「チュチェ110(2021)年を振り返る」第2弾として、昨年に続き、新型コロナウィルス禍を巡って炙り出された世相に関して振り返ります。
チュチェ110年の新型コロナウィルス禍は、「ワクチン接種前」と「ワクチン接種後」で決定的に異なる世相になったと言えるでしょう。それゆえ、当ブログとしても「ワクチン接種」を時代の契機として一年間を整理したいと思います。また、世相分析という記事の趣旨及び、生活者の視点により社会歴史を漸進的なものとして見る以前からの私の立場を貫く意味で、「ワクチン接種中」という時代区分も提唱したいと思います。
■日本社会のクレーマー気質化、「お客さま」意識の奇形的肥大化による一方的な主張の氾濫
まずは、「ワクチン接種前時代」についてです。
昨年の総括記事で私は、「
人心の荒廃に伴って世論の「クレーマー化」が進み、ついには「駄々を捏ねるおこちゃま化」するようになりました」と述べましたが、今年も引き続きその手の言説が氾濫していました。
リアル世界では一介の労働者である私。労働者としての活動、自分自身の家庭生活、そして当ブログとはまったく無関係かつ社会問題等ともまったく無関係の趣味も持っています。正直、あまり社会問題やブログに費やしている時間はありません。そんな私の前に現れた藤崎剛人氏の論考を掲載する『ニューズウィーク日本版』。それを基に執筆したのが5月5日づけ「
新型コロナウィルス禍を巡って炙り出された世相について@コロナ禍2年目春」でした。細切れ的な隙間時間に読んできた諸記事の論点がギュッと詰まっていたお陰で効率的に世相を批判できました。当該記事で私は、「ワクチン接種前時代」の世相を次の4項目に整理できました。
○具体的な実現可能性を踏まえたビジョン、段取りレベルの政府批判でないという世相
「ワクチン接種前時代」の特徴は、
第一に、具体的な実現可能性を踏まえたビジョン、段取りレベルの政府批判でないという世相です。
「
やる気がなかっただけだ」と連呼している藤崎氏ですが、
日本において強力な措置を現実的に取り得たのかという分析、「事実から出発する」ことを貫徹した分析はいっさい見られません。当ブログでも繰り返し指摘してきた
「お気楽政府批判」の典型例というべきものです。
似たような言説については、5月3日づけ「
한사람같이 떨쳐나서자!」においても取り上げました。1回目の緊急事態宣言から丸一年を迎えてもなお事態収拾のめどが立たないことを受けて今春は「もう1年も経つのに・・・」といった言説が氾濫したものでした。しかし当該記事でも強調したとおり、
1年間という時間は生活者の感覚からは長いものですが、人類史的課題の解決策を探り当てるには短いものです。「銀の弾などない」(There's no silver bullet)のです。
政策は、「必要性」と「実現可能性」の両面から検討する必要があります。こうした姿勢こそが「事実から出発する」姿勢であり科学的姿勢です。
実現可能性のない必要性の要求は、ユートピア主義と本質的に変わるところのない「駄々っ子のないものねだり」というべきものです。今般の新型コロナウィルス禍について言えば、「ここがネックになっているので、こうするべきだ」という具体的な建策は、結局今に至っても私は寡聞にして知りません。
「具体的なことは政府の人間ではないので分からない。そういう具体的ことを詰めるのは政府の仕事だろう」という言い分もあるかもしれません。しかし、「それは私の仕事ではない」というのは、まさに「お役所仕事」というべき姿勢です。5月15日づけ「
コロナ禍においてこそ真の意味での「民間の知恵の活用」、知恵を出し合う公民協働・協同が求められている」でも述べたとおり、
公民協働・協同で知恵を出し合って総力戦で新型コロナウィルス禍を乗り越えるべきであります。口を開けた雛鳥たちのように誰かが何かしてれるのを待っている段階ではありません。真の意味での「民間の知恵の活用」、知恵を出し合う公民協働・協同が必要されています。
しかし、文句は噴出するものの建設的な意見はまったくといって良いほど提起されずじまいでした。もちろん、社会的分業の高度専門化により専門外の人々には「他人の仕事」の内容が見えにくくなっている現代においては、なかなか思うように「知恵を出し合う」に至らないのは理解可能です。
ならばせめて、一方的な物言いは控えるぺきではないのか、そう思わざるを得ない世論動向が見られたものでした。
お気楽で一方的な物言いの蔓延について私は、4月15日づけ「
社会的分業を見つめ直す必要:キム・イルソン同志生誕記念」において、
社会的分業の徹底的な専門細分化による超知識労働社会への社会変化が底流にあると分析しました。
繰り返しになりますが、現代では社会的分業が徹底的に専門細分化されたことにより他人の仕事内容への想像力や推理力が働きにくくなっています。また、BtoCレベル・日常的購買のレベルでは即日配送のようなスピーディなサービスが溢れかえっているので、人々は、量産品消費者としてのスピード感ですべてを判断しがちになっています。更に、望めばすぐに需要が満たされるオンデマンド社会にもなっています。消費者・需要側は、自分の都合を並べ立てることが当然のことになりました。「お客さま」意識が奇形的に肥大化しています。
世論が一方的な物言いをして憚らなくなった原因は、
他人の仕事内容への想像力や推理力が働きにくくなっているさなかで、更に「お客さま」意識が奇形的に肥大化したことにより、消費者・需要側は、生産者・供給側の事情を踏まえなくなったためだと考えられるのです。
このことについては、更に9月9日づけ「
「とにかく政府はコロナ禍を今すぐ何とかしろ!」はどのように誤っているのか・・・朝鮮民主主義人民共和国の先進性との比較」で更に掘り下げて分析しました。「自分から見えるもの」にのみ依拠し「公平な観察者」どころか「他人から見えるもの」=他人の側の都合にさえも思慮が至らない一方的な物言いについて、当該記事では、次の3つに分類しました。
(1)中途半端な「御上」意識と国民主権・社会的分業意識のハイブリッドのケース
(2)時代錯誤的な要求運動のケース
(3)消費者意識の奇形的肥大化による無い物ねだりの駄々っ子的クレーマーのケース(1)については、再三の繰り返しになりますが、「社会的分業の徹底的な専門細分化に伴う超知識労働社会への社会変化」が消費者・需要側をして、生産者・供給側の事情を踏まえしめなくし、一方的な物言いをして憚らなくなったと考えられるというものです。
また、「救世主」願望が伝統的な「御上」意識と融合し、「とにかく政府は新型コロナウィルス禍を今すぐ何とかしろ!」などと何ら具体的な検索もなくただ喚くだけになったものとも考えられます。以前であれば、詳細な言及はないにしても、たとえば「緊急事態宣言を出せ」や「このご時世に開店している飲み屋を取り締まれ」といった総路線的な試案の展開があったものですが、今年はついにそれとえもなく「とにかく政府は今すぐ何とかしろ!」という程度の言説ばかりが目立ったものでした。万策尽きていよいよ救世主に縋る心理に至った世論だというわけです。
「近代理性主義の副作用」も見逃すわけにはいきません。一方的な物言いにおいては、台湾やニュージーランドなどとの「比較」、すなわち「台湾やニュージーランドでは上手く行っているのに、なぜ日本ではできないのか」といった批判が氾濫したものです。こうした物言いの誤りについては、結論から言ってしまうと、「これらの国・地域は人口小国だから上手く行ったのであり、人口大国である日本にそのまま適用できるものではありません」というところになります。
人口が量的にまったく異なり、それゆえに統治が質的に異なる国同士を単純に比較することは非科学的と言う他ありません。このようなモノが大手を振って出てきた事実は、科学的世界観が日本世論において欠如していることを示しています。しかし他方で、当の本人はこれが科学的だと信じて疑っていません。こうした、よく言えば「等身大の感覚」、悪く言えば「素人考え」を信じて疑わず非科学的な比較をあたかも科学的だと致命的にも思いあがっている風潮は、致命的な「思い上がり」、つまり「近代理性主義の副作用」と言えるでしょう。
「設計主義的な社会観」の影も認めざるを得ないところです。この救世主願望と融合した御上意識には、おそらく設計主義的な社会観が潜んでいるものと思われます。優秀な政治家や役人たちであれば社会を意のままに操ることができるという夢想です。こうした夢想があるからこそ「優秀な政治家や役人たにだって、出来ることと出来ないことがある」とは考えられず、要求が実現しない場合に「なぜ、やらないんだ」という批判をしてしまうのだと思われます。
結局、
「社会的分業の徹底的な専門細分化に伴う超知識労働社会への社会変化」と「近代理性主義の副作用」を底流としつつ、古くからの「お上が何とかしてくれる」観念が「救世主願望」及び「国民主権論」と合流することによって「行政なんだから何とかすべきだ」といった形で現れているのでしょう。これはすなわち、
成熟した市民社会に主体面でなり切れていないと言う他ありません。
(2)については当該記事をご覧いただくとして、(3)について振り返っておきたいと思います。これは、
「お客様は神様」をここにも持ち込んで当然のごとく要求を丸投げし、そして要求が満たされぬや否やクレーマーのように喚きたてるものです。これは、基本的にはクレーマーと考えればよいものですが、知識経済化と社会的分業の高度化・専門化による各個人が従事する仕事内容のブラックボックス化という背景ゆえに、往々にして無い物ねだりの駄々っ子になっています。
こうした手合いは、消費者と主権者との違いを理解していません。消費者は、対価の支払いと引き換えに一定水準の成果物やサービスを一方的に要求することができる者です。他方、主権者は、サービス等を受ける側でありつつ同時にそれを供給する側でもあります。主権者は社会の共同運営者なのです。それゆえ、一方的な物言いは
特大ブーメランになります。
一方的なクレーマー気質の言説が全社会的課題としての新型コロナウィルス禍において出てくることは、現代日本が真の意味での国民主権の国とは到底言えないことを示していると言えるでしょう。依然として「被支配者根性」、「『される側』の根性」であるわけです。
ではなぜこうなってしまうのか。消費者意識の奇形的肥大化が経済生活だけでなく政治生活にも侵食してきていることについては、当該記事ではカール・ポランニーの経済人類学的な見解を引いて検討しました。すなわち彼は、資本主義社会は、社会活動の一部分して経済活動が組み込まれていた前資本主義社会とは逆に、
経済活動が社会活動を呑み込んでしまい経済の論理が政治などにも波及してしまっているといいます。そうした現代資本主義の在り方が大衆意識にまで刷り込まれてしまっていると考えられないでしょうか?
これら様々な理由により、現代日本では、自分ではとてもできないような大層な話を平然と、それも偉そうに要求することを憚りもしない風潮、「無知無能」な手合いが専門家たちを罵倒する倒錯した異常事態になっているのであります。
政治における国民主権は、未来社会としての協同社会・社会主義社会;政治・経済・思想文化において人民大衆が主人としての地位と役割をまっとうする社会の第一歩であります。
協同社会とは国民主権・民主主義の全面的な実践に他なりません。その点、現代日本の協同化は依然として厳しいものがあると言わざるを得ないところであります。
○中央集権的計画経済の発想に染まっている世相
藤崎剛人氏の『ニューズウィーク日本版』での論考に戻りましょう。「ワクチン接種前時代」の特徴は、
第二に、中央集権的計画経済の発想に染まっている世相です。
藤崎氏は「休校措置に伴うカリキュラムの組みなおしやオンライン化についての方針決定は、すべて現場に丸投げされた」ともいいます。国が、霞が関の官僚が、全国津々浦々の個別的な段取りにまで口出しをすべきだったのでしょうか? まさしくソ連顔負けの中央集権的計画経済の発想です。
もちろん、一人一律10万円給付金や持続化給付金、医療従事者慰労金といった「補助金行政」的な振り込みが大幅に遅れたのは事実です。分権的な自由経済においては機動的な補助金支給が必要なので、この不手際は批判されて然るべきです。しかし上述のとおり、
全国津々浦々の個別的な段取りにまで中央官僚の口出しを要求するような言説は、不適当いうべきでしょう。
○陰謀論的発想
「ワクチン接種前時代」の特徴は、
第三に、陰謀論的発想にあります。
藤崎氏は「利権団体への忖度」についても言及しています。ならば、その黒幕の暴露と吊るし上げにまで斬り込むのが批判者の勤めではないのでしょうか? 「利権団体」の連中が具体的にどのように暗躍して政策形成を歪めてきたのか証明せずに、漠然と抽象的に「利権団体への忖度」を指摘するのは、思い通りにいかない不都合な事実の展開を「陰謀」のせいにする
「Qアノン」の発想といったい何が違うのでしょうか?○青臭い革命至上主義
そして「ワクチン接種前時代」の特徴については、最後に、
青臭い革命至上主義というべき政治観について指摘しておきたいと思います。
「政権担当者を入れ替えるしかないだろう」――そうしたところで、新しい政権担当者はいままでの「しがらみ」から完全にフリーだとでも言うのでしょうか?
世の中の複雑性、利権関係の根深さをまったく理解していないようです。
2年目春における新型コロナウィルス禍を巡って炙り出された世相はこのような具合でありました。
■設計主義・ウォーターフォール主義的な発想がいかに日本社会において根付いてしまっているのかが白日の下に晒された
5月の連休明けから始まった高齢者向けワクチン接種を以って「ワクチン接種中時代」が始まりました。これほどまで対象者が多い大規模な事業は、少なくとも戦後においては過去に例がないと言ってよいでしょう。資源配分の大部分を「市場の見えざる手」に委ねてきた日本。案の定、一種の配給制であるワクチン接種ではスタート当初において混乱が見られました。医療従事者向けワクチン接種が未完了の状況で高齢者向けワクチン接種の予定時期が来てしまったのです。
この混乱においては、
「設計主義的発想」及び「ウォーターフォール・モデル」的発想が行政へのクレームとして噴出してしまいました。このことについて私は、早くも4月18日の記事で「
ワクチン接種の混乱が斯くも問題になるのは、「事前の緻密な計画」及び「計画の忠実な執行」にこだわる日本の教育制度・受験制度・就活慣習のため」で批判的に取り上げました。
日本の学校教育及び受験制度並びに就職活動、つまり
日本の人材登用システムは、なによりも労働者たちが「計画性」を身に付けることを重視しています。こうした学校教育及び受験制度並びに就職活動にもっとも忠実に育った「エリート」たちは、こうした一種の設計主義・ウォーターフォール主義を血肉化し、社会に出てからも「事前の緻密な計画」及び「計画の忠実な執行」にこだわるものです。
その結果、「予定外・予測外の事態に対する無能っぷりが露呈される」というまさに設計主義およびウォーターフォール・モデルの宿痾と言うべき事態が発生します。
緻密な計画立案能力と、計画どおりタスクを遂行する能力を重視においては、予定外・予測外の事態への対応能力はそもそも評価対象外であります。しかし、現実の社会的職業生活においては、さまざまな事情によって事前の計画どおりには行かないのが常です。このとき、設計主義的教育およびウォーターフォール・モデル的教育に小学校から大学まで染まり切ってきた「エリート」は、更に計画を緻密化しようと悪戦苦闘した上に大失敗をおかすか、あるいは、いままでの人生において教え込まれてきた考え方とまったく正反対の事態に直面することにより、どう対処してよいかわからなくなってフリーズしてしまうか、はたまた、自分以外の他者のせいだとして喚きたてるものです。そもそも「緻密な計画」を立てようとすることが間違いなのに、計画立案に失敗した自分を責めたり、理想どおりに動かなかった部下等にパワハラまがいに迫ったりするわけです。
今日の新型コロナウィルス禍においては、ウィルス変異の問題を筆頭に日々変化する情勢にいかに機敏に即応的に対処できるかがカギになっています。
新型コロナウィルス禍は、「事前の緻密な計画」及び「計画の忠実な執行」で対処できるような問題ではありません。
設計主義的教育およびウォーターフォール・モデル的教育の限界が露呈している事態です。
そんな事態においても尚、
ワクチン接種が「予定どおり」に行われないことを設計主義的・ウォーターフォール・モデル的な発想に基づいて責め立てるような意見が沸いて出てきているのが日本社会の現状です。
設計主義・ウォーターフォール主義的な発想がいかに日本社会において根付いてしまっているのか、その根深さが示されているのです。
「一種の設計主義・ウォーターフォール主義」的思考は「ワクチン接種中時代」の諸騒動の中心にあり続けた意識だったというるでしょう。ワクチン接種に必然的に付きまとう「余剰分の処理方法」についても、この思考方式がひと悶着を引き起こしました。
どうしたって諸々の事情で接種予定者が直前キャンセルすることがあり、余剰ワクチンを無駄にしないために予定外の人物に接種する臨機応変の対応が生じるものです。それに「ズルだ!」などと噛みつく手合いが出てきたのです。こうした主張について5月29日づけ「
日本人ほど合理主義的設計主義・計画経済主義が国民性的に合う国は珍しい・・・精神のペレストロイカはいつになることやら」で取り上げたとおり、
世論は「現場判断による柔軟な対応に理解を求める」のではなく「事前に基準を明確に示す」を求めたのでした。
事前に緻密な計画を立案してその計画どおりに実施することが「正しいこと」であり、そのようにできる人が「優秀な人」とされる日本。例外的事態への備えが「現場が臨機応変に対応できるように行動の自由を付与する」ことではなく「更に緻密に事前計画を立てること」として捉えられている日本。この対応は、そうした日本的発想の結晶というべき対応と言う他ありません。
日本人が見下す「北朝鮮」でさえ計画経済の不可能性が公式に認められ、社会主義企業責任管理制や圃田担当責任制の導入よって現場の臨機応変の対応が認められるようになったというのに、
日本人ほど合理主義的設計主義・計画経済主義が国民性的に合う国は珍しいかもしれません。ワクチン接種を巡って意外な「日本精神」を垣間見ることができました。
■一種の「甘やかし」というべき対応が「優しさ」にすり替えられた
ワクチン接種を巡っては、「インターネットでの予約が不慣れな高齢者への対応」という問題が発生しました。このことについて私は、5月23日づけ「
自力更生・自力自強が欠け、苦手から逃げ他人に代行してもらうことが社会的に許容される国・ニッポン」で取り上げました。「不慣れなら現時点では仕方ないが、それならこれを機会に慣れましょうよ」という執筆動機によるものです。
当該記事でも書いたとおり、新技術への無知とその習熟への無意欲;苦手から逃げて自分の現在水準から成長しないことが社会的に許容されていています。自力更生・自力自強が欠けているのです。本件に限らず往々にして「分からないなら教えるから覚えて」というと「無理」と拒絶したり、甚だしくは「不親切」「弱者切り捨て」扱いになるのが現代日本であります。
「自分は文系だから」といって理系科目を学ぼうともしない高校生は少なくありませんが、
「自分は文系だから」の言い訳が大学入試科目的に許されてしまうあたりから、苦手から逃げること=無知と無意欲の自己正当化が始まるように考えます。また、
「甘やかし」と「優しさ」が混同されがちな現代日本ですが、この結果、単に自分から苦手から逃げ出すことが正当化されるだけでなく、他人が苦手から逃げているのを許すことまでもが積極的に是認されるされるようになるのではないかと考えます。そしてそれゆえに自力更生・自力自強を求めることが「不親切」や「弱者切り捨て」扱いになるのではないでしょうか?
たしかに苦手克服のための努力は厳しく辛いものではあります。しかしそれから逃げることが果たして「優しさ」なのでしょうか? 甚だ疑問ですが、近視眼的な「優しさ」=目先の安穏を提供することこそが「優しさの証し」などと考える感性の持ち主にとっては、一種の「甘やかし」というべき対応が「優しさ」になるのでしょう。この世相からは、こうしたことを考えずにはいられませんでした。
■「目的意識性の欠如」、「置かれた環境に対する科学的分析の不十分性」及び「認識の発展・理解の深化という観念の欠如」
「目的意識性の欠如」、「置かれた環境に対する科学的分析の不十分性」及び「認識の発展・理解の深化という観念の欠如」は以前から「日本文化の特徴」と言ってもよいくらいのものです。長引く新型コロナウィルス禍による不平不満は、筋の通らない主張として噴出しました。5月30日づけ「
新型コロナ禍と世相;「目的意識性の欠如」及び「認識の発展・理解の深化という観念の欠如」」でその一例を取り上げました。
日本テレビ系「スッキリ」のMCである加藤浩次氏は当該番組内で、中川俊男・日本医師会会長が自民党の政治資金パーティーに出席していた問題について「
我々も感染対策をしていたらいいのか?って話になる」と述べました。
そのとおりです。そもそも感染拡大防止のために行っているのが今の「我慢大会」。感染症対策をしていれば問題ありません。もちろん、「オレは、うがいはしないけど、酒のアルコールで喉を消毒してるぜ」的な「自称感染症対策」ではなく、科学的・医学的根拠のある感染症対策である必要があります。
実に日本人的な「目的意識性の欠如」というべき発想と言わざるを得ません。
「何のためにやっているのか」という原点に照らして考えず、具体的な行為それ自体が目的化しているというわけです。
当該記事では、東京オリンピック・パラリンピック大会の選手村で、アルコール類の持ち込みが可能になるという一部報道に対し、「このニュース見て酒を出すことを決めた」と決意した飲食店経営者がいたという報道も取り上げました。
置かれた環境に対する科学的分析が不十分であると言わざるを得ない反応です。一般の飲食店での酒類提供自粛要請には、「誰が感染しているのか分からない」状況下において人々が入れ交ぜになるとクラスターが発生しかねないという点に要請理由があります。これに対してオリンピック選手村では毎日検査が行われており、また、選手の村外への外出は基本的に禁止されています。選手村は「コロナ清浄区域」であり、いうならば、厳格な出入国管理によって「患者ゼロ」を維持しているという点において「プチ北朝鮮」というべき特殊な区域なのです。そうであれば、おそらく飲酒可能としたところでクラスターが発生する可能性は低いと考えられます。
一般飲食店とオリンピック選手村の環境は、何から何まで根本的に異なるのです。
それゆえ、
一般飲食店とオリンピック選手村の「違い」は容易に理解可能であります。根本的に状況が違うのだから、取り扱いだって違うに決まっています。
にもかかわらず、「酒類提供の可否」という表面的事象にこだわって不公平だなんだと騒ぎ立てる言説が噴出したものでした。
このように、
目的意識性の欠如及び置かれた環境に対する科学的分析が不十分であると言う他ない反応が氾濫したものでした。
更に当該記事では、医師会会員で日本感染症学指導医でもある水野泰孝氏の「
これをいってしまえば、いろんな行事やイベントを中止してきた方はどうしたらいいのかってことになる。(中略)
これなら卒業式、入学式もできた」という発言も取り上げて批判しました。実に日本人的な発想です。
認識の発展・理解の深化という観念がないと言わざるを得ない言説です。
そもそも間違った認識によって不必要に過剰な対策をしていたのだから、今後は科学的・医学的に正しい方法で行事・イベントを開催するように改めればよいだけでしょう。今振り返れば(←ここ重要)、卒業式や入学式は、科学的見地から言えばやってよかったのです。だから、「当時は分からな方から仕方ないが、もう分かっているこれからは改めよう」でよいのです。
水野氏の主張からは、認識の発展・理解の深化という観念が日本的発想に欠けているか、あるいは、振り返れば今までの努力が無意味だったこと徒労だったことを認めたくがないために、新しい認識や理解の受容を拒否して古い考えに固執しているかのいずれかの動機が透けて見えるものです。
■「経済的に豊かな国」であるからこその経済学の浸透の遅れをハッキリと示した
「信用ならない新技術」だの「副作用が怖い」などと不安要素が盛んに報じられていたワクチン接種。それゆえ、ワクチン忌避風潮が強まり集団免疫獲得が遅れてしまうのではないかと危惧したものでしたが、7月ごろになってくるとメディア報道が印象付ける雰囲気とは異なり、日本国民は粛々とワクチンを接種していることが見えてきました。ついに「ワクチンが足りない!」という事態にさえなりました。
この事態について私は、7月7日づけ「
ワクチン職域接種における「不足の経済」の法則発動は「飽食ボケ日本」の必然的末路」で取り上げました。途方もない生産力にモノを言わせ、無駄や廃棄をものともせず圧倒的な「物量作戦」を取ることで、
市場機構・資源配分メカニズムの綻び・不十分性・非効率性を押し切り消費者・国民に物不足を感じさせずに来た日本ですが、久々の「物不足」を理解し対応するのに難渋したようです。
当該記事で述べたように、当時の職域接種のワクチン供給体制は、職域接種を実施する現場からすれば、「くれ」と言えば言っただけ供給される世界であり、
「ソフトな予算制約」の世界であります。また、政府から「早く接種しろ」と急かされてもいます。打てば補助金も出ます。予算の制約なしにほぼ無条件的に原材料(ワクチン)が国から供給され、急いで打てば褒賞的な補助金が出、ワクチンを無駄にしたところで自分の懐は痛まないのが、現在のワクチン職域接種です。この状況は、
20世紀にソ連や東欧などで見られた「不足の経済」と瓜二つと言うべき状況です。
ワクチン不足を解消するためには
「不足の経済」の法則が発動してしまうことを防止する必要があり、そのためには、必要以上の在庫を抱えることにコストまたはペナルティが発生する制度設計が必要です。経済学、とくに制度比較に多少なりとも造詣のある人ならば、いまのワクチン職域接種体制とかつての「不足の経済」の類似性に気が付くはずです。制度設計が抱える問題点は目に見えていました。それに対して
日本の当局者たちは、制度設計に取り組むことなく何とかして
ワクチン供給量自体を増やすことで物量作戦的に乗り切ることばかりを考えました。
もちろん、究極的には供給を増やす以外に道はありません。しかし、供給を増やすためには一定の時間が必要であり、為政者たるものその間の対策を考える必要があります。
ケインズが正しく述べたように「長期的には我々は皆死んでいる」のです。
結局、現時点ではワクチン接種は希望者に対してほぼ完了しているといってよく、その意味ではワクチン不足の問題は解消していると言えます。結局、輸入を前倒しして増やすという物量作戦で乗り切ったわけです。
問題に真摯に向き合うことなく「結果オーライ」で済ませてしまいました。
本件に限らず、今回の新型コロナウィルス禍を巡っては、「経済的に豊かな国」であるからこその経済学の浸透の遅れをハッキリと示したものと言えるでしょう。「平和ボケ」ならぬ「飽食ボケ」というべきでしょう。次のパンデミックがいつになるのかは分かりませんが、
今回、ワクチン不足すなわち物不足を制度設計ではなく更なる物量作戦で乗り切ってしまった日本。次も同じように苦労することでしょう。■ひとり一人が静かに自発的に防疫事業に参加するようになり始めた一年だった
ワクチン接種を巡っては、荒唐無稽な陰謀論や「打つか打たないかは個人の自由」論などが噴出したものでした。今年の新型コロナウィルス禍世論は、ワクチンを軸に展開されてきたものと言っても過言ではないと思われます。本当に様々な主張が出てきたものでした。
しかし今こうして年の瀬に際して振り返ると、
我が国のワクチン接種率の高さを見るに、これらの議論は「ノイジー・マイノリティー」によるものであり、大多数の国民は自分自身と周囲の人たちの健康と安全を守るために粛々と順番にワクチンを接種してきたと言ってよいと思われます。
7月11日づけ「
全体主義・個人主義に対する集団主義の原則を提起する「7.15談話」発表35周年と、ワクチン接種にかかる「自由」論の問題について」で私は、次のように述べました。
ワクチン接種を不安に感じるのは理解可能だし、体質的に打てない人・打たない方がよい人は当然に除外すべきであります。しかしそれ以外は、原則として接種して防疫事業に参加すべきです。そうすることは、自分自身のためであり、他人様を守ることであり、そして回り回って自分自身を守ることになるからです。社会はシステムだからです。
そうした客観的事実を飛び越して「個人の打つ・打たないの選択に批判が出るのはおかしい」と言ってのけるその精神、及び、それとは真逆の「打ちたくない人はいないはず」という風潮。普段からしっかりと組織生活を送ってないから、ブルジョア「個人」主義的な「自由」論だったり、全体主義的な大義名分の押し付けが見られるのでしょうね。
振り返ればまったくの杞憂でした。
また、ワクチン接種の順番待ちにおいて、ごくごく一部ではあったものの「抜け駆け」というべき現象があったり、デルタ株が猛威を振るっていたころ、病床のひっ迫により自宅療養を余儀なくされていた人が多くいりした中でも、
政府・行政への批判にはなっても「アイツだけ羨ましい!」の非国民狩り・文化大革命騒ぎに発展することもついにありませんでした。
私が特に幸いに思ったのは、9月26日づけ「
日本人の良識・良心をこのまま守り抜けるかの正念場」で取り上げた一件です。デルタ株の猛威により病床がひっ迫していた当時、新型コロナウィルスに罹患して入院した芸能人に対して「芸能人だからすぐに入院できた」だの「上級国民だからすぐに入院できた」だのという根拠のない発言が飛び出てきたものの、
ごく一部の手合いの言説に留まりました。中日スポーツが「
コロナ入院で「綾瀬はるか」がトレンド入り 『芸能人だから』一部での”叩かれ方”に「本当に世も末」の意見も」(2021年8月31日 20時46分)という見出しの記事をアップし、世論もおおむね同じ意見でした。スポーツ紙と言うものは社論の一貫よりも瞬間的な売り上げを優先するものであり、それゆえに風見鶏的なものです。そんな中日スポーツが「世も末」という声を見出しにする記事を書いたわけです。
今年、
一部マスコミはワクチン接種や入院決定を巡って「ズル」だの「上級国民」だのといったキーワードを使って精力的に記事を書き立ててきましたが、結局、一度として世論に火が付くことはなく、まったくといってよいほど響きませんでした。このことを私は非常に幸いに思うものです。自粛警察・道徳自警団が非国民狩り・文化大革命騒ぎを起こしていた昨年は、一般の国民同士がいがみあって対立する事案が多発していました。
しかし、今年は若干ながらその風潮が緩和されたと言ってよいのではないでしょうか?
思い起こせば今年は耳にタコができるほど「気のゆるみ」というお説教を聞かされてきましたが、そうはいってもほとんどの人々は律儀にマスクをつけ、商業施設等の出入り口で消毒に協力し、感染状況が悪化すれば旅行等を控えたものでした。反マスク・反ワクチン勢はすっかり一種の異常者扱い、近寄ってはいけない人扱いされています(一概にそう言い切ってよいとは思いませんが、事実として世の中ではそういう扱いになっています)。同調圧力という論点については慎重に考える必要があるとは思いますが、
ひとり一人が静かに自発的に防疫事業に参加するようになり始めた一年だったという見方もできそうです。
■メディアの扇動が無効化した
メディアの扇動、これも今般の新型コロナウィルス禍を特徴づけるものです。断片的な事実を継ぎ接ぎしてとにかく危機を煽ってきたのがメディアの報道姿勢であると言わざるを得ません。
しかし、いくらメディアが脚色的に報じたところで、その根底にある事実は変えようがないので、徐々に報道内容と現実との乖離が見られるようになるものです。生活者としての人民大衆は、必ずしもメディア報道ばかりを情報源としているわけではなく、自分自身の肌感覚からも情勢を認識しているものです。その点、7月以降、携帯電話の位置情報に基づく繁華街等への人出の情報をみるに、
人々は明らかに「自粛疲れ」の反応を見せていました。
また、当ブログの読者のように、メディア報道に一喜一憂するのではなく自ら情報を取りに行くスタイルの方々であればお気づきでしょうが、7月8日の菅首相の記者会見での掲示資料「
東京都の感染者数に占める高齢者の割合と高齢者接種率」で示されているとおり、
高齢者へのワクチン接種が完了し始めた7月以降、新規陽性者数に占める高齢者の割合が低下していました。デルタ株の感染拡大がほぼ終息した9月28日に開催された、
第77回新型コロナウイルス感染症対策本部の配布資料22ページのグラフを見るに、その後再び高齢者の感染が増えてしまいましたが、それでも全体の10パーセント程度で済みました。加齢に伴う免疫力の低下や基礎疾患のことを考えれば、その程度で済んだことは注目すべきことです。
やはりワクチンは効いたのです。「ワクチン救世主論」が更に盛り上がり、異論をいよいよ駆逐し去ったのもこのあたりからではなかったでしょうか? 今や、事実として反ワクチン論者は「変人」扱いです。
このように、デルタ株の感染拡大が始まりつつあった7月。日に日に増える新規陽性者数に危機感を覚えた方も多かったでしょうが、その内実をよく見ると、
ワクチンによる希望の光が見え始めていたわけです。それゆえ、メディアが幾ら恐怖や危機感を煽っても、だんだん効かなくなりつつありました。そうした情勢判断から執筆したのが7月24日づけ「
コロナバブル(メディアにとって)の終焉は近い」でした。世論動向の変化に気が付かなかったのか時事通信は、ちょっと考えて調べればすぐに分かる程度の扇動記事を書き立てたものです。昨春であればこのような記事も大いに話題になったのでしょうが、「自粛疲れ」や「ワクチン救世主論」の雰囲気にあっては、結局この手の記事はまったく扇動効果を持たず、
むしろメディア不信の一例にしかなりませんでした。
新型コロナウィルス禍が始まって1年半、「コロナ関連の記事をとにかく書いておけばバズる」という
メディアにとってのバブルは徐々に引き潮でした。この年の瀬においてオミクロン株の世界的拡大が見られつつあるところですが、世論は新規陽性者数では動じなくなっています。国民は粛々と3回目のワクチン接種の順番を待っています。
新型コロナウィルス禍自体の収束にはもう少し時間を要するでしょうが、メディアにとってのバブルは引き続き引き潮であると言えるでしょう。
■たしかにグダグダだったが、ではなぜグダグダだったのか?
8月以降急激に拡大したデルタ株。これを受けて政府はまたしても緊急事態宣言を発出しましたが、上掲のとおり、既に「自粛疲れ」や「ワクチン救世主論」が蔓延っていた世論にはなかなか響きませんでした。いまだかつて見られなかった程の感染爆発になってしまいました。それをうけて政府は、
原則自宅療養に方針を転換する方向性を発表しましたが、
当然ながらこれが大炎上しました。
8月6日づけ「
あまりにも「先手」を取り過ぎたことが今後に及ぼす影響は測り知れない」で述べたとおり、まだ医師会を締め上げるなどして遊休状態にある医療資源を掘り起こして総動員すれぱまだ稼働を高められそうな時点において、総動員に取り組まず「医療崩壊を防ぐための原則自宅療養」すなわち「入院トリアージの導入」に切り替えるという政治判断は、私には時期尚早に思われました。
トリアージに対する反感・拒否感が根強い日本。もちろん、「選別」しなくて済むに越したことはありません。「すべての命を救う」という医療の大原則には合致しないのがトリアージです。しかし、必要なときには頭を切り替えなければならないものでもあります。8月は、通常医療から災害医療への切り替えの瀬戸際、医療の原則の天地がひっくり返る瀬戸際にあり、いままでの「緊急事態」とは訳が違いました。
当該記事では、もしこの方針が凍結・先送りではなく白紙撤回されるようなことがあれば、
政治があまりにも「先手」を取り過ぎたことが今後に及ぼす影響は測り知れないと述べました。
今後は間違いなく「入院トリアージ導入」という政治判断を下すことに尻込みするようになるからです。いまの日本では「批判を受けること」を皆が一番恐れており「守りの姿勢」に入りがちです。これで失敗すれば「決断への恐怖心」がますます増すでしょう。
また、当時ぶち上げられた「入院トリアージの導入」はまだまだ具体的に詰め切れたものではなく、総路線が示されたにとどまり、観測気球というべき程度のものでした。しかし、
世論はまだ総路線でしかないのに「中等症の線引きとは?」と言った具合に具体的な細部にかかる批判を繰り出してきました。
総路線に対して具体的な細部に掛かる批判を浴びせかけるのは筋違いというべきものです。しかし、
「批判を受けること」を皆が一番恐れている昨今の為政者心理においては、この一幕は、「事前に・最初から細部まで作り込もうとし、結果として複雑巧遅で硬直的になる」という悪い癖を更に強めることになると危惧したものでした。
なお、今般のオミクロン株拡大において岸田首相は、必ずしも一貫した方針を打ち出しているとは言えないところです。「人の話を聞く」を看板に掲げ、肝いりの政策であっても「柔軟」に対応している岸田氏ですが、見方を変えれば、「いちいち批判に動じている」とも言えるものです。岸田首相の脳裏には、フルボッコにされていた菅首相の姿が鮮明に焼き付いているものと思われます。
このように、この夏のコロナ対策は本当にグダグタで、それゆえ、それに焦点を合わせた政治批判が洪水のごとく噴出しました。
しかしながら、「ではなぜグダグタなのか」と言う点を掘り下げた分析はほとんど見られず、とにかく不満をまくし立てるだけの夏でもありました。たとえばこんな記事がありました。
https://times.abema.tv/articles/-/8661515「決断できず、責任も取れない…偉い人は何のためにいるのか」たかまつなな、尾身会長発言を巡る政府の対応に苦言
ABEMA的ニュースショー
2021/06/07 18:03
(中略)
一連の出来事について憤りを露にするのは、お笑いジャーナリストのたかまつなな。たかまつはさらに「偉い人は何のためにいるのか…決断するため、責任を取るためにいる。そのために私たちが選んでいるんですよと。勘違いしないで欲しい。決断もできない、責任も取れないって、何してるんだと思ってしまう」とも続ける。
フェリス女学院出身で元NHK職員、お笑いを通して社会問題に切り込む芸人という異色の経歴から有識者会議などに参加したこともあるというたかまつは、自身が見聞きした有識者会議の様子について「コロナの研究者が可哀そう。本当に酷い御用学者とかがいる。政府の考えを代弁したり、汲み取ったりする」と明かすと「それは学問ではないということを改めて日本社会全体で見直さないといけない」と持論を展開した。
(以下略)
たかまつなな氏の主張は、この夏の非常に典型的な主張でした。
なぜ「決断できず」、「責任も取れない」のでしょうか? そこに斬り込んでいません。私は2点あると考えています。
一つは「利害関係が複雑すぎて政府・行政が雁字搦めになっているから」、そしてもう一つが「新型コロナウィルス対策での失敗の『責任』など取りようがないから」であります。
まず、「利害関係が複雑すぎて政府・行政が雁字搦めになっている」について述べましょう。
たとえば、新型コロナウィルス禍に伴いテレワークの拡大していますが、その阻害要因として日本の「ハンコ文化」があると指摘されています。社印を押印するためだけに出社する必要があるということです。河野規制改革担当大臣(当時)は、このことをうけて政府を挙げて「ハンコレス」を推進すると表明しました。しかし、すぐさまハンコ業界が反対の論陣を張り、徐々に尻すぼみになってゆきました。
新型コロナウィルス禍とは直接関係のないことでさえこの有様なのです。政府の政策によって得する人もいれば損する人もいます。
現代社会は社会的分業が高度化しており、それにより利害関係も複雑に絡み合っています。その調整を考えれば、素人が考えているほど大胆な政策は取りにくいものと理解できるでしょう。このことは、小泉劇場(小泉純一郎政権の構造改革)や橋下劇場(日本維新の会ブーム)が大流行したことをも説明します。社会の実相を知らない人たちがバカ騒ぎ的に小泉氏や橋下氏を熱烈に支持したわけです。もちろん、世の中そんなに単純ではないので、敵を仕立て上げて打倒するなどという方式は通用しません。。
次に「新型コロナウィルス対策での失敗の『責任』など取りようがないから」について述べましょう。
新型コロナウィルス対策の失敗は人命に直結する事態であります。
人命は不可逆的なので、他の政策のように「大胆に行け。責任は俺が取る」という訳には行きません。内閣が引責総辞職したり首相が政界を引退したり、はたまた首相個人が切腹したところで失われた生命は戻ってきません。それだけ重大なものを背負ってしまえば、
どうしたって政策は慎重かつ機動性に欠けたものにならざるを得ないと思われます。
たしかに政府の情報発信が極めて脆弱で、何を考えているのかよくわからなかったという事情はありました。
しかし、ならば断片的な事実から推理推測するべきではないのか――そうした営みをほとんどせず、ただ一方的に不満をまくし立てるだけだったのが今夏の世論動向でした。
■情緒優先的な国民性が際立った
9月下旬以降、デルタ株の感染が急激に減少し、この年の瀬のオミクロン株の侵入まで日本国内の新規陽性者数は非常に低い水準で推移してきました。10月末までに希望者に対するワクチン接種はほぼ完了し、「ワクチン接種後」の時代になったと言えます。
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」を地で行くように新型コロナウィルスに対する社会的関心は以前ほど高まらなくなったのが「ワクチン接種後」時代の特徴でしょう。オミクロン株の確認及び日本国内への侵入が確認されても、以前ほどの恐慌状態にはなっていません。
あれだけ叩かれた政府のコロナ対策について、第5波が急速に収束していった10月中旬の世論調査では「評価する」の割合が
約7割を占めるようになりました(「
岸田内閣 支持は61% 衆院選出口調査」 021年10月31日 20時00分)。その影響からか10月31日投開票の衆議院議員選挙で自民党が
圧勝。12月のNHK世論調査では、これまた散々叩かれた東京オリンピック・パラリンピックの開催を「よかった」とする意見が
過半数になりました(「
NHK世論調査 東京五輪 ことし7月の開催「よかった」は約5割」 2021年12月11日 6時31分)。
以下は、秋以降の世論動向を振り返るに最適な記事であると思われます。少し落ち着いた状況だからこそ出てくる記事です。
https://news.yahoo.co.jp/articles/cb275c40291890e451d0a5ea82646b928cbc01bdなぜ日本人はデータを使ってコロナを正しく把握できないのか 政府もメディアも“お祭り”に加担
2021/12/12(日) 10:56配信
デイリー新潮
コロナの新たな変異株「オミクロン」の出現は不気味だが、このウイルスの「特性」を知れば、少しは“見方”が変わるかもしれない。日本総研主席研究員の藻谷浩介氏が斬るのは、その「特性」を真正面から見ようとしない「コロナ専門家」たちのおかしさである。
(中略)
なぜ感染者の波が世界的に同じなのか
感染者急減について、行動制限が効果を発揮したと言う人がいます。ですが、プロ野球が盛り上がった10月と、第5波が急拡大した7月と、そんなに皆の行動が違いましたか? 昨年もGoToトラベル最中のお盆明けから2カ月間、新規陽性者は減り続けました。そもそも、世界中が日本と同時に自粛を開始したわけではないのに、なぜ日本と世界の感染の山が同じなのか。ワクチンにしてもそうです。例えばベルギーは8月中にはワクチン2回接種率が70%を超えるなど積極的なワクチン接種を行っていましたが、その後、10月に入って急激に新規陽性者が増加しています。他にも、日本のピークは長期休暇と被っていて、「休暇で移動が活発になったから感染者数が増加した」とか「季節の変化で感染者が増加した」などと言う人もいますが、それと世界のピークがほぼ一致していることにはどう説明をつけるのでしょうか。もちろん世界の感染者データには季節が真逆の南半球や、四季のない地域のデータも含まれています。加えて言えば、長期休暇の取り方も日本と世界では違います。そもそもウイルスの消長は自然現象。人間が自在にコントロールできると考えるのは、傲慢というものでしょう。できるのは、うまくサイクルに対応する努力だけです。
死亡率は激減
〈急拡大と収束を繰り返すウイルスのサイクルはコントロールできない。しかし、マスクや手洗いなど、人間の“努力”によって感染者数をなるべく低く抑え、ワクチン接種によって死亡者数や重症化率を下げることは可能である。日本と世界のデータを比較すると、日本の“優秀さ”が際立つ、と藻谷氏は説く。〉
第5波の拡大中に五輪が開催されていた8月2日から8日の期間、日本における人口100万人当たりの新規陽性判明者数は106人。では、同じ時期に他の国はどうだったのか。EUは148人。ワクチン接種が日本より進んでいたアメリカは328人、イギリスは400人。やはりワクチン接種先進国だったイスラエルは405人です。日本はまだ60代以上の高齢者にしかワクチンが行き渡っていなかったにもかかわらず、実は非常に優秀な状況だったといえるわけです。
こうした状況を「さざ波」と言った人がいましたが、もちろん「さざ波」ではない。入院できない患者が続出しましたし、医療関係者も大変な思いをしたわけですから。ただしこれは、1年半経っても対応病床と人員を有効に増やせていないためで、そこは政府の無策が問われるところです。
感染者数を見ると、第5波は第4波に比べて2.7倍と試算される一方で、死亡者数は6割になっている。つまり感染者の死亡率は、5分の1程度に下がったわけです。死亡率の高い高齢者を優先してワクチンを打ったことの、明確な効果です。「ワクチンが効いていない」などと言う人は、感染者数しか見ていないのでしょうか。
第5波と五輪は無関係
〈第5波は東京オリンピックの時期と重なった。そのことから、あたかも両者を関連付けるような見方も一部にあったが、藻谷氏はこれを明確に否定する。〉
第5波が、東京オリンピックに関係して発生したということは全くありません。国立感染症研究所の遺伝子解析で、日本で第5波を起こしたデルタ株は、今年5月18日に陽性が確認された首都圏在住・海外渡航歴なしの一人から広まったものだと確認されています。つまり、そのはるか後の7月下旬に始まった東京オリンピックに関連して入国した誰かが、ウイルスを持ち込んだのではありません。これはNHKのニュースにもなり、政府の部会でも報告されているはずの事実ですが、知られていないのはなぜでしょうか。
また、東京オリンピックが人流を増やして第5波を拡大させた、というのも全くお門違いです。第5波が始まったのは6月下旬です。実際の感染と判明の間には2週間程度のずれがあるので、感染拡大の開始は6月初旬でしょう。これはオリンピックが始まるずっと前です。更に言えば、オリンピックに伴う人流なんて、毎日の通勤者数に比べればほんのわずかです。
重症化率を報じないニュース番組は異常
〈なぜ事実に基づかない物の見方が広まってしまうのか。〉
皆さん、事実にあまり興味がないのでしょう。データで示される事実よりも、皆がどう騒いでいるか、騒ぎ立てることでコミュニティ内がどう盛り上がるかばかりに興味があるように見えます。
例えば、「重症者数」が報道でよく取り上げられるようになったのは第5波からです。すでにお話ししたように、第5波では死亡者数が第4波に比べて6割になりました。一方、第5波では感染者数が約2.7倍になった分、重症者数も約1.5倍になりました。ワイドショーなどが「減少した死亡者数」ではなく、「増加した重症者数」を取り上げるのは、視聴者を惹きつけるためなのでしょう。そして、情報を受け取る側もそうした“盛り上がり”ばかりに目が行くようになってしまうのです。
しかし、「重症化率」で比較してみると、第5波のほうが第4波より明らかに低い。これもワクチンの効果です。自治体と医療関係者の方々が懸命にワクチンを打った結果、死亡者数や重症化率が明確に減少しているにもかかわらず、数が増えた「重症者数」ばかり報道していた日本のニュース番組は異常でしたね。
(以下略)
「
行動制限はあまり関係ない」というのはどうかと思います(「山」の高さを諸外国と比べて低く抑えることには繋がるでしょう)が、「
死亡率が激減しているのに新規感染者数だけ見て大騒ぎしている」(もちろん「濃厚接触者」の処遇問題はありますが・・・)や「
デルタ株の遺伝子検査結果及び第5波の開始時期から考えてオリンピックと第5波は無関係」は、
いずれも冷静にデータ分析をして論理的に考えれば、「医療専門家」でなくとも見えてくる結論ばかりです(統計を理解していれば、必ずしも「医療専門家」だけに公衆衛にかかる発言権があるわけではないことが分かったのも新型コロナウィルス禍によるものかも知れませんね)。
藻谷氏は「
皆さん、事実にあまり興味がないのでしょう。データで示される事実よりも、皆がどう騒いでいるか、騒ぎ立てることでコミュニティ内がどう盛り上がるかばかりに興味があるように見えます」とまで言い切ります。
情緒優先的な国民性を指摘しているものと私は理解しましたが、この2年あまりの世論動向をつぶさに見てきた身からしても納得いく分析です。
■総括
総括として、今年新型コロナウィルス禍世論の特徴的事象を整理しておきたいと思います。
昨年と比較すると、
自粛警察・道徳自警団の非国民狩り・文化大革命騒ぎは沈静化したと言えるでしょう。
ワクチン接種の順番待ちにおける「抜け駆け」や病床ひっ迫期の入院決定において「上級国民」談義が出てくることもありましたが、それが一般国民同士のいがみ合い、非国民狩り・文化大革命騒ぎに繋がることは、ついにありませんでした。一部メディアが執拗に扇動していたにも関わらず。
ワクチン接種を巡っては、「個人の自由」論や甚だしくは荒唐無稽な陰謀論が出てくるに至りましたが、
現在のワクチン接種率を見るに、大勢に影響はなかったといえるでしょう。メディアの扇動が無効化し、
ひとり一人が静かに自発的に防疫事業に参加するようになり始めた一年だったという見方もできるでしょう。
一般国民同士のいがみ合いなどはなかり少なくなってきたものの、
あまりにも長すぎる新型コロナウィルス禍ゆえ以前からの「救世主待望論」が更に増幅し、政治や行政に対するクレーマー的な騒ぎが更に深刻化したと言えます。その特徴と原因は次のとおりでした。
第一に、日本社会のクレーマー気質化は、
「お客さま」意識の奇形的肥大化によるものでした。
第二に、日本社会のクレーマー気質化は、
「一種の設計主義・ウォーターフォール主義」的思考によるものでもありました。
第三に、日本社会のクレーマー気質化は、
一種の「甘やかし」というべき対応が「優しさ」にすり替えられためでもありました。
そして第四に、日本社会のクレーマー気質化は、
情緒優先的で目的意識性が欠如しており、
置かれた環境に対する科学的分析が不十分で、かつ
認識の発展・理解の深化という観念が欠如している、
つまり主体が確立されていないためでもありました。政府の対策はたしかにグダグダでしたが、ではなぜグダグダだったのかについてしっかり分析したうえで批判されていたとは到底思えないシロモノが氾濫していました。
以前から述べてきたとおり、私はこの国の未来社会論として協同主義的社会主義化を目指しています。5月15日づけ「
コロナ禍においてこそ真の意味での「民間の知恵の活用」、知恵を出し合う公民協働・協同が求められている」でも書いたとおり、いまこそ公民協働・協同で知恵を出し合って総力戦で新型コロナウィルス禍を乗り越えるべきであります。「お客さま」意識の奇形的肥大化が進む日本、この点における意識改革が喫緊の課題となっています。そしてこの意識改革は単に新型コロナウィルス禍を乗り越えるだけではなく、将来的な社会全体の協同化の前提にもなるものです。新しい協同社会の時代を開拓するにあたっては必ず実現する必要があるものです。
しかし結局そのような動きは未だに見られません。ワクチンという希望の光が新たに登場した一年であり、ひとり一人が静かに自発的に防疫事業に参加するようになり始めた一年だったとい見方も可能ですが、他方で、長引く新型コロナウィルス禍により日本社会のクレーマー気質化、「お客さま」意識の奇形的肥大化による一方的な主張が氾濫するようにもなった一年でした。
この国が新型コロナウィルス禍を乗り越え、更に協同化してゆくにあたって取り組むべき主体的準備の道は長く険しいことを暗示していると言わざるを得ないでしょう。