자!」でも述べた、システム開発においてしばしば見られる、「実現可能性の乏しい要求を展開するド素人の発注者が全責任を業者に被せ、次々とシステム開発業者を交代させてゆく典型的な失敗プロジェクト」と瓜二つの展開です。

その点、戦後ほぼ一貫して政権を握り続けてきた自民党はやはり、統治を続けるためにはどのように民心を欺けばいいのかよく分かっています。ある意味で「国民感情がよくわかっている」というべきです。そのことは今回の菅氏の電撃的な総裁選不出馬表明に色濃く現れています。

今春以来、選挙のたびに負け続けてきた自民党。このまま総選挙に突入すれば、野党転落の可能性こそないとはいえ大きく議席を減らすことは避けられないところです。それゆえ今回の菅氏の総裁選不出馬決断の魂胆はあまりにもミエミエであります。結局のところ菅氏は、自民党内での権力闘争に負け、党組織の延命のために自らの総裁職・首相職を明け渡したわけです。これによって自民党組織は、来る総選挙において負けを少しでも小さくするために全責任を菅氏に擦り付けることができるようになりました

国民感情が「実現可能性の乏しい要求を展開するド素人の発注者が全責任を業者に被せ、次々とシステム開発業者を交代させてゆく典型的な失敗プロジェクト」に親和的なのを逆手に取り、自ら「システム開発業者を交代させてゆく」ことで、何か進んでいる雰囲気を出し誤魔化そうというわけなのです。

そして、長引くコロナ禍で救世主・メシア待望論が更に強まっている世論は、「菅氏を切り捨てることによって党としての権力を維持する」という自民党組織の魂胆を見抜くことなく、それどころか「新しいリーダーに期待!」などと反応することでしょう。安倍前内閣を一貫して支えてき、安倍氏の「共犯」だった菅氏の当初内閣支持率は6割を超えていました。安倍内閣の官房長官が首相にスライドしたところで事態が抜本的に解決するわけがないのに、それがまた再現されることでしょう。結果的に次の総選挙では自民党は劣勢を些か持ち直すことでしょう

このように「責任を取っての辞任」という現象は、実際のところは「リーダーを切り捨ててでも組織を生き永らえさせる」という意味において、「トカゲのしっぽ切り」の亜種に過ぎないのです。

そういった自民党の政権与党としての振る舞いをよく知っている野党各党としては、今回の菅氏の電撃表明に非常に狼狽しているようです。焦りのあまりこんなことを言ってしまいました。
https://news.yahoo.co.jp/articles/e9971146336e2ba8a1b1af611e0b85034672bb88
立民「無責任」共産「投げ出した」国民「コロナ対策失敗」
9/3(金) 13:10配信
読売新聞オンライン

 菅首相の退陣表明について、野党からは「コロナ渦の中での辞任は無責任だ」との批判が相次いだ。

 立憲民主党の安住淳国会対策委員長は記者団に、「衆院議員の任期が残り50日を切った中で、政治日程を一切決めないままに放り投げるのは無責任だ。国政の停滞にもつながる」と批判した。

 共産党の小池書記局長は「政権運営に行き詰まり、首相の座を投げ出した。コロナ対策への責任を放棄することになり、自民党にも共同責任がある」と述べた。

(以下略)
つい数日前まで「権力にしがみついている」「早く辞めろ」と言っていたのに、いざ自ら事実上の辞意表明をすれば「無責任」「投げ出し」とは、かなり苦しいものがあると言わざるを得ません。案の定「何でも反対野党の面目躍如」として捉えられてしまっています。安倍前首相に「無責任」「投げ出し」というのはまだ理解可能でしたが、任期満了に伴う総裁選には立候補しないとした菅氏に対しては流石に苦し過ぎると言わざるを得ないでしょう。

「原稿棒読みで自分の言葉で語っていない」を初めとして、菅氏個人の「総理としての資質」を問う個人攻撃のような批判を繰り返してしまったツケが回ってきました。やはり、自民党組織として政権与党の資格がないと主張すべきだったのです。

たしかに、コロナ禍で救世主・メシア待望論が更に強まっている世論への訴求力という点では、カリスマ的指導者に対する個人崇拝が組織の結束を固めるのとはちょうど反対に、「顔のない党組織」よりも「顔のある党総裁」を批判の槍玉にあげた方が強かったでしょう。しかし、安易な方法に流れ過ぎてしまったというべきです。組織は、いざとなれば組織そのものの延命のためにリーダーさえも切り捨てるものなのです。

今回菅氏は自民党組織そのものの延命のために切り捨てられてしまいました。その道筋を掃き清めていたのが、他でもなく菅氏の「総理としての資質」を狙い撃ちしていた野党勢力でした。自民党組織とその利権構造を正しく批判し、コロナ禍を克服するためには利権に縛られた自民党では役不足だと主張すればまだ可能性があったのに、いざとなれば切り捨て可能な「菅義偉という個人」に対する攻撃ばかりを展開してしまったわけです

組織を中心とした社会観に基づく政治戦略を立てる必要があるといえます。
ラベル:政治
posted by 管理者 at 18:49| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする