2021年12月31日

チュチェ110(2021)年を振り返る(3):先鋭化しすぎたリベラリズムからの揺り戻しが始まった?

「チュチェ110(2021)年を振り返る」第3弾として、今年もリベラリズム批判を総括したいと思います。

当ブログの柱の一つになりつつあるリベラリズム批判。その動機は、(1)その文化大革命的手法、(2)その「私は」過剰、そして(3)主観観念論的社会歴史観への反対にあります。今年もこの動機を主軸として記事執筆してきました。

■キャンセル・カルチャーが何を残すというのか?――協同協力の方法で前非を理解させて悔い改めさせる包摂的な方法論を!
まず2月の、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長だった森喜朗氏の舌禍事件について、2月11日づけ「赦しあるいは包摂を根本価値観とする手法の必要性――森・東京五輪組織委会長の失言の後始末」及び2月20日づけ「森喜朗会長辞任・橋本聖子新会長就任にかかるドタバタの主体的総括4題」では、その文化大革命的な手法による批判を検討しました。

当該記事でも述べたとおり、森氏の発言は擁護困難な不快な発言です。しかし、吊るし上げて寄ってたかってサンドバッグにした上で追放するような形で辞任に追い込んだことで、いったい何が残ったのでしょうか?

森氏の釈明会計を思い起こすと、あまり自分に非があるとは思っていないように見受けられました。うるさく言われたから組織のために釈明しておくか・・・くらいでしかなかったのではないでしょうか? 批判と釈明が最後までコミュニケーションとして成立していませんでした。そして、辞任という儀式を以って森氏は一般人となってしまい、それゆえに追及が打ち切りになってしまいました森氏が前非を深く理解して悔い改めることはついにありませんでした

森喜朗氏といえば以前から舌禍が絶えない人物ですが、彼が「変わってこなかった」一因に私は、吊るし上げから辞任、そして追及の打ち切りが一種の形式的な儀式と化しているところにあると考えています。実際に舌禍の当人が改心したことよりも、この一連の流れを経ることの方が重視されているように思われます。とりわけ、辞任すること自体、辞任させること自体が目的と化しているように思われます。

この結果、舌禍の当人の改心が中途半端に終わるばかりか、2月12日づけ「あれだけ毎回毎回大騒ぎしているのに、一向に世の中を変えないポリコレ的吊るし上げ」これを傍目で見ている人は、「またやっているな」くらいの他人事になるか、あるいは、「この手の話題について私見を口にすると面倒なことになる」という印象だけが残ることになります。この手の炎上事件が頻発しその度に吊るし上げが起こっているにもかかわらず、世の中は一向に変わらないのは、こういう理由があるのではないでしょうか?

森氏がサンドバッグ状態になった風潮は、いま全世界的に暴れ回っているリベラリストたちのキャンセル・カルチャーそのものであると言えます。問題発言を取り上げ、飽和攻撃的総攻撃を仕掛け、地位から引きずり落して社会的に抹殺するものであります。

これに対して私は、2月11日づけ「赦しあるいは包摂を根本価値観とする手法の必要性――森・東京五輪組織委会長の失言の後始末」において、キム・イルソン同志の談話を基に、誤った認識を持った人を叩き潰して追放するのではなく、協同協力の方法で前非を理解させて悔い改めさせる包摂的な方法論を提唱しました

キム・イルソン同志はかつて次のように指摘されました。
 社会主義革命を行うときの階級闘争は、ブルジョアジーを階級として一掃するための闘争であり、社会主義社会での階級闘争は、統一団結を目的とする闘争であって、それは決して社会の構成員を互いに反目し、憎みあうようにするための階級闘争ではありません。社会主義社会でも階級闘争を行うが、統一と団結を目的とし、協力の方法で階級闘争を行うのであります。こんにち、我々の行っている思想革命が階級闘争であるのはいうまでもないことであり、農民を労働者階級化するために農村を助けるのも階級闘争の一つの形式であります。なぜならば、労働者階級の国家が農民に機械をつくつて与え、化学肥料も供給し、水利化も行う目的は結局、農民を階級としてなくして完全に労働者階級化しようとするものであるからです。我々が階級闘争を行う目的は、農民を労働者階級化して階級としての農民をなくすだけではなく、かつてのインテリや都市小ブルジョアジーをはじめとする中産階層を革命化して労働者階級の姿に改造しようとするものであります。これが、我々の進めている階級闘争の主要な形式であります。
『資本主義から社会主義への過渡期とプロレタリアート独裁の問題について――党の思想活動部門の活動家に行った演説』チュチェ56(1967)年5月25日

舌禍の当人に反省の色が薄くとも、赦しあるいは包摂を根本価値観として粘り強く対応する必要があります。森喜朗氏が抱いていたような、今乗り越えるべき古い性差別的意識の克服は、社会の「統一と団結を目的」としているはずであり、けっして女性階級が男性階級を打倒することを目的としているものではないからであります。

■キャンセル・カルチャーからの揺り戻しの始まり?
キャンセル・カルチャー的騒ぎは、今年はこの他にもタレントの渡辺直美さんの容姿を侮辱するような発言を過去にした佐々木宏氏の一件がありました。舌禍の当人が既に撤回した陰口のようなものを、かなり時間がたってから密告的に暴露して吊るし上げ、社会的に抹殺することは、森氏舌禍事件以上に文化大革命的というべきものでした。

マスメディアは、東京オリンピック・パラリンピックの開閉会式の演出を統括するクリエーティブディレクターだった佐々木氏が公人に近い立場の人物だったからか、本件を精力的に報じていたものでしたが、世論は必ずしも報道意図どおりの反応は見せていませんでした。3月21日づけ「文化大革命的な様相を呈し始めた行き過ぎた「キャンセル・カルチャー」からの揺り戻し?」で取り上げたとおり、佐々木氏の発言を擁護することはできないが、あのような吊るし上げについては疑問視する声が多数あがったものでした。

このような現象は、キャンセル・カルチャーからの揺り戻しの始まりとして見なすことも可能だと思われます。キャンセル・カルチャーからの揺り戻しを感じさせる事象は、3月28日づけ「ブーメラン的な報ステ炎上が「自業自得」と突き放されてはいない事実は、ポリコレ風潮を押しとどめ押し返す風潮が芽吹きだした兆候?」で取り上げた報道ステーション新CM事件からも見出すことができるでしょう。

報道ステーションといえばテレビ朝日系列を代表する報道番組であり、日本におけるリベラリズムの旗振り役といっても過言ではありません。森喜朗氏の舌禍事件でも報道ステーションは活き活きと報じていました。その意味で、本件は見事なまでのブーメランと言うべきものでした。いままで自分たちが散々やってきたことが、そのまま跳ね返ってきたわけですから。

それゆえ、報道ステーションの「自業自得」を嗤うことはあってもその肩を持つような世論はあまりないだろうと思っていたのですが、意外なことに「いや、たとえ相手が報ステだといえども、そんな理由で吊るし上げるのは変だ」という反応が見られました。報道ステーション編集部が伝えたかったであろう皮肉のメッセージを汲み取り、批判を展開するリベラリストたちの言説の短絡性を指摘する意見が続出しました。たとえ炎上しているのが報道ステーション、たとえそれがブーメランであっても、おかしな言いがかりを見逃すことはできなかったのでしょう。

以前から私は、現下のポリティカル・コレクトネス旋風は文化大革命的であるが、そうであるがゆえに、本家文革がそうだったように、「それは流石に違うのではないか」「こんなのは変だ」「これにはついて行けない」という素朴な違和感が強まり、失速してゆくだろうと述べてきました。佐々木宏氏の件にしても報道ステーション新CM事件にしても、その始まりとして見ることが可能ではないでしょうか?

■ジェンダー平等を正しく導くのはリベラリズムではなくチュチェ思想
報道ステーション新CM事件を巡っては、ジェンダー平等を闘争によって実現させようと説く言説が飛び出してきました。一般にリベラルと見なされてきた報道ステーションでさえああなのだから、もっと先鋭的に闘う必要があるということなのでしょうか?

しかし、2月27日づけ「「私はこう思う」を乗り越え、真に社会を変革し得る人民大衆の自主化偉業としてのジェンダー平等運動に進化するために」、4月3日づけ「ジェンダー平等を導くチュチェ思想」及び4月10日づけ「自主権の問題としてのジェンダー平等」において述べたとおり、闘争ではなく協同協力の方法でジェンダー平等を実現させるべきであります。

キム・イルソン同志の指摘を再掲します。
 社会主義革命を行うときの階級闘争は、ブルジョアジーを階級として一掃するための闘争であり、社会主義社会での階級闘争は、統一団結を目的とする闘争であって、それは決して社会の構成員を互いに反目し、憎みあうようにするための階級闘争ではありません。社会主義社会でも階級闘争を行うが、統一と団結を目的とし、協力の方法で階級闘争を行うのであります。
『資本主義から社会主義への過渡期とプロレタリアート独裁の問題について――党の思想活動部門の活動家に行った演説』チュチェ56(1967)年5月25日

キム・イルソン同志のこの談話は、ちょうどこの当時に中国で展開されつつあった文化大革命を批判する内容として理解できるものです。キム・イルソン同志が仰る社会主義社会とは、人民大衆の協同社会のことであります。いま私たち現代日本人がジェンダー平等の文脈で実現するべきは男女間の協同社会を構築することであり、決して一方が他方を打倒して天下を取って敗れた他方を使用人的に使役する社会ではないはずです。

その意味において、キム・イルソン同志が仰る社会主義社会のための階級闘争とジェンダー平等のための運動とは原理原則の面において一致するはずであります

また、女性に対して当為を要求する価値観は、同様に男性に対しても当為を要求するものです。「仕事も家事も」で女性が苦しんできたこと、そして今も苦しんでいることは否定できない事実です。では男性は? 「家事に参加しない特権階級」としてではなく、「男らしい男・立派な男たるべし」という通念により「家事から徹底的に疎外された存在」としてみるべきではないのでしょうか?

抑圧されているのは女性だけでありません。取り組むべきは「女性の権利拡大によるジェンダー平等」ではなく「自主権の問題としてのジェンダー平等」です。目指すべきは男女間の協同社会を構築することであり、それは階級闘争的手法によってではなく協同管理的手法によって実現すべきなのです。

そして、その意味においてチュチェ思想は、ジェンダー平等を正しく導く思想であると私は考えます。

関連して、11月12日づけ「キレイゴトや観念論までもが入り混じって混沌しつつあるCOP26」では、ジェンダー平等問題と並んでリベラリストたちが精力的に取り組んでいるエコロジー・気候変動問題について「怒り」を原動力にすることの問題点を同様に批判し、チュチェ思想の思想的優越性を強調しました。

やはり、21世紀の社会変革はリベラリズムを克服し、チュチェ思想が提唱する方法論に則るべきであると私は考えます。

■リベラリズムにおける「私は」過剰は、設計主義と社会歴史観の著しい退化に繋がる
続いて、リベラリズムにおける「私は」過剰の問題について振り返ってみましょう。

社会的・歴史的な抑圧を打ち破り自分自身を取り戻す・解放するためには、ある程度は「自分本位」にならざるを得ないことは確かです。しかし、そのことと自分を客観視できず、ただ自分から見えることだけ、自分の頭で理解できることだけで天下国家を語ることはまったく異なります。自分自身を客観視した上で自分自身の立場を鮮明にするべきなのです。

その観点から2月27日づけ「「私はこう思う」を乗り越え、真に社会を変革し得る人民大衆の自主化偉業としてのジェンダー平等運動に進化するために」では、「女はかくあるべし」を押し付けられる女性もつらいだろうが、その裏には「男はかくあるべき」があり、その意味では男性もまた当為を押し付けられていることを見逃してはならないと述べました。女性のジェンダーからの解放は、同時に男性のジェンダーからの解放でもあるのです。

しかし、最近のジェンダー平等運動界隈はそういった見方をしようとしません。あくまでも「女性に対する当為の押し付け」「女性差別」という観点から主張を展開しています。ジェンダー平等運動界隈が「当事者」と言う言葉を好み、盛んに用いている事実にこの原因が見え隠れしています。つまり、「私は」過剰・主観過剰なのです。

リベラリストたちの「私は」過剰については、3月23日づけ「まったく何も進歩していない」でも取り上げました。「制服に『選択の自由』を!」とのことですが、結局のところ「自分にはこのルールは理解できない、だから改めよう」に過ぎず、そのルールが形成された経緯には触れないし、既存のルールを支持する人たちの意見(異論)にも一切触れていませんでした。歴史的な視点、異なる視点を一顧だにせず、ひたすら「私は・・・と思う」なのです。これもまた「私は」過剰と言わざるを得ないものに過ぎませんでした。

リベラリズム的ジェンダー平等論の世界的な隆興を軌を一にする形で日本でもリベラリズム的ジェンダー平等論が更に隆興したこの一年。その後もたとえばその年の瀬には「「性別は自分で決める」 少年の主張全国大会、宮城の中3生奨励賞」(2021年12月25日 09:51 河北新報)という記事が出てきています。

ここでいう性別は、おそらくジェンダーとしての性別のことだと思われますが、言葉の原義に照らしておかしな話です。もとよりジェンダーとは社会的・文化的に形成される性差のことであり、レーニン的な意味において客観的に決まるものであります。もちろん、客観的・社会的な評価に対して本人・当事者が反対意見を述べ、両者の意見・見解の溝を埋めてゆくことは大切なことです。しかし、ジェンダーは「自分で決める」ものではありません。「私は」過剰はついに、言葉の原義をも無視するまでに先鋭化するに至ってしまったようです。

この「私は」過剰が行きつく先は、素人の思い付きで自然や社会を改造する設計主義です。非常に危険な発想の萌芽であります。また、その行き着く先は、社会歴史観の著しい退化に他なりません。かつてマルクスは、『ドイツ・イデオロギー』で次のように述べました。
日常生活では、どんな小売商人でも、ある人が自分はこうであると称するところと、彼が実際にそうであるところとを非常によく区別することができるのに、われわれの歴史記述は、まだこのありきたりの認識に達したことがない。その歴史記述は、それぞれの時代がそれ自身について語り、思い描いていることを、その言葉どおりに信じる。
マルクス/エンゲルス著、服部文男監訳『[新版]ドイツ・イデオロギー』新日本出版(P63〜64)

「私は」過剰が社会歴史観レベルに侵入すると、まさに観念論的社会歴史観に成り下がるわけです。

■リベラリズム的ジェンダー平等論も遠からず失速するだろう
リベラリズム的ジェンダー平等論においても揺り戻し的現象が見え始めました。「妊娠=女性らしさ?自然妊娠で出産したトランスジェンダー男性が感じたこと」(12/27(月) 23:00配信 コスモポリタン)という記事のコメント欄には「なんか、もう、よう分らん・・・。」というコメントが最も評価されています。

妊娠と女性らしさを切り離す主張は、「お前ら遅れているなー」と言われようとも流石に理解困難です。あまりにも先鋭的な主張についていけないことが続出するのも無理のない話です。

文革騒ぎの終焉シナリオにおいても述べましたが、「それは流石に違うのではないか」「こんなのは変だ」「これにはついて行けない」という素朴な違和感がある運動を失速させてゆきます。あまりにも先鋭的すぎると失速してしまうのです。その点、「私は」過剰のリベラリズム的ジェンダー平等論も遠からず失速し、現実的な程度のジェンダー平等論に落ち着くのではないかと私は見ています。

■「ひとり一人が意識を変え行動を変えれば社会システムが変わる」という主観観念論的な社会歴史観の誤り
最後に、リベラリズムにおける主観観念論的な社会歴史観について振り返りたいと思います。当ブログではこのことについて、エコロジー運動・気候変動問題を切り口にして取り上げてきました。

7月3日づけ「「環境問題への関心を持つきっかけ」を得るためならば、もっと別の方法があるだろうに:レジ袋有料義務化から1年」、8月15日づけ「「改心」で解決するのならば、世界はとっくに共産主義――啓蒙主義的アプローチの誤り(再論)」及び12月25日づけ「マルクス主義が忘却され観念論的な社会歴史観が蘇生しつつある中においてチュチェ思想の独自性が生きてくる」では、リベラリズムの教義に則った言説を批判しました。これらに共通する要点を掻い摘んで申せば、ひとり一人が覚醒して行動を改めたとしても、それが社会的に有意義な結果に繋がるとは限らないということであります。とりわけ、バラバラに、無秩序的・非組織的に行動していては効果的な社会変革には繋がらないのです。

以前から述べてきたとおり、「ひとり一人が意識を変え行動を変えれば社会システムが変わる」という想定は、物事を個人レベルに還元し過ぎています。人間が意識を変え行動を変えることで達成できるのは、あくまでも個人レベルの課題に留まります。脳味噌一個・腕二本・脚二本で出来得る仕事の範囲は限定的なのです。

社会システムはもっと巨大で、社会的の課題は個人レベルの課題とは質的にまったく異なります。当然、解決方法も異なります。「啓蒙され覚醒した個人」が個人レベルで最適な行動をとったからといって、それで社会全体が最適化されるとは限らないのです。

また、「ひとり一人が意識を変え行動を変えれば社会システムが変わる」という想定は、個人がその価値観と意志に基づき行動を自由に決定し、そうした個人の志ある行動により社会全体が変革されていくという主観観念論的社会観を提唱し、社会組織・社会システムが個々人に与える客観的・構造的制約というものを軽視ないしは無視します。

換言すれば、啓蒙−決心−行動−成果が連続的で「個人が改心すれば社会が変わる」と言わんばかりのビジョンは、それゆえに、啓蒙と決心との間の葛藤、決心と行動との間にある客観的・構造的制約、行動と成果との間にある因果関係に対してまともに分析を加えようとしません。また、そうであるがために、問題の所在を「決心したか否か」や「関係者が善人であるか悪人であるか」に設定してしまいます。

しかし、人間存在は社会的・経済的・制度的に規定されたものであり、社会経済制度・構造を根本から変革しない限りは社会は変革され得ず、人間行動をちょっと変えたくらいで社会が変革されると考えるのは、まさしく「観念論」と言わざるを得ないのです。

「小さなことから始めることが社会全体を変える」という言説は、ミクロレベルでの思考・方法論をマクロレベルに不適切に適用しています。人間が「意識」を変え行動を変えることによって具体的にどのような経路をたどって社会システムが変わってゆくのかが曖昧で描き切れていないので、具体性のない空想・単なる観念論になってしまうのです。

■オウエン主義の劣化コピーのようなものや、メリトクラシー的発想に染まり切った言説が大手を振っている不安
リベラリズムの観念論性については、この他にも11月7日づけ「ロシア革命記念日にこそ「禁欲運動による社会変革がうまくいったことなど歴史上ない」ことを踏まえて新社会を展望したい」及び11月12日づけ「キレイゴトや観念論までもが入り混じって混沌しつつあるCOP26」で取り上げた件でも見られました。禁欲主義や反市場主義が上手く行った試しはありません。もしこの古い議論を再導入するのであれば、客観的なエビデンスに基づく実証的な主張にする必要がありますが、リベラリストたちの言説は規範的なものに留まっています。実証科学性を欠いた主張はまさに「空想」という他ありません。

12月25日づけ「マルクス主義が忘却され観念論的な社会歴史観が蘇生しつつある中においてチュチェ思想の独自性が生きてくる」で私は、近年増えつつある個人の「思い」や「行動」を社会的問題の解決手段として採用しようとするむきは、空想的社会主義者であるロバート・オウエンが提唱したオウエン主義の劣化コピーであるように思われてならないと述べましたが、その危機感をますます強めているところです。

このようなリベラリズムが社会変革の旗振り役になってしまっている現状に非常なる不安を覚えるところです。

リベラリストに対する不安については、9月25日づけ「「能力主義を暗黙の前提としたリベラリスト」が社会運動の推進主体であることに対する不安」においても述べました。都立高校の男女別定員制が内申点制度の見直しを欠いたまま進んでいます。リベラリストたちが男女平等を提唱するにあたって持ち出す理屈にはメリトクラシー(能力主義)の発想が色濃くあります。

マイケル・サンデル氏らの精力的な活動により昨今、メリトクラシーの問題点が明瞭に見えてきており、いまやメリトクラシーを克服する段階に入りつつあると私は考えています(その指針もチュチェ思想にあると私は考えています)。にもかかわらず、リベラリストたちが、そんなメリトクラシー的発想に染まったアイディアを引っ提げて、あたかも時代の最先端であるかのように社会変革の橋振り役になっているという現状に非常なる不安を覚えるところです。

■一貫性のない出来損ないの主張が社会変革の旗振り役としての地位を占めている不安
ところで、リベラリストたちはジェンダー平等問題においてはかくも「私は」過剰なのに、エコロジー問題においては打って変わって「無主体」というべき言論を展開しています。

11月7日づけ「ロシア革命記念日にこそ「禁欲運動による社会変革がうまくいったことなど歴史上ない」ことを踏まえて新社会を展望したい」で取り上げたとおり、いま若い世代の間で、「持続可能」という言葉の意味が取り違えられているそうです。当該記事でも引用した慶應義塾大学の若新雄純・特任准教授の発言を再引用すると、「高校生たちとSGDsワークショップをやると、多くの生徒が“持続可能性”について勘違いをしていてびっくりする。つまり、人間の欲望ある生活、経済活動も、これくらいであれば環境に負荷をかけ過ぎない形で持続可能になるよ、ということであって、地球環境を持続可能ではない。(中略)それなのに、どこか“資源を守れ”みたいなものだと勘違いをしている。(中略)その言動自体が周りの人にとってはとてもじゃないけど“持続不可能”なものになってしまっている」とのことです。

チュチェ思想的に考えるとこのことは、主体がしっかりと確立されていない、すなわち自分自身の観点と立場がしっかりと定立されていないということに他なりません

主体がしっかりと確立された人物は、なによりも人間自身の利益から出発して世界に対応します。人間の活動は、自らの自主的要求の実現を目標としているからです。そうである以上は、人間が世界に対応するうえでは人間自身の利益を出発点とすべきです。もちろん、地球は人間だけのために存在しているわけではありません。エゴを貫き通せすことを推奨している訳では決してありません。しかし、人間自身の利益をかなぐり捨て、とても実践できないような禁欲生活を提唱する必要もありません。バランス・均衡を取るべきなのです。

あるときは「私は」過剰、またあるときは「無主体」。このような主張のブレ、それも自分自身の地位と役割に関わる点においてブレるような一貫性のない出来損ないの主張が、社会変革の旗振り役としての地位を占めていることについても、非常なる不安を覚えるところです。

残念ながら主観観念論的なリベラリストたちの社会歴史観に対する揺り戻しはまだ見えてきていません。2月7日づけ「客観的条件・構造的制約を重視することで「理解に苦しむ・道徳的に許されない事件・犯人」にも「同質性」の見方を提供するマルクス・レーニン主義的な見方を一定程度再評価する必要性について」で論じたとおり、マルクス・レーニン主義的な見方を再評価すべき段階に入りつつあると私は考えますが、チュチェ109(2020)年6月9日づけ「人種差別問題を経済的格差問題に還元するマルクス主義的言説の終焉」で取り上げたとおり、"Black Lives Matter"運動を黒人の経済的境遇と関連付けて説明しただけで大炎上する時代です。

しかしこのままでよいとは私は考えません。リベラリズムについて、その文化大革命的手法、その「私は」過剰、そして主観観念論的社会歴史観を軸として、チュチェ思想の優越性を確信しながら、来年もこのテーマについて考え行きたいと思っています。
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チュチェ110(2021)年を振り返る(2):コロナ禍を乗り越え更に協同化してゆく道は長く険しいことを示す「2年目」の世論動向

「チュチェ110(2021)年を振り返る」第2弾として、昨年に続き、新型コロナウィルス禍を巡って炙り出された世相に関して振り返ります。

チュチェ110年の新型コロナウィルス禍は、「ワクチン接種前」と「ワクチン接種後」で決定的に異なる世相になったと言えるでしょう。それゆえ、当ブログとしても「ワクチン接種」を時代の契機として一年間を整理したいと思います。また、世相分析という記事の趣旨及び、生活者の視点により社会歴史を漸進的なものとして見る以前からの私の立場を貫く意味で、「ワクチン接種中」という時代区分も提唱したいと思います。

■日本社会のクレーマー気質化、「お客さま」意識の奇形的肥大化による一方的な主張の氾濫
まずは、「ワクチン接種前時代」についてです。

昨年の総括記事で私は、「人心の荒廃に伴って世論の「クレーマー化」が進み、ついには「駄々を捏ねるおこちゃま化」するようになりました」と述べましたが、今年も引き続きその手の言説が氾濫していました。

リアル世界では一介の労働者である私。労働者としての活動、自分自身の家庭生活、そして当ブログとはまったく無関係かつ社会問題等ともまったく無関係の趣味も持っています。正直、あまり社会問題やブログに費やしている時間はありません。そんな私の前に現れた藤崎剛人氏の論考を掲載する『ニューズウィーク日本版』。それを基に執筆したのが5月5日づけ「新型コロナウィルス禍を巡って炙り出された世相について@コロナ禍2年目春」でした。細切れ的な隙間時間に読んできた諸記事の論点がギュッと詰まっていたお陰で効率的に世相を批判できました。当該記事で私は、「ワクチン接種前時代」の世相を次の4項目に整理できました。

○具体的な実現可能性を踏まえたビジョン、段取りレベルの政府批判でないという世相
「ワクチン接種前時代」の特徴は、第一に、具体的な実現可能性を踏まえたビジョン、段取りレベルの政府批判でないという世相です。

やる気がなかっただけだ」と連呼している藤崎氏ですが、日本において強力な措置を現実的に取り得たのかという分析、「事実から出発する」ことを貫徹した分析はいっさい見られません。当ブログでも繰り返し指摘してきた「お気楽政府批判」の典型例というべきものです。

似たような言説については、5月3日づけ「한사람같이 떨쳐나서자!」においても取り上げました。1回目の緊急事態宣言から丸一年を迎えてもなお事態収拾のめどが立たないことを受けて今春は「もう1年も経つのに・・・」といった言説が氾濫したものでした。しかし当該記事でも強調したとおり、1年間という時間は生活者の感覚からは長いものですが、人類史的課題の解決策を探り当てるには短いものです。「銀の弾などない」(There's no silver bullet)のです

政策は、「必要性」と「実現可能性」の両面から検討する必要があります。こうした姿勢こそが「事実から出発する」姿勢であり科学的姿勢です。実現可能性のない必要性の要求は、ユートピア主義と本質的に変わるところのない「駄々っ子のないものねだり」というべきものです。今般の新型コロナウィルス禍について言えば、「ここがネックになっているので、こうするべきだ」という具体的な建策は、結局今に至っても私は寡聞にして知りません。

「具体的なことは政府の人間ではないので分からない。そういう具体的ことを詰めるのは政府の仕事だろう」という言い分もあるかもしれません。しかし、「それは私の仕事ではない」というのは、まさに「お役所仕事」というべき姿勢です。5月15日づけ「コロナ禍においてこそ真の意味での「民間の知恵の活用」、知恵を出し合う公民協働・協同が求められている」でも述べたとおり、公民協働・協同で知恵を出し合って総力戦で新型コロナウィルス禍を乗り越えるべきであります。口を開けた雛鳥たちのように誰かが何かしてれるのを待っている段階ではありません。真の意味での「民間の知恵の活用」、知恵を出し合う公民協働・協同が必要されています。しかし、文句は噴出するものの建設的な意見はまったくといって良いほど提起されずじまいでした。

もちろん、社会的分業の高度専門化により専門外の人々には「他人の仕事」の内容が見えにくくなっている現代においては、なかなか思うように「知恵を出し合う」に至らないのは理解可能です。ならばせめて、一方的な物言いは控えるぺきではないのか、そう思わざるを得ない世論動向が見られたものでした。

お気楽で一方的な物言いの蔓延について私は、4月15日づけ「社会的分業を見つめ直す必要:キム・イルソン同志生誕記念」において、社会的分業の徹底的な専門細分化による超知識労働社会への社会変化が底流にあると分析しました。

繰り返しになりますが、現代では社会的分業が徹底的に専門細分化されたことにより他人の仕事内容への想像力や推理力が働きにくくなっています。また、BtoCレベル・日常的購買のレベルでは即日配送のようなスピーディなサービスが溢れかえっているので、人々は、量産品消費者としてのスピード感ですべてを判断しがちになっています。更に、望めばすぐに需要が満たされるオンデマンド社会にもなっています。消費者・需要側は、自分の都合を並べ立てることが当然のことになりました。「お客さま」意識が奇形的に肥大化しています。

世論が一方的な物言いをして憚らなくなった原因は、他人の仕事内容への想像力や推理力が働きにくくなっているさなかで、更に「お客さま」意識が奇形的に肥大化したことにより、消費者・需要側は、生産者・供給側の事情を踏まえなくなったためだと考えられるのです。

このことについては、更に9月9日づけ「「とにかく政府はコロナ禍を今すぐ何とかしろ!」はどのように誤っているのか・・・朝鮮民主主義人民共和国の先進性との比較」で更に掘り下げて分析しました。「自分から見えるもの」にのみ依拠し「公平な観察者」どころか「他人から見えるもの」=他人の側の都合にさえも思慮が至らない一方的な物言いについて、当該記事では、次の3つに分類しました。

(1)中途半端な「御上」意識と国民主権・社会的分業意識のハイブリッドのケース
(2)時代錯誤的な要求運動のケース
(3)消費者意識の奇形的肥大化による無い物ねだりの駄々っ子的クレーマーのケース


(1)については、再三の繰り返しになりますが、「社会的分業の徹底的な専門細分化に伴う超知識労働社会への社会変化」が消費者・需要側をして、生産者・供給側の事情を踏まえしめなくし、一方的な物言いをして憚らなくなったと考えられるというものです。

また、「救世主」願望が伝統的な「御上」意識と融合し、「とにかく政府は新型コロナウィルス禍を今すぐ何とかしろ!」などと何ら具体的な検索もなくただ喚くだけになったものとも考えられます。以前であれば、詳細な言及はないにしても、たとえば「緊急事態宣言を出せ」や「このご時世に開店している飲み屋を取り締まれ」といった総路線的な試案の展開があったものですが、今年はついにそれとえもなく「とにかく政府は今すぐ何とかしろ!」という程度の言説ばかりが目立ったものでした。万策尽きていよいよ救世主に縋る心理に至った世論だというわけです。

「近代理性主義の副作用」も見逃すわけにはいきません。一方的な物言いにおいては、台湾やニュージーランドなどとの「比較」、すなわち「台湾やニュージーランドでは上手く行っているのに、なぜ日本ではできないのか」といった批判が氾濫したものです。こうした物言いの誤りについては、結論から言ってしまうと、「これらの国・地域は人口小国だから上手く行ったのであり、人口大国である日本にそのまま適用できるものではありません」というところになります。

人口が量的にまったく異なり、それゆえに統治が質的に異なる国同士を単純に比較することは非科学的と言う他ありません。このようなモノが大手を振って出てきた事実は、科学的世界観が日本世論において欠如していることを示しています。しかし他方で、当の本人はこれが科学的だと信じて疑っていません。こうした、よく言えば「等身大の感覚」、悪く言えば「素人考え」を信じて疑わず非科学的な比較をあたかも科学的だと致命的にも思いあがっている風潮は、致命的な「思い上がり」、つまり「近代理性主義の副作用」と言えるでしょう。

「設計主義的な社会観」の影も認めざるを得ないところです。この救世主願望と融合した御上意識には、おそらく設計主義的な社会観が潜んでいるものと思われます。優秀な政治家や役人たちであれば社会を意のままに操ることができるという夢想です。こうした夢想があるからこそ「優秀な政治家や役人たにだって、出来ることと出来ないことがある」とは考えられず、要求が実現しない場合に「なぜ、やらないんだ」という批判をしてしまうのだと思われます。

結局、「社会的分業の徹底的な専門細分化に伴う超知識労働社会への社会変化」と「近代理性主義の副作用」を底流としつつ、古くからの「お上が何とかしてくれる」観念が「救世主願望」及び「国民主権論」と合流することによって「行政なんだから何とかすべきだ」といった形で現れているのでしょう。これはすなわち、成熟した市民社会に主体面でなり切れていないと言う他ありません。

(2)については当該記事をご覧いただくとして、(3)について振り返っておきたいと思います。これは、「お客様は神様」をここにも持ち込んで当然のごとく要求を丸投げし、そして要求が満たされぬや否やクレーマーのように喚きたてるものです。これは、基本的にはクレーマーと考えればよいものですが、知識経済化と社会的分業の高度化・専門化による各個人が従事する仕事内容のブラックボックス化という背景ゆえに、往々にして無い物ねだりの駄々っ子になっています。

こうした手合いは、消費者と主権者との違いを理解していません。消費者は、対価の支払いと引き換えに一定水準の成果物やサービスを一方的に要求することができる者です。他方、主権者は、サービス等を受ける側でありつつ同時にそれを供給する側でもあります。主権者は社会の共同運営者なのです。それゆえ、一方的な物言いは特大ブーメランになります。

一方的なクレーマー気質の言説が全社会的課題としての新型コロナウィルス禍において出てくることは、現代日本が真の意味での国民主権の国とは到底言えないことを示していると言えるでしょう。依然として「被支配者根性」、「『される側』の根性」であるわけです。

ではなぜこうなってしまうのか。消費者意識の奇形的肥大化が経済生活だけでなく政治生活にも侵食してきていることについては、当該記事ではカール・ポランニーの経済人類学的な見解を引いて検討しました。すなわち彼は、資本主義社会は、社会活動の一部分して経済活動が組み込まれていた前資本主義社会とは逆に、経済活動が社会活動を呑み込んでしまい経済の論理が政治などにも波及してしまっているといいます。そうした現代資本主義の在り方が大衆意識にまで刷り込まれてしまっていると考えられないでしょうか?

これら様々な理由により、現代日本では、自分ではとてもできないような大層な話を平然と、それも偉そうに要求することを憚りもしない風潮、「無知無能」な手合いが専門家たちを罵倒する倒錯した異常事態になっているのであります。

政治における国民主権は、未来社会としての協同社会・社会主義社会;政治・経済・思想文化において人民大衆が主人としての地位と役割をまっとうする社会の第一歩であります。協同社会とは国民主権・民主主義の全面的な実践に他なりません。その点、現代日本の協同化は依然として厳しいものがあると言わざるを得ないところであります。

○中央集権的計画経済の発想に染まっている世相
藤崎剛人氏の『ニューズウィーク日本版』での論考に戻りましょう。「ワクチン接種前時代」の特徴は、第二に、中央集権的計画経済の発想に染まっている世相です。

藤崎氏は「休校措置に伴うカリキュラムの組みなおしやオンライン化についての方針決定は、すべて現場に丸投げされた」ともいいます。国が、霞が関の官僚が、全国津々浦々の個別的な段取りにまで口出しをすべきだったのでしょうか? まさしくソ連顔負けの中央集権的計画経済の発想です。

もちろん、一人一律10万円給付金や持続化給付金、医療従事者慰労金といった「補助金行政」的な振り込みが大幅に遅れたのは事実です。分権的な自由経済においては機動的な補助金支給が必要なので、この不手際は批判されて然るべきです。しかし上述のとおり、全国津々浦々の個別的な段取りにまで中央官僚の口出しを要求するような言説は、不適当いうべきでしょう。

○陰謀論的発想
「ワクチン接種前時代」の特徴は、第三に、陰謀論的発想にあります。

藤崎氏は「利権団体への忖度」についても言及しています。ならば、その黒幕の暴露と吊るし上げにまで斬り込むのが批判者の勤めではないのでしょうか? 「利権団体」の連中が具体的にどのように暗躍して政策形成を歪めてきたのか証明せずに、漠然と抽象的に「利権団体への忖度」を指摘するのは、思い通りにいかない不都合な事実の展開を「陰謀」のせいにする「Qアノン」の発想といったい何が違うのでしょうか?

○青臭い革命至上主義
そして「ワクチン接種前時代」の特徴については、最後に、青臭い革命至上主義というべき政治観について指摘しておきたいと思います。

「政権担当者を入れ替えるしかないだろう」――そうしたところで、新しい政権担当者はいままでの「しがらみ」から完全にフリーだとでも言うのでしょうか? 世の中の複雑性、利権関係の根深さをまったく理解していないようです。

2年目春における新型コロナウィルス禍を巡って炙り出された世相はこのような具合でありました。

■設計主義・ウォーターフォール主義的な発想がいかに日本社会において根付いてしまっているのかが白日の下に晒された
5月の連休明けから始まった高齢者向けワクチン接種を以って「ワクチン接種中時代」が始まりました。これほどまで対象者が多い大規模な事業は、少なくとも戦後においては過去に例がないと言ってよいでしょう。資源配分の大部分を「市場の見えざる手」に委ねてきた日本。案の定、一種の配給制であるワクチン接種ではスタート当初において混乱が見られました。医療従事者向けワクチン接種が未完了の状況で高齢者向けワクチン接種の予定時期が来てしまったのです。

この混乱においては、「設計主義的発想」及び「ウォーターフォール・モデル」的発想が行政へのクレームとして噴出してしまいました。このことについて私は、早くも4月18日の記事で「ワクチン接種の混乱が斯くも問題になるのは、「事前の緻密な計画」及び「計画の忠実な執行」にこだわる日本の教育制度・受験制度・就活慣習のため」で批判的に取り上げました。

日本の学校教育及び受験制度並びに就職活動、つまり日本の人材登用システムは、なによりも労働者たちが「計画性」を身に付けることを重視しています。こうした学校教育及び受験制度並びに就職活動にもっとも忠実に育った「エリート」たちは、こうした一種の設計主義・ウォーターフォール主義を血肉化し、社会に出てからも「事前の緻密な計画」及び「計画の忠実な執行」にこだわるものです。その結果、「予定外・予測外の事態に対する無能っぷりが露呈される」というまさに設計主義およびウォーターフォール・モデルの宿痾と言うべき事態が発生します。

緻密な計画立案能力と、計画どおりタスクを遂行する能力を重視においては、予定外・予測外の事態への対応能力はそもそも評価対象外であります。しかし、現実の社会的職業生活においては、さまざまな事情によって事前の計画どおりには行かないのが常です。このとき、設計主義的教育およびウォーターフォール・モデル的教育に小学校から大学まで染まり切ってきた「エリート」は、更に計画を緻密化しようと悪戦苦闘した上に大失敗をおかすか、あるいは、いままでの人生において教え込まれてきた考え方とまったく正反対の事態に直面することにより、どう対処してよいかわからなくなってフリーズしてしまうか、はたまた、自分以外の他者のせいだとして喚きたてるものです。そもそも「緻密な計画」を立てようとすることが間違いなのに、計画立案に失敗した自分を責めたり、理想どおりに動かなかった部下等にパワハラまがいに迫ったりするわけです。

今日の新型コロナウィルス禍においては、ウィルス変異の問題を筆頭に日々変化する情勢にいかに機敏に即応的に対処できるかがカギになっています。新型コロナウィルス禍は、「事前の緻密な計画」及び「計画の忠実な執行」で対処できるような問題ではありません。設計主義的教育およびウォーターフォール・モデル的教育の限界が露呈している事態です。

そんな事態においても尚、ワクチン接種が「予定どおり」に行われないことを設計主義的・ウォーターフォール・モデル的な発想に基づいて責め立てるような意見が沸いて出てきているのが日本社会の現状です。設計主義・ウォーターフォール主義的な発想がいかに日本社会において根付いてしまっているのか、その根深さが示されているのです。

「一種の設計主義・ウォーターフォール主義」的思考は「ワクチン接種中時代」の諸騒動の中心にあり続けた意識だったというるでしょう。ワクチン接種に必然的に付きまとう「余剰分の処理方法」についても、この思考方式がひと悶着を引き起こしました。

どうしたって諸々の事情で接種予定者が直前キャンセルすることがあり、余剰ワクチンを無駄にしないために予定外の人物に接種する臨機応変の対応が生じるものです。それに「ズルだ!」などと噛みつく手合いが出てきたのです。こうした主張について5月29日づけ「日本人ほど合理主義的設計主義・計画経済主義が国民性的に合う国は珍しい・・・精神のペレストロイカはいつになることやら」で取り上げたとおり、世論は「現場判断による柔軟な対応に理解を求める」のではなく「事前に基準を明確に示す」を求めたのでした。

事前に緻密な計画を立案してその計画どおりに実施することが「正しいこと」であり、そのようにできる人が「優秀な人」とされる日本。例外的事態への備えが「現場が臨機応変に対応できるように行動の自由を付与する」ことではなく「更に緻密に事前計画を立てること」として捉えられている日本。この対応は、そうした日本的発想の結晶というべき対応と言う他ありません。

日本人が見下す「北朝鮮」でさえ計画経済の不可能性が公式に認められ、社会主義企業責任管理制や圃田担当責任制の導入よって現場の臨機応変の対応が認められるようになったというのに、日本人ほど合理主義的設計主義・計画経済主義が国民性的に合う国は珍しいかもしれません。ワクチン接種を巡って意外な「日本精神」を垣間見ることができました。

■一種の「甘やかし」というべき対応が「優しさ」にすり替えられた
ワクチン接種を巡っては、「インターネットでの予約が不慣れな高齢者への対応」という問題が発生しました。このことについて私は、5月23日づけ「自力更生・自力自強が欠け、苦手から逃げ他人に代行してもらうことが社会的に許容される国・ニッポン」で取り上げました。「不慣れなら現時点では仕方ないが、それならこれを機会に慣れましょうよ」という執筆動機によるものです。

当該記事でも書いたとおり、新技術への無知とその習熟への無意欲;苦手から逃げて自分の現在水準から成長しないことが社会的に許容されていています。自力更生・自力自強が欠けているのです。本件に限らず往々にして「分からないなら教えるから覚えて」というと「無理」と拒絶したり、甚だしくは「不親切」「弱者切り捨て」扱いになるのが現代日本であります。

「自分は文系だから」といって理系科目を学ぼうともしない高校生は少なくありませんが、「自分は文系だから」の言い訳が大学入試科目的に許されてしまうあたりから、苦手から逃げること=無知と無意欲の自己正当化が始まるように考えます。また、「甘やかし」と「優しさ」が混同されがちな現代日本ですが、この結果、単に自分から苦手から逃げ出すことが正当化されるだけでなく、他人が苦手から逃げているのを許すことまでもが積極的に是認されるされるようになるのではないかと考えます。そしてそれゆえに自力更生・自力自強を求めることが「不親切」や「弱者切り捨て」扱いになるのではないでしょうか?

たしかに苦手克服のための努力は厳しく辛いものではあります。しかしそれから逃げることが果たして「優しさ」なのでしょうか? 甚だ疑問ですが、近視眼的な「優しさ」=目先の安穏を提供することこそが「優しさの証し」などと考える感性の持ち主にとっては、一種の「甘やかし」というべき対応が「優しさ」になるのでしょう。この世相からは、こうしたことを考えずにはいられませんでした。

■「目的意識性の欠如」、「置かれた環境に対する科学的分析の不十分性」及び「認識の発展・理解の深化という観念の欠如」
「目的意識性の欠如」、「置かれた環境に対する科学的分析の不十分性」及び「認識の発展・理解の深化という観念の欠如」は以前から「日本文化の特徴」と言ってもよいくらいのものです。長引く新型コロナウィルス禍による不平不満は、筋の通らない主張として噴出しました。5月30日づけ「新型コロナ禍と世相;「目的意識性の欠如」及び「認識の発展・理解の深化という観念の欠如」」でその一例を取り上げました。

日本テレビ系「スッキリ」のMCである加藤浩次氏は当該番組内で、中川俊男・日本医師会会長が自民党の政治資金パーティーに出席していた問題について「我々も感染対策をしていたらいいのか?って話になる」と述べました。そのとおりです。そもそも感染拡大防止のために行っているのが今の「我慢大会」。感染症対策をしていれば問題ありません。もちろん、「オレは、うがいはしないけど、酒のアルコールで喉を消毒してるぜ」的な「自称感染症対策」ではなく、科学的・医学的根拠のある感染症対策である必要があります。

実に日本人的な「目的意識性の欠如」というべき発想と言わざるを得ません。「何のためにやっているのか」という原点に照らして考えず、具体的な行為それ自体が目的化しているというわけです。

当該記事では、東京オリンピック・パラリンピック大会の選手村で、アルコール類の持ち込みが可能になるという一部報道に対し、「このニュース見て酒を出すことを決めた」と決意した飲食店経営者がいたという報道も取り上げました。

置かれた環境に対する科学的分析が不十分であると言わざるを得ない反応です。一般の飲食店での酒類提供自粛要請には、「誰が感染しているのか分からない」状況下において人々が入れ交ぜになるとクラスターが発生しかねないという点に要請理由があります。これに対してオリンピック選手村では毎日検査が行われており、また、選手の村外への外出は基本的に禁止されています。選手村は「コロナ清浄区域」であり、いうならば、厳格な出入国管理によって「患者ゼロ」を維持しているという点において「プチ北朝鮮」というべき特殊な区域なのです。そうであれば、おそらく飲酒可能としたところでクラスターが発生する可能性は低いと考えられます。一般飲食店とオリンピック選手村の環境は、何から何まで根本的に異なるのです。

それゆえ、一般飲食店とオリンピック選手村の「違い」は容易に理解可能であります。根本的に状況が違うのだから、取り扱いだって違うに決まっています。にもかかわらず、「酒類提供の可否」という表面的事象にこだわって不公平だなんだと騒ぎ立てる言説が噴出したものでした。

このように、目的意識性の欠如及び置かれた環境に対する科学的分析が不十分であると言う他ない反応が氾濫したものでした。

更に当該記事では、医師会会員で日本感染症学指導医でもある水野泰孝氏の「これをいってしまえば、いろんな行事やイベントを中止してきた方はどうしたらいいのかってことになる。(中略)これなら卒業式、入学式もできた」という発言も取り上げて批判しました。実に日本人的な発想です。

認識の発展・理解の深化という観念がないと言わざるを得ない言説です。そもそも間違った認識によって不必要に過剰な対策をしていたのだから、今後は科学的・医学的に正しい方法で行事・イベントを開催するように改めればよいだけでしょう。今振り返れば(←ここ重要)、卒業式や入学式は、科学的見地から言えばやってよかったのです。だから、「当時は分からな方から仕方ないが、もう分かっているこれからは改めよう」でよいのです。

水野氏の主張からは、認識の発展・理解の深化という観念が日本的発想に欠けているか、あるいは、振り返れば今までの努力が無意味だったこと徒労だったことを認めたくがないために、新しい認識や理解の受容を拒否して古い考えに固執しているかのいずれかの動機が透けて見えるものです。

■「経済的に豊かな国」であるからこその経済学の浸透の遅れをハッキリと示した
「信用ならない新技術」だの「副作用が怖い」などと不安要素が盛んに報じられていたワクチン接種。それゆえ、ワクチン忌避風潮が強まり集団免疫獲得が遅れてしまうのではないかと危惧したものでしたが、7月ごろになってくるとメディア報道が印象付ける雰囲気とは異なり、日本国民は粛々とワクチンを接種していることが見えてきました。ついに「ワクチンが足りない!」という事態にさえなりました。

この事態について私は、7月7日づけ「ワクチン職域接種における「不足の経済」の法則発動は「飽食ボケ日本」の必然的末路」で取り上げました。途方もない生産力にモノを言わせ、無駄や廃棄をものともせず圧倒的な「物量作戦」を取ることで、市場機構・資源配分メカニズムの綻び・不十分性・非効率性を押し切り消費者・国民に物不足を感じさせずに来た日本ですが、久々の「物不足」を理解し対応するのに難渋したようです。

当該記事で述べたように、当時の職域接種のワクチン供給体制は、職域接種を実施する現場からすれば、「くれ」と言えば言っただけ供給される世界であり、「ソフトな予算制約」の世界であります。また、政府から「早く接種しろ」と急かされてもいます。打てば補助金も出ます。予算の制約なしにほぼ無条件的に原材料(ワクチン)が国から供給され、急いで打てば褒賞的な補助金が出、ワクチンを無駄にしたところで自分の懐は痛まないのが、現在のワクチン職域接種です。この状況は、20世紀にソ連や東欧などで見られた「不足の経済」と瓜二つと言うべき状況です。

ワクチン不足を解消するためには「不足の経済」の法則が発動してしまうことを防止する必要があり、そのためには、必要以上の在庫を抱えることにコストまたはペナルティが発生する制度設計が必要です。経済学、とくに制度比較に多少なりとも造詣のある人ならば、いまのワクチン職域接種体制とかつての「不足の経済」の類似性に気が付くはずです。制度設計が抱える問題点は目に見えていました。それに対して日本の当局者たちは、制度設計に取り組むことなく何とかしてワクチン供給量自体を増やすことで物量作戦的に乗り切ることばかりを考えました

もちろん、究極的には供給を増やす以外に道はありません。しかし、供給を増やすためには一定の時間が必要であり、為政者たるものその間の対策を考える必要があります。ケインズが正しく述べたように「長期的には我々は皆死んでいる」のです

結局、現時点ではワクチン接種は希望者に対してほぼ完了しているといってよく、その意味ではワクチン不足の問題は解消していると言えます。結局、輸入を前倒しして増やすという物量作戦で乗り切ったわけです。問題に真摯に向き合うことなく「結果オーライ」で済ませてしまいました

本件に限らず、今回の新型コロナウィルス禍を巡っては、「経済的に豊かな国」であるからこその経済学の浸透の遅れをハッキリと示したものと言えるでしょう。「平和ボケ」ならぬ「飽食ボケ」というべきでしょう。次のパンデミックがいつになるのかは分かりませんが、今回、ワクチン不足すなわち物不足を制度設計ではなく更なる物量作戦で乗り切ってしまった日本。次も同じように苦労することでしょう。

■ひとり一人が静かに自発的に防疫事業に参加するようになり始めた一年だった
ワクチン接種を巡っては、荒唐無稽な陰謀論や「打つか打たないかは個人の自由」論などが噴出したものでした。今年の新型コロナウィルス禍世論は、ワクチンを軸に展開されてきたものと言っても過言ではないと思われます。本当に様々な主張が出てきたものでした。

しかし今こうして年の瀬に際して振り返ると、我が国のワクチン接種率の高さを見るに、これらの議論は「ノイジー・マイノリティー」によるものであり、大多数の国民は自分自身と周囲の人たちの健康と安全を守るために粛々と順番にワクチンを接種してきたと言ってよいと思われます。

7月11日づけ「全体主義・個人主義に対する集団主義の原則を提起する「7.15談話」発表35周年と、ワクチン接種にかかる「自由」論の問題について」で私は、次のように述べました。
ワクチン接種を不安に感じるのは理解可能だし、体質的に打てない人・打たない方がよい人は当然に除外すべきであります。しかしそれ以外は、原則として接種して防疫事業に参加すべきです。そうすることは、自分自身のためであり、他人様を守ることであり、そして回り回って自分自身を守ることになるからです。社会はシステムだからです。

そうした客観的事実を飛び越して「個人の打つ・打たないの選択に批判が出るのはおかしい」と言ってのけるその精神、及び、それとは真逆の「打ちたくない人はいないはず」という風潮。普段からしっかりと組織生活を送ってないから、ブルジョア「個人」主義的な「自由」論だったり、全体主義的な大義名分の押し付けが見られるのでしょうね。
振り返ればまったくの杞憂でした。

また、ワクチン接種の順番待ちにおいて、ごくごく一部ではあったものの「抜け駆け」というべき現象があったり、デルタ株が猛威を振るっていたころ、病床のひっ迫により自宅療養を余儀なくされていた人が多くいりした中でも、政府・行政への批判にはなっても「アイツだけ羨ましい!」の非国民狩り・文化大革命騒ぎに発展することもついにありませんでした

私が特に幸いに思ったのは、9月26日づけ「日本人の良識・良心をこのまま守り抜けるかの正念場」で取り上げた一件です。デルタ株の猛威により病床がひっ迫していた当時、新型コロナウィルスに罹患して入院した芸能人に対して「芸能人だからすぐに入院できた」だの「上級国民だからすぐに入院できた」だのという根拠のない発言が飛び出てきたものの、ごく一部の手合いの言説に留まりました。中日スポーツが「コロナ入院で「綾瀬はるか」がトレンド入り 『芸能人だから』一部での”叩かれ方”に「本当に世も末」の意見も」(2021年8月31日 20時46分)という見出しの記事をアップし、世論もおおむね同じ意見でした。スポーツ紙と言うものは社論の一貫よりも瞬間的な売り上げを優先するものであり、それゆえに風見鶏的なものです。そんな中日スポーツが「世も末」という声を見出しにする記事を書いたわけです。

今年、一部マスコミはワクチン接種や入院決定を巡って「ズル」だの「上級国民」だのといったキーワードを使って精力的に記事を書き立ててきましたが、結局、一度として世論に火が付くことはなく、まったくといってよいほど響きませんでした。このことを私は非常に幸いに思うものです。自粛警察・道徳自警団が非国民狩り・文化大革命騒ぎを起こしていた昨年は、一般の国民同士がいがみあって対立する事案が多発していました。しかし、今年は若干ながらその風潮が緩和されたと言ってよいのではないでしょうか?

思い起こせば今年は耳にタコができるほど「気のゆるみ」というお説教を聞かされてきましたが、そうはいってもほとんどの人々は律儀にマスクをつけ、商業施設等の出入り口で消毒に協力し、感染状況が悪化すれば旅行等を控えたものでした。反マスク・反ワクチン勢はすっかり一種の異常者扱い、近寄ってはいけない人扱いされています(一概にそう言い切ってよいとは思いませんが、事実として世の中ではそういう扱いになっています)。同調圧力という論点については慎重に考える必要があるとは思いますが、ひとり一人が静かに自発的に防疫事業に参加するようになり始めた一年だったという見方もできそうです。

■メディアの扇動が無効化した
メディアの扇動、これも今般の新型コロナウィルス禍を特徴づけるものです。断片的な事実を継ぎ接ぎしてとにかく危機を煽ってきたのがメディアの報道姿勢であると言わざるを得ません。しかし、いくらメディアが脚色的に報じたところで、その根底にある事実は変えようがないので、徐々に報道内容と現実との乖離が見られるようになるものです。生活者としての人民大衆は、必ずしもメディア報道ばかりを情報源としているわけではなく、自分自身の肌感覚からも情勢を認識しているものです。その点、7月以降、携帯電話の位置情報に基づく繁華街等への人出の情報をみるに、人々は明らかに「自粛疲れ」の反応を見せていました

また、当ブログの読者のように、メディア報道に一喜一憂するのではなく自ら情報を取りに行くスタイルの方々であればお気づきでしょうが、7月8日の菅首相の記者会見での掲示資料「東京都の感染者数に占める高齢者の割合と高齢者接種率」で示されているとおり、高齢者へのワクチン接種が完了し始めた7月以降、新規陽性者数に占める高齢者の割合が低下していました。デルタ株の感染拡大がほぼ終息した9月28日に開催された、第77回新型コロナウイルス感染症対策本部の配布資料22ページのグラフを見るに、その後再び高齢者の感染が増えてしまいましたが、それでも全体の10パーセント程度で済みました。加齢に伴う免疫力の低下や基礎疾患のことを考えれば、その程度で済んだことは注目すべきことです。やはりワクチンは効いたのです。「ワクチン救世主論」が更に盛り上がり、異論をいよいよ駆逐し去ったのもこのあたりからではなかったでしょうか? 今や、事実として反ワクチン論者は「変人」扱いです。

このように、デルタ株の感染拡大が始まりつつあった7月。日に日に増える新規陽性者数に危機感を覚えた方も多かったでしょうが、その内実をよく見ると、ワクチンによる希望の光が見え始めていたわけです。それゆえ、メディアが幾ら恐怖や危機感を煽っても、だんだん効かなくなりつつありました。そうした情勢判断から執筆したのが7月24日づけ「コロナバブル(メディアにとって)の終焉は近い」でした。世論動向の変化に気が付かなかったのか時事通信は、ちょっと考えて調べればすぐに分かる程度の扇動記事を書き立てたものです。昨春であればこのような記事も大いに話題になったのでしょうが、「自粛疲れ」や「ワクチン救世主論」の雰囲気にあっては、結局この手の記事はまったく扇動効果を持たず、むしろメディア不信の一例にしかなりませんでした

新型コロナウィルス禍が始まって1年半、「コロナ関連の記事をとにかく書いておけばバズる」というメディアにとってのバブルは徐々に引き潮でした。この年の瀬においてオミクロン株の世界的拡大が見られつつあるところですが、世論は新規陽性者数では動じなくなっています。国民は粛々と3回目のワクチン接種の順番を待っています。新型コロナウィルス禍自体の収束にはもう少し時間を要するでしょうが、メディアにとってのバブルは引き続き引き潮であると言えるでしょう。

■たしかにグダグダだったが、ではなぜグダグダだったのか?
8月以降急激に拡大したデルタ株。これを受けて政府はまたしても緊急事態宣言を発出しましたが、上掲のとおり、既に「自粛疲れ」や「ワクチン救世主論」が蔓延っていた世論にはなかなか響きませんでした。いまだかつて見られなかった程の感染爆発になってしまいました。それをうけて政府は、原則自宅療養に方針を転換する方向性を発表しましたが、当然ながらこれが大炎上しました。

8月6日づけ「あまりにも「先手」を取り過ぎたことが今後に及ぼす影響は測り知れない」で述べたとおり、まだ医師会を締め上げるなどして遊休状態にある医療資源を掘り起こして総動員すれぱまだ稼働を高められそうな時点において、総動員に取り組まず「医療崩壊を防ぐための原則自宅療養」すなわち「入院トリアージの導入」に切り替えるという政治判断は、私には時期尚早に思われました。

トリアージに対する反感・拒否感が根強い日本。もちろん、「選別」しなくて済むに越したことはありません。「すべての命を救う」という医療の大原則には合致しないのがトリアージです。しかし、必要なときには頭を切り替えなければならないものでもあります。8月は、通常医療から災害医療への切り替えの瀬戸際、医療の原則の天地がひっくり返る瀬戸際にあり、いままでの「緊急事態」とは訳が違いました。

当該記事では、もしこの方針が凍結・先送りではなく白紙撤回されるようなことがあれば、政治があまりにも「先手」を取り過ぎたことが今後に及ぼす影響は測り知れないと述べました。今後は間違いなく「入院トリアージ導入」という政治判断を下すことに尻込みするようになるからです。いまの日本では「批判を受けること」を皆が一番恐れており「守りの姿勢」に入りがちです。これで失敗すれば「決断への恐怖心」がますます増すでしょう。

また、当時ぶち上げられた「入院トリアージの導入」はまだまだ具体的に詰め切れたものではなく、総路線が示されたにとどまり、観測気球というべき程度のものでした。しかし、世論はまだ総路線でしかないのに「中等症の線引きとは?」と言った具合に具体的な細部にかかる批判を繰り出してきました

総路線に対して具体的な細部に掛かる批判を浴びせかけるのは筋違いというべきものです。しかし、「批判を受けること」を皆が一番恐れている昨今の為政者心理においては、この一幕は、「事前に・最初から細部まで作り込もうとし、結果として複雑巧遅で硬直的になる」という悪い癖を更に強めることになると危惧したものでした。

なお、今般のオミクロン株拡大において岸田首相は、必ずしも一貫した方針を打ち出しているとは言えないところです。「人の話を聞く」を看板に掲げ、肝いりの政策であっても「柔軟」に対応している岸田氏ですが、見方を変えれば、「いちいち批判に動じている」とも言えるものです。岸田首相の脳裏には、フルボッコにされていた菅首相の姿が鮮明に焼き付いているものと思われます。

このように、この夏のコロナ対策は本当にグダグタで、それゆえ、それに焦点を合わせた政治批判が洪水のごとく噴出しました。しかしながら、「ではなぜグダグタなのか」と言う点を掘り下げた分析はほとんど見られず、とにかく不満をまくし立てるだけの夏でもありました。たとえばこんな記事がありました。
https://times.abema.tv/articles/-/8661515
「決断できず、責任も取れない…偉い人は何のためにいるのか」たかまつなな、尾身会長発言を巡る政府の対応に苦言
ABEMA的ニュースショー
2021/06/07 18:03

(中略)
 一連の出来事について憤りを露にするのは、お笑いジャーナリストのたかまつなな。たかまつはさらに「偉い人は何のためにいるのか…決断するため、責任を取るためにいる。そのために私たちが選んでいるんですよと。勘違いしないで欲しい。決断もできない、責任も取れないって、何してるんだと思ってしまう」とも続ける。

 フェリス女学院出身で元NHK職員、お笑いを通して社会問題に切り込む芸人という異色の経歴から有識者会議などに参加したこともあるというたかまつは、自身が見聞きした有識者会議の様子について「コロナの研究者が可哀そう。本当に酷い御用学者とかがいる。政府の考えを代弁したり、汲み取ったりする」と明かすと「それは学問ではないということを改めて日本社会全体で見直さないといけない」と持論を展開した。

(以下略)
たかまつなな氏の主張は、この夏の非常に典型的な主張でした。なぜ「決断できず」、「責任も取れない」のでしょうか? そこに斬り込んでいません。私は2点あると考えています。一つは「利害関係が複雑すぎて政府・行政が雁字搦めになっているから」、そしてもう一つが「新型コロナウィルス対策での失敗の『責任』など取りようがないから」であります。

まず、「利害関係が複雑すぎて政府・行政が雁字搦めになっている」について述べましょう。

たとえば、新型コロナウィルス禍に伴いテレワークの拡大していますが、その阻害要因として日本の「ハンコ文化」があると指摘されています。社印を押印するためだけに出社する必要があるということです。河野規制改革担当大臣(当時)は、このことをうけて政府を挙げて「ハンコレス」を推進すると表明しました。しかし、すぐさまハンコ業界が反対の論陣を張り、徐々に尻すぼみになってゆきました。

新型コロナウィルス禍とは直接関係のないことでさえこの有様なのです。政府の政策によって得する人もいれば損する人もいます。現代社会は社会的分業が高度化しており、それにより利害関係も複雑に絡み合っています。その調整を考えれば、素人が考えているほど大胆な政策は取りにくいものと理解できるでしょう。

このことは、小泉劇場(小泉純一郎政権の構造改革)や橋下劇場(日本維新の会ブーム)が大流行したことをも説明します。社会の実相を知らない人たちがバカ騒ぎ的に小泉氏や橋下氏を熱烈に支持したわけです。もちろん、世の中そんなに単純ではないので、敵を仕立て上げて打倒するなどという方式は通用しません。。

次に「新型コロナウィルス対策での失敗の『責任』など取りようがないから」について述べましょう。

新型コロナウィルス対策の失敗は人命に直結する事態であります。人命は不可逆的なので、他の政策のように「大胆に行け。責任は俺が取る」という訳には行きません。内閣が引責総辞職したり首相が政界を引退したり、はたまた首相個人が切腹したところで失われた生命は戻ってきません。それだけ重大なものを背負ってしまえば、どうしたって政策は慎重かつ機動性に欠けたものにならざるを得ないと思われます

たしかに政府の情報発信が極めて脆弱で、何を考えているのかよくわからなかったという事情はありました。しかし、ならば断片的な事実から推理推測するべきではないのか――そうした営みをほとんどせず、ただ一方的に不満をまくし立てるだけだったのが今夏の世論動向でした

■情緒優先的な国民性が際立った
9月下旬以降、デルタ株の感染が急激に減少し、この年の瀬のオミクロン株の侵入まで日本国内の新規陽性者数は非常に低い水準で推移してきました。10月末までに希望者に対するワクチン接種はほぼ完了し、「ワクチン接種後」の時代になったと言えます。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」を地で行くように新型コロナウィルスに対する社会的関心は以前ほど高まらなくなったのが「ワクチン接種後」時代の特徴でしょう。オミクロン株の確認及び日本国内への侵入が確認されても、以前ほどの恐慌状態にはなっていません。

あれだけ叩かれた政府のコロナ対策について、第5波が急速に収束していった10月中旬の世論調査では「評価する」の割合が約7割を占めるようになりました(「岸田内閣 支持は61% 衆院選出口調査」 021年10月31日 20時00分)。その影響からか10月31日投開票の衆議院議員選挙で自民党が圧勝。12月のNHK世論調査では、これまた散々叩かれた東京オリンピック・パラリンピックの開催を「よかった」とする意見が過半数になりました(「NHK世論調査 東京五輪 ことし7月の開催「よかった」は約5割」 2021年12月11日 6時31分)。

以下は、秋以降の世論動向を振り返るに最適な記事であると思われます。少し落ち着いた状況だからこそ出てくる記事です。

https://news.yahoo.co.jp/articles/cb275c40291890e451d0a5ea82646b928cbc01bd
なぜ日本人はデータを使ってコロナを正しく把握できないのか 政府もメディアも“お祭り”に加担
2021/12/12(日) 10:56配信
デイリー新潮

 コロナの新たな変異株「オミクロン」の出現は不気味だが、このウイルスの「特性」を知れば、少しは“見方”が変わるかもしれない。日本総研主席研究員の藻谷浩介氏が斬るのは、その「特性」を真正面から見ようとしない「コロナ専門家」たちのおかしさである。

(中略)
なぜ感染者の波が世界的に同じなのか
 感染者急減について、行動制限が効果を発揮したと言う人がいます。ですが、プロ野球が盛り上がった10月と、第5波が急拡大した7月と、そんなに皆の行動が違いましたか? 昨年もGoToトラベル最中のお盆明けから2カ月間、新規陽性者は減り続けました。そもそも、世界中が日本と同時に自粛を開始したわけではないのに、なぜ日本と世界の感染の山が同じなのか。ワクチンにしてもそうです。例えばベルギーは8月中にはワクチン2回接種率が70%を超えるなど積極的なワクチン接種を行っていましたが、その後、10月に入って急激に新規陽性者が増加しています。他にも、日本のピークは長期休暇と被っていて、「休暇で移動が活発になったから感染者数が増加した」とか「季節の変化で感染者が増加した」などと言う人もいますが、それと世界のピークがほぼ一致していることにはどう説明をつけるのでしょうか。もちろん世界の感染者データには季節が真逆の南半球や、四季のない地域のデータも含まれています。加えて言えば、長期休暇の取り方も日本と世界では違います。そもそもウイルスの消長は自然現象。人間が自在にコントロールできると考えるのは、傲慢というものでしょう。できるのは、うまくサイクルに対応する努力だけです。

死亡率は激減
〈急拡大と収束を繰り返すウイルスのサイクルはコントロールできない。しかし、マスクや手洗いなど、人間の“努力”によって感染者数をなるべく低く抑え、ワクチン接種によって死亡者数や重症化率を下げることは可能である。日本と世界のデータを比較すると、日本の“優秀さ”が際立つ、と藻谷氏は説く。〉

 第5波の拡大中に五輪が開催されていた8月2日から8日の期間、日本における人口100万人当たりの新規陽性判明者数は106人。では、同じ時期に他の国はどうだったのか。EUは148人。ワクチン接種が日本より進んでいたアメリカは328人、イギリスは400人。やはりワクチン接種先進国だったイスラエルは405人です。日本はまだ60代以上の高齢者にしかワクチンが行き渡っていなかったにもかかわらず、実は非常に優秀な状況だったといえるわけです。

 こうした状況を「さざ波」と言った人がいましたが、もちろん「さざ波」ではない。入院できない患者が続出しましたし、医療関係者も大変な思いをしたわけですから。ただしこれは、1年半経っても対応病床と人員を有効に増やせていないためで、そこは政府の無策が問われるところです。

 感染者数を見ると、第5波は第4波に比べて2.7倍と試算される一方で、死亡者数は6割になっている。つまり感染者の死亡率は、5分の1程度に下がったわけです。死亡率の高い高齢者を優先してワクチンを打ったことの、明確な効果です。「ワクチンが効いていない」などと言う人は、感染者数しか見ていないのでしょうか。

第5波と五輪は無関係
〈第5波は東京オリンピックの時期と重なった。そのことから、あたかも両者を関連付けるような見方も一部にあったが、藻谷氏はこれを明確に否定する。〉

 第5波が、東京オリンピックに関係して発生したということは全くありません。国立感染症研究所の遺伝子解析で、日本で第5波を起こしたデルタ株は、今年5月18日に陽性が確認された首都圏在住・海外渡航歴なしの一人から広まったものだと確認されています。つまり、そのはるか後の7月下旬に始まった東京オリンピックに関連して入国した誰かが、ウイルスを持ち込んだのではありません。これはNHKのニュースにもなり、政府の部会でも報告されているはずの事実ですが、知られていないのはなぜでしょうか。

 また、東京オリンピックが人流を増やして第5波を拡大させた、というのも全くお門違いです。第5波が始まったのは6月下旬です。実際の感染と判明の間には2週間程度のずれがあるので、感染拡大の開始は6月初旬でしょう。これはオリンピックが始まるずっと前です。更に言えば、オリンピックに伴う人流なんて、毎日の通勤者数に比べればほんのわずかです。

重症化率を報じないニュース番組は異常
〈なぜ事実に基づかない物の見方が広まってしまうのか。〉

 皆さん、事実にあまり興味がないのでしょう。データで示される事実よりも、皆がどう騒いでいるか、騒ぎ立てることでコミュニティ内がどう盛り上がるかばかりに興味があるように見えます。

 例えば、「重症者数」が報道でよく取り上げられるようになったのは第5波からです。すでにお話ししたように、第5波では死亡者数が第4波に比べて6割になりました。一方、第5波では感染者数が約2.7倍になった分、重症者数も約1.5倍になりました。ワイドショーなどが「減少した死亡者数」ではなく、「増加した重症者数」を取り上げるのは、視聴者を惹きつけるためなのでしょう。そして、情報を受け取る側もそうした“盛り上がり”ばかりに目が行くようになってしまうのです。

 しかし、「重症化率」で比較してみると、第5波のほうが第4波より明らかに低い。これもワクチンの効果です。自治体と医療関係者の方々が懸命にワクチンを打った結果、死亡者数や重症化率が明確に減少しているにもかかわらず、数が増えた「重症者数」ばかり報道していた日本のニュース番組は異常でしたね。

(以下略)
行動制限はあまり関係ない」というのはどうかと思います(「山」の高さを諸外国と比べて低く抑えることには繋がるでしょう)が、「死亡率が激減しているのに新規感染者数だけ見て大騒ぎしている」(もちろん「濃厚接触者」の処遇問題はありますが・・・)や「デルタ株の遺伝子検査結果及び第5波の開始時期から考えてオリンピックと第5波は無関係」は、いずれも冷静にデータ分析をして論理的に考えれば、「医療専門家」でなくとも見えてくる結論ばかりです(統計を理解していれば、必ずしも「医療専門家」だけに公衆衛にかかる発言権があるわけではないことが分かったのも新型コロナウィルス禍によるものかも知れませんね)。

藻谷氏は「皆さん、事実にあまり興味がないのでしょう。データで示される事実よりも、皆がどう騒いでいるか、騒ぎ立てることでコミュニティ内がどう盛り上がるかばかりに興味があるように見えます」とまで言い切ります。情緒優先的な国民性を指摘しているものと私は理解しましたが、この2年あまりの世論動向をつぶさに見てきた身からしても納得いく分析です

■総括
総括として、今年新型コロナウィルス禍世論の特徴的事象を整理しておきたいと思います。

昨年と比較すると、自粛警察・道徳自警団の非国民狩り・文化大革命騒ぎは沈静化したと言えるでしょう。

ワクチン接種の順番待ちにおける「抜け駆け」や病床ひっ迫期の入院決定において「上級国民」談義が出てくることもありましたが、それが一般国民同士のいがみ合い、非国民狩り・文化大革命騒ぎに繋がることは、ついにありませんでした。一部メディアが執拗に扇動していたにも関わらず。

ワクチン接種を巡っては、「個人の自由」論や甚だしくは荒唐無稽な陰謀論が出てくるに至りましたが、現在のワクチン接種率を見るに、大勢に影響はなかったといえるでしょう。メディアの扇動が無効化し、ひとり一人が静かに自発的に防疫事業に参加するようになり始めた一年だったという見方もできるでしょう。

一般国民同士のいがみ合いなどはなかり少なくなってきたものの、あまりにも長すぎる新型コロナウィルス禍ゆえ以前からの「救世主待望論」が更に増幅し、政治や行政に対するクレーマー的な騒ぎが更に深刻化したと言えます。その特徴と原因は次のとおりでした。

第一に、日本社会のクレーマー気質化は、「お客さま」意識の奇形的肥大化によるものでした。

第二に、日本社会のクレーマー気質化は、「一種の設計主義・ウォーターフォール主義」的思考によるものでもありました。

第三に、日本社会のクレーマー気質化は、一種の「甘やかし」というべき対応が「優しさ」にすり替えられためでもありました。

そして第四に、日本社会のクレーマー気質化は、情緒優先的で目的意識性が欠如しており、置かれた環境に対する科学的分析が不十分で、かつ認識の発展・理解の深化という観念が欠如している、つまり主体が確立されていないためでもありました。政府の対策はたしかにグダグダでしたが、ではなぜグダグダだったのかについてしっかり分析したうえで批判されていたとは到底思えないシロモノが氾濫していました。

以前から述べてきたとおり、私はこの国の未来社会論として協同主義的社会主義化を目指しています。5月15日づけ「コロナ禍においてこそ真の意味での「民間の知恵の活用」、知恵を出し合う公民協働・協同が求められている」でも書いたとおり、いまこそ公民協働・協同で知恵を出し合って総力戦で新型コロナウィルス禍を乗り越えるべきであります。「お客さま」意識の奇形的肥大化が進む日本、この点における意識改革が喫緊の課題となっています。そしてこの意識改革は単に新型コロナウィルス禍を乗り越えるだけではなく、将来的な社会全体の協同化の前提にもなるものです。新しい協同社会の時代を開拓するにあたっては必ず実現する必要があるものです。

しかし結局そのような動きは未だに見られません。ワクチンという希望の光が新たに登場した一年であり、ひとり一人が静かに自発的に防疫事業に参加するようになり始めた一年だったとい見方も可能ですが、他方で、長引く新型コロナウィルス禍により日本社会のクレーマー気質化、「お客さま」意識の奇形的肥大化による一方的な主張が氾濫するようにもなった一年でした。この国が新型コロナウィルス禍を乗り越え、更に協同化してゆくにあたって取り組むべき主体的準備の道は長く険しいことを暗示していると言わざるを得ないでしょう。
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チュチェ110(2021)年を振り返る(1):新時代の首領となられたキム・ジョンウン同志

今年も例年どおり、過去ログの読み返しを通して一年間の出来事を振り返りたいと思います。第1弾として、朝鮮民主主義人民共和国の動向及びチュチェ思想について、今年1年間当ブログで執筆した内容と関連事項を振り返りたいと思います。

■「首領+集団」の指導体制になりつつある朝鮮労働党第8回党大会
今年最初の大ニュースと言えば、当ブログ的には朝鮮労働党第8回党大会以外にありません。大会でキム・ジョンウン同志が党総書記(総秘書)に就任されました。また、のちに判明したことですが、総書記を補佐する職位として第一書記職も設置されました。さらに、党中央委員会は、非常設中央検閲委員会を設置し、下部に派遣して実態を把握し、現場で働く労働者、農民、知識人党員の意見を真摯に聞く事業を展開しました。

総書記職の設置、総書記を補佐する第一書記職の設置、そして非常設中央検閲委員会による党中央自らの現状把握――この意味について私は、1月30日づけ「朝鮮労働党第8回党大会について」において、「一心団結の結束をして危機を乗り越える」ということだと分析しました。党大会の開会の辞でキム・ジョンウン同志が「人民大衆第一主義政治」について力説されていたとおり、首領と人民大衆との繋がりを強化していわゆる「三重苦」の危機を乗り越えようとする意図があると考えられます

昨年の総括記事でも述べましたが、今年も共和国は、経済封鎖(経済制裁)・コロナ禍・台風被害の「三重苦」に対して国内の結束、特に人心を結束しつつ復旧復興作業に注力してきました。首領・党・人民大衆が三位一体を成し、同志愛と革命的義理、集団主義原理に基づく政治を行うという基本に立ち返り、特に首領と人民大衆との繋がりを強化して危機を乗り越えようとする姿勢が鮮明に見られたのです。今回の党大会の開会の辞でも、その姿勢は継続して鮮明でした。

また、当該記事で韓「国」紙『ハンギョレ』の記事を引いて述べたとおり、最高指導者を含めて統治が徐々に制度化・システム化しつつあると言えると思われます。第一書記職の設置により総書記の負担が軽減されたわけですが、このことはすなわち、総書記への権力集中が若干ながら緩和されたことを意味します。そして、キム・ジェリョン同志が党組織指導部長に専念したように、党幹部が兼任を減らして担当に集中・専念することは、これも権力集中の緩和になるものです。

共和国が「首領制」を掲げる限りは、完全なる集団指導体制になるとは考えにくいところですが、「首領+集団」の指導体制になりつつあるとは言えるのではないでしょうか?

■首領と人民大衆との繋がりを強化して危機を克服する一年:戦時統制的な経済政策を採用なさらなかった
さてつい先日、『労働新聞』が今年について「試練において建国以来最悪」と評したとおり、依然として続く新型コロナウィルス禍は共和国においても多大な悪影響をもたらしています。他方、同紙は「人民のための献身においては10年の絶頂だった」とも評しているところです。今年はまさに、首領と人民大衆との繋がりを強化して危機を克服する一年だったと言えるでしょう。

その観点から党大会以降の今年の共和国を総括すると、まず、3月6日づけ「危機克服のためにこそ社会主義企業責任管理制と社会主義競争熱風を推進する元帥様」で述べたとおり、キム・ジョンウン同志が「危機管理」と称して先代のような厳格な経済統制に乗り出さなかったことを振り返る必要があるでしょう。

12月17日づけ「キム・ジョンイル総書記逝去10年、その遺産とは」など以前から述べてきたことですが、先代のキム・ジョンイル同志も決して経済改革に無関心だったわけではありません(その根拠となる歴史的事実は当該記事に書きました)が、しかし、アメリカの「悪の枢軸」批判及びイラク侵攻をうけてキム・ジョンイル同志は徐々に進めつつあった経済改革を凍結し、戦時統制的な経済政策を採用なさったことも事実です。

これに対してキム・ジョンウン同志は、先代の頃から依然として厳しい状況にある対米関係に加え、先代の頃にはなかったコロナ禍という新たな課題にも直面しています。それでも戦時統制的な経済政策を採用なさらなかったという事実は、いくら強調してもし過ぎることはないでしょう。

■共産主義の発展的な復活
6月6日づけ「「競争を通じた共産主義の実現」を目指す朝鮮労働党の新展開」もまた、今年注目・記憶すべきこととして取り上げたいと思います。

チュチェ90年代(チュチェ90年=西暦2001年)から共和国では段階的に「共産主義」の看板が降ろされつつありました。憲法や党規約といった重要文書から「共産主義」の文言が削除され、革命歌謡の歌詞――たとえば≪천리마 달린다≫(千里馬走る)など――が変更され、キム・イルソン広場からマルクスとレーニンの肖像画が撤去されるといった具合でした。共産主義という単語が出てこない以上、それについて言及されることがほぼなくなっていました。

しかし、当該記事で述べたとおり、今年5月の1カ月間だけでも、4日、10日、11日、14日、17日、27日そして30日の各日において「共産主義」という単語が登場しています。それも、「競争」との関連で言及されているケースが複数見られます。これらの記事の趣旨は、「集団主義的競争・社会主義的競争を通して共産主義社会の実現を目指す」という宣言であり、また、朝鮮労働党は「社会主義における競争」の定式化にとどまらず「共産主義における競争」の定式化にも乗り出したということを意味しているものと思われます。

ところで、「20世紀の共産主義」において「競争」がまったく目指されていなかったわけではありません。たとえば1970年代には≪3대혁명붉은기쟁취운동≫(三大革命赤旗争取運動)という「競争」がありました。今年強調された「一人はみんなのために、みんなは一人のために!」というスローガンは昔ながらのものであり、これが今になって再登板することは、見方によっては「改革の後退」とも考え得るものです。その点、過去の競争と今回の競争との実質的違いが重要です。

その点、当該記事でも述べたとおり、4月30日の最高人民会議常任委員会第14期第14回全員会議(総会)は、「ソフトウェア保護法」の制定という興味深い決定を下しています。「著作権」という概念は基本的に、それを思いついた個人や企業の個別的な利益を保護するための制度であり、いうならば「ブルジョア的権利」というべきものです。中国やベトナムのように開放路線にかじを切った国々は、まずこの分野の法的権利保障の整備から着手したものでした。「20世紀の共産主義」と「著作権」は相容れないものです。

つまり、共和国は共産主義を復活させつつ、同時に個人や企業の個別的な利益を保護する制度の整備にも着手し始めたわけです。このことは、過去の競争と今回の競争との実質的違いであり、「20世紀の共産主義」の復活;改革の後退ではなく、共産主義の発展的な復活と言ってよいでしょう。

個人や企業の個別的な利益を保護する法制度を整備しつつ、同時的に共産主義の旗印を再度掲げ始めた共和国。社会主義企業責任管理制をはじめとする近年の経済的制度改革の実践例を見るに、これは「20世紀の共産主義」の復活;改革の後退ではなさそうに見受けられます。戦時統制的な経済政策とはまったく異なる、非常に興味深いことが今起こりつつあるのです。

■「革命家の経済」から「普通の人の経済」へ、「超人的な人たちがつくる社会主義」ではなく「普通の人たちがつくる社会主義」への移行期
7月には更に興味深い報道が見られました。7月9日の朝鮮中央テレビは、「協同農場に広がる二毛作風景 (협동벌에 펼쳐진 두벌농사풍경)」における「農場員は、作況が良く、それが自分の生活と、もちろん大きな範囲で考えれば、国の米瓶を満たすことになりますが、近い範囲で考えれば、自分の子供のための仕事、自分のための仕事だと考えました。これがうまくいってこそ、私も食べていけるし、さらには国の米瓶も満たせるので、農業に対する農場員の精神力はたいしたものです」という黄海南道アナク(安岳)郡の協同農場員の発言を放映しました。

これこそ、キム・ジョンウン同志の時代の社会主義経済、ブルジョア「自由」主義的な個人主義でもなければ大義名分の押し付け的な全体主義でもない、集団主義としての社会主義の経済を特徴づけるものであると言えるでしょう。なぜならば、かつての共和国であれば、「国の米瓶を満たす」ことが何よりも優先されるべきコトとして位置付けられたはずだからです。

現在、共和国が置かれている環境は、「苦難の行軍」に比肩するものとも指摘される危機的なものであります。「かつてのやり方」であれば、ここで一層の引き締めが行われるはず。全体利益という大義名分が踊り、「すべての人々が英雄のように生き、たたかおう」だの「我々は月給取りではない」だの「革命的ロマン」だのと、仰々しいスローガンが押し付けがましく唱えられるはずであります。

しかし、キム・ジョンウン同志はそうはなさりませんでした。「これ(増産)がうまくいってこそ、私も食べていけるし、さらには国の米瓶も満たせるので、農業に対する農場員の精神力はたいしたものです」とされたのです。それも、「私も食べていけるし」を先行させたとおり、「農場員自身の利益」をまず挙げられたのです。画期的なことなのです。

キム・ジョンウン同志の時代に入ってから、悪平等主義の清算が提唱されていますが、本件もその一環として位置付けることができるでしょう。

悪平等主義の清算とは、すなわち、個人の努力に対する積極的評価づけであり、個人的な利益追求の容認に行きつかざるを得ないものであります。協同農場という従来からの社会主義的所有のうちにおいて個人の努力、個人の利益追求を新たに容認する、そして個人の利益追求が全体の利益増進にもつながるという見解を示すことで理論的な整合性をも保つ――個人的利益と全体的利益とを整合性のある形で接合した点において、このことは集団主義としての社会主義の本分に根差したものであると言えるでしょう。そしてまた、これが共産主義に繋がるものとして提唱されているわけです。チュチェ110年の共和国は、共産主義を発展的に復活させるスタートラインについたと言えるかもしれません

「すべての人々が英雄のように生き、たたかおう」や「革命的ロマン」も理想的ですが、まずは食わねば始まらないものです。また、大多数の人々は「英雄」というよりも「月給取り」であります(だからこそ革命家と、革命家たちの組織としての党は偉大で尊敬されるべき存在なのです。私は心から党と党員の先生方を尊敬しています)。

「月給取り」だって決して卑しいことはありません。月給取りだって決して自分自身の利益しか考えていないわけではないからです。たしかに、生活のために働かざるを得ない立場ですが、月給取りだって自分の仕事には社会的な意味・意義があると考えて(信じて)働いているものです。近江商人の「三方よし」や仏教哲学の「自利利他」ほどの高い意識性はないにしてもです。それが普通の人・普通の労働者の労働観であります。

この意味において、キム・ジョンウン同志の時代とは、「革命家の経済」から「普通の人の経済」への移行期、「超人的な人たちがつくる社会主義」ではなく「普通の人たちがつくる社会主義」への移行期であると言えるでしょう。

■硬軟両面の展開が予想される今後の外交攻勢
第8期党中央委員会第3回政治局拡大会議(9月2日)及び、その後に開催された最高人民会議第14期第5回会議で決定された組織(人事)問題について振り返りたいと思います。キム・ヨジョン同志がついに国務委員に昇格しました。

その意味については、10月2日づけ「最高人民会議第14期第5回会議で決定された組織(人事)問題について;キム・ヨジョン同志昇格の意味、キム・ジェリョン同志の組織指導部長職専念の意味など」で考察しました。共和国の党・政府関係者は皆、それぞれの専門知識をもとにした「キャラクター」が与えられているところ、キム・ヨジョン同志についてはこのような「キャラクター」からの評価は困難です。かつてキム・ヨジョン同志は北南連絡事務所を爆破を主導しましたが、そうかと思えば、ムン・ジェイン韓「国」「大統領」の終戦宣言提案に対して関心を示したりもしました。その直前に共和国外務事務次官が厳しめに批判したのと比べるとかなりソフトな対応でした。キム・ヨジョン同志は他の要人とは異なり、「一人二役」を演じ分けること許されている稀有な人物です。当該記事では、それだけ事態が流動的で、硬軟の変化を示すために、いちいち担当者を交代させていられるほどは時間的な余裕がないと分析したところです。

そのような「外部からの評価」に乗っかり「外交の顔」としてキム・ヨジョン同志を登用されたと考えたとき、今後は積極的な外交攻勢が展開されるものと見てよいと思われます。今回の政府人事でミサイル開発に深く関与してきたパク・チョンチョン同志が、不正腐敗問題での降格から早くも返り咲いた点を併せて考えると、硬軟両面の展開が予想されます

■「白頭の血統」なる理論の行き詰まりが更に明白になった
ところで、同会議でキム・ヨジョン同志が昇格したことを「白頭の血統」なる理論を以って分析する主張を、当該記事では批判的に分析しました。いつも参考にさせていただいている日本大学の川口智彦氏が運営している「北朝鮮報道で書かれないこと (dprknow.jp)」の「「朝鮮民主主義人民共和国最高人民会議第14期第5回会議で」:「(第1)副部長同志」が「国務委員会委員」に、チョ・ヨンウォンも、金ドクフンが副委員長、朴ポンジュ引退、李ビョンチョル解任、崔ソンフィも解任、「(第1)副部長同志」に北南、朝米を一任か (2021年9月30日 「朝鮮中央通信」)」(9月30日づけ)の言説のことです。

川口氏は、「白頭の血統」というキーワードにおける「血統」の意味を生物学的な意味・DNA鑑定でシロクロつくような意味として捉える、よくある俗流解釈でキム・ヨジョン同志の昇格を説明しています。これに対して当ブログでは以前から、「白頭の血統」というキーワードにおける「血統」の意味は、儒教思想をベースとしたチュチェ思想の社会政治的生命体論に基づく疑似的共同体としての意味であり、DNA鑑定でシロクロつくような生物学的な意味ではないと繰り返し主張してきました。分かりやすく例えれば、盃事によって結ばれる任侠集団における血縁関係のようなものだと捉えればよいでしょう。

たとえば6月17日づけ「「金王朝の変質」論を事実に即して検討すると、そもそも金「王朝」ではないということになる」及び6月20日づけ「やはり「キム王朝」は実際には「王朝」とは言い難い」。これらは、「白頭の血統」というキーワードにおける「血統」の意味を生物学的な意味・DNA鑑定でシロクロつくような意味として捉えた上で、その生物学的血縁関係者の利益の実現が「北朝鮮」の唯一無二の目標であり、この生物学的血縁関係を中心として組織人事が組まれ、国家活動が展開されているという非常に単純な見方で共和国情勢のすべてを見通そうとする、朝日新聞の牧野愛博氏による「北朝鮮分析」が行き詰まっていると指摘したものです。現実の権力構図は、俗流血統論に依って立つ牧野氏の見立てどおりになっているようには見えず、特にキム・ヨジョン同志の降格事象のように、最近は現実との乖離がますます大きくなってきています。説得力を失いつつあります。

キム・ヨジョン同志の血統は最近初めて分かったものではありません。ピョンチャン(平昌)オリンピックに派遣されるなど既に大役は何度も経験しています。もし俗流血統論が正しければ、既に立派な肩書を持っているはず。「なぜいままで国務委員でなかったのか」ということになります。もし、「キム王家の一員とはいえ実績が必要だ」というのならば、そもそも「血統」が主変数ではないということになるでしょう。

また、川口氏は「(キム・ヨジョン同志が)失敗したところで、対人民の示しを付けるための「解任」程度で済む」といいますが、これは妙な話です。失敗して解任されるようでは、扱いが「他の党・政府要人並み」であると言わざるを得ません。いわゆる「ロイヤルファミリー」は無謬であることが絶対的条件です。もし、キム・ヨジョン同志が「血統」ゆえに登用されたとすれば、担当政務に失敗したからと言って解任などあってはならないこと。日本の自民党政治家よろしく「秘書が勝手にやりました」といった具合に、自分自身だけは徹底的に責任から逃れなければならないものです。

キム・ヨンジュ同志(首領様の実弟)のように路線対立の相手方になってしまったり、キム・ソンエ同志(首領様の後妻)のように重大な越権・不正行為が明らかになると流石に排除されざるを得ないものですが、両者とも徐々に登場機会を奪われ、そして失脚後かなり長いこと隠遁生活を余儀なくされたもの。よほど深刻でどうしても排除しなければならない事態に陥らない限り、いわゆる「ロイヤルファミリー」はアンタッチャブルなものです。

ある日突然降格されたかと思えば、別の日に突然要職に復帰するような扱いは、「他の党・政府要人並み」であると言わざるを得ないのです。現にキム・ヨジョン同志は、昇格と降格を繰り返しています。いわゆる「ロイヤルファミリー」らしからぬ人事状況であり、「他の党・政府要人並み」の扱いと見た方が自然ではないでしょうか?

なお私は初めからキム「王朝」などという見方は一度も取ったことがなく、「あるときは党中心、別のときは軍中心の超中央集権国家」として捉えてき、「世襲」論については、6月17日づけ「「金王朝の変質」論を事実に即して検討すると、そもそも金「王朝」ではないということになる」で述べたとおり、次の観点から一貫して否定的に見てきました。

(1)生物学的血縁による世襲ならば、「それは宣伝としては逆効果では?」と思わずにはいられない露骨な表現でそのの生物学的血縁を讃えるはずだが、そのような事実はまったく観測されていないから

(2)共和国政治において「血」という言葉は、生物学的な意味ではなく儒教思想をベースとした社会政治的生命体論に基づく疑似的共同体としての意味であるのが専らであるから。「儒教文化」と「科学的社会主義」という、「正統性」を何よりも重視する2大思考方法の両方を信奉している共和国政権が、思想的に重要な用語としての「血」を乱用するはずがなく、慎重に考え抜かれたタイミングで用いられているはずである。(言葉というものは、辞書的な基本の意味だけではなく文脈的に特殊な意味もありうる――国語の文章読解でやらなかった?)

(3)一部論者が長年主張してきた「あからさまに権力の世襲だと言ってしまうと人民の共感と支持が得られないので、宣伝上の戦術として控えめにしているだけだ」という主張については、将軍様偉人伝として伝えられるエピソードがどれもこれも「荒唐無稽」を通り越して「本気で信じていたら頭がおかしい」レベルである点、あんな宣伝OKで世襲の宣伝がNGとは到底考えられないので、成り立っていない

この意味で「白頭の血統」論は、理論的にも歴史的にも既に破綻しているのです。

■新時代の首領となられたキム・ジョンウン同志の時代を政策と思想の両面からしっかりと分析してゆきたい
今年10月以降、キム・ジョンウン同志が「首領」と呼ばれる機会が増えているという報道が出てきています(「金正恩氏「首領」呼称が定着 執政10年、体制掌握に自信か【礒ア敦仁のコリア・ウオッチング】」 2021年11月29日 時事通信)。当該記事で慶大教授の礒ア敦仁氏は「金正恩委員長イコール「首領」という定式化が一過性のものである可能性も排除できなかったことから、それが定着するかどうかが問題であったが、徐々にそのような言い回しは増え、今年5月には『労働新聞』が「卓越した首領」とも述べた(中略)父親の金正日国防委員長が「首領」と呼ばれるようになったのは死後のことだから、37歳の金正恩委員長は随分と早く先代指導者に並んだことになる。経済的には困難を抱えているものの、10年間の政権運営で体制掌握に一定程度の自信を持った証拠であろう。ただし、現在の「首領」概念は、金日成時代、金正日時代のそれと同じ意味を持つのか、最近登場したといわれる「金正恩主義」と何らかの関係があるのか、金日成政権時の主席制を復活させる布石なのか、さまざまな可能性を視野に入れておくべきではある」としています。

私も、キム・ジョンウン同志のことを「首領」と呼ぶ共和国公式発表が散見されるようになってきたことは気になっていました。しかし、その意図するところの確証は得られなかったので、せいぜい、次のようなことしか言えませんでした。今年最初の記事である1月30日づけ「朝鮮労働党第8回党大会について」で述べたとおり、第8回党大会祝賀大公演「党をうたう」の報道において敢えて「朝鮮労働党第3回大会が開かれた60余年前の峻厳(しゅんげん)な年に、時代を震撼させた不滅の頌歌「金日成元帥にささげる歌」が管弦楽と歌で響き渡る」というくだりがあったことに注目した上で、私は次のように述べました。
「金日成元帥にささげる歌」を紹介するために第3回党大会に言及する意味とは何なのでしょう? 言い換えれば、「金日成元帥にささげる歌」はそんなに特殊な曲ではなく、むしろ定番的なものです。さまざまな機会によく演奏されてきました。それを敢えて今回は、第3回党大会と結びつけて紹介する意図とは何なのでしょう?

朝鮮労働党第3回大会は1956年4月下旬に開催された大会ですが、この直前の2月末、ソ連共産党第20回大会で歴史的な「スターリン批判」があり、それに勢いづいた党内反対派がソ連・中国の権威を笠に着て執行部に挑戦してきたものでした。ソ連・中国もまた共和国を衛星国化しようと露骨な干渉に乗り出した時期でした。そうした厳しい環境下で、誕生したばかりの社会主義政権において工業化を推進するため、大衆運動としての色彩が濃厚であるチョルリマ(千里馬)運動が同年12月末から展開されたのでした。

総書記の職位が復活したことから冒頭でも書いたように第5回大会を連想し、それとの異同を念頭に置いてきたのですが、もしかすると第3回大会を連想し、それとの異同を念頭に置いたほうが良いのかもしれません。
私も礒ア教授同様、現時点でも依然として「さまざまな可能性を視野に入れておくべきではある」くらいに留めておきたいと思いますが、この一年間を通して変化の方向性は徐々に見えてきたようにも思われます

今日この記事で総括してきたとおり、キム・ジョンウン同志は今年総書記になられつつ、人治主義から党組織による統治にシフトなさいました。また、今般の第8回党大会が、キム・イルソン同志による指導体制が確立した第3回党大会と関連して位置付けられているわけです。さらに、いわゆる「三重苦」に対して首領と人民大衆との繋がりを強化することで克服しようとする姿勢を示しつつ、先代のような戦時統制的な経済政策は採用なさいませんでした。他方、以前から取り組まれてきた競争概念の社会主義化をさらに拡張して共産主義にも適用なさいました。

これらを総合することで、キム・ジョンウン同志が如何なる方向に共和国を領導しよう考えておらるのかは推測できるのではないでしょうか?

来年は「キム・ジョンウン同志の時代」とはいかなるものなのかを、その政策と思想の両面からしっかりと分析してゆきたいと考えています。
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2021年12月30日

個人レベルの主体の確立と棲み分けの実践:社会政治的生命体の内部において個人を尊重するために

かなり前の記事で申し訳ありません。
https://news.yahoo.co.jp/articles/6bcc68421405b25c5285a3af99e8dfaa29995acb
中3刺殺事件、カズレーザーの発言に共感続々 学校は「他人の集合体」「わかり合えない人がいてもそれが自然な社会…と教えないと」
11/29(月) 12:18配信
中日スポーツ

 お笑いタレントの「メイプル超合金」カズレーザー(37)が29日、フジテレビ系朝の情報番組「めざまし8」にスタジオ出演。愛知県弥富市の中学3年生の男子生徒が同級生に刺殺された事件についての発言がネット上で共感を呼んだ。

(中略)
 続いて「この学校の校長先生がこの事件の後、わが校は家族のような関係をもった…っておっしゃったんですけど」と説明した上で、生徒たちは「たまたま同じ場所に生まれて、同じ年齢だったっていう他人の集合体」と持論を展開した。

 仲良くなるのは理想だが、「わかり合えない人たちがいてもそれが自然な社会」「社会の縮図」と説明し、「うまくいかないっていうのも現実としてもあるというのはやっぱ教えないといけない」と、いずれ社会に出たときのためにも、他人同士の不和の折り合いを教えていくべきだとの考えを示した。

 ネット上ではこの意見に「納得しかない」「痛快」「カズレーザーさんの意見に賛成。ただ同じ年に生まれて集められただけの同級生が『家族みたい』にはなれない」「どうしたって気の合わない人間とどう折り合いつけてくか?それを学ぶ場が学校」「みんな仲良くってのは理想論だ、って。嫌いでいいんだよ、ってとこが重要」などと賛同の声が見られた。

■「棲み分け」と「個人レベルでの主体確立」の必要性・重要性
カズレーザーさんの「他人の集合体」や「わかり合えない人たちがいてもそれが自然な社会」という見方は強く首肯できるものです。このことは、私が以前から強調してきた「棲み分け」の必要性・重要性及び「個人レベルでの主体確立」の必要性・重要性に繋がるものです。

チュチェ思想派として以前から私は、社会的連帯の回復を通した人倫の復興、システムとしての社会の復興を実現させるためにこそ社会政治的生命体の形成が必要だと述べてきました。しかし、とりわけ日本で社会政治的生命体を形成するにあたっては、ムラ社会的なものであるべきではなく、棲み分けの原理を含む協同主義的なものであるべきだと考えています。

■集団の中の個人にスポットライトを当てる必要もある
社会的存在としての人間が個人として自主的な生を送るためには、社会組織に参加する必要があります。この物質世界に対してひとり一人の人間存在はあまりに非力ですが、この人間存在は社会組織的に協同的・協業的にその自主性・創造性・意識性を発揮するとき個人レベルでは決して発揮できない大きな力を持ちことができるからです。

チュチェ思想において主体とは基本的に組織を指します。正確には、首領・党・人民大衆が有機的に三位一体的に結束した社会政治的生命体こそが主体であり、首領個人・党組織単独・人民大衆ひとりひとりは主体たり得ません。首領・党・人民大衆はシステムの関係にあるのです。

コンピューターシステムがサブシステムに分割し得、サブシステムが個々のプログラムに、個々がプログラムが関数の集合体であるように、社会システムとしての社会政治的生命体も究極的には個人に突き詰めることが可能です。もちろん、コンピューターシステムにおいて個々の関数だけでは出来ることが極めて限られているのと同じように、社会システムとしての社会政治的生命体において個人が為し得ることも極めて限定的です。かといって、コンピューターシステムにおいて個々の関数を無視できないように、社会システムとしての社会政治的生命体において個人の力量を無視することはできません。まして個人には固有の人格と権利があるわけです。集団の中の個人にスポットライトを当てる必要もあります

本家(共和国本国)のチュチェ思想も決して個人を哲学的分析の対象としなかったわけではありませんが、それほど紙幅を割いていたとも言い難いと思われます。『チュチェ思想教育において提起される若干の問題について』(チュチェ75・1986年7月15日)においては社会政治的生命体においても自由と平等の関係は当然に存在しているが、それに加えて社会政治的生命体においては、同志愛と革命的義理の関係もあるとして、集団と個人との集団主義的な編成の基本的な考え方が示されています。

この整理は非常に重要ですが、この労作の文脈は明らかに「同志愛と革命的義理が存在する社会政治的生命体の質的な優越性」を強調する点にあることから、自由と平等の関係についてはそこまで深く言及されていません。同志愛と革命的義理、これは社会政治的生命体のウリですから無理もないことですが、哲学原理を具体的な政策に落とし込むための指針も特段示さされていません。その結果、チュチェ109(2020)年5月29日づけ「社会政治的生命体論の魅力と論理の飛躍について」でも述べたとおり、「いくら首領が必要だといっても、あれほどまでに権威と権力を一元的に手中に収める必要があるのか?」と思わずにはいられないような現実が展開されているように思われます。

■集団と個人との関係性においては、棲み分けの要素を含める必要がどうしてもある
私のように、日本社会の自主化を目指すための指針としてチュチェ思想に依っている者にとっては「個人」への注目は非常に重要な課題です。よくもわるくも現実問題として日本社会は個人主義意識が強いからであります。よって、「個々人がバラバラであることよりも、組織に参加し社会政治的生命を内面化した方が、個人としてもより自主的な生を送ることができる」という論法を立てる必要があると考えています。「あなた自身のために組織に参加しよう」という呼びかけが必要だと思っています。

組織化が決して個人の抑圧には繋がらず、むしろ結果的に全員をより豊かにすると訴えるにあたっては、個人と集団との関係性をより掘り下げる必要があります。集団の中の個人にスポットライトを当てる必要もあります。

カズレーザーさんが言うように、「わかり合えない人たちがいてもそれが自然な社会」です。このとき無理に意見を統一させようとすると何らかの抑圧が起こることになります。集団と個人との関係性においては、棲み分けの要素を含める必要がどうしてもあると考えます

■協同主義者が持ちがちな世界観と自己理解を改める必要性
少なくない協同主義者は、「科学的に思考して徹底的に討論すれば必ず一つの真理にたどり着く」という世界観、及び「我々は科学的である」という自己理解を持っています。そのためなかなか、「わかり合えない人たちがいてもそれが自然な社会」とは考えたがらない嫌いがあるように思われます。そのような立場からだと、異論派は無知、異常あるいは敵対者かということにならざるを得ません。

棲み分けを実践するためには、「科学的に思考して徹底的に討論すれば必ず一つの真理にたどり着く」という世界観の変革が必要であると考えます。もちろん、「一つの真理など存在しない」という相対主義や不可知論を言いたいのではありません。膨大な課題を有限の時間内に解決しなければならない現実的な要請の中で「一つの真理」に必ずしも辿り着けるとは限らないという意味として捉えていただきたいと思います。同様に、刻一刻と変化し、カオス理論が示すとおり原理レベルで人間存在がその法則性を探究しつくすことが困難であるこの物質世界において、「我々は科学的である」と言い切ることはできないということも心得る必要があるでしょう。

世界観及び自己理解を改め、棲み分けを認め、集団と個人との関係性を再整理することが日本の自主化においては必要だと考えます。

■個人レベルでの主体の確立は同時にその組織化の問題
個人レベルでの主体の確立は、棲み分けと同時並行的に行うべきものであります。

個人レベルでの主体の確立というと、かつてツイッター上で議論を展開した@blog_juche_idea氏(Chon In Young氏)のことを思い出します。@blog_juche_idea氏がツイアカを削除し、まったく更新されないブログだけが残っている現状では徐々に議論内容を忘れてしまいつつあるのですが、@blog_juche_idea氏の議論はつまるところ「主体とは誰か」であったと捉えています。@blog_juche_idea氏は明らかに個人を主体として捉えていたのに対して、私はあくまでも首領・党・人民大衆が一心団結した組織であると主張しました。

@blog_juche_idea氏は、「組織も突き詰めれば個人であり、組織のパフォーマンスを向上させるためには個人がより強力にならなければならないので、主体は個人である」という論法を採用していました。@blog_juche_idea氏は持論を「チュチェブログ学派」と称し、共和国本国の思想を「金日成・金正日主義」とした上で、真のチュチェ思想は自分の解釈だと主張していました。そして私の理解について「底が浅い」と批判しました。突き詰め切れていないという意味なのでしょう。

しかし、底が浅いというか理解が足りていないのは@blog_juche_idea氏の方だと私は今でも考えています。議論の流れでそこまで行きつかないまま@blog_juche_idea氏がツイアカを削除してしまったために未展開なのですが、@blog_juche_idea氏に言わせれば「金日成・金正日主義者」以外の何者でもない朝鮮大学校学長のハン・ドンソン氏は、その著書『哲学への主体的アプローチ―Q&Aチュチェ思想の世界観・社会歴史観・人生観』(白峰社、2007年)において、「世界の変化発展に対応するうえでなにを基本にすべきか?」という設問に対して「人間をより力強い存在に育てることを最初の工程とする」(同書84ページ)と言明しているのです。その上で自主的な指導者と政党のもとに集結し、個人の力を組織の力に糾合する必要があると指摘しているのです。@blog_juche_idea氏の言い分など百も承知の上で「金日成・金正日主義者」はその次を行っていたわけです。

@blog_juche_idea氏との議論の中で、そして今日の記事でも繰り返してきたとおり、革命の主体たる首領・党・人民大衆はシステムの関係にあります。複数の構成要素が相互作用的に結びつき、全体として一つの仕事を行っているものです。コンピューターシステムが一番理解しやすいでしょうが、システムは、その構成要素のスペックによって全体のパフォーマンスが決まります。しかし、個々の構成要素だけではシステムとしての仕事は為されません。同様に、システムとしての首領・党・人民大衆もバラバラでは革命の主体にはなり得ません。いかに天才的な首領、高度に組織化された党、能力の高い個々人がいたとしても、バラバラでは革命は前進しません。個人レベルでの主体の確立は同時にその組織化の問題なのです

■棲み分けの導入の問題に行きつかざるを得ない
個人レベルで主体を確立するということは、すなわち、自主的な要求を持ち、創造的な力量を持ち、それらを目的意識的に計画し臨機応変に調整できる意識性を持つということであります。そして、このような個々人をあくまでも組織化する必要があります。この点において、個人レベルでの主体の確立は同時にその組織化の問題なのです。そして、その意味においては前述のとおり棲み分けの導入の問題に行きつかざるを得ないものです。だからこそ、個人レベルでの主体の確立は、棲み分けと同時並行的に行うべきものなのです

■総括
つまるところ、日本の自主化においては個人レベルの主体の確立と「わかり合えない人たちがいてもそれが自然な社会」ことを認めて棲み分けを実践することが必要であり、そのためには、それと対立する世界観及び自己理解を改め、集団と個人との関係性を再整理することが必要だと私は考えます。
ラベル:チュチェ思想
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2021年12月29日

ニッポンのブラック企業は、この国の「文化」的な帰結

https://news.yahoo.co.jp/articles/473dee2e063cad600250e11979cc5b011d3078d2
兵庫に続き、高知市も公務員に「水道代の自腹弁償」請求へ 賠償額が数百万円に上るケースも〈dot.〉
12/28(火) 15:57配信
AERA dot.

 プールの水を出しっぱなしにしてしまうなど、ミスで大きな損失を出した公務員に、自治体が損害額の一部を請求するケースが相次いでいる。中には数百万円という高額な例もあり、安定した身分の公務員とはいえ賛否両論がある。果たしてこうした「自腹弁償」の流れは加速していくのか。

(中略)
 2021年7月、高知市の小学校で教員がプールの水を止め忘れ、一週間出しっぱなしの状態となった。井戸水のため上水道代はかからなかったが、7月の下水道代は例年の同じ時期より10倍ほどとなる290万円にのぼった。市は今月、教諭に約66万円、校長と教頭にそれぞれ約33万円と、損失の半額程度となる計132万円を請求する方針を明らかにした。

 同様の事例は各自治体でも起きている。21年2月には、兵庫県が貯水槽の排水弁を閉め忘れた職員に対し、損害の半額程度に当たる300万円を請求したことを明らかにしたが、あまりに高い弁済額が物議を醸した。

 半額程度を請求する自治体の姿勢には根拠がある。過去に都立高校でプールの排水バルブを閉め忘れたまま給水を行ったため、100万円余りの余分な水道代が発生した事案があった。ある都民が独自に損害額を算定した上で「都はミスをした教職員らに全額を請求すべきだ」と提訴したが、裁判所は「賠償額は半額を限度とするのが相当」と判断した。請求は棄却された形だが、この「半額」の判断を兵庫県も参考にしていた。

(中略)
 兵庫県のケースもそうだったが、公務員に対しては「税金で食べている」という風当たりがある。損失の補填も税金で支払われるため、県民からミスに対し厳しい処分を望む声もあった。例えごく一部の意見であったとしても、市民感情を無視できないという事情が見え隠れする。

「自治体は同じような事案が生じないよう、定期的なチェックシステムを取り入れるなど、今以上にミスを防止する体制を整えたり、損害保険を導入したりする必要があるでしょう。一方で、自治体が職員に請求せざるを得ない背景には、市民感情への配慮があると思います。県民や市民の皆さんが個人への賠償請求をどう考えるかも、今後の対応に影響していくと思います」(村松弁護士)

 ミスした責任は確実にある。ただ、誰にでもミスはある。責任を追及しすぎるギスギスした世の中も疲れてしまう気がするが…。(AERAdot.編集部・國府田英之)
https://www.yomiuri.co.jp/national/20211214-OYT1T50058/
排水弁閉め忘れた県職員が300万円弁済…公務員個人のミス、自治体からの賠償請求が増加
2021/12/14 10:20

 業務上のミスなどで生じた損害について、自治体が職員個人に賠償を請求する例が増えている。住民による行政監視が強まっていることが背景にあるとみられ、民間企業よりも厳しい対応が求められているようだ。(山本貴広)

(中略)
 職員はどの程度弁済すべきなのか。兵庫県が排水弁の閉め忘れで弁済額の参考にしたのが、東京都立高校で15年、8日間排水バルブが開いた状態でプールに給水を続け、都に約116万円の損害が生じたケースだ。

 都は注意義務違反にあたるとして、関係した教職員7人に半額相当の賠償を求め、全員が納付。この後、全額負担を求める住民訴訟が起こされ、東京地裁は訴えを棄却する一方、設備上の問題などを認め、職員の負担割合は「5割を限度に認めるのが相当」との判断を示した。

 一方、企業法務に詳しい村松由紀子弁護士によると、民間企業では、従業員が 萎縮いしゅく したり、責任のある仕事を避けたりすることを防ぐため、損害賠償を個人に求めることはほとんどなく、企業側が保険に加入して備えるのが一般的という。

 同志社大の太田肇教授(組織論)は「公務員は市民の税金を扱っている以上、民間よりも責任が厳しく問われるケースがある」と指摘する。

(以下略)
国家賠償法や地方自治法では、故意又は重大な過失がある場合は、自治体は公務員個人に対して求償権を有するとされています。同様の規定は労働基準法第16条(賠償予定の禁止)の解釈としての「賠償の予定は禁ずるが、実際に発生した損害の賠償を請求することまでは禁じられていない」という定めに見出すことができます。その点、報道されている範囲内で考える限り、本件は公務であっても民間企業であっても「違法」とは言えないように思われます。

しかし、民間企業において労働基準法第16条の解釈に則って下っ端の社員個人に損害賠償をさせているケースを思い浮かべると、たとえばブラック引越業者などが脳裏に浮かぶものであります。上掲読売記事でも「民間企業では、従業員が 萎縮したり、責任のある仕事を避けたりすることを防ぐため、損害賠償を個人に求めることはほとんどなく、企業側が保険に加入して備えるのが一般的」とのこと。賃金未払いでコキ使うだけがブラック企業ではなく、会社組織が負うべき責任を個人に押し付けることも立派なブラック企業です。また、ブラック企業の経営者たちは必ずしも悪魔的確信犯とは限らず、無知な個人が成り上がりで経営者になってしまったケースも多々あります。面と向かって社員の人格を否定するような明白なパワハラを展開したり、どう見ても違法な賃金未払いを平気でやってのけ、案の定、労基などから是正勧告を食らったりしている企業などは、無知な個人の成り上がり以外の何物でもありません。

これに対して公務労働においては、「民間では〜」という枕詞に始まる批判が氾濫するようになってから久しく、公務員バッシングをウリに「日本維新の会」が伸し上がってきており、それを受けて自治体側が不祥事等に対して過剰に反応している嫌いがあるように思われます。結果的に、社会に一定数存在しているブラック企業的メンタルの手合いによる「市民の声」を恐れるあまり自主規制的に過剰反応しているように見受けられます

「プールの蛇口閉め忘れ」だなんて昔からの定番のミス。いままでいったいどれほどあったことか。個人の注意力頼りだなんて一番低次元であり、もはやそれ頼りは「対策を講じているうちには入らない」というべきものです。未だに下っ端の個人の注意力頼りということの方がよほど「民間では〜」といいたくなるものです。

資金力のある企業であれば自動検知装置を用意するし、資金力のない企業であればチェックリストやダブルチェック体制をとり、ミスを組織的になくそうとしています。この手の下っ端の個人の注意力頼りは、まともな民間企業であればやらないことです。また、まともな民間企業では、ミスが起こってしまったあとその「傷口」を如何に小さく留めるかという縦深防御的発想も持っています。担当者が職務を完全に忘却しきり帰宅してしまっても、次の日以降に誰かが気が付いて被害を最小化するという次善の策です。そして、担当者個人のミスについていちいち損害賠償を請求していては社員が事なかれ主義に陥るので、めったやたらには賠償請求しないものです。だからこそ、「家具に傷がついた」からといってその修繕費を会社の持ち出しではなく担当者個人に負担させる一部引っ越し業者がブラック企業扱いされるわけです。

ミスは極力起こさないようにする、しかし絶対に起こさないことは無理なので、ミスが起きてしまったことを前提に次善の策をも講ずる――これがマトモな民間企業の危機管理です。商売人たるもの、「ミスは絶対に起こさないこと!」の精神論、個人の注意力に頼り切る方法ではどうにも成らないことは重々承知しているので、現実主義的な対応が身に付いているというわけです。

その点、組織的には何もせず個人に頼り切りだったのが本件。下っ端の個人の注意力に頼り切りで、また、「傷口」が大きく広がるまで何ら組織的に対応しなかったわけです。その意味では確かにお役所は未だに「民間の感覚」が身に付いていないと言えるかもしれません。もちろん、ここでいう「民間」とは、マトモな企業の経営に参画しているプロの経営者・商売人のことであり、個人の注意力に頼り切りの素人のことではありません。

もっとも、公務員・自治体の究極的な雇い主・主人がこの国民であることを考えれば、当然の帰結とも考えられます。精神論をこよなく愛するこの国民。半径数メートルの個人的感覚で天下国家を語るこの国民。この度の新型コロナウィルス禍における政策の迷走について「政治家・役人にやる気がないからだ」「政治家・役人は無能だからだ」といった罵倒が展開されたものでした。「個人のやる気」や「個人の能力」にばかり目が行ってしまうのがこの国民であります。個人の能力頼りという一番お手軽な低い次元でしか考えられないのがこの国民なのです。アエラ記事も読売記事も結局この流れは「市民感情」によるものと総括しています。

この国民がこのように考えることは、無理もないことかもしれません。日本では子供のころから「ミスは絶対に起こさない」を美徳として教育されます。たしかに子どものころから注力散漫であっては困るので、子どもに対する教育としては「ミスを起こさない」でもよいかもしれません。しかし、子どもから大人に成長するどこかで「ミスは極力起こさないようにする、しかし絶対に起こさないことは無理なので、ミスが起きてしまったことを前提に次善の策をも講ずる」に切り替えなければならないはずのところ、この国ではその切り替えが教育カリキュラムに組み込まれていないように思われます。よって、何かのきっかけでそれに気が付けた人は企業人としてやっていけるが、それに気づけない人はいつまでも「ミスは絶対に起こさない」のままになってしまうものと思われます。

公務員・自治体の究極的な雇い主・主人がこの国民であり、その国民がブラック企業顔負けの要求を公務労働者に展開しているわけです。また、この国民の発想は、個人の能力頼りという一番お手軽な低い次元でしか考えられず、この発想はまさに無知な個人が成り上がりで経営者になってしまったブラック企業のケースそのものです。このように考えると、ニッポンのブラック企業は、この国の「文化」的な帰結であるように思えてなりません。

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2021年12月25日

マルクス主義が忘却され観念論的な社会歴史観が蘇生しつつある中においてチュチェ思想の独自性が生きてくる

生乳が大量に余り、膨大な食品ロスが生じかねないという問題が発生しています。食品ロス問題について継続して取材・発信されている井出留美氏が次の記事を発表しています。
https://news.yahoo.co.jp/byline/iderumi/20211216-00272886
「余った生乳5000トンはバターにすれば廃棄せずに済むのに」乳業業界の回答とは?
井出留美 食品ロス問題ジャーナリスト・博士(栄養学)
12/16(木) 11:01

(中略)
ちなみに、生乳5,000トンは、1リットルパックの牛乳500万本分だそうだ。日本の人口(1億2500万人)のうち、4%の人が1リットルずつ消費してくれたら解消できる。牛乳を、飲むだけでなく「食べる」というふうに考えれば、1リットルはすぐ消費できる。「自分ひとりぐらい(何をしても変わらない)」ではなく、ひとりの力を信じて、楽しく取り組みたい。
■「司令部・指導部なき大衆運動」という誤り
食品ロス問題の解決のために奮闘する井出氏の意思には私は敬意を持っています。この問題は非常に深刻で、その解決は喫緊なる社会的問題だからです。それだけに、この問題に取り組むにあたっては、実効性があり筋が通った方法論に則る必要があると考えます。その点、井出氏の主張には以前から注目してきましたが、「ひとりひとりが意識高く公益のために行動すれば、きっと社会は良い方向に変わる」という、中高生徒会役員的優等生の発想というか、リベラリズム的な発想に基づいているといわざるを得ず、観念論的であるといわざるを得ないものです。

「ひとりひとりの個人がミクロ的に善い行いをしたからといって社会全体・マクロ的にも善い結果に繋がるとは限らない」という世界観的な認識が必要です。

ミクロ的な善とマクロ的な善をイコールとして扱うことの誤りは、当ブログでは以前から折に触れて指摘してきました。

たとえばリベラリズムは、啓蒙―覚醒―決意―行動―社会変革を一連の地続き的なものとして見なしがちですが、この見方には、啓蒙から行動に至るまでの葛藤や客観的条件の作用・制約が無視されている点において非科学的な主観観念論だと述べてきました。また、経済学においては「合成の誤謬」という概念がありますが、これもミクロ的な善とマクロ的な善とが一致しない場合がある一例であります。ミクロ的世界とマクロ的世界は、スケールが異なり作用する力学が異なるので、一緒くたに考えることはできないというのが科学的なモノの見方であります。

今回のテーマに即した形でミクロ的善とマクロ的善の同一視の誤りを指摘するとすれば、「司令部・指導部なき大衆運動」という誤りとして指摘できるでしょう。

井出氏らの呼びかけに応じて本当に1億2500万人が起ち上がってしまったら、今度は生乳の深刻な供給不足になってしまうでしょう。もちろん、常識的に考えればこの手の呼びかけに1億2500万人が総決起することはないでしょう。しかし、東日本大震災義援金振り込みの国民挙げての殺到が、みずほ銀行のシステムをダウンさせてしまった実例があるように、司令部や指導部のない大衆運動の呼びかけは、無政府的・無秩序的になりかねない非常に危うい、無責任なものなのです。

また、「4%の人が1リットルずつ消費してくれたら解消できる」として「もう1パック」運動を提唱する井出氏ですが、この手の大衆運動は、市場そして生産者(供給者)にとっては「需要の増加」として現れるものです。今までそれほど牛乳等に関心を持ってこなかった消費者たちが新しい客層として市場に参入してくるのであります。

この市場環境の変化に対して、個々の生産者たちは私的に増産してシェアを拡大するという誘惑に打ち克つことはできるでしょうか? 資本主義が最も恐れるべき過剰生産恐慌は、私的なシェア拡大行動が折り重なって社会的な供給過剰・値崩れとして現れるものです。司令部・指導部なき無政府的・無秩序的な生産は、せっかくの善意・篤志を台無しにする恐れがあります

■「公益の実現を私的個人の善意・篤志に頼ってしまってよいのか」という論点
別の論点から考えてみましょう。「公益の実現を私的個人の善意・篤志に頼ってしまってよいのか」という論点です。これには、現実的な側面と筋論的な側面があると考えます。

現実的な側面としては、現実の経済においては商品の生産には一定の時間がかかるので、生産者は将来(販売時点)での需要を予測して生産せざるを得ないことから、需要と供給の不一致は必然的あり得るというところに起因します。

「蜘蛛の巣モデル(蜘蛛の巣理論)」という農産物等の価格変動を理論化した経済モデルにおける供給曲線に期待(生産者の需要予測)の要素を加味すると、パラメーター(市場環境)によっては、価格と流通量は収束、発散、循環のいずれもせずに不規則に振動し続けることがあります(蜘蛛の巣モデルにおけるカオスの発生)。つまり、需給は均衡点に落ち着くことがなく、常に作り過ぎたり足りなかったりを続けるということです。現実の市場の価格変動は確かに決して均衡点に留まることはなく、常に上下しています。多くの経済ニュースは、さまざまな外的要因を価格変動の理由として取り上げていますが、そもそもそうした外的要因がまったくなくとも内的要因によって価格は常に上下し続けるものなのです。

このように必然的に需給不一致が生じうる市場経済において、その需給ギャップの穴埋めをその都度、限りある私的個人の可処分所得や貯蓄の切り崩しによる支出に頼ることができるのでしょうか? 不況や恐慌のように経済活動が委縮して私的個人の収入が減ってしまうような局面でもその善意・篤志に頼るべきなのでしょうか? 「そういう場合は国が・・・」というのならば、はじめから国が取り組めばよいことでしょう。

これは筋論にもつながってくることです。共同体共通の利益に関わることに共同体が関与せず、一部の構成員たちに任せきりすることは、果たして筋の通った話なのでしょうか? 今回の生乳余りについて言えば、国は法人であり牛乳を飲むことはできないので、自然人である国民が飲んで消費するしかありませんが、そのために補助金をつけるなどして国が後押しすることは、筋論として欠かせないものであると思われます。

司令部・指導部なき大衆運動の危険性、そして共同体の関与が薄い善意・篤志頼みの現実論的な限界と筋論的な誤り――ミクロとマクロはやはり異なる見方と方法論で対応すべきものと私は考えます。中高生徒会役員的優等生の発想、リベラリズム的な発想の誤りはここにあると私は考えます。

■マルクス主義が忘却され観念論的な社会歴史観が蘇生しつつある
井出氏の言説のように近年、個人の「思い」や「行動」を社会的問題の解決手段として採用しようとするむきが増えてきているように私は感じています。リベラリズムの影響だと考えていますが、空想的社会主義者であるロバート・オウエンが提唱したオウエン主義の劣化コピーであるように思われてなりません。

マルクス主義の社会観が急速に忘れ去られつつあるところであります。ほとんどコジツケのような経済還元論のドグマから社会科学・社会政策が解放されつつあることは喜ばしいことですが、かといって150年以上にわたって積み重ねられてきた知的進歩までもが忘れ去られ、観念論的な社会歴史観が蘇生しつつあることに非常なる危機感を覚えるところです。

客観的・物質的な構造及びその制約、並びに主観的な「思い」及び「行動」を適切に整理する主体的な唯物論の再構築が急務であると私は考えます。いまさら、唯物論か観念論かという古臭い議論が蘇るとは思ってもいませんでしたが、ここ数年の議論動向をみると、社会歴史観においてはこのことをしっかりと再定義する必要があると私は考えています。

■リベラリズムともマルクス主義とも異なるチュチェ思想の独自性が生きてくる
ここにおいて私は、チュチェ108(2019)年10月21日づけ「グレタ・トゥンベリさんを持ち上げている場合ではない」でも述べたとおり、チュチェ思想の独自性が生きてくるものと考えます。

リベラリズムは、人間が意識を変え行動を変えれば社会システムが変わると想定しています。これは物事を個人レベルに還元し過ぎています。人間が意識を変え行動を変えることで達成できるのは、あくまでも個人レベルの課題に留まるからです。脳味噌一個・腕二本・脚二本で出来得る仕事の範囲は限定的なのです。社会システムはもっと巨大で、社会的の課題は個人レベルの課題とは質的にまったく異なります。当然、解決方法も異なります。リベラリズムはミクロレベルでの思考・方法論をマクロレベルに不適切に適用しているわけです。

これに対してマルクス主義は、客観的な前提条件としての社会システムが変われば人間の意識は変わると想定しています。「存在が意識を規定する」という教義に基づく見解ですが、社会システムの変化がそのまま直ちに人間の思想意識を変化させるわけではありません。長期的な視点に立ったとしても、はっきりとしたことは言えません。

チュチェ思想は、人間を「自主性、創造性、意識性をもった社会的存在」として定義づけ、その上で「人間があらゆるものの主人でありすべてを決定する」という原理に基づいています。チュチェ思想には人間の自主的思想意識を重視する点においてリベラリズムと共通する部分がありますが、チュチェ思想とリベラリズム・観念論との違いは、チュチェ思想は、「人間の集団的な創造能力」を重視していることにあるといえるでしょう。また、チュチェ思想における「意識」の定義もまた独特であり、これもチュチェ思想とリベラリズム・観念論との違いであると言えます。

「人間の集団的な創造能力」を重視するチュチェ思想においては、啓蒙等によって単に「目覚めた」だけでは不足で、それを実現するための集団的創造能力が必要だとします。チュチェ思想が想定する人間の集団的創造能力には、たとえば生産力が挙げられます。生産力に注目している点は、リベラリズムにはなくマルクス主義的な観点ですが、チュチェ思想における生産力は、自主的思想意識と同列に並ぶ「人間の能力」としている点においてマルクス主義とは大きく異なるところです。

また、チュチェ思想でいう「意識」は、世界を認識し改造するすべての活動が合理的に行われるように構想・計画する人間の性質、及び調整する人間の性質ですが、その内実は、客観的対象の反映としての「知識」と、事物事象に対する利害関係を反映した「思想意識」であります。この定義は、明らかにマルクス主義を踏まえたものであります。

「人間の自主的思想意識」と「人間の集団的創造能力」をともに「人間の能力」の属性として同列的に位置付け理論的に連携させ、また、唯物論的な前提に立ちながらも「意識」の重要性を打ち出している点において、チュチェ思想は、リベラリズムとマルクス主義との双方と共通点を持ちながらも独特な世界観を持っていると言えます。世界と自己の主人たらんとする自主的な思想意識を持ち、世界と自己を改造し得る創造的能力を持ち、自主的思想意識と創造的能力を合理的に統括制御する意識性を持つからこそ「人間があらゆるものの主人でありすべてを決定する」のです。
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2021年12月19日

またしても目的意識性の欠如

https://news.yahoo.co.jp/articles/7a05d9761b8735b6de44a3c2e29b468df30d5f50
10万円給付「謙虚に反省」 岸田首相
12/16(木) 11:36配信
時事通信

 岸田文雄首相は16日の参院予算委員会で、18歳以下への10万円相当の給付をめぐり、クーポンを使わず現金一括支給を認めたことについて「関係者に混乱を与えたことは謙虚に反省しなければいけない。

(以下略)
公明党の「18歳以下に一律10万円の未来応援給付、スピードが大切だから所得制限などもせず、とにかく速く配ろう!」という当初からの主張に素直に乗っておけば、こんなことにはならなかったのに。

たしかに現金支給だと貯蓄に回って直ちに支出されない可能性もありますが、「未来応援給付」という位置づけに即せば、「将来の学費などのために貯蓄する」という選択もまた制度の趣旨に合っていると言えるでしょう。

公明党原案に横やりを入れて引っ掻き回したのは自民党ですが、自民党内ではこの給付金の位置づけが不明確だったことが窺い知れるものです。それを受けてか、産経新聞がこんな記事の見出しをつけています(ちょっと前の記事なのでご注意ください)。
https://news.yahoo.co.jp/articles/3ecc559b0501a9b9aa0c67b106b89fa2a519df67
大阪市長、年内の一括給付を断念 コロナ給付金
12/9(木) 19:56配信
産経新聞

18歳以下の子供への10万円相当の給付に関し、現金で一括給付したい意向を示していた大阪市の松井一郎市長は9日、「非常に申し訳ないが、年末は5万円しか届かない」と述べ、10万円の年内一括給付を断念すると明らかにした。

(以下略)
「未来応援給付」は、新型コロナウィルス禍がキッカケであるとはいえ、コロナ禍救済のためではなくその意味では「コロナ給付金」ではありません。他の新聞社だと敢えてそのあたりをミスリードして書き立てている可能性もありますが、産経の場合は敢えてそんなことをする動機はないでしょうから、本気で間違えていると思われます。それだけ位置づけが混乱しているというわけです。

昨春の「一人一律10万円」のときに続き、またしても「制度の趣旨が不明確」になってしまったようです。このことは結局、「目的意識性の欠如」によるものと言わざるを得ないでしょう。

チュチェ思想において「人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定する」のは、その目的意識性に一つの根拠があります。それだけ人間にとって目的意識的な行動は重要です。政権与党にそれが欠けているんだからもうね・・・
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2021年12月18日

馬脚があらわれるのが早かった維新

都合の悪いことって続くもんですね(嘲笑)
https://news.yahoo.co.jp/articles/36815c79d7457bf112fcd4d7c0b3a894a1f59dff
橋下徹氏が松井大阪市長の“30人大宴会”を擁護?「大阪に今あるルール自体が不合理だ」
12/13(月) 9:06配信
日刊ゲンダイDIGITAL

(中略)
 松井氏の先輩である元大阪市長の橋下徹弁護士(52)は意外にも、12日放送の「日曜報道THE PRIME」(フジテレビ系)で、『松井擁護』とも受け取られるコメント。「松井さんは自ら、2時間程度という時間制限を吉村さんと二人で決めたわけですから、これはしっかり守っていただかなければならないですよね。ただ、ルール自体がおかしいところがあって、松井さんが言われるように上限の人数は決まっていない。じゃあ、50人でも60人でもいいのかということになって、1テーブル4人というのはどういう意味があるのということになる。自分たちで決めたルールは守ってもらわなければ困るけど、そもそも今、大阪にあるルールがおかしい」と言い、こう続けた。

「僕は3時間程度の会食をやっています。今は緊急事態宣言も出ていないし、蔓延防止でもないし、感染者数も少ない。やっぱりルール自体が不合理だから、こんなことになってしまう。松井さん、吉村さんにはもう一度、しっかりとルールを見直してもらいたいと思います」

 橋下氏は弁護士として「法律の抜け穴を突くのは違法ではない。抜け穴のある法律が悪いのだ」との「正論」を言いたかったのかもしれないが、一方で「おかしな法律なら守らなくてもいい」と法律破りを「奨励」するのはいかがなものか。
法の実務専門家であれば、条文の定めがどうなっているか以上に、法の趣旨が如何なるものであるかに目を配る必要があります。また、判例(前例)との整合性も取らなければならないでしょう。同じようなことをした職員は処分しちゃったんですよねw

「ああいえば上祐」(死語)じゃあるまいし、明文化されていなくても法の趣旨から合理的に考えればどうなのか、判例から著しく逸脱していないかを的確に判断できる人こそが「実務専門家としての法律家」であります。

潔く松井氏に猛省を促せばいいだろうに、屁理屈を捏ねてまで松井氏を擁護する橋下氏。こういうダブル・スタンダードを日本人は一番嫌うものです。

先の衆院選で「改革勢力」として自己演出することで躍進を成功させた維新ですが、それにしてもその馬脚があらわれるのは早かった!

「ホップ・ステップ・ジャンプで政権獲得!」などと息まいた維新(「維新・馬場幹事長を直撃!「ホップ・ステップ・ジャンプで政権狙う」 「非共産党」の国民民主と連携も視野 衆院選11議席から41議席と大躍進」2021.11.6 夕刊フジ)は、手始めとばかりに新人議員が文書通信費問題をブチ上げてみたところ、党最高幹部の松井氏や吉村氏にブーメランが突き刺さる事態になりました。
https://news.yahoo.co.jp/articles/99cc85d12fc6e62143b159b30159bd302966865c?page=2
大阪市・松井市長が定例会見11月18日(全文3完)身を切る改革と改憲への賛同は当然必要
11/18(木) 22:40配信
Yahoo!ニュース オリジナル THE PAGE

(中略)
松井:そういう声もあるんでしょうけども、これ党の中で税金以外の原資を使う形で活動費っていう、一部活動費をそれで賄っているわけで、党内の監査はちゃんとやっていますのでね。公認会計士、税理士を入れて。領収書ないようなふうに捉えられてるけど、馬場議員にしても遠藤国対議員にしても、領収書はやっぱり党のお金を使う限り党内の会計監査があるわけですから、そこではちゃんと出していっています。

 ただやはり、なんて言うかな、飲食費のみならず領収書、例えば情報収集する中で領収書がどうしてもいただけない相手もあると。そういうものについては、これはそもそもないわけなので。だからそこはやっぱりある程度リアルに組織を運営していく中では許容していかざるを得んというのが僕の考え方です。

(以下略)
https://news.yahoo.co.jp/articles/177558d4009f61b024749a00c2f27d08f994142a
吉村知事「確かにブーメラン、ここは反省」自身の6年前 文通費1日で満額問題で
11/16(火) 14:41配信
デイリースポーツ

 大阪府の吉村洋文知事は16日、ツイッターを更新し、国会議員の文書通信交通滞在費(文通費)について、わずか1日でも満額支払われたことに疑問の声をあげたところ、自身の6年前の問題が「ブーメラン」として戻ってきたことに「ブーメランだけど、これで良かったと思う」とつぶやいた。

(以下略)
小選挙区で維新に敗北し比例復活さえできなかった立憲民主党の辻元清美氏は、かつて維新について「大阪ローカルだから眼中にない」と豪語していました。少なくないアンチ維新人士もそうだったのでしょう。それだけに先の衆院選での躍進をうけて本腰を入れて維新追及を始めたところ、あっという間にホコリが大量に出てきたというわけです。

吉村氏のブーメラン直撃については、当人のアクロバット飛行的な自己弁護(周りの人がフォローとして言う分にはよいけど、自分で言っちゃだめだよね)と軌を一にする形で「維新の良いところは、ちゃんと否は否であると言う所(だ)」(コメ欄より)といった具合に、熱狂的(狂信的?)な維新支持者のフォローを受けたものですが、流石に今回の橋下氏による松井会食問題のフォローは厳しそうです。

そして出てきた「「既得権益の打破」から”既得権益集団”となった日本維新の会/倉山満の政局速報」(12/11(土) 8:52配信 週刊SPA!)と「2日で316万円の吉村知事、30人会食の松井市長…維新の会“ダブスタ”列伝」(12/18(土) 11:21配信 女性自身)。この一カ月半、わずか一カ月半での「維新語録」を端的によくまとめています。

また、昨今話題の「未来応援給付」についても、維新陣営の主張は必ずしも一貫しているとは言い難いように私には思われます(もう少し様子を見る必要はあるとは思いますが)。世間の大半が維新陣営の発言の一つ一つを厳密にチェックしてはいないのを良いことに、政府・与党が何か表明すればその都度、何らかの「欠陥」を槍玉にあげてひたすら批判しているように見受けられます。

政界のアウトサイダーとして、同じようなコンセプトで斬り込んだドナルド・トランプ氏よろしく伸し上がろうとしたのでしょうが、想像以上に早く馬脚があらわれたというべきでしょうか。なんてことはない、維新も体制内政党だったということです。期待を持たせておいた分、失望も大きいというべきでしょう。

思えば旧民主党・現立憲民主党は、野党時代は舌鋒鋭く与党を追及し、政権獲得後に「事業仕分け」を行っていたように「改革政党」として鳴らしていました。しかし、独自政策が出せず、期待が大きかっただけに有権者の失望は大きく、衆院選で壊滅的に大敗して下野し、今や批判ばかりの野党になっています。旧民主党も結局はポーズばかりの体制内政党だったのです。過去の民主党は未来の維新なのかもしれません

毎年恒例の年末振り返りの一環として私は、維新批判の総括記事を目下準備中でしたが、かなり大幅に書き換える必要が生じてしまいましたw
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2021年12月17日

キム・ジョンイル総書記逝去10年、その遺産とは

キム・ジョンイル総書記(将軍様)の逝去から10年の歳月が過ぎました。逝去が公表されたのは2日後の19日でしたが、この日のことは今でもよく覚えています。

訃報の見出しに接した瞬間の衝撃もさることながら、その死の詳細、とけわけ≪야전렬차≫(野戦列車)の車内で逝去なさったという描写(「김정일동지의 질병과 서거원인에 대한 의학적결론서」 朝鮮中央通信 チュチェ100・2011年12月19日)もまた衝撃的で印象的でした。

野戦列車というくだりに接したとき私は真っ先に≪장군님은 빨찌산의 아들≫(将軍様はパルチザンの息子)の歌詞が頭をよぎり、「まさにパルチザン伝説そのものの生涯であられた!」と感銘を受けたものでした。次のような歌詞です。
http://wsdprk.blogspot.com/2012/08/blog-post_7942.html
동에번쩍 서에번쩍 적진에 번개치며
東へぴかり 西へぴかり 敵陣に稲妻を走らせ

위대한 백두전법 전선길에 빛내시네
偉大な白頭戦法を 前線で輝かせる

조국위해 한평생 공격전에 계시는
祖国のため一生涯 攻撃戦に立つ

우리의 장군님은 빨찌산의 아들
われらの将軍様は パルチザンの息子
ペクドゥ(白頭)山密営にてパルチザン部隊の隊長(首領様;キム・イルソン主席)の息子として生を受けた将軍様は「パルチザンの息子」として育たれました。パルチザンならではの神出鬼没さで敵と戦ってこられた首領様は、祖国の解放・共和国の建国後は社会主義建設における課題と闘うべくパルチザン式に全国各地を訪ね歩き死の直前まで現地指導に精力的に取り組まれましたが、そうした首領様のスタイルと意思を継承された将軍様もまた、パルチザン式に全国各地を現地指導で訪ね歩き、ついに現地指導の途上で野戦列車において逝去なさいました。まさしく≪조국위해 한평생 공격전에 계시는 우리의 장군님은 빨찌산의 아들≫(祖国のため一生涯 攻撃戦に立つ われらの将軍様は パルチザンの息子)だったわけです。

韓「国」の情報機関によると、将軍様が逝去なさったと報じられる12月17日午前8時30分時点では特別専用列車は停車中であり、実際にはもっと前に亡くなっていたという主張もあるようですが、公式にはまさに伝説どおりの生涯だったのです。私は非常なる衝撃と深い印象を受けました

■将軍様の遺産とは
今日の元帥様(キム・ジョンウン総書記、国務委員長)の政策に繋がる形で将軍様の遺産を振り返るとき私は、3大革命を下敷きにすると、現改革の下地を準備していたこと、思想活動、そして文化振興の3つにおいて特筆すべきものがあるとみています。

■現改革の下地を準備していた将軍様
現改革の下地を準備していたこと、これは非常に意外に思われるかもしれません。1980年代以降、経済が長期低落傾向にある中で記念碑的建造物などの建設を強行し、後の「苦難の行軍」と呼ばれる事態の遠因を作ったのは他でもない将軍様であったことは認めざるを得ないでしょう。もちろん、経済活動というものはあくまでも社会生活の一部であり、それゆえに経済政策は統治の一部分でしかありません。経済・財政的実利計算だけが唯一の尺度ではないことは当然のことです。百年に一度のパンデミックによって国民生活が危機に直面していてもプライマリーバランスがどうのこうのという話になってしまう西側的基準では、まぎれもなく「無駄遣い」扱いとなる記念碑的建造物などの建設も、共和国では徳性実記(将軍様いい人エピソード)として記録されています。しかし、「過ぎたるは及ばざるがごとし」とも言います。

当時はまだ、その数年後に社会主義国際経済圏が消えてなくなるなどとは西側諸国も含めて誰も夢にも思っておらず、また、経済政策が行き詰まり感を呈しているからといって中国のように今までのほぼ真逆に近い政策を展開する国は少なかったものでした。限定的な改革にしても、ハンガリーのように以前から自発的に改革に取り組んでいた例外的な国を除けば、ブルガリアやモンゴルのように「ソ連がペレストロイカをやれって言うから・・・」といった程度の動機で「改革のようなこと」をやっている国が多く、それどころか東ドイツやルーマニアのように改革不要を唱えた国もありました。

歴史の評価に当たって私は、「現在から振り返ってみる視点」と、「そのときその場にいたと仮定した視点」を使い分ける必要があると常々思っています。前者の視点は、のちの歴史の動きを知った上で評価するものですが、これは「後出しジャンケン」的な評価であるとも言えます。後者は、刑事法学における期待可能性に通ずる評価です。

この二つの視点から将軍様の記念碑的建造物などの建設の強力な推進を振り返れば、あれはさすがにやり過ぎだったと言わざるを得ないでしょう。そしてそれが「苦難の行軍」の遠因になったとすれば、その政策責任から完全に逃れることはできないでしょう。

しかしながら将軍様におかれては、自ら引き起こしたとはいえ「苦難の行軍」の解決にも取り組まれ、そして現在元帥様が推進なさっている経済改革の下地を作られたこともまた事実です。以前にご紹介した記事を再度ご紹介しましょう。
https://toyokeizai.net/articles/-/186095?page=3
ミサイル発射の北朝鮮に圧力だけではダメだ
時間をかけて交渉、環境づくりに努めるべき

董 龍昇 : 韓国オリエンタルリンク代表
2017/08/30 6:00

(中略)
中央集中から地方分散型の経済へ
当時の北朝鮮経済は、中央に集中させる計画経済システムだった。北朝鮮全域で生産された物資を、中央に集中させた後、地方に分散させる構造だ。しかし、突然の自然災害によって、東部地域(江原道、咸鏡道)と西部地域(平安道、黄海道)を結ぶ連結網が大きく毀損した。食糧自給がなされていなかった東部地域は孤立した。一方、工業製品を東部地域に依存していた西部地域は、工業製品不足に苦しめられた。このような状況が3年以上続き、平壌の経済状況に多大な悪影響を与えたのである。

ところが、1998年になって北朝鮮は突然、「強盛大国」論を主張し始めた。東部と西部を結ぶ連結網が3年ぶりに復旧できたためだ。時を同じくして、韓国や米国、日本は、北朝鮮に対する支援を開始。そんな支援を、北朝鮮は単純に無償支援だと受け入れたのではなく、支援を利用して内部システムの整備を始めた。農地整理事業と物流網の整備、鉱山の生産活動の正常化、道路・通信網の再整備などを絶えず推進していった。

ただ、日米韓の支援があったとはいえ、財源が絶対的に不足していたため、時間が長くかかり、目に見えるほどの復旧作業を行えなかった。10年余りという、長い時間をかけて進められた復旧作業の過程において、北朝鮮住民は自ら市場化を進めることになった。ここでいう市場化とは、中央集中式の計画経済システムから、地方分権的な市場経済システムへと転換したことを意味する。

もちろん、北朝鮮当局はこのような市場化を最大限抑制しようとしたが、事実上、黙認することで一貫していた。金正恩政権が始まってからは、北朝鮮住民によって形成された、地方分権型市場システムが全面的に受け入れた。中央で管理する経済特区とは別途に、地方政府が活用できる二十数カ所の経済開発区を指定したのもこのためだ。労働者や各機関のインセンティブを刺激する、圃田担当制(農業)と社会主義企業責任管理制を導入し、市場を事実上許容する措置さえとった。

(以下略)
1990年代に相次いだ自然災害によって共和国の国内の輸送網・連結網はズタズタに寸断されてしまいました。この自然災害自体は必ずしもすべての責任を将軍様に帰するべきものではありませんが、この当時に最高指導者だったのは他でもない将軍様なのだから、少なくとも対策対応の責務はあるというべきでしょう。その点将軍様は、諸外国からの緊急援助を「単純に無償支援だと受け入れたのではなく、支援を利用して内部システムの整備を始めた」というのです。緊急援助というものは得てして食いつぶしてしまいがちなものですが、将軍様はそのようなその場しのぎに費消することなく自力自強の糧として有効に活用なさったわけです。

これ以降、将軍様は、非常に用心深くかつ慎ましいながらも経済改革の方向性に歩みだされています。かつてケ小平が最高指導者だった頃は中国の改革開放に否定的でしたが、チュチェ90(2001)年の訪中では打って変わって中国の改革開放を賞賛するようになられました。国内では翌年7月から「7.1経済管理改善措置」が施行され、実利主義という言葉が登場しました。また、イデオロギー的にも、たとえば『朝鮮文学』チュチェ93(2004)年1月号の≪영근이삭≫という小説や、大衆曲≪준마처녀≫のように、個人的な実利追求・個人的な褒賞を必ずしも否定しない「エートス」が整備されました。

残念ながら、「7.1経済管理改善措置」と前後してアメリカが共和国を「悪の枢軸」としてイラクやイランとともに名指しで批判し、その翌年にはイラクの政権が米国の軍事力によって転覆させれるという事態が発生したことを受け共和国は国内の引き締めと国防力の強化を最優先させるに至り、この改革は一旦お預けになってしまいました。

しかしながら、チュチェ105(2016)年6月6日づけ「朝鮮労働党第7回党大会は経済改革・競争改革を漸進的に継続すると暗に宣言した画期的大会」でも述べたとおり、現在元帥様の元で進められている諸改革は、将軍様が遺した構想を全面化し、さらにそれを現代の情勢と要求に合わせて発展させているものとして位置付けることも可能でしょう。元帥様の指導下で展開されている社会主義企業責任管理制や圃田担当制といった政策、そしてそれを支えるイデオロギー的背骨としての社会主義的競争は、上述のとおり将軍様の政策においてその萌芽が既にみられています

この意味で私は、元帥様の政策に繋がる形で将軍様の遺産を振り返れば、「将軍様は現改革の下地を準備していた」と言えるのではないかと考えています

■思想活動において不滅の偉大な功績がある将軍様
○チュチェ思想の体系化
思想活動にかかる功績について述べましょう。チュチェ思想の体系化、社会政治的生命体論の整備、主体的な現代資本主義観の形成、そして、社会主義を再定義してソ連・東欧圏の崩壊に関連した思想的動揺を鎮めた点に偉大な功績があると言えます。

チュチェ思想は1930年代の抗日武装闘争期に首領様が創始され時代の課題に合わせて徐々に洗練されていった思想体系ですが、将軍様の手にかかる前までは体系化されているとは言い難く、さまざまな実践的経験とその教訓の寄せ集めとしての色彩が濃いものでした。それはそれで実践的裏付けがあるという意味で頭でっかちな理屈屋の言説とは質的に異なる重要な特徴があったと言えますが、体系的でないということは演繹的応用が効きにくいということでもあります。

将軍様におかれては、朝鮮革命の実践的経験とその教訓を理論的に体系化するにあたって大いなる功績がありました。ある人は「存在論まで兼ね揃えているので、チュチェ思想はもはや単なる哲学思想ではなく世界観を持った宗教思想だ」といいますが、あながち間違ってもいないように思われます。

○社会政治的生命体論の整備
チュチェ思想の体系化とほぼ同じことですが、社会政治的生命体論の整備も将軍様の業績であります。

以前から述べてきたことですが、社会政治的生命体論は、人倫・人間性の回復を掲げた初期マルクスの問題意識と通底していると考えられます。史的唯物論の確立以降マルクス・エンゲルスが疎外論に直接的な言及を加えることが徐々に減ってゆき、史的唯物論の更なる体系化と後代による継承の最中に初期マルクスの疎外論的な問題意識は「若気の至り」扱いされるようになってしまいました。社会政治的生命体論は、初期マルクスの疎外論的な問題意識を現代によみがえらせたという意味で思想史的な意義があると私は考えています。

また、現代は社会的な分断が非常に深刻化していると指摘されているところです。人間は本来どのような存在なのか、他者との関係性はどのようにあるものなのか、本来的な存在形式に合致した自然な在り方は如何なるものなのか。そうした哲学思想的課題とそれに基づく人生観を考えるうえで、社会政治的生命体論の見解は非常に多くのヒントを与えてくれています

チュチェ109(2020)年5月29日づけ「社会政治的生命体論の魅力と論理の飛躍について」などでも思索を展開してきましたが、今後も将軍様の遺産を、ときに批判的な目でも検討しつつ更に発展させる必要があるでしょう

○主体的な現代資本主義観の形成
主体的な現代資本主義観の形成についてはここ最近の当ブログの主張の柱として多用しているものです。たとえば10月24日づけ「社会主義・共産主義に向けた展望を持ち合わせていない日本共産党」などでも指摘したとおり、マイケル・サンデル氏の提起により過度な能力主義に対する懸念が社会的に注目を集めるようになりましたが、これは将軍様がチュチェ76(1987)年9月25日に発表した『反帝闘争の旗を高くかかげ、社会主義・共産主義の道を力強く前進しよう』において既に指摘されていたことです。

知識労働化、社会的分業の細分化・専門化は、労働者をプチブル化します。長い時間をかけて習熟・血肉化した知識を基に、雇われの身でありつつも具体的な場面場面では自分の判断で仕事を進める知識労働者は、「自分の成功は自分の努力の成果」と考えるようになります。昨今蔓延している「自己責任」論は、このプチブル化の裏返しに他なりません。「自分は努力したから上手く行った、上手く行かない人は努力が足りないのだ。もっと努力すべきだ」というわけです。

そして、「自己責任」論は、「努力不足」のレッテルを貼られた人を見放す論拠であると同時に、「努力」の名のもとに競争激化を扇動する論拠にもなっています。「勝ち組」に対して「勝ち続ける」ことを要求するのであります。「負け組」を社会から弾き出して疎外するのと同時に、「勝ち組」に対しても「勝ち続ける」ことを要求し多忙を極めさせ、結果としてこの場合においても人間疎外を引き起こすのであります。

サンデル氏らより30年以上も前から将軍様は産業の現代化、そしてそれによる資本主義の変化を予見されていた
わけです。また、疎外論とも関連した広がりのある主張を展開されていたのです。

○社会主義を再定義し、ソ連・東欧圏の崩壊に関連した思想的動揺を鎮めた
主体的な現代資本主義観と社会政治的生命体論の整備は、マルクス主義的社会主義とは異なる朝鮮式社会主義の基盤になりました。

鐸木昌之氏の『東アジアの国家と社会(3) 北朝鮮――社会主義と伝統の共鳴』(東京大学出版会、1992年)(増補再販としての『北朝鮮首領制の形成と変容――金日成、金正日から金正恩へ』(明石書店、2014年)に詳しいですが、現代資本主義は確かに物質的には豊かにはなるが、不必要な需要が無理矢理刺激されることで人間生活が物質偏重的に奇形化し精神的には貧困化するとした上で、現代資本主義諸国における革命とは精神的に踏みにじられた人々の社会的存在としての自主性の回復であると再定義されました。そして、共和国は社会政治的生命体が既に形成されておりその意味で人々の社会的存在としての自主性を持っているとし、社会政治的生命体自体が(朝鮮式)社会主義であると再定義されたのでした。

チュチェ76(1987)年秋にこの見地に至ったことは、この直後の世界史的変動において重要な意味がありました。ソ連・東欧諸国の体制崩壊は共和国にとっても大きな衝撃でしたが、すでに共和国は思想的にマルクス主義を整理していたので致命的なイデオロギー的崩壊には至らなかったのです。チュチェ思想と社会政治的生命体論を既に持っていたので、ソ連・東欧の失敗をいち早く総括することさえできました。

ソ連崩壊から数日しか経っていないチュチェ81(1992)年1月3日づけ『社会主義建設の歴史的教訓と我が党の総路線』では早くも「一部の国では国家主権と生産手段を掌握して経済建設さえ進めれば社会主義が建設できると考え、人々の思想・意識水準と文化水準をすみやかに高め、人民大衆を革命と建設の主体にしっかり準備させる人間改造事業に第一義的な力をそそぎませんでした。その結果、社会主義社会の主人である人民大衆が主人としての役割を果たせなくなり、結局は経済建設も順調にいかず、社会のすべての分野が停滞状態に陥るようになったのです」と正しく総括されました。その後もチュチェ83(1994)年の『社会主義は科学である』で社会主義の必然性を、史的唯物論の教義ではなく「自主性」をキーワードとして再構築されるなど、思想活動において不滅の偉大な功績があるといえるでしょう。

■文化芸術に造詣が深く文化振興にも注力なさり最高指導者の模範を示された将軍様
文化振興の功績についても述べておきたいと思います。将軍様の労作目録を見れば直ちにわかることですが、将軍様におかれては『映画芸術論』や『音楽芸術論』など文化芸術に関しても相当造詣が深いお方でした。私は音楽分野に関心があるのですが、将軍様自ら手掛けたポチョンボ電子楽団の楽曲などは、反共和国的人士であっても「これに限っては評価する」と口にすることもあるものです。

人間が生きるにあたっては文化的に生きたいものです。先にも言及したとおり、不必要な需要が無理矢理刺激されることで人間生活が物質偏重的に奇形化し精神的には貧困化する現代資本主義に対して、その克服を目指す社会主義は、政治・経済・思想文化の3大生活分野がバランスを取って同時的に発展することを目指すべきです。その意味で、経済的に貧しい国ながらも文化的に粗野であることを善しとせず、最高指導者自らが文化芸術に造詣が深く文化振興にも注力なさったことは、一つの模範を示したものであると言えるでしょう。

■総括
上述のことはもちろん、将軍様の「陽」のみを取り上げたものであります。人間には必ず「陰」もあり、功績と過ちがあるものです。私は将軍様が絶対無謬だったと強弁するつもりはありません。しかし、いまの世相はあまりにも将軍様の「陰」・過ちばかりを強調しています。

上述のとおり、今日の元帥様の政策に繋がる形で将軍様の遺産を振り返るとき私は、3大革命を下敷きにすると、現改革の下地を準備していたこと、思想活動、そして文化振興の3つにおいて特筆すべきものがあるとみています。功績は正しく評価したい。将軍様の命日に故人を追悼しつつ、そう考えています。
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2021年12月11日

言うは易く行うは難し

https://news.yahoo.co.jp/articles/3d16ef370aa944f6225476b78b7d0aacb7756aa4?page=2
ウトロ地区放火事件、Yahoo!ニュースのコメント欄には肯定する投稿も ヘイト対策は“排除”だけでなく“包摂”を
12/8(水) 12:07配信
ABEMA TIMES

(中略)
 さらに、(注;在日韓国人の徐東輝弁護士は)ヘイトスピーチをしていた当事者に話を聞いた際のエピソードを紹介した。

 「“韓国人が嫌いだから”ということではなく、“所属しているコミュニティ内で自分が承認されていない、抑圧されているという感覚があった”と言っていた。なんとか認められようという中でオンラインでヘイトスピーチや誹謗中傷をしてみると、リツイートや“いいね”で承認欲求、快楽が得られてしまう。そこから“韓国人はダメなんだ。中国人はダメなんだ”という凝り固まった考えになっていったようだ。そういう話をオフラインでしっかり聴いた後は、泣きながら“二度とヘイトスピーチをしない”と言って握手をしてくれた。“この人たちが言っていることは嘘だから”“誹謗中傷だから”といってAIなどを使ってコンテンツを排除するだけではなく、社会的に承認されている、包摂されているという感覚を作っていくことは、すごく長い道のりに見えて、実は最短距離なのかもしれない」。(『ABEMA Prime』より)
たしかに、なぜヘイトスピーチを口にするに至ったのかについて突き詰めること、そして、ヘイトスピーチを口にする人であっても包摂する方向で対応する姿勢は非常に重要であります。怒りを原動力にすることは非常に危険なことです。当ブログでは以前から、偉大な首領;キム・イルソン同志の談話やチュチェ思想国際研究所事務局長の尾上健一氏は著書を引いて、相手方を打倒する方法論・文化大革命的な方法論を批判してきたところです。

キム・イルソン同志は次のように指摘されています。
社会主義革命をおこなうときの階級闘争は、ブルジョアジーを階級として一掃するための闘争であり、社会主義社会での階級闘争は、統一団結を目的とする闘争であって、それは決して社会の構成員を互いに反目し、憎みあうようにするための階級闘争ではありません。社会主義社会でも階級闘争をおこなうが、統一と団結を目的とし、協力の方法で階級闘争をおこなうのであります。
キム・イルソン(1967)「資本主義から社会主義への過渡期とプロレタリアート独裁の問題について」『金日成著作集』第21巻、外国文出版社p282

尾上健一氏は次のように述べています。
これまでの社会運動は対立物の闘争と統一の法則や矛盾論にもとづいていたため、対立や矛盾をさがしだすことが重要視されてきました。

新しい社会を担う人間を育てることに力をいれるよりも、敵を見つけていつも誰かを敵にしてたたかうことに関心がむけられたのです。

労働者が政権をとった新しい社会になってからも、労働者同士で対立する事態が生じました。なかまを信じられずたがいに協力しない社会が人間の理想社会といえるでしょうか。

(中略)
支配層にたいしてだけではなく、なかまや大衆にたいしても闘争対象とみる傾向があります。

対立物の闘争と統一の法則は、自然にたいしては部分的に適用されても、人間と社会に適用することはできません。

資本主義社会をこえてもっとよい世界をつくろうとするときに、対立物の闘争と統一の法則を適用することはむしろ弊害になります。
立場を異にする相手方に対して打倒の姿勢で接すれば、相手方だって経緯があってその立場に立っているのだから、必然的に意固地になるものです。ヘイトスピーチを何故乗り越えなければならないのかといえば、多様性ある社会の統一団結のためであります。その点、「社会主義社会での階級闘争は、統一団結を目的とする闘争であって、それは決して社会の構成員を互いに反目し、憎みあうようにするための階級闘争ではありません」というキム・イルソン同志の綱領的ご指摘は、ヘイトスピーチへの対応にもそのまま活きるべきものでありましょう。

また、尾上氏の指摘を出発点とすると、「敵を打倒する」というスタイルは、それが癖になってしまったとき、ありもしない「敵」をデッチ上げて不要な内部混乱を引き起こすことにもつながります。どうしても戦わなければならないときは戦うべきですが、戦いが選択肢の筆頭に置かれているようでは、常在戦場的な不信感が四六時中ぬぐえない精神的に不安定な状況が永続することでしょう。また、不必要に戦いの火蓋を自ら切ってしまうことに繋がります。その最たる例が、「階級闘争激化論」の唱道者;スターリンでした。常に猜疑心と恐怖に取り憑かれておりどう見ても幸せそうには見えず、居もしない「敵」との戦いの過程でおびただしい人命を無意味に奪ったのがスターリンでした。尾上氏が指摘するように、「なかまを信じられずたがいに協力しない社会が人間の理想社会といえるでしょうか」?

その意味で私は、徐東輝弁護士の主張は正しい主張だと賛同するところです。しかしながら、実際問題としては非常に「割り切り難い」のではないでしょうか? ヘイトスピーチとは一理もなく擁護の余地のない全面的に間違った主張です。糺したくなるのが人情というものでしょう。また、こちらも感情のある人間ですから、面と向かって自分に対して罵詈雑言を浴びせかけてくる手合い、自分の人格と存在を全否定する暴言を浴びせかけられて顔色一つ変えないのは難しいでしょう。ヘイトスピーチに対して「破邪顕正」モードに入らないでいられる聖人君子がいったいどれだけいるというのでしょうか?

こんな記事がありました。
https://news.yahoo.co.jp/articles/349f494225feb6068fe62e338d621178b23f8e57
朝日新聞「天声人語」への“筋違い”の批判ツイート。原文、ちゃんと読んでる?
11/19(金) 8:54配信
週刊SPA!

激しいツイートは筋違いだった
《朝日新聞、狂ったか
 「天声人語」も地に落ちた
 私なんかに言われてどーすんのよ。ってか、ひどすぎる。》

 ツイッターにずいぶん激しい書き込みを見つけました。このツイート主さんと面識はありません。

「だいぶキツくやられてるなあ。まあ言論機関だからいろんな批判があるのは宿命だよね」

 そう思って同じ方の次のツイートを見ると……。

《だって、与党と野党を比べたら、「野党におきゅうをすえるべき」って言ってんでしょ? もう、わざと何かを曲げて書いてるとしか思えないよね。》

 うん? これって11月13日の「天声人語」(『朝日新聞』朝刊1面に連載中のコラム)のこと? そんなこと書いてたっけ? 確かめてみると、こうでした。

《衆院選でおきゅうをすえられたのは、与党ではなく、共闘した野党だったのかもしれない。》

 別に『朝日新聞』の味方をするつもりはありませんけど、これは意味が違うでしょう。ツイート主さん、違いますよ。「野党におきゅうをすえるべき」とは書いてなくて、選挙結果から見て、共闘した野党が「おきゅうをすえられたのかも」と書いています。

 もちろん「おきゅうをすえられたという表現は適切ではない」という批判はあり得ますけど、相手が書いてもいないことを「書いている」と言って非難するのは筋違いです。

怒りのあまり意味を取り違えた?
 このツイートに悪意はないと思います。ではなぜこんな誤解が起きたんでしょうか? 一つには、「天声人語」の趣旨が、衆院選で野党共闘が敗因だったとも読めるので、共闘を支持する人の強い反発を買ったのだと思われます。その思いのあまり、おきゅうを「すえられたのかも」という“分析”の言葉を、「すえるべき」という“主張”の言葉と取り違えたのかもしれません。

 でもこれでは意味がすり替わってしまいます。それこそ「わざと何かを曲げて書いてる」ということになってしまいます。

 それに「天声人語」を最後まで読むと、日々の地道な活動の大切さを語ったうえで「与野党伯仲も政権交代も、その先にしかありえない」と締めくくっています。おきゅうをすえる云々が結論ではありません。

(以下略)
怒りのあまり意味を取り違えた?」――私もネット上での議論に首を突っ込んでそれなりの歳月が経ちましたが、びっくりするような文意の取り違えを何度も見てきました。そして、取り違えている人はたいてい、議論の相手方に激しい敵愾心を持っているものです。

政治報道でしばしばみられる「発言の一部だけを切り取って叩く」という現象;ストローマン手法は、実は怒り・敵愾心のあまり本気でやってるのかもしれません。やはり、怒りを原動力にすることは非常に危険なことです。

ヘイトスピーチや罵詈雑言に腹を立てていても仕方ないというのは頭では分かることです。方向性としては徐弁護士の指摘は正しいものですが、実践は非常に難しいものと考えられます。もちろん、だからといって諦めてはなりません。この事実を踏まえたうえで修養に努めることが重要だと思っています。私もちょっとやそっとのことでは怒らないように頑張っています。また、戦うべきか戦わざるべきかは、他人の意見や過去の事例の分析から導出される「相場」及び主体的な情勢分析から慎重に判断するようにしています。

私の個人的秘訣は「何でこんなこと言うんだろう?」などと疑問を持つことにあると思っています。これだけで少しは冷静になることができます。支離滅裂な怒りの主張に対しては「かわいそうだな」と思えるようになってきました。もちろん、「相手を哀れむ」というのは「相手を見下している」のとほぼ同義であり、相手を彼岸を押やることに繋がるので、その点は十分に留意が必要ですが。
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2021年12月05日

「外国人入国の原則停止措置」への賞賛言説における相変わらずの非戦略性、BCP・BCRP概念の欠如について

久々にコロナ世相。
https://news.yahoo.co.jp/articles/05db398520b49985466680aa868d38198f594075
岸田首相、迅速対応アピール 菅政権の教訓踏まえ オミクロン株
11/30(火) 7:08配信
時事通信

 岸田文雄首相が新型コロナウイルスの変異株「オミクロン株」をめぐり、全世界を対象に外国人入国を原則停止すると表明し、迅速な対応をアピールした。

(以下略)
「オミクロン株」をめぐる全世界を対象とした外国人入国の原則停止。評価が難しいところです。いままでVOC認定された変異株はいずれも、それが域内に侵入して蔓延すると公衆衛上の重大な脅威となってきただけに、オミクロン株自体の詳細は未詳であってもVOC認定されたことを根拠として強力な水際対策を導入することは理解可能ではあります。

しかしながら、ここ日本は、厳密な科学的根拠に基づく判断ではなく「ちょっと大袈裟くらいに言っておいて、幸いにして外れたら『いやあ、何事もなくてよかった!』と笑い合えるくらいが丁度よい」が罷り通るお国柄です。案の定、次のような言説が出てきています。
渡辺浩志
ソニーフィナンシャルグループ シニアエコノミスト

火事を消すのに水を使い過ぎたと非難される消防士はいません。危機対応としては最悪の事態を想定して大構えの対策を取ることが重要。岸田首相が迅速に徹底した水際対策を決断したことは高く評価できます。制限の緩和は、オミクロン株の正体(感染力・毒性・ワクチンの効力等)が判明したのち、危険性の程度に応じて進めて行けばよいと思います。

(以下略)
火事を消すのに水を使い過ぎたと非難される消防士はいません」――そんなことはないでしょうwあまりにも大量、不必要なまでに放水すれば当然、注意くらいは受けるでしょう。水だって有限資源なのですから。「もしかしたら・・・」「とりあえず・・・」といって住宅街の火事に化学消防車を出したら怒られるでしょうね。

戦略的に考えるのではなく、「もしかしたら・・・」「とりあえず・・・」で考えてしまうあたり、相変わらずであると言わざるを得ません。もちろん、そう簡単に社会的な意識が変わるはずもないのですが・・・

コロナ直前のチュチェ107(2018)年及びチュチェ108(2019)年は、2年連続で日本に多大な被害をもたらした台風が襲来しましたが、これに伴い全国の鉄道各社が「計画運休」を実施しました。このことについて世論は、「ちょっと大袈裟くらいに言っておいて、幸いにして外れたら『いやあ、何事もなくてよかった!』と笑い合えるくらいが丁度よい」といった具合に概ねこれを肯定的に評価していました。

こうした世相に対して私は、BCP(Business Continuity Plan、事業継続計画)及びBCRP(Business Continuity & Resiliency Planning、事業継続および復旧計画)概念の欠如という観点から、ブリティッシュエアウエイズ旅客運航部長の元部長・いすみ鉄道元社長・えちごトキめき鉄道社長である鳥塚亮氏の「JRの一斉運休に見る日本のお寒いBCP事情」及び「【続】JRの一斉運休に見る日本のお寒いBCP事情」を引きつつ、チュチェ108(2019)年9月9日づけ「日本におけるBCP概念の発展成果と不十分さについて;鉄道各線の「計画運休」から」及び同10月13日づけ「BCPよりBCRP;グダグダ計画運休を巡って」を発表しました。

鳥塚氏は、BCPなき「計画運休」について、世間が称賛する中で厳しくも正しく次のように指摘されました。
BCPがきちんとしていて、自然災害が迫るときの対応手順が事前に考えられていれば、いきなり全区間の一斉運休ではなくて、もう少し業務継続ができたのだと考えますが、この会社にはそのようなBCP的考え方がないのでしょう。今回の一斉運休は「何かあったら責任が取れません。」イコール「安全が確保できない」ともっともな理由をつけて、本来行うべき輸送業務を放棄したというのが実情でしょう。だとすれば鉄道会社の英断などと称賛されるような内容ではないということになります。
良くも悪くも何もしなければ何も起こりません。しかしそれは職務放棄と表裏一体なのです。個人の日常生活レベルではそうであったとしても、組織レベル・国家レベルでは決して「ちょっと大袈裟くらいに言っておいて、幸いにして外れたら『いやあ、何事もなくてよかった!』と笑い合えるくらいが丁度よい」とは言ってはいられないものです。

BCPやBCRPの概念が欠如した人物が、個人レベルの感覚で素人考えで天下国家語る風潮が、オミクロン株を巡る水際対策の評価においても出てきたというべきでしょう。

感染状況が非常に落ち着いており、一時期のパニック的社会心理状況を脱している日本の現状ですが、まだまだ「ちょっと大袈裟くらいに言っておいて、幸いにして外れたら『いやあ、何事もなくてよかった!』と笑い合えるくらいが丁度よい」は根強いようです。「もしかしたら・・・」という漠然とした可能性でいけば、「エボラ出血熱の東京大流行」や「宇宙人の地球侵略」の備えもしなきゃいけないんじゃないですか?
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2021年12月04日

この期に及んでもハッキリと旗色を鮮明にできないようでは、「もうダメなんだろうな」という他ない

https://news.yahoo.co.jp/articles/dbe82831be7ec625383375582ee7f7dd1a36f756
立憲民主・泉新代表、共産党との“別れ”を示唆も目の前に広がる茨の道
11/30(火) 19:42配信
FNNプライムオンライン

(中略)
共産党との“別れ”を示唆
一方で、代表選期間中は踏み込まなかった共産党との選挙協力のあり方について、初めて具体的に言及した。衆院選で共産党と結んだ「限定的な閣外からの協力」について泉新代表は「想定していた結果はなかったので、単に継続ではなく、党としてしっかり総括せねばならない」と見直しを示唆した。

さらに共産党の小池書記局長が29日に「今の立憲民主党は選挙の任期が続く限りは、(約束を)順守する責任がある」と述べたことに対して「我々としては前回の総選挙に向けて交わしたものという理解をしており、現時点で何らかが存在していると言うことではない」と突き放した。

泉新代表の就任会見とほぼ同時刻に行われていた共産党の志位委員長は会見で「日本共産党と立憲民主党との政権協力の合意というものは個人と個人で結んだものではない。これは公党間の合意だ。国民に対する公約だ、ですから我が党としてはこれを誠実に順守していきたいし、立憲民主党さんにもぜひそういう立場で対応してもらいたい」と立憲民主党との協力関係を重ねて求めた。

泉新代表は来年夏の参院選に向けて、野党第一党として共産党をはじめとする「野党共闘」をどう主導できるのか、その手腕も問われることになる。

(以下略)
まったく盛り上がらない立憲民主党代表選挙が終わり、泉健太氏が新代表に選出されました。

今般の代表選挙の争点の一つは「日本共産党などとの野党共闘の継続是非」であることは、先の衆院選挙の結果などを見れば間違いのないことであったはず。その点に関する闊達な議論を期待していたのですが、見直しに積極的とされていたはずの泉氏その人でさえ、この期に及んで「想定していた結果はなかったので、単に継続ではなく、党としてしっかり総括せねばならない」として、あくまでも見直しを「示唆」するに留まっています。いやはや、ガッカリした!

ちなみに私は、来る参院選はどう頑張っても制度的に「政権選択選挙」にはなり得ないので、「野党共闘」を続けても良いのではないかと思っています。

立憲民主党と日本共産党は国家観をはじめとして、掲げているものがあまりにも違い過ぎます。「小異を捨てて大同につく」という大義名分は通用し得ないと考えています。よって立共共闘は、自公連立政権の継続・自らが野党であり続けることを前提とした「政権与党に対する反対派ブロックを作る」ことを目標とする限りでは成立するでしょうが、政権選択選挙としては成立し得ないでしょう。

しかし、参院選ではいかに大勝しても参院第一党から首相が選出されることはありません。きたる参院選は自公連立政権の継続を前提とした選挙、野党は野党であり続けることを前提とした選挙です。そうであれば、立共共闘にも成立する余地があります。立共共闘は、与党としてはあり得ない組み合わせであっても、野党としてならば十分にあり得る組み合わせです。

思うに、立共共闘は参院選で何度か実践し、参議院の、院内活動で実績をあげてから衆院選でも実践すべきだったのではないでしょうか。掲げているものがあまりにも違い過ぎる立憲民主党と日本共産党が、ある日突然「共闘します!」と宣言したところでどれほどの国民が信用・信頼できるというのでしょうか。あまりにも唐突な共闘宣言でした。

参院選で共闘し、院内活動でもまさしく「野党の共闘」として足並みを揃えてお互いに政策を調整しつつ自公連立政権への対応を展開してゆく中で、「意外と立共共闘にも共通の国家観があるな」と広範の国民に実感していただければ、将来的には政権選択選挙としての衆院選でも立共共闘が選択肢になるかもしれません

おそらく立憲民主党執行部の流れは、「鳴り物入りでやっては見たがまったく不発で、党外から『共産党なんかと手を組むからだ!』と言われたから、やめることにしようか」程度で、立共共闘について真剣に分析しているわけではないでしょう。しかし、スパッとやめてしまう踏ん切りもついていないようです。

「どっちつかず」という政治的に最悪の展開。この期に及んでもハッキリと旗色を鮮明にできないようでは、「もうダメなんだろうな」という他ないでしょう。
ラベル:政治
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