https://news.yahoo.co.jp/articles/4157be32cca91d81ff6ee283e296aa3a7420926a「必ず独裁と貧困をもたらす」それなのに社会主義に共感する人が多いのはなぜなのか
11/21(日) 12:16配信
プレジデントオンライン
(中略)
■脱成長こそおとぎ話だ
災害大国である日本は昔から深刻な水害に何度も見舞われてきた国だが、水害の被害額の対GDP比率や死者数は経済成長に伴って高度成長期以降、大幅に低下している(図表2)。経済成長とは、まさに人類の素晴らしいサクセスストーリーである。貧困をなくし、世界を豊かにしてきたのは経済成長であり、経済成長を可能にした資本主義である。経済成長を罵倒したところで温暖化問題は解決しないし、脱成長にすれば自然と調和して人類は幸福に暮らせるというのは全くのおとぎ話というしかない。
温暖化についてはまだわかっていないことも多いが、気候変動と闘うためにも革新的な資本主義経済が不可欠であることは間違いない。チェルノブイリ原発事故などを想起すれば容易に理解できるように、社会主義体制が温暖化対策に有効である可能性は極めて低い。社会主義体制は経済成長せず、国民を豊かにできないだけでなく、合理的な資源配分メカニズムが欠如しているため、環境にも最悪の影響を与える全くとるところのない体制である。
豊かになることを望み、自由なライフスタイルを楽しみたいと考えるのは人間の自然な本性である。経済成長は誰かが無理やり作り出したものではなく、人間の自由な経済活動を制約しなければ自然に生じてくる結果である。脱成長を強要しようとすれば、政府や共同体が生活に事細かに介入し、何をなすべきか命令する恐ろしい監視社会にならざるを得ない。人間自然な姿を否定すれば、待っているのは全体主義社会である。
■早まって成功の鍵を捨ててはいけない
パニックになる必要はない。冷静に事実を検討すれば、人類のこれまでの歩みは間違っていなかったし、未来は希望に満ちていることがわかるはずである。私たちが唯一恐れるべきことは、根拠のない恐怖に惑わされて、これまで人類の成功の鍵だった資本主義と経済成長を捨ててしまうことである。
(中略)
■社会主義経済は例外なく独裁を生み出す
これまで歴史上に現れた社会主義経済体制は、例外なく個人の自由を認めない最悪の独裁体制を生み出してきたが、これは決して偶然ではない。私的所有権がなく、政府が資源配分を決める社会主義経済では、ロシアの革命家レオン・トロツキーが述べたように、「働かざるもの食うべからずという古い掟は、従わざるもの食うべからずという新しい掟にとってかわられる」ことになる。
資本主義社会では、どんな理由からにせよ、ある会社がこの本をお読みの読者との取引を拒んだとしても、読者は他の会社と取引できるが、社会主義社会では政府が読者との取引を拒めば、読者は何一つ手に入れることが出来ず、餓死するしかない。
社会主義者は企業家のことをよく「独占資本」などと罵倒するが、社会主義計画経済は、政府という唯一の雇用主しか存在しない究極の独占である。資本主義社会では、ある会社が読者を雇わないと決めても、読者は別の会社を探せばよいが、社会主義社会では政府が読者を決して雇わないことに決めたら、読者は生活手段を完全に失ってしまう。
不当さを訴えようにも、話を聞いてくれる新聞社も弁護士もいないだろう。仮に読者に同情する心ある人がいたとしても、その人もやはり政府に解雇されてしまうだろう。全てのメディアが国営メディアである国に言論の自由などあるはずがない。
■実際の社会主義国の歴史を見れば……
気取った知識人はしばしば物質的問題を軽蔑して見せるが、物質的問題を精神的な問題と切り離すことは不可能である。精神の自由は、個人が自分自身の私的領域を持つことを許されない社会ではありえないのである。
実際の社会主義経済は、私的所有権を部分的に認めたり、市場経済を一部取り入れたりしているので、ここまで徹底してはいないが、歴史的に見て、社会主義の要素が強ければ強いほど、政治体制がますます抑圧的で全体主義的になる傾向は明瞭に見て取れる。レーニン、スターリンのソ連、毛沢東の中国、金王朝の北朝鮮、ポル・ポトのカンボジアといった20世紀の全体主義体制はその最悪の実例である。
(中略)
ところが、悲惨な実績にもかかわらず、脱成長と社会主義には人を惹きつけてやまない魅力がある。一方で、素晴らしい実績にもかかわらず、経済成長や資本主義は誤解され、否定的に評価されがちである。これは一見不可解な現象だが、それほど不思議なことではない。
■近代以前は「自然と調和した素晴らしい社会」だったのか
脱成長や社会主義の訴えが一見すると魅力的に響くのは、私たちの文化が長い間親しんできた考え方とうまく調和するためである。資本主義の下での経済成長が始まったのは人類の歴史全体から見ればごく最近に過ぎない。
人類はその歴史の大半を通じてゼロ成長の閉鎖的な部族社会や封建社会で暮らしてきたし、いつも貪欲や競争を非難し、禁欲的生活を称賛する思想家や宗教家の教えに従ってきた。脱成長と社会主義の思想は、人類が太古から信じてきた教えに極めてよく似ているのである。
だが、近代以前の古き良き社会が自然と調和した素晴らしい社会だったと考えるのは幻想である。近代以前の社会とは血なまぐさい戦争や内部抗争を繰り返す、階級制社会であり、自然と調和してなどおらず、常に自然の猛威にさらされていた。昨日までの恐ろしい世界から、資本主義を発見した人類は経済成長によって抜け出してきたばかりである。
(中略)
■「脱成長」は新たな「隷従への道」である
厳格な掟や因習に支配された部族社会やあらかじめ特定の思想家が構想した設計図のある社会主義社会や宗教原理主義共同体とは異なり、資本主義社会には予め決まった設計図もなければ定められた運命もない。資本主義社会の将来を決めるのは、多様な考えを持つ人々の民主的討論と自由な挑戦である。人類のサクセスストーリーはもしかするともう終わりなのではないか、これまでの成果は本当に確かなものなのか、時に不安を感じるのは当然である。
だが、心配することはない。資本主義文明が達成したこれまでの成果は想像もしなかったような素晴らしいものだった。よりよい未来を目指して、資本主義文明のもたらした、開かれた社会への道を引き返すのではなく、さらに進むべきである。
(以下略)
■批判対象をきちんと定義し、何について批判を加えているのか明確にしていない
思い込みが激しい記事です。脱成長主義と社会主義とをまとめて斬り捨てようとしているようですが、
脱成長主義に対する理解も社会主義に対する理解も中途半端であると言わざるを得ません。批判対象をきちんと定義し、何について批判を加えているのか明確にしていないからだと思われます(学者の基本だと思いますがね・・・)。
まず、脱成長主義批判についてですが、一口に「脱成長主義」といっても非常にバリエーション豊かであります。J.S.ミルの定常社会論も脱成長主義の一種です。経済成長の歴史的一段階として不可避的に訪れるという意味での定常社会論・脱成長主義は、「
脱成長を強要しようとすれば、政府や共同体が生活に事細かに介入し、何をなすべきか命令する恐ろしい監視社会にならざるを得ない」という次元の問題ではありません。私があれだけ批判してきたエコロジストの肩を持つもの変な話ですが、
エコロジスト的な意味での脱成長主義の立場に立てば、「脱成長主義は不可避的な歴史の一段階だ」ということになるでしょう。筆者である柿埜真吾氏の主張は、これに対する反論になっていないように思われます。
社会主義に対する批判も中途半端です。「例外なく独裁になる」と言いますが、ここで槍玉に挙げられているのは、あくまでも中央集権型の社会主義のみであります。
協同組合主義や自主管理主義といった分権型社会主義は、意図的なのか無知なだけなのかは分かりませんが、無視されています。資本主義社会における社会主義への共感や憧憬は、主に理論的な意味でのそれなのだから、
分権型社会主義の「理論」への批判は欠かせないはずです。しかし、柿埜氏の主張にはそれが全く欠けています。この記事は、タイトルだけ見ると社会主義批判のように見えますが、実際のところ、脱成長主義批判がかなり頻繁に引き合いに出されています。
おそらく筆者度ある柿埜氏の中では「脱成長主義=社会主義」という等式関係があるのでしょう。それゆえ、脱成長主義批判の直後にスターリン(5か年計画を強行)や毛沢東(大躍進政策で無謀な工業化を目指した)、「金王朝」(チョルリマ運動で大増産を目指した)批判が展開されるという、ハチャメチャな構成になってしまっています。更に言えば、おそらく柿埜氏はボリシェヴィキ・コミンテルン流の「社会主義」解釈を採用して記事を構成しているものと思われますが、
この解釈はヨーロッパでは今やまったく通用しないでしょう。このあたりは、たとえば的場昭弘氏の『ネオ共産主義論』が、それこそ聖書に遡って歴史的に紐解いています。
一口に「社会主義」といっても多様なのです。
そのあたりの整理を踏まえて発言することは、今や社会主義や共産主義を語るにあたっては、賛成・反対の立場を問わず必須的なことだと思われますが、柿埜氏はそのような論点があることさえもご存じないんでしょうね。結論ありきの薄っぺらい内容です。
■社会主義の多様性
脱成長主義者と社会主義者がタッグを組むケースは確かに存在します。チュチェ思想派である私としても困惑しているところです。革命歌謡≪천리마 달린다≫(千里馬走る)で≪어서가자 빨리가자 천리마 타고서 창조와 혁신으로 새 기적 올리자≫や≪수십년을 하루로 달리여 나간다 건설과 증산의 불길을 높여라 어서가자 빨리가자 천리마 타고서 후손만대 행복할 락원을 꾸미자≫と謳われているように、
チュチェ思想派としては社会主義とは工業化を強力に推し進め、高度経済成長を志向するという強烈なイメージがあります(そう刷り込まれてきたというか・・・)。
私はこのことを「社会主義」の流派ごとの違いとして消化しています。これもまた
「社会主義」の多様性というわけです。
未来社会論的な社会主義は工業化を志向するが、前近代社会へのノスタルジーが動機の社会主義は脱成長寄りなのです。
■人間抑圧と身内共同体志向
この違いは非常に重要なことです。経済学者の松尾匡氏は、著書『図解雑学 マルクス経済学』において、
近代化・資本主義化によって従来の共同体から切り離され、孤立・疎外された人は、その反発として昔の共同体を取り戻そうとする志向を持つと言います。近代的な開放的人間関係ではなく、
前近代的な身内共同体を志向すると言います。このような身内共同体は相互扶助精神に富んでいる半面、異質な者の排除や抑圧に走りやすいもの。
現存した「社会主義」が、国家からセクトまで総じて全体主義的な人間抑圧社会になり下がった一因は、身内共同体志向にあったと指摘しています。
これに対して柿埜氏の主張にはそのような深みはまったくなく、脱成長主義と社会主義を安易に結びつけ、通俗的な批判を加えているに過ぎないものです。「
脱成長と社会主義の思想は、人類が太古から信じてきた教えに極めてよく似ている」と言いますが、
それはあくまでも前近代社会志向の社会主義一潮流に限った話です。
■疎外論に触れずに社会主義批判を展開する柿埜真吾氏の見当違い
前近代社会志向の社会主義に限った批判だとしても、松尾氏が指摘した
「疎外」という重要なキーワードに触れない姿勢は、「赤点」と言う他ないでしょう。「
人類のサクセスストーリーはもしかするともう終わりなのではないか、これまでの成果は本当に確かなものなのか、時に不安を感じるのは当然である。だが、心配することはない。資本主義文明が達成したこれまでの成果は想像もしなかったような素晴らしいものだった。よりよい未来を目指して、資本主義文明のもたらした、開かれた社会への道を引き返すのではなく、さらに進むべきである」などと無邪気に述べて
社会的包摂には目もくれていません。
仮に自由主義、資本主義そして成長重視を継続するにしても社会的包摂は必須的であるはず。
「心配することはない」などという学者先生のご高説を真に受けるような世間知らずが一体どれくらい居るのか見物であります
。グレタ・トゥンベリさんも凄いですが、柿埜真吾氏も負けていませんw
なお、我らがチュチェ思想が掲げている
社会政治的生命体論は、まさしく社会的包摂であります。
■この手のムチャクチャな記事が大手を振ているという現実は、社会主義陣営の不甲斐なさによるもの
ここまで上記のとおり、柿埜氏の主張は、資本主義諸国において近頃みられる社会主義思想への共感が広がっているという
現象の説明にはなっておらず、また、厳密性を欠いている点において
正当性のある社会主義批判にもなっていません。
しかし、立ち遅れた資本主義国から世界最初の社会主義国になってしまったロシア=ソビエトや、そもそも資本主義段階を経ずに段飛ばし的に社会主義化してしまったアジアの社会主義国のように、近代的で開放的な人間関係の社会を歴史的に経験しなかった
現実社会主義(Realsozialismus)の国への批判に限ってみれば、そこまで大きく外してはいないと思われます。柿埜氏は、Realsozialismusに限って当てはまることを社会主義一般にまで不当に拡張し、さらにそこに脱成長主義という本質的にはまったく異質なものまで闇鍋的に盛り込みんで論じたわけです。学者なのに産経新聞レベルの暴論を展開したわけです。
なお、ベネズエラについての言及もありますが、かの国の経済危機は素人的な経済政策の失敗によるものであると言うべきであり、本質的にはジンバブエにおける2000年代のハイパーインフレーションと同列視すべきものでしょう。たしかにベネズエラは「社会主義」を標榜していましたが、あんなバカな経済政策は、他の「社会主義」国は採用しなかったでしょう。ベネズエラの失敗は、社会主義国の必然とまでは言えないと思われます。
人間の解放と無限の発展を目指す人民大衆の未来志向的な運動が、逆に人間を抑圧しその発展を妨げるものであっては本末転倒であります。20世紀の経験を教訓として学び取り、社会主義思想をますます発展させなければならないと通説に感じています。この手のムチャクチャな記事が大手を振って罷り通っているという現実は、社会主義陣営の不甲斐なさによる部分が大いにあると考えています。
■社会主義思想をますます発展させるためには、人類の英知を総合する必要がある
前掲の松尾匡氏は、人間抑圧社会の入り口になる
身内共同体主義を脱し、近代的な開放的人間関係に立つ必要があると指摘しています。この指摘は正しいものです。そして、近代的な開放的人間関係は、人類が古代から紡ぎあげてきた自由な思想的遺産の上に花咲いたものであります。
つまり、社会主義思想をますます発展させるためには、人類の英知を総合する必要があります。
その点、我が社会主義陣営は、マルクスやエンゲルスあるいはレーニンが何を言ったなどという訓詁学にばかり注力しており、その他の思想潮流に疎いように思われます。たとえば、マルクス主義はドイツ古典哲学を批判的に継承しているといいますが、結局、マルクスやエンゲルスを通した哲学解釈に留まっており、カントなどを直接参照しているわけではありません。最近でも日本共産党は、ソ連型社会主義=プロレタリア独裁や中央集権的計画経済を総括して議会主義と市場経済を評価する姿勢を示していますが、マルクス・エンゲルスの遺稿から議会主義的な断片的記述を、レーニンからネップにかかる記述を引っ張り出してきて対応したものです。自分たちの思想的体系の内側での理論整備にばかり注力しています。
これではいくら「私たちはソ連などとは無関係です」と言い張っても、結局は「聖典」の解釈以上のモノにはなり得ません。既に存在しているものの組み換えにしかならず、
根本的な「思想革命」にはならないのです。
また、傍から見れば結局は、マルクスやレーニンの枠内でゴチャゴチャ言っているようにしか見えず、マルクスやレーニンの素養がない人たちには
何がどう改まったのか全く分からないでしよう。ちなみに、世間常識ではマルクスやレーニンとスターリンや毛沢東は大差ないものと見なされています。日本共産党などが声高に主張する「スターリンがレーニンの遺産を歪めた」などという解釈は、仲間内以外ではまったく通用しないものと心得るべきです。
専門用語の解説に別の専門用語を使っても素人には理解できないものです。素人にも分かるように説明するためには、「業界」外の言葉、平易な言葉で言いかえる必要があるのと同じように、
他の思想体系にも積極的に乗り出してその知見を摂取した上で総合的な理論活動を展開する必要があると考えます。
■米中対立や米ロ対立の枠組み・SDGsキャンペーンにおける社会主義思想の発展と、チュチェ思想の役割
現在、米中対立や米ロ対立の枠組み、およびSDGsキャンペーンにより、「自由」や「民主主義」、「人権」といったキーワードが注目が集まっています。「自由で民主的、そして基本的人権を尊重する」という看板を掲げるアメリカが、「共産党の指導下で中国特色的社会主義を目指す」とする中国と対立を深めています。日本は言うまでもなくアメリカ側にあります。それゆえ、「社会主義」が「向こう側」の「邪悪」な思想であるというイメージが付いてしまっています。
このイメージを払拭し、中国流のそれとは無縁であることを証明するためには、
自由主義思想をその古典的著作から積極的に学んで取り込み、肯定的に評価する必要があると考えます。
ここにおいて
チュチェ思想は、その人文主義的な側面が社会主義思想との橋渡しとして有用になると私は考えています。マルクス主義の物質中心の世界観をチュチェ思想は乗り越えています。
蓋し、
身内共同体主義に転落しやすい階級主義の残滓が完全に清算されていないことが、チュチェ思想が現時点において未だにマルクス主義的全体主義から完全に脱し切れていない要因でありましょうが、チュチェ思想にはそれをも乗り越える潜在的要素があると私は考えているところです。