2021年11月28日

維新の躍進をどう見るべきか:衆議院議員総選挙を振り返る(4)

衆議院議員総選挙の総括。維新の躍進をどう見るべきでしょうか。今回は、(1)政権批判票の受け皿でしかないと見るべきか、将来的に政権獲得を狙える入り口に立ったと見るべきか、そして、(2)この躍進は新自由主義の復権だと言えるのかについて考えてみたいと思います。

■比例代表での獲得議席数と得票率から考える
まず、(1)について、維新の比例代表での獲得議席数と得票率から考えてみましょう。

今回、維新が獲得した比例25議席のうち10議席は近畿ブロックでのものでした。議席を獲得できなかった北海道ブロックを除いて、そのほかの各ブロックでは、1〜3議席の獲得に留まりました。得票率については、近畿ブロック内の大阪・兵庫では堂々の第一党でしたが、同ブロックの他の府県では自民党の後塵を排しています。他ブロックの都道県別の得票率では第3党以下であることが多く見られます。

全国の比例各ブロックで同じように議席を獲得していれば、維新支持の理由が全国で概ね同じだと言えるでしょうが、近畿ブロック、とりわけ大阪・兵庫だけが突出しているとなると、「大阪・兵庫」と「それ以外」に分けて分析するべきでしょう。

大阪・兵庫以外の都道府県での比例獲得議席及び得票数からは、まだまだ維新の力量への信用が十分に醸成されていないことが強く推認されます。よほど関心がなければ他県の地方行政をチェックしないのが普通でしょう。その点、維新には大阪などの一部の自治体での地方行政の経験と実績しかありません。まだ大阪等以外では維新への信頼が醸成される機会がないのです。

大阪・兵庫については、月並みの分析になってしまいますが、やはり10年以上にわたって展開されてきた「行財政改革の実績」なるもの、および、昨年の一時期に「吉村総理待望論」まで出てくるようになった「リーダーシップ」なるものによるでしょう。

もちろん、この行財政改革によって大阪府の病院が「身を切ら」れてしまい、この度の新型コロナウィルス禍において大阪府の医療提供体制がいち早く限界を迎えてしまったと指摘されているところです。また、新型コロナウィルス禍での社会不安やフラストレーションの捌け口としての「自粛警察」を扇動し、パチンコ店などを文化大革命的に吊るし上げることで「リーダーシップ」を演出してきたのは、まさしく維新副代表の吉村氏その人でした。しかし、非常に巧みな宣伝術でそのことを切り抜けています。

とはいえ、維新の「実績」はあくまでも地方行政でのそれであり国家行政でのそれではありません。地方行政を司れるからといって直ちに国家行政も司ることができると考えるほど有権者も単純ではありません。「政権与党に化ける見込みはあるが、まずは自民・公明連立政権に喝を入れさせよう」という投票動機であり、その意味では現時点ではまだ一種の政権批判票として取り扱うべき段階でしょう

■地方部へも深く根を張るときに直面するであろう思想的問題
馬場幹事長は、「ホップ・ステップ・ジャンプで政権狙う」と述べました(「維新・馬場幹事長を直撃!「ホップ・ステップ・ジャンプで政権狙う」 「非共産党」の国民民主と連携も視野 衆院選11議席から41議席と大躍進」2021.11.6 夕刊フジ)。吉村氏のイソジンの件といい、維新はすぐに調子に乗ります

もし維新が政権を取り永く維持しようとするならば、今はまだ支持が弱い地方部へも深く根を張る必要があります。地方の既存利益集団等と関係性を構築し、彼らと利益配分について折り合いをつける必要があります。しかし、そもそもそうした「既得権」と戦うことが維新の原点であるはず。この点の思想的整理なくして政権獲得を狙える入口に立ったとは言えないでしょう。

一気に政権獲得などと考えずに地歩を固めなければ、無党派層頼み・風頼みの党に過ぎなくなるでしょう。個人的には、現状では維新はこの点を突破できないとみています。

■現時点ではまだ一種の政権批判票として取り扱うべき段階
今回の総選挙の結果からは、維新は、依然として大阪中心、都市部中心の政党であると言えるでしょう。決して無視はできませんが、全国レベルではまだ「次の段階」を狙えるような大きな勢いを持っているとは言えそうにありません。固い組織力(組織票)があるわけでもないので、ジャーナリストの田崎史郎氏が言うように、自民党が公明党を切ってまで維新と組むとは考えにくいところです。

■そもそも維新は、新自由主義を前面に打ち出して勝負しているとは言い難いし、新自由主義ブームが起こっているとも言えない
次に(2)について考えてみたいと思います。

それでも日本人は新自由主義を選んだ」という記事があります(11/1(月) 15:29配信 ニューズウィーク日本版)。筆者である藤崎剛人氏は、維新の躍進を新自由主義の復権として捉えているようです。

前述のとおり、維新の躍進はあくまでも政権批判票の受け皿としての色合いが濃く、後述の理由から考えて「新自由主義の復権」は大袈裟過ぎるでしょう。たしかに維新が掲げている政策を慎重に吟味すれば、それが新自由主義と親和的であることが分かります。しかし、そもそも維新は、新自由主義を前面に打ち出して勝負しているとは言い難いところです。表向きは「行財政改革」や「不合理な規制・制度を改めて経済成長を目指す」といった程度にとどまっています。

次のくだりは、詳しい人は知っているが多くの人は知らないと思われます。知っていたとしても「あくまでも自公連立政権へのカンフル剤でしかないから・・・」という、それこそ「日本の共産化を望んでいる訳ではないが日本共産党に票を入れる無党派層」と同じ考えだと思われます。
こうした中で、日本維新の会は唯一はっきりと新自由主義政策を主張していたといえよう。新自由主義者として知られる人材派遣会社パソナの竹中平蔵会長と結びつき、社会保障としては弱者切り捨てに近いベーシックインカムを主張。規制緩和と民営化で「小さな政府」を実現し、「経済成長」のための競争社会をつくろうとしていた。ある議員は、「正社員」は「既得権」だと明確に言っていた。これはまさしく竹中平蔵の持論でもあり、雇用の不安定化を進めるということだろう。このような路線が、多くの有権者に支持されたということなのだ。

もし、新自由主義が、岸田総理が掲げる「新しい資本主義」への対抗馬として興りつつあるのならば、一般大衆の間で先んじて新自由主義を求める声や熱意が高まっているはずです。小泉改革の時代を思い起こしていただきたい。「勝ち組・負け組」という言葉が人口に膾炙し、自己責任論の嵐が荒び、ライブドア堀江氏や楽天三木谷氏らが時代の寵児として持て囃されました。しかし現在、一般大衆の間で新自由主義を求める声や熱意はまったく見られません

一般大衆の要求や熱意が、特定の政党を政権与党に押し上げるという主体的な政治理解が必要です。

「資本主義の枠内での改革」を標榜している日本共産党への支持が高まったからといって日本が赤化に近づいたとは言えないのと同じく、維新が議席を増やしたからと言って必ずしも新自由主義への支持が高まったとは言えないでしょう。

■新自由主義どころか「改革」さえもニッチ業界化している
また、維新が小泉改革の残り香をまとってブームとなった2010年代初頭を思い起こしていただきたい。この頃は、「みんなの党」など維新と主張が似通った党が他にもあり、「新自由主義ブロック」とでも言い得るものがありました。しかし今や、新自由主義どころか「改革」さえもニッチ業界化して、ほぼ維新一党だけになっています。元経産官僚の古賀茂明氏は、「なぜ「改革」の旗を掲げる政党は絶滅しかけているのか」(10/29(金) 6:00配信 週プレNEWS)と述べているところです。結構面白い記事です。「この20年間で叫ばれてきた「改革」というキーワードが影を潜めてしまった理由は想像に難くない。有権者の多くが「改革」という響きに警戒心を抱くようになったからだ。(中略)今、必要なのは「改革」のバージョンアップ。すなわち「改革の改革」だ。これまでの「改革」は企業の効率を重視する規制緩和が中心だった。しかし、これからは企業優先、効率一辺倒の「改革」から、@働く人に優しい改革、A自然環境に優しい改革、B社会的不公正に厳正対処できる改革へとフェイズを移さなければならない。効率から公正へと言ってもよい」という指摘は、いい線行っているのではないでしょうか。

今回の維新の躍進を「新自由主義の復権」となどと位置付けることは困難であると思われます。上掲、古賀氏の指摘を踏まえれば、その取っ掛かりを掴んたとさえ言えるかどうか怪しいところです。

■おわりに
もちろん、決して無視できる勢力ではありません。維新的なモノへの批判は加えてゆく必要があります。当ブログでも11月14日づけ「日本維新の会の「古臭さ」について」などでも論じました。今後も折を見て展開しなければならないと考えています。
ラベル:政治
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2021年11月27日

米中対立や米ロ対立の枠組み・SDGsキャンペーンにおける社会主義思想の発展と、チュチェ思想の役割

https://news.yahoo.co.jp/articles/4157be32cca91d81ff6ee283e296aa3a7420926a
「必ず独裁と貧困をもたらす」それなのに社会主義に共感する人が多いのはなぜなのか
11/21(日) 12:16配信
プレジデントオンライン

(中略)
■脱成長こそおとぎ話だ
 災害大国である日本は昔から深刻な水害に何度も見舞われてきた国だが、水害の被害額の対GDP比率や死者数は経済成長に伴って高度成長期以降、大幅に低下している(図表2)。経済成長とは、まさに人類の素晴らしいサクセスストーリーである。貧困をなくし、世界を豊かにしてきたのは経済成長であり、経済成長を可能にした資本主義である。経済成長を罵倒したところで温暖化問題は解決しないし、脱成長にすれば自然と調和して人類は幸福に暮らせるというのは全くのおとぎ話というしかない。

 温暖化についてはまだわかっていないことも多いが、気候変動と闘うためにも革新的な資本主義経済が不可欠であることは間違いない。チェルノブイリ原発事故などを想起すれば容易に理解できるように、社会主義体制が温暖化対策に有効である可能性は極めて低い。社会主義体制は経済成長せず、国民を豊かにできないだけでなく、合理的な資源配分メカニズムが欠如しているため、環境にも最悪の影響を与える全くとるところのない体制である。

 豊かになることを望み、自由なライフスタイルを楽しみたいと考えるのは人間の自然な本性である。経済成長は誰かが無理やり作り出したものではなく、人間の自由な経済活動を制約しなければ自然に生じてくる結果である。脱成長を強要しようとすれば、政府や共同体が生活に事細かに介入し、何をなすべきか命令する恐ろしい監視社会にならざるを得ない。人間自然な姿を否定すれば、待っているのは全体主義社会である。

■早まって成功の鍵を捨ててはいけない
 パニックになる必要はない。冷静に事実を検討すれば、人類のこれまでの歩みは間違っていなかったし、未来は希望に満ちていることがわかるはずである。私たちが唯一恐れるべきことは、根拠のない恐怖に惑わされて、これまで人類の成功の鍵だった資本主義と経済成長を捨ててしまうことである。

(中略)
■社会主義経済は例外なく独裁を生み出す
 これまで歴史上に現れた社会主義経済体制は、例外なく個人の自由を認めない最悪の独裁体制を生み出してきたが、これは決して偶然ではない。私的所有権がなく、政府が資源配分を決める社会主義経済では、ロシアの革命家レオン・トロツキーが述べたように、「働かざるもの食うべからずという古い掟は、従わざるもの食うべからずという新しい掟にとってかわられる」ことになる。

 資本主義社会では、どんな理由からにせよ、ある会社がこの本をお読みの読者との取引を拒んだとしても、読者は他の会社と取引できるが、社会主義社会では政府が読者との取引を拒めば、読者は何一つ手に入れることが出来ず、餓死するしかない。

 社会主義者は企業家のことをよく「独占資本」などと罵倒するが、社会主義計画経済は、政府という唯一の雇用主しか存在しない究極の独占である。資本主義社会では、ある会社が読者を雇わないと決めても、読者は別の会社を探せばよいが、社会主義社会では政府が読者を決して雇わないことに決めたら、読者は生活手段を完全に失ってしまう。

 不当さを訴えようにも、話を聞いてくれる新聞社も弁護士もいないだろう。仮に読者に同情する心ある人がいたとしても、その人もやはり政府に解雇されてしまうだろう。全てのメディアが国営メディアである国に言論の自由などあるはずがない。

■実際の社会主義国の歴史を見れば……
 気取った知識人はしばしば物質的問題を軽蔑して見せるが、物質的問題を精神的な問題と切り離すことは不可能である。精神の自由は、個人が自分自身の私的領域を持つことを許されない社会ではありえないのである。

 実際の社会主義経済は、私的所有権を部分的に認めたり、市場経済を一部取り入れたりしているので、ここまで徹底してはいないが、歴史的に見て、社会主義の要素が強ければ強いほど、政治体制がますます抑圧的で全体主義的になる傾向は明瞭に見て取れる。レーニン、スターリンのソ連、毛沢東の中国、金王朝の北朝鮮、ポル・ポトのカンボジアといった20世紀の全体主義体制はその最悪の実例である。

(中略)
 ところが、悲惨な実績にもかかわらず、脱成長と社会主義には人を惹きつけてやまない魅力がある。一方で、素晴らしい実績にもかかわらず、経済成長や資本主義は誤解され、否定的に評価されがちである。これは一見不可解な現象だが、それほど不思議なことではない。

■近代以前は「自然と調和した素晴らしい社会」だったのか
 脱成長や社会主義の訴えが一見すると魅力的に響くのは、私たちの文化が長い間親しんできた考え方とうまく調和するためである。資本主義の下での経済成長が始まったのは人類の歴史全体から見ればごく最近に過ぎない。

 人類はその歴史の大半を通じてゼロ成長の閉鎖的な部族社会や封建社会で暮らしてきたし、いつも貪欲や競争を非難し、禁欲的生活を称賛する思想家や宗教家の教えに従ってきた。脱成長と社会主義の思想は、人類が太古から信じてきた教えに極めてよく似ているのである。

 だが、近代以前の古き良き社会が自然と調和した素晴らしい社会だったと考えるのは幻想である。近代以前の社会とは血なまぐさい戦争や内部抗争を繰り返す、階級制社会であり、自然と調和してなどおらず、常に自然の猛威にさらされていた。昨日までの恐ろしい世界から、資本主義を発見した人類は経済成長によって抜け出してきたばかりである。

(中略)
■「脱成長」は新たな「隷従への道」である
 厳格な掟や因習に支配された部族社会やあらかじめ特定の思想家が構想した設計図のある社会主義社会や宗教原理主義共同体とは異なり、資本主義社会には予め決まった設計図もなければ定められた運命もない。資本主義社会の将来を決めるのは、多様な考えを持つ人々の民主的討論と自由な挑戦である。人類のサクセスストーリーはもしかするともう終わりなのではないか、これまでの成果は本当に確かなものなのか、時に不安を感じるのは当然である。

 だが、心配することはない。資本主義文明が達成したこれまでの成果は想像もしなかったような素晴らしいものだった。よりよい未来を目指して、資本主義文明のもたらした、開かれた社会への道を引き返すのではなく、さらに進むべきである。

(以下略)
■批判対象をきちんと定義し、何について批判を加えているのか明確にしていない
思い込みが激しい記事です。脱成長主義と社会主義とをまとめて斬り捨てようとしているようですが、脱成長主義に対する理解も社会主義に対する理解も中途半端であると言わざるを得ません。批判対象をきちんと定義し、何について批判を加えているのか明確にしていないからだと思われます(学者の基本だと思いますがね・・・)。

まず、脱成長主義批判についてですが、一口に「脱成長主義」といっても非常にバリエーション豊かであります。J.S.ミルの定常社会論も脱成長主義の一種です。経済成長の歴史的一段階として不可避的に訪れるという意味での定常社会論・脱成長主義は、「脱成長を強要しようとすれば、政府や共同体が生活に事細かに介入し、何をなすべきか命令する恐ろしい監視社会にならざるを得ない」という次元の問題ではありません。私があれだけ批判してきたエコロジストの肩を持つもの変な話ですが、エコロジスト的な意味での脱成長主義の立場に立てば、「脱成長主義は不可避的な歴史の一段階だ」ということになるでしょう。筆者である柿埜真吾氏の主張は、これに対する反論になっていないように思われます。

社会主義に対する批判も中途半端です。「例外なく独裁になる」と言いますが、ここで槍玉に挙げられているのは、あくまでも中央集権型の社会主義のみであります。協同組合主義や自主管理主義といった分権型社会主義は、意図的なのか無知なだけなのかは分かりませんが、無視されています。資本主義社会における社会主義への共感や憧憬は、主に理論的な意味でのそれなのだから、分権型社会主義の「理論」への批判は欠かせないはずです。しかし、柿埜氏の主張にはそれが全く欠けています。

この記事は、タイトルだけ見ると社会主義批判のように見えますが、実際のところ、脱成長主義批判がかなり頻繁に引き合いに出されています。おそらく筆者度ある柿埜氏の中では「脱成長主義=社会主義」という等式関係があるのでしょう。それゆえ、脱成長主義批判の直後にスターリン(5か年計画を強行)や毛沢東(大躍進政策で無謀な工業化を目指した)、「金王朝」(チョルリマ運動で大増産を目指した)批判が展開されるという、ハチャメチャな構成になってしまっています。

更に言えば、おそらく柿埜氏はボリシェヴィキ・コミンテルン流の「社会主義」解釈を採用して記事を構成しているものと思われますが、この解釈はヨーロッパでは今やまったく通用しないでしょう。このあたりは、たとえば的場昭弘氏の『ネオ共産主義論』が、それこそ聖書に遡って歴史的に紐解いています。一口に「社会主義」といっても多様なのです。

そのあたりの整理を踏まえて発言することは、今や社会主義や共産主義を語るにあたっては、賛成・反対の立場を問わず必須的なことだと思われますが、柿埜氏はそのような論点があることさえもご存じないんでしょうね。結論ありきの薄っぺらい内容です。

■社会主義の多様性
脱成長主義者と社会主義者がタッグを組むケースは確かに存在します。チュチェ思想派である私としても困惑しているところです。革命歌謡≪천리마 달린다≫(千里馬走る)で≪어서가자 빨리가자 천리마 타고서 창조와 혁신으로 새 기적 올리자≫や≪수십년을 하루로 달리여 나간다 건설과 증산의 불길을 높여라 어서가자 빨리가자 천리마 타고서 후손만대 행복할 락원을 꾸미자≫と謳われているように、チュチェ思想派としては社会主義とは工業化を強力に推し進め、高度経済成長を志向するという強烈なイメージがあります(そう刷り込まれてきたというか・・・)。

私はこのことを「社会主義」の流派ごとの違いとして消化しています。これもまた「社会主義」の多様性というわけです。未来社会論的な社会主義は工業化を志向するが、前近代社会へのノスタルジーが動機の社会主義は脱成長寄りなのです。

■人間抑圧と身内共同体志向
この違いは非常に重要なことです。経済学者の松尾匡氏は、著書『図解雑学 マルクス経済学』において、近代化・資本主義化によって従来の共同体から切り離され、孤立・疎外された人は、その反発として昔の共同体を取り戻そうとする志向を持つと言います。近代的な開放的人間関係ではなく、前近代的な身内共同体を志向すると言います。このような身内共同体は相互扶助精神に富んでいる半面、異質な者の排除や抑圧に走りやすいもの。現存した「社会主義」が、国家からセクトまで総じて全体主義的な人間抑圧社会になり下がった一因は、身内共同体志向にあったと指摘しています。

これに対して柿埜氏の主張にはそのような深みはまったくなく、脱成長主義と社会主義を安易に結びつけ、通俗的な批判を加えているに過ぎないものです。「脱成長と社会主義の思想は、人類が太古から信じてきた教えに極めてよく似ている」と言いますが、それはあくまでも前近代社会志向の社会主義一潮流に限った話です。

■疎外論に触れずに社会主義批判を展開する柿埜真吾氏の見当違い
前近代社会志向の社会主義に限った批判だとしても、松尾氏が指摘した「疎外」という重要なキーワードに触れない姿勢は、「赤点」と言う他ないでしょう。「人類のサクセスストーリーはもしかするともう終わりなのではないか、これまでの成果は本当に確かなものなのか、時に不安を感じるのは当然である。だが、心配することはない。資本主義文明が達成したこれまでの成果は想像もしなかったような素晴らしいものだった。よりよい未来を目指して、資本主義文明のもたらした、開かれた社会への道を引き返すのではなく、さらに進むべきである」などと無邪気に述べて社会的包摂には目もくれていません

仮に自由主義、資本主義そして成長重視を継続するにしても社会的包摂は必須的であるはず。心配することはない」などという学者先生のご高説を真に受けるような世間知らずが一体どれくらい居るのか見物であります。グレタ・トゥンベリさんも凄いですが、柿埜真吾氏も負けていませんw

なお、我らがチュチェ思想が掲げている社会政治的生命体論は、まさしく社会的包摂であります。

■この手のムチャクチャな記事が大手を振ているという現実は、社会主義陣営の不甲斐なさによるもの
ここまで上記のとおり、柿埜氏の主張は、資本主義諸国において近頃みられる社会主義思想への共感が広がっているという現象の説明にはなっておらず、また、厳密性を欠いている点において正当性のある社会主義批判にもなっていません。

しかし、立ち遅れた資本主義国から世界最初の社会主義国になってしまったロシア=ソビエトや、そもそも資本主義段階を経ずに段飛ばし的に社会主義化してしまったアジアの社会主義国のように、近代的で開放的な人間関係の社会を歴史的に経験しなかった現実社会主義(Realsozialismus)の国への批判に限ってみれば、そこまで大きく外してはいないと思われます。柿埜氏は、Realsozialismusに限って当てはまることを社会主義一般にまで不当に拡張し、さらにそこに脱成長主義という本質的にはまったく異質なものまで闇鍋的に盛り込みんで論じたわけです。学者なのに産経新聞レベルの暴論を展開したわけです。

なお、ベネズエラについての言及もありますが、かの国の経済危機は素人的な経済政策の失敗によるものであると言うべきであり、本質的にはジンバブエにおける2000年代のハイパーインフレーションと同列視すべきものでしょう。たしかにベネズエラは「社会主義」を標榜していましたが、あんなバカな経済政策は、他の「社会主義」国は採用しなかったでしょう。ベネズエラの失敗は、社会主義国の必然とまでは言えないと思われます。

人間の解放と無限の発展を目指す人民大衆の未来志向的な運動が、逆に人間を抑圧しその発展を妨げるものであっては本末転倒であります。20世紀の経験を教訓として学び取り、社会主義思想をますます発展させなければならないと通説に感じています。この手のムチャクチャな記事が大手を振って罷り通っているという現実は、社会主義陣営の不甲斐なさによる部分が大いにあると考えています。

■社会主義思想をますます発展させるためには、人類の英知を総合する必要がある
前掲の松尾匡氏は、人間抑圧社会の入り口になる身内共同体主義を脱し、近代的な開放的人間関係に立つ必要があると指摘しています。この指摘は正しいものです。そして、近代的な開放的人間関係は、人類が古代から紡ぎあげてきた自由な思想的遺産の上に花咲いたものであります。つまり、社会主義思想をますます発展させるためには、人類の英知を総合する必要があります。

その点、我が社会主義陣営は、マルクスやエンゲルスあるいはレーニンが何を言ったなどという訓詁学にばかり注力しており、その他の思想潮流に疎いように思われます。たとえば、マルクス主義はドイツ古典哲学を批判的に継承しているといいますが、結局、マルクスやエンゲルスを通した哲学解釈に留まっており、カントなどを直接参照しているわけではありません。最近でも日本共産党は、ソ連型社会主義=プロレタリア独裁や中央集権的計画経済を総括して議会主義と市場経済を評価する姿勢を示していますが、マルクス・エンゲルスの遺稿から議会主義的な断片的記述を、レーニンからネップにかかる記述を引っ張り出してきて対応したものです。自分たちの思想的体系の内側での理論整備にばかり注力しています。

これではいくら「私たちはソ連などとは無関係です」と言い張っても、結局は「聖典」の解釈以上のモノにはなり得ません。既に存在しているものの組み換えにしかならず、根本的な「思想革命」にはならないのです。

また、傍から見れば結局は、マルクスやレーニンの枠内でゴチャゴチャ言っているようにしか見えず、マルクスやレーニンの素養がない人たちには何がどう改まったのか全く分からないでしよう。ちなみに、世間常識ではマルクスやレーニンとスターリンや毛沢東は大差ないものと見なされています。日本共産党などが声高に主張する「スターリンがレーニンの遺産を歪めた」などという解釈は、仲間内以外ではまったく通用しないものと心得るべきです。

専門用語の解説に別の専門用語を使っても素人には理解できないものです。素人にも分かるように説明するためには、「業界」外の言葉、平易な言葉で言いかえる必要があるのと同じように、他の思想体系にも積極的に乗り出してその知見を摂取した上で総合的な理論活動を展開する必要があると考えます。

■米中対立や米ロ対立の枠組み・SDGsキャンペーンにおける社会主義思想の発展と、チュチェ思想の役割
現在、米中対立や米ロ対立の枠組み、およびSDGsキャンペーンにより、「自由」や「民主主義」、「人権」といったキーワードが注目が集まっています。「自由で民主的、そして基本的人権を尊重する」という看板を掲げるアメリカが、「共産党の指導下で中国特色的社会主義を目指す」とする中国と対立を深めています。日本は言うまでもなくアメリカ側にあります。それゆえ、「社会主義」が「向こう側」の「邪悪」な思想であるというイメージが付いてしまっています。

このイメージを払拭し、中国流のそれとは無縁であることを証明するためには、自由主義思想をその古典的著作から積極的に学んで取り込み、肯定的に評価する必要があると考えます。

ここにおいてチュチェ思想は、その人文主義的な側面が社会主義思想との橋渡しとして有用になると私は考えています。マルクス主義の物質中心の世界観をチュチェ思想は乗り越えています。

蓋し、身内共同体主義に転落しやすい階級主義の残滓が完全に清算されていないことが、チュチェ思想が現時点において未だにマルクス主義的全体主義から完全に脱し切れていない要因でありましょうが、チュチェ思想にはそれをも乗り越える潜在的要素があると私は考えているところです
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2021年11月23日

性善説はどっちだ?

https://news.yahoo.co.jp/articles/91ed092babeca6aa3a7a6b16b29ab020252cfe53
南美希子 木下都議の辞職めぐる問題で法改正訴え「性善説に立った悠長なことは言ってられない」
11/23(火) 14:13配信
スポニチアネックス

(中略)
 南は「社会通念の計測器がちょっといかれちゃっているような人もいるわけですから。やっぱり、ルール改正しかないと思いますね」と法改正の必要性を訴えた。

 辞職勧告決議には法的強制力がなく、リコールも法律上は当選1年以上経過しないとできないという現状。南は「リコールだって1年できないって、この件で知りましたけど、もうちょっと短縮するとか。返納すると寄付行為に当たると言いますけど、このケースは衆人環視の中で返すわけですからね。こういうところのルール改正、法律改正ができないのかと思いますね」と話した。
法がどういう歴史的経緯、趣旨で制定されたのかを見ず、「自分の頭」だけで考えた、それこそリベラリズム的な薄っぺらい主張!

もちろん、木下都議に支払われる歳費は決して安いものではありません。しかし、辞職勧告決議に法的強制力をつけたりリコール期間が短縮されれば、組織力のある徒党にとって気に食わない議会構成、目の上のタンコブのような議員を排除できる期間はそれだけ短縮でき、徒党の意思を貫徹しやすくなるもの。

組織力のある徒党、とりわけ支配層は「やるときは、なりふり構わずやる」。そこを甘く見るのはまさに「性善説」。「性善説に立った悠長なことは言ってられない」をそっくりそのままお返ししたいと思います。
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2021年11月21日

選択的夫婦別姓問題を巡って、衆議院議員総選挙と最高裁判所裁判官国民審査の結果が本当に示しているコトととは:衆議院議員総選挙を振り返る(3)

引き続き、衆議院議員総選挙の総括です。今回は、結果的にごくごく一部での話題にとどまったジェンダー平等、とりわけ選択的夫婦別姓問題について取り上げたいと思います。

■選択的夫婦別姓問題が総選挙のホットイシューになったという、とんでもない勘違い
選挙前の記事になりますが、「なぜ夫婦別姓問題は選挙のホットイシューになったのか?自民候補者の葛藤とホンネ」(10/25(月) 8:10配信 BUSINESS INSIDER JAPAN)という記事がありました。驚くべき内容です。どんな世論調査を見ても、今回の総選挙において選択的夫婦別姓問題が有権者の主たる判断基準になったというデータは存在しないからです。

この記事を読んで私は、昨年のアメリカ大統領選挙の情勢報道を思い出さざるを得ませんでした。ワクチン実用化前の当時は、日本から取材クルーを送り込み難かったので、在米日本人ジャーナリストからの報告中心の報道でした。素直に「トランプ氏支持を公言する人と出くわすことは、まずないので、トランプ陣営のことはよく分からない」と告白する人もいましたが、大抵は、民主党支持者の牙城である沿海都市部での取材結果を柱に全体情勢を語っていたものでした。選挙結果が明白に示しているとおり、沿海部ではバイデン氏に対する支持がトランプ氏に対するそれを引き離していたものの、地方部を含めた全米の結果は、両者の差は都市部での差ほどではありませんでした。自分の身の回りの狭い輪の中でのサンプルでしかないのに、それを以って全体を推計するという誤った推測統計を地で行く行いだったのです。

今回の総選挙を巡ってマスメディアは、選択的夫婦別姓問題を争点化しようと公開討論会などの機会があるごとに積極的に質問を仕掛けていました。しかし、どんな世論調査を見ても、選択的夫婦別姓問題が主要テーマとして浮上してくることはありませんでした。上掲記事の筆者である浜田敬子氏は、ご自身の周りでは選択的夫婦別姓問題の話題で持ち切りだったので、世間一般でもホットイシューになったのだと勘違いしていたとしか考えられないものでした。

■特殊な集団として大衆から遊離していることを疑わせる総選挙の総括
選挙結果は自民党の圧勝でした。絶対安定多数を自民党単独で確保したのだから圧勝と言う他ありません。そして、出口調査を見るに、やはり選択的夫婦別姓問題は最後まで有権者の主たる判断基準にはならなかったと言うべきでしょう(「【図解】景気・雇用、コロナ対策を重視=投票先の選択で―出口調査【21衆院選】」10/31(日) 22:53配信 時事通信)。

選挙後の11月8日、「「ジェンダー平等では選挙に勝てない」は真っ赤なウソ…野党惨敗の本当の理由」(11/8(月) 13:16配信 プレジデントオンライン)という、これまた驚くべき内容の記事がでできました。

ニュースでは「ジェンダー平等は国民の間であまり争点にならなかった」などと言われました。しかし、僕は野党の打ち出し方が悪かっただけだと思っています。彼らは、ジェンダー平等を票につなげるためのアピール方法を間違えたのです」とのこと。「アピール方法を間違えたからこそ、争点にならなかった」のではないか、いったい何を言っているのか、ショックのあまり混乱状態にあるのではないかと疑わざるを得ない内容です。

この手の意味不明なくだりは、往々にして、言葉の意味するところが一般のそれとは異なる特殊な意味合いとして用いられているものです。私も論争的な話題に首を突っ込んで久しく、いろいろな論争(罵倒合戦)を見てきたので、多少のことは分かります。本件記事でも冒頭に「国民はジェンダー平等に無関心だったと結論づけるような報道も。しかし、ジェンダー問題を研究する大正大学准教授の田中俊之さんは「それは真っ赤なウソ」と指摘します」とあることから、筆者の田中俊之氏の中では「選挙の争点にはならなかった」=「有権者は選択的夫婦別姓問題に価値を置いておらず、どうでもいいと思っている」ということになっているのでしょう。

スターリンはかつて、言語とは人々の間の交通手段であると述べました。言葉に独自の特殊な意味合いを付与したところで普通に人間同士の交通を行ってさえいれば、その特殊な意味合いは自ずと修正されいゆくはずです。通じなければ意味がないのが言葉というもの。通じなければ通じるように言い換えるようになるはずです。その点、田中氏が所属するこの界隈が、特殊な集団として大衆から遊離していることを疑わせる記事でした

■それぞれが好き勝手に解釈して意味を付けくわえている最高裁判所裁判官国民審査の総括
田中俊之氏の稿の末尾では最高裁判所裁判官国民審査に言及があります。選挙で選択的夫婦別姓問題が盛り上がったとは到底言えないので国民審査の結果に話題を切り替えたのでしょうか。東京新聞は次のように報じています。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/140246
最高裁国民審査 夫婦別姓認めぬ規定「合憲」の裁判官4人、不信任率ほかの7人より高く 
2021年11月1日 22時34分

 衆院選と同時に行われた最高裁裁判官の国民審査は1日、総務省が開票結果を発表した。対象となった裁判官11人のうち、不信任率が最も高かったのは、深山卓也氏の7.9%。「夫婦別姓」を認めない現行の民法と戸籍法の規定について「合憲」と判断した4人の罷免を求める率が、他の7人と比べて高い傾向となった。不信任が有効投票の過半数に達して罷免となる裁判官はいなかった。

 10月31日投開票の衆院選では、夫婦が同姓か別姓かを選べる「選択的夫婦別姓」制度の導入の是非が争点の1つになり、国民審査の対象となる裁判官の「夫婦別姓」に対する判断も注目された。

 最高裁大法廷は今年6月、「夫婦別姓」を認めない現行の民法と戸籍法の規定について「合憲」と判断している。国民審査対象の11人のうち、深山卓也、林道晴、岡村和美、長嶺安政の4氏は「合憲」と判断。インターネット上では4氏に「×」を付けるよう呼び掛ける運動もあった。開票の結果、不信任率は深山氏が7.9%、林氏7.7%、岡村氏と長嶺氏は7.3%で、いずれも7%を超えた。

 残る7人は「違憲」と判断した3人と、決定後に就任した4人で、不信任率は6.0〜6.9%だった。

(以下略)
そもそも、くだんの判決において合憲と判断した裁判官は、現行法は合憲と司法判断しているだけで、夫婦別姓に反対しているわけではなく、それを可能にする立法措置に反対しているわけでもありません。70年も前に、まずは日帝時代のイエ制度を乗り越えることが最優先課題だった時代につくられてから一文字も改正されていない日本国憲法が、選択的夫婦別姓問題を射程に収めているはずがなく、よって十分に対応できなくとも無理はないように思われます。スパッと「全員一致の違憲判決」とならずに裁判官によって判断が異なるという事実からは、憲法自体に問題があるようにも思われます。

それはさておき東京新聞記事についてですが、選択的夫婦別姓問題を認めない現行法の規定を憲法に違反しない(合憲)とした裁判官への不信任票が、その率として7パーセントを超えたと殊更に強調しています。しかし、この「7パーセント」にいったいどのような閾値的な意味があると言うのでしょうか? 単に歯切れがよかったからでしかないように思われます。

都道府県別に統計学的に分析すると、東京や沖縄では偶然とはいえない有意差があると言えそうですが、その他の道府県では誤差の範囲と見られます。ちなみに、沖縄タイムスは、次のように総括しています。
https://news.yahoo.co.jp/articles/cb432904ca658b55ed589b20346133f46e53e381
沖縄は全国の2倍 最高裁判官への罷免要求14.8% 最も高かった裁判官の過去の判断は
11/3(水) 7:32配信
沖縄タイムス

 最高裁裁判官の国民審査の結果が1日発表され、辞めさせたいと×を付け罷免を求める率が沖縄は平均14・8%と、全国(6・8%)の2倍以上に達した。対象11人のうち、罷免率の上位には辺野古新基地建設の訴訟で県に不利な判断をした裁判官が並んだ。次いで夫婦別姓を認めなかった裁判官の罷免率が高く、二つ目の判断材料になったことがうかがえる。(編集委員・阿部岳、社会部・新垣玲央)

 県内で最も罷免率が高かった深山卓也氏は辺野古新基地を巡る「国の関与」取り消し訴訟で裁判長を務め、県側の上告を棄却。2、3番目の林道晴、長嶺安政両氏はサンゴ移植訴訟で同様に県側の上告を退けた。

 4番目の岡村和美氏までは全員、夫婦別姓を認めない民法の規定を合憲とした裁判官だった。全国的にもこの4人に×を付ける運動があった。

 5〜7番目の三浦守、草野耕一、宇賀克也の3氏は夫婦別姓を認める判断をしていた。加えて宇賀氏はサンゴ移植訴訟で反対意見を付け、県の対応に違法性はないと述べており、任命から日が浅い4氏を除いて罷免率が最も低かった。

(中略)
 「過去には罷免率が高かった裁判官が1票の格差に関して判断を変えたこともあった。最高裁は雲の上の存在と思いがちだが、辺野古にしても夫婦別姓にしても自分ごと。今回のように多くの人がよく考えて投票し、この大切な制度を実質化してほしい」と話した。
それぞれが好き勝手に解釈して意味を付けくわえており、ここに統計科学的な妥当性は見られないと言わざるを得ません。

■衆議院議員総選挙と最高裁判所裁判官国民審査の結果が本当に示しているコトととは
東京新聞は「7パーセントを超えた!」と言いますが、不信任率が最高の人と最低の人との差は2パーセントもありません。明治大学の西川教授によると、今回不信任率がトップだった深山卓也裁判官への不信任率7.85パーセントも、決して高いとは言えないといいます(「国民審査の結果どう読み解く? 「夫婦別姓」認めなかった裁判官でも不信任率「7.85%」…明大・西川教授に聞く」11/6(土) 9:25配信 弁護士ドットコムニュース)。また毎日新聞も「大法廷は15年の判決で、夫婦別姓を認めない規定に初めて「合憲」判断を示したが、その後の17年に実施された前回審査では、これほど罷免率に差は出なかった」と報じています(「夫婦別姓認めぬ民法 「合憲」4裁判官、罷免要求突出 国民審査」 毎日新聞 2021/11/1 20:38(最終更新 11/2 18:04))。

選択的夫婦別姓問題にしても、沖縄タイムズが言う基地問題にしても、すべての有権者が必ずそれをテーマとして投票しているわけではありません。「7パーセントを超えた!」にしても「2パーセントも差がない」にしても、この結果から言えることはあまりにも少ないと言うべきでしょう

強いて言えば「争点にならなかった」、そして、選択的夫婦別姓問題を提唱する層は極めて少数派であり、また、統計科学の初歩も理解していない人たちも含まれているということくらでしょう。

■今後について
田中俊之氏の稿に戻りますが、選択的夫婦別姓の問題は、もっと経済や雇用の問題と関連付ける必要があるように思われます。関心を掘り起こすために次の戦略として試してみる価値はあると思われます。もちろん、そうしたからといって必ずしもホットイシューになるとは言えないでしょう。本来的には経済問題ではないのですから。
ラベル:政治
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2021年11月14日

日本維新の会の「古臭さ」について

https://news.yahoo.co.jp/articles/dd42f46ec73350f7be516c4c953151650ca0cc49
「僕が40万円もらえるのはおかしい」18歳以下一律10万円給付案 “天下の愚策”橋下徹氏が疑問
11/8(月) 16:01配信
FNNプライムオンライン

岸田政権初の大型経済対策である現金給付案。まだその対象や額については決まっていません。公明党が衆院選の公約に掲げたのは、18歳以下の子供約2000万人を対象に、所得制限を設けることなく、一律で10万円を給付するというもの。

めざまし8では、橋下徹氏がこの政策への疑問点を指摘しました。

公明党の案では、「未来応援給付金」と称して、18歳以下の子どもに対し、一律で現金10万円を給付し、所得制限を設けないというもの。そのうえ、マイナンバーカードを保有している全国民を対象に、買い物などで使える3万円相当のポイントを付与するという施策。

こうした内容を自民党に求めていくものとみられます。この政策に対し橋下氏は…

谷原章介キャスター:
所得制限がないとなると、私は6人18歳以下の子どもがいるので60万円給付されることになる。橋下さんはいくら給付されることになるんですか?

橋下徹氏:
僕は4人だから、18歳以下は4人で40万円。だから2人で100万ですよ。これは、どう考えてもおかしいでしょ。僕は天下の愚策だと思いますよ。このお金を給付することの目的、困窮者救済目的だったら分かります。今のこの状况で、経済対策だったらもっと幅広く、全国民対象っていう風にやらなければいけないし、それから18歳以下で少子化対策ってことだったら、これは10万円の給付じゃなくて、もっと中長期的に違う政策をやらなきゃいけない

(以下略)
https://news.yahoo.co.jp/articles/50ecf40a056222fe46c3fad7b2ff18a6ecabada7
吉村知事 18歳以下一律10万を批判「僕も30万もらえる」「何の目的か分からない」
11/7(日) 16:48配信
デイリースポーツ

(中略)
 吉村氏は「コロナ禍で経済的に厳しい人がいるので、そういう人に支給するのは大賛成」と意見した上で、「これだけ莫大な財源を使うのに、政策の信念がない」「所得関係なしに、18歳以下だから全員に配るというのは、何を目的としているのか分からない。(18歳以下の子供3人がいる)僕だって30万円もらえますからね」と“18歳以下一律10万円”案をバッサリ。

 自身は知事の任期4年での退職金約4000万円をもらわず、給与3割カットと“身を切る改革”を実行しているが、「ただコロナだからって収入は減ってないんです」「橋下さんが40万で、僕が30万もらえる制度、って本当にコロナ禍の政策として正しいのか?。ここに国民は疑問を感じていると思います」として、「所得制限は付けるべき」と指摘した。番組にスタジオで生出演していた元大阪府知事、元大阪市長の橋下徹弁護士には7人の子供がいる。

(以下略)
■「未来応援給付金」は橋下氏・吉村氏に給付されるものではない
この問題、昨春の「一人一律10万円」のときを思い出せば、制限を設けようとも設けまいとも必ず異論・批判が出てくる話です。そのため「どちらが正しいか」という次元では測りがたい問題です。

しかしながら一つ確実に言えることは、「橋下氏・吉村氏らの理解は完全に間違いだ」ということです。あなたが貰えるわけではありません。この給付金は、橋下氏・吉村氏に給付されるものではなくその御子息たちに給付されるものです。

「保護者かつ世帯主は橋下氏・吉村氏なんだから、結局、橋下氏・吉村氏が受け取るということだ」という反論は容易に想定できることですが、本気で教育立国・科学技術立国を目指すのであれば、このイエ単位の発想、「教育は親が子どもに買い与えるものだ」という古臭い発想を問い直す必要があります。公明党が「未来応援」と謳い文句は、こうした古臭い発想を乗り越えたところにあるものと解釈すべきです。

■維新の「古臭さ」は、しっかりとした社会歴史観が定立されていないから
こういう古臭いことを言ってのけるあたり、維新にはしっかりとした社会歴史観が定立されていないことが透けて見えます。維新が掲げていることは平たく言えば「他人の給料を切り下げること」で金銭的余裕を作り出しつつアメリカンドリームの劣化コピーを信奉する、貧乏性から抜け出し切れていない成金的ネオリベの焼き直しに過ぎません

彼らに自分語りをさせると、まず革新自治体の大盤振る舞い批判に始まり、その後の保守行政についても「改革が足りない」などとした上で、自分たちの正統性を強調します。つまり、彼らの原点は「革新自治体の逆張り」であり「改革が足りないから日本は沈滞している」なのです。50年も前の為政者を敵視し、竹中平蔵氏とそのお仲間たちの口癖を臆面もなく繰り返す二重の時代錯誤。大盤振る舞いしてきた旧社会党を中心とした革新自治体の政策を負の遺産と断定した上で、竹中平蔵氏が提唱した路線の亜流に乗っかりつつ、革新自治体の政策を自民党も清算できていないという維新の歴史観は、つまるところ維新最大の敵は旧社会党ということになります。驚くべき時代錯誤であります。

■維新の時代錯誤性は政策のあちこちに・・・
ここに過去を止揚して新しいビジョンを展開しようという意気込みと取り組みはまったく見られせん。論じ尽くされた古臭い議論の逆張り的焼き直ししか出てきません。

10月24日づけ「社会主義・共産主義に向けた展望を持ち合わせていない日本共産党」において脱線的に述べたことですが、反共理論家であるF.A.ハイエクが指摘したとおり、「未知の解を探究し、消費者の需要・社会的課題を探り当てる」ことが経済活動の大部分を占める現代資本主義は「全員野球」が求められている時代です。その点においてソ連型の中央集権的計画経済は誤りですが、労働組合を敵視する維新のように、労働者や従業員が取り分の拡大や会社組織の意思決定における意見反映機会の拡大、つまり労働者や従業員が自主性を要求することに否定的な立場もまた誤りであります。

維新は「成長戦略」を目玉商品としていますが、企業単位の自主性を保障するに留まっています。まさに何の目新しさもない点において、いろいろな意味で「ネオ・リベラリズム」というべきものです。維新が掲げている「改革」なるものは、内実としては、全員野球が必要な現代資本主義社会に適合するものではありません。単に旧社会党的なものの逆張りに留まっています。何の目新しさ、進歩もありません。

このことも、「未来応援給付金」に対する時代錯誤的な批判と同様、しっかりとした社会歴史観が欠如しているからだと断ずるほかないでしょう。彼らの「哲学」は、貧乏性から抜け出し切れていない成金的ネオリベの焼き直しに過ぎないものしか提唱できないのです。

このように、維新の正体とは、「改革」の皮を被って時代の寵児を演じているに過ぎないと言わざるを得ないものなのです。

■総括
維新が掲げる「改革」は、しっかりとした社会歴史観が定立されていない点において何ら目新しいものはなく、いまだに究極的には旧社会党的なものと闘っているに過ぎない点において、革新自治体の逆張りであり、竹中路線の時代錯誤的な焼き直しです。

つまるところ、維新の政策とは、公的な経済的支援は旧態依然のイエ単位であり、教育政策は「教育は親が子どもに買い与えるものだ」という古臭い発想、経済政策はあくまでも企業単位の施策に留まるもので従業員・労働者の意見反映機会の拡大・自主性の発揮には全く関心を寄せず、そして財源は「他人の給料を切り下げること」で金銭的余裕を作り出す、貧乏性から抜け出し切れていない成金的ネオリベの焼き直しに過ぎないということです。

こんなものは、既存政策論の残りかすを寄せ集めたにすぎず、何ら目新しいものではありません。
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2021年11月13日

立憲民主党と日本共産党との共闘をやめることはできるのか、共闘をやめたところで立憲民主党の党勢は回復するのか:衆議院議員総選挙を振り返る(2)

総選挙振り返り第2弾として今回は、立憲民主党と日本共産党との共闘をやめることはできるのか(立民は共産党を「切る」ことはできるのか)、そして共闘をやめたところで立民の党勢は回復するのかについて考えてみたいと思います。

■共産票の助けがあってやっと競り勝った選挙区・議員が多い
世論調査によると、6割を超える人たちが立共共闘を見直すべきだと答えており(「野党共闘「見直しを」61% 岸田内閣支持、微増の58%11/2(火) 17:23配信 共同通信」)、立民の泉健太氏などがきたる代表選の争点として唱えてきました。
https://news.yahoo.co.jp/articles/4fea0d2235e503c2b5d641c957b06e2f66ce2e00
立民代表選、共産党との共闘争点 泉氏「再検討は当然」
11/4(木) 19:09配信
共同通信

 立憲民主党の枝野幸男代表の辞意表明に伴う代表選で、衆院選の敗北を巡り、共産などとの野党共闘の是非が争点になってきた。代表選への立候補が取り沙汰される泉健太政調会長は4日、「衆院選結果を踏まえ、再検討するのは当然だ」と述べた。

(以下略)
ごく自然な成り行きではありますが、今回の結果を見るに厳しいのではないでしょうか?

立民は、市民連合を介した共産党との共闘について、あくまでも自党として独立性を保て、やめようと思えばいつでもやめられるものだと思っているフシがあります。あくまでも票の協力、政権奪取時には閣外協力であり、限定列挙した政策以外は自分たちの独立が保たれると思っているようです。

例えば10月17日のNHK日曜討論。自民党の甘利氏が「共産党と共闘する立民が政権を取れば、閣外協力とはいえ、日本の政治史上、初めて共産党の意思が入ってくることになる」という趣旨の発言をしたのに対して、立民の福山氏は「限定的な閣外協力だ」とか「閣法の審査過程に共産党は入れない」と応じていました。このとき福山氏は甘利氏のことを心底バカにしたような面持ち、「何を言ってんだか」といった顔で見ていたのに対して、甘利氏が「わかってねえな、違うんだよ」と言わんばかりの苦々しい顔をしていたのが私には非常に印象的でした。公明党というパワフルな組織力を持った党と深く結びついてしまった自民党幹部としての苦悩を感じさせる甘利氏の表情に私には見えました。

参議院静岡補選のように共産党独自に候補を立てていても勝てるくらいに立民の自力が強かったり、東京8区のように自民候補(石原伸晃氏)を早々に落選に追い込み最終的にも差をつけて勝てる選挙区ばかりならば、立民にとって共産党は「支持団体のひとつ」扱いできるので、「切る」ことはできるでしょう。

しかし、フタを開けてみると共産票の助けがあってやっと競り勝った選挙区・議員が多いところであります。なんといっても代表の(だった)枝野氏自身、おおむね2万票弱あると思われる共産票を得てようやく勝利したのですから。

■共産党は立民の、選挙版「瞰制高地」に陣取った
立民は共産党との共闘を、社民党などとの連携と同列に考えていたのではないでしょうか? 基礎票が少なく組織力も弱い社民党などとの連携は、実際の社民票の集票よりも政党間協力というパフォーマンス効果の方が大きいと思われます。「我が党は社民党とも協力し、幅広い国民の声に耳を傾けます」とアピールして野党寄りの無党派層の歓心を買い、自党(立民)に票を手繰り寄せるのが社民党などの弱小政党との連携戦略です。

仮に社民党などが「身の程をわきまえず」に何か強硬に要求してきたとしても、そもそも票田としての魅力はほぼないのだから切ってしまっても全く痛くありません。旧民主党政権において沖縄問題で連立与党の社民党が離脱するとなったとき、旧民主党は「どうぞ出て行ってください」と応じたものです。

しかし、共産党は社民党とはまったく違います。比べ物にならない基礎票を持ち強い組織力を誇る党です。選挙結果を見れば明らかであるとおり、小選挙区選出の立民議員にとって共産票は必要不可欠なものになっています。立民にとっての共産党は、社民党のように「いつでも切ることができる支持団体の一つ」ではなく、「かなり有力な支持基盤」になってしまったのです。こうなってしまうと立民議員たちにとって共産党の意向は、まさに「支持基盤の声」として無視できないものになります。よく目を配る必要が生じます。

たしかに立民と共産党は限定列挙の項目に限った協力関係で、立民の党としての意思決定に共産党は直接的には干渉しません。しかし、立民議員はその当落の生命線を共産党に握られてしまったのです

共産党は立民の、選挙版「瞰制(管制)高地」に陣取ったと言えます。瞰制高地とは「そこに陣取ることで全体を俯瞰し戦局を管理できる場所」を指す言葉ですが、レーニンはこのことから転じて「経済全体を管理できるようなポイントを握れば、必ずしもすべての産業を国有化する必要はなく、私企業の『自由』な経営を残しても経済の社会主義的統制・社会主義経済の建設は可能だ」としました。このレーニンの考えはネップの理論的基礎となり、現在日本共産党が掲げている「市場経済を通じて社会主義へ」の柱になっています。

共産党は、自分たちが直接介入せずとも要所要所を押さえて間接的に立民を操ることができたのであります。このことは決して悪いことではなく、むしろ見事な戦略と言うべきものです。少数派が結束して組織の要所を押さえて多数派と渡り合うべきです。ボリシェヴィキの頃からの鉄則だといえます。

さてさて、初めの問いに戻りましょう。果たして立民は共産党を「切る」ことはできるのでしょうか? 共産党を「切る」ためには、日本維新の会や国民民主党などから非自民・非共産票を奪い、共産票の比重を下げる必要があります。しかし、維新や国民民主党に投票する有権者が、共産党との関係を清算する前に立民に寄り付くことは考えにくいものです。有力な支持基盤を切り背水の陣を構えてまで党再生の賭けに出るような覚悟を持った人物が代表選に名乗りを上げるでしょうか?

■共産党を切ったとしても「社会党化」の入口が待っている
それよりも重大なのは、共産党との関係を清算でき完全に自主独立の立民になったとしても、票が集まるかは分からないというところにあります。立民にとって「比例票20パーセント」が頭打ちだという可能性も十分にあるのです。

今回、立民が大敗とされている主な理由は、前回総選挙で旧希望の党など他党の看板で当選した比例議席を含めての「公示前比例62議席」から比例39議席に23議席も減らした点にあります。たしかに、政権交代を狙う野党第一党たるもの保守票も取り込む必要があるので、この大敗分析に私は異論はありません。

小池百合子氏に「排除」された人たちが前回総選挙直前に仕方なく旗揚げした旧立民が意外と健闘した結果、野党第一党のネームバリュー目当てに、他党の看板で当選したクセに転がり込んできた議員たちによって水ぶくれしていったのが立民という党でした。公示前の「立民議員」には、立民一筋ではない人も多く含まれていました。

その点、前回総選挙の時点から立民の看板を背負っていた人たちによる議席、つまり前回総選挙において立民が獲得した比例議席は、筋金入りのリベラルはそれとして捉えるべきでしょう。それは議席にして37、得票率にして約20パーセントでした。

これに対して今回の立民の獲得比例議席数は39、得票率は約20パーセントでした。立共共闘の関係上、共産票がいくらかは立民に流れたと考えられるので、純粋なリベラル票としては微減したはず。しかし、「ほぼ変動なし」というわけです。共産党と組んでも組まなくても「おおむね20パーセント程度が立民の実力」と考えることも可能です。

このように考えると、立民にもそれなりに「固定票」があるので、共産党との関係性を続けても続けなくても、直ちに党が瓦解するようなことはないでしょう。しかしそれは間違いなく「社会党化」の入口。立民の終わりの始まりです。

■総括
共産党と主張が近くなり始めた時点で既に立憲民主党の低落過程は始まっており、共産党と実際に連携をしてしまったことによって後戻りが非常に困難になってしまったと考えます。そもそも、どうしようもなくなりつつあったのが、選挙結果で白日の下に晒されたというわけです。

自民公明連立政権に量的に対抗し得る勢力が、よりにもよって維新だけとは・・・
ラベル:政治
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2021年11月12日

キレイゴトや観念論までもが入り混じって混沌しつつあるCOP26

もともと一筋縄ではいかない気候危機対応・地球環境保護を巡るCOP26ですが、ここにキレイゴトや観念論までもが入り混じって混沌としています。
https://news.yahoo.co.jp/articles/f7f88910da745520d391b837f605e28455a5eb2a
COP26でオバマ氏、中露首脳欠席を「危険なほどに危機感を欠いている」と批判
11/9(火) 11:27配信
読売新聞オンライン

 【グラスゴー=江村泰山】米国のオバマ元大統領は8日、COP26で演説し、中露の首脳が会議を欠席したことについて「危険なほどに危機感を欠いている」と批判した。

 オバマ氏は2015年のCOP21で、中国の習近平(シージンピン)国家主席やロシアのプーチン大統領と会談し、温暖化対策の国際的枠組み「パリ協定」の採択に尽力した。今回、会議を欠席した両首脳に対し、オバマ氏は「温室効果ガスの排出量が上位の2国の首脳の姿が見えない。恥ずべきことだ」といら立ちを見せた。

(以下略)
オバマ氏の発言への直接的回答ではありませんが(そもそも時系列が前後している)、中国側の見解は以下。
https://news.yahoo.co.jp/articles/9f2d632b2114f7422fa7cc7a152a0a93c56342b1
「グレタは欧米に利用されないためにより良い教育が必要」とこき下ろした中国・環球時報
11/2(火) 22:01配信
ニューズウィーク日本版

(中略)
これに中国共産党機関紙、人民日報系の国際版、環球時報(電子版)がかみついた。

「15歳から学校をサボって、いわゆる気候変動デモに参加しているトゥンベリは欧米では熱心な環境保護活動家として描かれる。彼女は欧米が排出量を抑制するために十分な努力をしていないという事実から目をそむけさせるための優れた道具なのだ」

環球時報によると、グレタさんは中国のネットユーザーから「欧米政治家の操り人形」というあだ名をつけられているという。

(中略)
環球時報は、中国は9月に海外で新たな石炭火力発電プロジェクトを建設しないと発表しており、風力や太陽エネルギーの生産量は世界最大だと指摘した上で、こう反論する。

「ジョー・バイデン米大統領や欧米の世論は自分たちの責任逃れのため、中露が十分な努力をしていないと非難する。COP26についても欧米の多くのメディアが、中国がより野心的な削減目標を採用しないことを非難している」

「マーとトゥンベリは、中国が世界の工場として他国で消費される消費財を大量に生産しているという単純な事実も無視している。世論をごまかそうとする欧米に利用されないためにもトゥンベリさんはより良い教育を受け、より多くの知識を得る必要がある」

(以下略)
どっちもどっちと言うか、言い争いしている場合ではないように思われますが、自分たちのことを完全に棚に上げてキレイゴトに終始するオバマ発言よりも、環球時報のほうが筋が通っているように思われます。

オバマ発言もう一つ。大統領を退任して「身軽」な立場になったからと言って、無責任にまではなってはいけないでしょう。
https://news.yahoo.co.jp/articles/f0fa433c842d1429b04bd7c2090f0eaa0ae4923a
「若者よ、怒り持ち続けろ」 オバマ氏、気候変動で活動称賛 COP26
11/9(火) 8:20配信
時事通信

 【グラスゴー時事】オバマ元米大統領は8日、英北部グラスゴーで開かれている国連気候変動枠組み条約第26回締約国会議(COP26)で演説し、気候変動問題で積極的に声を上げている若者世代に対して「怒りを持ち続けてほしい。いら立ちを感じ続けてほしい。この問題を解決するためにはそれが必要だ」と呼び掛けた。

 オバマ氏はスウェーデンの環境活動家グレタ・トゥンベリさん(18)らの名前を挙げ、若者たちの活動を称賛。

(以下略)
社会変革の原動力に「怒り」を据えてはなりません。「怒り」は劇薬です。チュチェ思想国際研究所事務局長の尾上健一氏は著書で次のように述べています。
これまでの社会運動は対立物の闘争と統一の法則や矛盾論にもとづいていたため、対立や矛盾をさがしだすことが重要視されてきました。

新しい社会を担う人間を育てることに力をいれるよりも、敵を見つけていつも誰かを敵にしてたたかうことに関心がむけられたのです。

労働者が政権をとった新しい社会になってからも、労働者同士で対立する事態が生じました。なかまを信じられずたがいに協力しない社会が人間の理想社会といえるでしょうか。

(中略)
支配層にたいしてだけではなく、なかまや大衆にたいしても闘争対象とみる傾向があります。

対立物の闘争と統一の法則は、自然にたいしては部分的に適用されても、人間と社会に適用することはできません。

資本主義社会をこえてもっとよい世界をつくろうとするときに、対立物の闘争と統一の法則を適用することはむしろ弊害になります。

尾上健一(2015)『自主・平和の思想』白峰社p9〜10より

キム・イルソン同志も次のように指摘されています。
社会主義革命をおこなうときの階級闘争は、ブルジョアジーを階級として一掃するための闘争であり、社会主義社会での階級闘争は、統一団結を目的とする闘争であって、それは決して社会の構成員を互いに反目し、憎みあうようにするための階級闘争ではありません。社会主義社会でも階級闘争をおこなうが、統一と団結を目的とし、協力の方法で階級闘争をおこなうのであります。
キム・イルソン(1967)「資本主義から社会主義への過渡期とプロレタリアート独裁の問題について」『金日成著作集』第21巻、外国文出版社p282

気候危機対応・地球環境保護は、誰かを階級として一掃するための活動ではなく、地球上に生きるもの皆の共同課題であります。「決して社会の構成員を互いに反目し、憎みあうようにするため」の活動ではないはずです。故郷に対する愛、未来に対する愛を中心に据えるべきであるとチュチェ思想派として考えています

オバマ氏が称賛するグレタさんですが、最近はここまで先鋭化・観念論化してしまったようです。こんな人を賞賛するんですか?
https://news.yahoo.co.jp/articles/4bd407777b4358fc070dd00a9bd93b1d3a73a8a3?page=2
「COP26はグリーンウォッシュの祭典」子供たちを脱資本主義に誘うグレタさん
11/6(土) 20:40配信
ニューズウィーク日本版

(中略)
<グレタさんが目の敵にする「カーボン・オフセット」>

COP26ではパリ協定ルールブック最後のピースである6条(排出削減量の国際取引を行う「市場メカニズム」)での合意を目指している。脱資本主義を唱えるグレタさんが目の敵にしているのは「カーボン・オフセット」。どうしても避けられない温室効果ガスの排出について、排出量に見合った削減活動への投資によって埋め合わせようという考え方だ。

グレタさんは3日、「COP26 グリーンウォッシュの警告!」と題した連続ツイートで「化石燃料産業と銀行は気候変動の最大の悪者の一つだ。シェルとBP、スタンダードチャータード銀行はグラスゴーでカーボン・オフセットの規模を拡大し、汚染者に汚染を続けるためのフリーパスを与えようとしている」と指摘した。

「今こそ『企業詐欺タスクフォース』を解体する時だ。公害をまき散らす利益主義者はオフセットを気候変動ゲームにおける『無料で刑務所から出られるカード』と考えている。しかしオフセットはしばしば危険な気候変動の嘘だ。オフセットには人権侵害のリスクがあり、すでに弱い立場にあるコミュニティーを傷つけてしまう」

「オフセットはしばしば偽善であり、COP26ではそれが渦巻いている。南半球や先住民族の土地利用に大きく依存した自然ベースのオフセットは北半球の国々が行った排出量の責任をすでに気候危機の影響に苦しみ、その責任が最も小さい国々に転嫁する危険性がある。オフセットのような危険な気候変動の嘘で自分たちを守れない」

「未来のための金曜日」行進には「授業より地球を守る方が大事」と学校をボイコットしてきた子供たちや家族連れら約1万人が参加して「気候変動は戦争だ」「革命を起こそう」とシュプレヒコールを上げた。「地球を守るため学校をボイコットしたグレタさんは正しい。今、行動を起こせば地球は救える」と地元の小学生アイラ・マクラインさん(10)は言う。

社会主義ユートピアを掲げるスコットランド民族党(SNP)が自治政府を運営するスコットランドには社会主義シンパが多くいる。温暖化対策だけでなく資本主義を根底から覆そうと唱えるグレタさんのアジテーションは幼い子供たちには毒が強すぎるように感じられたのは筆者だけか。

貧富の格差を拡大させ、環境を破壊するグローバル資本主義が修正を求められているのは間違いない。しかし公正な市場メカニズムまで完全に否定してしまうことはできないだろう。同じ温暖化阻止を目指しながら、グレタさんはCOPに背を向け始めた。
排出権取引が出てきたあたりから左派界隈では「こんなものは免罪符に過ぎない!」と主張する人がいたものですが、その延長上の騒ぎでしょう。

朝鮮やキューバまでもが市場メカニズムを部分的に応用する形での社会主義建設に切り替えつつあるというのに、何の政策科学的根拠もなく善悪問題として「カーボン・オフセット反対!」を主張するグレタさん。ついこの前まで「科学に耳を傾けよ」と言っていなかったでしょうか?

収拾がつなかくなってきました。
ラベル:チュチェ思想
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2021年11月07日

ロシア革命記念日にこそ「禁欲運動による社会変革がうまくいったことなど歴史上ない」ことを踏まえて新社会を展望したい

https://news.yahoo.co.jp/articles/de41bcea4d4978d653b515d67c0a35811101b804
グレタさん「地球からの搾取やめろ」会場付近で訴え
11/2(火) 10:58配信
テレビ朝日系(ANN)

 気候変動対策を話し合う国際会議、COP26がイギリスで開催されるなか、環境活動家、グレタ・トゥーンベリさんが会場近くで行われたデモに参加しました。

 環境活動家、グレタ・トゥーンべリさん:「人々や自然、そして地球からの搾取はもうたくさんだ。搾取をやめろ。ああだ、こうだ言うのはやめろ」

 グレタさんは、温暖化対策が進まない現状を痛烈に批判しました。

(以下略)
■可能なのは「自然の恵みを頂戴するにしても限度を弁えろ」といったあたりにならざるを得ない
アカの私がロシア革命記念日である11月7日に言うのもなんですが、「搾取」という厄介な概念を持ち出すだなんて・・・いったいどこで覚えたんでしょうか。ああこの泥沼に自分から入り込むだんて・・・

「考えるきっかけ」などという逃げ道を塞ぎ、あくまでも科学的に厳密に考える立場を貫徹するとき、そもそもあらゆる生産活動は自然環境からの搾取に他なりません

たとえば農業。農夫は種蒔きや施肥、水やりに草刈りと自らの労働を多く投下しますが、同時に植物固有の生命力や土壌中の微生物活動、気温や湿度、太陽光といった自然環境の条件からも多くの利益を引き出しています。寒冷地の冬に敢えてトマトを栽培しようとすれば膨大な燃料費が持ち出し費用としてかかりますが、温暖な土地で季節に合わせてトマトを育てれば、その生命力ゆえに「勝手に」育ってくれます。このとき、人間はトマトや土壌中の微生物等に「給料」を払うはずがなく、一方的に収穫し消費します。まさに搾取以外の何物でもありません。

人間は光合成できない存在なので、かならず自然環境から生存のための食料等を獲得する必要があります。その存在からして自然環境から一定の「搾取」を行わなければそもそも命を繋ぐことができない存在なのです。よって、「地球からの搾取やめろ」を字義どおりに実践することは不可能であり、可能なのは「自然の恵みを頂戴するにしても限度を弁えろ」といったあたりにならざるを得ないでしょう

■主体がしっかりと確立されていない人物がSDGsを語っている
その点において、慶應義塾大学の若新雄純特任准教授が下記の記事で述べたことは衝撃的であります。
https://news.yahoo.co.jp/articles/da09206b2e166106e8162e73bbbf2ecd95710424?page=4
「地球からの搾取をやめろ!」グレタさんのメッセージに感じてしまう違和感の正体…制限の“無理強い”ではなく選択肢の“提示”を11/4(木) 15:22配信
ABEMA TIMES

(中略)
 慶應義塾大学の若新雄純・特任准教授は「高校生たちとSGDsワークショップをやると、多くの生徒が“持続可能性”について勘違いをしていてびっくりする。つまり、人間の欲望ある生活、経済活動も、これくらいであれば環境に負荷をかけ過ぎない形で持続可能になるよ、ということであって、地球環境を持続可能ではない。かつてはみんなが道端にゴミを捨てていた時代もあったけれど、今は減っている。それに僕らがものすごくストレスを感じているかというと、そうではない。それが持続可能という意味だと思う」と話す。

 「それなのに、どこか“資源を守れ”みたいなものだと勘違いをしている。グレタさんもちょっと惜しいと思うのが、その言動自体が周りの人にとってはとてもじゃないけど“持続不可能”なものになってしまっていること。

(以下略)
若い世代の「持続可能性」という言葉の意味の取り違え・・・驚くべきことであります。チュチェ思想的に考えるとこのことは、主体がしっかりと確立されていない、すなわち自分自身の観点と立場がしっかりと定立されていないというコトに他なりません

主体がしっかりと確立された人物は、なによりも人間自身の利益から出発して世界に対応します。人間の活動は、自らの自主的要求の実現を目標としているからです。そうである以上は、人間が世界に対応するうえでは人間自身の利益を出発点とすべきです。

もちろん、地球は人間だけのために存在しているわけではありません。エゴを貫き通せすことを推奨している訳では決してありません。しかし、人間自身の利益をかなぐり捨て、とても実践できないような禁欲生活を提唱する必要もありません。バランス・均衡を取るべきなのです。チュチェ思想が「自由」よりも「自主」すなわち、社会と世界そして自分自身の責任ある「主人」として振舞うことを重視しているのは、この点にあります。

上掲記事の別箇所で、会社経営者の岩澤直美氏も「毎日食べていたお肉も、赤ワインを飲む時だけにしよう、みたいにすると、特別な感じがあって楽しめる。そういうアプローチの方法が大事だと感じている」などと口走っています。「SDGsに理解ある人士」として恰好つけたいのかもしれませんが、本気で言っているのでしょうか?w ご自身はいたって本気だったとしても、それを政策として全人民の取り組みとして展開できると思っているのでしょうか?ww 若新氏が取り上げた勘違い高校生と同じレベルだと言わざるを得ません。現実に足を付けずに観念世界で概念を捏ね繰り回しているようにしか見えません

※まあ昔の日本では肉食は非常に限られたハレの日でしかできなかったことなので絶対不可能とは言いません。しかし、数世代かけて文化として定着させる必要があることでしょう。そんなに悠長に論じていられる課題なんでしょうか?

■相変わらずの観念論っぷり
チュチェ108(2019)年10月21日づけ「グレタ・トゥンベリさんを持ち上げている場合ではない」においても、啓蒙で社会が変わるなどと夢想するグレタさんを持ち上げるエコロジー運動の観念論性について論じた上で、気候変動は危機水準であり環境問題は喫緊の対策が必要であるからこそ、エコロジー運動は、観念論から卒業して新たな局面を切り拓く必要があるとしました。

それから2年経ち、気候変動はさらに加速度を増して気候危機というべき状況を深めています。しかしエコロジー運動は相変わらずであると言わざるを得ません。「搾取」という新しい単語を覚えたようですが、使い方が間違っています。また、現実味のない禁欲主義でこの気候危機を乗り越えようとしているようです。

資本家による労働者の搾取、すなわち人間による人間の搾取は、生産手段の共有化によって理論的には廃絶可能だと考えられます。しかし、上述のとおり、人間による自然環境の搾取は、人間存在が植物ではなく動物である以上は原理的に廃絶できないものと思われます。唯一可能なのは、環境負荷を軽減させて自然復元力とのバランス・均衡を取ることだけでしょう。

■ロシア革命記念日にこそ「禁欲運動による社会変革がうまくいったことなど歴史上ない」ことを踏まえて新社会を展望したい
思うに、このバランス・均衡実現は、禁欲ではなく新技術の開発でしか達成できないものと思われます。石炭を燃やさないとか牛肉を食べないとかではなく、石炭を燃やしても温室効果ガスの大気中排出量が減るとか肉牛がゲップしてメタンガスが排出されてもトータルでプラスマイナスがゼロになるとか、そういった手法のみが事態を打開するものと思われます。

禁欲的生活によって地球上の問題を解決しようという気持ちは分からないでもありません。私は最近、的場昭弘氏の『ネオ共産主義論』を読み返しているところですが、たしかに人類史を振り返れば、ロマン主義的な社会改良・社会変革を望む流れは脈々と存在してきたものです。聖書も読み方によってはそう読めるかもしれません。

しかしながら、我々が現在直面している喫緊かつ困難な問題の解決のためには、人間精神を陶冶して禁欲を以って対応する時間的余裕はないでしょう。まだ新技術開発の方が現実味があります。

また、そもそも上述のとおり、昨今論じられている禁欲主義は、人間自身の利益というものを捨象しており「逆に振れ過ぎ」と言うべき代物になっています。ロシア革命記念日にこそ「禁欲運動による社会変革がうまくいったことなど歴史上ない」ことを踏まえて新社会を展望したいと思います
ラベル:チュチェ思想
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2021年11月06日

「1+1=2」には必ずしもならないし、そもそも「1+1=2」という発想自体を問い直す必要がある:衆議院議員総選挙を振り返る(1)

衆議院議員総選挙が終わりました。「追い風も逆風もない」と言われた(「追い風も逆風もなし 手応え感じられない与野党」10/28(木) 20:19配信 産経新聞)だけあって各党の自力がそのまま示された結果だと言えるのではないでしょうか。世論動向を測るためには比例代表の結果から見るべきであります。2〜3回に分けて論じたいと思います。

■第5波が急速に下火になる中での総選挙が自公連立政権にとってプラスに?
総選挙の争点は何だったのでしょうか? 経済、社会保障、新型コロナウィルス対策、政治とカネ、外交安保・・・各党がそれぞれ訴えてきました。

時事通信の出口調査によると、景気・雇用対策重視の有権者が24.8%、新型コロナウィルス対策重視の有権者が19.3%だったそうです()。第5波が急速に下火になる中で有権者の関心は、第6波に備えつつ日常生活を正常化してゆくこと、「感染対策と経済活動との両立」に移りつつあると言えるでしょう。「命か経済か」などと、まるで経済活動が単なる小遣い稼ぎであるかのように軽視していたのが僅かに1年半前だとは思えないほどの世論の豹変ぶりです。

大方の事前調査・予測と同じく私は、今回の総選挙では立憲民主党は120議席台、日本共産党は15議席くらいまで伸ばすものと思っていました。モリカケが選挙を左右する要素になり得ないことは前回総選挙での自民党の獲得比例議席数が示していましたが、今回は何といっても、新型コロナウィルス禍があったからです。

いっときの世論はまさに「無い物ねだり駄々っ子」というべきレベルであり、立憲民主党らの政権批判と軌を一にしていました。もちろん、政権交代の芽は徹頭徹尾ありませんでした。具体的な段取りレベルでの批判はついに出てくることがなかったので、政権選択選挙の投票箱を前にして冷静さを取り戻す有権者は少なくないと期待できました。また、コロナ禍を通して立憲民主党らの政党支持率はほとんど伸びませんでした。そのため、「政権批判票の受け皿としての一定の議席増」と見ていました。

しかし私は、ひとつ重要な世論調査を見落としていました。産経新聞が10月9日と10日に行った調査によると、このタイミングにおいて政府のコロナ対策への評価が初めて不評価を上回ったというのです。
https://news.yahoo.co.jp/articles/2ae7cc537988a50301a1a50ed6b5d5e4bfe3d010
岸田内閣支持率63.2% FNN・産経合同世論調査【2021年10月】
10/11(月) 11:36配信 FNNプライムオンライン

(中略)
問7 あなたは政府の新型コロナウイルス対策を評価するか。評価しないか。
1.評価する 56.9% 2.評価しない 36.0% 3.わからない・言えない 7.2%


この流れは投票日のNHK出口調査ではさらに強まり、全体の3分の2が「評価する」側であったといいます。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211031/k10013329381000.html
岸田内閣 支持は61% 衆院選出口調査
2021年10月31日 20時00分

(中略)
また、これまでの政府の新型コロナウイルスへの対応について聞いたところ、▽「大いに評価する」、「ある程度評価する」と答えた人は合わせて67%、
▽「あまり評価しない」、「全く評価しない」と答えた人は合わせて33%、
でした。
新規陽性者数が減少傾向にあると為政者のコロナ対策への評価が高まりがちになるのは、第4波と第5波との合間に執り行われた東京都議会議員選挙でも見られた現象でした。朝日新聞の調査によると、小池東京都知事のコロナ対策を評価する世論は50%を超えていました。今夏の都議選での都民ファーストの会の意外な善戦は、選挙タイミングに助けられた面もあったのではないでしょうか?
https://www.asahi.com/articles/ASP6W6RSFP6WUTIL019.html
小池氏支持率57%、五輪対応評価割れる 朝日世論調査
岡戸佑樹2021年6月28日 5時00分

(中略)
 26、27両日に実施した東京都民を対象にした世論調査では、小池百合子知事の支持率は57%で、昨年3月の前回調査(50%)よりも上がった。一方、不支持は27%(前回25%)だった。新型コロナウイルス対応などで露出度が上がった分、支持傾向がより明確になった形だ。

 東京オリンピック(五輪)・パラリンピックへの小池知事の対応を尋ねると、「評価する」「評価しない」がともに42%と評価が割れた。一方、コロナ対応では「評価する」が55%で、「評価しない」の35%を上回っていた。

今振り返れば、都議選の結果は今回の総選挙にとっても示唆的でした

自民党が再分配政策を掲げたことによって経済政策において独自性を描きにくくなった立憲民主党。外交安保政策は、共産党との共闘のためにかなりの部分で凍結・棚上げせざるを得なくなりました。ジェンダー平等が主要な争点になるはずがなく、政治とカネの問題も、渦中の人物及びその選挙区を超えた党対党の問題にまで膨らませることはできませんでした。唯一対決軸になり得たのが新型コロナウィルス対策でしたが、その貴重な攻めどころも、10月以降は日を追うごとに争点として立たなくなってゆき、立憲民主党にとって独自性を描きづらい経済政策に争点が移っていったのでした。

政府のコロナ対策が評価されるようになってくると、あらゆる局面において全面対決の構図を描くことに腐心してきた立憲民主党の立場は悪くなってゆくものです。枕詞のように「是々非々」と繰り返してきた日本維新の会及び国民民主党が躍進・前進したのに対して、立憲民主党(及び共産党)が後退したのは、好対照であります。

立憲民主党の中谷一馬氏によると、「立憲民主党は、(政府提出法案に対して)82.6%と、8割以上に賛成していますし、反対は15.8%」だと言います(「「野党は反対ばかりして対案を出していない?」客観的にデータ検証してみた 【2021年版】(中谷一馬・立憲民主党 元衆議院議員ブログ)」選挙ドットコム編集部 2021/10/20 」。NHKの開票速報番組でもそのような趣旨の発言を枝野・立憲民主党代表が口にしていましたが、後の祭り。初めからそれを前面に押し出せばよかったのに。世論の風向きを読むことにかけては天才的な能力を持っている維新・吉村大阪府知事に「、立憲民主党や共産党を念頭に「国会の場でスキャンダル追及に明け暮れたり、官僚をつるし上げたりとか、とにかく揚げ足を取っていくことについては多くの国民の皆さんが辟易(へきえき)しているところがあると思う」(「吉村知事「国民へきえき 国会は揚げ足とりでなく政策論を」立憲など念頭に」11/1(月) 16:09配信 デイリースポーツなどとぶった斬られているようでは、自分たちどのように自己認識していようとも、「そう見える」のです。

共産党と親密な連携・共闘を展開してきた立憲民主党が共産党と共倒れし、1+1がマイナスになってしまいました。甘利明氏に勝った、石原伸晃氏を落としたなどという局地的勝利は気休めにしかなりません。

■「1+1=2」には必ずしもならない
立共共闘は失敗したのでしょうか? 世論の6割超は見直すべきだと言います(「野党共闘「見直しを」61% 岸田内閣支持、微増の58%11/2(火) 17:23配信 共同通信」)が、「野党がまとまっていなければ、獲得できなかった議席もあるし、接戦にすら持ち込めなかった選挙区もある」という主張もあります(「立憲と共産は野党共闘やらなきゃもっと負けていた…「“失敗論”は自公の思うツボ」と識者」日刊ゲンダイDIGITAL 11/2(火) 14:10配信)。

議席も比例得票率も減らした共産党の志位委員長がとりわけこの点を強調し、「針そのものは正確だったと確信を持っている。そういう点で私は責任ということはないと考えている」などと述べたそうです(「」11/1(月) 20:07配信 産経新聞)。『しんぶん赤旗』でも「日本共産党10議席 野党一本化 62選挙区で勝利」だの「激戦制した一本化 62小選挙区で野党勝利」だのと、自党の議席も得票率も減ったことよりも大きく取り上げている始末です。まあ、志位執行部としては「野党共闘」をもっとも積極的に旗振りしていたわけですから、この点を糊塗することの方が議席減の説明よりも優先されるのでしょう(呆)「長い目で見て失敗ではない」としても、「今回、この絶好のチャンスで不発に終わらせてしまった」とはいえるはずです。

今回の「不発」から少なくとも確実に言えることは、「1+1=2」には必ずしもならないということでしょう。その点、「もっと共闘を深めれば・・・」という発破掛けは短絡的にすぎると思われます。「これ以上、共闘を深めると更に票が逃げる」という可能性に頭が回らないのでしょうか? 読売新聞は次のように報じています。
https://news.yahoo.co.jp/articles/dc5314f9cd8b645f3afebec8e0ba097682053428
立民と共産の協力に温度差、出口調査分析…無党派層は維新支持増える
11/1(月) 9:08配信 読売新聞オンライン

 読売新聞社と日本テレビ系列各局は31日、出口調査を共同実施した。共産党支持層の大半が立憲民主党の候補を支援する一方、立民支持層から共産候補への支援は限定的で、共闘に対する温度差が鮮明となった。

(中略)
 立民候補に一本化した選挙区全体では、統一候補は立民支持層の90%、共産支持層の82%を固めた。一方、共産候補に一本化した選挙区全体では、統一候補は共産支持層の80%を固めたのに対し、立民支持層は46%にとどまり、自民候補(20%)、日本維新の会候補(11%)などに票が流れた。立民支持層の共産候補への投票は局所的だったことがうかがえ、両党の協力関係が一枚岩でないことが明らかになった。
「もっと共闘を深めれば双務的な票の融通か実現する」という保証は、いったいどこにあるのでしょうか?

組織的統制が効く党員の行動は縛ることができても、一般有権者たちの行動を縛ることはできません。そして、前掲の共同通信世論調査を見るに、少なくとも現況においては党組織が共闘を強化し支持者たちに票の融通強化を要請しようものなら、「やめてくれ」と反発を食らうことが容易に予想されるところであります。

■「1+1=2」という発想自体を問い直す必要
「1+1=2」という発想自体を問い直す必要もあるでしょう。私は、その発想には有権者軽視を感じざるを得ないところです。

有権者は各自の思いや政策判断基準があって、そのときの立憲民主党なり共産党なりを支持しています。よって、野党共闘の旗の下、具体的な政策を取り下げたり凍結させたりした場合、以前と同じように支持が続くという保証はどこにもありません。「立憲民主党がそういうなら・・・」とか「共産党がそういうなら・・・」などと、何が何でも絶対的に支持を続ける盲信的支持者ばかりではないのです。

私自身、2000年代後半(2007年の都知事選挙がもっとも顕著だった)に当時の民主党支持者らが盛り立てていた「民主党候補者への一本化」要求に対する共産党支持者らの「民主党は自民党と大差ない新自由主義勢力であり補完勢力だから助太刀できない」や「民主党は対決姿勢を描いておいて、いざ自民党から誘惑されればしっぽを振って転向するに違いない」という反論に強く共感していました。その頃の民主党幹部のほとんどは今も立憲民主党において、さしたる転向表明もなく引き続き幹部を務めています。あの頃の共産党の「唯我独尊的だが筋を通している」立場を評価し、かつ、根本的に民主党系政党を信用できない私は、自分自身の判断としてこの度の「野党共闘」を支持する気にはとてもなれませんでした。

「1+1=2」という発想には、有権者が「党が言うなら何でも正しい」と盲信していることを前提としているように思えてならないものです。このことは、立憲民主党及び日本共産党の有権者観・人民大衆観が如実に表れているので、結構根深いことだと思います。

「1+1=2」には必ずしもならないし、そもそも「1+1=2」という発想自体を問い直す必要があるのではないでしょうか。

■定量的にシミュレーションの必要性
いずれにせよ、少なくとも、共闘することで具体的にどの程度の新規支持者を見込め、共闘せずに選挙戦に突入した場合と比べてどう違うのかを定量的にシミュレーションして分析しないことには、野党共闘が「誤り」とまで言えるのか評価できないように思われます。「新商品」は、それ目当ての新規顧客がつく半面、変化を嫌って去る固定客もいるものです。選挙にも科学的なマーケティングが必要なのです。
ラベル:政治 日本共産党
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